文香「夢から覚めぬ夢」 (28)


これはモバマスSSです
気分を害する話になるかもしれません


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1471962278



…ふぅ…疲れました…
暑い、ですね…
こう言った日は…ダンスレッスンではなく、涼しい部屋で本のページをめくりたいものです。
そうは…思いませんか?
…そうですか。


いえ、嫌と言う訳では…
ただ単純に、一緒に本を…
それにしても…プロデューサーさんは、全く暑そうではありませんね。
ちひろさんが、冷房を29度に固定していた筈ですが…


…え、部屋の隅、ですか?
何やら、ソファを集めて会談を行っている様ですが。
何をしているのでしょう?
…行かないでくれ?
珍しいですね…プロデューサーさんが、そんな辛そうな表情をするだなんて。


…冷蔵庫にお茶が冷えてる、ですか。
私の記憶が正しければ、確か空になっていた様な気がしますが…
そんな、わざわざ買いに行っていただくわけには。
既に、汗は引いてますから。


皆さま…一体、何を…
…成る程、そういう事でしたか。
そう言えば、そうでしたね…
会談ではなく、怪談だったと…
60点ですか…厳しいですね。


確かに、今日の様な暑い日にはうってつけかもしれません…
私は、あまり同級生とそういった事をした経験はありませんが…
でしたら…折角ですし、私も一つ…
プロデューサーさんも…そうですか。


では…ここは、書によって蓄えられた知識から、一風変わった話を。
普通の怖い話では、小梅さんの方が向いているでしょうし。
それに、奈緒さんや凛さんにはその方が楽しんでいただけるでしょうし。
…プロデューサーさん、キーボードの音が大きくなりましたね。


そうですね…これは、以前私が見た夢の話になります…
…え?何処かで聞いた様な切り出し、ですか?
先を越されてしまったようですね…
私の、お気に入りの冒頭だったのですか。


さて…気ににせず進めさせて頂きます。
少し、長くなるかもしれませんが…
よろしければ、お付き合い下さい。


今から、少し時間は遡ります。
あれは…私、鷺沢文香がプロデューサーさんと出逢う前の日の夜。
まだ私が…本以外の世界を知らなかった頃。














ざあざあ、と。
夏特有の急な夕立が夜まで長引いたとある日。
エアコンの除湿が役割を果たしきれず、部屋に干した洗濯物が生乾きになりそうな一夜。
居心地のよろしくない世界から逃れるべく、私は本を捲っていた。


本に一度熱中してしまえば、私の目以外の五感は外界から完全にシャットアウトされる。
そんな特技とも呼べるか分からない習性を活かし、エアコンだけでは足りない部分をカバーしようとしていた。
けれど、昼間からの籠った熱気は未だ止まない雨と相俟り。
なかなか私は、逃れられないでいた。


…はぁ、と一息。


夏と言うのは、なかなかに厄介な季節だ。
冬は良い。
寒いのならば上着を着込めば事足りるから。
手が悴まない限り、本をめくる事が出来る。


けれど、暑いと言うのはどうしようもない。
上着を脱ぐにも限度があるし、湿度のせいで本と指先がしめってしまう。
窓を閉めれば流れ込まない冷気と違って、湿度は場所にあまり依存しない。
特に、今晩の様に強い雨が降っている夜は。





仕方が無いので一旦本を置き、冷たいお茶を取りに冷蔵庫へと向かう。
グラスに氷を入れようとして開けた冷凍庫の冷気に一瞬の幸せを感じながら、たぷたぷと注がれてゆくお茶を一人眺めていた。
いっその事冷凍庫で暮らしたい。
そんな馬鹿な事を考え、自分が暑さで疲れている事を改めて実感する。


部屋に戻って手を見れば、既にグラス表面を覆った水滴によって濡れている事に気付いた。
こんな手で本を握っては痛んでしまう。
そうでなくとも、上手く本のページをめくれず纏めて捲ってしまった場合は哀しみしか生まれない。
間違えて一気に話が進み犯人がわかってしまった時は、しばらく本をめくる気力が無くなってしまった程だ。


何とかこのまとわりつく湿気を紛らわすべく、私はテレビを付けた。
夜も遅い時間の為、大体がニュースだ。
世界的スポーツ大会の結果や、大雨警報。
天気予報によれば明日の昼にはこの雨も止まるらしい。
逆に考えると、明日の昼まではこの湿度のまま。
今から嫌になる。


