一ノ瀬志希「-459.67 °F」 (45)
・お久しぶりです、こちらボケなしツッコミなしオチなしの長編シリアスコントになっております
・えっちが苦手な人は見ない方がいいです
一ノ瀬志希は、すんすんと鼻を動かした。不本意に招かれた、女性芸能人の別荘。
ひとの匂いがしない。わざとらしいローズの芳香剤が鼻につく。
話は続いている。聞くに堪えない、退屈な話。
自分は男性経験が豊富なの。だから尊敬してね。
それだけの話を3時間も引き延ばして続けている。
いっそ、「私のことを敬え!」と直接言ってくれた方がまだ、志希はその生々しさに興味を持つことが可能である
はやくおうちにかえりたーい。志希がそう思っていたとき、話が振られた。
「志希ちゃんは、“あっち”でどれくらい経験したの?」
「フラスコと鉄ペンで二股かけてたよ〜」
おもしろーい、という周りの声。その言葉には言葉自体の意味は数パーセントもないだろう。
ただの脊髄反射のようなもの。
つまんなーい。志希は頭の中で、連想ゲームを始める。
ひまわり、カクバクダン、ゴジラ、マリリン・モンロー、チュパチャップス、杏ちゅわーん。
普通の女の子に飽きて、アメリカの学会に飽きて、日本に帰ってきてアイドルになった。
とはいえ、芸能人は大半の学者と大差なかった。
目覚ましい成果を上げていなくても、ただ歳を食っているというだけで威張る人間があまりに多すぎる。
そういう人間は概して、仕事と関係のない場所でアクセサリィを集める。
ハッパ、石鹸ヌメヌメ、どらきゅら、天使、志希ちゃん剣山!
異性との関係もそのひとつだ。
自分は魅力的な人間で、他人から愛され、また他人に惜しげも無く愛を注ぐ人間である、というアピール。
しかし志希は考える。
闇雲にサンプルを集めたって、からっぽなひとはからっぽ。
もちろん、口に出して相手に伝えることはない。
そうしたいのは山々、だが、ここは学会ではない。
志希はアイドルになって、他人の顔を立てることを覚えた。
なにせ、芸能界は論文をいくら書いても有名にはなれない。業界人との関係がモノを言う。
自由気ままに失踪していたら自分どころか、プロデューサーや事務所の立場も危うくなる。
ま、あいづちマシマシアブラ笑顔カラメでいってみよ〜。
志希はねっとりと微笑んだ。
「志希チャン今日はおとなしいね。そろそろ帰りたくなったんじゃない?」
他の女芸能人が言う。
あからさまな嫌味だったが、志希は“エスパー!”と内心で歓声を上げた。
ついでに、こめかみドリルぎゅるぎゅるして塩酸流し込んだら、あたしに優しくなるかな、と思った。
「ホントの志希ちゃんはおとなしいんだよ♪」
それ以上は言わない。ボロが出るのが、自分でわかっている。
ずいぶん辛抱強くなっちゃってえ、と我ながら思う。
「えー、いつもの一ノ瀬さんじゃないみたい」
他の誰かが言う。
いつものあたし。志希は心の中でつぶやく。
いつものあたしって、誰が知ってるのかな。
いつもは静かなひとでも、時々おこりんぼうになる。
気ままにみえても、ホントはみんなへの愛情でいっぱいのコもいる。
ひとはいつもおなじひとじゃない。かわってく。細胞が新しいモノになるみたいに。
退屈と無変化を愛せるひとになりたいな。志希はそう思った。
このままじゃケツエキが砂になって、ほかのひとの血をちゅーちゅー吸うようになるかも。
♡
帰りの車の中。助手席に座った志希は胸をふくらませて、空気をたっぷり吸い込んだ。
しめったキャスターのタバコ。
たくさん吹かした消臭スプレーがちょっぴり目にしみる。
スーツから香るすっぱい汗。
あたしがあげたシトラス系の香水とまざってフシギ。
エアコンから漂ってくる都会の外気。すえたアスファルトとおひさまの匂い。
志希は陶然とした。
生きてるって、たぶんこういうこと。
「大丈夫か?」
彼女のプロデューサーが、ハンドルを指でこすりながら言った。
