【にじさんじ】社築「家族旅行は異世界で」 (38)

 非現実を目の当たりにしたプログラマーの、第一声はなんとも彼らしいものではあった。

「ロープレのラスボス戦とかで見たこと有るな、ここ」

 率直な感想をつい口にしてしまうのは配信者としての性なのか。独り言ばかりが多くなる、とは普遍のストリーマー間における話題ではあった。社築は溜息を吐く。

「お陰で生きにくいんだわ、マジで」

 配信に乗っけている訳でもねーのに、と続ける。彼は初め、その身が置かれた状況を夢と断じて疑っていなかった。

 プラネタリウムの中心で浮かんでいるような不思議な感覚。周囲を、ともすれば手で掴めるのではないかと思わせるほどの近い距離で星が瞬いている。何も見えないのか、ただ見えるものが存在しないだけなのか、宇宙空間はどこまでも広がり果てがない。

 そこ、をロールプレイングゲームの最終決戦地に錯視してしまうのは、ゲーマーならば無理もないだろうか。下を向けば足元に有るはずの床は無く、どころか底すらない奈落が続く。

 しかし、青年はそれでもそこにすっくと立っている。それが当然と。

「ええ……なぁにこれぇ?」

 覚醒を始める脳髄。靄が晴れていくような。薄々気づき始めた真実には目を背けながら社は誰にともなく――おそらく自分自身に向けて問いかける。

「夢にしては意識が覚醒し過ぎてるよ……な?」

 手の平を握っては開き、それを数度繰り返す何かを確かめるような動作。少しづつ、彼の表情が強張っていく。

「もしかしてやらかしたか、俺?」

 社は自問自答する。急ピッチで手繰り寄せるのは直近の記憶。思い返すまでも無く今週のスケジュールは無残が過ぎた。その勤めるIT企業のプログラマーとしてもそうだが、そこにもう一つの生業、配信業が思いのほかに重なった。デスマーチと呼ばれる締め切り寸前の過酷な労働体系に自分から睡眠不足を上塗りしたのは、それはひとえに楽しすぎたから。

 記憶が途切れる寸前まで社築は栄養ドリンクの海に溺れてまで生き急いだ。今が踏ん張り時だと。人生で一番大事な時だと。輝いていると。そう信じて。そして、幸か不幸か「それ」は実際その通りで。自分の内からも、周囲からも放たれる激励は身体のリミッターを外すに十分な劇物だった。

 生き急いで、急いで急いで――急ぎすぎた。

 そこまで思い至って急に、ガタガタと膝が笑い出す。

「ああ、それでこの空間、と」

 世界の終わりのようながらんどうに放り出され彼は、ついに耐え切れなくなってぼそり、正解を口にする。

「これ、俺死んだんじゃないの?」

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 一日は二十四時間しかないのに実質三十時間働く。それを一週間続けたのだから過労死は誰の目にも――もはや本人の目にすら明らかな論理的かつ極めて現実的な帰結であった。それはつまり、社には正しく「笑うしか」残されていないことを意味する。

「はは……っていや、笑えねーし」

 より正確に言うならば、自分が今置かれた状況を夢だと強く思い込むことくらいは許されていたが。しかしながら、彼はここまで理性が鮮明な夢を明晰夢ですら見たことが無く、それは裏返って「これ」が紛れもない現実であると声高に訴えかけていた。

 今までに通ってきたどんな最新のゲームよりも解像度の高い、網膜に映り込む星明りは暖かくも冷たくも見える不思議な色をしている。いくつものそれと、虚空が彼の視界の全てである。他には何も無い。やけに殺風景な天国だった。

「いやいやいやいや、死んだとしてもここに永遠は流石に地獄でしょ。音ゲーくらい用意しとけよ、準備悪いな無能運営さんよォ」

 毒づくも天国なのか地獄なのかも判別つかなかった。そして、そのままどれほど時間が経っただろうか。絶望はしかし、長くは続かなかった。

 不意に青年の項垂れていた首が跳ねる。

 何かに気付いたように周囲を見回す。

 そして垂らされた一筋の蜘蛛の糸を見つけ出した、そのままの顔で叫んだ。

「さてはここ、天国じゃねえな、これ!?」

 持っている知識をフル動員して、彼は導き出す。

 見たことが有った。これと同じような展開を。知っていた、この先に待つオヤクソクを。

「誰か! 居るんだろ! 種は割れてんだからダラダラと引き延ばしてんじゃねえ! 出て来い!」

 なろう小説は彼も、大好物だった。そんな青年に舞い降りた、奇跡。

「はいはい、お待たせしました。今行きますよ~」

 聞くものに何の根拠も無いがそれでも安心感を与えるという特筆すべき特徴を持った聞き覚えのある女性の声。

 その声を他ならぬ社築聞き間違えるはずもない。

「もいもいももーい、もいももいもい♪」

 絶望に舞い降りたのは、女神。

 どこからかふうわりと純白のドレスを羽を揺らしながら現れたのは生前の同僚にして運命を司る人外の彼女――モイラ。

「社さん、貴方は死にました」

 告げる声も厳かに。だが、「それ」は社築には届かなかった。なぜならば彼はこの逆転満塁サヨナラホームランとも言える状況に、感極まっていたのだから。

「異世界転生キタコレ!!」

 オタクくんは叫んだ。

「社さん、だから何より先ずはご自愛くださいと言ったじゃないですか」

「……さーせん」

 ぷんぷんと擬音を口にしながら怒る女神の愛らしさに、社はすっかり精神を弛緩させ切ってしまっていた。それもそのはず、この女神はその類稀なる声質を買われてにじさんじに入ったのだ。社のようなドの付くオタクがやられない道理はどこにも存在してはいなかった。

「でも、でもですよ。モイラ様だって人のことは言えないんじゃないですかね。ほら、この間見ましたよ切り抜きで。振り返ったら一週間仕事しかしてないとかなんとか、愚痴ってたじゃないですか」

「アレは……わ、私のことは良いんです。それよりも今は社さんです!」

 女神が仕切り直しとばかりに白翼を翻す。視界のその余りの荘厳さは中々に彼女の内面とは不釣り合いで、その不均衡さこそが彼女の持つ魅力なのだろうななどと青年はぼんやりと考えてしまっていた。

「俺ですか?」

「はい、社さんです。先ほども言いました通り貴方は死にました」

「あ、みたいですね」

「何、他人事みたいな返事をしているんですか。自分の事ですよ? もっと危機感を持ってください」

「危機感……ねぇ……」

 危機感を持つべきタイミングはとうに過ぎてしまっているから、今現在自分はここに居るのではないのかと、そう問いたい気持ちを青年は飲み込むことにした。反感は悪戯に買うべきではない、と。この辺りは社会人である以上、一応はわきまえている彼である。

