周子「昨日のあたしが知らない場所を」 (82)
もう随分前の拙筆ですが
周子「アイドルでオトメなあたし」
周子「アイドルでオトメなあたし」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1454254441/)
の前日譚になります。
公式との大きな乖離等ありましたらご指摘頂戴したいです。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1523203563
卒業式が、もうすぐそこにまで迫っている。
今年の春は、少し急ぎ足でやってきた。
手をこすりながら登校することも減ったし、お昼ご飯のあとの眠気は日に日に増すばかり。
もう授業なんてないのに、あたしたちは同じ制服を着て、同じ時間に学校に来て、これまでと同じ時間を過ごして、帰る。
遅刻魔だったはずのミッコは毎日いの1番に教室にいるし、あんなに先生の文句ばっかり言ってたユカちゃんは日がな1日職員室に入り浸っている。
高校生活が終わるから、みんなしっかりと高校生をやりきろうとしているんだと思う。
桜のつぼみは今にもはちきれそうで、薄桃色が冬をどんどん塗り替えていく。
「なあ聞いた聞いた? とうとうバスケ部の伊藤が告るらしいよ!」
きゃあー、と桜並木と同じ色をした歓声があがる。
青子はそういうの好きやねえ。
窓際のあたしは、思わず嘆息。
2つ隣のクラスの伊藤くんと言えば、清純派イケメンで有名だ。
同学年はもちろん、下級生にまで人気のある子だけど、本人は心に決めた誰かがいるとの噂で色んなアプローチに全く靡かない。
それがまた、女心をくすぐる、らしい。
青子の受け売りだ。
それにしても、最近はそんな話題ばっかりだ。
誰々が付き合うことになった、別れた、フラれた……。
あたしも、興味ないわけじゃないけどさあ。
「お熱いねー、お相手は誰なん?」
軽い気持ちで首を突っ込んだら、青子の顔がぐりんとこちらを向いた。
頭の真っ赤なリボンがまぶしい。
満面の笑顔が、逆にちょっと気持ち悪い。
「なに言ってんのよ! 周子、あんたよ! あんた!」
「へ?」
あたし?
びゅうと吹き込んできた春の匂いが、あたしの髪をくすぐる。
そろそろ短くしてもいいかな。卒業だし。
背中をかすかに押しているのは、カーテン、それとも恋の気配?
きゃあー、と桜並木と同じ色をした歓声があがる。
●
早かった春は、あっという間に終わってしまった。
じめじめ重苦しい梅雨も終わって、季節はすっかり夏の装い。
お店の軒先を飾っている椛の古木も緑一色だ。
友達はみんな高校生の肩書きを返上して、あちこちに散らばって華の大学生活というやつを謳歌している。
ユカちゃんも、青子も。
遅刻魔ミッコなんて九州に行ってしまったと聞いた。
あたし? あたしは……。
華の実家暮らしだ。
高卒、家事手伝い。
今のあたしに肩書きをつけるとしたら、そんなところだ。
●
「周子! ぼけっとしてんとちゃうよ!」
ぱしん、と障子が音を立てて開く。
用件は分かっている。
いつもの話に決まっている。
ベッドでごろりと寝返りを打って、両足ばたばた。
「いーやーやー。お見合いなんて……」
「なに言ってんの! お見合い嫌なら、じゃあどこで婿捜すつもりなん! あんた決めたんでしょ、大学行かずにうちでやってくって!」
そうは言うけど。
決めたのは、あたしじゃないし……。
大学に行きたい、とも言わなかったけどさあ。
「ええー」
「ええとちゃう!」
ぐねぐね身悶えするあたしの背中に、ぴしゃりと一喝。
これ以上は何が飛んでくるか分かったもんじゃないので、しぶしぶ、枕を抱き抱えて起きあがる。
はたきを持って仁王立ちしているお母さんの装いは、さざ波模様と、浅黄色。
お店に出てないときまで和装は、あたしはちょっとごめんだ。
「昼間っからごろごろしてないで、ちょっとは将来のことを考えなさい! 高校出たらあっという間よ、時間は待ってくれへんのよ!」
開いたときと同じ音を立てて、障子が閉まる。
「うええー……」
ばたりと布団に倒れ込む。
あたしの嘆息が、アンドロメダ銀河のような天井の木目に吸い込まれていく。
枕元に、右手を伸ばす。
目覚まし時計、小さなぬいぐるみ。
それらの横に置いてあるクリアファイルを手探りで掴んで、胸元まで引き寄せる。
中に入っているのは、大人の履歴書。
いわゆる、釣書、という奴だ。
会ったこともない男の人の顔写真がついた紙が、1枚、2枚、3枚、4枚。
5枚目。
最後の1枚をじっと見る。
いつ撮影されたのかも覚えがない、和装の自分が微笑んでいる。
日焼けができない白い肌、ちょっと大きくて釣ってる目。
髪の量が今より少ないから、去年の暮れごろの写真だろうか?
