いつかの月が君に微笑む (34)
深夜の鎌江浜には絶世の美女の幽霊がいて、暗闇の海へ人を誘う。
そんな言い伝えをばあちゃんから聞いたのは、まだ俺が小学生だった頃だ。高校生にもなってそんなものを信じているわけではないけれど、当時は親と一緒でも夜の海には近付かないように気をつけていた。
夏休み初日にこんな深夜に海辺を散歩しているのはとても浅い理由がある。
「あの噂、本当かどうか確かめようぜ。毎日一人ずつ、海辺に行って確認しようぜ」
幼馴染の佐々部の発言だ。幼馴染と言っても、狭い岸辺島にいる同級生は十人程度で、高校全体でも三十人はいないくらい。学校全員が幼馴染と言っても過言ではない。つまり、学校全員がそれをしてしまえば、夏休み期間はほぼ毎日確認をすることができる。大がかりな話にしたものだ。
ともあれ、佐々部の提案をなぜか全員が受け入れてしまい、今日が俺の出番になった。娯楽の少ない田舎では、こうやって自分達で何かを考えないと遊ぶこともできない。夏休みにできることで思いつくのは、他には釣りと、来週に開かれる夏祭りくらいだろうか。
つまりは、俺もかなりの暇人ということだ。暇つぶしには、まあ悪くない。
街灯もない夜の砂浜は今でも少し不気味で、親のお古のスマホで足元を照らしながら歩いて行く。島の中は携帯圏外で、島外に働きに出ている父親が買い換えたものをおもちゃで使っている。
佐々部の指定した浜辺を端から端まで進んで行った、そこで。
遠目に一か所、堤防の上が少し明るく見えた。この時間には住居以外には光るものなんて思いつかず、不審に思いつつも歩みを進めていく。
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本当に幽霊か? いやいや、そんなはずはない。
言い聞かせて足を進めると、その光は勘違いでは無く、確かに光っているのだと確信できた。いよいよ本格的に心霊現象の類かと、電波の入らないスマホをカメラモードに切り替えた。これで写真を撮って佐々部に見せてやろう。
ズームにすれば何となくそれが見えるくらいの距離まで近づいた。液晶を確認すると、
光の奥に女性のような人影が見える。まさか、ばあちゃんの言い伝えは本当だったのか。
人生で初めて遭遇する心霊現象に、緊張で少し震える手で、シャッターボタンを押した。
パシャっ。
撮影音と合わせて、ライトが光り、その人影がこちらを向いたのに気がついた。しまった、ライトでばれたか。
追いつかれると海に連れて行かれてしまう。慌てて振返って走り始めると、「ちょっと待って!」と叫ばれたことに気がついた。こんなに大声を出せる幽霊がいるなんて。
息も絶え絶えに走っているが、その幽霊も延々と後ろから「待ってって、ねえ!」と叫び追いかけてくる。どちらが先に諦めるかのレースになってしまった。
走っては少し振返り、走っては少し振返りをしていたところで、サンダルの鼻緒がちぎれてしまった。そして、そのままバランスを崩して砂浜に前のめりにこける。
「ちょっと、大丈夫?」
足音と叫び声が近くなった。ああ、俺もここまでか。父さん母さん、先立つ不孝をお許しください。
「ねえ、大丈夫?」
次はもう、叫び声ではなくなってしまっていた。確認するように話しかけ、幽霊は倒れこんだままの俺の前に回り込み、手を差し出した。
月を背にした彼女の顔がぼんやりと見えた。ああ、噂はやっぱり本当だった。
彼女は、とても綺麗な顔をしていた。初めて見る、絶世の美女だった。
「私を幽霊と勘違いした?」
事情を説明すると、彼女は笑い飛ばした。あははは、とこれまた大きな声だった。
どうやら彼女は幽霊ではなく、島外から来た人らしい。俺が心霊現象だと勘違いした光は、スマホの光だったようだ。
「電波も入らないのにスマホ見てたんですか?」
「うん、ちょっとね。あと、敬語はいらないからため口で」
並んで歩く彼女の横顔は、最初の印象から変わらず……いや、目が暗さに慣れるつれて、より一層美人に思えた。そのせいか、緊張でつい敬語が出てしまう。
「善処しま……する」
「よろしい」
楽しそうに笑う彼女は、顔の作りは大人びた美人でも、所作は同世代のものに思えた。
女性に年齢を聞くのは失礼だということくらいは知識として知っているが、大きく年が離れているわけではないのかもしれない。
「助かったわ。ホテルは無くても民宿くらいは見つかるかなって思ってたんだけど」
今日の夕方の便で岸辺島に渡って来た彼女は、宿泊地を探して島内をうろついていたらしい。しかし、それらしき看板も見当たらず、着いたのが夕方だったせいで島民とも遭遇できず、どうしたものかと悩んだ結果が堤防で夜を明かすつもりだったということだ。
「一昨年で最後の民泊が潰れましたしね」
言った後に敬語になってしまったことに気がついたが、彼女も特に指摘はしてこなかった。徐々に慣れればいいと言外に示しているのだろうか。
