夜叉神天衣「……気が済むまで、踊ってあげる」名人「それは楽しみだ」 (9)

その人はある日突然、なんの前触れもなく、ふらりと私の眼前に現れた。

「っ……!?」
「ん? ああ、君はたしか竜王の……」
「ど、どうも……」

何故この人がここに居るのか。
その理由は簡単で、対局があるからだ。
関東在住のタイトルホルダーの対局は千駄ヶ谷の将棋会館で組まれる。

しかし、対局時間まではまだ時間がある筈。

「実は腕時計が進んでいたみたいでね」
「そう、ですか……」

機械式の腕時計を手首から外して、スーツのポケットに仕舞うその所作に見惚れる。
まさしく、見るものを惑わせる『マジック』を幾度も生み出した"神"の指先。

「おや? この局面は……」

その人は将棋盤を見つめて気づいたらしい。
私が今並べているのが、先生と彼が繰り広げた竜王戦第一局における中盤の仕掛けであることを。

「見ての通り早く来すぎてしまったので、もしも君さえ差し支えがなければ……」
「あ、はい……よ、よろしくお願いします」

対面に彼が座る。竜王の宿敵、『名人』が。

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「あの……名人」
「ん? なんだい?」

中盤の混沌とした局面を一切棋譜を見ることなく進行していく名人になんとか応じながら、私は我ながら馬鹿馬鹿しい問いかけをしてしまった。

「私の先生とのこの一番、ずっと覚えていらっしゃったのですか?」
「もちろん。何度もこうして並べているからね。しっかり長期記憶に焼き付けてあるよ」

当然のようにそう返答されて赤面する。
当代の名人に対して棋譜を覚えているかなど、よくそんな失礼な質問が出来たものだ。
しかし、最終的に師匠である八一が防衛を果たしたにせよ、第三局までは名人が勝ち星を重ねていた。

特にこの第一局は名人の完勝譜で、八一の大局観を木っ端微塵に打ち砕いたものだった。

八一からしてみれば屈辱の極みであり、名人からしてみればこの程度かと言わんばかりの勝ちっぷりだったので、負けた側はともかく、勝った側には印象に残らないのではないかと思っていたのだが。

「竜王戦は七番でひとつの勝負だからね」
「あっ……はい」

言われてその常識が身に染みる。七番勝負。
とはいえそれはタイトル戦、もしくは挑戦者決定戦に登場した数少ない限られた者にしかわからない、番勝負における心構えである。

「君は日頃からこの将棋の研究を?」
「は、はい…… 暇さえあれば」
「素晴らしい。流石は竜王の弟子だね」

はて。一体私は今、何を褒められたのか。
定かではないが、なんだかじんわり嬉しい。
少なくとも、この人は先生をコテンパンに負かしたこの一局に研究の価値があると思ってくれているわけで、それが誇らしいのだ。

そしてそれは同時に大人のズルさでもある。

「あの、もしもよろしければ、その……」
「ん? ああ。君さえよければ、こちらこそ、よろしくお願いします」

私は子供で単純な物の考え方しか出来ない。
褒められれば嬉しいしもっと褒めて欲しい。
もしも自分の研究を見せて、それが評価に値するものだったらと、ついそんな欲が出てきてしまう。
八一は素っ気なく褒めてくれるが、この人はどうだろう。それがつい、気になった。

「では、この局面から……」
「おや? あの台詞は言わないのかい?」

やはり罠。罠だとわかった上で乗ってやる。

「……気が済むまで、踊ってあげる」
「それは楽しみだ」

本譜から外れた私は名人に研究を披露した。

「くっ……!?」

一手。また一手。私の研究が否定される。
それは当然の結果であり、必然とも言える。
名人は先程、この一局は研究の価値があると言っていた。彼も変化を研究しているのだ。
彼の研究に打ち勝つ実力はまだ私にはない。

「っ……まだっ!!」

私は諦めない。自分の為。そして師匠の為。

「これで……!」

私の最終結論に対し、名人は扇子を広げて。

「……はあ」
「ッ!?」

隠した口元から溜息を吐いた後に指した一手を見て、自分の最終結論が敗着だと悟る。

「……ま、参り……」

駒台に手を乗せて、自らの敗北を告げる。
それは一番初めに先生に教わったことだ。
それをこの宿敵に口にするのが嫌で嫌で。

「……………………」

名人は何も言わない。ひたすら無言である。
それは無言の指摘であった。罵倒、だった。
よもやお前の師匠がこの程度の変化をあの場面で読んでいないとでも思ったのかと。
そして、それを見透かした上で勝ちが揺らぐことはないと、言外に告げられていた。