自分で言うのもなんだけれど、結構、可愛い方だと思う。
年齢、誕生日、身長。
体重は……もしかしたら少し増えてるかもしれない。
高校出てからこっち、家でごろごろしっぱなしだし。
趣味、の段落にも色々書かれている。
映画鑑賞、音楽鑑賞。
うそばっかりだ。
体重といい、本当のことは何も書いてないなあ。
こっそり書き足してしまおうかな。
献血、ダーツ……。
うーん、これだと貰い手がいなくなるかもしれないな。
卒業式を終えて、体育館を出た直後に告白してきたバスケ部の伊藤くんの顔を思い出す。
イケメンだったなあ。
フっちゃったけど。
どうしてお断りしたんだっけ。
貰っといてもらったら良かったかなあ。
いやいや、それは失礼すぎる!
ファイルを放り出し、抱えた枕と向かい合う。
名前も知らない緑色のお饅頭みたいなキャラクタが描かれている。
ぶさいくだ。
ちらりと釣書の方を見る。
写真の中のあたしと目があう。
今のあたしの顔よりも、可愛い。
お見合いはもっといや!
これ以上がんじがらめになるのは、堪忍して!
枕に顔を埋めて、再びばた足。
少し伸びた前髪が瞼をくすぐる。
写真のあたしよりも抜いた髪の色は、あたしなりに大人になろうとした足掻きのようなものだ。
ぼふぼふと布団の音だけが部屋の中にこだまする。
お母さんは店先に戻ったのだろうか。
家の中は、しんと静まりかえっている。
●
ここ最近は、店番の最中もどこか上の空だ。
お母さんはぷりぷりだけれど、他の従業員さんやお客さんからは密かに高評価を得ているらしい。
ぼうっとしているあたしは、ミステリアスな京女というやつだ。
将来、かあ……。どうしよう?
ゴールデンウィークに、実家に帰ってきていた皆と会ったときのことを思い出す。
皆きらっきらしてたなあ。
変わってないのは、青子のリボンの色くらい。
やりたいこともないのなら、大学に行ってもしょうがない。
テレビの偉い人たちは口を揃えてそんなことを言う。
でも、大学に行かないと、やりたいことのヒントも見つけられないんじゃないですかね。
少なくとも、卒業証書をもらったときのあたしは何も見つけられなかった。
そこそこ名の知れた老舗和菓子屋の女将、も決して悪くはない選択肢だとは思う。
ミッコは「いいなあ」と言う。
「お嬢サマやん、周子。就活もしなくていいしさ」
ユカちゃんは「せやろかなあ」と言う。
「重たくない? しおみーの家って、背負うにはちょっとでっかいわ」
青子は「わからんけど」と難しい顔で首を振った。
「うちも、おとんと大喧嘩して大学行ったからなあ」
青子の家は上京のあたりで旅館を営んでいる。
多分、あたしと同じようなことを色々考えたのだろう。
聞きたいことを言ってくれる。
言いたいことを聞いてくれる。
あたしなんかには過ぎた友達だと思う。
●
そろそろ夕暮れどき。
今日の営業時間もお終いだ。
太陽はとっくに軒の向こうに隠れてしまって、空は紫色に染まっている。
街灯に照らされた木々の陰影は、すごく濃い。
「周子! ぼーっとしない!」
縁台を店に戻そうとしているあたしの背中に、お母さんの叱責がぶつかる。
「片付けくらい、てきぱきしなさい! そんなんじゃ丁稚も務まらへんよ!」
むかっ。
なにさ! あたしだって好きでぼーっとしてるんとちゃうよ!