本当の意味で何も無いこの島に来る人なんて年に一人いるかいないかで、基本的に船に乗るのは島外で働く人たちか、家族を島に残した人たちくらいだ。純粋な島外民を対象に
するのであれば、民泊はあってもなくても変わらない。それでも唯一生き残っていた民泊も、経営していたうちのばあちゃんが一昨年に亡くなった。
昨年は誰も観光客が来なかった(俺が知らなかっただけかもしれないが)から関係はなかったけど、お客さんがもし来ればうちで預かろうというのがルールになっていた。
「えーと、お姉さん……みたいな島外のお客さんって、珍しいから」
お姉さん、と呼んだところで彼女の名前もまだ知らなかったことに気がついた。それが表情に出てしまったのか、微妙な間で察したのか、彼女は口を開いた。
「そういえば、自己紹介がまだだったよね。私は瑞穂、尾関瑞穂。あなたは?」
「和樹です。新家和樹、今年で高二」
「オッケー、カズくんね」
いつも同級生に呼ばれているのと同じ名前でも、彼女に呼ばれると少し鼓動が速くなってしまうのは男の性と言うべきか。彼女の甘い香りが夜風でたまに運ばれてくると、それだけで陶酔してしまう。都会の香りというか、この島にはない、人工的なそれに気持ちが高揚する。
ドキドキした気持ちであまり口が動かずに、彼女の問いかけにどうにか返事をするので精いっぱいだった。こんな時間に急にうちに泊まりに来て迷惑じゃないか、とか。島の全長とか、住民についてだとか。
つまらない男と思われないだろうか。島外の美女の彼女からすると、きっと俺は刺激も何もない、平凡な男に過ぎないのだろうけど。綺麗な女性に少しでも良く思われたいというのは、きっと誰もが頷いてくれる理論だ。
「尾関さんは、何で島に?」
絞り出せた言葉はそれだった。何のひねりもない。何て平凡な人間なんだろうと嫌になる。
「聞きたい?」
この島には何もない。観光地になるような自然文化も、伝承も、有名な人も。そりゃ、都会に比べたら自然は豊かだけれど、綺麗な景色が見たいと岸辺島に来る人なんてそうそういない。だからこそ、民宿も滅んだわけだ。
彼女の問いかけに首肯すると、ニヤッと笑いを浮かべてこう言った。
「身投げしに来たの」
あまり聞きなれない言葉に、その意味を理解をするまで数秒かかった。
「はぁ」
質問をしたことを後悔して、反応に困った結果がこれだ。観光名所というわけでもないが、わざわざ自殺にうちの島を選ぶというのも、真意とも捉えづらく、しかしそんなに重篤な悩みがあるのなら冗談だろうと笑い飛ばすこともできない。
「え、反応薄くない? ここ、衝撃発言のところだよ」
「都会の人って、色々あるんだろうし」
年間の自殺者が何万人、みたいな知識は授業で聞いたんだっけ。どこで得た知識かは覚えてないけれど、そういう話だけは知っている。
「カズくん、変わってるね」
「そうかな?」
そうだよー、と彼女が頷いて話は止まった。お互いに何を話していいか探りきれなくなってしまった。
「あらぁ、別嬪さんを連れて帰って」
自宅について母親を玄関に呼ぶと、母は目を丸くして驚いた。女性から見ても、瑞穂はやはり美人に見えるらしい。
初めての来客に、母は慌ただしく対応をする。二階の角の俺の隣の部屋を使ってくれ、トイレはどこ、風呂はどこ、食事は何時と説明し、瑞穂は一々それに頷いて返す。夕食がまだだった彼女のために、簡単な食事を作るらしい。それまでに風呂を済ませてくれと、瑞穂の荷物を客間に運ぶと、そのまま俺は自室に戻った。
間もなく階段を下りる足音と、風呂場からの水音が聞こえてきた。男子なら誰もがするであろう想像で、少し興奮してしまいながらも、いやいやお客さんだぞと首を振って煩悩を払った。幽霊探しに家を出た時からは想像もしていなかった状況だけど、相手が瑞穂だと思うと存外嫌な気にはならなかった。それどころか、少し楽しくすらなってくる。
母に呼ばれて居間に向かうと、簡単な食事どころか結構な食事が出来上がっていた。とりあえず、今日の俺の夕飯よりは豪華だ。どうやら、時間を考えずに張り切りすぎたらしい。
「一人で食べさせるのも何だし、話相手になりなさい」
そう言うと、再び台所へ戻って行った。普段は食パンを焼いて食べるだけの朝食だが、明日はそうはいかないとぼそぼそ呟いていた。
瑞穂を待つ間、一人で居間にいるのも何だか寂しくて、国営放送だけが映るテレビの電源を入れた。小難しいニュースが流れ始める。意味はあまり分からないが、とりあえずそのままにしてぼーっとしていると、居間の襖が開いた。
「良いお湯でした……凄い、ご馳走だ」
風呂からあがった瑞穂が、ラフな服装で入って来た。テーブルの上に並ぶものに目を丸くして驚いていると、母さんが台所から顔を出して「召し上がれ」と声をかけた。「ありがとうございます、いただきます」と礼儀正しく返し、座布団に座って手を合わせた。
「カズくんは? もう食べたの?」
「海に行く前に食べてたから」
やっぱり魚が多いの?
