【ゆるゆり】綾乃「観覧車」 (75)

気が付くと、そこはいつもの観覧車乗り場だった。


私の目の前で、色とりどりのゴンドラが音もなくゆっくりと右からやってきては左に動いていく。


もやついていた視界がだんだん晴れてくる。私は顔ごと上を見上げた。


大きな大きな観覧車が、静かに確かにそびえ立っていた。



一体何本あるのかもわからない、綺麗に組まれた白と赤のスポーク。自転車のタイヤのようなそれは、近づいて見ている分には動いているのを感じさせないくらい、ゆっくりゆっくりと回っている。


右から赤いゴンドラがやってきて、私の前ですっと止まった。


私の番がやってきたのだ。もう何度乗ったか知れないのに、観覧車に乗る前のこのドキドキというものは、いつまでも薄れることなく胸を高揚させてくれる。


きぃ、と開いた大きなガラス張りの扉。まだ静止せずにちょっとだけゆらついているゴンドラに乗り込み、赤いシートに腰掛けた。


クッションがちょっと硬めのシート。昔から変わらないこの感じが、とてつもなく懐かしい。


ゴンドラの中には、ほんのり甘いにおいが漂っていた。これは……キャラメルシュガーの香り。きっと前に乗った子供が持ち込んだポップコーンか何かの匂いだろう。今私が乗ろうとしたときは、誰も降りてこなかったけれど。


この観覧車のゴンドラは、いつだって甘い匂いがしていた。


閉まる扉の外で、発車のベルがじりじりと鳴る。そっと胸に手を当て、扉とは反対側の窓の外を眺める。


ゴンドラの天井部から、オルゴール調のメロディがかかる。


音色は綺麗なのに、どこか曇っていて古っぽくなっている音。これがこの観覧車が動き出した合図だ。外の景色もゆっくりと動いていく。


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もう何度目になるだろうか、この観覧車に乗る夢は。


これはきっと、私の子供の頃の記憶から作られたタイプの夢。普段はまったく思い出すことすらないのに、この夢を見たときだけ記憶の引き出しから取り出すことができる。


今よりもっと子供の頃……初めて観覧車に乗った時のこと。


いったい何歳のときだったか。幼稚園だったか小学生だったか、それすらも思い出せないけれどそれくらいの時。家族だったか親戚だったかに連れられ、私は大きな観覧車のある遊園地に来た。


絵本で読んだのと同じ、大きな大きな観覧車。遊園地に到着するだいぶ前からもう見えていた、赤と白の巨大な輪。幼い私の憧れだったもの。


そのときのことが私の心に深く沁みついていて、こうしてときたま夢の中で不定期に咲いてくるのだろう。


初めて乗ったそれ以来から一度も乗っていないから、もしかしたらこの夢の景色は、実物とは全く違っているのかもしれない。記憶の断片を寄せ集めて勝手に作り上げた、本物とは似ても似つかない代物なのかもしれない。三拍子の音楽も、本当は鳴っていないのかもしれない。



徐々に徐々に、地上の景色が視界の下へと降りていく。ゴンドラがほとんど垂直に上昇し始めた。時計で言うなら9時の部分。


遠くに見える建物が小さくなる代わりに、きらめく海の景色と、反対側には山の景色……そして大空が広がっていく。


たんたった、たんたった…………オルゴールの心地よい三拍子のリズムに揺られながら、私は12時部分へと登っていく。もうかなり高いところまで来た。


きらめく海の波間に目を移していると、突然目の前に赤い風船が浮かび上がってきた。思わず驚く。


下で待っている子供が手放してしまった風船なのだろうか。私よりも少し速いスピードで、それはふわふわと青い空に飛んでいった。

そろそろ12時。ここがこの観覧車のてっぺん。といっても、完全なてっぺんがどこなのかはわからないけれど。


差し込む日差しがゴンドラのガラスを通って、私を光で包む。まるで天国へのリフトのようだ。一番明るくて、一番あたたかくて、一番きもちのいい場所。


しかし、その高揚感もつかの間……そろそろ景色が降下しはじめる。豆粒みたいになっていた建物が、徐々に徐々に大きくなっていく。水平線の見える景色が狭まっていく。


登るときにはひょっとして手が届くんじゃないかとさえ思っていたのに、真っ白な雲は無情にも遠ざかっていく。



観覧車というものは、綺麗な一周を楽しむようでいてそうではない。6時から始まって12時を……ほとんど半分をすぎたら、もはや “終わり” に突入しているもの。


てっぺんで見た広大で綺麗な景色を惜しみながら、1時から6時までをゆっくり降下する。のぼるときにはあんなに待ち遠しく長く感じた時間なのに……それと同じ時間を使って降りているとは思えない。


観覧車の一周とは、本当に時計のように等速で進んでいるのだろうか。


まだまだ終わってほしくないのに、いつの間にか景色は地上になっていて、交代の乗り場が見えてくる。


憧れの乗り物がもう終わってしまう……まだ私は満足していないのに。


まだまだ乗っていたいのに。


叶うことなら……もう一周。


けれどこの夢は……いつも、ここで覚めるのだった。

――――――
――――
――



綾乃「…………」ぱちっ


窓からは朝の日差しが差し込んでいた。体温で温かくなった毛布を首元までもち上げる。外ではちゅんちゅんと鳥が鳴いている。

目覚まし時計を見ると、朝6時。設定した時間より少し早く起きてしまった。アラームのスイッチを切って、目を閉じたまま夢のことを思い出す。


綾乃(また……この観覧車の夢……)


まだ少しだけ思い出せる、赤いゴンドラの内装と美しい外の景色。そして三拍子のリズム。

鼻をくすぐっていたキャラメルシュガーの匂いだけは、早くも涼やかな朝の匂いにかき消されてしまって、一生懸命思い浮かべても返ってこなかった。

何度見たのかは正確に数えていない。けれど過去にも何度か見ていることは記憶に確かなこの夢。


綾乃(一体なんなのかしらね)


そういえば、夢占いというものがあると聞いたことがある。夢には全て何らかの意味があって、その内容から分析すれば、無意識で感じているものや深層心理にあるものがつきとめられたりするんだそうな。

もしかしたらこの夢にも何らかの意味があるのかもしれない。試しに誰かに相談してみようか……そう思って、やめた。私がこんなメルヘンチックな夢を見ていることなんて、そうそう他人に言えることじゃない。

愛しい温もりの毛布をのけて、少し早いが起床することにした。今日も一日が始まるのだ。レースのカーテンを開けて朝陽を身体に取り込む。空は少し白んでいて、夢の中でみた空の方が、ずっとずっと青かった気がした。

小さく背伸びをし、お母さんが起きているかどうかを確認するためにリビングへ向かう。


ねえお母さん、私が遊園地に連れて行ってもらったのって……いつだっけ?




綾乃「千歳はない? 年に何度か同じ夢を見ることって」

千歳「あ~あるなあ。どのくらいの頻度で見てるかはわからんけど」

綾乃「えっ、どんな夢?」

千歳「なんかな、ウチが正体不明の誰かに追いかけられる夢やねん。ウチはその人から逃げるためにずっと走ってるんやけど、そろそろ撒いたかな……って思って振り返るたびに、前よりも近づいてる場所にその人がおって……」

綾乃「怖っ!? そんな怖い夢を何度も見てるの!?」

千歳「精神的に疲れてまうからほんとまいるんよ~……起きたらすぐに千鶴に慰めてもらっててなぁ……」

綾乃「私がそんなの見たら数日は引きずっちゃうわね……」


ホームルーム前の、まだ人もまばらな朝の教室。

見かけによらずハードな夢を見ているらしい千歳と話していると、あの子たちは元気よくやってきた。


京子「おっはよーう!」

千歳「ああ歳納さん船見さん、おはよ~」

結衣「おはよ千歳。綾乃も」

綾乃「おっ、おはよう」


京子「なになに、何の話してたの~? 盛り上がってたみたいだけど」

千歳「ちょっと夢についての話をな~」

結衣「夢? 将来の夢?」

千歳「ちゃうちゃう、寝るときに見る夢の方」

京子「あっ、それなら私も今日夢見たよ! あのね、 小さくなったあかりがUFOキャッチャーの中に入ってて、私が『今助けてやるからなー!』って一生懸命あかりを救おうとするんだけど、アームに服ばかり引っかかって服だけするする取れちゃって、肝心のあかりが全然取れないっていう夢!」

結衣「なんだそれ……」

綾乃「赤座さんに失礼よ……」

京子「もうちょっとでパンツまで脱げそうだったんだけどなー。いい所で覚めちゃったんだよね」

千歳「な、なかなか独創的な夢やねぇ」


歳納京子はカバンを机にほっぽり置くと、本人にとっては白熱したらしいその変な夢を楽しそうに語った。

あまりにもばかばかしい。それならまだ私の見た夢の方がよっぽど可愛げがあって良いと思う。けれど私はそれすらも恥ずかしくて、この子のように気軽に人には話せない。

京子「いやーそれでさー……!」きゃっきゃっ

綾乃「…………」


楽しげに会話する歳納京子の顔を横目で見ていると……すうっと胸に涼しい風が吹くような感じがした。

なんだか今になって、初めて今朝の夢から覚めることができたような気がする。


私の記憶から作られた、私に関わる構成要素がちりばめられた、いつものあの観覧車の夢……

それと似たように、おおかたすべてが私の予想通りに、平常通りに進む平穏な世界と、いつも通りの優しい友人たち。


しかし……その中にあるひとつの不確定要素。

私の予想で捉えきれない、何を考えているのか何をしようとしているのか、大雑把にでも把握できない未知数な女の子。


それが、歳納京子。


この子がこうして目の前にいる……それが私にとっては、今存在している世界、目の前で動いているこの世界が現実であることを、何よりも実感させてくれる要因なのだった。

目が覚めてしまえば記憶の淵に薄れ消えていく夢とは違う……

ずっとずっと続いていく、私の大切な現実。


今日もまた、一日が始まる。




現実とは、思い通りにならないものだ。

予想通りに事が進まないことなんてしょっちゅうで、それどころか願ってもいないアクシデントに見舞われたり、どんなに気を付けていても何故か失敗してしまったりすることがある。


綾乃(ど、どうしよう……!)


今日の私は、あろうことか体育の時に着る体操着を忘れてきてしまった。


それに気づいたのは更衣室に向かう前。今日のために綺麗にたたんでセカンドバッグの隣に用意しておいたのに、朝から少々夢見気分だった私は教科書類の入っているバッグだけを持って家を出てきてしまったのだ。

親に連絡しても、直前になった今からでは体育の授業に間に合わせることはできない。他のクラスの誰かに借りようか、そんなツテも胸を痛めている今ではすぐには思い浮かばなかった。

もっと早くに気づいていれば……というか家を出るときにちゃんと気づいてさえいれば、こんなことにはならなかったのに……こんなに胸を痛めることはなかったのに。

緊張で苦しいときに思い浮かんだのは千歳の顔だった。しかし千歳は今日の体育の授業準備を担当していて、先に着替えて体育館へ行ってしまっている。

時計を見ると、授業が始まるまであと5分。もうクラスメイトはほとんど教室内におらず、更衣室へ向かってしまったようだ。

最後の頼みで後輩の古谷さんを頼ろうかと思い、走って教室に行ってみたけれど……どうやら理科の実験か何かで教室移動の授業らしく、知り合いの生徒は残っていなかった。

とぼとぼと自分の教室に戻る。こうなったらもう素直に先生に言うしかない……代案も何も思い浮かばなかった。今日は見学になるのだろうか。私は今まで体操着を忘れたことなんてなくて、いっそのこと体調不良で早退してしまいたいほど恥ずかしかった。


後悔ばかりが心を覆って、目先のことが何も見えなくなってしまう。

どうしてあの時、どうしてあそこで、どうしていつも通りできなかったのか……

過ぎさって取り返しのつかない過去のことしか思い浮かべられない。


……そんな時だった。


「あれー綾乃、どしたの?」

綾乃「っ!」どきっ


京子「まだ行ってなかったの? 次体育だよ?」

綾乃「と……歳納京子……」


体操着姿の歳納京子が、ヘアゴムを指でひろげて弄びながらそこに立っていた。

綾乃「あ、あの……えっと……」

京子「あーもしかして! 体操着忘れちゃったとか?」

綾乃「うっ……」ずきん

京子「図星かー。珍しいねぇ、綾乃が忘れちゃうなんて」

綾乃「う、うるさいわねっ」


からかうような歳納京子の言葉に思わず反応してしまう。うるさいなんて言える立場じゃないのに。

私はまだ制服のままで、歳納京子はもちろんしっかりと体操服を着ている。どうやら髪をまとめるためのヘアゴムを教室に取りに来ていたらしい。

特段変わった様子のない体操着姿の歳納京子だけど、そうやってみんなと同じ体操着を着られていることが、今の私にはとても身綺麗に見えて、羨ましく思えた。

そんな眩しさを直視できず、俯いてしまった私の肩に……ぽんと手が置かれた。


京子「……綾乃、超ラッキーだね」

綾乃「え……」

京子「えへへ、ちょっと待ってて!」

綾乃「っ……?」


歳納京子はうきうきとロッカーへ行くと、すぐに真新しい体操着を持って私のところへ戻ってきた。


綾乃「えっ! これ……」

京子「貸すよ! 私今日二着持ってきてたからさ」


歳納京子は嬉しそうな顔で、綺麗にたたまれた体操着の上下をもってきた。

何の変哲もないその体操着は……今の私には、光を纏っているように見えた。


綾乃「い……いいの!?」

京子「もちろん! 本当は最近の雨続きでトマトが乾かなくて、結衣の家に泊まるときのパジャマ代わりで持ってきたんだけど……綾乃が困ってるなら貸すよ? ちょっとサイズ合わないかもだけどさ」

