水本ゆかり「維納に奏でる」 (39)

水本ゆかりさん総選挙応援SSです

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 10時間以上にも及ぶ空の旅はハプニングもなく快適なものだった。とはいえ、機内放送にも飽きてきた頃にはその快適さが退屈へと変わってしまい
隣で安心したように寝息を立てている彼女の寝顔を見つめることしかできなかった。窓の外を見ても空島も天空の城もドラゴンもなくどこまでも広がる空。
子供の頃ならばテンションが上がっていたのだろうけど、四捨五入すれば30歳になる身からすれば感性が鈍ってしまったのかなにも思う事はなくなっていた。

 それでも。これから降り立つ街への憧憬はあの頃のままで、仕事ということを忘れてしまいそうになるほどにウキウキとしていた。まるで
修学旅行前夜のように、なかなか眠れなくてインストールしてすぐにやめたゲームをやり直していくうちに朝になっていたくらいだ。

 隣の彼女も同じだろう。こちらに身体を寄せるようにアイマスクをして眠り続ける彼女も聞けば柄にもなく夜更かしをしてしまったらしい。
その気持ちはよくわかる。彼女にとっても、そしてかつての俺にとっても。これから降り立つ音楽の都は特別なものだったから。

「お疲れ様、ゆかり」

「プロデューサーさん……」

 ダメでした、と彼女は柔らかく笑う。清らかで彼女の人となりがよくわかる笑顔、だけど強く握られた拳とその声には隠しきれない悔しさが込められていた。

「ゆかりはよくやっていたよ」

「ありがとう、ございます」

 慰めなんかではない本心だ。ゆかりがこのオーディションに並々ならぬ情熱を抱いていたことは担当プロデューサーである俺が一番理解しているつもりだった。そして彼女のパフォーマンスを見たとき、
間違いなく合格するという確信があった。確信を抱く程のパフォーマンスなんて、そうあるものじゃない。しかし現実はままならないものだ。ゆかりの番号が呼ばれることはなかった。

「雨、降ってきましたね」

「車に乗ろう。風邪をひく」

 悲しみを抱いた少女を濡らすように二月の冷たい雨が降り始める。まるで三文小説の表現のようだ。涙雨だなんてあまりにも安直すぎて誰だって思いつくじゃないか。かといって、他の表現を探すほどの余裕はなかった。

 言い切ってしまえば、ゆかりは伸び悩んでいた。これまで仕事にも恵まれてきて彼女の努力もあり、順風満帆とまではいかなくてもそれなりに結果を出してきた。
新人アイドルとしてはよくやっている、と評価されるだろう。しかしここに来て結果が伴わなくなって来た。まるでゲームのキャラクターのステータスが限界を迎えて
レベルを上げても伸びないように、ゆかりは高い壁にぶち当たってしまったのだ。

 程度はどうであれ。スランプは誰にでもあることだし、いつかはよくなる、と言えたのならば簡単な話だけど俺はその言葉を使いたくなかった。いや、正確には使えなかった、
と言うべきだろうか。分かっているのに何もできない俺を尻目にゆかりもなんとかしようとレッスンを繰り返すがどうしても焦りを隠せずにいた。

 今日のオーディションだってゆかりの希望で受けたものだ。それだけに気合が入っていたし、俺もそれに応えるべく最善を尽くして来た。だけどそれでも、未だに暗いトンネルは抜けることができずにいた。

「……」

 ゆかりは雨が叩く窓の外を物憂げに見ている。その目の先に、光はあるのだろうか。鬱陶しい雨を振り払うようにワイパーは左右に動く。
これくらい手軽に、悩みもスランプも消すことができれば話は簡単なのにな。

「お疲れ様です、プロデューサーさん」

「ちひろさんこそ。こんな時間までお疲れ様です」

 ゆかりを寮へと送って事務所に戻ると事務員のちひろさんが観葉植物に水をやっていた。時計を見るとそこそこいい時間だ。彼女の他に人の姿はあまり見えない。

「ゆかりちゃんのオーディション、どうでしたか?」

「力及ばず、でした」

「……そうですか」

 真っ黒なコーヒーに角砂糖を三ついれてかき混ぜる。溶け切っても何度も何度も悔しさを忘れるようにぐるぐると回す。悔しい気持ちなのは彼女だけじゃなかった。責められるべきは俺の力不足なのだから。

「あ、そうそう。プロデューサーさんがいない間にゆかりちゃん宛てのお仕事の依頼がありまして」

「ん?」

「はいどうぞ」

 まだ少し苦味を感じるコーヒーを一口飲んでちひろさんから渡された書類に目を通す。

「オーストリア専門の旅行代理店なんですよ」

「……オーストリア、ですか」

 ふいに右手が空気の鍵盤を叩いた。

「はい。そのイメージキャラクターにゆかりちゃんを起用したいというお仕事でして」

「ゆかりを? 確かにまぁ、フルートやってますしぴったりだと思いますが……うちにはウィーン留学経験者もいるのに」

 パリが花の都、ヴェネツィアが水の都、探偵アイドルが安斎都と呼ばれるように、ウィーンは音楽の都として知られている。音楽とは人がいれば自然と生まれるものだ。
そこに文明の発達度合いや貧富の差は関係ない。

 そんな中、ウィーンだけが音楽の都と呼ばれるのはモーツァルト、ベートーベン、ショパンといった音楽室に絵が飾られている著名な作曲家が多く集まり活動していた歴史がある。
さらにいうとウィーンに宮廷を構えていたハプスブルク家が芸術に対する強い関心、特に音楽を手厚く庇護していたという背景もあるのだけど、知識自慢は今必要ないか。