「それで……いや、ですがモイラ様がいらしてくれたということは何か自分に有るんですよね?」

 大体の察しはついているが、それでも問うのはつまり、これは会話の潤滑油のようなものだ。まるで台本でも読んでいるような、そんな心持であったことは社には否めない。

「まあ、その通りです。有ります」

 規定事項とは思っていたものの、それでも内心胸を撫で下ろす青年である。もしこれが、天国への送迎便を自分が請け負ったであるだとか、三途の川の先導を務めさせていただくなんて返答だったら、それは流石に心底笑えない。

「こちらをご覧ください」

 女神モイラが右手を振りかざすと何もない中空に映像が浮かび上がった。それはまるで近未来SF映画のようでもあり、そしてその有り得なさが逆説、尚更に社へと状況の非現実さを訴えかけるのだった。

「俺、ですね。これ、マジで死んでるんですか?」

 満員電車に揺られ、逃げ帰るようになんとか辿り着いた自室の椅子とテーブルに突っ伏したまま微動だにしない見覚えのある男の姿がそこには映し出されている。背後からの画角なので表情までは察することが出来ないが、しかし力の抜け落ちた両腕がテーブルの裾から投げ出されている様からは生気はどこにも感じ取れなかった。

 死んでいる、と言われれば納得しかねないほどに。

「死んでます、確実に。ちなみにこれは静止画像なのですが、この一秒後には体ごと滑り落ちて床に倒れ込んでしまいます」

「……うわっ」

 とっさに言葉が出ないとはまさに今の青年そのものである――のだが、職業病であろう。あいにく社築の口の蓋は留め金が壊れ気味である。

「生きている間に自分の死体見るとか、無いわー」

「生きている間? いえ、死んでいるんですよ?」

「あ、そうでしたそうでした」

 どこまでもあっけらかんとした空気を醸し出す社に対し、モイラは一つ深い溜息を吐いた。しかし、青年を穏やかたらしめているのは何よりも彼女自身の存在であると、その事実には女神は気付き至らない。

「えーと、これはつまり現状確認ですよね、モイラ様? 俺……社築は死んでしまって情けないと。ここまではまあ、痛いほど理解しました。が、それでも俺に何か有ると。だからあなたが来てくれたと。多分、そういうことだと俺は勝手に思っているんですが」

 女神はゆっくりと頷いた。角度を変える細く白い頤は、さざ波のように眩しく揺れる髪は見るもの全てを恋に落としかねない神による造形物である。が、そこは社築。生女神に対して抱く感想が「クオリティ高過ぎ。原型師やべェな」ではいささか不敬が過ぎるであろう。

「話が早くて助かります」

「つか、これぶっちゃけ異世界転生の流れですよね?」

 青年の問いかけにモイラは頭を押さえた。頭痛がする。自分が所属している事実も忘れて彼女は「にじさんじはこんなのばかりか」と嘆いた。

 話が早い、どころではない。

「……ぶっちゃけ、そうです」

 吐き出すように、告げる。その瞬間社築は吠えた。声にならぬ感情の奔流を、一匹のオスはただ音として喉から絞り出した。

 女神は天を仰ぐ。端正なるその額に青筋を立てながら。

「社さん、そのアイドルのライブ会場における信者の遠吠えみたいなの止めてもらっていいですか?」

 我に返った男が「年甲斐もなくはしゃいでしまった」と顔に出す羞恥の赤みはしかし、女神から嫌悪感を引き出すばかりだ。

「あ、はい。すんませんっした」

「……えー、ごほん」

 一つわざとらしく咳払いをして場をリセットした彼女は女神モードを自分に言い聞かせた。

「社さんが死んでしまったのに気付いた瞬間すぐ一時停止はしたんですけど――世界の」

「世界の!? スケールでかッ!?」

「本当は死んでしまう前に私が気付ければ良かったのですが、魂が抜けた瞬間しか私には察知出来なくて……そこはごめんなさい」

「いやいやいやいや! モイラ様が謝るところじゃないっすよ、そこは!?」

「それで……私には死んでしまった人を生き返らせることも出来ないんです。正確には出来ないこともないのですが、ルール違反と言いますか。もしここで私情から社さんを生き返らせてしまったら、それは他の人にも同じようにしないと不公平だよねっていう」

 女神は俯く。

「現世が蘇った死者で溢れ返ってしまいますから」

 社はパタパタと手を振った。

「いや、それは……まあ、仕方ないんじゃあないですか。死因って働き過ぎでしょう? そりゃ、全面的に俺が悪いんですし」

 そう、元はと言えば本人の不摂生が祟った結果であり、こればかりは誰のせいにも出来ないことではあったのだ。ただ、そんな現実は悔しさとは無関係で。

 やりたかったことはまだまだ有った。むしろこれからだったと言っても良い。心待ちにしていたフィギュアも来週発売だ。次にライブ配信しようとしていたゲームも既に買ってしまっている。死んでいる場合では無いじゃないかと、それを社はここに来て思い出した。

 社築はオタクの例に漏れず煩悩にまみれている。だが、その何がいけないというのか。悔いを残し過ぎて死んでしまった事実は冷静になればやはり受け入れがたい。

「……ただ、自業自得とは言え、それでもやっぱり悔しいですけどね」

「泣かないんですね、社さん」

 女神の言う通り、こんな事態に遭ってなお涙が流れないことの方が社には不思議だった。大人になるときに覚え込まされた諦めは、涙腺から水分を根こそぎ奪い去ってしまっていたのだろうか。

「ま、当事者ならそんなモンでしょ」

「当事者なら、ですよそれ」

「かも知れません。アイツらなら泣くんじゃないすか。――俺の代わりに泣いてくれんだったら、それはちょっと嬉しいっすね」

 ……「彼ら」を遺して、先に来てしまったという無念すらも募る。雪のように、灰のようにそれは心に降り積もるものだった。

「嬉しいですか、本当に?」

「……分かりません」

 異世界転生とは、決して明るい未来ばかりではない。そこには別れが頑として存在している事。そして物語の主人公たちのように手放しても未練の無い過去などでは、社築の場合は無かった。