ぽちぽちとチャンネルを回すと、国民的アイドルの話題となっていた。
過去のライブやバラエティー番組が次々と流れている。
花々しいステージに、楽しそうな笑顔。
会場全てが熱気に包まれていそう。


…私には、縁の無い世界ですね…


テレビの電源を落としリモコンを机に放る。
手は乾いていたけれど、既に少し睡魔がやってきていた。
ここで敢えて逆らう必要も無い。
そろそろ、明日の起床に支障をきたす前に寝ておこう。


床へと着き、冷房のタイマーをセット。
起きる頃には雨が弱くなっている事を祈り、私は眼を閉じた。
意識を放り投げる前に思い出したのは、先程のテレビの事。


もしかしたら…私にも、そんな世界が…


ふふ、っと。
微笑み、夢の世界へと向かった。













『アイドル、どうですか?』


雨に包まれた夢の中で、私は一人の男性に声を掛けられた。
見慣れた本棚のアーチの下で、運命的な出逢い。
シンデレラにガラスの靴を差し出す王子様の様に、彼は私へと名刺を差し出している。


『あの…私は、あまり…そう言ったことは…』


数回の受け応えの後、ようやく自分がスカウトされた事に気付きサクッと断る。
当たり前だ。
いきなりアイドルになってみないか?だなんて。
おそらく私でなくとも断るに決まっている、筈。


素気無くされた彼は、肩を落として店から出て行った。
私は直ぐまた本のページを捲る作業に戻る。
人に囲まれるよりも本に囲まれていたい。
私は、そういう人だから。


けれど、何故か。
なかなか文字の世界にのめり込めなかった。


心の何処かで、願っていたのかもしれない。
私を本だけの世界から連れ去ってくれる王子様を。
私の手を取り、様々な世界を見せてくれる人を。
速読と本の知識しか取り柄の無い私から、魅力を引き出してくれる人を。


…待って、下さい!


そう言おうとしても、既に男性の姿は無い。
チャンスを自ら突き飛ばしてしまった。
そんな後悔が、私の胸を埋める。


立ち上がって、彼を追いかけようと。
その時、私の視界はグニャリと歪んだ















ゆっくりと、目がさめる。
やってきたのはいつも通りの朝。
昨日の夜よりは若干弱まってはいるが、それても外出には向かない雨天。
時計の短い針は真左を差していた。


…変な夢を…はぁ


鬱々しい天気と気分のダブルパンチを受け既にまた眼を閉じたくなる気分を乗り越え、洗面所へ向かう。
今日は特に用事も無い。
パパッと着替えて表へと出た。


当然ながらこんな時間にお客さんはいない。
雨の人もなれば尚更の事。
それで特に問題は無い。
私は此処で本を読む。
その事に、変わりは無いのだから。


ぺら、ぺら。


紙の捲れる音と遠くからの雨音が、私しかいない店を埋める。
心地よい、その筈なのに。
なんとなく、居心地が悪かった。


気分を変えようと、別の本を取りに本棚へ向かう。
普段は読まない様な本を読めば、今の気分も変えられるかもしれない。
どんなジャンルにしようか…




「あの、すみません」


そうだ、偶には恋愛小説もいいかもしれない。
長らく読んでいなかったし。
ホラーは…辞めておく。
大体オチが読めるから。


「すみませーん」


「えっ?!」


気付けば、お店には一人の男性が入って来ていた。
完全に自分の世界に入っていたため、全く気付けずにいて。
驚いて、私は本を落としてしまった。


「だ、大丈夫ですか?」


「あ…ええと…失礼、しました」


拾って貰った本を受け取り、ふと私は気付く。
その男性とは、どこかで会った事のある様な気がした。
それも、つい最近。


…もしかして…


「私、こういう者でして…」


差し出された名刺には、とある大手プロダクション名。
アイドル部門、シンデレラプロジェクト担当の文字。
そして、男性の名前。


私は、次に彼の口から出る言葉を予想出来た。
だって、それは。
一度、経験した事なのだから。


「アイドル、どうですか?」


答え合わせは終わった。
だからこそ、こんなアバウトな質問にも対応出来る。
言うべきことも、既に決まっている。


「…詳しいお話を、伺っても…よろしいでしょうか?」


雨は、既にやんでいた。








結果的に私は、アイドルになった。
人間やれば出来るもので、本の虫だった私も案外何とかなってしまうものである。
もちろん辛いことだって多かったけれど。
特にダンスのレッスンや、体力作りの走り込みなど。


