芹沢あさひ「青空の水槽」 (25)
・アイドルマスターシャイニーカラーズ、芹沢あさひがメインのSSです。
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青空のことを思い浮かべたとき、私が次いで連想するものといえば大量の水だった。
春先の桜降る並木道を歩くときも、真夏の蒸し暑い交差点に立ち止まるときも、秋晴れの澄んだ路地裏へ迷い込むときも、ちょうどいまみたいに、初冬らしい冷気に満ちた公園のベンチに腰掛けているときも、それは何も変わらない。
いつ如何なる時であろうと、私の中で青空といえば、その直後に続くものは水だ。
しかし、改めて考えてみると、それはとても不思議なことのように思える。
たとえば、普通、水の色は青空みたいな水色じゃなくて、どこまでも純粋に透き通った透明色だ。
それに、青空はどちらかといえば乾いているような印象があるけれど、水はちょうどその対極だ。
あるいは、空は実体を伴わない概念上の存在で、一方の水は触れることのできる物質だ。
違うところなんて他にいくらでも挙げられるけれど、共通項を見出すのはかなり難しい。なのに、私はその二つをどうしても結びつけて考えてしまう。
どうしてだろう?
こうして実際に訊かれるまで考えもしなかった。
思いもよらない質問に頭を悩ませる私の横で、彼女は先ほど自動販売機で買ったばかりのミネラルウォーターを掲げてみせた。
「そもそもの前提として、一般に水と称される液体はおおよそ無色だ。それはいい?」
「勿論っす」
「そのことを踏まえた上で、じゃあ、あさひは水という言葉からどんな色を連想する?」
半透明のボトル容器に支えられた水面はぴたりと凪いでいる。
普段、私が宙に思い描く水槽もまた、眼前のそれと同じくらいに穏やかで、しんと静まっている。
その二つを頭の中にぼんやりと並べてみて、なんだか変な話だ、と私は思った。
水に限らず、液体は流動性をもつ物質だ。止まっている方がおかしい。
「水色っすね」
私は答えた。
プロデューサーさんはわざとらしく首を傾げる。
「水色、というのは水の色のことではなく、青を薄めた色という意味だよね」
「そうっす」
「だったら、もう少し具体的な補足が欲しいな」
「具体的、っすか?」
「偏に水色といっても色々ある。文字通り、色々と。たとえば、そうだな、あさひの思う水色からさらに連想されるものは何だろう?」
私はゆっくりと目を閉じて、それから想像する。
ここではないどこか遠くにあるものについて思いを巡らせようというとき、視界から飛び込んでくる一切の情報なんてただのノイズだ。
だから、遮断する。それが私にとって、物事と向き合うときにおけるある種の作法だった。
大量の水色をいっぱいに閉じ込めた何かが目の前にある。
たったそれだけの状況を、しかし頭の中に詰め込んだ全部を一点に集中させて想定する。
最初にみえたのは羊毛みたいに白く柔らかな光の群れだった。
それはあくまで想像上の産物でしかない。だけど、やがて訪れる春のような、薄く滲んだ温度を遠くのほうに感じ取ったような気がした。
きっと外を照らす太陽のせいだろう。真っ白な明かりが瞼の隙間から溶け込んでいた。
肌や耳に伝った感覚の絵具で、無地の世界に色を塗っていく。
広がるキャンパスは見渡す限り一面の白色だ。ならば最初に使う色は黒が何よりも相応しいだろうと、私は一先ず地面を真っ黒に塗り潰した。
すると、すっかり馴染んだ硬さが両足に触れる。
コンクリート? いや違う、これはアスファルトか。
厳密な定義は知らないけれど、まあ、この際何だっていい。重要なのは、空想の地面が明確な形を持っていることだ。
それから、考える。ここはどこだろう?
