ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 case.封印種子テスカトリポカ (65)

事件簿二次創作。最終巻までのネタバレあり

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「……大丈夫ですか、師匠」

「も、問題ない」

 どこかからどう見ても問題の"ある"様子で、自分の師匠であるロード・エルメロイⅡ世は応えた。どう問題かというと、控えめに言って今すぐ死んでも「ああ、やっぱり」と納得してしまいそうなくらい生気がない。

 だが、それも仕方ないことと思われた。師匠の体力の無さは今更だが、加えて環境がすこぶる悪い。簡易的な"強化"を施している自分とて、この場における疲労感は誤魔化しきれるものではなかった。

 周囲は見渡す限りの植物に覆われている。そのおかげで直射日光にさらされることはなかったが、それでも気温は30度を超えるだろう。何より湿度は最悪のひとことで、むわっとした熱気とそれに付随する濃い密林の匂いは常に鼻腔を苛んでいた。

 野放図に伸びた木々とその枝は、太陽光線から我々を守ってくれる傘というよりは、ここに閉じ込める為の檻といった印象の方が強い。周囲に渦巻く濃密過ぎるマナもその要因ではあるだろう。

 一般的に知られるこの地の密林とは、気候も植生も異なっているらしい。強大な地脈の影響だという。

 事前に貰っていたライネスの忠告通り、自分はそれらしい格好に着替えていた。吸水性・揮発性に特化した肌着の上に、通気性に優れたウェア。さすがにこの環境でフードは被れない為、フラットの幻術で顔を変えて貰っていた。今回はいま首にかけているペンダントを基点にしたそうで、着脱するだけでオンオフが切り替えられるよう改良されている。起動してから十日ほどはもつそうだ。

 もっとも、同行を強く願い出たフラット――最後は自分の旅行鞄の内部空間を魔術で拡張してそこに隠れようとした――を師匠がアイアンクローで黙らせることになってしまった為、このペンダントが胸の上で弾むたび、罪悪感で心の底の方がチクチクと痛んだ。ちなみに師匠に見て貰ったところ、この礼装を量産できればエルメロイの借金が1割くらい減るらしい。フラットの魔術の特性上、複製など夢のまた夢ではあるが。

 とまれ密林を歩くなら、服装には気を使わなくてはならない。選択肢は概ね二つ。高温多湿の環境に耐える為半袖半ズボンにするか、虫食い対策にある程度快適さを捨てて薄手の長袖を着るか。自分は露出への気恥ずかしさから後者を選んだ。当初はフードが無いことに頼りなさすら覚えていたが、緑の檻に包まれてから10分でそんな些細な心配事をする余裕は消えうせている。

 一方師匠はというと、変わっているのは髪を後ろで大雑把に束ねているくらいで、一見いつも通りのスーツ姿に見えた。が、実際のところはいくつかの耐環境魔術が組み込まれている、今回の為に用意した簡易礼装であるらしい。とはいえ、性能的には自分が着込んでいるウェアと大差はなく、それなのに値段を比べると大分高額だ。

 腐ってもロードである以上、最低限の威厳を示すために必要だ、とは師匠の言である。致命的にスポーツウェアが似合わず、試着した姿をライネスに大笑いされたことは関係ないらしい。

 どちらにせよ、文明の利器も魔術も大いなる自然の前には敵わないという点では一緒だった。険しさは剥離城アドラの時の山道とは比べ物にならない。とめどなく流れる汗が頬を伝い顎から滴る感触は最初こそ不快なだけだったが、いまはそれを通り越して純粋に危機感のようなものを募らせている。何の危機感かと問われれば、着実に脱水症状へ近づいていることに対する危機感と言う他ないが。


「うむ、シンデレラよ。死ぬ前にこの水を飲むと良いガオ」

「……あ、ありがとうございます」

 横合いから妙な訛りのある英語と共に差し出された、竹製の水筒を受け取る。

 差し出してきたのは、一言でいえば怪人だった。年齢は20半ばの女性で、顔立ち自体は整っているといっても良いだろう。

 だがその恰好は滅茶苦茶だった。妙にゆったりとした民族衣装のようなもの――化野菱理の身に着けている振袖に似ていたが、華美さは全くない――に身を包み、どうやら水筒と同じく竹で出来ているらしい棒のようなものを手にしている。竹を割って作った4枚の板を組み合わせ、それを皮や弦で固定した武器のようだ。柄尻でジャガーを象ったストラップが揺れていた。彼女はこれをバン・ブレードと呼んでいる。恐るべきことに、メキシコ空港からずっとこの恰好だった。

 ティグレ・ヤガーと名乗ったその女性は、師匠が魔術協会の支部伝に雇った現地のガイドらしい。だが褐色がかった肌色はともかく、顔立ちはここに来るまでに見た現地人のものとは違うように見えた。それこそ、自分の知っている中では菱理や蒼崎橙子に近いように思える。あくまで顔立ちは、という話で、人物としての印象はむしろ真逆だったが。

 もっとも、いまはそんなこと気にもならない。水筒の栓を抜き、水をあおる。自分で持って来た分の水は腰のホルダーに括りつけていたが、取り出す手間すら惜しい。こくり、と染み込ませるように少量を含むと、その清涼感に全身が打ち震えた。

「……す、すまないが私にも貰えないか」

 震える手をこちらに伸ばしながら、師匠。砂漠を数日間も彷徨った遭難者のような悲愴さを漂わせている。目線で水筒の持ち主に許可を求めると、どうぞどうぞと身振りで示してきたので手渡す。師匠はお礼もそこそこに、ぐびぐびと中身を喉の奥に流し込み始めた。

「イッヒヒヒヒヒ! 間接キスならお前が後の方が良かったんじゃないかグレいてっ!」

 背負ったザックのサイドから声。そこで揺れている、布で包んだアッドを肘で一度打つ。密林を歩くのに両腕は自由になっていた方が良いとの判断からこうなったわけだが、お仕置きに振り回される危険性が減ったことを悟ったアッドのおしゃべりは常に比べて酷くなっていた。肘打ちはこの密林に入ってからしばらくして見出した、現状自分ができる精一杯の反撃である。

 だがそれもそろそろ打ち止めだ。アッドの軽口を容認するのと、肘打ちに要する体力を天秤にかけ始めている自分がいる。この場所では、無駄な体力を使う余裕は本当にないのだとそろそろ実感していた。

 中米はユカタン半島の熱帯雨林。いわゆるジャングルの真只中に、自分たちはいるのだ。

          *

 切っ掛けは二週間ほど前に遡る。あの激動の冠位決議の後、スラーの再建が終わり、ようやくかつての日常が戻ってきた頃だった。

 いつものようにアパートに呼び出され、師匠が借りている部屋のドアの前で立ち止まる。髪を整える為だ。身だしなみではない。金色に変色した一房が誰の視界にも映らないように、フードの下へ掻きあげるようにして押し込む。

 事件の後、自分の身体に残った変貌の証。実をいうと、こっそり染めたり切ったりと色々試しては見たのだが、翌日には必ず元の色・長さに戻ってしまう為、どうしようも無かった。

 溜息をひとつ零してから、扉を開く。中からはすでに師匠と、もうひとつ、聞き覚えのある声が響いていた。どうやらライネスが来ているらしい。

 自分を呼んだ上でのことだから、聞かれて困る会話でもないだろう。そう判断して声のもとに向かうと、具体的な内容も耳に届き始める。

 そこで気づく。今日の師匠とライネスの会話はいつもと立場が入れ替わっていた。ライネスが押し付ける無茶振りに師匠が苦言を呈することが多いのだが、今日は逆のようだ。

「……しかしね、我が兄よ」

 奥から響いてくるライネス・エルメロイ・アーチゾルテの声が、具体性を保ったまま、後ろ手に部屋の扉を閉めるこちらへ到達した。

「いささか以上に、性急すぎる選択だと思うがね」

「……座して待っていて好転する状況でもあるまい」

 これまたいつも通りの不機嫌そうな表情と声音で、師匠が応じるのが聞こえる。歩みを進め部屋の中を覗き込むと、二人が挟んで向かい合っているテーブルの上には、何枚かの資料らしき書類と大きな地図の様なものが置かれていた。拡大されている為、当時の自分にはそれがどこの地図か分からなかったが。

 自分で淹れたのであろう紅茶を不味そうに啜りながら、師匠が続ける。

「私の個人的事情を抜きにしても、だ。これほどまでの"利権を得る権利"が、弱体化したエルメロイ派のもとまで転がり込んでくることなど、そうはないだろう」

「否定はしないよ。しかし逆に言えば、それほどまでの異常事態だということだ。火中の栗に手を突っ込む馬鹿はいない――ここに例外が生まれようとしているわけだが」

 ライネスの皮肉っぽい言葉に、師匠はふんと不満そうに鼻を鳴らした。会話が停滞するのを見計らって、その間隙に滑り込む。

「あの……グレイです。遅くなりました」

「やあ、グレイ」

 声を掛けると、ライネスがこちらに向かってひらひらと手を振って迎えてくれた。ソファに座る彼女の背後には、いつもの様に水銀メイドであるトリムマウが控えている。

「君からも我が兄上殿に言ってくれないかな? そこまで逼迫した状況でもないのに、死ににいくような真似はよせと」

「お前の持って来た剥離城の案件も、危険度で言えば似たようなものだったが」

「やれやれ、過去のことをネチネチと。まるで小姑のようだ」


「……それで、結局何の話なんです?」

 再び舌戦が再開されそうな気配を察し、先んじて質問をする。話の端々から判断するに、これまでの様な厄介事なのだとは思うが、師匠の方が積極的に介入しようとしているのは珍しい。

 質問に答えてくれたのはライネスの方だった。紅茶のカップを弄ぶように摘まみあげながら、「さて、どこから話したものか」などと呟き、焦らすように目線を虚空に彷徨わせる。

「そもそもの切っ掛けは、魔眼蒐集列車(レール・ツェッペリン)ということになる。あの時のことは覚えているかな?」

「魔眼蒐集列車、ですか」

 当然覚えている。というより、忘れられるようなものではない。

 魔眼蒐集列車は、吸血鬼――死徒、それも上級死徒の眷属によって運行される特殊な列車だ。師匠の"宝物"が盗まれた折に乗り込むことになった、現代に至ってなお伝説と名高い神秘。師匠は文字通り死にかけるし、サーヴァントやアインナッシュといった化け物には襲われるしで、良く生きて帰れたものだと思う。

 正確に言えばその後も一度だけ乗る機会があったのだが、ライネスが"あの時"というからには、彼女自身も乗り込んだ一回目の方だろう。

「ああ。あの時、兄上がメルヴィン・ウェインズに借金をしただろう?」

「え……?」

 簡単な確認作業をするような調子のライネスだが、自分には心当たりがなかった。

 メルヴィン・ウェインズ――師匠のことを本名で呼ぶ、数少ない人間。

 まさか知らない内に、師匠はあの調律師にお金を無心していたというのか。

 そんな混乱をみてとったのだろう。師匠が助け舟を出してくれた。

「ライネスの言い方では思い当たらないのも無理はない。メルヴィンが家財を質草に方々からオークションの資金を捻出してくれたことだ」

「ああ、それなら――」

 納得しかけて、しかし再び首を捻る。

 師匠が言っているのは、オークションを引き伸ばすために競り合いに介入した時のことだろう。メルヴィンは電話一本で自身の何もかもを質にいれ、親友と呼ぶ師匠にベットしてくれた。だが、

「……あれ? でもあのオークションは結局、成立しませんでしたよね? なら、お金は払わなくて済んだんじゃ」

 そう言うと、師匠は深く溜息を吐いた。それが自己嫌悪から来るものであることは、その時は分からなかったが。

 後を引き取ったライネスは、師匠のその様子がおかしくてたまらないという風に、嗜虐に満ちた笑みを浮かべている。

「君ならその認識でもいいんだが、仮にも君主であるところの兄も同じ考えだった、というのは少々いただけない。愛すべき義妹に面倒事を押し付けていたツケが回ってきたというわけだ」

「どういうことです?」

「貴族同士での融資というのは、返せば終わりというものじゃないんだよ。その本質は金の貸し借りではなく、コネクションの結実にある。当然、貸した側が有利なね。"あの時、お前が困っているのを助けてやったのだから、一生恩に着て貰う"というわけさ。あちこちから電話一本で借金をする、なんて無茶をしたメルヴィンにもこれは当てはまる」

 言われて愕然とする。メルヴィンとは事件の後に話す機会もあったが、あの飄々とした態度の裏側には、こちらに気を使わせないようにという配慮があったのだろうか。

 そんな自分の狼狽振りに、ライネスは手を振りながら口の端を歪めた。

「ふふふ、ちょっと意地悪な言い方だったかな? 実際のところはそう大した問題でもないよ。あいつは兄上よりはよほど貴族だからね。借りる相手は出来るだけ選んだようだし、返した後の立居振舞も心得ている。そうだな、君の立場で例えるなら、この前新調したという手入れ道具を君の師匠が踏んづけて壊してしまった、という程度の痛手だろう」

「……それは」

 なんとも、どう受け取って良いのか分からない。バイト代から奮発したブラシにはそれなりに思い入れがあるが、所詮はバイト代から支払える程度のものだ。ましてや壊した相手が師匠であるというのなら、多少落ち込みこそすれ、そう引きずらない気はする。

 というより、そのケースなら師匠が自分から弁済を申し出るような――

「……ああ、つまり」

「やあ、さすがは内弟子だな。師匠のことをよく理解しているらしい。そう、その話を聞きつけた兄上が、自発的に借りを返そうとしているわけだ。それも返さなくていいような借りをね」

 集中した自分とライネスの視線を受けて、師匠は鬱陶しげに眉根を寄せた。

「……お前が言ったことだろう。貴族間の貸し借りの危うさについては」

「ああ、言ったとも。いつもそういった面倒事を誰かに押し付けている我が兄上殿には、よーく覚えて頂きたいものだ。だがね? 命を賭してまでそれを返せと言った覚えはないな」

「命を……?」

 何とも剣呑な単語だ。思わず窺うような上目づかいで見てしまうと、ライネスはむぅと呻いてソファの背もたれに体重を預けた。

「メルヴィンが借金相手に作った"借り"は、さっきも言った通りウェインズ家にとっては大したものじゃない。が、ロード・エルメロイⅡ世"個人"にとってはちょっと手の出ない領域の話なのさ。誠意を見せてくれれば、愛しい義妹が甲斐性のない兄に貸してあげてもいいのだけどね?」

「愛しい義妹とやらのアドバイスに従って、下手な借りはつくらないことにしている」

「ふん。そしてそこにいる我が兄は、あろうことかこのご時世に宝探しへ行こうとしているわけさ」

「発掘調査、だ」

 訂正するように言葉を差し挟んだ師匠は、何かを決心するように息を吐いてから自分に向き直った。


「グレイ。今回は私と一緒にメキシコまで行ってもらいたいんだ」

「メキシコ」

 急に出てきた異国の名前に、思わずオウム返ししてしまう。

 恥ずかしながら、当時の自分が持っていたかの国についての知識は非常に薄っぺらで、国名からはタコスくらいしか連想できなかった。少なくとも密林を歩くことになるなど、この時点では思ってもいなかったのである。

「最近――といっても、1年以上前だが。未調査の遺跡が発見されたんだ。時計塔が所有しているユカタン半島の原生林でね」

「時計塔が所有している……?」

 首を傾げた自分に、師匠が補足をしてくれる。

「珍しいことじゃない。人の手が入っていない土地は、魔術師にとっては色々と使い出がある。表向きは国や個人の所有となっていても、実際は時計塔全体で管理している霊地、というのはいくつか存在するんだ」

 この場合の"全体で"というのは、つまりはどこかの家や特定の派閥が管理しているわけではない、ということらしい。(「まあ、建前上、表向きはね?」とはライネスの言だ)

 仮にここで未調査の、魔術的な関連の強い遺跡が発見された場合、その発掘権を誰が得るかは時計塔的な公平さを以て決められる。つまりは陰謀と暗闘の勝利者が得ることになるわけだ。

「……そこまでする価値が? その、遺跡発掘に?」

「当然、あるとも。神秘は古いほど強力で価値が高い。年代にもよるが、当時の魔術礼装などが残っていればそれだけで大儲けだろう。イゼルマの時の、竜の血を受けた菩薩樹の葉のような規格外の呪体が出てこないとも限らない。コーンウォールを片っ端から掘り返すような無茶をした家もあるほどだ」

「はぁ……でも、それだけの価値があるなら、その……」

「そうだ。弱体化したエルメロイにそのような権利を獲得する力はない。最初に獲得したのはトランベリオだった。正確には、"最初の発掘権"を手に入れた家は、ということだが」

「トランベリオ……それは確か、民主主義派の」

 冠位会議を経て、自分も少しは時計塔の派閥について知識をつけている。

 三大貴族の一角、トランベリオ。民主主義派の首魁と言ってもいい存在だ。発掘権の獲得を果たしたというのも頷ける。しかし、"最初の"?

 疑問を口にすると、師匠はいつものように答えを返してくれる。

「公平を建前にしているからな。成果が出ている限り調査は継続できるが、失敗、あるいは権利を放棄すれば次の者が……というわけさ。だが本来、二番手以降の者に権利が回ってくるなどいうことは起こり得ない。先ほども言った通り、未調査の遺跡の価値は計り知れないからだ。仮に礼装や呪体が出てこなくとも、遺跡の造り自体が当時の魔術基盤の重要な資料になり得る。万全の体勢で挑むだろう」

「けれど、失敗した?」

 先述の理由でエルメロイまで発掘権が回ってきた、ということなら、今のところ発掘にはどの派閥も成功していないという理屈になる。

「もちろんトランベリオの本家が動いたわけじゃない。実際に行動したのはその分家筋だが、十分な力は持っていた。準備にも粗はなかったと言えるだろう。少なくとも、発掘チーム全員が行方不明になる、なんてことは誰も予想していなかったさ」

「全員が、行方不明……あの、師匠。それって、物凄く危ないんじゃ」

 言いながら、窺うようにライネスを見やる。不安げな自分の表情を見てだろう。彼女はにんまりとした笑みを浮かべながら、こう付け足した。

「その後も都合三度派遣された調査チームの全てが同じ轍を踏んでいる、と結べば完璧だ。50人近い魔術師が挑んで、ただのひとりも生還していない、とね」

 そもそも弱小のエルメロイ派が5番目に権利を手に入れられた理由も、他のロード達があまりの異常さに様子見を始めたからだという。

 ……それは、本当に危険だということを意味していた。

 魔術師とは、基本的に死に難い生き物である。魔術刻印が宿主を生かそうとするというだけではない。魔導の要は"継承"にあるからだ。自身の魔術を子孫に伝え、根源を目指し続けるシステム。故に、彼らは絶滅と断絶こそを最も恐れ、その対策に余念がない。

 ロンドンに来てからこちら、遭遇した事件はどれも剣呑に過ぎる物揃いだったが、この件もそれらに勝るとも劣るまい。


 だから、訊ねた。

「師匠、本当に行く必要があるんですか?」

 視線を向け直して、師匠と相対する。

 師匠もまたソファに座り直し、こちらを正面に捉えた。いつもの藪睨み気味の瞳に真剣さを宿らせて、短く言い切る。

「ああ、ある」

「では、お供します」

「……いや、待て待て」

 横からライネスが声を上げた。頭痛でも堪えるように額を押さえている。

「私の話を聞いていたかい? 今回の件は本当に危険なんだぞ。考古学科の精鋭調査チームまでもが壊滅するなんて常軌を逸してる」

「……でも、師匠の頼みですから」

 ライネスが心配してくれているのは分かるが。

 師匠があるというのなら、あるのだろう。その手助けを自分はしたい。

 それでも彼女の気遣いを無為にするような形になってしまったことに、申し訳なくなって視線を向ける。ライネスは自分の視線にうっ、と息を詰まらせるように身体を震わせると、やがて溜息を吐きながら頭を振った。諦観。そんな形容が相応しいだろうか。 

「……そ、それに。師匠は無茶はしても無理なことはしないと思いますし」

 そんなライネスの様子に、つい、言い訳するような言葉が口をついて出てしまった。縋る様に師匠の方を見る。

「……とりあえず、説明をしよう。グレイ、こっちへ」

 手振りで座る様に促された、師匠の隣へ腰をおろす。次いで、机の上に広げられた資料の一枚を師匠は示した。

 それは1枚の絵だった。おそらく、手書きの物を印刷機でコピーしたのだろう。ところどころに掠れのような汚れまでもが映り込んでいる。

 絵の内容を見て、自分が最初に連想したのはピラミッドだった。石造りの四角錐。エジプトのものと大きく違うのは、頂上にあたる部分に直方体の構造物を頂いていることだ。エジプトのピラミッドの上部を切断して、小さな石造りの小屋を乗せたような外観。小さくて分かりにくいが、その直方体の構造物から中に入れるらしい。入り口のような穴が開いている。

「先ほども言ったが、これはユカタン半島で発見された遺跡だ。意匠からアステカのものと見て間違いないだろう」

「アステカ……確か、生贄の風習で有名な文明でしたっけ」

「正確には、アステカというのはメソアメリカ文明の一時代・一部地域の名称だな。アステカの最隆盛はほんの500年ほど前に過ぎないが、メソアメリカ文明自体の起こりは古い。紀元前――紛うことなき神代に生まれた文明だ」

 神代――未だ、神秘が神秘として存在した時代。秘匿せずとも、その力を十分に発揮した時代。

 基本的に神秘は古ければ古いほど強大になる。仮に神代の神秘が残っているというのなら、確かにその遺跡には大きな価値があるのだろう。

 師匠は頷きながら絵図に指先を乗せる。示したのは、ピラミッドの頂点にある直方体の辺りだ。

「さて、君の言った通り、彼らは神に対し人間を贄として捧げた。この遺跡もその儀式に使われたものだろう。見たまえ、遺跡上部に設けられた部屋の前に台座がある。この上で人間を生きたまま解体し、摘出した心臓を供物としたんだ。そのショッキングさから、アステカ=生贄という認識が現代でも――あるいは現代だからこそ広く認識されたのだろうな」

「生きたまま、ですか……」

「そう、生きたまま捧げる、というのが"神の食料は人間の生き血である"という彼らの宗教観では大切だったんだ。おまけに彼らは捧げる生贄を貴いものとする為、何人もの嫁を宛がい、酒や麻薬を望むだけ摂らせたそうだよ。さらには生贄に捧げる人間にも特別な資質を求め、選別を行っていたらしい」

 現代にそぐわない残酷さ。"普通"から外れたがゆえに、それはひどく目立つことになる。

 外見のグロテスクさだけにならそれなりに耐性があるが、それでも同胞たる人間を解体して捧ぐ、という風習は自分の目には奇異と映った。

「何故、人間なんでしょう」

「何故とは?」

「あの、だって――別に、わざわざ人間を殺して捧げる必要があるんでしょうか? もっとヒツジとかヤギとかでもいいような」

 自分で言っている内に、何だか的外れで馬鹿なことを論っているような気になってくる。頬が紅潮して、最後のほうはもごもごと呟くことになってしまったが、師匠はきちんと聞き取ってくれたらしい。顎に指を這わせながら、ふむと頷いて、

「そうだな。もちろん生贄と一口にいっても、全てが全て人間を贄とするわけではない。人身御供の風習は世界中で見られるが、同じくらい牛馬などの動物を捧げるケースも確認されている。とはいえ、貴重な労働力をわざわざ殺してしまう、という点では一緒だ。当時はトラクターもカルチベーターも無かったことだしな」