 話を戻すと、数ある芸能プロダクションの中でもうちは大手の部類に入る。当然所属しているアイドルたちの経歴も千差万別だ。
俺がスカウトから面倒を見ている水本ゆかりもその一人だけど、クラシック音楽出身の子も少なくない。中でもバイオリンを嗜む
涼宮星花嬢はウィーンへの留学経験もある。これ以上なく適任だと俺も思ったのだけど、どうやら大人の事情があるらしい。

「ここだけの話なんですが、この代理店の親会社の取締役と星花ちゃんのお父上との間には浅からぬ因縁があるみたいで……」

「ははは……ある種嫌がらせみたいな起用ですか」

「大人気ない話だとは思いますけどね……」

 ちひろはんは呆れたように笑いコーヒーを淹れる。とはいえ。星花嬢には悪いけどもこの仕事は魅力的なものだ。

 生を受けてすぐに音楽に包まれて豊かな感受性を磨いてきたゆかりにとって、ウィーンは一度は夢見る場所だろう。以前ドイツロケに行った時は近くにウィーンがあるにもかかわらず
(それでも四時間くらいかかるらしい)キツキツスケジュールの都合でウィーンに行くことは叶わなかった。

「恥ずかしながらまだウィーンには行ったことがなくて……」

 とはゆかりの談。アラサーになるまで海外どころか本州をろくに出たことがなかった俺にはグサリと突き刺さったが本人には悪気は一切ない。むしろフルートが吹けるお嬢様なんだからウィーンには日常的に行っていて当然だ、というイメージの押し付けがかえってゆかりを困惑させるのだろう。法学部が全員司法試験を受けるわけじゃないしね。

「気分転換になればいいけど」

「きっとゆかりちゃんにとって良い思い出になりますよ」

 夢にまで見たウィーンでの仕事を知った時、彼女はどんな顔をするのだろうか。

「……ん? ちひろさん、これって間違いじゃない、ですよね?」

「ええ? これは……凄いことになりそうですね」

 ちひろさんも資料の中までは確認していなかったようだ。最後のページに記されていた内容に、二人して緊張感が走った。どうやらこの仕事、良い思い出では済まなさそうだ。

「私がウィーンに、ですか……?」

 翌日。会議室にゆかりを呼んで仕事の話をする。昨日のショックが抜けきれていないのか、まだ落ち込んだ表情を浮かべていたがウィーンの四文字を聞くとそこに驚きが加わり両の瞳はガラス玉のように見開いている。

「旅行代理店のイメージキャラクターにゆかりが選ばれたんだ。ウィーンの各名所にゆかりが赴いて宣伝用の写真を撮ったりってところだね」

 昨日寝る前にスマホでウィーンの街並みの画像を検索してはゆかりを立たせていた。なるほど、彼女の清廉な姿は音楽の都によく似合う。
ウィーンのシンボルであるシュテファン大聖堂、プラーター公園の大観覧車、ハプスブルク家の栄光の象徴たるシェーンブルク宮殿。長い歴史に彩られた美しい街並みは音楽に興味がない人でも心が奪われる。

「そして……重要なのはここからで。宣材写真を撮るのもそうなんだけど、最後にゆかりには大きな仕事が待っている。それがこれなんだ」

「えっ……? 私がウィーンで、ライブを……?」

「ウィーンで開かれる音楽フェスのプログラムに、ゆかりのステージを入れようと思っている」

 それは十五歳の女の子が背負うには大きすぎる看板だった。なんでも依頼主の旅行代理店の営業担当が音楽祭のスタッフとも親交があるらしく、
近年世界中で注目されている日本のアイドルに興味を抱いたフェスの主催が営業さんに相談したらしい。そして白羽の矢が立ったのがゆかりだったというわけだ。

「私、ドイツ語は挨拶程度しか喋ることができませんし……本当に私なんかでいいのでしょうか?」

 ゆかりの不安も無理はない。俺だって大学の頃は楽だからと先輩に言われた韓国語を履修していたわけだし。ドイツ語なんて音楽記号くらいは分かるけども、後はなんかかっこいい響きだなー程度の認識でしかない。通訳さん頼りか晶葉に翻訳こんにゃくでも作ってもらわないとコミュニケーションがとれない。でもゆかりはそれだけで終わらない。音楽の都で、彼女の音楽を表現しなくちゃならないのだから。同じ立場だったら、俺は確実に断っている。

「君だからこその仕事だと思うよ。どうかな? ゆかりにとっても憧れの街だし……きっと何か得るものはある」

 戸惑う彼女を励ますように話す。根拠なんてものはどこにもない。バスケットの国アメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く跳べると思っていたのかなぁ、なんて昔床屋で読んだ漫画のセリフすら出てくる。
もしウィーンに行くだけで音楽が上手くなるならば、日本に音楽家志望の人間はいなくなってしまう。極端すぎることを考えてるなと我ながらおかしく思うけど、きっとこのチャンスは神様からの贈り物だ。
ゆかりにとって、大きな意味があると信じている。そして多分、俺にとっても。

「プロデューサーさん」

「ん?」

「あなたを信じて、良いでしょうか?」

 二つの瞳は真剣だ。だから俺も、真摯に向き合わなくちゃいけない。

「一緒に頑張ろう」

「はいっ」

 僅かばかりだけど、春の息吹が吹いたような感覚を抱いた。


「こんな形でウィーンに来ることになるとはなぁ……」

 小僧の頃の俺、夢は叶ったぞ。思い描いている形とは違うけどもね。

「えっ?」

「あっ、いや。なんでもない。てか起きたのか、おはようゆかり」

「おはようございます……?」

 時計を見るとウィーンに着くまであと30分ほど。アイマスクを外したゆかりはまだ眠ら足りないのか目もほとんど閉じている状態だ。

「そろそろウィーンに着くっぽいよ」

「夢にまで見た街がもうそこなんですね……すぅ」

「ははは……二度寝か」

 若干夢から覚めてないようだけど憧れの街は夢なんかじゃない。もう少しで、俺たちは音楽の都に着くんだ。

「ここがウィーン……」

「といっても、玄関口になる空港だけどな」

 ウィーン国際空港は冷戦の際にオーストリアが中立国家を貫いていた背景もあってか東欧や中東への乗り換え客も多いそうだ。
その為あちこちから聞こえてくる言葉はバラバラでバベルの塔の前に立った気分だ。