どちらかと言えば。でも俺は肉が好き。
育ち盛りの男の子だもんね。
海辺から戻ってくる前の沈黙が不思議なくらい、普通の会話が戻って来た。とりとめもないけど、当たり障りもない。
もう食べられないと言って瑞穂がお腹を撫でても、料理はまだ半分くらい残っていた。
「無理して食べなくて良いからね。どうせこの子の明日の昼ごはんになるんだから」
台所から戻って来た母さんがそう言うと、瑞穂も頷いて箸を置いた。
「ご馳走様でした、美味しかったです。残しちゃってすみません」
「お粗末さまでした。張り切って出し過ぎちゃったね、ごめんなさいね」
母さんが食器を下げ始めて、俺もそれに倣う。立ちあがろうとした瑞穂には「お客さんがそんなことしないの」と窘めていた。
食器を全て下げて、食後のコーヒーを出したところで、母は彼女に問うた。
「瑞穂ちゃん、どれくらいこっちにいる予定なの?」
「そうですねぇ……一週間くらい、良いですか?」
あまり考えていなかったような、生返事だった。
「良いわよぉ。でも、時間があるならどうせだったら来週末までいたら? 来週末に、お祭りがあるの」
「お祭……良いですね。うん、それじゃ、そうしようかな。ありがとうございます」
「うんうん、ゆっくりしていってね。それじゃ、私は寝るから。お休みなさい」
そう言い残すと、母さんは立ちあがって寝室へ向かった。
「優しそうなお母さんだね」
「そうかな?」
あまり他人の親と比較したことがないから分からないが、島内の平均的な母親像だと思う。
「カズくんは、明日の予定は? 夏休みなんだよね?」
「今日の幽霊探しの報告を、明日当番のやつのところにしに行くけど。それだけかな」
「一緒に行っても良いかな? 暇があるなら、ついでに島の案内もしてほしいんだけど」
「良いけど……島の中なんて、見て楽しいものなんて特にないよ」
「ううん、そんなことないから。ありがと、楽しみにしてるね」
そう言って、彼女は残ったコーヒーを飲みほした。
「ご馳走様でした。それじゃ、私も部屋に戻るね」
「うん、お休み」
二階にあがる彼女を見送って、コーヒーカップを下げると食器を洗い始めた。
父さんが島外に単身赴任をしている関係で、基本的には母さんと俺の家事は分担制になっている。と言っても、俺の担当はトイレ・風呂の掃除と、食器洗いだけなんだけど。
食器乾燥機に入れてスイッチを押し、俺も寝支度を済ませると自分の部屋に向かった。
隣の客間からはドアの下の隙間から光が漏れていて、彼女がまだ起きているらしいことが分かったが、声はかけずに自室の扉を開けた。
ベッドに潜ってしばらくしても、何だか目が冴えて眠れなかった。この数時間で、色々なことが起き過ぎて興奮しているのかもしれない。寝返りを打ちながらごろごろしていると、客間の側の壁からこつんこつんと音がした。壁をノックしているらしい。
姉弟がいたら、こんな感じだったのかな。
壁をノックし返すと、向こうからまた帰って来た。何度かそのやりとりをしているうちに、その音が心地よくなってきて、気づけば眠りの底に誘われていた。
「カズくん、朝だよ、朝ごはんだよ」
聞きなれない声が扉の方からして、目が覚めた。寝ぼけ眼でそちらを向くと、もうしっかりと外行きの格好をした瑞穂がそこに立っていた。
瞬間、昨日の夜の出来事を思い出して、ハッと目が覚めた。
「起きた? お母さん、もう家出ちゃってるよ。この時間になっても起きなかったら起こしてあげてって、頼まれてたの。降りてるね」
時計の針は9時を回ったところだった。夏休み二日目にして、既にだらけた生活を始めてしまったようだ。瑞穂が扉を閉めると、俺は寝巻から着替えて一階に下りた。歯磨き、洗顔をして台所に向かうと、いつもの食パン一枚とは違い、しっかりした朝食がそこに待っていた。
「こっちで食べなよ」
瑞穂が居間からそう声をかけてくれたので、お盆に載ったそれを運んで居間のテーブルに向かう。まるで昨晩とは立場が逆転している。
「おはよ」
「おはよう。起こしてくれてありがと」
お寝坊さんだねと笑う彼女は、昨日の夜とはまた印象が変わった。月明かり、風呂上がりという状況とは違い、メイクをバッチリした彼女を明るい場所で見るのは初めてだったが、それはもう、言葉にできないような美人だった。
垢ぬけて感じるのは、島にいないようなサラサラで長い茶髪のせいだけではない。目鼻立ちはくっきりしていて、顔の大きさはりんごくらいのようにも見える。スラッと伸びた手足に、凪で折れてしまうんじゃないかと言うような華奢な体。
容姿端麗、眉目秀麗、美人薄命……最後は違うか。とにかく、容姿をほめたたえる言葉は彼女のためにあるというような美しさだった。
「どしたの? 食べなよ」
つい見惚れてしまっていると、そんな風に促されてしまった。慌てて箸を伸ばすと、むせてしまって笑われるというオチ付きだ。
お茶を飲んで落ち着いて、やっと平常心に戻ることができた。
「今日は何時くらいから出かける?」
「んー、昼ごはんが家にあるし……昼食べてからにしようか。島を回るだけなら、たぶんそれくらいでちょうど良いし」
「ん、了解。それまでは何するの?」
「何って……夏休みの課題かな」
「えー、そっか、課題。懐かしい響きだなぁ」
「尾関さんは? 無いの?」
彼女は首を横に振って否定した。
「もう学校行ってないし」
そう言うと、彼女は段々学校の課題に興味が出てきたらしい。
「ねえねえ、ちょっと見せてよ。私でも解けるかな。どうかな」
朝食を食べあげると、彼女にそうせがまれた。自室に置いてあったプリント類を居間に持って降りて彼女に渡すと、「ペン貸して」と頼まれた。どうやら、数学に挑戦するつもりらしい。シャーペンと消しゴムを一つずつ取り出して、彼女に渡した。一方で、俺は英語のプリントを机の上に広げる。
しばらく彼女はプリントと格闘していたが、数分後には「分からーん!」と言い残して机の上に置いてしまった。それからは、時折俺の解いている問題を見ては「ああ、なるほど」と納得をしたり、「え、何で……」と呟いたりと、忙しげに過ごしていた。
そんな彼女に気を取られていたせいか、予定していたページの7割程度しか進むことは無かった。決してこれは言い訳ではない。仕方ないことだ。緊張するって、そりゃ。
宿題を片付けて、昨晩の残り物で昼ごはんを済ませると、いよいよ出発することになった。出る間際になってちょっと待ってと言われ、何事かと思うと、これでもかと言うほど隈なく日焼け止めを塗り始めた。そして、島では滅多に見ることの無い日傘を構えた。
とは言え、それで暑さを凌げるわけではない。
「暑い……」
蝉の声と合わせて何度もその言葉を呟きながらも、まずは今日の幽霊当番(謎な言葉だ)である水原の家に向かった。
道中、島のじいちゃんばあちゃん達が物珍しそうに俺たちのことを見ては、「カズ坊、悪さしちゃいかんよ」「美人に騙されるなよ」と声をかけてきた。
「悪意があるわけじゃないんだけど」
騙される、という言葉の響きが何だか嫌で、軽くフォローを入れてみる。
「ううん、むしろ、こういう感じが島だなって感じで楽しい」
俺からすると普通のことでも、彼女からすると珍しいことらしい。特に気を悪くする様子もないまま、たまに話しかけられては進みを繰り返し、水原の家に到着した。
島にはインターホンを鳴らすという文化は無い。鍵もかかっていない家の扉を開けて、彼女の名前を呼んだ。
「水原ぁ、来たぞー。いるかー?」
「はいはーい」
二階からばたばた音がして、階段を下りてきた水原は学校とは少し様子が違った。校則違反のメイクを軽くして、服もどこかにお出かけするかのような小奇麗なワンピース姿だった。
「昨日は幽霊出なかったぞ」
「そ、そっか。ところで、えーっと、後ろの人は?」
恐る恐る確認するように、俺の奥にいる瑞穂に視線を送った。
「あ、うちのお客さん。しばらく島にいるからって、今から案内するところ」
「こんにちは、水原さん。尾関です」
ニコッと笑ったのが分かった。水原も顔を真っ赤にしてしまっている。本当に、美人ってすごい。しばらく経って、水原が正気を取り戻すと口を開いた。
「島回るの、私も一緒に行って良い?」
「俺は良いけど……」
後ろで瑞穂も頷いた。
「水原、出かける予定あったんじゃないの? そんなおしゃれして」
少なくとも、ハーフパンツにTシャツを着ただけの俺よりはよっぽど。
「分かる? 分かる? ありがと!」
俺の質問には返すことなく、彼女はそう言って家を出る準備を始めた。行動で返答はノーだということを察した。そして後ろの水原も、何かを察したらしい。なるほどね、と呟いていた。
島を一周する頃には、瑞穂も水沢もすっかり仲良しになっていた。恐るべし、女子のコミュ力。
どうやら、明日は水沢がうちに遊びに来る約束までしてしまったらしい。帰り際に、明日は寝坊しないようにねと注意されてしまった。
「仲良くなるの早くない?」
「そんなことないよ、カズくんとだって、もう友達でしょ?」
首をかしげてこちらを見られると、頷くしかなかった。
家に帰ると、母さんが夕飯の準備をしていた。瑞穂が客間にあがったところで、俺は風呂掃除を始めた。新しくは無いうちの風呂を、少しでも快適に使ってもらえるようにと、いつも以上に念入りに洗って、浴槽にお湯を張った。
それが落ち着いたところで母さんが瑞穂を呼ぶ声がして、夕食の準備が終わったことが分かった。
居間には昨日と同様に、いや、それ以上に豪華な料理が並んでいた。単身赴任の父さんが帰ってくる時よりも、もっと豪華かもしれない。珍しい客人を、相当に喜んでいるようだ。
三人で声と手を合わせた。今日はよく歩いたし、お腹が空いている。美味しい、美味しいと箸が止まることなくどんどん皿の上の料理が消化されていって、気がつけば山もりだった皿が空になっていた。
母さんはその様子、を嬉しそうに眺め、時折「美味しい?」「今日は何をしたの?」と問いかけていた。
「娘ができたみたいで嬉しいわぁ」
「恐縮です」
妙に畏まった反応に、母さんは「そんなに堅くならなくて良いのよ、自分の家だと思って」と声をかけていた。
その様子を眺めながら延々と箸を進めていると、「カズだって、瑞穂ちゃんみたいな綺麗な子と一緒に遊べて幸せでしょ」と急にぶっこんできた。
「あー、あー、うん」
どんな反応をしても恥ずかしくなるような気がして、敢えて棒読みで返すと母さんは「分かりやすすぎるわよ」と笑い、それに合わせて瑞穂も笑った。顔が赤くなってしまうのを抑えるために、水を一気に飲んだらまたむせて、朝と一緒だとまた笑われた。
食事を終えると瑞穂、母さん、俺の順番で風呂に入った。
浴槽に張ったお湯を抜いて、軽く掃除をしてから寝支度を済ませ、自室に向かうと今日も瑞穂はまだ起きているようだった。
「おやすみ」
今日一日で少しは彼女との距離感も近付いたからだろうか、自然とその挨拶が口から洩れた。ドアの向こうから「お休み」と聞こえてくると、俺も自室に入って布団に籠った。
昨日とは違い、疲れているからだろうか。自然と眠りに就きそうになったところで、昨晩と同じようなコツコツ音が聞こえてきた。
微睡の中で何度か返すと、叩く音がお互いに弱くなっていった。嗚呼、明日はどんな一日になるだろう。
夜の港に瑞穂が立っていた。
「私は幽霊なの。カズくんを海の底に導く幽霊」
そう言って微笑んだ。今までに見た、子どもっぽい笑顔とは違う、暗い笑みだった。
風が吹いて、その生ぬるさを感じることがなく、これが夢だということに何となく気が付いた。
「それでもカズくんは、私と一緒にいてくれる?」
こんな夢を見るのは、彼女が身投げしに来たと口にしたせいだろうか。実際、とてもそうとは思えないんだけど。
何と言って良いか分からなくて黙っていると、彼女はもう一度微笑んだ。
「うん、カズくんはそれで良い。そのまま、幸せで良い」
その言葉を残して、彼女は俺に背を向け、そして――。
エラー起きまくってスレ3つも立ててしまってました……すみません。
このスレを更新していきます。
「カズくん! 起きろ~!」
目の前には、水原の顔がアップで映り込んでいた。昨日といい今日といい、聞きなれない声で目覚めるものだ。
水原の後ろには瑞穂が立っていて、彼女は今日もしっかりとよそ行きの格好になっていた。
「瑞穂ちゃんはとっくに起きてたよ! ほら、準備するの」
お母さんみたいだねと笑う瑞穂と、急かす水原を追い出して、着替えを済ませて一階に下りた。相変わらず豪華な朝食が用意されていて、それを持って居間に向かうと水原が非難し始める。
「え、もうお昼近いよ。ご飯食べるの?」
「食べ物を粗末にするなって教えられてるんで」
時計の針はもう11時に近く、今食べると昼ごはんはろくに食べられないだろう。しかし、母さんも今日は昼食を用意していなかったはずだ。それならば、どうにでもなる以上既に作られてしまっている朝食を優先して食べるべきだ。
水原と二人でそんなことを大真面目に語っていると、瑞穂がおかしそうに「仲良いね」と笑った。
そんなことはない、と二人の声が重なって、愉快そうに瑞穂はもう一度声を出して笑った。その笑顔からは、とても昨日の夢で見たようなことをしでかすようには思えなかった。
朝ご飯を食べ終えて、水原に急かされて家の外に出た。
「で、今日はどうすんの」
今日のプランを何も説明していなかった瑞穂へ、俺から問いかける。
「とりあえず、佐々部に昨日の報告しに行くよ。せっかくだし、瑞穂ちゃんのことも紹介してあげようよ」
佐々部か……お調子者の佐々部に瑞穂を紹介するということに、あまり俺は前向きになれなかった。これから瑞穂がうちに滞在している間、騒々しいことになりそうなことが目に見える。
そんなことを考えているとも知らず、瑞穂は水原と仲良さげに話していた。ガールズトークってやつか? 疎外感を感じながら十数分、目の前には佐々部の家がそびえていた。
「佐々部ぇー、いるー?」
「あー……水原ぁ?」
だらけた返事が家の中から聞こえてきた。夏休み二日目にして自堕落な生活を過ごしているのは俺だけじゃないらしい。
寝間着姿のまま玄関に現れた佐々部は、目をこすりながらこちらを見て何度か首を傾げながら問うてきた。
「えー……そちらの尾関瑞穂そっくりなお姉さんはどちら様?」
「あれ、知り合いだった?」
水原がキョトンとした顔で問い返した。僕も同じくクエスチョンマークを浮かべた表情で佐々部を見る。
「いや、初見。だから誰って聞いてんの」
「え、でも名前知ってるじゃん」
「いやだから、尾関瑞穂に似てるなって思っただけで、誰なんだって」
いよいよ話が分からなくなってきて、後ろに立つ瑞穂に視線を送ると、彼女は自己紹介を始めた。
「こんにちは、佐々部くん? 私は瑞穂、尾関瑞穂。たぶん、あなたの知っている」
「……っは? え、え、えええええ?!」
間抜けな寝起き面だった佐々部が、急に目を開いて奇声をあげた。かと思うと、自室に走って戻っていき、漫画雑誌を手に戻って来た。
「この?! この?!」
指さしたその表紙には、絶世の美女と評するのが正しいような美女が映っていた。名前は、尾関瑞穂というらしい。
「そう、その尾関」
「何で? ていうか、え、お前らは何、どういうこと、何なの」
いきなり落ち着きのなくなった佐々部に、訳が分からなくなった俺たち二人は、三人そろって瑞穂に視線を送った。
綺麗な人だとは思っていたけど、雑誌の表紙を飾るような芸能人だとは思いもしなかった。
「え、どういうこと、ちょっと待って、ちょっと待って」
ちょっと待ってマシーンと化した水原に、顔を真っ赤にしたまま瑞穂と雑誌を見比べる佐々部を見て、どうにか俺が落ち着いた。
「えーと……どういうこと?」
「どういうことって言われても……私、こう見えてアイドルなんだよね」
「つまり、幽霊探し中にカズが観光目当ての瑞穂ちゃんを見つけたと。で、お前んちに泊まっている?」
やけに説明調で、どうにか平静を取り戻した佐々部が言葉にした。
「そういうこと」
「てめぇこの野郎バカ野郎」
ずるいずるいとわめく佐々部が俺にモンゴリアンチョップをかましてきた。ずるいも何もない。当の瑞穂は少し慌てた様子で「やめてやめて」と佐々部の腕を抑え、それに緊張した佐々部は顔を赤くして硬直した。
「ほら、瑞穂ちゃん困ってるよ、佐々部。やめなよ」
「ご、ごめん、瑞穂ちゃん」
「おいこら俺にも謝れ」
それは嫌だ、役得野郎めと佐々部が口にしたので、もう相手にしないことを決め込んだ。
「で、尾関さんは……えーと、この尾関さんなんだ?」
佐々部が持ってきた漫画雑誌を指さすと、彼女はこくりと頷いた。
「ていうかお前ら、知らないのかよ。オゼちゃんって、今かなり有名だぞ」
「この島で知ってるのはお前くらいだろうよ」
民法放送もなく、ネット回線もないこの島で芸能人のことなんて知る機会は滅多にない。佐々部みたいに定期船で送られてくる雑誌を買ったり、島外に出た時にテレビを見たりしなければ、日常生活ではまず知り得ないことだ。
ただ、芸能人だというのであれば、彼女の美貌も何となく納得がいく。少なくとも、島外でもこの美しさが平均的なものであるということではないらしい。
「何だよ、幽霊なんかよりよっぽど楽しい思いしやがって」
拗ねたようにぼやく佐々部に、水原が「あんたのとこにも紹介しに来てあげたでしょ」とあやすように話しかけていた。まるで母親みたいだ。
「へー、そっか。アイドル……で良いのかな」
雑誌のグラビアページをパラパラめくると、最後のページに『尾関瑞穂』についてのプロフィールが載っていた。生年月日は……俺たちより二つ上か。他にもいくつか、出身地や最近の仕事についての情報が載っていた。
「うーん、アイドル……うん、そうだね」
歯切れ悪く、彼女は肯定した。
何かそれについての違和感を覚えたが、それについて考えるよりも先に佐々部が瑞穂に問うた。
「で、で、瑞穂ちゃんは何が目当てでうちの島に来たの? 観光って言ってたけど」
「うん、来週末のお祭。私、お祭ってあんまり行ったことがなくて、人が多いと声かけられちゃうし。だから、あんまり私のことを知らない人が多そうなこの島なら大丈夫かなって」
なるほど、と感心する二人を横目に、改めて疑問が浮かんできた。
瑞穂は母さんに言われるまで祭の存在を知らなかったはずだ。なのに、それを目当てとは一体。
頭に浮かんだそれは口にせずにしまっておいた。
「だから、佐々部くんもあんまり私が芸能人だって言わないでくれたら助かるな」
瑞穂にお願いされて、さすがの佐々部も頷いたようだ。
結局、その後も佐々部は瑞穂に興味津々で、夕方まで四人で延々と話してしまった。
「お祭までは島にいるんでしょ? また遊びに来てよ」
徐々に慣れてきたらしく、別れ際にはそんなナンパ文句まで言えるようにはなっていた。
「あーあ、もっと他の子たちも会わせてあげようと思ってたのに」
「うーん、でも、あんまり知り合いになると別れが惜しくなっちゃうから」
そう言って、やんわりと今後の紹介を瑞穂は断った。
水原を家まで送り届けると、「今度は釣りしようね」と声をかけてから家の中に入っていった。島での生活を教えようとしているらしい。
「ごめんな、やかましいやつばかりで」
「ううん、こんな風にフランクに話せる友達、あっちにはいなかったから」
あっち、という言葉には島外の場所、自分のいるべき場所というニュアンスを感じて、やっぱり彼女は遠い人なんだなぁと改めて感じた。
「それに、カズくんもやっと自然とタメ口使ってくれるようになったしね」
言われてみれば、と思うと少し恥ずかしいような、こそばゆいような、不思議な気持ちになった。
「いつまでも尾関さん、じゃ何だし。瑞穂で良いよ」
横から覗き込むように瑞穂が言った。
「えーと、うん、わかった」
「本当に? 呼んでみてよ」
求められてしまうと何だか恥ずかしい。女子のこと、名前の呼び捨てで呼ぶことなんてないし。水原以外も、基本的に女子は苗字で呼び捨てが常だった。
「み、瑞穂?」
少し緊張で震えながら名前を呼ぶと、瑞穂は「何か恥ずかしいね、これ」と笑った。
「ま、タメ口と同じく、徐々にで良いからさ」
どことなく満足げな表情で、瑞穂は歩調を速めた。
「さ、帰ろ」
家に帰ると昨日と同じく食事の準備ができていて、瑞穂はすっかり我が家の一員になったかのように過ごした。
まるでそうであったことが生まれたときからそうであったように、瑞穂は違和感なく我が家の一員になっていた。
「お父さんも戻ってきたら驚くだろうねぇ」
その様子を見て、母さんが呟いた。
「お父さん、島の外で働いてるんですよね?」
「そうそう、月に一度か二度、休みに戻ってくるんだけどね」
「島の外について行こうとは思わなかったんですか?」
「うーん、ばあちゃんのこともあったしね。民宿だってあるし。それに私は、ここしか知らないから」
母さんは生まれて今まで、島の外で生活をしたことがない。たまに父さんのところに行くくらいで、島外に出ようという意思はなかったらしい。
「カズくんは? 高校出たらどうしようって考えてるの?」
まだあまり、考えたことはなかった。
実家か漁師の佐々部のように、継ぐような家業は特にない。一方で、水原のように島外の大学に憧れを持ってもいない。
「うーん、まだ未定かな」
「瑞穂ちゃん、時間があるときで良いから、この子に外の話を聞かせてあげて」
母さんは俺に、島の外に出て行ってほしいらしい。島内の仕事は限られているし、これからもきっと人口は減る一方だ。若い人は残るべきじゃないと、島の大人は口々に言う。
何より、母さん自身が外の世界に出る勇気が無かったからこそ、息子の俺にはそれを見て欲しいらしい。
曖昧に微笑んだ瑞穂を見て、「気が向いたら俺から聞くよ」と告げたところで、この話は終わりを迎えた。
昼間のことといい、もしかしたら瑞穂は向こうでのことはあまり聞かれたくないのかもしれない。考え過ぎならいいけれど。
結局、その後も母さんと瑞穂は延々と話し続けそうだったから、俺は早めに切り上げて自室へ上がった。
?昨日と同じく瑞穂におやすみと声をかけて自室に戻ると、今晩は机に向かうことにした。?
?寝坊したうえに、一日佐々部と水原に捕まってたせいで宿題に手をつけていなかったからだ。自分の性格上、一日でもサボってしまうとそれが癖になってしまうことは自分で分かっていた。?
?数学の教科書を開いて、二次関数がなんだ数列がなんだと羅列された文字と数字を追いかけていく。?
?これを覚えることに意味があると思えないのは、俺が島の中のことしか知らないからだろうか。それとも、島外の学生も、数年前の瑞穂も意味がわからなくとも勉強していたのだろうか。?
?こういう時、佐々部は良いなと思ってしまう。家業の漁師を継ぐとさえ決まっていれば、自分で何かを考える必要はなくなる。とはいえ、島外に出たがっている佐々部からするとそれは違うらしいんだけど。?
?「進路か……」?
?改めて、自分が何も考えていなかったことに気がついた。選択の時は、もうすぐそこだというのに。?
?実際、島外に出るの自体は再来年の春だとしても、大学進学なり、島内で何か仕事に就くなりするなら、その決定まではあと一年も時間はないだろう。少なくとも、それまでに進学を決めずに大学に受かるほどの学力は無いと自覚している。?
そんなことを考え始めると、今度は課題のことが頭に入らなくなってきた。ダメだな、今すべきは将来を悩むより目前の数学のはずなのに。分かってはいても、漠然とした悩みを優先してしまう。
プリントの上にペンを放り、天井を向いてため息をついた。
そのまま思考をリセットするためにぼーっと天井を眺めていると、ドアをノックする音がした。
「カズくん、起きてる?」
声を掛けられずとも、それが瑞穂ということは分かった。母さんならノックをするなんて繊細なことはしないだろう。
「ああ、うん」
どうしたんだろう。毎晩夜更かしなのは何となく分かっていたけれど、こうやって部屋に来たのは初めてで戸惑うし、少し緊張もする。
よくよく考えると、この部屋にあがったことがある女性っていうのも、家族を除けば水原がたまに乗り込んでくるくらいだ。
「ごめんね、遅くに。……勉強してた?」
「いや、さっぱり分からなくて諦めてたところ。どうしたの?」
「何だか眠れなくて」
話し相手になって欲しい、ということらしい。瑞穂はベッドの縁に腰掛けて、学習机の椅子に座る俺と向き合った。
「好い島だよね、岸辺島」
「そうかな?」
「うん、私は好きだよ」
自分が好きと言われたわけではないけれど、その言葉には少しドキッとしてしまう。
「そっか。それなら良かった」
「カズくんは? 好きじゃないの?」
「うーん……嫌いじゃないけど」
生まれ育った場所だしね。とは言え、他を知らなさすぎる。好きとか嫌いとかを語れる土俵に自分はいない。
「瑞穂はどうなの? あっちのことは」
「うーん……嫌いじゃないかな」
その言葉には何も考えていない自分とは違い、色々な意図が隠されていそうな色が含まれていた。
「そっか」
と、曖昧な相槌を打つと、それからしばらく無言の時間が続いた。
「瑞穂は何で、アイドルになろうと思ったの?」
素朴な疑問だった。
進路に悩む俺に、何かアドバイスをくれないだろうかと、軽い気持で聞いたつもりだった。
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