【モバマス】P「交わる拳、繋がる掌」 (48)

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独自設定あり。
未熟者ゆえ、人称や口調等にミスがあるかもしれません。
どうかご容赦ください。

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私は、アイドルをクビになった。

心情としてはそう表現したいところだが、言うとなると少しの語弊が残る。

より事実に即するならば、私はアイドル候補生として見切りをつけられ、以後のアイドルとしての活動は諦めることになったというのが正しい。

候補生、もしくは研修生として芸能事務所に迎え入れられてから一年足らずでのできごとだった。


正直、覚悟はしていた。
自分の見た目に大した自信があったわけでもなければ、歌も普通、ダンスもイマイチ。オーディションに通ったのが我ながら意外なほどだ。その上、練習を重ねても思うようには上達の兆しが見えないときた。

会社の判断は妥当なんだろう。そこまで大きな事務所じゃない。モノになるか怪しい人間をいつまでも囲ってはいられないのは当然だ。

理解はできる。

……だけど、悔しかった。
口惜しくて、諦めきれなくて、その日は一筋流れた涙が枕を濡らした。

どこで知ったのか忘れたが、血と涙の成分はほとんど同じらしい。
人並み以上にケガをする機会は多くて、たぶん人よりも血は流してきた。
それでも、それまでの人生で流した血の総量分の痛みよりも、その日の涙一滴分の胸の痛みの方がきっと強かったと思う。

誰かを笑顔にする仕事がしたい。
思いたったらすぐに行動してしまう性格で、通っていた高校を衝動的に辞めてアイドルを志した。

本気だった。
心の底からなりたいと思ったんだ。

でも、なれなかった。

「…………ちくしょぉ……」

暗くて何も見えない部屋で小さく呟いた独り言は、闇の中に溶けて消えていった。


翌日、目を覚ました私は重い足を引きずるように事務所へと向かった。寝ぼけて昨日の出来事を忘れていたわけではもちろんない。

社長からの温情を受けるためだった。
昨日、アイドルを諦めろと言われたその場で、何か別の形でこれからの生活のサポートをしようと彼は言ってくれた。

たぶんオーディションの時に言った学校を辞めてきたという一言を気にかけてもらえたんだろう。

あわよくば別の事務所の紹介を、そうでなくとも割のいい働き口を、という浅ましい考えを持ちつつ道のりを進んだ。


しかし、そんな淡い期待はこぢんまりした社長室の中で見事に消え去った。社長の口から飛び出してきたのは、想像を斜めに外れる提案だったから。

「……は?」

衝撃的な言葉に揺れる頭をなんとか立て直し、恐る恐る口を開く。

「……あの。もう一度言ってもらっていいですか」

「ああ。ウチでプロデューサーになってもらえないかなと。そう言ったんだけど」

若作りをしていて年相応の四十路には見えない社長が、ニッコリと微笑みながら衝撃の言葉を繰り返した。

聞き間違いではない。
この提案は私の期待の斜め上なのか、はたまた斜め下のものなのか。そのときは判断がつかなかった。

混乱する私を尻目に、社長は労働条件なんかが書かれた書類や契約書の類を手早く説明しつつ手渡してくる。

「……あ、あの!」

それを遮って、聞きたくはないが聞かなければならないことを恐る恐る口にした。

「……私に、アイドルになれる可能性は、ないんでしょうか」

手を止め、社長は気まずそうに頭をかいた。
その仕草だけで返事の内容はわかった。


「……オーディションに通しておいてなんだけど、僕からは難しいだろうとしか言えない。君の心意気は買いたいところなんだけど」

「……そうですか」

ああ、やっぱりか。
予想はしていても、直に言われればやはり気分は一層落ち込む。

空気を変えるつもりか、社長はパンと一つ手を打った。それから、作ったような明るい声で尋ねてきた。

「君は、人を笑顔にできる仕事をしたいと言っていたね」

「……ええ、まあ」

「だったら、こっちの道を選ぶのも悪くはないと思うんだ。人を笑顔にできるアイドル。それを支えるための立ち位置。……君の望む姿に綺麗に重なりはしないだろうけど、これもまた笑顔を作り出すための一つの形だと思うよ」

どうだろう、と困ったような苦笑を浮かべる社長には一旦返事を待ってもらって、預けられた書類を手に家へと戻った。


お世辞にも豪華だとは言えない結構な築年数のアパートの一室を一人借りている。半ば飛び出すように実家を出てそのままだから、家具もろくに揃ってない殺風景な部屋だった。


……プロデューサー、か。
部屋の真ん中に置いたちゃぶ台型のテーブルに資料を広げ、肘をつきながらぼんやりと考える。

この話を受けてしまえば、たぶんアイドルは完全に諦めることになるんだろう。アルバイトじゃない正社員だ。プロデューサー兼アイドルには偉大な先例がいるとはいえ、私にそんな器用なことができるとは思えない。

「……別の形か」

人を笑顔にするための。そんなこと、考えてもみなかった。とあるアイドルのライブを見て、脊髄反射的にああなりたいと思って即行動に移していたから。


一晩をうなされるように考えて結論を出した私は、自分なりの結論を持って翌日再び事務所の社長室を訪れた。

私は、人を笑顔にしたくてここの門を叩いた。
目標は人を笑顔にすることだ。

社長はまだそんなに年を食ってはいないが、業界でもそれなりの立ち場を築いているやり手だと風の噂に聞いている。
そんな彼が私にはアイドルは厳しいと言った。
つまり、そういうことなんだろう。