 一度紅茶で口を湿らせてから、師匠は続きを紡いでいく。

「では何故人を殺して捧げたのかといえば、生贄という儀式が『代替を願う神秘』であるからだ」

「代替を願う……何かを、代わって貰う?」

「その通り。宗教的な結束を強める、口減らしの便利な建前など、その文化によって細々とした付与はあるが、根底にあるのは『何かを支払う代わりに、超常の存在に願いを叶えて貰いたい』という欲求だ」

「……お金を出して、パンを買うみたいに?」

「ふむ。確かに理屈で言えば同じだろうが」

 自分の例えが子供じみていたからか、師匠が苦笑の様なものを浮かべた。思わず顔が熱くなる。

「だが神による奇跡を求めるなら、対価もそれに釣り合うものでなくてはならないというのは自明の理だろう。つまるところどうして同族(ヒト)を捧げるという行為に辿り着いたかといえば、当時彼らが所有しているものの中でもっとも価値があるものが"それ"だった、という答えになる」

「……人間の、命」

「正解だ。特にアステカの場合を言うのなら、彼らは牛馬のような大型の家畜を持たなかったということもあるし、先ほども言った神の食物は人間の血であるという宗教的な価値観も手伝ったのかもしれない。人間の三大構成要素――肉体、精神、魂の内、アステカでは第一要素である肉体を重要視したわけだ」


 最大の誠意を見せることで、最大の見返りを期待する。

 信仰とは対極にあるようで、しかしその実、両者は切り離せない関係にある。自教を信じれば不幸になる、などという宗教は存在しないからだ。

 現世での悩みが無くなる、死後の幸福が約束される、来世では解脱に至れる――信仰と引き換えに、"何か"を得ることが宗教の本質と言える。あるいは、本質になってしまったというべきだろうか。

「理由は、ええと、何となくわかりました。じゃあ、彼らは何を望んだんですか? アステカの生贄文化がこうまで有名になっているってことは、儀式が行われたのは一回や二回ではなかったんでしょう?」

「アステカの生贄が有名なのは、頻度の他にも残虐性や生贄用の捕虜を取るために戦争をしたことなどにも依るが……何を望んでいたのか、は簡単だ。彼らが願っていたのは太陽を存続させることだよ」

 太陽の、存続――言葉の意味としては確かに単純だったが、すぐには理解出来なかった。自分にとって太陽が頭上にあることは、呼吸する酸素に困らないのと同じ程度には当たり前だったからだ。

 そんな自分の混乱を見てとったのか、師匠が続ける。

「彼らにとって太陽とは神であり、やがてその隆盛には終わりが来ると信じられていた。だから彼らは太陽が飢えないように生贄を捧げたというわけだ」

「太陽を神様に見立てる、というのは分かりますけど……神様が、終わる?」

「別段、珍しい考え方ではない。終末論は多くの宗教で見られる思想だ。最後の審判なんかは有名だし、ヒンドゥーでもユガという考え方がある。アステカも同じだ。太陽である神の滅びと共に、あの神話の世界観は更新されている」

 世界観の更新。

 自分もよく知る創世神話とは異なる、創造と滅びの二重螺旋。

「アステカの神話観でいえば、今の太陽は5つ目の太陽であり、現在は5番目の世界なんだ。4度世界と太陽は滅び、そして新たな太陽と世界を迎えた。この遺跡は1番目の太陽――テスカトリポカを奉じる為の遺跡だ」

 師匠が絵の一部を指さす。どうやら遺跡の壁面に彫刻が施されているらしい。細かい意匠までは判別できなかったが、それがテスカトリポカという神の似姿なのだろう。

「テスカトリポカ。アステカ神話において、善神ケツァル・コアトルと対立する悪神だ。アステカの民は他民族の神を取り入れることにも否定的ではなく、神話にも複数の異なるパターンが見られる為、一概には言えないがね。
 それでもテスカトリポカとケツァル・コアトルが直接的に争ったという描写は散見される。太陽の座を奪い合ったものや、ケツァル・コアトルが生贄の風習を止めさせたものが有名だな。テスカトリポカは太陽神の属性を持つが、同時に夜の神であるともされるのは、こうしたケツァル・コアトルとの対立からくるものだろう。善悪、昼夜。コインの裏表の様に、両者は実に近しい存在だ。ケツァル・コアトルを"白いテスカトリポカ"と呼ぶことさえある。あるいは、元はひとつの神性であったものが二つに分かれたのかもしれないな」

 師匠の講義を聞きながら、資料を見つめる。テスカトリポカに生贄を捧げる為の遺跡。そう聞くと、どこかおどろおどろしくさえ見えてくる。

 その時、ふと自分は妙なことに気づいた。

「師匠、調査隊の方は誰も戻ってきていないんですよね? では、この絵は?」

「正確に言えば、発見したのは遺跡そのものではないんだ。見つけたのは遺跡の場所を知る部族が住む村でね。その絵も部族のひとりが描いたものらしい。調査隊を派遣する前に、協会が買いとったそうだ」

「部族……ですか?」

「外界と接触しない部族、というのは全く存在しないわけではない。有名なのはアンダマン諸島の未接触部族だが、この森も魔術協会によって意図的に人の手が入らないようにしていたからな。とはいえ、こちらは完全に外部との接触を絶っていたというわけではなかったらしいが……」

 最後の台詞に関しては何やら歯切れが悪かった。思わず問うような視線を向けてしまうが、師匠は首を横に振って、

「いや、その辺の報告だけどうにも曖昧というか……要領を得なくてな。幸い、英語を喋れる者はいるらしい。それに関しては現地で確認するとして、話を戻そう」

 師匠は地図を指さした。それはユカタン半島の拡大図らしい。ほぼ緑一色で表現されている紙面に、赤インクで幾つか丸印が付けられている。

「これまでの調査隊が部族の村まで到達しているのは確からしい。そこから遺跡に向かって出発し、道中ないし遺跡の調査中に行方不明になっているというのが、おおよその見解だ」

「何者かに襲われている?」

「加えて逃げ延びた者もいないというのなら、遺跡の内部で、という線が濃厚だな。魔術的な遺跡なら、それは古代の魔術師の工房と同じだ」

 他人の工房においては、大規模な魔術はほとんど使えない。土地それ自体に防衛の魔術が仕込まれているなら、マナを取り込むことも難しいからだ。

「では……イゼルマの防御を天候魔術で壊したように、拙の"槍"で遺跡の機構を?」

「いや、他の調査隊も似たようなことは考えた筈だ。宝具のような規格外はないにしても、アトラム・ガリアスタの天候魔術と同レベルのものを用意することは――容易とは言わないが――十分に可能だろうしな。そもそも調査する遺跡を壊してどうする」

 言われてみればその通りではあるのだが。


「じゃあ、どうするんですか?」

「魔術師としての格はどう考えてもこちらの方が低いのだから、彼らと同じ方向で考えても同じ轍、いやそれ以下を踏むだけだ。つまり、我々は考え方を根本から変えねばならない――その内のひとつとして、こんなものを用意した」

 そういって、師匠がポケットから何かを取り出し、机の上に置く。

「……携帯電話?」

 黒い樹脂製の直方体。ボタンの配置などは自分も持たされている携帯電話にそっくりで――つまるところ、どう見ても携帯電話にしか見えなかった。

「ふむ。とはいえ、件の密林では電波など入らないぞ? マナと地脈の関係で魔術による通信も不可能だ」

 横から覗き込んでいたライネスも首をひねっている。

 どうやら魔術的にも外部から隔絶された土地らしい。であるからこそ、古代魔術の遺跡などというモノが手つかずで残っていたのだろうが。

 集中する自分達の視線に、師匠はいつもの調子で講義を始める。

「まず前提として、我々が遺跡の探索をして無事に帰ってこられる、という目はないものと考えていいだろう――我々より能力も経験もある専門のチームが失敗しているのだからな。多少の創意工夫で魔術師としての実力差を覆せるなら、私はとうの昔に色位にでもなっているさ」

「そこで冠位と言わないあたり、兄上殿の器も知れるというものだが」

 ライネスが茶々を入れる。楽しそうな嘲りを浮かべながら、しかし少しだけ真剣な光を瞳に宿して、

「無事に帰ってこれない? ならば出立の許可など出せないぞ。忘れてやしないだろうが、エルメロイへの借りを全て返済しきるまで、君は髪の毛からつま先に至るまで私の所有物だ」

「人の話はきちんと聞け。私はこう言ったんだ――"遺跡の探索をすれば"、無事に帰ってこられないと」

 実に単純な論理を説明するように、師匠はその方策を告げた。

「ならば話は簡単だろう――遺跡の探索をしなければいいだけのことだ」

          *

 それから数分を掛けて行われた、師匠の計画の概要を聞いて、

「……まさか、そんな抜け道が」

 白痴のようにぽかんと口を開けてしまっていることに気づいて、慌てて口元を引き結ぶ。

 言葉通り、まさか、という思いが胸の内に渦巻く。だが同時に、師匠の語った仮説と対策には確かな説得力が感じられた。

「最終的なことは現地で確かめる必要はあるし、まだ分からない点もいくつかあるが――生還を第一に考えて行動すれば問題はあるまい。成果を得られるかどうかは分からないにしても、身の安全は九分通り守られるだろうからな。なんなら我々の次に調査を行う者に、この情報を売りつければいい」

 そう言って、師匠は葉巻に火を点けた。部屋に薄く紫煙が漂い、その淡いヴェールの向こう側でライネスがぱちぱちと手を叩いている。

「……なるほど。兄上、やっぱり君はちっとも魔術師らしくないな」

「……皮肉を挟まないと会話できないのか、お前は」

「褒めているつもりだよ? なるほど、確かにこれはお歴々には思いつかない手管だろう。何しろ、情けないことこの上ない! ロードの家門がこんな手管に頼ったと知れたら、それはもう恥ずかしくて表も歩けないだろうさ」

 にんまりと笑うライネス。だがすぐに唇を尖らせ、抗議の視線を師匠に向ける。

「それならグレイが来る前に、私に説明してくれていても良かっただろうに。お陰で無駄に喉が渇いてしまったよ」

「二度手間だろう」

「おやおや、こんなに愛らしい義妹になんて言い草だ。加えて、今回はスポンサーでもあるのだけどね」

「スポンサー? てっきりライネスさんは、師匠が行くことに反対の立場だと思っていましたけど」

 尋ねると、ライネスは散乱する机上の資料から、クリップでまとめられた一束を選び出した。指でつまみあげると、資料の山の一番上に置き直す。

 どうやらそれは名簿らしい。人の名前と、簡単なプロフィール。顔写真が載っている。

「反対だとも。だが、エルメロイまで発掘権が転がり込んできたのは事実だ。駄目元で調査チームは送るつもりだったよ。まあチームと言っても、今のエルメロイにそんな人材はいないからね。募集を掛けて集めただけの寄せ集め、烏合の衆だ。それに兄上殿がついていこうとするのを諌めに来たというわけさ。ただ、きちんと生還するつもりがあるのなら話は別だ」

「それでも15人か。中々の人数を集めたものだ」

「ほとんどが食い詰め者のニューエイジさ。一発逆転狙いのね。兄上殿が参加すると分かっていたら、教室の生徒連中がこぞって挙手したかもしれないが」

「その場合は私の方で弾く」

 師匠がその資料を手に取りぱらぱらとめくる。一応、これから共に密林へ向かうチームだ。事前の把握は大切だろう。

 だがライネスはそんなもの待っていられないとでもいう風にソファから立ち上がり、ぱちりと指を鳴らした。背後で控えていたトリムマウが音もなく移動し、師匠の腕を取って立ち上がらせる。

「……何の真似だ」

「資料は後でも読めるだろう? 本格的なジャングルを歩くとなれば、それ相応の準備が必要だ。出不精の君たちを慮って、私が店を選んであげよう」

「出不精は余計だ」

「本当のことだろう。君たち二人は暇さえあれば部屋に籠りっぱなしで。それに、兄上御用達の仕立て屋には登山靴どころかスニーカーすら置いてないじゃないか」

「ちょっと待て、なんでお前が私の贔屓してる店を知って――」

 抗議の声を上げる師匠を、トリムマウが強引に引きずっていく。師匠のフィジカルでは、エルメロイ家の筆頭礼装に敵う筈もない。

 唖然とその光景を見送ってしまった自分に、ライネスは悪戯っぽい笑みを向けた。

「君の服も私が選んであげよう。うん、機能美と見た目を両立させた奴をね」

「お、お手柔らかにお願いします」

「ふふふ、さて、どうかな。しかし、ジャングルでフードはいただけない。かといって帽子では頼りなさそうだし……いっそその辺は、フラットあたりに知恵を借りると良い。まあ奴のことだ。今回の調査にくっ付いて来ようとするだろうが、なに。それで苦労するのは兄上だ」

「……ありがとうございます」

 ライネスの気遣いに自然と頭が下がる。こほん、と彼女は咳払いをひとつすると、話題を変えた。

「ところで、兄上はああ言ってたが、調査では気を抜かない方がいい。アッドを手放さないようにね」

「はい、それはもちろんですが……師匠の言う通りなら、危険なんてなさそうな」

 自分がそういうと、ライネスは笑みを深めた。皮肉気に片眉を撥ね上げて、肩をすくめて見せる。

「そうかい? 探偵が早々に推理を語った時は、えてしてその推理を無意味にするようなトラブルが起こるものだ――くれぐれも気をつけたまえ」

          *

 数日後、自分はメキシコの地をどうにか踏みしめることに成功していた。ふらふらとした、おぼつかない足取りではあるが。

「……大丈夫かね、レディ?」

「だ、大丈夫です」

 ロンドンはヒースロゥからメキシコ・シティ空港まで、実に12時間にも及ぶ空の旅は、自分の耳に多大なダメージを与えていた。気圧の差によって鼓膜が引っ張られ続けたせいである。

 恐ろしく妙な感覚だ。耳がぼうっとするとでも言えばいいのだろうか。自分を心配する師匠の声も、分厚い布越しに聞くような茫洋さがある。この時はまだいつものフードも被っていたが、その内側にクッションでも挟んでいるかのような気分だ。

 耳抜きなる技法を用いると予防できると聞いたが、とうとう自分は習得できなかった。慣れない状態で無理にやろうとすると、逆に鼓膜を痛めるらしい。師匠は慣れたものらしく、耳へのダメージはほとんどないようだ。昔、世界中を旅をしていたというからその経験だろうか。

 ともあれ、冒頭とは全く逆の立場で、自分は師匠の袖を掴んでどうにか歩いていた。平衡感覚もどことなく狂っている気がする。

 何とかその状態で入国審査をパスし、ボストンバッグに詰めた荷物を受け取る。トランクはやめておけ、というのは師匠から念を押されていた。常に肩からたすき掛けにかけていられるようなものでないと、目をつけられてすぐに盗まれるらしい。

 目の前に広がる空港のエントランスと、雑多な人ごみ。倫敦で多少は慣れたつもりだったが、人口密度で言えばこちらも勝るとも劣らない。情報量の多さに目を回しそうになる。

 メキシコの首都であるメキシコシティは、元をただせばアステカ王国の首都でもあった。それをスペイン人たちが征服し、打ち壊して今の街を造ったのだという。

 時計を見やると、現地時間で朝の5時。イギリスとこちらの時差は6時間。時差ボケもかなりあるが、こちらに関しては師匠が用意してくれた魔術薬で体内時計をリセットできるらしい。

「……それで、師匠。これからの予定は? いえ、例の村へ向かうのは分かっていますが」

 違和感を噛み砕くように強く合わせた歯列の隙間から、どうにか質問を紡ぎだす。

 ライネスによって選定された調査チームは、すでに部族の村へ向けて出発しているらしい。自分達は彼らの後を追い、村で合流してから遺跡へ向かう予定だった。

 師匠もまた小ぶりの旅行鞄を肩にかけながら応えた。

「南アメリカ支部の支部長が出迎えてくれるらしい。断ったのだが、強引に押されてな」

「支部……協会のですか?」

「ああ。教会ほどではないが、時計塔は世界各地に支部を持っている。とはいえ、そこに詰めているのは大抵が食い詰め者の分家筋だがね。アルビオンのスパイよりはましだろうが」

 霊墓アルビオン。時計塔の地下に存在する異界。

 三大貴族ほどの勢力ならば、分家筋をその異界に放り込むことなど躊躇いなくやってのける。事実、それがこの前の事件において、大きな謎を産みだす要因のひとつとなっていたのだから。

 ここの支部とやらも、それは同じらしい。僻地での仕事を押し付けられている、ということなのだろう。

「まあ、アメリカ大陸における協会の支部は北と南にひとつずつしかないし、配置されている人員も少ない。今回の件で成果を出して時計塔に返り咲こうと考えるのは、むしろ魔術師としては真っ当な考え方だ。とはいえ、ゴマを摺るならもっと摺り甲斐のある相手にしたほうがいいだろうに」

「……それって、つまり」

 ぼんやりした頭で、しかし聞き逃せない違和感を手繰り寄せる。

「その人、師匠を接待しにくるってことですか!?」

「……何故、そこまで驚くのかね、レディ」

「あっ、いえ、その」

 師匠が訝しげにこちらを見てくるが、まさか『師匠が人に接待される場面がどうしても想像できなかった』などと言える筈もない。


 しどろもどろに言い訳を探していたが、幸い、師匠の気は直ぐに逸れた。もっとも、それが全くもって『幸い』でなかったことは、すぐに知れることとなったのだが。

「いえーーーい! アイム・ナンバー・ワーン! ガオーーー!」

 唐突に、そんな声――いや、咆哮が人ごみ溢れる空港内に響き渡る。

 反射的に自分と師匠はそちらへ目をやった。周囲の人間も同様だ。

 見れば、眩暈がするほど大勢の人でごった返している筈のロビーに、一か所だけ空白が出来ていた。

 その中心には二つの人影。ひとりは昏倒して床に突っ伏している中年の白人男性。

 そしてもうひとりは、あろうことかその男性の頭を踏みつけ、手に持った棒のようなものを掲げている20代半ばほどの女性だった。先ほどの咆哮も彼女のものらしい。

 遠巻きに見ている群衆の隙間から、状況を確認する。天下の往来でこの狼藉。どう考えても関わり合いにならない方がいい。

「師匠、早く離れましょう」

 相手を刺激しないように、小声で促して師匠の腕を引く。

 だが師匠は動こうとしなかった。怪訝に思って師匠の顔を見ると、「ファック……」と呟きながら目を覆っている。

「あの……どうしたんですか?」

「……信じがたいが、あの女性が踏みつけているのは、出迎えてくれるはずだった南米支部長のように見える」

「えっ」

 思わずぱっと振り返って、視線を女性に戻す。

 そうやって急に動いたのが不味かったのだろう。獲物の動きに反応する野生動物の様に、女性の瞳がこちらを捉えていた。

「おおっ、ユーが噂のエルメロイ三世ガオ!? メロイメローイ! ヘーイ、ナイストゥーミーチュー!」

 踏みつけていた支部長を放置して、こちらへずかずか歩いてい来る女性。モーゼの海割の如く、人ごみが彼女を避けるように道を開けた。

 逃げられない状況になったのを悟ったのか、師匠が溜息を吐きながら手を挙げて応じる。

「……Ⅱ世だ。ロード・エルメロイⅡ世。君は支部の関係者か?」

「NONO! 私は遺跡までの水先案内人! っていうかそっちが雇ったんだガオ?」

 妙な訛りのある英語で、妙な服を着た彼女が自己紹介をしてくる。

「ティグレ・ヤガーだガオ。お兄さんが依頼した人? じゃあそっちのお嬢ちゃんは?」

「あ、あの、内弟子のグレイです」

「グレイ! 灰! よーし、今日からお前シンデレラな! レッツ・プロデュース!」

「え? え?」

 どんな理屈でそうなったのかは一ミリも分からないが、彼女の中で自分をシンデレラと呼ぶことが決定したらしい。「よろしく、シンデレラ」と親しげに肩を叩いてくる。

 困った。どう返すべきだろうか。

 そんな風に思考を巡らしていると、答えを出す前に師匠が動いた。自分と彼女の間に割りいるように、ずいと一歩前に踏み出てくる。

「結構。では、ミズ・ヤガー。何故、そこで支部長が気絶しているのか説明して貰えるかね?」


 その質問に、彼女は明確かつ簡潔に答えてきた。

「ヤガーって呼ぶなーーーーーーー!」

 スパァン! と、恐ろしいほど気持ちのいい音が響く。

 全く見えなかったが、それは彼女が手にしていた棒切れをフルスイングした音らしい。頭を一撃された師匠が、悲鳴も上げられずに昏倒して床に寝転がった。支部長と同じように。

「え、な、師匠!? な、なにを」 

「全く、人の名前は正しく呼ばなきゃダメだガオ。シンデレラもそう思うよね!」

「師匠! この状況で拙を独りにしないでください! 師匠!」

 ぺちぺちと懸命にほっぺたを叩くと、どうにか師匠は意識を取り戻したらしい。ファックファックと呻きながら、生まれたての子羊のように震えつつも起き上がってくれる。

「……な、なるほど、ホワイダニットは分かった。つまり、君の文化ではファミリーネームで呼ぶことが失礼に当たるのだな、ミズ・ティグレ」

「ティグレって呼ぶぬぁーーーーーーー!」

 再び快音が響き、師匠が本日二度目の失神に陥る。

 まさか師匠のホワイダニットが通じないなんて。頭を叩かれて朦朧としていた為か。いや、別に必殺技でも何でもないのは分かっているけれど。

「何なのか! イギリス人はみんなこうなのガオ!? へい、シンデレラ! 私の名前を呼んでみな!」

 そしてもう一度師匠に起きて貰おうとほっぺたを強めに叩いている最中、最悪なことに意味不明の矛先がこちらを向いた。

「え、えーと……」

「答えられぬというのなら、このバン・ブレードの錆びになって貰うガオ……そう、まさしく物語のシンデレラのようにな!」

「あれってそんなバイオレンスな話でしたっけ……!?」

 ともあれ、どうやら彼女は本気のようだった。或いは狂気か。その剣閃は単純な威力はともかく、鋭さに関していえば以前戦ったフェイカーのものに勝るとも劣らない。自分一人での強化効率では見切ることすらできないだろう。

 公衆の面前でアッドを変形させるわけにいかない以上、対抗手段は彼女の納得する答えを返すしかない。一本道でスフィンクスに遭遇した気分だ。

「え、あれって魔法使いによって復讐の手段を手に入れたシンデレラが、王家に反逆する話でガオ? 灰で目潰ししてからの必殺剣がバンクで――」

 ちょっと続きが気になることを言っているが、どうにか彼女の声を頭から締め出して適切な解答を考える。

 ティグレ、では駄目。ヤガー、でも駄目。

 思い浮かんだ答えはあるが、外せば気絶。ここは思案のしどころだ。


「10、9、8、5、4、2……」

 だが唐突にカウントダウンが開始されたので、そんな猶予は無かった。

「ティ――ティグレ・ヤガー?」

 ままよ、と祈りながら回答する。

 彼女は動かない。その空白に、答えが違っていたのでは、という恐怖心が募る。ティグレ・ヤガーという名前は出鱈目で、真名を当てるまで殴り続けてくるのでは。そんな愚にもつかない妄想が頭をよぎる。

 やがてヤガーはその場で屈むと、その姿勢から垂直跳びでもするように身体を勢いよく伸ばした。種子が発芽する様子を、早回しで再生したような動き。ここまで来て段々理解できて来たが、その動きに意味など無いのだろう。勢いそのままにヤガーが叫ぶ。

