相川千夏「青い麦」 (37)




「ねえ、ずっとしたかったことがあるんだけど、いい?」




 初共演の時、何回目かの練習が終わった後だった。
 
 控え室で私は台本を読み返しながら一連の流れを改めて確認していたときに、彼女は話しかけてきた。

 いつも快活な彼女にしては、珍しく控えめな口ぶりだった。

 どうしたの? と私が聴くと、もじもじとしながら――今思えば、とてもわざとらしいのだけど――ゆっくりとした足取りで私に近づいてきた。

 多分それは、普段の私だったら無意識に身を引いて、距離をとるような近さだったのに、私はそのまま受けいれて。

 きっと、アイドルという仕事がそうさせたのだと思う。特に相手が共演者なら。



 ともかく、彼女はいとも簡単に私に近づいて、私の視界を奪っていった。



 私のかけていた眼鏡を取ったかと思うと、それを自分にかけたのだ。





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 どうやら、やりたかったこととは、それらしい。


「ねえ、どうかなどうかな〜。眼鏡似合う〜?」

「ダメよ、度付きなんだから。目、悪くなっちゃうわよ」

「えー、平気だよー? お洒落には我慢も必要だしー」

「良くないわよ」


 取り返そうとした私の手は、宙を切った。代わりに黄金色の髪が、私の指に絡まって抜けていった。

 彼女はくるりと身を翻して私の手を避けていった。


「えへへー」


 眼鏡を掛けて浮かべた子どもっぽい笑みは、今でも良く思い出せた。

 私はそれに見惚れていて、だからそばの机に気付くのが遅れてしまった。こちらを向いたまま後ろに歩いていた彼女は、その机にぶつかると、バランスを崩して転んでしまった。


「大丈夫!?」


 私が慌てて駆け寄るが、大した事はなさそうだ。尻餅をつく形になった彼女は、恥ずかしそうに笑っていた。


「ありゃー、失敗失敗」


 彼女の顔から、私は眼鏡を取り返してかけ直した。

 はっきりとした彼女の顔が目の前に現れた。

 顔を縁取るウェーブがかった長い黄金色の髪。

 健康的な小麦色の肌に、海のようなブルーアシードの瞳のコントラストは、夏の海岸線を思わせた。




 まっすぐと私の瞳を見ながら、大槻唯はまた笑顔を浮かべた。



「やっぱり、ちなったんがかけた方が似合うね、それ」



 どうかしら。私はそう答えた。






 数日後、眼鏡屋の前を通りかかった私は、不意にあることを思いついた。

 店内に入ると、私はかけている眼鏡を指し示しながら、店員に尋ねた。


「これを度無しに作り替えることって、出来ますか」


 もちろん、と店員は答えた。

 それから少しして、レッスンが同じ日だった。二人っきりになったのを見計らって、その眼鏡を私はプレゼントした。


「いいの、ホントに?!」


 渡すときは不安だったけど、どうやら喜んでくれたらしい。


「ええ、似合ってたし」



 その眼鏡を嬉しそうにかける唯ちゃんの姿が、


 私には嬉しくて、奇妙だった。
 







 目覚めた私を出迎えたのは、不愉快な私自身だった。

 膜が私の意識にまとわりついて、思考を鈍化させていた。膜には毒も含まれているのか、染み込むような痛みも伴って、それがますます私の回復を阻害してくる。

 一体ここがどこなのか、それすらすぐには分からなくて。


(……ああ)


