橘ありす「落ちてくるもの」 (28)
・閲覧注意です
・ひとによっては気分の悪くなる描写があります
「ありすは何でも知ってるなぁ」
プロデューサーは、ありすによく言う。
ありすからすれば、プロデューサーがものをよく知らない。しかも極度のめんどくさがりだ。
漢字の読み方を間違えたり。
ネクタイの結び方がへんだったり。
今日も喫煙所の場所がわからないようで、自分のデスクで吸っていたりした。
だから、ありすはわざわざタブレットでプロダクションの見取り図を出して、喫煙所の場所を教えた。
今いるデスクから最も近いのは、北棟の屋上だった。
ありすがひとしきり、煙草の有害性や、副流煙が周りに及ぼす被害、分煙についてのマナーに関してお説教をした後、プロデューサーがこう切り出した。
「北棟ついでの話なんだけど」
「なんですか」
「明後日、プロダクションで水が出しっ放しになってるところがあるんだけどさ。
見つけても止めないで欲しいんだ」
「……?」
プロデューサーの奇妙な頼みに、ありすは首を傾げた。
水が勿体無い。
「どういうことですか」
「貯水タンクに異常があったみたいで、安全のために貯めてあった水を使い切るんだとさ」
プロダクションは、断水などの緊急時に備えて各棟の一階に貯水タンクが併設されている。白く塗りつぶされた巨大な水槽のような形で、ありすも何度か目にしたことがある。
「異常って」
「俺も詳しいことは何も知らないんだけどな。とにかく安全のためだよ。
とりあえず水は出しっ放しにしておいてくれ」
ありすは釈然としなかったが、うなずいた。
明後日、ありすはレッスンの終わりにシャワールームへ向かっていた。
レッスンルームには冷房が効いているとは言え、ダンスをすればあっという間に汗だくになる。服もべとべととするし、汗くさくなるのも嫌だ。すぐにシャワーを浴びたい。
シャワールームの入り口で、ありすは異様な音を聴いた。
まるで自分が水中に沈められたような、ぼこぼこと泡が湧いては潰れる音。
水が出しっ放しになってる。
ありすはプロデューサーの言っていたことを、この瞬間まですっかり忘れていた。
“安全のために水を出し切る”、ということは勿論、シャワーを浴びないほうがいい。異常がどういうものが分からないが、わざわざ危ない道を選ぶこともない……。
普段のありすならそうしていた。
けれども、今はレッスン後で汗だくで気持ちが悪い。しかも脱衣所で服を脱いでしまっているし、着替えの服をこの身体で着たくない。
ほんとうに危ないなら立ち入り禁止になっているはず……。
そんなふうに誰かに言い訳をして、ありすはシャワールームの扉を開けた。
泡の潰れる音が大きく耳朶を叩いて、不快感が胸につっかえる。
シャワールームは白いタイル張りになっているが、水浸しになっているせいで、タイルの目が見えない。そして、音の正体はおそらくはシャワーから溢れ出した大量の水が、排水溝に殺到し、吸い込まれる音だった。
細かな水の飛沫が顔に当たる。それだけのことなのに身体中の体温が冷めわたって、鳥肌が立つ。
意を決して足を踏み入れると、くるぶしのあたりまで沈んで、思わず声が出た。
ありすはそれなりに大きな声を出したと思ったけれども、あの、泡がぼこぼこと押しつぶれていく音に掻き消された。
足元に視線を落とすと、水面が排水溝に引き摺り込まれているせいか、輪郭の歪んだ顔のない女が映った。それが自分の顔だとわかっているのに、ありすは息を飲んだ。
シャワーを浴びて、はやく出よう。
そう思ってありすは近くの個室に入った。
いつも通りの個室のはずなのに、小柄なありすでさえ圧迫感を覚えた。個室の床にある排水溝から出た音が、その壁にさらに響いて押し潰されそうになる。
まるで身体が水底の深くまで沈められたようだった。
ここのシャワーヘッドからは、なぜか水がちょろちょろと少しだけ出ている。何かが詰まっているのだろうか。
ありすはヘッドを取って蛇口を捻った。堰を切ったように水が飛び出して壁を叩く。少し熱いお湯が出るまで調節しようとしたが、なぜか生温い温度にしかならない。
しょうがなくそのまま浴びることにした。
中途半端な温度がまとわりついて、汗を流しているはずなのにさっぱりとしない。
寮に戻って部屋のシャワーを浴びようかな。
急に水の勢いが弱まり、何かが左腕のあたりに絡みついた。
長い髪の毛だった。
私の……。
ありすは一瞬そう思った。
だが、違った。
その髪の毛は、シャワーヘッドからじゅるじゅると吐き出されて、ありすの身体に落ちてきて。まるで糸虫のように肌の上を這い回った。
咄嗟にシャワーヘッドを投げ捨てた。
床にぶつかると、シャワヘッドはさらに大量の髪の毛を嘔吐して、その髪の毛がありすの足にびっしりとくっつく。
ありすは、喉がひりつくくらいの悲鳴を上げた。だがありす自身にも聞こえなかった。溢れ出した水が、排水溝が、壁が、シャワーヘッドが、ありすの悲鳴を押し流す。
ありすは個室から飛び出して、シャワールームから逃げ出そうとした。
だが思ったように歩けない。それどころか、タイルに膝をついてしまった。完全に腰が抜けている。
ありすは、そこでまた自分の脚を見た。なにもない。
息をのんで、先ほどまでいた個室のほうに視線を向ける。
扉の下から、髪の毛の束が音もなく伸びてくる。
ありすは超常現象の類を信じていていない。だが直感した。
あれに捕まってはいけない……!