言い返そうと思って振り返る途中で、池の水面に映ったあたしと目があった。
色々考えてるんやから、と言ってやろうとした。
なにを? と水面のあたしが問いかけてくる。
白い顔が、浮かんだ葉とともにゆらりと揺れる。
なにを?
高校を出て、およそ半年。
家で過ごしながら、あたしは何を考えていたの?
詰まった言葉は、それきり出てこなかった。
水面のあたしは薄ら笑いを浮かべている。
絶対、そんな顔をしているはずがなかった。
悔しい!
脇目も振らずに、無言でその場を駆けだした。
悔しい、悔しい!
お母さんに何も言い返せないあたしが情けなかった。
皆と比べて、なにもしていないあたしが情けなかった。
背後から、お母さんの声は追ってこなかった。
庭を走り抜け、門屋の暖簾をはねとばす。
下駄ばきとは思えない速さで表通りに飛び出したけれど。
ふぎゃ!
ちょうど右手から歩いてきていた男の人とぶつかって、視界が白黒点滅する。
「ご、ごめんなさい」
結構な勢いで衝突してしまったけれど、転倒して掘割に落ちたりしなかったのは僥倖だった。
額を押さえながら伺った相手も、よろけてはいるけれど大したことはなさそうだった。
「いや、こっちこそ急いでいて……」
そこまで言い掛けて、男の人の顔色が急に変わった。
「って、大丈夫か! どこか怪我したとか」
な、なんでそんな大げさなのさ。
訝るあたしの表情に気付いたのか、男の人は「いや、だって」と心配そうに言った。
自分の顔を、じっと覗き込まれている。
そこで初めて、あたしは自分の目にうっすらと涙が浮かんでいたことに気付かされた。
「ちがっ、う!」
羞恥でかああっと顔が火照る。
「大丈夫! なんもない、です!」
おろおろしている男の人から顔を背けて、さっと両目を和装の袖で拭う。
一生の不覚だ。
こんなんじゃますますお嫁に行けない。
男の人はなおも心配そうにこちらを伺っていたけれど、「じゃあ」と言いおいてあたしの脇を通り過ぎようとする。
あれ、そっちは……。
「お兄さん、どこ行くの? お客さん? うち、今日はもう閉店やで?」
「ええっ!」
男の人はものすごい顔で振り返った。
「ここの店の子か?」と問われたので頷いたら、もう一度ものすごい顔をして頭を抱え込んでいる。
「実は財布をなくして……。最後に買い物をしたのが多分この店だったんだ。……あああどうしよう」
百面相、と言う奴だ。
初めて見たけど、少し面白い。
「なーんや、ちょっと待ってて」
そう言いおいて、身を翻す。
暖簾をくぐり、小走りに庭を通る道すがら、男の人の顔をもう一度思い返す。
うーん、結構若そうな人に見えたけれど、見覚えがない。
うちで買い物してくれてたんなら、あたしも接客してるはずなんだけれどなあ。
そんなにぼんやりしてたのかね、今日のあたし。
店先の灯りはまだ点いていたけれど、誰もそこにはいなかった。
奥に引っ込める途中だった縁台が、放りっぱなしになっている。
その上に、黒い二つ折りの財布が置いてあった。
これかな、多分。
表に戻ると、男の人は門屋から少し離れたところで時計を気にしながら立っていた。
街灯に照らされた黒ずくめのスーツ姿は、アスファルトに伸びる椛の影が立ち上がったよう。
路地の中に妙に浮かび上がっているその姿をじっと見下ろしている、気の早い一番星と目が合う。
結構、背の高い人なんだな。
四角い黒縁の眼鏡は、いかにも仕事人のよう。
修学旅行の引率の先生、とかかなあ。
「はい、これ?」
財布を差し出すと、百面相がぱっと輝いた。
「そう、これだ! ありがとう!」
「どーいたしまして。じゃあ、あたしはこれで」
くるりと踵を返したあたし。
けれどその背中を呼び止められて、歩みを止めて振り返った。
男の人が駆け寄ってくる。
改めて前に立たれると、細身な分よけいに大きく感じる。
熊? いや……ぬりかべ?
