樋口円香「歩道橋」 (11)
片側三車線の大きな道路を結ぶ歩道橋がある。
その道路はしばらく歩かなければ横断歩道はなく、反対側へ行くにはその歩道橋を渡る必要があった。
歩道橋の階段は全部で三十六段。
駅に近いこともあり、多くの人がこれを利用する。
というよりも、駅から出て移動をするにはこの歩道橋を渡る必要があり、同様に駅に入るにもこの歩道橋を渡る必要があるだけなのだが、とにもかくにもそういう歩道橋がある。
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一段、二段、三段、四段。
踏み締めるように上らねばならないのは、ダンスレッスンで半日踊り明かしたせいで、一歩一歩がひどく重く感じられた。
十段、十一段、十二段、十三段、十四段。
そうして三十六歩目で、視界が開ける。
ヘッドライトをつけている車もいれば、そうでない車もいて、そのどれもが眼下を彗星のように滑っていく。
遠くには橙色の太陽が沈みかけていて、頭上は赤と青の中間地点みたいな色に染まり、そこに疎らに白い点が散りばめられている。
そんな光景の中、歩道橋の中央辺りで欄干に体重を預けている男の姿を私は目にする。
その男は、この大きな道路を結ぶ歩道橋で唯一、この歩道橋を歩道橋として利用しない。
かしゅり、という音を響かせて缶コーヒーを幸せそうに開栓し、まず深呼吸をして香りを肺いっぱいに取り込んだ後で、控えめにひとくちめをゆっくりと飲み下す。
それに伴って、ごりごりとしている男のノドボトケが上がって、下がる。
この一連の動作のあと、決まって男は息を漏らす。
「ふぅ」
ほら。
もはや何度目かすら忘れるほどに目にするこの景色に、私はもはや何度目かすら忘れるほどに吐き出した嘆息を、今回も同様に吐き出す。
聞こえるように。努めて大仰に。
すると、男はぴくりと右側の眉を上げて、視線だけこちらへ寄越す。
ため息の主を確認し、それが私と見るなりわかりやすく喜色を露わにして、手元の缶コーヒーをひといきに飲み干す。
そうして、体ごとこちらへ向けて笑うのだ。
「円香、お疲れ」と。
〇
レッスンスタジオの受付で、使用させてもらった部屋の鍵を返し、お礼を言う。
靴箱から、自身のローファーを取り出して玄関のタイル上に置けば、小気味の良い音がこつん、と鳴った。
足をさし入れて、仕上げにつま先で二回ずつタイルを打つ。
左、右。
そうして準備を整えたのちに、私は建物を出る。
ついこの間まで、むわりとしたまとわりつくような空気を運んで来ていた風はもうどこにもなく、代わりに鋭利なひゅるりとした風が私を貫いていった。
たまらず私は首を縮めて襟元へと引っ込め、両の手はパーカーのポケットに非難させる。
脳内で「円香先輩、亀みたい~」との甘ったるい声が響いたので「雛菜、うるさい」と返した。
我ながら酷いとばっちりだ。
首を縮めたことにより下がった視線は、否応なくアスファルトを視界に映す。
そこには役目を終えたのであろう葉っぱたちが敷き詰められていた。
多くは、通行者に踏みつけられ悲しい姿になっていたが、私はその中から比較的状態の良いものを拾い上げる。
特に意味はなかった。
葉の持ち手のような部分を人差し指と親指でつまみ、くるくると回す。
表と裏で微妙に色合いが異なるため、速く回せば速く回すほど、二つの色の境界線が曖昧になっていくのが愉快でそのさまを眺めながら私は歩いた。
しばらくそのようにして歩いていると、私は歩道橋に辿り着く。
視線は手にしている葉から、足元の階段に移り、疲れている体に追い打ちをかけるような段数を下から上へと舐めるように見た。
はぁ、と息を吐いて私は一歩目を踏み出す。
この歩道橋の階段は、全部で三十六段。
うんざりするような段数でもなければ、特別少ないわけでもない。
嫌がらせみたいにちょうどいい歩道橋だった。
一段、二段、三段、四段。
踏み締めるように上らねばならないのは、ダンスレッスンで半日踊り明かしたせいで、一歩一歩がひどく重く感じられた。
十段、十一段、十二段、十三段、十四段。
そうして三十六歩目で、視界が開ける。
ヘッドライトをつけている車もいれば、そうでない車もいて、そのどれもが眼下を彗星のように滑っていく。
遠くには橙色の太陽が沈みかけていて、頭上は赤と青の中間地点みたいな色に染まり、そこに疎らに白い点が散りばめられている。
そんな光景の中、歩道橋の中央辺りで欄干に体重を預けている男の姿を私は目にする。
その男は、この大きな道路を結ぶ歩道橋で唯一、この歩道橋を歩道橋として利用しない。
かしゅり、という音を響かせて缶コーヒーを幸せそうに開栓し、まず深呼吸をして香りを肺いっぱいに取り込んだ後で、控えめにひとくちめをゆっくりと飲み下す。
それに伴って、ごりごりとしている男のノドボトケが上がって、下がる。
この一連の動作のあと、決まって男は息を漏らす。
「ふぅ」
ほら。
もはや何度目かすら忘れるほどに目にするこの景色に、私はもはや何度目かすら忘れるほどに吐き出した嘆息を、今回も同様に吐き出す。
聞こえるように。努めて大仰に。
すると、男はぴくりと右側の眉を上げて、視線だけこちらへ寄越す。
ため息の主を確認し、それが私と見るなりわかりやすく喜色を露わにして、手元の缶コーヒーをひといきに飲み干す。
そうして、体ごとこちらへ向けて笑うのだ。
「円香、お疲れ」と。
「精が出ますね」
「んあ、何に」
間の抜けた男の声に対し「そのくだらないポイント稼ぎです」と突き返す。
「ああ。うん、なんかポイント貯めると景品、もらえるって聞いて」
「訊いてきたらどうですか。そこらの薬局にでも」
「じゃあ、ポイント使えますか? 結構貯まってると思うんですけど」
「薬局で、と言ったはずですが」
「だから、訊いてるんだけど」
「はぁ?」
「ヒグ薬局」
「…………しばらく口をききませんので、そのつもりで」
「待って待って待って。ごめんってば。調子乗った」
あわあわとして私の背中に向かって、ああでもないこうでもないと言葉を並べる男を無視して歩き続ける。
そして、歩道橋の端にさしかかったところで、一つの考えが浮かんだ。
「ポイントが全て貯まりましたので、記念品を贈呈します」
「へ?」
「葉っぱです」
「え、いいのか。もらっちゃって」
「え?」
「円香から贈り物なんて、嬉しいなぁ。それも綺麗な葉っぱなんて」
「押し花にでもして、大事にするよ」
「え。ちょっと」
「栞にしたらかわいいかもなぁ。ありがとう」
彼は、にこにことして葉っぱを掲げている。
もしかしなくても、軽率なことをしてしまったのではなかろうか。
「やっぱり、返してください」
「えー。いや、せっかくだから」
「だめ。返して」
「円香のちょっと切羽詰まったときに出るタメ口」
「それがいま何か関係あるんですか」
「かわいいな、と思って」
ぺろり、と舌を出して脱兎のごとく駆けていく男の後姿を私は茫然と眺める。
もはや何度目かわからなくなった嘆息を私は漏らし、歩道橋の端に差し掛かっている男を見据える。
上等、と軽く呟いて私は走り出す。
この歩道橋の階段は全部で三十六段。
終わりです。ありがとうございました。
なんか……いや……まあ幸せそうだからいいか
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