煙草が吸いたいときの仕草。
「だいじょーぶだよ〜。
プロデューサーこそ、煙草吸わなくてだいじょーぶ?」
「禁煙なんて簡単だ。もう100回目だからな」
志希はのびのびと腕をのばした。
車のシートは別荘のチェアほどやわらかくないが、居心地がいい。
「ん〜、プロデューサー」
志希は眠気を瞳にながして言った。
「あたしって、レンアイしたほうがいいのかな」
別荘での話が頭にぼんやりのこっている。
まわりにいたのは、実際吹けば飛ぶような自称業界通ばかり。
彼女達の大半は大した稼ぎもないが、彼氏がいるとか、夫がいるとか、
愛人がいるというのを強みにして、志希を見下したような態度をとる。
「志希さんはちょっと変わってますね」
プロデューサーは露骨に話をはぐらかした。アイドルは恋愛禁止だが、志希ならやりかねない危うさがある。
「そんなこと言われたのはじめて〜」
「ウソつけ」
「みんなは“結構”変わってるってゆーもん」
志希はけらけらと笑った。
恋愛云々は興味がないわけではないが、彼女はそれよりも大切なものを持ち過ぎている。
そのうちの1人がプロデューサーだ。
彼は志希よりもふた回りほど年上であるが、それを笠に着て高圧的に振る舞うことはない。
志希の話をよく聞き、さりげなく自分の意見を伝える。無知ゆえの失敗は許し、故意の失敗は諭した。
プロデューサーは彼女の父親よりも、よほど父性的であった。
今度パパって呼んであげようかな。
あ、でもプロデューサーつかまっちゃうかも…フジュンイセーコーユー、だっけ……。
そんなことを考えながら、志希は眠りの底へ沈んで行った。
♡♡
一週間後、志希はテレビ番組に出演した。
「10代ティーンネージャーズ女子達の恋愛事情」。
タイトルを聞いただけで志希は吹き出した。
だが、自分が参加するとなると、“うげえ”という声が出た。
アイドルは恋愛厳禁。
だというのに、ひとはこういった話をかえって聞きたがる。
付き合ったら付き合ったで叩く。付き合わず独りでいると、“行き遅れる”と詰る。
どこか、自分がアイドルを保護し、所有しているような態度をとるひとがいる。
敬虔な振りをして、心に刃を忍ばせている。
志希としては、そんな人間に目をつけられるのが面倒だった。
とはいえ、仕事を選ぶにはまだまだ若い。
「志希ちゃんの初デートはいつだったの?」
50代の、うすら赤い顔をした男性司会者が尋ねた。
志希は適当に、当たり障りのない答えを計算した。
「3歳」
「おっ、ませてるね〜。
ちなみにお相手はどんな子だったの?」
「う〜ん、いっぱいいたけどね〜。
一番長く続いたのは、ふぇるまーさんかな」
「ふえるまー? 誰それ」
「フランスのひと」
「初めてでガイジン! 攻めたねえ!!」
司会者が観客席の方に目配せすると、どっと笑いが起こった。
志希は、退屈だなあ、と思った。
「でも、ふぇるまーさんにはもうフィアンセがいたの」
「ふぇるまーさん既婚者なの!? さすがフランス人って感じだね!」
「うん。あんどりゅーさん。1995年に入籍したんだって」
「男同士!? ドロドロだねぇ!!」
志希はあくびをこらえながら、ニコニコとうなずいた。
司会者から解放された後、志希は他の出演者の話を聞いた。
いまは3人と付き合ってる。初体験はもう済ませた。
妊娠してる。もう子どもがいる。実はお兄ちゃんが好き。
けばけばしいコイバナ。
志希は彼女達を否定するわけではないが、あまりお近づきになりたくはなかった。
恋愛至上主義者。恋と愛が、すべてに優先すると思っている。
大切なものはたくさんあっていいのに、その2つのために全て捨ててしまうようなひと。
そんな者達が、男女の間に友情は成立するかどうかについて語っている。
もちろん大半がNOという意見だった。
志希がYESの札をかかげると、NOの人間が叫んだ。
「男女の間に友情なんて存在しないの!