 分かってしまえば、どうということはなかった。

 ここは私の寝室だった。

 淡いブルーのカーテンに木目が美しいサイドテーブル。壁際の棚にはフランスで買った花瓶に私の眼鏡が並べられている。



 身にまとわる不愉快さの原因は、お酒だった。

 二日酔いだ。



 昨日はある仕事の打ち上げがあって、そこで呑み過ぎたのだ。

 プロデューサーもついていてくれたし、つい油断してしまったか。それとも。

 そのままプロデューサーに送ってもらって、その後は。

 着替えはしていないが、化粧はちゃんと落とされていた。

 でも、眼鏡はどうしてしまったのだろうか。

 寝る時はいつもサイドテーブルに置いているのに、今は見当たらなかった。もしかしたら、途中で落としてしまったのか。

 そうだとしてもプロデューサーが一緒だったら、そのことについて一言メモでも残してくれるだろうに。

 とりあえず予備の物を使おうか。私は棚に並べてある眼鏡を見て、気づいた。


 綺麗に並べている眼鏡たちの先頭に、赤いフレームの眼鏡。いつも使っているものが、そこにあった。

 普段そこに置くことはないのに。それも酔っているせいなのか。



 その眼鏡を掛けて、私は寝室を出た。




 住んでいるマンションは1DKだけど、それぞれの部屋は広々としたゆとりのある作りだった。

 ダイニングの窓際には、書斎代わりのスペースがあった。壁際には本棚があり、ソファーとミニテーブルもあって。



 そこに彼女はいた。


 ソファーの肘掛の部分を枕にして体を丸めるように眠りについている。

 カーテンからの木漏れ日はその頬と黄金色の髪をどこか神々しく照らし出していた。

 私は側に寄って、その頭を撫でる。短い声を漏らしてから、ゆっくりとブルーアシードの瞳が開いた。





「あー。おはよ、ちなったん」

「おはよう、唯ちゃん」






「今何時?」

「今は……」私も確認していなかった。壁の時計を見て時間を伝える。まだ、早朝だった。

「大丈夫、学校関係とか、お仕事は?」

「今日は両方共お休みなのー」

「そう……なら、もう少し寝てる? ベッド使って良いから」

「ちなったんの?」

「ええ」

「……じゃあ、そうしよっかな」


 ぼんやりとしたまま立ち上がった唯ちゃんは寝室に向かうと、開けっ放しの扉の向こうで私のベッドに倒れ込んだ。

 唯ちゃんは朝に弱い。あの様子なら、しばらく起きることもないだろう。

 私は体にまとわりつく倦怠感を流すために、一度シャワーを浴びた。




 シャワーから戻ると、唯ちゃんはダイニングのテーブルに座っていた。

「あら、寝ないの?」

「うん、今日はもういいや」


 とてもそうには見えない。今にも瞼は閉じそうだが。

「本当に大丈夫?」

「むー、大丈夫って言ってるでしょ〜……ふぁ」


 必死に噛み殺している。やっぱり、大丈夫には見えないが。

 ともかく、本人は起きている気のようだ。


「なら朝ごはん食べる? 作ってあげよっか」

「ホントー? さっすがちなったん♪」


 締まりなく笑った唯ちゃんに、私も微笑んだ。





 正直、朝は食べる気はなかったのだけど、唯ちゃんの為と思って簡単なものを用意する。私も胃になにか入れておいた方がいいだろう。

 近所で買ったクロワッサンが残っていた。トースターに二つ放り込んで、スクランブルエッグに焼いたベーコン。

 コーヒーメーカーから、甘いコーヒーの匂いが漂ってきた。

 私たちは向かい合って朝食をとった。

 唯ちゃんはコーヒーに砂糖とミルクを入れて、ティースプーンでかき混ぜていた。そして口をつけたが、静かに顔をしかめた。

 眠そうな唯ちゃんの為に、コーヒーを濃い目に入れていた。二日酔い気味な自分のためでもあったけど。

 唯ちゃんは砂糖を追加して、良い具合になったのだろう。何事もなかったかのように朝食を続けた。

 私もカップを傾ける。確かに、少し濃く淹れすぎた。


「でも、まだ家に残ってるなんて、びっくりしちゃった」

「びっくりしたのはこっちだからね。夜にいきなりメッセ来てさー」

「私が? 本当に?」

「マジマジ。ほらこれ」


 スマホを操作してメッセージアプリの画面を開く。確かに私は唯ちゃんにメッセージを送っていた。それも。


「なに、『わたしが』だけって?! そのあといくらメッセージ送っても返信ないしー、心配するに決まってるじゃん!?」

「ごめんなさい。酔ってたみたいで」

「知ってる。打ち上げでしょー。プロデューサーから聞いたよう」


 心配してマンションまでやって来たところで、帰ってきた私たちと鉢合わたという。

 プロデューサーは先に帰して、唯ちゃんが私をベッドまで運んでくれたようだ。

 私も寝る直前、唯ちゃんが居たような気はしたのだ。

 ただ、かなり酔っていたし、夢だと思ったのだけど。





 化粧を落としてくれたのも、唯ちゃんだった。


「でも、そのまま残ってなくたって」

「部屋の鍵どうするの。開けっぱなしで帰るわけにも行かないじゃん」

「まあ、そうね」

「……ゆいがいるの、嫌だった?」

「えっ?」


 私は面食らってしまった。どうしてそんなことを聞くんだろう。

 嫌なんてことはない。むしろ。


