【モバマス】P「交わる拳、繋がる掌」 (48)

地の文メイン。
独自設定あり。
未熟者ゆえ、人称や口調等にミスがあるかもしれません。
どうかご容赦ください。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1496931910


私は、アイドルをクビになった。

心情としてはそう表現したいところだが、言うとなると少しの語弊が残る。

より事実に即するならば、私はアイドル候補生として見切りをつけられ、以後のアイドルとしての活動は諦めることになったというのが正しい。

候補生、もしくは研修生として芸能事務所に迎え入れられてから一年足らずでのできごとだった。


正直、覚悟はしていた。
自分の見た目に大した自信があったわけでもなければ、歌も普通、ダンスもイマイチ。オーディションに通ったのが我ながら意外なほどだ。その上、練習を重ねても思うようには上達の兆しが見えないときた。

会社の判断は妥当なんだろう。そこまで大きな事務所じゃない。モノになるか怪しい人間をいつまでも囲ってはいられないのは当然だ。

理解はできる。

……だけど、悔しかった。
口惜しくて、諦めきれなくて、その日は一筋流れた涙が枕を濡らした。

どこで知ったのか忘れたが、血と涙の成分はほとんど同じらしい。
人並み以上にケガをする機会は多くて、たぶん人よりも血は流してきた。
それでも、それまでの人生で流した血の総量分の痛みよりも、その日の涙一滴分の胸の痛みの方がきっと強かったと思う。

誰かを笑顔にする仕事がしたい。
思いたったらすぐに行動してしまう性格で、通っていた高校を衝動的に辞めてアイドルを志した。

本気だった。
心の底からなりたいと思ったんだ。

でも、なれなかった。

「…………ちくしょぉ……」

暗くて何も見えない部屋で小さく呟いた独り言は、闇の中に溶けて消えていった。


翌日、目を覚ました私は重い足を引きずるように事務所へと向かった。寝ぼけて昨日の出来事を忘れていたわけではもちろんない。

社長からの温情を受けるためだった。
昨日、アイドルを諦めろと言われたその場で、何か別の形でこれからの生活のサポートをしようと彼は言ってくれた。

たぶんオーディションの時に言った学校を辞めてきたという一言を気にかけてもらえたんだろう。

あわよくば別の事務所の紹介を、そうでなくとも割のいい働き口を、という浅ましい考えを持ちつつ道のりを進んだ。


しかし、そんな淡い期待はこぢんまりした社長室の中で見事に消え去った。社長の口から飛び出してきたのは、想像を斜めに外れる提案だったから。

「……は?」

衝撃的な言葉に揺れる頭をなんとか立て直し、恐る恐る口を開く。

「……あの。もう一度言ってもらっていいですか」

「ああ。ウチでプロデューサーになってもらえないかなと。そう言ったんだけど」

若作りをしていて年相応の四十路には見えない社長が、ニッコリと微笑みながら衝撃の言葉を繰り返した。

聞き間違いではない。
この提案は私の期待の斜め上なのか、はたまた斜め下のものなのか。そのときは判断がつかなかった。

混乱する私を尻目に、社長は労働条件なんかが書かれた書類や契約書の類を手早く説明しつつ手渡してくる。

「……あ、あの!」

それを遮って、聞きたくはないが聞かなければならないことを恐る恐る口にした。

「……私に、アイドルになれる可能性は、ないんでしょうか」

手を止め、社長は気まずそうに頭をかいた。
その仕草だけで返事の内容はわかった。


「……オーディションに通しておいてなんだけど、僕からは難しいだろうとしか言えない。君の心意気は買いたいところなんだけど」

「……そうですか」

ああ、やっぱりか。
予想はしていても、直に言われればやはり気分は一層落ち込む。

空気を変えるつもりか、社長はパンと一つ手を打った。それから、作ったような明るい声で尋ねてきた。

「君は、人を笑顔にできる仕事をしたいと言っていたね」

「……ええ、まあ」

「だったら、こっちの道を選ぶのも悪くはないと思うんだ。人を笑顔にできるアイドル。それを支えるための立ち位置。……君の望む姿に綺麗に重なりはしないだろうけど、これもまた笑顔を作り出すための一つの形だと思うよ」

どうだろう、と困ったような苦笑を浮かべる社長には一旦返事を待ってもらって、預けられた書類を手に家へと戻った。


お世辞にも豪華だとは言えない結構な築年数のアパートの一室を一人借りている。半ば飛び出すように実家を出てそのままだから、家具もろくに揃ってない殺風景な部屋だった。


……プロデューサー、か。
部屋の真ん中に置いたちゃぶ台型のテーブルに資料を広げ、肘をつきながらぼんやりと考える。

この話を受けてしまえば、たぶんアイドルは完全に諦めることになるんだろう。アルバイトじゃない正社員だ。プロデューサー兼アイドルには偉大な先例がいるとはいえ、私にそんな器用なことができるとは思えない。

「……別の形か」

人を笑顔にするための。そんなこと、考えてもみなかった。とあるアイドルのライブを見て、脊髄反射的にああなりたいと思って即行動に移していたから。


一晩をうなされるように考えて結論を出した私は、自分なりの結論を持って翌日再び事務所の社長室を訪れた。

私は、人を笑顔にしたくてここの門を叩いた。
目標は人を笑顔にすることだ。

社長はまだそんなに年を食ってはいないが、業界でもそれなりの立ち場を築いているやり手だと風の噂に聞いている。
そんな彼が私にはアイドルは厳しいと言った。
つまり、そういうことなんだろう。

本音を言えば諦めたくはない。別の道でも自分の目標に辿り着くことができそうだとはいえ、一度決めたことを曲げるのは嫌いだ。

だけど、手段にこだわって、アイドルになることにこだわって、結局なれなかったら。ただただ時間を無駄にするだけになってしまう。
そうやって目標の達成が叶わないということの方が嫌だろう。

……なんて、嘘だ。
そんなのは建前。
必死に考えた自分を納得させられそうな理由で、茨の道にしがみつくことへの恐怖や金銭的な苦しさという情けない事由を見なくて済むように蓋をしただけ。

自分で決めたことを貫くことができないどころか、その上できないことをそれらしい理由で虚飾してしまう。

「……プロデューサーとして、働かせていただきます」

礼儀正しく、丁寧に頭を下げた。

小汚く大人ぶる人間になってしまったものだ。
昔の私が今の私を見たらどう思うだろう。

わざとらしく、わかりやすくため息をついて、もしかしたら唾の一つでも吐きかけたかもしれない。


とはいえ過去の私が悪く思おうが今の私に罰が下るわけではないし、よく思おうが天運に恵まれるわけでもない。

自分の選択の通りに新たな生活を始めることになった。

プロデューサーになる、とは言ってもそうすぐには一人で動かせてもらえるわけではなかった。当然の話だ。
私は社会人としてさえ全くの新人で、右も左もわからない。

基礎の基礎、ビジネスマナーを教えてもらうところから始まった社長直々の研修にたっぷりと時間を費やすことおよそ半年。
これが長いのか短いのかもいまひとつわからないが、とにかく四季が折り返し地点の秋を迎えたところで私の研修は終了した。


慣れなかったスーツにもある程度慣れ、まだ一人前とは言えないだろうが、とりあえず私の見習いという肩書きはとれた。
それで、その翌日から早速一人の新人アイドルの担当プロデューサーを務めることになった。

改めて呼び出された社長室でそのことを告げられたときは事の進みの早さに驚いたが、怖気付くよりもむしろやってやろうという気持ちの方が強かった。

しかし、渡されたそのアイドルの資料に目を通すにつれて、実際に会って話をするにつれて。

気分はどんどん落ち込んでいくことになる。


「こちらが、君に担当してもらう予定のアイドル、向井 拓海さんだ。……で、こちらが向井さんの担当に付くプロデューサーだよ。長い付き合いが求められるから、仲良くしてほしいね」


お互いの紹介をされているにもかかわらず、向井 拓海はこちらを見ることもせずにそっぽを向いていた。もらった資料によれば年齢はほぼ変わらないらしい。

「……よろしくね?」

「……あァ」

つっぱった態度だった。着ているのは不良御用達のメーカーが販売している、派手な龍のデザインが入った目立つ紫のパーカー。目つきも悪く、雰囲気も刺々しい。

なんだコイツ、と正直不愉快に思った。
ただ、社長の手前それを表に出すわけにもいかず、不満は飲み込んで笑顔を貼り付けた。


そんな感じで、最初の私からあちらへの印象は本当に最悪なものになった。
私が諦めざるを得なかった場所に立てているのに、その態度はなんなんだと。
……いや、他人では立てないところにいるからこそのあの不遜な振る舞いなのか。

そりゃ見た目はよかった。顔立ちはキツめなものの整っているし、スタイルは羨ましくなるぐらいに抜群。私よりも人前に出るのに向いてはいるのかも知れないけれど。

見苦しい嫉妬だとは自分で思った。半年も経っているのに、まだ諦めきれてはいないのか。
私が気に入る気に入らないに関わらず、私は彼女をサポートしなければならないんだ。

家に帰ってから簡単に彼女のことについて調べると、地元ではそれなりに名の通った不良であるということがすぐにわかった。さらに言えばとある暴走族のメンバーでもある、ということも。
あの物怖じしなさそうな態度もそれゆえなのだろうか。