本音を言えば諦めたくはない。別の道でも自分の目標に辿り着くことができそうだとはいえ、一度決めたことを曲げるのは嫌いだ。

だけど、手段にこだわって、アイドルになることにこだわって、結局なれなかったら。ただただ時間を無駄にするだけになってしまう。
そうやって目標の達成が叶わないということの方が嫌だろう。

……なんて、嘘だ。
そんなのは建前。
必死に考えた自分を納得させられそうな理由で、茨の道にしがみつくことへの恐怖や金銭的な苦しさという情けない事由を見なくて済むように蓋をしただけ。

自分で決めたことを貫くことができないどころか、その上できないことをそれらしい理由で虚飾してしまう。

「……プロデューサーとして、働かせていただきます」

礼儀正しく、丁寧に頭を下げた。

小汚く大人ぶる人間になってしまったものだ。
昔の私が今の私を見たらどう思うだろう。

わざとらしく、わかりやすくため息をついて、もしかしたら唾の一つでも吐きかけたかもしれない。


とはいえ過去の私が悪く思おうが今の私に罰が下るわけではないし、よく思おうが天運に恵まれるわけでもない。

自分の選択の通りに新たな生活を始めることになった。

プロデューサーになる、とは言ってもそうすぐには一人で動かせてもらえるわけではなかった。当然の話だ。
私は社会人としてさえ全くの新人で、右も左もわからない。

基礎の基礎、ビジネスマナーを教えてもらうところから始まった社長直々の研修にたっぷりと時間を費やすことおよそ半年。
これが長いのか短いのかもいまひとつわからないが、とにかく四季が折り返し地点の秋を迎えたところで私の研修は終了した。


慣れなかったスーツにもある程度慣れ、まだ一人前とは言えないだろうが、とりあえず私の見習いという肩書きはとれた。
それで、その翌日から早速一人の新人アイドルの担当プロデューサーを務めることになった。

改めて呼び出された社長室でそのことを告げられたときは事の進みの早さに驚いたが、怖気付くよりもむしろやってやろうという気持ちの方が強かった。

しかし、渡されたそのアイドルの資料に目を通すにつれて、実際に会って話をするにつれて。

気分はどんどん落ち込んでいくことになる。


「こちらが、君に担当してもらう予定のアイドル、向井 拓海さんだ。……で、こちらが向井さんの担当に付くプロデューサーだよ。長い付き合いが求められるから、仲良くしてほしいね」


お互いの紹介をされているにもかかわらず、向井 拓海はこちらを見ることもせずにそっぽを向いていた。もらった資料によれば年齢はほぼ変わらないらしい。

「……よろしくね?」

「……あァ」

つっぱった態度だった。着ているのは不良御用達のメーカーが販売している、派手な龍のデザインが入った目立つ紫のパーカー。目つきも悪く、雰囲気も刺々しい。

なんだコイツ、と正直不愉快に思った。
ただ、社長の手前それを表に出すわけにもいかず、不満は飲み込んで笑顔を貼り付けた。


そんな感じで、最初の私からあちらへの印象は本当に最悪なものになった。
私が諦めざるを得なかった場所に立てているのに、その態度はなんなんだと。
……いや、他人では立てないところにいるからこそのあの不遜な振る舞いなのか。

そりゃ見た目はよかった。顔立ちはキツめなものの整っているし、スタイルは羨ましくなるぐらいに抜群。私よりも人前に出るのに向いてはいるのかも知れないけれど。

見苦しい嫉妬だとは自分で思った。半年も経っているのに、まだ諦めきれてはいないのか。
私が気に入る気に入らないに関わらず、私は彼女をサポートしなければならないんだ。

家に帰ってから簡単に彼女のことについて調べると、地元ではそれなりに名の通った不良であるということがすぐにわかった。さらに言えばとある暴走族のメンバーでもある、ということも。
あの物怖じしなさそうな態度もそれゆえなのだろうか。

私がもっと大人になる必要があるんだろう。

そう心構えを決めて、翌日からの仕事にあたることにした。


心構えはしっかり持っていたけれど、妬みや嫉みにかられている私がその通りに行動できるかはまた別の話だった。

大人になろうと思っていた私が子供っぽく腹に据えかねてしまうほど、向井さんの態度は悪く見えた。

初めて付き添った彼女のレッスンでは、口を開けば文句ばかり。
なんでこんなことやらなきゃいけねーんだ、だの。
チャラチャラしたことは嫌いなんだよ、だの。
軟派なことはガラじゃない、だの。

私の神経を逆なでする言葉のオンパレードだった。

練習自体は一応真面目に取り組んでいたからよかったものの、そうでなければ手の一つも出したいところだ。


「……そこまで言うなら、どうしてここにいるの? やりたくないならやらなきゃいいんじゃん」

なんでアイドルなんてもんを目指してんだアタシは。

レッスン終わりの帰り道、気怠げに呟かれたその一言に引き金を引かれ、我慢に限界がきてそう言ってしまった。

「……あァ?」

「やらなきゃいいじゃない。したくないんならさ」

「……なんだそりゃ。そっちがやれっつったから今アタシはこんなとこにいるんだろうがよ」

「私がいつやれなんて言ったの?」

「いや、アンタじゃねぇけどよ。あのニヤニヤした野郎がどうしてもってしつこいからこんなことになってんだろが」

最初はなんのことを言ってるのか、誰のことを言ってるのかわからなかった。
話を聞くにつれてすぐにわかった。

この子は、スカウトをされてウチの事務所に来たらしかった。


どうしてもと食い下がる社長に押され、断りきれずにここに来たのだと。向井さんはそう説明した。

頭を殴られたような感覚だった。
神様はなんて不平等なのだろう。自ら成りたいと思った人間は弾き飛ばし、やりたくないと思っている人間を無理矢理に引き込む。なんだってそんな公平じゃないことをするんだ。