「きゃっ」

「ゆかりっ! 大丈夫か?」

「すみません、ぶつかってしまったみたいで……」

 人通りも多く気をつけていないと流されてしまいそうだ。

「ほら、手を貸すから。離さないようにね」

「は、はい……」

 お互いバラバラになってしまわないようにゆかりの小さな手を取る。フルートを奏でる細く白磁のような指が強く俺の手を握った。

 爪先立ちをして待ち合わせている人を探すとご丁寧にツアーコンダクターが持つような旗をはためかせている姿が見える。
事前に貰っていた資料に掲載されている写真と見比べる。どうやらあの人が案内役らしい。

「お待ちしておりました! 水本ゆかりさんと担当のプロデューサーさんですね? 私、サンヨウツアーズの村松と言います」

 年齢は俺より少し上くらいだろうか。ラジオパーソナリティに向いていそうなハスキーな声は安心感すら与えてくれた。大仕事に舞い上がり気味なゆかりにはちょうどいいかもしれないな。

「村松……もしかしてさくらちゃんの」

「あはは……無関係の村松、です」

 村松さんの否定にゆかりは少し残念そうな表情を浮かべた。まぁ村松って名字は珍しいものじゃないしな。この人が鷹富士って名字なら親族かもしれないけど。

「長旅お疲れ様でした。では、ホテルに案内しますね」

 村松さんがいうにはホテルはウィーンの市街地にあるらしい。彼が手配してくれたレンタカーに乗り移動することにした。

「見てください、プロデューサーさん。馬車が走っています」

「ば、馬車? ほんとだ……」

 ウィーン市街地までの風景を楽しんでいた俺たちの横を優雅に石畳を歩く二頭の白馬に引かれた馬車が通り過ぎる。

「ウィーン名物の観光馬車フィアカーです。ハプスブルク家の時代の雰囲気がそのまま現代社会にも溶け込んでいるですよ」

「なるほど……京都の人力車みたいなものですか」

 一応日本でも札幌や湯布院、それこそ京都でもあるんですよ、とは村松さんの談。とは言え俺たちの目には珍しい光景であることには違いなく、
俺もゆかりもフィアカーから目を離せないでいた。あっ、御者さんがこっちにウインクした。

「プロデューサーさん」

「ホテルに着いてからね」

 皆まで言わずともゆかりの言わんとしていることは理解できた。俺も同じ気持ちだから。

「ふぅ……」

 ホテルに荷物を置いて一息つく。白を基調とした部屋の中は清掃が行き届いており、寝泊まりするのももったいないくらいだ。机の上置かれているウェルカムフルーツの甘い香りが心地よい。
窓の外を見ると先ほどとはまた別の馬車がパカラパカラと歩いている。目で鼻で耳で感じる東京にはない風景に、憧れのウィーンに来たんだという気持ちが強くなって行く。

「……ダメだ、もう疲れた」

 長旅の疲れからから果実の香りが原因か、ベッドに飛び込んでしまうと抗うこともなくそのまま深い眠りへと落ちていった。

「ん……」

 どれくらい眠っていただろうか。重たい瞼を開けて軽く頭を振る。

「あれ?」

 そのままベッドに倒れこんだはずなのに、起きた俺にかけ布団がかけられていた。そしれと同時に、膝の上にほのかな重みと息遣いを感じた。

「すぅ……」

「……ゆかり?」

 自分の部屋でもないというのに、ゆかりは両腕を枕にして眠りこけている。飛行機の中で随分と寝ていたはずなのに、まだまだ寝足りないようだ。寝る子は育つって言うけども。

「……動けないな」

 やや変則的な膝枕状態になっており身動きが取れない。フルーツの香りとゆかりの持つ女の子の香りが混ざってしまい頭がクラクラしてしまいそうだ。

「ほんと、綺麗な髪をしてるな」

 腰まで伸びた栗色がかった長い髪は彼女の女性らしさの象徴だ。手櫛を通せば流れるようにすり抜けて行く彼女の髪に憧れる女子も少なくないと聞いている。

「さらさらだ」

 催眠術にかかったみたいに俺は彼女の髪を優しく撫でる。もう片方の手で自分の髪を手櫛で通そうとするもゴワゴワしていて出来たもんじゃない。
ヘアスタイリストさんに怒られてしまいそうだ。男らしいですよ、ってゆかりなら言ってくれそうだけど俺だってさらさら髪に憧れはある。

「ふぇ……?」

 ゆかりの髪で遊んでいたからか目が覚めたらしい。とりあえずオーストリアっぽく挨拶してみよう。

「グリュースゴット、ゆかり」

 オーストリア語というものはなく、母国語はドイツ語だ。しかしグーテンタークという挨拶はあまり使わず、グリュースゴットが主流らしい。
元々はカトリック教の「汝に神のご加護がありますように」といった意味だとか。グーテンタークが通じないわけではないけども、カトリック教徒の多いオーストリアではこっちの方が一般的に使われるのだ。