オスとメス、生物学的にそうなってるの!!」
こわいなあ。志希は思った。
こどもを愛さない親がいるなら、必然的にオトコを愛さないオンナもいるはずなのに。
きっとこのコは、世界を組み立ててる綺麗な定理をいっこも知らない。
なのに、世界の真理をすべて知ったつもりになってる。
かえりたいなあ。
志希がふわあとあくびをすると、相手の女はさらにムキになって何か言った。
「志希ちゃんまだ8歳だからおねむなの〜。
大目にみたげて〜」
志希がそう言うと、スタジオが湧いた。
♡♡♡
レッスンや仕事が終わると、志希はそそくさと実験室に戻ってしまう。
プロダクションには気の合う友達はいない。
志希が遠ざけているわけではない。
皆が忙しく、顔を合わせる時間がないのだ。
志希はそれが冷たいことだとは思わない。
アイドルとして生きられる時間は、短い。
他人に構っている暇がなくてもしょうがない。
それに志希は、実験室の中に友達がいる。
膨大な量の薬品、薬液。実験道具。今まで合成した化合物。
言葉を発することはないが、反応はいつも豊かだ。
ヒト同士もこうであればいい、と志希は思う。
化学は嘘をつかない。
失敗することはあるが、志希を裏切るようなことはない。
用法用量を守れば身体に害を及ぼすこともない。
志希は、根っこの部分ではヒトに絶望しているのかも、と思った。
神様はギフトをくれた。
パパとママは、ご飯しかくれなかった。
ただ、アタシをこわがるだけだった。
志希は両親を恨んでいるわけではない。
時々過去を懐かしく思うことはある。解をまちがえたかも、と。
アイドルになっても、志希が他人から心底の充足を与えられたことはない。
やりたくないことが多すぎる。
嫌なひとが多すぎる。
ファンでさえ、別に心から自分を愛しているわけではないと思う。
エキセントリックな発言。
顔。プロポーション。
歌声。歌詞。ファンの中の期待、妄想。
インテリに対する憧憬。天才という人種への好奇心。
ファンの中で志希は、そういった表面上の要素でしかない。
LIVEに来たことがない人間にとっては、最早ゲームのキャラクターのような存在。
それも、志希は別に冷たいことだとは思わない。
志希は志希で、自らの気持ちを彼らに吐露することはないのだ。
そもそも志希の気持ち自体、数分数秒単位で変わっていく。
他人がそれを掴み損ねたとして責めるつもりはなない。
志希自身ですら、自分の感情を持て余す時があるくらいだ。
それでも彼女がアイドルをやめないのは、単純にプロデューサーといるのが楽しいからだ。
すでに1年以上の付き合いになっているが、彼はいままで出会った男とは違った。
彼は志希の性格、ひとによっては軽薄・残酷と思われかねないような、
極度の移り気をうまく調整して、仕事ができるコンディションにまで持って行ってくれる。
特に意味や心無いセリフについて、彼女を責めたりしない。
志希が知っている大半の男は、彼女の性格を不誠実だと言って責め、無理に矯正しようとした。
まるで、会う女話す女が自分のアクセサリィだとでも言わんばかりに、志希をなんとか“まとも”にしようとする。
それが彼らなりの親切心だったのかもしれないが、志希にとっては単に不快だった。
だから、彼女は失踪を繰り返した。
だが志希とて、ひとつの場所で腰を落ち着けたい、よすがを見つけたいという気持ちは人並みにあった。
プロデューサーがそれになりつつある。
仕事は楽しいことばかりではないが、どのみち、どうにかして食べていかねばならない。
一番有望に見えた学者の道は挫折した。
