鷺沢文香「影女の輝」 (21)
『百鬼夜行シリーズ』とアイドルマスターシンデレラガールスのクロスのような何かです
注意:
元ネタの都合上多少鬱展開が発生する可能性があります
キャラ崩壊、設定捏造、設定の齟齬、口調の違和等が発生する場合があります
何か違和感を感じたり誤字を発見した場合は教えていただけるとありがたいです
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ものゝけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云
荘子にも罔両と景と問答せし事あり
景は人のかげ也
罔両は景のそばにある微陰なり
――今昔百鬼拾遺/上之巻・雲 鳥山石燕(安永十年)
布団の中に潜り込んでいると母の声が聞こえた。
キンキンと、耳に刺さるような声。まるで怪物のような声。
――ああ、煩い。
熱を出して臥せっている身には、毎日聞こえるその声ですら酷く煩かった。
物心ついたころから母は怒鳴っていた。
何が気に障るのかは分からない。ただ、日々起こる由なしごとの全てに何か理由を付けて怒っていた。
理由がないのに怒るとは一体どういうことなのだろうと幼心に私は常に思っていた。
ときに問うてみようかと思うこともあった。だが、やはりそうであってもどうすることもできず、私は母の怒りが始まると与えられた部屋に向かって布団をかぶってやり過ごした。
結局私は子供だったのだ。
思えば、母も子供だったのだろう。
子供だから、癇癪を起し、怒ったのだろう。
ピーターパン症候群、そんな名前を付ける必要もなく、誰も彼も心の中には子供が巣食っているのだ。
無邪気で、感情に任せて行動する、自らの映し身のような子供が。
そのとき、私は熱を出していた。子供のころは病弱だったのだ。
そんな状態では結局のところ頼れる存在は親しかいない。
どれほど子供っぽい相手だろうと仕方がない。そんなことを思っていたように思う。
――馬鹿だったのだろう。
母がなぜ怒ったのかは覚えていない。いや、覚えてはいるのだけれども。
ただその金切り声から逃げ、部屋にこもり、父から与えられた本を読んでいた。
本が好きだった。
開くと紙の匂いが鼻腔をくすぐり、不思議とそれが心地よかった。
幻想の世界に浸るのも、まだ知らぬ知識を得るのも、楽しいものだった。
それは逃避だったのかもしれない。
己の外を、この薄いぷよぷよとした皮の向こうを見たくなかったから、金切り声を聞きたくなかったから。
本を通じ、自分の内面に迷路を作り、まるでミーノース王の様に、自分自身を閉じ込め、逃がしたのではないだろうか。
それであれば、私の本性はたいそう醜く、凶暴なのだろう。
何にせよ、当時の私は病床で本を読むことだけが幸せだったのだ。
ふ、と気が付くと、金切り声がやんでいた。
外はもう暗くなっており、障子越しに月の明かりが私の顔を照らしていた。
起き上がろうと思えば起き上がることはできたのだろうが、なぜか酷く気怠かった。
熱のせいもあっただろう。
だが、それを抜きにしても、まるで底なし沼に頭までずぶりと浸かったように、動くのが億劫だった。
ああ、このまま動かずにいてやろう。このまま自分の境目をなくし、どろりと溶けてしまえばどれほど気持ちのいいことだろう。
私はそう思い、開いた瞼をゆっくり閉じた。唾を飲みこんだ。喉が蠕動した。
――お母さん。
私は自分の出した声に驚いていた。緩慢になった思考の中で、それだけが明確な輪郭を以て理解できた。
何故母の名を呼んだのかは分からない。
もちろん、病床の子供が母を呼ぶのは当たり前だろう。
だが、私は酷く気怠かったのだ。