「グリュースゴット、プロデューサーさん」

 どちらも日本人だけども気分はオーストリアン。まだ不慣れな発音が互いにおかしくてどちらからともなく笑ってしまう。

「というかなんで俺の部屋に来たのさ」

「その、特に用はなかったのですが……なんとなくです。ダメでしたか?」

 少し申し訳なさそうに視線をそらすゆかり。その仕草がいじらしく思える俺は性格が良くないかもしれない。

「いや、そうとは言わないけども。もしかしてちゃんとベッドで寝かせてくれたのもゆかり?」

「はい。ちゃんと布団を被らないと、風邪引いちゃいますから」

「ありがとうな」

 自然とゆかりの頭に手が伸びる。

「あっ」

 一瞬びっくりしたような顔をするも、すぐにくすぐったそうに目を閉じて受け入れた。

「もう、プロデューサーさん……」

 ゆかりは恥ずかしさと満足さを織り交ぜたような表情を浮かべる。仕方がない人ですね、と言いたげな彼女がなんだか愛おしくて撫でる手は止まらなかった。

『無事ウィーンに着いたんですね』


「ええ、お陰様で」

 昼食の用意が出来たようでレストランに行こうとするが、ちひろさんから着いたら連絡するよう言われてたことを思い出したのでゆかりを先に村松さんのいるテーブルにつかせて電話をかける。
といっても特に話す内容はなく、安否報告とあとはお土産は何がいいかくらいの話しかしなかったけど。

「ちひろさん、何か言っておられましたか?」

「んー。お土産はビールがいいってさ」

 意外なリクエストな気もするけど、彼女も時には白い泡の中で眠りたい時もあるのだろう。

「ビールというとお隣のチェコやドイツのバイエルンが有名ですが、オーストリアもビールの国として知られているんですよ」

 とは村松さんの談。グラスには既に赤褐色の宝石のような液体が泡の冠をかぶっており、焦がした麦の香りが自己主張をする。こんな真昼間からビールを飲めるなんて、なかなかいい身分だ。

「んきゅ、んきゅ……ぷはぁ……うめぇ……」

 ビール特有の苦味こそはあるもののスッキリとした味わいで飲みやすく、ついつい飲兵衛になってしまう。

「唇にお髭ができていますよ?」

「えっ? あぁ、泡のことね」

 舌で上唇についた泡を舐める。三分の一くらい飲んだ後のグラスには泡の輪が出来ていた。

「村松さん。このレストランは中々出来るみたいですね」

「えぇ、ウィーンでも有数のホテルですからね」

「? ビールを飲んだらわかるんですか?」

 ゆかりは頭にはてなを浮かべているようだ。まぁお嬢様とはいえ未成年だし無理もないだろう。

「このグラスに作られてる輪っかがあるでしょ? こいつはエンジェルリングって言ってな、飲み方にもコツはいるんだけど店の管理状態が良くないと作れない」

 要するに、グラスやビールサーバーの洗浄をきちんとやっているという証拠に他ならない。

「昔ビアガーデンでバイトしててさ。そこで教えてもらったんだ」

「そうなんですね……」

 ゆかりは興味津々と言った具合に天使の輪を見ている。おもむろにスマホを取り出しパシャり。

「間違ってもデレぽにあげちゃダメだぞ?」

 一応オーストリア自体は16歳から飲酒が可能だが、厄介なことになるのは避けるが勝ちだ。

「分かっています! 有香ちゃんたちに見せてあげようと思って」

 美しい宝石を見つけたみたいにウキウキとしている。この子のことだ。多分さっき俺が話した豆知識も一緒に得意げに話すのだろう。微笑ましい未来を思い描きつつグラスに残ったビールを飲み干す。

「プロデューサーさん、ビールって美味しいのですか?」

 ゆかりはビールではなくカップに入ったコンソメスープをチビチビと飲みながらたずねる。村松さんはというと車の運転もあるようなのでお酒には手をつけていない。

「美味しいよ。といっても、そう言えるようになるまで結構時間かかったけどね」

「え?」

「昔はこんな苦いもんよく飲めるなーって思ってたんだ。学生の時の飲み会も周りのみんながとりあえず生、って言ってる中でカシオレ飲んでたしね」

 一滴程度のビールすら受け付けなかったあの頃を思い出す。生涯分かり合えることがないだろうと思っていた苦い水が美味しいと思えるようになったのはいつの頃だったか。
多分スーツを着て慣れないネクタイを結んで社会人と呼ばれるようになったあたりだと思う。

「私も美味しく飲めるでしょうか?」

「さぁ、どうだろうね」

 なんとなくだけど、目の前の彼女は弱そうだ。いっぱい飲むだけでへべれけになって周りに甘えるか眠ってしまいそう。

「私が20歳になったら、一緒に飲んでくれますか?」

「そうだな……その時まで、ちゃんとプロデュースしないとね」

 ゆかりは小指を捧げる。意図を理解した俺は小指を彼女のそれな絡める。指切りげんまんなんて歳じゃないけども、いつかの未来に叶えたいちょっとした約束ができることは悪くない。

「嘘ついたら……有香ちゃんの正拳突きを食らわせます」

「友達をハリセンボンみたいに扱わないの」

「あはは……仲がよろしいようで……お邪魔でしたか? お邪魔ですよね」

 村松さんは所在なげにウィンナーコーヒーを飲んでいる。完全に彼の存在を忘れて2人の世界になってしまっていた俺たちは途端に恥ずかしくなってビールをもう一杯頼むのだった。

 パカラ、パカラ。蹄を鳴らしながら白馬は街中を我が物顔で練り歩く。通常の車よりも高い目線になる馬車はビルの二階の窓くらいの高さがあり、ちょっとした王様気分が味わえていた。

「カボチャの馬車ならシンデレラだったんだけどなぁ」

 オーストリアに来たのは撮影とライブのためだけど、それ以外は自由に観光する時間かある。レストランの食事を終えた俺たちはまず、ゆかりの希望でフィアカーで街中を巡ることにした。
ホテルから少し歩く必要があったが、ペーター教会前の停留所で待機していたフィアカーを捕まえることができた。御者さんはドイツ語だけでなく英語もわかるようなので、ドイツ語よりかは
マシだけどそれでもぎこちない英語でお任せルートを歩いて欲しいと伝えると意味合いはわかってくれたようだ。

