鷺沢文香「転機」 (9)


本という単語は大変面白いもので、ひとくちに本と言ってもその種別は様々です。

小説一つを取っても、現代小説や時代小説、サイエンスフィクションに推理小説など、細かく区分けていけば限りがないほどで。

にもかかわらず、人は紙を束ね装丁を施されたものを十把一絡げに本、と呼ぶのです。

これが、幼少時の私には大変奇妙なことに映ったようで、東京で古書店を営む叔父に「なぜか」と電話で訊ねたことがありました。

そうすると叔父は「明日まで待ってね」と言って電話を切って、その翌日には長野の実家にやってきたのでした。

こちらが驚く暇もなく、東京からわざわざ持ってきたのであろう書籍を私の実家の玄関へ積み上げ「さて、昨日の質問だけど」と笑っていた叔父の姿は、今でもはっきりと覚えています。

当時の叔父の説明によれば本という言葉は元来、物事のおおもとを指す語であるらしく、転じて書写の際に用いる書物を本と呼ぶようになったそうなのです。

それらの説明をしたあと叔父は「ほら、お手本って言うでしょう?」と言って「まぁ詳しくは持ってきた本の中に書いてあるから、興味があったらどうぞ。ああ、でもちょっと難しいかなぁ」などと唱えながら、再び東京へと舞い戻っていったのでした。


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そんな古い記憶を、ふと思い出しました。

今になってみれば「本はなぜ種別が様々なのに全て本と呼ぶのか」と問われても「犬という語にしても、猫という語にしてもそうなのだから、本だってそうなのだ」としか答えようがないだろう、と思うものですが、叔父がそうせずに別の答えを用意してわざわざ足を運んでくれたことは、得難いことだったのだと気付かされます。

叔父がしてくれたあの親切が、私が読書という行為を好む源泉の一つになっているとすら思います。

懐かしい記憶に温かい心持ちになりながら、足を止めます。

鞄から鍵を取り出して、目の前の扉へ差し込んで回すと、やや重たい手応えの後に鍵が開きます。

ドアノブに手をかけ、またしても重たい手応えを感じながら引き、建物の中へと入りました。

インクと紙と仄かな黴の匂いが香り、穏やかな静寂が私を包みました。

左手の感触を頼りに壁をなぞり、やがて壁面に目的のものを認め、ぱちんぱちんぱちん、と順番に指で弾きます。

その音から数秒の時差を経て、頭上の電灯が部屋を照らしました。

視界を埋め尽くす、天井まで伸びた本棚とそこにぎっしりと詰め込まれた書の数々。何度も見ても絶景である、と思うものです。

私が進学に際して、平和な実家を出ることを決意した理由の二割ほどはこの光景を得るため、と言っても過言ではないでしょう。

そう、ここは叔父の営む古書店なのでした。

大学へと進学し、晴れて首都圏に身を置くことになった私は、当然アルバイトを探さなければなりませんでした。

もちろん、両親は十分な仕送りを送ってくれますし、親戚の方々が入学祝いと称してたくさん包んでくださいましたので、当面のところ問題はなさそうでしたが、そうは言っても甘えてばかりはいられません。

何より、四年間という月日をそれらのみに頼って過ごすのは、あまりに情けないよう思われました。


ですから、「アルバイトを探す」と両親に伝えたところ、その日の内に叔父から「バイトを探してるなら、ウチで働きなよ」との連絡がありました。

曰く、古書を売り買いしているだけで生計を立てているわけではないため、店を閉めている時間もそれなりに長いようで、私が気の向いた時間に店を営業しておいて欲しい、とのことでした。

裏を返せばそれは、営業していてもしていなくてもそれほど収入に影響がない、つまりはどちらでも構わないということなのではないかと思われましたが、叔父の厚意――というよりも両親の、でしょう――を無下にするのも憚られ、私は叔父の古書店でアルバイトをすることに決めたのでした。

そんなふうにして始めたこのアルバイトも、今では板についてきたのではないか、と自賛します。

板につくも何も、ただただお店の奥に位置する椅子に座り、日が落ちるまで読書に興じているのが常でありますから、これを業務と呼んでよいのかどうかは疑問が残りますが、そこはそれ、許していただきたいところです。