社長も社長だ、くそったれめ。
アイドルになりたい人間を諦めさせておいて、そいつに対してアイドルになりたくない人間がアイドルになるための世話をしろだと。
ふざけているのか、もしくは私を体良く追い出したいだけか。そんなことはないと信じたいが。

事務所に戻ると、にこやかな笑みを浮かべた社長に出迎えられた。調子はどうだい、とご機嫌な様子で尋ねられ、多少青筋が浮かんだような気がする。

荒んだ気分のままその日の仕事はこなした。


彼女をサポートしたい、しなければという気持ちは正直ものすごく薄れてしまったけれど、そんなことは関係なく彼女のための仕事は事務所側から準備された。

私の知る限りでは、私がアイドル候補生だった時代に知り合った人の中でスカウトされたという子はいなかった。

ウチの事務所じゃ珍しい例なんだろう。だからこその強いプッシュ。

複雑だ、なんて気持ちじゃなかった。
純粋に羨ましかった。

私が欲しかったものを欲しいままにして、それをないがしろにしようとする彼女が。

羨望が薄黒く反転して、失敗してしまえばいいのに、なんてことを思ってしまったことさえあった。


……最低だな。
自嘲の意味を含むため息を落とした。

向井さんに非はない。社長は多少デリカシーに欠けたかもしれないが、別に悪いことをしたわけじゃない。

私が、勝手に逆恨みをしてしまってるだけだ。

デスク上のパソコンから目を切って時計を見上げると、ちょうど昼休憩の時間が近づいてきていた。
一旦休憩にしよう。こんな気持ちでは仕事もろくに捗らない。
パソコンをスリープモードに切り替え、昼食を買いに事務所を後にした。

ところで、ウチのオフィスは三階建てだ。
事務スペースは三階にあり、一、二階はレッスンルームや休憩スペースが設けられている。
ついでに言うとエレベーターがなく、なぜか階段は各階ごとに違う位置にある面倒な仕様だった。ゲリラ対策とでも言えば聞こえはいいが、三フロアしかないこんな建物で取り入れる必要があるかは疑問だ。
つまり、一度外に行こうと思うと下のフロアの各部屋の前を通る必要があった。社員からの評判はよろしくなく、エレベーターの設置を求める声は色んなところから上がっているらしい。

近場のコンビニで適当なものを買い、事務所へと戻った。

私がいる事務所に所属しているアイドルは学生の身にある若い女の子が中心で、かつ裏方の社員の数は少ない。

平日だったその日は随分静かだった。

だから、僅かに閉まり切っていなかったドアの隙間から漏れてくるレッスンルームのステップの音が、廊下にやけに大きく響いてたんだ。

ちゃんとドアは閉めないとせっかくの防音も意味がない。軽く注意でもしておこうと部屋の中をのぞいて、そこにいた予想外の人物に少し驚いた。

「……向井さん?」


そこにいたのは、確かに向井 拓海その人だった。
ぶつくさと文句を並べていた日に教えられていたダンスのステップを、繰り返し繰り返し何度も踏んでいる。

ああ、トチったな、と私が気づいたところで、彼女は大きく舌打ちをして動きを止めた。

「チッ……クソ、中々上手くいかねぇな。……ん?」

そう呟きつつガシガシと頭をかく彼女の視線が、ドアの向こう側から覗く私の視線とばっちりぶつかった。

「あっ」

「……なに覗いてんだよアンタ。いつから居た?」

「……えっと、来たのは今さっき。ホントだよ」

バツの悪そうな表情で再度舌打ちをした彼女の呼気は荒い。疲労の度合いから結構な時間身体を動かしていたことが伺えた。
行きで気づかなかったのはどうしてだろう。たまたま休憩していたタイミングだったからか。

「……向井さん、学校は?」

彼女もまた一介の学生で、今日は学校のはず。学校を休ませてまでレッスンを入れるほど切羽詰まってはいない。

「あぁ……なんだ。創立記念日とかだろ」

「サボりってことね」

「信用ねぇんだな、アタシ」

「その言い方で信用できるわけないでしょ」

「そりゃそうだ」

鼻で笑い、彼女は部屋の隅に置いてあったドリンクのボトルをぐいとあおった。

「ずっと練習してたの?」

「……悪いかよ?」

「むしろ良いことだけど。…….でも、前はあんまりやる気はなさそうだったからさ。意外で」

「……ハンパは嫌いなんだよ。そんだけだ」

そっぽを向きながら、吐き捨てるように言う彼女。
そっか、と簡単な相槌を打つ。

「……ねえ、さっきのステップだけど」

余計な世話かもしれないとは思った。
それでも口を出したのは、自分の『できること』を示してマウントを取りたかったからか、ただの善意からか。


彼女が手こずっていたのは、アイドル候補生だった時代に私も何度も繰り返し練習し、やっとの思いでモノにしたステップだった。

だから、簡単に実践してアドバイスをするぐらいなら私にもできた。

意外にも私の助言に素直に耳を傾けた彼女は、それに従ってゆっくりと確かめながら足を動かしてみせた。

「……こんな感じか? 合ってるよな?」

「そうそう。できてるよ」

「はー……なるほどな。……ややっこしいなクソ」

それから、改めてもう一度元のテンポで彼女はステップを踏んだ。
飲み込みが早い。完璧とは言えないまでも、さっきまでよりもずっと良くなっていた。

「うん。いいじゃん。良くなったと思うよ」

「ああ、自分でも思うわ。……アンタ、結構やるじゃねぇか」

「それはどうも」

向井さんはその場に座り込み、一つ大きく息を吐いた。

「お疲れだね?」

「アタシはあんま器用じゃねーからよ。……アンタの方が向いてんじゃねぇか、アイドル。結構ムズイと思ったステップ簡単にしてたしよ」

「……簡単じゃなかったよ、最初は」

「……は?」

冗談混じりに言われた言葉は、嬉しいような、悲しいような。まあ、私の方が向いているというのは間違いなくあり得ない。ちょっとしたアドバイスだけですぐに上達した向井さんの方が余程素質はある。