できるなら、このまま沈みきって、自分を捨ててもよいと何故か思っていたのだ。
声を出すことも止め、息をするのも止めてしまおうかと思っていたのに。
――何故、母だったのだろう。
そのとき、月の光が増した。眩いばかりのその光。障子の向こうに何かがいる。
私はうっすらと目を開いて、その正体を見た。
――影がいた。
障子に映る、角を生やした影だけの女が、ふらふらと蠢いていた。
その裏に人はいない。何故かそれだけがはっきりと理解できた。
――ああ、これは、夢だ。
そう言い聞かせ、私は目を閉じる。
ぷよぷよとした私の外に、あの影がいる。
それがたまらなく恐ろしかった。
布団をかぶり、無理に微睡もうとする。
だが、私の中で、その影は徐々に大きさを増していく。母の金切り声が聞こえた気がした。それは幻だ。
それは私の中から響いてくるものだ。熱が鬱陶しい。私の中の迷宮が影で覆われていく。母の金切り声。物語の主人公。子供の笑い声、明転、迷宮、虚ろ。
窓の外にアレがいる。布団の外にアレがいる。私の外にアレがいる。
――アレは、私自身だ。
迷宮から抜け出し、逃げることしかできない私を殺しに書物の世界から来たミノタウロスなのだ。
目を薄く開いて障子を見る。黒々とした私はまだそこにいて、曖昧に動いている。
逃げるような、襲うようなその動きに、私は意識を失った――。
鷺沢文香は、明るい場所が嫌いになった。
じりじりと焼けつくような日差しが、東京駅に辿り着いた私の肌を刺してくる。
夏は苦手だ。日差しが普段より強く、影を濃くしてしまうから。とどのつまり、夏ではなく私は影が嫌いなのだ。
もちろん、影を見るたびに怯えるなどというようなことは無い。ただ無性に嫌いだ。
じっとりとした生理的な厭さを感じて、なんだか気分が落ち込んでしまう。
私の醜い部分が地面に溶け出して、私をじっと見つめているような、そんな感覚に襲われる。
大学の夏休み、私は叔父たっての頼みで、数日間叔父の知り合いを手伝うために東京を訪れた。
早めに手伝いを済ませてしまって帰ろう、そんなことを思いながら渡された地図を見ていると。
突然、影がかかった。
顔を上げる。
「あれ、鷺沢さん?」
「……ど、どなたですか?」
見覚えのないスーツ姿の男性が、人好きのする笑みを浮かべて近づいてくる。
その姿はまるで影のようだ。夏の陽炎に炙り出され、人の足元から立ち上がったような。
思わず身を竦めた私に、参ったように曖昧な表情で男性は頭を掻く。
「ありゃ、覚えてないのか。ほら、先月お邪魔した」
髪を透かして見えるその顔。しばらく考えた後に思い至った。
「……スカウトさん?」
「正解、…というかあのときはそっちが主目的ではなかったんだけどね」
先月、私が店番をしているときにふらりと訪れた男性だった。なんでも出張先で暇つぶしを探していたらしい。
どんな職業かと尋ねると、曖昧な笑いを浮かべながら芸能関係だと答え、去り際にアイドルにならないかと囁いたあの人だ。
薄暗い古書の中と、太陽照り付ける場所では人とはこれほどに違うものなのか。
「そういえば何でこんなところに? あ、もしかしてアイドルに」
「…ち、違います。叔父の手伝いで少し用があったので」
「そうか、そりゃ残念」
……アイドルは、苦手だ。
その立ち振る舞いや、姿がではない。
アイドルとは、偶像。偶像は光の中にあるもの、光の中でしか視えぬものだからだ。
光に照らされ、輝き、煌めくものだからだ。
強い光を受ければ受けるほど輝くもの。私の中ではそれがアイドルであるように思う。
ならば。強い光を受けて輝くのならば。
――それだけ濃く、影は蠢く。
光の下では影は強くなる。影は漫ろに私へ付き纏う。
だから私は、光の下になど出たくない。