「そんな訳ないけど。ソファーで寝たんじゃ体も痛いでしょ?」

「どうってことないって。全然平気だよ!」


 問題ないとアピールするみたいに、唯ちゃんは力こぶを作って見せた。

 私だったら絶対に体が痛くなって、うんざりしてしまうのに。



 これも年の差なのだろうか。


「ねえ、ちなったん」

「どうしたの、唯ちゃん」

「ちなったん、今日はお仕事とかないよね?」


 私は頷いた。翌日に仕事がある時に、二日酔いになるまで飲むようなことはしない。どんなことがあってもだ。


「だったらさ、この後デートしようよ」


 唯ちゃんは出かけるときにデートという言葉をよく使う。なんだかくすぐったいけど、今では慣れてしまった。くすぐったさが完全に消えた訳ではないのだけど。


「今日?」

「だってちなったん予定ないんでしょ? ほら、ゆいも予定ないしさー。いいでしょう?」

「そうねえ」


 私はコーヒーを飲みながら考えた。

 正直、二日酔いのダルさは抜けてはいないし、出かける気分でもないのだけど。

 いつもより濃い目のコーヒーが、少しだけ私をさっぱりさせて、ちょっとだけ私を前向きにさせた。



「唯ちゃんは何処に行きたい?」


 唯ちゃんの顔に、満面の笑顔が咲き誇った。








 一度家に帰った唯ちゃんと、駅前で改めて待ち合わせをした。

 待ち合わせ場所には、少し早く来てしまった。読みかけの本も持っていたし、それを読みながら待とうか。

 本を取り出しながら駅から出てきたけど、人混みの中を歩いてくる輝く少女に気がついた。

 今朝とは違い、装いもかわり、伊達眼鏡をかけて。たぶん、それを取りに戻る意味もあったのかもしれない。

 デートのときは、よくそれをつけていたから。

 予想より早く現れた唯ちゃんに私は驚いたが、唯ちゃんの方も私が居ることに驚いていた。


「ちなったん早くなーい?」

「唯ちゃんも。もう来たのね」

「うん♪ 先に来てちなったんが来るの、待とうと思ってたのに」

「だから早く?」

「そうだよ。待つのは好きじゃないけど、ちなったんは別枠だから」

「なら、悪いことしちゃったわね」


 私は本をバックに戻した。


「それで、今日はどうするの?」


 待ち合わせ場所だけ決めて、何処に行くかは結局決めてなかった。


「カラオケでも行く?」

「カラオケもいいけど、今日は水族館なんてどうかな!」

「水族館?」


 悪い提案ではないが、この辺りの水族館は待ち合わせた駅から数駅先だ。


「じゃあ、また電車で移動する?」

「それだけどさあ、今日は歩かない? ほら、時間はまだあるでしょー」

「そうね……」


 そもそも起きた時間が早かった。それから朝食を食べて、そのまますぐに待ち合わせ。

 ゆっくり歩いても、水族館にはお昼過ぎにはつくだろう。


「いいわね、そうしましょ」




「やった! ほら、行こうよちなったーん!」


 嬉しそうに歩き出した唯ちゃんの後を、私も付いていった。

 歩きながら、私たちは近況を語り合った。唯ちゃんは、最近は友紀ちゃんとロケの仕事があったという。


「友紀ちゃんと一緒のロケも楽しいんだけど、はしゃぎすぎるんだもーん。食べレポとかそっちのけで野球グッズみたりしてさー。何度もビールを呑もうとするし」

「大変だったわね」


 私はくすりと笑ってしまった。唯ちゃんも天真爛漫だけど、友紀ちゃんはもっと自由だ。そういうときは、唯ちゃんがブレーキ役に回るという。

 唯ちゃんも、意外と世話焼きだ。

 思えば、昨日だって酔ってる私を寝かせてくれたのは唯ちゃんだった。

 私は昨日打ち上げがあった番組について語った。地方局でやっているフランスの紹介番組だ。

 サブレギュラーとして出演させてもらっていた番組だったが、それが終わったのだ。

 だが、すでに後続番組も決まっていて、幸いにも私はそちらにも呼ばれることになっている。


「凄いよね、ちなったん、あんな番組に呼ばれるなんてさ」

「たまたまよ。フランスに少し詳しかったから」

「フランス語もできるもんね。ボンジュール、ちなったん!」

「ボンジュール、唯ちゃん。イン・フェ・ヴォ・ジョールディ」

「ミートゥー!」

「いい天気って言ったのよ」



 その通り、今日は素晴らしい天気だった。





 秋晴れの下、程よい気温。

 唯ちゃんは良い提案をしてくれた。歩くのにはもってこいの天気だったから。

 少し雲が出てるけど、それも風景のいいアクセントだった。

 寒いけど寒すぎず、身を縮めないで気ままに歩ける温度。微かに色めいてきた街路樹は艶やかに街を彩っていた。

 ときおり吹く風も、鋭さはなく優しく街を撫でていく。

 年にそう何度もない、散歩日和だ。

 最初は線路沿いを歩いて、それから地図アプリに目を通しながら道を進んでいく。



 細い路地を通り抜けると、ある商店街の中程にぶつかった。

 古き良き、といえばありきたりだけど、この都心のなかであってもまだ下町の匂いが残るような商店街だった。

 シャッターが下ろされた店も目についたけど、それは時間のせいもあるだろう。

 よく見れば新しいお店もいくつか入っている。

 雰囲気や見た目は変わらずに、しっかり新陳代謝の進んでいる商店街だった。


(ここって……)