「私ね。ここのアイドル候補生だったの」

それなりの衝撃はあったらしい。
言うと、彼女はわかりやすく目を丸くした。

「……マジか。なんでやめたんだよ」

「色々あったんだよね」

「なんだそりゃ」

やめざるを得なかった理由なんてそのうちどこかから漏れるだろう。別に本気で隠すつもりはなかったし、隠し通せる道理もない。だけど、なんとなくそこはボカした。大した理由はない。本当になんとなくだ。


「なあ。……アイドルってよ、そんないいモンなのか?」

最初の質問は雑に返したけれど、次ぐ問いは私にとって誠実に答えざるを得ないものだった。

「いいモノだよ」

そう即答した。
周りの声を振り切って、盲目的に目指してしまう人間がいるほどに。

「……ホントかよ」

「ホントだよ。……向井さんはさ、チャラチャラしてるとか、軟派だとか言ってたけど」

確かに、はたからならそう見えてしまうのかもしれないけれど。

「チャラチャラなんてしてないし、ちゃんと真面目で硬派だよ。アイドルは」

「……」

真っ直ぐに目を見つめながら言うと、少しだけ気まずそうに視線を外された。

「まあ、続けてればわかるんじゃないかな……最終的に向井さんがどう思うかはわからないけど。少なくとも、上辺だけを適当な目で見てバカにするのは、私はやめてほしいな」

ちらりと室内の壁にかかっている時計を見上げると、いつの間にやら休憩終わりの時間が迫っていた。買ってきた昼食は食べられそうにない。

「これは差し入れ。食べていいよ」

ビニル袋ごとパンとサンドイッチを手渡した。夜まで置いておくのもなんだし、処理してもらえるならそっちの方がいいだろう。

「あ、悪いな。……サンキュー」

「じゃ、私は仕事に戻るよ。扉はちゃんと閉めてね、音漏れるから。あと、今日はもう見逃すけど学校はちゃんと行った方がいいよ。それとオーバーワークは厳禁。休憩はちゃんと取ること。ついでに言うなら」

「うるっせーなアンタ。オカンか」

「……言っとくけど歳一つしか違わないから。せめてお姉さんでしょ」

レッスン室に完全には納得していなさそうな彼女を残し、私は三階に戻った。


今日自主練に励む彼女を見て、彼女を見る私の目は少し変わった。
……彼女のアイドルへのマイナスイメージも、今日のことで少しは良くなってくれるといいな、と思った。

ああ、我ながらなんとも単純だな。


真面目に頑張ってる人には成功してほしいと思い、そうでない人の成功は祈れないのが大抵の人の性というものだろう。

向井さんの愚痴はあの日以降もそこそこの頻度で聞くことはあった。だけど、彼女は少なくとも後者の『そうでない人』だとは言えなかった。

文句は尽きることがなかったけれど、なんだかんだ回された仕事にはちゃんと取り組んでいたし、レッスンで手を抜く様子も見られない。……偏見の目を持ってしまっていたのは、私も同じなのかもしれなかった。

「……ねぇ、向井さん」

「なんだよ」

「次の仕事なんだけど」

「おう」

「……バニーコスとメイド服ならどっちがいいかな?」

「はっ倒すぞテメェ」

デスク脇から注がれる鋭い視線が痛い。
彼女がこういう仕事を望んでいないのは当然わかっているから、居たたまれない。

「……つーかなんだよ、またそういう仕事か?」

呆れたように言う彼女。
『そういう仕事』、とは要はグラビア関係の仕事だ。
『また』と言われるのも当然で、私が担当についてから持ってこれたのはほとんどが『そういう仕事』だった。彼女のルックスゆえか、グラビアやモデルならば比較的簡単に仕事は得られた。

これに関しては申し訳ないとしか言えない。自分としてももっと派手な案件を持ってきたいところだったのだが、私の営業はまるで思うようにいかなかった。

年若く、しかも女であるということが多少なりとも影響しているのかもしれないが、そんなのは言い訳でしかない。

事務所から回してもらえる仕事も向井さんのイメージとのギャップを狙う可愛い系統のものが多かったから、彼女のフラストレーションは結構なものだった。




ぎこちない笑顔を浮かべながら、向井さんはカメラの前でポーズをとる。
引きつっている笑みだけれど、それがむしろいいと言われることさえあった。あれも一種の才能なのかもしれない。本人は不満だろうけど。