予想外の展開をまだ飲み込めていない私の胸に、ぽんと体操着を押し付ける歳納京子。

そして教室の時計を見て「うおっ、もうこんな時間じゃん!」と慌てた。


京子「ほらほら、早く行こうぜっ」

綾乃「えっ、ええ!」


歳納京子に片手を引かれるまま……本当は走っちゃいけないけれど、体育館までの道のりをふたり並んで小走りで駆け抜けた。

小さなラッキーを作れた嬉しさなのか、単純にいいことをしたきもちよさなのか、

歳納京子はピンチを救ってもらった当の私よりも、ずっとずっと笑顔だった。


綾乃(本当に……あなたって人は……)


……現実はいつだって、私の予想外のことばっかり起きる。けれどそれは悪いことばかりでもないようだ。

私の予想を軽々と超えてくるこの未知数少女は、持ち前のラッキーで今日も私を救ってくれた。

本人にとってはただ偶然が重なっただけのことと思っているかもしれないが、今の私にとってはまるで救世主様だった。

さっきまで悪いことしか思い浮かばなかった目先の暗いビジョンに、明るい光が差し込む。

廊下の窓から見える今日の青空は、いつもより何倍も眩しく透き通って見えた。


貸してもらった体操着を抱きしめ……胸の奥につっかかって素直に出てこられない言葉を、頑張って歳納京子にかけてみる。

とっとっとっと…………小走りで走る、足のリズムに合わせて。


綾乃「とっ、歳納京子!」

京子「ん?」


綾乃「その……あ、ありがと! 貸してくれて……!」

京子「まっ、次からは忘れないようにしなよ? 私もいつも二着持ってるとは限らないんだからさ」

綾乃「わ、わかってるわよっ///」


残念だけど、きっと私はこの先もう、体操着を忘れることなんてほとんどと言っていいほどないだろう。

体育のある日が来るたびに、あなたのその笑顔を思い出すはず。


胸に大きく書かれた『歳納』の字を千歳に見られてからかわれ、

南野先生にも「次は忘れないようにね」と言われ、

ちょっとサイズの小さいこの体操着は、動くたびに少々のきつさを感じさせ、

そのたびに少し恥ずかしくなったけれど……


この日の体育の授業は、今までで一番楽しかった気がした。



そして私は……まさかこの授業の後半で “とんでもないこと” が起こるなんて、想像する余地すら持っていなかった。


――
――――
――――――


気が付くと、目の前にはまた観覧車があった。


立ち尽くす小さな私と、眼前にそびえる白と赤の大輪花。


外側についた色とりどりの花びらが、音もなくゆっくりゆっくり外縁を流れていく。


やがて、ひとつの赤いゴンドラが私の前で静かにとまった。


私の番だ。きぃと開いたガラス張りの扉から中に入り、いつもの固いクッションに腰を下ろした。


今日もここは、キャラメルシュガーの香りがほのかに漂っている。



『いらっしゃ~い』


綾乃「えっ」


どこからか、いつもはしないはずの声がした。


ふと目の前をよく見ると……正面の座席に “おかしな何か” がいる。


『どないしたん? そんなまじまじと見られたら恥ずかしいわぁ』


綾乃「え……えええっ!?」


私の目の前の座席には……見慣れない動物がちょこんと座っていた。


しかも……驚くことに、はっきりと人語を喋っている。


ベージュと茶色を基調とした毛。鼻先の周りだけ白くて、目の下から頬にかけては特に色が濃い。まるで大きい “くま” のようになっている。


そしてこの遊園地の従業員のものなのだろうか、その動物に合うように小さく作られた制服のようなものを着ていて……頭には制帽、鼻先には小さいメガネまでつけている。


綾乃「……た、たぬき?」


『ん~、よく間違えられるけどちゃうねん。ウチこれでもアライグマやねん』


綾乃「あ、そうなの……」

シートに座っていたアライグマさんは、短い足と尻尾を使って器用にちょこんと立ち直すと、私に向かってお辞儀をした。


『はじめましてお嬢さん。一周の旅は短いですが、どうぞよしなに』


綾乃「はぁ、ど、どうも」


つられるがままに私もお辞儀をする。


アライグマさんは制服の襟をぴしっと整えると、手をちょこんとあげてガラス扉の向こうに向けて言い放った。


『それでは、しゅっぱつしんこーう!』


観覧車の合図って出発進行でいいの? という私のどうでもいい疑問をよそに、ゴンドラは動き出した。


この子はこの観覧車の案内役なのだろうか。何度か見ているはずのこの夢だけど、私以外の誰かが乗ってくるパターンはたぶん初めてだ。


アライグマさんは大きなしっぽをたたんで向かいの椅子に座りなおすと、楽しそうに話しかけてきた。


『さて、それじゃあお話でもしよ?』


綾乃「お、おはなし?」


『ウチにいろいろ聞かせてや。お嬢さんの世界のこと』


お嬢さんの世界とは、私の現実世界のことだろうか? となればこの子は、さながら夢の住人といったところか。


綾乃「お、おはなしって言ったって……私、面白い話なんか何も思いつかないけど」


『ううん、作り話やなくてお嬢さんのことを聞かせてほしいんよ。たとえばそう……お嬢さんの “好きな人” の話とか、なぁ』くすくす


綾乃「っ!」どきっ


『あははっ。観覧車といえばやっぱり恋バナに限るよなぁ~♪』


綾乃「そ、そうかしら……」


『ちなみにこの観覧車、お嬢さんのおはなしでウチが満足できない限り、永久に元の降り口までは戻られへん仕組みになっとるから、そこんとこよろしくなー?』


綾乃「え……ええええーっ!? 何よそれ!!」


いきなり告げられる衝撃の真実。今までは楽しく乗っているだけでよかったはずなのに、急にハードな条件が課せられてしまった。


『まあまあ、そんな重く捉えんでええって。楽しくおはなしできるだけで、ウチはすぐ満足できるから』


綾乃「……そ、そう?」

アライグマさんは外を見渡した。今は時計でいうの9時あたりだろうか。遠くにはいつもの海がきらめいている。



『お嬢さん……好きな人はおるん?』


綾乃「う……ええっと……」


『好きな人っていったって、お母さんとかやあらへんで。お嬢さんが “恋してる人” や』


綾乃(うぅぅ……///)


頭の中には……歳納京子の顔しかでてこなかった。


さっき体操着を持ってきてくれた時の笑顔。 廊下を一緒に走った時の、あの横顔。


『その子の名前、教えて欲しいなぁ』


綾乃「…………」


なぜだろう。ちょっとびっくりはしているけれど、私はちっとも嫌な気はしていなかった。


この子になら……アライグマさんになら、心置きなくどんなお話でもできてしまう気がする。そう思わせてくれる特別な安心感が、この子にはなぜかあった。


まるで……私の一番の親友とお話をするときみたいな、安心感が。



綾乃「……歳納、京子……っていう子なの」


『ふんふん、京子さん……お嬢さんは、京子さんのことが好きなんやね』


綾乃「…………」


私は、歳納京子のことが好き。


好きなんてもんじゃない。大好きだった。


にこにこ微笑んでいるアライグマさんに向かってもう一度、小さく心を込めて伝える。


綾乃「わ、私ね……歳納京子に、恋してると……思う……」


『うんうんっ』


アライグマさんは、顔をこくこくとゆっくり振ってうなずいた。


からかったりするような雰囲気は全くなく、その優しいまなざしは……私の心をじわじわと温かくしてくれた。


なんだかとてもうれしかった。歳納京子が好きだというきもちを打ち明けられたこと……それをこのアライグマさんに伝えられたことが、無性にうれしく思えた。


歳納京子を好きでいる自分……この想いに素直になること。


それは私にとって、何よりも心を満たしてくれることだった。

『……いつから?』


綾乃「……えっ?」


『いつから、京子さんのことが好きになりだしたん?』


歳納京子を好きになった時。


綾乃「それは……」


私はそれを……正確に思い出すことはできなかった。


綾乃「えっと、初めて会った時からずっと気になってたから……中学校に入学してすぐくらい、だから……」


『京子さんと知り合った、一番最初の日?』


綾乃「最初の日……」


中学校に入学して、歳納京子と同じクラスになって、歳納京子を一目見たそのときから、歳納京子に恋をしていたか?


そう言われれば、今と全く同じ感情を出会ってすぐに抱いていたわけではなかっただろうけれど……憧れに似たようなきもちはあった気がした。


入学して間もない頃、人見知りで友達作りが苦手な私にとって、誰とでもすぐに仲良くなってしまう歳納京子を羨ましく見ていた時期があったこと。それをなんとなく思い出してきた。


綾乃「最初はなんというか……すごく元気な子ねって思ったの。明るくて目立ってて、誰にでも物怖じせず気兼ねなく接してて、あっという間にクラスの中心になっちゃって……」


私とは、正反対の子だなって思った。


顔と名前を覚えるのが少し苦手な私でも、歳納京子のことはクラスメイトの中で一番最初に覚えられたくらい。


綾乃「すぐに私にも千歳っていうとてもいいお友達ができたけど……でも、歳納京子への憧れは止まなかった」


どんな子にも分け隔てなく接して、関わった子をみんな笑顔にする。


そんな歳納京子に手を差し伸べてもらえないか……心のどこかで待っていた自分がいた。


そして、気さくに誰にでも話しかけてくれる彼女のことだから、その時は意外とすぐに来てくれた。さすがは歳納京子。


ファーストコンタクトがどんなものだったかは……はっきり言ってよく覚えていない。ただ私は、とにかく必死だった。


差し伸べられたこの手に、全力で応えなければと。


綾乃「今思えば……言葉を交わした最初のときから、私はあの子の前ではいつも通りでいられなかったのよね」


人見知りで臆病な自分が、あの憧れの歳納京子と長く関わっていられるにはどうすればいいか?


……それは、ライバルとして歳納京子と同じステージに立つことだった。


綾乃「生徒会に入ろうと思ったのも……その頃だった気がする。私、とにかく自分を変えたかったの。歳納京子に一歩でも近づくために……」


そうして小さな自分を奮い立たせ、憧れの歳納京子と対等であれるように頑張っていたのだ。

気づけば私の乗っているゴンドラは、てっぺんの12時部分に到達していた。一番明るくて暖かいてっぺんだ。



綾乃「ちょっとした挨拶も何もかも、本当は差し伸べられるたびに嬉しくてね……次に繋げよう繋げようって、必死だったわ」


そうしていつしか私は……歳納京子に話しかけられれば、ほぼ反射的に張り合う姿勢を見せるようになってしまっていた。


臆病な私が彼女と同じ高さのステージに立つにはこうするしかないと思っていた無意識の行動が、身体に沁みついてしまっていた。


綾乃「それでたまに言い過ぎちゃったり、どうして素直になれないのか悩んだり、失敗して落ち込むこともあったけど……でも、歳納京子とは次第に、友達と言える関係になれたと思う」


『京子さんとの距離を縮めて、友達になれて……でも、そこはゴールじゃなかったんやね』


綾乃「……ええ、そうね。このきもちに終わりなんて来なかったわ」


『それはなぜやと思う?』


綾乃「えっ?」


『ふふ……自分でも言うたやん? それはこのきもちが “恋” だからや。きっとな』


綾乃「あ……///」


アライグマさんはシートからちょこんと降り、立ち上がって私の膝に小さく手を乗せると、満足そうにうなずいた。


『京子さんに一歩でも近づきたい……少しでも彼女に関わっていたい。そのために弱い自分を奮い立たせ、努力した……それは立派な “恋” のきもちやと思うわ』


綾乃「そ、そう……?」


『せやで。誰にでもできることやない……お嬢さんがいっちばん自信を持ってええ部分や』


綾乃「ふふ……ありがとう、アライグマさん」

アライグマさんはゴンドラの外をきょろきょろと見渡すと、制服の帽子をぴっと被りなおした。


『……うん! まあ最初やし、今回はこんなもんでええかな。ええもん聞かせてもろたわ~』


綾乃「うう~……///」


『お嬢さん上出来やったで。これからも期待させてもらうわぁ』


綾乃「こ、これから?」


『きっといつか……そう遠くない頃に、またここに来るはずや。そのときもウチがおると思うから、今回みたいにまたいろいろ聞かせてな~』


綾乃「ええっ……?」


てっぺんをすぎたゴンドラはゆっくりと降下する。一体この観覧車は、この小さな同乗者は何なのだろうか……悩んでいると、アライグマさんははっと思い出したように尋ねてきた。


『おおっと、大事なこと聞くん忘れてたわ』


綾乃「?」



『お嬢さん……“京子さんを好きになった時” って、結局のところどのタイミングだったん?』


綾乃「えっ……」


歳納京子を好きになったのは……いつだったか?