 ――楽しかったのだ。

 楽しくて、楽しすぎて、充実して、充実しすぎて。「だから」死んでしまった。

 こんなに悔しくても、どんなに悔しくてもすら死の事実は消えない。

 血を吐くように、懇願する。

「生き返れないんですか?」

 自分には異世界転生なんか、要らなかった。それよりずっと生きていたかったと、社はここにようやく思い至った。

 モイラは言う。ごめんなさいと。微笑は崩さずに。人間の生と死は女神にとって日常でしかない。

「そうですか」

「生き返らせられません――私には」

 人間の生と死が日常でしかないのならば、奇跡も、取りも直さず恩寵すらもまた女神にとっては日常である。

「だから自力で生き返ってください」

「は?」

 あ、俺この笑顔どこかで見たこと有るわ、と。社は記憶を引っ掻き回す。そうだ、アレはラノベ原作の大ヒットアニメだ。無茶を通して道理を引っ込ますヤツだ。

 青年の体が小刻みに震えだす。

 女神は待ってましたとばかりに神託を授け始めた。

「生き返らせるとなると、その対象にできるのは英雄レベルのカルマの持ち主で無ければいけません」

「カルマ、ですか」

「はい。社さん、貴方は残念ながら英雄ではありません」

 英雄、という言葉に同僚の一人を思い出すが青年は頭を振ってそのににやけ顔を振り払った。

 女神は続ける。

「しかしながら産まれてくる際の特典として『一回なら死んでも生き返る』っていう、いわゆる九死に一生ですよね。あの手のものならば凡人でもギリギリ手が届く範囲では有るんです」

「なんすか、その『転生ポイント制』みたいなヤツ。初耳なんですけど」

「え? 天界じゃ常識ですよ?」

「知らんし。テイルズじゃないんだからさ……つか、モイラ様? リスタート特典ならもう遅くね? 死んでるんですよね、俺?」

 社は首を捻る。知りたくないことをまた一つ知ってしまった。人が生まれながらに平等であるなどと思ったことは一度もないが、しかしせめて真相はオブラートに包み隠してもらいたかったというのが彼の本音である。

「遅いですね。だから、そこは同僚のよしみで因果律に介入し社さんの生前に無理やり捻じ込みます」

「おお……パワー系女神……」

 実はも何も尊敬と畏敬の念を抱いて然るべきであった相手が同僚であったのだという事実と、その女神と対等かつフレンドリーな関係を築いてしまっていた意味の分からなさに社は困惑を隠せない。

「すんません、率直な疑問なんですけどどうして俺なんかにそこまでやってくれるんですか? だって、俺なんかただの下等な人間じゃないですか」

「何言ってるんですか」

 社にとって当然の疑問に、しかし女神はぴしゃりと。

「当たり前でしょう。仲間じゃないですか」

 慈愛という鉄拳で頬を殴られた青年は、予想もしなかった温もりに目頭を熱くする。

「止めて。泣いちゃう、俺」

「他にもほら。ええと、また来月に大型箱イベント有るじゃないですか」

「ん?」

 妙に地に足の着いた言葉がモイラの口から放たれ始め、社の決壊寸前だった涙腺から涙がすっと引いていく。

「いちからの?」

「いちからの。社さんには出て貰わないと困るんですよ、私も。社員さんたちも。ド葛本社は目玉の一つでもありますから」

 モイラの言い草に社は耳を疑った。

「えと……俺、死んだんですよね?」

「死にました。社さんはしーにーまーしーたー。……何度も言わせないでくださいよ」

「あ、すいません」

 あれ、話が噛み合わなくなってきたぞと青年は首を捻る。

「それで話を戻しますと。つまり、こんなところで死んでる場合じゃないんです、社さんは。いまさらスケジュールも配役も変更きかないので」

 青年にとってそれはありがたい話、のはずだった。しかしなぜだろうか。社にはもはや、モイラの言っていることが極まった社畜の同調圧力にしか聞こえなくなってしまっていた。

「酷ぇハナシだ……」

「え、社さん生き返りたくないんですか?」

「いや、生き返ることそれ自体は非常に助かるお話なので受けさせていただきたいと前向きに検討している所存ではありますが……ディティールが……ねえ?」

「細かいことは気にしない。男の子でしょ?」

「うーん……まあ、分かりました。で、そのリレイズ――生き返り効果を授けてくれるって話なんですが、それが異世界転生とどう関係があるんですか?」

「簡潔に言うとポイント不足。私が直接生き返らせるのではなく、あくまでも社さんが持つ『タレント』の結果としての死の回避にしなければならない以上、私が持つ力ではなく社さん自身の徳が必要になってくる訳です」

「タレント? パッシブスキルみたいなモンですかね。ははあ、なんとなく見えてきましたよ」

 ようやく得心がいったとばかりに社は手を叩いた。

「その徳ってヤツを異世界に行って稼いで来いって話ですねクォレハ……」

「そうそう。こっちの世界はその間時間、止めておきますから、これから行く異世界で思う存分善行を積んで転生ポイント貯めてきてください」

「うわ、至れり尽くせりだわ……モイラ様、マジ女神。俺、今日からモイラ様信仰します」

 思わず社が取った両手を合わせての拝む姿はオリエンタルが過ぎて、純白の欧風女神の目には奇矯に映った。

「信仰はありがたいのですけれど、せめて手を組むとかで祈って貰えませんか?」

「ははは、だが断る」

 調子が戻ってきたな、と女神は表情には出さず内心胸を撫で下ろす。この調子なら大丈夫だろう。この先の一番大切な選択も彼なら、「彼ら」ならきっと間違えないはずだ。

 事ここに来て社築はとうとう心からの笑顔を見せ、女神モイラは満足そうに微笑んだのであった。

 憂いの無い異世界転生が始まると決まってからの社は、その生来持つ慎重さを存分に発揮した。それは、ともすれば女神が引くほどに。

「魔剣所有者……これは無いな。剣が無いと一般人なのはウィークポイントがデカすぎる。魔術の素質……保留。どんくらい魔法が有用な世界か分からない以上、ここで判断はできない。すいません、モイラ様? 他にボーナス候補書いてある紙ってまだありません?」

「ええ!? まだ決まらないんですか!?」

 一つだけ、好きな転生ボーナスを持って行って良いと。そう異世界転生のオヤクソクを社に告げてから既に三時間が経過している。過去にモイラが同様に手引きした英雄たちがそれぞれに選んできたボーナスの履歴一覧を矯めつ眇めつ、青年はしかし一向に決める様子がない。

「正直、どれもチートレベルだからどれ選んでも大丈夫なことは私が保証しますよ?」

 女神の言葉に社は首を傾げうーんと唸った。

「じゃあ聞きますけどモイラ様、大軍に囲まれてもう戦うしかないってなった時に『経験値三倍』が今更何の役に立つって言うんですか?」

「ええ……まずその状況にしなきゃ良いんじゃないでしょうか……」

「ポカリ出す魔法しか使えない序盤の『二重詠唱』に何の意味があるって言うんですか?」

「それは……その……大器晩成型のスキルなので……」

 わかってねえ、と青年は溜息を吐いた。

「俺は最初から最後まで楽が出来るスキルが良いんですよ。具体的にはスライム討伐から魔王戦まで一戦級で機能するような」

 どこに出しても恥ずかしい、立派なオタクくんがそこにはふんぞり返っていた。

 ただのわがままじゃねえか、と。そんな都合の良いスキルなんて無えよ、と。さっさと異世界行けよ、と。世界止めてるのも無料じゃねえんだぞ、と。言いたい事の九割九分をどうにかこうにか押し殺してモイラは体面を保ち続ける。その顔が引きつっている事に、スキル吟味に夢中な社は気付かない。