ごにょごにょと言葉を濁し、男性に急いでいる旨を伝え、半ば逃げるようにその場を立ち去った。私の背に、声がかけられる。
「気が変わったらいつでも言ってくれればいいからね、この間渡した名刺に番号は載ってるからさ」
その顔は、曖昧な笑みを浮かべているのだろう。影の中に浮かぶ笑顔を想像し、私は軽い吐き気を催す。
思わず俯くと、影が私をどこまでも追ってきているのだった。ああ、厭だ。踏み潰しても、踏み躙っても、影は消えない。分かっているのに、分かっていたのに。
これだから、明るい処は嫌いなのだ。どこまでも
――影が付いてくるのだから。
私は地図を確認し、日陰へと逃げ込んだ。
目の前には、どこまでもだらだらと続く坂が伸びている。舗装されてはいるものの、どこか時代の流れに取り残されたようなそれを上り詰めた先が目的地のようだった。
既に日は高く、じっとりと体が汗ばむ。体力が残っているうちに上ってしまおう。そう思い、私はキャリーバッグを引きずった。
髪を通して視える世界は少し視にくい。だからこそ私はどこか落ち着いていられるのだと思う。髪を通し視ないようにすることで、私は安定していられたのだろう。
坂に沿って、白茶けた土塀が続いている。夏の日差しを遮るものは何もなく、少し先には陽炎が所在無さげにゆらゆらと漂っていた。
この土塀の向こうはどうやら昔からある墓地だということだ。なるほど、もしかするとこの道は参道の一部なのかもしれない。
そんな愚にもつかない想像をしながら、ずるりずるりと上っていく。
足元には影が付いてくる。日陰はない。どこまでも、どこまでも付いてくる。どこまでも、私を見つめている。
気を逸らそうにも、見えるのは土塀と坂道だけだ。足元には目をやりたくない。そこには影がいるのだから。
前を向いてひたすらに歩を進める。どこまでも坂道と土塀が続いていくようだった。
夏のじっとりとした湿り気を帯びた暑さが足元から湧き上がる。これも影から湧いてくるのではないだろうか。きっとそうだ。
そんなはずはないのに、まるで夢見心地で私は歩いていく。どこまでも坂道はだらだらと続いていく。土塀はどこまでも続いていく。
足元には影がいる。影がじっとりと付き纏う。蝉の声はいつからかキンキンと響く金切り声に変わっていた。
――ああ、厭だなあ。
七分目程まで上っただろうか。私はくらりと軽い眩暈を覚えた。
坂を上ったそこには、いかにも昭和から生き残ってきたのだ、と主張するような家があった。
目的地であるそこの先には小さな森がある。どうもこんな街中で生き残っているのを考えると鎮守の森か何かだろうか。
表にかかっている看板を確かめ、開け放たれていた戸を潜る。バリアフリーなどは一切頓着していない、と声密かに主張するようなその店内は小奇麗に片付けられていた。
いや、片付けられようとしていた。何故ならば、そこかしこに本が積まれ、本がまるで洪水のように溢れ出ていたからである。
和綴の古書もあれば豪華絢爛な洋書もあり、かと思えば雑誌や漫画といったものもある。まさしく本が氾濫していると言っていいだろう。
混沌と秩序を古今東西合わせて闇鍋にしたようなその空間に、私は思わずほう、と息をついた。
本は好きだ。綺麗だから、――隠していられるから。
思わず一冊を手に取り読み進める。そして気づかぬうちに没頭してしまっていた。どれだけ時間が過ぎただろう。読み終えるといつのまにか、帳場らしい場所に
「いらっしゃい、といってももう閉店したんだがね」
老いた芥川を絞殺したような顔の幽霊が立っていた。
思わず硬直していると、幽霊は口を開き、そこでようやく人間であると実感する。
「鷺沢さんの寄越した手伝いだね? 今時こんな場所に来るのは相当の偏屈だと思っていたが、こんな若い娘さんとは」