であれば、志希ひとりの事情としても、否応無しにアイドルを続けねばならない。
はたらくってたいへ〜ん。最近よくそう思う。
そのたびに、志希は短期間とはいえ自分を養った父親の顔が浮かぶ。
彼女はよく覚えていないが、父親も何かの研究で家庭を支えていた。
そういう父親にあこがれて学者の道を志したという側面が、ないわけではない。
だが、学者とは大なり小なり自分勝手で嫉妬深い生き物で、志希の評価が高まるにつれ、彼女は父親と、ひいては生家と疎遠になっていった。
また、父親も志希にとっては“大半の男”のひとりに過ぎなかった。
父親も志希をなんとか“直そう”とした。鉄が熱いうちに。
だから志希はさっさとアメリカへ逃げた。自由の国へ。
けれども、どこへ行ってもしがらみはあり、人格修理をボランティアで営むような輩が志希の周囲に溢れかえっていた。
だから今度は日本へ帰り、学者以外の道へ進んだ。
そういえば。
そういえば、と志希は思う。
江戸時代くらいまで、芸人は社会のはぐれものがなる職業だったらしい。
であれば、自分がアイドルになったのはかえって必然だったかもしれない、と。
逃げるのはこれが最後、と逃げた直後はいつも思う志希であるが、アイドルの仕事については本気で続けたいと考えている。
なので、プロデューサーや事務所の顔を潰すわけにはいかない。
やりたくないこともやって、嫌なひととも笑顔で付き合って、心無いファンの心を掴まねばならない。
そのためには、今以上に自分の感情を抑制する必要がある。
志希が作ろうとしているのはその類のクスリだった。
人間の感情は脳内物質の増加・減少によって左右される。
喜びはドーパミン。
悲しみ・憂鬱はセロトニン。
怒りはノルアドレナリン。
まだわかっていないことも多いが、脳内分泌を外部から促すことは可能である。
その手段のほとんどは程度の差こそあれ、脳に悪影響を及ぼす。
志希はリスクの低い、クリーンな人格改変薬を発明しようとしている。
それがあれば、今まで以上に仕事が楽になる。
プロデューサーの手を煩わせることも少なくなる。
かんせーしたら、プロデューサーの身体で試しちゃお。
志希は微笑みながら、薬液をフラスコに注いだ。
♡♡♡♡
同月末。久しぶりに同じプロでクションのアイドル同士で、食事会が開かれた。
参加者はアイドルのみ。
話題は主に仕事の鬱憤だった。
あの先輩は意地が悪い。あの仕事は無茶振りが過ぎる。
このカメラマンは視線がいやらしい。働きたくない。むーりぃ……。
同じ敵を持つもの同士は、同じ趣味を持つもの同士よりも団結する。
食事会は大いに盛り上がった。
そのうち会話が、恋愛の話にシフトした。
無理もない。そういう年頃の子どもばかりが集められているのだから。
「まゆは、プロデューサーさんのことを愛してます。
だから、絶対に奪らないでくださいね?
みんなにやさしいまゆでいたいので………」
緑茶にガムシロップを入れながら、志希は佐久間まゆの話を聞いていた。
佐久間まゆ。愛に生きる女。
ひとりの男への愛が、ほかのすべてのものに優先する女。
志希とは正反対の女。
だが、志希はまゆのことが嫌いではない。むしろ、“ヘンな子だな”と興味を持っている。
恋愛禁止が謳われているアイドルであるのに、まゆは率直に自身のプロデューサーへの愛を表現する。
しかもファンの前で隠そうとすらしない。
それでもまゆはアイドルとして成功している。志希には出来ない芸当だ。
「いま人格をかえちゃうクスリをつくってるんだけど、まゆちゃんは欲しい〜?」
志希はまゆに尋ねた。
「効果はきっかり1日! 低リスク低糖質、低価格!