綾乃「そ、それは……」


そんなの、正確にはわからない。


でも、嫌いに感じたときなんてただの一秒もない。


初めて知った時からずっと……私のきもちは変わっていないのだから。

綾乃「歳納京子を……好きになったのは……」


きっと……最初の最初から。



綾乃「出会った一番最初のときから、私は……歳納京子のことが大好きだったんだと思うわ」


『……そや、それでええんや。ええ顔になったなぁ』



ゴンドラはゆらりゆらりと6時に近づき、ガラスの扉がぱたりと開いた。


『そいじゃお嬢さん、向こうの世界でもお元気で~』


綾乃「向こうの世界……?」


『決まってるやん。京子さんがおる方の世界や』


綾乃「!」はっ



『お嬢さん、何や向こうでは大変なことになっとるみたいやけど……ま、達者でな~』


私が地上に足を着くと……急激に今まで見ていた景色が遠くなった。


アライグマさんも観覧車も、何もかもが視界の向こうへ遠くなっていき……辺りは一面の白い光に包まれ……そして、どこからか声がした。


あやのちゃん……あやのちゃん……声はどんどん私に近い場所で聞こえてくる。



あやのちゃん……


綾乃ちゃん……



「綾乃ちゃん!!」


――
――――
――――――


綾乃「……ん……」ぱちっ


千歳「ああっ、綾乃ちゃん……!」

京子「綾乃!」

結衣「よ、よかったぁ……」


綾乃「はれ……ここは……? あれ、私……」


南野「杉浦さん大丈夫っ? 頭は痛くない?」

綾乃「頭……?」


目が覚めると……私は保健室のベッドに寝かされていた。

体操着姿のみんなが、血相を変えて周りを取り囲んでいる。

千歳に至っては……目を赤くして涙さえこぼしていた。


綾乃「ち、千歳! どうしたの……!?」

千歳「どうしたって……どうしたじゃあらへんよぉ!」ぎゅっ

綾乃「えっ……?」


結衣「もしかして覚えてないのかな……綾乃、さっきの体育で頭にボールを思いっきりぶつけてさ、そのまま気を失ってたんだ」

綾乃「え……えええええっ!?」


船見さんに言われ、ふっと記憶が巻き戻される。

そういえばさっきまで体育の授業をやっていて……バレーボールをやっていて、いつもより楽しんで取り組めていたのは覚えている。

でも……そこからの記憶がまったくなくなっていた。

京子「別コートで千歳の打ったボールが、ぽーんと綾乃の後頭部にぶつかっちゃってさー。バレーボールくらい大丈夫かなってみんな思ってたんだけど、綾乃はそのまま倒れちゃって……」

南野「きっと打ち所が悪かったんだ……大丈夫? 頭はずきずきしたりしない?」

綾乃「え、ええ……平気だと思いますけど」


千歳「ごめんなぁ綾乃ちゃん、ごめんなぁ……」しくしく

綾乃「ちょ、ちょっと千歳……そんなに言われるほどじゃないわ。本当に大丈夫だからっ」

結衣「でもまさか気絶しちゃうとは思わなくて。みんな心配だったんだ」


綾乃(な、なんか逆に恥ずかしいわね……それしきのことで気絶しちゃうなんて……///)


そうか。きっとそれで気絶してしまったから、今の今まで夢を見ていたんだろう。

思えば不思議な夢だった。確か今朝も観覧車の夢を見たっけ……

今の夢は、まるでその続きを描いたかのような内容だった。


綾乃「ほら千歳、泣き止んで。もうなんともないから」

千歳「う、うん……///」ぐすっ

南野「保健の先生も特に問題はなさそうって言ってたんだけど……もしも痛むようだったりしたら、すぐにお医者さんに行ってね。頭の怪我って後に残ったりすると怖いからさ」

綾乃「はい。どうもすみませんでした先生」


時計を見ると、体育が終わってからほとんど時間は経っていなかった。

観覧車一周ぶんとはいえ、ずっと夢を見ていただけに私だけが長い時を経たように、まるで世界の時間が止まっていたかのように感じる。

京子「ま、大事にならなくてよかったよかった。立てる?」

綾乃「え、ええ」


歳納京子が笑顔で私に手を差し伸べる。


綾乃(あっ……)


脳裏をよぎったのは……さっきまで自分が、夢の中で言っていた言葉。


『出会った一番最初のときから、私は……歳納京子のことが大好きだったんだと思うわ』


綾乃(う……///)かああっ


京子「ん? どしたの?」

綾乃「なっ、何でもないわよっ」

千歳「綾乃ちゃん顔赤いで……? 無理はせんといてな……」

綾乃「だから大丈夫だってば。千歳は心配しすぎよっ」

結衣「まあまあ、そのくらい見事な気絶っぷりだったからね……ぶつけちゃった本人が一番心配なんだよ」

綾乃「そ、そんなにだったの!?///」

京子「もうそれはそれは! 魂だけ別世界にぽっくり行っちゃったみたいだったよ?」

綾乃「えええ……」


言いようによっては、確かにそうだったかもしれない……でも。


私は向こうの世界でも……あなたのことしか考えていなかったわよ。




授業中。

正確に日本史の板書を書き写す手の動きとはうらはらに、私の頭は大昔の武将のことなんかではなく、ひとりの女の子と不思議な夢のことでいっぱいだった。


綾乃(なによ……アライグマさんて)


ノートのはしっこに、しゃかしゃかと似顔絵を書いてみる。

小さな制服と、動物のくせにメガネを纏った、メルヘンチックで不思議な生き物。

覚めてから疑問に思うけど……なんで関西弁だったの?


綾乃(何かに……誰かに似てるんだけど、なぜかしら。全然浮かんでこないわ)ふぅ


今朝も見たばかりの観覧車の夢を、少々改変したかのような夢。

それにしても今思い返せば、あの夢は夢と簡単に片付けてしまうには何かがひっかかるものだった。

今もまだはっきりと思い出せる……そびえ立つ観覧車。赤いゴンドラの質感。ガラス張りの扉。固めの赤いシート。三拍子の音楽。キャラメルシュガーの匂い。アライグマさん。

そして……そこで思ったこと、話したこと。

全部、全部消えずに心に残っている。


綾乃(夢ってすぐに忘れちゃうものだと思ってたけど……まだまだ、はっきり思い浮かべられる)


広がる空の景色を見ながら、不思議な小動物相手に色んなことを話してしまった。

あんなにしっかり私の好きな人のこと……歳納京子と私のことを話したのは初めてかもしれない。

思い返したらだんだん恥ずかしくなってきた。


綾乃(でもどこか……楽しさというか、心にあたたかさを感じた……)


誰にも知られない私だけの世界……私だけの特別な場所で、私の一番大切な人のことを考える時間……

それは何よりも……私の心を満たしてくれていた。


綾乃(叶うことなら……もう一度くらい、お話してみたいかもね)


私は振り返らずに、私よりも後ろの方の席に座っている彼女の顔を思い浮かべ……思わず顔がほころんでしまった。

大丈夫。あの子からは見えてない。

「それじゃあこの問題を……船見さん、お願いします」

結衣「はい」


先生が小問の回答を生徒に尋ねた。席を立ってすらすら答える船見さんを見て……私はあることを思い出した。


綾乃(そういえば、歳納京子が今日体操着をふたつ持っていたのって……)


『結衣の家に泊まるときのパジャマ代わりで持ってきたんだけど……綾乃が困ってるなら貸すよ?』


綾乃(船見さんの家に泊まるから、だったのよねぇ……)


無断外泊は校則違反とか、平日なのにお泊まりしちゃうんだとか、思うべきことはいっぱいあったけど……でも、そんなことより彼女のこれからが気になった。


件の借りた体操着は、もちろん綺麗に洗濯してから返すつもりだ。

けれど歳納京子は、今日船見さんの家で何を着るのだろう……

私のせいで今日の彼女のパジャマはなくなってしまった。当然、ずっと制服を着ているわけにもいくまい。


船見さんに服を借りるのだろうか。学校が終わったら家に一回パジャマを取りに帰るのだろうか。

それともまさか……お泊まりそのものが中止、なんてことにはならないだろうか。


綾乃(貸してもらえたことはすごく嬉しかったけど……でも、代わりの何かを崩しちゃってないかしら……)


こんなことが、なぜか無性に心配になった。

歳納京子に正直に話したら「なんで綾乃がそんなこと気にするんだよ~」と笑われそうなものだけど……でも私にとっては、ちょっと大事なことなのだ。


歳納京子に助けてもらったら、作られたその借りをなるべく早く返したいと思ってしまう自分が生まれる。

ライバルとして、あなたと対等な関係でいるために……


なぜだか今日の私は心が焦っていて、ひとたびそのことを考えだしたら授業が終わるのを待つことすらできなかった。

先生の目を盗み見て机の奥から小さなメモ用紙を取り出し、歳納京子へのメッセージを書く。


[体操着貸してくれてありがとう。
 あとでちゃんと洗って返すわね。
 でも今日の船見さん家で着る予定だったパジャマはどうするつもりなの?]


綺麗に小さく折りたたみ、歳納京子に回してくれるよう後ろの席の子に渡した。

すぐに正面を向いて、メモがちゃんと歳納京子に渡っているかちらちら気にしながら板書を追う。

ふと、船見さんと目が合った。私がメモを流しているのをずっと見ていたのか、軽く頬杖をつきながら笑っていた。

彼女に微笑みかけられた途端、授業が終わるのを待てなかった自分が今になって無性に恥ずかしくなった。


教師が板書をするために黒板へ向く。私が後ろを振り返ると歳納京子はメモを読み終えた様子で、私の顔を見てにししと笑ってから返事を書きはじめてくれた。


――変だとか思わないでね。こんな些細なことでも、私にとっては大事なことなんだから。

いつもいつもあなたに何かしてもらってばっかりだから、余計に気になってしまうのよ。

いつかは私だって……困ってるあなたを助けて、貸しをひとつ作らせてあげるんだからね?

まあ……きっとあなたは何の気苦労もなく、器用にほいっと借りを返してしまいそうだけれど。


しばらくして、後ろの子がとんとんと背中をつつき、メモを渡してくれた。

返ってきたのは私が送ったメモの裏じゃない、歳納京子の新しいメモ用紙だった。


[家にマンガの原稿用紙忘れちゃったから、それを取りに行くついでに!]