ありす、四つん這いのまま出口を求めた。距離はたった数メートルのはずなのに絶望的に遠く感じる。
部屋中が強く匂う。
恐怖のためにあふれだす汗。水栓の金属。排水溝からただよう、カビとたんぱく質の腐ったにおい。吐き気がする。こめかみが痛いくらいに熱い。
ひゅうひゅうという音が聞こえた。それはありすの喉から出た音だった。
落ち着け、落ち着け。
そう自分に言い聞かせて心臓は意志を無視してのた打ちわり、手足は震えて竦む。
ありすは叫んだ。今度はひとを呼ぶために。
外に音が漏れることはない。
シャワールームは防音構造になっており、さらに部屋自体が他の部屋からやや孤立した位置にある。あまり人の出入りが多い場所では落ち着いてシャワーを浴びれないだろう、という配慮が今は完全に裏目に出ていた。
誰か……!!
ありすは祈った。願ったのではない。頭の片隅から、誰も来てはくれないという声がする。だから祈った。
これ以上前に進めない。声も出ない。
ありすは、溜まった水に顔をつけないようにうずくまって耳を塞いだ。
あれがどこかへ行ってくれますように。
レッスンが終わったほかのアイドルが来てくれますように。
心配したプロデューサーさんが来てくれますように。
アイドルが続けられますように。
どうか。どうか。
ありすは何かに祈った。特定の宗教を持っていないから、何かあたたかくて力強い存在に。
何かが肩を叩いた。顔を上げてはいけない、と思った。
自分は入り口の方を向いている。だが、“後ろから”叩かれた。
突然お腹のあたりがひどく重たくなり、ありすはタイルに沈んだ。
顔が水面につきそうになり、ありすは手を床についた。奇妙だった。
鼓膜を引き裂くくらいに聞こえていた音が、今はしない。
まるで、身体の機能1つ1つのスイッチが切られていくように。
水のぞっとするような冷たさも消えていく。
ただ静かに。
死ぬって、こんな感じなのかな。
ありすは目を開けてみた。開けたが、真っ暗だった。
そして、ゆっくりと身体がどこかへ引きずられていく。
抵抗する力が出てこない。
もっとレッスンしておけばよかった、と場違いに思った。
鈍くなった肌の感覚が、タイルの目をなぞっている。まだシャワールームの中にいるようだ。
どこへ連れていかれるんだろう。
ありすはぼんやりと考えた。地獄に行くほど悪いことをした記憶はない。けれども、“あれ”が天国に自分を連れていくとは到底思われない。
もしかすると、このまま永遠に暗闇の中をどこかへ引きずられて行くのかもしれない。
それは、嫌だ。
ありすはもう一度、力の限り叫んだ。
だい、じょうぶ……」
今度は、誰かが答えた。
ありすはその声を知っている。
空気の匂いが変わった。そして視界が急に明るくなる。シャワールームの外の、更衣室にいた。
「あれは……!」
ありすは起き上がろうとしたが、力が入らない。身体が芯までこごえている。
「む、無理しない、で……」
白坂小梅はタオルをありすの身体にふわりとかけて、シャワールームの扉を閉めた。扉の奥からは、水浸しの音が聞こえる。
ありすは震える手足をもがくように動かして、更衣室の外に出ようとした。だが、小梅に止められた。
「離してください!」
「でもあ、ありすちゃん、裸だし……」
そう言われると羞恥心が湧き上がってきて、身体が熱くなってくる。
「そんな場合じゃないんです!