「あ、あの、すいません…、その、挨拶もしないで」
「構いやしないよ、と言いたいところだが、まあ、まずは荷物を置きなさい、出涸らしで良ければ茶を出すよ」
そう言って鶏ガラのように痩せ細った男は私の先をするりと歩いていく。おずおずと付いていくと、客間らしき場所に通された。
そこもまた、本があちこちに積まれている。いや、それを言えばここに至るまでのありとあらゆる部屋、廊下にも積まれていたように思う。
圧倒される私に、男は冷たい湯飲みを差し出した。
「生憎珈琲は切らしていてね。連れ添いが死んでからこんな面倒まで僕の仕事なわけだ」
「…あ、いえ、…お構いなく」
「まあそう気を張らないで。鷺沢さんの娘さんかな?」
「…い、いえ。姪、です。鷺沢文香と、申します」
「成程、姪御さんか。僕の名前は聞いているだろうが、改めて自己紹介をしておこう」
軒にかけられた風鈴が何か仕事を終わらせたとでも言わんばかりにりん、と鳴った。
痩せ細った老人はにやり、と笑って言葉を続ける。
「僕は中禅寺秋彦、この京極堂の主だ」
古書店、京極堂での仕事は至極単純なものだった。中禅寺さんが指定した本を整理し、箱に詰め、荷札を貼っていく。慣れた仕事で、何も考えずにやることができる。
中禅寺さん曰く、加齢に伴い店を閉めるはいいが、どうにもその前に買い取りたいと言う連中が多いので売ってやる、ということらしかった。
「まったく、無駄な本は無いが近年は本を無駄にする輩が増えた。殊これに関してだけは江戸の通人の方が余程マシというものだね」
中禅寺さん自身、老人は老人であるが、仏頂面も併せて、何処か仙人のように年齢不詳のとこがある。仕事の合間に尋ねると、百近いという答えが返ってきて吃驚させられた。
「さて、そろそろ今日は終いにしようか」
「…は、はい」
「隣の蕎麦屋に出前を取るが鷺沢さんは何が良いかな? 僕は狐饂飩にしようと思うが」
「え、えっと、じゃあ…笊蕎麦を」
「分かった。…そうだね、電話をかければ早いが爺さんの命日も近いことだから寄ってやろう。少し空けるが、留守番を頼んだよ」
そう言うと中禅寺さんは外へさっさと去っていった。どうにも矍鑠とした老人だ。
力仕事は一切しないと言い、実際裏で帳簿を書いていただけだったが、素早さは並みの老人の数倍はあるだろう。
一人になった。
冷房が効いているとはいえ、先程までの重労働で汗はまだ引いていない。いつの間にか夕景になっていた外の風を浴びたくなり、障子を見た。体にはじっとりと不快な感触が残っている。
…障子も、あまり好きではない。薄っぺらく、外と内の境目が曖昧で、境界としての意味を果たさないから。
外に出る気が失せ、ふ、と座卓を見ると、先程まで中禅寺さんが読んでいたのだろうか、古びた和綴じの本が置かれていた。視線がそれに移る。
「…『今昔百鬼拾遺』」
江戸時代に書かれたいわば妖怪辞典のようなものだったと記憶している。作者である鳥山石燕の創作した妖怪も多く、今でいうキャラクター本のようなものであったとも。
この座敷にあるものは中禅寺さん自身の蔵書が多いらしい。主に和綴じの本が多く、資料的価値も高いのではないだろうか。その他には数冊の文庫本もある。
少し興味が湧いたのでペラペラと数枚をめくってみる。おどろおどろしいながらもどこか剽軽で憎めない化け物たちの姿が続き、思わずふっと笑いがこぼれた。
あるページで指が止まった。
和室の中に弓と矢が置かれている。
柱に掛かっているのは菊だろうか。
外は夜のようで月が出ている。
そしてその月影が照らす障子には、松の影と。
明らかに松ではない何かの影がゆらりと蠢いていた。
『影女』
――怖い。
自分でも気づかないうちに声を出していた。
追い払うようにページを閉じ、障子を開け放つ。空には月が浮かんでいる。