「ここ、前にちなったんがなんかの番組で来てなかった?」


 キョロキョロと見渡しながら、唯ちゃんが言った。その通りだ。

 以前、ある散策番組で通りかかった商店街だった。


「ねえ唯ちゃん、少し寄り道していいかしら?」

「寄り道? いいよー! でもどこに?」

「少しね」




 目的の駅とは逆の方向に、歩を進める。

 辿り着いたのは、小さな古書店だった。

 白いタイルの外装に入口にはプレートで作られた書店名がさがっている。入口脇のワゴンには特価品が並び、文庫や新書に混ざって洋書も置かれていた。


「こんにちは」


 声をかけながら、私は店の中に足を踏み込んだ。奥に進んでいくと、カウンターが目に入ってきた。そこでは店主である老人が、私の声に反応してか顔を上げていた。

 老人は不思議そうに私の顔を見てきていたが。


「貴方確か、前になにかで来なかったっけ……ほら」

「はい。テレビの番組で」


 以前のロケでも、このお店に立ち寄っていた。


「そうか。今日もテレビなの?」

「いえ、プライベートで。見せて貰っても?」

「御自由に」


 柔和な笑みを浮かべた老人に、私も笑みを返した。

 振り返ってみると、唯ちゃんが棚に並ぶ本を興味津々に見上げていた。

 唯ちゃんが見てたのは、古い歴史書などだった。


「すっごいねー、ここ」


 本屋という場所がそうさせるのか。他にお客さんの姿は無いが唯ちゃんは声を潜めるように言った。


「ちなったん、なにか欲しい本とかあったの?」

「そういう訳じゃないけど。こっちきて」


 私は手招きして、一番奥に唯ちゃんを呼んだ。

 そこの一面には、大きさも厚さも材質も、そして言語すらバラバラな本が、一見無作為に並んでいた。


「えーっと、英語? これ?」

「英語もあるし、イタリア語やフランス語のもあるわ」


 この古書店は洋書の取り扱いが多かった。

 それが記憶に残っていたから、また来たいと思っていたのだ。

 最近の出版物や流行り物以外にも、古典作品も満遍なく取り揃えてある。後でネットで調べると、一部では有名な本屋のようだった。




「ふーん、いいなあ。ゆい、海外の本なんか読めないもん」

「読みたい海外の本を探すのも結構大変なのよ?」


 洋書で読みたい本が、日本国内で手に入るならまだいい。

 でも古い本だとそうもいかないし、ネットで取り寄せるにしても、時間がかかったり、想像以上の値段になってしまうことも多い。

 電子書籍を使い始めてから、いくらか楽になったのだけど、本という媒体で読むのもやはり好きだった。

 私は改めて本棚に目を向ける。前にきた時から、棚の中身はだいぶ入れ替わっていた。

 新しい本の中には、丁度気になっていた本があった。

 ジジという本の原語版だ。戯曲にもなり、映画化もされている作品だった。

 他にももう一冊本を手にレジへ向かおうとしたら、唯ちゃんが丁度買い物を終えていたところだった。


「唯ちゃんも買ったの?」

「ゆいもたまには名著って奴? でも読もうかなーって」


 少し意外だった。一緒に出かける時、古書店に寄ることはたまにあった。

 でも、そういうとき、買うのはいつも私だけで、唯ちゃんは見てるだけだったのに。

 唯ちゃんが買ったのは、お札の顔にもなった有名な作家の、猫を主人公にした本だった。


 なんだか唯ちゃんらしい本だ。



「ちなったん、この本は読んだことあるの?」

「ええ、いい本よ。面白いし」

「じゃあさ、ゆいが読み終わったら感想言いあいっこしようよ!」

「楽しみにしてるわ」


 軽快な内容で読みやすい本だとは思うけど、それはいわゆる古典に比べたらだ。

 唯ちゃんはいつ読み終えられるか。

 とはいえ、私も読んだのはだいぶ前だった。一応、読み直しておこうか。

 どんな感想が聞けるのか、今から楽しみだった。







 店を出てから、もう少しその商店街を見て回ることにした。

 歩いているだけで、楽しくなるような商店街だった。

 新しいお店と古いお店が混じり合い、互いに切磋琢磨して活気ある空気を生み出していた。

 様々な所から芳しい香りが漂ってきて、小腹が空いてきてしまった。


 それは唯ちゃんも一緒のようだ。


「うー、なにか食べたくなっちゃうねえ」

「ホントに。なにか買ってく?」

「いいかもー……あ、あれは?」


 唯ちゃんが立ち止まったのはクレープ屋だった。こちらは最近入ったばかりの店のようだ。以前来た時には見た覚えはない。

 ナチュラル志向を謳っているけど、飾り付けも綺麗で、値段はお手頃だ。

 唯ちゃんは苺味を、私はブルーベリーチーズにした。


「あー、食べるの待って待って」