今日も滞りなく撮影は済みそうだった。

差し入れのジュースでも買っておこう。
そう思い、フラッシュが焚かれ続けるスタジオを出た。

建物内にある自販機で炭酸飲料のボタンを押し込む。
……自分のぶんはどうしようか。

私の脳が小さなことで悩んでいると、一方で聞き逃せない大きなことが耳に届いた。

私がいる自販機の置いてあるちょっとした休憩スペースから、少し奥に行ったところの廊下。会話に興じる二人の男性がいたようだ。姿は角度的に見えないが、声だけが届く。


「……どうします、例の件。あと一枠がなかなか」

「あんまり予算に余裕もないんだよなあ。適当なとこから拾ってくるか?」

「そうしますか? ……せっかく有名どころ呼べたんだし、前座にもこだわりたいとこですけどねえ」

「有名過ぎるんだよ。そこでギャラ食いまくるからこんなことになってんだろ?」

「そうっすよねえ。……ま、良さげなとこ当たってみますよ。かの765プロアイドルとの合同ライブなんて、ノーギャラでも出たいって奴山ほどいるでしょ」

「まあな」


思わず声を殺して聞き耳を立てていた。心臓が猛スピードで鼓動を打ち始める。
『合同ライブ』、『あと一枠』、『適当なところから』。余りにも聞き逃せないキーワードの数々。

唐突に棚からぼた餅が降ってきた。これは落とすわけにはいかない。そう瞬間的に察した。

大急ぎで自販機に缶コーヒーを二本吐かせ、名刺を準備して飛び出した。

「あの、お疲れ様です! 突然すみません、私こういうものですが……」





自身の心にせっつかれるように、大急ぎでスタジオに戻った。
予定外の時間がかかった。たぶん撮影は終わっているだろうし、向井さんはイライラしている頃だろう。

彼女は既に普段着に着替えてスタジオ前の壁にもたれかかっていた。

こちらの姿を見つけ、眉間にシワが寄る。
おそらく文句を言うために開かれる口が開ききる前に、こちらから大声で呼びかけた。

「向井さん!!」

「うおっ、声でけぇな、なんだよ! ……っつかテメェどこ行ってたんだ人放ったらかしにしやがって!」

「仕事! 取ってきた!」

「……あァ? 今終わったとこなのにもうかよ。今度はなんのカッコしろってんだ?」

「アイドル衣装だよ!」

交渉と言えるほど対等の会話ではなかった。頼み込み、拝み倒して、なんとか一枠を回してくれるという言葉をもらえた。

若干ぬるくなった炭酸飲料を渡し、はやる気持ちを抑えてできる限りゆっくりと説明することに努めた。それでも早口になってしまった気がする。

「……マジかよ。ライブ?」

「そう!」

「えらい急だな」

「だってたまたま話してた人たちに割って入ったんだもん」

「思いの外アクティブだなアンタ。……うわコレぬるっ。冷えてねぇサイダーとか勘弁しろよ……」

あまりに急な話で驚きが強かったようで、向井さんの反応は微妙だった。が、乗り気なのは間違いないようだった。
ライブの仕事がしたかったというよりはグラビアの仕事が嫌だったという理由が強そうだが。


何はともあれ、私は初めて営業に成功したことに喜びを感じていた。この仕事をキッカケに、プロデューサーとしてのやり甲斐のようなものを感じ始めるようになる。

同時に、ここを契機に向井さんもまたアイドルとして一段上に登ることになった。




向井さんの体力は当初から結構なもので、レッスンは新人にしてはキツめのものをトレーナーさんが準備していた。
そんなレッスンメニューは、ライブデビューを控えると更に苛烈なものに書き換えられた。

「テンポが遅い!」

「キレが悪い!」

「腹から声を出せ!」

「辛そうな顔をするな!」

「疲れたのか!? 動きが悪いぞ!!」

情け容赦を排した指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
歯を食いしばって何とか食らいつく彼女の顔に余裕はまったくない。

私が譲ってもらった一枠は、私が想像していたよりも大きくて重いものだったらしい。
送られてきた資料によれば会場はそんなに大きくもないし、与えられた時間はほんの十数分。