抑えきれない動悸を感じ、静かに目を閉じた。
暗闇の中に、私自身を閉じ込める。光など見たくはない。
だって
――影ができてしまうから。
中禅寺さんが岡持ちを下げて帰ってきたのはそれからすぐのことだった。
「まったく、あそこは知り合いだからって面倒をさせる。…どうしたんだい、障子を開け放って」
「…あ、いえ。…なんでも、ないです」
「そうか、まあそれならいいがね。そら、頼んでいた笊蕎麦だ」
中禅寺さんが差し出した笊蕎麦をつるつると啜る。お腹が膨れると、少し気持ちも落ち着いた。
中禅寺さんはまだ食べあぐねている様だ。食べている処をじっと見るのも悪いので、座敷に積まれた本に視線を移す。…あの単行本は何だろうか。
「『眩暈』だよ」
「…え?」
突然かけられた声に驚くと、いつの間に食べ終わっていたのか中禅寺さんは箸を置くと単行本へ手を伸ばし、渡してくる。
その表紙には確かに『眩暈』と書かれていた。
「もうとうの昔に死んだがね、関口大先生の代表作さ」
「…関口? 関口巽、ですか?」
後付けを見ると、確かに関口巽、と書かれている。その名は私でも知っている。しかも、これはまた一番発行数が少なく希少だと言われている稀譚舎のモノ。
初版という文字に思わず目を見開く。まさか、今となっては手に入る可能性すら考えられないという逸品があるとは予想もしていなかった。
「戦後、幻想文学の一大旗手となった関口巽の『眩暈』、しかも初版、ですか…!?」
私の発言と共に、饂飩の出汁を啜っていた中禅寺さんがぶっと噴き出した。慌てて介抱しようとするが、手で押しとどめられる。
よく見ると噎せているのではなくひぃひぃと嗤っている。
「関口が、あの男が、幻想文学の、一大旗手…! 改めて人の口から聞かされれば、これほど面白いこともないぞ、関口」
「…ご親交があったのですか?」
「…ゲホッ、ケホッ、まあ、腐れ縁という奴だね。旧い友人さ」
「それは…!」
あり得ない話ではないはずだ。没年から逆算してだいたい同じ頃になるのだから。と、私の感動を余所に中禅寺さんはまだひぃひぃと呻いている。
「…まったく、死んでも迷惑をかけてくれるな。…そうだ、鷺沢さん、一応彼の著作は全巻あるが、読んでいくかね?」
「え、でも…」
「何、泊まっていけばいいさ。というのも僕は少し出る用事があってね、留守番もお願いしたいんだ。無理にとは言わないが何なら手間賃も出そう」
「いえ、そんな…。でも、そういうことでしたら…、一晩、お邪魔させてもらいます」
「ありがとう、助かるよ」
正直、人の家に、それも障子があるような家に泊まるのは苦手だが、それよりも私の好奇心は勝ってしまった。
「それじゃあよろしくお願いしよう。もし何かあったときはあの森の奥に神社があるからそこに来るといい」
「…神社?」
「僕はそこの神主もしていてね、まあ、拝み屋の真似事みたいなこともしているんだよ」
中禅寺さんが指さした先には、昼間見た森が鬱蒼と茂っていた。騒々と揺れ動く森の木々。その影が女のように見えて、私は思わず目を背けた。
夜は更けていった。月の明かりが徐々に境界を通り抜け、室内へ入り込んでくる。
頁を捲る手が止まる。『眩暈』を半ばに、少し喉が渇いたので台所へと向かった。
ぬるい茶を飲み息を吐く。京極堂には独特の空気が漂っている。叔父の店とは違う何か。年月を経た匂いかとも思ったがそうではないような気がする。
何かが凝っているような、何かが吹き溜まっているようなそんな空気。だが、それは決して不快なものではない。
部屋に戻る前に座敷を覗いてみた。座卓にはまだ『今昔百鬼拾遺』があった。
髪越しに見たそれは唯の本に過ぎない。障子にも影は映っているが、ゆらゆらと蠢いてなんかはいない。