私がもっと大人になる必要があるんだろう。

そう心構えを決めて、翌日からの仕事にあたることにした。


心構えはしっかり持っていたけれど、妬みや嫉みにかられている私がその通りに行動できるかはまた別の話だった。

大人になろうと思っていた私が子供っぽく腹に据えかねてしまうほど、向井さんの態度は悪く見えた。

初めて付き添った彼女のレッスンでは、口を開けば文句ばかり。
なんでこんなことやらなきゃいけねーんだ、だの。
チャラチャラしたことは嫌いなんだよ、だの。
軟派なことはガラじゃない、だの。

私の神経を逆なでする言葉のオンパレードだった。

練習自体は一応真面目に取り組んでいたからよかったものの、そうでなければ手の一つも出したいところだ。


「……そこまで言うなら、どうしてここにいるの? やりたくないならやらなきゃいいんじゃん」

なんでアイドルなんてもんを目指してんだアタシは。

レッスン終わりの帰り道、気怠げに呟かれたその一言に引き金を引かれ、我慢に限界がきてそう言ってしまった。

「……あァ?」

「やらなきゃいいじゃない。したくないんならさ」

「……なんだそりゃ。そっちがやれっつったから今アタシはこんなとこにいるんだろうがよ」

「私がいつやれなんて言ったの?」

「いや、アンタじゃねぇけどよ。あのニヤニヤした野郎がどうしてもってしつこいからこんなことになってんだろが」

最初はなんのことを言ってるのか、誰のことを言ってるのかわからなかった。
話を聞くにつれてすぐにわかった。

この子は、スカウトをされてウチの事務所に来たらしかった。


どうしてもと食い下がる社長に押され、断りきれずにここに来たのだと。向井さんはそう説明した。

頭を殴られたような感覚だった。
神様はなんて不平等なのだろう。自ら成りたいと思った人間は弾き飛ばし、やりたくないと思っている人間を無理矢理に引き込む。なんだってそんな公平じゃないことをするんだ。

社長も社長だ、くそったれめ。
アイドルになりたい人間を諦めさせておいて、そいつに対してアイドルになりたくない人間がアイドルになるための世話をしろだと。
ふざけているのか、もしくは私を体良く追い出したいだけか。そんなことはないと信じたいが。

事務所に戻ると、にこやかな笑みを浮かべた社長に出迎えられた。調子はどうだい、とご機嫌な様子で尋ねられ、多少青筋が浮かんだような気がする。

荒んだ気分のままその日の仕事はこなした。


彼女をサポートしたい、しなければという気持ちは正直ものすごく薄れてしまったけれど、そんなことは関係なく彼女のための仕事は事務所側から準備された。

私の知る限りでは、私がアイドル候補生だった時代に知り合った人の中でスカウトされたという子はいなかった。

ウチの事務所じゃ珍しい例なんだろう。だからこその強いプッシュ。

複雑だ、なんて気持ちじゃなかった。
純粋に羨ましかった。

私が欲しかったものを欲しいままにして、それをないがしろにしようとする彼女が。

羨望が薄黒く反転して、失敗してしまえばいいのに、なんてことを思ってしまったことさえあった。


……最低だな。
自嘲の意味を含むため息を落とした。

向井さんに非はない。社長は多少デリカシーに欠けたかもしれないが、別に悪いことをしたわけじゃない。

私が、勝手に逆恨みをしてしまってるだけだ。

デスク上のパソコンから目を切って時計を見上げると、ちょうど昼休憩の時間が近づいてきていた。
一旦休憩にしよう。こんな気持ちでは仕事もろくに捗らない。
パソコンをスリープモードに切り替え、昼食を買いに事務所を後にした。

ところで、ウチのオフィスは三階建てだ。
事務スペースは三階にあり、一、二階はレッスンルームや休憩スペースが設けられている。
ついでに言うとエレベーターがなく、なぜか階段は各階ごとに違う位置にある面倒な仕様だった。ゲリラ対策とでも言えば聞こえはいいが、三フロアしかないこんな建物で取り入れる必要があるかは疑問だ。
つまり、一度外に行こうと思うと下のフロアの各部屋の前を通る必要があった。社員からの評判はよろしくなく、エレベーターの設置を求める声は色んなところから上がっているらしい。

近場のコンビニで適当なものを買い、事務所へと戻った。

私がいる事務所に所属しているアイドルは学生の身にある若い女の子が中心で、かつ裏方の社員の数は少ない。

平日だったその日は随分静かだった。

だから、僅かに閉まり切っていなかったドアの隙間から漏れてくるレッスンルームのステップの音が、廊下にやけに大きく響いてたんだ。

ちゃんとドアは閉めないとせっかくの防音も意味がない。軽く注意でもしておこうと部屋の中をのぞいて、そこにいた予想外の人物に少し驚いた。

「……向井さん?」


そこにいたのは、確かに向井 拓海その人だった。
ぶつくさと文句を並べていた日に教えられていたダンスのステップを、繰り返し繰り返し何度も踏んでいる。

ああ、トチったな、と私が気づいたところで、彼女は大きく舌打ちをして動きを止めた。

「チッ……クソ、中々上手くいかねぇな。……ん?」

そう呟きつつガシガシと頭をかく彼女の視線が、ドアの向こう側から覗く私の視線とばっちりぶつかった。

「あっ」

「……なに覗いてんだよアンタ。いつから居た?」

「……えっと、来たのは今さっき。ホントだよ」

バツの悪そうな表情で再度舌打ちをした彼女の呼気は荒い。疲労の度合いから結構な時間身体を動かしていたことが伺えた。
行きで気づかなかったのはどうしてだろう。たまたま休憩していたタイミングだったからか。

「……向井さん、学校は?」

彼女もまた一介の学生で、今日は学校のはず。学校を休ませてまでレッスンを入れるほど切羽詰まってはいない。

「あぁ……なんだ。創立記念日とかだろ」

「サボりってことね」

「信用ねぇんだな、アタシ」

「その言い方で信用できるわけないでしょ」

「そりゃそうだ」

鼻で笑い、彼女は部屋の隅に置いてあったドリンクのボトルをぐいとあおった。

「ずっと練習してたの?」

「……悪いかよ?」

「むしろ良いことだけど。…….でも、前はあんまりやる気はなさそうだったからさ。意外で」

「……ハンパは嫌いなんだよ。そんだけだ」

そっぽを向きながら、吐き捨てるように言う彼女。
そっか、と簡単な相槌を打つ。

「……ねえ、さっきのステップだけど」

余計な世話かもしれないとは思った。
それでも口を出したのは、自分の『できること』を示してマウントを取りたかったからか、ただの善意からか。


彼女が手こずっていたのは、アイドル候補生だった時代に私も何度も繰り返し練習し、やっとの思いでモノにしたステップだった。

だから、簡単に実践してアドバイスをするぐらいなら私にもできた。

意外にも私の助言に素直に耳を傾けた彼女は、それに従ってゆっくりと確かめながら足を動かしてみせた。

「……こんな感じか? 合ってるよな?」

「そうそう。できてるよ」

「はー……なるほどな。……ややっこしいなクソ」

それから、改めてもう一度元のテンポで彼女はステップを踏んだ。
飲み込みが早い。完璧とは言えないまでも、さっきまでよりもずっと良くなっていた。

「うん。いいじゃん。良くなったと思うよ」

「ああ、自分でも思うわ。……アンタ、結構やるじゃねぇか」

「それはどうも」

向井さんはその場に座り込み、一つ大きく息を吐いた。

「お疲れだね?」

「アタシはあんま器用じゃねーからよ。……アンタの方が向いてんじゃねぇか、アイドル。結構ムズイと思ったステップ簡単にしてたしよ」

「……簡単じゃなかったよ、最初は」

「……は?」

冗談混じりに言われた言葉は、嬉しいような、悲しいような。まあ、私の方が向いているというのは間違いなくあり得ない。ちょっとしたアドバイスだけですぐに上達した向井さんの方が余程素質はある。

「私ね。ここのアイドル候補生だったの」

それなりの衝撃はあったらしい。
言うと、彼女はわかりやすく目を丸くした。

「……マジか。なんでやめたんだよ」

「色々あったんだよね」

「なんだそりゃ」

やめざるを得なかった理由なんてそのうちどこかから漏れるだろう。別に本気で隠すつもりはなかったし、隠し通せる道理もない。だけど、なんとなくそこはボカした。大した理由はない。本当になんとなくだ。