「お~あたりぃ~!」

 どうやら『フルネームで呼ぶ』で合っていたらしい。

 喜色満面といった様子でこちらの肩をばしばし叩いてくるティグレ・ヤガーに、曖昧な笑いで返す。正直、かなり痛い。

 しかし、これでようやく落ち着いて話が出来そうだ。

「動くな! 武器を捨てて跪け!」

「え?」

 横合いからの声に振り向くと、そこには揃いの制服に身を包み、ティグレに対し拳銃を向ける男性二名。

 ああ、そういえば、実に当たり前のことだが。

 空港のロビーで暴れていれば、警備員が来るのだ。

 銃を突き付けられたティグレは、そろそろと両手を挙げながら(ちなみにバン・ブレードは持ったままだった)、「ヒュゥー……」と口笛を吹いた後、ニヒルな笑いを浮かべてこちらに振り返ってくる。

「どうします、ボス?」

「ええ!?」

 全く予想していなかった角度からの言葉に、自分はただ慌てることしかできない。


 対照的に、警備員たちはこういう状況に慣れているらしかった。つまりは、共犯者が現れたらどうするか。

「なにぃ、ボスだとぉ!?」

 銃の照準をこちらに向けてくる彼らに、反射的に両手を挙げてしまう。

「ち、違います!」

 困った。霊体相手ならともかく、人間に拳銃を向けられた時の対処法など習っていない。アッドを使えば制圧は可能だろうが、論外である。師匠は相変わらず気絶しており、いつものように答えを教えてくれはしない。

「今だガオ!」

 代わりに答えを示してくれたのはティグレだった。ただし、言葉ではなく肉体言語での回答だ。

 銃の照準が逸れた一瞬で、バン・ブレードを二閃。二重の炸裂音。倒れ伏す警備員。

「あ、あの! なんだかとんでもないことになってませんか!?」

「わっはっは。ナイスアシストだぞシンデレラ!」

「し、しかも拙が協力したみたいに――あ、あれ!」

 人ごみの向こうに見える、こちらに向かってくる濃紺の制服の一団を指さす。

 こちらの指摘に、ティグレは緊張感に欠ける仕草できょとんと小首をかしげて見せた。

「あれ、不味いと思う?」

「とても不味いと思います!」

「なるほど。うむ、それでは逃げるぞシンデレラよ! ガラスの靴に注意せよ。証拠を残すなぁー!」

 床に転がっていた師匠を軽々と担ぎ上げると、ティグレは迫りくる警備員たちと逆方向に猛然と走り出した。

 しかも速い。いかに師匠が成人男性としては軽めであるとしても、人一人を担ぎながら、短距離走のオリンピック選手並みの速度を出している。

「ま、待ってください!」

 師匠を連れて行かれてしまっている以上、こちらも追うしかない。ばれない程度に魔力を巡らして追走する。

 ティグレは完全にテロリストか何かの扱いで、彼女が近づくと人々は悲鳴を挙げながら道を開けた。その後を走るので人ごみを掻き分けるようなことはしないで済んだものの、精神的にはかなり辛い。すみませんすみませんと小声で謝りながら駆け抜ける。

 自分達を迎えに来てくれたという支部長のことを思い出したのは、空港の出口をティグレに続いて突破する時だった。

「あの! 支部長さんが置き去りに!」

「馬鹿者っ! 奴の覚悟を無駄にする気ガオ!?」

「え、ええっ!?」

「すまない……お前のことは忘れないガオ! えーと、何か仕事くれた人!」

「既にかなり曖昧では!?」


          *

 さて、トゥーンアニメか何かなら、一度逃げ切ってさえしまえば後のことはうやむやになる。

 だが当然ながら、実際はそうもいかない。堅い床の感触を膝に感じながら、自分はそんな無慈悲な現実を噛み締めていた。

「ええ……ええ……はい、こちらは大丈夫ですので。ええ……」

 あれからバスを乗り継ぎ数時間後。場所はメキシコシティから離れ、部族の村があるという密林に最も近いという街にあるモーテルに移っていた。

 隣の部屋では目を覚ました師匠が電話で南米支部長と話している。そして自分とティグレは床の上でジャパニーズ・セイザをさせられていた。

 目を覚ました師匠の怒りっぷりは凄まじく、ティグレですら大人しく「うっす。反省してるっす、ガオ」と首を垂れるほどだったのだ。自分については言うまでもない。

「ヒヒッ! お前って奴は、この手のが相手じゃ本当に流されやすいな愚図グレイ!」

「アッド……」

 テーブルの上に置かれた鳥籠の中身を恨みがましく見つめる。

 言い返すことはできない。事実だからだ。自分の役目は師匠を守ることであり、ティグレの凶行を止めるべきだった。

 だが、この怪人相手はどうもやりにくい。あまりにも無軌道すぎる。殺気も悪意も感じない為、どうしても対応がワンテンポ遅れるのだ。

「あの……ティグレ・ヤガーさん」

 とりあえず相互理解を深めようと、隣で同じ姿勢をしている彼女に話しかける。人見知り気味の自分にとってはルビコン川を渡る様な心地だったが、それをするだけの危機感はあった。

「なんだガオ、シンデレラ」

「あの……」

 そこで口ごもってしまう。思い切って行動してみても、それでいきなり社交スキルがアップするなら苦労はしない。

「その、なんでフルネーム以外で呼ばれるのが、そんなにお嫌なんですか?」

 何とか絞り出した質問は、この騒動の原因を問うものだった。支部長も師匠も、それが切っ掛けで昏倒させられている。

「?」

 対して、ティグレは質問の意図が分からない、とでもいうように首を傾げて見せた。

「おかしなやつだガオ。そんなの、当たり前の話でしょ?」

「当たり前、ですか?」

 聞き返す。ティグレの表情は今までと比して真剣なものになっていた。

「名前は真実を表すもの。中途半端な名前で呼ばれるということは、呪いをかけ、貶めるのと同じだガオ」

「中途半端……」

 グレイ(どっちつかず)と名乗る自分には、なんとも耳の痛い話だ。

 だが納得できないこともない。師匠だって、Ⅱ世と呼ばれることに強いこだわりを持っている。

 名前というのは魔術的にも大きな意味を持ったファクターだ。時計塔では一般的ではないが、呪術の分野においては自身の真名を秘匿することが初歩にして基本的な防御のひとつとされているらしい。

「そそ。だから名前は丁重に扱わなくちゃいけないの。それを軽視する者は、死すら生ぬるい報いが与えられるガオ」

 あの竹の棒で叩かれるのが死すら生ぬるい報いなのだろうか、と考えつつも、自分の口がほとんど無意識に紡ぎ出したのは別の疑問だった。

「でも、ティグレ・ヤガーさんは、拙のことをシンデレラと呼んでいますよね? グレイと自己紹介したのに」

「あっ」

 世界共通の"やっちまった"という表情を浮かべるティグレ。追撃するつもりがあったわけでもないが、何となく先ほどの言葉を繰り返してしまう。

「死すら生ぬるい……」

 他意はないがじっと見つめていると、ティグレは冷や汗をだらだらと流し始めた。冷や汗をだらだら流すコンテストがあれば間違いなく優勝できるだろう。


「ティグレ・ヤガーさん……」

「よ、よーし! シンデレラ! 今日から私たちはマブダチだガオ! だからあなたも私を好きなニックネームで呼ぶ。それで相殺!」

「せ、拙がニックネームを?」

 さも名案! と声も高らかに宣言されたその条件。しかし、他人を愛称で呼ぶなど、ましてやそれを付けるなど、これまでの人生で一度も経験したことがない。

「ヒヒッ、お前友達居なかったもんなぁ……」

 机の上のアッドがしみじみと呟く。本当のことではあるが、やめて欲しい。

 それに、時計塔に来てからはライネスなどを筆頭に交流する人物も増えたのだ。フラットが誰彼かまわずニックネームを付ける様子だって、何度も見ている。

 隣の部屋でしかめっ面で受話器を耳に当てている師匠に、いくつもの異名(マスターVだのグレートビッグベンロンドンスターだの)が付けられていることも知っていた。

 よし、やってみよう。大きく息を吸い、肺を膨らませて気合を入れる。

 愛称というものは、概ね二種類に大別できるだろう。名前を縮めて呼びやすくしたものか、その人特有の性質を端的に表したものである。

 前者はやりやすい。名前の縮め方というのは概ね決まっているからだ。例えばエリザベスという名前ならエリ、リズ、ベスと一部を切り取る様に略して愛称とすることがほとんどだろう。

 だがここは異国である。ティグレ・ヤガーという名前も、彼女の親――未開部族の人間によってつけられた名前だろう。下手に縮めて変な意味になってしまったとしても自分には判別がつかない。ティグレの透明な逆鱗に触れたくは無かった。

 では後者だが、自分にとっては難易度が高いように思える。これは純粋にセンスの問題になるし、そもそもティグレのことをほとんど知らないのだから当然だった。

 前者と後者。どちらを採用するにしろ、このまま自分の中だけで考え続けてもいい案は出ないだろう。意を決して、目の前のティグレに訊ねてみる。

「そ、そういえば、ティグレ・ヤガーさんのお名前には何か特別な意味が? こだわられておりましたので」

「んー? "虎殺し"って意味ガオ」

「それは……」

 咄嗟に返す言葉に詰まるが、失礼になってはいけないと言葉を無理やりに絞り出す。

「……その、豪快ですね」

「だしょ?」

 満面の笑みで頷くティグレ。その表情だけ見れば、数時間前、成人男性4名を昏倒させて逃走した人物だとはとても思えないだろう。

 その笑顔につられて――というわけでもないが、ひとつ思い浮かんだ案がある。前者と後者の折衷案のようなものだが。

「それでは……ティガー(Tigger)というのはどうでしょう?」

 ティグレ・ヤガーという名前の略でもあり、Tiger(虎)のもじりでもある。虎殺しという意味の後半は反映できなかったが、そもそもそちらの方は難易度が高過ぎるので勘弁してほしい。

 さて、問題のティグレの反応は――

「いいね!」

 シンキングタイムゼロ。こちらがかなり悩んだのに対し、ティグレ改めティガーは吟味する様子もなくサムズアップしてきた。

 ……色々と思うところはあるが、気に入って貰えたのならそれでよしとしよう。


「……そんな軽い感じで納得できる程度のことで、私は気絶させられたのか」

「あ、師匠」

 いつの間にか支部長との電話会談を終えたらしい師匠が、こちらの部屋に戻って来ていた。頭痛をこらえるように額に手を当てている。

「その、支部長さんの方は大丈夫でしたか?」

「なんとか穏便に済んだよ。というのも、向こうは私が誘拐されたと思っていたらしくてな。仮にもロードを目の前で攫われたとなれば立場もないだろう」

 忘れられがちな事実だが、師匠は魔術師の総本山、時計塔の重鎮である。

 現地の最高責任者としては、ティガーの行動は寒気がするものだっただろう。

「無論、なすすべもなくやられて立場が無いのはこちらも同じことではある。だから結果として、我々の間に"何も問題はなかった"とすることが出来た。まあ、帰りに顔を出すことを約束させられたがね」

 政治的な判断、というわけか。

 一度肩をすくめて見せてから、師匠はいまだ床に座ったままのティガーと改めて相対した。何かを考えるように、口元に手を当てながらぶつぶつと呟いている。

「しかし、ティグレ・ヤガーか……報告書が曖昧だったのはそのせいか?」

「? どういうことです?」

「ティグレ、というのはスペイン語だ。スペインによる征服後、少なくとも彼女の生まれるより前に、彼女の部族が外界の文化を多少なりともとり込んでいた証だろう――ついでに言えば、メキシコに虎はいないことだしな。どういう動物か知っているかも怪しいものだ」

「失礼な! 虎ってあれガオ? ドラゴンと双璧を成す超怪物ガオ? きっと空も飛べると見た」

 虎に翼を地で行く彼女の台詞を、師匠は溜息を吐いて無視した。

「……それは置いておくとして、ティグレ・ヤガー――」

「あ、お兄さんもティガーって呼んでいいガオ……メルメロイ3世って呼びづらいし」

「エルメロイⅡ世だ。結構、ではミズ・ティガー。幸運にも、という表現は絶対に使いたくないが、支部長のもてなしを受けなかったことで時間には余裕ができた。いまから村に向かうことは可能だろうか?」

「んー、ちょっと強行軍になるけど、出来なくもないガオ。でも、大丈夫? 密林の中を数時間歩き続けることになるけど」

「ふん、私も魔術師の端くれだ。それに、今回は耐環境礼装も準備している。問題はないさ」

 そう、胸を張って師匠は答えた。


          *

 そして、現在。

「し、死ぬ……休憩……休憩をしないか、レディス」

「15分前にしたばかりだガオ……」

 呆れた顔で振り返るティガー。自分も背後を見やると、死相を浮かべた師匠が生まれたての羊のように足をガクガク震わせながら、近くの木に寄りかかる様にして何とか直立していた。

 密林に入ってからすでに半日ほど経過していたが、彼女の話によれば、予定より大幅に遅れているらしい。木々の隙間から僅かに見える空の色も、だんだんと赤みがかっている。

 原因は言わずもがな、師匠の体力不足によるものだ。意気揚々と密林に入って行った師匠だが、その調子は20分しか持続しなかった。休憩なしで歩けたのは1時間である。

「……とはいえ、限界なのも確かです」

 細い顎の先からぽたぽたとひっきりなしに汗を零している師匠を見て呟く。

 師匠程ではないにしても、自分の疲労もかなり深まっていた。村まであとどのくらいか――そんな質問にティガーが返してきた答えは、おそろしく曖昧かつ独自表現に満ち溢れたもので、具体的なことは何一つ分からないというのも疲弊の一因となっている。

 ティガーの判断は迅速だった。空の具合を一瞥すると、適当な木の傍に荷物を降ろし(師匠の荷物は途中から全部彼女が背負ってくれていた)、しゅばっと謎のポーズを取る。

「私だけならともかく、夜の森を歩くのは危険だガオ。どうせ休憩するなら、朝までここをキャンプ地とする!」

 そんな宣言がされると、糸を断ち切られたマリオネットの様に、師匠は全てをかなぐり捨ててずるずるとその場にへたり込んだ。

「し、師匠!」

「おいおい、前も言った気がするけどよぉ、もうチョイ体力付けようぜぇ? ヒヒッ!」

 ティグレの荷物の横に降ろしたザックの脇から、アッドの嘲笑う声。

「っ……私は都会育ちなんだ」

 荒く浅い呼吸を繰り返しながら、師匠は何とかそんな反論を絞り出した。

 そんな師匠に肩を貸して、どうにか荷物の傍にまで連れてくる。地面に敷いたシートに座らせ、飲ませる水を探していると、ティガーは「なんかいいもの探してくるー」と一声残して密林の奥に消えていった。

 その背中を見て、思わず吐息を零す。凄まじい体力と脚力だ。強化を使っている自分でも辛いのに、彼女はけろりとした顔でひょいひょいと密林の中を進んでいく。慣れという奴なのだろうか。


「どうかな……正直、あれは異常だ」

 手渡した水を飲んで一息ついた師匠が、ぐったりと疲れ切った声音で呟く。

「魔術を使っている様子はないが、未開部族であるというのなら妙な神秘を受け継いでいても不思議ではない。伝承保菌者の異能は、一般的な魔術とは異なるからな」

「伝承保菌者……ええと、確かそれは」

 記憶のささくれにひっかかったその単語を思い起こそうとするが、どうにも上手くいかなかった。師匠もそれを悟ったらしく、ボトルの中の水をちゃぷちゃぷと揺らしながら講義する。

「伝承保菌者(ゴッズホルダー)は、魔術回路や魔術刻印とは異なる形で継承される神代の神秘だ。有名なのは先の聖杯戦争に協会の枠で参加したマクレミッツ家だな。彼らは文字通り、その身に古い神秘を保持し、それを後世に伝えてきた」

「……拙の"槍"みたいに?」

 ならば、自分もその伝承保菌者ということになるのだろうか。

「広義で言えば、君もその一人に数えられるだろう。とはいえ、ではそれを次に伝えられるか、という点では疑問が残るが」

 師匠の言葉に、今は幻覚の魔術で誤魔化している"顔"の輪郭へ何となく指を這わせながら、首を傾げる。

「継承できるかどうか、という点が重要ということですか?」

「故に"保菌者"というわけだ。例えば現存する宝具はいくつか存在するが、それを手に入れるだけで伝承保菌者と呼ばれるわけではない。仮に何らかの理由で起動できたとしても、次代に継承できなければ、ただ珍しい限定礼装を使用できる魔術師でしかないからな」

 講義をしている内に、調子を取り戻してきたらしい。師匠はペットボトルを荷物に戻すと、入れ替わりに手にした携帯用シガーボックスから葉巻を抜き出した。ちなみにこのシガーボックス、高温多湿の環境でも中身が駄目にならないよう、保管用の魔術を組み込んであるのだとか。

「出発前にも言った通りメソアメリカ文明自体の起こりは古い。彼らが我々の知らない神秘を伝えていた可能性は大いにある。だから時計塔でも、この遺跡に対する期待は高いものとなっているんだ」

「……あの、それならもう少し、その……手綱を握りやすい方をガイドに選んだ方が」

「私が直接選考したわけではない。だいたい、調査はこれで5度目。つまり案内人にも最低4人は被害がでているという計算になる。未だに案内人を引き受けてくれる人物がいるだけありがたい話だ」

「場所だけ教えて貰って、調査隊だけで行くことは出来ないんですか?」

 その質問には直接答えず、師匠は頭上を仰いだ。木々の枝で満足に空も見えないが、だんだんと暗くなっているのは分かる。夜が近い。

「……そうだな。君はこの森をどう思う?」

「どう、とは?」

「あまり考え込まず、第一印象でいい。なにか具体的なものが想う浮かぶならそちらでも構わないが」


 その問いかけに――

 自分はほとんど即答していた。この密林に入った瞬間から付き纏っていた違和感。考える時間はいくらでもあった為、言語化も容易い。 

「……檻のように感じました。何かを隔てる為の壁がある様な……」

 感覚を狂わせるほどの濃密なマナ。現代においては異常とすら呼べる量の。

 それを考慮に含めても、この森の閉塞性は奇妙だ。まるで、誰かが手を加えたかのように――

「……やはり、君の感受性は抜きんでているな、レディ」

 感心したように師匠が呟く。

「その通り。この森は一種の結界になっている。調査隊が案内人を雇う理由がそれだ。件の部族を共にしなければ、遺跡どころか村にも辿り着けないという仕組みになっているというわけだ。深くまで入ってしまえば、出ることさえ困難だろうな。違和感を察知されるようでは結界としては下の下だが、その強制力は現代魔術では届かない領域にある」

「解除は?」

「どうも地脈に根差した魔術のようで、破るには相当な出力が必要になるらしい。君の"槍"でも一撃では無理だろう。採算が合うかどうか……何しろ遺跡の調査は何一つ出来ていないからな」

 リターンがどれほどか分からないのに、高価な媒体を大量に使った結界破りを行うことはできない、と、そういうことのようだ。

 アステカの魔術師たちは、その遺跡を隠したかったのだろうか――いや、しかし、それだと――

 結局、考えても分からないその疑問を口に出すことはせず、師匠に投げかけたのは別の質問だった。

「……そういえば、アステカで具体的にどんな魔術が使われていたか、というのは分からないんですか? 滅んだのが500年前というなら、何らかの情報が残っていてもおかしくはないと思うんですが」

「全く伝わっていないわけではないが、彼らはコンキスタドールと持ち込まれた疫病によって滅ぼされたからな。アステカ、というよりメソアメリカ文明は他の文明とそれまで交流を持っていなかった為、当時の魔術基盤についてはほぼ喪失してしまっているんだ。ナワルといって、霊的な別の側面の形に変身するという神秘が伝えられているが――」

 携帯用のカッターで葉巻の吸い口を切り落とし、火をつける。師匠は考察を重ねながら、合間合間に紫煙を堪能していた。

 ティガーが戻ってきたのは、その葉巻が半分ほどになった頃だった。見れば、小脇に大量の木の枝を抱えている。

「ただいまー。あ、マッチ持ってるガオ? たき火するから貸してー」

 師匠からマッチを受け取ったティガーは、手早く火を熾した。既に周囲は暗くなり始めており、たき火の灯りが密林の中に陰影を造りだしていく。

 たき火を中心に三角で囲むように座る。揺らめく炎の陰に隠れてよく見えないが、ティグレは手に持った細い枝を炙っているようだった。その行為の意味は分からなかったが、彼女のやることにいちいち疑問を差し挟んでもあまり意味はないだろう。


 パチパチと火が弾ける音だけがしばらく響いていたが、師匠がふと思い立ったように声を上げた。

「そういえば、ミズ・ティガー。君は随分と英語が達者だな」

「そうガオ?」

「ああ、訛りはあるが、十分に通じる。どこで習得を? 君達は外部との接触をしていなかったのだろう?」

「うん。うちは森の外に出るの禁止ガオ。っていうか、村からもあんまり離れちゃいけないんだけど」

「では、どうやって?」

「掟を破って普通に街まで出たガオ」

 ティガーの返答に、師匠はしばらく額を抑え一通り呻いてから、気を取り直すように質問を再開した。

「……まあ、君の部族の掟についてはひとまず置いておこう。だが、いきなり外に出てよくコミュニケーションが取れたものだな」

「まあ、そこはフィーリング? ボディランゲージでやり取りしてるうちに、簡単な単語を覚えたガオ。あとはその積み重ね。あ、でも――」

 ティガーは話すのを忘れてはいけない、というような使命感に満ちた表情で続けた。

「私が本格的に英語を話せるようになったのは、通信教育のお陰ガオ」

「つ、通信教育……?」

 訝しげな表情を浮かべる師匠。多分、自分も似たような表情を浮かべているだろう。フラット謹製の幻覚は、表情もトレースしてくれる。

「ひょんなことから切手を手に入れたことがあったガオ。で、適当ぐちゃぐちゃに住所を書いた手紙を投函したんだけど、何故かそれが極東の島国に届いたの」

「いや、本当に何故だ」

 差し挟まれた師匠の疑問を気にせず、ティガーは続ける。

「その手紙を受け取った子と、文通するようになったガオ。最初はお互いにオリジナル言語を使って遣り取りしてたんだけど――」

「オリジナル言語……?」

「その子が英語の先生になるのが夢だっていうから、教えて貰う練習台になったガオ。それから私はその子を師匠と呼んでいる。ちなみにこの服とバン・ブレードも師匠が私の誕生日に贈ってくれたお下がりを手直しして使ってるガオ。ほらほら、このストラップなんて師匠が自分のに付けてる奴と似ているのを買ってくれたの」

「リーディングならともかく、なんで手紙のやり取りで話せるようになるんだよ?」

「ああ、師匠……今頃何してるんだガオ。この前来た手紙だと、弟分をあくまに取られたとか書いてたけど」

 自分とアッドも思わず疑問の声を上げるが、特に返答らしい返答は無かった。ちなみにアッドに関しては、肘打ちで黙らせるのにも疲れたので今では完全に喋らせっぱなしである。

 ティガーは想い出を懐かしむようにジャガーのストラップをいじりながら空を見上げた後、再び枝を炙る作業に戻る。


「明日は夜明けと同時に村へ向かうガオ。テントなんかはないけど、寝れそう?」

「いまのコンディションなら、コンクリートの上でも泥の様に眠れそうだ」

 紫煙をくゆらせながら、師匠。揺れる火の明るさに映し出される表情には、疲労の色が濃い。

「拙も、大丈夫です」

「じゃあぱぱっとご飯にするガオ。まだ食料はある? というか、お腹減ってる?」

「えーと……すみません、食料はもう……」

「空腹ではあるが、一食抜いても大したことはない。慣れている」

「慣れて欲しくは無いのですが」

 師匠は論文の執筆に没頭しだすと、食事や身だしなみを気にしなくなる悪癖があった。自分が部屋に入って身の回りのことをやっても全く頓着しなくなるほどだ。

 さておき、食料はもうない。もともと村までの片道分しか持っていなかった――自分と師匠の装備は、糧食も含めて先行した調査チームが持ちこんでくれる手筈になっていたからだ。

 その僅かな食料も、ここに来るまでの間に消費してしまっている。カロリーを補充しながら進むのは長距離行軍の基本らしいが、正直休憩の回数が多すぎた。

「まあ、そうかなーってお姉さん思ってた。だからこちらでご用意させていただきましたガオ!」

 そう言って、ティガーは炙っていた木の枝を高く掲げた。正確には、丸々太ったカブトムシの幼虫のような芋虫が刺さった枝を。

 一瞬意味を図りかねる。何故虫を枝に刺して炙るなどという残酷な行為をしていたのか。

 それが"調理"であり、用意したという食事であることを理解した時、自分の心臓は早鐘を打ち、嫌な汗がどっと噴き出した。

「え、いや、あの」

 縋る様に師匠を見やる。だが師匠も絶句し、咥えていた葉巻をぽろりと落としていた。地面を撥ねた葉巻がたき火の中に消える。

「ごめんね、一匹しか取れなかったガオ。でも栄養満点だし妙に疲れも取れるから安心して食べて欲しい」

 ずい、と自分と師匠に向けて差し出される異文化ご飯。後で知ったが、アステカではバッタや芋虫などを食べる習慣があったそうだ。もっと早くに知っておきたかった。

 師匠と視線が交錯する。おそらくこの気持ちは一緒だ。食べたくない。田舎暮らしとはいえ、虫を食べる習慣はなかった。都会派を標榜する師匠もそうだろう。

 だが折角の好意を無下にされた時、果たしてティガーがどういった行動に移るか。

 ならば、自分が取るべき行動は――


「師匠――拙は、師匠を守りたいと、そう思います」

「レディ……」

 手を伸ばし、ティガーから枝を受け取る。

 枝に刺さった白い芋虫は、小ぶりのドーナツほどのサイズ感があった。

「ですから師匠、どうぞ」

 受け取った枝を師匠にパスする。

「……レディ?」

「……拙は、空港で師匠を守れませんでした」

 自分は、師匠にその力を望まれたからこうしてここにいるのに。

 自分は、どんな状況でも師匠を守るべきだったのに――!

