【デレマス】白菊ほたる、10歳の夏 (61)

・アイドルマスターシンデレラガールズ 白菊ほたるのSSです。
・地の文あり マイナーCP オリジナル設定 初投稿 の四重苦です。

暖かく見守って下さい。

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 白菊ほたるの、十歳だった私の、とある夏を話そう。
 その日、私は母親と共に東京に訪れていた。
 親戚に用があった、そう記憶している。

 私を見下ろす、天まで届きそうな建物の数々。
 炎天下を行き交う人々の、逞しさと力強さ。
 大きな音で走る宣伝車を見て、声を上げる。
 狭い感覚で何度も走り去る電車を見て、母親の裾を引く。

 私は、太陽に熱せられた東京の街に期待を抱き、心の底から喜んだ。
 私の憧れの街、あの人たちが住む街、あの東京が、ここに。


「お母さん?」

 しかしここは、当時の私が想像していた百倍は恐ろしい世界であった。

 津波のように押し寄せる人混み。
 耳を劈く機械たちのノイズ。
 押され、引かれ、また押され、時すでに遅し。
 強く握っていた母親の右手は、いつしか私の手から消えてしまっていた。

「お母さん、どこ……?」

 
––––思えば、これがこの街での最初の不幸だったかもしれない。

 見知らぬ土地の中、私を遠くから見下すビル群。
 小さな子供の声を掻き消す、騒音の渦。
 そして、独り取り残された子供。

 救いようの無い孤独感と無力感に襲われた。
 足元が、傾くような、崩れるような、力の抜ける感覚だった。
 小さな私には、都会に初めて立った少女には、保護者の喪失は余りにも大きすぎた。

 私は、道の隅に立ち止まって泣いてしまった。
 なんて寂しい街。
 炎天下に熱せられても歩き続ける大人達の瞳は冷たくて、誰も一人ぼっちの少女に手を貸すことはなかった。

「ううっ……」


 声帯が潰されてしまったみたいで、音を出せなかった。
 誰も彼もが他人。
 夏なのに、冷たい空気に肌を包みこまれて。

 そんな中、一つだけ私を呼ぶ控えめな声があった。

「あ、あの、大丈夫? えっと、お母さんは?」

 真新しい、白いシャツを着た制服の少女。
 中学一年生、高森藍子だ。

--- --- ---

「えっと、どこから来たの、かな?」
「ひっ…… えっぐ……」

 そのお姉さんは、とても優しい人だった。
 ハンカチを貸してくれて、人の少ない日陰まで手を引いてくれた。

 安心とか、不安とかに似た、難しい感情が押し寄せてきて。
 ずっと泣いて困らせたくないから、頑張って泣き止もうとする。
 そのせいで、もっと気持ちが追いつかなくなって泣いてしまって。


「えっと、え〜っと。お、お名前は?」
「ぐすっ、しら、きく、ほたる……」
「……! ほたるちゃん、ですね! えーっと、お母さんは?」
「はぐれ、ちゃって、ごめんなさい、ごめん、なさい……」

 ごめんなさい、私がフラフラしてたから。
 ごめんなさい、私がうじうじほたるだから。
 ごめんなさい、お母さん。
 ごめんなさい、優しいお姉さん。
 ごめんなさい……


「––––ほたるちゃん」

 いつしか、怖くて震えていた手は止まっていた。
 いや、止められていた。
 少しして、何をされたかが分かった。
 お姉さんが、私の手を包み込んでくれていた。
 優しい、白い手が。

「大丈夫、謝らなくて、大丈夫だよ」

 ゆっくりと、絵本を読み聞かせるように。

「謝らないで。大丈夫、誰も責めたりしないから。何があったか教えてください。精一杯協力しますから、ね?」


「……ん、大丈夫、です。落ち着き、ました。」
「うん、ほたるちゃんは、強いですね」
「私だって、もう十歳です。それに…… お姉さんが、いてくれる、なら……」
 溜まった涙で歪んだ視界で、お姉さんを見上げた。
「お姉さん、もう少しだけ、お願い、します……」
「……はい!」
 