 唯ちゃんはスマホを取り出すと、カメラを起動してから私と並んだ。

 ふんわりとした唯ちゃんの髪が頬に当たって、少しくすぐったかった。


「ほら、ちなったん。クレープちゃんと持って」

「はいはい」


 私が見せるようにクレープを持ち上げると、唯ちゃんも乾杯するみたいにクレープを近づけてきて、写真を撮った。

 スマホの画面を見て、唯ちゃんも満足そうだ。


「いい感じじゃーん」

「それ、SNSに上げるの?」

「えっと、うーん、どうしようかな。後で考える」


 なんだか困ったように唯ちゃんは笑った。




 どうしたのだろう。唯ちゃんはよく自撮りをSNSにあげているのに。

 私も積極的にSNSは使っているけど、それでも頻度は唯ちゃんには遥かに届かない。

 クレープを食べながら商店街を通り抜けていく。少し道筋から逸れてしまったので、改めて地図アプリを見ながら進んで行った。

 そうしているうちに、お昼の時間になった。水族館までは、まだ少し距離がある。


「水族館に着いてからご飯にする?」

「うーん、でもなあ。歩いててちょっと疲れちゃった」


 都心であっても、数駅分歩いたのだ。疲れているのは当然だ。結局、ご飯を食べることにした。

 私たちは、丁度目についたイタリアンに入ることにした。


「唯ちゃん、これ見てよ」


 開いたメニューに載っていた写真を彼女に見せる。

 ある飲み物の写真だ。秋の夕暮れをモチーフ煮したドリンクだった。

 グラデーションを描いた赤い炭酸の中に紅葉を象ったゼリーが浮いていた。


「これ、めっちゃキュートだよね! 頼んじゃう?」

「ええ」


 飲み物はそれを二つ、それからパスタとドリアをそれぞれ頼んだ。

 実際にやってきた飲み物も、写真に負けないぐらい可愛い飲み物だった。

 唯ちゃんは写真を撮って、私もスマホのシャッターを切った。


「そうだ、ちなったん、眼鏡ちょっと貸してー」

「いいけど、どうして」

「いいからいいからー」


 私は眼鏡を渡すと、唯ちゃんも自分のかけていた眼鏡を外して並べてテーブルにおいた。

 それから、飲み物をその脇に並べておく。



「えへへー映える感じじゃん?」


 楽しそうに写真を撮っている唯ちゃんに釣られるようにして、私もその写真を撮った。




 唯ちゃんはそのままスマホを操作していた。

 こちらの写真はSNSにあげるのだろう。

 でも、唯ちゃんの手は途中で止まると、スマホをうつ伏せにして机に置いた。


「投稿しないの?」

「また今度にしようかなあ、あはは」

「そう?」


 唯ちゃんの態度になんだか引っかかったけど、注文していた料理が来たので考えは打ち切られた。




 食事を終え会計を済ませてから、お手洗いに行った唯ちゃんより先に私は店を出た。

 待っている間に、SNSに目を通していた。唯ちゃんはやはり、先ほどの写真を投稿していなかった。

 唯ちゃんが投稿しないなら。

 私は先ほどの写真と共に、少し考えてから一言添えて投稿した。





『唯ちゃんとデート中』









 それから、私たちはまた歩き出した。

 先ほどまで良い天気だったのに、いつのまにか空には雲が多くなり始めていた。

 秋の空は変わりやすいと言うけれど。それに合わせて、少しだけ気温も下がったように感じられた。


「曇ってきちゃったねー」

「ね。雨、降らないと良いけど」

「どうかなあ」


 唯ちゃんはスマホを取り出した。

 天気を調べようとしたのだろうが、その時、唯ちゃんのスマホが鳴り響いた。


「やばっ」


 短い声を漏らしてから、困ったように唯ちゃんは笑った。


「ごめん、ちょっと電話」


 誰から? と尋ねる前に、唯ちゃんは私から距離をとって電話に出た。

 立ち止まって、私も電話をしている唯ちゃんに目を向けていた。

 なにか、謝っているようだ。行き交う車の音の合間に、唯ちゃんの声が届いてきた。





「っと、今日はゴメンって……今度埋め合わせするからさ……」






 電話を切った唯ちゃんが、 私の方へ戻ってきた。


「ゴメンゴメン」

「誰からだったの」

「えーっと、美嘉ちゃんだよ。ちょっとね」

「そう?」

「大したことじゃないから」


 私を引っ張るように歩き出した唯ちゃんに、私も並んで歩き出した。


「美嘉ちゃんはなんて」

「別に? 本当に大した用じゃないんだって」

「謝ってたみたいだけど、なにか怒らせることでもした?」

「まあそうかなあ、本当に大したことじゃないんだって。もう良いでしょ」





「もしかして、今日は美嘉ちゃんと遊ぶ約束があったとか?」

「……それは」


 どうやら、図星だったようだ。



 