足元には黒のアスファルト。それから、いつの間にか引かれていた、なにやら意味ありげな白線模様。どうやら、これが私にとって最も自然な状態らしかった。
そうして綺麗に対比する二つの並びには、やはりというか、はっきりとした見覚えがある。
これは多分、交差点だ。
そうと分かれば、あとはもう自動的だった。
無数の線が縦横無尽に周囲を走る。
それから間もないうちに、まるで一陣の風みたく辺りを吹き抜けた色の洪水にあてられて、風景は一瞬で色づいた。
ついさっきまで無地だった世界が呼吸を始めて、私はようやく理解する。ここは渋谷だ。
私は水色の在処を探す。だけど、それはすぐに見つかった。
「空」
その水色は、つまり青空だ。
「青空っすよ、やっぱり」
「なるほど。そこでループになっているわけだ」
プロデューサーさんが頷きながら言う。
「青空から連想されるものは水。水から連想されるものは水色。水色から連想されるものは青空。鶏が先か、みたいな話になってきたな」
「実際、鶏と卵ってどっちが先なんすかね?」
「進化論的には卵って結論じゃなかったっけ」
「じゃあ、いまの場合は三つのうちのどれが卵にあたるんすかね」
「それはあまり意味のある推論とは思えないけれど」
彼女はまるで後に続く言葉を探すみたいに空を仰ぐ。私もまた、その行方を追いかけるようにして空を見上げた。
今日は特に何の理由もない快晴で、煌々と輝く太陽の明かりを遮るものは何もない。
でも、たった一つの雲すら見えない青空は物寂しくて、そのせいで一面に広がった青色が却って寒々しく感じられた。
プロデューサーさんがいったい何を探していたのか、私には分からなかった。
だけど、どうやら彼女は何かを見つけたようで、ふっと手元に視線を落とす。
「でも、意味なんて必要ないね。もう少し考えてみようか」
彼女は小さな息を一つ吐いて、それから続ける。
「鶏と卵の話は循環構造の例として有名だけれど、そもそも両者は対等ではないということに気をつけないといけない」
「どういうことっすか?」
「簡単な話だ。鶏は卵を産むけれど、卵を産むのは鶏だけじゃない」
「なるほど。ああ、だから、進化論的にはって話になるんすね」
「そういうこと。循環の起点がもし存在するならば、それは卵の側にあるはずだというのが一先ずの結論だ」
相変わらず理解が早いな、とプロデューサーさんは言った。
彼女と私は、時々こういった話をする。
たとえばいまみたいに、予定と予定との間に生まれたどうしようもない空白の時間なんかを使って、具体性なんてどこにもないような話をする。
そして、それは大抵の場合、私のほうから何かを切り出して、彼女がそれに様々な補足を加えていく、という風に展開していく。
今日も例に漏れずそうだった。
「青空って、なんだか巨大な水槽みたいじゃないっすか?」
と私が言ったのが、事の始まりだ。
どういう意味か、と尋ねるプロデューサーさんに、私はとりあえず話を続ける。
「空って何もないのに青いじゃないっすか。それで、何でかなあ、って考えてみて、そしたら、その全部がまるで水みたいにみえてきて。
うまく言えないっすけど、空一面に透明の硝子が張られていて、それこそ水族館みたいに、その向こうにはものすごい量の水が満ちていて、だから、水槽みたいだなあって」
私が話している間、プロデューサーさんは相槌も打たないで、ただひたすらに沈黙していた。
きゅっと結んだ唇に添えられた人差し指が、時々微かに動いていた。
彼女の様子は、ともすれば話を聞き流しているだけのようにもみえるだろう。
だけど、彼女がなにか思考を巡らせるとき、その小さな右手が顎の辺りへ触れることを私は知っていた。
私が一通り話し終えたところで、彼女は平坦な口調で言った。
「どうして水みたいにみえたの?」
その質問に、私はこう答えた。
「だって、水の色は空の色じゃないっすか」
そして、いまに至る、というわけだ。
プロデューサーさんは続ける。
「しかし、いまの場合はそれほどうまく繋げられないかもしれないな。何せ、これは連想ゲームだ。鶏と卵みたいに分かりやすい関係性があるわけじゃない」
「そうっすね。水色と青空となら、水色のほうが卵っぽいっすけど」
「それにしても、あとの二つがよく分からない。水と水色はまだしも、青空と水なんてほとんど無関係だ」
この話はそもそも、青空と水とが私の中でどういった風に結び付けられているのか、という疑問から始まったのだ。
この期に及んで、その二つを切り取って考えることに意味があるとは、あまり思えない。
「とりあえず水色が卵だとしてみるっす」
だから、思考を前へと進めたいのなら、ここから切り込んでいくしかない。
プロデューサーさんは頷いて、言った。
「青空と水はそれぞれ適当な鳥だと思っておけばいい。水色が卵と決まったら、次はどうなるだろう?」
「ループの原因が水色にあるってことになるっすよね」
「そうなるね。鶏と卵の場合、鶏でない鳥が産んだ卵に突然変異のようなものが起きて、それが鶏になったという流れだった。さて、鶏でない鳥とは青空と水とのどちらだろう?」
私は頭の中で反復してみる。鶏でない鳥。それに対応するのは、つまり、水色よりも先にあったもののはずだ。
「それは、青空っす」
私は答えた。
「正解」
彼女は頷く。
「水色から青空が連想されたということは、そもそも水色の前提として青空がないとおかしい。同じように、水の前提には水色がある。だから、水が鶏だ」
「最初にあった青空が、水色を経由して、それから水になった」
「鶏と卵の話になぞらえるなら、それが結論だね」
思いのほか綺麗に繋がったな、と彼女は独り言のように呟いて、手元のミネラルウォーターに口をつけた。
私の視線はあてもなく空へと向かう。相も変わらず雲は見えない。一面の青に染まった冬空が何を教えてくれるわけでもない。
答えなんて、そもそもあるのかも分からない。
だけど、それでも考える。
想像は自由だ。
水色は、青空の色だ。
私が青空のことを思い浮かべるときに水を連想する理由は、だから先ほどの結論から考えるのなら、青空の色を無意識のうちに水へ投影しているからということになるのだろう。
本来の水は透明色だけれど、私の中でそれは空の色としてインプットされている。
どうしてだろうか?