それでも、その僅かな時間を喉から手を出すほどに求める人たちも多いようだった。

肩を大きく上下させ、ひどい息切れを起こしながらふらふらと向井さんが私の方へ近づいてきた。
レッスンが一時休憩に入ったらしい。

「お疲れ様。……大丈夫?」

「……あぁ。いや、大丈夫じゃねー……」

崩れるように座り込んだ。スポーツドリンクを手渡すと、一気飲みに近い勢いでボトルをあおる。

「……っぷは。……クソ、なかなか慣れやしねぇ……」

めきり、と強くボトルを握り締める彼女。顔に浮かぶ感情は、上手くできないことへの悔しさと、それを燃やす闘志。

小馬鹿にしたような様子は、もうまったくなかった。

「……何か欲しいものある?」

私がアドバイスをできるようなレベルは、とうに過ぎてしまっていた。レッスンに関してはもう差し入れでのサポートぐらいしかできない。

「……肉が食いてえな」

「肉の差し入れは無理よ」

「チッ……だよな。じゃあもう飲みモンとタオルだけでいいぜ」

「そう。わかった」

「肉はアレだ。ライブ終わりの打ち上げで連れてけよ。オゴリな?」

「……仕方ないな。ちゃんと成功させてよ?」

「ったりめーだ」

へへっ、と。少年のように彼女は笑った。

十五分後、休憩終わり! と。
そんな凜とした声がレッスンルームに響く。
向井さんは束の間の休憩を終え、また厳しい特訓へ身を投じに行った。


激烈なレッスンを行う一方で、また普段通りの仕事なんかをこなす必要もあった。

乙女チックヤンキー、とでも表現すればいいのだろうか。うまく言い表す言葉が見つからないが、まあそんな感じの印象がモデル、グラビア界隈で向井さんに定着した。

男顔負けなほど格好よく練習に励む姿を知っている身からすれば、彼女の仕事風景はなんとも笑ってしまう眺めだった。

今、目の前には白いもこもこした着ぐるみを着た彼女が立っている。


「…………ゴホッ」

「むせるほど笑ってんじゃねぇぞゴラァ!!」

「…………いや、無理だよ。もこもこ羊のセクシー着ぐるみは無理」

「テメェが持ってきた仕事だろうが! あぁ!?」

「似合ってるんだよねえ。なんでだろ。似合うわけないのに似合ってるの。かわいいよ」

「うるせぇよ!!」

「子供っぽいファンシーさと大人のセクシーさの絶妙な同居。芸術と言っていいかもしれないね」

「いいわけねぇだろ!」

「あっはっはっはっはっは!!!」

「全力で笑ってんじゃねぇよこのっ……ド貧乳が!!」

「は………………あ? ……テメェ今なんつったコラ」

「……!? 口調変わり過ぎだろ! ビビったわクソ!!」


初めの頃こそ後ろ向きな気持ちで彼女の担当を務めていたが、年が近いことや裏表のない彼女の気性ゆえか、いつの間にか友人に近い関係になっていた。
お互いに軽口も叩くし、遠慮のない物言いもする。

向こうはそういった付き合いしかできないような不器用なタイプだったし、私も私で建前や本音を使い分けるのは煩わしく思う方だから丁度よかった。




日々は順調に過ぎていった。
トレーナーさんのキツイ言葉は期待の裏返しで、向井さんのパフォーマンスの上達具合は目に見えるようだった。

私の方は相変わらず営業が上手くいっていると言い難かったけれど、とりあえず得意先に名前を覚えてはもらえたり。少しずつ前進している実感はあった。雑務をこなすスピードが上がり、営業にかけられる時間が多くなったのも大きい。

順風満帆。
そんな表現をしてもよかった。

よかったのだけどある日、風向きにほんの少しの揺らぎが見えた。


私は昼休憩、昼食のために事務所から五分程度の位置にあるファミレスに来ていた。
基本的に不精な私は、食事にも大して気を使わない。一人ならばもっと近いコンビニで済ませるのが大概だった。

その日は、連れ合いがいた。
テーブルの対面でグラスにお冷やを注ぐ女性。
黒い短髪が似合う彼女は、同僚の一人でもある。日頃から向井さん共々世話になっているトレーナーさんだ。

「……わざわざ来てもらってごめんなさい。少し、話したいことがあって」

「いえ、全然大丈夫ですけど。……どうしたんです? 向井さんのレッスンのことで何か?」

「いえ、そうではないんですが……」

言い澱む彼女。指導している時とは随分違う口調と態度だ。『二重人格じゃねぇか?』というのは向井さんの言だった。

ただ、今日はいつにも増してその表情は優れない。
何かがあったんだろう。たぶん良くない何かが。

じっと待っていると、彼女はやがて意を決したように口を開いた。

「……最近、向井さんに変わったことはありませんか?」

「変わったこと……ですか?」

「はい。些細なことでもいいんです」

突然の問いに、瞬間戸惑った。


ゆっくりと思いを巡らせてみても、特に思い当たることはない。

「……特に何もなかったと思いますけど……」

「……そうですか。……あの、あまり本人のいないところで言いふらすものではないと思うんですが」

トレーナーさんはそう前置きをしてから、あったことをそのままに伝えてくれた。

「……傷?」

「はい。あとは青アザのようなものも見えました」

聞き捨てはできない内容だった。
向井さんの腹部に、最近できた擦れたような傷跡と生々しいアザがあったのだという。ダンスレッスンをしている際に、勢いでめくれた裾から見えたらしい。

「……向井さんはなんて言ってました?」

「本人には、まだ尋ねていません。その前にプロデューサーさんに聞いておこうと思ったので」

「……そうですか」

生傷。楽観的に考えれば、転んだとか軽い事故にあっただとか。だけど、向井さんの体の目に見える部分にはそんな怪我をした様子はなかった。腹だけを綺麗に怪我するような器用な転び方や事故なんて考えにくい。

……まさか、喧嘩でもしたのか。傷が残るほどに派手な。考えられない話じゃあない。彼女はそもそもが結構な不良だったのだから。
アイドルになったんだ。……そんな軽率なことはしないと思いたいが。

さらに詳しく聞いたところ、幸いダンスやボーカルに支障があるようなものではないらしかった。

「……わかりました。私の方でも気にかけておきます。また何かあれば教えてもらっていいですか」

「もちろんです。……すみません、お時間頂いて」

「いえ。ありがとうございました」


生まれたのは、小さな不安だった。
だけどその日以降にトレーナーさんからの続報はなかったし、本人にそれとなく聞いてみても何の話かわからない、といった態度を取られた。

気にする必要はないことなのか。
確信は持てない。持てなかったけれど、忙しい日々に小さな引っかかりは紛れてしまって、いつの間にか気にすることもなくなっていた。




めまぐるしく流れる時間におされ、たっぷりあったはずの準備期間は存外早く過ぎ去った。

ライブ当日を迎え、向井さんと二人会場に入った。一番乗りだった。というよりも、一番に着くようにかなり早めの移動を心がけた。
私たちが一番の新人だったからだ。失礼があってはいけない。