 変だと思ったのだ、写真を撮ってSNSに上げないだけならまだしも、そのことを聞いた時、妙に歯切れが悪かった。


 上げられる訳がなかったのだ。

 本当なら美嘉ちゃんと約束をしていたのに、私と一緒だったのだから。

 先ほどの様子から、きっとなにか嘘をついていたのだろう。

 ところが、私がSNSに上げてしまったから、美嘉ちゃんに知られてしまったのだ。


「唯ちゃん、私と一緒に出かけてくれるのは嬉しいけど、友達との約束は大事にしなきゃ」

「それは、そうだけど……」

「そうだけど、なに?」

「……そんな言い返し、なんか意地悪じゃない?」

「……そうかもしれないわね、ごめんなさい」



 会話が切れて、私たちは歩いていた。


「ちなったんも、大事な友達だよ?」

「それはわかってるけど」

「ホントに?」

「でも、美嘉ちゃんも大事な友達でしょ?」

「うん」

「なら、やっぱり約束は大事にしなきゃ。無理に付き合ってもらわなくてもいいんだから」



「無理なんかしてない」

 私は息を飲んだ。



 その声は、どこか泣きそうなように聞こえたから。







 立ち止まった唯ちゃんの揺れる瞳が、私を射抜いていた。


「なんでそんなこと言うの? ゆい、無理なんか全然してない。ちなったんと居たいから一緒にいるの。ちなったんは違うの?」

「私だって、唯ちゃんと一緒にいるのは楽しい。けど、そういうことじゃ」

「どういうことなの? ねえ、どういうこと?」

「それはだから……」


 なにか会話が噛み合わない。そのことが、言い知れぬ不安になって私にのしかかってきた。

 必死に考えをまとめながら、言葉を探す。


「ともかく、私は唯ちゃんと一緒にいて楽しい。でもそれとこれとは違うの」

「ならなんで、昨日あんなことを言ったの?」

「あんなこと?」


 唯ちゃんは目を伏せた。小さく唇を結んで、なにかを言おうか言わないか悩んでいるようで。





「……寝る前だよ」



 それでも、唯ちゃんはゆっくりと口を開いた。



「『私なんかと居なくていい』とか……そんなこと」



 私は心臓が止まるかと思った。
 









『相川さんと唯ちゃんって、どうして仲がいいんですか?』




 それは昨日の飲み会でのことだった。お酒の進んだ席で、スタッフさんの一人がそう言った。

 それに他のスタッフも何人かが同調してきた。


『確かに、ずっと不思議だったんですよね。だって、共通点もなにもないじゃないですか』


 私も曖昧に同意しておいた。呑みの席だし、適当にあしらおうと思って。

 それがいけなかったのかもしれない。


『もしかして、無理に一緒にいたりしません? 営業って奴』

『そんなことないわ。一緒にいて楽しいから』

『相川さんはそう思ってても、唯ちゃんはどうですかね。ギャル系じゃないですか。ファン層を広げるために敢えて相川さんと一緒にいるとか』


 私は呆気にとられてしまった。

 そんな風に見られているだなんて、思ってもいなかった。


『あの年頃の子ですよ。普通なら、同い年の子と遊ぶのが一番楽しいに決まってるんじゃ』

『それは……』


 呆然としている私とスタッフさんの間に、プロデューサーさんが割って入ってきた。


『ちょっと皆さん、飲み過ぎですよー』 


『怒んないでくださいよ。そうかもって思っただけですから』



 そこで、その話は終わりになった。だけどその話が、私はずっと引っかかっていた。

 それで気がつけば呑みすぎて、そして。

 呑みすぎたのは、その言葉にショックを受けたからではない。





 きっと、私自身も、どこかでそうだと思っていたから。










 つまらないメッセージを送ろうとしたのも、それが理由。

 やめたつもりだったのに、誤って送信していたようで。

 でもまさか、自分も覚えていないうちにそんなことを言うなんて。


 迂闊だなんて言葉では足りなかった。



「あれは、その……ちょっとお酒を呑みすぎちゃって」


 また迂闊だ。お酒のせいだとか、そんなので許される言葉ではないのに。




 ほら。唯ちゃんにそんな顔をさせてしまって。



「思ってなきゃ、そんな言葉出てこないでしょ」

「……そうね」


 これ以上、なにを言っても言い訳にしかならない。私は認めるしかなかった。


「唯ちゃんと一緒にいていいのか、考えちゃって。唯ちゃんだって、美嘉ちゃんたちみたいに、歳の近い子といた方がいいんじゃないのかしら」

「アタシは、ちなったんとも居たいの」

「分かってる。でも、貴方ぐらいの歳って、とっても大切な時期なの。まだ分からないだろうけど。アイドルだなんて、ただですら年上の人と過ごすことが多いじゃない? なら、プライベートは少しでも有意義に使って欲しくて」