「待ってくれ、お礼をしないと。自販機くらいしかないけど、1杯おごるよ」
思っても見なかった突然の申し出に、おもわず目をぱちくり。
「ふふ、何それ? デートのお誘い?」
いたずらっぽくそういうと、男の人は「参ったな」と頭をかいた。
うーむ、あしらい方に手慣れたものを感じる。
結構場慣れしてそうだぞ、この人。
●
「なにかあったのか?」
唐突にそう問いかけられて、あたしは思わずオウムのように聞き返した。
夏の夜には似つかわしくない、少し肌寒い風がそばを駆け抜けていく。
ざわざわ揺れる椛の梢が、ぼうと浮かぶ自販機の人工的な灯りに影を落としている。
微糖のコーヒーの冷たさが、じいんと指先から広がってくる。
「怪我したわけじゃないのに、泣いてたろ」
少し間を置いて、男の人は言葉を続ける。
あちゃー、やっぱり見られてたのか。
ま、当然だよね。
さて、どうやって誤魔化したものかしら。
「別に、なんもないよ?」
返事してから後悔した。
もう少し、色々言い方があったろうに。
男の人は黙ってコーヒー缶を口に運ぶ。
相づちの代わりに、ぐびりとその喉が音を立てた。
「親御さんと喧嘩したとか」
ぎくっ。
思わず自分の肩が震えたのが分かった。
慌てて勢いよくコーヒーを呷る。
「なんで?」
「いやあ、俺にも覚えがあるからなあ」
男の人は、気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「きみくらいの年の頃に1人で泣きたくなるようなことって、ペットが死んだとか、親にきついこと言われたときだったかなあって」
おお、と思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
見事に図星を指されたというか。
泣いてたことはバレバレだけれど、別にもう誤魔化さなくてもいいよね、知らない人だし。
「あのねえ」
気付けば、言葉が口から滑り出てきていた。
「将来のことを考えろ、って言われたんよ」
顔を見ながら話すのはとても恥ずかしかったので、あくまで独り言のように。
洛中の街明かりが薄ぼんやりと滲む宵闇と会話する。
「でも、あたしどうしたらいいか分からなくて」
「なにかやりたいこととか、ないのか?」
首を横に振る。
情けないなあ、という気持ちに両頬を張られているかのよう。
「今は家の手伝いをしてるんだけどさ。それは小さい頃から当たり前のようにやり続けてたことで、あたしがやりたいことなのかなと思うと違う気もするんだよね」
嘘だ。
「あたしは、単に実家でぬくぬくできればいいか、くらいに考えてたんだけど」
嘘だ。
あたしは、妬んでいるんだ。
友達はあたしと違って、勉強したり遊んだりしながら、色々考えている。
あたしが知らない世界を歩いている。
「いざ将来のことを自分で考えろって言われてもさ。一体全体どうしたらいいのかな。考えてみても、あたし分からないんだ」
本当のことなんか言えっこなかった。
ちっぽけなプライドが手を広げてあたしの邪魔をした。
追い立てられるように、どんどん口が早くなっていく。
「どうしよう」
落ち着こうと口に当てたコーヒー缶は空っぽだった。
「あたし、どうしたらいいのかな」
勝手に瞼が熱くなるのが分かる。
「わからないよ。あたし、なんにもできない。どうしよう」
男の人は、ずっと黙ってあたしの話を聞いてくれていた。
はあ、とため息を1つ。
上を向いて、大きく息を吸って、袖口で目を拭う。
「いやー、すっとしたよ。久しぶりに、言いたいこと言って楽になった!」
ほら、と手が差し出される。
何だろうと見るとそこには、折り畳まれた紺色のハンカチ。
「おおー、イケメンだ」
漫画の中だけだと思ってたよ、こういうの。
軽口で茶化しながらそれを受け取る。
多分、今のあたしは二目と見ることができない顔になっているんだろう。
「よし、そろそろ帰らないとまた怒られちゃう。格好悪いとこ見せちゃったね、内緒やで?」
男の人がハンカチを受け取るや否や、小走りでその場を後にしようとする。
「じゃあね、お兄さん!」
「待ってくれ!」
格好良く別れを決めたはずが、びっくりするくらいの大声のせいで思わずつんのめった。
塀の向こうから数羽の小鳥が飛び立ったのは、恐らく今の声のせいだろう。
振り返ったら、ぶつからんばかりの勢いで右手がこちらに伸びてきていた。
またハンカチ? と思ったけれど違う。
白くて長四角で……ティッシュ?
いや違う、もっと薄い。
名刺?
「なにこれ?」
おずおず差し出した手で受け取ったそれに書かれているゴシック体を目で追う。
「アイドル? ……へえ、テレビの人なんだ?」
「もし、もしだぞ。もしもやりたいことが見つけられないなら」
男の人はそこで一旦、大きく息を吸った。
「1度、うちのオーディションを受けてみないか?」
まさしく、豆鉄砲を食った鳩の気持ちになる。
「へ?」とすっぽ抜けたような裏声が飛び出した。
「でもあたし、アイドルに興味なんてないよ?」
「それでいいんだ。アイドルになるなんて考えてくれなくてもいい」
思っていたのとは違う答えが返ってきた。
ますます目をぱちくりさせているあたしに対して、男の人は目線をあわせようと少し膝を曲げた。
「ただ、オーディションっていうのは自分を審査員たちに売り込む場だ。要は自分のいいところを見つけてもらうわけだ。何もできないなんて言うな。君のことを評価してくれる人はきっといる。俺だってそうだ」
へ、へえ……?
気圧されそうになりながらも、あたしは負けじと生来のいたずら心に火を点けて言い返す。
「じゃあ、お兄さんは、あたしのどこがいいって思ったの? 確かに看板娘の周子ちゃん、と言えばここらの有名人だけれど、もっといい子なんて探せばいっぱいいるよ?」
ミッコとかユカちゃんとか、青子とか。
次の言葉には少し勇気が必要だった。
自分から突っかかっていったというのに、顔から思わず火が出そうになる。
「どうしてあたしなん?」
男の人が言葉に詰まる。
でもそれは、場を濁すために当たり障りのない返事を探しているのとは違うということがすぐに分かった。
きっとその逡巡は、初対面のあたしに対してどこまで言っていいのか、それを計っている表情。
あたしは1秒たりとも目を逸らさなかった。
瞬き1つしなかった。
ざあ、と椛の枝が震える。
涼しい風が路上を撫でているのに寒気を感じなかったのは、果たして風向きのせいだろうか。
観念したかのように、男の人は頭を掻いた。
「……顔」
うわ。
眼鏡のレンズ越しに、男の人の瞳の中からこちらを見返している自分の頬が、さあっと真っ赤に染まったのが見えた。
「あ、あほちゃう!」
「いや、本気だ! 俺は!」
「わかった! わかったからもう言わんといて!」
ばね細工のように勢いよく背を向けた。
胸の早鐘にあわせて、足下から暖かい何かがどんどん背筋を登ってくるのが分かる。
鼓動の音が耳のすぐそばから聞こえてくる。
もうすぐ真夏が来るというのに、吐息が微かに震えていた。
男の人からは顔を背けたまま、錆びたブリキ人形のような動きで名刺を袖の下にしまう。
一挙手一投足のたびに、間接がひっかかって滑らかに動かない。
「い、一応貰っておくわ。オーディションは……気が向いたらね!」
返事も聞かずに駆けだした。
格好良さもへったくれもない別れだった。
今度は男の人の声は聞こえなかった。
2度は呼び止められなかったのか、それとも梢を揺らしていた風音が邪魔をしたのかもしれない。
暖簾をはね飛ばす勢いで門屋に駆け込む。
既に照明が消え、縁台も片付け終えられている庭を走り、脱ぎ散らかした下駄もそのままに従業員用の裏口から自室に一目散へと逃げ込んで後ろ手に襖を閉めた。
そうして初めて、大きく肩で息をする。
「アイドルのプロデューサーか……」
あ、しまった。
「オーディションの場所、訊いてへんかった」
布団に腰を下ろして、名刺をじっと見る。
街灯の薄暗がりから一転、遙かに眩しい自室の蛍光灯に照らされても、先ほど見た文字は変わるはずもない。
そうしているうちに、あたしはもっと大きな失敗に思い至った。
思わず窓を見ても後の祭りだ。
四角く切り取られた宵闇が、そこには鎮座している。
レースカーテン越しに、こちらを見つめている間抜け顔のあたしと目があう。
「あたし、ちゃんと自己紹介もしてへんかったわ……」
●
名刺に書かれていた会社の名前を調べてみたら、オーディションの会場はすぐに見つかった。