「……つっても早すぎる気はするけどな。まだあと二時間あんぞ集合まで」

「いやだって、遅れるよりいいでしょ?」

「まあそりゃそうだけどよ。何すんだこの暇な時間」

「……最後の確認とかあるでしょ」

「いくらなんでも十分ちょいの出番の確認に二時間はかけねぇだろ……」

さすがに早く来過ぎたかという思いはその時は芽生えてしまったけれど、結局はそんなに時間を持て余すことはなかった。順に現場入りする他事務所の面々や現場スタッフへの挨拶回りをするのに結構な時間がかかったからだ。
早め早めを意識した私の判断はそう悪いものではなかっただろう。


集合時刻の二十分ほど前になると、出演アイドルの最後の一人が到着した。

「あはっ。みんな、今日はよろしくなの!」

声の主は今日のメインイベンターと呼べる彼女。

765プロの、星井 美希。

真打登場、とでも言ってみようか。
あからさまに現場は湧いた。

愛らしい笑顔に、愛くるしい所作。一目見ただけで強く惹きつけられ、目を離すことが惜しくなるほどの存在感だった。

端的に言って私も見とれていた。
すると、軽いグーパンチが私の側頭部を襲った。

「いてっ」

「ボーッとしてんなよ。挨拶だろ?」

「ああ……そうだね。ゴメン」

気もそぞろに挨拶を済ませ、自分たちの控え室に戻った。私たちの控え室は全員まとめた相部屋だが、星井さんだけは一人部屋だった。


オーラだとか格だとか、そういう目に見えないしがらみめいた何かは好きではないタチだ。なのにそれでも、今はこの場で彼女だけが別格だと思ってしまった。


演者とスタッフが全員集まったところで、ライブ前、最後の打ち合わせを終える。
開幕とトリを飾る役目は満場の一致で星井さんだと決まっていた。

一方で向井さんの順番は、二番手だった。

正直、嫌なところを回されたと思わざるを得なかった。多くの観客の主たる目当ては星井さんだ。その次となれば否応無しに比較されるだろうし。もしかしたら箸休め、休憩の時間に当てられたりするかもしれない。

そんな私の不安はどこ吹く風か、本人はなんとも思っていないようだったが。
図太い彼女の心根が、今はとても頼もしい。


開演の夕暮れ時が近づくと、少しずつ人の集まる気配が高まってきた。遠くざわつく話し声がバックヤードまで届く。

「……大丈夫? 緊張とか」

「ま、してねぇことはねーけど。問題ねーよ」

出演する向井さんよりも、むしろ私の方が落ち着けなかった。ドッシリと座って構えている彼女に対して、私は立ったり座ったりとそわそわしっぱなしだ。

「……落ち着けよ。アンタの方が緊張してんじゃねーか」

「うっさい。……なんで平気なのか教えてほしいわ……初舞台でしょ?」

「そうだな」

「お客さんもいっぱい入ってるからね?」

忠告のつもりで言った言葉は、鼻で笑われた。

「はっ。……望むところじゃねーか」

にやり、と上がる口角。
素直に凄い子だと思った。安心感がある。

……それでも私は依然緊張と不安で挙動不審のままだったけれど。


時計の長短の針が開演の時刻を指すと同時に、会場内にアナウンスがかかった。

控え室のモニターには舞台の様子が映し出されている。まだ誰も立っていないそこは、寂しいようであって、だけど気高い感じがした。

二番手の向井さんは既に舞台袖で登場を待っている。
ゆっくり待ってろよ、と言われ、言われるがままに私は控え室で時が過ぎるのを待っていた。



ざわつきの中、注意事項などを機械的に読み上げるアナウンスが終わった。

と、同時に、ステージに飛び出したのは金色の影。

『みんなーっ!! 今日は来てくれてありがとー! ミキ、いーっぱい楽しんじゃうから、みんなもいーっぱい、楽しんでねーっ!?』

瞬間、会場に地を砕くかのような怒声が轟く。比喩表現なしに肌がビリビリと震えた。

そんな歓声に少しも怯むことなく、モニター越しの女の子は弾けるような笑顔で音に乗って踊り出す。

胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。
それは、確かに以前の私が夢に描いた姿だった。
見る人みんなに笑顔を咲かせる、私の夢だったもの。

気がつけば、私は控え室を飛び出して走りだしていた。舞台袖まで行くと、そちらでも控え室同様大型モニターを囲んで見入る人の輪と、直に見ようと舞台脇に集まる人の塊。そのどちらもから少し離れた場所で、向井さんは躍動するトップアイドルを腕を組んで見つめていた。