それでも、私のプロデューサーとなった彼が手を引いてくれて。
苦しい時私を支えてくれて。
疲れた時私を励ましてくれて。
二人三脚で、進んでこれた。


あの日見た夢が何だったのかは分からない。
予知夢だったのかもしれないし、未来視的なものだったのかもしれない。
もしあの夢が無ければ、初めて声を掛けられた私は断っていただろう。


けれど、最終的に私はこの道を歩いた。
知っていたから、分かっていたから。
後悔をしない道を行くと、決断出来た。


今はとても充実している。
これ以上無いほど、慌ただしくも満ち足りた毎日を送れている。
そして、だから。
またあの様な夢を見るだなんて、この時の私は想像もしていなかった。










『痛っ…つー…』


『っ?!だ、大丈夫…ですか?』


ファンレターを開けていたプロデューサーが突然、手を押さえて叫んだ。
見れば、少しではあるが血が流れている。
そしてその原因は…


『剃刀の刃か…まさか、ベロの部分に付けてあるなんてな…」


ファンレターを開ける時に必ず触れるであろうマチが、赤く染まっている。
そこに剃刀の刃を付ければ、最初に封を切る人は必ず手を切るだろう。


『担当プロデューサー殿宛のファンレターなんておかしいと思って警戒しながら開けようとしたんだけどな、想定外だったよ』


『文香が開けなくてよかった』


そう笑って、プロデューサーは絆創膏を巻く。
恐らくCD発売の手渡し会の時に変な誤解をしたファンがいたのだろう。
改めて、アイドルと言う職業の恐ろしさを実感した。


『驚かせて悪いな、今後はもっと細心の注意を払うから安心してくれ』


私が何かを言う前に。
私の意識は現実に引き戻された。









「プロデューサーさん…昨日の夜、読んだ小説の話なのですが…」


翌日出社した私は、早速プロデューサーに話し掛けた。
とは言え、貴方は今日ファンレターで怪我をするから気を付けて下さいだなんて言えるはずも無い。
というか言ったところで信じて貰えるはずも無い。
けれど、注意を喚起する事は出来る。


例えば…


「便箋のマチに刃物を仕掛ければ…警戒している相手にでも、傷を負わせる事が出来るそうです」


「成る程…ありがとう、注意しておくよ」


全てを知っている私からすればあからさま、露骨なネタバレである。
これが推理小説であれば批判間違いなしだ。
けれど、これは現実の話。
そしてストーリー通りに話がすすめば、プロデューサーさんは怪我をしてしまうのだから。


プロデューサーさんの手が三通目の便箋に伸びた時、夢は現実となった。
けれど、少しだけ結果は変わる。


「…これ、もしかしたらさっき文香が言ってたやつかもしれないな」


ペーパーナイフで封を無視して切り取ると、中身は空っぽだった。
そしてやはり、封じ口の部分には剃刀の刃が貼られてある。


…ふぅ


「だいぶタイムリーな感じになったな。ほんと、注意しておいてよかったよ」


何はともあれ、プロデューサーの怪我は回避出来た。
また、夢によって助けられた。
あの不思議な夢はもしかしたら、本当に予知夢なのかもしれない。
実際に夢と同じ事が起こり。
この通り、不幸を回避できたのだから。


「さて…文香、そろそろダンスレッスンの時間だぞ」


「…今のせいで…あまり、気分が良くないので…」


ただの言い訳だったのだけれど、何かを察した様なプロデューサーはトレーナーさんに連絡をしてくれた。
…気のせいでなければ何時もよりも厳し目でなんて聞こえてきたけれど。
文香の気を紛らすためにもかなりハードに、ですか…
ちょっとしたツケが帰ってきた気分になった。







それからも、時折そんなことがあった。


雨のせいで若干電車が遅延してギリギリイベントに間に合わない夢。
紅茶の入ったグラスを倒してしまい書類を台無しにしてしまう夢。
強風で傘の骨が折れ、顔に怪我をしてしまう夢。
雨の日に階段で足を滑らせ、捻挫してしまう夢。