…そんなものなのだ。あの時の記憶だっておそらくは熱に浮かされた幻覚のようなものだったのだろう。しかし、私にはそれが現実だった。それだけのことだ。
…そして、これからもそれだけの事に怯え、光の下に立つことなんてないのだろう。なぜか脳裏に浮かんだ影のような彼の姿を思い出し、頭を振る。
――アイドル、か。
その拍子に、障子の隙に目が行った。どうやら上手く閉められていなかったらしい。…僅かに嫌な気持ちになったが、たかが障子だ。どうってことない。そう、そのはずだ。
私は障子を閉めようとする。
風がその隙から入ってきた。
ふわり、と前髪が上がる。
座卓の上で何かが捲れる音がする。
明瞭になった世界に、月の光に照らされた私の影が生まれる。
影はその頁を覆っている。
そこには、女の影がゆらりと蠢いている。
思わず振り向く。障子には月明かりに照らされ、角を生やした女の影がぐねりぐねりと蠢いていた。
――ああ、アレは私の影だ、アレは私自身だ。光に照らされ出てきた醜い私だ。
母の金切り声が聞こえた、それは影女の声だ。
母は私で、私は母で、そして、どちらともなく泣いていたのだ。
私も、母も弱いのだ。弱かったのだ。
――影女は、金切り声を上げて、私を見つめていた。
――お母さん。
「鷺沢さん、目が覚めたかな?」
「…ここは?」
目が覚めると、髪越しに天井と中禅寺さんの顔が見える。外は既に朝のようだった。どうやらあのまま気を失っていたようだ。
体を起こそうとしても、妙に熱っぽく気怠い。
「動かない方がいい、軽い熱中症だ」
「…すいません」
「いや、構わない。しかし、何だってあんなところに倒れていたんだ?」
「…それは」
言い淀む、説明しようもない。
「…まあ、無理に聞くことはないがね。ただ、君がやけにお母さん、と呼んでいたのが気になったというだけだ」
「…!」
そうか、私はそんなことまで言っていたのか。…隠すこともない。
私は幼少のころから昨日までの経験を中禅寺さんへ話し始めた。話せば話すほど馬鹿げた話だという考えが強まっていく。
全ては幻で、私の見た逃避の為の幻覚なのだ。母の名前を呼ぶのも、その契機となった切欠が母からの逃避だったからに過ぎないのだろう。
「…それだけの話です、すいません、…こんな話を長々と」
全て話し終わり、とんだ馬鹿なことを言ってしまったと中禅寺さんの表情を見ると、その表情は仏頂面になっており、何か考え込んでいるようだった。
「あの、…中禅寺さん?」
「鷺沢さん、君は動く影を光の中で見たのだね?」
「え」
「最初に見たときの話だ」
「…は、はい。月の光が急に差して」
それだけ答えると中禅寺さんはそのまま部屋を出ていった。
「ああ、そうだ。君が本を読み始めた理由を思い出すといい、鷺沢さん」
そう言い残し去った中禅寺さん。呆気にとられた私に急な眠気が襲ってくる。…まだ、疲れが残っているのだろうか。
浮かされながら、私は緩々と微睡みの中に落ちていった。
――金切り声が、聞こえてきた気がした。
――私に本を読むことを教えてくれたのは、誰だっけ?
――夢の中で、母が泣いていた。金切り声を上げて、咽ぶように。
その顔は、角が生えて、牙を剥き出しにして。
まるで。
「鬼」
ゆるりと母が私の方を向く。母は、誰かの首を抱えている。慈しむように。
母の顔はすでに鬼ではない。私を優しく教えてくれたあの顔。
ああ、あの首は、影に纏わりつかれたあの首は。
「私」
余五将軍惟茂、紅葉がりの時
山中にて鬼女にあひし事
謡曲にも見へて皆人のしる所なれば、こゝに贅せず
――今昔百鬼拾遺/中之巻・霧 鳥山石燕(安永十年)
目を覚ますと、深夜だった。月明かりが私を照らしている。