 お陰でなんとか瀬戸際で今日もモイラは女神だった。

「なら自分で考えたら良いじゃないですか、社さん」

「それも考えましたよ、勿論。ただ、ボーナスの振れ幅がデカすぎてどこまでが許されてどこからが『無理だ。その願いは私の力を超えている』ってなるのかの境界がこんだけサンプルスキル閲覧してもいまいち明瞭としないんですよね、俺には」

 面倒臭いゲーマーの筆頭は床に散乱したスキルカード群から目を離すことはなく妄言を続ける。

「どうせなら願い上限ギリギリのぶっ壊れ恩恵を所望する訳なんですが、なら例えば『即死チート』って出来ます?」

「無理に決まってるじゃないですか」

「ですよね。でも、じゃあなぜ『決まってるのか』がマスクデータじゃないですか。正直、その辺常識の範疇とか女神の匙加減一つじゃないのかなと。違います? まあ、貰えると言われても即死どうこうなんてあんな物騒な能力要らないんですけど。っつかモイラ様結構ラノベとか漫画とか詳しい?」

 即死チート、という言葉だけでその能力の詳細が分かるモイラに怪訝の目を向ける青年は、しかし返答を言い淀む女神に向けた視線をすぐに床へと戻す。

「あ、まあ良いです。女神のラノベ遍歴は今度凸か何かで聞き出すとして」

「それ、まったく私にメリット有りませんよね」

 今度凸で。その言葉は社が生き返ることに前向きである証左。恩恵決定に時間がかかるのはそれだけ真剣だからこそ。そこに気付いてモイラは起こるに怒れなくなっていた。

「そんな訳で時間がかかるのも仕方なくない?」

「そうですね。でも、いい加減に決めてくださいよ?」

「分かってます分かってます。そういや、例えば某アニメリスペクトで女神――モイラ様を異世界に連れていくとかは?」

「前例からしっかりバグ修正はしておきました」

「あ、あれシステムバグだったんだ……」

 言われてみれば、確かに二度目は通用しないような、システムの穴を突くような内容ではあったか、と社は独り言ちる。

「え? でもモイラ様、ここに『火竜使役』ってスキルカード有りますよ? これ使役能力だけ……んな訳ないんですよね?」

「ちゃんとモンスター本体も着いて来ますよ。当たり前じゃないですか」

「当たり前……当たり前ですか……」

 さも当然と言う、その女神の顔を珍しくじっと見てしまう社。とは言え彼にとって人の顔をじっと見ることは本来非常に苦手とするところである。それが出来るというのはつまり、実際は焦点が女神の顔に合っていないことに他ならない。

「あの、社さん? おーい?」

 女神の呼びかけとは無関係に社は脳をフル回転させながら口にする。

「モイラ様、女神の同行は不可でモンスター……いや、恐らくこの場合は従者ですね。そこが許されるのはつまりその持つ力の大小のみが問題であり、そこは倫理が問題となっているのではない。この認識で合っていますか?」

「いえ、違います」

「あれ、外した!?」

「力どうこうではなく単純に流石に神はマズい、というのが組合での総意でして。女神が異世界転生に強制連行された一件以降、こういった召喚の類には呼び出される側の承認を必要とするルールが全会一致で可決されました」

「なるほど。って事はそれこそ神よりもヤベーのであってすら、ソイツが召喚にさえ応じるならば呼んでこれる訳だ」

 古今東西の英雄達の雄姿(女体化一枚絵)が社の脳内を駆け巡る。アイツも良いがしかしコイツも捨て難い、といった風に。グヘヘとよだれを垂らし始める二十六歳は一体どんなことを考えているのか。よくないことであるのは間違いないと、モイラは断じた。

「社さんがどんな都合の良いことを考えていらっしゃるのかは知りませんが。ただ、よくよく考えないと無能力者で終わりますよ、それ」

「は? どゆこと?」

「知性の無いモンスターならともかく、知性も理性もあるものがおいそれと召喚に応じるとは思えません。その場合、社さんがさきほど言った通り『英雄使役』能力は持っていても実際に召喚された英雄はいないといった事態になりかねません」

「その口振りだと事前にここで召喚可能か確認していく事は出来ないんですね……良い考えだと思ったんだけどな、英雄召喚」

 ただしエクスは要らんけどな、と社は小さく口にする。

「そうですね。そもそも論で社さんに同行する理由が英雄の皆さんには有りませんし」

「やりがいの有る職場である事は保証するんですけどねえ……ま、人生そんなに甘くはないか」

 ――数秒の沈黙。そして社は溜息を吐く。

「……分かってますよ。分かってるんですよ、モイラ様がある一方向に俺を誘導しようとしてんのは」


 社築は英雄ではない。


「何の話ですか?」

「ここに並べたカードから恩恵を選んでくれ、じゃないと普通はオカしいんスよ、こういうのは」


 重ねて繰り返す、社築は英雄ではない。


「でもモイラ様はこう言った。『なら自分で考えたら良いじゃないですか』って。それは違う。『即死チート』なんて単語知ってる貴女がその言い草は正直有り得ない」

「そこまで言います?」

「言いますよ。ついでに言っちまうと、この空間だってモイラ様がチョイスしたんでしょう? 俺がオタクだから。『分かって』っから。ぶっちゃけ『この〇ば』のオープニングリスペクト丸出しじゃないですか、ここ。この空間」

「だとしたら? なんなんです?」

「だとしたら俺はオヤクソクに則ってここにあるカードから能力を選ぶことは最初からしちゃいけないって事になる。突拍子もない提案をしなきゃいけないって事になる」



 だが、知っているだろうか。英雄は最初から英雄ではないということ。



 だから女神モイラは優しく問う。それが規定事項であるように。

「社さん、受けたい恩恵を教えて下さい」

 社築は目を閉じる。今、この瞬間から彼の異世界転生が始まる事を、肌で理解していた。

「俺が選ぶ恩恵は――」



 重ねて重ねて繰り返す、社築は英雄ではない。

 英雄が最初から英雄ではないのは確かだが、しかし英雄になれる人間はごく限られている。それが現実だ。そして社築は英雄になれる器では決してない。そんなことは彼本人が誰よりも一番よく分かっている。



「――家族、で」



 だから、彼にとっての「ヒーロー」を頼る。

 これは決して「彼」の異世界転生の話ではない。これは「彼ら」の異世界での話である。

 目を開ける。眼下に広がるはずの新しい世界を、風を肺いっぱいに吸い込むよりも早く、彼は電光石火で土下座をしていた。

「「「やしきずゥゥゥッッッ!!!!」」」

「この度は、本当に! ほんッとうにィッ!! 申し訳ございませんでしたァァッッ!!!!」

 そう、その愛する家族の姿を認めるよりもなお早く。それは人間の限界速度に挑んでいるようだった。

 とにかく謝罪だ。社築はこの状況を出来得る限り穏便に済ませる方法を他に知らなかった。誠心誠意の平身低頭、許されざる内容であることは分かり切っている。地面に頭を擦り付け妻に、そして子供たちに許しを請うに彼には何の躊躇もプライドも無かった。