いまならなんと、プロデューサーの使用済みシャツもついてくる!」
「まゆのプロデューサーさんのですか」
「ううん。あたしの」
「いらないです」
きっぱりと断られた。
「まゆちゃんは、プロデューサーさんの心が欲しくないの?」
このクスリを使えば、他人の心を意のままに操ることができる。
ラヴだって、時間制限付きでゲットできるのに。志希は不思議に思った。
「いえ、そういうわけじゃなくて………」
「えー結構イイのに」
プロデューサーからは、志希の知らない父親の匂いがする。
志希のために、長続きもしない禁煙をしようとしたり。
タバコの匂いを気にして、似合わない香水をつけたり。
志希がやりやすい仕事を見つけるために、日がな走り回ったり。
そのせいで、コンビニ食しか食べれなかったり。
志希のことを、ここまで考えてくれるひとは他にいない。
多分、これからの人生でも見つかることはない。
だから大切にしたい。良い子でいたい。
そのためには、クスリが必要だ。
志希は、再び始まった惚気に、ニコニコと頷いた。
♡♡♡♡♡
「ちょっとスタドリ買ってくる」
プロデューサーの男はそう言って車から降り、コンビニへ入った。
長時間移動は疲れるにゃあ〜。
志希はネコのように背筋を反らせて、のびをした。
手持ち無沙汰で、車内を漁り始める。
まずダッシュボード。
サングラスが入っている。かけてみる。
バックミラーで確認。結構様になっている。
写真を撮ってインスタグラムにアップする。
次は、プロデューサーの鞄をひっくり返す。
仕事のファイル、ブレスケアー、キャスター1箱。
溶けかけたチロルチョコが1個あったので一口だけつまむ。
ガムも見つかったのでそれも口に入れる。
ブルーベリー味。チョコでガムがドロドロに溶けて不快感が良いアクセントになる。
そして、いくつかファスナーを開けてみると。
志希は自分の写真集を見つけた。
「おやおや〜?」
ふと顔を上げると、プロデューサーがコンビニから出てくるところだった。
オスの顔しやがって〜 ♪
志希はその写真集を自分のバッグに忍ばせた。
「え、なにこの惨状」
「あいりーんちゃんがとおったのだ♪」
「ハリケーンが俺の車内をピンポイントで襲うのかよ」
「人生そういうこともあるさ〜、上をむーいて、あ〜るこぉおおお〜♪」
仕事が終わったあと、志希は実験室で写真集を開いてみた。
われながらけっこうシゲキテキ! 好きになっちゃうヤバイヤバイ……♪
ほっぺたを赤くして、ページをめくる。
たしか、進むごとに露出が多くなっていく構成。
志希はぼんやりと、撮影のことを思い出した。
仕事が終わったあと、プロデューサーが「怖かったか?」と聞いてきた。
志希は「ぜーんぜん」と言った。
あまりやりたくない仕事だったが、売れるためにはやむをえなかった。
事実写真集の発売後、志希はセクシー系アイドルとして有名になった。
プロダクションに戻った後、プロデューサーは志希にココアを淹れてくれた。
志希はその時から、このひとに迷惑をかけちゃいけないな、と考えるようになった。
途中でページがぱりぱりになっていて、開きづらくなる。
くんくんと鼻をちかづけると、栗の花のような匂いがする。
知らないにおい。何故か、身体がかあと熱くなる。
数時間後、クスリの試作品が出来上がった。
効能はフェニルエチルアミンの減少とソマトスタチンの増加。
使ってみると火照った身体がすうと冷たくなり、頭が冴えた。
♡♡♡
翌日オフ。池袋晶葉のラボへ、一ノ瀬志希が押しかけてきた。
「ひっさりぶり〜」
「君とは初対面なんだが」
晶葉は眼鏡の縁をなでながら言った。相手の名前は知っている。
一ノ瀬志希。彗星のごとく現れ、他の小惑星を破壊しながらそれらを取り込んで大きくなるアイドル。
そして、晶葉とは異分野の天才。前々から興味はあった。
「ちょっとお願いがありまして……」
「なんだ」
「ちょっとタイムマシンを1個めぐんでもらおうと」
「私が開発に成功したように言うな……というか、君ほどの人間にも変えたい過去があるのか」
晶葉がそう言うと、志希はぽりぽりと頭をかいた。ほおが少し赤い。
「無理なら昨日の記憶を消すマシンでいいからさ〜。
たのむよあきえも〜ん、なんとかして〜」
「記憶を消すマシン……また時間のかかりそうなものをふっかけてくるな……。
忘れたいことでもあるのか?」
「ヘヘヘヘヘッ」
志希がごまかすように笑う。
「ところでヘヘヘヘヘッ、晶葉ちゃんはさあ、初恋はいつだった?」
「キャバ嬢に下品な質問するおっさんか君は……なんだ藪から棒に」