気づいた。影が、揺ら揺らと蠢く影が、私を覆っている、私を包んでいる。厭だ、厭だ、厭だ。
錯乱する、喉が渇く、私の中身が漏れ出し、凝り、泥濘んで、どろどろと、よくないものを見せてくる、ああ、厭だ、厭だ、厭だ、私は、光も、影も。
「大っ嫌いだッ!!!」
柄にもなく叫んだ瞬間、襖が開け放たれた。振り返った私は、そこに黒々とした闇を見た。光の中でその闇は、まるで地獄から響くような声で一言。
「この世にはね、不思議なことなど何もないのだよ」
そう、告げた。
闇だと思ったのは、黒い着流しの男だった。白い五芒星が両肩に染め抜かれ、黒の手甲、黒足袋、全身黒づくめをしていたからそう見えただけだ。そして、その不機嫌そうな顔は。
「中禅寺、さん?」
背後から月の光を浴びて立つ中禅寺さんは、まるで死神のように陰鬱な顔をしている。そして呆気に取られる私へ静かに中禅寺さんは座るように促した。
「鷺沢さん、君に憑いていたのは影女ではない」
「え?」
「そもそも影女とは本来家に憑くものだ、この『今昔百鬼拾遺』にも「ものゝけある家には月かげに女のかげ障子などにうつると云」とある。だから君個人に憑りつくものではない」
中禅寺さんがペラペラと和綴じの本を捲る。だが、しかし、そうだとするなら。
「…な、なら、私があの時見た影は、いえ、私の見間違い、ですけど」
「本当に見間違いだったのか?」
「…え?」
何を言っているのだろうか。
「君は『荘子』を読むかい?」
「はい、一応は」
「ならば話が早い。荘子には「罔両、景に問いて曰く、曩には子行き、今は子止まる。曩には子坐し、今は子起つ。何ぞそれ特操なきやと。景曰く。吾は待つ有りて然る者か。吾が待つ所は又た待つ有りて然る者か。吾は蛇ふ、蜩翼を待つか。悪んぞ然る所以を識らん」云々という一節がある」
「『斉物論篇』、ですね」
「そうだね、ここで言う罔両とは影の周りにできるごく薄い影のことを指す。その罔両が影に「歩いたり止まったり、節操がないではないか」と問い、影が「自分が動きたいのではない、人の動きに従っているのだ」と答える一節だね。いかにも荘子らしい一文だ」
中禅寺さんは、何を言おうとしているのだろうか。
「考えるといい。君は急に差した光の中で影を見た、と言った」
「は、はい」
「月の光がそこまで急激な変化を起こすことは少ない。月の光は太陽光を反射させた陰の光、鏡を使ったとしても差した、と表現するほどではないだろう。ならば結論は一つじゃないか」
月の光の中、中禅寺さんは静かに語る。私の視界に移る影が、徐々に動きを止めていく。
「君は影を動くものとして見た。しかし、その影は扉を開け、君の様子を見に来た誰かの影だったのではないのかな?」
「え?」
「その影が光ごと、障子に照らされた、そう考えるのが一番妥当だ」
で、でも、それじゃあ、私を、病床の私を照らしてくれた影は、光は…!
私の狼狽に気づいたのか、中禅寺さんはすっと手を上げると、年齢を感じさせない朗々とした声で謡った。何処かで聞いたような独特の節。…謡曲?
「たえず紅葉、青苔の地。たえず紅葉、青苔の地。またこれ涼風暮れゆく空に。雨うちそそぐ夜嵐の。ものすさまじき山陰に月待つほどのうたた寝に。片敷く袖も露深し。夢ばし覚ましたもうなよ、夢ばし覚まし、たもうなよ」
謡い終え、中禅寺さんは仏頂面をわずかに緩めた。
「君が眠っている間に鷺沢さんに連絡を取らせてもらった」
「叔父さんに、ですか?」
「ああ、君のご両親は君の幼い頃、酷く仲が悪かったそうだね。原因は些細なすれ違い、時折父親の方が家を出ていくこともあったとか」
「は、はい」
私が影女を見たときも、まさしくその時だったのだ。父は家を飛び出し、母は癇癪を起し、そして、私は父に与えられた本を。
――本を?