「なあ。……アイドルってよ、そんないいモンなのか?」

最初の質問は雑に返したけれど、次ぐ問いは私にとって誠実に答えざるを得ないものだった。

「いいモノだよ」

そう即答した。
周りの声を振り切って、盲目的に目指してしまう人間がいるほどに。

「……ホントかよ」

「ホントだよ。……向井さんはさ、チャラチャラしてるとか、軟派だとか言ってたけど」

確かに、はたからならそう見えてしまうのかもしれないけれど。

「チャラチャラなんてしてないし、ちゃんと真面目で硬派だよ。アイドルは」

「……」

真っ直ぐに目を見つめながら言うと、少しだけ気まずそうに視線を外された。

「まあ、続けてればわかるんじゃないかな……最終的に向井さんがどう思うかはわからないけど。少なくとも、上辺だけを適当な目で見てバカにするのは、私はやめてほしいな」

ちらりと室内の壁にかかっている時計を見上げると、いつの間にやら休憩終わりの時間が迫っていた。買ってきた昼食は食べられそうにない。

「これは差し入れ。食べていいよ」

ビニル袋ごとパンとサンドイッチを手渡した。夜まで置いておくのもなんだし、処理してもらえるならそっちの方がいいだろう。

「あ、悪いな。……サンキュー」

「じゃ、私は仕事に戻るよ。扉はちゃんと閉めてね、音漏れるから。あと、今日はもう見逃すけど学校はちゃんと行った方がいいよ。それとオーバーワークは厳禁。休憩はちゃんと取ること。ついでに言うなら」

「うるっせーなアンタ。オカンか」

「……言っとくけど歳一つしか違わないから。せめてお姉さんでしょ」

レッスン室に完全には納得していなさそうな彼女を残し、私は三階に戻った。


今日自主練に励む彼女を見て、彼女を見る私の目は少し変わった。
……彼女のアイドルへのマイナスイメージも、今日のことで少しは良くなってくれるといいな、と思った。

ああ、我ながらなんとも単純だな。


真面目に頑張ってる人には成功してほしいと思い、そうでない人の成功は祈れないのが大抵の人の性というものだろう。

向井さんの愚痴はあの日以降もそこそこの頻度で聞くことはあった。だけど、彼女は少なくとも後者の『そうでない人』だとは言えなかった。

文句は尽きることがなかったけれど、なんだかんだ回された仕事にはちゃんと取り組んでいたし、レッスンで手を抜く様子も見られない。……偏見の目を持ってしまっていたのは、私も同じなのかもしれなかった。

「……ねぇ、向井さん」

「なんだよ」

「次の仕事なんだけど」

「おう」

「……バニーコスとメイド服ならどっちがいいかな?」

「はっ倒すぞテメェ」

デスク脇から注がれる鋭い視線が痛い。
彼女がこういう仕事を望んでいないのは当然わかっているから、居たたまれない。

「……つーかなんだよ、またそういう仕事か?」

呆れたように言う彼女。
『そういう仕事』、とは要はグラビア関係の仕事だ。
『また』と言われるのも当然で、私が担当についてから持ってこれたのはほとんどが『そういう仕事』だった。彼女のルックスゆえか、グラビアやモデルならば比較的簡単に仕事は得られた。

これに関しては申し訳ないとしか言えない。自分としてももっと派手な案件を持ってきたいところだったのだが、私の営業はまるで思うようにいかなかった。

年若く、しかも女であるということが多少なりとも影響しているのかもしれないが、そんなのは言い訳でしかない。

事務所から回してもらえる仕事も向井さんのイメージとのギャップを狙う可愛い系統のものが多かったから、彼女のフラストレーションは結構なものだった。




ぎこちない笑顔を浮かべながら、向井さんはカメラの前でポーズをとる。
引きつっている笑みだけれど、それがむしろいいと言われることさえあった。あれも一種の才能なのかもしれない。本人は不満だろうけど。

今日も滞りなく撮影は済みそうだった。

差し入れのジュースでも買っておこう。
そう思い、フラッシュが焚かれ続けるスタジオを出た。

建物内にある自販機で炭酸飲料のボタンを押し込む。
……自分のぶんはどうしようか。

私の脳が小さなことで悩んでいると、一方で聞き逃せない大きなことが耳に届いた。

私がいる自販機の置いてあるちょっとした休憩スペースから、少し奥に行ったところの廊下。会話に興じる二人の男性がいたようだ。姿は角度的に見えないが、声だけが届く。


「……どうします、例の件。あと一枠がなかなか」

「あんまり予算に余裕もないんだよなあ。適当なとこから拾ってくるか?」

「そうしますか? ……せっかく有名どころ呼べたんだし、前座にもこだわりたいとこですけどねえ」

「有名過ぎるんだよ。そこでギャラ食いまくるからこんなことになってんだろ?」

「そうっすよねえ。……ま、良さげなとこ当たってみますよ。かの765プロアイドルとの合同ライブなんて、ノーギャラでも出たいって奴山ほどいるでしょ」

「まあな」


思わず声を殺して聞き耳を立てていた。心臓が猛スピードで鼓動を打ち始める。
『合同ライブ』、『あと一枠』、『適当なところから』。余りにも聞き逃せないキーワードの数々。

唐突に棚からぼた餅が降ってきた。これは落とすわけにはいかない。そう瞬間的に察した。

大急ぎで自販機に缶コーヒーを二本吐かせ、名刺を準備して飛び出した。

「あの、お疲れ様です! 突然すみません、私こういうものですが……」





自身の心にせっつかれるように、大急ぎでスタジオに戻った。
予定外の時間がかかった。たぶん撮影は終わっているだろうし、向井さんはイライラしている頃だろう。

彼女は既に普段着に着替えてスタジオ前の壁にもたれかかっていた。

こちらの姿を見つけ、眉間にシワが寄る。
おそらく文句を言うために開かれる口が開ききる前に、こちらから大声で呼びかけた。

「向井さん!!」

「うおっ、声でけぇな、なんだよ! ……っつかテメェどこ行ってたんだ人放ったらかしにしやがって!」

「仕事! 取ってきた!」

「……あァ? 今終わったとこなのにもうかよ。今度はなんのカッコしろってんだ?」

「アイドル衣装だよ!」

交渉と言えるほど対等の会話ではなかった。頼み込み、拝み倒して、なんとか一枠を回してくれるという言葉をもらえた。

若干ぬるくなった炭酸飲料を渡し、はやる気持ちを抑えてできる限りゆっくりと説明することに努めた。それでも早口になってしまった気がする。

「……マジかよ。ライブ?」

「そう!」

「えらい急だな」

「だってたまたま話してた人たちに割って入ったんだもん」

「思いの外アクティブだなアンタ。……うわコレぬるっ。冷えてねぇサイダーとか勘弁しろよ……」

あまりに急な話で驚きが強かったようで、向井さんの反応は微妙だった。が、乗り気なのは間違いないようだった。
ライブの仕事がしたかったというよりはグラビアの仕事が嫌だったという理由が強そうだが。


何はともあれ、私は初めて営業に成功したことに喜びを感じていた。この仕事をキッカケに、プロデューサーとしてのやり甲斐のようなものを感じ始めるようになる。

同時に、ここを契機に向井さんもまたアイドルとして一段上に登ることになった。




向井さんの体力は当初から結構なもので、レッスンは新人にしてはキツめのものをトレーナーさんが準備していた。
そんなレッスンメニューは、ライブデビューを控えると更に苛烈なものに書き換えられた。

「テンポが遅い!」

「キレが悪い!」

「腹から声を出せ!」

「辛そうな顔をするな!」

「疲れたのか!? 動きが悪いぞ!!」

情け容赦を排した指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
歯を食いしばって何とか食らいつく彼女の顔に余裕はまったくない。

私が譲ってもらった一枠は、私が想像していたよりも大きくて重いものだったらしい。
送られてきた資料によれば会場はそんなに大きくもないし、与えられた時間はほんの十数分。

それでも、その僅かな時間を喉から手を出すほどに求める人たちも多いようだった。

肩を大きく上下させ、ひどい息切れを起こしながらふらふらと向井さんが私の方へ近づいてきた。
レッスンが一時休憩に入ったらしい。

「お疲れ様。……大丈夫?」

「……あぁ。いや、大丈夫じゃねー……」

崩れるように座り込んだ。スポーツドリンクを手渡すと、一気飲みに近い勢いでボトルをあおる。

「……っぷは。……クソ、なかなか慣れやしねぇ……」

めきり、と強くボトルを握り締める彼女。顔に浮かぶ感情は、上手くできないことへの悔しさと、それを燃やす闘志。

小馬鹿にしたような様子は、もうまったくなかった。

「……何か欲しいものある?」

私がアドバイスをできるようなレベルは、とうに過ぎてしまっていた。レッスンに関してはもう差し入れでのサポートぐらいしかできない。

「……肉が食いてえな」

「肉の差し入れは無理よ」

「チッ……だよな。じゃあもう飲みモンとタオルだけでいいぜ」

「そう。わかった」

「肉はアレだ。ライブ終わりの打ち上げで連れてけよ。オゴリな?」

「……仕方ないな。ちゃんと成功させてよ?」

「ったりめーだ」

へへっ、と。少年のように彼女は笑った。

十五分後、休憩終わり! と。
そんな凜とした声がレッスンルームに響く。
向井さんは束の間の休憩を終え、また厳しい特訓へ身を投じに行った。


激烈なレッスンを行う一方で、また普段通りの仕事なんかをこなす必要もあった。

乙女チックヤンキー、とでも表現すればいいのだろうか。うまく言い表す言葉が見つからないが、まあそんな感じの印象がモデル、グラビア界隈で向井さんに定着した。

男顔負けなほど格好よく練習に励む姿を知っている身からすれば、彼女の仕事風景はなんとも笑ってしまう眺めだった。

今、目の前には白いもこもこした着ぐるみを着た彼女が立っている。


「…………ゴホッ」

「むせるほど笑ってんじゃねぇぞゴラァ!!」

「…………いや、無理だよ。もこもこ羊のセクシー着ぐるみは無理」

「テメェが持ってきた仕事だろうが! あぁ!?」

「似合ってるんだよねえ。なんでだろ。似合うわけないのに似合ってるの。かわいいよ」

「うるせぇよ!!」

「子供っぽいファンシーさと大人のセクシーさの絶妙な同居。芸術と言っていいかもしれないね」

「いいわけねぇだろ!」

「あっはっはっはっはっは!!!」

「全力で笑ってんじゃねぇよこのっ……ド貧乳が!!」

「は………………あ? ……テメェ今なんつったコラ」

「……!? 口調変わり過ぎだろ! ビビったわクソ!!」


初めの頃こそ後ろ向きな気持ちで彼女の担当を務めていたが、年が近いことや裏表のない彼女の気性ゆえか、いつの間にか友人に近い関係になっていた。
お互いに軽口も叩くし、遠慮のない物言いもする。