しかし、起こることがわかっているなら回避は難なく可能だった。


遅延が分かっているなら予定より大分早目に出ればよい。
書類の積まれた机にグラスを置かなければよい。
傘と外見を諦めてカッパを使えばよい。
エレベーターで移動すればよい。


大事に至る事故は、全て回避出来た。
ダンスレッスンはどう足掻いても回避出来なかったけれど。
兎も角、そんな夢のおかげで。
無事ここまで、やってこれた。


恐らく、これからもきっと。
そんな風に考えていたからかもしれない。


だけど。
だから。
取り返しのつかない事故と言うのは。
どんなに自分が足掻いてもどうしようも無いものなのだ、と。


その時まで、気付けなかった










『…ふぅ、疲れました…少し、暑いです…』


『お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてるだろうけど、ストレッチは忘れるなよ』


ダンスのレッスンを終え、ゆっくりと自分達の部屋へ戻る。
そこから夢はスタートした。
有難い事に、ダンスレッスンの部分はスキップ。
どの道明日現実でやる事になるのだけれども。


『…彼方の方々は…一体、集まって何を…?』


『暑いから怪談をして涼しくなろう、ってさ。俺には理解出来ない離れ業だよ』


どうやら、プロデューサーさんはホラーが苦手らしい。
良い情報を手に入れた。
後々有効活用していかないと。


『ちょっと待っててくれるか?もう直ぐ終わるから、そしたら車で送ってくよ』


『ありがとう、ございます…では、彼方で座って本を読んでますので』


そう言って、夢の世界の私は本を開く。
まだ私の読んでいないページだから出来れば辞めて欲しいけれど、それ以上にこれから何が起きるのか心配だった。
事象を事前に知れるとは言え、対処法を考えなくてはならないのだ。
キチンと、見極めなければならない。




パソコンをシャットダウンしたプロデューサーさんと共に駐車場へ。
あまり褒められた事では無いが、ナチュラルに助手席へ座り込む。
プロデューサーさんが一瞬何か言いたそうに此方を見たが、知らんぷり。
苦笑いし、車を発進。


他愛の無い幸せな会話をしているうちに、気付けば自宅の側へ着いていた。
楽しい時間と言うのは往々にして早いものだ。
本を読んでいるとき以上に、プロデューサーさんと二人きりでのドライブは短く感じられた。


『じゃ、また明日』


『はい…また、明日』


そう言って車を降りた。
ここまで、特に何も起きていない。
だとしたらこれは予知夢ではないのかも。
そんな事を考え、私はプロデューサーさんの乗った車を見送った。


その、直後だった。


けたたましいクラクションの音、ブレーキ音。
次いで、轟音。


目の前で起きた事が信じられなかった。
口を開けたまま、一瞬思考がトリップしてしまう。
辺りの家のカーテンが一瞬で開き、沢山の人がスマートフォンを掲げている。


有り体に言えば、交通事故だった。
交差点の右から、信号無視した車との衝突。
プロデューサーさんの車は、グシャグシャになっている。


プロデューサーさん!と。
我を取り戻した私が叫ぼうとしたところで。


世界は、歪んだ







朝、太陽の光で目をさます。
けれど目覚めは最悪で。
しばらくの間、布団から出る事が出来なかった。


あれは、間違いなく予知夢だ。
それも最悪のパターンの。
今までで最も、現実にしてはいけない事。


けれど、分かっているなら大丈夫。
なんとかする方法は、幾らでもあるのだから。
起こる事と時間さえ把握していれば。
少しでもタイミングをずらせば、あの事故は起こらない。


ふぅ…


大きくため息を吐き、ゆっくりと身体を起こす。
大丈夫、変えられる。
あんな事、現実になんてさせない。
プロデューサーさんを失うなんて、なんとしても回避しなければならない未来だ。


頭の中でプランを立てる。
車から降りる時、少し会話するだけでいい。
事務所を出発する時にエスカレーターを使わなければいい。
帰り道、少し遠回りすればいい。


対策は幾らでもあった。
そのうちの一つを実行すれば、何も起こらず過ごせる。
そうすれば、プロデューサーさんとの約束。
また明日、を実現できる。


まだ若干心は重いけれど。
意を決して、私は事務所へ向かった。








「ふぅ、疲れました…」


「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」


ダンスレッスンは普段よりハードだった。
夢の中の私は、こんなものを乗り越えたのか。
おかげで、その後に起きる事を一旦忘れる事が出来たのだけれど。
そうでなければ緊張で吐きそうになっていただろう。