 普通ならばここまで哀れな男の姿を目の当たりにして、それ以上の追及はしないものなのかも知れない。普通ならば。

 だが。彼の家族は普通ではない。

 だから彼の後頭部は遠慮も戸惑いも無く踏み抜かれるし、「あ……え、そこまでする、母さん?」そこに体重だって掛けられる。

「ぶえっ、ド、ドーラ!? 口に砂利が!! 砂利が!!」

「知るか、戯けぇっ! 築、お前という男は性懲りも無く! いや、なお悪い! 今回は何だ! 体調管理を怠って死んだ、だと!? ふざけるでないわっ!!」

「ご、ごもっとも」

「釈明は有るか!? 無いな!! では、今度という今度はこの儂自ら引導を渡してくれるわ!!」

 余りの逆上っぷりに本末転倒が甚だしい母親を、見かねて娘がその腰に抱き着いた。

「ちょ、助けに来たのにそのムーブはただのヤンデレや! ドーラ、落ち着いて! 落ち着いて!」

 ドーラ、と呼ばれた女性はその唯一と言って良い泣き所に宥められ、ふうふうと肩で息を吐きながら少しづつではあるが平静を取り戻すことに成功したようだった。

 足を社の後頭部からは離すことは無いまでもそこに掛ける力には若干の手心を加えつつ、ドーラは周囲を見回した。自分の腰に手を回し、こちらを心配そうな目で見上げる少女と、付かず離れずの場所でこちらを困り顔で見ている少年の姿を確認する。

 二人は社とドーラの、それぞれ娘と息子である。

「儂が何よりも許せんのは、『異世界転生』じゃったか……こんな過酷な事に子供たちまでも巻き込んだことじゃ! どことも知らぬ世界で善行を成し遂げよ、などと。そもそもこのような事儂だけで良かったであろうに。事もあろうにひまわりと葛葉まで巻き込みおって貴様は!!」

「面目次第もございません!」

 娘と息子は敏感に察する。あ、これのろけだ。喧嘩に見せかけたいつものやつが今日も始まったのだ、と。

 「儂だけで良かったであろうに」。その言葉の真意を察せられないのは実に当人とその相方ばかりであり、このままでは周囲は共感性羞恥を一方的に味わう事になるのであった。

「儂がファイアードレイクの姿で召喚されてなくて幸いだったな! 完全に頭に血が上っておったから、貴様の頭蓋など今頃地面と同化しておったであろうに!」

「お慈悲に心より感謝しておりますッ!」

「何か言い分は有るか、築ッ!」

「御座いませんッ!!」

 コミュニケーションと呼ぶにはそれは余りにも社とドーラ、両者の頭の位置が違い過ぎたが、それでもクレー射撃めいたものであるとは言え会話が成り立ち始めた。とりあえず父が開幕の事故死だけは免れたと判断した本間ひまわりはドーラの腰から手を放し、弟、葛葉の元へと歩き寄る。そこで初めてひまわりはここ、異世界のスタート地点が台地の縁であった事に気付かされた。

「うわあぁぁっ!」

 歓声が上がった。崖の先に広がる世界はどこまでも広く、拡く。まるで視覚範囲が拡大していくような錯覚が少女を襲う。圧倒的な、スケールがそこには待っていた。

 世界とは本来人間の手に余る代物である。その本質を伝えるような、ただただ単純な大きさの暴力が少年少女の網膜を焼く。

「ぁんだ、これ!! やべえぇぇっっ!!」

「ああ、やべぇな。コイツはちょっと日本に住んでちゃお目にかかれねーわ」

 語彙力を失った姉に弟は口角を上げて同意を返す。続く青緑の平原は果てが無く、地平線は砂塵に霞む。右手側、遠く映るのは赤い森。どこからか滝の音が聞こえている。

「もはやARKじゃん、こんなの!!」

「いやいや、ARKじゃねえし。現実だし。とは言えその感想は俺にもワカル」

 姉弟は顔を見合わせる。二人とも、鏡映しのようにその顔は喜色満面である。そして声を合わせた。

「「冒険だァッ!!」」

 その目はきらきらと、まるで子供のように、宝石のように。幼いころにヒーロー特撮を、魔女っ子アニメを毎週追いかけていた時のように。

 それ以上の彩度で。

 一しきり目を輝かせた後で「そんでさ……」と葛葉が切り出す。ひまわりには彼が次に何を言い出すか察せてしまっていた。

「アレ、どうするよ?」

 アレ――アレである。

「ほっといたら一生やってそうやんな、アレ」

 二人は首だけで振り返り両親の姿を覗く。社とドーラは無限に続く断罪と謝罪のループのただ中から抜け出せずにいた。地獄や、とひまわりは即座に理解する。あの中に割って入るのも、母親を宥めすかすのも。

「母さん、俺たちのために怒ってるんだろうな」

「やな。せやから許すに許されへんくなっとるんよ」

 恥ずかしい分析を子供たちからされてしまうファイアードレイクの姿が、そこには有った。

「ああ、なーるほろ」

 思っていた以上に母親を理解している弟に内心舌を巻くひまわりだった。その事に自分よりもともすれば大人なのではないか、姉としての尊厳が危ういのではないかという一抹の不安と、葛葉のくせに生意気だというジャイアニズムがムクムクと鎌首をもたげてくるのであった。

「なら、仲良く喧嘩させとくぅ? トムとジェリっとくぅ?」

「いや、俺腹減った。姉ちゃん、なんとかしてくれ」

 肝心なところは絶対に人任せにする末っ子気質はとても年相応とは思えないが、それが葛葉という少年――もとい吸血鬼の人となりだった。

「なんとかってご飯調達しろってこと? それは無理やよ。ひま、サバイバルの経験はゲームでしかないもん」

「俺だってねーよ。大丈夫だって、その辺うろついてりゃドードーの一匹や二匹出てくんだろ」

 どうして二人から両親の仲を取り持つという選択肢が出て来ないのか。それはつまり、その選択が論外であるというその一点に集約される。だれが進んで地雷処理になど行きたいものか。てぇてぇなどリスナーに任せて押し付けておけば良いのだ、と。それが二人の共通認識である。