強がった私は、包まれた手を、少しだけ体に寄せた。

--- --- ---

 その人の名を、アイコさんといった。
 私より、三つも上の中学生さんだそうだ。
 中学生、私はこの人のように格好良くなれているのだろうか。

「鳥取から、ですか。遠い所ですね……」
「はい、お母さんと一緒に」
「うーん、それだと余計に私がしっかりしないと……」

 私たちは、作戦会議として、近くの公園の日陰にいた。
 頭の上から、蝉の歌声が響いている。
 その間も、アイコさんと手を繋いだままで、少し照れくさかった。


「そうだ、お母さんは、電話は持っていますか?」
「えっと、はい、電話番号も言えます……」
「うん、えらい」

 少し屈んで、目線を合わせてくれるアイコさん。
 そういう所が、とても素敵な人だ。
 アイコさんが、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 黒猫の絵が入った、可愛らしいカバー。


 しかし、取り出したスマホのホームボタンを何度か押したあと、彼女の表情は変わった。

「あ、あれ? もしも~し? 反応してください〜……」
「アイコさん、大丈夫ですか……?」
「ああ、ごめんなさい。調子が悪いみたいです」
 
そして、大きなため息が、彼女の小さな口から漏れ出した。
「今日は朝から良いこと無いなぁ、朝は寝坊するし、友達は予定入っちゃうし、スマホは反応しないし……」


 あっ、もしかして……
 いつから影響してるのか分からないけど、多分、私のせいで……

「あ、あの、それって」
「あ、でもほたるちゃんには出会えましたね。それだけで嬉しいですよ♪」
「えっ……」

 少し、戸惑った。


 今までの人生で、どうしようもない不幸を何度も見た。
 私と一緒にいて、嫌な顔をする人がいっぱいいた。
 今だって、迷子の子供はいい迷惑だろう。
 だけど、この人……

 ああ、そうだ、私の不幸のせいだって教えてあげなきゃ。
 ちゃんと、謝らなきゃ……

「あのね、アイコさん……」


「ん?どうかしましたか?って、凄い汗! ほたるちゃん、お水買いに行きましょう!」
「ん、うぇ、え? え!?」
 
 藍子さんは、半ば私を引き摺るようにコンビニへと連れて行った。
 心なしか、アイコさんの手も、震えていた。

--- --- ---

「だ、大丈夫ですか?」
「平気ですよ。ほたるちゃんも、暑くない?」
「はい、問題ないです」
 
五件、六件は回ったか。
 漸く手に入れた麦茶を、ゆっくりと喉に流し込む。


 アイコさんが、ハンカチで私の汗を拭いながら笑った。
 やっぱり、ちゃんと言っておかないと、アイコさんまで酷い目に。

「違うんです。私、とっても不幸なんです」
「……不幸?」

 アイコさんが怪訝そうに私の顔を覗いている。


 そうだ、誰でも不幸な女の子だって知ったら、怖くて一緒になんていたくないもん。
 でも、アイコさんには悲しまないで欲しいから、本当のことを……

「はい、昔からずっとそうなんです……」

 声に出そうとすると、少し気が引けるけど。

「外に出たら、靴紐が切れて。友達から貰ったビーズも、すぐ壊れちゃって。黒い猫さんに横切られて。さっきだってそうです。私のせいで、アイコさんが不幸に……」


 ちゃんと、言った。
 これで、アイコさんともお別れだけど、この人の泣く顔は見なくて済む。
 さあ、あとは一人だけで、なんとか––––

「不幸って、私が、ですか?」


 アイコさんは、先ほどよりもっと不思議そうな顔で私を見ている。
 あれ? ちゃんと伝わらなかった、かな?
 
 アイコさんは、少し考えるように空を眺めた。
 そして、今度は子守歌みたいに優しい声で。

「あのね、ほたるちゃん。確かに朝から不運ばっかりだけど、だからこそ、ほたるちゃんに会えて、一緒にいるんですよ?」
「……?」


 アイコさんは、私の手をもう一度優しく握り締めてくれた。
 何故か、心がふわふわした。

「それに、さっきの店長さんの顔、見ました?」
「……? ごめんなさい、見てないです」
「あの店長さん、お店の飲み物が売れて嬉しそうに笑ってましたよ」
「そう、なんですか?」
「そう、ですよ」
「……」


 アイコさんの言葉は、とても優しかった。
 この人の言葉を、私は疑いたくなかった。
 でも、まだ心の何処かで、それを否定する私がいた。

「あの、アイコさん……」
「はい」
「私といて、楽しいですか……?」
「はい、とっても」

 アイコさんの言葉は、雲のように柔らかくて、でも、私にはまだ理解しきれなくて。
 また少し、戸惑った。


「うーん、とりあえず、コンビニ探しで遠くに来すぎましたね。そろそろ交番を探しに行かないと…… ほたるちゃん、行きましょうか」
「……」

 私の不幸を、まだ信じてくれていないのかもしれない。
 それとも、別に。
 とにかく、今は答えが出そうにない。

「……はい」

 アイコさんの手に引かれ、今度は並んで歩き出した。
 何かが、体の何処かで溶けるような心地がした。

--- --- ---

「交番、遠いですね」
「おかしいな、この道であってるはずなんだけど」
「やっぱり、私がスマホをおかしくしちゃった……」
「ツイてないのは、私も一緒だから」
 
 アイコさんは、また笑う。
 どうして泣いたりしないのだろう?
 怖く、無いのかな?