綾乃(ふぅん……)


紙にはオレンジ色のペンで書かれたメッセージと、どうやら今歳納京子が描いているらしいマンガのキャラクターの簡単なイラストが小さく踊っていた。

今回は原稿作業を手伝ってもらうためのお泊まりのようだ。肝心の原稿を忘れているというのは歳納京子の気遣いから来る嘘かもしれないと思ったが、それでもちょっとだけ心が軽くなる。

私はメモ用紙の裏に、すぐに返事を書いた。


[今回はお泊まりのことは誰にも内緒にしてあげるから、完成したら私にも見せてね]


今回は、なんて書いてしまったけれど……別に今まで告発したことは一度もない。

訂正しようかと思ったが、歳納京子に対抗して可愛い色のペンで描いてしまったから消せなかった。

そして渡そうとタイミングを伺っていたら、授業が終わるチャイムも鳴ってしまった。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろうと驚く。そして板書がまだ最後まで書き終えていないことに気づき、慌てて追いかける。

結局そこではお返事の紙は返せなくて……私はそのメモ用紙を大事に折りたたんで、筆箱にしまった。




放課後、生徒会もなかったので千歳と一緒に帰っていると、急ではあったが「ちょっと寄っていかへん?」と誘ってくれたので、そのまま千歳の家にお邪魔させてもらった。

たまにはこうして千歳の家に来るのもいいわねと言ったら、千歳は今日のお詫びがちゃんとしたいんだと言ってきた。そもそもボールがぶつかったことなんて覚えてもいない私は、そこではじめて「なるほどそういうことか」と合点がいく。


綾乃「歳納京子に、今日のことをどうやってお礼したらいいか、さっきちょっとだけ聞いたんだけどね……『そんなのいいのに』って言われちゃったの。まったく……私があのときどれだけピンチだったかわかってないんだわっ。消しゴム貸すのとはわけが違うんだから」

千歳「ん~、まぁ歳納さんは綾乃ちゃんに比べれば忘れ物の多い方やからなぁ。綾乃ちゃんが感じたピンチとはその大きさが違うのもしゃーないんとちゃう?」

綾乃「でも……」


急須にあけたお茶っ葉にゆっくりとお湯をそそぎながら、千歳は言った。


千歳「たとえば……そう、綾乃ちゃんは覚えてへんかもしれんけど……今日のうちは、実は綾乃ちゃんに申し訳ないきもちでいっぱいの一日やったんやで?」

綾乃「そ、そうだったの!? そんな気にすることないのに……大丈夫だったんだから」

千歳「歳納さんにとっても同じで、きっと体操着のひとつ貸すことくらいどうってことなかったんやって。綾乃ちゃんは “借り” と思ってるかもしれへんけど、歳納さんは “貸した” とも思ってないかもしれん」

綾乃「んん……でもそれはなんというか、こっちとしては困るんだけど……」

千歳「ならそういうとき、綾乃ちゃんはどうするべきやと思う?」こぽぽぽ

綾乃「えっ?」


千歳は静かにお茶を淹れると、高そうな和菓子と一緒に小さなお盆にのせて持ってきてくれた。


千歳「せいいっぱいその子にお返ししてあげればいいんや。自分が納得いくまでな」ことん


綾乃「あっ、これ……! お濃茶フォンダンショコラって……ちょっと有名なやつじゃない? 見たことあるわ!」

千歳「実はこの前、お母さんがちょこっと帰ってきてここに顔出してくれてなあ。その時にお土産で持ってきてくれたんよ~」

綾乃「おいしそ~……でもいいの? こんな高そうなもの……」

千歳「本当はこんなんじゃ足りないくらいやねんで? 保健室で気失ってるときは、最悪記憶喪失まで覚悟したんやから……」

綾乃「私もびっくりしたわよ……起きたら千歳が泣いてるんだもの。でもまあ、そういうことならいただかない方が悪いわね」

千歳「そういうことや。ありがとなぁ」


私の言葉に落ち着いてくれたのか、千歳は少し肩の荷が下りたように安らかな笑顔を見せてくれた。

確かに千歳の言うとおりかもしれない。お礼というものは相手に対する感謝の念を表すものであると同時に、自分を落ち着ける手段のひとつでもあるのだ。

となればお礼をする側の気遣いを組み取って素直に受け入れてあげるのも、相手に対するマナーというものだ。


千歳「えへへ、どう?」

綾乃「す、すっごくおいしい……お茶もこれによく合ってるわ……///」

千歳「ほんまに? 」

綾乃「ちょっと食べてみて? ほら」

千歳「えっ、そんな、綾乃ちゃんが食べてや。うちはもう別の日に食べたから……」

綾乃「そのときよりおいしいかもしれないじゃない!」

千歳「う~……///」ぱくっ


綾乃「どう? どう?」

千歳「あ……最初に食べた時より、確かにおいしいかも……」

綾乃「ほら、お茶と一緒に」

千歳「ええっ? ちょ、これじゃうちが綾乃ちゃんに用意したのに逆になってもうてるやんっ」

綾乃「だって美味しいんだもの!」

千歳「……ふふ、綾乃ちゃんったら……///」


ちっちゃなフォンダンショコラをちょこちょこ食べさせ合っていると、玄関でばたっと音がした。

何かと思ったら、いつの間にか帰ってきていた千鶴さんがよだれだばだばで倒れてしまっていたのだ。


私は千歳と一緒に千鶴さんをベッドまで運び、ちょっと遅くなったが家に帰った。

自分の部屋に入って、机の上に綺麗にたたまれてる体操着を見て……悪びれる様子もなく鎮座しているそれを、ぽふっと小突いた。


もう、あなたのせいで今日は大変だったわよ。

でも……ありがとうね。

――――――
――――
――



綾乃(ん……)


気が付いた私の目の前に、景色が現れる。


薄暗くて……ほんのり甘い、ふわふわとした空間。


どこかと思ったら、観覧車のゴンドラの中だった。


『あ、おはようさん~。もう夜やけど』


綾乃「あ……アライグマさん!」


目の前の座席には、暗くてちょっと見えにくいけれど、月明かりに照らされるアライグマさんがいた。


またこの観覧車の夢……だけど今回は夜だった。外には大きな満月と星空と、街の夜景が広がっていた。


『お嬢さん運がええなあ。ついさっき来てくれたばっかりやのに、もうかいな』


綾乃「えっと……来ようと思って来たわけじゃないんだけど……」


『あはは。でも来てもろたからには、今回も聞かせてもらうで? 京子さんのお話』


綾乃「……と、歳納京子のお話じゃないと……やっぱりだめなの?」


『ウチ、恋愛に関する話が大好きやねん~♪』くねくね


綾乃「そう……まあ、あのあと私も『もう一回くらいお話しできたらな』って思ってたから、いいんだけどね」


『あららその顔……さてはええことでもあったんやね?』


綾乃「うん……今日はなんだか、一日がずっと楽しかったの。聞いてくれる?」

私は今日一日のできごとをひとつひとつ順々に思い出しながら、アライグマさんに聞かせてあげた。


夢見心地で家を出たら、体操着を忘れちゃったこと。


困っていたら、歳納京子が助けてくれたこと。


体育の時間にボールがぶつかって気絶しちゃったこと。


そして、その時の夢で初めてアライグマさんに出会ったこと。


起きたら千歳が泣いちゃってて、初めて千歳が泣いてる所を見て、なぜかちょっとだけ嬉しかったこと。


授業中、久しぶりに回し手紙なんて手法を使って、歳納京子とお話したこと。


帰りに寄った千歳の家で食べた、抹茶のショコラ。



綾乃「日記なんて普段からつけてないんだけど……今日から始めちゃおうかなって思うくらい、いい一日だった気がするの」


『よかったなぁ。幸せなことやね』


綾乃「この観覧車と……それと、アライグマさんのおかげかもしれないわ。ありがとう」


『あははっ、もう照れるやんかぁ』


夜の観覧車は、昼間とは全く違ったムードを醸し出していた。かかっているオルゴールも昼間のものとは違うしっとりしたメロディになっていて、なんだかちょっとだけ大人な気分になれた。


『お嬢さんが楽しかったってことは、京子さんも楽しそうにしてたんやね』


綾乃「歳納京子はいつも楽しそうだけど……確かに今日は、いつもより眩しく見えたかも」


『好きな人が楽しそうにしてるとな、それだけでこっちまで楽しくなってしまうもんや。嬉しそうな顔を見ればこっちも嬉しくなるし……悲しそうな顔を見れば、時としてこっちの方が悲しく感じてしまうこともある。好きになった人とは、自然と同じきもちになってしまうものなんやで』


綾乃「ふふ……いいこと言ってくれるわね。アライグマさんは」


そう言ってあげると、ちょっと恥ずかしそうにしながら「おおきに」と手をあげて応えてくれた。

『さて……前に乗った時、お嬢さんには京子さんとの馴れ初めとかを聞かせてもらったけど……今回はまた違ったポイントから聞かせてもらうで?』


アライグマさんは帽子に手をあててぴしっと被り直し、私を見上げた。


綾乃「ううんそうねぇ……どんなこと話せばいいのかしら」


『そういうときは物の見かたを変えてみるんや。そうやなあ……』


毛だらけの手をあごにあて、目をつむって考えを巡らせるアライグマさんは、制服とメガネを付けているおかげもあってどこか探偵のようにも見えた。



『お嬢さん…… “恋” って、どういうことやと思う?』


綾乃「えっ……恋?」


恋。


恋とは何か?


そんなの簡単じゃない。恋っていうのはね……



綾乃(……あれ?)


恋っていうのは……


『あはは、なかなか出てけえへんなぁ。前に “京子さんに恋してる” って自分で言うてはったのに』


綾乃「だ、だから恋っていうのはその……ひ、人を好きになることよっ!」


『うんうん……そうやね。恋とは誰かを好きになること……決して間違ってない、シンプルでええ答えや。でもな?』


アライグマさんは「ちっちっち」という感じで私につきつけた小さな手を振った。



『恋っていうのは、実は色んな意味を持った言葉なんやで』


綾乃「そう……かしら。これ以外の意味なんてある?」

『例えばそうやなぁ……お嬢さんは、京子さんに一歩でも近づきたいと思って対等になれるよう努力したって、前に言うてはったよな?』


綾乃「まぁ……そうね」


『ということは、好きになった人に近づきたいと思う……これも “恋” ということになるんとちゃうかなぁ』


綾乃「好きになった人に……近づく……」


確かに私は、憧れの歳納京子に近づきたかった。


歳納京子と友達になりたかった。


こうして実際に友達になっても、私のあの子に対する憧れはまだまだ止まなくて、もっと近くにいられたら……もっといっぱいお話ができたらって、いつも思ってる。


綾乃「うん……確かに、これも恋のきもちで間違いないと思う」


『とすると、ここでひとつの疑問が生まれるわけや』


綾乃「疑問?」


『近づきたい、傍にいたいというきもちが生まれて……じゃあ、どれだけ近づけばそのきもちは満たされるのか、ということ』


綾乃「!」


『じっくり考えてみよ? 自分に当てはめてでええから……一体どれだけ近づけばいいのか。目的地は……ゴールはどこなのか、を』



……私は、歳納京子にもっと近づきたい。


ライバルだからって対抗しようと突っぱねないで、自分のきもちに素直になって、歳納京子のそばにいたい。


この願いは、いったいどれだけ近づけば叶うのか?

『何かが何かに近づきたいと、一生懸命追いかける……追いかける方がどんどんどんどん距離を縮めていくと、しまいにはどうなると思う?』


綾乃「えーっと……ぶつかっちゃうんじゃないかしら」


『そや、接触してまう……この場合に当てはめてみたら、接触って簡単に言えばなんのことかな』


綾乃「…………」


接触……触れ合うこと?


距離を縮めた果てにある “接触” が手を繋ぐということなら……私はもう達成している。歳納京子と手を繋いだことは何度かあるもの。自分からその手を取ったことはないけれど……


『手を繋いでも、もっともっと近づきたいってきもちは生まれるはずや。つまりそこは終着点ではないんやね』


綾乃「じゃあ、もっと近づくには……もっと触れ合うには……抱きしめ合うとか、そういうこと?」


『ええ答えやねえ。お嬢さんは京子さんと抱きしめ合ったことはあるん?』


綾乃「ええっ!? えっと……ちょっとくらいなら、向こうから抱き付いてきたりとかはあったけど……自分から手を回して抱きしめたことなんて、まだないわ……」


『じゃあお嬢さんにとっては、抱きしめ合うっていうのは当面の目指す目的地かもしれんなぁ。京子さんにハグしたい?』


綾乃「し…………したく、なくは、ない……///」


『あはは、素直に自分のきもちに向き合ってええんやで。ここには話を聞かれて恥ずかしくなるような相手はおらんのやから』

綾乃「だって……そんなの、決まってるじゃない! したいわよ……ぎゅーって、してみたい……///」


『うん……じゃあ、ちょっとイメージしてみて? たとえばそう、ロマンチックな場所……観覧車の中が手っ取り早いな。お嬢さんが今みたいにゴンドラの中で……京子さんと並んでふたりっきりでいるんや』


綾乃「えっ……」


……ここが夢の中だからだろうか、私の頭の中にはすぐに歳納京子の姿が……まるで今まさに隣に座っているかのような姿が思い起こされた。


『お嬢さんが京子さんの手をとって……その目を見つめる。京子さんもお嬢さんの顔を見て、ふたりの視線が重なる……』


綾乃「……///」ごくっ


『そのまま京子さんが、お嬢さんの手を取ったまま身体を寄せてきて……ふたりはどんどん密着して、やがて腕をお互いの背中に滑らせるように回し……きゅっと力を込めて、熱い抱擁を交わす……』


綾乃「は、はわわ……///」かああっ


目の前に浮かび上がった空想の歳納京子が、満面の笑顔で本当に私を抱きしめてくれた気がした。



急激に胸が熱くなる。細くて軽い羽のような歳納京子の身体の重みを、確かに胸に感じた気がした。背中に回る手の感触も……全部想像のはずなのに、私を優しく包み込んだ。


泣き出してしまいそうなほどに、心が満たされていく。想像の中の私も歳納京子の身体を抱きしめた。歳納京子も一段と深く抱きしめ返してくれる。


あの歳納京子が、私の胸に胸を合わせて……こんなにも近く、まるで息がかかりそうなほどに……



〈綾乃……〉


綾乃「!」


声が聞こえた。


歳納京子の、優しい声。


まっすぐで、やわらかい眼差し。


綾乃(と……歳納京子……っ)

