【モバマス】屋上の歌姫 (19)


「ねぇ、屋上の歌姫のウワサ。知ってる?」

教壇の上で、現国教師の音読する平家物語を子守歌代わりに寝入ろうとしていたところ、隣の席の友人に声をかけられた。

「屋上の歌姫?」

そんなウワサは聞いたこともない。

「うん。B棟、あるでしょ?」

「あー。物理室とか、生物室とかあるとこだっけ」

B棟と呼ばれる校舎は理系科目の実験や家庭科で使われる教室が入っているほかは、文化部の部室があるのみで、入学して間もない私にとっては、あまり縁のない場所だった。

「そうそう。それでね、B棟にはうちの部の物置になってる階段の踊り場があるんだけど」

「天文部の?」

「うん。あとは演劇部の舞台装置なんかも置いてあるとこ」

「ふーん。それで、そこがどうしたの?」

「そこから屋上に出れるんだけど、その屋上にあの歌姫が時々いるらしいよ」

歌姫と言われても、いまいちピンと来なくて、私がきょとんとしていると、彼女はわざとらしく「はぁーあ」とため息を吐く。

「アンタ、ほんとにいろいろ疎いよね」

「歌姫って言ったら、一人しかいないでしょ。それもこの高校で」

またしても、きょとんとしている私に呆れたのか、彼女はスマートフォンの画面を見せながらこう言った。

「渋谷凛!」


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四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが校舎中に響く。