「こうやってモーツァルトもショパンもこの音に耳を傾けていたのでしょうか?」

「かも、知れないな」

 馬車の揺れを感じながらあえて目を閉じて蹄が奏でるリズムに聴き入る。偉大なる音楽家たちだけじゃない。栄華を極めたハプスブルク家の皇帝たちも、
名もなき市民たちも長い歴史の中この街で過ごして来た。どんどん便利になっていく現代において、当時の雰囲気をそのまま残したウィーンの雄大さが骨身に染み渡る。
きっとゆかりも同じことを感じているはずだ。この街と日本を繋げる大役を託された彼女のプレッシャーは想像以上のものだろう。観光を楽しむ一方で、大きな責任を抱いていることを強く思わざるを得なかった。

「~~」

 御者さんは時折英語でガイドを入れてくれる。全部が全部理解できたわけじゃないけども、なんとなくのニュアンスは伝わったのでそれを再翻訳してゆかりに話す。きちんと英語の授業を受けていて良かったと今日ほど思う日はないだろうな。

「わぁ……」

 喧騒から離れ静かな裏道を抜けるとウィーンのシンボルと名高いシュテファン大聖堂が威風堂々と俺たちを迎え入れてくれた。モーツァルトが挙式を挙げ、
そして葬儀を執り行った歴史ある大聖堂は今日も多くの観光客が訪れている。異国の旅人を優しくも厳かに歓迎しているようだ。ゆかりも偉大なる作曲家の息吹をその身に感じているのか、無言で大聖堂を見つめている。

「モーツァルトは」

「ん?」

「フルートが嫌いだった、という話を聞いたことがあります」

 大聖堂を通り過ぎて少しした頃、ゆかりが不意にそんなことを話し始めた。

「なんでも彼が書いたフルート協奏曲の一つは、以前作っていたオーボエ協奏曲を全音あげただけのもので、父親に宛てた手紙にはこう書かれていたみたいです」

 我慢のならない楽器だと。ゆかりは寂しそうに話す。

「たしかに当時のフルート今のそれとは違って、発展途上の楽器。文字通りの木管楽器で音程も不安定なものだったそうです。だけど私は思うんです。本当はフルートを愛していたんだと」

 ゆかりはカバンの中から音楽プレーヤーを取り出し俺にイヤホンを渡す。聞いてくださいと言っているようだ。

「……モーツァルトのピアノ協奏曲か」

「えっ? はい。そうです」

 曲名を当てられたからかゆかりは驚いたような表情を見せるが、すぐに解説に戻る。

「ピアノのために作られた協奏曲ですが……この曲において、フルートはまるで天使の歌声のように奏でられています。私が思うにですけど……当時のフルートはモーツァルトの理想には届かない楽器だったかもしれませんが、それでも彼はこれからの未来においてフルートが改良されて自分の理想とする音を奏でることが出来たと信じていたと思うんです」

 神童と呼ばれた天才が残した天籟のメロディはこれまで多くの人たちに奏でられて来た。時代は変われども永遠に愛される音楽。この街を生きた彼らは、そんな未来すらも見越していたのだろうか。

 馬車に乗りながら室内音楽を楽しむという贅沢をしているうちに、フィアカーははじめのペーター教会前に到着していた。

「アリガト、ゴザイマー」

 カタコトでも日本語で話してくれるのは嬉しかった。少し多めに御者さんにチップを渡して俺たちは教会の中に入った。外から見る以上に開放感があり、
美しくも格調高い内装は圧巻で言葉を失ってしまう。もしかしたら海外旅行者が奈良の大仏を見た時、俺たちと同じ感想を抱くのだろうか。

「プロデューサーさん。日本語のパンフレットもありますよ」

 ゆかりが持って来たピンク色のパンフレットに軽く目を通す。俺たちが入って来た正面入り口から卵とも小判とも形容できる講堂を中心にそれぞれの祭壇へと繋がっているらしい。
なんとなくイメージしていた燭台で照らされる長い廊下はこの教会にはないようだ。天を仰ぐと長い歴史を感じさせるフレスコ画の天使たちが俺たちを見守っている。

「見てください。パイプオルガンです」

 奥まで行くと祭壇の上に見たことがないほど大きな黄金のパイプオルガンが窓ガラスから射す光を浴びて神々しくそびえ立っていた。

「あれを弾けたなら気分いいだろうな……」

 世界中の風を吸い込んでしまいそうなそれが奏でる音に想いを馳せる。たった一音、指で鍵盤を押すだけで世界すら支配できるだろう神の楽器。

「コンサート、やるみたいですよ?」

「えっ?」

 どうやらここではパイプオルガンによるコンサートが毎日のように開かれているらしい。オルガンの前に立つ少女が一礼をし、弾き始めると祭壇の中に重厚な音が広がり渡る。……ん? 少女?

「っ!?」

 驚きのあまり思わず大声を出してしまいそうになるがすんでのところで口を噤む。俺の目に間違いがなければ、今オルガンを弾いているのはゆかりとさほど変わらないくらいの少女だ。それも、日本人。

「……」

 隣に座るゆかりも開いた口が塞がらない、といった具合だろう。しかし紛れもなく、目の前の光景は真実だ。最初は受け入れ難かったものの、
彼女の演奏技術は本物であることがわかるとただ静かに聞き入っていた。両手だけが自然と宙を奏でて、自分自身が黄金のオルガンを奏でている気分になったかのように。

「ダンケシェーン!」

 30分ほどのオルガンコンサートは万雷の拍手の中、幕を閉じた。コンサート自体は無料らしいがオルガンの維持やオルガニストへの寄付は行われているらしい。良いものを聞かせてもらったと財布から10ユーロを寄付して講堂から出ようとしたその時だった。