『はい!』ぱんっ


綾乃「きゃっ!!」びくっ


『も~、お嬢さん完全に自分の世界入ってもうてたで』くすくす


綾乃「あ……あれっ!? やだ! 今のは!?」きょろきょろ


『お嬢さんが自分で思い浮かべたイメージにすぎんよ。夢の中やからだいぶ再現性が高かったみたいやけど』


綾乃「お、お願いっ! 続きを見させて!///」


『ははは、まあそれはまた今度の機会にということで……ところで、どうやった?』


綾乃「えっ……」


『京子さんと抱きしめ合えて……そこから、さらに何かしたくなったんちゃう?』


綾乃「したいと……思ったこと……?」



まだ少しだけ思い浮かべられる、先ほどの目の前まで迫った歳納京子の可愛い顔。


とろけそうな視線。


甘い香り。


薄いくちびる。


綾乃「…………///」ごくっ


『ちゅーしたいとは思わんかった?』


綾乃「お、思ってないわ!!」


『あっはっは、嘘バレバレやん~! ウチに隠し事はせんでええって……誰にも言わんから、な?』


綾乃「うぅ~……できたら、嬉しいなって思ったけど……///」


『……どうやら、今のお嬢さんにとってのゴールは “キス” かもしれんなぁ。いつかできるとええけど』


綾乃「……いつか、できたら……嬉しいかもね」


そんなの、嬉しいに決まってる。たぶん、おそらく、きっと……いや絶対に、この世で一番うれしいことだろう。

『恋のゴールは、人によって違うんや。お嬢さんはキスかもしれんけど……キスの先にあるものをゴールとしてる人もおる。きっと大人はそうかもしれん。そしてお嬢さんよりももっと小さい子……キスなんてそもそも知らない子やったら、本能的にしたいと思ったハグをゴールだと思ってる子もいるかもしれん』


綾乃「ふぅん……」


『でもな、ひとつ大事なのは……ここで言ってる “ゴール” っていうのは、“終着点” という意味では決してないんや』


綾乃「?」


『もし仮に、お嬢さんが京子さんとキスができて……京子さんとしたいと思ったことが、ぜーんぶできて……それからもずっとずっと京子さんと一緒に、まるで結婚した夫婦のように一緒にいられたら……そのときお嬢さんは、どう思うかな』


綾乃「ん……えっと……ん~……すごすぎて想像もつかないけど……」


でも……きっと、


綾乃「そういうひとつひとつの夢が叶うたびに……私、歳納京子のことを今よりもっともっと好きになっちゃう……気がする……」


『……そうしてもっともっと好きになるたびに、もっともっと京子さんに近づきたいと思ってしまう……』


綾乃「そうして近づいて……またひとつ大好きになって……これじゃあ永久に終わらないわ」


そう言うと、アライグマさんは満足そうにうなずいた。


『そう。恋に終わりは……終着点はないんや。その時その時に自分が定めるゴールはあっても、それが叶えばまた次の欲求が生まれる……そしてそれが叶えば、また次』


恋とは……終わりのないもの。

『……まあ、この世には誰かを好きになってその恋路を一生懸命歩んでいたのに、いつしかきもちが冷めてしまったり、結婚したのに離婚してしまったりする人もおるよなぁ』


綾乃「確かに……そんな人は珍しくないわ」


『お嬢さんに覚えておいてほしいのはな、そういう人たちは決して恋のゴール……恋の目的地、恋の終着点に到達したわけじゃあないってことや。終わりのない恋の道を歩むことを止め、その恋路から外れてしまっただけなんやで』


綾乃「…………」


『道を歩き続けることに飽きてしまったり、歩くことに疲れてしまったり、なんでこの道を歩いているのかわからなくなってしまったり……はたまた他に見えた別の道が魅力的に思えて、そっちに乗り換えてしまったりするということ』


『それはとても悲しいことや……最初はその人のことが大好きで、そのきもちだけでどこまでも歩いて行けると思っていたはずやのに……』


綾乃「こ、こわい……そんな風にはなりたくないわ! ずっとずっと……好きな人を、好きでい続けたい……!」


『そう、好きな人を好きでい続ける……それが何よりも大事なことなんや。それを失ってしまえば道を外れてしまうかもしれんけど……それを失わずに強く想い続ける限り、道を外れることは決してない』


『自分のきもちを大切にな。好きな人を好きだと思うとき……京子さんを好きだと思うとき、京子さんを恋しく思うとき。それがお嬢さんにとって何よりも幸せで……そして、何よりも自分自身に素直に向き合えるときなんや』


『恋愛感情ってのは、何よりもかけがえのない大切なきもちや。心を持った者にしかできない……好きなもののことを考え、思いやり、心を通わせることのできる、 “人” にしか芽生えないきもちなんやで』


綾乃「……!」



心が、揺り動かされた気がした。

気づけば景色は低いところにあった。月明かりに浮かぶ雲が遠く、街の明かりが近く見える。観覧車の終わりが近づいていた。


『恋とは、人を好きになること。恋とは、好きな人に近づきたいと思うこと。けれど、どれだけ近づいても終わりはこない……恋とは、その人を好きでい続ける限り、決して終わりのこない、素晴らしいもの……』


綾乃「ふふ、アライグマさんたら、詩人みたいね」


『何ゆうてるん、お嬢さんが自分で考え出した答えをまとめただけやで?』


綾乃「えっ……///」


『京子さんとの恋路を一生懸命歩んでるお嬢さんやけど、これだけの大切なことを、一生懸命ちゃんとこなしてる……せやからウチも応援したくなるんや』


綾乃「そんな……改めて考えてみたら、すごく難しいことだってわかったわ。私はただ何も考えずに、無我夢中で歩んでいただけよ……」


『難しく考えることはあらへん。人間だれしも恋をする……子供でも大人でも。頭で考えていまいちわからなくても、心と身体が全部自然にわかってることなんやって』


綾乃「……そっか。そうかもね」くすっ


ゴンドラは5時部分から6時部分へと差し掛かっていた。ずいぶん長く乗っていた気がするけれど……やっぱり今回も一周だけだった。



『そうそう、最後にひとつ、これも言っとかな』


綾乃「なあに?」


『あのな、好きな人に近づきたいというきもちを強く満たしてくれる……もうひとつのいい方法があるんや』


綾乃「えっ……?」


『それは…… “相手の方からも自分を好きになってもらう” ということ』


綾乃「……!!」はっ


『ただ一生懸命追いかけるだけやなくて……どうすれば向こうからも自分に近づいてきてくれるか、どうすれば自分を好きになってもらえるか……それを考えるのも、立派な “恋” の形なんやでっ』


その言葉を最後に……まだ降りてもいないのに、開いたガラスの扉の向こうに吸い込まれてしまうかのように、景色が遠くなっていった。


何もかもが視界の奥に吸い込まれて……夜だった夢の世界は白く、朝の光の色に変わっていき……


いつも通りの朝の世界に、引き戻された。


音もなく一瞬で……夢は、覚めた。


――
――――
――――――


ちゅんちゅん……


綾乃「…………」もぞ


気づけば、いつものベッドの中。

うつろな目で時計を見る。また今日もセットした目覚ましの時間より早く起きてしまった。けれど寝不足感はなくて、むしろいつもよりすっきりしている。


綾乃(歳納……京子……)


目を閉じて小さく呼吸をする。目蓋の裏には夢の中の景色が……観覧車のゴンドラの中、私を抱きしめてくれた歳納京子のあの顔が、まだ少し残っていた。


綾乃(だめ……消えないで……)


自分の体温であたたまった毛布をぎゅっと抱きしめる。


――行かないで。離れないで。ずっとそばで……私の目の前にいて。

私を見て。名前を呼んで。私を強く抱きしめて。


綾乃(なんで……)きゅっ


なんでこんなに……あなたのことが、大好きなのかしら。


毛布の塊を抱き寄せて、もぞもぞと顔をうずめた。


あなたのことを思い浮かべるたび、

あなたのことが大好きになって。


あなたのことを好きだと思うたび、

あなたを遠くに感じて切なくなってしまう。

今頃あなたは……ぐっすり眠っているのかしら。

そういえば、船見さんのおうちに泊まってるんだっけ。

夜更かしをしてるだろうから、今日は眠そうな顔で登校してきそうね。


頭の中に、歳納京子の寝顔を思い浮かべた。



綾乃(いつか……)


いつか……私も……


あなたとふたりで……夜を明かしてみたい。


電気を消した部屋で、ふたりで並んで横になって……いっぱい色んなことを喋って。

私のまだ知らないことも、ずっと気になってたことも、一緒に作ったたくさんの思い出も、全部全部喋って……

そうして力尽きるように眠って……朝は私の方が早く起きるの。

隣にあるあなたの寝顔を……ずっとずっと眺めていたい。

そして、起きてほしいようなきもちと、まだ起きないでいてほしいきもちを自分の中で静かに戦わせながら……さらさらと軽いあなたの髪を、指で梳いて。

どこまですれば起きるのかを試すように、髪を梳いて、手を握って、頭を撫でて……

髪に顔をうずめて、耳元で「京子」って名前を呼んで。

あなたの可愛い目が開いたら、優しく「おはよう」って言ってあげたい。

まだ寝足りなそうにしてるあなたに……抱き枕代わりに、強く抱きしめてもらいたい。

そうしてふたりで一緒に……そのまま二度寝をするの。

今日はお休みだから、って。


綾乃(いつか……いつか、ね)


今はまだちょっと、できないかもね。

もしもあなたとふたりっきりになれたら……私、あなたの隣で、大人しく可愛く眠っていられる自信がないもの。


綾乃(……歳納、京子……///)すぅ


……ちょっと今日の私、やばいかも。

あなたのことが、好きすぎちゃって。




京子「ふぁぁ……」

千歳「ふたりとも、どれくらいまで起きてたん?」

結衣「時計が三時を回ったのは覚えてるよ……コーヒーの効き目も切れちゃいそう」

綾乃「まったくもう、学校生活に支障が出るのは問題よ?」

京子「いやー、昨日は筆がノっちゃってね……えへへ」


今朝、私は体育着を二セット持って行った。

ひとつは昨日持って行くはずだったのに忘れちゃった、私の体育着。次回は絶対忘れないようにと、あらかじめ学校に置いておくために。

もうひとつは、昨日の帰宅後すぐに洗濯・乾燥してばっちりアイロンもかけた、歳納京子の体操着。

登校してすぐに手渡したら「今日別に体育ないのに~」と笑われた。すぐには用意できないけど後でちゃんとお礼もしたいから……と話していると、寝不足なのか大きなあくびに言葉尻を遮られてしまった。ちょっとだけ怒った。


京子「いや~、予定してた締め切りはもう少し先なんだけど、早く完成すればそれに越したことはないでしょ? だから調子いいときになるべく進めちゃいたくてさ」

結衣「ギリギリになって手伝わされるよりは、こっちも気が楽だしね」

綾乃「色々と大変なのねぇ」

京子「でも好きでやってることだから♪」


歳納京子は、ただの友達付き合いの上手なお調子者の女の子ってわけじゃない。ちゃんと自分の好きな夢も追い求めるまっすぐな子だ。

私は歳納京子の趣味について共有して楽しめるほど詳しくは知らないけれど、今の歳納京子を形作ってくれたとか、そういうエピソードはよく聞かされていた。

具体的な将来の夢がまだまだ見つからない私は、彼女のそういう部分も羨ましかった。溢れるセンスも、努力を続けられる才能も含めて、全部。

けれど趣味方面に関してまで歳納京子を追いかける気はなかった。趣味は勉強とはわけが違う……好きなものを好きなように楽しむものだ。


好きなものを、夢を一生懸命追いかけている歳納京子を見ているのが好きだった。最初から私とは別のステージにあるものだとわかっているから、意地を張らずに心からの素直なきもちで応援していられる。