さて、一番分かりやすいタイミングのズラし方。
それは別れ際に少し会話する事。
それなら、そこまで前回と同じルートを辿ればいける。
変に途中に挟むと、結果的に時刻が同じになる可能性も否めないのだ。


夢と同じ様に、私は仕事を終えたプロデューサーさんの車に乗り込む。
一度は楽しんだ筈の、幸せな会話。
けれど、私の心は既に消耗し始めていた。


…大丈夫…降りる時に、少しお話しするだけで…


「じゃ、また明日」


「…あの、プロデューサーさん…」


その時になって、言葉が出てこなくなった。
特に何か言おうと決めずに喋る事の難しさを実感する。
けれど、もうそれだけで大丈夫な筈。
数秒のズレで、あの交通事故は起こらずに済むのだから。


「…また、明日…」


「おう、冷房効きすぎに気を付けろ」


そう言って、プロデューサーさんは車を発進させる。
少し先には交通事故が起こる筈の信号機。
その交差点を見れば、右から車が信号無視をして突っ切って行った。


…ふぅ…どうやら、回避出来た様ですね…


大きくため息を吐いた。
身体から力が抜けそうになる。
ホッとして、眼が滲む。


これで、また明日も…


ゴンッ!!と、鈍い音が響く。
急いで目を上げると、プロデューサーさんの車の側面に信号無視をした車がつっこんでいた。
いかんせん交通量の少ない時間帯だ。
前の車が行けたから、と後続も突っ切ろうとしたのだろう。


プロデューサーさんの乗った車の運転席側は、スクラップの様になっている。
あれでは、きっと…


…まだ、もしかしたら…


動かなかった足を無理やり前へと進めようと。
その直前。


私の視界は、グニャリと崩れた。









パチリ
私は目を開ける。
眼球だけを動かして周りを見れば、何時もの自分の部屋。
カーテンの隙間から溢れる光が、既に朝だと教えてくれた。


…嫌な、夢…


予知夢を見て、それでも事故を起こしてしまう夢をみるだなんて。
いや、それもまた予知夢なのかもしれない。
何にせよ、プロデューサーさんを車に乗せるのは危険だ。
恐らく私が何をしても、結果としてプロデューサーさんは交通事故に遭ってしまうだろうから。


タイミングに関係無く、プロデューサーさんがあの道を車で渡ろうとすれば事故が起きる。
それを回避する為には…
車で送って貰わない、は恐らくダメだ。
私が歩いて帰った後にプロデューサーさんがあの道を通る可能性があるから。


とすれば、そもそもプロデューサーさんに歩いて帰って貰うのがいいかもしれない。
何なら、一緒に歩いて帰りませんか?と誘うのも。
やる事さえ決まれば後はなんとかなる。
今までもこうやって、乗り越えてきたのだから。








「ふぅ…」


「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」


ハードなダンスレッスンを再び乗り越え、あまり冷房の効いていない部屋へ戻る。
プロデューサーさんから全く同じ返事が返ってきた事で、やっぱりあれも予知夢なんだと再確信。
けれども夢の時より若干蒸し暑い気がするのは、単純に連日のダンスレッスンがしんどいからか緊張しているからか。
冷房の温度を勝手に下げようとしたところで、ちひろさんが節電の為に固定と言っていたのを思い出した。


仕方がないので冷蔵庫からお茶を取り出す。
空っぽだった。
別にみんなの物だから構わないけれど、出来れば飲み終わったのなら捨てて欲しい。


…そんな場合ではありませんでした…


「プロデューサーさん…よろしければ、一緒に歩いて帰りませんか?」


「ダメだ。パパラッチにやられたらどうするんだよ」


即答、即断、一瞬にして断られる。
そうだ、確かにアイドルが男性と二人きりで夜道を歩く事は問題があった。
ファンやパパラッチに見つかったら、どうなってしまうことやら。
以前にも嫌な事件があったというのに。


…困りました…このままでは…


非常によろしくない状況だ。
折角考えてきた策が実行するまえに終わるとは。
私はあまり機転の利く方ではない。
直ぐに次の対策を考えようとしても、なかなか思い浮かばなかった。


なんとかしないと、プロデューサーさんは…
それだけは避けなくてはならない。
もういっその事、パパラッチぐらいいいんじゃないかと考える。
こんな性格のプロデューサーさんが納得してくれると思えないから却下だけれど。