そして、今日もいつもと同じようにして、本棚をぐるぐると巡り、目を惹かれたものを手に取る、ということを繰り返し、やがて抱えきれなくなると、それらを山として机上へ積み上げ、その山を一つ一つ崩すべく書に耽溺する時間がやってきました。

存在する音と言えば、腰かける椅子が私の姿勢を変える動きに伴って軋む音と、私が頁を捲る音くらい。

この古書店は私にとって、楽園そのものでした。

一冊、二冊と読み終え、三冊目に手を付けようとしたそのとき、ぐうと私のお腹が音を上げました。

もうそんな時間だったろうかと壁に掛けてある時計を見やれば、時刻は十五時を半分ほど回ったところ。

昼食と呼ぶにはいささか遅い時間になってしまっていたようです。

椅子を引き、立ち上がって軽く伸びをすると背中がぱきぱきと言います。

来る前に購入しておいたお弁当を鞄から取り出して、温めるべく電子レンジのあるキッチン――と呼ぶにはいろいろと設備も調理器具も何もかもが足りないのですが、便宜上キッチンと呼んでいます――に行き、お弁当に記載されているとおりの時間を設定したのちに、再びお店のほうへと戻りました。


お弁当が温まるまでの間に、読み終えたものを本棚へと返しておこうと思ったのです。

机上の読み終えた書を手に取り、元の場所へと戻すため、背を見て題名と著者の方の名前を確認します。

本棚は作者別に五十音順に並んでおり、作者ごとでは題名がこれまた五十音順に並んでいるので、返すべき場所を見つけるのは簡単でした。

何を隠そう、この整頓は私がこの古書店の店員となってから為した、ほぼ唯一の仕事でした。

大量の書籍に加え、天井近くまで伸びた大きな本棚ですので、それはもう心が折れそうなほどでしたが、やり遂げたときの達成感たるや相当なものがありました。

そうして今日も、為し遂げたあの日の私を褒め称えながら、綺麗に揃った本棚へ、書を戻すのです。

一冊目を返し終え、二冊目を返す場所の検討がついた辺りで、不意にからんころん、という音が飛来しました。

音の方向は入口で、音の正体は確かめるまでもなく扉に取り付けてある呼び鈴です。

そして、これらは誰かが入店したことを示しています。

そう、つまりはお客さんがいらしたようなのでした。

私は本を返すことを諦め、店の奥へ戻りました。


何か購入して行かれるだろうか。

どんな方だろうか。

お探しの書があったとして、問われたことにきちんとお答えできるだろうか。

なんて、うじうじと思案してしまう自分を見て、つくづく接客という業務は不向きであると思い知らされます。

しかし、曲がりなりにも私が請け負った数少ない業務の一つでありますので、しっかりと果たさねばなりません。

よし、と決意を込めて胸の内で呟き、耳を澄ませます。

ぎしり、ぎしり、と床が鳴る音がゆっくりゆっくり近付いてくる様子はどこかカウントダウンのような心地がしました、

ぎしり、ぎしり。

ぎしり、ぎしり。

間近に迫ったそれを聞き、相見が目前であることを悟ります。


私の正面に位置する本棚から黒い影が伸び、電灯の光を受け鈍く光る靴が顔を覗かせました。

革靴です。

そこからさらにゆっくりと視線を上げていけば、灰黒色の衣服に身を包んでいるらしいことが見受けられ、ややあってそれがスーツである、とわかりました。

手にはいかにもビジネス用といったような、これまた灰黒色の鞄を提げていらっしゃるご様子です。

もう一方の手には何も握られていないところを見るに、何かをお探しで、その所在を私に訊ねたい、そんなところでしょうか。

なんとなく察しをつけて、声を投げられるそのときを待ちます。

「少し、お話しよろしいでしょうか?」

柔らかな、それでいて闊達な印象を思わせる、どこか不思議な声が頭上より降り注ぎます。

上目遣いがちに声の主を見上げ、肯定を示す旨を簡単に返すと、声の主である方は喜色を顔に浮かべ「では」と言いました。

接客は不向きと言えども、私は私なりに古書店の店員としての矜持は持ち合わせています。

いいでしょう。

受けて立ちます。なんて、不必要に気負う私なのでした。





 さて、どんなご用向きでありましょうか。



終わりです。ありがとうございました。
そして今日は鷺沢文香さんのお誕生日です。
鷺沢文香さんお誕生日おめでとうございます!

おつおつ

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