「あっ、ほたるちゃん、少し止まって」
「……?」

 アイコさんに合わせて、私も足を止める。
 近くの茂みが、ガサガサと音を立てている。

「ほら、来ますよ」

 そして、黒い塊が飛び出した。
 黒猫だ。


 以前、誰かから聞いた話を思い出す。
 
『黒猫に横切られると不幸になる』
 
 そんな話。

 ああ、やはり私はツイてない。
 どんなに励まされても、この不幸だけは治らないのだ。

 ごめんなさい、アイコさん。
 私といる所為で、こんな目に合う。
 私といては駄目なんです。
 
こっそり、アイコさんと離れてどこかに行こうとした。
 この人が幸せになれる、どこかに。


 逃げようと足を二歩引いたときに、アイコさんが私の手を掴んだ。
 涙目で訴えかける。
 どうして。

「ほたるちゃんは、猫は苦手?」

 えっと、猫は嫌いじゃないんです。
 ただ、あなたには不幸になって欲しくなくて——。
 
「大丈夫ですよ」

 違う、そうじゃないんです。
 なのに、なのに——。


「大丈夫、なにも不運なんかじゃないですよ」

 アイコさんは、私の手を軽く引いて、黒猫のそばに歩み寄った。

「おはよう、ペロちゃん。今日もいいお天気ですね」

 話しかけられた黒猫、ペロさんは気怠げに「にゃあ」と鳴いた。
 近くで見ると良く分かる。よく手入れされた、艶やかな黒髪だ。

「ほらね? この子、私の友達だから、怖くないですよ?」

 本当に、懐かれているようだ。


 そのまましばらく、ペロさんと見つめあっていた。
 先に動いたのはペロさんの方だった。

 彼女(?)は、私の足元に近寄ると、何かを要求するように頭を差し出した。
 アイコさんは、私に撫でるよう合図を送っている。

 黒猫は、少し怖い。
 不幸が生きているみたいで、どうしても。
 でも、もし、この人の友達なら……
 
 悪い猫じゃない。
 そう自分に言い聞かせて、彼女の前にしゃがみ、手を伸ばす。


 しかし、彼女はそんな私の腕をすり抜けて、膝に飛び乗ってきた。
 びっくりしてよろけたが、何とか体勢を立て直す。
 そんなこと関係ないと言わんばかりに、彼女は大きく欠伸をした。