「……ドードー出て来たとして、食べるの?」

「そりゃ食うでしょ。弱肉強食は世界が変われど鉄の掟よ」

「え、だって殺さなきゃいけないんだよ!? 羽毟って皮剥いで内臓処理して!」

「……よーし、ほんひま。あの二人はほっといてスーパー探しに行くぞ。現代っ子の俺らにゃパック詰めされた肉以外無理だ。吐く」

「弱っ! 葛葉弱っ!」

>>17>>18の間

「後は……やしきずのためでも有るのかもな」

「ん、それはどゆこと?」

「分っかんねえかなあ、姉ちゃん。ここで滅茶苦茶に怒っておく事によって、父さんの持っているであろう俺たちを巻き込んだが故のなんっつーの……罪悪感? それにケリをつけてやろうっていう」


コピペミスです

というわけで今後時折来て「ド葛本社×異世界転生」書かせていただきます
よろしくお願いします

今日はここまで

おつおつ

待ってる

乙、応援してます

 姉の軽口には気も留めず葛葉が歩き出し、ひまわりはその後を追った。弱いという発言に気を悪くしたのではないことは姉には理解が出来ている。この程度の丁々発止など彼らの間では日常茶飯事であった。

「どこ行くん? 当ては有んの?」

「無えよ、そんなん。けど水の音がした。ってことは近くに川がある。川があるってことはその流域に集落がある可能性は極めて高えんじゃねえの?」

「おおー、賢い。……お前、本当に葛葉か?」

「殺すぞ、馬鹿。川の付近から文明は産まれるって姉ちゃん、歴史の授業の一番最初に習うモンだろが、フツー。学校行ってねえのか、不登校児ですかァ?」

「お? それくらいひまだって知ってるし」

「そか。なら四大文明の名前言ってみろや?」

 言いながら姉の先を歩く吸血鬼はごく自然に歩きやすい道を選択して台地を降りていた。それは一見分かりにくいが、姉への思いやりからくる行為である。彼が例えば一人であるならば、真っ直ぐに水音向けて険しい道を直進したであろう。

「え、えーとアフリカ大陸……?」

「文明、っつっただろうが! 誰が人類発祥の地を聞いてたんだ、オラァ!」

「……はっ!? ヨーロッパや! ヨーロッパ文明!」

「どこの川沿いに築かれた文明だ、ソイツは! 酔っぱらってんのか! 眼ぇ開けて寝てんじゃねえぞ、ほんひまァ!」

「はぁ? ヨーロッパめっちゃ川有りますしぃ。ヴェネツィアとか水の都ですしぃ。え、葛葉くんもしかして知らないのぉ?」

「無知なのはオメーの……と、ちょっとそこで止まれ姉ちゃん」

 どこまでも続くと思われた軽口は唐突に中断され、一段葛葉の声のトーンが落ちた。その様子に本間ひまわりはビクリと体を震わせる。これと同じような経験は現実世界で何度もしてきた気がしたからだ。そう、それは一人称視点型ガンシューティングなどで。

「……敵?」

 声を押し殺し、恐る恐る少年に少女が問いかける。葛葉は手近な茂みに向けて親指を指し示した。そのハンドサインの意味を即座に理解した姉はなるべく音を立てないようにそこへと身を屈めて移動する。

「居る。数は三」

 確信を持ってそう言う弟の横顔は歴戦の兵士の持ち物によく似ている気がするなどと、ひまわりはぼんやりと思う。異世界、初めて迎える未知との遭遇。でありながら不思議と不安を少女は感じていなかった。

「まだ距離が有るっぽいから小声なら喋ってもいいぞ、姉ちゃん」

 顔を前に向けたまま、そう言う弟をひまわりは全力で信頼していた。葛葉が居るから大丈夫だ、と。

「第一村人発見、とかではないの?」

「それだとありがたいが今回は望み薄だな。人間は鳥みたいにギャアギャアなんて鳴き声でコミュニケーション取らねえ」

「そっか。……ドーラたちのところに一度戻った方がよくない?」

「気付かれて後ろから襲われるのとどっちがマシか考えたら正直ここでやっておくべきだと俺は思う」

 背後から襲われる怖さをこの二人はよく知っていた。それは戦力差を容易く覆す。何百回何千回と潜り抜けた仮想の銃撃戦はこの姉弟をプロの兵士もかくやと言わんがばかりの戦況判断の鬼へと変貌させていた。

「でも、武器が無いよ」

 ひまわりの指摘に葛葉は取り合わず立ち上がった。

「……ねーちゃんはそこでちょっと隠れててくれ。最悪、走ってきた道を引き返せよ?」

 慌てて弟に声を掛けようとするも、しかしひまわりは少年の表情を見て声を失った。

 犬歯を剥き出しにし、嗜虐の喜びを覗かせる目。力を込めて開いた両の手は長く鋭い爪を備え、その様は肉食獣をすら思わせる。

「正直、『俺』がこの世界でどんくらい通用するのか最序盤の内に一回試しておきたい」

 ニートゲーマー、葛葉――本名アレクサンドル・ラグーザは実に齢百歳を超える吸血鬼である。何の因果か完全無欠にただの人間の姉と父を持つ羽目に陥ってしまったが、そこに血の繋がりは存在しない。

 戦闘能力で言えば生来、人間など足元にも及ばない種族である。

「葛葉……そういやお前そんな設定有ったな?」

「設定言うなし」

「任せて、ええんやな?」

 手伝う事など出来ない少女は――足手まといになることが分かっているから隠れている事しかできない少女は、恐る恐る聞く。その恐怖は吸血鬼という種族に対してのものではなかった。もしかしたら、万が一、弟を失うことになったらどうしよう、と。信頼と恐怖、正反対のその感情はしかし矛盾せずひまわりの胸中をぐるぐると回るのだった。

「当たり前だ。ちょっとグロいかも知んねえからあんまこっち見ないでおけよ」

 言うが早いか、葛葉は駆け出す。ひまわりはその背中をきっと見つめた。

 弟の初陣から恐怖で目をそらすような姉であってたまるかという意地の一心から、彼女は溜まり始めていた涙を袖で一度拭って歯を食い縛り、その行く末を見守ることにした。

次回、「葛葉、死す」
デュエルスタンバイ!

死んじゃったよ!?