「待ってくださーい!」

 不意に俺たちを呼ぶ声が講堂に響いた。静けさを切り裂くその声に周囲の注目が集まった。

「貴方達、日本人ですよね? 今日は私のステージにきてくれてありがとうございました♪」

 クリーム色が混じったようなミントグリーンの髪の少女が嬉しそうにやってくる。その人目を集める髪の色は間違いなく先ほどオルガンを弾いていた子だった。どことなくゆかりに似て清楚な印象を与えるが、
幼子のような屈託のない笑みを浮かべており始めてあったはずなのに長い付き合いのある子のような思えたほどだ。

「素晴らしい演奏だったよ」

「褒めてもらえるなんて嬉しいです! ここで弾くのは夢だったから緊張しちゃって……あっ、もしかして貴女が持ってるそれってフルートですか?」

「は、はい。そうですけど……」

 少女はゆかりが持っているフルートのケースに興味を示す。

「少し貸してもらっても良いですか? あ、もちろん外で吹きますので!」

 少女に促されるように教会をでてグラーベンの通りに出る。歩行者天国になっているこの通りでは大道芸人があちこちでパフォーマンスをしており、
道端で日本人がいきなりフルートを吹いたとしても誰もおかしくは思わないだろう。少女は慣れた手つきでフルートを組み立てていき、持っていたチューナーで軽く音程を合わすとおもむろに吹き始める。

「まぁ……」

 情緒たっぷりに奏でられるカルメンの間奏曲は耳に心地よく、俺たちだけでなく道行く人たちの視線も集め始めた。シンプルで誰もが一度は聞いたことがある親しみやすいメロディだが、
それ故にごまかしが一切効かず奏者の技量が試される。正直なところ、フルートを専門にして育って来たゆかりに比べるとフルート奏者としての技術や表現は及ばずとも、一人の音楽家としてみてしまえば日本で活躍するプロの音楽家達にも負けていない。

「どうでしたか?」

 静かに曲が終わると道行く人たちはフルートケースの中にお金を入れ始めた。照れ臭そうに笑うとダンケシェーンと見事な発音で一礼するのだった。

「君、フルートも吹けるんだね」

「はい。楽器なら一通り触って来ましたので」

 聴くとウィーンで生まれ育ったらしく、幼い頃から音楽や芸術に囲まれてきたようだ。彼女の身体の中には血と同じように音楽が流れている。それは音楽家にとって、何よりも羨ましいことだ。

「でも今度日本に帰るんです。実はちょっとした野望がありまして」

「へぇ、野望かあ」

「はい。まだ話せませんけど……いつか、テレビに映る私が見れるかもしれないですね♪すみません、この後バレエのレッスンで! 日本でも会えたら、今度は貴女のフルートを聞かせて下さい! アウフウィダゼン!」

 少女はそう言い残して軽やかな足取りで去っていった。あ、結局名前聞いてないな。

「プロデューサーさん」

「ん?」

「スカウトしたい、って思いましたよね?」

「あはは……バレた?」

 こんなところでもついつい目を光らせてしまう。もはや職業病だ。しかし俺の目は間違っていなかったようで、後にミントグリーンの彼女とは思わぬところで再会することになるのだけど、それはまた別の話だ。

「ふぅ……」

 その後もいくつかの観光スポットを巡りホテルに戻った俺はスケジュールを再度確認する。ゆかりは少しフルートの練習がしたいと言って近くの公園にいるようだ。

「ここに来たら、そうなるよなぁ……」

 音楽の都ウィーンに来て影響を受けているのはゆかりだけじゃない。俺も確かに、心の奥底から込み上げてくるものがあった。

「今更だけど」

 泉のように湧きたちつつある感情に諦めという蓋をする。何を未練がましくしているんだ俺は。もうとっくに、きっぱりと諦めたじゃないか。それなのに、両の手は言うことを聞かない。いっそ、切り落としてしまえば未練もまとめて切ることが出来るのだろうか。

「何恐ろしいこと考えているんだ!」

 頭をよぎった狂気を振り払って資料の作成に移る。観光気分ではいたけども仕事の一環だし、帰国したらしたですぐに方々に営業をかける必要がある。アイドルたちのデモテープを作業用BGMにして、白黒の鍵盤ではなくキーボードを叩き始めた。

「ん? ゆかり?」

 不意にスマホが着信を知らせる。

『もしもし、プロデューサーさん……?』

 電話に出るとpが四個くらい付いているほど弱弱しい口調のゆかりの声が届く。後ろから聞こえる愉快なアコーディオンのメロディにかき消されてしまいそうなほどだ。

「ゆかり? どうかした?」

『その、えっと……置き引きにあいまして』

「お、置き引きぃ!?」

「プロデューサーさん!」

 公園へと向かうとゆかりが涙目になって待っている。手にはフルートを持っているけど、カバンが見当たらない。

「カバンを近くに置いていたのですが、フルートを吹いているのに夢中で置き引きにあったことに気付かなくて……」

 フルートと携帯電話は無事だったが、財布やパスポートを入れたカバンは盗まれてしまったようだ。

「財布の中にはみんなで買ったお守りもあったのに……」

 恐らくメロウイエローの2人と揃えたお守りのことだろう。財布の中に入れて、ゆかりは大事そうにしていた。日本から1人離れてウィーンに来た彼女にとって、日本にいる2人とのつながりの象徴であっただろう。
パニックとまではいかないが思わぬ事態に動揺を隠せずにいる彼女をベンチに座らせて村松さんに電話を入れる。

