・オリジナル設定、オリジナルキャラクターが登場します。
・やや性的な表現が含まれます。
・初めての地の文SSですので、お見苦しい点もあるかと思われますが、ご容赦ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1459173859
西門慶(にしかど けい)は、346プロダクションの自身のデスクで、静かにコーヒーを飲んでいた。
次に、朝一番に行う業務として、アシスタントの千川ちひろが運んできた自分宛の郵便物を、ペーパーナイフで丁寧に開封していく。中身は他会社のパンフレットなどが多いが、既に開封されているものは、経理から確認のために回されてきた、協力業者からの請求書だったりする。
書類関係を検めた後に、新聞を流し読みしつつ、慶はこの346プロダクションの今後に思いを巡らせた。
アメリカから帰国した346グループ会長の娘が、常務として346プロダクション・アイドル事業部の陣頭指揮を執り始めたのが、つい一週間程前。
346のアイドル部門は創設されてまだ数年だが、美城常務は、346のブランドイメージに沿う者だけを起用し、沿わない者はてこ入れする、という極端な方針を打ち出した。
これまでの346は、個々の個性を生かしつつ、自由に活動させるという方針だったが、それではいつまでたっても成果が得られない可能性がある、との考えらしい。
周囲の者たちには、狼狽える者、慌てる者などが多かったが、慶自身はその混乱の渦中からは少し離れたところで、状況を静観していた。
アイドル部門自体が成熟していない中での、この極端な方針転換である。迂闊に動いて火傷をするのは御免蒙りたい。
慶は美城常務の方針に、賛成も反対もしていない。
これまでは確かに、346プロダクションで働く者の多くに、346は老舗で大手だから大丈夫という油断が瀰漫していた。
個々の個性を生かして自由に活動させる、と言えば確かに聞こえは良い。だが、裏を返せば成長の停滞とも言え、実力の無い者がのうのうと会社に居座り続けるということでもある。
切磋琢磨を惹起し、アイドル達の成長を促す。競争についていけなくなった者は切り捨てる。弱肉強食と優勝劣敗は世の理であり、単純明快で良いではないか。
しかし、実力主義にも問題はある。某企業で年功序列を撤廃し、成果主義を導入したところ、新人が育たなくなったという例があるのだ。ベテランが、将来自分のライバルになるかもしれない者を、なぜわざわざ育成してやらねばならぬのか、というわけだ。
十年後、二十年後の会社経営を鑑みれば、人材育成が困難になる危険性を孕んでいることを、美城常務は理解しているのかどうか。
西門慶という男は、「西門製薬」という大手製薬会社の御曹司である。
西門家は、江戸時代末期のとある蘭学者が開祖らしい。らしい、というのは、慶が自分の家の由来など特に気にしていないためだ。
江戸幕府の終焉、明治政府の樹立、富国強兵策の推進、そして対外戦争。江戸末期から明治の激動の時代に、この蘭学者は医学から薬学の道を志し、巨万の富を築き上げた。
何をしたのかと言うと、日本は文明開化によって爆発的に人口が増えること、戦争では必ず負傷者が出ることに着眼し、必然的に医薬品の特需があることを予想したのである。
日本という閉鎖されていた島国が大きく生まれ変わるなかで、この蘭学者は時流を読んで、多額の借金までして製薬工場を作ったのだから、その慧眼は瞠目に値する。
それ以来、第二次世界大戦で日本が敗戦するまで、この製薬会社は大きく成長した。それこそ、他の著名な財閥と肩を並べるまでに。