向こうはそういった付き合いしかできないような不器用なタイプだったし、私も私で建前や本音を使い分けるのは煩わしく思う方だから丁度よかった。




日々は順調に過ぎていった。
トレーナーさんのキツイ言葉は期待の裏返しで、向井さんのパフォーマンスの上達具合は目に見えるようだった。

私の方は相変わらず営業が上手くいっていると言い難かったけれど、とりあえず得意先に名前を覚えてはもらえたり。少しずつ前進している実感はあった。雑務をこなすスピードが上がり、営業にかけられる時間が多くなったのも大きい。

順風満帆。
そんな表現をしてもよかった。

よかったのだけどある日、風向きにほんの少しの揺らぎが見えた。


私は昼休憩、昼食のために事務所から五分程度の位置にあるファミレスに来ていた。
基本的に不精な私は、食事にも大して気を使わない。一人ならばもっと近いコンビニで済ませるのが大概だった。

その日は、連れ合いがいた。
テーブルの対面でグラスにお冷やを注ぐ女性。
黒い短髪が似合う彼女は、同僚の一人でもある。日頃から向井さん共々世話になっているトレーナーさんだ。

「……わざわざ来てもらってごめんなさい。少し、話したいことがあって」

「いえ、全然大丈夫ですけど。……どうしたんです? 向井さんのレッスンのことで何か?」

「いえ、そうではないんですが……」

言い澱む彼女。指導している時とは随分違う口調と態度だ。『二重人格じゃねぇか?』というのは向井さんの言だった。

ただ、今日はいつにも増してその表情は優れない。
何かがあったんだろう。たぶん良くない何かが。

じっと待っていると、彼女はやがて意を決したように口を開いた。

「……最近、向井さんに変わったことはありませんか?」

「変わったこと……ですか?」

「はい。些細なことでもいいんです」

突然の問いに、瞬間戸惑った。


ゆっくりと思いを巡らせてみても、特に思い当たることはない。

「……特に何もなかったと思いますけど……」

「……そうですか。……あの、あまり本人のいないところで言いふらすものではないと思うんですが」

トレーナーさんはそう前置きをしてから、あったことをそのままに伝えてくれた。

「……傷?」

「はい。あとは青アザのようなものも見えました」

聞き捨てはできない内容だった。
向井さんの腹部に、最近できた擦れたような傷跡と生々しいアザがあったのだという。ダンスレッスンをしている際に、勢いでめくれた裾から見えたらしい。

「……向井さんはなんて言ってました?」

「本人には、まだ尋ねていません。その前にプロデューサーさんに聞いておこうと思ったので」

「……そうですか」

生傷。楽観的に考えれば、転んだとか軽い事故にあっただとか。だけど、向井さんの体の目に見える部分にはそんな怪我をした様子はなかった。腹だけを綺麗に怪我するような器用な転び方や事故なんて考えにくい。

……まさか、喧嘩でもしたのか。傷が残るほどに派手な。考えられない話じゃあない。彼女はそもそもが結構な不良だったのだから。
アイドルになったんだ。……そんな軽率なことはしないと思いたいが。

さらに詳しく聞いたところ、幸いダンスやボーカルに支障があるようなものではないらしかった。

「……わかりました。私の方でも気にかけておきます。また何かあれば教えてもらっていいですか」

「もちろんです。……すみません、お時間頂いて」

「いえ。ありがとうございました」


生まれたのは、小さな不安だった。
だけどその日以降にトレーナーさんからの続報はなかったし、本人にそれとなく聞いてみても何の話かわからない、といった態度を取られた。

気にする必要はないことなのか。
確信は持てない。持てなかったけれど、忙しい日々に小さな引っかかりは紛れてしまって、いつの間にか気にすることもなくなっていた。




めまぐるしく流れる時間におされ、たっぷりあったはずの準備期間は存外早く過ぎ去った。

ライブ当日を迎え、向井さんと二人会場に入った。一番乗りだった。というよりも、一番に着くようにかなり早めの移動を心がけた。
私たちが一番の新人だったからだ。失礼があってはいけない。

「……つっても早すぎる気はするけどな。まだあと二時間あんぞ集合まで」

「いやだって、遅れるよりいいでしょ?」

「まあそりゃそうだけどよ。何すんだこの暇な時間」

「……最後の確認とかあるでしょ」

「いくらなんでも十分ちょいの出番の確認に二時間はかけねぇだろ……」

さすがに早く来過ぎたかという思いはその時は芽生えてしまったけれど、結局はそんなに時間を持て余すことはなかった。順に現場入りする他事務所の面々や現場スタッフへの挨拶回りをするのに結構な時間がかかったからだ。
早め早めを意識した私の判断はそう悪いものではなかっただろう。


集合時刻の二十分ほど前になると、出演アイドルの最後の一人が到着した。

「あはっ。みんな、今日はよろしくなの!」

声の主は今日のメインイベンターと呼べる彼女。

765プロの、星井 美希。

真打登場、とでも言ってみようか。
あからさまに現場は湧いた。

愛らしい笑顔に、愛くるしい所作。一目見ただけで強く惹きつけられ、目を離すことが惜しくなるほどの存在感だった。

端的に言って私も見とれていた。
すると、軽いグーパンチが私の側頭部を襲った。

「いてっ」

「ボーッとしてんなよ。挨拶だろ?」

「ああ……そうだね。ゴメン」

気もそぞろに挨拶を済ませ、自分たちの控え室に戻った。私たちの控え室は全員まとめた相部屋だが、星井さんだけは一人部屋だった。


オーラだとか格だとか、そういう目に見えないしがらみめいた何かは好きではないタチだ。なのにそれでも、今はこの場で彼女だけが別格だと思ってしまった。


演者とスタッフが全員集まったところで、ライブ前、最後の打ち合わせを終える。
開幕とトリを飾る役目は満場の一致で星井さんだと決まっていた。

一方で向井さんの順番は、二番手だった。

正直、嫌なところを回されたと思わざるを得なかった。多くの観客の主たる目当ては星井さんだ。その次となれば否応無しに比較されるだろうし。もしかしたら箸休め、休憩の時間に当てられたりするかもしれない。

そんな私の不安はどこ吹く風か、本人はなんとも思っていないようだったが。
図太い彼女の心根が、今はとても頼もしい。


開演の夕暮れ時が近づくと、少しずつ人の集まる気配が高まってきた。遠くざわつく話し声がバックヤードまで届く。

「……大丈夫? 緊張とか」

「ま、してねぇことはねーけど。問題ねーよ」

出演する向井さんよりも、むしろ私の方が落ち着けなかった。ドッシリと座って構えている彼女に対して、私は立ったり座ったりとそわそわしっぱなしだ。

「……落ち着けよ。アンタの方が緊張してんじゃねーか」

「うっさい。……なんで平気なのか教えてほしいわ……初舞台でしょ?」

「そうだな」

「お客さんもいっぱい入ってるからね?」

忠告のつもりで言った言葉は、鼻で笑われた。

「はっ。……望むところじゃねーか」

にやり、と上がる口角。
素直に凄い子だと思った。安心感がある。

……それでも私は依然緊張と不安で挙動不審のままだったけれど。


時計の長短の針が開演の時刻を指すと同時に、会場内にアナウンスがかかった。

控え室のモニターには舞台の様子が映し出されている。まだ誰も立っていないそこは、寂しいようであって、だけど気高い感じがした。

二番手の向井さんは既に舞台袖で登場を待っている。
ゆっくり待ってろよ、と言われ、言われるがままに私は控え室で時が過ぎるのを待っていた。



ざわつきの中、注意事項などを機械的に読み上げるアナウンスが終わった。

と、同時に、ステージに飛び出したのは金色の影。

『みんなーっ!! 今日は来てくれてありがとー! ミキ、いーっぱい楽しんじゃうから、みんなもいーっぱい、楽しんでねーっ!?』

瞬間、会場に地を砕くかのような怒声が轟く。比喩表現なしに肌がビリビリと震えた。

そんな歓声に少しも怯むことなく、モニター越しの女の子は弾けるような笑顔で音に乗って踊り出す。

胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。
それは、確かに以前の私が夢に描いた姿だった。
見る人みんなに笑顔を咲かせる、私の夢だったもの。