青空と水。
水色と透明。
その二つを繋ぐものは――
「あっ」
思わず声が洩れる。
本当に突然のことだった。
脈絡なんて何もない。
吹いては止んでを繰り返すそよ風みたく唐突に、だけどたしかに、頭のどこか片隅で、一本の糸が繋がったような感覚があった。
「どうかした?」
プロデューサーさんが首を傾げながら、私の顔を覗き込む。
私は、ああ、と息を吐くように応えた。
「いや、何となくなんすけど。わたしの中で青空と水とを結んでいたものの正体が、掴めたような気がしたんすよ」
「へえ。もう見つけられたんだ」
「本当に何となくっすけど」
「たとえ不確かでも、あさひが見つけたのならきっとそれが正解だろうと思うよ」
「正解、なんすかね。たしかに、もうこれしかない、って気はするっすけど」
青空と水。
言いながら、考える。
さっきの交差点と同じだ。
まったく同じようにして、その二つを中心に据えた風景を思い浮かべてみたら、何よりももっともらしい答えが眼前に広がっていた。
どうしてこんな当たり前に気がつかなかったのだろう。
一度みつけてしまえば、それまでみつからなかったことのほうが不思議に思えてくる。
ちなみに、と私は続ける。
「プロデューサーさんはいったい何だと思うっすか?」
「何って、何が?」
「わたしの中で青空と水とを結んでいたものの正体っすよ」
まるで息を止めたような沈黙の後で、彼女は言った。
「答えてもいいの?」
「勿論っす」
と私は答えた。
プロデューサーさんは「そうだな」とだけ呟いて、まるで眠るみたいにゆっくりと目を閉じた。
ぴんと張られていた彼女の背が徐に傾いて、堅そうな背もたれに音も立てずに触れる。
彼女の動作はおしなべて静的だ。
空っぽの水槽に張りついた水面みたいに、あるいは遥か遠くまで絶えずに広がった青空みたいに、そこにはわずかばかりの乱れもない。
両肩よりも少し下に切り揃えられた彼女の黒髪を、前方から吹き付けた風が撫でるように揺らす。
熱くもなければ冷たくもない、あんまりに整っていて、冬空には似合わない風だった。
風が止んだ頃、プロデューサーさんは言った。
「海」
降り始めたばかりの雨みたいに静かな声だった。
「水溜まりや湖なんかでもいいかもしれないけれど、でも、それだと青空の広大さと些か釣り合いがとれない。
空の巨大な水色をそのまま水に投影できる何かなんて、きっとそれほど多くはない。
そして、真っ先に思いついたのが海だ」
海の色は空の色だから、と彼女は言った。
彼女の両目は未だ閉じたままでいる。
風はもう止んだのに、まるで何かが過ぎ去るのを待っているみたいだった。
そんな彼女の隣で私は、もしかしたら、と考える。
――もしかしたら、プロデューサーさんもわたしと同じ景色をみているのかもしれない。
そんなわけがない。
私たちは、たとえばこの青空でさえ、同じようにみることなんてできやしない。
私の世界と彼女の世界とで、全く一緒の形をしたものなんて多分一つもない。
だけど。
「そうっすね」
私は頷いた。
決して同じ空をみられなくたって、私たちは同じ空をみているのだと思えるのなら、それだけでも私は嬉しい。
「わたしも海を思い浮かべたっす」
私の言葉を聞いたプロデューサーさんが、ようやく目を開く。
「よかった」
それから、彼女にしては珍しく笑った。
穏やかなその表情に、胸の奥のほうが不思議とざわめく。
「しかし、そう考えると、あさひの言った水槽の喩えはなかなか面白いな」
「そうっすか?」
「空の青さに水を連想することはさして珍しくもないけれど、その場合、普通は私たちが水の側にいるんだよ」
プロデューサーさんは、ふっと視線を上へやった。
私もまた、彼女と同じようにして空を見上げる。
名前も知らない鳥が視界の端から端へと一直線に横切っていった。
「どこまでも突き抜けるような空の高さに対応するようにして、自分のいるところを海底に見立てるんだ。すると次に連想されるのは、たとえば水圧だ」
「それは重力に対応するんすかね」
「そうだね。あとは酸素がないことからくる息苦しさなんかかな。いずれにせよ不自由なことばっかりだ」
「なんだかつまんないっすね。せっかく海の底にいるのに」
「私もそう思う。だから、あさひの出した比喩は面白いんだ。空の向こうに大量の水を浮かべて、そこで終わりだ。私たちの環境自体は何一つも変わらない」
「それが面白いんすか?」
「私にとってはね。毒にも薬にもならないような比喩が堪らなく好きなんだ。それに該当しない表現が嫌いだってわけでもないけれど」
「初耳っすよ、そんなの」
「初めて言ったから、そりゃね」
プロデューサーさんは背を浮かせるようにして、そのままベンチから立ち上がる。
それから半分くらい中身の残ったペットボトルに小さく口をつけた。
「もう行くんすか?」
私は尋ねる。
「ああ」
と彼女は頷いて、手元の腕時計をみた。
「時間はまだあるけれど、ずっと座っていたら身体が冷えて仕方がない」
たしかに話し始めた頃に比べれば、外気は幾分か冷え込んだような気がする。
というよりは、身体を動かしていなかった分、私の全身から熱が奪われていったという説明のほうが適切だろう。
現に、ここに来たときからずっとボール遊びをしている子どもたちは、いまも元気そうに走り回っている。
「そっすね」
私は頷いて、若干の勢いをつけて立ち上がった。
すっかり冷えた指先を擦り合わせて、ふうっと息を吹きかけてみる。
重なった皮膚を一瞬だけ覆った熱は、しかしすぐにどこかへと消えていく。
そんな当たり前に私はため息を一つ吐いて、仕方なく両手をポケットに突っ込んだ。
最初の一歩を踏み出したのは、プロデューサーさんのほうが早かった。
その背中を追いながら、私は好奇心で訊いてみる。
「プロデューサーさん」
呼びかけられた彼女はすっと立ち止まり、こちらを振り返る。
まるで作り物みたいに澄んだ瞳が私のほうへと真っ直ぐに向けられて、そうして目が合った。
私はつい笑って、それから言った。
「プロデューサーさんには、青空の水槽がみえたっすか?」
彼女が何と答えるのかは、何となくだけれど予想がついていた。
それでも私は尋ねた。
理由なんて特にない。
あったのは、だから、ただの好奇心それだけだ。
遠くのほうで誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた。
彼女が次に口にする言葉を決して聞き逃さないように、私は一層耳を澄ませて待つ。
子どもの笑い声に、耳元を掠めていく風の音。
こうして意識を集中させてみれば、色んな音がいたるところから聞こえてくるのが分かる。
彼女の声はそんな様々のちょうど隙間を狙ったように、何物にも遮られることなく、ただ真っ直ぐに私のもとへ届いた。
「どうだろうね」
彼女はわずかに首を傾げて、口元に微かな笑みを浮かべた。
こんなにも冷たい冬の中で、まるで春の陽気に思いを馳せているような、穏やかで柔らかい笑顔だった。
その妙なちぐはぐ感がなんだか可笑しくって、私も笑い返す。
「プロデューサーさんなら、そう言うと思ってたっすよ」
そして、私たちはまた歩き始めた。
この後はテレビ局での撮影の仕事が入っていて、公園からは少し歩く。
一〇分か、一五分くらい。
電線のない街からは澄み切った冬の空がよくみえる。
向こうに着くまでの間、だから退屈することもなさそうだ。
終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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