そう言いながらも晶葉は過去を振り返ってみる。小さな頃、読んだ偉人の本。
「アメリカ人だ」
「エジソン?」
「ご明察。すぐに帝国人に乗り換えたがな」
「テスラ?」
「ご明察、だ。
タイムマシンも記憶を消す機械も渡せないが、ココアくらいは淹れようか」
「コーヒーにして〜」
「かしこまりました」
晶葉が“コーヒー”と書かれたボタンを押すと、
ウサギの耳のようなアンテナが生えたロボットがとことこ出てきて、コーヒーを作り始めた。
「ひょっとしてあきえもんは天才ですか」
瞳を輝かせ、志希が敬語で言う。
「私を誰だと思って訪ねてきたんだ」
「仕事をほっぽって発明ばっかりしてる変なコ」
「当たってるのが腹立つな……」
♡♡♡♡
志希のキャラがウケて、彼女はまた番組に出演した。前回の、理論もデータもない議論が続いている。
YES派の少女達はムキになって、志希に自分の思い込みをぶつける。
「志希ちゃんだって好きなひとくらいいるでしょ!」
「オーラ学的に男と女の間にはエロースしか存在しないんです。アガペーは神にのみ許された御業なのです」
「ちゃんと私の話聞いてますか!」
結果が自分の中で出てしまっている人間と話し合っても、なんの生産性もない。
志希はあくびをしながら、適当に相手をする。
「きいてるきいてる〜。YES GIRSの1stシングルはすごかったね」
会場からどっと笑いが起こる。ムキになる相手を、司会者がなだめる。
「いやでも、志希ちゃんにもひとりくらい好きな男のひとくらい、いるでしょ」
司会者が志希に、呂律の回らない質問をする。一旦YES派の味方をするようだ。
「いるいる〜。司会者さんとか」
「おっ、両思いだね」
「でもYES派のオンナノコの味方みたいだし〜、あたしたち結ばれないね〜」
「お互い難儀だね」
会場がまた湧く。
議論の相手は顔を真っ赤にして反論しようとしているが、そこで番組が終わった。
収録後、その相手が志希のほうへ詰め寄ってきた。
「私の顔潰さないでよ」
明らかに怒っている。
志希は申し訳ない気持ちになって、謝った。
「ごめんねー。
何針縫ったの〜? 数えさせて〜♪」
小粋なジョークをはさんだつもりだったが、相手は笑わなかった。
「私知ってるのよ」
怒り、嫉妬、不安が入り混じったような顔でその相手がつぶやいた。
「へーえらいね。いいコいいコ」
志希はYES GIRLの頭を撫でた。
こどもっぽく感情を剥き出しにする少女に、無邪気な愛おしさを覚えた。
「あんな、自分のプロデューサーのことが好きなんでしょ」
当てずっぽうだった。
志希の周りにコンスタントにいる男は、プロデューサーしかいない。それだけのことだった。
だが、志希の手は止まった。
それに目ざとく目をつけた女は、続けた。
「プロデューサーのこと考えて、ひとりでえっちしたりするんでしょ!!」
「がぶー」
志希は相手の頭に噛みついた。甘噛みだった、
だが志希は本気で、食べちゃいたい、と思った。
「ふごふご」
「……………」
髪がヨダレまみれになった相手は、もう何も言わず、さめざめと涙を流した。
プロダクションに帰ると、この件についてプロデューサーが志希に言った。
「なんであんなことしたんだ」
「ペコペコでつい」
「共演者を食べるなよ……」
「収録中はガマンしたもん」
「そっか、えらいな」
プロデューサーが志希の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
志希はゴロゴロと喉を鳴らした。イライラがおさまった。
だが、モヤモヤが心の中に残ったまま。
あたし、プロデューサーのことが好きなのかなあ。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
その後、志希はあのクスリを改良した。
クスリの成分が頭に残留し、あるスイッチで効果が出られるようにした。
この改良のおかげで、志希はいつでも望んだタイミングで自分を鎮めることができた。
プロデューサーを好きになったら、こまる。プロデューサーも、こまる。
志希は今の関係が心地よかった。壊したくなかった。
大人しくて礼儀正しい、可愛げのある娘のままでいたかった。
いまでは些細なことで胸が高まってしまう。
「志希」
名前を呼ばれるだけで、心が弾む。
「志希。
どうしたボーっとして」
運転席から、プロデューサーが言う。
志希はさっとスイッチを使った。
「なぜ人は愛し合うのでしょうか」
「は?」
「は?」