「……ちなったんは、ゆいと一緒に居たくないの?」

「そんなことはない……ただ」


 少し考えて、私は言った。



「誰かとの約束を破ってまで、一緒にいてほしくないわ」







 どうして、こんなことを言ってしまうのだろう。

 唯ちゃんを傷つけたくなんかないのに、そんな思いは余りにも無意味で。


 唯ちゃんが、きっと美嘉ちゃんとの約束を破ってまで私と居たのは、昨日の言葉を聞いたからだろう。

 不安になって、だから一緒に居ようとした。


 自分が破らせたようなものなのに、なんでそんなことを言えるのか。


「ゆいは……」


 そう言ったっきり、言葉は出てこなかった。また口をつぐむと、唯ちゃんはその場で顔をうつむけてしまった。


「……ごめんなさい」謝るのなら、あんなこと言わなければ良かったのに。


「……今日は、もう解散する?」


 唯ちゃんは首を振った。


「じゃあ、行こっか。水族館」








 水族館のある駅につくまでの間、私たちは会話を交わさなかった。

 私が先導するように歩き、その後に唯ちゃんがついてくる。

 途中、信号が赤に変わったことに気づかないで渡りかけて、クラクションを鳴らされてしまった。


「ごめんなさい」


 驚かせてしまったと、今日何度目かの謝罪を唯ちゃんに言った。

 唯ちゃんは、先ほどのように首を振った。


 水族館のある駅に着いた時だった。

 いつのまにか、そう形容するのが正しいほど、気づけば空から雨が降り出していた。本当に薄い膜のように振り降りる雨だった。

 大して降られている気はしないが、油断をすればあっという間にびしょ濡れになりそうだった。


「唯ちゃん」



 私は、本当に無意識だった。



 降られすぎてはいけない、早く水族館に行かなければと思って、だから私は、自然と唯ちゃんの手を取った。

 私と唯ちゃんは僅かな間、互いに視線を交わした。




「……急ぎましょう」

「うん」



 私が手を引く形で、小走りで雨の中を走っていく。





「ふふっ」


 そう、笑い出したのは、どちらからだったろうか。

 きっと、唯ちゃんが先だったと思う。きっとそうだ。

 片方が笑ったからもう片方も釣られてしまって。




 気づけば、私たち二人は笑いながら雨の中をかけて行った。







 チケットはそれぞれで買って、私たちは水族館に入った。

 本当は私が唯ちゃんの分も買おうとしたけど、彼女が遠慮したから、自分の分だけにした。

 そんなことで、今は言い合いをしたくなかったから。



 水族館は都会の喧騒から切り離されて、なんて言うのは大げさだ。

 思ったより人は少ないと言っても、やっぱり人はいる。

 でも、その人の多さが私たちを単なる風景に紛れ込ませてくれた。


 水族館は、最初は小さな生き物のエリアから始まった。

 個々の生き物たちが小さな水槽に小分けして展示されている。

 カクレクマノミなどの有名な熱帯魚やニチリンダテハゼなどの小さな魚たち。



 それにウニだ。


「うあぁ、ウニだよちなったーん」


 唯ちゃんは一際刺の長い、ガンガゼというウニの水槽を屈むように覗き込んだ。私も並んで水槽を覗き込む。


「あ、あそこにもいる。ほら、岩の奥の」

「本当ね」

「えっとー、『ウニは棘皮動物門というグループに属しており、ヒトデやナマコと同じグループに属しています』、だってー」


 唯ちゃんは脇に添えてあった説明文に目を通した。


「ちなったん知ってた?」

「うんうん。全然知らなかったわ」

「ちなったんも知らないんだー」



 なんだか楽しそうに笑っていた唯ちゃん。

 私も笑みを浮かべた。




 次はクラゲのエリアだった。

 水槽いっぱいに泳ぐミズクラゲや、小さな体を小刻みに動かし、魚のように動き回るカラージェリーフィッシュ。


 唯ちゃんが特に気に入ったのは、ベニクラゲだった。

 本当に指先ほどの小さな体で、円形の水槽の中をぐるぐると回り続けていた。

 私の一番のお気に入りは、アカクラゲ。絹のように細い足を弛ませながらゆったりと泳いでいる。


「でも、ベニちゃんの方が可愛いくない?」

「そうね。とっても可愛いわ。でも、アカクラゲも優雅で素敵でしょ」




 その次のエリアだった。

 こじんまりとした水槽が並んでいたエリアからは一転した。

 先ほどよりも薄暗く、小さなホールのようで、天井も遥かに高くなった。

 光源となっているのは、薄暗いエリアの壁一面からもたらされる青い煌めき。


 メインの一つである、巨大な水槽からだった。



  息を飲むほどに美しい光景だった。






 海の中の草原を群れをなして飛び回るのはハマフエフキ。

 その群れには、別の赤い魚も何匹も同時に泳いでおり、一つの群れの中に別の色が混じっているのは、少しだけ『スイミー』を思い出させた。

 その合間をホシエイが緩やかに泳ぎ、他にもアオノメハタやセンネンダイ。

 地面を這うように大きなウツボ。そして二頭のアオウミガメに、


「うわ、サメもいるじゃん!?」


 と、唯ちゃんが指差した方を見ると、そこには小型のサメも泳いでいた。


「ツマグロっていうサメみたいね」


 私は枠の脇に置かれている説明から、そのサメの写真を見つけた。


「サメなのマグロなのー? 変なのー?」


 おかしそうに笑っていた唯ちゃんだけど、その表情がすぐに変化した。


「でも、サメなんかいて他のお魚さんは大丈夫なのかなあ。食べられたりとかしないの?」


「どうかしら。こういう大型の水槽だと、サメには餌をあげなくていいって聞くけど」

「どうして?」


 首を傾げていた唯ちゃんだったけど、


「えっ」と、何かに気づいたように言葉を漏らすと同時に、目を丸くした。




「それってやっぱりそういうこと?! ヤバ?!?! 嘘でしょ!?!?!?」

「ええ、冗談よ」



 キョトンとした唯ちゃんに、私はつい吹き出してしまった。






「ちょっと、ちなったーん?」

「ごめんなさいね、つい」

「むー、意地悪」


 膨れっ面になりながら私を睨みつけてくる唯ちゃんは、可愛かった。


「あっ」


 唯ちゃんの視線が私からはずれると、吸い付くように水槽の中を覗き込んだ。

 どこか不安げなその表情の向けられている先。

 サメが一匹のウミガメのそばに近づいていた。

 もし、あのウミガメにサメが噛み付いたとしたら。



 でも、そんなことはなかった。

 それどころか、ウミガメの方はサメにペースを合わせたかのようにスピードを上げて、二匹は並んで泳いでいるようにも見えた。

 その様子を見て、唯ちゃんも安堵していた。


「はあ、びっくりした」

「サメがウミガミを食べちゃうと思った?」

「だってー、ちなったんが変な冗談を言うから悪いんだから」

「ふふ、大丈夫よ。きっと同じ水槽で長い間過ごしてるんだから」



 実を言えば、唯ちゃんにつられて私も少し緊張したのは秘密だ。






 ウミガミとサメは、まだ寄り添うように隣り合って泳いでいる。




「……あのサメとウミガメ、なんだか私たちみたいね」




「そうかなー?」


 唯ちゃんはピンと来ないようだった。


「どっちがサメでどっちがウミガメなの?」

「強いて言うなら、唯ちゃんがサメかしら」

「えー、ゆいあんなに怖くないよ〜。あ、でも歯の頑丈さは自信あるけどね」


 ニッと見せつけるように唯ちゃんははにかんだ。私は微笑を返した。


「だって、あの二匹って、自然の中にいたら、絶対にああやって過ごしてなかったと思うの。それがこの水槽で過ごしたからこそ、ああやって仲良くなれたんだもの。私たちも、アイドルっていう水槽の中で一緒に過ごしたから、仲良くなれたじゃない?」


