鷺沢文香「特別な一日にこそ、何でもないひとときを」 (9)


東から射し込む陽の光。

携帯電話が鳴動する音。

それらによって、私は目が覚めました。

まだ完全に開き切らない瞼のまま、枕元を手当たり次第に探します。

やがて、こつんという感触に行き当たり、ようやく携帯電話は静かになりました。

画面に表示された時刻を見て、頭がゆったりと回転し始めます。

起きて、顔を洗い、身支度を整え、お化粧をして、余裕があれば朝食を。

そんな具合で、やるべきことに優先順位をつけてみるなどするほどに、思考は平常の回転数を取り戻していきます。

一方で体はと言えば、未だベッドの縁に腰掛けたままでした。

大変な難関が立ち塞がっているためです。

第一工程から第二工程までの“立ち上がる”という難関が。




やっとの思いで意を決し洗面所へと辿り着き、顔を洗います。

ひんやりした水によって、ぱちんともう一段ギアが上がったような心持ちになりました。

もちろんそれは錯覚でしかなく、速度自体にそう変化はないのでしょうけれど。

さて、と手早く寝巻きを洗濯機へと放り込み、秋の朝の冷たさから逃げるように自室へと舞い戻ります。

寒さは着る衣服に悩む余裕を奪ってくれるという点で優秀と言えるでしょう。

思い悩む時間を短縮できるのですから、こと忙しない朝に於いては非常に。

そんなくだらないことを考えながら、今日の衣服へと着替えると、次いではドレッサーの前へ座り、あれこれと化粧品を机上へ並べます。

朝の支度のなかに、もう当然のように入っているこのお化粧という工程すら、数年前の私にはなかったものであることを考えれば、人生は何があるか分かりません。

などと、よくわからない感傷に浸りながら、自身の顔を粧していく私なのでした。




最後に香水を一吹きして、身支度は完了と相成りました。

宝石箱からネックレスをいくつか取り出して、鏡の前で何度か付け替えます。

こちらは少し華やか過ぎるでしょうか、こちらだと衣服の色と同化してあまり目立ちません。

といった試行錯誤ののちに、ネックレスを選び終わったとき、見計らったように携帯電話が私を呼び付けました。

画面上にでかでかと表示される、プロデューサーさんのお名前。

「お疲れ様です。鷺沢です」

とりあえず、と応答時の定型文を以て、電話を受け、プロデューサーさんの声を待ちます。

『おつかれ。それとおはよ』

「はい。おはようございます」

『どう? ちょっと早いけど出られそう?』

「はい、問題ありません」

『よかった。ごめんな今日は。もう四、五分で着くと思うから』

「いえ、そんな。プロデューサーさんのせいではないのですから……」

『あはは、そう言ってくれるとちょっとは気持ちが楽になるよ。それじゃあ、また』

プロデューサーさんがそう言って、私が「はい」と返すと、携帯電話はつーつー、という電子音を吐くのみ。

やはり、朝食を食べている時間はなかったようです。

起床した当初の見立て通り、と言えましょう。

……こんなことを誇っても何にもなりませんし、もう十五分ほど早く起きていればいいだけの話ではあるのですが。




手近なトートバッグを取り、その中へ必要なものを詰めていきます。

お財布に、化粧ポーチ、それからお仕事で使用する書類に、スケジュール帳などなど。

粗方詰め終えた後で、空いている隙間に文庫本を二冊。

そうして、椅子にかけていたストールを手に、自宅を出ました。




一歩外に出た瞬間に、ひゅうと吹いた冷たい風に身を縮ませます。

空は綺麗な秋晴れで、木々は僅かながら色付き始めているみたいで、ゆっくりと、それでいて確かに深まっていく秋に思いを馳せるのでした。

そんな折、目の前に見慣れた銀色のセダンが停まりました。

私の所属している芸能事務所の社用車です。

そして、それを駆り、私の自宅まで来てくださる方と言えば、一人しかいないでしょう。

早足で助手席のほうへ寄ると、ロックを解除してくださったので、ドアへ手をかけて乗り込みました。

「おはよ」

「はい。おはようございます」

「荷物は後ろ置いていいから。それと……」

プロデューサーさんは言って、後部座席から可愛らしい紙袋を取り出してそのまま私に渡してくださいました。

「これは?」

察しがつかないほど鈍いつもりはありませんが、少しの意地悪をすることにします。

やっぱり言葉にして伝えて欲しい、というささやかな女心もあるのです。

それに「ほら、その。アレだよ」ともごもごとしているプロデューサーさんはかなり愛らしいように思えますし。