「だから拙は……もう二度と、師匠を倒れさせるわけにはいかないんです」

「なるほど、だから私にこれを食べろと」

「はい!」

「いままでに聞いたことが無いくらい、とても良い返事だ、レディ」

 師匠は疲れた様に微笑むと、枝を受け取った。やった。

 師匠に栄養をつけて貰いたい。そんないじらしい内弟子の情念が伝わったに違いない。

 だが師匠は受け取った枝をくるりと回して、こちらの口元に焦げた虫を近づけてくる。

「師匠……?」

「こんなことを言うのは、情けなく思うのだが」

 師匠は眉根を下げ、気弱な表情を浮かべて言った。

「君がいないと、私は死ぬ」

「……なるほど、だから拙にこれを食べて欲しいと」

「ああ。内弟子の体調管理も、師の務めというものだろう」

 嘯く師匠に、にっこりと微笑む。無論、気を使ってもらって嬉しかったからだ。

「ありがとうございます――でも、師匠に食べて欲しいんです。ところで、ここに来るまで何回休憩を要求しましたか?」

「そうだな、私は私のタイミングで休憩を取ることが出来ていた。しかし、君は違うだろう。自分でも分からないほど疲れているに違いない」

「御心配なく。体調管理は出来ているつもりです。そういえば師匠、昨晩は寝坊されていましたよね? 拙が起こさなければ飛行機に乗り遅れるところでした」

「常々から思っていたが、レディ。君は成長期だというのに少しばかり小食すぎやしないかな? その年齢の内に栄養は取っておくべきだ」

「ああ、なんて美しい師弟愛ガオ……!」

「……まあ、迷惑を掛けて掛けられて一人前とはいうけどよ」

 何故かアッドは呆れたような声を出していたが。


 盤外で感動の目の幅涙を流していたティガーが立ち上がる。感極まった声で叫んだ。

「大丈夫! お姉さんがあと5匹くらい取ってきて3匹ずつ食べれるようにしてあげるガオ!」

「師匠半分こにしましょうティガーさんにこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」

「そうだなレディそれがいい」

 その時枝を持っていた師匠が虫を半分に千切る。最後の配慮か、枝付きの方を自分にくれた。

 断面からは白い粘液が滴っている。どうやら焼き加減はレアのようだ。

 目を瞑って一息に飲みこもうとして――だがどうしても口に運ぶのを躊躇ってしまう。師匠も同じようだった。恐る恐るといった感じで、じっと我々の様子を見つめているティガーを伺う。

「見たことのない種類だが……ミズ・ティガー。念の為に聞いておくが、これを食べないという選択肢は」

「食べなかったら私はこのまま夜の密林に走り去るぞよ」

「ファック!」

 ティガーが本気だということを悟った師匠は悪態をひとつ付くと、一息に手の中の芋虫を飲み込んだ。置いていかれてなるものか、と自分もそれに続く。

「……!?」

 味は酷いものだった。芋虫は美味しいとどこかで聞いたことがあるが、どうやらピンキリあるらしい。

 最初に断面から苦味を感じた。その次は鼻の奥につんとくる刺激臭。大きさゆえに丸呑みは出来ず、なるべく素早く咀嚼するがその度に苦味と刺激は強くなる。涙を滲ませながら飲み込むと、トドメとばかりに臓腑が熱を持ったように暴れ出した。体温が一度くらい上昇したような気がする。

 かなり本気で毒を疑うが、ゆっくり10まで数える内に熱は引いた。荷物からタオルを取り出して、汗ばむ肌を拭う。

 師匠も凄まじい表情を浮かべて痙攣していたが、しばらくすると落ち着いたらしい。深く息を吐くと、ずるずると体をシートの上に横たえる。

「師匠……大丈夫ですか」

「ああ、なんとかな……」

 うつ伏せに倒れている師匠がくぐもった声で返してくる。束ねた髪を解かねば癖になってしまう――そんな危機感を抱いたが、動くのはあまりにも億劫だった。倫敦に戻ったら、念入りに髪を梳かさせてもらおう。

 ぼんやりとそんなことを思っていると、横合いからティガーの声。

「そうやって喜んでもらえると、こっちはそれだけでお腹いっぱいだガオ……」

 ……そうだ。ティガーは一匹しか取れなかったといった。

 きっと、彼女達にとってはこれが普通の食事なのだ。その貴重な食料を、村に辿り着けなくなった原因である私達に分けてくれた――それは、感謝すべきことには違いない。


「ティガーさん――」

 そう思って見やると、ティガーは黄色いブロック状のバランス栄養食をもぐもぐと頬張っているところだった。

 師匠もそれに気づいたようで、何か信じられないものを見るような目つきをしている。まるで可愛がっていた猫がキャス・パリーグの幼生であったことに気づいたような顔だった。

「んぐ……ん? どしたガオ」

「……あの、何を食べておられるので?」

「え……? 晩御飯……?」

 "何を当たり前のこと聞いてくるんだろう?"とでも言いたげな表情で首を傾げながら、さくさくと文明的食料を食べ尽くすティガー。

 ……いや、もはや何も言うまい。わざわざ食料を探してきてくれた事実に変わりはないのだから。 

 師匠もいつもなら発していたであろうFワードは口にせず、不貞腐れたように喉の奥を鳴らすに留めていた。ティガーは意に介す様子もなかったが。

「よーし、それじゃさっさと寝るガオ。二人が寝たら火も消すからねー」

「……あの、火を消してしまっても大丈夫なのですか?」

 おそるおそる尋ねる。猛獣に襲われたりしないのだろうか。

「心配ない。このジャングルに人を襲うような獣は生息していないんだ。この地で見られる最大の肉食動物はジャガーだが、人を襲うことはほとんどない。虫や蛇に関しては、」

 と、そこで言葉を切って師匠がたき火を示す。正確には、そこから立ち上る白い煙を。

「先ほどの葉巻は、植物科の知人から分けて貰った虫除けの礼装だ。煙で虫を払う、という概念は世界各地で見られるものでね。朝まではもつだろう」

 目を凝らすと、暗闇の中に白い煙の帳が滞留しているのが薄ら見えた。

 どうやら抜かりなく準備していたようだ。そういえば人は蜘蛛か蛇のどちらかに嫌悪感を持つものらしいが、師匠はどちらだろうか。何となく両方とも嫌いそうだったが。

 こちらが納得したのを見て取ると、師匠は「寝る」と短く一言残して瞬時に意識のスイッチを落とした。

 透き通るような師匠の寝息を感じながら、自分も目を閉じる。野外、それも密林という特異なシチュエーションだったが、脳を溶かすような気怠さは直ぐに意識を闇の中に引きずり込んだ。

今日はここまで

続きー


 全てが遠ざかり――そして唐突に戻ってくる感覚。

「……ねえ、シンデレラ」

 意識を覚醒させたのはティガーの声だった。

 既にたき火は消えている。だが、朝になったというわけでもないらしい。どのくらい寝たのだろうか。地面の上で寝たせいで体は強張っていたが、動くのに支障があるほどではない。

 指先すら見えない暗闇の中で、ティガーが立ち上がるのを物音だけで察する。

「ティガーさん……?」

「変な臭いがしない?」

 これまで見せたことのない真剣な声音で呟くティガー。言われるがままにすん、と鼻をひくつかせると、確かに不快な臭気が鼻腔の奥を刺激する。

 何かが焦げる臭い――それも大量の何かが。

 たき火とは違う。これは"燃えてはいけないもの"が燃えた時に出るものだ。

「……どうかしたのか」

 暗闇の中で、師匠も目を覚ましたらしい。衣擦れと、呻くような声だけがこちらの耳朶に届く。珍しいことだ。暗闇で表情は見えないが、寝起きが絶望的に悪い師匠にしては、声がはっきりとしていた。

「ミズ・ティガー? 何があった?」

 その問いに答えたのか――あるいは単なる独り言かは判断できなかったが、次のティガーの台詞は剣呑極まるものだった。

「村が――燃えてる!」

 村? ティガーの村が燃えている?

 問う前に、彼女は動き出していた。

 だん! と地面を蹴りつける音と振動が響き、続いて草木を踏む気配が遠ざかっていく。密林の中に駆けこんでいったらしい。

「ティガーさん!?」

「待――ああ、くそ! 追うんだ、グレイ!」

 ぼっ、と小さな炎が暗闇を僅かに退け、師匠の顔が明かりの中に浮かんだ。どうやらシングルアクションの魔術で、炎を指先に燈したらしい。

「事情は分からないが、どうやら緊急事態らしい。この暗闇では、完全に置いていかれれば追跡できなくなる!」

「は、はい! アッド!」

「イッヒヒヒ! こいつは責任重大だぜ愚図グレイ! 事件か事故か知らんが、あの虎姉ちゃんが戻ってこなけりゃ確実に遭難だ!」

 師匠の燈してくれた灯りを頼りに、アッドを手に取る。鳥籠に入った直方体は、物理的には有り得ざる変形を経て慣れ親しんだ形へと至った。

 収穫者が振るうモノ――死神の鎌。グリム・リーパー。

 濃密な密林の魔力を取り込み、全身へ回す。強化した眼は、木々の隙間から降る星明り程度の光量でも周囲を見通すことが可能となる。

 その視界に、物凄い勢いで遠ざかっていく民俗衣装が映った。

 恐ろしく速い。下手をすれば、強化を使っている自分よりも。考えている時間は無かった。

 師匠をその場に残し、自分も全力で夜のジャングルへ飛び込んでいく。


          *

 村と思しき場所に辿り着いたのは、3キロほど走った頃だっただろうか。時間にしてみれば数分というところだろう。数時間でも睡眠をとれたおかげか、あるいはマナの濃密さゆえか、不思議なほど疲労

は感じない。

 その村は密林の中にあった。ほとんど開拓はされておらず、木々の合間に木造の小屋の様な家がぽつぽつと立ち並んでいる。

 ティガーは途中で見失ったが、その頃には既に自分単独でも村に辿り着くのは難しくなくなっていた。

 村が燃えている――ティガーが走り出す前に叫んだ言葉だが、目の前に広がっているのはその通りの光景だった。

 炎の赤い光が夜の闇を駆逐している。轟々と燃え盛る灼熱は空に届く勢いで、周囲の木々を舐めまわしていた。

 発生した気流が自分の頬を撫で、さらに漂う煙が喉の奥を刺激してくる。

「これは……」

「寝煙草が原因、ってわけじゃあなさそうだな」

 大鎌に変じたアッドの軽口も、今は耳に入らない。

 ただの炎ではない。それは神秘を宿した炎だった。それも、現代の魔術で可能な深度ではない。

 グリム・リーパーの柄を強く握りしめる。下手人が誰にせよ、尋常一様の相手ではないだろう。

 最善は、ティガーを見つけて可能な限り迅速にこの場を去ることだ。

 だが、その時。

「逃げろ、逃げろぉ! 村人を連れて森の中へ逃げるんだ! 勝てるわけがない――!」

 熱で木がはじける音に紛れて、声が響く。

 聞こえてきた方向へ目を向ければ、声の主と思われる人影を認めることができた。

 正確な年齢は分からないが、声を聴く限りどうやら若い男のようだ。高熱で揺らめく景色に紛れるかの如く、肥満気味の身体をふらふらと不安定に揺らしながらこちらへ逃げてくる。

 そういえば、と調査隊のメンバーが先に村へ入っていたことを思い出す。目の前の人はそのひとりだろう。

 一息に距離を詰め、事情を聴くために声をかける。

「大丈夫ですか!?」

「だ、誰だ、お前は?」

「合流する予定だった、ロード・エルメロイⅡ世の内弟子です。調査隊の方ですか?」

 近づいてみると、人相がようやく把握できてくる。金髪を後ろに撫でつけた若い――若すぎる男だった。少年と言った方がいいだろう。伸ばしている途中らしい髭のせいで分かりにくいが、ライネスと同じく

らいか、あるいはそれより年下かもしれない。

 調査メンバーの資料については私も一通り目を通していたが、こんなに若い参加者はいただろうか? 師匠なら全て完全に暗記しているだろうが……

 そんな疑問を余所に、少年は怯えるように視線を彷徨わせながら畳みかけてくる。

「くそっ、お前たちがもっと早く来ていれば……いや、同じか。魔術師がいくらいたってどうにかできるものじゃ――」

「教えてください。一体何が?」

「"テスカトリポカ"だ! あれは――」


 その単語の意味を思い出そうとした、瞬間。

 少年の表情が恐怖に歪んだ。見開かれ、顕になった瞳には、濃い絶望の色が塗りたくられている。視線の先は自分の背後。同時に、熱と殺気と強大な神秘の気配を感じた。

「グレイ、後ろだ!」

「っ、第一段階応用限定解除!」

 アッドの鋭い声。咄嗟に振り向きながら死神の鎌を大盾に組み替えて防御を試みる。

 構えた大盾の向こう側に見えたのは、巨大な炎の塊だった。凄まじい勢いでこちらに吹っ飛んでくる。回避は不可能。大盾の選択は正解だった――

 そう思ったのも束の間のこと。

 炎塊は直前で軌道を変え、地面に着弾・炸裂した。直撃ではない。それなのになお、まるで爆発したかのような衝撃をこちらに伝えてくる。

「っ!?」

 それは夜空から流星が降ってきたようなものだった。地面が爆砕し、吹き上がる。絶大な力に抗えもせず、自分の身体は宙を舞った。

 強化したバランス感覚でなんとか空中で身を捻り、足から着地する。ブーツの底がざりざりと地面を削る音。数メートルを滑り進んでようやく停止する。

 外傷はない。衝撃波の大半は大盾が散らしてくれていた。だが盾以外を選択していれば、おそらく骨の一本や二本では済まなかっただろう威力に戦慄する。

「うわああああああ!?」

 悲鳴と、視界の端に動くものを認める。どうやら少年も吹き飛ばされたらしい。勢いそのままに木の幹に直撃し、何やら嫌に重い音を立て、そのまま地面に転がる。ぴくりともしない。

 打ち所が悪い。あの速度で腹部を打ったのなら、最悪内臓が破裂している。

 だが少年を慮る余裕はなかった。何故なら、襲撃者は目の前にいたからだ。

 視線を先ほどまで自分がいた場所へ向ける。そこには炎の塊が着弾した衝撃で小さなクレーターができていた。

 いや、正確には"着弾"ではない。"着地"だ。

 クレーターの中心にうずくまる、炎の塊が身を起こす。

 それは、ヒトガタが炎を纏ったカタチだった。


「……っ」

 思わず息を呑む。じわりと汗が浮かぶが、それは熱からくるものではない。紛れもなく"最悪"に直面した。その感覚に背筋が粟立っていた。

 もう死んでいるかもしれない少年が口にした言葉。この地における神の一柱の名称。

 だがそれを耳にしてなお、『神霊』と遭遇するなんて出鱈目を受け入れることはできなかった。

 神秘の暴威に足が竦む。だが、それはこちらを威嚇しているわけでもないのだ。ただそこにあるだけで全てを圧倒する。存在としての格の違いを強制的に理解させられる。

 揺れる紅蓮のヴェールの向こう側には、紛れもなくあのアルビオンの深淵で遭遇した神霊イスカンダルに勝るとも劣らない神性が存在していた。

 テスカトリポカ。これから赴く予定だった遺跡に祀られていた筈の、夜を司る悪神。神霊イスカンダルのように人が至ったものではなく、最初から神として讃えられたモノ。

 何故、現代に至ってそれが存在しているのか――いられるのか、理解はできない。

 だが確かにそれは目の前にあるのだ。ぎゅっ、と縋る様に大盾となったアッドの持ち手を握りしめた。

「アッド……」

「イッヒヒヒ! まさかあれとやり合うなんて考えちゃいねえよな? とっとケツ捲って逃げるのが正解だぜ!」

 口ではそう言うが、あれに背を向けたところで逃げ切れないのはアッドの方がよく理解しているだろう。

 遺跡にこんなものがいたのだとすれば、これまでの調査隊が誰一人生還しなかったというのも頷ける。戦って倒す、どころの話ではない。戦うことすら難しい。そんな手合い違いぶりだ。

「それでも、やるしかありません」

 大盾越しに、全神経を集中して敵を見つめる。マナを限界以上に取り入れて、魔術回路を過剰に回し続けた。身体が端から崩壊していくような痛みと怖気を覚えるが、抵抗も出来ずに死ぬよりはましだ



 警戒を続ける。だが――

 敵の見せた行動は、思いもよらないものだった。

 いや、正確に言うならば、それは何の行動も見せなかったのだ。

「……」

 対峙した炎の人型は、明らかにこちらを認識しているにも関わらず、追撃をかけてこなかった。

 頭部らしき部位をこちらに向けてはいる。だがそこから放たれる気配は敵意や殺気ではなく――

(困惑……?)

 得た感触に無理やり名前を付けるなら、それがもっとも適当である気がする。


 僅かな空白。だが長くは続かなかった。

 テスカトリポカが動く。こちらを無視して――倒れ伏した少年の方へと。確かな殺意を持って歩み寄ろうとする。

 ぽっ、と炎に包まれた右腕に、新たな灼熱の塊が生まれた。現代の魔術師には決して到達しえぬ神秘の炎。

 少年を殺す気か。であれば――彼はまだ生きているのか。

 その推測が成り立つのと同時、自分の足は地面を蹴っていた。

「あああああああぁぁっ!」

 熱が迫る。みるみる内に人型の炎に接近する。

 馬鹿げた行為だ。翼を持たない者が崖から飛び降りるような。自殺と何ら変わりない。

 それでも勝機があるとすればこのタイミングしかなかった。相手の意識が自分から逸れた、この瞬間しか。

 恐怖を誤魔化すために鬨をあげ、距離を詰め、大盾を振るう。死神の鎌(グリム・リーパー)へ組み替えている時間は無い。

 シールドバッシュ。強化した身体能力で打ち出されるそれは、鉄筋コンクリートの壁くらいなら砕いて大穴を開ける程度の威力がある。

 ――だが、神霊を相手取るにはあまりにも役者不足。

「……!」

 大盾による一撃は腕一本で軽々と受け止められた。テスカトリポカは掲げていた右腕でアッドを押しとどめている。やはり、ただ人型の炎というだけではない。その内側には"芯"とでもいうべき本体が存

在している。

 そして、防がれて終わりではなかった。ぐるりと視界が反転する。威力をいなされ、盾の縁を掴んで投げられた、と理解したのは地面に背中から叩きつけられた時だった。

「ごほっ……!」

 息が詰まる。急激に変化した視界には星空。そして振り下ろされる、炎を纏った足刀。

「さっさと起きろ愚図グレイ! 死ぬぞぉ!」

「っ!」

 アッドの声に従って、体を無理やり右に捻って転がる。頭部からほんの数センチしか離れていない地面に敵の一撃が深々と突き刺さった。まともに貰っていれば頭を砕かれていただろう。

 地面を転がった勢いで立ち上がる。既に敵が見せていた謎の困惑は消えていた。こちらが大盾を構え直すのと同時、テスカトリポカの追撃が始まる。


 敵の戦闘スタイルは徒手格闘じみたものだった。炎を纏った拳打。雨の如く降り注ぐ連打に、大盾の防御が甲高い音を立てて震える。

 無手特有の素早いリズムで撃ちこまれるその一撃一撃に、人体を容易く砕いてしまえる威力が秘められている――否、その威力が砕こうとしているのは、人体だけではなく、

「アチャチャチャ! おいグレイ! こんなのそう長くは受けられねえからな!」

 そんな悲鳴と共に、大盾が軋む感触が伝わってくる。

 盾が揺れるたびに腕が肩からもげそうになる。凄まじい膂力だ。このまま時間をかければ、遠からずアッドは砕かれるだろう。彼にはある程度の自己修復機能もあるが、決して万能ではない。

 早期に決着を付ける必要があった――だがどうやって?