「分かりました。すみません、こちらの不注意でご迷惑をおかけして……ありがとうございます」

 さすがと言うべきかウィーンに明るい村松さんは落ち着いて指示をくれる。近くの交番で落ち合うことにした俺たちは落ち込んでいるゆかりを励ましながら歩き出した。

「ウィーンは治安の良い街と言われますが、それでもスリや置き引き、ニセ警官はいるものです」

 おまわりさんとのやりとりを終えた村松さんはそう話す。特に日本人のパスポートは悪い意味手間需要があるらしく高く取引されるらしい。

「うっかりしていた私が悪いです……」

 当然盗んだ不届き者が百悪いのだけど、ゆかりは重石がずっしりと乗せられたように落ち込み倒している。

「ま、まあ見つかる可能性もありますから! ウィーンの警察は優秀ですしね! とりあえず大使館に連絡を入れておりますので、この盗難証明とパスポート用の写真を持っていけば再発行手続きができます」

「あの、写真が手元にないのですが……」

 一応宣材用の写真はあるがパスポートには向いていない。どこかに証明写真撮影機でもないだろうか。

「ああ、それなら。シュトラウス像の先にある写真に行ってもらえましたら。あそこのオヤジは日本贔屓で言ってもらったらパスポート用の写真も用意してくれますよ」

「なるほど、んじゃ行こうかゆかり」

「はい……」

 憧れの街に裏切られたんだ。落ち込む気持ちもよくわかる。なるだけ周囲の風景の感想を言いながら写真屋へと向かうのだった。

「さてと、ゆかり。ちょっといいかな?」

「えっ?」

 写真も撮って大使館で必要な手続きをした俺たちはホテルに戻らずタクシーを捕まえる。

「ホテルの方向とは違うようですが……」

「まあまあ、折角ウィーンに来たんだしここには寄ってかないとって所があってな」

 訝しげなゆかりの顔がバックミラーに映るが、俺はというと今向かっている場所に心を弾ませていた。大丈夫、きっとゆかりも気に入ってくれるはずだ。

「凄い……」

 夕焼けに照らされてゆっくりと回る王様のような大観覧車にゆかりは単純な言葉しか紡げなくなっている。その存在感は唯一無二で頂上にたどり着いたゴンドラからはウィーンの街が一望できることだろう。

「子供の頃に見た映画でここの観覧車が使われていたんだ。それ以来一度行ってみたいと思ってた」

 子供の頃とはいうものの、十年二十年前の映画ではない。第二次世界大戦が終わった後の作品で、今では考えられないかもしれないけど白と黒のモノクロで表現された世界はガキンチョだった俺に強く衝撃を与えた。
何より色彩のない世界の中で奏でられた耳に残るテーマと、印象的に使われるこの大観覧車が強く頭に残っていたのだ。聖地巡礼といってもいいだろう。

「乗ってみる?」

「はい」

 少し明るい声色で、ゆかりは観覧車へと歩き出した。足取りもちょっぴり、羽が生えたみたいに。

 ゴンドラは落ち着いたテンポで上へ上へと登って行く。それは怠慢なんかではなく、ウィーンの素敵な景色をゆっくりと楽しめよと言っているみたいだ。

 日本の観覧車との差異を聞かれると、二十人乗ることが出来る客車の大きさであろう。ウィーンの風景の中キスをしたいカップルもいるだろうが二人っきりで観覧車に乗れるなんてことはまぁなく、基本的には見ず知らずの相手と相乗りだ。
俺とゆかりが乗っているゴンドラではお孫さんを連れた老夫婦や若い女性三人組が相席している。前のゴンドラの中じゃパーティーが開かれているらしく、四、五人くらいの若者が楽しげに横に揺れている。日本だと考えられない光景だろう。

「~~?」

「あはは……いただきます」

 不意にご婦人にワイングラスを渡される。何を言っているかは分からないけど(とりあえずヤーパナーって聞こえたからうなずいてはみたけども)おすそ分けをしてくれたらしい。
斜陽に照らされる楽都の街並みは映画のワンシーンのようで、どんどんと人たちが点になって行った。

 あの点の一つがが永遠に止まる度に所得税抜きで2万ポンドやる、と言われたら断るかね? こんな感じのセリフだったか。今の俺はオーソン・ウェルズみたいに渋い大人になれただろうか。意味もなくワイングラスをクルクルと回してみる。

「ふふっ」

「どうかした?」

「いえ、プロデューサーさんが気難しい顔をしていましたから……」

 そういうつもりではなかったのだけどな。どうやらまだまだアダルトな渋みが足りないらしい。まぁ、ゆかりが笑ってくれたからよしとしよう。そんな言い訳を心の中でしてワインを飲み干した。

「頂上まで来ましたね」

 大観覧車のてっぺんから学徒を見下ろす。ゆかりの荷物を盗んだ不届き者は捕まっただろうか、なんてことを考えているとゆかりはおもむろにフルートを組み立て始めた。

「~~♪」

 そうなればやることは一つ。大きなゴンドラは夕日よりも高い場所でのフルートリサイタル会場になった。相乗りしている誰もが彼女に釘付けになる。奏でられている曲はきっと彼らは初めて聞くはずだ。だけど俺たち日本人はこの曲を聴くと、無性に寂しい気持ちになってしまう。

「ふるさと、か」

「はい。変だったでしょうか?」

「ううん、そんなことないさ。ほら」

 パチパチパチと拍手の雨が降る。きっと彼らは曲名も知らないだろうしうさぎを追いかけた思い出を懐かしむ曲だなんて想像もつかないだろう。だけど素敵な音楽は国境を越える。イロハもドレミもCDEも全ては心を幸せにするメロディになるのだから。

「ダンケシェーン!」

 ゆかりは深々とお辞儀をする。そんなこんなしているうちにゴンドラは地上まで降りてきた。

「~~!」

「ど、どうも」

 相乗りした老夫婦に握手を求められる。何を言っているかは分からなかったけど、頑張れと言ってくれているのだろう。そんな気はしていた。

「いい景色だったね」

「はい。あなたと見たこの光景を私は忘れないと思います」

「俺もだよ」

 大観覧車でふるさとを吹いた子なんて長い歴史を見ても彼女が唯一無二だろう。相乗りしていた人たちしかわからないけども、ゆかりはこの国のちょっとした歴史に名前を残したんだ。