「君の実家が存在する長野県には戸隠山の紅葉伝説が存在するのは知っているかな?」
「話だけは…」
「内容を掻い摘めば、特異な出自の女性、呉葉が京から信州戸隠に追い出され、京恋しさに戸隠山で凶族となる。これを悩んだ朝廷により平維茂が討伐に遣わされ、辛くもこれを退ける…、謡曲『紅葉狩』なんかもこれを題材にしているんだが」
「…! さっきの謡はそれだったんですね」
「そう、これだけ聞けば鬼女紅葉、呉葉は討伐されるべき鬼だろう。だが、戸隠山においては、紅葉は鬼女ではなく、新たな文化、知識を齎してくれた文化英雄、貴女として扱われている」
中禅寺さんがすらすらと手元の白紙に「鬼女」と「貴女」の文字を書く。
そこまで来て、私はようやく気付いた。私が見た影に。何故、角が生えていたのか、何故、恐ろしかったのか。
金切り声、すれ違って失う悲しみ、影。私に本を教えてくれた、様々な世界の広がりを教えてくれた、その全ては。
――隠していたのではなかったのだ。
「…母、だったんですね」
「ああ、鬼女紅葉は優れた母でもあった。そもそも、呉葉自身が子を願う親の気持ちによって生まれた鬼童でもあった」
「…愛されていたんですね」
「少なくとも僕はそう考える、君はずっと、愛されていたのだと。鷺沢さん、先程の謡は鬼女が惟持を眠らせた子守歌でもあったのさ」
私が影に見ていたものは、そうだったのか。ありもしない迷宮と、ありもしない鬼の姿だったのか。
私は、影を見てもいいのだ、光を浴び、その下に蟠る影を見てもよかったのだ。
影は、私に従って動くだけに過ぎないのだから。
「…ありがとう、ございました、中禅寺さん」
「これが僕の仕事の一つだから仕方がない。見捨てておくのも忍びないからね」
「お代は」
「僕ももう長くはない、だから」
ちゃんと話してあげなさい。
仏頂面に戻ると、中禅寺さんはそれだけ答えてくれた。
気が付くと、外は白んでいる。朝日に照らされた影はもう蠢いてはおらず、ゆったりと私を見つめている。まだ、完全に平気になったわけではないけれど。
「…少しだけ、平気になりました」
「そりゃそうだ。怪談の終わりは一番鶏と決まっているのさ」
中禅寺さんが静かに襖を開く。夜明けの光が、私を照らし、長い影を作っていた。
夫妖は徳に勝ずといへり
百鬼の闇夜に横行するは
佞人の闇主に媚びて時めくが如し
太陽のぼりて万物を照らせば
君子の時を得、明君の代にあへるがごとし
――今昔画図続百鬼/下之巻・明 鳥山石燕(安永八年)
京極堂を出て、だらだらとした坂を下っていく。
あの後、数日遅れで全ての仕事を終え、私は叔父の待つ愛媛へ帰ることになった。
中禅寺さんにお給料に加え、選別だと最中を貰い少し厚みの増したキャリーバッグを引きずっていく。
中禅寺さんは店を閉めた後もあのままそこに住むらしい。東京に来ることがあれば寄ればいいとも言ってくれた。
出涸らしで良ければ出そう、と笑いながら。なんだか、自分がここに来ることを予想しているようにも思える。
この坂は眩暈坂と言うそうだ。一見真っすぐした坂に見えて、そのくせ傾斜があったりするものだから、
歩く人は七分ほどで眩暈を起こすらしい。原理を知ってしまえば簡単なものだ。
夏の日差しに照らされ、ふ、と足元を見ると黒々とした影が居座っていた。まだ慣れてはいないが、じっと見てみる。
…そこまで怖いものでもなかったのかもしれない。結局は見るもの次第なのだろう。
眩暈坂を下り切り、叔父に電話をかけようと携帯電話を取り出した。と、指が何か別の物に触れる。四角い、紙のような。
「…あ」
思わず声が出た。取り出したのは少し縒れた四角い紙。…何故今までこれを持っていたのだろう。苦手だった、知ろうともしなかったはずなのに。
黒い影のようなスーツを思い出す。何年かかるかは分からない。しばらく悩み、一瞬止めようかと思ったその時、風が吹き上げた。
髪が掻き上げられ、世界は光に照らされた。
――この世には、不思議なことなど何もないのだよ
偶然だろう、でも、それでも。電話番号をプッシュする。コール音が響き、影女の声がする。
「…お母さん、私、…アイドルになってみようかと思います」
鷺沢文香が光の下に立ったのは、平成二十五年の青葉が萌える頃だった。
(了)
これにて終了。
お付き合いいただきありがとうございました。
良さ
りん、と鳴った の所はやはり外せない
乙
京極っぽさが滲み出ていて、見事でした。
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