私は負けた。盤上でも、盤外でも。

「ま、参り、まし……」

悔しい。悔しくて、涙が止まらない。
自分の研究を否定されたからではない。
あの竜王戦第一局において、八一が勝利する勝ち筋を名人に示せなかったことが悔しい。

熱い涙を滝のように流しながら私は、私は。

「天衣ッ!」
「ッ!?」

聞き慣れた叱責に顔を上げて振り返ると、そこには鬼の、いや『竜』の形相をした師匠である九頭竜八一居て、名人に向かって勢いよく気炎を吐き出した。

「指導対局は師匠である俺の役目ですので、いかに名人と言えども勝手をされては困ります」
「確かに。分を弁えずに申し訳ない」

素直に謝罪する名人を一瞥して先生は泣きべそをかく私の手を取り、席を立たせた。

「では、名人。失礼します。帰るぞ、天衣」

そのまま私は連れて帰ろうする師匠の手を弱い私は振りほどくことは出来ず、それでもこれだけはと思い、名人にその言葉を伝えた。

「あ、あのっ、め、名人……!」
「はい。まだ私に何か?」
「あ、ありがとう、ございました!」

その感謝は指導対局に対してではなく。
先生との一番をずっと覚えてくれたことに対する弟子として感謝を込めてのものだった。
すると名人は人の良さそうな笑みを浮かべ。

「こちらこそありがとうございました。夜叉神天衣さん。これからも頑張ってください」

名前を呼ばれただけで嬉しい。マジックだ。

「天衣、ちょっと待ってろ」

私が思わず微笑んでしまったのを見て、八一は師匠として何やら思うところがあったらしく引き返し、駒音高く盤上に一手を放った。

「ほう……この手は……」
「今度こそ、失礼します」

まるで捨て台詞のように吐き捨てて、八一はまた私の手を取って歩き出した。手が熱い。

「よし。今度こそ帰るぞ」
「名人の次の一手を見なくてもいいの?」
「そう簡単に返せるような温い手じゃない」

その宣言通りそれから名人は随分と長考したらしく、その日の対局は時間ギリギリで入室したのだが、しかし対局自体は苦もなく勝利しているところはやはり流石名人であった。

「せ、先生……怒ってるの?」
「別に」

帰り道、八一は明らかに怒っていた。
それは子供の私にもわかる明らかな独占欲の発露であり、弟子としては自分の師匠が負けた対局の勝ち筋をきちんと見つけていたこともあって、とても嬉しい気持ちで一杯だったのだが、私はそれを素直に口にすることは出来なかった。

「ふん。弟子にちょっかい出されて嫉妬するくらいならもっと早く現れなさいよ」
「無茶言うなよ。俺にも仕事があって……」
「そんなことはどうでもいいのよ。それよりもこの責任、どう取ってくれるつもり?」

逆ギレして、私は名人にも負けて劣らぬ"竜王の指先"を問題の箇所へと導いて触らせた。

「あ、天衣。お前、まさか……?」
「このクズ。助けに来るのが遅いのよ。鬼畜眼鏡に襲われてすっごく怖かったんだから」
「だから、漏らしたと?」
「そうよ……悪い?」

濡れた太ももに触れながら全てを察した八一に対して、私が開き直って応じると師匠は。

「フハッ!」

まるで天空めがけて火炎を吐き出すかのように、高らかに愉悦を漏らす。清滝一門の伝統だ。

「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「やめなさいよ、クズ。恥ずかしいでしょ」

公共の場で人目を憚らずに哄笑する師匠を弟子として嗜めると、八一は狂喜から一転して、優しく愛しむように頭を撫でてくれた。

「ありがとな、天衣」
「な、なによ、いきなり……」
「俺の為に名人に一矢報いようとしてくれたんだろ? 詰めは甘いが、見事な研究だった」

私は素直じゃないけど、やっぱり子供で。
頭を撫でる師匠の優しい竜の熱い手を払い除けてから、ズンズン先にひとりで進む。
じゃないと、にやけた顔を見らちゃうから。

「……熱い」

火照った顔が、燃えるように、熱かった。

「あ、おい。待てよ、天衣!」
「ついてくんな、クズ!」

名人に名前を呼ばれた時よりもずっとずっと、幸せな気持ちになって喜んでいる自分を、八一に見せるわけにはいかなかった。

ちなみに名人が対局に遅れそうになった本当の理由は私の粗相の後始末をしてくれたからではないかと思うものの、定かではない。


【めいじんのしどうたいきょく!】


FIN

おつ
この子は原作でもお漏らしっ子なのかな

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