 見守られている側、葛葉は初陣でありながらほとんど緊張はしていなかった。それもその筈、初陣なのはこの世界においてでしかない。

 嘘みたいな本当の話、葛葉の戦闘経験は豊富である。ゲームでの話ではない。実践の話で、実戦での話だ。

 アレクサンドル・ラグーザ――彼の実家の魔界での職業は衛士。つまり、元職業軍人である。ひまわりは先ほど弟の横顔をして「歴戦の兵士に似ている」と評したが、似ているどころでは本来は無い。

 そのもの、だ。

「……体内の魔力循環は正常。黒剣錬成、スタンバイ。羽は……森ン中じゃ逆に邪魔か」

 葛葉は駆けながらぶつぶつと呟き、初戦にあたって体の各部を丁寧に一つ一つ確認していった。手の中に凝縮させた夜の残滓を剣に、あるいは大鎌に、あるいは斧に次々と形を変えさせて、そこに何の抵抗も感じない事から自分の本来の戦闘能力が微塵も制限されていないという仮定に行き当たる。

「それはヤベぇでしょ、モイラ様……」

 程なくして視界が開け、そこには葛葉がにらんだ通り三匹の生き物――亜人が待ち構えていた。

「ギャギャッ!」

「ギャァッ! ギャッギャッ!」

「うるせーよ、何言ってんのか分かんねっつの。月木の朝にゴミ捨て場に群がるカラスか、てめーらは。駆除するぞ、駆除」

 軽口を叩きながら、しかし慎重に相手を観察する。身長は自分の半分ほど。黒緑色の肌に饐えた臭い。ほとんど形だけの粗雑な造りの皮鎧を着て錆の浮いた短剣や手斧をそれぞれその手に構えている。葛葉には見覚えが有った。魔界に居た時には小銭稼ぎによく狩った相手だ。

「ゴブリンか……まあ、鳴き声に聞き覚えはあったんだよな」

 その声は露骨に落胆が混じっている。しかし、それは相手が強敵でなかった事への不満ではない。

 じっと敵を見据えた所で「HPバーが見えない」「モンスター名が視界に表示されない」といった風に、ライトノベルでのオヤクソク(とは言え葛葉は小説のアニメ化を見る勢であったが)がこの世界ではまるっと無視されていた件に対してだった。

 ユーザーインターフェイスが行き届いていない、と葛葉は思わず天を仰いだ。

 ゴブリン達は少しの間、こちらに走って現れた目前の背の高い亜人種を警戒していたが、しかしその手に武器は見られず、なによりもこちらの姿を認めても襲ってこない。身体の小さなこちらを認めてなお攻撃に移らない生き物はすなわちすべからく自分たちの獲物である。ゴブリンのDNAにはそう刻まれていた。よって本能に従ってゴブリンは即座に狩りを開始する。

「ギャッギャギャー!!」

 三体は揃って飛び掛かった。正面から、右から、左から。的を絞らせぬ三方向。一匹が対処されようが残り二匹が確実に息の根を止める。いっぺんに襲い掛かれば大型の肉食獣や、ともすれば武装した人間の兵士すら一方的に蹂躙出来るというそれは小鬼の知る唯一の兵法であった。

 シンプル、故に強力。目の前の人間など一たまりもない。

 ――はずだった。

「シッ!!」

 少年の裂帛の気合とともに放たれた何かによって、先ず正面を担当していたゴブリンが声も上げずドサリ、その場に崩れ落ちた。両サイドを担当していたゴブリンはそれぞれ困惑に足を止めてしまう。

 今のはなんだ? この男は一体何をした?

 男は丸腰。拳が届くにはまだ距離が有った。だからと言って飛び道具を持ち合わせてはいる訳でもない。暗器か? それとも……いや、人間のレア種、魔術師にしては詠唱が行われていない。果たしてほんの数秒でゴブリンにそこまで考えが回ったかは分からない。

 しかし少年の「得体の知れなさ」だけは彼らに十分に伝わっていた。

「……黒剣錬成はキッチリ働く、と。この分だとチャームや蝙蝠化なんかも特に問題無く働くんだろうな……あれ、だとしたら何コレ? ヌルゲーじゃね?」

 葛葉は一瞬にして両の手に闇を纏わせるとそれをゆっくりと左右二体のゴブリンにそれぞれ照準した。慌てる必要はどこにもない。ゆっくりと照準する時間がそこには出来てしまっていた。

 ゴブリン達は動けない。それは死の恐怖か、生への諦念か。

 そして一度目と同じように葛葉はその掌の闇を剣の形へと変貌させ射出する。今度はそこに気合すら伴わなかった。

 正しく作業。結局、ゴブリン二匹には安易な敵対を、もしくは本能を、後悔する余裕すら与えられなかった。

 首から上を失い、断続的に血を流す装置と化したそれを吸血鬼は感慨の無い瞳で見つめる。生理的嫌悪感すらそこには浮かんでいなかった。普段の彼であればこんなことはまず無いだろう。

「お前らは血すら不味ぃんだよな……昔、兄弟に騙されて飲んだ事有っけど」

 スプラッタ。有機物の死体は本能的な怖気を呼び起こすものだ。少なくとも本間ひまわりの知る葛葉という少年ならば、この惨状を見て胃の内容物を地面にまき散らす作業に躍起になるはず。その冷たい瞳は――解釈違い。恐慌など最初から世界に無いかのように彼は振舞う。

 実際、戦士アレクサンドルにそういった感情は無い。いや、より正確に言えば「有ったのかも知れない」。忘れたのではない。無くしたのではない。事実として「葛葉」である間はこういったものに恐怖も吐き気も感じている。

 アレックスにとって「それ」は邪魔なだけ――だから殺している。

「俺、こう見えて割とグルメなヴァンパイアだからさ」

 そう、どこまでヒトに寄り添っても彼は、本人の言うとおりに本質はアンデッドであっただけの話。

 しっかしなあ、と葛葉は地面に崩れ落ちたゴブリンの首無し死体、あるいは生首を見ながら思う。酷いところに飛ばされたものだ、と。ああ、本当に。考え得る限り最悪とも思える類の異世界である。

 彼曰く「ヌルゲー」。でありながら「考え得る限りの最悪」。しかし、この二つは決して矛盾せず共存する。

「……獲物には当然に毒、か」

 しゃがみ込んで検死するアレクサンドル・ラグーザはゴブリンの持っていた武器が粘性の液体を付着されていることに気付く。吸血鬼である自分にこういった毒の類は効かない。だが、それは自分が特殊なだけだ。もし、一かすりでもしてしまえばこれが例えば人間ならばどうなるだろう。