気がつけば、私は控え室を飛び出して走りだしていた。舞台袖まで行くと、そちらでも控え室同様大型モニターを囲んで見入る人の輪と、直に見ようと舞台脇に集まる人の塊。そのどちらもから少し離れた場所で、向井さんは躍動するトップアイドルを腕を組んで見つめていた。

そっと寄り添うように隣に立つと、おもむろに彼女は口を開いた。

「……コレは、すげぇな。正直、ナメてたかもしれねぇ」

ぽつりと呟いた彼女に表情は無くて、そこから感情を読むことはできなかった。

「……不安になってきた?」

尋ねたのに、彼女は少し笑うだけで何も言わなかった。


星井さんの一つ目の出番が終わり、舞台袖に帰ってきた。

誰もが呑まれていた。圧巻としか言えない彼女の歌とダンスに。演者もスタッフもひとまとめに。出迎え、賞賛の言葉を投げかけ、労う。

だけど一人だけ、普段となんら変わらない様子で動き出す人がいた。
凛とした背中から、溢れ出すのは殺気めいた何か。

……不安なんて、感じていなかったらしい。

パァン!! と大きな炸裂音が唐突に鳴った。
拳と手のひらを打ち合わせた音。
意味はきっと、威嚇、鼓舞に、宣戦布告。

周囲の視線が私の隣に一斉に集まる。

「……っしゃカチコミだ!! カマしてくんぜッ!!」

決意表明の声を張り上げ、周りの目をかっさらった彼女はステージに向かって駆け出した。

集まった視線は、すぐにバラけ始める。再び星井さんの方に向き直る人、隣にいる人となんだあれ、とでも言いたげな苦笑を交わす人。

ちょっとだけ、そんな周りの他人たちが不愉快だった。呑まれていた私も私だな、と少し自己嫌悪する。

かつての私の夢の体現と。
今の私の夢の形。
さあ、現在進行形の私はどちらを見るべきか?
……なんて、阿呆か私は。

そんなもの、誰に問うまでもない。

「……頑張れ、向井さん!!」

不純物の混じった声を戦地に向かう彼女には届けたくなくて、私は一人、走って行く背中に向かって叫ぶように声を上げた。

今度は私が好奇の視線を集めてしまったのは言わずと知れるだろう。知ったことか。


舞台に上がった彼女に与えられた時間はほんの十分程度。できるのは僅かなMCと一曲ぶんのパフォーマンスだけ。他の演者より随分短いが、それでもきっと強烈な印象を残せる。

『……星井 美希が引っ込んで萎えてるテメェら!! アゲていけよ!! んでもってしかとその目に焼き付けやがれ!!! 天上天下唯我独尊! 目指すは天辺、天下無敵! 愛怒流、向井 拓海の初陣だぜ!! 夜露士苦ゥ!!!』

彼女の歌う前のMCだ。マスターオブセレモニーというよりも、前 口上の方がしっくりきた。


だけどきっと、これでいい。
いつも通りの彼女の怒号は、確かに観客を沸かせたから。

向井さんのステージは、今できるだけの最大限の力を発揮できていたように思う。
星井さんの盛り上げた熱気に上手く乗って、力強いダンスと歌声はきっと観客の心にも届いた。



帰ってきた彼女を、抱き締めるように迎えた。

「……お疲れさまっ」

「……おうっ」

準備していたパイプ椅子に座るよう促し、ドリンクを手渡す。

間違いなく、最高のパフォーマンスだった。練習の時よりもさらに一段良くなっていた。彼女のなんと本番強いことか。

本人もそれはわかっているようで、出来を私に尋ねることもなく満足そうに表情を緩めていた。


……ただ、そんな満たされた顔の中にほんの少し別の感情が滲んでいる気がして、三番手が上がったステージの方を見つめる彼女に声をかけた。

「……何か思うところでもあるの?」

「……妙に鋭いなアンタ」

呆れたような顔がこちらを向く。
鋭いのに呆れられるのは心外だ。鈍かったならともかく。

「……当然だって言われんだろうけどよ。とんでもねぇ実力差だよな。アンタも思うだろ?」

誰と比べてか、は聞く必要もない。
多分みんなだ。

星井さんはもちろん。今舞台上にいるアイドルも、おそらくその次の子も、その次も。

みんな向井さんよりもアイドルとしての地力は上。
実力差が確かにあった。

「うん、思う思う。当然だね」

あえてさらりとそう言った。
わかりやすく非難がましい目が私の横顔を刺す。

「……アンタ、普通ここでそう言うかよ。庇うとこだろ大体よ」

「自分で言ったんじゃん……そりゃ当然だよ。経歴だとか場数だとか、何から何まで違うんだもん」

今日この場で私たちよりも歴史の浅い人たちなんて一人もいない。現時点で最高のパフォーマンスができたって、届かないものは届かない。


だけど、別にそれはいいだろう。
ここが私たちの、彼女の到達点じゃもちろんない。自分でもそう言ってたろう?

「……ここからでしょ。諦めたりしないよね?」

「当たり前だろ」

ぱん、と軽く膝を殴る彼女。

「どんだけ差があろうが、届かねぇとは思わねぇ。絶対ェ目にモノ見せてやる」

『目指すは天辺、天下無敵』で、『ハンパは嫌い』な彼女だ。きっとこの言葉に偽りはないし、きっといつか言葉の通りにしてみせる日が来るだろう。
根拠はない。でも、そう思えた。


「……なあ、プロデューサー。……悪かったな」

突然にそう言われて、私は大層驚いた。
謝られた理由がわからなかったし、初めて『プロデューサー』と呼ばれたことも一層驚きを強めた。

「……えっと、何が?」

「アンタの気持ちも考えずに、なんも知らねえガキが文句ばっか言ってて、だ。結構ムカついてただろ?」

「ああ……うん。まあそりゃあね。ムカついてたよ。今さらだし、別にもう気にはしてないけど」

「アンタホント遠慮ねえな? ……まあそれでもだ。ケジメはつけないといけねぇだろ。悪かった」

座ったまま勢いよく頭を下げ、それからまた勢いよく頭を上げた。

「……んでもって、こっからもよろしく頼むぜ。ガチで天辺獲りに行くアタシに……付いて来てくれるよな?」

拒否されるなんて毛ほども思っていなさそうな目。
だったらあえて尋ねないでほしい。答えはわかってるだろう。

「……一つ聞かせてよ」

「あ? ……なんだよ」

この質問に、意味なんてない。答えはわかっていることを、私も聞こう。

「アイドルは、いいモノだったかな?」

いつか聞かれた、その問いを。
彼女は私のように即答はしなかった。
ふい、と顔を背ける。

「……答えわかって言ってんだろ。聞くなよンなこと」

「あははっ。お互い様ってね」

彼女が突き進もうとしている茨道は、きっと辛く厳しい障害がいくつもある。わかっているけれど、それでも相乗りさせてもらおう。

彼女の目標を達せたときに、きっと私の夢も叶っているから。




合同ライブは、言うまでもなく大団円で幕を閉じた。

約束通りに私と彼女は焼肉屋で胃がもたれるほどに肉を詰め込んだ。そこそこ痛い出費だったが、別に構わない。

一方で、この時の私は本当に構わないといけないことをすっかり忘れていて。

「……ケジメ。つけねぇとな」

ひっそりと呟かれたその一言を、私は知らなかった。





それなりに話題の大きい合同ライブでキッチリとインパクトを残してくれたおかげで、営業は捗るようになり、ともすればオファーが来るようにもなった。

やろうと思えばカレンダーの大半を予定で埋めることもできそうだった。

だというのに、それはできなかった。
当の向井さんが嫌がったからだ。

「……一月ぐらい、仕事いれんのやめてくれねぇか。レッスン漬けにしてくれよ」

ライブ終わりからほんの三日後にそう言われた。

私ははじめ、痛感した地力の差を埋めたいのかと思っていた。その気持ちは理解できたから、今営業しないのは惜しいと思いつつも彼女の意思を尊重し、仕事を入れて欲しそうな目を隠しもしない社長をなんとか説得した。