自分の好きな子が好きなものに打ち込む姿は、見ているこっちまで思わず嬉しくなってしまう。

だから私は……歳納京子が歩く夢への道の邪魔になってしまうようなことだけは、絶対にしたくなかった。


絶対に、したくなかった……




――事件が起こったのは、給食の時間の直前だった。



何が起きたのかわからなかった。



いや、本当はわかっていた。


何が起こってしまったのかがわかっていて、


そんなことは絶対に信じたくないという私の全神経が、理解を拒否していたのだ。



「きゃあああっ!!」

「えええー!?」

「うっわ……」

「ちょ、ちょっと雑巾! 早く持ってきて!」


綾乃「…………」



嘘だ。


嘘だといってほしい。


目の前に繰り広げられている光景が。


耳に無情に入ってきた、液体がぶちまけられる音と、クラスメイトの悲鳴が。


そして……その全てを引き起こしているのが、自分だという事実が。

京子「ぁ……っ……」

綾乃「…………」


結衣「ちょ……だ、大丈夫!? ふたりともやけどしてない!?」

京子「う、うん……」

結衣「綾乃は!?」

綾乃「……ぇ……」



配膳中に……給食のスープを、ぶちまけた。


歳納京子の机へ。


しかも……広げてある原稿用紙の上に、ばしゃりと。



原因は誰にもわからないだろう。

私だけが自覚している。

単純によそ見をしていたのだ。


ちょっとした休み時間でも進めたいからと、漫画の原稿を描き進める歳納京子の元へ、給食を運んでいたとき。

どんなものを描いているのかが気になって、彼女がペンを走らせている机の上にしか目がいっていなかった。


どういう経緯でお椀のバランスが崩れていたのかはわからない。

だが手元の重さが軽くなったと思った頃には全てが遅かった。

熱いスープがたっぷりと入ったお椀が、目の前の食膳の上にはもうなくて……歳納京子の机に落下していた。


液体が飛散する音、空になったプラスチックのお椀がくわんくわんと床に円を描く音、そして周りの子たちの悲鳴……

撒きちらされたスープ、呆然とした顔の歳納京子、汚れちゃった歳納京子の制服、


台無しになった、漫画の原稿。

地獄。


私のせいで生まれた、地獄。


私が生み出した凄惨な状況。



私が一番掃除しなきゃいけないのに。


私が一番歳納京子のやけどを気にしなきゃいけないのに。


何もできない。


動けない。


どうやっても取り返しのつかない現実が、目の前でわちゃわちゃ広がっていると、だんだんわかってきて……



そして……泣いた。



最悪。


最悪。


最悪。


目の前が真っ暗だった。


何もかもを拒絶したくなった。


やけどを心配して、私と歳納京子を流しまでひっぱっていく船見さんの優しさも。


私が作った地獄を一生懸命掃除してくれてる千歳の優しさも。



そんなことしないで。


やめて。


私、どうすればいいの。

目に焼き付いて消えてくれない惨状。


台無しになった原稿用紙。


歳納京子と船見さんが、昨日夜遅くまで頑張って作った原稿用紙。


それを台無しにしたのは私。


私が壊した。


歳納京子の夢を。



嫌われる


嫌われる


歳納京子に


キラワレル



綾乃「うぅああぁぁあっあぁぁっ……///」ぽろぽろ


結衣「綾乃……大丈夫だから……!」


京子「綾乃……」


綾乃「やだ……やだぁぁ……っっ……!!」



昨日みたいに……ぽーんとボールがぶつかって気絶しちゃえばいいのに。


そうすれば何も感じなくて済むのに。


こんなにみじめでやりきれないきもちにならなくて済むのに。


私の耳元まで届く、クラスメイトのざわめきも。


私を落ち着かせようとしてくれる船見さんの声も。


散々な目に合わされてるのに、それでも私をなだめてくれる歳納京子の声も。


掃除を済ませ、慌てて私の元まで来てくれた千歳の、背中をさする感触も。名前を呼ぶ声も。


何にも……感じなくてすむのに。




結局、給食の時間はばたばたと過ぎ去った。


歳納京子も私も特にやけどなどしておらず、制服を着替えるだけでよかった。用意のいいことに、事件を起こした犯人である私は体育もないのに今日ちょうど体操着をふたつ持ってきていた。こんな偶然が重なったら、何人かには「わざとやったんじゃないの?」とでも思われていそうだ。


もちろん給食なんか喉を通るわけもなく、一口も手をつけずに全部残した。千歳と船見さんは少しでも食べなと言ってきたけど、もうどんな言葉にも反応できなかった。みんなの顔も見られなかった。声にならない声で泣いて、ずっと俯いていた。


そして午後の授業が始まる直前……顔を直すためにトイレに行くフリをして……


私は……教室から逃げた。



綾乃「う……ぅっ……」


こっそり入った生徒会室のすみっこで、身を屈めて泣いた。


ここなら、誰にも見られない。


静かで落ち着けるいつものこの部屋で呼吸を整えていると、授業開始のチャイムが鳴ってしまい……自分の行いのみじめさに、またじわじわと涙がでてきてしまった。


間違いなく、ここまでの私の学校生活で、一番最悪の事件。


これからどうすればいいの?


あまりにも信じたくなさすぎて、


私を助けようとしてくれる友達の声も、一層自分がみじめに思えてしまうだけで、


みんなの前でめそめそ泣いて、その上こうして逃げ出して、授業までさぼって。


昨日の体操着を忘れた時のものなんか比較にならないほどの、深い後悔と絶望に溺れた。



本当に……きえてしまいたい。


この世からいなくなってしまいたい。


苦しい胸をぎゅっと抑えている、そのときだった。

京子「…………」がらっ

綾乃「っ……」びくっ


京子「……綾乃……」

綾乃「……ぁ……」


授業を抜けてきたのだろうか……私と同じ体操着姿の歳納京子が、静かに入ってきた。

そして部屋の隅っこで屈んでいる私と同じ目線までしゃがみこんで、そっと手をとった。


京子「よかった……やっぱりここにいたんだ」

綾乃「……うぅ……っ」

京子「綾乃……大丈夫だよ。大丈夫……」

綾乃「やだ……やだぁ……!」

京子「事故なんだから仕方ないよ。運が悪かっただけ……綾乃は悪くない。誰も怒ってないから」


綾乃「………ぃ…」

京子「ん……?」


綾乃「……じ、こじゃ……なぃ……もの……」

京子「…………」


綾乃「ゎたし、が……よそ見、してたから……っ」ぐすっ

京子「……そっか」


綾乃「としのっ、きょぅこ……の、げんこう……台無しで……ゎたし、もぅ……ッ!!」はぁはぁ

京子「綾乃……っ! 大丈夫だから……」さすさす


歳納京子は、息を荒げて泣く私を抱きしめて……背中をさすってくれた。


今朝夢の中で話したばかりなのに。歳納京子と抱き合えたらって。朝だって毛布を抱きしめてまで、強く強く想ってたのに。


こんな形で抱き合いたくなんてなかったわよ。


神様のいじわる。

京子「原稿ね、全部が台無しになっちゃったわけじゃないよ。あそこに置いてあったのは一部だから。何枚か作り直せばいいだけなんだって」ぽんぽん

綾乃「でも……でもぉ……」

京子「どんな内容だったかももちろん頭に残ってるし、汚れちゃったけどあれを乾かして参考にすれば同じやつ作れるし。だから大丈夫」

綾乃「うっ、ぅ……」

京子「大丈夫だよ。綾乃……」



静かな静かな生徒会室。


咽び泣く私。


抱きしめて頭を撫でてくれる歳納京子。


撫でられるたび、声をかけられるたび……


大好きなあなたの、あたたかい優しさが流れ込んできて。


我慢したいのに、私は余計に泣いてしまう。



京子「……そうだ!」ぽん

綾乃「っ……?」ぐすっ


歳納京子は私から腕を解くと、垂れ下がってすっかり目を覆っている私の前髪をかきわけながら言った。


京子「今日さ、綾乃んち行っていい? っていうか行きたい! 泊まりたい!」

綾乃「……え……」

京子「綾乃んちでやろうと思うの! さっきのページの書き直し。一緒にやろうよ!」

綾乃「っ!」はっ


暗かった視界が……明るく開かれる。


歳納京子の、あのいつもの可愛い笑顔が、そこにあった。

京子「ねっ、いいでしょ?」

綾乃「で、でも……」

京子「明日は土曜日だから学校ないしさ。描き直さなきゃいけない部分も含めて、完成まであと一息なんだよ! だから綾乃と仕上げたいの!」

綾乃「……!」


京子「お願いっ。綾乃と一緒にやりたいんだよ……!」ぎゅっ

綾乃「っ!///」はっ



だめ。


そんなの、ずるい。


ばか。


反則よ。



綾乃「う……うぅぅ……っ……///」ぽろぽろ

京子「……綾乃のことだから、自分で壊しちゃったものは、ちゃんと自分で直したいでしょ? 私が勝手に作り直しちゃうより、綾乃が自分の手で元通り以上の出来映えのものを作ってくれた方がいいと思うんだ」

綾乃「としのぅきょうこ……私っ……」ぎゅっ

京子「やってくれるよね? アシスタント。難しくないから。あかりとかもすぐに上達したし」

綾乃「や、やる……! やらせて!」

京子「よーし決まり! じゃあほら、約束!」すっ

綾乃「ゃ、やくそく……」


歳納京子の差し出した小指に、自分の指を絡めた。


京子「ゆーびきーりげーんまーん……」

……歳納京子は、やっぱり私の大好きな歳納京子だった。


いつもいつも私のことを助けてくれて、どんなに私が落ち込んでも、すぐに駆け寄ってきて手を差し伸べてくれる。


とびっきりの笑顔で、優しい声で、温かい手で、私を包んでくれる。



京子「……ゆーびきった! よしっ、じゃあ泣き止んで。教室もどろ?」

綾乃「ぅ……うん……」

京子「綾乃のきもち、みんなもわかってるから平気だよ。もし仮に私が綾乃の立場だったらって思うと、すっごく怖いもん……誰も責めないよ」

綾乃「うん……っ」

京子「えへへっ、あーよかった綾乃が泣き止んでくれて。もう中学生なんだから、こんなことくらいで泣いちゃだめなんだぞ~?」わしゃわしゃ

綾乃「っ……///」


歳納京子に抱きしめられながら、頭をくしゃくしゃされる。



大好き。


大好きよ……歳納京子。


もうどうしようもなく……あなたが、好き。



京子「よし、いこっか」

綾乃「ま……まって……」きゅっ

京子「ん?」


綾乃「まだ……もうちょっとだけ、ここにいたいの……」


いかないで。


そばにいて。


そう思った私の手が、歳納京子の腕を掴んでいた。


京子「…………」

綾乃「…………」

京子「……ま、いっか。今から5時間目戻っても仕方ないもんね……ちゃんと泣き止めるまで、ここで隠れてよっか」

綾乃「ありがと……」

京子「ふふっ、いいっていいって」


綾乃「……わたし、実はね、はじめてなの。授業さぼっちゃってるの」ぐすっ

京子「そりゃそうだ。生徒会副会長だもんね」

綾乃「たまにはこういうのも……悪くない、かも」

京子「あーあ、綾乃が不良になっちゃった♪」つん

綾乃「ふふ……///」



これまで過ごしてきた学校生活で、一番最悪な事件が起こった日……


誰も来ない静かな生徒会室で……私は、大好きな人とふたりきり……思い出に残る時間を過ごした。


今日という日は、今までで一番……歳納京子を好きだと思った。


好きで、好きで、たまらなかった。


大好きな人に抱きしめられる幸せ……そして大好きだという想いを込めながら抱きしめる幸せを……初めて知った。




京子「いい? これはもうペン入れまで終わってる原稿用紙なんだ。もうインクも乾いてるから、まずはこれに消しゴムをかけて鉛筆の線を消してもらいたいの。フキダシの中の字は消しちゃわないでね」