「容赦が無ェな。この世界、甘さが足りてない。微糖……ビトゥー……」

「くずはー! 何も聞こえんくなったけど、終わったんかぁー?」

 背後から声が掛かる。俺がやると言っておいたのに、あの馬鹿と少年は独り言ちた。

「おー、終わった終わった。心配ないからそれ以上こっち来んなよ。俺がそっちに行く」

 この光景を姉が見たら卒倒しかねない。かと言ってこれ以上待たせたら寄って来かねない。まだ調べたい事は有ったがしぶしぶと葛葉はその場を後にする。

「どうだった?」

 言いながら茂みから姿を現す姉に、弟は頭痛を感じ額を押さえた。

「おい、なんでちょっと俺の方に移動してんだよ。隠れてろって言ったのあそこだろ」

 少し奥を目だけで指し示しながら葛葉が言う。ひまわりは胸を張った。

「そりゃあね」

 なにが「そりゃあね」だ。弟の心、姉知らず。口に出してしまいそうな「検死結果」を、葛葉は済んでのところで飲み込む。

 言う必要は無い、少女には。吸血鬼は思う。しかし、ファイアードレイクには伝えておくべきだろう。

「姉ちゃん、ちょっと二人のトコに戻ろう」

「え、なんで? ご飯は?」

「それなんだけどな。モンスター倒しても金っぽいアイテムを落とさなかった。つまりスーパー見つけても俺らはこの世界の通貨を持ってないから何も買えねーんだわ」

 虚偽は言っていない。だが、ドーラと社の下に戻る理由は別。出来るだけ早く警告をしておくべきだろう、と葛葉はそれだけを考えていた。

「うっせやろ!? ドロップ無いの?」

「無い。割と心臓に悪いリアル『剥ぎ取り』をすればアイテムドロップは有りそうだったけどな。目玉とか心臓とか」

「うわキモ!  わたし遠慮しとくわ。葛葉やりぃよ」

「え、ヤだよ?」

「まあ、せやわな。……しかし、そか…………そうかぁ……」

 ひまわりは一人、納得して葛葉の隣を歩く。二人には頭一個分以上の身長差が有り、自然、姉は弟を見上げるような角度になってしまうわけだが。

 そうして窺った弟の横顔は、戦闘前にも増して険しかった。

「…………って事は本格的にサバイバルやなぁ」

 自分に無用な心配をさせまいとしている弟の意思が見て取れる、焦燥を隠し切れていない「それ」はこの異世界旅行の前途多難を暗示するようにひまわりには見えた。

 一方、その頃。

 社築は手近かつ手ごろな大きさの石に座り異世界の攻略を始めていた。

「『ステータス』! ……これじゃないか。『メニューウインドウ』! ……これも外れかよ」

 ただし、その結果は惨憺たるものであり、お世辞にも結果が出たとは言えないものであったが。

「築、ほっといたらお主そのうちに『ペルソナ』とか叫びだしそうじゃな」

 ファイアードレイクは溜息にごく自然に炎を混じらせる。同じく石に座り込んだ彼女は手の中の兎(に酷似した四足獣)を器用に爪で肉へと解体していた。

「まあ、異世界ならATLUSの魔の手(権利者許諾)も及ばないだろうから、近いうちに試すと思うが。にしたって多分この方向からのアプローチは失敗だな。さっきからまったく手応えが無い」

「じゃろうな。そういった世界ならばほれ、このような手間が要らん」

 開いた兎の腹から取り出した内臓の類を指先で摘まんで見せつける妻に、社は思わず非難の声を挙げてしまう。

「うわあ、それ実物は地味にグロい」

「これだってゲーム的な世界であったらば兎に止めを刺した時点で肉になるじゃろうな。じゃが、そうではない。毛を焼き皮を剥ぎ内臓を取り出しと精肉に大変手間がかかる。ゲーム脳は捨てろと、そう声高に言われておるよ、これは」

 奇しくも葛葉がゴブリンの死体から推理した内容に、こちらの夫婦も同じく死体からするすると難無く辿り着いていた。

「やっぱそう? ま、薄々勘付いてはいたんだよ」

「だったらなぜ奇声を上げる事を止めぬ? まあ、もしもどれかの単語が引っ掛かったら儲けものじゃから止めはせんが」

「ああ、ええと……それは、だな」

 言い淀む社。

「どうした? 言いにくい事か? お主がオタクであるなど文字通り『イタい』ほど知っておる」

「今、痛いってわざわざカタカナ表記にしたよな?」

 ツッコミには無反応でドーラは続ける。

「知っておるから、そこに少年の冒険心のようなものを感じてしまっていると言われても今更ワシは何も驚かんぞ?」

 少年の冒険心と書いてオタク心と読ます、などと内心一々に注釈を付ける社は今日もオタクくんだった。

「……その、異世界転生モノだったらこういったユーザーインターフェイスってのは在って当然みたいなところが有るじゃないですかァ」

 それは異世界転生の中でもゲーム世界に限定されていると、思ったが口には出さずドーラは夫の言葉の続きを促す。

「ふむ、それで?」

「さっきドーラも言ったけど、もしそういった『ゲーム的』って言うのか? 要素が有るんだとしたら、それは一番にでも研究しておかないとってレベルで重要なヤツじゃん」

「まあ、一理も無いわけでは無いの」

「だろ!?」

 妻のほんのわずかな同意に食い気味で乗っかっていくその姿は今日も以下略。

「大概、異世界ラノベ作品だとその辺、つまりゲームシステム的な部分が攻略の肝になってるんだよ!」

「……メタが過ぎるわ」

 呆れ顔のファイアードレイクは苦笑しながら二匹目の兎の処理に取り掛かる。手練も勿論だが、何よりも道具が無ければ精肉工程などこなせない。包丁やナイフの類は全て、その鋭利な赤い爪が補っていた。

「ただ、そういった類の知識は今回まるで役に立たなそうじゃの。ほれ、見てみい」

 ニンマリと笑いながらドーラはまたも兎の内臓を社に見せつける。青年の眉がへの字に曲がった。

「これが現実じゃ」

「いや、でもさ。だったら俺の持ってるアドバンテージゼロじゃね?」

「それはRPG的な知識が何の役にも立たないという意味か? ああ、それが理由でさっきから意地になってゲーム用語連呼してたんじゃな? 異世界におけるごく普通の人間って自分の無力感が気に入らなかったわけだ」

「イエッサー」

 冷静に分析され社はがっくりと肩を落とす。この妻には隠し事はどうやら出来ないらしい。

「安西先生……異世界チート転生が……したいです」

「だからと言ってそれは本音が過ぎる。笑えん」

 ファイアードレイクはいまだ後頭部に足形を残した自分の連れ合いを、しかし言葉とは裏腹に頼もしく思っていた。

 自分以外に大人がもう一人居る。しかもそれが気心の置けない間柄であるという事実、それだけでドーラにとって社築の存在は異世界において十分大きなものだったからだ。だが、それを本人に言うのは憚られた。

 ドーラは何より悔しいのだ。そこに安心感を覚えてしまう自分が。だから、振り払うように戯れに社を貶す。

「儂ら家族の存在がチートより劣ると思っていそうなのが、一等笑えんな」

「滅相も御座いませんッ!」

 高速で平伏する自身の夫の姿に満足感を覚えつつ、火竜は予め集めておいた木の枝に自身の吐息で火を点ける。

「本当かのう?」

 クスクスと、ああ、こんな事態に遭ってすら自分を笑わせてくれる人間種にドーラは、ファイアードレイクは確かに心を奪われている。


これ書き始めてから
クラフトピアに社築のMMDぶち込んで撮った「異世界転生初日の社築」スクショとか
花畑チャイカによる「社は働き過ぎだから一度死んでもらって」発言とか

なんかもう、もうねえ! なんかねえ! タイミングってのがねえ! 良いねえ!!

待ってたぜ

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