終戦後、他の財閥と同じようにGHQに解体された西門だが、その膨大な資産はいささかも失われておらず、現代に到るまで財政界にいまだに隠然たる影響力を持っている。
大企業の御曹司なのだから、芸能プロダクションで働くことはおかしいと思われるだろう。しかし慶には兄がおり、慶自身には一族の継嗣たる資格は無い。
父親は、慶に西門製薬本社の役員、またはグループ会社の役員の席を用意していたが、彼はにべもなく断った。面倒ごとは兄に任せて、自分は放埓に生きればいいと思っていたからである。
そんな西門慶が、なぜ346プロダクションなどという畑違いの会社に入社したのか、それは二つの理由にある。
一つは、西門製薬が346の筆頭スポンサーであること。自社でテレビ番組、映画まで制作し、ライブなどのイベントを企画する346は、西門製薬にとって格好の広告塔だった。そういう西門製薬の御曹司が入社を希望してきたのだから、346側としても否とも言えない。
確かに、西門製薬は346の株主ではある。しかし、この男は西門製薬から正式に出向してきたわけではないため、適当な部署に配属させて、捨扶持を与えておけばいいという魂胆であったろう。
二つ目の理由は、慶自身にある。それは、慶が非常に好色であるということだ。
彼が職場を選定する際、真っ先に考えたのは、女性と触れ合う機会が多い場所が良いということだった。
十代の頃から、不純異性交遊によって親を困らせてきた彼だから、女性、それもとびきりの上玉と出合える場所と言えば、芸能プロダクションだろうと安易に考えたのだ。
では、346プロダクションに入社した彼が、ただ窓際で遊んでいただけかと言えば、決してそうではない。
長身と、端整なルックスを持つ慶は、担当のアイドルとすぐに打ち解けることができた。数ダースほどの女を手玉に取ってきた彼なのだから、未通女(おぼこ)同然の少女たちとのコミュニケーションなど朝飯前である。それに、慶は時代に合わせたセンスと機知によって、彼がプロデュースしたアイドル達はそれなりに売れていた。
そんな慶に唯一不満があるとすれば、自分がどんなに成果を上げても、所詮は親の七光り、コネで入社した奴だからと周囲から評価されてしまうことだった。
◆
慶が廊下を歩いていると、前方から清川武大(きよかわ たけひろ)が現れた。
「やあ、清川じゃないか」
「西門君、おはよう」
慶と挨拶を交わしている、この清川武大は、風采の上がらない小男である。見た目は、まさに慶と対照的であった。とても同期とは思えない。
慶が、それなりの数のアイドルを世に送り出しているというのに、清川が担当するアイドルは、あまり活躍できていない。機転がきかず、熱意はあるが仕事ができないといったタイプで、他の社員から侮蔑の目で見られている。
そんな清川だが、今時では骨董品かと思われる程に珍しい善人であり、心底から彼を嫌っている社員は皆無であろう。
もっとも、慶自身も、他人に容喙できるような立場ではない。担当アイドルに手を出しているという噂に始まり、慶自身の圭角もあり、あまり周囲からの評判は芳しくないのだ。
しかし慶の場合は、嫉視反感に財閥の御曹司というファクターが多分に含まれている。そんなものは幼い頃から経験しているため、腫物扱いは気にもならない。
「聞いているよ、西門君。最近、また新しいアイドルをデビューさせようって話じゃないか」
「清川は耳敏いな。まあ、いろいろとプランを練っているところだよ」
「そうなんだ。君はいいな、仕事ができる男で。今度じっくり、そのプロデュースのノウハウを指導してほしいもんだよ」