綾乃「っ……」ごくっ

京子「あっははは、そんな固くならなくていいってば。丁寧にやれば誰でもできるから」

綾乃「わ、わかったわ」

京子「とりあえず消しゴムかけが終わったら教えて? 次はベタ塗りだからね」


学校が終わって……本当は生徒会があったんだけど、気を利かせてくれた千歳が「今日はウチに任せて」と役割を代わってくれた。

私にとって一世一代の大事な日だろうから、今日くらいはまっすぐ家に帰ってほしいと。

歳納京子もごらく部があったみたいだけど……お泊まり用の荷物やパジャマ、原稿を描く道具など追加で持って行きたいからと、掃除が終わってすぐに走って帰った。


歳納京子が来る。

歳納京子が、私の家に来る。

歳納京子が、私の家に泊まる。

そう考えたら私の足も自然と走り出していて、ちらかってるわけじゃない部屋をより一層綺麗にしなきゃと、一生懸命掃除した。

お母さんにも、歳納京子が泊まりにくるからよろしくねと頼んだ。

お母さんは昨日の体操着の件のこともあったから、そのお礼をしなきゃねということで、ちょっと張り切ってくれたようだった。

それと……「スープをこぼして汚れちゃったの」と、私と歳納京子の制服を渡したら……大慌てでクリーニングに持って行ってくれた。

おかあさん……いつもありがとう。


そしてお母さんと入れ違うように、歳納京子がやってきた。

綾乃「…………」もくもく

京子「…………」かりかり


丸テーブルを部屋に持ってきて、ふたりで向かい合わせになって作業する。

歳納京子が言うには、今日一日頑張れば全部完成させられるかもしれないとのことだった。


スープでよごれちゃった原稿を見ながら、同じものを描いていく歳納京子。

あのときこぼしちゃったことを思い出して小さくため息をつくと、「これよりもっと良いものを、一緒に作ればいいんだよ」と言ってくれた。

漫画制作のお手伝いなんて初めてで、また失敗をやらかさないと心配だったけど……歳納京子が傍にいてくれるだけで、頑張れる力が湧いてきた。


京子「ん?」

綾乃「……なに?」

京子「これ……」かさっ


歳納京子はふと私の筆箱に手を伸ばすと、そこから一枚のメモ用紙を取り出した。

昨日私が授業中に送って、歳納京子から返してもらった回し手紙だ。

裏面には、書いたけど結局送れなかった歳納京子への返事が書いてある。


京子「ふふっ……♪」

綾乃「なあっ、わ、笑わないでよ!///」

京子「いやいや~……授業中に手紙回しちゃうし、授業もさぼっちゃうし、果ては無断外泊の生徒を泊めちゃうんだから、綾乃もここ最近で変わったなーって」

綾乃「仕方ないじゃない……それに、全部あなたが関わってることよっ」

京子「そうなんだけどさー」


確かに、昨日今日と……私は今までにない波乱に次々と巻き込まれている気がする。

体操着を忘れちゃったときは心苦しかったし、ボールがぶつかったくらいで気絶しちゃうし、スープも盛大にぶちまけちゃったけど。

でも……それを全部ひっくり返すくらいの幸せなことも、次々に起こってくれている。

京子「結衣が心配してたよ。私が綾乃だったら不登校になっちゃうとこだったって」

綾乃「……船見さんにも後でお礼しなきゃ。いっぱい助けてもらっちゃったから……」

京子「結衣はね、綾乃が今まで通り元気に学校に来てくれればそれだけで嬉しいってさ。だから月曜日また学校にいって、結衣の背中にバーン! と一発挨拶のビンタでもかましてやれば、それがお礼の代わりになると思うよ」

綾乃「そんな挨拶したことないわよ……ところで歳納京子、ここの塗り方なんだけど」

京子「あー、そういうところはこうやって……」


今まで、何度夢見たことだろうか。

私の部屋で、歳納京子とふたりきり。

本当はふたりで勉強でもするビジョンを思い浮かべてたけど。

こうして漫画のお手伝いをさせてもらう方が、間違いなく楽しい。


綾乃「…………」さっさっ

京子「……おー、うまいじゃん綾乃」

綾乃「そ、そう?」

京子「手先が器用なんだね。いいセンいってると思う!」

綾乃「あなたには負けるけど……こういう作業は、結構すきかもね」くすっ


私、笑えてる。

歳納京子がこんなに近くにいるのに、

いつもより素直でいられてる。

どう転んでもこの人は私を助けてくれるんだって、そう思ったら……

自然と心を預けられるように、なってきてる。

綾乃「……ねえ、歳納京子」

京子「ん?」

綾乃「あのね……ずっと考えてたことがあるの」

京子「おいしいプリンの作り方?」

綾乃「違うわよっ、その……あなたへのお礼のこと」

京子「あー、昨日も言ってたね」


体操着を貸してもらった時から、どうしようかずっと悩んでいた。

悩んでいる間にまた私はヘマをやらかして、そしてまた助けてもらって……ここまでされたら、単純なプレゼントひとつとかいうお礼では済まされない。何より、私が納得しない。


綾乃「どうすればいいか千歳にも相談してね……『自分が納得するまで、せいいっぱいお返ししてあげればいい』って言われて。でもこんなに色々してもらったら、どんなお礼をすればいいのかもよくわからなくなっちゃって……」

京子「…………」


綾乃「……もう、この際聞いちゃうわ。歳納京子、何かほしいものとか……してもらいたいこととかない?」

京子「うーん……そうだなー」


きっと今、この子は私のきもちになって考えてくれている。

自分を満たすためのことなんてひとつも考えてなくて、どうすれば私が納得するかを、私の立場になって考えてくれてる。

歳納京子は、そういう子。


京子「……遊びに行きたい、かな?」

綾乃「えっ?」

京子「うん。一緒にどこか遊びに行こうよ! デートしよっ♪」


え。

綾乃「で……でっ、ででで……デートぉ!?///」

京子「うん! ふたりでどっか! それがお礼の代わりってことで!」

綾乃「そ、そんなの……そんなの……」

京子「あれ、不満?」

綾乃「不満、なんて……」


そんなわけ……ないじゃない。


京子「どこ行きたいって特には思い浮かばないけど……まっ、それはのちのちゆっくり考えればいいからさ。そうだなあ……この原稿が完成したら、お祝いも兼ねて早速いこうよ! 明日か明後日か!」

綾乃「これが終わったら……?」

京子「そっ。だから頑張って早く完成させちゃおうぜっ! 私も頑張るからさ♪」

綾乃「う……うん……!///」


歳納京子と……デート。

映画を見に行ったりとか、ふたりで出かけたことは何回かあったけど……

ちゃんとデートっていう名目で一緒に遊ぶのは……初めてかもしれない。


綾乃(デート……///)


どこにいこう。

何をしよう。

歳納京子と、一緒にしたいこと。

何をしたって、楽しいはずだ。


京子「ほいっできた! 綾乃、それ終わったら今度はこのページねっ」ぴらっ

綾乃「あっ……ええ、任せてっ」




ふたりでもくもくと原稿を進めてたら、

私のお腹が大きく鳴っちゃった。

そういえば給食を一口も食べてなかったことを思い出して、

お母さんが作ってくれた、いつもよりだいぶ気合いの入ってるお夕飯を食べた。

漫画の作業をしながら、交代でお風呂にもはいって。

手をうごかしつつ、楽しくお話をしながら……時間はどんどんすぎていった。


そうして、私もすっかり作業に慣れてきたころ……


綾乃「……うん。歳納京子、このページ終わっ……」ぴらっ

京子「…………」すぅすぅ

綾乃「あっ……」


歳納京子は、眠ってしまっていた。


綾乃(そういえば……朝からずっと眠そうにしてたの……忘れてた)


昨日の夜から、船見さんの家で原稿にかかりっきりだったのよね。

三時過ぎまで起きてたとかなんとか……それじゃあ眠いのは当然よ。


疲れ果てて限界が来てしまったのだろう。ゆっくり休んでもらいたかった。

綾乃「……歳納、京子?」ゆさゆさ

京子「へぁっ……あ……あぁ、ごめん……」

綾乃「いいのよ。疲れてるのよね……寝るならちゃんとベッドにどうぞ?」

京子「いやぁ、でも……」

綾乃「今はたっぷり寝て、明日起きてからやればいいじゃない。どうせお休みなんだから」

京子「……うー、ありがと……」


目を閉じたまま笑う歳納京子の可愛い顔が、今日どこかで見た景色と重なった気がした。

それは……私が今朝ベッドの上で思い浮かべていた顔だった。


綾乃(う……///)

京子「うぁぁ……こんなに眠いの久しぶり~……」ぼふっ

綾乃「ゆ、ゆっくり休みなさいっ」

京子「そうします…………zzz……」ぐぅ


歳納京子に毛布をかけ、部屋の明かりを落とす。代わりにデスクライトをつけて、私は再び原稿に向き合った。


綾乃(歳納京子が休んでるうちに……私ができるところくらいは)


ちょうど、私が今日スープをぶちまけちゃったページの新しい書き直しまで、歳納京子が終わらせてくれていた。


綾乃(これくらいは……全部仕上げるわよっ)くっ


綾乃(この子が起きてきたときに思わずびっくりしちゃうくらい、進めてみせるんだから……!)


後ろからかすかに届く歳納京子の小さな寝息を聞きながら……時間が経つのも忘れて、私は作業にふけった。


一枚、二枚と原稿用紙が仕上がっていって……ようやくノルマを終えたときはさすがに限界で、私は小さな達成感を抱きながら、力尽きるようにその場に倒れ込んで眠った。

――――――
――――
――



『お嬢さん』


綾乃「……え……」


『お嬢さん、よかったなぁ』


綾乃「あ……アライグマさん……?」


気づくと、目の前は赤い夕焼けに包まれたゴンドラの中だった。


珍しい、今日は夕方の観覧車だ。


しましまの尻尾を嬉しそうに振りながら、アライグマさんが私の膝に手をついている。


『感じるでぇ……向こうの世界では、京子さんがお嬢さんの傍にいてくれてるんやね?』


綾乃「……ええ。私の隣にいるわ」


『それなら、今回は短めにしよか。早く元の世界に戻ってもらわな』


綾乃「ううん、いつも通りでいいわ。きっと私……こうしてアライグマさんと喋ってるから、今が上手くいってると思うの」


『……そう?』


アライグマさんと話したことが、今の私に活きているから。どうして歳納京子が好きなのか、それに向き合う時間が重ねられているから。


だから……歳納京子を前にしたとき、いつもよりちょっとだけ勇気が出せてる。

綾乃「恋ってなんなのか……漠然と考えてもよくわからない。つきつめて考えても、毎回違った答えに辿り着く。恋に決まった正解なんて、ないのかもしれないわね」


『……でも、それを違う言い方をすれば?』


綾乃「……辿り着いた答えは……全て、正解かもしれない?」


『そういうことやね。そのときそのとき良かれと思って進んだ道、選んだ選択肢……自分を信じて、好きなものを信じて歩んだなら、その先にあるものは全部正解なんや』


綾乃「……ふふ、ありがとう」



歳納京子と歩んだ道。


歳納京子との思い出。


夕陽の差し込むゴンドラで……私はアライグマさんに、思い出せる限りの思い出をたくさん聞かせてあげた。


一年生のとき……勉強の話題なら話しかけやすいと思って……千歳にも協力してもらいながら、いっぱい会話のチャンスをつくったこと。


部室の使用権をかけて、テストの成績で勝負をしたこと。せっかく一位をとったのに、歳納京子の成績はさんざんで、勝負にならなかったこと。


風邪をひいたとき、初めてお見舞いにきてくれたこと。


生徒会のみんなで海に行ったら、ごらく部のみんなもちょうど海に来ていて、一緒に遊んだこと。


千歳に代わりに電話してもらって約束をとりつけて、一緒に浴衣で花火をしたこと。


みんなでいった修学旅行。真っ暗な胎内めぐりで歳納京子に変なところを触られたり、ホテルで初めてまくら投げをしたりしたこと。


花粉症に悩まされてるとき、ティッシュを切らせちゃった私を見かねて、歳納京子が助け船を出してくれたこと。


みんなでカラオケにいったとき、すごく歌が上手だった歳納京子。私はレパートリーが少なくて、ずっと歌帳をめくってて……千歳に助け船を出してもらってから、ちょっとずつ歌えるようになったこと。


きぐるみパジャマをくれたこと。「綾乃も可愛いじゃん!」って言ってくれて、「仕方なく着てあげてる」なんて言ったけど……本当はすごく嬉しかったこと。みんなで行ったキャンプでも、そのパジャマを着たこと。


お母さんが友達にもらってきた服を着て、お散歩がてらに外に出たら……それが歳納京子の服で、しかも本人に見つかっちゃったこと。でも似合ってるって言ってくれて……そしてふたりで公園でお話して……「またふたりで遊んだりしよ」って、言ってもらえたこと。


教室で寝てる歳納京子のリボンをむしっちゃって……嫌われちゃったらどうしようって思ったけど……「綾乃ちゃんの好きな人は、こんなことで人を嫌いになったりするような人なん?」って千歳に言われて……すごく勇気をもらえて、謝りにいけたこと。


映画に誘おうと思って、でもなかなか言い出せなくて……そうしたら歳納京子のほうから映画に誘ってきてくれて。ふたりきりで映画館にいって……一緒に写真を撮ったりしたこと。


みんなで行ったお花見。迷走して変なパーティーグッズを買っちゃって……でも、歳納京子は楽しんでくれたこと。


ちょっとしたことで歳納京子に誤解されちゃって……頑張って勇気を出して、ちゃんと歳納京子へのきもちを伝えられたこと。


「嫌いになるとか、絶対ないんだからね」って言い合って……これからもよろしくと、ハイタッチをしたこと。


プリントが出てない出てないって、何回もごらく部室に取り立てにいった……あの日々。

『全部全部……お嬢さんが歩んできた道は正しかったんや。いつだって京子さんのことを想って、一生懸命に歩んできたからなぁ』


綾乃「……うん……///」



“恋” っていう字は、昔は “戀” って書いてたんやって。


“?” は、もつれてからまった糸をわけようとしても、容易にわけられないって意味なんや。


その心を表す「心+?」を戀……すなわち恋とした。



『恋とは悩むもの。恋とはもつれているもの。恋とは思い切りがつかないもの。恋とは不安になるもの。恋とは心を乱すもの……』


『この戀という字があったってことは、つまり何百年もむかーしむかしから、人間が恋をしてきたということ。そしてその恋というものの本質は……今でも何ら変わりないということや』