望み通りにした。
なのに、向井さんはその望んだレッスンを度々サボったり、遅刻したりするようになった。

「悪い、日にち間違えて覚えててよ」

「時間、間違えてたわ。すまねえ」

「え、今日レッスンだっけか? マジで?」

そんな余りにもな言い訳を繰り返される。
最初の数回はそういうこともあるかと見逃した。

合計で五回めの遅刻をされた日。さすがに抑えきれなくて、レッスン終わりに残るよう言いつけた。

「……悪い悪い、ちょっと寝坊しちまってよ」

へらへらと笑う彼女。その様子を、漠然とらしくないなと思った。

「……言い訳、それで通ると思ってるの? いい加減にしてよ。何か不満でもあるわけ?」

「そんなんじゃねえよ。ホント、ただのうっかりだって。気にしなくても」

「気にしないなんてできるわけないでしょ!? ……テッペンとるんじゃなかったのかよ!!」

思わず荒げてしまった私の声に、向井さんは一歩引いて距離を置こうとする。


ここで離してしまってはダメだと思って、反射的に向井さんの腕を取った。

「……っつ!」

途端、歪む表情。おそらく痛みで。
私はそんなに強く掴んだわけじゃない。

心のどこかに消えてしまっていたいつかのトレーナーさんとのやりとりが瞬時にフラッシュバックした。

あの時は不安に思っていたはずなのに。

体を引き寄せ彼女のジャージの袖を捲る。
露わになったのは、肌を覆う白色。

彼女の左腕は包帯でぐるぐる巻きにされていた。

「……なにこれ」

「……なんでもねえよ。大したことねえ」

「嘘つかないでよ。軽く掴んだだけで痛そうだったじゃん!」

「……っ! なんでもねえっつってんだろ!」

乱暴に腕を振り払われた。
嫌な沈黙が私たちの間に鎮座する。

先に口を開いたのは、向井さんだった。
目も合わせないまま、申し訳なさそうな表情で。

「……ホントに、大したことじゃねえんだ。しばらくほっといてくれよ……頼むから」

その時は返す言葉が見つからなくて、体を翻して去っていく彼女を見送ることしかできなかった。


その場ですぐにトレーナーさんと連絡を取った。
最近の向井さんの様子はどうかと。
あれ以降、ケガを実際に見てはいないらしい。けれど、ここのところ動きがライブ前より悪くなっているらしかった。大一番を終えて少し気が抜けているのかと思っていましたが、と。
いや、向井さんのライブ会場でのあの様子ならそんなことにはきっとならないはず。

以前トレーナーさんに呼ばれたときは動くのに支障はなかったという話だった。状況は、悪くなっているのか?

嫌な予感しかしなかった。
まだ何かがわかったわけでもないのに。
だけどこういうとき、往々にして嫌な予感ほど当たってくるものだ。


ひょっとしたらプライベートの都合もあるかもしれないし、下手に突っ込むのは多少気が引ける。けれど、今回は気にしないでおこうと思った。

それぐらいの胸騒ぎがする。

携帯に登録されている番号を呼び出した。少し前にも使った番号だ。都合のいいときにばかり連絡をしてしまって申し訳なく思うが、古い友人よ、どうか許してほしい。

『もしもーし? 姉さんですか?』

「私。ゴメン、何も聞かずに頼まれて」

『……わー、マジっぽい雰囲気ですね。なんでしょ』

「前に向井 拓海について調べてもらったよね。その彼女について、もう一度詳しく洗ってほしいの。最近の動向、とりわけここ二週間ぐらいを中心に」

『あい、了解です。いつまでに?』

「できる限り早く」

『ですよね』

それだけ言い残してぷつりと通話は切れた。頼んだ彼女には向井さんと同じ高校に通う友人がいる。たぶんすぐにわかるはずだ。


……もどかしい。
自分で動けないことが。動いたとしても、大して何もできないだろうことが。
何より、ここまでの焦燥感を持っているのに『自分で動かなかった』ことが。

私は冷静だった。友人であり、相棒であり、大切な希望でもある彼女が傷ついているという状況でも、効率を考えて動けるほどに。

人はそれを大人になったと言うんだろう。あるいはいい判断だと褒められることさえあるかもしれない。

昔の私なら、一も二もなく飛び出していた。
成長したのか。
果たしてそれを成長と呼んでいいのか。


「……ふぅー…………」

息を深く深く吐いた。

……今は、仕事に戻ろう。
いつ連絡が来てもいいように。
いつ自分で動いても大丈夫なように。

それがきっと、今私がすべきことだ。


その日は終電がなくなるギリギリまで事務仕事をかたっぱしから片付けた。
苦にはならなかった。たぶん今なら、何もしていないことの方がずっと苦になるから。

戸締りを全て済ませ、警備員に挨拶をして事務所を後にした。

駅に着くと、こんな時間でもまだそれなりの数の人影がある。
終電の時間までスーツを着ている人間がいることを、少し前までの私は信じられない目で見ていた。それが、今は私が見られる側の一人。
なんとも複雑な気分だった。

自宅の最寄駅で降りたところで、静かな構内にバイブレーションが響いた。
そこで降りたのは私だけ。鳴っているのが誰の携帯かは考えるまでもなくわかる。

「もしもし?」

『ども、お疲れ様です。今時間平気ですか?』

電話の相手は旧友だった。

「平気。何かわかった?」

『わかったんですけど、そのー……なんとも面倒なことになってますよ。姉さんのことですからどうせ首突っ込むんでしょうけど、どうかお気をつけて』

そんな前注意から始まった説明。
その予告には嘘も誇張もなくて、聞き終えて電話を切った後、私は少しの間頭を抱えた。

……今日の判断に関しては、結局のところ大正解だったな。

電話を切って握ったままの携帯を再度操作し、今度はメール機能を開く。
宛先に社長のアドレスを入力し、明日有給休暇を使う旨を送信した。


……大人になってしまって、これでいいのか、なんて。考えていた今日の明日がこんなことになるとは。
まったく、人生というのは本当に何が起こるかわからないものだ。


見上げた夜空に見渡す限りに雲はなくて、天は綺麗な漆黒色。都会の街は星が遠い。
ただ三日月だけがはっきりとそこに浮かんでいた。




『向井なんですけど……どうもあいつ族を抜けようとしてるみたいですね。ケジメだー、とか考えてんですかね?』

『チームを抜けたいって話、副長にしてみたらしいです。これがだいたい一月前ぐらいですかね? そこでまず揉めたみたいですね。タイマンはることになったらしいですよ。勝ったのは向井だったそうですけど』

『それがキッカケだったっぽいです。この一ヶ月ぐらい、何回か同じチームの奴と喧嘩してるとこ見てる奴がいました。そこまで頻度は高くなかったみたいですけど。ま、副長を慕ってた奴とか、そもそも向井を嫌ってた奴とかでしょ』

『どっかで負けとけばいいのに、あいつ売られた喧嘩買えるだけ買って全勝してたみたいですね。おかげで敵はどんどん増えて』

『最終的に、あいつのボスの耳にも入ったんですね。まあ内紛してるのは面白くないでしょうよ、頭張ってる奴からすれば』

『んで、呼び出しです。次の会合に絶対顔を出すように、って。どうなるかはなんとも言えないですけど、抜けるって向井があくまで言い張るなら無事じゃ済まないでしょうね』

『あいつのいるとこ、体質がだいぶ古いんですよ。チーム抜けるなら全員からリンチ、みたいな。昭和のヤクザかよ、って話ですけど』

『申し訳ないですけど、自分らはなんもできないですよ。あそこと変に関わるのは嫌なんで。こればっかりは姉さんの頼みでも……あ、元から頼むつもりはない、ですか? ですよね。だと思いました』


『……次の会合がいつか、ですか?』



『……明日の午後八時から、です』







朝。
目を覚まし、枕元においてある携帯の通話履歴を確認した。高校時代からの付き合いの友人と電話をしたことが、しっかりとそこには記録されている。

昨日のことが夢だったらどれほど楽だったか。
考えても詮無いことだが。

顔を洗って朝食を済ませ、スーツに着替えて家を出た。
玄関を開けるとほぼ同時に社長からメールが入った。有給の使用を承ったという内容と、できればもう少し早めに申請するように、という遠回しな文面。
お礼と謝罪を適当に返した。

私が契約しているアパートは、駅近なわけでもなく、立地がいいわけでもなく、新しいわけでもなく、豪華なわけでもなく、それでいてすごく安いわけでもない。

そんなところにどうして住んでいるのかと言えば、駐車スペース付きという条件のもとで最も安い物件がここだったからだ。

ガレージを開け、愛車を日の元に出した。
しばらく乗っていなかったが、メンテナンスは休暇のたびにしていた。走るのに問題は全くないはず。

シートに跨り、エンジンをかけて走り出した。

目的地は、とある暴走族チームの根城。
旧友によればそれは湘南の町外れにある古い大きな倉庫らしい。ボロくなって管理がずさんになっているところを占拠しているのだと。


そこに行くまでには一時間もかからなかった。
人目につかないところにバイクは停めて隠した。
倉庫の扉に鍵はかかっていなかった。中は想像通りにとっ散らかっていたけど、埃っぽさはない。おそらく頻繁に出入りしているんだろう。明らかに後から持ち込んだと思われる真新しいソファやテーブルが目立っていた。


予定通りなら、会合とやらが始まるのは夜になってからだ。念のためにと思って早めの行動を心がけたせいで、まだまだ時間は有り余っていた。

ああ、そういえばこんなことがつい先日もあったっけか。くすり、と一つ落とした笑い声ががらくただらけの倉庫内に溶ける。

ソファに腰を下ろした。

あの時は結局暇を持て余すことはなかった。やることがあったし、一人ではなかったから。
今は一人。予定時刻まではやることもない。今日ばかりは退屈に苦しみそうだ。

目を瞑る。

思えばこの三年ほどの間に、随分私も私を取り巻く環境も変わったものだ。

一介の女子高生からアイドル候補生になって。
アイドル候補生からプロデューサーに転身した。

子どもから大人へと変わる過渡期。きっと多くの人が目まぐるしく変わる生活に振り回されてきたことだろう。私のように。


夢を追って後先考えず学校から飛び出した私は、きっとまだ青い子どもだった。
ならば今の私はどうだろう。
現実を知り、挫折を経験して、オフィススーツに腕を通した私は大人たりえているのだろうか。