 その事実に気づき、心の中に焦りが生まれる。膂力、反応速度、格闘センス――すべて相手が格上。反撃の為の取っ掛かりが見つからない。その上、敵は考える時間すら与えてくれなかった。

 格闘戦においては、敵の身体を包む炎熱も脅威だ。熱で体力が削られるだけではなく、揺らめく陽炎は目測を迷わせる。その歪む視界の端で、何かが鋭く動いた。

「くっ!」

 慌てて盾を引く。鉤の様に曲がった敵の指が空を切り、アッドの縁を引っ掻いて退いていく。

 再び盾を掴まれれば、今度こそ終わるだろう。打撃に織り交ぜられる掴みにのみ対応しようと、視界を確保するために大盾を少しだけ下げる。

 だが、それこそが敵の狙いだった。

「う、ぐぅ!?」

 視界が一瞬ブラックアウトする。腹部を貫かれた様な衝撃。いや、文字通り衝撃は体を貫いていたのだろう。成す術もなく後方へ吹き飛ばされる。

 無我夢中で手に握っていたアッドを振り回す。大盾の先端が地面に触れる衝撃。そのまま盾を突き入れ地面を削って速度を殺そうとするが、握力がもたなかった。途中で持ち手を離してしまい、そのま

ま地面を転がる。

 それでも即座に復帰できたのは、僅かながらにでも速度を殺せたおかげだろう。爪先を地面に突き刺すような心地で強引に停止。素早く立ち上がり視界を前へ向ければ、片足を中段に掲げた敵の姿が

確認できた。腕を下げ、衝撃をいなしきれなくなるタイミングで渾身の一撃を放たれたのだ。どうやら十数メートルほども蹴り飛ばされたらしい。強化を施していなければ、それだけで死ねた威力だ。

 掲げられていた足が下げられ、敵が地を蹴る。武器を失った愚か者へ追撃をかける為に。

 手から零れ落ちた大盾形態のアッドは、自分へ向かってくる敵の予想進路上に、持ち手を上にして転がっていた。

「っ、アッド!」

 向かってくる炎の人型に呼応するように、こちらも前へ出る。後退したところで、アッドが無ければ追いつかれて殺されるだけだ。

 半減した強化効率に歯噛みしながら、全力で地面を蹴った。速度は敵の方が上。だがアッドまでの距離はこちらの方が近い。互いに接近し合うことで、距離は急速に縮まっていく。

 時間にして一秒足らず。その一瞬の様な時間で理解し、絶望が心臓を締め付けた。即ち――アッドを拾い上げるのが間に合わない。

 このままいけばちょうど自分が大盾に辿り着いた辺りで、敵もまた攻撃の間合いに入ってしまう。そうなればアッドを構える間もなく、炎拳の猛襲に晒される。

 不味い。退いても進んでも待つのは敗北だ。だがどうすることも――

「問題ねえ。そのまま来い、グレイ!」

「……!」

 不安を断ち切るような、友人の声。

 伊達に長い付き合いではない。言葉の意図を察し、加速を断行する。迷いが消えれば、後は進むだけだ。

 敵との距離が縮まっていく。5メートル、4メートル、3、2、1――

 あと一歩踏み込めばアッドに手が届く距離に達する。敵も同じく、あと一歩を踏み込めばこちらに拳が届くだろう。盾を拾うひと手間がある限り、こちらの防御よりも敵が攻撃する方が早い。

 だから、アッドは拾わない。一瞬後に起こるであろう激烈な状況の変化に耐えるため、歯を食いしばる。

 再び、衝撃が全身を襲う。全身を圧縮されるような勢いに、僅かに吐き気を覚えた。


 だが、成功だ。

「……!?」

 一瞬、敵が確かにこちらを見失ったのを星の海から俯瞰する。

 自分の身体は十数メートルを上昇し、木々の背を越えて夜天の下を舞っていた。足元には大盾。持ち手につま先をひっかけて、サーフボードのようにぴったりと足裏にくっ付いている。

 大盾の特性。一定時間ごとに可能となる魔力放射。

 盾を拾うことはせずに踏みつけ、魔力放射を行った反動で飛びあがったのだ。彼の言葉は、<反転(リバース)>が可能になったことを示すもの。

 全ては間合いと隙をつくる為に――聖槍を解き放つ時間を稼ぐために。

「Gray……Rave……Crave……Deprave……」

 アッドを大盾からグリム・リーパーへ。星の下で、自己を変革する為の言葉を刻む。

 既に上昇する力は重力と均衡を結び、つかの間の浮遊感へと変わっていた。恐怖は無い。そんな余計な機能は既に停止している。

 ただ槍を放つ為の機構となる。その為の詠唱。その為の収奪。濃密であったマナがことごとく吸収され――

 それ故に、敵は頭上にある死の気配に気づいた。

「Grave……me……」

 地上。空を仰ぐ頭部らしき部位から、射竦めんばかりの殺気が向けられる。

 構うことはない。確かに敵の性能は脅威だが、圧倒的に先手を取れている。いまはただ、封印の解放と範囲の調整に意識を注いだ。何も考えずに放てば、村を消し飛ばしてしまう。

「Grave……for you……」

「疑似人格停止。魔力の収集率、規定値を突破。第二段階限定解除を開始」

 無感情なアッドの声が響く。いつもの皮肉気な調子はまったく見えない。この一瞬、彼もまた、自分と同じく"槍"の為だけに存在する機構と成った。

「聖槍、抜錨」

 告げる。それは世界を支える塔の影。紛れもない神造兵装のひとつ。故に、この一撃は神霊すら打倒する。

 テスカトリポカが炎を放った。指向性を持ち、こちらへ迫る赤の奔流。だがこちらが真名を解放する方が早い。解けたアッドは既に光へ変じ始めていた。

「最果てにて――!」

 聖槍が形を成すのと同時、轟、と敵の放った炎が周囲を取り巻く。だが身体が熱を感じる前に、真名を唱え終えることが――

「……!?」

 ――できる、筈だった。

 世界が一瞬で静寂の海へ落とされる。炎による気流も、落下による気圧の変化も感じない。ただ気分が悪くなるほどの無音が周囲を包んだ。

 思わず喉に手を当てる。口は幾度も開閉を繰り返し、舌は絶えず蠢いている。懸命に己が役目を果たそうとする声帯の振動すら感じられるのに――確かに紡いだ筈の真名が、音を結ぶ前に雲散霧消

していた。

 周囲に渦巻く紅蓮を見て、その正体に行きつく。

(音を焼く炎――!?)

 なんて、出鱈目。

 収束させたマナが霧散する。極光の奔流は消え失せ、再びグリム・リーパーの形に押し込められた。

 そしてこの炎は、真名解放を妨害するだけではないらしい。取り巻いたこの身を焦がす激痛を感じる。真名解放の妨害と、熱による殺傷。攻防一体の尋常ならざる異形の炎。

 逃げねば不味い。強制された沈黙の中、アッドに目線を送る。彼はその意をくみ取ってくれたようだった。変形と展開が始まる。

「っ……!」

 新たに組み上げた形は破城槌。全力で魔力放出を行い、ジェット噴射の如き推進を得る。落下起動を大幅に変え、炎の範囲から脱出することに成功。

 だが上手くできたのはそこまでだった。咄嗟のことで、着地まで手が回らない。

 落下と離脱の勢いを全く殺せぬまま地面に叩きつけられる。聖槍に魔力を回していたせいで強化が十分ではなかった為、ダメージは大きい。体に染み込んだ衝撃と激痛が次の動きを封じていた。

 歪む視界に、鮮烈な赤の揺らめき。墜落したこちらに、テスカトリポカは悠然とした歩みで近づいてくる。

「グレイ! おい、グレイ! くそ、マジか!」

 アッドの叫びも遠くに聞こえる。ただ、死の気配がこれ以上ないほど傍に忍び寄ってきていることだけは分かっていた。

 僅かに顔を上げれば、視界に映ったのは腕を振り上げる炎の怪人。


 そして、その背後から飛びかかる更なる怪人の姿。

「ガァァァアオ――!」

「!?」

 奇声を発して躍り掛かってきた怪人を避ける為、テスカトリポカがその場から飛び退く。

 新たな乱入者の正体は、自分の探し人だった。奇妙な民俗衣装に、手に持った一振りの竹細工。

「ティガーさん……!?」

「良く持ちこたえた、シンデレラ。あとは私に任せるガオ! 村を燃やしたのはこいつと見た。だってあからさまに燃えてるし!」

 叫ぶや否や、ティガーはバン・ブレードと彼女が呼ぶ武器に手を這わせた。竹板を4本組み合わせ、弦や革で固定した、およそ殺傷力という点から見ればお話にもならないその棒切れ。

 だがティガーが柄尻のストラップを思いっきり引っ張ると、竹の合わせ目から無数の黒い刃が出現。さらにどういう仕組みか、甲高い音を立ててチェーンソーの如く刃が猛回転し始めた。

「本邦初公開、バン・ブレード、モード・マカナリーサル……! 論理的にこいつを見て生き延びた奴はいねぇ! 勝った! 死ねい!」

 神霊相手であるというのに、畏怖も躊躇もなく、回天刃を大上段に構えて飛び掛かるティガー。

 止める間もなかった。テスカトリポカは僅かに半身をずらすだけで兜割りの一撃をよけると、カウンターでティガーの手首を掴み、

「あれ?」

 数メートル離れた場所で燃え盛っている建物に投げ込んだ。既に半ば炭化していた木造建築の壁は、砲弾の如き勢いで飛び込んできたティガーに耐えられない。大穴が開き、彼女は火の中に消える。

更にその建物は衝撃に耐えかねて倒壊した。

「……」

 心なしか、テスカトリポカも困惑しているように見える。

 だが事態は更に加速し続けた。未だ燃え盛る瓦礫の山が、内部から弾け飛ぶ。中からところどころ焦げつつも、ほぼ無傷のティガーが現れた。

「イヒヒヒ! いやいや、おかしいだろ! どんな理屈だ!」

 ほっとしたのと同時に、アッドの叫びに心から同意したい――だが驚愕するのはまだ早かったのだと思い知ることになる。


「■■■……」

 獣が唸るような声が、ティガーの喉の奥から発せられた。気づけば、いつの間にかティガーの顔からは一切の表情が抜け落ちている。

 同時、その身体から強大な神秘の気配が噴き出した。濃密な魔力が彼女の肉体を覆い、新たな形を創っていく。

 纏うように形成されたのは黄金の魔力層。そこに陰の如き黒い斑紋が無数に浮き上がる。

 時間にしてみれば1秒足らず。民俗衣装に身を包んだ女性の姿は消え、そこには黄金の獣が生まれていた。

「獣性魔術……!?」

 思わず声を漏らす。

 それはスヴィン・グラシュエートが得意とする、獣性を引きだしその身に纏う術に酷似していた。もっともスヴィンが象るのは狼だが、ティガーの幻体はそれこそ虎のような大型の猫科の動物を模している

ように見える。

 理解が追いつかない。彼女は確かに魔術師では無かった筈だ。隠す理由もないだろう。

「■■■■!」

 黄金の獣が咆哮をあげる。あるいは、本来彼女の部族が使う言語なのかもしれない。

 びりびりと震えるような魔力の衝撃が撒き散らされる。燃え盛っていた足元の瓦礫が瞬時に鎮火した。どうやらスヴィンの咆哮と同じく、魔力を散らす作用があるらしい。

 ここにきて、テスカトリポカの困惑も消えていた。再び鋭い殺気を放ち、獣と化したティガーと相対する。

「待って――待ってください!」

 こちらもようやく意識がはっきりとしてきた。身体もある程度は意思に従ってくれるようだ。破城槌の柄を杖代わりにしてどうにか立ち上がろうとする。

 ティガーの纏う魔力と神秘は、およそ現代の魔術師を基準に考えると尋常でないレベルのものだ。それこそ、本家であるスヴィンすら超えているかもしれない。


 だが、それでもなお、

「■■■……!?」

 テスカトリポカには、及ばない。

 魔力で編んだ四足による獣じみた機動力は、ほとんど瞬間移動染みてはいた。一瞬でテスカトリポカの背後に回り込み、バン・ブレードを打ち込む。

 その一撃を、炎を纏う怪神は避けもしない。回転する黒い刃をそのまま体にめり込ませつつも、カウンターで貫き手を放つ。

 肉を切らせて骨を断つ――それは、確実に相手を仕留める為の行いだった。

 黄金に輝く身体を、テスカトリポカの手刀が貫く。

 体の正中線を、完全に貫通している。あれでは即死だ。

 現実感が湧かない――今日会ったばかりの人物だったが、あの底抜けの明るさがこの世界から消えてしまったことを意識が受け入れようとしない。

 そしてテスカトリポカは、当然こちらの回復を待つつもりはないようだった。ティガーを縫いとめたまま、逆の手をこちらに突き出してくる。再び例の"音を焼く炎"を放つつもりか。

 明確な終末の予感。身体は未だ墜落のショック状態から抜け出せていない。戦闘機動どころか撤退すらできないだろう。

 もはやこの身に起死回生の手段は無く――

「■■■■――!」

 ――だから窮地を救ってくれたのは自分以外の声によるものだった。

「ティガーさん……!?」

 有り得ざる絶叫が響く。

 身体の中央を貫かれたままの黄金の獣が、死に体のまま、しかし激しい咆哮をあげていた。

 断末魔ではない。それは闘争の意志を多分に含んだ鬨であり、魔を払うとされている獣の咆哮だった。

 咆哮は一度では終わらない。幾重にも束ねられた其れは、テスカトリポカがその身に纏う炎にさえ揺らぎを生じさせていた。紅の衣の下にある"本体"――炭の様な質感をした肌が見える。

「グレイ」

 アッドの囁き。その意味を瞬時に理解する。いまなら――あの音を消す炎は使えない。

「Gray……Rave……」

 再度、自己暗示の為の言葉を唱える。距離を取る余力は無かった。消えようとする意識の灯を何とか維持しながら、定められた祝詞を紡いでいく。

 テスカトリポカの反応は、やはり迅速だった。

 貫いていたティガーをその場に振り捨てると、大きく跳躍して――それこそ木々の背を越える大跳躍を見せて、夜の彼方へ消えて行ったのである。

 宝具を持つ自分と炎を消せるティガーを同時に相手にするのは得策でないと判断したらしい。その判断はどこか歴戦の戦士染みたものを感じさせた。

 追撃は無理だ。がくり、と膝から力が抜けて地面に倒れ込む。あのまま続けていても、"槍"の解放まで保ったか怪しいものだった。

 急速に暗くなっていく視界の端に、同じく倒れ伏すティガーの幻体を認めた。死体が腐食していくように、その黄金の魔力層は崩壊を始めている。

「ティガー……さ……」

 彼女の名前を呼ぼうとして。

 だがその末尾を結び終える前に、自分の意識は闇中に没した。

あー、やらかした。改行が変になってる
読みにくくて申し訳ない


          *

 覚醒はいつも唐突に訪れる。予告など無い。酸素を求めて水底から浮き上がろうともがき――やがて水面に到達するときの様な唐突さで、意識が現実へと回帰する。

 最初に目に入ったのは天井だった。木製。大雑把な梁と萱。工業製品にはない、手作り特有の素朴さと雑さが垣間見える。

 その端から下へ続く、やはり木製の壁は隙間だらけで、日の光が部屋の中へ差し込んでいた。視線を横に移動させれば、扉の無い出入り口から外の様子が見える。太陽はまだ低い位置にあった。

 どうやら誰かが運んでくれたらしい。自分は蔓だか草だかの編み物で造られた寝床に寝かされているようだ。

 だるさを振り払って、上半身を起こす。いや、起こそうとしたのだが、その動作はやんわりと横合いから差し出された手に制止された。

「……急に動かない方がいい、レディ」

「師匠?」

 差し出された手を辿っていくと、床に直接座り込んだ師匠がこちらをみつめていた。

 驚きでこちらが声を出すこともできない内に、てきぱきと脈を計ったり、魔術回路の調子を確かめてくる。こそばゆい感覚――フードで顔を隠しているときは、互いにここまで接近しない。今はペンダントの幻覚があるので、顔を見られる/見る心配もないからこその近さ。染みついている葉巻の匂いが鼻腔をくすぐる。

 何とはなしに全身の関節が強張る様な感覚を味わっていると、どうやら問題なしの診断がでたらしい。葉巻の匂いが離れ、こちらの背に手を添えて上半身を起こすのを手伝ってくれる。

「昨晩のことはおおまかにだが聞いている……君が無事で、本当に良かった」

「……師匠、もしかして寝てないんですか?」

 こちらを真摯に見つめてくる目元には、明かな疲労の色が浮かんでいた。

「……神霊と交戦した、などと聞いてはね。どんな後遺症が残ってもおかしくはなかった。神代の呪いの厄介さは有名だ。痛みや違和感は?」

「いえ、特には」

 こちらが応えると、師匠は緊張を解くように深く息を吐く。

「そうか……犠牲が最少で済んだのは幸運と言う他ないな」

 犠牲。

 その単語に胸が締め付けられる。脳裏に浮かぶのは意識を失う直前の光景。命の消失を可視化したような、黄金の獣が崩壊していく様相。

 ティグレ・ヤガー。犠牲の名前。もういない――太陽のようだった女性。


「いやー、あれは死ぬかと思ったガオ!」

 その死んだ筈の女性が、ケラケラ笑いながら建物に入ってきた。

「……」

 思わず凝視してしまう。すわ幽霊かとも思ったが、どうやら実体はあるようだった。

 貫かれた筈の胸には傷一つない。よく見れば全身のところどころに擦り傷のようなものがあるのは見て取れたが、ともかく動くのに支障は無いらしい。

「……なんで生きてるんですか?」

 聞きようによっては凄まじく失礼な問いかけに、ティガーはにやりと笑って答えてくる。

「死んだと思ったガオ? 残念だったな、トリックだよ」

「いえ、別に残念ではないですが」

「え、そう? て、照れるぜ!」

 たはー、と自身の頭を叩いて見せるティガー。

 こんな感じであちこちに逸れるので話は遅々として進まなかったが、この後、10分ほど掛けてどうにか聞き出した結果、どうやら貫かれたのは幻体だけだったらしいことが分かった。本体は寸前に離脱していたらしい。トカゲのしっぽ切りというわけだ。

「……というか、ティガーさんは魔術師だったんですか?」

「んんー? 魔法なんて使えないガオ」

 きょとんと首を傾げるティガー。嘘ではないようだった。魔術と魔法の違いさえ分かっていない。

 だが、昨晩の戦闘でティガーが獣性魔術を使っていたのは確かである。

 それを指摘すると、しかしティガーは顔の前で手をぶんぶんと否定するように振って見せた。

「あれはうちの部族の人間なら、何人かできる人いるガオ。名付けて一撃必殺モード。まあ使いすぎるとジャガーになっちゃうんだけど」

「……待ってください。いま何か、とても衝撃的な台詞を聞いた気がするのですが」

「ジャガーになっちゃうガオ」

 聞き間違えではなかったらしい。身振り手振りを交えながら、ティガーが説明してくる。

「なんていうか、余所から力を借りてる感覚なんだけど、あんまり使いすぎると取り込まれちゃうみたいガオ。森の中に駆けこんでいって二度と戻ってこなかった人を何人かみたことがあるもの」

「リスクがある、というわけか」

 ティガーの話を聞いていた師匠が呟く。

「しかし、使いすぎると……と言っていたが、日常的にそれを使わざるを得ないほど、この村は常日頃から危険に曝されているのかね?」

「ううん。木を切らなきゃいけないけど面倒だなー、とか思った時に使ったりするから」

「……」

 自分と師匠は思わず沈黙したが、いちいち彼女の発言に取り合っていたら時間がいくらあっても足りないということは既に理解していた。
 
 とにかく、ティガーは生きていたのだ。いまはそれで良しとしよう。

 もっともよく考えてみれば、師匠が村に到着している時点でティガーの生存は推察できることだった。何しろ、自分たちが野営した場所を正確に知っているのは彼女だけなのだから。

 実際、テスカトリポカが撤退した後、ティガーは師匠を迎えに行ってくれたらしい。

「あ、そうそう」

 ぽんと手を打って、ティガーが建物の外を指し示す。

「爺様――村長が呼んでるガオ。歩けそうなら、一緒に来てくれる?」


          *

 会談が終わり外に出ると、薄霧でぼかされた朝焼けが空を彩っていた。

 電気や油に乏しい環境では、太陽の光は重要な資源である。朝早くから村は活気に満ちていた。ところどころから、炊事のものらしい煙が立ち上っている。昨晩の煉獄の様な炎ではない、牧歌的で制御された火の気配だ。

 ティグレの祖父であり、この村の村長でもあるというトラトラ・ヤガー氏(本来はもっと長い名前らしいが、ティガーが端折った)との会談はごく短いものだった。

 内容も穏やかなものである。昨晩の襲撃から結果的に村を守ったことになる自分達へ感謝の言葉を送りたかったらしい。最悪、村に災いを持ち込んだ異教徒扱いされることも覚悟していたので、少し拍子抜けしてしまった。

「おどりゃあ、うちの村の恩人じゃけえ、好きなだけいるとええ――と言ってるガオ」

「いや、絶対にそんな口調じゃないだろう」

 通訳のティグレに師匠が突っ込む場面も見られたが、概ね平和のうちに会談は終わった。村で一番英語が達者なのが彼女らしい。

 朝日の眩さに目を慣らしたところで、ふと振り返る。そこにはいましがた自分達が出てきた建物がそびえていた。

 自分が寝かされていたものと造り自体はそう変わらないが、見る限りは村の中で一番大きな建築物のようだ。中にはトラトラ氏を始めとした部族の男たちが5人ほど詰めていたが、そこに自分たちが加わってもそう狭苦しさは感じなかったほどだった。

 気になったのは、やはりトラトラ達の顔立ちである。ティガーと血縁があるらしいトラトラ氏は彼女と同じく同じくアジア系の顔立ちをしていたし、彼らの内のひとりなどは白い肌にアッシュブロンドの髪を持っており、最初は調査隊のひとりかと勘違いしてしまったほどだ。

 昨晩の襲撃で、村人の被害は軽傷者が数名出た以外はまったくなかったらしい。テスカトリポカによる襲撃はほとんど予兆もなかったらしいが、彼らが無事であった理由は――

「あなた方が体を張ってくれたお陰です。お陰で悪印象を与えずに済んだ」

「ふん! 言葉だけの感謝なんていらない――いらぬ、いや、いらんわ!」

 師匠の言葉に、私達と一緒に建物から出てきた金髪の少年が、ふんと鼻を鳴らして語気を強める。何か語尾の調子が気に入らなかったのか何度か言い直していた。

 昨晩出会った少年であった。明るい陽の下で見ると印象も変わる。今の彼は金色の髪を後ろに撫でつけた、良い家のお坊ちゃんのように見えた。もっとも、真っ当な魔術師なら良家の出身が多いのは当然のことでもある。

 やはり調査隊のひとりだったらしい。呼ばれた先の建物で先に村長と話していたのだ。私達が来てからは師匠とトラトラ氏の会話になってしまったので、まだ自己紹介も済んでいなかったが。

「それより、そっちの小娘は何なんだ?」

「小娘……」

 もごもごと呟く。明確に年下であろう相手から小娘呼ばわりされたことに対しては怒りこそわかないが、それでも何となく納得できないものはあった。

「私の内弟子のグレイです。グレイ、こちらは――」

「ゴルドルフ・ムジークだ」

 師匠の紹介を遮って少年――ゴルドルフが名乗りを上げる。彼はもどかしそうに手を振って声を荒げた。

「そうではなくて、何でこいつは神霊に対抗できたのか、と聞いておるのだ! おかしいだろう、使っていた礼装の強度もそうだが、身体能力も何もかも!」

 ちなみにその礼装であるアッドは、現在布で覆われた状態で腰のベルトに括りつけられていた。ゴルドルフはグリム・リーパーと大盾の形状しか見ていないからか、気づいていないようだったが。


 しかしこの場合、見られていたというのが驚きである。

「……あの時、意識があったんですか?」

 僅かに目を見張る。凄まじい勢いで木に衝突していたものだから、少なくとも気絶くらいはしていたと思っていたのだが。いや、よく考えてみれば、あれからほんの数時間しか経っていないというのに、こうして元気に動き回っている時点で妙だと気づくべきだったのだろう。

 こちらの問いに、ゴルドルフは肩をすくめて見せた。なんということはない、というジェスチャーを試みたのだろうが、隠しきれない誇らかさが滲んでしまっている。

「何とかな。不意打ち対策に各急所を鉄に変えていたのが功を奏した」

「お腹を、鉄に?」

 発した疑問に、横合いから師匠の解説が入る。

「ムジーク家は錬金術の大家だ。肉体の変成くらいやってのけるだろう。イスタリ家の<生きている石>ほどではないだろうが、緊急時の戦闘用としては申し分ない優れた術式だな」

 そういえばゴルドルフが木に激突した時、妙に重い音を立てていたことを思い出す。

 体の一部を金属に変えられるというのなら、確かに戦闘においては有用だろう。複雑怪奇な仕組みの人体を、強固で単純な形に出来るのなら、耐久力は飛躍的に向上するに違いない。