「ほたるちゃん、どう?」

 どうって……
 いきなり飛び乗られて、我が物顔で上に座られて。

「あったかい、です」

 迷子になってからずっと寒かったお腹のあたりが、暖かかった。
 母親と別れてしまって寂しかった気持ちが、また少しだけ埋められた気がした。


「黒猫は、怖い?」
「いいえ……」

 すこし身構えてしまうけれど、黒猫は不幸の象徴だって聞いたけれど。
 こうして仲良くなれれば、怖くはないのかな。

「良かったなって、思いますか?」
「ちょっとだけ……」
「なら、嬉しいです」

 そう言ってまた、彼女は微笑む。

「……」

 膝のペロさんも、何も言わずに私の指を舐めている。
 また胸のあたりで、何かが溶け落ちる心地がした。


「ねぇ、折角だから、写真撮ってもいい?」
「え?」
「最近はじめたんだけど、いい画が撮れなくて…… ダメかな?」

 アイコさんは、小さなデジタルカメラを片手に握っていた。

「えっと、私なんかで良かったら……」
「もちろん!」

 そうしてレンズが私に向かう。
 カメラは、光は焚かれずに音だけを放った。
 
ペロさんは、不機嫌そうだった。



「うん、綺麗に撮れました♪」

 嬉しそうに、画面をのぞき込むアイコさん。
 えっと、役には立てたのだろうか。

「ありがとうございます、ほたるちゃん」

 でも、こう言われると、悪い気持ちはしなかった。

「喜んでもらえたなら……」
「うん、嬉しい。ちゃんとお返ししないと、ですね」

 アイコさんが、手のひらを前に向けて伸びをした。

「さて、行きましょうか、ほたるちゃん。お母さんに会いに行きましょう」

--- --- ---
 
「本当について行って、大丈夫なんですよね……」
「うん、平気だと思う…… いつも迷ったときは、道案内してくれてるから……」

 私たちのひそひそ話に反応して、前を歩くペロさんは不満そうに喉を鳴らした。

「人語も理解して、いるんでしょうか……」
「結構通じますよ…… まあ、警察官さんのところに連れて行ってもらえれば、あとはどうにか……」

 そうこうしているうちに、何やら人の多いところに出ていた。


「アイコさん、人がいっぱいいます……」
「大丈夫、もう少しだから、ちゃんと手を繋いでいて」

 遅れないように、彼女の方に体を寄せる。
 この人の背中は、とても落ち着く。

「それにしても今日は、人が多いですね……」
「何かやってるんでしょうか。あっ……」

 道先の人の塊から、激しい音が聞こえてくる。
 頭の上から、光が薄く漏れ出している。

「あれって」
「アイドル、ですかね」


 そうだ、あれは私が見たかった。
 
「ほたるちゃん?」
「……いえ、なんでも」

 きっと、そうだけど。
 わがままは駄目だよ。

「……」

 我慢しなきゃ。
 きっとまだ機会はあるから。

「ほたるちゃん、あれが見たいんですか?」
「……!」

 しかしアイコさんは、魔法みたいに容易く、私の心を見破ってしまった。


「でも……」
「いいですよ、ついでにスタッフさんに電話を借りましょうか」

 アイコさんの手が、私の髪を軽く撫でた。

「じゃあペロちゃん、少し待っていてもらえますか?」

 ペロさんは、話を最後まで聞く前に、近くの花壇に太々しく寝転がった。

「さあ、行きましょう」

 聞こえる激しい音楽が、私の心を沸き立たせていた。

--- --- ---

「うわ、想像以上に人が多いですね……」
「んっ」

 前に行こうとすると、背中を押され、前に押し出される。
 思わず、アイコさんにしがみ付く。
 彼女もまた、倒れそうだった。
 体中に、誰かの重みが圧し掛かってくる。

「ほたるちゃんっ! 絶対に離れないでね!」
「はいっ!」

 でも引かない、というか引けない。
 飛び込んだから、見たいものがあるから。
 蠢く人々の束を割って、立ち入り禁止ロープの前に弾き出された。

 ロープにしがみ付いて、顎を上げる。

「——わぁ」
「綺麗、ですね……」


 星のようだった。
 光がきらめき、音響は心臓を打つ。
 その中央、仮設ステージの上で、煌びやかな服装に身を包む女性。
 高校生くらいだろうか、白い兎耳があたりの注目を集めている。
 肌を滴る汗が、辺りの光を集めて光る。

「すごい、格好いい……」

 思わず声が漏れてしまう。
 知識として、それほど大きい会場ではないことは分かる。
 でも、この人が凄いアイドルなんだと、直感で理解した。
 都会、すごい。
 テレビで見ない、名前も聞いたことのないアイドルのお姉さん。
 それでも、こんなに心を惹きつけられる。

「すごい、綺麗、きらきら、かわいい……」

 私の隣でアイコさんが、夢を見ているような感嘆を漏らしていた。

「ねぇ、ほたるちゃん。すごいね」
「はい、きらきらです……」

 二人並んで、目を開いて、夢を見ぬまま夢を見ている。
 そんな、不思議な体験だった。

 さあ、そろそろ曲が終わる。

「——行かなきゃ」
「名残り惜しいですけど……」

 司会の女性が挨拶を終える前に、また人混みをかき分けて外に進む。
 帰りは、入る時よりも抜け出しづらかった。
 まるで、波に逆らうような、突風に向かうような、呑み込まれそうな勢いだった。
 
「んぐっ」

 負けないように、必死に逆らった。
 押され、引かれ、また押され。

「ぷはっ」

 ようやく出られた!


 胸が、まだ高鳴っている。
 脳裏に、あの光景が焼き付いている。
 よかった、よかった、よかった!