それと同時に、すぱーんという大きな音を立てて教室の戸が開け放たれ、クラスメイト達が我先にと廊下へ出て行った。

我々一年生の教室は購買部から最も離れた場所に位置している。

そのため、人気のパンやらおにぎりやらを手にするためには先程のクラスメイト達のように購買部まで駆けていくしかない。

私は別に売れ残りでいいし、なんならお腹に入るものであればそれでいい。

一足遅れて購買部へと向かうべく、のそのそと席を立った。


ナンバーワン不人気商品である豆パンと紙パックの野菜ジュースが入った袋を片手にふらふらと廊下を歩いていると、駆け足の上級生と何度もすれ違った。

あんなに急いでどこ行くのかな。

ちょっとした好奇心で、私は上級生達の後を追う。

着いた先は現国の授業の際に友人から聞いた、B棟のウワサの場所だった。


演劇部の大道具やら何やらがうず高く積まれた階段の踊り場には、肩で息をしている数人の上級生がいた。

物でいっぱいの踊り場は私と上級生達だけで、もうぎゅうぎゅうだった。

「すみません。何が始まるんですか?」

来てみたものの、何がなんだかよくわからなくて、屋上と踊り場とを隔てているドアの前に座っていた人に尋ねてみる。

しかし、返ってきたのは、人差し指を唇に当てるジェスチャーのみだった。


よくわからないし、教室に戻ろうか。

そう思ったとき。

ドアの向こう、すなわち屋上の方から、透き通るような綺麗な、それでいて力強い歌を聴いた。

その歌を聴いた瞬間、私は全身に電流が走ったような感覚になり、身動きが取れなくなった。

なに、これ。

扉を一枚隔てているのに、びりびりとした振動が体を揺する。

ただの一曲、二分に満たないアカペラでの歌唱で、私は骨抜きにされてしまいその場にぺたりと座り込む。

同時に、この人がウワサの屋上の歌姫であることを悟った。


やがて歌が止み、扉の向こうからは少しわざとらしい「ふぅ」という声が聞こえてきた。

すると、ついさっきまで歌に聴き入っていた上級生達がしゅたっと立ち上がり、階段を駆け下りて行く。

呆気にとられながら階下の様子を覗くと、階段だけでなく廊下までもを埋め尽くす人数の生徒達がいることに気が付いた。

生徒達は「終わったってさ」「今回は短かったね」などとひそひそ声で話しながら、蜘蛛の子を散らすかのように思い思いの方向へと去って行く。

えっ、えっ、どういうことなんだろ。

何もかもわからないままだったけれど、とりあえず逃げた方がいいらしい。

ぐっ、と足に力を込めて立ち上がり、大道具の物陰に身を潜めた。


私が物陰に隠れてから数分が経ったとき、ぎぃという音を立てて屋上のドアが開く。

その姿を一目見ようと、覗いてみる。

そこにいたのは紛れもない大人気アイドル、あの渋谷凛だった。

私のような芸能界に微塵も興味もないような人間でさえ、顔と名前が一致する大スターが目と鼻の先にいる。

黒髪をなびかせて歩く姿は、まるで風を連れて歩いているみたいで、私は人生で初めて心を奪われるという体験をした。

一歩踏み出すごとにふわりと揺れる灰色のスカートは、自分の着ているそれとはまったく別物のようにさえ思える。

ぺたぺたぺたと上履きを鳴らして歩く音が遠ざかり、完全に聞こえなくなっても、私は教室に戻ることを忘れ渋谷凛の姿を、歌を、反芻した。

あれが、屋上の歌姫……。


私を我に返したのは五時間目の開始を告げるチャイムだった。

慌てて教室に戻り、自分の席へ座る。

幸いなことに五時間目の教科担当はまだ来ていなかった。

視線を感じて、隣の席に目をやると、友人がむすっとして私を睨んでいた。

「待ってたのに。長いお買い物だね」

「ごめん。実は……」

別に隠すことでもないから、屋上の歌姫のライブに行ってきたことを彼女に打ち明ける。

「え、渋谷凛の生歌聴けたの!?」

私が「うん」と答えると、彼女は予想以上に驚き身を乗り出して「なんで? なんで?」と言う。

「なんかすごい急いでる先輩達がいてさ。ついてったら、ウワサのやつだった」

「何それ、めちゃくちゃラッキーじゃん。アレ、みんな聴きたがるからライブやってることを知ったときに行っても普通間に合わないんだよ」

「確かに廊下も階段も人でいっぱいだったなぁ」

「その言い方だと、もしかして踊り場で聴けたの!?」

「えっ、うん。そうだけど……」

「すごさを理解してないのが腹立つわー」

そう言って彼女は私の脇腹を指でつついた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

あの踊り場で屋上の歌姫の歌を聴いた日から、私は渋谷凛の虜になってしまった。

四時間目の終わりを告げるチャイムと同時に、生物室へと駆けていく。

理由は、あの踊り場に一番近い教室だから。

生物室に到着したら、戸の近くで待機し屋上の歌姫が現れるのを待つだけ。

もちろん、屋上の歌姫は毎日現れるわけではないし、どちらかというと週に一度現れればいい方なくらいだけど、私は毎日昼休みになると生物室に通った。

ぺたぺたぺた、という上履きの音がすると、飛びあがりたくなるくらい嬉しかった。


そんな昼休みを実に一年もの間、続けた。

しかし、何事にも終わりは来るらしく、三年生の先輩達が卒業するときがやって来る。

体育館の収容人数の関係で、多くの父兄や来賓が参加することから私達一年生は、卒業式の日はお休みとなった。

にもかかわらず、私は学校に行った。

教室は案の定開いていない。


習慣というものは、怖いもので、私は無意識の内に生物室へと向かっていた。

「なにやってんだろね。私」

自嘲気味に呟いて、戸に背中を預け、ため息を吐く。

なぜか、目から涙が溢れて止まらなくなっていた。


そのとき、ぺたぺたぺた、という上履きの音が聞こえてきた。

音は生物室の前を通り過ぎて、階段の方へ消えていく。

その後に、屋上と踊り場を隔てるあのドアの開く、ぎぃという音がした。


私は這うようにして生物室を出て、踊り場へとたどり着く。

少し待つと、いつものごとく、ドアの向こうから歌が聴こえてきた。

聴きながら、私は、声を殺して、泣いた。


歌が止んだ瞬間、私は両の掌が腫れんばかりの力で拍手をした。

拍手をした。

拍手をした。

そうして、真っ赤になった手で、涙を拭って、階段を転げるようにして降りて、学校を後にした。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆

短い春休みが終わって、私は二年生になった。

その年の初めての昼休み。

無意識で生物室の前まで来ている自分がいた。

しかし、戸には手をかけずに、くるりと回れ右をして購買部に向かった。

購買部では、売れ残りの豆パンと紙パックの野菜ジュースを買った。











屋上の歌姫は、もういない。







終わりでいいのかな?乙

よい

素晴らしい
けど何か切ない
乙です

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