 自分が納得している横で、師匠が質問役を引き取った。

「ところでミスタ・ムジーク。調査隊に参加する筈だったのは先代当主――貴方の御父上だった筈だ。何故、貴方が?」

 発せられた師匠の言葉に思わず目の前の少年を二度見してしまう。自分よりも歳幼いであろうこの少年が、ひとつの家を背負った当主であるとは。

 だがゴルドルフは、余裕なく師匠の質問を遮った。わずらわしげに首やら腕やらを振り回して不満を表明している。

「僕――いや、私のことなどどうでもいいだろう! それよりもその娘は何者なのかと聞いている! 神霊を撃退するなど――」

「え?」

「うん?」

 ゴルドルフの台詞に違和感を覚え、思わず声を上げてしまう。すると、向こうも毒気を抜かれた様にきょとんとした表情を浮かべてきた。

「あの、拙はむしろ手も足も出なかったのですが……」

「え? そうなの?」

「はい……あの、見られていたんですよね?」

「いや……先ほど通訳をしていた女が乱入してきた辺りで意識が途絶えてな。まさかあの女が倒したわけ無いと思っていたから、消去法で貴様だと」

 ちなみにそのティガーは会談の後、焼けた住居の撤去作業を手伝いに行ったのでここにはいない。

 ならばこの人は彼女の獣性魔術も見ていないのだろう。この様子からすると、自分が"槍"を解放しかけたことも意識の外だったに違いない。


 何となく漂う気まずい雰囲気を払拭するように、師匠がごほんと咳払いをしてみせた。

「彼女は確かに特別な限定礼装の使い手ですが、神霊と真正面からやり合えるものではないと御理解頂きたい」

「な、なら昨晩あれが退いたのは、あの妙な女が――?」

「ティグレ・ヤガー――あのエキセントリックな女性の名前ですが、彼女は確かに特異な異能を持つようです。ですが、神霊相手に勝利できるほどだとは思えない。昨晩の結果は、単純な力押しで得たものではないでしょうね」

「そ、そうか――いや、待て! ならばまた奴が襲ってきたらどうすれば――!」

 再度の襲撃。その可能性を指摘され、思わず身が強張る。勝てるイメージが全く浮かばない。

「それについて考える為にも、まずは事態を把握しなければ。調査隊の被害は?」

「……こっちだ。歩きながら話す」

 不承不承という感じながらも、ゴルドルフは先頭に立って歩き出した。師匠と自分もそれについていく。

 師匠の交渉の手並みは実に見事なものだ。自然と神霊の脅威を煽ることで、相手が気にしていた自分とアッドの秘密のことを流してしまった。貴族特有の格式ばった謀略ならばライネスに分があるのだろうが、それ以外なら師匠の権謀術数振りも負けてはいないだろう。

「奴が襲撃してきたのは、我々が村に到着して少しした頃だった。いきなり村の中に飛び込んできて、ところかまわず火を放ちおってな。隊長であるアープ、及び副隊長のイーガンは即死。突如現れた化物に攻撃したのはいいが、反撃一発で粉々になった」

「……イーガンはアープ子飼いの魔術使いだったな。傭兵崩れで、魔術はともかく戦闘の腕ならば典位にも引けは取らないという話だったが」

「まあ、確かに我々の中では頭一つ飛びぬけてはいたのだろうな。もっとも、敵の足元にも及ばなかったわけだが……まあ、考えてみれば当然だ。神霊に現代の魔術が通用する筈などないからな」

 それは神秘の強度としての理屈だった。

 かつてスラーの地下で、フェイカーと蒼崎橙子が魔術戦を行ったと聞いたが、その際には冠位魔術師の刻んだ大量のルーンが、フェイカーの神代形式の魔術ひとつで吹き散らされたらしい。神秘はより強い神秘によって無効化される。現代の魔術が誇る神秘の強度では、対魔力や特別な加護を持たない英霊程度ならともかく、神霊が備える神秘の強度に抗しえないのである。

 ゴルドルフは溜息と共に首を振った。続ける。

「あとは散り散りに撤退戦だ。荷物の運搬に使っていたゴーレムやら設置型のトラップやらで時間を稼ぎながら、村人を連れて森の中に逃げ込んだ。そいつが来たのは丁度その頃だ」

 そいつ、の辺りで振り返り、こちらを視線で示してくるゴルドルフ。何とはなしにぺこりと頭を下げると、ふんと鼻を鳴らして前を向かれてしまった。嫌われてしまったのだろうか。

「それで、残りのメンバーの状態は?」

「5人が命に係わる重傷、4人がオドを使い果たして昏倒。残りはほぼ無傷だが、逆に言えば戦闘はからっきしで補助に徹した連中が残っただけだ。不幸中の幸いという奴で、その中に治癒の魔術を使える者がいたが、焼け石に水だな。いまは重傷者の延命に当たっているが、いつまでもできるものではない。早く運び出して、外で本格的な治療を受けさせねば」

「すると、動ける者は――」

 師匠が何か言いかけた辺りで、ゴルドルフは足を止めた。

 どうやら目的の場所に着いたらしい。視線を向ければ、自分達の到着を待っていたように、目の前の建物からひとりの青年が出てくるところだった。


 年の頃は20半ばといったところだろうか。それはガラス細工のように整った容姿をしていた。イゼルマでみた黄金姫/白銀姫ほどではないが、それでも男の容姿はどこか作り物めいている。雪のような白い肌。この湿気の中であってもさらさらと風に揺れる銀糸のような髪。血の様に赤い瞳。その全てに魔性が宿っているようだ。

 僅かに思考に空白が生まれる。師匠も同じだったようで、先に口火を切ったのはその青年だった。にこやかに口角を上げて、右手を差し出してくる。

「調査隊のトラム・ローゼンです。お会いできて光栄ですよ、ロード・エルメロイ」

「……Ⅱ世をつけて頂けるとありがたい」

 お決まりのやり取りをしながら、師匠と青年――トラムとやらが握手を交わす。

 手を離すと、トラムは慇懃に頭を下げて見せた。ひとつひとつの所作に、染みついた貴族的な礼儀作法が見え隠れする。

「失礼、ロード・エルメロイⅡ世。私が怪我をした隊員の様子を見させていただいておりました――まあ、治療の術も使えませんのでね。精々雑用係というところですが」

「そうでしたか。ローゼン、というと――」

 珍しく、師匠の語尾が伸びた。「Well(ええと)」。知識の泉を総ざらいして、相手の情報を思い出そうとしている。

 そしてこれまた珍しいことに、師匠が知識を汲み上げるよりも早く、トラムが後を引き取った。

「ああ、レバノンにある小さな家ですよ。歴史だけはそこそこですが、大した結果は出せていませんので聞き覚えがなくとも当然かと。ムジーク家とは昔から懇意にさせていただいておりまして」

「トラムは私が小さいころからの付き合いでな」

 名前の出たゴルドルフが補足するように言葉を足した。

 何とはなしに、オルガマリーとその従者だったトリシャの組み合わせを思い出す。トラムは従者ではなくあくまで他家の魔術師なのだろうが、力関係は似たようなものらしい。ゴルドルフは彼に命じることに慣れているようだった。

「それで、トラム。様子はどうだ?」

「良くはありませんね。オドを消費しきった方々は、動けるようになるまで2、3日はかかるでしょう。治療魔術の心得がある者が交替で重症者の治療を行っていますが、手持ちの呪体や薬での快癒は不可能。延命はもって一週間というところです。ここはマナには困りませんが、それ以上は治療者の体力が持たない」

 トラムの背後を覗くと、やはり扉の無い建物の内部が僅かに覗けた。厚い布の上に寝かされた傷病人たちの間を、複数の人影が右往左往している。時折マナが流動するのは、治療魔術を使っているからだろう。

 魔術による怪我の治療の難易度は高いと以前に師匠の講義で習った。止血程度ならまだしも、命に係わる様なものであれば焼け石に水というのも頷ける。魔眼蒐集列車で傷を負った師匠も、オルガマリーの霊薬が無ければ助からなかった。

「そうか……」

「いっそ、切り捨てては? 我々だけで森から抜け出すなら、まだ目はありますが」

「ううむ……そちらはどう考える?」

 トラムの冷酷な提案に、ゴルドルフが悩むように師匠の方をみやる。

 ……驚いた。トラムの意見は、魔術師としては至極真っ当なものだ。魔術師にとっては自身の家系が根源に到達することのみが至上にして唯一の目的であり、他人のことなど踏み台程度にしか考えない。

 それに対して魔術の家を総べし当主であるゴルドルフは、"悩む"という優柔不断振りを示した。師匠曰く、ムジークは魔術の大家。であるというのに、ゴルドルフは人間らしい感性を残している。それが良いか悪いかは自分には判断しかねるが、ライネスやオルガマリーなど、これまで出会ってきたゴルドルフと同じ年頃の彼女たちがあまりにも魔術師らしかった為、虚を突かれたのだ。


 だがそれに対する師匠の返答にはもっと驚かされた。

「そうですね。ひとつだけ言えることは、我々が考えるべきは、どうやって件の神霊を掻い潜り遺跡の調査を行うかという一点だけ、ということです」

「ま――待て待て待て!」

 泡を食ったような勢いで、ゴルドルフが悲鳴染みた声を上げる。

「しょ、正気か貴様! この期に及んで先に進むだと!? 隊員の7割以上が動けない状況なのだぞ!? おまけに相手は神霊! どう考えても撤退を選ぶべき場面だろう!」

 ずかずかと師匠に近づくゴルドルフ。咄嗟に間に入ろうとするが、その動きは自分の肩に添えられた師匠の手に制止された。

「命あっての物種だ! 確かに功績は惜しいが、戦略的撤退という言葉も――」

「貴方の言っていることは正しい」

 続くゴルドルフの抗議に、師匠の言葉が割り入る。

「その通り。我ら魔術師にとって、もっとも恐れるべきは"死"だ」

「なら――」

「しかし、ミスタ・ムジーク。その死とは、単に生命活動が停止するだけのことを指すものではないでしょう」

 授業で講義するように、師匠の言葉に淀みはない。当たり前の事情を講釈するように、言葉は流々と紡がれていく。

「我々にとって忌むべき死とは、根源を目指せなくなるということです。極端な話、自分が死ぬことで後継者が根源に到達できるというのなら、魔術師はそれを選択するべきだ。逆に死ぬ危険性があっても、それを踏破しなければ根源に辿り着けないというのなら、それを躊躇うべきではない」

「なにが言いたい?」

「撤退すれば、我々は確実に"死"にます」

 師匠は手を広げて辺りの光景を指し示した。昨晩の襲撃による惨状の痕があちらこちらに見受けられる。

「これまでの調査隊は、遺跡かその道中で襲撃されたと考えられていました。まあ、下手人は昨晩の襲撃者と同じと考えてよいでしょう。神霊相手となれば、魔術師がどれだけ束になろうと敵う筈はない」

 それは昨晩の戦いが証明していた。たった一度の交戦で調査隊は半壊。自分とアッドも危うく死にかけている。

「しかし理由は分かりませんが、今回敵はこの村にまでその魔手を伸ばした。既にこの場所自体が殲滅対象とみなされている可能性が高い。もしも我々が撤退すれば、その後、村人は皆殺しにされるでしょう」

「……ま、まあ……しかたあるまい。それに、なぜそれが魔術師としての死とやらに繋がる?」

「問題は村人がいなくなるということです。貴方達も、この村に来るのには"案内人"を使った筈だ」

「……あ」

 そうだ。この森には結界があり、村人の案内が無ければ遺跡どころか村にも辿り着けないのである。

 ゴルドルフも結界の仕組みについては知っていたのだろう。肯定するように頷くが、すぐに疑問符を浮かべ直した。

「なるほど。村に来れなくなる……調査が出来なくなるということか。だが、それが?」

「その調査が出来なくなるのは誰か、という話です」

「誰って、それは――」

 言いかけたゴルドルフの表情が、さあと血の気を失った。見ていて気の毒なくらい青褪め、だらだらと冷や汗をかき始めている。


 どうやら彼には正解が分かったらしいが、自分にはさっぱりだ。そこに多少の悔しさを感じないでもないが、いまは手っ取り早く師匠に答えを求める。

「師匠、どういうことです?」

「出発前に説明した通り、この遺跡――というか、遺跡の調査計画は時計塔全体で公平に共有している。といっても、その"公平さ"とやらは各派閥が垣根を越えて全員で協力しよう、というものじゃない。それぞれが順番を決めて調査をしているわけだが」

「つっ、次の調査権はどこの学部が?」

 息を吹き返したらしいゴルドルフが訪ねると、師匠はやれやれと首を振りながら答えた。

「創造科です。ロード・バリュエレータは権力や陰謀と金石の契りを交わしたような女傑だ。まず間違いなく、こちらの落ち度を突いてくる。我々が藪をつついて蛇をだしたせいで、魔術の鉱脈を潰したとね」

 ……なるほど。

 つまり、これ以上の調査ができなくなった責任をエルメロイ派に押し付けるだろう、ということらしい。いや、ゴルドルフの怯えようからすると、おそらくムジーク家もその対象になるのだろう。魔術の大家ということは、それだけ潤沢な資金や希少な呪体などを貯め込んでいるということだ。切り分けるパイとしてはさぞ魅力的に映ることだろう。

 前ロード・エルメロイが亡くなった際、他の学部がエルメロイ派の利権を徹底的に毟っていった様子は自分も聞かされている。それと同じことが起こるなら、エルメロイ派は今度こそ息の根をとめられてしまうに違いない。

 結果として齎されるのは、師匠の言っていた魔術師としての"死"だ。後で聞いたところ、資金難というのは魔術の家系が絶える理由の中で最もありふれたものなのだという。

 ゴルドルフも頭を抱えていた。撫でつけた金髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら呻く。

「よりにもよって民主主義派か……!」

「加えて言うなら、さらにその後に控えていた権利待ちの各学部も声を揃えるでしょうね。この場合、貴族主義派とて容赦はしてくれないでしょう」

「最悪だ……い、いや、それなら村人を一緒に脱出させればいい! 創造科に引き渡せば――」

「なるほど、確かにそれならダメージは最小限で済むでしょう。怪我人と大勢の村人を連れてジャングルを行軍しつつ、神霊の襲撃を耐えることができるのなら」

「……連れて行く村人を数名だけにするのは? 怪我人も……見捨てるほかないが」

「残った村人を囮にするということならば、納得が得られる可能性は低いですね。何しろミズ・ティガー……神霊との戦いに乱入した女性ですが、彼女は村が危険に曝されていると分かった途端、我々を置いて飛び出して行きましたから」

「下手に提案して信用を失う危険を犯すことも不味いか……いや八方塞ではないかね!?」

 追いつめられた少年が絶叫する。正直、自分も同意見だった。前門の神霊、後門の時計塔。チェスでいうところのチェックメイトに陥った感覚。

 だが師匠はゆったりとした動作で右手を掲げると、その人差し指を立てて見せた。注目を集めてから、告げる。

「我々に残された道がひとつだけあります――遺跡から何らかの成果を引き揚げ、継続して調査する権限を獲得すること。これ以外に生き残る術はありません」

今日はここまで

          *


「……とはいえ、馬鹿正直に真正面から行っても他の調査隊の二の舞だ。まずは突破する為の材料を手に入れなければな」

 そんなわけで、自分と師匠は村の中を歩いていた。昨晩、師匠と別れたからあったことの仔細も既に話し終えている。

 ゴルドルフとトラムは別行動だ。というより、絶望的な状況にあることに気づいたゴルドルフがフリーズしてしまった為、あとはトラムに任せてきたのだが。

 改めて村の中を見て回ると、そこかしこに昨晩の爪痕が残っていた。焦げ跡。クレーター。倒壊した家屋。それらの片付けに村人たちが追われている。やはりというか、ティガーの服装は特殊なものだったらしい。彼らの多くは異国情緒溢れるゆったりとした民俗衣装に身を包んでいた。風通しの良さそうな布地が、赤や青といった鮮やかな色に染められている。

 改めて見ても、ここの村人たちの外見はメキシコの人々とはどこか違うように思われた。

 いや、そもそも現代における所謂メキシコ人は多様な人種が混ざったものなので"メキシコ人らしくない外見"というのは存在しないのかもしれないが、この村ではその人種の比率が妙に偏っているように見える。特にメキシコ人の大部分を構成するヒスパニック系はひとりも見当たらないのだ。

 師匠に聞いてみようかとも思ったが、その師匠は現在、真剣な表情で焦げた建材の一部を採取していたので声を掛けるのは躊躇われた。些事で煩わせるのは申し訳ない。

 さきほど話題に出た、魔術師にとっての"死"。それは、誰よりも師匠自身が恐れる結末だろう。いつか取り戻す予定の魔術刻印でさえ、二束三文で叩き売られてしまうかもしれない。

 代わりというわけでもないが、手に持っていた布袋を顔の高さまで持ち上げる。布を解くと、中からいつもの鳥籠に入ったアッドが姿を現した。

「アッド、体の具合はどうですか?」

「イッヒヒヒ! 体も何も、見ての通り顔しかねえぞ!」

 挨拶代りの軽口に応じるように鳥籠を軽く振ると、アッドはしばらく口を閉じた。人間でいうのなら、身だしなみを確認するとき、自身の身体を見回すようなものだろう。数秒を経て答えを出す。

「……まあ、そうだな。真名解放寸前までは行ったが、結局は失敗したんだ。大した負荷じゃなかったさ。あと一度くらいなら問題ないだろ」

「そうですか……」

 まずはほっと息を吐く。

 アッドは以前、十三拘束を一部解放した反動で機能停止に陥った。あの時は本当に胸が張り裂けそうになったのを覚えている。その後、文字通り奇跡的に回復したものの、自分と彼の間で"槍"の解放に関する取り決めを話し合うことになったのは必然であった。

 第三段階限定解除は完全に封印。第二段階も、一度使用したら10日は間を空けるということで合意している。それがアッドの自己修復能力の程度を鑑みての結論だった。

「とはいえ、無傷ってわけじゃねえからな。真正面から殴り合うのは勘弁だぜ。第一段階でだって、たとえば真っ二つにへし折られでもすりゃそこでお終いさようならだ」

「……そうですね。昨晩は手も足も出ませんでしたから」

 何度思い返しても恐るべき相手だった。神霊テスカトリポカ。"音を焼く炎"を除けば、魔眼や魔術といった搦め手は見せなかったが、単純な近接戦闘能力でいえばフェイカーを上回るだろう。

 怖気を押し殺して紡いだ自分の台詞に、しかしアッドは奇妙なぼやきかたをした。

「まあ、手も足も出なかった、ってのは変なんだけどな」

「?」

 首を傾げていると、立ち上がった師匠がこちらに振り向く。どうやら今のアッドの発言を耳にしたらしい。

「君も気づいていたか。まあ、文字通り直接対決したわけだからな」

「どういうことですか?」

「イッヒヒヒ! ちっとは自分で考えたらどうだ愚図グレイ! 脳みそが緩んで耳から垂れるぞ!」

 アッドからの叱咤に、むぅと呻いてから考えてみる。手も足も出なかったのがおかしい?

「……拙が頑張っていれば、もっと有利に立ち回れたということでしょうか?」

「かもな! だが大外れさ!」

 ブッブー! と不正解のオノマトペを吐き出すアッド。それを軽く睨み返しながら降参というように肩をすくめると、彼はこれ見よがしに溜息を吐いて見せた。

「あのなぁ、もしもあれがマジモンの神霊なら『手も足も出ない』程度じゃ済まねえに決まってるだろ! 一瞬で村も人も丸ごと灰になってるさ。だろう、先生?」

 答え合わせを求めるような友人の視線に、それを向けられた師匠は頷きで返した。

「その通りだ。神霊とは単なる英霊の上位互換ではない。両者の間には隔絶した差というものがある。例えば君の"槍"は真名解放によって神霊級の魔術行使を可能にするが、逆に言えば神霊はそれと同等の一撃を我々が魔術を使うのと同じ感覚で放てるわけだ。もちろん神霊と言ってもピンキリはあるがね」

 言われて想像したのは、最近スラーでも見かけるようになったルヴィアが、得意のガンド撃ちを披露する場面だった。彼女の人差し指から呪いの代わりに聖槍が機銃掃射のように連発される様を思い描いて、思わず身震いする。地平線が焼け落ちそうだ。

「アッドの言う通り、そんなものを相手にしたのなら、全滅していてない時点でどこかおかしいということになる」

「けれど師匠。あれからは確かに神霊――神霊イスカンダルと同じ気配を感じました」

 凄まじい神秘の深度。現代に残存しているものとは思えぬほどの。

 あの炎を纏った人型は、確かにそれを備えていたのだ。

「君の感受性は確かなものだ、レディ。だからつまり、神霊ではあるんだろうさ。神秘の古さと力の出力が見合っていないというだけでな」

 ……そんなことがあるのだろうか。

 神秘は古ければ古いほど強力になる。これはこの世界の大原則だ。例えば何の魔術的な処置をされていない刀剣であっても、数百年を経れば結界破りなどの特性を持つこともあるという。

 そんな疑問に、師匠はいつもと同じように答えてくれる。

「可能性はいくつか考えられるが、もっともありそうなのは機能を削って霊基を成立させているということだ」

「機能を削る……ですか」

「ああ。そもそも神霊なんぞ、現代に呼び出せるわけがないんだ。ハートレスの計画とて、特殊な英霊を使った複雑な儀式と、霊墓アルビオンという環境が無ければ成立しなかった。この密林のマナも現代にしては破格ではあるが、アルビオンほどではないだろう」

 神霊イスカンダルの降臨。確かにあれは、限定された状況と、ハートレスの偏執的な計画があっての出来事だ。

「あの時とは逆だな。英霊を神霊にまで押し上げるのではなく、神霊を英霊と近しい出力にまで貶める。振るえる力の総量は落ちるだろうが、神霊としての神秘の深度は保てる。君のセンスは霊体の本質を捉えることに特化し過ぎている為、その神霊本来の"格"を感じ取ってしまったのだろう」

「……その方法なら、神霊を呼び出すことができるんですか?」

 尋ねると、師匠は難しい表情を浮かべた。

「いいや。現代の魔術理論を鑑みるに、絵空事でしかない。そもそも英霊をサーヴァントとして召喚すること自体、聖杯かそれに匹敵するリソースがない限り難しいんだ。ましてやそれが神霊なら、世界が滅びかけてでもしない限り……神霊側が召喚を望んでいたとしても難しいだろうな」

 溜息を吐いて、師匠は再び探索に戻るようだった。歩き出す背中を追いかける。

「……現代において神霊の召喚が不可能であれば、その神霊は神代から今日まで残り続けたものなのではないか、という考察もできる」

 歩きながら、師匠が呟く。

 それは、逆転の発想だった。師匠らしい発想の柔軟さだ。だが表情をみるに、誰よりも師匠自身がその考えを有り得ないと否定している。

「しかし師匠、それは……」

「……ああ、そうだ。絵空事というのはこれも同じだ。機能を可能な限り削り、この地のマナを吸い尽くしたところで、神霊としての深度を保ったまま数百年以上も活動できるはずがない」

 どこかで詐欺をやられている、と師匠は頭をがりがり掻きながらぶつくさ呟いていたが、唐突に苛立ちを消した。思考をリセットしたのだろう。瞑想法で意識を切り替えるのは師匠の得意技だ。