「っと、村松さんから連絡が……もしもし? ええ、本当ですか!」

「どうかしましたか?」

「カバンが見つかったって! 中身も無事だったみたい」

「!」

 村松さんが言うように、ウィーン警察は優秀だった。観覧車に乗っている間に置き引きされたカバンを見つけたのだから。しかも中身も無事ときた。実にラッキーだ。

「良かったぁ……」

 ゆかりは心の底から安心したみたいにベンチに座る。

「もう荷物から目を離すんじゃないよ?」

「はい。身を持って理解しました」

 かくいう俺も気を付けないとな。こんな幸運、二度とあると思えないし。

 カバンを取り戻した俺たちはその足で夕食を取っていた。警察署でカバンの中身を確認したところ、パスポートも財布の中身も無事だったみたいだ。貴重品は肌身離さないようにして、
メロウイエローの2人からもらったお守りはというとフルートケースに結んでいる。なるほど、これなら絶対に見失うことはないよな。落ち着いたピアノの演奏をBGMに今日一日のことを振り返る。
馬車に乗ったりオルガン弾きの美少女にであったり観覧車の中でふるさとを演奏したり。一日目からこんなに濃いならば、最後のステージはどうなることやら。

「あの、プロデューサーさん」

「ん?」

「今日一緒にいて、ずっと気になっていたことがあったんです。プロデューサーさんって……この街に憧れていましたか? もしかしたら、私以上に」

「……バレてたか」

 別に隠していたわけでもなかったのだけど、言い当てられると気恥ずかしいな。どうやら俺も大概浮かれていたみたいだ。

「ゆかりには話したことなかったけど……こう見えて俺、昔はピアニスト目指しててさ」

「やっぱり。そんな気はしていました。オルガンを聞いている時もずっと指が空気の鍵盤を叩いていましたから」

「そこまで気付かれていたのかぁ……結構俺のこと、見ているんだね」

「え、いや……その、ずっと見ていたわけじゃないですけど……本当ですよ?」

 ゆかりは赤くなった顔をごまかすようにメニュー表で顔を隠す。

「子供の頃は神童だー、とかリストの生まれ変わりだーなんてちやほやされてて、まあ実際コンクールで金賞とったりすることもあったんだけど……そういう人って全国にたくさんいるわけじゃん。気付いたら俺は賞をもらえない、圏外のピアニストになっていた」

 高校の時もギリギリまで音大に行こうという気持ちはあったし、ゆかりが言うようにこの街に強い憧憬を抱いていた。両親も裕福でないながら応援してくれていた。
だけどいつしか圏外になった俺は自信をなくして、夢を見ることを諦めていた。ピアノ以外の勉強をろくにしてこなかったから大学受験は本当に苦労したものだ。
現代文小説も音楽も何かを表現するために作られたもの何に、どうしてこうも小説というのは理解しがたいものなのか。今でも本を読むのは、ちょっと苦手だったりする。

「ゆかりにこの仕事が来たとき、俺もテンション上がってた。ピアノを弾くために来たわけじゃなくても、この街に来たってことがなにより嬉しいんだ。だから、その、ゆかりにはめっちゃ感謝している」

 音楽の道を諦めた俺だったけどアイドルのプロデューサーとして音楽に携わることが出来たのは音楽の神様の気まぐれなんだろうか。もしくは。

「ゆかりが神様の生まれ変わりだったりして」

「ええ?」

 彼女との縁(ゆかり)が俺とゆかりの夢を叶えてくれた。プロデューサーとして、ゆかりのファンとしてこれ以上嬉しいことはない。

「夢やぶれたピアニストだけど、次の夢を見ることができた。こういうこと言うのって恥ずかしいけど……今の俺の夢はゆかりが一番になることだよ」

 例え賞を受け取るのが自分でなくても、彼女にガラスの靴を履かせてやりたい。彼女の声を、もっともっと多くの人に聞いてもらいたい。日本とウィーンだけじゃない、目指すは世界だ。

「そう言われたら……頑張らないといけませんね」

 空になっていたグラスに水が注がれる。小意気なアルペジオに合わせて、俺とゆかりは乾杯をした。

 憧れの街での日々は俺にとってもゆかりにとっても刺激的なものだった。だけど終わりは来るものだ。ウィーンでの集大成となるコンサート当日がやってきた。
街中お祭りモードであちらこちらから音楽が響き渡る。道行く人だけじゃなく、馬車を引く馬たちも心なしか軽やかな足音を刻んでいる。

「どうでしょうか? 浮いてしまったりしませんか?」

「うん、よく似合っているよ」

 着替えを終えたゆかりを見て心からそう思う。リサイタルドレスではなく、アイドル衣装を着た彼女はウィーンの人達にとっては不思議に見えるかも知れない。でも彼女はここにアイドルとしてやってきた。
ステージに立つゆかりにとって一番自然体な衣装を選んだつもりだ。

「不思議ですよね。ここのところ私は仕事がうまくいかなくて自信をなくしてしまいそうだったのに……この街に来たらなんだか出来そうな気がしてきたんです。でもそれってウィーンの空気を吸ったからなんかじゃなくて……うまく表現できませんけど」

 そう力強く言う彼女の瞳にはやる気が満ちている。大丈夫だ、きっとうまくいく。

「そう思えるのなら、日本に帰っても大丈夫だよ」

「はい。それに、私にはプロデューサーさんもついていますから。あなたの夢が、私の夢です」

「!」

 本番前の緊張を感じさせない柔らかな笑みを浮かべて、ゆかりはステージへと向かっていった。憧れを今、超えてみせるんだ――。

以上になります。圏外の一線を超えたい……




とりま、ゆかり嬢と一線を越えたまへ

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