意外なことに、京都駅そばの烏丸通りに面したビルの1室だった。
会社の住所は東京だったから、てっきり新幹線に乗ることになるかと思っていた。
「アイドルのオーディションっていうから、もっと大きなところでやってるんだと思ってたけど……。意外とこじんまりしてるんだね」
よく晴れた初夏の朝だった。
入道雲の子供がぽつんと浮かんでいるだけの空は青一色で、とても眩しかった。
今日のあたしは、着物美人の看板娘から一転、イマドキの装いの18歳。
白いワンピースと、藍鼠色の羽織もの。
大きく出た肩は、あたしなりの自己主張だ。
エレベーターを降りてすぐに、いつか見た顔を見つけて歩み寄る。
緊張と興奮で鼓動は少しばかり早まっていたけれど、歩みはあくまでオトナっぽく、平常心で。
男の人はあたしを認めて破顔して、それからあの日の夜のように恥ずかしそうに頭を掻いた。
今日は眼鏡をかけていなかった。
「自社でやる余裕があればいいんだけれどな。残念ながら今日の会場は貸し会議室だ。えっと」
男の人が言葉に詰まる。
原因は分かっている。
あたしは精一杯の笑顔で応える。
「どーも。あたし、シューコね。……もとい、塩見周子です」
お辞儀を1つ。
「詐欺とか、新手の変な勧誘かとかなり迷ったよ。調べたら書類審査の受付はとうに終わってるし、直接の持ち込みとか面接には応じられない! って書いてあったし」
それでも、と小さく息を吸い込む。
男の人はばつが悪そうな笑みを浮かべてあたしの話を聞いてくれている。
「オーディション、受けに来たよ」
男の人は満足そうに頷いたけれど、すぐにその眉が少し顰められたのが分かった。
「今日は1人で来たのか?」
ああ、すごい。
とても目敏い人だ。
大人ってみんなこうなのだろうか。
あたしも、そんな風になれるのかな。
「えーと」
色々と頭の中で用意しておいた返答はあったのだけれど、どれもすらすらと出てこない。
ええい、ままよ。
「いやあ、それが色々あってね」
ちょっと嘘だ。
「もともと家を出ろとは言われてたんだけど」
嘘だ。
「とうとう、実家を追い出されちゃってさ」
これは、ちょっと本当。
「行き場がなくなっちゃったから、仕方ないよねー。成り行き、ってやつ?」
男の人の顔がにわかに曇る。
まあ、仕方ないな。
塩見家が大揺れに揺れたここ数日のことは……今は思い出さないでおこう。
親には、オーディションを受けるとだけ言って出てきた。
本当のことなんか、言えるわけがない。
見知らぬ人にナンパされて、顔が可愛いと言われて、アイドル目指します。
薄皮1枚隔てた下を巡る血が、かあと音を立てた。
言えるわけ、ない!
いやあ参ったなあ。
自称とはいえ、3年A組の高嶺の花担当だった周子ちゃんが、まさかこんな浮ついた気持ちになるなんて。
まだ心配そうな顔をしている男の人に、にへらと笑顔で答える。
「そんな顔せんといてよ。まだオーディションに受かってもいないんだし。アイドルになれるとも決まってないんだからさ」
なれなかったときのことは……ちゃんと考えていないけれど。
そのときは多分、昨日までと何も変わらない。
あたしはただの周子のままなんだろう。
でも、もしそうでなかったら?
明日のあたしは、シューコは、何になるんだろう。
やりたいこともないのなら、大学に行ってもしょうがない。
テレビの偉い人たちは口を揃えてそんなことを言う。
ミッコにユカちゃんに青子は、やりたいことを探して大学生活を謳歌しているんだと思う。
あたしは?
別に実家を継ぎたくないわけじゃない。
看板娘の周子ちゃん改め、若女将の周子さんも悪くはない。
けれど、あたしも探してみたい。
昨日までのあたしが知らない場所を。
もう1度、男の人の顔を見上げる。
「ま、今日1日、シューコのことをよろしくね。プロデューサー」
おしまい。
お付き合いいただきありがとうございました。
HTML化依頼出してきます。
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