あれから逃げないと……」
小梅は扉のほうをじっと___扉の奥にあるものを探るように見た。
「幽霊、じゃない……。
うん。そうだね……あれは……」
記憶、と小梅は言った。
「あの部屋が……誰かの記憶を再生してる……映画館みたいな……」
「映画館?」
「だから、外に出れば大丈夫……」
ありすは小梅の言っていることがうまく理解できない。
ありすはオカルトも、幽霊も信じていなかったから。けれども実際に体験した以上は、小梅の言葉が、間違ってはいないのだろうと信じた。
「あの部屋で何かが起こったんですか?」
「うん……く、くわしくは分からないけど……プロダクションのどこかで、き、記憶の持ち主にとって辛いことがあって、そ、それがこの部屋に流れてきてるんだと思う……」
「でも、今まではあんなこと……」
「もしかしたら……す、すごく最近なのかも」
小梅の推測に、ありすはまだ身体中がこごえた。
後日、とある通知がプロダクション中を震え上がらせた。
1週間前、プロダクションの女性社員が飛び降り自殺を図ったのだ。
それだけではない。
その身体は地面に激突したのではなく、北棟に併設されている貯水タンクを突き破って、中に落ちてしまったのだという。
そして死体は、貯水タンクの定期点検に来た業者が見つけるまで、数日かかった。
つまり、数日間は……。この事実が頭をかすめたある者は嘔吐し、ある者は心身の不良を訴えて休暇を取った。事態の凄惨さから、この通知は世間には公表されないことになり、プロダクション内に箝口令が敷かれた。
アイドル達は会議室に集められて、通知を受けた。
その中で、ありすだけは違和感を覚えていた。
「亡くなられた方って、どんなひとだったんですか」
会議室で解散になった後、ありすはプロデューサーのデスクに行き、そう尋ねた。灰皿の上で煙草がまだ煙をくゆらさせている。
「どうしてそんなことが気になるんだよ」
プロデューサーが訝しげにありすを見た。
「気になるんです」
「ふーん……。
まぁ、すごく真面目で可愛いひとだったな。俺とちがって仕事熱心だったし。
何に悩んであんなことになったのか分からないけど」
プロデューサーは大した感慨もなさげにそう言い、煙草を一本取り出した。
「花ぐらいは供えようかな」
「……私も」
「うん?」
「花を。私もお供えしてもいいでしょうか」
ありすの言葉に、プロデューサーは目を細めた。
笑っているようも、なにかを探っているようにも見える。
「2人分の花束か……ありすは優しいな」
プロデューサーはありすの頭を撫でた。
普段であればありすは嫌がるが、今日はただ撫でられた。
プロデューサーの手は、すこし湿っていた。
花束を手にもって、プロデューサーとありすは屋上にいた。夏の日差しがこうこうと照りつけて、空気がじっとり湿っている。
ありすは初めて屋上へ上がった。
普段は施錠がされていて、アイドルが入ることはできない。
プロデューサーによれば、亡くなった女性社員はここから飛び降りたらしい。
花束を、ちょうど飛び降りたであろう場所に置いたあと、ありすはプロデューサーに一つ質問をした。
「亡くなった方は、煙草を吸われていたんですか」
「吸ってなかったよ……多分。
どうしてそんなことが気になるんだ?」
してはいけない質問だった、とありすは思った。
だが、口に出してしまった。もうひとつの疑問も。
「屋上へ行くために、私達鍵を借りましたよね」
「借りたな」
「もし……もし、亡くなった方が屋上へ上がっていたなら。
そして、そのまま飛び降りたなら……。
あのひとはすぐに見つかったんじゃないでしょうか。
だって、貸し出した鍵が返ってこないから……」
ここでありすは、もうひとつ奇妙な点に気づいた。
貯水タンクに面した壁には窓がいくつかある。
飛び降りたからといって、屋上からとすぐに分かるわけがない。
「ありすは何でも知ってるなぁ」
プロデューサーが、にこりと笑った。
長い髪がまとわりつくように、ありすのほおに冷たい汗が伝った。
おしまい
おつ
よい時期
恐いのは霊より人間だよな…
乙
君のような感のいいガキは嫌いだよ
橘ありす物かと思ったらこんなので……
R板もエコーチャンバー効果なのか何なのか
R指定にしても無駄にえぐいスレッドが目立って辟易する
おつおつ
こういうssもっと増えて欲しい
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