「さて、そろそろ仕事も終わるし乗せてくよ」


不味い、非常に。
このままでは夢と同じ結果になってしまう。
何か、この状況を打開するものは…




あった、ひとつ。
絶対車に乗れなくさせる方法が。


いそいで目的の女性を探し、プロデューサーさんが今夜は暇だと伝える。
一瞬訝しげな眼で見られたような気もするが、その隣の女性があまり上手とは言えないギャグで場を流してくれた。
一瞬にしてプロデューサーさんが暇だという情報が広まったらしく、部屋へ戻れば大人の方々がプロデューサーさんの机を囲んで。
苦笑いしながらも、プロデューサーは今夜飲み会が決定した。


よし、と内心でガッツポーズを取るも。
自身はその飲み会に参加出来ない事に若干不満を覚える。
とは言えこれでプロデューサーさんの運転は不可能になった。
これで、大丈夫…


そう、大丈夫だ、と。
私は頑張って信じようとした。
けれど、心の何処かで。
それじゃダメだ、そんな考えが存在を主張して。


不安になった私は、プロデューサーが事務所を出るまで一階で待つ事にした。
広いロビーの、エレベーター2台を見通せる場所。
普通に事務所から出ようとすれば、必ず何方か一台のエレベーターを使う事になる筈だから。
事務所から出た後は、大人組の方々がある程度はなんとかしてくれるだろう。
寧ろプロデューサーさんが何とかする側に回る事となる様な気もするけれど。


…おかしい。
プロデューサーさんがパソコンをシャットダウンするのを確認してから、私は部屋を出ている。
けれど、待てども待てどもエレベーターからプロデューサーさんの姿は現れない。


…まさか!


急いで立ち上がり、階段の方へと向かう。
部屋が4階だからエレベーターで降りてくると決めつけていたが、ありえない話ではない。
嫌な予感が心を埋める。
そんな事ある筈が無い、と確信出来ないのか心を縛る。


非常階段の扉を持てる限りの力で勢い良く開けようとする。
けれど、その扉が全開になる事はなかった。
ゴツンッ、と。
床に突っ伏した、何かにぶつかったから。


呼吸が荒くなる。
激しくなる動悸は二次関数の様に上がってゆく。
それでも何とか全てを押し殺し、ゆっくりと。
視線を下げる、その先のモノを見て。


私の視界は、ぐにゃりと歪んでいった。







目を開ける。
いつも通りの光景、いつも通りの起床。
時間も大体何時も通りで、けれど。


私の気分は、今までで最悪だった。


結局あれもまた、事故だったのだろう。
階段から落ちる。
状況を見ていなかった私でも理解出来るほど、分かりやすい事故。
けれど、そんな分かりやすい事故すらも回避できなかった。


私の頭には、既に一つの考えがあった。
認めるのは怖いけれど。
決して認めたくないけれど。


プロデューサーさんは何をしても助からないのではないか、と。


昨日公園、バタフライエフェクト。
そんな話を知っている人なら、誰でも辿り着ける結論。
何をしても、結局は同じ運命を辿る哀しい物語。
私は今、それを辿っているのではないか。


…いや、諦める訳にはいかない。
アレは夢だ。
これから起こりうる事を教えてくれる予知夢に過ぎない。
きっと助けられる、今回の事を踏まえて対策を立てれば。


夢は所詮夢だ。
今から起こる現実で、助ければ良い。
大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせても、なかなか身体は動かなかった。











分かりきった、認めたくなかった結論。
それを叩きつけられると言うのは想像以上に辛い事だった。
特にそれが、私の大切な人に関する事だったから。
失いたくないモノを必ず失う筋書きは、到底受けれられるモノではない。


あれから何度予知夢を見たか、最早覚えていない。


何とかして一緒に歩いて帰る事に成功すれば、過激なファンに刺され。
怒られる事を覚悟で車の鍵を隠せば、駐車場で鍵を探している時に事故に遭い。
事務所で寝泊まりして貰おうとパソコンのデータを勝手に消しても、一瞬で再び仕上げられてしまい。
挙げ句の果てにはガス漏れなどと言うどうしようもない事故にすら見舞われた。