そっと寄り添うように隣に立つと、おもむろに彼女は口を開いた。

「……コレは、すげぇな。正直、ナメてたかもしれねぇ」

ぽつりと呟いた彼女に表情は無くて、そこから感情を読むことはできなかった。

「……不安になってきた?」

尋ねたのに、彼女は少し笑うだけで何も言わなかった。


星井さんの一つ目の出番が終わり、舞台袖に帰ってきた。

誰もが呑まれていた。圧巻としか言えない彼女の歌とダンスに。演者もスタッフもひとまとめに。出迎え、賞賛の言葉を投げかけ、労う。

だけど一人だけ、普段となんら変わらない様子で動き出す人がいた。
凛とした背中から、溢れ出すのは殺気めいた何か。

……不安なんて、感じていなかったらしい。

パァン!! と大きな炸裂音が唐突に鳴った。
拳と手のひらを打ち合わせた音。
意味はきっと、威嚇、鼓舞に、宣戦布告。

周囲の視線が私の隣に一斉に集まる。

「……っしゃカチコミだ!! カマしてくんぜッ!!」

決意表明の声を張り上げ、周りの目をかっさらった彼女はステージに向かって駆け出した。

集まった視線は、すぐにバラけ始める。再び星井さんの方に向き直る人、隣にいる人となんだあれ、とでも言いたげな苦笑を交わす人。

ちょっとだけ、そんな周りの他人たちが不愉快だった。呑まれていた私も私だな、と少し自己嫌悪する。

かつての私の夢の体現と。
今の私の夢の形。
さあ、現在進行形の私はどちらを見るべきか?
……なんて、阿呆か私は。

そんなもの、誰に問うまでもない。

「……頑張れ、向井さん!!」

不純物の混じった声を戦地に向かう彼女には届けたくなくて、私は一人、走って行く背中に向かって叫ぶように声を上げた。

今度は私が好奇の視線を集めてしまったのは言わずと知れるだろう。知ったことか。


舞台に上がった彼女に与えられた時間はほんの十分程度。できるのは僅かなMCと一曲ぶんのパフォーマンスだけ。他の演者より随分短いが、それでもきっと強烈な印象を残せる。

『……星井 美希が引っ込んで萎えてるテメェら!! アゲていけよ!! んでもってしかとその目に焼き付けやがれ!!! 天上天下唯我独尊! 目指すは天辺、天下無敵! 愛怒流、向井 拓海の初陣だぜ!! 夜露士苦ゥ!!!』

彼女の歌う前のMCだ。マスターオブセレモニーというよりも、前 口上の方がしっくりきた。


だけどきっと、これでいい。
いつも通りの彼女の怒号は、確かに観客を沸かせたから。

向井さんのステージは、今できるだけの最大限の力を発揮できていたように思う。
星井さんの盛り上げた熱気に上手く乗って、力強いダンスと歌声はきっと観客の心にも届いた。



帰ってきた彼女を、抱き締めるように迎えた。

「……お疲れさまっ」

「……おうっ」

準備していたパイプ椅子に座るよう促し、ドリンクを手渡す。

間違いなく、最高のパフォーマンスだった。練習の時よりもさらに一段良くなっていた。彼女のなんと本番強いことか。

本人もそれはわかっているようで、出来を私に尋ねることもなく満足そうに表情を緩めていた。


……ただ、そんな満たされた顔の中にほんの少し別の感情が滲んでいる気がして、三番手が上がったステージの方を見つめる彼女に声をかけた。

「……何か思うところでもあるの?」

「……妙に鋭いなアンタ」

呆れたような顔がこちらを向く。
鋭いのに呆れられるのは心外だ。鈍かったならともかく。

「……当然だって言われんだろうけどよ。とんでもねぇ実力差だよな。アンタも思うだろ?」

誰と比べてか、は聞く必要もない。
多分みんなだ。

星井さんはもちろん。今舞台上にいるアイドルも、おそらくその次の子も、その次も。

みんな向井さんよりもアイドルとしての地力は上。
実力差が確かにあった。

「うん、思う思う。当然だね」

あえてさらりとそう言った。
わかりやすく非難がましい目が私の横顔を刺す。

「……アンタ、普通ここでそう言うかよ。庇うとこだろ大体よ」

「自分で言ったんじゃん……そりゃ当然だよ。経歴だとか場数だとか、何から何まで違うんだもん」

今日この場で私たちよりも歴史の浅い人たちなんて一人もいない。現時点で最高のパフォーマンスができたって、届かないものは届かない。


だけど、別にそれはいいだろう。
ここが私たちの、彼女の到達点じゃもちろんない。自分でもそう言ってたろう?

「……ここからでしょ。諦めたりしないよね?」

「当たり前だろ」

ぱん、と軽く膝を殴る彼女。

「どんだけ差があろうが、届かねぇとは思わねぇ。絶対ェ目にモノ見せてやる」

『目指すは天辺、天下無敵』で、『ハンパは嫌い』な彼女だ。きっとこの言葉に偽りはないし、きっといつか言葉の通りにしてみせる日が来るだろう。
根拠はない。でも、そう思えた。


「……なあ、プロデューサー。……悪かったな」

突然にそう言われて、私は大層驚いた。
謝られた理由がわからなかったし、初めて『プロデューサー』と呼ばれたことも一層驚きを強めた。

「……えっと、何が?」

「アンタの気持ちも考えずに、なんも知らねえガキが文句ばっか言ってて、だ。結構ムカついてただろ?」

「ああ……うん。まあそりゃあね。ムカついてたよ。今さらだし、別にもう気にはしてないけど」

「アンタホント遠慮ねえな? ……まあそれでもだ。ケジメはつけないといけねぇだろ。悪かった」

座ったまま勢いよく頭を下げ、それからまた勢いよく頭を上げた。

「……んでもって、こっからもよろしく頼むぜ。ガチで天辺獲りに行くアタシに……付いて来てくれるよな?」

拒否されるなんて毛ほども思っていなさそうな目。
だったらあえて尋ねないでほしい。答えはわかってるだろう。

「……一つ聞かせてよ」

「あ? ……なんだよ」

この質問に、意味なんてない。答えはわかっていることを、私も聞こう。

「アイドルは、いいモノだったかな?」

いつか聞かれた、その問いを。
彼女は私のように即答はしなかった。
ふい、と顔を背ける。

「……答えわかって言ってんだろ。聞くなよンなこと」

「あははっ。お互い様ってね」

彼女が突き進もうとしている茨道は、きっと辛く厳しい障害がいくつもある。わかっているけれど、それでも相乗りさせてもらおう。

彼女の目標を達せたときに、きっと私の夢も叶っているから。

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