千早「賽は、投げられた」 (640)



それは、いつのことだっただろう。

私がこの世に生を受けて、一番最初のこと。

私が気付くよりも、ずっとずっと前のこと。

生まれたままの姿の私は、何も持っていなかった。


その目は、母親の姿を見つけてさぞ安心したことだろう。

今となっては、その時の記憶はない。

だから、全ては憶測でしかない。


私の前に置かれた、一枚のシート。

マス目ごとに出来事が書き記された、長い長いすごろく。

スタート地点に、私の駒がぽつんと佇む。

生まれた私は、まっさらな出発地点から始まったのだ。


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スタートした私は手探りだった。

何をすればいいのか。

何をすれば幸せになれるのか。

そんなことは、誰も教えてくれない。

自ら進み、身をもって確かめるしかない。


私の手に握られたさいころ。

これが私の全てだ。

小さなキューブに詰まった私の未来は、とても綺麗に、輝いて見えた。

72は、掴めない



さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『両親の愛情を得る』

『1マス進む』


良かった。

私は、幸運に恵まれているらしい。

幸先のいいスタートを切ることになった。




さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『すくすくと育つ』


大きな不自由はなかった。

幼心にわがままを言っては、両親を困らせることもあった。

けれども、両親は厳しすぎず、甘すぎず。

笑いながら、泣きじゃくりながら、私は両親の愛を一身に受けた。

少しずつ大きくなり、徐々に自分なりに考えるようになった。

弟か妹が欲しいかい、なんて両親の笑顔。

私はとっても喜んで、うんうんと、何度も頷いた。




さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『弟が生まれる』

『1マス進む』


ああ、なんて素晴らしい事だろう。

私に、弟ができた。

可愛い、私によく懐いてくれる、大切な弟。

初めての、自分よりか弱い存在。

守ってあげたくて、頭を撫でてあげたくて。

前よりわがままを言いづらくなったけれど。

お姉さんというのは、とても心地良いものだと思った。




さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『両親から同じように愛され、姉弟で健やかに育つ』

『2マス進む』


家族四人で、ささやかな幸せを享受する。

私は少しずつ、歌が好きになっていった。

母の子守唄。

テレビから聞こえる童謡。

聴く者を慈しむような声を、いつからか私も発したいと感じた。

そして口にし始めた拙い歌を、弟は心から楽しそうに聞いてくれる。

それを眺めながら、両親も柔らかく微笑んでいる。


私にとって、それは、これ以上ない幸せのように思えた。




さいころを、振ろうかしら。

いえ、ここで止めておきましょうか。

このまま、


『すくすくと育って大人になり』

『伴侶にも恵まれ』

『子宝を授かり』

『時々は家族と、弟と会って、昔を懐かしみながら』

『ずっとずっと、幸せな日々を送りましたとさ』


めでたし、めでたし。

それで、いいのではないでしょうか。


そんな想いが、私の中を過ぎった。


もう読めた
I wanna sayって言いたいだけだ



「あ……」


きっと、幸せな記憶。

それを想い、ふと指の力を緩めた瞬間。

手のひらから、さいころが零れ落ちた。

無情な回転は最早誰にも止めることはできず。

乾いた音を立てながら、すごろくの盤上へと転がった。

ころり。


『1』


「あ…………」


私は、次のマスを見て、身体が固まった。

けれど、さいころの出た目は、絶対だ。

すごろくは、進めなければならない。

振ってしまったら、後戻りはできないのだ。




マス目に書かれた文字を、震える声で読み上げる。


「弟を、失う」

「5マス、戻る」


何故。

何故、さいころは零れ落ちてしまったの。

何故、私は指の力を緩めてしまったの。


マス目をなぞった赤い人差し指が、震える。

あの子の赤で濡れた人差し指が、震える。

押さえを失った歯が、ガチガチと、震える。


何度も夢だと思おうとしたけれど。

震える歯が時折噛む、舌の痛み。

指先にまとわりつく、赤い粘り気。

鼻先をつく、鉄の匂い。


あらゆる感覚器官が、夢であることを拒絶した。




大切な弟だった。

両親の、そして私の、拠り所だった。


その命は、


いとも簡単に。

あっけなく。

ほんの刹那に。


摘み取られてしまったのだ。


震える手から駒を何度も取りこぼしながら。

口元から堪えきれない嗚咽を漏らしながら。


駒を、5マス戻した。


前に落ちたけど書き終わったのかな?



震える手は、さいころを振ることを止められない。

まるで何者かに操られたかのように。

まるで死神にでも魅入られたかのように。

さいころを振る。


『1』


呼吸が荒い。

頬は、何か気持ちの悪い液体で、べしゃべしゃに濡れている。

駒を進める。

マスに書かれている文面は、先ほどとは変わっていた。

暖かさと明るさに満ちていたはずのマス目は、どこにもなかった。


『家族の幸せが途切れる』

『スタートに戻る』


ささやかな幸せは、もう欠片も残っていなかった。

大切なものを失っただけではなく。

かつて注がれていた愛情も、大きく変質してしまった。




私は、また一人でスタートに佇む。

暖かだったものが、温度を零下に冷え切らせて形を変え。

尖った痛みを伴い、家族の繋がりをぼろぼろに刺し崩す。


そう。

私は、一人になっていた。


こんな家には居たくない。

早く、さいころを振って飛び出そう。


心臓を突き刺してしまいたいくらい辛かったけれど。

すごろくを投げ出すことだけは、絶対に許せなかった。


さいころを零し落としてしまったのは、私だから。

壊してしまったのは、私だから。

だからせめて、最後までやらなければ、ならないから。




さいころを振る。


『2』


駒を進める。


『淡々と学校へ通う』


特別な指示はない。

ただ、学校に行くだけだ。

学校も決して、居心地のいい場所ではなかった。

仔細までは分からずとも、みんな、私からある種の空気を感じていた。

それ故、腫物を扱うような空気で、酷く澱んでいた。

けれどそれでも、触らないでいてくれるだけ、あの冷たく刺すような家よりは良かった。




さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『歌を歌う』

『1マス進む』


そして、一つだけ、いいところ。

音楽の授業は、今の私にとって、唯一求めるものだった。

あの幸せなひと時を、きっとまた手に入れられる。

“歌”は、私にとって幸せの象徴だった。


歌っている間は、一人で安らぐことができる。

歌っている間は、音符の並びしか頭にない。

他の何も考えなくていい。

ただひたすら、歌うだけでいい。


その間だけは少し、あの頃の心地に浸ることができた。




さいころを振る。


『2』


駒を進める。


『合唱コンクールに出場する』

『1マス進む』


中学校。

私はまた、歌う喜びに心を開き始めていた。

相変わらずみんなは、無愛想な私を腫れ者扱い。

私も、みんなと関わろうとはしない。

それでも、歌う時はみんなと一緒だった。


私は声を張り上げ、導くように歌う。

その時だけは、みんなついてきてくれた。


コンクールで大きな結果を出すことは出来なかったけれど。

私が大きな声を出せば、みんなも大きな声を出す。

歌う度に、みんなが喜んでくれた。





ああ、そうだ。

確かあの頃も、こんな風に、みんな喜んでくれていた。

そこに、ささやかな幸せがあった。





コンクールの期間が過ぎると、私はまたいつもように戻った。

みんなもまた、腫物を扱う日々。


けれど私は、見つけかけた気がした。

小さな、幸せの萌芽。


今回は少し遅かったけれど。

次は、きっと幸せを見つけてみせよう。




さいころを振る。


『1マス進む』


駒を進める。


『高校に入学し、一人暮らしを始める』


私はようやく、檻から抜け出した。

無理矢理理由を作り、遠くの高等学校に入学して。

晴れて、念願の一人住まい。

あの家では、もう幸せを見つけることはできないから。

新しい場所で、幸せを見つけよう。


きっと。







私は、何も疑っていなかった。

きっと、思い描いていることは、間違いではないって。







さいころを振る。


『1マス進む』


駒を進める。


『合唱部に入る』


きっと、ここなら私の居場所になってくれる。

歌しか残っていない私にとって、その場所は輝いて見えた。

ここでなら、コンクールの最中に垣間見えた幸せを、共にできるはず。

思った通り、ここでは誰もが歌を愛していた。

勿論、私も。


さぁ、取り戻そう、幸せな日々を。




私は、無我夢中で手を伸ばした。

霞の中で、形も分からぬ何かを掴もうとして。

歌への想いをぶつけるように。

今は失き幸せな日々を探るように。

弟の笑顔にすがるように。


思えば、私は焦っていたのかもしれない。

幸せを目前にしているように見えて。

その実、背後はいつも崖っぷちだった。


さいころを振ろうと力んだ私の手のひらから。


ころん、と。


また、さいころが零れ落ちた。




「あ……」


力と共に右手に込められた、期待と不安は、行き場を失って戸惑って。

ころころと転がり、意に背く数字が表れるのを、私はただ眺めるしかなかった。


「1マス、進む」


心のどこかで、私は思っていた。

心のどこかで、私は分かっていた。


やはり今回も、私は幸せへは届かないのだ、と。







『合唱部での居場所がなくなる』

『スタートに戻る』







確かに、歌への想いはあった。

それは、私も、みんなも。

けれど、根底にある“もの”が、決定的に違った。


私は、歌に対して盲目的だった。

私には歌しかなかった。

私が思う理想しかなかった。


みんなには歌以外もあった。

歌を取り巻く、各々の幸せがあった。

それらの幸せから紡がれる歌があった。


沢山の幸せの中に歌も含まれるみんな。

歌の中にしか幸せを見出せない私。


“合唱”が“独唱”に変わるのに、そう時間はかからなかった。


私は再び、幸せのかけらを、完全に見失った。




手に入れる寸前のつもりだった。

実際には寸前どころか、ゴールへ向かって歩んですらもいなかった。

最初から私は背を向けて、反対方向へ独り歩んでいたのだった。


足腰が砕け、地べたにへたり込む。

幸せの青い鳥など、どこにもいやしない。

鳥籠の中を覗こうにも、それは最初に壊れてしまった。

投げ出すことを許せないなどと言っておきながら、この様だ。


私は弱い。


弱い私には、もう賽を投げる勇気はない。

このすごろくは、私に苦難しか与えない。

もう、さいころなんて振りたくない。

もう、こんなゲームは降りたい。





教えてください。


私の幸せは、どこにあるのでしょうか?


教えてください。


私は、何を探せばいいのでしょうか?



私は自分の駒を掴み、放り投げようとした。





「それは勿体ないよ」


誰かが、そっと私の右手を握った。

私の手を優しく包み、その中にある駒を壊さない様に。


「許せない気持ちが変わらないなら、もうちょっと頑張ってみよう?」

「無理よ。もう、さいころを振る気力もないわ」


突然現れたその声の主は、私を明るく、容赦のない声で立ち上がらせようとした。

私はへたり込んだまま、両手はぶらぶら。

それでも彼女は、私の手を放さなかった。


「さいころを振れなくてもいいよ」

「一歩一歩、進んでいけばいいよ」

「私が、引っ張ってあげるよ」

「またさいころを振れる、その日まで」




彼女は慈しむように私を見た。

澄んだ瞳に、情けない姿の私が映る。


けれどもその目は、同情じゃない。

けれどもその目は、命令でもない。


「どうして、私に声をかけたの」

「辛そうだったから」

「私、助けなんてお願いしたかしら」

「されてないよ」

「なら、どうして」

「私、とっても自分勝手で、お節介焼きさんなんだ」


えへへ、と、彼女は笑った。



「私は、さいころを振らないわ」

「うん、私が引っ張ってあげる」


彼女は、私の手を握る力を強めた。


「だから、その代わりね」

「その代わり?」


同じくらい強い眼差しで、私の瞳の奥を見据える。


「絶対に、前に進むことをやめないで」

「それは……」



「はいっ、ゆーびきーりげーんまーん!」

「え?」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのぉーますっ!」

「あ」

「はいっ、ゆーびきった!」


とびっきりの笑顔で、私に微笑みかける。


「独りじゃなくて、一緒にさ、前に進もう?」


どうしたらいいのか、私には分からなかった。


耐え忍んできたことも、

無我夢中でやってきたことも、

何一つ、実を結ぶことはなかった。

さいころを振る力も失くした今、私は何もできない。



「分からなくてもいいよ」

「そのために、私がいるよ」


駒を私の指先に握り直させ、手を握って一緒に動かす。

伝わってくる彼女の温もり。

その中に、ほんの僅かだけ。

霞の中で、探していたものを感じた気がした。


「ほら、まずは1マス進んでみよう?」


私は言われるがままに、駒を進める。



1マス進む。


ふらつく足取りで訪れた場所。

私の前にあるのは、古びた小さな雑居ビル。

築何年くらいになるのか、多分私よりも年上だろう。


街中で小さな、素朴な広告を見て。

一度見ただけなのに、何故か頭から離れなくて。

それでも躊躇する手を引かれて訪れたのは、これまた小さなアイドル事務所。

私は社長を名乗る人に、一言だけ質問をされた。


「君は、好きなことはあるかね?」


私は、偽りなく答えた。


「以前は、歌が何よりも好きでした」

「……いいえ、歌が私に届けてくれる幸せが、好きでした」

「それをまた手にしたいと、もがいています」


その言葉を聞いた社長は、何も言わずに頷いてくれた。

1マス進む。



1マス進む。


「ん、君が新しく入るっていう子だね?」

「如月、千早です」

「うん、前から知ってるよ」

「え?」


不思議がる私を見て、その人は小さく笑った。


「以前知り合いに、中学生の合唱コンクールに招待されてさ」

「その中に、とても想いのこもった歌声を持っている子がいてね」

「気になって顔と名前だけは覚えてたんだ」

「そう、でしたか」

「これも何かの縁だ。全力でフォローするからよろしくな」


穏やかだけれど、少し空回り気味なプロデューサーに会う。

1マス進む。



1マス進む。


「ちょっと騒がしい子が多いけど、いい子たちばかりよ」

「音無さん、ですよね」

「あら、私の名前を憶えてくれたの? ふふ、嬉しい」

「細かいところまでは詮索しないけれど、千早ちゃんに複雑な事情があるのは聞いてるわ」

「……お気遣いなく」

「そうね。無理に助けてあげようとか、そういうことはしない」


いたって自然な表情で、腫れ物に触るような素振りは全く見えない。


「でも、何か少しでも不安があったりしたら、関係ない事でもいつでも聞いてね」

「自分で言うのも寂しいけれど、年の功もあるから、ね?」

「分かりました。その時が来れば」


音無さんは微笑んだ後、思い出したように深いため息をついた。

1マス進む。



1マス進む。


「あ、ごめんなさい。このプレートに名前書いてもらえる?」

「ええと、これですか」

「そうそう。ロッカー用のネームプレート。あと、こっちの書類もお願いね」

「色々とあるんですね」

「リアルな話、お金のやり取りもあるからねぇ。あ、私は秋月律子。よろしく!」

「如月千早です。よろしくお願いします」


挨拶をすると、その人は眼鏡の端を光らせ、にんまりと笑った。


「歌だけなら即戦力って聞いてるわ。基礎を固めたら、あとはダンスをみっちり鍛えるだけね」

「私、ダンスに興味は……いたっ!」

「ダ・メ・よ! 私もみっちりと鍛えてあげるから、覚悟決めときなさい!」


秋月さんの拳骨は、本当はあまり痛くなかった。

1マス進む。



1マス進む。


「あら、あなたが新しく入った……」

「はい。如月千早です」

「三浦あずさと申します。よろしくね、千早ちゃん」

「千早ちゃ……いえ、何でもないです」

「ちょっと馴れ馴れしかったかしら」


そう言うと、その人はちょっと疲れたように肩に手をやった。


「どうかしましたか?」

「ううん、気にしないで。いつも肩の疲れが取れないのよ」

「…………くっ」

「あら……や、やっぱり呼び名、変えた方がいいかしら?」


三浦さんに、えも言われぬ敗北感を覚える。

1マス進む。



1マス進む。


「初めまして。私は――」

「いえ、みなまで言わずとも分かります」

「どこかでお会いしましたか?」

「いいえ。しかし、新人の方がいらっしゃるということは、既に聞き及んでいました」


そう言うと、その人は不敵な笑みを浮かべながら言った。


「今井さん、ですね?」

「いいえ、違います」

「なんと……私としたことが……」

「私は――」

「おや、もうレッスンの時間が……私は四条貴音と申します。それではまた、如月千早」


掴み所のない四条さんに、終始翻弄される。

1マス進む。



1マス進む。


「そ、その子を捕まえてぇ!」

「え? このハムスター? 大丈夫よ、もう捕まえ――」

「とりゃー!」


まっすぐ、甲子園球児のように綺麗なヘッドスライディングで。


「え? もう捕まえてくれたの?」

「今の拍子に逃げちゃったわ」

「え、ええええええ?! うわあああん自分の馬鹿ああああ……って、もしかして噂の新人さん?」

「はい、これからこちらでお世話になります、きさら――」

「自分、我那覇響だぞ! ダンスが好きで、ペットがいっぱいいて……ってハム蔵ー!」

「え、ちょっと……行ってしまったわ……」


我那覇さんには、あとでちゃんと自己紹介しておかないと。

1マス進む。



1マス進む。


「お茶、いかがですか?」

「ありがとう、ございます」

「ふふ、ちょっと緊張してるのかな。私、萩原雪歩っていうの」

「如月千早です。萩原さん、よろしくお願いします」

「そんなにかしこまらなくていいよ、千早ちゃん」


一生懸命私をリラックスさせようとしてくれるその手は、僅かに震えていた。


「手……」

「あっ?! ご、ごめんなさい! その……お口に合うか、心配で……」

「……とっても美味しいわ、萩原さん」

「よ、良かったぁ……」


萩原さんは、ちょっと心配性だけれど、芯は強くて。

1マス進む。



1マス進む。


「ねぇ、千早さん」

「……以前にお会いしたこと、ありましたか?」

「ううん、ないよ。初めましてなの!」


その子は私を見るなり、当たり前のように私の名前を呼んだ。


「えっとね、ミキはミキなの。星井美希」

「初めまして、如月千早です」

「それでね、千早さん。えーっと……あれ?」

「うーんとね……何言おうとしたか忘れちゃったの」

「まぁいいや。ね、お昼だし、一緒におにぎり食べよ?」

「は、はぁ……」


星井さんのマイペースに、すっかり調子を崩されてしまった。

1マス進む。



1マス進む。


「だーれだっ!」

「……誰?」

「残念! 正解は亜美でしたー!」


知らない声に目隠しをされた上、理不尽な不正解を突きつけられる。


「千早お姉ちゃんだよね? 初めましてのご挨拶!」

「あまり初対面の相手にはやらない方がいいと思います」

「お堅いぜ千早お姉ちゃーん。双海亜美だよ! よろよろ~」

「私は如月千早……って、名前は知っているみたいですね」

「りっちゃんの書類覗き見したからねん。んっふっふ~」

「個人情報の保護、って知ってます?」


双海さんみたいな子供に覗かれてしまうセキュリティはどうなのだろう。

1マス進む。



1マス進む。


「だーれだ!」

「……双海さん」

「えっ!? 千早お姉ちゃん、なんで分かったの!?」


聞き知った声に振り向くと、そこで驚いていたのは、よく似てはいるけれど別の子だった。


「……双海、さん?」

「あっ! その顔、もう亜美がやったあとっぽいじゃん! ぐぬぬ!」

「双海亜美さん、じゃない?」

「うんむ。我こそはジェミニの片割れ、双海真美よ! 控えおろう!」

「如月千早です。よろしくお願いします」

「まったくもー、千早お姉ちゃんノリ悪いよー。もう少しこうさぁ」


もう一人の双海さんに、小一時間ほどノリ突っ込みのレクチャーを受ける。

1マス進む。



1マス進む。


「ちょっと。アンタが新人?」

「……そうですけれど」

「ふぅん……ま、悪くはないんじゃない? 悪くはね」

「そうですか。ありがとうございます」

「水瀬伊織よ。一回で覚えておきなさい」

「如月千早です」


やけに上から目線の言葉に、内心、少し穏やかではなかった。


「ふ、ふん、どうせ分からないことだらけなんでしょ?」

「足引っ張られるのもイヤだし、何かあったらさっさと言いなさいよね!」

「あ……はぁ……」


前言撤回、真っ赤な顔をした水瀬さんは、少し人見知りで照れ屋なだけみたい。

1マス進む。



1マス進む。


「あっ! えっと、千早さんですか?」

「はい。如月千早です」

「えっとえっと! 私、高槻やよいって言います! これから、よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします」