何を言っても、嫌味に聞こえないのが清川の美点かもしれない。他に二、三言葉を交わし、二人は別れた。
慶が廊下の曲がり角にさしかかった時、後ろで女の声が聞こえた。振り返ってみると、清川が、自身の担当アイドルの神谷奈緒と、何か話しているところだった。
神谷奈緒は、いまのところ芽が出ていないアイドルである。少し恥ずかしがりやで、扱いにくいように見えるかもしれない。
一見すれば、ぱっとしないプロデューサーに、ぱっとしないアイドル。
しかし慶は、神谷奈緒は磨きようによっては大成すると睨んでいる。例えば、他のアイドルとユニットを組ませれば実力を発揮すると思うのだが、清川は彼女のポテンシャルを引き出せていない。
慶は心の中で神谷奈緒に同情しつつ、その場を離れた。
◆
ジュースキントの、「香水 ある人殺しの物語」という小説をご存じだろうか。
超人的な嗅覚を持つ主人公グルヌイユが、街中で出会った女性の香りに憧憬を抱き、その香りを香水で再現しようとして、次第に狂気に取り憑かれていく物語である。
いま、慶の目の前にいる一ノ瀬志希という少女は、グルヌイユと同じように優れた嗅覚を持ち、尚且つ彼女自身の体臭は完全に無臭だった。楊貴妃や薫大将の体質である、挙体芳香とは真逆と言える。
匂いが無いというのは想像以上に奇妙なもので、ただでさえ彼女は猫のように歩くものだから、視界に入っていないと存在を認識できない。
「それで、研究の方は進んでいるのか?」
「まあねー……ほら、これ見てよ」
志希が差し出したのは、化粧水を入れるようなスプレーボトルだ。中には透明な液体が入っている。
「これが例の香水か。ただの水にしか見えないけどな」
「間違っても飲んじゃダメだよ。試すなら、一吹きだけにしてね。名付けて、『サテュリオン』なのだ」
「ラブ・ポーションじゃないのな」
「チッチッチ、捻りが足りないよ、西門クン」
サテュリオン。それはローマの政治家、ペトロニウスの著作「サテュリコン」に登場する媚薬の名である。正確に言えば、媚薬の原料となる植物の総称で、それが現代では何にあたるのか、諸説あり詳細は不明だ。
慶は、一ノ瀬志希に自分のタワーマンションの一部屋を与えていた。慶が、フロアごと借りているうちの一室である。
志希と出会ったのは、慶が以前にアメリカにいた時だ。
偶然慶が住んでいた都市に、飛び級で大学に入学し、化学を専攻している日本人がいると聞いて、興味本位で会いに行ったのだ。
アイビーリーグの某大学に、飛び級で進学しているとあって、当初、彼女との会話にはついていけなかった。
メルヴィルの「白鯨」におけるクジラの生態解説や、デュマの「モンテ・クリスト伯」における毒薬の解説などを想像すればいいかもしれない。素人にもわかりやすいようにかみ砕いているが、度々登場する専門用語を調べていては、日が暮れてしまう。
本当に日本語を話してるのか、と言いたくなるぐらいだったが、志希との会話にある種の諧謔を感じた慶は、それ以降なるべく彼女が興味を持ちそうな話題を心掛けた。
“……では特別に、奥様だけにお教えしましょう。いいですか? 例えばマチンという薬を最初は一グラム、次の日は二グラムと量を増やしていくと、二十日目には二十グラムのマチンを一度に摂取することになりますが、死ぬことはございません”
“まあ、そうなの?”
“しかし、最初から二十グラムも接種してしまうと、その人にとって猛毒になるのです。こうすれば、同じ瓶から飲んでも、相手だけ殺せるでしょう?”
“素晴らしい考えだわ!”