志希はもう一度スイッチを押した。
「今日は晴れですね。
晴れといえば、僕の誕生日は来月だけど君はお肉が好き?」
「どうした。ちょっと変だぞ」
「じゃあいつもよりヘンじゃないね」
そう言ったきり、志希はそっぽを向いた。
壊したくない。壊れたくない。
いつもどおりの2人でいない。変わりたくない。
だが身体は志希の言うことを聞いてくれない。
勝手に鼓動を早くして、頭をぐちゃぐちゃにしてしまう。
カラダはショージキってやつかー。
「そういえば志希」
プロデューサーが志希に尋ねた。
「御用のあるチャイムをお願いします」
いきなり話しかけられると心臓がバクハツしちゃう。
「ピンポーン。一ノ瀬さんの御宅で間違いないでしょうか」
「はい」
「あの長時間移動のとき、俺の鞄から何かとらなかった?」
志希は電流を流されたように、身体をビクリと震わせた。
「し、しらねーでございます。
あたしにはアリバイが………」
「同じ車に乗ってただろ。まあ、知らないならいいや」
プロデューサーはハンドルを指でこすった。現在は105回目の禁煙中である。
志希は、ベッドの下に隠してある、自分の写真集について考えた。
あれをゲットしてから志希ちゃんのすてーたすに状態異常が。
あたしの知らない、なにか未知の物質がつかわれているのかも。
「明日おしごとが終わったら、ひとりでかえる」
「迎えはいらないんだな」
「うん。
ついでに晶葉ちゃんトコに寄っていくから、女子寮に戻るのが遅れるかも〜」
「池袋さんと友達なのか」
「うん……」
志希は頰を赤く染めて、小さくうなずいた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡
「はじめまして、一ノ瀬志希です!
岩手から来ました。趣味は実験です!
やる気だけなら誰にも負けません! 今日はよろしくお願いします!」
「誰だ君は……」
晶葉は呆れながらも、微笑みを添えて志希をラボに迎え入れた。
「今日は何の用だ?
まだ、どのマシーンも出来てないぞ」
「ちょっと聞きたいことがあって」
志希はバリバリになった自分の写真集を、晶葉に手渡した。
「何故私に自分を売り込んでくるんだ……って」
晶葉は写真集のニオイに顔をしかめた。
「もしかしてだが」
「はい」
「一ノ瀬志希をググると、“ひょっとして 変態”、と出るのか」
「ひどいよ。志希ちゃんをヘンタイみたいに」
「状況的にどう考えても君は変態だ」
晶葉は写真集をつまみ上げながら、口を尖らせた。
志希は首をかしげた。
「そのシャシンシュー、どっかおかしいの」
「おかしい。ついでに君のアタマも」
思い当たる節がないので、志希は意を決して尋ねた。
「それ、あたしのプロデューサーの鞄の中から出てきたんだけど、どこがヘンなのかなあ〜?」
顔が熱くなってきたので、志希はスイッチのボトルを開けて、中の液体を頭から被った。
鼓動が次第にゆっくりになり、呼吸が落ち着いてくる。
「もう帰ってもいいかな。このままだと私もおかしくなりそうだ」
「なんで〜?」
「友人と思っていた少女が、せ、せっ、精液と愛液のこびりついた自分の写真集をわたして、くるんだぞ。
しかもその直後に突然香水を頭からかぶって………。
驚きを超えて恐怖すら感じる」
「セーエキ? なにそれ?」
志希は純粋に、その単語の意味を知らなかった。
晶葉から単語の意味を教わったとき、志希の表情から色が失せた。
♡×∞
2月14日。バレンタインデー。
志希は丁寧にラッピングされた、甘い甘いチョコレートをプロデューサーに渡した。
「義理?」
「志希ちゃんの自信作なのだ〜。
今すぐたべてたべて〜♪」
志希はプロデューサーを急かした。
プロデューサーはラッピングをはがして、チョコレートを口に入れた。
志希は、彼の喉仏がチョコレートを飲み込むのを確認した。
「どう?」
「甘過ぎる。砂糖を噛んでるみたいだ」
プロデューサーは容赦なくダメ出しをする。
だが、表情はやわらかい。
「志希ちゃんの愛情がた〜っぷりつまってるからね♪」
「甘すぎて吐きそう……」
「だめ、全部食べて♪」
志希はニコニコと笑った。
プロデューサーの腕にしなだれかかって甘えた。
「プロデューサー! だ〜いすきっ!!」
男は、女の身体からローズの香りがすることを知った。
はよはよ
おわり
終わったか…
すまぬ…
おつ
精を知らない志希にゃんすき
いや、良いと思う
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