「だが現実問題として、この地に神霊は出現している。今更そのハウダニット(どうやって)を考えても無駄だろう」

「考えるべきはホワイダニット(どうして)……ですか。でも、分からないことが多すぎて……」

 一体、何の"何故"が分かればこの状況を解決できるというのか。

 師匠が冒頭で自分達に語った秘策は、奇しくもライネスが予言した通り、現状では意味のないものになってしまっている。

 師匠だけを連れてこの森から脱出することは可能かもしれないが、それをすれば魔術師としての師匠は死んでしまうのだろう。それはこの人が、もっとも望まないことだ。

 八方塞の現状を打破できるような答えが存在するというのか。


 だがその疑問に、師匠は何でもないという風に首を振って見せたのだった。

「いや、解明すべき謎はひとつだけだ。"どうして件の神霊は、今回に限って村を襲ったのか"。それ以外は大した謎でもないし、それさえ分かれば対処できるだろう」

 あまりの唐突さに思わずぽかんと口を開けてしまっていることに気づいて、赤面しつつ慌てて唇を引き結ぶ。

 どうやら師匠の中では既に推理が進んでいたらしい。しかし、自分はまだ五里霧中の心境だった。分からないことだらけで、情報をどう取捨選択するか、その基準さえも定まっていない状態だ。

 何をどう言えばいいのかも分からなかったので、自分の口を突いて出たのは最もインパクトの強い人物についての疑問だった。

「あの、例えばティガーさんの獣性魔術については……」

「ああ、それはジャガーマンだろう」

 こともなげに師匠は言う。

「ジャガーマンはメソアメリカ文明で古くから信仰されていた存在だ。一般的にはジャガーの毛皮を被った戦士の姿を象る。テスカトリポカの"ナワル"――霊的な別の側面がジャガーの形であることから、テスカトリポカとも深い関係があるとされている。いわば低位の神霊だな。一説によれば、テスカトリポカは多くのジャガーの戦士を従えているとか」

「つまり、ティガーさんは神霊なんですか?」

「もちろんそうじゃない。あんなふざけた神がいてたまるか。彼女、というか彼女の部族はあくまでシャーマン――ジャガーマンの力をその身に宿しているだけに過ぎない。先ほど言ったナワル、という言葉は、別の姿に変身することが出来るシャーマンを指す言葉でもあるんだ」

 そういえば昨晩、たき火の傍でそんなことを講義していた気もする。

 忘れていたことを隠すようにふんふんと真面目さを装って頷いておく。幸い、師匠はそのまま話を進めた。

「スヴィンの獣性魔術とは似て非なるものだ。獣性魔術は己の内側から獣性を引き出すことが本質だが、彼女はその逆――外からジャガーマンの力の一端を借り受けているんだろう。どちからといえば降霊術に近い。先ほど神霊の格云々について説明したが、その延長だな。限定した力を、限定した時間だけ憑依させている。それでもなお人間という器では耐えきれないから失踪者――というか、おそらく発狂するなり廃人になるなりが出るんだろうさ」

「あの……こう言っては失礼かもしれませんが、あのティガーさんがそんなに高度なことをやっているんですか?」

「体系立てて制式化しているわけではないだろう。多分に感覚的なものなのではないかな。この手の降霊術に必要とされる資質は『無垢であること』だと言われている」

「無垢……ですか」

 何とか納得できないこともない。彼女のように裏表のない、悪く言えば子供じみた性格は無垢に繋がるものだともいえる。

 師匠はこめかみの辺りをこつこつと人差し指で叩いて見せた。

「自身の中に異物を呼び込むわけだからな。むしろ理知的な人間であれば反発してしまうのさ。世界的に見ても、シャーマンや巫女がトランスを行う際には、アルコールを始めとした薬物を用いることが多いだろう? あれはそういった脳の抵抗を減らすためのものだ」

「なるほど……いえ、しかしそもそも現代では神霊を呼ぶことはできなかったのでは?」

「フェイカーも神代形式の魔術を使っていただろう。極東の一部ではいまだにその形式の魔術が使用されているらしいしな。現代においても、ほんの僅かな力を借り受けることくらいなら可能というわけだ」

 神代形式の魔術が現代の魔術と違うのは、神からその力を直接引き出すということである。その点でいえば、確かにフェイカーは現代において神霊の力を呼び出していると言えた。

 しかし、ティガーは自身の異能が、村人の何人かに共通して存在するものだと言っていた。そしてそれが、この地に由来する神霊を降ろすことができるシャーマンとしての能力であるならば――

「つまり、この村はアステカの魔術師達が造り上げたもので、ティガーさん達はその子孫?」

「この村は確かにアステカの魔術師達が造った物だろう。結界の存在を考えてもそれは間違いない」

 この村と遺跡へ辿り着く為には、"案内人"を使わねばならないというルール。それはここら一帯を覆う結界に端を発するものだ。

 その結界を造ったのが誰か、といえば、それは滅び去ったアステカの魔術師たちに違いない。遺跡がアステカ時代の様式である為だ。結界がそれより以前――メソアメリカ文明初期の頃に張られていたものだったというのであれば、そもそも結界の内側にアステカ人たちが遺跡を建築することはできない。

「だが彼女たちがその子孫であるというのはどうかな。君も気づいているだろうが、ミズ・ティガー達の顔つきには妙な偏りがある。メソアメリカ系でもない。出立前から可能性としては考えていたが、彼女たちはやはり――」


「呼ばれて飛び出てジャジャジャーン!」

「……」

 唐突に響き渡った声の発生源を見ると、何故か傍に生えている木の上にティガーが立っていた。何やら複雑なポーズめいたものを取っている。両手を左右に広げ、片足を上げ、まるでフラミンゴのようだ。

 そこで気づいたが、ティガーの装いが変わっていた。例の民族衣装にバン・ブレード(これも後に師匠に聞くと、マカナというアステカの民が使った細石器の一種らしい)は変わらないが、さらに追加して木の槍やら石斧やら弓やらを全身に括りつけている。

 「とう!」と気合を吐いて、彼女は数メートルの高さから軽々と飛び降りてくる。装備のせいで重量バランスは滅茶苦茶の筈だが、無駄に4回くらい回転しつつ危なげなく着地してみせた。そのまましばらくジュッテンジュッテンと壊れたラジオの様に繰り返す。部族の呪詛か何かだろうか

「あの身体能力も、神霊を降ろしたことに由来する副産物だろう。スヴィンの嗅覚と似たようなものだな」

 師匠が呟く中、ティガーはてくてくとこちらに近づいてくる。ガッチャガッチャと武器が音を立てて揺れた。

「おっすおっすお兄さんにシンデレラ。奴と戦う準備は終えたガオ? たたかわなければ生き残れない!」

「それで、そんな武装を?」

「昨晩はぼろ負けしたからねー。フルアーマー化してみたガオ。これならもう……奴に負けはしねえ……!」

 そう言うティガーが新たに装備している武具は、驚くべきことに全てが一級の宝具にも通じる神秘を備えている――なんて筈もなく、ただの粗末な御手製武器にしか見えなかった。使いこんではあるようなので、扱えはするのだろうが。たとえもう一度戦っても、全ての武装を使い切る前にやられてしまいそうだ。

 だが指摘しても無駄だということは身に染みて理解している。加えて、自分ひとりでテスカトリポカに挑んでも勝ち目は薄い。共闘を前提にするなら、彼女の力は頼りになるだろう。

 そこでふと思い立つ。彼女はジャガーマンになれる能力を持つ村人が他にもいると言っていた。

「あの……他にもジャガーマンになれる方がいらっしゃるんですよね?」

「ジャガーマン?」

「ああ、いえ……えーと、一撃必殺モード?」

「一撃必殺モード……?」

「ティガーさんが仰った名称ですよね……!?」

 理不尽さに悲鳴をあげると、ティガーは「嘘嘘、ジョーク!」と茶目っ気たっぷりに笑って見せた。20半ばは過ぎているだろうに、子供のような人だ。

「んー、いるっちゃいるんだけど……」

「その方たちに力を貸してもらうわけにはいきませんか?」

「それは無理ガオ。一応、村の子供が何人か出来るけど、戦うには幼すぎるし。大人で出来る人たちは、君たちの前にきた調査の人を遺跡に案内して帰ってきてないもの」

「っ、それは……」

 言葉に詰まる。それはつまり、ほぼ確実に彼女の仲間が死んでいるであろうことを意味していたからだ。

 遺跡の調査の為に、彼らは命を落とした。自分も彼女から見れば、彼らを死地に連れて行った時計塔の一員として映るだろう。


 だが彼女の表情にこちらを憎悪するような色は見えなかった。むしろ後ろめたさから息を詰まらせたこちらを慮る様に、首を傾げて覗き込んでくる。

「んー、どうかしたのシンデレラ。元気ないガオ。お酒飲むぅ?」

 道中でも見せた竹の水筒をこちらに差し出してくる。どうやら今回の中身は水ではないらしいが。言われてみれば、何やら発酵臭のようなものが漂っている。どこかで似たような臭いを嗅いだ気もするが、思い出せそうになかった。それよりも、どうして彼女がここまで平常心を保っていられるのかといった方が謎すぎる。単に表に出してないだけだとすれば、彼女はロイヤルオペラハウスでも十分にやっていけるだろう。

 どうしたものかと迷っていると、師匠が制止するように手を掲げた。

「まだやることがあるので今は遠慮しておこう。ただ、個人的には興味深い。これは村で作っているものかね?」

「そうそう、昔ながらの製法ってやつ。欲しいならあげるガオ」

「では、ありがたく」

 そういって師匠はティガーから竹筒を受け取った。

 ……少し、珍しく思う。師匠は日常的に酒を嗜む方ではない。祝い事の時に口を付ける程度で、プライベートな時間でも葉巻を燻らせている方が多かったのだが。

「ところで、あのゴッフとかいう子から伝言。朝ごはん食べないか、って。私もお呼ばれしてるガオ」

「了解した。後で向かうと伝えて欲しい」

 師匠がそう答えると、ティガー再びするすると木に登って樹上に消えて行った。近道なのだろうか。

 それを見送ってから、ふう、と息をつく。そんな動作が目についたのか、師匠は受け取った竹筒を手の中で転がしながらこちらの方に向き直った。

「彼女――というか、この部族との関係についてはあまり心配する必要は無さそうだな」

「……何故でしょうか。時計塔が依頼した仕事で、もう何人も犠牲者が出ています。恨むなり、これ以上は仕事を受けないようにするなり、何らかのアクションがあるのが普通だと思うのですが」

 ここまで何もないと、逆に不気味だ。ティガーが腹芸の出来るタイプだとは思えないが、疑心暗鬼にもなろうというものである。

 だが師匠は気負ってもいない様子で肩をすくめて見せた。

「ああ、理由は分かっている。彼女は頭がおかしいんだろう」

「あ、あの、師匠。そんな身も蓋も……いえ、お世話になっているのに陰口をたたくような真似は」

「そういう意図はないのだが――」

 言いながら、師匠は受け取ったばかりの水筒の栓を抜きとり、僅かに手のひらに中身を垂らす。そのどろりとした白濁色の液体を指先で擦り、さらに立ち上る芳香をまるで科学者が試験管に注いだ薬液を嗅ぐように手で仰いで臭った。

 僅かに顔をしかめて、再び栓を詰めながら師匠はひとり納得するように頷く。

「やはりか……レディ、今後、彼女から受け取った食べ物はあまり口にしないように」

「……毒でも入ってるんですか?」

「まあ、普通のアルコール飲料と同じ程度にはな」

 竹筒を慎重にポケットへしまうと、師匠はようやくこちらへ視線を向けた。自分が浮かべていた表情を見ると、宥めるように肩をすくめて見せる。

「詳しく説明してもいいんだが、あまり村の中で話す話題でもなくてね。それより、調査が何も進展しないというのは問題だな」

「何故、テスカトリポカがこの村を襲ったのか……でしたか」


 今回の事件の鍵を握るというホワイダニット。

 その"何故"を解明し対処できれば――つまりは村を襲う要因を取り除ければ、確かに状況は打開できるだろう。場合によっては調査を諦めて、次の派閥に引き継ぐことも視野に入る。

「推理で拙が力になれるとも思えませんが……なにか取っ掛かりの様なものはないのでしょうか」

「ふむ……そうだな、おそらくその原因は、今回の調査隊の中にある。変数がそれくらいしかないからな。既に最初の調査から1年。時間の経過や天体の位置が原因とは考え辛い」

「……"槍"が原因ということは」

「可能性として考えはしたが、それなら襲われるのは野営をしていた我々の方だろう。時間的に、調査隊が村に入った直後に襲撃があったようだからな」

 師匠はそう言うが、しかし、それならば神霊の行動に影響するほどの何かを調査隊が備えていたということになる。

「調査隊の方々の中に、それほどの魔術師が?」

「レディ、君も資料は読んだ筈だが」

「イヒヒヒヒ、こいつが覚えてるもんかよ!」

「……いえ、確かに全員のことを覚えてるかといわれると怪しいのですが、特に目を引く経歴の方はいなかったような……」

 おそるおそるそう口にすると、師匠はがしがしと頭を掻きながら頷いて見せた。

「その通りだ。今回の調査隊のメンバーはほとんどが新世代や分家筋の傍流にあるような出の魔術師で、神霊の気を引くような血筋も能力も持っていない。まあ、その筆頭が私なんだが」

 自嘲するように笑ってから、師匠は再び苛正しげな表情を浮かべる。

「それだけに分からん。荷物も調べさせてもらったが、別段変わった礼装や呪体は無かった。調査隊が原因なのは間違いない。だが、異常があるべき筈の場所に異常がないというのは……」

 ぶつぶつと呟きながら思考を回すその姿は見慣れているモノではあるが、今回は堂々巡りに陥っているらしい。

 師匠はそうやってしばらく顎に指を添わせながら考え続けていたが、あるところでぴたりとやめるとこちらへ向き直った。


「グレイ、何か質問してくれ」

「質問? 何をですか?」

「本当に何でもいいんだ。あるべきところに答えが見つからない以上、それは私が何かを見落としているんだろう。別の視点から考えるための取っ掛かりの様なものが欲しい」

 言葉の内容に少しほっとする。師匠が解けない謎に挑んでも解ける気はしないが、こういう手伝い程度なら自分も役に立てるかもしれない。

 一方で、師匠が何かを見落としている、というのは信じられなかった。師匠の魔術の腕は三流だが、神秘に関する知識の造詣の深さは時計塔でも屈指のものだ。であるからこそ、末席とはいえ12の君主のひとりに数えられているのだから。

 とまれ、頼まれたのだからまずは問いかけねば。

「ええと、調査隊の中には、大層な魔術師はいなかったという話ですが……ゴルドルフさんはどうなんですか。確か、錬金術の大家だとか」

 しばらく考えた挙句に口から出た質問。新世代(ニューエイジ)とは、ここ一世紀ほどの間に生まれた魔術師の家柄を指す言葉だ。大家とまで言われる一族がそうだとは考え辛い。

「ムジーク家は確かに昔からある錬金術の大御所だ。今回の調査隊に参加したのもその縁だな。アインツベルンに次ぐホムンクルス鋳造技術。錬金術による変成の技はイスタリ家に迫るだろう」

「ではゴルドルフさんが原因なのでは?」

 そう口にしながらも、あの少年が神霊の気を害すほどの何かを持っているとは思えなかったが。

 師匠も否定するように首を振る。

「だが逆に言えば、彼の家は魔術の世界においては全て後追いの存在なんだ。各方面の技術は確かに高いが、どの分野でも先んじている他者がいる。魔道において究極の目標が根源への到達である以上、先達は賞賛を受け、後進は誹りを――いや、見向きもされないといった方が正しいな。結果として、ムジーク家は魔術の世界において何の功績も残せていない、歴史倒れの家とされているのさ」

 同じ貴族主義派ではあるが、現代魔術科でも新世代でもないのにこの調査隊に参加しているのは、そんな微妙なパワーバランスが成立させていることらしかった。

「じゃあ調査に参加したのも家の名を上げるために……?」

「功名心は間違いなくあるだろう。ただ奇妙なのは、本来彼が参加する予定ではなかったということだ」

「そういうえば先ほど何か指摘されていましたね。本来はあの子のお父さんが参加する予定だったとか」

「ああ。家の名を上げるのだけが目的というのなら、父親に任せても良い筈だ。魔術刻印を既に譲ったとはいえ、単純な力量だけ見ればまだまだ及ばないだろうしな。というより、貴重な魔術刻印を危険に曝すのは悪手ですらある」

 魔術刻印はその家の歴史そのものだ。エルメロイ派が現在苦労しているように、過去に剥離城という存在が成立していたように、それを損なえば家柄そのものが損なわれることになる。

 それを危険に曝してまでも目指すべき目標など、魔術師は持たない――否、持てない筈だが。

「そもそも、当主を継ぐのに適当な年齢なんですか?」

「早い方ではあるが、驚くほどではないだろう。親より子供の方が才能があるとみなされれば移植も早まる。それだけ期待されているということだろうさ。もっとも、それが当人の器に見合った期待なのかは分からんがね」

 その言葉で思い出したのは、剥離城で出会ったロザリンド・イスタリという少女のことだった。

 事件の後に聞いたことだが、齢10にも満たない彼女も、一度は後継者として刻印を移植されていたのだという。

 そういえば、彼女はいまどうしているだろうか。イスタリの刻印は回収され、後継者争いに巻き込まれることになるだろうという話だったが、ライネスが手を回したとも聞く。しかし、冠位決議の後では特にその後を耳にすることなく――

 脇道にそれかけてた思考の手綱を取り直す。師匠には何でも質問していいと言われたが、さすがにこれは関係が無さすぎるだろう。

「師匠、もうひとつ聞いても?」

「頼んだのはこちらだ。もちろん構わない」

 代わりに口から出たのは、しかしやはり記憶にあるロザリンドの姿から連想したものだった。彼女は常に兄であるハイネの後ろに付き従っていた。

 だから、ゴルドルフの後ろに控えていた彼のことを思い出したのだ。

「……どうしてトラムさんのことを覚えていなかったんですか?」

          *


「お前ひとりか? ロードはどうした?」

 ティガーから教えられていた場所向かって、最初に掛けられた台詞はそんなものだった。

 村の共同炊事場である。炊事場、といっても水道やガスが整備されているわけでもなく、雨避けの屋根と水瓶、石と土で出来た竃がある程度だったが。森の中にある村ゆえ、火元は一括で管理した方がいいという発想なのだろう。

 その竃から引き揚げられたばかりらしい、薄焼きの白い生地にせっせと赤茶けたペーストを乗せているゴルドルフがこちらを見て首を傾げている。

「少し遅れてくるそうです。先に行っているようにと……そちらも、トラムさんは?」

 当然のように料理の準備をしているゴルドルフ少年の姿に違和感を覚えながら、姿の見えない付き人のことを訊ねる。

 あの質問をした後、師匠は確かめたいことがあるとひとりで荷物置き場の方に戻ってしまったのだ。

 トラムについての質問が切っ掛けになったようだが、どうしたというのだろう? 自分はただ、師匠がトラムのことを覚えていなかったことが不思議だっただけなのだが。

 ……まあ、あまり気にしても仕方ないだろう。

 テスカトリポカがこの村を襲った原因は調査隊の中にあると師匠は推理していたが、トラムがその原因でないことは確かだ。むしろ、唯一手放しで信用できるのが彼だと言ってもいい。

「引き続き、怪我人の方を見させている。こっちは大したものを作るわけじゃないからな。適材適所という奴だ」

「適材適所……ですか」

 胸中の疑問が声音に表われてしまっていたらしい。あるいは表情にか。こちらを見て、不機嫌そうにゴルドルフは顔を歪めた。

「何が言いたい? 味は保障するぞ。そこの変な女を見てみろ」

「これ美味ぇーーーー!」

 絶叫したのは少し離れた場所にあるテーブルについているティガーだった。土色の皿に取り分けた例の白い生地をもりもり消費している。ペーストを乗せた生地を二つ折りにして、サンドイッチのようにしているらしい。

 こちらの姿を認めると、彼女は片手で口の中に詰め込みながら、もう片手をぶんぶか振って自分を招く仕草を見せた。

「シンデレラもあったかい内にレッツイート! ビーフとチーズのハーモニーが素晴らしいガオ! モグ、この隠し味は……蜂蜜!」

「どれも使ってないんだけど!?」

 少年の素っ頓狂な絶叫に、だがティガーは動じもしなかった。

 謎ペーストサンドを大皿に乗せられるだけ乗せると、「爺様と弟と妹にもあげてくるー!」とたったか走って立ち去ってしまう。4人で分けるにはいささか多いような気もしたが。

 遠ざかっていくティガーの後ろ姿に、ゴルドルフが慌てたように声を掛けた。

「おおい! 約束を忘れるなよ!」

「分かってる分かってる! 知り合いに言っとくガオー!」

「……約束、ですか?」

 完全にティガーの姿が見えなくなってから、台詞の中に出てきた単語について訊ねる。


「ああ、我々が遺跡探索に出ている間に、怪我人と治療で残るメンバーに食べさせる食事なんかについてな。我々の持って来た携行糧食の一部と交換という条件になったが、別によかろう? 何しろメンバーの半数以上を置いていくからな。だだ余りだ」

 どうやらゴルドルフの側も遺跡へ向かう際の準備をしていてくれたらしい。その辺り、自分と師匠は手つかずだったのでありがたいことだ。

「それよりも冷める前に食べると良い。この気候だ。遺跡までは持っていけん。材料も村の畑から分けて貰ったものだからな。キャンプを張ったところで、これ以上まともな料理にはありつけんぞ」

「……では、御言葉に甘えて……いただきます」

 師匠を待つべきかとも思ったが、それまでつんけんした態度のこの少年と一対一で間が持つとも思えなかった。

 皿からサンドイッチをひとつ手に取ると、生地からはほんのりとした温かみを感じた。出来立てなのだろう。倫敦の朝であれば湯気が立っていたかもしれない。

 もぐり、と生地に歯を突き立てる。

「これは……」

 一言でいえば、それはとても美味しかった。

 薄く焼かれた生地は、噛み千切るのにほとんど苦労はしない。だが口の中で二回、三回と噛み締めると、途端にもちもちとした感触と香ばしい匂いを伝えてきた。

 中に入っているペーストの正体は、マッシュポテトにトマトソースを混ぜたものだろう。滑らかな舌触りと、爽やかな酸味。だが不思議と濃厚さを感じさせる。マッシュポテトに混ぜ物をするなら、よほどバランスに気をつけないとべしゃべしゃになってしまうのだが、これは上手く調理されていた。

 まったりとしたポテトの味を舌の上で楽しんでいると、僅かにぴりっとした刺激が走る。アクセント程度に唐辛子が混ぜ込んであるのだ。トマトの酸味との相性は抜群で、あまり量を食べない自分でも食が進む。

 さらに食べ進めると、小さくて丸い感触をペーストの中に見つけ出す。それはどうやらソテーした豆類らしかった。皮が弾けるぷちぷちとした食感が楽しい。柔らかすぎも固すぎもせず、というのは炒め加減に気を使っている証拠だ。

 イゼルマでのお披露目会や、魔眼蒐集列車の食堂車で供された食事は、見た目も美しくプロの仕事を感じさせるものだった。

 だが個人的には一流のレストランで出されるような格式ばった料理よりも、このサンドイッチの様な、評判の良い軽食スタンドで出されるようなものの方が性に合う。

 そんな感想をこちらの表情から読み取ったらしく、ゴルドルフは自慢げな表情を浮かべた。屈託のないその笑顔は、出会ってから初めて年相応さを感じさせるものだ。

「その……とても美味しいです。料理がお好きなんですか?」

「好きという訳ではないが、必要に駆られてという奴だ」

「ムジーク家は錬金術の大家だと師匠から聞きましたが……使用人などはいらっしゃらないので?」

 魔術師にとって、財力に余裕があれば使用人を雇ったり、あるいは創り出した使い魔に雑事をさせることは珍しくなかった。魔術師は少しでも根源に近づく為、日々研究や修練に明け暮れている。家事を自分でするような無駄はしないのだ。