綾乃「……!」


『不安になって、苦しくなって、思いきれなくて、心が乱れて……それでええんよ。悩んだ数だけ、悩んだ時間だけお嬢さんは大きくなれる。そして振り返った時に「あのときああしてよかった」と、正しい道を歩めていることがわかるんや』


綾乃「アライグマさん……」


アライグマさんは手を後ろに組んで、水平線に沈みゆく夕陽をにっこりと見つめていた。

『……さーて、いろいろ聞かせてもらっちゃったし……そろそろウチも引き上げようかなぁ』きゅっ


綾乃「あら、もう一周終わりなのね。あっという間だったわ」


アライグマさんはゆっくり振り返ると……帽子を深くかぶりながら、静かに言った。



『あのな……お嬢さん。もうこの先ウチに会うことはないかもしれん』


綾乃「……え?」


『この観覧車に乗ることは……もうないかもしれん』


綾乃「え……えええっ!? それってどういうこと!?」


『お嬢さんが、少しだけ成長できたってことや』


綾乃「っ……!」


私の膝の上によじよじと乗り……毛だらけのもふもふの手で私の手をとって、アライグマさんは言った。



『観覧車のように、同じところをぐるぐる回るだけじゃない……ずっとずっと続いていく大切な現実が、お嬢さんにはある』


『たまにはこうして寄り道もええけど……ここで感じたこと、わかったこと、考えたこと、思ったこと……現実を歩む中でそれを少しでも思い出してもらえたら、ウチは嬉しいなぁ』


綾乃「そ、そんな……終わりだなんて……!」


『夢の中に自分の居場所を作ったらあかん。もう、元の世界に……かけがえのない現実に、戻れなくなってまう』


綾乃「っ……」


『お嬢さんなら大丈夫。自分を信じて、好きな人を信じて、一生懸命前に進むだけでええ。迷って悩んで苦しんで……好きな人と助け合って……大きくなっていけばええん』


綾乃「……うん……」


ばたりと開いた、ガラスの扉。


外には、一面の光の世界が広がっていた。



『お嬢さん、最後にひとつ。ウチからの言葉』


綾乃「!」

恋とは、観覧車のようなもの。



どこまで行っても終わりはない。常に常に回りつづける。



幸せに満たされたら……それよりもっと大きな幸せを求めるか、その幸せが長続きするかどうかの不安を得るようになるだけ。



追いかけて……満たされて。近づいて……離れて。高く上がる嬉しさと……下りていく悲しさを繰り返して。



くるくるくるくる、回っていく。



幸せなままゴールを迎えるのはとっても難しい。それは、観覧車が終わる寸前の物寂しさと一緒。



それでも人は、幸せなままの終わりという永遠に辿り着けないゴールを求め……恋を続ける。



生きている限り……人は、恋をする。

『京子さんという観覧車に……お嬢さんは乗ったんや。そしてそれを動かすのは、京子さんを好きだと思う強いきもちに他ならん』


綾乃「っ……///」


『自分を信じて……京子さんを信じて。これからもずっとずっと……全力の恋をしてほしい』


綾乃「……私……忘れない。アライグマさんのこと……絶対に忘れないわ……!」


『……ありがとな。お嬢さん』



アライグマさんの小さな手と握手をして、私は……ゴンドラの外に降りた。



『歳納さんによろしくなぁ。“綾乃ちゃん”!』


綾乃「えっ……!?」


その呼び方に驚いて振り返ると、真っ赤な夕焼けと赤いゴンドラは、今まさに視界の遠くに吸い込まれていくところだった。


でも、一瞬だけ見えた小さな姿……扉の部分に立っていたアライグマさんの姿は、なんだかとても懐かしく……私の心を刺激した。



やっぱり……あなただったのね。


私、あなたを知ってる。


あなたは私にとって、一番大切なお友達。


いつもいつも私を助けてくれて、私の相談に乗ってくれて、私のきもちになって考えてくれて……


たとえ恥ずかしくて歳納京子に言えないことでも、あなたになら言える。


だってあなたは……私の一番の親友だから。


綾乃「……いつも、ありがとね」


――
――――
――――――


――朝。


うっすらと目を開いて、そこにあったものは……私の大好きな人の後ろ姿。


ああ、そこにいる。私の目の前にいてくれてる。


手を伸ばして、そのさらさらの髪を指で梳いた。


京子「うおっ、起きた?」

綾乃「……おはよう」

京子「おはよっ。大寝坊だぞ~?」

綾乃「……いいじゃない。今日はお休みなんだから」


時計を見ると、もうお昼近かった。確かにこんなに遅くに起きたのは久しぶりだ。


綾乃「あれ……っていうか私、なんでベッドで寝て……」

京子「布団も敷かずに床で寝ちゃってたから、私と交代したの。今度は私が作業する番だからね」

綾乃「……ありがと」

京子「ありがとはこっちのセリフだよ! 綾乃、昨日かなり頑張ってくれてたでしょ?」

綾乃「えっ……?」


歳納京子は嬉しそうな笑顔で振り返り、二枚の原稿用紙を私の前にぴらつかせた。


京子「ほら、もうあとはこの二枚のトーン貼るだけなの! これで全部完成なんだから。早く起きて手伝って?」

綾乃「……歳納京子、顔にトーンついちゃってるわよ?」くすっ

京子「ありゃりゃ」

大きく深呼吸をして、身体を起こす。

私の心の中は……少しだけ、ほんのちょっとだけ、ぽっかりと何かが抜けてしまった感じがしていた。


京子「ん……どした?」

綾乃「……いえ……夢をみてたの」

京子「どんな夢?」


綾乃「大事な夢……大切な夢。今までにも何回も見てて……そのたびに私に色んなことを教えてくれた……観覧車の夢」

京子「観覧車……」


綾乃「……ふふっ、なんでもない。顔洗って来ちゃうわね」

京子「観覧車ー!」ぐいっ

綾乃「きゃっ、何っ?」


立ち上がる私の腕をきゅっと引き寄せ、歳納京子は言った。


京子「観覧車……遊園地! これ完成したら、観覧車のある遊園地に行こうよ! 遊園地デート!!」

綾乃「え……ええっ!?///」




原稿を完成させ、お母さんの作ってくれたお昼ご飯をぱぱっと食べて、手軽な準備だけ済ませて私たちは駅へと向かった。


電車とバスを乗り継いで……目指す先は、大きな観覧車のある遊園地。


綾乃「んん、ちょっと出るのが遅かったかしらね……ここ17時で閉まっちゃうみたいよ?」

京子「じゃあ、17時までめいっぱい遊ぼうよ! そしたら明日はまた別のところにデート行けばいいじゃん」

綾乃「え……///」


綾乃(あ、明日も……一緒にいてくれるの……っ?)


当たり前のように、歳納京子はそう言ってくれた。



やがて到着したのは……子供の頃に一回来たきりの、海の近くの遊園地。

土曜日ということで、家族連れの子供と大人でにぎわっていた。


残された少ない時間で、歳納京子に振り回されるように遊んで……

閉園寸前の一番最後に、大きな大きな観覧車に乗ることにした。



綾乃「…………」

京子「はぇ~……おっきいなー」


綾乃(これが……)



夢にまで見た、観覧車。


それは夢の中よりずっとずっと確かで……悠然とそびえ立っていた。


京子「綾乃、観覧車好きなの?」

綾乃「……そうね。好きかな」


私は観覧車の何が好きなんだろう?


雰囲気?

静けさ?

高い所まで上がれるところ?


わかんない。


わからないけど……理由ははっきり言えないけど……でも、なんとなく好きなのよ。


好きなものは好き。それだけでいいじゃない?


京子「おっ、順番来たよ!」


私たちの前に……赤いゴンドラがやってきた。





好きな人とふたりきりで観覧車に乗るなんて。

よくよく考えれば、これってすごいことよね。


固いシートに腰掛けて、高鳴る胸をおさえた。

歳納京子は座らずに、子供みたいに立ち上がってガラス張りの向こうを楽しそうに見ている。


綾乃(な、何か……何か言わなきゃ)


何度も何度も、これに乗ったじゃない。

光差す眩しい昼も、月の光と夜景がきらめく夜も、茜差す夕暮れも。

この中で、ずっとずっと……歳納京子のことを考えていたじゃない。


京子「観覧車って、なんか一番デートっぽいね!」

綾乃「えっ?」


私の隣に腰掛けた歳納京子が笑った。


京子「ドラマとかでもよくあるじゃん、カップルがふたりで観覧車に乗るシーン! そいで手を繋ごうか迷ったりしながらさ、てっぺんの部分でキスするの!」


なっ……


綾乃「な…………な、ななな、何言ってるのよ!!///」


まったくなんてことを言ってしまう子なんだろう……! キスだなんて……そんなこといちいち言わなくても、誰だって連想してるのに!

もしかしたら、雰囲気がよくなれば自然に手くらいは繋げるかもしれないと思っていたのに……そこで途端に勇気がなくなってしまった。


綾乃(あぅぅ……また反発しちゃった……///)


ついつい突っぱねてしまう癖は、やっぱりすぐには治らない。

いつかは歳納京子の言葉を素直に聞き入れることができるのだろうか。

歳納京子に心から近づいて……恥ずかしがらずに、ずっと傍にいられるのだろうか。


京子「綾乃っ」

綾乃「えっ……」


うつむきがちになっていた私の手をそっと、歳納京子が握った。


思わず顔が赤くなってしまう。


胸がとくんと高鳴った。


こんなに静かなふたりきりの空間じゃ、


私の胸の鼓動まで聞こえてしまいそうで……恥ずかしい。


京子「ほら、向こうの方見て!」

綾乃「あ……」


もうすぐ頂上という高さで、歳納京子の指差した先。


……遠くには、夕焼けを映してオレンジ色になっている海が広がっていた。


綾乃「綺麗……!」

京子「うん……」

時間の流れが……ゆっくりになった気がした。


ゆらめくオレンジ。


あたたかい光。


その光に照らされる歳納京子。


大きな瞳に映り込む夕陽。


明るさで浮き立つ、歳納京子の輪郭。


つややかな髪。


そのすべてに、見惚れた。


そしたら突然……目の前を、ふわっと風が吹いた。


何かがいきなり迫ってきたのだ。


その “何か” は……私のほっぺたに少しだけ触れて……そして、一瞬で元の方を向き直った。






ちゅっ、て。

綾乃「えっ」


京子「っ…………///」



綾乃(えっ)



えっ



綾乃「…………」

京子「…………」




え……




綾乃「ええぇぇぇぇぇえええぇぇえーーーーーーー!!」

京子「ええぇぇぇぇぇえええぇぇえーーーーーーー!!」



綾乃「ちょっ、なっ、やっ! なんであなたまで驚いてるのよ!!」

京子「ち、違うんだよ! 何か知らないけど、気づいたら私の知らないうちに身体が動いちゃってたんだよ!」

綾乃「どういうことよ!? 何が起きたの今!?」


京子「だってムードが良すぎたんだもん! それに観覧車のてっぺんはこうしなきゃいけないんだもん! それがルールだもん!」

綾乃「こっ、これっ、あなた、キ……!」かあああっ

京子「ほっぺだから! ほっぺだからね!?///」

綾乃「ほっぺだからじゃないわよ!!」

……私たちの乗っているゴンドラは、外から見たらどたばた揺れて見えるかもしれない。


まったく予想していなかった不意打ちのできごとで、私は……私たちは、外の夕陽に負けないくらい真っ赤になっていた。


綾乃(こんなの……こんなのぉ……!///)

京子「い、いや~……私もはじめて……こんなことしたの……///」

綾乃「もう……っ」


歳納京子の手を握っている手に、きゅっと力を込める。


歳納京子も握り返してくれて、


優しく微笑みかけられた。



どうしよう。


私、こわれちゃいそうよ。


幸せに満たされすぎて。


何かが溢れてきちゃいそう。


胸の奥が熱すぎて。


心がとろけて、流れてきちゃいそう。

観覧車はてっぺんをすぎて、外の景色はゆっくりと降下していく。



そんな、待って。


まだまだ終わらないで。



このままずっと、


あなたの手を繋いでいたい。



このまま、この幸せなゴンドラだけがずっと、


回りつづけてくれればいいのに。



このままずっと……


ずっと一緒にいたい。



お願い……



このまま……



もう少し……






~fin~

おつつ
綾乃ちゃんお誕生日おめ

京綾は正義

おつ

満足じゃ

美しい京綾でした
おつおつ

京綾が一番だな

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