わからなかった。

答えを出せず、ぐるぐると回る思考はやがて落ち込んでいって、いつの間にか私は思いのほか座り心地の良いソファの上で微睡んでいた。


夢を見ていた気がする。
ライトアップされたバカみたいに大きなステージの上で、みんなの笑顔に包まれている女の子の姿を。


眠りから唐突に醒めた。
オンボロな倉庫の壁に防音の役割はない。バイクのエンジン音が鼓膜を揺さぶる。一台や二台じゃなさそうだった。

腕時計に目を落とす。まどろみのつもりがかなり深く沈んでいたらしい。短針は五の文字を指していた。


五時間以上もこうしていたのかと驚愕した。
立ち上がると腰に違和感があった。座り心地は良かったとはいえ、さすがに長時間同じ体勢を続け過ぎたようだ。

それにしても、来るのが早い。聞いた話じゃ始まるのは夜八時からだったはずなのに。
ハンカチでよだれをぬぐい、ごく小さなハンドミラーで身だしなみを整えた。

ぞろぞろと連なって入ってきたのは、ガラの悪い男たち。女性の姿もまばらに見えるが数は少ない。目に見えて武器を持っている様子がないことに少し安堵する。向井さんの姿は見えなかった。

先に入ってきた人から順番に、私の姿を見てざわつき始める。そりゃそうだ。自分たちの根城の廃屋に小綺麗なスーツ姿の女が一人突っ立っていれば驚きもするだろう。

「……オイ。ここでなにやってんだお前」

合計で五十人程度か。その中から、一際身体つきのいい男が代表して声をかけてきた。
ボス格か、それに準ずる地位にいるんだろう。周りの態度でなんとなくわかった。

「……あなたがたを、お待ちしていました」

「……あ?」

ジャケットの内ポケットに手を突っ込む。途端に身構える男たち。心配しなくても、私だって武器なんて持っちゃいない。

ケースから一枚名刺を抜き、一番近くにいた下っ端くさい別の男に手渡す。下っ端男はボス格の元に渡した名刺を持っていった。

「……向井 拓海の同僚の者です。少しお話、よろしいでしょうか」

「……向井の?」

ボス格は私の前を素通りし、さっきまで私がのんきに寝こけていたソファにどっかと座った。

周りの構成員たちはそんな彼と私とを取り囲むように移動し始める。逃げ道をなくすように。
逃げやしないよ。


「……向井の同僚ってことはアレか」

男のドスのきいた声。明確な敵意は感じないが、いい感情は間違いなく持っていない。

「お前がアイツをたぶらかしたワケか?」

「……たぶらかした、つもりはありませんが。彼女がここを脱けようとしている理由を作った一員ではあります」

「よくツラ出せたモンだな。俺らからすりゃ仲間拉致ったクソ女だぞお前は」

仲間、という言葉に苛立った。そいつ一人に寄ってたかって手を上げようとしているくせに、なにが仲間だというのか。

「不当に彼女を連れていったわけではありません。脱退はあくまでも彼女の意思です」

「へえ。まあどうでもいいな」

耳の穴を掘りながら適当に吐き捨てられ、更に苛立ちが増した。笑い出す外野連中の雑音が鬱陶しい。
拳を握りこむ。食い込む爪の痛みが頭を冷やしてくれた。
落ち着け。熱くなるな。

「……んで? 何しにきたんだよ結局」

「……単刀直入に申し上げます。向井さんにこれ以上手を出すのをやめ、脱退を認めていただけませんか」

「単刀直入に無理だな」

「……そこをどうにか」

「無理だ。ルールってモンがある」

「……一人の女を寄ってたかって痛めつけるルールに何の意味があるっていうんですか」

「ケジメって意味がある。ウチに入った時点でアイツにもその覚悟はできてるはずだ」

平行線だった。たぶんこのまま言葉を交わしてもお互いが交わることは一生ない。そんな風に察せるぐらい、男は自分の中に堅い芯を持っているようだった。

それでも、私は引くわけにはいかない。

「……お願いします。手を引いてください」

腰を折って、頭を深く下げた。

しばらくの無言の時間ののちに、ため息を吐いた音が聞こえる。


「無理なモンは無理なんだ。そんな簡単にシキタリや伝統ってのは変えられねぇ。ずっとこうやってきたんだ、他の奴らに示しがつかねぇからな」

違う。聞きたいのはそんな言葉じゃないんだ。
地面に両膝をついた。下はコンクリートがむき出しで、転がっている砂利や石ころが食い込んで地味に痛かった。

両手をつき、床に額がつくほどに頭を下げた。

何と言われようが構わない。何を言われたって今はこうするしかない。

彼女のため。
私の夢のため。
彼女の目標のため。
私が、彼女と一緒にこれからも走り続けるために。

さっきも見たあの夢を、守りたいんだ。

「……お願いします……なんでもするから……!!」

「……なんでそこまでする? 恩でもあんのか」

恩もある。だけど、本音なんてもっと単純。

「……ダチのピンチだからだよ。それ以上の理由なんて、いらないだろ?」


だけど、そんな想いも言葉も届きはしなかった。

男はソファから離れ、そばにしゃがみ込んで私の肩に手を置いた。

「……諦めろ。そこまでできんのは感心するが、そんだけだ。……なんでもするってんなら、お前が代わりになってみるか? できねぇだろ。軽率なこと言うモンじゃねぇよ」

さっさと帰れよ、と。
そんな言葉を呟いて、立ち上がった男は私に背を向けた。つられて立ち上がり、辺りを見回す。逃げ道を塞いでいた囲いは出入り口のところだけぽっかりと穴になっていた。

たぶん今なら何もせずに帰してくれるということなんだろう。


……冗談じゃない。
まだ私は何も達せていない。

大人ぶった対応じゃ、何も変えられなかった。
なら、今度は子どもっぽく足掻いてやる。
私は微妙な年代だ。大人と子どもの立場を使い分けることができるぐらいに。

今はずる賢くたっていいだろう。


「……そっちから提案してくれて、助かったよ」

「……?」

隙だらけなボス格の背中。
素早く忍び寄って、振り向く間も与えず股間を蹴り上げた。感触的に、たぶん物凄く綺麗に入った。

「おごぉっ……!!?」

私には想像のつかない痛みが走るそうだ。知らないけど。男が崩れ落ちる。さっきまでのクールな雰囲気はその顔からすっぱり消え失せている。

たぶんこの男はかなり強い。そもそも体格から真っ向じゃ勝ち目がない。不意打ちもやむなしと言える。卑怯だ? 知らんそんなこと。

喧嘩に卑怯もクソもあるか。

うずくまり、股を抑えて悶絶する男のアゴを蹴り抜いた。目が白く反転したのを見届けてから周りに目をやる。

突然のことに、周りの奴らは固まっていた。ボスがやられたというのにそんなことでいいのか?

ポケットからハンカチを取り出し、右手にバンテージのように巻きつけて口で縛った。気休めにしかならないが、ないよりはマシだ。

「……向井の代わり、務めさせてもらうよ。いいんだろ? そこで寝てるボスが言ってたことだもんな」

宣言すると、ようやく事態を飲み込めたようだった。いち早くハッと我に返った男が叫んだ。

「……殺せ!! タダで帰すな!!!」

号令を聞いて真っ先に殴りかかってきた男をいなし、右拳を顔面をしたたかに叩き込んだ。
鈍い音が耳に、鈍い痛みが手に響く。

「……」

……懐かしさを感じた。
なんて無粋なノスタルジー。そんなものに浸る余裕はないが。

数が数だ。

四方から襲いかかってくる攻撃をできる限り避け、避けきれないものは受け止める。回避が第一。隙を見て反撃だ。


右、後ろ、前、左。
殴り、避け、受け止め、蹴り、蹴られ、躱し、投げ、殴られ。
ボス格ほどの危険を感じる相手は他にいなかった。
だけど、数の力はやっぱり強大で。


混戦に紛れて転んだ男の鳩尾につま先を打ち込む。
その隙を見て後ろから殴りかかってきた拳を受けとめた。握ったまま体をひねり、腕を捻じ上げる。嫌な音が鳴る。そいつの身体も床に倒れた。

そうしている間に別方向からのタックルが私の胴を襲う。内臓を圧迫され、何かがこみ上げそうだった。
堪え、隙だらけの背中に肘を落とし、体勢を崩したところに回し蹴り。相手の顔が跳ねた。

今度は後方で何か硬いものが私の背中に突き刺さった。たぶん肘鉄だ。顔が歪む。闇雲に振るった裏拳がたまたま相手の顔に入った。そのまま手を返し、頭を掴んで引き寄せ飛び膝を入れた。

テレビドラマのように、インターバルを作ってはくれない。間髪入れずに飛んでくる多様な攻撃は確実に私の体を痛めつけていく。

数が減らない。
一旦拳を入れて倒したと思っても、トドメを刺す暇がないからしばらくすれば立ち直ってくる。

なんて無茶をしているんだろうな、私は。
旧友が見たらきっと呆れたように笑うんだろう。

息が切れ始める。
身体の節々が痛んだ。
相手のパンチが掠ったときに目の上を切った。
見えづらい。鬱陶しい。
出血のせいもあってか頭がふらつく。

それでも手は出し続けた。
こちらの攻撃は外れることが増えてきた。
相手の攻撃は綺麗に私の身体を捉える頻度が上がる。

一人の掌底が無防備だった腹に打ち込まれた。胃から逆流したモノが口から溢れる。今日は軽い朝食しかとっていない。飛散する黄色い液体が見えた。


その辺りで私の視界にはノイズが出始め、頭で何かを考えることができなくなって、記憶はぱったりと途絶えた。





身体中がめちゃくちゃに痛い。
目の上が腫れているようで、まぶたを開けてもいつも通りの視界は戻ってこなかった。
不規則に並ぶ照明がついた灰色の天井が見える。

……ここはどこで、今何をしているんだ、私は?