ややあって、ぼりぼりとうなじ辺りを掻きながら「誕生日プレゼント、ってやつ」と照れ臭そうに笑うプロデューサーさんの姿を見て、私はついに吹き出してしまいました。

「え、もしかして俺、からかわれてた?」

くすくすと忍び笑いを抑えきれぬままに「すみません」と謝ると、プロデューサーさんは「もー!」と声を上げます。

普段は頼り甲斐のある素敵な方であるのに、こうしたときに見せる奥手な一面はなかなかに反則的であるなぁ、と思います。




取り留めのない話を一つ、二つと交わし、ゆるやかに流れ出す景色。

そのさまを、ぼうっと眺めていたところ、プロデューサーさんが口を開きました。

「それにしても、ごめんな。今日は」

「いえ、先ほども申し上げたように、プロデューサーさんのせいではありませんから」

「んんん。それはそうなんだけど、やっぱりほら、気持ちの問題で」

「……おそらく、の話になる上に、そうでなければ、勝手な思い上がりで少しお恥ずかしいのですが」

私のそんな前置きに、プロデューサーさんは「ん?」という気の抜けた声と表情で返してくださいます。

「今日という日がお仕事であっても、そうでなくても、プロデューサーさんは……その、お祝いしてくださいましたよね」

「そりゃもちろん」

「であれば、あまり変わりはないように思うのです」

「どういう?」

言わなければわかりませんか、と聞きたくなりましたが、言わなければわからないようであれば、言う他ありません。

心の準備のために一息吸い込み、ふぅと漏らします。

「こうして、プロデューサーさんにお祝いしていただける、というのはそれだけでこの上ないほど嬉しく思いますので」

顔を直視するのが気恥ずかしく、車のダッシュボードに向けて、そんな言葉を吐きました。

するとプロデューサーさんは、こちらを向いて「文香……!」と泣きそうな顔で言うのでした。

「あの……大変嬉しいのですが……その、前を向いて運転していただけると」

「ごめん」




「それと、これも申し訳ないんだけど、午後のお仕事はタクシーで移動してもらってもいいかな」

「ええ、はい。もとよりそのつもりでしたので」

「えー。最初からアテにされてなかった、ってことかぁ」

「……えっ、と、そうではなくて、ですね。そう何度もご迷惑をおかけするわけには、と私なりに」

あたふたとする私を見て、プロデューサーさんは笑い「ごめん、冗談。ありがとね。帰りは迎えに行くから」と言います。

「……はぁ」

「……怒った?」

「怒ってません」

「怒ってるじゃん」

「怒ってなどいません」

「ホント?」

「はい」

「じゃあ、怒ってない文香にお願いです」

「はい」

「お仕事終わり、時間ある?」

「……? 時間、ですか? はい、ありますが……」

「よかった。先約入ってたらどうしようかと。ご飯行こうよ」

「大変ありがたいお誘いなのですが、よろしいのですか?」

「何が?」

「プロデューサーさんは本日は休日出勤とお聞きしておりますので……」

「ああ、そういう。……なら、なおさらだよ。文香とご飯行くのが楽しみで今日は出てきてるようなもんなんだから」

「それは、その、ありがとうございます?」

「なんで疑問形なの」

「もうプレゼントまでいただいてしまったので、これ以上を望んでもいいものか、と思いまして」

「文香はそれだけで満足ってわけ?」

プロデューサーさんはいたずらっぽく笑って、車をゆっくりと停車させました。

気付けば、本日の現場であるスタジオに到着しているようでした。

私が返事にまごついていると、プロデューサーさんはもう一度、同じ問いを繰り返します。

「満足?」

このにやにや笑いに、何か仕返しをせねばならない気はしましたが、上手い返しは思い付きませんでした。

「いえ、まだ、です」

「なら決まり! それじゃあまた後でね」

ドアのロックが解除され、プロデューサーさんがひらひらと手を振ります。

私は「そうですね」と返し、車を降りるときに「また」と付け加え、頭を下げました。

仕返しは、夕食のときまであたためておくと致しましょう。

まだ一日は始まったばかりでありましたが、今年も素敵な誕生日になりそうだ、という確信がありました。



おわり

ありがとうございました。
鷺沢文香さんお誕生日おめでとうございます。

同じの3つ立っとるよ

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