精一杯の挨拶をするその子の姿に、つい笑みが零れてしまった。


「あっ!? わ、笑いましたかー!?」

「い、いえ、そういうわけでは」

「うーっ、千早さん酷いです……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、高槻さん」

「……なんちゃって! こーはいとして、ビシバシ鍛えていきますよー!」


満面の笑みを浮かべる高槻さんは、どこかで見た鬼教官の真似をした。

1マス進む。



1マス進む。


「あれ? お客さん?」

「いえ、今日からお世話になります、如月千早です」

「そっか、じゃあ今日から仲間だね! ボクは菊地真。よろしく!」

「よろしくお願いします」


てっきり、女性だけの事務所だと思っていたのだけれど。


「男性の方もいらっしゃったんですね」

「えっ?」

「え?」

「……そうだよね、ボクの外見じゃ勘違いされても仕方ないよね……」

「えっ!?」


完全に意気消沈してしまった菊地さんを、私なりの言葉で励ました。

1マス進む。



1マス進む。


「うぉっほん! 新しい環境には慣れたかな?」

「正直、まだ慣れるとまではいかないです」

「それもそうだな……ならば、私が直々にあだ名を付けようじゃないか!」

「あだ名、ですか?」

「それで呼び合えば、みんなの仲も深まるだろう」


こめかみに指を当て、しばらく唸った末に。


「そうだな……ゴンザレスなんてどうだろう」

「嫌です」

「ならばハンブラ」

「嫌です」


高木社長は、そうか、と一言、寂しそうに呟いた。

1マス進む。



さいころは振らない。

ただただ1マスずつ、駒を進めていく。


最初は、彼女に腕ごと駒を動かしてもらうだけだった。

仕方がないなぁ、などと言いながら。

少し嬉しそうに、私の駒を、一歩、また一歩と進めていった。


「もうちょっと、私の手助けが必要かな?」

「……まだ、私一人の力では、進められないわ」

「そっか。じゃあ、まだ握っててあげるね」


そう言いながら、手の力は徐々に弛んでいった。

逆行するように、私の腕には、ほんの少しだけの力。



1マス進む。


「プロデューサー、何を唸っているんですか?」

「うーん……いや、先月分の給料、もう少しあったような……」

「音無さんとあずささんが、いっぱい奢ってもらったって喜んでました」

「!! そ、それだ!」


私の言葉に飛びつくように反応したプロデューサーは、そのまま机へ突っ伏した。


「やばい……クレジットの引き落とし大丈夫かこれ……」

「お貸ししましょうか? 私、仕送りのお金とかあまり使ってませんし」

「い、いや! 高校生にお金を借りるのは……大人として……」

「けれど、このままではクレジットが」

「! ティンと来た! 社長に借りよう!」


大人として、あまりにも情けない言葉を聞いた気がする。

1マス進む。



私が駒を進めながらため息をつくと、横から笑い声が聞こえた。


「うわぁ、プロデューサーさん、それはないよ」

「仕事に関しては本当にできる人だし、人柄も素晴らしいのだけれど」

「ちょっと見栄っ張りなんだよね」

「この人が担当で、本当に大丈夫なのかと思う時もあるわ」


プロデューサーは、時々抜けているところがある。

特にお酒が入ると気が大きくなるようで、音無さんはその隙を狙っている節もある。

けれども仕事はきっちりとこなし、その間は決して抜けているところを見せない。

プロなのか、どうなのか……。



1マス進む。


「むふふふ……」

「音無さん、それは何を読んでいるんですか?」

「ピヨッ!? ち、千早ちゃん!?」

「そんなに驚かなくても……ちょっと読ませてください」

「ダメ! こ、これは絶対にダメ!!」


音無さんは、必死の形相で持っている本を死守しようとしている。


「えい」

「ひゃっ! ち、千早ちゃんくすぐっちゃいやあははははは!」

「表紙くらい……」

「あ」


丸一日、絵柄が頭から離れてくれなかった。

1マス進んで1回休み。



初めて当たった1回休みは、なんとも言えない気分だった。


「うわぁ……」

「人の趣味をどうこう言うつもりはないけれど、流石に事務所に持ってくるのは……」

「た、多分、新刊が出て買ってきたばかりだったんじゃないかなぁ……?」

「家に帰るまで我慢できないのかしら……」


どうやらこの事務所、有能な人には駄目な面があるらしい。

多分、こんな生活だからなかなか貰い手が……。

なんて、正面から言ったら寝込んでしまうのだろう。

ああ見えて、凄く繊細な人だから。



1回休み明け、1マス進む。


「あら、これは何かしら」

「あ! それは見ちゃダメ!」

「まさか、律子も何か変なものを……って、律子へのファンレター?」

「うわあああ!」

「そう言えば、昔はアイドルだったって」


私の手から手紙をひったくった律子は、顔を真っ赤にして黙り込んだ。


「昔のファンレターをデスクに飾ってるなんて、可愛い所もあるのね」

「ううううるさいなぁ悪いかぁ!」

「いいえ。とってもいいことだと思う」

「そ、そう真面目に正面から言われるのは、それはそれで気恥ずかしいのよ……」


赤くなりながらも幸せそうに手紙を握る姿は、羨ましかった。

2マス進む。



2マス進むため、私達の手は、いつもより少し長めに触れ合っていた。


「律子さんって乙女チックだよねぇ」

「普段は冗談挟みつつも、ピシッとしているのに」

「でも、この後仕事にならないんだよね」

「ええ。私も手伝うくらいだもの」


律子は照れると、仕事が手につかなくなる。

それも尋常ではなく、まともに業務ができるまで持ち直すのに、二時間はかかる。

けれどそれは、彼女がその事柄に純真に向き合ってる証。

照れるどころか、誇っていいこと。



再び、1マス進む。


「千早ちゃんは、コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」

「どちらかと言えば、コーヒーでしょうか」

「あらあら、それなら私と一緒ねぇ」


私と一緒ではない胸元を揺らしながら、あずささんは喫茶店のドアを開けた。


「……くっ」

「あ、あら? お気に召さなかったかしら?」

「いえ、何でもありません」

「そう? ここ、エスプレッソが美味しいの」

「では、あずささんお勧めのエスプレッソを」

「うふふ。私もそれでお願いしまーす」


お勧めのエスプレッソは、確かに身体に染み渡る美味しさだった。

1マス進む。



駒を進めた後、私を見ながら言った。


「あずささんって包容力あるよねぇ」

「……私には何が足りないって言いたいのかしら」

「そ、そうじゃないよう! 身体的なあれではなくて、こう、精神的な……」

「確かに、それは思うわ」


年上とはいえ、そこまで離れているわけではない。

それでもあずささんは、私達を包み込んだ上で微笑みかけてくれる。

少し別の世界にいるような余裕と空気が溢れ出ている。

時々、慌てん坊な一面を見ると、ちょっと安心する。



1マス進む。


「如月千早、ここが二十郎でございます」

「こ、ここが……?」

「ここならば、あなたの欲求を満たしてくれることでしょう」


久しぶりにラーメンを食べたいと言ったら、四条さんが妙にやる気を出してしまった。


「噂には聞いていましたけれど、凄い空気が漂っていますね」

「さぁ、こちらが二十郎のラーメンになります」

「多っ……?!」

「どうしましたか? 存分に召し上がっていただいてよいのですよ?」

「た、食べないと……注文したものは、全部、食べないと……!」

「足りないのですか? 遠慮することはありません」


何とか完食するも、丸一日体調を崩す。

1マス進んで1回休み。



二度目の1回休みの間、少し疲れた私は、隣の肩に寄りかかった。


「四条さんに合わせてラーメンを食べたら身が持たないよ、千早ちゃん……」

「それはこの件でよく分かったわ」

「いつも不思議然としてるのに、ラーメンが絡むとすっごくテンション上がるよね」

「食べてる最中のはしゃぎっぷりは少し意外だったわ」


四条さんというと、ずっと掴み所のない、秘密主義な人だと思っていた。

けれども、あの姿を見る限り、年相応の心もあるように感じる。

完全な人間、一色に染まり切った人間など、そうはいない。

認識しているよりもずっと、彼女は普通の人なのだろう。



1回休み明け、1マス進む。


「ごめんなー、千早。手伝ってもらっちゃって」

「構わないわ。どうせ暇でしたし」

「その代わりに自分、腕によりをかけて作るからな!」

「そんなに気合を入れなくても……」


ペット用品の買い出し手伝いのお礼に、我那覇さんが夕食を振る舞ってくれることになった。


「何か手伝うことはあるかしら」

「ええと、それならねぇ……っ! ち、千早!」

「どうしたの? 急に慌てて……」

「そ、そこの料理ガードしてぇ!」

「はっ!?」


間一髪、危うくご馳走がブタ太の餌になるところだった。

1マス進む。



駒を握る手に、ぽたりと何かが垂れた。


「……はっ!? ご、ごめん千早ちゃん! あんまり料理が美味しそうで……」

「ブタ太を見てるのかと思ったわ」

「違うようそんな酷くないよう! でも響ちゃん、相変わらず料理上手いなぁ……」

「編み物とかも得意みたいね」


普段の慌てん坊振りからは、想像できない高い技術。

もしかすると家事裁縫全般は、事務所内で一番じゃないだろうか。

活発な中で時折見せる、女性らしさというか少女らしさというか。

そういうものは、ここから来てるのかもしれない。



1マス進む。


「そ、そんな言い方って!」

「私は思ったことを口にしているだけよ」

「でも、それが全部じゃないよ!」

「少なくとも、私はそう思っているわ!」


萩原さんと意見が真っ向からぶつかり合い、そのまま喧嘩別れのように話さなくなってしまう。


「……」

「……」

「……どうぞっ」

「……あ、お茶……?」

「あーあ、間違って一人分、多くお茶を淹れちゃいましたぁ」


手元に置かれる歩み寄りのサインを見ては、私も歩み寄らないわけにはいかない。

1マス進む。



駒から手を放した後、頬をつんつんと突かれた。


「千早ちゃんの意地っ張り」

「萩原さんだっていい勝負よ」

「雪歩、普段は弱気なのに譲らない時はとことん意地張るよね」

「そうね。とっても強情」


そして、どこか私とも似てる。

萩原さんが事務所内で声を荒げるなんて滅多にない。

その数少ない内の結構な割合は、似た者同士の私との衝突だったりする。

あの意地があるからこそ、彼女はずっとこの業界に居続けている。



1マス進む。


「千早さん! 次はこっち!」

「ねぇ美希、そろそろ終わりに……」

「えぇ~っ!? ダメなの!」

「千早さん、滅多にこういうの着てくれないから、今日はテッテー的にミキがドレスアップしてあげる!」

「しなくていいわ、しなくていいから……」


美希には何故か妙に懐かれてしまい、懇願されて私服を買いにくることに。


「ほらほら! こっちのスカート穿いてみて!」

「お願い……そろそろ、私も限界……」

「むーっ! もっと可愛い千早さんをみんなに見せつけるの!」

「あ、あぁ……もう勝手にやって……」


強引な小悪魔の勢いに圧されつつも、こういう服も悪くないのかな、と思った。

1マス進む。



少し強めに、手を握られた。


「うー、美希、ずるいなぁ。私も行きたいよぉ」

「もうごめんよ。誰とも行かないわ」

「そんなぁ……。ね、一緒に行こうよ! 今度はお化粧用品でも買いに!」

「遠慮しておくわ」


美希は、私のクールなところがかっこいいのだという。

この性格はこれまで、人との間に壁を作る役割しか果たしてこなかった。

けれど彼女の、自分の気持ちに素直な性格も、私みたいに敵を作る場面があっただろう。

辛くはなかったのだろうか。



1マス進む。


「あ、亜美……ちょっと待って……」

「千早お姉ちゃんダメダメっしょ! オーディションなんだからアゲアゲでゴー!」

「ま、まだ一時間以上前なのに走らなくても……」

「ヘイヘイ! この程度で息が上がってたらイクサには勝てぬよ、千早お姉ちゃんクン!」


年相応にはしゃぐ亜美に、疲れつつも少し微笑ましさを覚える。


「もう……じゃ、そんな私になんて余裕で勝てるわよね」

「うえぇっ!? ち、千早お姉ちゃんいきなりダッシュは卑怯だよー!」

「いついかなる時も、気を抜いてはダメよ」

「ま、待ってぇー!」

「どうしようかしら?」


いつもはあんなに押してくるのに、押されるのには滅法弱い子。

1マス進む。



私の手を握る力は、大分弱まってきていた。


「亜美って防御力低いよね」

「勢いに乗ってる内は振り回されてしまうけれど、隙をつけば、ね」

「ふっふっふ、そこはやっぱり年の功かな?」

「そんなこと言ったら、音無さんに怒られるわ」


仕返しをした時のふくれっ面は、ついついからかいたくなる表情で。

まぁ、そういうことをすると大体、更に仕返しをされる。

構ってあげるのは、私のためでもあるのだと思う。

あの子とはまた少し、違うタイプだけれど。



1マス進む。


「千早お姉ちゃーん……真美、もっとテレビ出たいよー」

「頑張りましょう、最近は出番も増えてるじゃない」

「でも真美が映るの、本当にちょびっとだけっぽいよー! もうやる気失くすぅ」

「仕方ないわ、私達はまだまだ下積みだもの」


そんな不満を訴える真美だけれど、本当によく我慢していると思う。


「そだよね。亜美も頑張ってるのに、真美が弱音を吐くわけにはいかないよね」

「いいんじゃないかしら」

「え?」

「いいわよ、少しくらい弱音吐いても。私の方がお姉さんだから」

「……千早お姉ちゃん……」


膝の上で俯いている身体を、出来る限り優しく抱きしめた。

1マス進む。



暖かい手のひらが、私の頭を撫でる。


「真美はもう少し、みんなに本音で甘えていいと思うんだよね」

「それは難しいから、私達が甘えさせてあげないと」

「千早ちゃんも頑張ってるよね。いい子いい子」

「……髪、乱れるのだけれど」


そんなことを言いながら、私の顔は少し緩んでいる。

あの時の真美のように。

普通なら毎日友達と遊んでいる年頃の彼女。

はしゃぎたい時、疲れた時くらい、いつも元気をもらっているお礼をしよう。



1マス進む。


「ごほっごほっ……」

「全く、風邪をこじらせるなんて……意識が足りない証拠よ!」

「ごめんなさい……伊織……」

「無駄口叩いてる暇があったらさっさと治しなさいよね」


寝込んでいる私の部屋へ、伊織が風邪薬やドリンクを持って訪れた。


「こっちが薬で、これがウイダーで……」

「……ありがとう」

「べ、別に親切でもなんでもないわよ。さっさと治してくれないと迷惑なの」

「ええ。お見舞いに来てくれたから、すぐに治るわ」

「ば、ばっかじゃないの! 非科学的よ!」


長丁場の収録で疲れているだろうに、休む間もなく真っ先に来てくれた。

2マス進んで3回休み。



長い休みの間、手の甲から温もりがなくなり、少し不安になった。


「伊織、本当はとっても優しい子なんだよね」

「本人はあれで、隠せているつもりらしいけれどね」

「でも、プロデューサーさんには割と辛辣だよね」

「照れ隠し以外のも大分あるわね」


彼女も、人から誤解されやすい一人。

しかも彼女は、アイドルとしての姿も、自ら偽っている。

それでも頑張るのは、ひとえにその信念の賜物。

いつか、自分が目指す栄光を手にする日を夢見て。



長い休みが明けて、再び1マス進む。


「ありがとうございます、弟達の相手をしてくれて」

「いいわよ、私も楽しかったから」

「弟達も千早さんのこと、とーっても気に入ってました!」

「嫌われなくて良かった」


最近家族に何もしてあげられてないと悩む高槻さんの、ちょっとしたお手伝い。


「千早さんって、小さい子をあやすのが上手いですねー」

「そう、かしら」

「まるで本当のお姉さんみたいかなーって」

「高槻さんの?」

「え、えぅ……それも楽しい、かも。えへへ」


あの日々の私みたいにはにかむ表情は、年相応の無邪気さを感じさせた。

1マス進む。



久しぶりに感じる温もりに、懐かしい安心感を覚える。


「私なんかよりよっぽどしっかりしてるなぁ、やよい」

「家計のやりくりまでしているのよ」

「はえー……私にはとっても無理……」

「本当に頑張っているわ、高槻さんは」


もっと遊んでもいいんじゃないかとは思う。

けれど、高槻さんに聞くと、今の生活で十分幸せなのだと言う。

みんなは少し驚くけれど、私には分かる。

それは本当に、幸せな生活なのだ。



1マス進む。


「元気出そうよ」

「大丈夫よ。ありがとう、真」

「いや、全然大丈夫じゃないって。目が死んでるって」


誰よりも自信のあったボーカルオーディションに落ちて、真に慰められる。


「たまたま審査員との相性が悪かっただけだよ」

「違うわ。私には才能も力もないから――」

「……あああもうまどろっこしい!」

「いたぁっ!?」

「こっちなんて何度女の子であることを全否定されたと思ってっ……! くぅっ……」

「ご、ごめんなさい。ほら、真、元気出して?」


いつの間にやら立場が完全に逆転して、愚痴を聞く側に。

1マス進む。



駒を持つ手が、徐々に自分の力で動くようになってきている。


「でもね、やっぱり真はかっこいいよ」

「天は必ずしも、本人が望む才能を与えるわけではないのね」

「勿体ないなぁ。私がイケメンだったらいっぱい女の子侍らすのになぁ」

「あなたじゃ性格的に無理よ」


真が女の子らしいことをできるのは、いつになるのだろう。

もっとも、性格や言動も一因ではあるのだけれど。

本人もそれは理解した上で、お姫様の座を掴みとるために頑張っている。

……そもそも、掴みとる、という発想からして道のりが遠そうなのはさておき。



1マス進む。


「おお、如月君。調子はどうかね?」

「調子ですか。悪くはない、と思います」

「伸び悩んでいるのかね?」

「……ひと月近く前から、歌声が全く変わっていない気がするんです」


そう打ち明けると、社長は真面目な顔で話を聞いてくれた。


「如月君は最初から高い実力があったからね。そろそろ、目に見えた変化は少なくなる時期だろう」

「壁を越えようにも、その壁が分からないんです」

「そうだな……時間もあるし、私が少し見てあげよう」

「え?」

「まぁ任せたまえ、たまには違う視点から見るのも効果があるものだ」


容赦なく指摘をされ、疲れ果てて帰った夜は、久しぶりの充実感に見舞われた。

2マス進む。



私の手を包む温もりは、もう添えられるだけで、殆ど力は籠っていなかった。


「社長、昔は腕利きのプロデューサーだったんだね」

「いつもの姿からは全然想像できなかったわ」

「社長にも、プロデューサーさんみたいに走り回ってた時期があるのかな」

「あったのでしょうね。がむしゃらに走り続けた日々が」


少し世代がずれていて、抜けているところがあって。

それでも、みんながこの事務所に居るのは、間違いなく社長のお陰で。

どうなっても、社長がいれば何とかなるでしょう。

そう思わせてくれる、信頼感があった。



私の生活は、これまでとは大きく変わった。


耐える日々。

待つ日々。

探す日々。

もがく日々。


そんな毎日を送ってきた私にとって、この場所は異質だった。


耐えることも、待つことも、探すことも、もがくことも。

全部、これまでと同じようにある。

変わっていないはず。

けれど、それだけではない。

それだけではないのだ。



「千早ちゃん」


物思いに耽っていると、不意に、私を呼ぶ声が聞こえた。

直後、ふんわりと後ろから抱きすくめられる。


「この場所は、千早ちゃんにとって、良い居場所になれるかな」


胸元に回された手を握りしめる。

ああ、なんて暖かい手なんだろう。

かじかんだ私を、ゆっくりゆっくりと溶かしていく。

背中に押し付けられた身体の温度も、私の芯を解きほぐしていく。


「そうね。なると、いいわね」


「……いいえ。したいわ。私の居場所に」



これまで私の理想は、形になりかける度に打ち砕かれてきた。

今回もまた、同じように消えてしまうのではないか。

そう思うと、身体の震えが止まらない。

両手の震えが止まらない。


さいころを振らなければ良かったんじゃないか、と。

失うならば知らなければ良かったんじゃないか、と。

また、終わってから後悔するんじゃないか、と。


ぐるぐると、無限螺旋が頭の中を回り続ける。


ここは本当に、私が手を伸ばしてもいい場所なの?

懐かしいスレだ
完結期待

一度落としたやつは高確率でまた落とすから期待しない方がいい

待ってたよ

ついにディズニーに行く日になり朝にチェックインしてからディズニーランドに向かった。

2日目はディズニーシーの方に行く事になっている。2日目の夜に凛にプロポーズするつもりだ。

凛と腕を組みながら園内に入る。凛はばれないように変装もしているのだ。

母ちゃんや姉さん達とは勿論別行動になっているので二人きりのデートなのだ。

待ち合わせ場所と時間が決まっているのでそこに行けば良いことになっているのだ。

まず俺と凛はスターツアーズのアトラクションに向かった。凛と待っている間や移動の間に会話をするだけでも嬉しかった。

凛は変装も化粧も完璧にしているのでどうやら周りは気付かないようで安心したのだった。

ディズニーを効率的に乗り物を乗るには皆が昼食を取る時間に人気アトラクションを乗るのが最善なのだ。

そして昼食は13時半以降に取るのがベストなのだ。

次にシューティングギャラリーのアトラクションに向かった。

これは待ち時間は殆ど無いので楽しんで乗る事が出来た。次にウエスタンリバー鉄道のアトラクションに向かいこれも10分掛からずに乗る事が出来た。

この時に12時少し前位になったのでスプラッシュマウンテンの方に向かった。

一番人気のアトラクションなのでこれには凛と乗りたかったので二人で腕を組みながら向かった。

スプラッシュマウンテンの乗り場に着いた時には12時を過ぎていたので結構すいていた。

殆どが昼食に向かったので30分掛からずに乗る事が出来た。

このアトラクションは一時間半近く待つのが当たり前なのが大幅に短縮出来るのだ。

次にプーさんのハニーハントのアトラクションに向かう。このアトラクションも人気のアトラクションなのでこの時に乗った方が良いのだ。

此方も大幅に短縮で乗る事が出来た。

昼食の時間になったので二人で人気のレストランへと向かった。

昼食のピークは過ぎていたのでスムーズに席が取れて二人で昼食を注文してから席についた。注文した食事が来ると二人で食べ始めた。

「はい。あーん💓♥❤」

凛がアーンしてきたので俺が食べると今度は俺が仕返しした。

「はい。あーん💓♥❤」

俺が凛にアーンしたら凛も喜んでアーンして食べた。二人で食べ終わるまで交互に食べさせあったのはいうまでも無い。まわりも余りの甘さに口から砂糖を吐いていた。

昼食が終わってからアリスのティーパーティーとガジェットのゴーコースターにミニーの家の3アトラクションを乗ったら待ち合わせ時間に近くなったので二人で待ち合わせ場所へと向かった。

待ち合わせ場所に到着すると既に母ちゃんと姉さん達がいたのであった。

「八幡…。凛ちゃんも今日は楽しめた?」

「うん。母ちゃん。楽しかったよ。凛とデート出来るだけでも嬉しいよ。」

「機会を作って頂き感謝します。私も楽しかったです。」

俺も凛も母ちゃんに感謝の気持ちを伝えると母ちゃんも姉さん達も笑顔になった。

「八幡。このあと皆で夕食取ったら皆でパレードを見てディズニーリゾートに戻ります。」

刀奈姉さんがこれからの予定を教えてくれた。

母ちゃん達が既にレストランの予約をしていたのでレストランに向かうと皆で会話をしながら食事を普通にした。


夕食が終わると今度は皆でパレードを見に向かった。凛と見るパレードは格別だと思った。

パレードが終わるまでいて終わったらディズニーリゾートに戻った。こうして一日目は終了した。

>>85はHACHIMANとか言うキッショイ原作レイプ野郎か



けれどその疑念を、私は必死に振り払う。


それでも私は進みたいと思った。

今度こそ手放したくないと思った。

今、私の身体を包む温もりを、本当のものにしたいと思った。


「うん。しようよ、千早ちゃん」

「頑張ろうよ、私も一緒にいるから」


私を抱きしめる手に、弱々しく力が増した。

その壊れそうな手を、今度は私が優しく包む。


「ええ」

「きっと」

「今度こそ」



進むんだ。


砕け散る寸前だった勇気を振り絞って。


進むんだ。


不幸せになるために生まれてきたわけじゃないんだと、証明するために。


進むんだ。


手に入れられるものがあるんだと、証明するために。


進むんだ。


この子に、それを証明してあげるために。



1マス進む。

寝坊した美希が収録に遅刻して、みんなで謝った。


1マス進む。

真と二人で、人気深夜番組のレギュラーを貰った。


1マス進む。

旅番組で、四条さんと風情のある小旅行へ行った。


1マス進む。

高槻さんとその妹弟達と、遊園地で遊びまわった。


1マス進む。

真美とのラジオが開始、ネットで妙な人気が出た。


1マス進む。

萩原さんの家へと遊びに行った時、死を覚悟した。



1マス進む。

人に笑われ背中を見たら、亜美に紙を貼られてた。


1マス進む。

昔の歌を歌う律子に遭遇し、つい歌声を録音した。


1マス進む。

社長とライバルの話は、何度聞いても面白かった。


1マス進む。

道案内を買って出たあずささんを、必死に止めた。


1マス進む。

音無さんの手伝いで、得体のしれない本を売った。


1マス進む。

出演したCМの会社が、実は伊織の実家で驚いた。


1マス進む。

我那覇さんの彼氏かと思いきや、お兄さんだった。



少しずつ、私は前に進んでいる。

興味がなかったダンスも、必死に練習するようになった。

人々に向ける笑顔も、段々自然になってきた。


私は今、確かに変わろうとしている。


辛いことも、苦しいこともあった。

心が折れかけたことも、一度や二度ではない。


それでも、私にはみんながいた。

私だけじゃない、みんなも辛いことを経験した。


最初は励ましてもらってばかりだった。

その内、私が励ましてあげることも増えた。



「私もいるよ?」


重ねられた手が、いじけたように手の甲を引っ掻いた。


「分かってるわ」

「本当にー?」

「本当よ」

「ならいいけど」


爪で引っ掻かれた部分を、今度は同じ指が優しく撫でる。

くすぐったくて、つい手を払う。


「ぁ……」


すると彼女は、ちょっと泣きそうな、寂しそうな顔をした。



仕方ないから、今度は私が手を重ねる。


「ち、千早ちゃん、怒った?」

「怒ってないわ」

「……本当に?」

「さっきから、やたらと疑い深いのね」

「そ、そういうわけじゃないけど、さ」


その目には、未だに疑念の色が見える。

だからそれを消せるように、反対の手でその目を塞いだ。


「……えへへ」


そのまま撫でると、今度こそ嬉しそうな声が聞こえた。



彼女は私の言動一つで、色とりどりな喜怒哀楽を見せる。


私が歌いたいと言うと、聴きたい聴きたいと喜ぶ。

私がもうやめようかなと呟くと、絶対に駄目だと怒る。

私が悲しみを堪えていると、一緒に涙を溜めて哀しむ。

私が笑える話をすると、一緒に顔を綻ばせて楽しむ。



これまで灰色だった世界が、少しずつ色づいていく。


彼女の表情や言葉の一つ一つが、極彩色よりも鮮やかに光る。


薄暗くて識別できなかった空間を、まばゆい光で照らしていく。



何故、私の手を引っ張るのか聞いた。


「ひ・み・つ」


と、少し悪戯っぽく言われた。

この話題になると、いつもはぐらかされる。

“隠し事があること”を隠すのは下手なのに、絶対に口は割らない。


ずるい。


「千早ちゃんの拗ねた表情、とっても可愛いよ」

「馬鹿」


手を引いてもらう必要は、もうじきなくなる。

そう思えた。



1マス進む。


「千早、話がある」


突然プロデューサーに呼び出された。

少し、覚悟をした。


「深刻な話ですか?」

「いや、別にクビとか倒産とかそういう話じゃないからな」

「そうですか」


内心、ほっと胸を撫で下ろした。

みんなメディアへの露出が増えてきて、これからという矢先。

ここで私一人消えるというのは、考えるだけでも怖かった。



「それで、なんでしょうか?」

「ああ。実は千早に、メジャーデビューの話が来てる」


メジャー、デビュー?


「あの、えっと、それは、どういう」

「ごめんごめん。いきなりで驚いたか」

「……」


言葉を失うくらいには驚いた。

確かにこの事務所から、もう何人かはメジャーデビューを果たしている。

悪くはない結果が続いていることから、そろそろ次が来てもおかしくはなかった。



「でも……私が、ですか?」

「そうだ、作曲者の方からのご指名でな。千早も名前はご存じだろう?」


デスクの引き出しから、プロデューサーが少し厚めの封筒を取り出す。

裏面には差出人名として、著名な作曲家の名前が入っていた。

手渡された封筒の中身を覗くと、楽譜とCD-ROMが収められている。


「その曲は永年温めていたけど、琴線に触れる提供相手がいなかったそうでね」

「そんな折、先月の番組で披露したカバー曲を聴いて、千早しかいない!と思い立った、とのことだ」

「私なんかが、そんな……」


私が好きな曲も含め、多くの名曲を生み出してきた名作曲家。

そんな方が、永年温めてきた曲。


私にはとても、荷が重い。


「プロデューサー、私にはとても……」

「ああ。プレッシャーがかかるのは分かる。だから、無理にとは言わない」


動揺する私を見て、プロデューサーは頷いた。


「少し拝見させてもらったが、間違いなく話題を席巻する名曲だ」

「もし失敗すれば、色んな意味で大きな損失を生むことになる」


誰にも渡さず、守り続けてきた我が子。

もし私が歌い上げきれなければ、その子を殺すことになる。

誰からも待望され、多くの感動を生み出すであろう子。

その子を手にかけてしまえば、私に未来はない。


「千早にはこの曲を御しきる力があると思ってる」

「でも、曲に気圧されたままでは、力は出し切れない」


「……少し、考えさせてください」



嬉しかった。

けれど、怖かった。

これは、悪い流れだ。

とびっきりいいことがあった後、私はそれをめちゃくちゃにする。

それがこれまでの、いつもの嫌な流れだ。


未来が見える。

大御所の方の歌を、無様に歌う私。

天からの授かりものを、無残にも殺す私。


一体誰の皮肉だろうか。

その曲は、幸福の象徴の名を冠していた。



「千早ちゃん、どうして悩むの?」

「私はまた失敗するわ」


左右のイヤホンを、それぞれ二人で分け合う。

私の左頬と彼女の右頬が、かすかに触れて体温が伝わる。


「いい曲だね」

「ええ、本当に……いい曲」


耳を流れるメロディーを聴きながら、歌詞に目を通す。

目を瞑ると、幼い頃の在りし日々が脳裏を過ぎる。

心に突き刺さるように胸が痛んだ。

でも不思議と、耳を塞ぐ気にはならなかった。



「私、千早ちゃんに歌って欲しいなあ」

「どうして?」

「千早ちゃんがこの歌を歌えば、きっとみんなが認めてくれるもん。……ちょっと、複雑だけど」

「複雑?」

「う、ううん! なんでもないよ!」


彼女は慌てて、取り繕うように笑った。

その表情に、いつもの快活さは見えない。


「ねぇ、何を隠してるの?」

「うぇっ!? か、隠してななななんてないよ?!」

「……そう」


隠し事はばればれなのに。

これ以上聞いても無駄だろう。

こうなった時の彼女は、本当に口が堅い。



「ね、千早ちゃん」


腕を掴まれ、引っ張られた。

その力は、とても弱々しい。

座り込んだ私の身体は、なかなか動こうとしなかった。


「指切り、したよね。前に進むことをやめないで、って」

「でも……」

「だから、お願い」


引っ張られて少し、腰が浮いた。


「歌って」


今は亡き弟の姿が、僅かに重なった。



1マス進む。


「やります、プロデューサー」


私の言葉を聞くと、プロデューサーはデスクから勢いよく立ち上がった。


「ほ、本当か!?」

「はい」

「大丈夫か?」

「覚悟は決めてきました」


プロデューサーはじっと私の目を見た後、安堵の表情を浮かべた。


「そうか、その調子なら大丈夫そうだな。嬉しいよ」

「嬉しい?」

「はは、俺は千早のファンだからな。名曲が生まれるんだ。そりゃ嬉しいさ」


名曲になるかどうかは、これからの私にかかっている。

気を引き締めなければならない。



1マス進む。


まるで、私のことを歌っているかのようだった。


過去に囚われず、未来を目指そうとする歌。

それでも、過去を忘れることは出来ない。


過去を意識し、過去を忘れようともがく。

忘れたい。

忘れたい。

脳裏を過ぎるたびに、克明に思い出される。

忘れられない。

負の連鎖。


でも、どこかで切り捨てなければならない。

飛び立たなければならない。


私に課された課題。



「もう、少しだね」


弱々しい声が、私の背中を押す。


「分かってる。あと少し。あと、少しよ」


この声は、彼女へ向けられたものか。

それとも、自分に言い聞かせる為か。


一瞬、幼い日の幸せを想う。

けれど、決別しなければならない。

この歌のように。


私は、あなたを忘れない。

でも、きのうにはかえれないのだから。



1マス進む。


「お疲れ様でした」

「千早……」


レコーディングを終えた時、プロデューサーは僅かに涙ぐんでいた。


「プロデューサー、どうしました?」

「いや……なんだろう」


涙を拭うプロデューサーの手は、小刻みに震えていた。


「千早の歌が泣いてたからな。伝染ったみたいだ」

「伝染っただなんて。泣いてるの、プロデューサーだけじゃないですか」

「お前、気付いてないのか?」

「え?」


プロデューサーはポケットからハンカチを取り出した。

それを差し出しながら、私の顔を指差す。


「涙、出てるぞ」

「え……」


右手でそっと目元を撫でる。

指先には、雫を拭き取った跡が残されていた。

視界が少し滲んだ。


「プロデューサー」

「ん?」

「私、前に進めたでしょうか」

「……そうだな。千早にとっては大きな一歩だよ、これは」


プロデューサーはそう言い残し、私の肩を叩いてスタジオを出て行った。

その途中、他のスタッフにも声をかけていく。

声をかけられた人達は頷くと、片付けを中断して出ていった。


すぐに、スタジオには私一人が残された。


「っ……!」


骨組みを抜かれたように、私の身体が崩れ落ちる。

もう我慢をする必要はなかった。

そのつもりはなかったが、気付かない内に我慢をしていた。


「……っうぁ……」


声が漏れる。

止めるつもりもない。


「あぁ……うっく……あ、あぁ……」


止まらない。

忘れられない想いが目から溢れ、流れ落ちていく。


「さよう、なら」


私の、大切な。


大切な。



鏡を見る。

泣き腫らした目が真っ赤になっていた。


「千早ちゃん、大丈夫?」

「ええ、大丈夫」


心配そうに見つめる彼女に、私はにっこりと笑って返した。


「本当に? 無理してるように見えるよ」

「大丈夫だから」


それでも不安そうな表情をする彼女を、正面から静かに抱き締めた。



「わっ」

「でも少し、このままでいてもいいかしら。なんだか安心できるの」

「そっか。うん、いいよ。千早ちゃんがそうしていたいなら」


細い手が私の背中にも回される。

私はこの子に、どれだけ救われたことだろう。

触れ合う温度に混ざり、微かな鼓動が伝わる。

とくん、とくん、と。

抱き締めたら心臓が潰れてしまわないか、心配になるほどのか細さ。


「千早ちゃん」

「なに?」

「……ううん。やっぱりなんでもない、よ」


また、その表情をする。

何かを言いかけてから躊躇う表情。

それをなかったことにするかのように、私を抱く力が強くなった。



1マス進む。


私が吹き込んだ命は、世間に喝采と共に受け入れられた。

幸福の象徴の名を冠する、魂の放浪の歌。


受け入れられたことで、私は安堵した。

自分を重ね、想いを籠めた歌。

過去との決別、未来への歩み。

これを否定されたら、私自身も否定されたことと同じだ。


今、ようやく。

私の想いは、人々から認められたのだ。


私は自分が歩む道に、ようやく自信を持つことができるのだ。



1マス進む。


作曲家の方が、わざわざ事務所へお越しになった。

対面して最初に、握手を求められた。

我が子の産声を上げさせてくれてありがとう、と。


私は新しい命を育んだ。

それと同時に、一つの想いを殺した。

向けられた言葉に喜ぶと同時に、締め付けられるような気分だった。


作曲家の方は、また如月千早のために歌を書きたい、と。

そう言い残し、お帰りになった。


「やったじゃないか、千早!」

「はい。何とか責務を全うできて、肩の荷が下りました」


プロデューサーは上機嫌だ。

事務所の懐が良くなるとか、そういった打算ではない。

心から私のことを喜んでくれているのだろう。


けれど、その気持ちを素直に受け取ることができない。

どうしてそんな風に思うの、私は。


別れは告げたのだ。


もう、告げたのだ。



1マス進む。


事務所のみんなも、自分のことのように喜んでくれた。


「千早さんはやっぱりすごいの! ひょーげんりょく?っていうの?」

「ホントだよね。ボク、思わずウルッときちゃったよ」

「歌うからにはこのくらい当然よね。ま、ちょっとは良かったけど……」

「弟達が子守唄に歌ってーって言うんです。私には難しくて歌えないですけど」

「これは負けてらんないっしょ! 亜美達にも新曲をじゃんじゃん歌わせてよ!」

「うーん、でも真美達はもちっと育成されんといけんですなー」

「歌ってあんなに感情を籠めることができるんだね。驚いちゃった」

「そうよ、雪歩。とはいえ、あそこまでとは……想像以上だったわ」

「か、カッコイイ系なら自分だって千早みたいにさぁ! ……ごめん、見栄張った」

「大言はいけませんよ、響。しかし、月までも届きそうな見事な歌声でした」

「千早ちゃんの歌、まるで語りかけてくるようだったわ。少し、悲しげで……」


感嘆の言葉をかけられたり、もみくちゃにされたり。

心の整理がつかない中でも、みんなの反応は素直に嬉しかった。


「如月君、よくやってくれた」

「本当よ。あんなに難しい状況で……すごいわ」


社長と音無さんも、私のことを優しく褒めてくれた。

大人から褒められるのは嬉しいことなのだということを、久しぶりに思い出した。


昔は、いっぱい褒めてもらった。

その度に、桜が満開になるように嬉しかった。


――千早。

――お姉ちゃん。


私を呼ぶ声を思い出す。




……駄目だ。

思い出してはいけない。

後ろに下がってはいけない。

必死に頭の中を掻き回した。




前に進め。

自分に必死に言い聞かせる。

己の意思で前に進め。

逃げられない様、自身を信念に縛り付ける。


「痛そうだよ、千早ちゃん」

「これは、必要な痛みだから。耐えなければならない痛みよ」

「そっか……」


口振りとは裏腹に、彼女の顔は納得していなかった。



「もう引っ張ってあげるほどの力はないけど」

「これくらいなら、してあげられるよ」


ずきずきと胸の奥底が痛む。

そこに暖かい手が当てられた。


「痛く、なくなった?」

「少し楽になったわ」


そう答えると、彼女は満足そうな笑顔を浮かべた。

額には、じんわりと汗が滲んでいる。


彼女は最近、辛そうな表情をすることが多い。

私に負けず劣らず、痛みを堪えるような表情をしている。


この子は、どうしてここまで、私のことを。



1マス進む。


私の歌がきっかけになったのか、事務所はにわかに賑わい始めた。

これまでも賑やかではあったものの、今は少し趣が違う。


まず、仕事が入るようになった。

最初は一躍有名になった私が中心。

次第に私の周囲もクローズアップされることで、他の子達も目に留まるようになってきた。


元々みんな、活躍できる力は十二分にある。

その声やキャラクターが知れていくにつれ、自然と仕事は増えていった。


ステージイベント。

テレビの司会。

映画のキャスト。

ラジオのパーソナリティ。

ゲームの声優。


話題性に満ち溢れた私達の事務所は、瞬く間に活躍するフィールドを広げていった。

主役級の仕事を貰うことも多くなった。

大規模なプロダクションライブや、私達全員で持つ冠番組の企画も持ちあがり始めた。


私達が売れれば売れるほど。

社長は事務所に居ることが少なくなった。

音無さんは電話応対が増えた。

プロデューサーと律子は中でも外でも大忙しになった。

みんなと会う機会は減っていった。


それでも時々顔を合わせて話すと、誰もが本当に活き活きとしていた。

その光景を見て、ようやく報われた気がした。



ああ、私はやりました。


やっと、みんなに貢献することができました。


良き風を、大切な人達に届けることができました。


私の居場所を、やっと掴み取ることができました。


極彩色で彩られた世界に、私の色も加えていきましょう。



色とりどりの中、一か所だけ灰色だったキャンバス。


みんなの色の中に、私の色が灯っていく。



この幸せなキャンバスの中へ、私も飛び込もう。


眺めて満足するだけじゃない。


自分の足で、駆け出そう。



私はじっと、すごろくを眺めていた。

随分とたくさんのマス目を歩いてきたものだ。


「もうこんなに歩いてたんだね」

「そうね。手を引いてもらってばかりだったから、気付かなかったわ」

「えー、千早ちゃんはまるで私のせいみたいに言う」

「でも、そうじゃないかしら?」

「ずるいよー!」


ぽかぽかと背中を叩かれる。

その微笑ましさに、つい笑ってしまう。

それを見たのか、ぽかぽかと叩く回数が更に増える。

叩かれれば叩かれるほど、口から洩れる笑い声は大きくなった。



「……あら?」


叩かれて足が動いた拍子に、何か硬いものを踏んだ。

足をどけてみると、小さな立方体が一つあった。


「これ……」


それはよく見覚えのある、点の刻まれた立体。


さいころ。

運命を決める、四角い宣告者。


久しぶりに目にしたそれは、まるで忘れ去られた史跡のように長い年月を感じさせた。


ずきん。


胸の奥が、痛む。



「千早、ちゃ……」


心配そうな目を向けられる。


「……」


何も言わずに、私はさいころを拾い上げる。

石のような手触り。

暖かい手に握られた反対の手とは対照的に、冷たい感触が伝わってくる。


「大丈夫」


大丈夫よ。

頭の中で反復する。

もう過去には囚われない。



「そうよ。私はもう報われた」


さいころから目を離さない。


「誰もが認めてくれた。前へ進ませてくれた」


冷たいキューブを強く握りしめる。


「ここからは、自分一人の力で」


後ろから誰かが、必死に私の名前を叫ぶ声が聞こえた、


「また昔みたいに、自分の力で」


気がした。


「私は、幸せを掴み取るの」






手のひらに載せたさいころを、宙へ放った。






放物線を描きながら飛んで行く。


これは、零れ落ちたものでも、すっぽ抜けたものでもない。

間違いなく、私が自分の意志で放ったもの。


私自身によって決められる運命。

これまで私が逃げ続けていたもの。



さいころが地面に落ちる。

かつん、と音を立てて跳ねた。

もう一度地面にぶつかると、そのままころころと転がった。


転がっていたのは、ほんの一瞬のはず。

その一瞬が、私には異様なほど長く感じられた。






ぴしり、と、何かにひびが入る音がした。






『6』


さいころが数字を示す。

駒を摘まむ私の手には、もう誰の手も添えられていない。

私だけの力で、駒を進める。



「ひとつ」


駒を動かしながら、マス目を数える。


「ふたつ」


私が止まるかもしれなかったマス。


「みっつ」


嬉しいこと、大変なこと、悲しいこと。


「よっつ」


それらはもう、私には関係のないマス。


「いつつ」


そして、私が自分の手で、導いた場所は。


「……っ」


駒を置こうとした手が、止まった。



『ゴシップ誌に家族のことを書かれる』

『3マス戻って2回休み』


良いことのあとには、悪いことが待っている。

その事実を思い出した瞬間、視界が一気に暗くなった。


携帯の充電が切れていなければ、もう少しマシだったかもしれない。


コンビニで何気なく立ち寄った雑誌コーナー。

平積みにされた雑誌の表紙に、信じられない言葉を見つけた。


「美しき歌姫の、醜い家庭事情――」


私はひったくる様に雑誌を手に取り、その中を見た。

別居中の両親について。

言葉すら交わさない、冷え切った家庭環境。

そして、そのきっかけとなった――。


「――ッ!」


雑誌を慌てて置き、口元を押さえる。

猛烈な吐き気に襲われた。


急いで店を飛び出し、部屋へ逃げ帰る。

玄関へ飛び込むと同時に、胃の中のものを全て吐き出した。


「ぅ……」


胃が空になってもなお吐き出そうと、身体が消化器官を圧迫する。

最悪の状態でもなんとか意識を保ち、汚れてしまった玄関先を片付ける。


放心状態で、充電中の形態の電源を入れる。

何件もの着信とメール受信。

全てプロデューサーからだった。


『事務所へ来てくれ』


要件はもう分かっていた。


「千早……」


真っ青な顔をしたプロデューサー。

目の前のデスクには、私がコンビニで見たものと同じ雑誌。


「その表情……もう、これを見たのか」

「はい。朝、コンビニで」


努めて平静を装ったつもりだったけれど。

プロデューサーの態度からすると、顔に出てしまっていたらしい。


「私は、大丈夫です。いずれ、こういう日は来ると思っていましたから」


分かっていた。

こうなるであろうことは。


「それよりプロデューサー。この記事で、事務所は――」


そう口にした時、プロデューサーに両肩を勢いよく掴まれた。

少し驚いてプロデューサーの顔を見ると、泣き顔と怒り顔が入り混じった表情だった。


「それよりじゃない!」


何故怒鳴られたのか分からず、私は困惑した。


「今、一番心配なのは千早のことだ! 事務所のことなんて後回しだ!」


ああ、この人は私のことを心配しているのだ。


「私のことこそ、後回しで大丈夫です。事務所に影響が出ては、他のみんなが……」

「大丈夫なものか! 俺が思いっきり掴んでも、震えが止まらないほどなのに!」


言われて初めて気づいた。

私の身体は、まるで極寒の中に裸で放り出されたようにがくがくと震えていた。


なんともないと自分に言い聞かせ、何とかここまで保ってきた。

けれど、震え続けている自分の現実を突き付けられ、徐々に余裕がなくなっていく。

恐怖と絶望を意識すればするほど、私は追い詰められ、逃げられなくなっていく。


「こんな状態で、事務所を気遣っている余裕が――」

「……じゃあ」

「……?」

「じゃあ、どうしろと言うんですか!」

「千早っ!?」


気持ちのままに、私は吠えた。

そうして自分を正当化しなければ、私は潰れてしまう。


「じゃあ、どうすればいいんですか!?」

「誰かに泣きつけば、この記事はなかったことになるんですか?!」

「記事に書かれているのは全て事実です! 嘘も誇張も何もない!」

「私を心配してもらったところで、何か変わるんですか!?」

「それより大切なのは、事務所としてどう動くかです!」

「違いますか!!」


「それは……」


私が捲し立てると、プロデューサーは押し黙った。


プロデューサーの優しさは痛いほど伝わってくる。

けれど、これは私自身が招いた運命だ。

事務所に迷惑をかけるわけにはいかない。

私は前に進み続けなければいけない。


立ち止まることは、許されない。



「千早、ちゃん……」


私を安心させようとしてか、弱々しい手が重ねられた。


「大丈夫――」

「うるさいっ!!」

「きゃっ!?」


その優しさを、私は感情のままに払いのけた。


「千早ちゃん……無理しちゃ、ダメだよ……」

「もう黙って! 放っておいて!!」

「っ……。うん……ごめん、ね」


私は完全に余裕を失っていた。

恐れと焦りが身体を支配していく。


「振らなきゃ……さいころを、振らなきゃ……」


強迫観念に襲われ、またキューブを握りしめる。



さいころを振る。


『1』


駒を進める。


『トーク番組に出演する』


まだ軽微とはいえ、事務所や他のみんなへの影響は出てきていた。

勿論、これだけで干されるということはない。

でも、週刊誌のターゲット決めや、世論の風潮。

それらは、このような綻びから徐々に変わっていく。

そうしたダメージを最小限に抑えるためにも、私の健在をアピールしなければならなかった。


容赦のない言葉を浴びせることで有名な番組だ。

今のタイミングなら、あの週刊誌のことについて言われるだろう。

正直言って、気分は最悪になるに違いない。

でもここでさらりと受け流せれば、ダメージはプラスに転換される。

ゴシップ記事がダメージたる所以は、突かれた時に痛がるからなのだ。


視聴率も高く、話題性もあるこの番組。

ここで払拭することができれば、これ以上引き摺らずに済むだろう。

そう考えての、私自身の判断だった。


「本当に出るのか? 今ならまだ……」

「くどいですよ、プロデューサー」

「……そうか。千早が、そこまで言うなら……」


きっと、内心では全く納得していないのだろう。

けれど、一度こうなった私が折れないことも分かっている。


あんな記事を出してしまっておいて、その上こんなに心配までかけて。

私はつくづく最低の人間だ。

だからせめて、自分の尻拭いくらい自分でしなければならない。


これに打ち勝つことが、私の課題の総仕上げだ。



さいころを振ろうと握りしめた途端、再び胃から何かが込み上げてくる。

熱く、酸味を帯びた嫌悪の塊。


いやだ。

いやだ、いやだ、いやだ!


身体が拒絶する。

本能が拒絶する。

私が拒絶する。


振りたくない。

この結果を見たくない。


克服したはずだ。

私は、報われたはずなんだ。

何度も何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も。

繰り返し繰り返し、大丈夫だと口にする。



「――」


もう誰かの声は耳に入らない。

周りの環境音に同化して、雑音のように音だけが認識される。


視界も定まらない。

感覚も狂っている。

冷たい、氷のような何かが私の右手を掴む。



「やめて!!」


ヒステリックな叫び声を上げ、掴んできた手を振り払う。

そうだ、このまま勢いに任せよう。


私は、さいころを振った。



『2』


2マス進めなければならない。


1……。

2……。





『傷を、深く深く、抉られる』


『5マス戻って10回休み』






私はまだ、過去を切り捨てられていなかった。



「ッ……」


決壊寸前だった。


司会者から浴びせられる、容赦のない質問。

両親の仲違いの原因。

一人暮らしを始めた理由。

事故を起こした運転手とのその後。


掘り返されるたびに、その場で胃の内容物を戻しそうになる。

これまで培ってきた作り笑顔を、必死に盾にする。


この1時間を何とかやりきれれば。

耐え切れさえすれば、また帰れる。

過去を乗り越え、あの日々に帰れる。


番組も終盤に近付いてきた。

プロデューサーはカメラの横から、唇を噛み締めながらこちらを見ている。


ごめんなさい、プロデューサー。

ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。

でも、あと少しです。

あと、少し、ですから。


その少しが、気の緩みに繋がったのだろうか。


ずっと張りつめていた私の神経が、ふっと弛んだ。

そしてまさにその瞬間に突き付けられた質問。

ある雑誌の表紙を指差しての一言。

明日発売する雑誌を事前に入手したのだという。


それを見た、聞いた、私は。




『弟を見殺しにした』



『本当ですか』




視界が歪む。


歪んでいてなお、捲れ上がる様に痛いくらい目を見開く。


脳内を巡る信号が何倍にも増幅され、限界を超える。


抑えることも叶わず、口が大きく開く。



「ちはっ――」



映り込むのも無視して、プロデューサーがこちらへ駆けてくる。

でも、到底間に合うはずはなかった。



「あ……」


口を押えようとしていた手。


「ああ……!」


絶望の光景から逃げるように、反射的に目を覆った。


「あ……あああ!」


私の感情を妨げる壁はない。


数年前に置いてきたはずの幼い感情が、ただただ発露する。



「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」



私はその醜態を、カメラを通して数多の人々へと晒した。





幸せな日々よ、さようなら。



私はまた、スタートに戻る。




酷いものだった。

私はパニックを起こし、泣き叫び、暴れた。

途中でカメラは切られたものの、これは生放送番組。

それまでの映像は家庭へ届き、ネットの海へとばら撒かれた。


プロデューサーに抱き抱えられてすぐ、私は倒れた。

パニック障害のような症状。

すぐに救急車で病院に運ばれた。

長々と醜態を晒さずに倒れられたのは、せめてもの救いだった。


「ごめんな、千早。許してくれ。止められなかった俺を、許してくれ……」


救急車の中で、プロデューサーはみっともなく泣いていた。

泣きながら、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。


どうして、プロデューサーが謝るんですか。

私が、私が悪いのに。

呪われた災厄の源である私が、悪いのに。


意識が朦朧とする中で、うわ言のように繰り返した。


ごめんなさい。


ごめんなさい。


ごめん、なさい…………。


――。



私はすごろくの前で立ち尽くした。

倒れた駒が、私のことを見上げている。


もう涙すら出ない。

私はやはり、最低の人種だった。

絶望に叩き落とされるなら、自分一人で勝手に落ちればいいものを。

みんなを破滅の巻き添えにした。

最低だ。

最悪だ。


「そんな、自分のことを最低だなんて、言っちゃダメだよ」


声が聞こえた。

凄く久しぶりな気がする。



「どうして? 事実なのに」

「千早ちゃんは、最低なんかじゃ……最悪なんかじゃ、ないよ……」


震えた涙声が後ろから聞こえる。

私はそちらに視線を向けずに吐き捨てた。


「最低よ。最悪よ」

「でも、千早ちゃんのお陰で出来た事だっていっぱいあるよ!」

「例えば?」

「お仕事減ったって言うけど、千早ちゃんがいなかったら減るようなお仕事もなかったんだよ!」


どうしてか、必死に私に追いすがる様に言葉を繰り返す。

そんな言葉を聞くたびに、私の神経が逆立っていく。



「みんな、才能のある人達よ。私が居なくたって、いつかはトップアイドルを目指して羽ばたいていたわ」

「むしろ私のせいで、地が固まる前に仕事が来るようになってしまった」

「その上で、私が招いた今回の出来事」

「一方的に仕事を与えられ、そして一方的にその芽を摘まれたのよ、彼女達は」

「誰もが、あの煌びやかな舞台で主役を演じる資格があった」

「才能があった。環境に恵まれていた。運もあった」

「私と出会ってしまった、ということだけを除いて」

「もう、彼女達は星のように輝くことは出来ない」

「もう、私のせいで泥にまみれてしまった」


「ねぇ、それでもあなたは言うの?」


「私は最低じゃないって」


「私は最悪じゃないって」




「言うよ!」


たった今まで涙声だったのに、この言葉だけははっきりと口にした。

正確には、今も涙声であることに変わりはない。

ずっと弱々しかった声に、ぴしっと芯が通った。

どうしてか分からないけれど、命を削る様に絞り出した強さがあった。


「千早ちゃんは、最低なんかじゃない」

「千早ちゃんは、最悪なんかじゃない」

「私、知ってるよ!」


怖い。

彼女から向けられる言葉が、私を否定するようで。


「何よ……あなたが、私の何を知っているの!」

「いきなり出てきて、知った風な顔をして!」


私は叫んだ。

私が私であるための、最後の砦を守るために。



涙を目にいっぱいに溜めて、彼女も叫ぼうとした。


「だって……だって!」


きっと、万感の思いが籠った奔流。


「千早ちゃんは……千早ちゃんは、私の――」



けれど、私がその続きを遮った。

怖くなった。

彼女が何か言い掛けた時、私の身体は反射的に動いた。


「ッ千早ちゃ……」


その動きに気付いた彼女は目を見開き、咄嗟に身構えた。

私は怒りに身を任せ、そのまま彼女を突き飛ばした。


「きゃあっ!」


信じられないほど軽い身体が、衝撃で後ろへ飛ぶ。

勢いよく倒れ込んだ彼女は、しばらく起きることができなかった。



彼女が痛みに呻いている間に、私はドアに手をかける。


「!! ま、待って、千早ちゃん!」


地面に強く打ちつけた半身を押さえながら、彼女は慌てた様子で言った。

その言葉に振り向くこともなく、私はドアを開け、部屋を出る。


「待って! 待ってよぉ!」


暗い哀しみの色をした瞳から、涙が溢れて頬を伝う。

私も、彼女も。


「行かないで、行かないでよ!」


何とか起き上がった彼女が、よろめきながらドアへ駆け寄ってくる音がする。


「……っ」


私は待たずに、ドアを閉めた。



がちゃり、と拒絶の音。

鍵を掛け、いつか彼女に出会った時のように、その場にへたり込んだ。

後ろのドアを何度も何度も叩く音が響く。


「開けて! 開けてよぉ! 千早ちゃん、千早ちゃん!!」


あの弱々しい身体で体当たりしているであろう音も聞こえる。

ドアはびくともしない。

それでも形振り構わず、彼女は叩きながら泣き続けた。



「開けてよ! 千早ちゃん! お願い、お願いだから!」


痩せ細った身体から絞り出された声は、突き刺すように私の心へ届く。

それでも、ドアを開かせるまでには至らない。

私の諦観は、それほどまでに達していた。


「もう、私は疲れたのよ……もう、何もしたくない……」

「イヤだぁ……そんなの、イヤだよぉ!」


ドアを叩く音が弱まっていく。

音は弱まっても、叩くことは決してやめようとしない。

私を呼ぶ声に、苦痛の声が混ざり始める。

それでも痛みを堪えながら、彼女は叩き続けていた。



どうして。

どうして、そんなに私に固執するの。


「もう放っておいて!」


もう私は疲れた。

もう私は諦めた。

もう私は、何もしたくない。

だから、放っておいてください。


「私のことは、あなたには関係ないじゃない!」

「放っておいて! もう二度と私に構わないで!」


だからもう、私のために、そんなに傷つかないでください。

これ以上、私の罪を増やさないでください。






「嫌だよぉ!!!」






一際大きな叫び声が聞こえ、ドアを叩く音が止んだ。


「……だって、千早ちゃん……指切り、したもん……」


呟く声に、小さく嗚咽が混ざる。


「絶対に、前に進むことをやめないで……ってぇ……」


この少女と初めて会った時を思い出した。

確か今みたいに、深く深く絶望の底に座り込んでいた時だった。



私達の間に、久しぶりの静寂が訪れた。

そしてぽつりと、彼女が呟いた。


「私、アイドルになるのが夢だったんだ」


今にも消え入りそうなかすれ声で。


「小さい頃ね、近所の公園で歌ってるお姉さんがいてね」

「私も歌ったら、みんなに誉めてもらえたの」

「みんな楽しそうで、私も楽しくて」

「だから私、もっともっと、たくさんの人を幸せにして、楽しませてあげたいって思ったの」

「それで、将来の夢がアイドル。安直だよね、えへへ」


涙声を堪えながらの、精一杯の強がりが聞こえた。



「でも、私には才能も力もなかった」

「小学校卒業する頃には、半ば諦めてたんだよね」

「私なんかには、アイドルなんて絶対に無理だ、って」

「ほら、千早ちゃんも知ってると思うけど、私って音痴だから」


そう言うと、どこかで聴いた童謡をワンフレーズ歌った。

音痴、というほどではないけれど、お世辞にも上手とは言えない歌声。


「やだよねぇ。大人に近づくと、なんか現実的になっちゃって」

「……そんなこと考えてたんだけどね。ある日、気持ちが変わる出来事があったの」


「合唱コンクールに出たんだ」


その一言に、私の心が、僅かに揺さぶられた。



「私達の順番は後半だったから、前半は他の学校の歌を聴いてたんだけど」

「ある学校にね、とぉーっても歌が上手い女の子がいたの」

「20人くらいいたのにね、その子の声はすっごくよく聴こえるんだよ」

「すごいよねぇ。他の子も頑張ってたんだけど」

「……合唱としてはあまり良くないのかな? あはは……」

「でね、私、その子の歌しか聴こえなくなっちゃって」

「終わってみんなが拍手してる時……私ね、泣いてたんだ」

「もうすごい勢いで涙が止まらなくて……」

「なんとか声は堪えてたんだけど、先生に心配されちゃった」



「その子の歌がね、とっても悲しそうだったの」

「寂しいのを、泣くのを必死に堪えながら歌ってるみたいで」

「もらい泣き……しちゃった」


ドアの向こうから、鼻をすする音がした。

少しして、また無理をして明るく振る舞う声が聞こえた。


「その時、思ったんだ」

「ああ、歌ってすごい!って」

「私もこんな風に、人の心を動かすような歌をたくさんの人に届けたい!って」


明るく振る舞いつつも、声は徐々に力を失っていく。


「やっぱり私、アイドルになりたい、って」


ドア越しからでも、涙まみれの笑顔が見えた気がした。



「だからね、千早ちゃん。もう一回、私からのお願い」

「前に進むことを、やめないで」


ドアの向こうから届いた願いは、先ほどよりも深く、私の心に刺さった。


「私ね、千早ちゃんのお陰で生まれ変われたんだよ」

「自分自身の意味を、心からの願いを、やっと見つけられたんだよ」

「千早ちゃんが諦めちゃったら……自分の力を信じられなくなっちゃったら……」

「私の夢も、あの時の感動も、希望も……全部、否定されちゃう」

「私が考えてきたことが、やってきたことが、無駄になっちゃう」

「私には、何も残らなくなっちゃう」

「私が、生きた証も……なくなっちゃう……」


きっと、必死に堪えていた涙がまた溢れてきたのだろう。


「わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!」


その後にも何か言おうとしていたけれど、言葉になっていなかった。



「そろそろ私、限界なんだ」


呼吸を整えながら、彼女は次の言葉を必死に紡いだ。


「もう、千早ちゃんと一緒にいられない」

「だから、お別れの前に、もう一つだけお願い」


突然向けられた言葉に、一瞬思考が止まった。

限界?

お別れ?

何を言っているの、この子は。


「今度新曲を出す時は、明るい歌を歌ってほしいな」


声が震えている。

何かへの恐怖を必死に打ち消そうとしているけれど、つい漏れ出してしまっている。

そんな震え。



「千早ちゃんの歌声なら、たくさんの人に幸せな気持ちを届けられるから」

「それに、千早ちゃん自身にも、歌いながら楽しい気持ちになってもらいたいし」

「……だから、デビュー曲の時は少し複雑だったんだけど……」

「あっ、ううん、あの曲はすごくいい曲だと思うよ! 私も好きだよ!」

「でも、明るい曲も聴いてみたかったかな……って」


慌てて詰め込むように、あれこれと饒舌になっている。

発車直前の駆け込み乗車のように、焦りが感じられた。


「……一つ、聞いていいかしら」

「なぁに?」

「……どうして、私自身にも楽しい気持ちになってほしい、と?」

「えっ?! えーっとね……その……」


私の問いかけに対し、急に歯切れが悪くなった。

うー、恥ずかしいなぁ、などと前置きをしてから、彼女は答えた。



「だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ」

「とも、だち……?」

「うん。大切な大切な、友達」


照れつつも、愛おしさで包むような声が聞こえた。


「……」

「……えっ!? も、もしかして友達だと思ってるの、私だけだった、とか……?」


考えもしなかった。

ある日突然現れて、それから当たり前のようにいつもいて。

そう、彼女がいるのが当たり前になっていた。


友達?


そんなことが頭にこれっぽっちも思い浮かばないほど、彼女は身近な存在になっていた。



私にとって、彼女は――。


「ぁ……」


それを考えようとした時、小さな悲鳴が聞こえた。


「私、もう行かなきゃいけないみたい」

「ごめんね。最後の最後で、なんだか困らせちゃったみたいで」


そう話す声が、ドアから少し遠ざかった。


「でも私は、千早ちゃんのことを友達だと思ってるよ」

「……千早ちゃんもそう思ってくれてたら、嬉しいな」


徐々に声が遠のいていく。

待って。

何処へ行くの?

私は慌てて立ち上がり、ドアを開けようとした。


ドアノブが、動かない。



「千早ちゃん。さっき頼んだこと……できれば、お願いね」


動かない。

ドアが開かない。

行ってしまう。


「待って!」


足音は止まらない。

待って、待って待って待って待って!


「一人にしないで! 私を置いてかないで!!」


いつも一緒だと思っていた。

何処へも行かないと思っていた。

自分で閉ざしたドアを叩きながら、今更ながら、自分の愚かさを噛み締める。



「ばいばい、千早ちゃん」


「待って――」



叫びが喉でつかえ、呼吸が止まる。

その時になって、ようやく気付いた。




私は、彼女の名前すら知らなかった。





知らない?

彼女の名前を?

シラナイ?

あんなに一緒にいたのに?


ドアの向こうから、彼女の気配が消えていく。

まるで立ち上る煙のように。

溶けていく氷のように。


声は、喉でつかえたまま。

当たり前だ。

出てくるはずの言葉を、私はそもそもシラナイのだから。



「■■――!」


がむしゃらに叫んだ。

彼女の姿を脳裏に浮かべながら。

それは何の意味も持たない記号。

今この瞬間だけ、彼女と言う意味を持たせた記号。

勿論、返事はない。


ドアの向こうの気配は、とっくに消え失せていた。



「あ……」


私は何をしているのだろう。


ドアの隙間から吹き込む風に乗って、微かな香り。

彼女が使っているシャンプーの香り。

ついさっきまで目の前にあった香りなのに、酷く懐かしい。


涙が溢れた。

私は、どうしてここにいるのだろう?



声も出ないまま項垂れると、足元に大きな紙が落ちていた。

すごろく。


ぽたり。

ぽたり。

と。

すごろくに染みがいくつも出来ていく。


『じゃらり』


金属が擦れる音がした。



……こんなもの。


『じゃらり』


こんなもの。


『じゃらり』


こんなもの!


『じゃらり』


こんなものこんなものこんなもの!


『じゃらり』


全部全部全部なくなっちゃえ!


全部どこかへいっちゃえ!


全部、全部引き裂いてやる!


もう二度と……二度と!



「ぅ……」


紙吹雪が舞う。

ドアはいくつもの南京錠で固く閉ざされている。

その中で私は、一人で叫び続ける。


「ぅあ……」


運命への哀哭か。

環境への悲嘆か。

違う。

もっともっと、どうしようもなく根深いもの。


自分自身への、失望。


「うぁぁぁああああぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!!」


 * * * * * * * * * * * * * * * *


「ああああぁぁぁ……っっハァっハァっハァっ――」


自分の叫び声のせいか、私は跳ね起きた。


「っハァっハァっハァっ……」


時計を見ると、時刻は日付を越えて少し。

べっとりと嫌な汗をかいている。


「今の……夢、は……」


ここはベッドの上ではない。

どうやら、テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。

寝起きの気分は最悪だった。


ふと周囲を見回すと、一枚の紙が目に入った。


「これ、は……」


すごろく。

真美が空き時間の戯れに、広告用紙の裏に書いたものだった。


「あ……」


見た瞬間、鼓動が高鳴る。

いや、高鳴るなんて生易しいものではない。


「ハァっ……!」


心臓の動きが、みるみる内に早くなっていく。

呼吸もどんどん早くなり、頭の中が徐々に白んでいく。


「ハァっハァっハァっハァっ!」


死ぬ。

直感がそう判断する。


「誰、か……!」


頭が回らない。

何をすればいいか分からない。


「電、話……!」


意識が朦朧とする中、必死に携帯電話の位置を探る。

幸い、ポケットに入れたままだ。

震える手で何度も掴み損ねながら、何とか取り出して画面を開く。


誰でもいい。

誰かに、連絡をしないと。


待ち受け画面には、プロデューサーからの着信履歴。

迷わずボタンを押した。


『千早! かけ直してくれたのか!』


数コールの後、すぐにプロデューサーの嬉しそうな声が聞こえた。

良かった、出てくれた。


『って、どうして何も言わないんだ? 息も荒いが……』


端的に、急いで、伝、えな、けれ、ば。


「あ……ハァっ……! 助、け……」

『……ち、千早!? おい、しっかりしろ!』


いしき、とび、そ


「早く……家……たす……」

『部屋にいるんだな?! 救急車は呼んだのか!?』


かっ


『聞こえてるか! 千早! ちは――』


――――。


寝ては起きて、寝ては起きて、と忙しい日だ。

目覚めた時、最初に目に入ってきたのは白い天上だった。

鼻を刺す独特な化学的匂いが漂っている。


「病室、ね……」


ベッドの横には透明のパックがぶら下げられ、ぽたりぽたりと滴が落ちている。

その先から伸びる針は、私の腕の中へ潜り込んでいた。


「助かった、のかしら」

「千早、気分は大丈夫か?」


声がした方に目をやると、げっそりとしたプロデューサーが椅子に座っていた。


「慌てたよ。電話が来たと思ったら、いきなり発作起こしてるんだから……」

「……すみません。ご心配をおかけした上、こんなお手間まで……」

「それはいいんだいいんだ。面倒を見るのがプロデューサーの仕事だから」


まともに会話をできる私を見て、一先ず安心してもらえたようだ。


「過呼吸で倒れただけだって救急車の方には言われたけど……ホッとしたよ」


私が落ち着くと、プロデューサーがすぐに連絡を入れた。

社長、音無さん、律子。

そして次に、当然のように。


「ご両親にも連絡しないと」

「しなくていいです」

「そう言うわけにはいかない。仮にも娘さんを預かってる身だ」

「私の家のこと、ご存知ですよね」

「だとしても、だ」

「なら、私が会いに来なくていいと言った旨、一言添えてください」

「……分かった」


プロデューサーとしても、譲歩の限界ラインだったのだろう。

私の言った通りにしてくれつつも、やりきれない表情をしていた。


夜が明けて。

検査入院をすることになった私の所へ、両親は来なかった。

代わりに、オフだった二人が朝一番にやってきた。


「千早さん、お身体は大丈夫ですか?」

「心配は要らないわ、高槻さん」


あんな無様な姿を晒して迷惑をかけた私を、こんなにも心配してくれる。

私には過ぎた仲間、だった。


「何よ。心配して損したわ」

「ごめんなさい、水瀬さん」

「……っ」

「えーっと、これ、途中で買った果物です!」


ありがとう、と言おうとして二人を見ると。

水瀬さんが浮かない表情をしていた。


「今、なんて言った?」

「え? ごめんなさい、と」

「そうじゃなくて。私のこと、名字で呼んだわよね」


それが何だと言うのだろうか。

そんなに気にするようなこと?

変な心配をさせてしまったのかと、薄く微笑むと。


「アンタ、そんな無感情な顔で笑うような人間じゃなかったわ」

「そうかしら。昔から無表情だと言われていたけれど」

「ええ、そうね。淡白だけど時々激しい性格が顔に出やすくて、愛想笑いなんて誰よりも苦手だった」


愛想笑い、なんてつもりはなかったけれど。

でも、水瀬さんの言ってることは分かる。

きっと、私は。


「……いい機会だから、そのままゆっくり休んでなさい」

「私は……休むも何も」

「……」

「千早さん、退院したら、事務所のみんなでご飯食べに行きましょー!」

「……ええ、ありがとう」


高槻さんは何かを察したかのように、水瀬さんの手を引いて病室を後にした。

去り際の水瀬さんは、何かを案ずるような目つきで私を見ていた。


次にやってきたのは四条さんと我那覇さんだった。


「お加減は如何ですか?」

「あ、もう誰か来たんだなー。この匂い、伊織か?」

「ええ。水瀬さんと高槻さんが」


そう答えると四条さんは一瞬、水瀬さんと同じように顔をしかめた。

一方の我那覇さんは、いつものようにあっけらかんとしている。


「食欲はあるの?」

「それなりに、と言ったところかしら」

「じゃあ、これどーぞ!」


差し出されたのは、丸いお菓子が入った小袋。


「いつも同じものな気もするけど……サーターアンダギー!」


「私もいただきましたが、まこと美味でしたよ。さぁ、どうぞ」


我那覇さんに差し出された袋から、一つ摘み出す。

口に運ぶと、柔らかい甘みが広がった。

美味しい、はず。


「……あ、あれ? なんか失敗しちゃったか?」

「え?」

「なんか微妙な表情をしてるから……」

「いえ、美味しいわ、我那覇さん」

「んー……」


納得しかねると言った表情で、我那覇さんは首を捻る。

その様子を見ていた四条さんは、私の顔をじっと覗き見た。


「何かついてますか?」

「如月千早。あなたは……」


出かかった言葉を呑み込み、四条さんは言葉を選び直した。


「……きっと時間が解決してくれることでしょう。私からは何も言いません」

「ん……」


四条さんの言葉に、我那覇さんも神妙な面持ちになった。

それを見る私の心は、どんな色をしているのだろう。

二人の言葉も、このお菓子の味も。

何も響かなかった。


「てりゃーっ!」

「サボりは許さんぜよ!」


前の二人が部屋を出てしばらくすると、騒がしい声が聞こえた。

勢いよく病室のドアが開いたかと思えば、小さな身体が駆けこんでくる。


「ってうえぇ!? 思ったよりやばそーじゃない?」

「うわ、点滴痛そー……」

「大丈夫よ、双海さん。見かけほどじゃないわ」

「え……?」


問題ない旨を伝えたところ、何故か一層深刻な表情をされてしまった。

二人はベッドの両側にそれぞれしゃがみこむと、私に声をかけた。


「千早お姉ちゃん、辛い?」

「辛いって……何が?」

「えーっと、それはその……色々、あるけどさ」

「辛くはないわよ」


それは偽りない事実。

辛くは一切ない。

普段ならそう感じるセンサーが、今は全く動かない。


「なんか、千早お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がする……」

「ねぇ、急にいなくなっちゃったりしないよね?」

「大丈夫よ」


心配する必要なんて何もない。


私にはそもそも、行く場所なんてどこにもない。

二人の心配は杞憂でしかない。


「ホントにホント?」

「本当よ。心配性なのね」

「でも、真美もなんか怖いな、って思った……」

「心配なら、電話でもメールでも。深夜でもいつでもしてくれていいから」

「うん……」


別に部屋に来ても構わない。

呼び出されれば遊びに行ってもいいし、何でも付き合おう。

何をしても、私は何も感じないだろうから。


双海さん達が出ていく時、廊下で誰かに声をかけていた。

すぐに入れ違いで入ってきたのは、菊地さんと萩原さん。


「千早、具合はどう?」

「心配されてばかりね、私」

「そりゃ心配するよ……夜中にいきなり倒れたって聞いたらさ……」

「千早ちゃん、お茶、飲む?」

「いただくわ、ありがとう」


菊地さんが椅子に腰かける横で、萩原さんが魔法瓶からお茶を注いでくれた。


「……」


菊地さんは俯いて何も話さない。

そういえば廊下で双海さん達と喋っていたけれど、何を話していたのだろう。


「雪歩のお茶、美味しい?」

「ええ。流石萩原さんね」


このお茶は美味しい。

それは間違いない。


「それ、真ちゃんが買ってきてくれたんです。お店まで探して」

「菊地さんが……?」

「ッ……ああ。口に合うかな」


ただそれは、美味しいという客観的事実が存在しているだけで。

私の口に合うか、というのは、自分では判断できない。


「……そうね。嫌いではないわ」


事実だけを告げる。


その答えに、やっぱり、といった表情で。


「……そっか。良かったよ」

「真ちゃん……」

「これ、残りのお茶の葉。置いてくから、良かったら淹れてもらって飲んでよ」

「ありがとう」


鞄から取り出された小筒からは、ふっと香りが漂ってきた。

きっと以前なら夏の匂いとか太陽の香りとか、色んな感想が浮かんだだろう。


「ボク達、近くで収録だからもう行かなきゃいけないんだけど」

「……お大事にね、千早ちゃん」


部屋を後にする二人の肩は、何故か僅かに震えていた。


それからしばらく一人の時間が続いた。

その沈黙を破ったのは、営業途中だった三浦さんと秋月さん。


「千早、起きてる?」

「失礼するわね、千早ちゃん」


窓の外を眺めていた私を見て、三浦さんが呟く。


「お邪魔だったかしら?」

「いえ、そんなことは」

「よかったわ。これ、差し入れ」


手渡されたのは、ケーキ屋の箱。

中にはシュークリームが入っていた。


「とーっても美味しいのよ」

「あ、食べるの辛かったら無理しないで。冷蔵庫に入れておくから」

「一つ、いただきます」


秋月さんの気遣いを制して、一つを口に運ぶ。

生クリームの上品な甘さが、舌の上で溶ける。


「さ、律子さんも」

「千早へのお見舞いの品でしょう、これ……」

「私は構わないわ。秋月さんもどうぞ」


甘いということしか分からない私が食べても、勿体ないだけだから。


「それじゃあ、一つ……え?」


口に運ぼうとして、秋月さんの手が止まった。


「何か?」

「あ、ううん! 一つ貰うわね」


慌てて口に入れると、美味しい美味しいと早口で何度も言った。

それを見ながら、三浦さんは人差し指を顎に当て、僅かに顔を傾ける。


「病院、退屈じゃない?」

「これで退屈するような生活、元々送っていませんでしたから」

「それはそれで心配だなぁ」


二人は他愛もない話題を振ってきた。

何かを隠しながら。

きっと私を慮ってのことだろう。

私にそんな価値はないのに。


二人も帰って、外が暗くなり始めた頃。

営業終わりのプロデューサーと星井さんが、病室を訪れた。


「よ、千早」

「なんだかハニーに聞いてたよりも、全然元気そうなの」

「みんなが騒ぎ過ぎなのよ」


そう、私なんかに構いすぎている。

もっとやるべきことがあるはず。


「ともあれ星井さん。営業お疲れ様」

「え……!?」

「お、おい美希! 待て!」


私が声をかけた途端、星井さんは血相を変えてしがみついてきた。

労いの言葉をかけるのは、間違っていたのだろうか。

でも星井さんが口にしたのは、全く別のことだった。


「ち、千早さん?! どうして星井さんなんて呼ぶの!?」

「何かおかしいかしら」

「どういうこと……どういうことなの、プロデューサー!?」


かなり動転しているらしい。

プロデューサーのことを、ハニーと呼ぶ余裕もないくらいに。


「美希、落ち着け。検査のためとはいえ、千早は入院中の身だぞ」

「あっ……ご、ごめんなさい……」


「千早、さん……どうしちゃったの……?」

「別にどうもしてないわ。発作で倒れただけよ」

「それだけなワケないの!」


涙を目にいっぱいに溜めて、星井さんは叫んだ。

何事かと部屋を覗き込む看護師を見て、プロデューサーが慌てる。


「どうして……どうして……」

「本当に何ともないわ。しばらく休めば、また買い物でもなんでも行ける」

「ミキは……ミキは、千早さんと行きたいの!」


よく分からないことをもう一度叫ぶと、星井さんは病室から走り去ってしまった。


「美希! あいつ……」

「プロデューサー、星井さんを追いかけないと」

「分かってるよ。それより、千早」


何がそれより、なのだろう。

私に何か言うよりも、星井さんを追いかける方が重要なのに。


「……あの生放送の件は、番組側から正式に事務所へ謝罪があったよ。司会者も謹慎処分だそうだ」

「千早に直接謝罪をしたい、という申し出もあって、一旦保留にしてある」

「うちの事務所責任は何も問われてない。気に病まないで、しっかり休んでくれ」

「……」


プロデューサーは何を言っているのだろう。

私だってそれくらいの予想はつく。

問題は、そこではない。


『如月千早は、このような人物である』


このレッテルは、業界関係者一般視聴者問わず、観た人間全員に刷り込まれた。

勿論、同情論も少なくはないだろう。

けれども、私が激しく取り乱し、晒した醜態から根付いたイメージ。

それはじわりじわりと、人から人へ伝染し、蝕んでいく。


私自身の評価だけではない。

『仲のいい、一心同体の事務所』

そこを表に出してきたこの事務所にとっては、致命的な猛毒。


世界は、いくらかの良心に守ってもらえるほど、優しくはない。


だからこそ。


「分かりましたから、早く星井さんの所に行ってあげてください」

「……ああ。くれぐれも思いつめないでくれよ、千早」


私に引き摺られるのではなく、少しでも周囲のフォローに回らなければならない。

私からもたらされるマイナス以上に、みんなをプラスへ導かなければならない。


私を切り捨てる、という手早い手段を取れる事務所でないことは分かっている。

だからせめて、私に構わないでください。


もう私には、みんなが心配するほどのものは、何も残されていない。



私の中は、本当に空っぽで。

みんなの気持ちに対して、お礼を言わなければ、とは思った。

けれど、それはみんなにわざわざそうさせたことへの礼であり。

みんなの気持ちに対しては、何も感じなかった。


入ってくるものがなかった。

溜まっていくものがなかった。

まるで笊が水を通すように、上から下へまっすぐ落ちていくだけだった。

地下へ向かう吹き抜け階段のように。


私の心は、限りなく無機質になっていた。

一度エタったくせに今更また来たのか


検査の結果、特に異状はなし。

発作も、精神的なものだろうと判断された。

入院の必要はないけれど、暫くは通院してくれ、とのこと。


病室を引き払う時、音無さんが迎えに来てくれた。


「部屋まで送ってあげるわ、千早ちゃん」

「わざわざそんなこと、して頂かなくても」

「とはいえ、もうここまで車で来ちゃったのよね」


今から引き返してもただの時間の無駄だし、と。

音無さんは珍しい私服姿で微笑んだ。


曇り空の下、音無さんの車が走る。

舗装の古い道路のお陰で、がたがたと揺れる。


「みんな心配してるわ、千早ちゃんのこと」

「私はなんともありません」


そう答えると、音無さんは少し寂しそうな顔をした。


「……落ち着いたら、事務所に顔を出してね」

「呼ばれれば明日にでも」


それっきり、音無さんは何も喋らなかった。


「ほんの二日だけど、入院生活は退屈だったでしょ」

「何もしないことには慣れてますから」


マンションに着いて、車を降りる。

荷物を出して、音無さんに頭を下げた。


「ありがとうございました」

「ふふっ、もっとお姉さんを頼ってもいいのよ?」

「何かあれば、また」


別れの言葉を告げ、部屋へと向かう。

建物に入ろうとした時、後ろから声が聞こえた。


「時間がかかってもいいわ。私もみんなも、待ってるから」


「帰ってきてね……千早ちゃん」


私は何も答えず、そのまま部屋へ帰った。


単調な日々が始まった。


起きる。

朝食をとる。

ずっと窓の外を眺め続ける。

昼食をとる。

病院へ行く。

帰宅して、また窓の外を眺める。

夕食をとる。

入浴する。

寝る。


ひたすら、それの繰り返し。


寝ればいつも、夢を見る。

深い眠りも、浅い眠りも。

ベッドで寝る時も、テーブルでうたた寝をする時も。

眠りに落ちるたびに、私はあの部屋にいた。


破かれたすごろく。


南京錠が巻き付いたドア。


壁に背を預け、一人で座り込む私。


ただ、それだけの夢。


もうさいころは振らない。

駒を進めることもない。

私に触れていた誰かも、いない。


起きて外を歩けば、時折私に気付く人もいる。

侮蔑の視線。

同情の視線。

時には露骨に声をかけられることもある。

けれど私はもう狼狽えなかった。


嘲りの声が聞こえれば、そうですか、と。

慰めの声が聞こえれば、そうですか、と。


道行く人々はそんな私を見るたびに、顔をしかめた。


日々は動き続ける。

しかし、前へは進まない。

動き続ける世界の中で、私は確かに生きている。


ただただ、生きているだけ。


意思なく動くだけの駒のように。

私だけが停滞の中を生きていた。


事務所のみんなは必死に頑張っている。

仕事は減ったものの、私の置き土産にも負けず、懸命に。

地道な活動と少しずつ表れる成果。

そうだ、彼女達は本来、こうあるべきだったのだ。

夢を目指し続ける彼女達はきっと、輝いていることだろう。


その日も私は、いつものように病院へ向かった。

発作はもう、殆どなくなっていた。

しかし主治医の先生曰く、どうにも私が心配らしい。


病院を訪れ、軽い世間話をする毎日。

私の返答から精神状態の変化などを見ているらしい。

今の私が、どう変わるはずもないのだけれど。


単調な毎日に組み込まれていた病院での時間だったが、今日は少しだけ違った。


「……プロデューサー?」


診察を終えて廊下を歩いている時、病室から出てくるプロデューサーに出会った。


「ん、千早か」

「こんにちは。お見舞いですか?」

「ああ、ちょっと知り合いのな」


プロデューサーが出て来たのは個室部屋。

その浮かない表情も手伝い、ただの入院でないことは容易に想像がついた。

プロデューサーは、閃いた!というような表情をした。


「お前、もう暇か?」

「私ですか? はい、あとは帰るだけですが」

「良かったら会ってやってくれないか? 千早のファンなんだ」

「私は構いませんが」


そう頼まれれば、特に会わない理由はない。

ファンだという人物にとってプラスになるかどうかは保証できないけれど。


入口のところには名前が書かれた表札があった。

女性の名前。

知り合いと言うからには、プロデューサーと同年代くらいだろうか。

自分からは何を話したらいいのか分からない。

せめて、あちらから話を振ってくれると有り難い。


プロデューサーがドアを控えめにノックする。


「春香、また入るぞ」


部屋に入ると、白いベッドに横たわる姿が見えた。


無機質な白い壁に囲まれ、締め切られた病室。

傍の棚に置かれた花瓶に挿されたオレンジ色のガーベラ。

綺麗に畳まれ、椅子の上に置かれたパジャマ。

そんな場所で、女の子は眠っていた。


部屋には微かに、甘い香りが漂う。

差し入れのお菓子か何かだろうか。


プロデューサーは、その顔を覗き込みながら声をかける。


「ぐっすり寝てるところ、たびたび出入りして悪いな」


私もプロデューサーの後ろから、寝顔を覗き込む。


……。

……?


見覚えがある。

どこかで会ったことがある?


覚えのあるシャンプーの香りが、私の鼻腔をくすぐった。


髪は肩よりも少し長い。


「……ぁ」

「……? 千早、どうした?」


きっと入院している内に、髪は本来の長さよりも伸びていて。


「名前は……はる、か……?」

「ああ、天海春香っていうんだ。近所に住んでる子なんだよ」


その寝顔は、何度も見たことのある顔で。


私は、この子を知っていた。


そう。


私は知っている。

このあどけない寝顔を。


私は知っている。

小さく聞こえる寝息を。


私は知っている。

この口から紡がれるであろう、優しい声を。


私は知っている。

きっと、このお節介焼きのことを。



入口にあった表札。


ずっとずっと、会いたかった顔。


その姿を見た途端、私の中でにわかに湧き上がる激情があった。


■■……。


■■!


違う!



春■。


■香。



かつて叫んだ記号に、一つずつ文字が収まっていく。



春香。


春香!


天海、春香!



彼女の名前は、『天海春香』!




あっという間に心が熱く熱く燃え上がる。

冷え切っていた私にとって、その動きは急激過ぎて。

すぐさま、自分では制御できなくなった。


天海春香。

あの時呼べなかった、彼女の名前。


天海春香。

欠けていたピースを、やっと見つけることができた。


天海春香。

大切な大切な名前。


天海春香。


かけがえのない、私の、私の――!



春香!

ああ、春香、春香、春香!


ねえ、分かる?

私よ!

如月千早よ!

なんて素晴らしいことなの!

もう会えないと思ってた!

もうあなたは、私の世界から消え失せたと思ってた!


けれどあなたは今、こんなにも近くにいる!

また話せる!

また触れられる!

また、触れてくれる!


また、私の隣に、いてくれる!



春香!

春香、寝てなんていないで早く起きて!

私、ずっとずっと会いたかった!

ちょっと会わなかっただけなのに、まるで何年も経ったみたい!

今なら、あなたの名前を呼んであげられる!

夢の中なんかじゃない!

本当のあなたと、手を取り合うことができる!


「あんな鍵だらけのドアは……もう、無い……」

「ほら、分かる……? 私、今あなたの左手を握ってる……」

「ねぇ、春香!」

「また、二人で色んなことを話しましょう?」

「アイドルになりたいんでしょう? 一緒に、頑張りましょう?」

「ほら、春香」

「春香……」



「……何とか、言って……!」



春香は、何も喋らない。

目を閉じて、小さな寝息を立て続けるだけ。


「お前……春香と知り合いだったのか」

「春香、春香!」

「……千早。春香はな」

「どうして……」

「……」


「どうして、目を覚まさないんですか……!」


私がどれだけ名前を呼んでも。

身体をゆすっても。

春香は、目を覚まさなかった。


「目を覚まさないんだよ」


春香をゆする私の手を押さえ、プロデューサーは言った。


「丁度、千早が発作を起こして入院した日」

「あの夜から、目を覚まさないんだ」


私の呼びかけに、春香は全く答えない。

穏やかな寝息を乱せば、今すぐにでも起きそうなのに。


「病気……というのも少し違うんだけどな」

「長い間寝ては少し起きて、長い間寝ては少し起きて……」

「これまでも、そんな生活を送ってた」


「寝る時間が徐々に長くなってきて、あの夜、とうとう……」

「そんなこと……全然聞いてない……」

「……やっぱり黙ってたのか、春香」


友達に隠し事は良くないな、と。

プロデューサーは寂しそうに笑った。


「前は長くても二、三日で起きてたんだが、医者が言うには、今回はもしかしたら……もう」

「ッなんでそんな!」


プロデューサーのスーツを思いっきり掴む。

どうしてそんなにあっさりと言えるの?

春香が、春香がこんなことになっているのに!


「ご両親も俺も、いつかこうなるかもしれないと言われて、前々から覚悟はしてた」

「春香自身も、な」


「っ……」


どうして、こんな。

折角会えたのに。

届きそうなどころか、実際に触れられる距離にいるのに。


たった今、私たちは触れ合っているのに。


やっぱり、私と春香の心は、こんなにも遠い。

地球の裏側よりも遠いところに、春香はいる。

あの南京錠のかかったドアの遥か先に、春香はいる。


「どうして」

「……」

「どう……してぇっ……!」


頬が濡れる。

久しぶりの潤い。

乾き切ったと思っていたのに、まだ湧き出る源泉があったなんて。


「俺には何もできない」


プロデューサーは項垂れながら、スーツを握りしめる私の指を解いた。


「ただただ、春香が起きるまで待ってることしかできない」

「……悪い、千早。今日はこんなつもりじゃなかったんだ」


果実の種を噛んでしまった時のように苦い顔をして、私から目を逸らした。


春香がすぐ目の前にいるのに、私には何もできない。

その現実を突き付けられ、理解した時。

私は悔しくて悔しくて、唇を噛み締めた。


「……待っていること、しか?」


ふと、プロデューサーの言葉を復誦してみた。

確かに私は無力だ。

私には、春香を目覚めさせることはできない。


なら、何をするべきか?


「……深く考える事なんて、なかったのかもしれない」


こんな時、春香ならどうするか。

こんな時、私はどうしてもらっていたか。


どうしようもない時。

塞ぎこんでいた時。

邪険に突き放した時。


どんな時でも、春香は傍にいて、私のことを信じて、待っていてくれた。


簡単なことだった。

とてもとてもシンプルな結論。


なら、今度は私の番だ。


「プロデューサー。これからも、春香に会いに来ていいでしょうか」

「ん? そりゃ勿論。春香も喜ぶだろうな」


春香はここにはいないのに。

でも、いい。

ここに春香がいないのなら。

春香が、今は遠くに行ってしまっているのなら。


私はここで待ち続けよう。

彼女が、春香が帰ってきて、再び目を開けるその時まで。




もう私は、すごろくの番に追われていない。

さいころは振らない。

駒を進めるつもりもない。

そんな今の私にとって、停滞し、待ち人に思いを馳せるのは、とてもとても容易なこと。



ずっとずっと。


何日でも。


何週間でも。


何か月でも。


何年でも。



私は待ち続けよう。

他の何も望まない。

ただただ、この場で停滞していよう。

ただただ、春香が目を覚ますことだけを待ち続けよう。


どこへも進むことなく。

どこへも戻ることなく。


彼女がずっと、そうしてくれていたように。

彼女への恩返しに。

そして、私自身のために。



その日から私の日課が増えた。


診察を終えた後、病室へ立ち寄る。

春香が一人きりで眠り続ける、白い部屋へ。


どうやら、ご両親は午前中の内に来ているらしい。

私は椅子に腰かけ、春香と二人きりで他愛もない独り言を続ける。


「今日ね、こんな嬉しいことがあったのよ」


「お昼にこんなものを食べたのだけれど、とても美味しくて」


「昨日たまたま観たテレビが面白かったわ」


嘘で塗り固められた独り言。

私が感じられるはずもない感覚を、あたかも事実のように語りかける日々。

きっと春香が聞きたがりそうな話。

過去の記憶を頼りに、一つ一つ創り上げていく。


毎日毎日、足繁く通う。

二人きりの時間の流れは、とても穏やかに停滞していて。

可愛らしい寝息を立てる春香の横で、私は話し続けた。


一度、病室の前でご両親らしき人達とプロデューサーが話しているのを見た。

その翌日、いつものように春香に話していると、春香のお母さんが来た。

初対面でどうしたらいいか分からない私に微笑むと、持ってきた紅い林檎を八つに切り分ける。

それを差し出し、二人で食べてね、と言うと、着替えを抱えて帰っていった。


「美味しそうな林檎ね、春香」


林檎は一つも減らなかった。


そこから始まる、私と春香、二人だけの空間。

まるで録画したビデオを見続けるように、変わらない日々。


私たちは繰り返す。

ただただ、同じ毎日を繰り返す。

コピーのように淡々と、往復する毎日を繰り返す。


日にちの感覚を忘れ。

曜日の感覚を忘れ。

月の感覚を忘れ。

外の空気がなければ、季節さえも忘れそうなほどに。


私と春香、二人だけの世界だった。

誰もいない、二人だけの世界。




今日は晴れ。

春香とお話をした。





今日は曇り。

春香の髪を洗ってあげた。





今日は晴れ。

車椅子の春香と、二人で散歩をした。





今日は雨。

春香と一緒に音楽を聴いた。





今日は曇り。

春香が好きだという花を持ってきた。





昨日も。


今日も。


明日も。


明後日も。


その次も。


その次も――。




私の生活は春香を中心に動いていた。

いや、春香だけを軸に動いていた。


最近、春香以外の人と話した記憶がない。

携帯電話も、随分前に電池が切れたまま。


それでも私の生活に支障はない。

今の生活を続けることに、問題はない。



ない、はず。



ないはず、なのだけれど。


私の潜在意識が。

私の深層心理が。


何かの不調を訴える。

何かの違和感を訴える。


それが何なのかは分からない。

認識できない。


余分なものなのか。

足りないものなのか。

はたまた、ただの思い込みなのか。


それでも自分に言い聞かせた。

私は待ち続けなければならないのだ。

それこそが、私の義務なのだから。


その日も、私は春香の病室へ向かっていた。

病院への道すがら、唐突に声をかけられる。


「……千早お姉ちゃん?」

「っ千早お姉ちゃん! 千早お姉ちゃんだ!」


その声には聞き覚えがあった。

双子の双海さん。

駆け寄ってきたのは、髪が短い妹の方。


「千早お姉ちゃん! 電話もメールも返事がないから、心配してたんだよ!?」

「部屋に行っても、いつも反応がないし……」


そういえば、携帯電話の電池は切れていたんだった。

病院へ向かう足はそのままに、ふと思い出す。


「亜美ちゃん、ちょっと早いわよ……って、千早ちゃん?」


軽装の三浦さんが駆け寄ってくる。

成程、二人でレッスンにでも行っていたのだろう。


「久しぶりね。全然音沙汰がないから、みんな気が気じゃなかったのよ?」

「ホントだよ! いつでも連絡でもなんでもしろって言ったの、千早お姉ちゃんなのに!」


そういえば、そんなことを言ったような気もする。

でも今は事情が変わった。

もっと優先するべきことが、私の前にはある。


「ちょっと千早お姉ちゃん、なんか言ったらどうなのさ?」


双海さんが私の腕を掴んだ瞬間。


「……亜美ちゃん!」

「うえっ!?」


私は腕を払った。


「ち、千早、ちゃ……」

「急いでいるんです。失礼します」


私は春香の所へ行かなければならない。

ここで時間を潰している暇はない。

ちょっと勢いよく払い過ぎたかとも思ったが、転んではいないようだ。


「千早、お姉ちゃん……」


か細い声が聞こえた。


「何処に、行っちゃったのさ……」


私が居る場所は、今も昔も変わらない。

春香の傍。



なのに、この揺らぎは何?

背後から聴こえてくる女の子の泣き声が、耳から離れない。


「春香。遅くなってごめんなさい」


花瓶の水を換えながら謝った。

いつからか、これは私の仕事になっていた。


「そうね。今日はどんな話をしようかしら……」


今日来る途中にね、と言い掛け、口を閉じる。


泣きじゃくる双海さんの姿が見えた。


違う。

違う!


脳裏からその姿を振り払い、改めて春香と向き合った。


「……ごめんなさい。話してあげること、思いつかないの」



小さな揺らぎが水面を震えさせる。

小さな波紋が生まれた。


もう陽が落ちる。

帰らないと。


「また明日ね、春香」


結局何も話すことができず、私は病室を後にする。

病院から出ると、正面に二つの影があった。


「……千早」

「何か用かしら、菊地さん」

「亜美を泣かせたんだってね」

「別に、意地悪などをしたわけではないわ」

「そうなんだろうね」


菊地さんは必死に感情を押し殺しているように見える。


隣に立つ萩原さんは、無表情でこちらを見ている。

拳を握りしめ、菊地さんが一歩ずつ近づいてくる。


「……なんとも思わなかったのか、千早」

「……」

「思わなかったのか」


私は何も答えなかった。

菊地さんの拳に、更に力が籠められる。


怒っているのだろう。

私を殴るつもりなのだろうか。

それもいい。

そうしたいというのなら、私は構わない。


漫然と待っていると、強めの衝撃が私の左頬を襲った。

勢いで、私の顔が右を向く。


「ゆ、雪歩……?」

「……」


前へ向き直った私の目に映るのは、驚きで目を丸くする菊地さん。

そして、平手を放ったままの姿勢で私を睨む、萩原さんの姿だった。

正直、萩原さんが手をあげるとは思わなかった。


「随分嫌われたわね、私」

「……そんな事しか感じなかったの?」


私の襟を掴みながら、萩原さんは叫んだ。


「ねえ千早ちゃん! そんなことしかっ! 感じなかったの!?」

「落ち着いて、雪歩!」


激昂する萩原さん、宥める菊地さん、気圧される私。

菊地さんの言葉に我に返ってから俯くと、萩原さんは背を向けて走っていった。


「ちょっと待ってよ!」


私をちらりと見て何か呟くと、菊地さんは慌てて追いかける。

その場には、私一人だけが残された。


自分の部屋へ戻り、ベッドへ倒れ込む。

痛みが引かない左頬を押さえながら、去り際に菊地さんが言い残した言葉を思い出す。


どうして雪歩が叩いたか、分かる?


分からない。

双海さんを泣かせたから。

私に愛想を尽かしたからではないのか?


「……どうして?」


ならば何故。

何故叩いた側の萩原さんが、あんなに辛そうな顔をしていたのだろう。

何故肩を震わせながら、私を叩いた右手を押さえていたのだろう。


揺らぎが大きくなる。

波紋は、笹舟が浮いていられないくらいになった。


昼前、呼び鈴の音で目が覚めた。

どうやら昨夜はそのまま、ベッドで寝入ってしまったらしい。

夢は、春香と再会した日から見なくなっていた。


無視しても、何度も何度も呼び鈴が鳴る。

どうにも来客が帰る気配はないので、仕方なく身体を起こした。


「ええと、おはようございます?」

「千早はねぼすけだなー」


玄関を開けると、首をかしげる高槻さんと、何やら紙袋を抱えた我那覇さんがいた。


「……何か急な用事かしら」

「別に、急ってほどでもないんですけど」

「渡したいものがあって来たんだ。頬、大丈夫?」


我那覇さんに言われて思い出す。

そう言えば、萩原さんに叩かれたところがまだ少し痛い。


「大丈夫よ」

「痛そうです……これ、貼っておいてくださいね」


高槻さんに渡されたコンビニの袋の中には、冷却シートの箱が入っていた。


「雪歩さんも、ちょっとカッとなっちゃっただけで」

「つい、手が出ちゃったんだよ。怒らないであげて、っていうのも難しいと思うけど……」


恐る恐るといった様子の、二人のフォロー。


「別に、気にしてないわ」

「はぁ、良かったぁ……これ、あげる!」


私の言葉に安心したのかはにかむと、我那覇さんは抱えていた紙袋を差し出してきた。

素直に受け取ると、高槻さんはにこりと笑い、おずおずと袋を指差した。


「中身、気に入ってもらえると嬉しいかなーって」


紙袋は、その大きさにしては軽かった。


その後も何かと私の暮らしぶりを心配してくる二人に、ふつふつと疑問が湧いてきた。


「……一つ、聞いていいかしら」


話題が止まり、二人がやや緊張の面持ちで私の目を見る。


「どうして、私の心配なんてするの?」


問いかけた途端、二人の表情が緩んだ。


「そんなの決まってるさ」

「千早さんは、私達の大切な人ですから」


大切な人?

私が?

どうして?


「あ、千早! 次事務所に来たら、一言くらい亜美に謝っておいてね!」


そう言い残すと、二人はじゃあね、と。

最後に手を振って、階段を下りて行った。


私には分からなかった。


私は春香が大切だ。

春香は色んなものをくれて、色んなことを教えてくれて、私にとってかけがえのない存在だから。


では、彼女達にとっての私は?

私は彼女達に何かしただろうか?


何故彼女達が私を大切だと思うのか。

私のどこに、輪を去ってもなお気にかけるような、かけがえのないものを見出したのか。

分からない。


紙袋に入っていたのは、二羽の鳥の模様が編まれたマフラー。

一羽は少し潰れ気味で。

上手くいかないことに苛立ち、ツインテールを揺らしながら唸る姿が浮かんだ。



揺らぎがどんどん大きくなっていく。

大きな石を投げ込んだように。


午後。

病院に行く前に、久しぶりに事務所へと寄る。

うっかりしてたのか、紙袋に編み棒が入っていたので、我那覇さんに返さないと。


「あ……!」


事務所の前に着くと、久しぶりの顔を見た。


「千早さ――」

「こんにちは、星井さん」

「……っ!」


名前を呼ぶと、星井さんの表情が強張った。

バッグに手を入れたまま、唇を噛み締めながら私を睨む。


「……こんにちは。如月、さん」


何か気分を害するようなことを口にしただろうか?

星井さんはビルに背を向け、ずっと私のことを見ていた。


「美希、そんなところに突っ立ってないで早く……って、千早?」

「こんにちは」


二人して黙り込んでいると、建物の中から秋月さんが姿を現した。

私の姿を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「久しぶりじゃない! 帰ってきてくれたのね!」

「ごめんなさい、秋月さん。今日は我那覇さんの忘れ物を持ってきただけで」

「あ……そう、なんだ。ごめんごめん、早とちりしちゃって。わざわざありがとね」


秋月さんは一瞬だけ寂しそうにして、すぐにいつもの明るい顔に戻る。

編み棒を紙袋ごと手渡すと、秋月さんは星井さんの方へ向き直った。


「ほら、美希! 久しぶりに会ったのに、何よその顔は」

「う……」


居心地が悪そうに、星井さんの視線が泳ぐ。


「まったく……あれ? 美希、バッグから見えてるそれって……」

「っ! こ、これは……その……」


言われて見てみると、星井さんの手元に何か包みがある。

バッグに入れた手は、それを取り出そうか迷っていたようだ。


「千早に渡すんでしょ?」

「そ、それは、そう、だけど……」

「まどろっこしいわねぇ、あなたらしくもない。照れてないでサッと渡せばいいのよ」


そう言うと秋月さんは私に手招きをして、星井さんの手を取ろうとした。

その時。


「……これは、千早さんにあげるモノなの!」

「み、美希!?」


星井さんはバッグを抱き込み、大きく後ずさった。


「如月さんにあげるものなんて、何もない!」


そう叫ぶと、星井さんは背中を向けて事務所へと走り出した。


「あ、ちょっと、美希!」


私と秋月さんは、呆然と星井さんの後姿を見ていた。

星井さんが階段を駆け上がる音は、とても乾いていた。


如月さん。

そう言われた時、どこかがとても痛んだ。

階段を登る足音が、空っぽな私の頭の中で反響する。


かんかんかん。

かんかんかんかん。


私から逃げるように去っていく音は、響くたびに私を軋ませた。

何らかの理由で至る所にひびが入った私の身体。

軋むごとに、ボロボロと劣化した欠片が剥がれ落ちる。


星井さんの足音だけではない。

秋月さんの瞳。

私を見つけた時の輝いた瞳と、直後に一瞬だけ見せた暗い瞳。

輝いた瞳の中にいたのは、私ではなかった。

暗い瞳の中にいたのは、私だった。



揺らぎは最早、揺らぎというには大きすぎた。

うねりが、幾重にも重なって広がっていく。


秋月さんに紙袋を託して別れを告げ、病院へ向かう。

事務所から少し歩いてから、私を追いかける足音に気付いた。


「何か用でしょうか」

「用、というほどのことでもないのですが」


後をつけていたのは、四条さんと、双海さんの姉の方。


「双海真美が、千早のことが心配だと言うもので」

「だってさ、遠目に見てもめっちゃ悩んでるのバレバレなんだもん」


まただ。

私のことが心配だと言う。

私なんかの心配をするより、やるべきことは沢山あるはず。


「私の心配なんてしても時間の無駄よ。もっと他のことに時間を使って」

「やっぱり、そういうこと言うんだね」


やっぱり?

双海さんは、私が考えていることを分かった上で?


「ねぇ、千早お姉ちゃん。心配することって悪いことかな? 真美達、迷惑じゃない?」


心配することそれ自体は、別に悪いことではないだろう。


「迷惑ではないわ」

「……良かったぁ」


双海さんは肩の荷が下りたように、安堵の笑みを浮かべた。

四条さんも目を細め、喜ぶ双海さんの頭を撫でた。


「皆も悩んでいたのですよ。自分達の心配が、千早の迷惑になっているのではないか、と」

「やよいっち達に、何で自分の心配するんだーとか聞いたらしいじゃん」


迷惑などではない。

ただ単に不思議だっただけだ。

誰も彼も、何を考えているのか分からない。


不透明感が捻じれ合って渦を作る。

考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく気分だった。


再び思考の渦に呑み込まれそうになっていた時、双海さんが私の手を取った。


「ねね、千早お姉ちゃんって今仕事してないから、ニート状態っしょ?」

「ふ、双海真美! そのような言い方は……」

「事実ですから構いません。それがどうかしたかしら」

「じゃ、今度遊園地に遊びに行こうよ!」


前なら行っても良かった。

でも今は毎日、春香に会いに行かなければならない。


「ゆーびきーりげーんまーん」


断ろうと思っていたら、いつの間にか私の小指に双海さんの小指が絡められていた。


「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ! お姫ちんが証人ね!」

「ふふっ、確かに見届けました」

「いや、あの……」


私の言葉を待たず、双海さんは笑いながら逃げてしまった。

四条さんも、私を見てにっこりと笑ってから追いかけていった。


私は底なし沼に足を取られ、無様にもがいている。

考えても考えても、納得のいく答えが見つからない。


指切りをした小指が、じんじんと熱くなる。

強い既視感を感じながら、私は二人の後姿を見送った。


前にも、同じように指切りをした気がする。

あの時は、どんな約束だっただろうか。

誰と交わした約束だったか。

それを考えるたび、小指がずきりと痛む。



そこにいるのは、誰?



うねりはますます激しくなる。

何本ものうねりが濁流となり、私の心を巻き込んでいく。


病室に着いても、私の心は波立ったままだった。


「ねぇ、春香……」


返事はない。


「私、何か間違っているのかしら」


春香の手のひらは、夢の中と同じように暖かい。

でもその目は開かず、私の質問には答えてくれない。


「ねぇ、春香……」


返事がないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。


「みんながね、私のことを気にかけてくれるの」

「迷惑をかけても」

「距離を置いても」

「千早、千早ちゃん、千早さん、千早お姉ちゃん」

「みんながね、私の名前を呼ぶの」


私の中は、空っぽになったものだと思っていた。

私の心は、あの事務所から離れたものだと思っていた。

思おうとしていた。


「でも、ずっと頭の中で反響しているの」


双海さんが泣きじゃくる声が。

萩原さんに叩かれた痛みが。

星井さんの刺すような視線が。


「お願い、春香……教えて……」


もう、誰にも迷惑をかけたくない。

誰も不幸に巻き込みたくない。


「私、どうしたらいいの……?」


何度私が問いかけても。

春香は答えてくれなかった。


いつの間にか、面会時間の終わりが来た。

病院から出なければならない。


「浮かない顔してるわね」


建物を出た途端、真横から向けられる声。

少し驚いて顔を向けると、水瀬さんが壁に身体を預けて佇んでいた。


「放っておいて」

「どうして?」

「私なんかに構っても、時間の無駄よ」


あれだけ環境に恵まれて、あれだけチャンスに恵まれて。

それを、全てを壊してきた私。

これ以上関わっても、私は不幸しか生まない。


「そんなにボロボロなのに、いっちょ前に私達に気を遣ってるつもり?」


水瀬さんは、そんな私の心を見透かしたように鼻で笑う。

それからすぐに、目付きを鋭くして詰め寄ってきた。


「余計なお世話よ、ばーか」


水瀬さんの猛禽類のように鋭い眼光が、私を射抜く。

――かと思うと、すぐにため息をつきながら目を背けた。


「もしかして、アンタのために心配してるとでも思ってる?」

「だとしたら悪いけど、勘違いしてるわよ。私達は自己中集団なの、アンタが思っている以上にね」

「アンタのためじゃない。私達は“自分のため”にアンタの心配をしてるの」


そう私に告げる水瀬さんは、年齢以上に大人びて見えた。


「自分の、ために?」

「ええ。千早に何かあったら私達が困るから」

「そういう意味ならもう手遅れじゃないかしら。散々仕出かした後よ」

「まだそんなこと言ってるの? ホントに察しが悪いわね」


呆れ顔の水瀬さんが、再びため息をついた。

言いたいことがよく分からない。

けれどこれが分かれば、みんなが私に執着する理由も分かるはず。


「仕事なんて二番目なの、私達にとってはね」

「水瀬さんらしくない言葉ね。家族を見返してやるってあんなに言ってたのに」

「全くよね。丸くなったものだわ、この伊織ちゃんも」


でも、仕事が二番目なら一番目は何?

私の失態に巻き込まれたことへの対応よりも、優先すべき大切なこと?

そこに、みんなが私を気に掛ける理由があるのだ。

私にはそれが分からない。

ここで仕事を優先しなければ、みんなの夢は遠ざかっていくばかりだというのに。


「みんな、トップアイドルになるためにあの事務所に入ったはず。それを差し置いて優先することなんてあるのかしら」

「じゃあ千早、逆に聞くわ。アンタはどうしてアイドルになろうと思ったの?」

「それは……」

「私はアンタも知ってる通り、家族を見返す為よ」


水瀬さんは胸を反らせながら宣言した。


「トップアイドルになってどいつもこいつも見返して、悦に浸ってやるためにアイドルになろうと思ったのよ!」


水瀬さんはそう。

では、私は――?


「別にアンタは答えなくていいわよ、わざわざ聞く気もないし」


こめかみに力が入り始めたところで、水瀬さんはあっけらかんと言い放った。


「でも、“アイドルになる”こと自体は目的でもゴールでもない。アイドルになって、“欲しい何か”があったんでしょう?」

「高揚感でも、人々の笑顔でも、自己顕示でも、復讐でも、新しい自分でも」

「アイドルは、それらを得るために選択した手段、ってだけのはずよ」


私は何故あの事務所に入ったのだろうか。

春香に後押しされたことは覚えてる。

でも私はアイドルになって、一体何を得ようとしていた?


「勿論、今だってトップアイドルは諦めてないわ。到達すべき具体目標よ」

「けれど私は、家族を見返すことよりも人気の上でふんぞり返るよりも、“もっと大切なもの”を見つけた。見つけてしまった」

「だから私には……ううん、私達には、その大切なものこそが仕事よりも優先すべき第一なのよ」


そう私に言った水瀬さんは、何かが吹っ切れたように誇らしげだった。


「自分にとって大切なもののためだけに、アンタを心配する。ね? 私達、すっごい自己中でしょ」

「自分勝手な考えだし、良いわよ、私達の心配を面倒に、鬱陶しく思っても。そのせいで私達を嫌いになっても」

「姿を暗ましたいなら水瀬財閥が手伝ってあげるわ。地球の裏側で新しい人生をやり直すくらい余裕よ?」


「でも」


一拍おいて、水瀬さんは再び猛禽類のような鋭い目つきになった。

これ以上譲歩はしないという、決意の瞳。


「私達のためを思って、とか、迷惑をかける、とか」

「そんな頼んでもない下らない理由で私達の想いを、願いを否定することは許さない」

「絶対に、許さない」

「否定するならせめて、アンタ自身のためでありなさい」


言葉はとても静か。

身振りもなく、ただ静かに言われただけ。

なのに水瀬さんの言葉は鋭く研ぎ澄まされたナイフのようで。


「……はぁ、仕事したわけでもないのになんか疲れたわ」


そう言うとまるで何事もなかったかのように、いつもの表情に戻った。


「い、伊織ちゃん……ちょっと言い過ぎじゃないかしら……?」

「別にいいのよ、小鳥。ネジが何本か飛んじゃってるみたいだから、これくらいガツンと言ってやらないと」


塀の陰から、恐る恐る音無さんが姿を現した。

どうやら水瀬さんと一緒に来て、今の始終を見守っていたらしい。


「ほら、現場行くからさっさと車を出してよね」

「うぅ……あたしは運転手じゃないんですけどお……」

「新堂が忙しいから仕方ないじゃないの。満足してあげてるんだから感謝しなさいよ」


涙目の音無さんが、近くに停めてあった車に乗り込む。

私が退院する時に乗せてもらった、小さな軽自動車。


「あ、そうそう、千早!」


助手席に乗り込もうとした水瀬さんが、私の方を見て叫んだ。


「アンタも、もう少し自己中になりなさいよ。人に気を遣ってばかりでも、人生つまらないでしょ?」


水瀬さんが乗ると、音無さんの車はすぐに走り去っていった。

言い残された最後の一言のせいで、頬の痛みが増していった。


『もっと大切なもの』。

水瀬さんはそう言った。

みんなにとって、アイドル活動よりも、そこから得ようとしていたものよりも、何よりも大切なもの。


そういえば、みんなが私を気にかけていたけれど。

誰一人としてアイドル活動については口にしなかった。

私を心配する言葉を発した時、みんなは何を思っていたのだろう。

それこそが、今の私から欠落しているモノ?


私は何のためにアイドルになった?

どうして、あんなにがむしゃらに歌い続けてきた?


「……あ、忘れ物……」


ふと、春香の病室にハンカチを忘れてきたことを思い出した。

少し取りに戻るくらいなら、きっと大丈夫だろう。


受付で忘れ物をしたことを話し、病室へ向かう。

角を曲がって春香の病室が見えた時、扉が開いていることに気付いた。


「……誰か来ているのかしら」


765プロの関係者じゃないといいけれど。

今、あまり会いたい気分ではない。

静かに中の様子を窺うと、そこにいたのはプロデューサーだった。


「千早か?」

「っ……はい」


私の気配を察して、すぐにプロデューサーは振り向いた。

こんな時ばかり勘がいい。


「そんな嫌そうな顔するなよ。お説教とかするつもりはないよ」

「……見てたんですか?」

「たまたまな。個人的に春香を見舞いに来たんだ」


「ハンカチ、取りに来たんだろう。しっかり者でも忘れ物をするんだな」

「はい、ありがとうございます」


置きっぱなしになっていたハンカチを手渡される。

お礼の言葉は何とか絞り出したものの、プロデューサーの顔を見る気になれない。

早く病室を出よう。

今何か声をかけられても、返す言葉は否定も肯定も思いつかない。

私は今、自分自身を見失っている。


「こいつさ、昔からアイドルになりたいって言ってたんだ」


帰ろうとした時、プロデューサーが春香の額を撫でながら言った。


「いつだったかなぁ。急に言い出したんだよ」

「小さい頃から明るかったけど、あんなに目を輝かせてるのは初めて見たな」


思い出すように話すプロデューサーの目は、優しかった。


「毎日毎日、自分なりに試行錯誤してた。ボイトレしたり、振り付けを真似したり」

「でもこんな体質だからな。アイドルを目指すのは愚か、レッスンを受けることすら叶わなかった」

「オーディションのチラシや新人アイドルの番組を見ながら、悔しそうにしてることも多かった」

「そんな春香に感化されたのかな。進路思いつかなかったから、じゃあ芸能業界でも行ってみようかな、って」

「あわよくば、こいつの夢を手伝ってやれたらな、って思ってさ」

「……誰かが助けてやらなきゃ、夢を持つことすら許されなかったんだよ」


私が知っている春香は、いつも笑っていた。

オーディションの様子を話すとワクワクしながら聞き耳を立てて。

収録の様子を話すと続きを急かされて。


けれど、それは本音だったのだろうか。

本当は私の話を聞きながら、内心穏やかではなかったのではないだろうか。

私が気まずくない様に、傷つかない様に、自分の心を押し殺していたのではないだろうか。



いつも明るい春香。

私は彼女のことを、どれだけ知っているのだろう?

毎日のように私の横で笑っていた春香。

アイドルをする私を見ながら、何を思っていたのだろう?


私はいつも、彼女から与えられてばかりだった。

事あるごとに励まされて。

事あるごとに慰められて。

事あるごとに私の背を押してくれた。



私は彼女に何を与えた?

何も与えていない。

彼女が恋い焦がれ、手を伸ばすことすら許されなかったものを享受し、食い潰してきた。

ただひたすらに、春香に甘え続けてきただけだった。


きっと、春香をたくさんたくさん傷付けてきた。

だったらせめて、怒って欲しい。

罵って欲しい。

軽蔑して欲しい。

『如月千早が悪い』と、一言そう言って欲しい。


でも、春香は目を開けてさえくれない。

何を思っていたのかをおくびにも出さず、ひたすら眠り続けている。


怖い。


たまらなく怖い。

私、本当は春香に嫌われていたのではないかしら。

本当は、春香は私の顔なんて見たくもないのではないかしら。

私が勝手に待ち焦がれているだけで、私が勝手に縋りついているだけで――。


「これ、預かってたんだ」


急に声をかけられ、ビクッと肩が上がる。


「春香の母さんがな、お前に渡してくれってさ」


そう言ってプロデューサーが懐から取り出したのは、二冊のノート。

一冊はかなり長い間使っていたようで、表紙が色褪せ始めている。

もう一冊は見たところ、比較的新しい。


「春香のノートだ。中身は見てないからよく分からんが」

「どうして……私に?」

「知らないよ。春香の母さんが、お前に、って言ったんだから」


古い方のノートは、随分前に流行った女の子向けのキャラクターのシールが貼られている。

粗雑に扱えば破れてしまいそうで、鞄にしまうことさえ躊躇われた。


「まぁ見てやってくれよ。わざわざご指名があったくらいだ。ファンレターでも書かれてるんじゃないか?」


そう言ってから、ハッとプロデューサーは腕時計に目をやった。


「やばっ! もうすぐ打ち合わせの時間じゃないか! すまん千早、また今度な!」

「お疲れ様、です」


私の言葉を最後まで聞かず、プロデューサーは慌てて病室を出て行った。

その直後、廊下から看護師の怒り声が聞こえた。


「……どうして、私に……?」


ノートを慎重に抱え、春香を一瞥してから病室を後にした。

続き書くのか書かないのか 書くつもりなら過去分はさっさと投下した方がいいのでは

>>286
やる気がないんだろ。察してやれ
>>1が何も言わない時点でもう…ね

>>286
生活環境の都合で一度に長時間の連続投稿ができないので、区切りのいいところで分けています
また、結果的にそのままにしている部分が殆どなのですが、再投稿に辺り全文で修正をするか否か推敲していて進みが遅いのもあります
投稿が遅くなってしまい、申し訳ありません


帰路につきながら、右手に抱えたノートに目をやる。

表紙の下の方には『あまみ はるか』と拙い字が書かれている。

恐らく、私と出会うよりもずっとずっと前に書かれた名前。


それはきっと、私がまだ、幸せだった頃。


「何が書かれてるのかしら」


ページを開けばすぐに分かる。

でも、それはとても崇高なもののように思えて。

とてもじゃないけれど、歩きながら片手間に読んでいいものではないように思えて。


「……確かそこの公園、ベンチがあったはずよね」


早く、読まなければいけない気がした。


夕暮れを過ぎ、誰もいない公園。

僅かに残った陽に照らされる遊具たち。

楽しい時間が終わりを告げて、誰もいない空虚な遊び場。

そこへ私は足を踏み入れ、ベンチへゆっくり腰掛ける。


鞄を脇へ置き、まずは古い方のノートを開く。

そこには、幼い春香が書き記した、可愛らしい言葉があった。


『わたしのにっき』


それは、私が知らない頃から春香が書き記した、日々の記録だった。

ぱらぱらとページをめくる。

毎日書いているわけではないらしい。

もし毎日書いていたら、ノートは何冊にも及んでいたことだろう。


日記は一つ一つは短いものの、春香らしさが伝わってくる。


『きょうは、ケイちゃんのおうちであそびました』

『テストで90てんもとれました』

『おかあさんがおべんとうにハンバーグをいれてくれました』


たどたどしくも楽しげな笑顔が浮かぶような記録達。

読んでいる内に、会ったこともない幼少の春香とお話をしているような気分になってくる。

笑いながら私に日々のわくわくを報告してくれる春香は、とても可愛らしかった。


『学芸会でまほう使いの役になりました』

『運動会でかけっこに出たけど、ころんでしまいました』

『お父さんの湯のみを割ってしまい、ちょっとおこられました』


あら春香、漢字が使えるようになったのね。

日常の記録であると同時に、微笑ましい成長の記録でもあるらしい。

私が知らない春香を見守る日々は、穏やかで心安らぐものだった。


そんな気分でページをめくっていると。

ある時を境に、様相に変化が出始めていた。


『遊園地に行ったけど、途中で眠くなってしまいました。もうちょっと遊びたかったです』


小学4年生の記録。

それは、春香の人生が大きく狂った瞬間だった。


日記の最初の方にあった、ある言葉。

小学2年生の時の日記に、将来の夢が書かれていた。


『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


アイドルを目指して、音楽の授業や体育を頑張っていること。

テレビに出ていたトップアイドルがとてもかっこ良かったこと。

近所のお兄さんに、アイドルを育てるスクールの存在を教えてもらったこと。

そこに入るために、頑張ろうと意気込んだこと。


日常の報告の合間に挟まる春香の想いは、年相応に夢想的で。

そして、年相応に夢に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた。


そのエネルギーが、遊園地の事件を境に弱まっていく。


『最近、すぐに眠くなってしまいます』

『学校に行けない日が増えてきました』

『体力が減ってきて、激しい運動が辛いです』


春香らしい、楽しげな報告もなくなったわけではない。

それらに挟むことで目立たない様にしてある、けれど滲み出てしまう、悩みと不安。


医者にかかっても、詳しい原因が分からない。

ただ一つ確実だったのは、春香を蝕む何かが、じわりじわりとその力を強めていること。

それは小学生の身にも理解できる事であり。

小さな女の子の夢を挫くには、十分すぎるものだった。


諦める、とは一言も書かれていない。

しかし、その心は明白だった。


その日以降、春香は“夢”について書かなくなった。


家族や友達と過ごす、楽しい時間。

眠る時間が増え、退屈な時間。


『この頃、一人ぼっちな気分になることが増えました』


幸せと不安が入り乱れた日々が少女にもたらす負担。

それは、少しずつ少しずつ、その心身を蝕んでいく。

天性の才能には恵まれず、努力を重ねることも許されない。

それどころか、思うように生きることすらもままならない。

そんな彼女にとって“夢”は、まさしく“夢”でしかなかった。


「っ……」


小さい春香にとって、どれだけ辛かったことだろう。

思うだけで、胸が締め付けられる。


そう思いながらページをめくると、やけに筆圧の強い、力のこもった字を見つけた。


『合唱コンクールに出ることになりました! 本番に向けて頑張ります!』


「あ……」


それは、中学生の頃の記述。

そして、私にとっても思い出深いあの頃。


『音を外しちゃいました……練習しないと』

『ケイちゃんがお見舞いがてら、自主練に付き合ってくれました』

『久しぶりに学校で合唱! 上手くなったって褒められました。良かったぁ……』


相変わらず、病は春香を苦しめる。

それでも、久しぶりに大好きな歌に取り組む春香の日々は、活き活きとしていた。


そしてとうとう、あの日が訪れた。


合唱コンクール当日の日記。


友達と出たコンクールの感想。

一生懸命頑張ってきた、自分への評価。

やり遂げたことへの達成感、不満。


そうしたことは、何一つ書かれていなかった。


書かれていたことは、ただ、一言。


『私、やっぱりアイドルになりたいです』


その日が、一つの分岐点だった。

春香が、自分の生きる道を決意した日。

前に進み続けることを、決意した日。


春香は前へ進み続けた。

病と闘いつつ、努力を重ねる日々。


『少しでも体力をつけるため、ウォーキングを始めました』

『なかなか音がとれません。音痴、治らないかなぁ……』

『お兄さんがプロデューサーを目指すそうです。なれたら、私を手伝ってくれるって!』


また、活気に溢れた春香が帰ってきた。

時折辛くなったり、落ち込んだりすることもあるけれど。

春香は全力で、前に進んでいた。


けれども少し、生き急いでいるようにも見えた。


『あの子の名前を、お兄さんが教えてくれました』


その日記の部分だけ、大きな字で書かれていた。

わざわざかぎかっこを付けて、太字で強調するように記されていた。


『如月千早』


赤い下線を引き。

オレンジ色のマーカーでなぞり。

ハートマークや矢印で周囲を囲み。

ようやく見つけた宝物を自慢するかのように。


私の名前。


春香にとって、如月千早という名前は、とても大きな意味を持っているようだった。


それからしばらく読み進め、時が高校へと移り、しばらくした頃。


「……そう、この頃、だったのね」


書かれた文字を、人差し指でなぞる。

とても懐かしい。

まるで、長く会っていない友人に久しぶりに再会した時のような、そんな気分。


『昨日の夢に、千早ちゃんが出てきました』


その日もまた、大きな分岐点。

私が、春香と初めて出会った日。

今となっては懐かしい、始まりの日。


夢の中で、如月千早と仲良くなれたこと。

765プロには楽しい人達が沢山いること。

近所のお兄さんが如月千早のプロデューサーだと知ったこと。


浮足立った姿が目に浮かぶような日記達。

厳しい現実と懸命に闘いつつも、突然現れた夢の世界に、春香は浸っていた。


その頃から私達の露出も増え始め、春香もそれを自分のことのように喜んでいた。


『みんなが活躍していると、私も勇気が湧いてきます』

『私もみんなみたいになりたいなぁ』


ずきんと、胸に痛みが走った。


少しずつ結果を出していく私達。

それを喜ぶ日記が書かれる一方で、読み進める私の中で、小さな違和感が生まれた。


あまりにも、私達のことばかりが書かれている。

春香自身の話がどんどん減っている。


読み進めてしばらくの内は、大して気に留めていなかった。

自分で言うのも何だけれど、春香は私達にとっても惹かれていたから。

だから、自然と多く書いてしまっていたのだと思っていた。


しかし、それは違った。

明らかにおかしかった。


春香を蝕む力は、再び彼女を呑み込もうとしていた。


あるページに、少し震え気味で、心もとない文字があった。


『私、もう無理だそうです』


一緒に書かれていたのは、担当医からの辛い宣告。


『私は遠くない内に身体を動かせなくなり、二度と目を覚まさなくなるそうです』


何とか耐えて、霞のような夢を追い続けていた春香。

その身体に、とうとう限界が来ようとしていた。




『どうして』

『私、頑張ったのに』

『何も悪いことしてないのに』

『色んなこと我慢して、必死に』

『なんで』

『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』



捲ったページはくしゃくしゃになっていた。

何度も何度も書きなぐり、その度に消しゴムで消し。

感情に任せて紙を握りしめ。

そして、沢山の雫が文字を滲ませ、渇いた跡。


家族に聞こえないように、必死に嗚咽を堪えて震える姿が。

心の中で泣き叫びながら、恐怖と絶望から逃れようとする、壊れそうな姿が見えた。


「っ……」


そのページを見ながら、私は唇の端を強く噛み締める。

少し苦い、鉄の味がする。


私は、何もできなかった。

春香は、こんなに苦しんでいた。


私はただ一方的に、春香の慈愛を受け続けた。

ただ一方的に、春香の優しさに甘えていた。


その裏で、春香はずっと泣いていた。

その辛さを、誰にも吐露することなく。

その辛さを、私に気付かれまいとして。


「ごめんなさい、ごめんな、さい……」


一滴、ページに新たな染みが増えた。


私は、本当に駄目な人でした。


春香の告白は、そこでおしまい。

読み返す気力など欠片もなく、私は日記を閉じた。


「こんなに……こんなに、夢に溢れていたのに」


表紙に書かれた、幼い春香の元気な文字が、一層私の胸を締め付ける。

締め付けられた私の心臓が悲鳴を上げる。


「はる、かぁっ……!」


様々な感情を押し殺して吐き出した名前は、でも、決して彼女へは届かない。


彼女はもう、私の前にいないのだから。


日記を抱え、ベンチにへたり込む。


私には、春香だけが支えだった。

春香がいたからこそ、私は頑張ってこれた。


でも、その春香はもういない。


私は、苦しんでいた春香へ、のしかかるように生きてきた。

私は、きっと、彼女の世界で最も罪深い人間だ。


私は春香に、歌う喜びを説いた。

私は春香に、アイドルの楽しさを語った。

私は春香に、夢を追いかける素晴らしさを教えた。



それは、なんて残酷なことだったのだろう。


「私……なんて、こと……最低……」


自らを貶す言葉すら満足に吐き出せない。

うつむいていた顔を上げると、いつの間にか闇が訪れていた。

曇天の下、星の光は届かない。


「はるか……わたし、は……」


わたしは、わたしは。


鞄と二冊のノートを左手に抱え、右手を空へと伸ばす。

見えない星の光を掴もうとして。

雲の向こうに、彼女がいるような気がして。


「春香。私、酷いことしたわよね」


電球が切れかかり、ちかちかと点滅する街灯の光。


「でも、どうして?」


辛かったはず。

私を見つめながら、歯痒かったはず。


「どうしてあなたは、ずっと私の傍にいたの?」


点滅しながらも、街灯の光は途絶えない。


「どうして、私なんかの……」


昨日、双海さんが泣いた時。

あの時と同じような揺らぎが、また生まれた。


揺らぎは波紋となり、やがてそれは大きな波となる。


どうして?

ねえ、どうして?

答えて。

答えて!


立ち上がって一歩進むごとに、頭の中が掻き混ぜられる。

コーヒーカップを全力で回し続けた時のように。

脳が溶けて、シェイクになっているように。


分からない!

分からない、分からない、分からない!


春香!

あなたは、私に一体、何を見出していたの!?


暗闇と点滅の中、私はおぼつかない足取りで当て所もなく歩き続ける。

不安、怒り、悲しみ、疑念、諦観。

様々な負の感情が入り交ざり、澱んだマーブル模様が出来上がる。


「私……私……!」


パンクしそうな頭を抱え、私はもう何も考えたくなかった。


ふと、街灯が照らす塀の角。

人影が見えた。


「……誰?」


こちらをじっと見つめている。


その輪郭には見覚えがあって。

その髪型には見覚えがあって。


「……!」


その子はじっと、私の方を見つめていた。


「春香!」


私は影へ向かって叫ぶ。


「春香、来てくれたのね!」


見つけた私の声が、意図せず高く跳ね上がる。


ああ、やっと戻ってきてくれた。

ああ、私のところへ帰ってきてくれた!


私は喜び勇んで、影へ向かって声をかける。


「どうしたのよ、春香。そんな隅っこに隠れて」


けれど、影は何も言わず、じっと私の方を見つめている。


「ねえ、春香……どうしたの……?」


影はただ佇み、焦点の合わない視線を私へ向ける。



怖い。


彼女に対して、初めてそう思った。


「ちょっと……は、春香……?」


ぼんやりとした視線は、私を見ているようで、別の何かを見ているようで。


「は、はる……」


私を見透かすように。

瞳の中へ呑みこむように。


「……ぃ」


そして、私は気付いた。

それは、私が最も恐れていた。


「いやあああぁぁああ!」


それは、軽蔑の色。


「いや……」


気付けば。


「やめて……」


民家の窓から。

電信柱の陰から。

通り過ぎる車の中から。


いたるところから、春香は私を見ていた。


「お願い、春香……」


春香は皆一様に、侮蔑の眼差しを私に向けていた。


「そんな目で、私を見ないで……」


私の世界で唯一の光だった、春香。


そんな彼女にまで見捨てられたら。


私は。

私は。


「っはぁっはぁっ!」


怯えながら夜道を走っているうちに、いつかのように動悸が激しくなる。


「許して、許して、春香……!」


散々偉そうなことを考えて、言っておいて。

結局私は、何よりも春香に見捨てられることを恐れていた。


「ぁ……!」


けれど、春香は許してくれない。


自動販売機の明かりの中に、見慣れた姿があった。


「ひっ――!」


その焦点が合わない瞳は、私を呑みこもうと追いかけていた。


私は情けない声を上げ、影を背にして走り出した。

直視したくなかった可能性から目を背けるために。


癇癪を起した子どものように声を上げた。

耳から入ってくる何かをかき消すために。


「あぁぁぁああ! いや! いやああぁぁああ!!」


人目もはばからず、時間も場所も気にかけず。


しかし、どれだけ走っても、春香は私を放してくれなかった。


どれだけ走ったのだろう。

もう叫ぶ気力もない。

疲れた体の支えを求めるように、橋の欄干へ体重を預ける。

橋の上から見下ろした川の水面。


「春香……そこにもいるの……?」


水面にぼんやりと映る月明かりの傍に、見慣れたシルエットが見える。


「ぁ……はるか……」


水面に映る橋からは、私の代わりに春香がこちらを覗きこんでいた。



ああ。


これはもう、春香が私を呼んでいるのかもしれない。


このまま、春香のところへ行こうかしら。


それも、いいのかもしれない。


ねぇ、春香。

私がそちら側へ行ったら、許してくれるかしら?

私がそちら側へ行ったら、また笑ってくれるかしら?


歌って歌って、幸せだった頃のように。

二人で寄り添っていた頃のように。


「春香、私」


欄干から身を乗り出して、私は春香へと手を伸ばした。



ぽたり。


そんな私の頬を、水玉が打つ。

頬を伝った雫が、口に届く。


ぽたぽた。


小さな粒が、私の後頭部を打つ。

降り注ぐ雫は、瞬く間に数を増していった。


「あ……」


水面には、いくつもの波紋が広がった。

そこにいたのは、春香ではなく、私だった。


雨音が大きくなる。

雨粒が私に叩きつけられる。


「っ! は、春香の!」


日記が濡れてしまう。

我に返って、慌てて足元の鞄を抱き上げる。

幸い、鞄は防水性があったようで、中まで染み込んではいない。


「良かった……」


呟いた言葉とは裏腹に、私の心は空模様のようだった。

抱きしめた鞄は、雨に濡れて冷たい。


雨は容赦なく降り続ける。

この時間になると、車も人も通らない。

私は自宅のある方へ歩き続ける。

胸に、鞄を抱きながら。


もう視界に、春香は映らない。


足元の水たまりの中も、

曲がり角のミラーの中も、

そこにいるのは、私だけ。


大切な人さえをも逃げ口にしようとした、醜い私だけ。


春香が、あんな顔をするはずがない。


あの子は、とっても優しい子。

人を怨むくらいなら、怨んでしまう自分を責めるような子。


なのに、私は。


自分が楽になりたいから、醜い役割を春香に押し付けた。


いいえ、分かっていた。

私は昔から、そういう人間だった。

今更なこと。


そう。

私は、春香に何かを望まれるような、そんな人間じゃない。





ねぇ、春香。


あなたはどうして、私の隣にいたの?



>>288
そうでしたか 煽ってすみません 最後まで楽しみにしてるので頑張って下さい

一度エタってる時点で信用できない。>>1の時点で注意書きしとけよって話

ここに投下されるSSでエタらなかった長編がどれだけあるのやら。いちいち目くじら立ててたら身体が持たんよ

遅くなりがちってことくらいはあってもよかったのでは無いでしょうか?
一度落とした内容なら尚更

いまさら噛み付くほどでもないでしょ

>>330
遅く感じられる方には申し訳ないです。
SS速報全体で見れば特に遅くもないため、初見の方も多いだろうということもあり言及しておりませんでした。
また、投稿者レスをしていなかったのは、(以前の投稿の時もそうだったのですが)物語を邪魔しないよう投稿者レスはしたくないという理由もありました。
シリアスな作品だと投稿者のコメントで興醒めしてしまう方もいらっしゃるので……。
結果として説明足らずでやきもきさせてしまい、重ね重ねすみません。


雨粒でない雫が頬を伝った時。

突然、雨が止んだ。


「傘を忘れたのかね?」


声を掛けられて見上げると、傘を差した社長がいた。


「如月君が、雨に打たれながら歩いている姿が見えてね」


そう言うと、私の反応も待たずに、傘の柄を差し出してきた。


「風邪を引くといけない。使いなさい」

「……結構です」


私は社長の視線から逃げるように、速足気味に傘から出た。


「如月君」

「放っておいてください」


誰とも話したくなかった。

きっと、居たとしても、春香とも。


「今日――天海さ――母さ――事――所――」


何かを言っている社長を背に、私は走った。


「――記は――二冊とも――」


雨音が、水を蹴る音が、私の鼓動が。

社長の声を掻き消していく。

水たまりを踏むたびに、私は鞄を守るように身を縮こまらせた。



私は走る。

自分の小さな国へ逃げ込むために。


逃げる?

私はもう、自分のことなんてどうでも良かったのではなかったかしら?


そうだ。

私は変わっていない。

弟を亡くしたあの頃から。





本当は泣き虫で、一人ぼっちで。


弱い弱い、私のまま。




「っはぁっはぁっはぁっ……」


逃げ込んだ場所は、明かりのない、暗い部屋。

まるで私を写しとったかのように。


「イヤ……」


重い身体を引き摺り、雨水を滴らせながら。

部屋の奥を目指しながら、呻くように声を上げる。


「もう、イヤ……」


鞄をベッドの横へ放り出す。

糸が切れた人形のように、私は崩れ落ちた。


「もう……もう……!」


何も、いいことなんてなかった。

このすごろくは、私を苦しめるだけだった。




もう、いいわよね?

私、頑張ったでしょう?


もう、駒を止めても。

もう、休んでも。


いいわよね。


ねぇ、春香?







――。









『お願い、千早ちゃん』


『前に進むことを、やめないで』





……はるか?


春香の声が、聞こえた気がした。

ずっとずっと、聞きたかった。

優しい優しい、あの子の声。


「どこ……はるか、どこ……?」


重い身体に鞭を打つ。

何かに縋るように、声が聞こえた方を見る。


水に濡れた鞄が一つ、部屋の隅に転がっていた。


恐る恐る、鞄を手に取る。


重い。


鞄だけの重さではない。

中に入っている、二つの重さ。


雨音の中で、微かに聞こえた社長の言葉。


『日記は、二冊とも読んだのかね?』


鞄を開けると、表紙の焼けた古い日記とは別に。


もう、一冊。



『Dream』


そう、優しい文字が書かれた表紙。

夢。

私がいつか、どこかに置き忘れてしまったもの。


ノートは全く濡れていなかった。

思っていた以上に、鞄の防水性能が良かったのか。

それとも、何かが守ってくれたのか。


まだ読んでいない、二冊目の日記。

表紙をめくろうとする。


が、指が動かない。


「読まなくちゃ……でも、私……」


凍てついたように、指は動かない。

雨に濡れ、冷えて縮こまった私の心は、あと一歩を踏み出すことができない。


いつか七色に彩られていた心のキャンバス。

今はまるで、埃を含んだ雨水のようにくすんでいて。

幼いあの日、掌から幸せが零れ落ちたあの日。

部屋の隅で泣きもせずに座り込んでいた、あの日のように。


その時、ぴくり、と指が動いた。


私が動かしたわけではない。

自身の意思に反して、勝手に動いた。

誰かが、そっと優しく、私の手を取るように。


「……どうしてかしら」


誘われるように、表紙の文字をなぞった。


「暖かい……」


押し付けた指の腹が、じんわりと熱を帯びる。


夢と書かれた、真新しい表紙。

それを書いたのが春香だと思うだけで、胸が熱くなり、痛くなる。

灰色の澱みに沈みきった私には、眩しすぎる明るさ。


私はこの日記を読まなければいけない。

社長に言われたから?

プロデューサーに渡されたから?

春香のお母さんが、きっとそれを望んでいるから?


いえ、違う。

きっとそれを望んでいるのは、他でもない――


「春香……あなた、なのよね」


そう思うと、不思議と指が動いた。

一体なぜなのかは、自分でも分からない。


春香に会いたいからか。

どんなに小さな光でも、縋りたかったからか。

最早、自分にできることは、何一つなかったからか。


渦巻く脳の荒波には、色々な想いがごちゃ混ぜになっている。

それらが求める、共通の、一つの答え。


「……読ませてもらうわね、春香」


目の前にある彼女の記録を、確かめること。


宝物の輝きが窓の外へ漏れないように。

誰かから隠すように、こっそりと表紙をめくる。


めくった瞬間目に入ってきたのは、元気良く跳ねるような文字だった。


『今日は、アイドル事務所へ面接に行ってきました!』


春香の日記では、有り得ない言葉。


『トップアイドルになって、みんなに笑顔を届けられる人になります!』


それは、彼女がいつか胸に刻みたかった、強い決意で。


そう。

これは、自分の日々を綴った記録ではない。

彼女が想い描いた、そうありたかった自分。

目指すことさえ許されなかった、彼女の在りたかった姿。


私が開いた日記は、天海春香が描いた夢、そのものだった。


彼女は、自らの運命を知っていた。

叶わぬ夢、いずれ訪れる虚無の恐怖。

それでも彼女は叫んだ。


『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


彼女は終わりが近づいても、恐怖を叫ばなかった。

彼女が嘆いたのは、日々の終わりでも、自らの病でもない。


自らの力で、夢を目指せないこと。


この日記は、そんな彼女の、夢。


ページをめくるたびに、彼女の奮闘記が現れる。

どこかの世界であったかもしれない、夢の日々。


『事務所のみんなに挨拶をしました』

『社長も事務員さんも、プロデューサーさんも、候補生のみんなも、みんなみんな優しいです』

『ちょっと周りに振り回され気味だけど、頑張ってやってます』


少し既視感を覚える出来事たち。

新しい世界に心躍る彼女の心が、ほんわりと伝わってくる。


レッスンに取り組む春香。

営業へ赴く春香。

仲間たちと笑い合う春香。

小さなステージに立つ春香。


一行一行が、私の胸をきゅっと締めつける。

辛いから、じゃない。

彼女が綴る出来事の一つ一つが、理解できるから。

自分の身に起こったことのように、理解できるから。

そこから生まれる喜怒哀楽を、理解できるから。

それらが素晴らしい日々なのだと、理解できるから。




理解できる、から?



『律子さんが昔貰ったファンレターを見ました』


『あずささんとコーヒーを飲みました』


『オーディション前に、亜美と一緒に走りました』


『響ちゃんのお兄さんを追いかけてみました』


『雪歩と喧嘩しちゃったけど、仲直りしました』


「痛っ……」


ずきん、と、頭の奥が響いた。

何かをこじ開けるような痛み。

無理矢理詰め込んだクローゼットの扉が、圧力で軋むような。


一行ずつ、声に出して読む。


「美希が遅刻して、みんなで謝りました」

寝坊した本人は、素知らぬ顔であくびをしてて。


「真と二人で、深夜番組のレギュラーを貰いました」

方向性を間違った真の爆弾発言を、必死に修正して。


「番組の収録で、四条さんと旅行に行きました」

露天風呂で格の違いをまざまざと見せつけられて。


「やよいとその家族と、遊園地で遊びました」

連れ込まれたお化け屋敷で悲鳴を上げちゃって。


「真美とのラジオ番組の人気が出てきました」

時折真美の言葉の意味が分からずに聞き返すと笑われて。


「出演したCMは、伊織の実家のものでした」

当の伊織本人は、かたくなに出演を拒んで。


「……どうして、私は知っているの?」


これらは彼女の夢。

叶わなかった、実在するはずのない彼女の夢。

そのはず。


でも、分かる。

日記の出来事があった時、みんなはどんな様子だったのか。

その時、彼女はどんな気持ちだったのか。


『作曲家の方が、歌手として私を指名してくれました』

『重圧に押しつぶされそうだけど、頑張らないと!』


まるで自身がそこにいるかのように分かる。

理解、できる。


「私の、歌を、みんなが……」


読み上げる声が震える。

目頭が熱い。

何かが込み上げてくる。

眼前が滲んで、日記の文字が読めない。


私はそのまま、日記を閉じた。


「どう、して……」


しばしの静寂の後。

代わりに、問いかけの言葉が口から漏れる。

その問いに意味はない。

私はもう、その答えに気付いていたから。


「ぅあぁ……ぁ、あぐぅうぅ……!」


堪えようとする。

けれど、嗚咽は喉の奥に留まっていてはくれない。


ぼろぼろと落ちる涙。

口から漏れる泣き声。


私はもう、我慢することができなかった。


「はる、か」


濡れそぼった情けない顔を、手のひらで覆う。


「私が、そうだったのね」


その日記に記されていたのは、かつて私が春香に語った出来事たち。

彼女が目を輝かせながら、食い入るように聞いていた日々。


『わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!』


病床に臥せる彼女の、たった一つの、大切な想い。





「私が過ごしていた、あの日々こそが」


「あの幸せな、日々こそが――!」



春香が。


あなたが、ずっと追い求めていた、夢だったのね。





ばきり。


頭の中で、閂が折れる音がした。


「私は、ずっと、ずっと」


扉が開く。


そこから差し込み、仄暗い部屋を満たす、強い光。




黄、


緑、


黄緑、


橙、


紫、


浅葱、


桃、


黒、


白、


臙脂。




部屋を彩る、極彩色の輝き。


私がずっと見ていた、夢の輝き。


鮮やかな色たちが飛び跳ねる。


マーブル模様を作りながら、青い光へ入り混じっていく。



辛いことが、たくさんあった。

何度も心が折れた。

何度も何度も、化膿した傷を抉られた。


それでも。

それでも、顔を上げてきた。

前を向いてきた。

前を、向かせてくれた。




馬鹿みたい。

辛さなんて瑣末なことだった。

程度は違えど、誰にでも辛いことはある。

そんな時でも、私には傍に支えてくれる人がいた。


大切なのは、とてもとてもシンプルなこと。



「私はずっと、誰よりも、幸せ、だった」



世界一の大間抜けが、たった一つ気付かなかったこと。



幸せを無下に食い潰していた私を、春香はどう思っていただろうか。


嫉んでいただろうか。

怨んでいただろうか。


違う。


『だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ』


私が幸せを食い潰していても尚、傍にいてくれた。

私を支えようとしてくれた。


幸せに恋い焦がれ。

追いかけて。

手を伸ばして。


でも、それ以上に。


「ずっと私のことを、見てくれてた」


夢の日記の、最後の空白ページ。


「ずっと私のことを、想っていてくれた」


そこには書きかけの、シャープペンシルの筆跡。


「ずっと、私の幸せを、願ってくれていた」


きっともう力が入らなかったのであろう、震えるような『千早ちゃんと』の文字。


「大切な大切な、友達……!」



青い雫が、床に当たって弾けた。


いいえ。春香だけじゃない。


「律子も、伊織も」

「亜美も、真美も、あずささんも」

「真も、萩原さんも、高槻さんも」

「美希も、我那覇さんも、四条さんも」


社長、音無さん。


プロデューサー。


「私は、たくさんの人に幸せを、もらってっ……」


雫が止まらない。

体中の私を絞り出すように、ぽたり、ぽたりと床を打つ。


「あ、うあ、ぅぅぅぅっ……」


声を抑えるので精いっぱいだった。


その時。

ぴんぽん、と。

呼び鈴が鳴った。


「如月君」


さっき聞いたばかりなのに、とてもとても懐かしい声。


「いるんだろう?」


今返事をしたら、情けない声しか出ない。

小さく縮こまり、きゅっと唇を噛み締める。


「皆、心配しているよ」


優しく、荒れ果てた心を宥めるような声。


「先ほどのキミの様子を話したら、ひどく気にしてね」


みんななら、きっととても心を痛めている。

とても優しい人たちだから。

でも、私はその優しさに気付かなかった。

みんなを沢山傷つけた。

そんな私が、今更――。


「予定も入っていたというのに、皆そっちのけだよ」

「かく言う私も、人のことは言えないのだがね?」


その言葉を聞いた途端。

まるで自分の足とは思えない勢いで、弾くように床を蹴った。


急いで玄関のドアを開けると、社長がにこやかな表情で立っていた。


「やっと出てきてくれたね」


間近で声を聞いて、また涙が溢れてきた。


「社長、わた、私……わたしっ……!」

「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


階段の方を向くように、肩をゆっくり押された。

温かな体温を肩に感じながら、私は階段を駆け降りた。


足がふわりと浮くように軽い。

私じゃない、誰かの力が身体を動かす。

行きたい、走りたい、早く降りたい。

私がそう思うたびに、何かが私を引っ張る。

誰かが、私の手を引く。


誰もいないそこに、誰が居るの?

私の隣に今、誰が居るの?


分かってる。

ずっとずっと、隣に居てくれたのよね。


階段を駆け下りてマンションを飛び出す。


「っはぁっはぁっはぁっ……」


足を止める。

いつの間にか、雨は止んでいた。


街頭がいくつもの影を照らす。

大小様々な、色とりどりの影たち。


「……こんな時間に、何、してるのよ……」


目にするなり、こんな悪態をつく自分が嫌になる。


でも、そんな強がりでも口にしてないと。

そのまま、崩れ落ちてしまいそうだったから。


その中で、ひと際強く光を映す金髪。

マンションから飛び出した私を見つけ、その長髪が揺れた。


「……千早、さん?」


恐る恐る、様子を窺うような声。

何かに怯え、震えながらも、返事を欲しがる子どものような声。

久しぶりに聞いた気がする声が、たまらなく愛おしくなった。


「み、き」


震えていた黄緑の光が、ぴくりと跳ねる。

そして、すぐさま私の方へ駆けだした。


「千早さぁん!」

「きゃっ……!?」


顔を涙でびしゃびしゃに濡らしながら、美希が飛びついてきた。


「千早さんだよね、如月さんじゃないよね?!」

「っ……馬鹿ね、美希。如月さんでも、合ってるわよ……」

「違う、違うよ! 千早さん! 千早さんなの!!」


大粒の涙をぼろぼろと零す美希。

子どものように泣きじゃくる彼女を、強く抱きしめる。

暖かい。

この子は、なんて暖かいのだろう。


「お姉ちゃあん!!」

「ちはっ……ひぐ、千早お姉ちゃあん!!」


美希の後を追ってきた二人が、私の両腕にそれぞれ抱きつく。

いつか、深く深く傷つけてしまった黄の光。

もう絶対に、この腕は払わない。


「亜美、真美」

「千早お姉ちゃん、行かないで! もうどこにも行かないでよぉ!」

「行かないわ、どこにも、決して」

「遊園地、遊びに行くんだかんね! 指きり、したんだからぁ!」

「もう……行くのだか行かないのだか、分からなくなってきちゃうわよ……」


ああ。

そうだったのね。

今更気付くなんて、本当に馬鹿みたい。

私がアイドルを続けていた、一番の理由。


顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。


「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」

浅葱。


「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」

黒。


「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」

白。


「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」

橙。


「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」

緑。


「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」

紫。


「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」

臙脂。


「本当よ。なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」

桃。


私が、ずっとアイドルを続けていたのは。


「音無さん、社長はどちらに?」

「千早ちゃんが来たからそろそろ……あっ、社長!」

「うぉっほん! いやあ、我が事務所のアイドル達が勢揃いすると壮観だね」


歌いたいから。


「はい、千早ちゃん。ちょっと熱いけど」

「ありがとう、萩原さん……熱っ」

「だから雪歩が熱いって言ったのに。ただでさえ身体が冷えてるんだからさ」


それだけでは、なかった。


「折角の女の子の髪が台無しよ?」

「すみません、あずささん」

「ミキに貸して! 綺麗にしてあげるの!」

「ミキミキ、まだ手が震えてんじゃん」


私は心のどこかで気付いていた。


“もっと欲しい大切なもの”。

仕事より優先する第一のこと。


この暖かい場所に居たい。

この幸せに包まれていたい。

やっと見つけた居場所を手放したくない。


この場所だから、歌いたい。

この場所で、歌い続けたい。


そんな、簡単な理由だった。


目をつぶると。

たくさんの声が聞こえてくる。


なんだかまるで、幻のようで。

部屋に飛び込んだ時、そのまま微睡んでいたのではないかしら。

そのまま、夢でも見ているのではないかしら。


ふわふわと浮いているような感覚。

そんな私を、声が呼ぶ。




ねぇ、千早ちゃん。


起きて?



「あ……」


目を開けると。

みんなが、そこにいた。


「……ち、千早っ!? ど、どうしたんだ!?」

「え?」


プロデューサーが、おろおろとした様子で尋ねる。

けれど私は、そんな質問をされる覚えがない。


「何か辛いのか?」

「え、どうして……」


ぽたり。


「あ」


雫が落ちた。

それは確かに、私の目から零れた。


「あ、れ……」


止まらない。

落ちた雫が、手の甲に当たる。


「おかしい、です」

「何がだ?」

「止まらない、んです。涙」


別に悲しいわけじゃないのに。

痛いわけでもないのに。


それに、暖かい。

水なのに。


「あ……駄目、私……」


堪えなきゃ。

両手で顔を覆う。

今気が緩んだら、もう。


「いいんだよ」


そう思ってた私を、プロデューサーが制した。


「我慢しなくていい。もういっぱいいっぱい、我慢してきただろう?」


顔を隠す私の手が、下ろされた。


「おかえり」


そしたら、待ち構えていたように。

みんな、そんな風に、笑顔で言われたら。


「っ……!」


私、言えないじゃない。

一言しか、言えない。


いいんだよ、それで。


いいのかしら、それで。


みんな、その言葉を待ってるよ。




だから、私は。

とびっきりの情けない泣き顔で。


「ただ、いまぁっ……!」


涙で顔をぐしゃぐしゃにして、答えた。



もうそこから先は、何も喋れなかった。

小さな子供みたいに、声を上げた。


私、ずっと孤独だった。

ずっと一人じゃないと駄目なんだって。

これからずっと、一人なんだって思ってたの。


「うあ、あ、あぁぁあ、うっく、ぁぐ、ひぐ、うぅぅぅ」


でも、みんなが。

みんなが、いていいんだよって。

わたし、ここにいていいって。


みんなが代わる代わる、抱きしめて涙をふいてくれる。

でもふいてもふいても、すぐに溢れるの。



「千早ちゃん」


そんな私の頭を、あの子の声が優しく撫でてくれる。


「我慢しないで、いっぱい泣いていいんだよ」


泣きじゃくる私は、声を上げることもできない。

上げてもその声は、きっと、あの子には届かない。


「泣いてる間は、本当の自分と向き合えるから」


そっと触れる声は、悲しいくらい冷たくて。


「誰よりも素敵な、千早ちゃんと」


私を見つめるその声は、寂しそうに潤んでいて。



春香。

私は、やっと居場所に気づけた。

でもここには、あなたも必要なの。

ねえ、春香。

春香!


あの日から私の前に立ちふさがる、分厚い扉。

いくら叩いても、もう彼女の声は聞こえなかった。


私は四角いさいころを、ぎゅっと握りしめた。


その時。

何かがそっと、私の肩に被せられた。


「ん……」


その拍子に、分厚い扉ははたりと消えて。

私の前にあったのは、柔らかな感触だった。


「あれ、ここは……」

「っと、起こしちゃったか」

「プロデューサー……?」


鼻腔をくすぐる、薬品の匂い。

気づくと私は、春香が眠るベッドに突っ伏していた。


「あれ……私、なんで春香の病室で……」

「あの後みんなでお見舞いに来て、寝ちゃったんだよ」


あの後とは、マンションの前でのことだろう。

錯綜する記憶をこねくり回す。

朧気ながら、泣きながら春香のことを話したのを思い出した。


「きっと疲れてたんだろう。仕方ないさ」


プロデューサーは苦笑した。

寝ぼけた頭を叩く。

埃が舞い上がるように、意識が乱れてくらくらした。


「今、何時ですか?」

「ちょうど日付が変わるくらいだな」


日付を跨いだら魔法が解けて、春香が起きたりしないだろうか。

そんな逃避的な思いを巡らせる。

けれどそばで寝息をたてる春香は、いつものままで。

死んだように、穏やかなままで。


「病院に泊まってくか? 帰るなら送っていくよ」

「大丈夫です。一人で帰れますから」

「時間が時間だ。大切なアイドルを一人で帰せるか」


大切な、アイドル。

私を許してくれるその言葉が、嬉しくて、嬉しくて。

そして春香の隣では、少し苦しくて。


夜風が冷たい帰り道。


「ずっと聞きたかったんだが」

「何を、ですか」

「夢の中での春香は、どんな様子だった?」

「春香の、様子……」


白い息を吐きながら、プロデューサーが訊ねてきた。

目を閉じて、春香との日々を思い出す。


「あの子はいつも、笑っていました」


いつも明るくて、朗らかだった。

冷えて縮こまった私を照らすように。


「でも、最後に話した時」


思い出す。

ドアの向こうから聞こえた、涙声を。


「春香は泣いていました」


最後の最後で思わず溢れてしまったのだろう。

彼女のもう一つの、本当の気持ち。


「静かな寝顔だけれど、きっとまだ、あの子は泣いています」


みんなに抱き締められた時に聞こえた、か細い声。

春香は私に、勇気をくれた。

でも私はまだ、春香に何もあげていない。


「千早はくれたよ、沢山のものを」


プロデューサーの声が、夜道に小さく響いた。

私の自己否定を、否定する声。


「本当なら、春香がああなるのはもっともっと早いはずだった」


プロデューサーは立ち止まり、僅かに振り返った。


「千早と出会った頃から、あの子は前にも増して明るくなったよ」

「でも……結局、何もできてないじゃないですか……!」


春香は今、眠りについている。

それが、全てじゃないですか。


「お前の悪い癖だ」

「いたっ」


こつん、とプロデューサーのゲンコツが落ちた。


「そうやって、また引きこもるつもりか」

「……すみません」

「そんなマイナス思考じゃあ、この先のアイドル生活が思いやられるな」


見上げると、プロデューサーは笑っていた。

そこに、陰は僅かもなかった。


「悔いてどうにかなるなら、それでもいいんだけどな」


ゲンコツが落ちたところを軽く押さえる。

まだ少し、痛い気がする。


「残念なことに、俺達はやり直せない」


『これから何を為すのか』。

それしか選ぶことはできないと、プロデューサーは呟いた。


それなら私は、春香に何をしてあげられるのだろう。

どうすれば春香は、また笑ってくれるのだろう。


春香は死んだように眠っている。

でも、死んでいるわけではない。

また、笑って欲しい。

また、私の隣で。


「分からないんです」


春香に笑ってもらうために。


「私には一体、何ができるのでしょうか」


強いプロデューサーなら、きっと。

何か答えをくれる気がして。


「俺達にできることなんて何もないよ、千早」


けれどプロデューサーからの返事は、非情なものだった。


「できる、なんて確信を持って言えるのは、余裕と力のある人間だけだ」


当たり前のことを言うように、その声に躊躇いはなかった。


「俺達は医者でも超能力者でもないし、春香の目を覚ます確かな術なんて持ち合わせていない」

「もし自分が何か"できる"と思ってるなら、それは思い上がりだと、俺は思う」


その言葉は、私に向けられたものなのだろうか。

それとも、プロデューサーの脳裏を過ぎるのは。


「……随分、酷いことを言うんですね」

「あはは、意味を取り違えないでくれよ」


取り違える?


「できることなんて何もない、だから俺達は"する"しかない」

「"する"?」


思わず聞き返す。


「その結果が実を結ぶなんて保証は誰もしてくれない」

「でも、もしかしたら、もしかしたら小さくとも何かに繋がるかもしれない」

「そんなあやふやな何かを信じて、良かれと思って進むしかないんだ」


「1+1の計算は、"できる"」

「スポーツ大会での応援は、"する"」

「それなら、哀しむ誰かに笑ってほしくて、励ますのは?」

「大好きな人に喜んでほしくて、プレゼントを贈るのは?」


指折り数えながら、プロデューサーの言葉を心の中で復誦する。

少しずつ、プロデューサーの言葉が染み込んでくる。


「それが、"する"ですか?」


少なくとも、俺はそう思うよ。

プロデューサーはそう言って、小さく笑った。


少し間が開いたのち。


「だから、プロデューサーになってしばらくした時、決めたんだ」


そう、呟いた。


「春香の病は、俺にはどうにもできない」

「ならせめて、あの子が元気になれた時に、良かれと思うことをしようと」

「なんとなくで始めた道を、本気で進もうと思った」


プロデューサーは、ずっと、ずっと。

その遠い未来を信じて、歩んできた。

あやふやな何かを、今も信じている。


あの子の姿を目の当たりにして。

辛く、哀しくても。

身と心を削りながら、それでもあやふやな何かを信じている。


やっぱりとても、強い人。


そう、思った。


私も、強くなれるだろうか。

私も、強くあれるだろうか。


私も、強くありたい。


「プロデューサー」

「ん?」


だから、宣言をしよう。


「私も考えてみようと思います」

「自分がこれから、"する"ことを」


まずは、意志を。

あやふやな何かに繋がる、最初の一歩を。


「今の千早、いい顔してるぞ」

「そうですか?」

「自然な笑顔、久しぶりに見た気がするよ」


丁度アパートの前に着いた時、そんなことを言われた。


タクシーを探しに大通りへ向かう姿を見送りながら。

頬に手をやると、僅かに力が入っていた。


ひとりぼっちの部屋で。

ベッドに身体を投げ出し、天井の明かりを見つめる。


"自分がすること"。


それは一体何?


"自分がしてあげたいこと"


それは一体何?


目の前に春香が居れば、次々と湧いてくるかもしれない。

笑わせるとか。

お話をするとか。

身だしなみを整えてあげるとか。

美味しいものを食べさせてあげるとか。


「でも、そうじゃないの」


今、私がどうしたいのか。

今、私は何を考えているのか。


色々なものに、人に、助けられ。

色々なものを、受け入れて。


そんな今の私だから、すること。

そんな今の私だから、したいこと。


結果が実を結ぶなんて保証はない。

それでも。

私が心の底から、純粋にしたいこと。


あの時突き放してしまった、愚かな私が。

恥知らずだろうとも、あの子に伝えたいこと。

心に秘めた、一つの気持ち。


この気持ちが、春香に届きますように。


そのために、私はするの。

何かを、絶対に。

エタった?


それから日々、悩むことが日課になった。


「千早、コーヒー飲むか?」


事務所の給湯室から漂う、香ばしい香り。


「ありがとうございます、プロデューサー」

「あまり根を詰めすぎるなよ」

「いいんです。何かしていないと、私も落ち着かなくて」

「……プロデューサー殿、千早に何か吹き込んだんですか?」

「こ、怖い顔するなよ」

「大丈夫よ、律子。別に嫌な悩みとかではないから」


ならいいけど、と。

煮え切らない声が、尖らせた口から小さく聞こえた。


悩んではいる。

やきもきするし、時々いらいらもする。


けれど、嫌ではなかった。

悩むことが心地良い。

悩む度に前へ進む気がする。


そしてその悩みの答えは、そう遠くはない気がする。

きっと私は、もう知っている。

あとは私が、それに気付くだけなのでしょう。


そして私は、夢の中で。

部屋で一人、すごろく盤を眺める。

セロテープで張り合わせたシート。

その向こうには、一枚の姿見。

そこに映るは、私の姿。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝わるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

言葉に合わせて、小さく動かす。


いつか扉に巻き付いた鎖。

固く掴んで放さない南京錠。

それらは、もう無い。


けれど、扉の向こうからは誰も来ない。

こちらからも、開けられない。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝えられるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

口を、ぱくぱく。


「っ!」


慌てて起きる。

目を覚ます。

時刻は深夜二時。


「……っはぁ、っはぁ……」


少し、息が荒い。

その動悸は、恐怖からではなく。


「ああ、そうね……」


冴えた頭が、私に答えを指し示す。

私が、すること。

考えてみれば、そんなことは最初から一つしかなかった。


「プロデューサー、お願いしたいことが」

「お願いとは珍しいな」


翌日、事務所へ赴き開口一番。

事務所の視線が、私に集まる。


「で、なんだ?」

「春――」

「待て、悪い、電話だ」


私の想いを遮るように、小さな鳴動。

プロデューサーの携帯電話。


「はい、765プロの……ああ、これは……お世話になっております……」


会話から聞こえたのは、覚えのある名前。


「千早さん、ちょっとムッとしてるの」

「そんなことないわ」

「ううん、してるしてる。でもそういう顔してくれるの、嬉しいな」

「じゃあ美希に話しかけられたら、いつもこういう顔しようかしら」

「ヤなの。千早さんのいじわる」


二人で小さく笑う。

この小さな幸せも、春香が居たから。

だから私は、伝えるために――。


「話し中に悪いな、千早」

「いえ、お仕事ですか」

「ああ。で、いきなりで悪いが」


プロデューサーも、小さく笑う。


「ムッとしてる機嫌直して、ついてきてくれないか」


連れて行かれたのは、とあるスタジオ。

馴染みのある、小さな小さな収録スタジオ。


「お待たせしました」


プロデューサーがドアを開ける。

御足労頂き申し訳ない、と、その人は言った。

電話の主は、よく知る作曲家。

かつて歌った、幸福の象徴の歌。

それを、生み出した人。


眩暈がした。


私の存在は、この人の"子"を貶めた。

私が関わらなければ、あの歌は今も世に愛されていたはずだった。

けれど今、あの歌が表に出ることは殆どない。

あれだけの歌が。

私が、殺してしまって――。


「千早」


プロデューサーの声が、私の頭を止めた。


そうだ。

今の私には、過去を悔いる暇も資格もない。

全ては既に結果となってしまっている。

あれこれ考えたところで、何も好転はしない。


私はただ、作曲家の方が私を呼んだ理由を聞くだけ。

聞いて、謝罪でも何でも、誠意を尽くすだけ。


心を落ち着けて、改めて向き合った。

その時だった。




"ずっと待っていた"。



今、なんて?

思わず、自分の耳を疑った。


聞き違いか何かだろうか。

隣に立つ、プロデューサーの顔を見る。

プロデューサーは笑って、前へ向き直るよう促した。

目の前に立つ人は、尚も言葉を続ける。


"如月千早のための歌を、贈るために"。


優しい笑顔で右手が差し出された。

一枚の、白いCD-ROM。


震える手で、恐る恐る受けとる。

プロデューサーが音響機材の電源を入れる。


「聴かせていただくか?」


機材のランプが灯る。

私はおぼつかない手つきで、ディスクを入れるためのボタンを押す。

白いディスクをはめながら、遥か遠くのように思えるあの日を思い出す。

そういえばあの日、この人は確かに言った。

私のために、歌を書きたいと。


「ずっと、気にかけてくださっていたんだ」


震える私の手を、プロデューサーの手が支える。

助けを借りて、ディスクは機材に呑み込まれた。

カラカラとディスクが回る音がする。

機材の左右に並ぶ、大きなモニタースピーカーへ顔を向ける。


「千早が立ち直ったら、どうしても渡したいものがある、って」


プロデューサーが、再生ボタンを押した。



初めに聴こえたのは、ピアノの旋律だった。


優しく、私を抱きとめるような音が聴こえた。

暖かい音が、耳から全身へと伝わっていく。


「ダメです。この曲は」


私は、反射的にそう答えていた。


「ダメって、お前……」


プロデューサーが不意をつかれたような顔をする。

作曲家の方は表情を変えず、私をまっすぐ見つめる。


「この子は、ダメです」


こんなに優しくて、こんなに暖かくて。


「この子は、私のところなんかに来ては、ダメなんです」


こんなに、愛おしい子は。


けれど、その人は迷わず答えた。

如月千早のところでなければダメだ、と。

その子は、如月千早に会うために生まれてきたのだ、と。


その時スピーカーから、産声を上げるように弦楽器が響いた。

私は、何も言えなかった。


「千早、歌えるな」

「……」

「歌って、くれるな?」

「……はい」


私はずっと俯いたままで。

顔を見られないよう、小さく頷くことしかできなかった。


次の瞬間。

パチリ、と。

私の中で、ピースがはまる音がした。

機材の電源を落とすプロデューサーに、後ろから声をかけた。


「プロデューサー、さっき事務所で話そうとしたことですけれど」

「なんだ?」

「私、したいことが見つかったんです」


パソコンから取り出したCD-ROMを胸元に抱える。

大切に持ちながら、電話に遮られた話をする。


「へえ、何をしたいんだ」

「伝えたいんです、春香に」


さっき聴いた旋律を思い出す。

一度聴いただけなのに、脳裏から離れないメロディ。

それを思い浮かべるたびに、春香との日々を思い出す。

そして、彼女が最後に願ったことを。


伝えたいんです。

私の気持ちを。


「だから、歌おうと思います」


きっと、今日の出会いは。

この子との出会いは、このために。


「そのために、お二人にお願いがあるんです」

「お願い?」

「この子の詞を、私に書かせていただけませんか」


二人は互いに、意外そうに顔を見合わせた。


「私は、詞をうまく書けるわけではありません」


これまで筆をとったことは殆どない。

こんな素晴らしい歌に、そんな拙い詞を付けていいかも分からない。


けれど、これが一番の方法だと思ったから。

私の気持ちを届ける方法。

私の想いを、私の言葉で、私の歌で、全ての人に。

それが、春香が望んでいたことに、最も近づけると思った。

それが、春香との指切りに、最も近づけると思った。


「ご納得頂けるまで、何度でも書き直します」

「少しでも良くするために、どんな努力も惜しみません」

「だから……だから、お願いします!」


「いやあ、千早は話が早くて助かるよ」

「え……?」


私の肩を、プロデューサーの手がぽんぽんと叩く。

下げていた頭を起こすと、目の前の二人はにこにこと笑っていた。


「実はもう一つ、ご依頼があってね」

「詞を、千早に書いてほしいそうだ」


プロデューサーの言葉に、初老近い作曲家の方は、少し皺を浮かべて笑った。

如月千早のための歌なのだから、如月千早の想いを込めてほしいと。


「奇しくも、お互いに同じことを考えていた、ってわけだ」

「いいんでしょうか、私で」

「たった今この口で、自分にやらせてくださいって言ったじゃないか」

「あぐ、あう」

「今更ノーは許されないぞ、千早」


プロデューサーが意地悪そうな笑みを浮かべて、私の両頬をぐっと押す。

不安を口にしようにも、まともに発音できなかった。


プロデューサーの車で事務所へ戻る途中。

運転をしながら、プロデューサーが口を開いた。


「ああ、そうそう。千早の復帰ライブをやることが決まった」

「えっ!?」

「そのライブが、表立っての復帰後初仕事だ。気合入れろよ」

「あの、先ほどの歌は」

「そのライブでお披露目だ」

「……あまりにも、急では」

「千早が戻ってきてくれたのがみんな嬉しくて、ついつい張り切っちゃってね」


やや否定的な言葉とは裏腹に。

自分の心が、熱を帯びていくのが分かった。


パズルのピースが、一つ一つはまっていく。


散々遠回りしてしまったけれど。

沢山の人に迷惑をかけてしまったけれど。


もう、迷わない。

私は、前へ進もう。


沢山の想いと共に。

私の想いと共に。


あの子が夢見た光景を。

あの子が願った光景を。


夢で終わらせないために。

私が、"する"ために。


誰もが寝静まった頃。

私は一人、閉ざされた部屋にいた。


足元には、くしゃくしゃになった紙の山。

書いては捨て、書いては捨て。


「……自分の気持ちを表現するのが、こんなに難しいとは思わなかった」


自分以外誰もいない部屋でひとりごちた。

くすくすくす。

当然よね。

これまで私は、誰かに伝えるなんてこと、していなかったのだから。


どれだけ書き続けていただろう。

投げ捨てた紙屑が何かに当たり、ころん、と音がした。


「あら、何の音かしら……」


筆を置き、我に返る。

すっかり固まってしまった身体を伸ばし、目線を上げる。

いつか固く閉ざした、重々しい扉。

その横に、人が通れるかどうかくらいの小窓があることに気付いた。


痺れる身体に鞭を打ち、立ち上がる。

小窓の中からは、何やら賑やかな喧騒が聴こえた。


「ねーねー、千早お姉ちゃん。何書いてんの?」

「真美にも見せてよ!」

「ふ、二人とも肩に乗らないで……新曲の歌詞よ」

「えっ!? 千早お姉ちゃん新曲出すの!」

「あ、亜美、耳元でそんな大きな声……」

「ほんと!? みっせてみせてー!」

「ま、まだ全然できていないから」


やんちゃな二人に振り回されていると。

ふと、のしかかっていた二人の重さがなくなった。


「こーら、二人とも! 千早の邪魔しない!」

「ぎゃー! りっちゃん!」

「ごむたいなー!」


眉間に皺を寄せた律子が、二人を私から引き剥がした。


「大丈夫よ、律子」

「そう? でも双子はさておき、手元は何やら行き詰ってるみたいじゃない」

「いざ歌詞を書くとなると……言葉ってなかなか出てこないものね」

「商用作詞なら兎も角、本当の想いを歌にするのは難しいわよね」


二人の襟をつかんだまま、律子は笑う。

掴まれた二人も、文句を言いつつ笑う。


「思ったことそのままずばーっと歌詞にしちゃえばいいじゃん!」

「亜美、それが出来たら千早も悩まないわよ」

「じゃあ真美も手伝う! 千早お姉ちゃんはどんな歌にしたいの?」

「どんな歌に……そうね」


私が歌詞に込めたいのは。


「春香に教えてもらったこと……春香に伝えたいこと」

「千早お姉ちゃんってば、ほんとにはるるん好き好き人間ですなー」

「まぁた真美は人に勝手にあだ名付けて……」

「いいじゃん、りっちゃんはイチイチお小言さんすぎるっしょ」

「ふふふ、いいんじゃないかしら。あの子なら喜ぶわ」


はるるんなんて、あの子らしい可愛いあだ名。

誇らしげな真美を尻目に。

律子はため息をついてから、私を見た。


「なら、天海さんに会いに行ったらどう?」

「春香に?」


思いもよらぬ提案が、耳に飛び込んできた。


「ここ最近、それに集中してて病院行ってないでしょ」

「言われてみると……」

「天海さんと会ってゆっくりすれば、少しずつ考えもまとまるかもしれないし」


確かに最近、あまり病院に行っていない。


「千早は一回悩むと、外に目がいかなるところがあるわよね」


私もだけど、と呟く声が聞こえる。


律子に言われて気付いた。

たまに会いには行っているけれど。

最後に春香とゆっくり向き合ったのはいつだっただろうか。

ノートを受け取った時?

みんなと涙を流した時?


「亜美も行く!」

「真美も真美も!」

「何言ってるの、二人とも邪魔しないの!」

「えーっ!?」

「なんでー!?」

「あんた達、今までの話の流れ分かってた!?」

「ごめんなさい、二人とも。行ってくるわ」


ぽんぽんと二人の頭を撫でる。

二人とも口をへの字にしつつも、渋々納得したようだった。


「今度は亜美達も行くかんねー!」

「抜け駆けは許さないっしょ!」

「はいはい。その時は一緒に行きましょう」


もう、可愛い頬を膨らませて。

何気ない幸せを背にして、事務所を出た。


春香の病室に入ると、思わぬ先客がいた。


「あら、千早ちゃん」

「あずささん、どうしてここに?」


小さな寝息をたてている春香の横で。

丸椅子に腰かけたあずささんが、にこにこと振り向いた。


「時々お見舞いに来てるのよ」

「お知り合いだったんですか?」

「うーん、お話ししたことはないけれど」


あずささんは頬に手をやり、考え込むように首を傾けた。


「春香ちゃんは、私たちのことをよく知っているんでしょう?」

「はい」


私が事務所で感じたこと。

みんなと共有した感情や経験。

それらを全て聞いてきた春香は、もう一人の私と言ってもいい。


「それに、仲良くしたいと思って……くれていたのかしら?」

「……はい」


事務所のことを聞くたびに。

春香は自分もその輪の中に入りたいと思っていたのだろう。

夢のノートにもそんな日々を書き連ねて。


「みんなの話をするたびに、目を輝かせていました」


誰かが体調を崩せば心配して。

誰かが前に進めば両手をあげて喜んで。

まるで、自分自身の友達のことのように。


「なら、今度は私たちがお話を聞いてあげないとね」

「きっと、春香ちゃんも話したいことが沢山あるんじゃないかしら」


あずささんは春香を見て微笑んだ。


「私たちのことをよく知っていて」

「こんなに辛い中で、私たちと仲良くしたいと思ってくれて」


あずささんが優しく春香の頬を撫でる。

慈しむように、優しく優しく。

春香を見つめるあずささんの目は、僅かに潤んでいた。


「私たちも春香ちゃんと、お友達になりたいの」

「というより、どうしてか他人には思えないのよ」

「ずっとずっと……一緒にいたみたいで」


あずささんがそう呟いた時。

病室の扉を、誰かがノックした。


「入っても大丈夫ですか?」


確認してから恐る恐る入ってきたのは、萩原さんだった。

急須と湯呑が載ったお盆を持って。


「あ、千早ちゃんも来てたんだ」

「萩原さんも一緒だったのね」

「だって、あずささん一人だと……」

「あ、あら?」

「……ふふふ、なぁんて。私も春香ちゃんに会いたくて」


そう言って、三人で小さく笑った。


「二人のお邪魔しちゃ悪いよね」

「そんな、気を遣わなくても」

「いいのよ。私たちも結構ゆっくりしちゃったから」

「このお茶、二人で飲んでね。それと……」


そう言って、萩原さんは鞄から小さな箱を出した。


「貰い物だけど、和三盆。すっごくお茶に合うから」

「ありがとう、萩原さん」

「春香ちゃんって、甘いもの好きかな?」

「好きだと思うわ、お菓子作りが趣味ですし」

「わあ……。だったら今度、和菓子も作ってくれないかな」


あれこれと妄想を膨らませる萩原さん。

ええ、きっと美味しい和菓子を作ってくれるわ。

自分のお菓子を萩原さんに食べてもらいたい、と言っていたから。


「それじゃあ、私たちは行くね」

「千早ちゃん、また事務所でね」

「はい。あずささん、萩原さん、また」

「うん、またね。ってあずささん、入り口はこっちですぅ!」

「あ、あらあら~?」


慌ててあずささんの服を引っ張る萩原さん。

ふふふ、どこであっても賑やかな事務所。

こんな中に春香まで増えたら。

それはそれは、きっと大変なことになるでしょうね。


「それじゃあ、萩原さんのお茶とお菓子をもらいましょうか」


春香に声をかけると、すぅすぅと返事があった。

全く、春香ったら寝坊助なんだから。


あずささん達が開けたのだろうか。

窓から風が吹き込み、私たちの顔を撫でる。


「髪、乱れちゃったわね」


春香の前髪をかき分けながら、小さく笑う。


「私、今、詞を書いているのよ」

「なかなか自分の気持ちを言葉にできなくて」

「難しいのね、歌にするって」


お茶を一口啜る。

ほんのりと柔らかく。

茶葉の甘味が、口内に沁みた。


「いっぱい、いっぱいあるのに」


湯呑みを持つ手に力が入る。


「あなたに伝えたいこと」

「あるのに、分からなくて」

「なんて歌ったら、この想いが伝えられるのか」


ペンを握りしめて。

紙を握りしめて。

それでも、あなたに伝えるコトバは出て来ない。

溢れかえりそうな想いも、その形を成さない。


「私、一人じゃ何もできないのね」

「あなたが一緒にいた時は、何でもできる気がしたのに」


あなたが、隣にいただけで。


「高校で一人ぼっちになった時」

「夢の中で会った時」


初めてあなたに出逢った時のことを思い出す。


「あれからもう、随分経ったような気がする」

「あの頃は、あなたの名前すら知らなかった」


あなたはいつも、千早ちゃん、千早ちゃん、って。

楽しそうに私にくっついてきて。


「そしてあなたは、たくさんのものをくれた」


私に足りなかったもの。

私が欲しかったもの。

心のどこかで、私が望んでいたもの。


「でも、皮肉ね」

「そんなあなたから沢山の言葉をもらったのに」

「いくら春香の名前を呼んでも、私の声は届かない」


こうして、手を握れるほど傍でも。

私の声は、彼女に届かない。


「届かないんじゃない」

「届けられない」

「あなたの名前を呼んでも」

「その後に伝えたい言葉が出て来ない」


どうして。

伝えたい気持ち、こんなにあるのに。

感情は波濤のように溢れかえっているのに。

それをコトバにしようとすると、泡沫のように消えてしまう。


想いとコトバが一致せず。

私の中で、奇妙な違和感がせめぎ合う。


ピタリと、思考が止まる。


「痛っ……」


ピリッと、小指に刺激が走った。

見ると、小さく赤い筋。

湯呑みを置いて手を引っ込めた時、傍の紙で切ってしまったらしい。


「いたた……絆創膏、持ってたかしら」


鞄の中を探る。

絆創膏を探しながら、私はあることを思い出していた。


「そう言えば、指切り、したわね」


真美と。

そして、あの子と。


「あの子……?」


見つけた絆創膏を貼りながら。

自分で、自分の言葉に疑問を抱いた。

あの子とは、誰のこと?


「誰って、春香でしょう」


今、目の前で眠っているこの子?

本当に?


「ええ、本当よ、何を言っているの?」


天海春香なんて子、ずっと知らなかったのに?


「そんなことないわ、私はずっと――」


――違う。

そこまで考えて、はたと気づいた。


「私は今、誰に向けて詞を書いているの?」


天海春香という少女に向けて?

今、目の前で眠っているこの少女に向けて?


「違う」


私が想いを伝えたいのは。

目の前で眠る、この子だけじゃない。


あの日、泣きながら扉の向こうへ去ってしまったあの子。

ずっとずっと、私の名前を呼んでいてくれた。

名前も知らない、セミショートの髪の女の子。


「そうよ」

「私が想いを伝えたいのは、あなただった」


あの日、天海春香と言う名前を知って。

私は、その名前に囚われてしまっていたのかもしれない。


天海春香に、伝えなきゃ。


そう思いながら私は、病室で眠るこの子としか向き合っていなかった。

けれど、私の想いの奔流が向かう先は、今ここにはいない、あの子で。


私が、何よりも伝えたかった想いは。

あの日の指切りの先で。

あの日の涙を拭ってあげることで。


「そうだった、こんなに簡単なことだったのね」

「……大間抜けで、ごめんなさい」

「もう少し、待っててね」


私は椅子から立ち上がり、窓の外に目をやった。

夕日が、いつにもなく眩しく見えた。


病院を後にして自宅へ帰る途中、真と美希に会った。


「やあ、千早。病院帰り?」

「ええ、お見舞いと悩み相談に」

「千早さん、悩み事があるの? ミキ、千早さんのためならいつでも力になるよ」

「ありがとう。大丈夫よ、歌詞を考えるのに行き詰ってただけだから」


不安げな美希が顔を覗き込んでくる。

こんな表情にさせてしまうことを申し訳なく思いつつも。

心配されることを少しだけ、嬉しく思う自分もいる。

安堵に綻ぶ彼女の表情は、その髪の色のようにきらめいていた。


「二人は事務所からの帰りかしら」

「ううん、服だったりなんだったり、美希に色々教えてもらってたんだよ」

「真君とデートしてたの!」

「なるほど。お邪魔だったみたいね」


慌てて否定する真に、しな垂れかかる美希。

当たり前のような光景で笑えることが。

とてもとても、暖かくて。


「で、悩みは晴れたのかい?」

「お陰様で。今から帰って、考えをまとめるところよ」

「千早さんが頑張ってると、ミキ、なんだか嬉しいな」


三人での他愛ない会話。

自然に込み上げてくる笑い声。

しばらく忘れていた"生きている実感"が、心の中で優しく跳ねる。


「千早さん、春香はまだ寝てるの?」


去り際、不意に美希が春香の名前を口にした。


「ええ。今日も会ってきたけれど……」

「むー……さすがのミキも、ここまでお寝坊さんじゃないよ」

「美希のはただの怠けじゃないか」

「違うの。個性って言ってほしいな」


そういって胸を張ってから、美希は口を尖らせた。


「千早さんも春香に、早く起きてって言っておいて。一緒に服買いに行かなきゃだから!」

「服を?」

「ここ数年、あまり買ってないんだって。若いコはおしゃれしなきゃなの!」

「プロデューサーが言っていたのかしら」

「天海さんのお母さんが教えてくれたんだよ。そしたら美希、張り切っちゃってさ」


聞くと、他のみんなも時々、春香のお母さんと会うことがあるらしい。

春香の存在が少しずつ、私たちの輪の中で当たり前になっていく。


「っとと、あまり引き止めちゃうと折角まとまってきた考えが飛んじゃうかもね」

「それはダメなの! 千早さん、また事務所でね!」

「またね、二人とも」


手を振り、二人の後姿を見送る。

並んで仲良く歩いて行く姿に、いつかの自分とあの子を重ねる。


あの子がどんなに辛くても。

何を抱えていたとしても。

何を隠していたとしても。


あの時、二人で手を取り合って笑っていたのは。

隣り合って、背中を合わせて温もりを感じていたのは。

その時のココロは、決して嘘なんかではなくて。


あの子が願っていたこと、夢見たことは。

決して虚像などではなくて。


私が書くべきは、その肯定なのだ。


書いては、捨て。

書いては、捨て。

相変わらず紙屑の山々が峰を成す。

しかし、昨日までとは決定的な違いがった。


「書きたいことは、決まった」


伝えたいメッセージの芯ははっきりした。

あとはそれを適切な言葉で表現するだけ。


「その、だけ、が難しいのよね」


昨日まではそもそも何について書くかで悩んでいた。

今度は、どの言葉を使うべきかで悩んでいる。


それはさながら、パズルのようで。

昨日までは白一色だったピースに、絵柄が浮き上がる。


嬉しかったこと。

怒ったこと。

哀しかったこと。

楽しかったこと。


一つ一つ、思い出のピースを繋げていく。


家族との思い出。

独りの思い出。

春香との思い出。

事務所のみんなとの思い出。


言葉を掛け合わせて。

コトバを通い合わせて。

あの時、私が彼女に伝えるべきだったメッセージたち。

そして、自分に誓う、自分に捧げる、メッセージたち。


あの日閉ざした扉に、もう錠前はかかっていなかった。

けれども、この扉はまだ、私の部屋から出て行くだけ。

色彩豊かな世界へ、私一人が飛び出していくだけ。

この扉を開けても、あの子の部屋へは繋がらない。


私はまだ扉を開けない。

否定ではない。

退廃でもない。

諦観でも、悲観でもない。


ただ、"その時"を待っている。


私が開けるべき、その時を待っている。


この扉があの子の部屋へと続く、その時を。

待ってた応援してます


「何をうだうだ悩んでるのよ」


事務所で、ルーズリーフに文字を書き殴っていた背後から。

やきもきしたような高い声が背中を押してきた。


「うじうじしてるからいつまで経っても進まないのよ」


振り向けば案の定、じれったいと言わんばかりの表情の伊織。

その後ろには、やれやれ、といった面持ちの我那覇さん。


「まずはバーッと書いちゃってから悩みなさいよ。全然進んでないじゃない」

「伊織、千早には千早のペースがあるんだからさ」


そう言いながら、我那覇さんは伊織の肩越しに私の目を見て、にやりと笑った。

その顔を見て、彼女の意図を察する。


「さすが我那覇さん、いいこと言うわ」

「伊織は自分勝手だからなー」

「いつの間にか人を悪者みたいにしてるんじゃないわよ!」


口を尖らせてぽかぽかと叩く伊織。

口先だけ痛い痛いと、楽しそうに笑う我那覇さん。


それを見ながら、私は紙に向かっているふりをして。

私はいつの間にか、こんな人になっていたんだと。

視界の端で、窓に映る自分を見て。

こんな風に笑うようになっていたんだと。

改めて、気が付いた。


「そこ、こういう言い回しもいいんじゃない?」


我那覇さんが私のペンを手に取って、紙の端にすらすらと記す。

書かれたフレーズを、頭の中で反芻する。

あれほど思い悩んでいた空間に、空気が漏れる隙間もないほどぴったりと収まった。


「へぇ……やるわね、響」

「へっへーん、こう見えて自分、本とか結構読んでるからな!」

「我那覇さん……こう見えて、とか自分で言うことなのかしら」

「人からどう見られてるのか、自覚はあるみたいね」

「……あれ? 今度は自分がいじられてるのか!?」


先ほどとは立場が変わって、伊織がお腹を抱えて笑う。

釣られて私も、声を出して笑う。


自分の歌として、春香へのメッセージとして。

自分の力だけで書き切らなければならないと、少なからず考えている自分がいた。


「そんなことないわよ」


伊織の返事。

思わず考えが口から漏れていたらしい。

慌てて口を塞ぐと、今度は私が二人に笑われる番だった。


「いいじゃない、本当に伝えたい、大切なことさえはっきりしてれば」

「最後の最後に、千早が本当にいいと思える言葉が連なれば、それでいいと思うぞ」


まだまだ頭が固い、と小突かれる。

これでもだいぶ柔らかくなったつもりなのだけれど。

でも、背負い込みやすい悪い癖が、また出ていたのかもしれない。

自分一人で抱え込む日々は、もう終わったのに。


伊織と二人で、これまで書いた詞を読んでいると。


「千早を手伝いたいってだけじゃなくてさ」

「自分が春香にできることって、これくらいしかないから」


我那覇さんがぽつりと呟いた。

その表情は、微笑みと、憂いと、切なさと。

色んな感情が混ざった、不思議なものだった。


「千早が春香に伝えたいこと、ちょっと分かる気がするんだ」

「でしゃばるなって言われるかもしれないけど」

「自分もさ、それでいいんだよ、って、言ってあげたくて」


表情の中に切なさが増す。

少し顔を俯けて、我那覇さんの肩が微かに震えた。


静かに我那覇さんを抱き締める。

その身体は肩と同じように、小刻みに震えていた。


「辛くても、怖くても、精一杯頑張ろうとして」

「そんな春香の想いが、間違ってるわけないって」


そうよね、本当に、本当に。

そんな私の思いも、我那覇さんに伝わって。

私を抱き返す我那覇さんの腕に、力が入って。


「当たり前じゃない、そんなこと」


文字に起こせば、いつも通りのぶっきら棒な言葉。

でもその声色は、泣く子をあやす、優しい音色。


「絶対に、間違いなんかじゃない」

「間違いにさせちゃ、いけないでしょう」


自身の胸にも染みこませるように。

伊織は、小さく小さく囁いた。


私は書き連ねる。

春香に伝える言葉を。

私は筆を走らせる。

自分への誓いを記すために。


悩みながら、戸惑いながら。

それでも、自分がしたいことを。


使命ではなく。

義務ではなく。

作業ではなく。

仕事ではなく。


私が、したいから。

私が、するから。


消しゴムで消す。

シャープペンシルで書く。

ふと逡巡して手が止まる。

書いたばかりの字をぐしゃぐしゃと書き潰す。


幼子が初めて歩こうとするみたいに。

誰に命じられたわけでもないのに。

転んで、泣きながら、それでも歩こうとする。

立ち上がろうとする。

私の筆は、まさにそれだった。


言葉が現れる度、様々な思い出が過ぎる。

その度に、笑みが零れる。

涙が零れる。


日記を書く春香も。

こんな気持ちになることが、あったのかしら。


「千早さん、コーヒー飲みますか?」

「ありがとう」


高槻さんに差し出されたマグカップ。

私の手には、少し熱い。


「だいぶ書き上がってきたようですね」


おっかなびっくりコーヒーを受け取ると。

隣からは、四条さんの声。


「ほんとだ! いっぱい書いてあります!」

「ええ、あと少し」

「楽しみですね、完成が」


私が書いたフレーズを、高槻さんの指が楽しそうになぞる。


少しの気恥ずかしさと、僅かな誇らしさ。


「今迷われている部分、このような言葉ではどうでしょうか」

「そうですね、確かにしっくり来ます」


四条さんの言葉を受けて、一言書き加える。

我那覇さんにアドバイスを受けてからは、みんなからも時々助言をもらう。


単に参考になるというだけでなく。

私は一人じゃない。

私一人の身勝手な想いじゃない。

そう、みんなが肯定してくれている気がして。

春香のことも、肯定してくれている気がして。


みんなが傍で笑ってくれる度に。

私の胸は、ぽかぽかと暖かくなるのだ。

これはきっと、高槻さんがくれたコーヒーのためだけじゃなかった。


「ライブのお客さん、一体何人くらい来るかしら」


会場のキャパシティは三千人ほどと聞いている。

千人か、百人か、十人か、一人か。

それが何人であろうとも。

その日、そこにいてくれる人は、ずっとずっと私を待っていてくれた人。

こんな私のことを、心に留め続けていてくれた人。


「きっといっぱい、いーーっぱい来ます!」

「みんなみんな、千早さんのことを待ってたんですから!」


高槻さんが両手を広げてぴょんぴょんと跳ねる。

いっぱい来てくれるかしら。


一人でも多く来てほしい。

私のことを考えてくれていた人に、一人でも多く謝りたい。

そして春香だけでなく、一人でも多くの人に伝えたい。

私の、決意を。


「さて、私は雑誌を読むことにいたしましょう」


くすりと笑って、四条さんが手元の本に目を落とす。

その意図を察して、高槻さんがあわあわと慌てながら言い繕う。


「あっ、えっと、その、あの、お掃除! お掃除するんでした!」


話している間、私の手が止まっていたことに気付いて。

そんなこと、気にしなくてもいいのに。


「ふふふ、ありがとう」


聞こえないかもしれない音量で、小さく呟く。

ちらりと視線をやると、二人とも小さく笑っていた。


コーヒーを一気に飲み干す。

カフェインが、頭の中の霧をまたたく間に散らしていった。



書く。

消す。

書く。

消す。

書く。

書く。

消す。

書く。

書く。

書く。

消す。

書く。

書く。

書く。

書く。

書く……。



筆を走らせる手から、徐々に迷いがなくなっていく。

積み重ねてきた時間が、形のない想いに追いついていく。


「結局、最初から私にはこれだけだったのかもしれないわね」


そして私は、筆を置いて。

想いを書き終えた紙を片手に、私は扉の前に立つ。

扉に画びょうで貼り付けられた、すごろくの紙。


「もう少し、もう少しだけ待っていてね」


紙を右手で撫でながら。

その奥の扉の、更に奥に手を伸ばしながら。


「今、届けに行くから」


右の拳を握り締める。

中に、硬く四角い感触。

その拳の中には、ひとつのさいころが握られていた。


「歌詞、書けたんだって?」


レッスン場に向かう前、事務所に立ち寄るとやや不安そうな面持ちのプロデューサーがいた。


「ご心配をおかけしてすみません、ですがお陰様で、納得のいくものが書けました」

「それはよかった、けど……本番、大丈夫だよな?」


プロデューサーがカレンダーに目をやる。

ライブの日までは、もうあまり長くはない。


「大丈夫、だと思います」

「お、思います?」

「今からレッスン場で、初めて通しで歌うんです」


私の答えに、プロデューサーの表情がみるみる暗くなる。

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「ほ、本当に大丈夫なんだよな? 場合によっては――」

「大丈夫です」


言葉を阻まれ、プロデューサーの身体が固まる。


「プロデューサー」


改めて声をかけると、再びプロデューサーの身体が時間を刻みだした。


「今から少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「今からか……うん、二時間くらいなら」

「でしたら一緒にレッスン場へ。聴いていただくのが、一番早いと思いますから」


少し怖い、でも大丈夫、いやしかしやはり少し怖い、でもでも。

プロデューサーの表情が、そんな様子でころころと変わる。


「分かった、じゃあ、行こうか」


プロデューサーは最後に小さく、よし、と覚悟を決めるように呟いた。

面白い


レッスン場には二人きり。

人が少ないレッスン場は、音が響く。

自分の声出しが小さなこだまのように聞こえる。


「この光景、久しぶりだな」

「プロデューサーに来ていただくのは本当に久しぶりですね」


レッスン場に、プロデューサーと二人。

以前、何度も見てきた光景。


また、この当たり前だった光景を目にできることが。

諦めていた奇跡の景色にも見えて。


「声もだいぶ戻ったみたいだな」

「八割方、といったところでしょうか」

「やっぱり千早はすごいな、この短期間で」

「トレーナーさんのお陰です」


力量はかつてに及ばずとも。

今の私の声は、これまでの人生で最も伸び伸びとしている。

あー、あー、と声を出すだけで。

ココロが確かに満たされていくのが分かる。


プロデューサーの表情にも、先ほどの暗さはない。

幾度となく見てきた、いつもより少し険しい、仕事の顔。


「それじゃあ、準備はいいか?」


プロデューサーはしゃがみ、足元のプレイヤーに手を伸ばす。


「はい、いつでもどうぞ」


カチッと、ボタンが押される音が聞こえた。


ピアノの旋律が聴こえる。

つい先日届いたばかりだという、本番用の音源。

以前聴いたテスト音源ではない。


視覚を断ち鋭敏になった聴覚に、音が響く。

生の音が。

生きた音が。

指先から二の腕を伝って肩へ。

足先から脛、太股を伝ってお腹へ。

腰から背筋を伝って、首筋から頭のてっぺんへ。

ピアノの弦が弾けるたびに、つつぅっと音が登っていく。


目を開くと、正面にプロデューサーがいた。

目と目が合う。

私は、微笑んで。


静かに、口を開いた。



歌を口ずさみながら。


私は、短くも長いこれまでの十数年を。


一人、旅していた。


距離にして十数年。

時間にすればあっという間の数分。

小さな旅を終え、目を瞑って息をつく。


「プロデューサー、いかがでしたか」


返事はない。

薄らと目を開けると。

柔らかく微笑みながら、一筋の涙を流すプロデューサーがいた。

余韻を噛み締めるように間を置いてから。


「何だか、懐かしいな」


隠そうともせず、目元をハンカチで拭う。


「聴きながらね、いつかの合唱コンクールを思い出したよ」

「懐かしいお話ですね」

「ああ、あの時もこんな風に泣いてしまったんだった」

「それは初めて聞きました、そうだったんですか?」

「男の口からは、あんまり泣いた話はできないもんだよ」


そう言って笑ってから。


「でも、あの時よりずっとずっと、優しい歌だった」


私の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「心配は杞憂だったな」

「でしたら、何よりです」

「とはいえ、まだ改善の余地はあるな、まず……」

「あ、ちょっと待ってください」


仕事の頭に切り替わったプロデューサーを制して。

私は、出口に歩み寄る。


「どうしたんだ?」

「いえ」


ドアを開ける。

と、ばたばたと何かが次々に倒れ込んできた。


「子猫が迷い込んでいたようなので」


我ながら意地の悪い笑みを浮かべつつ足元を見ると。

あっ、という表情で固まっている子猫が、何匹か転がっていた。


「おやおや、これはこれは」


プロデューサーも笑みを浮かべて歩み寄る。


「ドアの向こうから、何やらガタゴトと音が聞こえたもので」


そう言って二人で笑っていると。

足元から不満げな鳴き声が聞こえてきた。


「うがー! だって千早、水くさいぞ!」

「千早さんが一生懸命書いた歌、ミキ達だって聴きたかったの!」

「亜美達にナイショで、兄ちゃんだけずっこいよ!」

「私は別にズルいなんて思ってませんけど、ちゃんと把握しておく義務がありますから!」


我那覇さんに美希、亜美に律子。

四人が、ひっくり返ったまま文句をたれていた。


「ちょっと面白い四人組だな」

「律子まで一緒になって……」

「わ、悪い!? 私だって気になるものは気になるんだから!」

「それに四人だけじゃなかったの」

「さっきまでみんないたんだぞ」

「でもスタコラサッサーって逃げちったんだよ」


矢継ぎ早にあれやこれやと弁明されて。

流石の私も、思わず声を出して笑ってしまった。


ああ、ここだ。

ここが、私の居場所だ。


笑いながら出てきた涙。

拭いたくない涙というものもあるんだと。

この事務所が、みんなが。

初めて教えてくれたんです。



想いを形にして。

ココロを歌に変えて。


準備は整った。

あとは、その日を迎えるだけだ。


復帰ライブが決まった当初。

世間の反応はそれぞれだった。

音楽誌、スポーツ紙、ゴシップ誌。

ニュース、バラエティ、ワイドショー。

幾度かそれなりに取り上げられたものの、思ったほど加熱はしなかった。


世間の労わりのお陰か。

業界でややタブー視されていたせいか。

私達が静かで冷静で、面白味がなかったせいか。

最初こそ一時話題になったものの。

それ以後、準備期間に事務所からの続報がないと、報道は沈静化していった。


それに、今回はファンクラブ限定のライブということもある。

野次馬もし辛かったのかもしれない。


しかしライブ本番が近づいてくると、世間も再び、俄かに色めき立ってきた。

増える話題は勿論、いいものばかりではない。


「でも、思った以上に落ち着いているものね」


事務所でカレンダーをなぞりながら、一人ごちる。


自分でも意外なほど。

かつて他人の一言一行で取り乱していたのが嘘のよう。

自分の中に柱となる信念があるだけで、こうも変わるものだったか。

過去の自分はそれほどまでに、足場もおぼつかない不安定の中だったか。


そう思っていた時、事務所のドアが開く。


「ごめんね千早ちゃん、待たせちゃったかしら」

「いえ、お忙しいところすみません、音無さん」


そう言って音無さんの手にある、イラスト入りのビニール袋に目をやる。

照れ笑いを浮かべながら、音無さんは袋を慌てて背中に隠した。


「招待席のチケット、でしたっけ?」

「一枚いただけませんか、自分で渡しに行きたくて」

「ええ、大丈夫よ。元々プロデューサーさんに持っていってもらうつもりだったから」


事務机の引き出しを探り、音無さんはチケットの束を取り出す。

輪ゴムで束ねられた中から一枚を抜き取り、封筒に入れてくれた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。あと……もう一つ、お願いしていいでしょうか」

「何かしら?」

「私の両親にも、招待券を送っていただけませんか」


私の申し出に、音無さんの目が丸くなる。

そしてにっこりと笑って、何度も頷いた。


「分かったわ、お姉さんに任せて!」

「お手数をおかけします、これが住所です」

「はい、確かに承りました」


封筒を受け取り、代わりに住所を書いたメモを手渡す。

音無さんは二つの住所を何度も何度も確認しながら。


「間違いが絶対にないように、直接ご両親にお持ちするわね!」

「あの、そんなに気合を入れていただかなくても……」

「不肖、音無小鳥! 765プロ事務員の名にかけて、絶対にやり遂げますからね!」


ふんふんと鼻息荒く、音無さんはスケジュールをチェックし始めた。

そんなやり取りにも、思わず笑みが込み上げる。


頼ることがこんなにも喜ばれるのも、初めての経験で。

年相応にもっと大人を頼ろうかな、と。

改めて思った。


事務所を後にして、目的の場所へ向かう。

西日になりかけた光が顔を刺す。


学校帰りの子ども達が、わいわいはしゃぎながら走り抜ける。

楽しそうな声を聞きながら。

もしかしたら、私とあの子もこんな日を送っていたのかもしれないと。

有り得ない過去に想いを馳せる。


けれど。


有り得なかったから、あの子はそこにいて。


有り得なかったから、私はここにいて。


有り得なかったから、あの子は眠っていて。


有り得なかったから、私は、歌うのだ。


人生に"たられば"は、ある。

でもそれは想像の、もしもの世界だけで。

この世界には、どこにもない。


この世界には、歩んできた、確定した過去と。

何も見えない、何も決まっていない未来しか、ないのだから。


白いリノリウムの廊下を歩き。

私は、いつものようにあの子の部屋へ行く。


「春香」


歩み寄り、そっと頬を撫でる。

春香の寝顔は、ただただ感情なく穏やかで。


「これ、受け取ってもらえるかしら」


枕元に、一通の封筒。

いつかのあなたへの答えを。

あの日答えられなかった答えを、持ってきました。


「どうか聴きに来てね」


それだけを済ませ、私は踵を返す。


「あなたの願いへの返事を」


私の声に応える者はいない。

けれど私は迷いなく、春香の部屋のドアを閉めた。




歩んできた、確定した過去も。

何も見えない、何も決まっていない未来も。

いつだって私は、何一つ選択なんてしなかった。


見えない、決まっていない未来を選択することなんて出来ない。

私はただ、未来へ向かって歩むことしかできない。


何度も思った。

さいころを振らなければ、と。


なら、振らなければ良かったの?

振らなければ、私の未来は輝いていたの?


振らなければ春香は、元気に歌っていたの?

振らなければ私は、家族で仲良く手を取り合っていたの?


これまでの私達の過去は。

私達のすごろくの、選択の失敗の結果だったのですか?



「じゃあ楽しかったことは、嬉しかったことは」

「私が素晴らしい未来を、一つ一つ着実に選び取った結果だというの?」


馬鹿馬鹿しい。

何て愚かな考えなのだろう。


「私はそんな上等な人間じゃない」

「人間はそんな上等な命じゃない」


そんなことができるのなら、最初からずっと、そうしているでしょうに。


私も、誰も、選択なんてしてこなかった。

ただひたすらに、歩んできただけなのだ。

雨ニモマケズ。

風ニモマケズ。

ただひたすらに、愚直に、命を歩んできただけなのだ。


選択なんてものは、最初からなかったのだ。




いや、一度だけ。


たった一度だけ、誰もが選択しているのかもしれない。


たった一度だけ――。



久しぶりにのんびりと。

時間をかけて、家へ向かった。

次第に陽は落ちていって。

いつしか辺りは暗くなっていた。


「あ」


そんな空に、星の瞬き。

夜空の星など、もう随分見ていなかった気がする。


「綺麗……」


暗くなるにつれて。

ぽつり、ぽつり、と。

星は、少しずつ増えていく。


その光まで。

少し背伸びをすれば、手が届きそうで。


「ん、しょ」


なんてことは子どもの夢見だとは分かっているのだけれど。

それでも、つい、背伸びをしてしまう。

背筋を伸ばし、腕を伸ばす。

天に煌めく光は、私に優しく囁きかける。

その声が、少しくすぐったい。


「あの星を、胸元に引き寄せて」


手の平に集めた、光る願いが。


「前へ前へと、進みましょう」


行く先を照らす光と、なりますように。



扉には幾重にも南京錠。

空には幾千、幾万の輝き。

透明な部屋に、夜が来る。

その夜を眩しい輝きが照らし出す。


「流れ星」


きらり、と。

願い事を唱える間もなく燃え尽きる。

それが。

一つ。

二つ。

次々に線を描いて、流星群が降り注ぐ。


「おいで、ここまで」


一筋の光が飛び込んでくる。

私は手を伸ばして。

それを、手の平でそっと包んだ。



暖かい。

光が眩しい。

目を細めて、それでも手の平を覗き込む。


小さな鍵が、一つあった。


その鍵を、扉を固く閉ざす南京錠に差し入れる。

それを、ゆっくりと回すと。


かちゃり。


「開い、た」


南京錠が足元へと落ちて。

同時に鎖が、じゃらじゃらと音を立てて姿を消す。


鎖と鍵が、一つなくなった。



「まだ足りないの」

「もう少し、私に光を」


また、一つの流星が流れ落ちる。

私はそれを落としてしまわない様に。

壊してしまわない様に。

優しく、両手で受け止めた。

受け止めた手には、一つの鍵。

光り輝くその鍵を、再び差し込むと。


かちゃり。


これまで閉ざし続けてきた頑強さはなんだったのかと思うほど。

二つ目の南京錠も、事も無く落ちた。



「私が、弱かったから」


かちゃり。


「私に、勇気がなかったから」


かちゃり。


「私が、大馬鹿だったから」


かちゃり。


「鍵なんて」


もう、南京錠はない。


「最初は、かかっていなかったのにね」


目の前の扉は、ただの、普通の扉だった。



北天で星が螺旋を描く。

いつかプラネタリウムで見た、天球の動き。

天を仰ぎ見る私の内は、これまでになく晴れやかだった。


「もう、遮るものは何もない」

「あとは、私が前へ踏み出すだけ」


いつしか、扉もなくなっていた。

眼前にあるのは、大きな大きな硝子張りの窓。

窓の向こうに、広い広い世界が見える。


そして、その世界の最奥に。

地平線に消えゆきそうな、ずっと遠くに。


とてもとても懐かしい。

一人で寂しく泣いている。


後姿が見えた。

早よ

待ってるぞ



こんこん、と。

窓をノックする。


「春香」


こんこん、と。

ノックをするが、返事はない。


「そうよね、こんなに遠くじゃ届かない」


窓に手の平を当てる。

ひんやりと冷たい、最後の壁。


「あそこまで行かなきゃ」


それが、私と、彼女との。



右の拳を握る。

手の中には、硬い感触。

角々とした握り心地が、私の心を奮い立たせる。

私の心を沸き立たせる。


かつては恐れの象徴であった。

でも今は、意識すればするほど。


すること。

向き合うこと。

進む道筋。

進む行き先。


私の"意志"が、燦然と輝く。




私は、歩くんだ。


そして、あなたも。



「千早、もうすぐ着くぞ」

「……ぁ」


静かに体を揺すられる。

うっすらと目を開く。

どうやら社用車の中のようだった。


「ぐっすりだったな、疲れが残ってるのか?」

「いえ、車の揺れが心地良かっただけです」


ライブ当日。

会場に向かう車内は、本番前とは思えないほど穏やかだった。

隣に座るプロデューサーは、スケジュール表を片手に笑った。


「変な緊張もないみたいだな、いいコンディションだ」

「プロデューサー殿の方が緊張してるんじゃないですか?」

「そ、そんなこたあない、うん、ないとも、うん」

「……ふふっ」


運転席から律子の茶化し声が聞こえる。

空調が効いた車内で、プロデューサーは半笑いで冷や汗を拭った。

思わず、笑いが込み上げる。


窓の外に、会場となるライブハウスの壁。

駐車場へ向かい、外周を回るのが、とても懐かしい。


「もうすぐ歌うんですね」

「そうさ、この箱の中を、千早で満たしてくれよ」


みんな、この日を待ってたんだから。

そんな期待をぶつけられても。

プレッシャーは感じなかった。

あるのはただただ、郷愁のような淡い想い。


「……プロデューサーの仕事って、担当アイドルを脅すことなんですか?」


律子がバックミラー越しに睨む。


「ち、違う違う、そんなつもりじゃなくて、す、すまん千早!」

「ふふふ、分かってますよ」


窓ガラスに映る自分の表情は、驚くくらい柔らかだった。


駐車場から入ると。

出迎えてくれたのは、会場内に並ぶ祝花。


こぢんまりとした楽屋。

ステージ裏に並ぶ音響機器と、乱雑に転がる養生テープ。

リハーサルに向け、スポットライトの点検をするスタッフ達。


観客の入場前だが、雑然とした人の気配で満ちる会場。

まさに舞台裏といった空間の何もかもが懐かしい。


また、戻ってきたんですね。


「……いえ、まだ戻ってはいない」

「ファンの前で、ステージに立って」

「マイクに向かって声を出す、その瞬間が--」


その時を想うだけで、胸が熱くなる。


先に会場に向かうため、事務所を出るとき。

みんなはシンプルな一言で送り出してくれた。


やっちゃえ、と。


頑張れではなく。

負けるなでもなく。

ただ、一言。

私に全て任せると。

私なら何も心配ないと。

ただ、やりたいようにやれと。

みんな、笑って送り出してくれた。


観客エリアの中央に立ち、ステージをぼんやりと眺める。


活動休止前、ライブに慣れてからは。

いつも目まぐるしいスケジュールの中、時間ばかり気にしていて。

こんな気分でリハーサルを待つことはなかった。


初めてステージに立ったとき。

あのとき以来かもしれない。

シンデレラが舞踏会に足を踏み入れるときのような。

夢見る少女が、憧れに触れる感情。

そんな初な香りが、夢見心地の私を包んだ。


と、スタッフから声をかけられる。

マイクテストをお願いします、と。


ふと我に返り、今までの自分が少し気恥ずかしくて。

誰かに恥ずかしいところを見られていやしないかと。

ついついプロデューサーの姿を探すと目が合って。

そんな心の内を察せられていたのか、プロデューサーは笑う。


「は、はい、今行きます!」


恥ずかしさを隠すように、私は大きく返事をした。

待ってた

待ってるぞ

掲示板が復活したので近々再開します。
恐れ入りますがもうしばらくお待ちください。

書き進めてはいるのですが年末作業も立て込んでいてもう少しかかってしまいます。
すみません。

ゆっくり待ってるから、自分のペースで書いてくれ

今月中に投稿できそうです。
取り急ぎご連絡まで。


リハーサルはまだ、どこか夢現で。


声は出る。

身体も動く。

大勢のスタッフの安堵の視線も感じる。


でも、これはただのリハーサルでしかない。

普段の練習と変わらない。


あと二時間もして、視界にファンが立ち並んで。

そのとき初めて。

私は私でいられるのか。


それが、分かるのでしょう。


マイクテストも、リハーサルも済んで。

準備はつつがなく進んでいく。

会場の外からは、人々のざわめきの気配を感じる。

入場が始まったようだ。

あとはただ、始まりを待つだけだった。


「お、みんなも着いたみたいだな」


スマートフォンを覗きながら、プロデューサーが言った。

言われずとも、暖かい気配を感じていた。


『ねえ千早、私たち、本当にいなくていいの?』


昨日、律子に心配そうに声をかけられた。

大丈夫です、きっと私は、大丈夫ですから。


『不安そうな言い方とその表情、全く噛み合ってないじゃない』


律子が笑いながら言った。

横の窓をちらりと見ると、朗らかに笑う、長髪の横顔が映っていた。


『そんなドヤ顔ができれば心配いらないぞ!』


……そんなに、ドヤ顔かしら。


『ねね、ひびきん、ちょっと笑ってみて』

『え、亜美、どうして?』

『いいからいいから』

『こうか?』

『ひびきん、それをドヤ顔って言うんだよ』

『ど、どういう意味さあ!』


吹き出すのをこらえきれなかった。

どうも最近、笑いの沸点が低くなった気がする。


私は、大丈夫だから。

みんなはどうか、待っていてほしいの。


『分かったわ、任せて頂戴ね、千早ちゃん』

『ボクたちは表にいるから、千早は歌にバッチリ集中して!』


あずささんと真に続いて、みんなも口々に心強い言葉をくれた。


そんな、みんなの言葉があったから。

あとは、自身の不安と過去と戦うだけ。

打ち勝って、いつものように、歌うだけだから。


開演五分前です。

そんなスタッフの声が聞こえ、我に返った。


「千早、ぼーっとしてたけど大丈夫か?」

「すみません、ちょっと昨日のことを思い出していて」

「戦意昂揚の小鳥踊りか?」

「その前です」


まだ明るいステージ下からは、ファンのざわざわ声が聞こえる。

心地良い。

そう感じているのを自覚したとき。

ああ、もう私は、大丈夫だ。

そう思い、再び笑みがこぼれた。


そして、照明が落ちた。

目を閉じる。


身体に張り付く衣装が心地良い。


外から響くファンの歓声が心地良い。


肩をポンと叩くプロデューサーの手が心地良い。


床から伝ってくる会場独特の振動が心地良い。


さあ、行こう。


私は真っ暗なステージの中央へと、歩を進めた。


ヘッドセットから声が聞こえる。

数秒したら、開幕の狼煙が上がるのだ。


過去の私よ、さようなら。


舞台の中央でもう一度、私は静かに、目を閉じて。


五。

四。

三。

――。

息を吸って。



照明が会場を照らすのと。


私が声を張り上げるのは同時で。


そしてすぐ。


ファンの歓声が、私の世界いっぱいに響き渡った。



――――――――――

――――――――

――――――

――――






――。






ここは、どこだろう。


どこか、柔らかくて、暖かいところの上で――。


気持ちがふわふわしていて。

自分が誰なのか、何をしていたのか。


何も思い出せないや。


ぼんやりと思い出せるのは。

私が小さかった頃の。

ずうーっと昔の、ちいさな思い出。

私の前を歩く、男の子を追いかけている風景。


その子は、近所に住んでいる男の子。

私よりいくつか年上で。

いっつも私は、その後ろをついて歩いていたっけ。


その背中を追いかけていれば、何も不安はなくて。

どこへでも連れて行ってくれるって。

きっと、いつまでも連れて行ってくれるんだって。

ずっとずっと、そう思っていたんでした。


その男の子は、いろんなことを教えてくれました。


楽しい遊び。

びっくりすること。

ちょっと怖いお話。


新しいこと一つ知るたびに、私は一つ大きくなって。

たくさんの可能性を感じて。

お嫁さんとか、パン屋さんとか、お菓子屋さんとか。

私は将来、ああなるんだ、こうなるんだって。

ずっとずっと、夢見ていました。


男の子をお兄ちゃんと呼ぶようになって。

そんなある日、お兄ちゃんに呼ばれて。


『公園に、おもしろい人がいるよ』


って。

お兄ちゃんについて走っていくと。

公園から小さな歌声が聴こえてきました。


公園の片隅に、その人はいました。

顔見知りの子どもたち数人と、そのお母さんたち。

みんなに囲まれて、一人のお姉さんが、笑顔で歌っていました。


子どもたちの手を取って、踊ったり、静かに聴かせたり。

それを眺めるお母さんたちも笑顔で。

その歌声と姿に、みんなが幸せそうでした。


あとから来た私を見ると。

お姉さんは優しく声をかけて、手を伸ばしてくれて。

私もそこへ、笑顔いっぱいで走っていきました。


あとから、そのお姉さんはとっても有名な人だと知りました。

しばらくして、急に引退してしまったけれど。

そのニュースでも、お姉さんは幸せそうで。

引退を惜しむ人たちも、まあ仕方ないか、って笑顔で。


私、こんな人になりたいんだって。

初めて、確信的な想いを持ちました。


私、みんなを幸せにするアイドルになりたいって。

このとき、初めて思ったんです。



そうだ、思い出しました。


私は、天海春香。


アイドルを夢見る、一人の女の子でした。

2月中と言ったのにこんなに遅くなってしまい、申し訳ありません。
諸事情で通院中のため、一度タイミングを逃してしまうと期間が空いてしまい……。
時間はかかってしまいますが最後まできちんと書きますので、大変恐縮ではありますが、お時間の許す限りどうかお付き合いください。

お待ちしておりました。完走を楽しみにしています

すみません、実生活で最悪のことがあり、精神的に継続が困難な状態です。
完結させるつもりなので落とさないようにはしますが、しばらくは更新できそうにありません。
申し訳ありません。


私は、アイドルになりたいと思いました。

だからそのために、精一杯頑張りました。


小学校での音楽や体育の授業。

家でのダンス練習。


一つ一つ積み重ねて行けば。

きっとあのお姉さんみたいになれるって。

それはきっと、間違っていなくて。


ゆっくりだし、才能があるわけでもないし。

あまりにも普通の速度だったかもしれないけれど。

努力は、私を少しずつ前へ進めてくれました。


学校では本当に頑張りました。

アイドルは歌えるだけではいけません。

歌って、踊って、お話しして、みんなを幸せにして。

そのためにはきっと、頭も良くならないといけません。


勉強を頑張りました。

友達と楽しくおしゃべりしました。


音楽や体育の授業は特に頑張りました。

一番ではなかったけれど、先生にも誉められました。

……体育はもうちょっと、頑張らないとだめだったかな?



『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


私が初めて確信した、将来の夢。

その実現に向けて、小さい子なりに、一生懸命でした。

お父さんもお母さんも、私の夢を聞いて、応援してくれました。

春香ならきっと、優しいアイドルになれるよ、って。


お兄さんも手伝ってくれました。

スパルタだー!とか言いながら。

どこで聞いたか分からない特訓もしました。

テレビに出ていたトップアイドルを見て、すごいなあと言ったら。

翌日には、アイドルを目指す学校があることを調べてきてくれました。


きっと私は、アイドルになれる。

ううん、なってみせる。

そのために努力するんだ。

もしかしたら……もしかしたら、力及ばないかもしれないけれど。

それでも、私にできるのは努力だけだから。

なるための努力なら、私にもできるから。






その想いを打ち砕いたのは、遊園地での出来事でした。





本当に突然のこと。

私は突然、急激な睡魔に襲われ、倒れるように眠ってしまいました。

最初は遊び疲れたのかな、と思ったけれど。

それ以降、時々眠ってしまうことが増え、病院に通うようになりました。


色々なことを言われました。

ナルコレプシーとか、それらしい病気ではないかとも言われました。

けれども、結論は、『分からない』。

私の睡魔の原因については、お医者さんも分からないようでした。


それでも私は努力を続けました。


アイドルになるため。

みんなを幸せにするため。

あの日見たお姉さんのようになるため。


歌いました。

踊りました。

話しました。



けれど、身体は努力を許してくれませんでした。


睡魔に襲われる頻度が増え。

思うように運動もできなくなり。

日に日に体力が減っていく。

小学生でも分かりました。


ああ、私、今、夢からどんどん遠ざかっている。


私、夢からどんどん、見放されている。



必死でした。

必死にしがみつこうとしました。

けれども、病状はどんどん悪化していきます。


小学校に通える日数が減りました。

丸一日寝たきりの日もありました。

起きていても、家の中ですら動くのがままならない日が増えました。


あれだけ輝いていた夢が。

お姉さんの姿が。

どんどん重責になって。

どんどん自分を追いつめて。


何もできなくなっていく自分が。

無力な自分が。

本当に本当に、怖くて、悲しくて、たまりませんでした。


アイドル、諦めるしかないのかな。

そんな想いを、ずっと抱え続けていました。

中学生になっても、病状は徐々に進行していて。

私は半ば、自分に見切りを付けようとしていました。



そんなときでした。

合唱コンクールに出ることになったのは。


友達のケイちゃんが、一緒に出よう、と後押ししてくれました。

お父さんもお母さんも。

お兄さんも。

みんなが、出来うる限り、全ての手助けをしてくれました。


病院とお話ししてくれました。

学校の先生も、協力してくれました。

本当にたくさんの人が、私のために尽くしてくれて。


せめて、これだけでも。

このコンクールだけでも。

全力で、私の全てを使い切ってでも、歌おうと思いました。


本番まで、辛いこともたくさんありました。

やりたいときに練習できなかったり。

みんなの足を引っ張ってしまったり。

本番当日になって、眠ってしまうんじゃないかって。

そんな恐怖もありました。


けれど、その日々はこれまでとは違っていて。

私は、ひたむきに努力しました。


少しだけ。

少しだけだけど。

小学生の頃、あの公園で、夢を見つけたとき。

あの頃の私に、戻ったようでした。


たくさんの助力があって。

私はコンクール本番に出ることができました。

課題曲と、自由曲。

その両方を、私はそのときの全力で、歌いきることが出来ました。

ありがとう、ありがとう。

歌い終えたとき。

みんなに涙ながらにそう言ったのを覚えています。


でも、それ以上に……。


あれは私たちの出番よりも前。

前半の、何校目だったかな。

正直、他の学校のことは全く意識していませんでした。

私たちはコンクールで賞を取る、と息巻いていたわけではなく。


中学校での思い出。

病気の友達への励まし。


そんな感じでの参加でしたから。


でもその学校の生徒が並んだとき。

一人だけ、目に付く女の子がいたんです。


青みがかった長髪の女の子。


みんながステージ上で笑顔を浮かべる中。

端っこで独りだけ、どこか物悲しそうな女の子。

左端に座っていた私の真正面。

その子の姿を見た途端、目が離せなくなりました。




そして、歌が始まって。


彼女一人の声が、私の耳に響きわたりました。



なぜか分からないけれど。

その学校の歌が終わったあと。

私の顔は、涙でぐしゃぐしゃで。


あの子の歌がとても綺麗だったから?

歌うあの子が、とても悲しそうだったから?

たぶん、両方だったと思います。


私が目指す形とは違うけれど。

人の心に届く歌を歌いたかったから。


とても悲しそうなあの子を。

笑顔にしてあげたいと思ったから。


そのとき、私はケイちゃんや先生に心配されながら。

ぐしゃぐしゃに泣きながら。

もう一度、思ったんです。

小さい頃、公園で思ったこと。






私、やっぱりアイドルになりたいです。




乙 応援してるぞ


私は決めました。

病に負けないで、努力すると。

前へ、進み続けようと。


ウォーキングをしたり。

動画を見ながらボイストレーニングをしたり。


お兄さんは、高校を卒業したらプロデューサーを目指すと言いました。

芸能事務所の、プロデューサー。

きっと、私の夢を応援するために。


私は、諦めない。

改めて、そう誓いました。


前に進まなきゃ。

何かをしなきゃ。

努力をしなきゃ。

その想いだけが、私を突き動かしていました。


そんな時でした。

お兄さんが、あの女の子の名前を教えてくれたのは。




"如月千早"。


それが、あの女の子の名前。



それまで漠然と抱いていた、あの女の子への想い。

名前を知って、私は。

もっともっと、あの子に近づきたいと思いました。


あの子みたいに歌が上手くなりたい。

あの子を笑顔にさせてあげたい。


如月千早。

あの子も今、同じ空の下にいる。

今もあの子は、あの悲しそうな顔をしてるのかな。

今もあの子は、あの悲しそうな声で歌っているのかな。


ううん、そんなの、勿体ないよ。

あの子ならきっと、私ができないことも――。



そして中学を卒業して。

私は、微睡む夢の中で、彼女と出会いました。

如月、千早ちゃんと。


全てを失くした子。

未来を見出せない子。

今、とても辛い思いをしている子。

形は違っても、私とそっくりでした。


でも、一つだけ違うこと。

千早ちゃんは、目指すことが出来る子でした。


全てを投げ捨てようとした千早ちゃんに。

私は夢の中で、思わず声をかけていました。


「それは勿体ないよ」


いつかの私も、こんな風に見えていたのかな。

そっと千早ちゃんの右手を握ると。

微かに強ばるのが分かりました。


「もうちょっと頑張ってみよう?」

「無理よ。もう、さいころを振る気力もないわ」


ああ、私と同じだ。

頑張って頑張って、それでも見放されて。

全てを諦めてしまった、中学校に入った頃の私だ。


「一歩一歩、進んでいけばいいよ」

「私が、引っ張ってあげるよ」


そう声をかけて手を握ると、彼女は一瞬ためらって。

でも、私の声が届いたのかな。

おずおずと、握り返してくれました。


千早ちゃんは、私だ。


「どうして、私に声をかけたの」


自分を見ているようで、辛さが分かってしまったから。


「私、助けなんてお願いしたかしら」


されてないよ。


「なら、どうして」


だって、さ。

あなたはきっと、もう一人の私だから。

頑張って報われるかもしれない、理想の私だから。


引っ張ってあげるよ。

だから、その代わりね。

絶対に、前に進むことをやめないで。


私は、頑張ってきた。

けどね、どこかで私は無理なんだって。

どこかでね、分かり始めてたんだ。


だから、千早ちゃんにはね。


「はいっ、ゆーびきーりげーんまーん!」

「え?」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのぉーますっ!」

「あ」

「はいっ、ゆーびきった!」


進んで欲しいんだ。

だって、千早ちゃんの瞳の奥にね。

"前に進みたい"って、願いが見えてしまったから。


どこへ進むか、分からなくてもいい。

いつも必ず正解を選ぶ必要なんてない。


一つ一つの出会いにしっかり目を向けて。

そこから見える光を追いかけていこうよ。


そんな千早ちゃんの、後押しをするために。

きっと、そのために。


私は、千早ちゃんと、出会ったんだよ。



それからは、本当に幸せな日々だった。


千早ちゃんが一歩一歩、前へ進んで。

事務所で、いろんな光と出会って。

その光に導かれて、私が夢見た道を進んでいく。


私と同じ存在である、千早ちゃんが。


私は私で頑張ったんだ。

眠ってしまう日はどんどん増えていく。


それでも、私は諦めなかった。

千早ちゃんが、手を握ってくれるから。

千早ちゃんが、前へ進もうとしてくれるから。


千早ちゃんが、私の想いは間違ってないって。

前へ進もうとしながら、証明してくれていたから。


千早ちゃんは、事務所の人たちのことを教えてくれた。


プロデューサーさんになったお兄さん。

社長。

小鳥さん。

美希。

あずささん。

伊織。

やよい。

真。

雪歩。

律子さん。

亜美。

真美。

四条さん。

響ちゃん。


カラフルな光で千早ちゃんを導いてくれる人たち。

そして同時にその人たちは、私にとっても光だった。


騒がしくも満たされた日々。

千早ちゃんは日に日に笑顔が増していった。

レッスンを受けて、歌って踊って、少しずつお仕事も来て。


千早ちゃんは前に進んでる。

だから、私も前に進まないと。


動ける時間は日に日に減っていく。

体力は衰えて、ダンスなんて出来ない。

お腹から声も出せない。


それでも、それでも。

私は、前に進みたいんです。

千早ちゃんがそうしてくれているように。

私だけ、歩みを止めるわけにはいかないんです。


怖いとか。

諦めとか。


いろんな言葉が過ぎりました。

でも、私は、それでも進もうとしました。


千早ちゃん。

いっこ、ごめんなさいがあるんだ。


千早ちゃんのデビュー曲。

すごく綺麗だし、大好きなんだけど、ちょびっと嫌い。

前に進もうとする前の。

合唱コンクールの時の千早ちゃんを思い出してしまうから。


でも、本当に嬉しかったんだよ。

千早ちゃんが、認められて。

私の想いが、叶ったみたいで。



けれどあの日、千早ちゃんの心は砕かれてしまった。

心ない、たった数枚の紙切れで。


砕けた心を必死に押し固めながら進もうとする姿は。

見ていて、本当に辛かった。


ごめんね。


何もしてあげられなくて、ごめんね。


辛かったよね。

苦しかったよね。

私なんかよりも、ずっと、ずっと――。


その頃、私もお医者さんから言われました。

厳しいことを言うようですが、このまま悪化の一途を辿るだろう、と。


つまりそれは。

私の時間がなくなるということ。

私という存在が、消えてしまうということ、でした。



分かっていました。

いつかこんな日が来ることは。


でも、神様。

もしもいるなら、言わせてください。


どうして。

私、頑張ったのに。

何も悪いことしてないのに。

色んなこと我慢して、必死に。


なんで。

なんで、神様。



目指すことさえ許してくれないんですか。



涙を堪えきれませんでした。

でも、私が嘆くことに意味はないから。


ならば、せめて。

せめて、私にできる最後のこと。

せめて、最後に。

千早ちゃんには。

千早ちゃんには、前を向いて欲しい。


だって……だって!


千早ちゃんは……千早ちゃんは、私の――。




けれど、千早ちゃんは心を閉ざしてしまった。

私は夢の中で、壁の向こうへ追いやられて。

千早ちゃんは、小さな部屋に閉じこもってしまった。


「待って! 待ってよぉ!」


涙が溢れる。


「行かないで、行かないでよ!」


がちゃりと、鍵がかけられる。


「開けて! 開けてよぉ! 千早ちゃん、千早ちゃん!!」


何度体当たりをしても、弱り切った私ではびくともしない。


「開けてよ! 千早ちゃん! お願い、お願いだから!」


壁の向こうから、千早ちゃんの弱々しい声が聞こえた。


「もう、私は疲れたのよ……もう、何もしたくない……」

「イヤだぁ……そんなの、イヤだよぉ!」


私は、叫びました。



千早ちゃん。

千早ちゃんは私なんだよ。

千早ちゃんは、前へ進むことが出来る私なんだよ。


私が思い描いてきた夢。

私が、小さい頃から願っていた姿。

諦めかけた私を、救ってくれた人。


千早ちゃん。

あなたは、そんなすごい人なんだよ。



千早ちゃん。

千早ちゃんは私なんだよ。

千早ちゃんは、前へ進むことが出来る私なんだよ。

私が思い描いてきた夢。

私が、小さい頃から願っていた姿。

諦めかけた私を、救ってくれた人。

千早ちゃん。

あなたは、そんなすごい人なんだよ。

すみません、>>585はミスです。
無視してください。






「嫌だよぉ!!!」






千早ちゃんはね。


「……だって、千早ちゃん……指切り、したもん……」


私の全てなんだよ。

千早ちゃんが前に進むことはね。


「絶対に、前に進むことをやめないで……ってぇ……」


私が生きた証なんだよ。



私の夢。

私の想い。


押しつけがましくてごめんね。

傲慢でごめんね。


それでも、どうか。

どうか、私の全てを。

肯定して欲しいんだ。

千早ちゃん。

他でもない、あなたに。



「今度新曲を出す時は、明るい歌を歌ってほしいな」


体が震える。

やっぱり、怖いよ。

消えてしまうことがじゃない。


千早ちゃんと、一緒にいられなくなることが。

立ち直るところを、見届けられないのが。

それが、たまらなく怖いんだよ。



「だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ」

「とも、だち……?」

「うん。大切な大切な、友達」


そうだよ、千早ちゃん。

私は、そう思ってるよ。


笑顔が素敵な千早ちゃん。

意外とすぐ拗ねる千早ちゃん。

ムキになる千早ちゃん。

笑い上戸な千早ちゃん。


全部全部、大好き。

大好きな、千早ちゃん。



でも、こんなお話ももう限界。


「千早ちゃん。さっき頼んだこと……できれば、お願いね」


そして、神様。


「ばいばい、千早ちゃん」


もし、神様がいるのなら。

願わくば、どうか、千早ちゃんを――。






そして私の世界は、独りになった。






すぐ近くに、泉があった。

覗くと、千早ちゃんの姿。


「千早ちゃん!」


名前を呼んだ。

でも、返事はない。


「千早ちゃん……」


その姿は、別れ際の時のまま。

傷つき、感情を失くした、悲しい姿だった。



私は見ていることしかできない。


みんなの辛そうな表情。

周りを突き放す千早ちゃん。

私に話しかける千早ちゃん。


私は見ていることしかできない。

千早ちゃんが自分自身に追いつめられ、苦しむ姿。


千早ちゃん、私はここにいるよ。

千早ちゃん、私はそばにいるよ。


距離はとても離れているかもしれないけれど。

私はいつも、あなたの隣にいるんだよ。


そんな心の叫びも、今の千早ちゃんには届かない。



独りぼっちの世界。

他に誰もいない。

何もない。

ただ、私が在るだけ。


きっとあの病院のベッドで眠り続けている限り。

私は、このままなのかな。

寂しいなぁ。

寂しいよ、千早ちゃん。


私は独りぼっち。

千早ちゃんと離れて、初めての独りぼっち。


前は家族がいた。

友達がいた。

お兄さんがいた。


いつも隣には、千早ちゃんがいた。


その千早ちゃんが、隣にいない。

ずっとずっと、このまま独りなのかな。


これが私の、いるべき場所。

運命、だったのかな。



――どれくらい時間が経っただろう。

独りきりで、座り込んで。

泉の中の千早ちゃんを見つめて。


ふと、どこからか、光が見えた。

カラフルな、千早ちゃんを導いてきた光。

それらが私の前で、手招きをしてる。


「今更どうしたのかな……」


光は見える。

見えるというか、感じる。

泉の中から。


「こっち……?」


ふらふらと、誘われるように泉に手を差し入れる。

暖かい光が、私を引っ張ってくれた。


すぐ隣に、千早ちゃんがいた。

雨に濡れそぼって、ノートを抱えて。


「千早ちゃん!」


私は必死に呼んだ。

けれども、その声は届かない。


代わりに見えるのは、怯えの瞳。


何度声をかけても。

何度その肩に触れようとしても。

千早ちゃんは、怯えた声をあげて逃げてゆく。


待って!

待ってよ千早ちゃん!


私はここにいるよ!

千早ちゃん!



千早ちゃんは、雨と涙に濡れて。


私は逃げ込む千早ちゃんと共に、部屋へと入った。

無機質な、でもところどころにみんなの思い出が詰まった。

千早ちゃんの、大切な部屋。

千早ちゃんが最後に逃げ込める、大切な部屋。


そんな玄関先で。

びしょ濡れの千早ちゃんが、座り込んでいた。

私のノートを、握りしめて。


私も、その隣に座りこんだ。

微かに伝わる体温が、暖かい。

神様がお願いを聞いてくれたのかな。


千早ちゃん、そのノート、読んでくれないかな。

私の想いを込めた、その夢のノートを。


千早ちゃんの指は動かない。

ノートを開こうとしているのに、何かに怯えているようで。


大丈夫だよ、千早ちゃん。


透き通った私の手が、千早ちゃんの手と重なる。

ゆっくりと、ノートのページをめくる。


暖かい。


千早ちゃん、あなたはこんなにも、暖かい人なんだよ。



一枚、一枚とページをめくる。

読み上げる千早ちゃんの声が、徐々に震えていく。


最後のページ。

私が、書ききることが出来なかった、白いページ。

そこにある、微かな跡を見て。

千早ちゃんの嗚咽が漏れた。


そうなんだよ、千早ちゃん。

本当はね。

本当に、私が思い描いた夢は、ね――。



読み終えた千早ちゃんは、泣きじゃくっていた。


そっか。

やっと私の想い、届いたんだね。

なんだかなあ……私、口下手だから。

もっと早く伝えてあげられたら、良かったのかな。

そしたら、こんなに苦しむこともなかったのかな。


ごめんね、千早ちゃん。


部屋の外に、光が見えた。

私を引っ張ってくれた、たくさんの、導きの光。


ほら、千早ちゃん。

みんなが待ってるよ。


私の身体と、千早ちゃんの身体が重なる。

あなたが独りで歩けないなら、私が手伝ってあげるよ。

さあ、立ち上がって。



行こう、千早ちゃん。


「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


社長の言葉を背に。

行こう、千早ちゃん。

みんなのところへ。



二人の力で、マンションの階段を駆け下りる。

もうここまでくれば、大丈夫だよね。


ありがとう、神様。

私の最後の願いを聞いてくれて。


みんなに駆け寄って。

囲まれて、涙が溢れる千早ちゃんは。

きっともう、私がいなくても大丈夫で。

あの日、私が夢見た千早ちゃんの姿でもあって。



みんなから代わる代わる声をかけられてるのに。

えへへ、千早ちゃん、まともに返事できてないじゃない。

そんな時はね、千早ちゃん。

一言でいいんだよ。


最後の最後に。

意地っ張りで恥ずかしがり屋な千早ちゃんに。

一言だけ。



ねえ、千早ちゃん。


みんな、その言葉を待ってるよ。




「ただ、いまぁっ……!」


頑張ったね。

よく言えたね。

よく、言ってくれたね。


涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら言う千早ちゃんを見て。

もう大丈夫だね。

また、立ち上がれるよね。


千早ちゃん。

千早ちゃんには、みんながいるよ。


だからね。

ゆーびーきーりげーんまーん……。

約束、だからね――。






そして私は。


暗闇へ溶けていく。




すみません、まだ続きをかける状況にありません。
お待ちいただけますと幸いです。

近々投下しますので、しばらくお待ちください。

すみません、仕事が立て込んで投下できていませんでした
今しばらくお待ちください

待ってる。



私の世界が暗闇に染まりきる直前。


どこからか、歌声が聞こえた。


気が、しました。



――――――――――

――――――――

――――――

――――


スポットライトに照らされて。

私が声を張り上げようとした瞬間。

白昼夢をみた。


そこは、いつもの夢の部屋で。

何もなく殺風景だけれど、光で満ちた私の部屋。


そして、ガラス張りの壁の向こうには。

煙か墨が淀んでいくように。

徐々に徐々に、暗く染まっていくもう一つの部屋。


私は拳を握りしめた。

この向こうで、あの子は一人きりで。

それはまるで、いつかの私で。


ああ。

あのときは、あの子が私を救い出してくれたんだった。

手を引っ張って、私をどん底からすくい上げてくれたんだった。


もう一度、私は拳を握りしめる。

拳の中には、六面体のキューブ。

固い。

これならば、きっと。


私は握りしめた右手を、大きく振りかぶる。

そして、全ての力を右手に込めて。


キューブを。

さいころを。


ガラスの壁へと投げつけた。



がちん。


微かに濁った音がして、さいころが跳ね返ってくる。

器用にそれを拾って壁を見ると。

当たったところに小さなひびが入っていた。



もう一度、振りかぶる。

投げる。


ばしっ、と。


先ほどよりも大きな音が響く。

壁のひび割れは、さらに大きくなった。


きっと、次が最後。


ねえ、春香。

あなたは今、そこで泣いているのよね。

私が泣いていたとき。

あなたは私を抱きしめてくれたわよね。


ねえ、春香。

あなたは今、そこから出てきたいのよね。

最後、涙を堪えながら私に笑ってくれたとき。

その瞳の奥に、見えたから。


ねえ、春香。

春香。


今、行くから。



私は、全ての力を振り絞って。

全力だったさっきよりも、さらに全力で。



さいころが、壁に当たる。

物音一つ立てず、壁に当たる。



静かに、水が壁面を伝うように。

細いひびが、波紋のように広がって。



ガラスの壁は砕けて、崩れ落ちた。



そうだ。

もう嫌な過去を振り返らない。

そして、目の前にあるものから、目を逸らさない。


私たちが見つめるべきは、これからだから。


私の部屋の光が。

淀んだもう一つの部屋へと流れ込んでいく。

暗闇が照らされ。

みるみる内に明るくなっていく。

その先で、あの子は、体育座りをしていて。

小さく、しゃくりあげる声が聞こえて。


投げつけたさいころが宙を舞う。

出る目は果たして、なんだろうか。


関係ない。


さあ、行きましょう、春香。

進みましょう。






賽は、投げられた。





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私は叫んだ。

喉の奥から、腹の底から。

これまでため込んできた、積年の想いを。

喜怒哀楽を。

吐き出すように。

叩きつけるように。

時に優しく、諭すように。


ああ、そうだった。

歌うことって、こんなにも心地良いものだったんだ。


これまで私を縛り付けていた鎖。

それらが全て引き千切られた今。

私には何の制約もなかった。


ただただ眼前には、自由。

歌という名の、大海原。


私は叫んだ。

全ての人に届くように。

空気を振動が伝い、耳から、全身から。

魂の奥底へと、届くように。


サイリウムが揺れる。

この揺れは、一体誰が生み出しているのだろう?

空気の振動?

違う、私だ。

他でもない私だ。

私が叫んだ魂が、他の魂を揺らしているのだ。


私は叫んだ。

一曲、また一曲と歌い上げる。

不安も恐怖も、微塵もなく。

まるでこれまでの鬱憤を晴らすかのように。

まるでこれまでの空白などなかったかのように。


声だけじゃない。

身体も勝手に、踊り動く。

私の魂を見せつけんとばかりに。


私は叫んだ。

マイクもいらないかもしれない。

この叫びはきっと、人間が作った機械など関係なく。

どこまでもどこまでも、響きわたる。


曲と曲の間の転換時さえも。

私の鼓動は、僅かたりとも弱まらない。

最高潮をキープして。

どくん、どくんと脈打って。

全身を血が駆けめぐる。


私は叫んだ。

会場も熱気を増していく。

届け、届けと想いが爆ぜる。

私の想いが。

観客の想いが。

会場を満たし、爆ぜる。


中でも私の想いはとびっきりで。

会場を越えて、どこまでも届けと。


あそこまで。

あの子の元まで。

あの部屋の暗闇を吹き飛ばすまで。

泣いているあの子が気付くまで。


息が上がる。

気付けばもう、次が最後の歌だった。


「皆さん、ここまで、本当にありがとうございました」

「今日だけではありません」

「あのとき、私の心が壊れてしまって」

「それでもなお、ここまで私のことを、待って、見守って」

「改めて、本当にありがとうございました」


全ての人へ向けた言葉。

プロデューサーはじめ事務所の仲間たち。

この日をずっと待っていてくれたファンの人々。


そして、私を救ってくれた――。


「次で、最後の歌です」

「この新曲は、ある大切な親友に捧げる歌です」

「どんな時もそばにいてくれて」

「どんな時も背中を押してくれて」

「どんな時も、私の心を救ってくれた」

「そんな、大切な、大切な人です」

「今はまだ、病室で眠り続けているけれど」

「きっと、この歌は届きます」

「そう、信じています」


「どうか、聴いてください」


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お待ちしてました

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2018年04月01日 (日) 16:48:07   ID: EJPPkVmH

面白い視点の、面白い進みかたの、最近少なくなった765ssの、とても貴重で面白いssです!

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