仰向けに大の字になっている身体は、ろくに動かせないほどに痛めつけられている。

「……起きたかよ?」

不機嫌そうな、馴染み深い声が聞こえた。
……向井さん?

その声をキッカケに、夢から覚めるように全てを思い出した。飛び起きようとしたがやっぱり痛みには勝てなくて、諦めて再度寝転がった。

ここは空き倉庫か。
そうだ。私はなんとか彼女の力になろうと思って、仕事を休んでここにきて……。

……それから、どうなったんだ?
途中からの記憶がない。
最後の記憶よりもかなり傷だらけにはなっているみたいだ。

「……なんでこんなことしたんだ、バカ野郎」

寝転ぶ私の頭側から声は聞こえる。声の出どころが随分低い位置からだ。向こうも仰向けに倒れているんだとしばらくしてからわかった。

「……しょーがないでしょ。こんな風にしか解決できなさそうだったんだから」

「ほっときゃよかったじゃねぇか。んな傷だらけでよぉ……」

不機嫌そうな声は、徐々に潤みを帯びるようだった。

「……向井さんが傷だらけになるよりいいよ。私の顔や身体なんて二束三文だし」

「んなことねぇし、そういう問題じゃねぇだろ。一人で無茶しやがって、クソ……」

「……お互い様でしょ? 最初一人でなんとかしようとしてたのはそっちじゃん」

「うっせーよ。……わかってるから強く言えてねぇんだろが。……ああ、あと悪い、結局アタシも傷だらけだ」

「……ええー……マジか。 ……ね、私途中からの記憶ないんだけど。結局どうなったの?」




向井さんに肩を借り、ボロ倉庫から出た。
傷に沁みる冷たい夜風が辛い。


話を聞いた限りでは、私は結局十五人程度を倒した辺りで力尽きたらしかった。思ったよりも善戦していた。意識が飛んでからも頑張ったみたいだ。

そして、私が倒れた丁度そのタイミングで、向井さんはやってきたらしい。
理解できない状況に随分困惑したらしいが、私がやられているのを見てなんとなくの事情を察し、後を引き継いだのだと。

「……んで、結局は向井さんもやられたわけだ?」

「そりゃ無理だろ。あんな人数差で勝てるかよ」

ということは、私のしたことはまるで無駄になったわけだ。後悔なんてしないが、なんとなく虚しい気分になる。

そんな私の様子を見て、何か思うところがあったのかもしれない。

「……なぁ。アタシの顔見て、なんか思わねえか」

不意にそんなことを聞かれ、目を丸くした。

「なんの話?」

「思うことねえかって。パッとわかるだろ」

「……かわいいよ?」

「アホか!! 可愛くねーし、そうじゃねぇよ!!」



何が言いたいのかまるでわからない。首をひねると、彼女はでっかいため息をついた。

「……傷、あんまねぇだろ。身体はボロボロだけどアンタほどじゃねぇ。アンタのおかげだよ」

「……私の?」

「アンタが思いの外強かったからもう疲れてたんだろうよ。ヘッドも潰れてて、指示出す奴がいなかったしな。いつもよりだいぶ手ぬるかった」

確かに、私と彼女を見比べると随分ボロボロ具合が違うような気がする。私の顔はもう年頃の乙女がしていいものじゃないけれど、彼女の顔は切り傷とアザがほんの少しあるだけ。表に出ても問題はなさそうだ。

「……無駄じゃなかったよ、アンタがしてくれたことは。おかげでアイドルやんのに支障は残らねぇ。……やり方に納得はしてねぇし、言いたいこともあるけど。……ま、なんだ」

真っ直ぐな目が、私の目を射抜く。

「……ありがとな」

そう言って、ニカッと彼女は笑った。


彼女にバイクのキーを放り投げた。

「うおっと。……アタシが運転していいのか?」

「……私もうそんな元気ない。前見えないし」

「ああ……そうか。了解」

二人して跨った私の愛車は、ゆっくりと夜の街へ向かって走り出した。

「……つーかよ。プロデューサー、アンタ元ヤンだったんだな?」

「……元ヤンじゃないし」

「はっ。そりゃ無理があんだろ?」




「…………いやいやあのね、支障残らないわけないでしょ。バカなの?」

ミイラのように包帯まみれになった私と多少マシな彼女は、次の出勤日に社長室に呼び出された。呼び出すやいなやバカ呼ばわりだった。

「……え、だってほら、顔は傷も大してありませんし。骨折とかもないですよ。そりゃ激しい運動は控えて欲しいですけど」

「そういうことじゃないんだよ……」

「なんだってんだよめんどくせぇな」

頭を抑える社長はデスクの上に新聞を放った。この地域の地方紙だ。二種類ある。

「……これがどうかしたのかよ?」

向井さんが尋ねたが、なんとなく。
私は言いたいことがわかってしまった。

「……何面ですか」

「……どっちも十二」

片方を手に取り、言われた通りに十二面を開く。
地方欄だった。紙面に目を走らせると、片隅の小さなモノクロ写真付きの記事が目に留まる。

「……うわ……」

「……? なんだよ」

向井さんが覗き込んできた。私の視線をたどって見つけた記事の見出しを読み上げる。

「……『黄昏時の大乱闘! 猛きオフィスレディの戦い!』?」

荒い画質だったが、確かにそこに写っているのは、どうも私のようだった。

「……これプロデューサーじゃねえか。すげぇな」

「凄いとかいう問題じゃないんだよ! 有給とって何してんの君は!」

「あっはは……すみません……」

まさかあんなところに記者がいるなんて。まったく想定の外だった。ていうか普通記事にするかこんなこと。

「……えーと。でもほら、向井さんは別に関係ないじゃないですか。大丈夫では?」


苦し紛れにそう言うと、社長が無言でもう一方の新聞を開いた。こちらに差し出し、隅っこの小さな記事を指でトントンと叩く。

「……『宵闇、倉庫街での一戦! 喧嘩の理由は決別か?』」

「あ、こっちアタシなのか」

「……頭が痛いよ本当に……」

所属するアイドルとプロデューサーが暴力沙汰。
事務所としてはかなりマズイ……のだろうか。
いや、でも。

「これどっちも顔とかわかりませんよ? ボカし入ってますし。名前も伏せられてるじゃないですか」

まだ私も向井さんも未成年だ。顔も名前も出されることはない。不幸中の幸い、のはずでは。

「……それでももう三件問い合わせが僕のところに来てる。嗅ぎつけられるものなんだよ」

「……マジですか」

社長は演技じみた様子で両手を組み、ため息を深々と吐いた。

「……ウチみたいな小さな事務所はね。不祥事が一番マズいんだよ。アイドルなんてクリーンなイメージが超大事なんだ。わかるだろ?」

「はい。……すみません」

「まったく……とりあえずプロデューサー君は謹慎だ。ほとぼりが冷めるまでね」

「……はい」

「向井さんは彼女の謹慎が解けるまでひたすらレッスン。朝から晩まで」

「……うへえ。マジかよ」

「ほんと頼むよ、もう……期待してるんだからね君たちには!」




「謹慎かー……」

「……ま、ちょうど良かったんじゃねえか? その怪我なんだし。ゆっくり休んでろよ」

「いや、そうだけどさあ。……せっかくなんの障害もなくなったのにさ?」

「んな傷だらけじゃ天辺までもたねえぞ」

「はあ。……ま、言っても仕方ないしね。別のプロデューサー付けるとか言われてもちゃんと断ってよ?」

「あぁ? そりゃわかんねえな」

「ちょっと!?」

「……冗談だよ。
……アンタ以外と目指す気はねぇし、アンタ以外とじゃ辿り着ける気もしねぇから」

「……なに、嬉しいこと言ってくれるじゃん」

「……つまんねーこと聞くんじゃねえよ」

「……ね、拓海」

「あ?」

「顔赤いよ?」

「うるせえよ!!」


目指すところは見えないぐらいに高く遠くて、今いる場所はほとんど地べた。きっとこれから何度も挫けて、何度も滑って、ひどい時は転がり落ちたりするんだろう。

だけど、何度だって登ってやる。
何年かかってもいい。どんなに傷ついたって構わない。

いつか誰よりも高いところに旗を掲げて、見上げる奴らの笑顔を眺めて、私たちも笑ってみせよう。






おしまい。


終わりです。
なんか喧嘩のシーンが書きたくて……別にストレスガーとかないんですけど。なんでだろう。

中日が四位に上がって嬉しい今日この頃です。
キャッツは……まあ、うん。

何はともあれご覧いただい方、誠にありがとうございました。

読ませるねえ
乙!

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom