松尾千鶴「ノートに描いた私の未来」 (20)


土曜日。2時間後に取材の仕事を控えた私は、事務所の待ち合いスペースで昨日出た宿題と進めてる。

待ち合いスペースと言ったけど、プロデューサーの仕事場とパーティションで簡単に区切られているだけ。

ここにあるテレビで出演番組を他の人たちとチェックしたり、たまに鍋を囲んだり……。

……どちらかというとみんなのたまり場となっている。

もちろん、私のように教科書とノートを広げて、ここで勉強する人も少なくない。

自分はアイドルである前に一学生。

基本、どこの現場に行くにしても授業ノートとペンケースは持ち歩いてるし

本分である勉強をおろそかにして仕事に臨む、なんてことは絶対にしないと自らに誓ってる。

……とはいえ、今は4月。学年が上がり、勉強の内容も大きく変わり、学生としてもなかなか忙しい時期だ。

私はそんな数学の問題に頭を悩ませていた。これが解ければ終わりなのに。


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この問題と対峙してかれこれ3分が経つ。

もう、ずっと悩んでばっかりじゃ埒があかない。

いちいち暗算するのも効率が悪いし……そういえば公式があったっけ。

そう思い、授業中に取ったノートを見返す。

1週間前に下ろしたばかりで、まだ2ページしか使ってないノートだ。

目的のページまでそうめくる必要もなかった。

昨日の授業で使ったページを上から順になぞって確認していく。

あった。これだ。

「あ、マークしてない……。書いとかなくちゃ」

そう呟くと、私はシャーペンを左手に渡して、0.5mmの青ボールペンとオレンジ色の蛍光ペンを取り出した。


未チェックの公式にオレンジのアンダーラインを引き、その部分全体を青ペンの四角い枠で囲う。

「よしっ」

役目を終えた色ペンをケースに戻して、シャーペンを右手に持ち換え、またノートのページに目を落とした。

うん。フリーハンドだけど、なかなか綺麗な直線が書けた。

たった一つの線に対して、ほんの少しひとり悦に入っていた。

もちろん、誰かに見せるわけではないのでこれは完全な自己満足。

とはいえ、書道しかり何かを美しく書くことは自分でも常に意識していることだ。何より見やすいし。


ノートの取り方は数あるけど、私の場合、ペンの色に役割を決めてマークしていく、という方法を使っている。

たとえば、科目の重要箇所をオレンジ色のペンで線引きしたり、暗記する部分を青ペンで囲ったり、という感じ。

ちなみに、私は学校のノートだと赤色のペンはあまり使ってない。台本とかはまた別だけど。

どうしてかというと、先生が採点とか添削で使う色と被らないようにするため。それだけ。

正直、気にしすぎかもしれない。


「4x²-16y²……かな」

最後の問題も解き終わった。これで今週の宿題はおしまい。

シャーペンをノートの横に揃えて置き、軽くソファにもたれ掛かり一息つく。

ずっとノートに目を向けていたこともあって、少し首が痛い。

それまでうつむけていた顔を上げて、軽く左右に振る。

時計を確認すると、来たときから20分経っていた。

あと30分もしたら移動かな。それまでどうしてようか。

私は、何の気なしに辺りを見回した。

すると、テレビの横にあるブックラックが目についた。

いや、正確に言うとそこに置かれていたファッション誌に対して。

表紙には『PikaPikaPoPコーデ大特集!』と大きく見出しが書かれている。

PikaPikaPoP……。確か、きらりさんがお気に入りだって言ってたブランドだ。


きらりさんとは、以前ファッションモデルの仕事で共演してからの関係。

今でも、時々事務所で会うたびに会話を交わすことが多かったりする。

新しく出来たセレクトショップに行ってきた話とか、私が最近付けはじめたアクセの話とか。

そういえば、あのお仕事をしてから、個人的にもかわいらしいアイテムを使うことが増えてるかもしれない。

ソファに預けていた体を起こし、ファッションモデルをしたときのことをふと思い出す。

あの時のような、いかにもファンシーな感じの服を着たいと思ったことはそれまでなかった……

……なかったわけではないんだけど、実は。

どちらにせよあの時は、共演したみんなに背中を押されたからあの衣装で舞台に立てていて。

「モデル……楽しかったな」

そう、楽しかった。すっごく楽しかった。

みんなと笑顔の練習したときも、モデルとしてランウェイを歩いたときも。


「あの時みたいなお仕事することもまたあるのかな」

シャーペンを手に取り、くるくると手の間で回す。

ドット柄のリボンにカラフルなフリル。

ブレスレットにヘアピン、ポップなアクセサリーをたくさん身にまとって。

「また、着てみたいな」

そんなことを考えてたら。

いつの間にか、ノートの隅に小さなファッションモデルがいた。


まあ、言ってしまえばただの落書きなんだけど。

衣装がどんなものだったか思い出すのと一緒に、シャーペンで簡単に描いた絵。

私が描いた、ファッションモデル。

まあ、字はともかくとして、イラストなんてそんなに描いたことないから造形は上手いものじゃないし。

というか、そもそもこれ勉強用ノートだし。何してるの私。

こんな個人の趣味が出たの、人に見せられたものじゃないし。さっさと消さなきゃ。

そう思ってペンケースから消しゴムを取り出し、絵を消そうとした矢先だった。

「やっぱそーゆー系の着たいの、千鶴ちゃん☆」

声が聞こえた途端、私は急いでノートに覆い被さった。


よりにもよってさあ消そうってタイミングで。

「……なんでいるんですか、心さん」

よりにもよって何故この人に見つかってしまったのか。

「プロデューサーとー、う・ち・あ・わ・せ? はぁとがいちゃ悪いのかよっ☆」

「疑問形にする必要ないでしょう……」

佐藤心さん。ファッションモデルの仕事で共演して、お世話になった人の一人だけど、なんだけど……。

なんだろう、苦手というわけではないけど、この人が出す空気にはなんだか押され気味になる。

「打ち合わせが終わったなら、わざわざこっちに寄る必要ないじゃないですか」

「あーん、冷たい☆ 千鶴ちゃんの声聞いてこっち来たんだからもっと構って♪」

いつもこんな感じに絡んでくる。悪い人ではないんだけど。


「てかさ、さっき描いてたラクガキ? アレもっかい見して☆」

「イヤですよ」

「なーんでー?」

「イヤだからです」

つれないなぁ、と言いつつも、心さんは続けて3回も見せて見せてと頼み込んできた。

これ以上断っても変わらないだろう、と根負けして私はノートの上から体をどかした。

ノートを見るやいなや「マジメかっ☆」と言われた。いいでしょ、そこは別に。

私の描いたただの落書きを見ると、なぜか心さんは小さく笑った。


「なっ、何かおかしいですか」

にこついた顔のままこちらを向く。

「んー? いや、やっぱ千鶴ちゃんもカワイイとこあんじゃん☆ って☆」

別にカワイイとかそういうものではないでしょう、これは。

「声が聞こえて隣のぞきこんだらさ? 千鶴ちゃん、ニコニコしてノート書いてるんだもん。そりゃ気になるだろ☆」

それを聞いて顔が熱くなる。思い出に浸っていた私は、知らないうちに頬を綻ばせていたようだった。

声が聞こえて……。

ちょっと待って。心さんの言葉を聞いて私はあることに思い至る。

「あの……私、何か言ってました?」

「遠くの方見て『モデル楽しかったな……』って♪ 嬉しいこと言ってくれるじゃ~ん☆」

その一言で私は顔を手で覆い隠した。


やってしまった。私の悪いクセだ。あれほど独り言しないように気をつけているつもりなのに。

何より心さんがその場面の私を見ていたなら、落書きに至るまでの経緯をほとんど見られてたことになる。

その事実がただただ恥ずかしい。鏡を見なくても自分の顔色が分かる。

「恥ずかしがんなって☆ こういう服、好きなんでしょぉ?」

「恥ずかしいものは恥ずかしいんです……。ほっといてください……」

すると心さんは、励ましなのかなんなのか、私にこう言ってきた。

「しゃーないなぁ。じゃ、お姉さんからはなまるはぁと、あげちゃう☆」

何を言ってるのかと顔から手をどけた時にはもう遅く。

「えっ? あっ、ちょっと!」

私の落書きに赤いはなまる、のようなハートのようなマークがつけられていた。


「なんです、これ」

「キュートでしょ~? あ、借りたけどすぐ消せば消えるペンだから許して☆」

「ああ、それなら……」

いや、納得する点はそこじゃない。

「じゃなくて、なんでこんなのを……」

「えー? だってカワイイじゃん?」

「そんな、別に上手い絵じゃ……」

「そーじゃなくて! こんなの着てみたいって言ってコレ描いちゃう千鶴ちゃんがカワイイってこと! 察して☆」

「いや、分かりませんよ」

「もー、クールアイドルぅ☆」


「またこういうの、着てみたいんでしょ? 素直になれよ☆」

そう言って、心さんは落書きをペンのキャップでとんとんと軽く叩いた。

「着てみたい気持ちは別に……」

「素直に素直にぃ……?」

「まあ、なくはないですけど」

「なりきれないなぁオイ☆」

「何なんですかもう……」

「でも、いいぞいいぞ♪ 順調にキュート街道爆走中! ってカンジ☆」

「はぁ……」

そんなに面白いことだろうか。心さんはやたらと満足そうな笑みを浮かべている。


「もう、いいですか? 私、そろそろ移動なんですけど」

「もぅ、つれない態度はよくないぞ☆ はぁとのお仕事だってこの後すぐ……」

時計を見るとずっと慌ただしく動いていた心さんの体が一瞬にして固まった。

「やっべ」

「ちょっと、心さん」

「……へーきへーき☆ 全力ダッシュすれば間に合う! でもダッシュはキッツ……」

「そんなこと言ってる暇があるなら急ぎましょうよ!」

心さんはバッグを打ち合わせ場所から回収し、そのまま出入り口の方へ一直線に走っていった。

しかし、今にも出ようとしていたにも拘わらず、何かを思い出したように振り返って私を呼びかけた。


「んあー千鶴ちゃん! えっと何だっけな……。あーあの、あれよ! あれ!」

「どれですか」

言葉が出てこないのか、頭の横で人指し指をぐるぐると回している。

どうやら思い付いたようで、指をそのまま私の方へ向けた。

「千鶴ちゃんがかわいくなりたいんなら、はぁとお姉さんは全力で応援してやんよ! じゃ、バイバーイ☆」

そう言って心さんは、さっきまでの粘りが嘘かと思うほど素直に帰っていった。

「あ、これ持ちっぱだったわ。めんごめんご☆」

赤ペンを私に返してから。


結局、何がしたかったんだろうあの人は。

いや、『構って』って言ってたし、本当に話し相手が欲しかっただけなのかもしれないけど。

嵐のような一時が終わり、改めてノートを見直す。

当然だけど、落書きは消されてなくて、はなまるもそのままだ。

「かわいくなりたい、ね」

さっきの心さんの言葉を、頭のなかで反芻する。

「……もちろん」

そんな独り言を呟いた。

はなまるの端を指でなぞると、赤い線が少しかすれた。

私はそのまま、ノートとぱたりと閉じた。



おしまい

読んでいただきありがとうございました。

率直な感想をいただければ幸いです。

おつおつ

とても素敵なちづしんをありがとう

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