 私たちは、あまりに互いが違っていた。

 好きなコトもモノも仲良くなるアイテもなにもかも。

 
 性格だって。

 私はどちらかと言えば、他人と距離を取るタイプだ。

 一方の唯ちゃんは誰に対しても距離を取ることはしない。すぐに懐に入ってくるタイプだった。



 その上、年だって。




 だから私は、時折不安になってしまう。

 ここまで共通点がないのに、どうして私たちは仲良しなのか。



 そんな図星を、昨日の呑みの席で突かれたのだ。






 でも、難しく考えすぎている。

 あの優雅に泳ぐ二匹を見て私は思った。

 同じ一つの水槽の中にいたからこそ、こうやって出会えて、仲良くしている。

 それほど分かりやすい理由なんてありはしないのに。



 それで十分じゃないか。



「確かに、ゆいとちなったんって全然違うよね。ちなったんは勉強できるし、目も悪いし」

「目が悪いのは余計よ」

「だけど、ゆいはさ、ちょっと違う気がするなー」

「そう?」


 唯ちゃんは私の方を向いたまま水槽に背をゆっくりと預ける。

 そんな唯ちゃんが気になったのか、一匹の大きな魚がーーウツボだーー唯ちゃんの背後に近づいてきた。






「ちなったんの言い方じゃ二人ともアイドルだったから、仲良くなったみたいじゃん。でもゆいたちなら、アイドルじゃなくたって、絶対友達になれてたもん。だってさ」



 唯ちゃんは後ろで組んでいた手で叩くように水槽から体を離す。

 まるでスキップでもするかのように。


 それに驚いたのか。ウツボが急に動き、合わせるように旋回していた魚たちも色めきだち。


 水がかき混じり、唯ちゃんの背後の水槽は、小さな気泡で一面が覆われてしまった。


 突然のことに、周囲の客は驚いたり歓喜を上げながら水槽に魅入って。

 その中でも唯ちゃんはまっすぐと私を見ていて。





「ゆい、ちなったんのこと大好きだから!」 




 彼女の背後、水槽一面に広がる気泡のスクリーンは、まるで青い麦の畑のようだった。







「こんなに一緒に居たいって思うのはさ、大好きだからだもん。アイドルだからとか、そんなのはどーでも良くてさ。確かにアイドルになれたからゆいたちは会えたかもだよ? だけど、アイドルになってなくてもさ、きっとバイト先とか、引っ越した先とか、カラオケの受付とか。どこかで出会って、絶対友達になってたよ、ゆいたち!」



 唯ちゃんは気持ちいいぐらいに言い切った。


 でも、きっとゆいちゃんも信じ切れてないのかもしれない。自ら言って、信じようとしているだけで。


(ああ、そっか)

 どうしてそのことに気づかなかったのだろう。



 唯ちゃんも、私と同じ不安をずっと持っていたのだ。

 お互いが余りにも違いすぎることを。だから心配して、不安になって。

 私の失言だって、軽く受け流せばよかったのに、できなかった。


 唯ちゃんもどこかでそう感じていたから。

 そうなってしまう理由は単純で。


 お互いが大事だからだ。だから不安になってしまう。


 あまりに違うことに気付いてしまって、離れ離れになることを。






 もしかしたら、私が眼鏡を渡した時から、この不安はわだかまっていたのかもしれない。

 あの時に私が感じたことと近いものを、唯ちゃんも感じていたのかもしれない。


 どうして渡してしまったのか。どうして渡してくれたのか。

 お互いに浮かんだ小さな違和感。




 全ては、私の想像の域を出ない。

 ただ、確かなことは一つ。



 私たちは、どんなに違っていても、傍に居たいと思っている。



 一緒にいることに、それ以上の理由なんか必要だろうか?





「……それか、本屋かもね」

「あ、あれっしょ? 手がぶつかってって奴?」

「その時はなんの本を取ろうとしてるのかしら」

「やっぱあれ、名著だよ名著。フランスの作家さんのさ」

「それかきっとギャル向けの雑誌ね」

「ちなったんが?」

「唯ちゃんこそ。フランスの作家知ってるの?」


「それはー」誤魔化すように視線を逸らしていた唯ちゃんだけど、ニッと笑って。


「ちなったんのおすすめ、教えて? ゆいも一押しギャルファッション、教えちゃうからさ」

「ええ、いいわよ」



 私も笑顔を返した。






 水族館を出ると、雨は上がり、雲の合間に覗く太陽が黄金色に風景を飾っていた。

 空気は冷たくなっていた。



「ちなったん」



 空を見上げていた私に、唯ちゃんは手を差し出してきた。


 私はその手を握り返す。



 雨上がりの喧騒を、私と唯ちゃんは手を繋いで、駅の改札へ歩いて行った。








   その夜、私は夢を見た。


   一頭のサメとカメの夢を。



   華やかなサンゴの森で出会ったサメとカメが、大海原を超えて空を、そして眩い未来まで泳いで行く夢だった。






   美しい世界をどこまでも、どこまでも寄り添って。









――― 相川千夏「青い麦」≪終≫ ―――

めっちゃ文学してるやん
また書いて!

上質なゆいちなありがとう

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