勿論、何もしなければ一番最初と同じ様に交通事故に見舞われる。
けれど、何をしても…
茄子さんや芳乃さんは運悪く遠くに収録に行っていて不在。
八方ふさがりの袋小路に迷い込み、私の心はどんどん磨り減っていた。
何度も何度も、プロデューサーさんの死を目撃し続けているのだから。


そして、その死を見届けると同時に私の夢は冷める。
おそらくこれは、プロデューサーさんを助け切るまで続く夢なのだろう。
今までは一度で乗り越えられたから気がつかなかったけれど、もしかしたら最初からそういうものだったのかもしれない。
だとしたらなんて残酷な話なのだろか。


そして、私は相当疲れきっていたのだろう。
とある一つの、解へと辿り着いた。
おそらくそれなら、もうこの連鎖から逃れられる。
後は実行する勇気だけ。


ふぅ…


一つ、息を吐く。
今のうちに、涙は流し切ろう。
そうでなければ。
最後の最期で、プロデューサーさんに。


笑顔を見せる事は、出来ないから。












「ふぅ…」


「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」


もう何回目かも分からないこんなやり取り。
それが堪らなく、心地良かった。
もしかしたら疲れてる原因の一部は、ずっと続いているダンスレッスンのせいかもしれない。
そんな間の抜けた事を考え、少し笑ってしまう。


「ちょっと待っててくれるか?もう直ぐ終わるから、そしたら車で送ってくよ」


そして、その問いに対し。


「ありがとう、ございます…では、彼方で座って本を読んでますので」


断る事なく、私は待った。
本の内容は既に知っているから捲るだけ。
ずっとプロデューサーさんを見つめ続ける。
今は、少しでも長く。


貴方を、見ていたいから…











車の中で他愛のない会話。
久し振りのそれが、何故だかとても嬉しい。
この後に起こる事を分かっていても、それでも。
いや、だからこそ。


このひと時が、とても幸せだった。


「よし、着いたぞ」


やっぱり、あっという間。
ここで降りればまたいつも通り。
けれど、今回だけは違う。


苦しい気持ちを押し切り、私はなんとか口を開いた。


「…もう少しだけ、お話しませんか…?」


「え、構わないけど…じゃ、もう少し走るか」


そう言って、再び車を発進させる。


件の交差点まで、あと十数メートル。
タイムリミットは、ほんの僅か。
このまま走れば、また…
けれど、その全てを知っていながらも。


「…プロデューサーさん」


私は、笑って告げる。


「…ずっと、好きでした…ありがとうございました…」


やっぱり、涙は我慢出来なかった。
窓ガラスに映った私は、きっととても不思議な表情をしていただろう。
笑いながら涙をながすだなんて。


それでも、私は伝えられた。
ようやく、貴方に。
そして、返事は貰えない。
それでも、どうしても…


驚いた表情のプロデューサーさんが、此方を向く。
その奥からは、信号無視をした車が突き進んでくるのが見える。
あの1秒も、時間は残されていないだろう。


でも…
最期に、貴方の顔を見れて良かった。


衝撃、次いで轟音。


分かっていた結果が、運命通りに起こる。
けれど不思議な事に痛みは無い。
だから私は、最後まで貴方の事を見つめ続ける事が出来た。









少しずつ、薄れてゆく意識。
これで終わり…


けれど、その時。
意識が完全に途絶える瞬間。


私は、視界が歪むのを感じた。












…以上です。
少しでも、皆様の涼しさの足しになれば…


またなんとなく違う、ですか…
確かに、何方かと…言えば後味の悪い話に寄っていたかもしれませんね。
昨日公園は、私のお気に入りの話です…
…あれも確かにホラーとは違いますけれど。


如何しましたか?プロデューサーさん。
すみません、気分を害してしまいましたね…
…いや、そう言う訳ではなく…?
大丈夫ですよ。


最初にも言いましたけれど…これは、夢の話ですから。
決してこんな結末にはなりません。
…絶対に、そんなエンディングは迎えさせませんから。


そろそろ、いい時間ですね。
外も涼しくなっていると思います。
皆様、お気を付けてお帰り下さい。


…仕事が終わったら乗せてく、ですか。
…ふふ、ありがとうございます。
では。


此方で座って本を読んでます










終わりです、お付き合いありがとうございました
本屋で連絡先を交換した夢を見たので神田を歩いていたのに文香さんには会えませんでした
予知夢は外れますね、なんでもありません
最近はフレふみ杏のssも書いているのでそちらもよろしければ


おつ

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