 こちらの質問に、ゴルドルフは嫌な思い出でも思い出したかのように溜息をついて答える。

「居ることは居るのだがな。純粋な使用人ではなく、教育係も兼ねている。あの連中、部下にやらせることは最低限把握しておくべきだなどと……」

 後半はぶつぶつという呟きであった為、完全には聞き取れなかったが。

 説明というよりは愚痴になりかけていたことに気づいたのだろう。何かを振り払うように手を動かすと、ゴルドルフはふんと鼻を鳴らした。

「とにかく、覚えたくて覚えたわけではない。ムジーク家が召使いも雇えないような弱小一族だなどと思ってくれるなよ」

「それは、もちろん。ですが……」

「なんだ? 文句でもあるのか?」

「いえ、ただ……覚えたかったわけではなくても、料理そのものはお嫌いではないように見えたので」

 サンドイッチの味は素晴らしかった。それが嫌々作られたものだとは、どうしても思えなかったのだ。

 自分がそう言うと、ゴルドルフはきょとんとした後、虫歯でも出来たかのように顔をしかめた。ティガーの使っていた皿を、使用済みの調理器具とまとめはじめる。

「あの、片付けなら拙が」

「いいから座っていろ」

 ぶっきらぼうにそう言われて、まだ抗するだけの気概は無かった。機嫌をそこねてしまっただろうか。


 そんなことを心配していると、少年の小さな呟きが耳に入った。誰に聞かせるつもりでもないような、自問自答にも似た声音。

「まあ……刻んだり煮たりと、錬金術に通じるものはあったからな。全く身が入らなかったというわけではないが」

 そんなふうに独りごちると、ゴルドルフは再び気持ちを切り替えるように頭を振り、サンドイッチを先ほどのティガーと同じように大皿に取り分けた。

「トラムのところに朝食を持っていく。お前はロードをそこで待っているがいい。水はそこの瓶に入っているのが煮沸してある分だ……ああ、コップがないな」

 テーブルの上を見回して、ゴルドルフが呻く。

 どうやら食器の大半は村のものを借りたらしい。ほとんどが素焼きと思われる土器だった。調査隊で用意したものを使わなかったのは、しまう手間が増えるからだろうか。

 ゴルドルフは未使用の皿を一枚手に取ると、集中するように目を閉じた。

「――Anamorphism(変成)」

 ワンカウントの詠唱。彼の手にある土色の皿が、ぐねりとうねったかと思った次の瞬間には透明なガラスのコップに変じている。

「……魔術ですか?」

「大したものじゃない。食事をするくらいの間しか保たんぞ」

 そう言いながら、わざわざ水を汲んで自分の前に置いてくれる。さらにもうひとつ、土器をコップに作り変えるとテーブルに置いた。師匠の分ということだろう。

「ありがとうございます」

「……昨晩は助けて貰ったからな。それに遺跡に向かうとなれば、貴様に頼るしかなくなるのは明らかだ」

「ゴルドルフさんも一緒に来られるので?」

 別れる前の様子を考えるに、村で待機する方を選んでも不思議はないように思えたが。

「……あのロードの言うことは的を射ている。ここで退けばムジーク家はお終いだ。調査隊で荷物の運搬に使っていたゴーレムを、術者から買い取った。それで荷物持ちくらいならできる」

「それは助かりますが……」

 神霊に襲われることを考えると、少しでも身軽にしておきたい。だが密林を行進し、遺跡を調査するとなれば、ある程度の装備は必要になる。そしてゴーレムの制御となると、自分や師匠では完全にお手上げである。

「そもそもゴルドルフさんは、どうしてこの調査に?」

「おかしなことを聞く奴だな。こんな危険な仕事、家の名を上げるために決まっておるだろう」

「しかし、もともとはゴルドルフさんのお父様が参加する予定だったと聞きました。ムジーク家の、ということでしたら任せても良かったのでは?」

 先の師匠との会話でも話題になった、ゴルドルフがこの調査に参加することになった理由。

 魔術刻印の存在を考えれば、父親が彼に枠を譲ったとは考え辛い。まず少年の独断だろう。

 こちらからの追及に、ゴルドルフは伸ばしかけの髭を触りながら視線を逸らした。

「まあ……色々だ。私にだって、個人的に望むものはある」

 ここまで会話して思ったが、どうやらこの少年は根が魔術師らしくないようだった。

 尊大ぶった態度や口調も、それを隠すための演技なのだろう。オルガマリーのような根っからの魔術師と比べると甘さが目立つ。

 それが悪いことだと思えないのは、自分が魔術師ではないからだろうが。

 喋りすぎたことに気づいたのだろう。ゴルドルフはサンドイッチの乗った皿を持つと、「食べ終わった食器は適当にまとめておけ」という言葉を残して、傷病人が収容されている建物の方へ歩いていってしまった。

 残された自分は、とりあえず彼が汲んでくれた水を飲みつつ時間を潰すことにする。


「……冷たい?」

 口に入れた途端、まるで氷水のような冷感が舌を刺す。不快ではない。むしろこの密林に入ってから一番の清涼感だ。すーっとした空気が喉から鼻に抜けた。

 煮沸した水だと言っていたが、冷ましただけでこうなるとは思えない。この村に氷などないだろうから、これも魔術だろうか。

「ふむ、錬金術の一種だな。魔術というよりは薬の調合に近い。ハーブなどのエキスで冷たいように錯覚させているんだろう」

「師匠?」

 気づくといつの間にか師匠が傍に立って、すんすんと水瓶の近くで鼻をひくつかせていた。さらにスプーンを使って掬った水を口に含み、検分するように舌の上で転がす。

「なるほど、呪体の類は一切使っていないようだ。これならどんな魔術薬を服用している魔術師でも飲めるだろうな」

 呟きながら先ほどゴルドルフが魔術で造ったコップを手に取る。掲げて日に透かしたり指で弾いたりした後、師匠はそれに水を汲んだ。

「"変化"の魔術か。ワンカウントでこの精度。あの年齢にしてはそつがない」

「……もしかして、拙達の話を聞いていましたか?」

「どんな話をするのかと思ってね。名ばかりのロードとはいえ、私が近くにいれば彼も話しにくいだろう」

「イッヒヒヒ、盗み聞きとは良い趣味してるな!」

 今まで静かにしていた腰のアッドが茶化す。あまり趣味のよくない行為だというのは師匠も思っていたようで、降参するように小さく両手を上げた。

「いざとなれば助け舟は出すつもりだったさ。その必要はなかったようだが」

「気にしていませんから。それよりも師匠、調べ物は終わったんですか?」

「ああ、大体のところはな。食事が終わったら遺跡に向かうとしよう」

 何の気なしにそう呟く師匠には、緊張のきの字も見えない。神霊に襲われるかもしれないというのに、この余裕ぶり。

「神霊がどうして村を襲ったか、分かったので?」

「まあ、そうだな。だがその話は後にしよう」

「おいおい、勿体ぶるじゃねえか! シャーロック・ホームズでも読んできたか?」

「無意味に情報の開示を遅らせたりはしない。理由があってここでは話さない方がいいというだけだ」

 師匠はそういうと、皿に残っているサンドイッチを掴んだ。一口齧ると、ほう、と感心したように頷いて見せる。


「タコスか。ここで食べるにはぴったりの料理だな。マッシュポテトにサルサソース……悪くない。だが、まだ何か隠し味が……」

「これ、タコスなんですか?」

 改めてサンドイッチ改め、タコスに視線をやる。その名前は知っていた。有名なメキシコ料理だ。ただし、空港からここまで文字通りの強行軍であった為、道中で食べる機会は失われていた。

「もっとこう……U字のクラッカーみたいなものに、ひき肉や野菜が挟まれているものを想像していたのですが」

「それは所謂ハードシェル・タコスと呼ばれるものだな。本来、タコスというのは"軽食"を意味する言葉でね。トルティーヤ……これはスペイン語で、本来アステカではトラシュカリと呼ばれていたようだが、まあとにかくアルカリ処理したトウモロコシで作った生地に具材を挟んだものなら概ねタコスという扱いだ。だからこれも立派なタコスというわけさ」

 もぐもぐと食を進めながら、師匠が解説する。

「トルティーヤに使われているトウモロコシも、サルサ・ソースの材料であるトマトやトウガラシも、元々はこの地からヨーロッパに広まったものだ。ついでに言うと、豆類もアステカでよく使われていた食材だな」

「じゃあ、このジャガイモも?」

「ジャガイモも同時期にスペインによってこの新大陸から持ち帰られたものだが、それを常食していたのはインカ帝国の方だとされている。このマッシュポテトは調査隊が持って来たインスタント食品だろう。さっき荷物を調べた時、パッケージが大量にあった」

 お湯や牛乳を注ぐだけで出来るインスタント・マッシュポテトは師匠も愛食していた。ただし目分量で作る為、ポタージュかと見紛うほどの代物を啜っている姿がよく見られる。

 そんな料理に関しては雑な師匠も、このタコスの味は気に入ったらしい。早々に二つ目に手を伸ばしている。

「ああ、ところでレディ。少し訊ねたいのだが、道中、これを使ったかね?」

 と、師匠が取り出したのは出立前に自分とライネスに見せた例の携帯電話モドキだった。正式名称も教えて貰ったのだが、微妙に覚えていない。イリ……何とかというらしい。

 二台持ち込んだ内のひとつを自分は預けられていた。といっても、高価な機材である。いまとなっては意味も薄いが、本来は生命線ですらあったのだ。弄り回す度胸など有る筈もなかった。

「いえ、預かってからはずっと鞄に入れっぱなしでしたが」

 そもそも内臓部品のいくつかのせいで飛行機に乗せるには問題があったらしく、とはいえ船便で送ると間に合わないということで、検査を誤魔化す為の魔術が掛けられた小箱に入れられていたのだ。

 ショルダーバッグからリュックサックに移す際も、その小箱ごと移し替えたのである。

 そう説明すると、師匠は難しい顔をして額を手で押さえた。

「やはりそうか……荷物でボタンが押されて電源が入ったということもないな……となると……」

「あの、師匠。何か問題が?」

「ああ、いや。些細なことだ。想像よりもバッテリーの消費が早くてね。予備のバッテリーも持ち込んであるから、特に問題は無いよ」

 口調だけは努めて穏やかにそう言いながらも、師匠の顔には隠しようのない苛立ちのようなものが浮かんでいた。フラットが騒ぎを起こしたり、それを止めようとしたスヴィンが結果として被害を拡大させた時に浮かべるような表情だ。

「師匠……?」

「気にしないでくれ。それよりも、ほら。タコスをもうひとつ、どうかな。ここから先では、そうそう手の込んだ料理は食べられないぞ」

 誤魔化すようにそう言って、師匠は残りひとつとなったタコスの皿をこちらに付き出してきた。

 僅かに迷う。いつも摂る朝食の量を考えれば、今朝はもう十二分に食べたことになるのだが。

「――では、いただきます」

          *


 しばらく後、村を出立した自分達は再びジャングルの中を歩いていた。

 先頭を歩くのは案内人のティガー。その後ろにトラム、ゴルドルフ、師匠と続き、殿を自分が任されていた。正確に言えば、自分の後ろに荷物を運ぶゴーレムがいるが。

 ゴルドルフが買い取ったというゴーレムは、石から削りだされたような質感をした、巨大な馬の形をしたものだった。荷物を運ぶにはその方が都合がいいのだろう。全員分の装備を背負わされているが、よろけもせずについてくる。

 本来なら、実用レベルのゴーレムを作成・使役するには莫大な資産と相応の魔術の腕が必要になる。基本的にニューエイジの魔術師には両方ともないものだ。

 だがこのゴーレムは、この森の中でだけ使うことを想定して造られたものらしい。莫大なマナと閉鎖された空間という、神秘を行使するにあたって都合のいい環境によって成立させているのだという。

 使用されている呪体は粗悪品だが、この発想は面白い、とは師匠の言だ。本来、魔術師は魔術の成立に資材を惜しんだりはしない。ギリギリでしか動かない術式など、時計塔の格式ある魔術師たちにとって価値は無いのである。新世代ならではの発想という訳だ。逆に言えば、金銭で賄えたのも所詮はその程度の出来だからである。

 遺跡に向かうのはこの5人と1体だけだ。残りは怪我人と、その治療に当たっている者達で、捻出できる限りの人材がこのメンバーだった。

 村を出てから休みなしで一時間以上歩いているが、自分の前を歩く師匠は何とかまだ置いていかれずに済む程度には歩調を維持していた。装備を全てゴーレムに預けているからか、ティガーが進む速度に気を使ってくれているのか。体力がついたという線はおそらくない。

 その証拠に、疲労に震えた師匠の声が飛んでくる。

「……も、もう2時間くらいは歩いたんじゃないか?」

「……まだ1時間と12分です」

 ちなみに前回時間を聞いてきてから、まだ10分くらいしか経っていない。

 遺跡まで、歩いておおよそ6時間。休憩などを含めても、日が落ちるまでには辿り着ける計算だ――神霊の襲撃で全滅したりしなければ。

 前を歩くゴルドルフが、時折ちらちらと振り向いて後ろを歩く師匠を窺い見る。この一時間で既に何度も見た挙動だ。

 当然ながら、道中神霊が襲撃してくる可能性、及びその際の対処について、出発前に彼らから訊ねられる場面があった。

 その際の師匠の返答は、完璧とは言い難いものだっただろう――『理由をここで話すことはできないが、遺跡に着くまで神霊に襲われることはない』の一点張りだったからだ。

 詳細は遺跡に着く前に話すとのことだったが、ゴルドルフは出発してからずっと不安げにきょろきょろしている。自分も彼ほどは態度に出していないつもりだが、不安さはあった。

 村では話せない理由とはなんなのだろう?

 単純に考えれば、村の中にテスカトリポカの協力者などがいるというところだろうか。村にいる特定の誰かに聞かれては困る?

 だが、そもそもあの神霊は村を丸ごと焼き払おうとしていたし、意思疎通が出来るようにも見えなかった。

 では単純に、村人を不安にさせない為? いや、それもないだろう。現在村で会話レベルの英語が出来るのはティガーくらいだという話だったし、不安にさせるということは、その対応策が存在しないことを暗に示している。

 思考を続けながら、半ば無意識に師匠の背中を追う。結果としてそれらしい答えを見つけることは出来なかったが、時間は早く進んだ。

 代わり映えのしない木々が鬱蒼と立ち並ぶ風景に、少しだけ変化があった。進む前方が、まるで広場の様に――というほど広くもないが、少しだけ平らに開けている。

 その手前でティガーが立ち止まり、振り返って声を上げた。


「よーし、ここで一回目の休憩ガオー! 小休止!」

 そう言ってティガーが広場に入っていく。休憩と聞いてか、目の前をふらふらと歩く師匠の足取りも僅かに力強さが増した。遅れて自分が続くと、予想外の光景が目の前に広がってくる。
 
 最初に目に入ったのは岩場だった。これまで散々踏みつけてきた腐葉土交じりの湿った土とは違う、白っぽい岩肌が地面から隆起している。地面に岩で出来た器でも埋め込んだかのようだ。そして、その器に満たされているものは――

「わあ……」

 それは泉だった。ジャングルで水場、と聞くと底なし沼を思い浮かべてしまうが、目の前のそれは"沼"と表現するにはあまりにも美しすぎる。思わず声を漏らしてしまうほどに。

 枝の隙間から落ちてくる日光を受けた水面はコバルトブルーに透き通り、水底までくっきりと見通せる。異様なまでの水の透明度の高さは、どこか神秘的な印象さえ与えてきた。気温は相変わらずだが、その美しくも冷たい印象に背筋がぞくりと震える。

 先行していたゴルドルフやトラムも水を湛える岩場の前で立ち止まり、その風光明媚さに思考を停止させているようだった。

 師匠も手で砂を払った岩場にゆっくりと腰をおろしながら、感動したように頷いている。

「セノーテだな。本来はもっと北の方で見られるものだが……アステカの魔術師たちが地脈に手を加えた影響か?」

「セノーテ?」

「石灰質の岩場の中に出来た、天然の井戸のことだ。地下水脈が流れる洞窟の上部が崩落すると、こうやって泉の様に見えるのさ。角度的に光が届かないので分かりにくいが、泉の奥は更に地下まで続いている筈だ」

 言われてみてみると、確かに泉の底は緩い傾斜を描いており、その先は暗く見通せなくなっていた。いくら透明度が高くても、光が差さなくては先行きがあるかすらも分からない。

「水源が地下水であるため、水温は低目に保たれている。飛び込みたいところだろうが、手足を軽く浸すくらいにしておくといい」

「おお……確かに至福だ」

 いつの間にかトレッキングシューズとソックスを脱ぎ捨てたゴルドルフが、泉の縁に腰掛けて足先を泉に浸していた。ちなみに彼は白っぽい厚手の生地で作られた半袖の上着に、同じ材質で造られたハーフパンツという出で立ちなので、ズボンの裾をまくる必要はない。

 自分もそれに倣って、指先を湖面に浸してみる。冷ややかな液体が、火照った身体から心地よく熱を奪っていった。それに加えて、この風景は見ているだけで心が安らいでくる。

「本当に綺麗ですね……」

「いくつかの大きなセノーテは、観光名所にもなっているというからな。ここで見られるとは思わなかった」

「村の近くにいくつかあるガオ。うちの村の大事な水源……まあ、ここはちょっと遠いからあんまりこないけど」

 民俗衣装の下衣を膝まで捲ったティガーが、浅瀬で水をぱちゃぱちゃとやりながら、そんな風に補足をする。

 ティガー達が水源としていることから分かる通り、ここの水も飲めないことはないそうだが、アルカリ性なので飲み過ぎない方がいいらしい。煮沸する必要もある。

 余裕がある内は用意していたミネラルウォーターの方がいいだろうということで、自分はひとり水場を離れ、遅れて広場に入ってきたゴーレムの近くまで歩いていく。背嚢から人数分のペットボトルを取り出す為だ。

 500mlを5本取り出し、皆の下へ戻ろうとするが、抱えて数歩歩いてから、袋か何かに入れるべきだったと後悔する。抱きかかえながら歩くのは無理ではないが、やや苦労するという絶妙な塩梅だ。気を抜くと落としそうで怖い。

 すると、横合いからすらりと細い手が伸ばされてきた。

「手伝いましょう」

 手を辿っていくと、病的に白い肌と赤い瞳の持ち主に辿り着く。トラム・ローゼン。先ほどまでゴルドルフの傍に控えていた筈だが、いつの間にかこちらに来ていたらしい。

 こちらが迷っている内に、彼の手はボトルを掴み、3本ほど肩代わりしてくれた。そんな動作にさえ、全く強引な印象を受けない。

「……ありがとうございます」

「いや、なに。こちらも同じことをやろうと思っていたところだったので」

 ちらと泉の傍で休んでいるゴルドルフへ、トラムの視線が向けられる。

 ゴルドルフとは昔からの付き合いだというが、その関係は友人というよりも付き人か何かのように見える。あるいはムジーク家の分家筋なのかもしれない。

 だが想像の中にしか存在しないような完璧な貴族然としたトラムが、10代半ばの少年に付き従っているというのは何ともちぐはぐな感じがする。

 トラムは大した家の出ではないということだったが、僅かな疲労の色も見えない。師匠と同じ(こちらは白かったが)スーツ姿だというのに、汗一筋かいていないようだった。まあ、本当に師匠と同じなら、そのスーツも普通の衣類ではないのだろうが。

 ゴーレムから泉まで僅か数十秒という距離だったが、沈黙が気になる距離でもあった。ここに至るまでトラムとほとんど会話していないことを思い出し、当たり障りのない話題を振ってみる。

「ええと……泉には入られましたか?」

「いえ。私は見てるだけで十分……それに、ロード・エルメロイはああ言っておられましたが、どうにも神霊のことが心配で」

「……師匠がああまで言うなら、何かしら確証あってのことだとは思うのですが」

「ミス・グレイは確かロードの内弟子ということでしたね。何か予想がついているのでは?」

「い、いえ、拙なんかは、とてもとても……けれど、師匠はいい加減なことは言いませんから」

「では、披露の時を楽しみにしておきましょう」

 微笑みながらそう言って、トラムは会釈をするとボトルをゴルドルフとティガーへ手渡しに行った。

 ……何ともお手本的な紳士振りだ。後ろ姿を見送りながら、そんなことを考える。


 それに倣って、自分も小走りに師匠のもとへ戻ることにした。

「どうぞ」

「ああ、すまないな」

 しばらく座っている内に、師匠の疲労も多少は抜けたらしい。こちらが差し出したボトルを受け取ると、キャップを捻って中身をあおる。ぐびぐびと半分ほどを飲み干して、師匠はようやく人心地ついたらしい。ネクタイを緩め、ワイシャツの第二ボタンまで外し、新鮮な空気を取り入れようとパタパタ引っ張っている。

「……師匠、はしたないですよ。ロードの威厳を示すためにスーツを着てきたのでは?」

「君にとって驚愕の事実になるだろうが、実はあれは嘘だ。ところでミスタ・ローゼンと話していたようだが?」

「ええ、師匠の説明を楽しみにしていると……村からかなり離れましたが、まだ話せませんか?」

 こちらの台詞に、師匠はちらりと現地時間に合わせてある腕時計に視線を落とした。つられて自分も視線を向ける。ランチにするにはやや早めの時間。

 朝は早かったし、お腹が減ったのだろうか、と愚にもつかないことを考えていた自分の意識を、師匠の言葉が現実に引き戻す。

「いや、ここまでくれば大丈夫だろう。調べた限り、あのゴーレムに盗聴機能はないようだしな」

「……特定の誰かに聞かれては困るのだろうな、とは思っていましたが……村に残った調査隊のメンバーの中に?」

「特定の誰か、というより時計塔の魔術師の大多数に聞かせたくない類の話ではあるのだがね」

「? しかし、時計塔の魔術師ということならゴルドルフさんとトラムさんがいますが……」

 二人の同行は彼ら自身からの提案だったが、師匠が特にそれを拒む様子もなかった。

「その方が自然だろうからな」

「?」

「どの道これから全て話す。大丈夫だとは思うが、一応警戒だけはしておいて欲しい」

 意味の分からない師匠の物言いに思わず疑問符を浮かべるが、当の師匠はそれ以上説明する気はないようだった――いや、説明はするのか。大儀そうに立ち上がり、ゴルドルフ達の方へ歩いていく。

 彼らの方も近づいてくる師匠に気づいたようで、こちらに注目が集まった。ティガーも飲み干して空になったボトルを口に加え、べこべことへこましたり膨らましたりしながらやってくる。

「なになに、なんかあったガオ?」

「噂の推理ショーの始まりか」

 ゴルドルフが水から足を引き抜き、首に掛けていたタオルで拭いながら呟く。どうやらアドラやイゼルマでの出来事が伝わっているらしい。

「それでは神霊にどう対抗するのか聞かせて貰おうか。まさか今になってそんなものはない、などとは言うまいな?」

「ええ、もちろん。ですがその前に、ひとつ明らかにしておきたいことがあります」

 そう呟いて、師匠はこの場にいる全員の顔を見回した。ゴルドルフ、トラム、ティガー。ゆっくりと確認するよう、順番に。

「明らかにしておきたい事柄?」

 訝しげな表情を浮かべるゴルドルフ。対して師匠は、何でもないという風に、だがとんでもないことを言い出した。

「我々の中に、テスカトリポカが紛れ込んでいます。それが一体誰なのか、という話です」

なんか思ったよりも筆が進まなかったのでここまでを出題編としてこれで完結したものとする

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