「ねぇ、アイコさ——」

 隣に、彼女はいなかった。

--- --- ---

 群衆の中に入り込もうとする。
 
足を踏み込み、この軽い体を押し込む。
 しかし、呆気なく弾かれてしまった。
 非力な私の力では、もう入ることも許されなかった。

「すみません! なかに、きっと知り合いが……」

 聞こえるはずもない。
 私の勇気のない声は、会場の熱気に呑み込まれ消える。

 あたりを回ってみた。
 誰か、入れそうな道は、頼れそうな人は?
 ダメだ、こんな中では何も……
 
 夏の昼過ぎ、灼けるアスファルト、熱気で揺らぐ会場の空気。
 もし、この中に人が吞まれたとしたら?
 
急に胸のあたりに悪寒が走った。
 呼吸が、正しいリズムで刻めない。

 息苦しい、怖い。
 足が震える、心臓が痛い、もう何も私には……


 心の中で、声が響いた。

 ——私は不幸なんだ。
 視界に水が溜まる。

 ——それどころか、私は他人まで不幸にした。
 体の力が徐々に抜けていく。

 ——もう、何も望まないほうがいい。
 手足の血が、どんどん引いていくのを感じる。

 ——お前が、誰かと幸せを分かち合おうなんて。
 心臓のあたりが、凍り付くような心地がした。

 ここから、ここから逃げてしまおう。
 もう、誰にも見られたくない、何も考えたくない。
 罪悪感が、心を裂きそうだ。

 ふらつく足で立ち上がって、体が重くて、つばを飲み込んで。
 それから、それから——。

「にゃあ」

 後ろから、鳴き声と鈴の音がした。

「ペロさん……」

 もう一度、へたり込んでしまった。

 そうだ、逃げるなんてダメだ。
 本当に、彼女が不幸になってしまう。
 でも、私には——。

 ペロさんが、私の手を舐める。
 私のことを、じっと見つめている。

「そうだ…… 言葉、解るんですよね?」

 恐る恐る、聞いてみる。
 傍から見れば、おかしな少女だ。
 でも、アイコさんの言う通りなら……

 ペロさんは、しばらく私の目を見て、頷く仕草をした。


「私、優しくしてくれた人を、不幸にしたくない……」

 賭けて、みよう。

「ペロさん、アイコさんと会わせてください。私、泣いたりしないから!」

 ペロさんが、もう一度頷いた。

 ペロさんの足は、とても速かった。
 私も、ちいさな勇気で後を追う。


 ペロさんが、人の塊に沿って走る。
 血液が足りてない脚に、無理やり命令を伝達して追う。

 ペロさんは、走って会場のすぐ横に入り込んだ。
 私も、荒れた呼吸のまま曲がる。

 そして、初めて気づく。
 ここに、スタッフルームがあったのか……

「あら、黒猫さん。どこから……」

 ペロさんが、テントの近くで女性の足に絡みついていた。

「って、あら?」

 そして、その鷹の瞳が、私に向けられた。

「あなた、ほたるちゃん?」
「え、は、はい…… その!」

 ライブ限定のシャツを着たその女性は、私の声を遮って手を握った。

「はい、確保~♪」
「えっ?」

--- --- ---

 事の顛末はあまりにも単純で、呆気なかった。

 アイコさんは、あの塊の別の場所から吐き出されて、私を探していたそうだ。
 あの時の写真をスタッフさんに見せて、泣きながら頼んでいたとか。

 要は、私が勘違いして、勝手に震えてただけ……?
 なんか、こう、とても、顔が、熱い……

 先程のお姉さんは、ペロさんの背中にステージで散った花吹雪を乗せて遊んでいる。
 ペロさんは…… 嫌がってはいないようだった。

 体を支配していた緊張感は、いつの間にか消えてしまっていた。

 しばらく遊んでいる二人を眺めていたら、お姉さんのスマホが振動して画面が光った。
 大きくストレッチをして、飽きてしまったよう様子のペロさんは、どこかに走って行ってしまった。


「ほたるちゃん、プロデューサーさんがお母様と合流されたようですよ♪」
「あ、ありがとうございます…… あの」
「ああ、藍子ちゃんなら、そろそろ事情聴取が終わって」

 言い切る前に、奥の方からアイコさんが現れた、そして——。

「ほたる、ちゃん……?」

 電池が切れたように。

--- --- ---

「びっくりしました、ほたるちゃん、急にいなくなっちゃって」

 二人並んで、ベンチに座っていた。
 すっかり疲れて、動く気も起きなかった。

「ごめんなさい、私が手を放しちゃって……」
「ううん、私がしっかりしてないから…… 怖かったですよね」
「……はい、足が竦みました」
「私もね、怖かったです。最初から、ずっと」

 アイコさんの目は、少し腫れていた。
 握られた手の力も、先程よりずっと弱かった。

「怖くて、焦って、手も震えて……」
「……」
「でも、ほたるちゃんがいたから、張り切っちゃいました♪」


「……ごめんなさい、私の不幸で、アイコさんまで」
 
「——それ」
「?」
「朝からずーっと気になっていたんです。どうも話が合わないなぁって」

「それ、って?」
「不幸と不運って、別の物じゃないかなぁって」

 真剣な瞳。でも、口角は微かに上がっている。

「確かに、とても不運だなって思いました。怖いくらいにツイてないなって……」 

「でもね、私はほたるちゃんといて、『幸せじゃない』なんて一度も思わなかったよ」
「……」



 アイコさんが、肩に軽くもたれ掛かってきた。
 私も少し体重を乗せる。

「私ずっと笑ってた。ほたるちゃんは、幸せじゃなかった?」
「……いいえ、とても素敵な時間でした」
「はい、私も♪」

--- --- ---

 私は遂に、お母さんと会うことができた。
 長いようで短い迷子の時間が、ここで終わった。

「そろそろ、時間ですかね」
「今日は、ありがとうございました」

「うん、ほたるちゃんとお母さんが会えて、良かったです」
「また、会いたいです」


「はい、この街で。アイドル、憧れてるんでしょう?」
 
 驚いて、一瞬息が止まる。

「どうして、分かったんですか……?」
「様子を見ていて、そうかなって」

 ああ、彼女は魔法みたいに、私の気持ちを見破ってしまった。
 
 アイコさんが、少し屈んで私を見つめる。

「あのね、ほたるちゃん。あなたがどんなに不運でも、どんな道を歩いても、きっとあなたは、誰かを幸せにできるから」

 その言葉が、静かに私の心を抱きしめてくれた。
 心の毒素が、体の奥で消されるような心地がした。


「また会ったら、一緒にライブでも見に行きましょう?」
「はい……!」

 東京での最初の記憶は、これで終わりだ。
 この後は、親戚の家に行って、疲れて寝てしまい……

 あとは、詳しく覚えていないです。
 ああ、でも、この記憶だけは、大切に、ずっと、ずっと——。

○○○ ○○○ ○○○

「にゃー」
「んぐ」

 黒い塊の前足に、ぐいぐいと顔を踏まれて目が覚める。
 いつの間に、ソファーで寝てしまっていたみたいだ。


「ペロさん、いつからそこに……」

 頭に紙吹雪を乗せたペロさんが、私の上を陣取っていた。
 一体どこで、そんなもの付けてきたのか。

「にゃふ」

 一言だけ鳴いて、私の体から飛び降りた。
 用事でもあるのだろうか、起こすだけ起こして早々にどこかへ行ってしまった。

「なにか、夢を見ていたような……」

 しばらくソファーで寝ぼけていると、背後から事務所のドアが開く音がした。
 慌てて乱れた髪を手櫛で梳かす。
 爆発した髪の毛からは、ぽろぽろと土が落ちてきた。
 ペロさん、また花壇でお昼寝したんですね……

「ただいま戻りました~って、ほたるちゃんだ。プロデューサーさんは?」
「藍子さん、おかえりなさい」

 藍子さんが座れるように、席を詰める。


「プロデューサーさんは、夕飯を買いに」
「そっか、ほたるちゃんは、レッスン帰り?」
「はい、少し寝ちゃってたみたいです……」

「最近、頑張ってたもんね」
「茄子さんも、菜々さんも、雪美ちゃんも…… もちろん藍子さんも、凄いから。私、負けていられなくて……」
「なら私も、もっと頑張らなきゃ、ですね」

 藍子さんが、手のひらを前に向けて伸びをした。
 その姿を見て、先程見ていた夢を思い出す。


「藍子さん、私、懐かしい夢を見ていました」
「へえ、どういう?」

 どういう、か……

「幸せな夢、です」


 暮れる、私の大好きな街が窓に映っている。
 さあ、帰らなきゃ。
 
 日に当たっていたからか、手足はまだぽかぽかしている。
 勢いをつけて、ソファーから立ち上がった。

 凝り固まった筋肉を伸ばして、体中に酸素を。
 
 また明日からの、不運に負けないように。
 今度は押しつぶされて、流されぬように。

終わりです

少し、読み辛くなってしまいました。五重苦でしたね。
HTML化のお願いをしてきます。

ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございます。
おやすみなさい。

ほーん、ええやん

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