“東洋人は、つくづく薬の知識に長けていますからね……”
……決して、こんな会話をしていたわけではない。
数日おきに訪ねてくる日本人を見て、志希も鬱陶しくならなかったのか。最初は暇つぶし程度にしか思っていなかったであろう。恐らく、志希がまともに食いついてきたのは、慶が製薬会社の御曹司と知ってからだと思われる。
それから暫く経って、日本に帰国する直前、慶は別れの挨拶のために志希の下を訪れた。そして、その席で志希に言われたことが、慶の人生の転機となる。
その日は、穏やかな日差しの昼下がりだった。
大学の図書館には、幾人かの学生の姿が見受けられ、アメリカン・ボザール様式の館内は、学問に対しての誠実さを要求してくるような、森厳な雰囲気を醸成している。
しかし、その一角で交わされている慶と志希の会話は、鴆毒に等しいものだった。外の天気とは正反対に、そこだけ淫雨が降り注いでいるようだ。
「……そんじゃあさ、あたしも連れてってくれない?」
「おいおい、冗談はやめてくれ」
「冗談だと思う? こー見えても、志希ちゃんは大まじめなのだよ」
ニタニタと笑う志希を、慶は呆れ顔で見た。まるで、不思議の国のアリスに登場するチシャ猫のようだ。
この時、既に志希は大学卒業間近であり、てっきりアメリカで化学分野の仕事に就くものだと思っていたから、慶としては青天の霹靂である。
そんな慶の内心を知ってか知らずか、志希は机に置いてあったハードカバーを、慶の目線に持ち上げて見せる。
その表紙には、「Das Parfum – Die Geschichte eines Mörders」と記されていた。
「ジュースキントか」
「なんだ、この小説知ってたの」
「原作も読んだし、映画も観た」
「なら話が早い♪」
志希は、卑猥な笑みを浮かべながら人差し指を立て、クルクルと回してみせる。
窓からは光箭が差し、空気中の埃がキラキラと反射され、静謐な図書館を演出しているが、彼女の表情と仕草は、この雰囲気の中では軽薄に過ぎた。
「知ってると思うけど、グルヌイユはね、街中で一目惚れした女性に惹かれ、その体臭を香水で再現しようとするんだ。まあ、のめり込みすぎて殺人とかやっちゃうんだけどね。けっきょく、なんだかんだあって死刑宣告を受けて処刑台に登らされる……」
志希はそこで言葉を切り、首を吊るような手振りをした。
「……けど、その香水を観衆にふりかけて、自分に死刑を求刑した者たちを魅了して、判決を覆しちゃうんだ。人間の精神を捻じ曲げる香水……そんなものがあったら、すごいと思わない?」
そんなものがあったら、すごいどころの話ではない。呆然とする慶の表情に満足しているのか、志希は話を続けた。
「そこで志希ちゃんは思いました。ファンタジーの中で、惚れ薬ってのが出てくるでしょ? ほら、おとぎ話の魔女が、悪い顔しながら鍋をかきまぜてたり……誰もが現実にはあり得ないと思ってるけど、なんとか再現できないかなーって」
慶は、志希の真意が読めなかった。しかし、ここは志希に話を続けさせるべきだろう。彼女はよく、煙に巻いた話し方をするが、発する言葉には必ず意味があるということを、慶は短い付き合いで知悉していた。
“She keeps Moet et Chandon in her pretty cabinet”……どこかで聞いた歌詞が、脳裡を掠めた。
「だからさ、志希ちゃんのギフテッドの頭脳と嗅覚と、キミの財力がタッグを組めば、向かうところ敵なしってわけ」
怪訝な顔をする慶を嘲笑するように、志希は更に言葉を継ぐ。
「惚れ薬があれば、キミはどんな女も掌中にできる。惚れさせるということは、つまり傀儡にできるってわけだからね。鷦鷯深林に巣くうも一枝に過ぎず、って誰かさんは言ったらしいけど、キミの野心が世間の片隅に収まるとは思えないなー」
「なら、志希にはどういうメリットがある? 香水だか惚れ薬だか知らないが、俺を利するためにしかならないじゃないか」
「キミの言うとーり。ま、あたしには最初(はな)から惚れ薬を使ってどうこうしようって意図は無いわけよ。強いて言うなら、学術的興味ってとこかな?」
慶は目の前にいる少女を、まるで蛇のように錯覚した。アダムとイヴに、失楽園を齎す蛇の誘惑。
しかし、慶はその誘惑に乗ることにした。志希の言うとおり、このまま財閥の次男として燻っているのも癪である。ここはひとつ、蛇の甘言に従い、荒淫と頽廃で身を崩すのも良いのではないか。
慶は黙ったまま、志希に右手を差し出した。志希は脂下がった顔で、両手で慶の右手を包み込み、ブンブンと上下に振る。
「けーやくせーりつー♪ どんどんぱふぱふー♪ これであたしとキミは一蓮托生……ま、一つよろしく!」
志希は、先ほどとは打って変わって莞爾と笑い、両手に力を籠める。この瞬間、慶は自分の親族に対し、面従腹背の態度を取ることを決めた。悪魔に魂を売った気がしないでもないが、その感傷はすぐに打ち消した。
世に従へば、身苦し。従はねば、狂ぜるに似たり。昔の人は良いことを言う。それならば、存分に狂ってやろうではないか。
脳内の遠くで、彼女との契約を回想しつつ、慶はスプレーボトルを見つめる。
「しっかし、グルヌイユの香水を本当に再現できるとはねぇ」
「何なら試してみる?」
「興味はあるな」
媚薬というものは、二種類に大別できる。
一つは、性器の機能を一時的に向上させるもの。近年開発されたバイアグラなどは、勃起機能改善薬として特に有名だ。
古くからのもので言えば、卵、馬肉、狸汁、蝮酒などがあるが、これらは個人差が大きく、ほとんどプラシーボ効果に近い。
もう一つは、精神に影響させるもの。所謂、「惚れ薬」というものだ。
しかし、惚れ薬のように精神を操る薬品は、まったくのファンタジーであり、この世には存在しない。
つまり、媚薬は二種類あると言ったが、実在するのは前者のみと言える。
ところが志希は、後者の媚薬を開発してしまったのだ。
かつて、オーストリアの精神科医フロイトは、性欲とは、性的衝動および欲求を引き起こす心的エネルギー、「リビドー」であると提唱した。
しかしこれは、根拠が無い、妥当性に欠けるとして近年では否定されている。
一般的な生物学的見地からすると、男性の場合は、睾丸内で精子が生成される際に、テストステロンという男性ホルモンの一種が分泌され、それが性欲を引き起こすとされる。
一方女性の場合、排卵周期によって、このホルモンの分泌量が変化するという仕組みだ。
当然のことながら、テストステロンの分泌量には個人差があり、女性の分泌量は概ね男性の十分の一といったところだろう。
ならばテストステロンを投与すれば、性的興奮を亢進させることができるという理屈になるが、そう簡単ではない。
テストステロンは、アドレナリンと同じように鎮痛作用を持ち、量が増えると性格が暴力的になるといわれ、極度の興奮は心身に負荷をかけてしまう。それに近年では、前立腺癌の発症リスクが上昇するという研究結果も学会に提出されている。
そもそも、どうやって相手に投与するかという問題がある。
効果が覿面なのは静脈注射だが、これは相手に注射針を打たなくてはならないため、論外。
密かに、飲み物や食べ物に混ぜるという手段もあるが、経口摂取は吸収率という点で非効率すぎ、現実的ではない。
そこで志希は、匂いによる惚れ薬の開発を研究することにした。
嗅覚は、人間の器官の中でも謎の多い部分であり、多彩な可能性を秘めている。
特に、鋤鼻器(ヤコブソン器官)は、フェロモンを受容する器官であり、ドミトリー効果などを利用すれば、惚れるとまではいかなくても、相手の意識をこちらに向けさせる、または同調させられるのではあるまいか。
慶は志希の希望通り、香水を作成するための資金と場所を提供した。
市販で購入できる資材は、すでに粗方志希が所有していたが、慶が驚いたのは、調香の材料が意外に値のはるものが多いということだった。
麝香などはまだまだ序の口で、特に「龍涎香」の法外な値段を知ったとき、慶は閉口したものだ。
ちなみに龍涎香とは、マッコウクジラの体内に生成される結石で、偶然体内で消化できなかった食物(イカなど)が数年がかりで結石になり、偶然クジラの体外に放出されたものが数年かけて海を漂流し、偶然浜に漂着したものを、偶然人間が採取することによって世間に流通している。
おそらく、天文学的な偶然が積み重なって、この代物が入手できるのだろう。そのため、グラムあたりの値段は金を越えることもある(付言すると、生成された期間によって龍涎香のランクも変わる)。
これだけ説明すれば、龍涎香がどれだけ希少な品か、おわかりいただけるかと思う。
高価なだけなら、金はあるので問題は無い。しかし、志希が罌粟(ケシ)や大麻が欲しいと言い出した時には、さすがに躊躇した。
言うまでもなく、これらの単純所持及び栽培は法律で罰せられ、所有するには国家から認可を受けなければならない。
そこで慶は、法律の抜け穴を利用することにした。
何ことはない、罌粟や大麻を、家畜の飼料用という名目で輸入したのである。その手の偽装工作をして麻薬を販売する業者はいくらでもおり、発注する際も海外のサーバーを経由し、仕入れ先も登記ででっちあげた幽霊会社(ペーパーカンパニー)を指定した。
志希曰く、できれば「蘭奢待」も欲しかったとのことだが、いくら大金を積んでも、正倉院に秘蔵されている香木は、さすがに入手できない。
蘭奢待は「東大寺」とも呼ばれる香木で、歴史上の朝廷の功臣たちが、その香木から一片を切り出すことを、恩賜として当時の天皇に許されたという。
蘭奢待は伽羅(沈香)の一種で、天下一の名香と言われており、そんな国宝級の代物には手を出せないので断念した。
かの有名な「ジョイ」という香水も、常識では考えられない程の値段がするし、マリリン・モンローが就寝時につけていたとされる「シャネル№5」も、一般人が毎日使用するには躊躇われる金額である。
慶は香水の相場を調べていくにつれ、人類がどれだけ香水に情熱を注いできたのか、再認識した。
「えいっ!」
ぼんやりしていたら、プシュ、というスプレー音がした。慶は慌てて、目の前に意識を戻した。
「どう?」
志希が悪戯っぽく笑う。彼女がサテュリオンを噴射したと気づいたのは、その噴霧を十分に吸い込んでしまった後だった。志希も、わざとらしく深呼吸する。
「即効性があるからね、今にも作用してくると思うよ」
「そんなわけあるか……」
言い終わるか終わらないかの内に、視界が少し揺れた。まるで、人生で初めて煙草を吸ったときのように。
「まさか……」
「ふふふ、結構効くでしょ? 今にも、志希ちゃんにメロメロになっちゃうんじゃないかな?」
確かに、志希を見つめていると、心の中に漣がたっているような気がする。心なしか、志希の表情も蕩けて見えた。
「ねえ……」
志希が何か言いかけたが、もう我慢できなかった。慶はやにわに志希を抱きすくめると、その唇を、自身の唇で塞いだ。
さっきは少し眩暈がしただけと思っていたが、いざ志希の唇を吸い上げると、口の中を蹂躙したくなった。慶は目一杯に舌を伸ばし、志希の口をまさぐる。 明らかに今の自分は、普段よりも興奮しているようだ。つい二日前に、彼女を抱いたばかりだというのに。
志希は薄目を開けて、なすがままになっている。彼女に対する愛しさと、彼女を滅茶苦茶にしたいという獣欲が、心の中で絡み合った。
「ぷはっ……薬効はバッチリだね。いままでこんなに食いついてきたことなかったのに」
一旦志希を開放すると、彼女は嫣然と微笑み、満足気に宣った。
ならばこちらも、その研究成果に報いねばなるまい。
「ちょっとこっちに来い」
慶は、志希の手をつかんで引っ張っていく。
部屋の隅に置いてある仮眠用のベッドに、慶はやや乱暴に志希を押し倒した。
乙
あんたのボキャブラリーはどうなってんだ。光箭なんか変換で出なかったぞ
乙
もしかして元ネタって映画かな?
冗長な設定や説明をだらだらと垂れ流した、典型的な厨二病のSSって感じだな
フランス映画だったな
色々えげつない内容だったわ
裁判覆したのにラストはあれでよかったのか?と思う
◆
「慶さん!」
慶が346社内の廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
駆け寄ってきたのは、北条加蓮。慶が担当しているアイドルだ。
「そういえば、今日は衣装合わせだったか?」
「うん。あの衣装って、慶さんが用意してくれたんでしょ? とっても素敵だった」
加蓮は嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女を見ていると、思わずこちらまで破顔してしまう。
北条加蓮という少女を面接したとき、慶は最初、こいつはアイドルになれないなと感じた。
小さい頃からアイドルに憧れていたと言うが、そのわりには、目の奥に諦念が揺らめいていたからだ。
よくよく話を聞いてみると、加蓮は小さい頃から入退院を繰り返しており、友達もできず、ただ病室でテレビを見ているしかなかったらしい。
そんなとき、TVの向こう側で活躍するアイドル達を見て、自分も誰かに夢と希望を与えられる者になりたいと願ったそうだ。
慶は、加蓮が幼い頃病弱だったと聞いた時、ファロー四徴症や筋ジストロフィーのような難病だったのかと想像した。
ついでに、難病を奇跡的に克服し、生きる希望を見出した彼女はアイドルを目指すようになったのだ、という展開であれば漫画の主人公みたいで面白いのに、という不謹慎な妄想までした。
冷静に考えてみれば、ファロー四徴症は1、2歳の時期にブレロック法(鎖骨下動脈断端と肺動脈を吻合する手術)を適用するし、筋ジストロフィーはそもそも抜本的な治療法が確立されていない難病である。
大雑把だが、免疫疾患や先天的な虚弱体質か何かと推察するのが妥当だと、素人の知識で勝手に結論付けた。
益体も無い妄想に耽る慶を見て、加蓮は相当気を悪くしたようだ。
次第に、胡乱な眼差しになっていく彼女に気づき、慶は慌てて話を進めた。
「ダンスレッスンとか、結構厳しいぞ。それに、ステージ衣装は布を何枚も重ねて作られているものもあるから、見た目以上に重量がある。それでも大丈夫か」
「ううん。体力には自信ない」
「じゃあ、自分の歌唱力には自信あるか? 音楽の経験は?」
「よくカラオケは行くけど、音楽の経験と言えばそのくらい」
要はド素人というわけだが、別段珍しくもない。とりあえずダンスとボーカルの両方をテストしてみたが、歌唱力には見るべきものがあったものの、その他は想像通りの技倆だった。
しかし慶は、北条加蓮という少女は、アイドルとして上手くいくのではないかと思った。
本人は努力家タイプではないと明言していたが、慶から技倆の拙さを指摘された時、意外に悔しそうな顔をしたからだ。
やり方は俺が指示する、後は君のやる気次第だ、どうする、と聞いたら、頑張る、という返事が返ってきた。
その日から、慶は北条加蓮の担当プロデューサーになった。
「……ねえ、次のライブ、上手くいくかな?」
「大丈夫さ、今日まで加蓮は頑張ったよ。練習どおりにやればきっと成功する」
正直なところ、加蓮の指導には手こずった。
まず彼女は、一般人に較べて著しく体力がなかったのだ。当初は、ダンスレッスン中に貧血を起こすこともしょっちゅうで、ひやりとしたことも一再ではない。
そのため、じっくり腰を据えることに決めた慶は、長期的な育成プランを練った。加蓮が体調を崩さない程度にスケジュールを組み、常に健康状態に気を配る。
他のプロデューサーからは、一人のアイドルに対して過保護すぎると言われたが、慶は聞こえないふりをした。
加蓮も、最初は弱音を吐くことが多かったが、慶の熱意を感じ取ったのか、何事も前向きに取り組むようになった。
なぜ北条加蓮にそこまで情熱を注いだのか、それは慶自身にもわからない。自分は思っている以上にお人よしなのか、ただの道楽だと考えていたのか、当時の自分の行動を振り返るたび、慶は苦笑してしまう。
そしてようやく、合格点に達したと思った今、本格的に加蓮のアイドル活動を開始することにした。
まずは、近所のCDショップでミニライブを開催し、CDデビューさせる。もちろん、このCDショップは346傘下の店舗なので、咄嗟のアクシデントにも対応できるようにという配慮だ。
それに、このCDショップのミニステージは、精々百人程しか収容できない。初めてのライブとしては、恰好の場所だと言える。
「ねーねー慶さん、お腹すいたー」
そう言いながら加蓮は、慶の腕に絡みついてくる。最初は、慶に対してアンタ呼ばわりだったが、次第に心を開くようになったのだ。
だがそれにしては、あまりにも自分に対する思慕の情が深すぎるように思われる。それとなく問いただしてみると、加蓮の病気は、西門製薬の新薬を用いて治療したらしい。
別に、自分が加蓮を助けたわけではない。そう加蓮に言ったのだが、彼女は笑って答えなかった。
「はいはい。じゃあ何を食べる?」
「ハンバーガーは……さすがに社員食堂にも無いか」
加蓮は偏食が多い。今後は食事にも気をつける必要があるかもしれない。
「中庭のカフェに行けば、サンドイッチぐらいあるだろ」
「じゃあそうしよっか。もちろん、慶さんの奢りでね」
こいつ、ベッタリくっついてくるのは、本当はたかりたいだけではないのか。慶は時々、そう思うのだった。
◆
あともう少しでライブが始まるというのに、加蓮はパイプ椅子に腰かけ、いまだにミュージックプレーヤーで歌を確認している。
程よい緊張は良いが、緊張しすぎるのは良くない。しかしここまできたら、プロデューサーとしてできることは、声をかけるぐらいのものだろう。
「加蓮……」
「……」
そろそろ開始予定時刻なので、用意させなければならない。しかし、加蓮は余程集中しているのか、それとも単に聞こえていないだけか、呼びかけても反応が無い。
さすがに見ていられなくなったので、慶は無理やりイヤホンをむしり取った。見上げてくる加蓮の顔が、緊張で蒼褪めている。
「できるな、加蓮?」
「う、うん……」
そう言って、加蓮は立ち上がる。衣装の皺を手早く確認すると、舞台に向けて一歩踏み出した。
「ねえ慶さん、私の初舞台、ちゃんと見ててね」
「なあに、お前ならちゃんとできる。なんたって、北条加蓮は俺が育てたアイドルなんだからな」
「ふふっ。それって、頼りにしていいことなの?」
「良い笑顔だ。緊張するなとは言わないが、自然体でいけ」
「うん!」
吹っ切れたのか、覚悟を決めたのか、加蓮はしっかりした足取りで舞台に躍り出た。
低性能の音響、貧弱な照明。アイドルの活躍の場としては、どこか物足りないステージだった。しかし今、加蓮の歌声は、百人足らずの観客を魅了している。
加蓮のデビュー曲は、哀切なバラードである。アイドルらしい華やかさはないが、聞く者の心を惻々と打つ歌だ。
神様がくれた 時間は零れる あとどれくらいかな
加蓮の歌を聞いていると、心の中に何かが揺蕩う。それはこの歌詞のせいなのか、加蓮の歌唱力のなせる業か、判然としない。
ライブが始まる前、会場にはある種の熱気が立ち上っていた。今度デビューするアイドルは、どんな娘なのだろうかと期待するような熱気。
しかし今、この場にいる全員が静かに聞き入っている。まるで、一人ひとりが孤愁しているかのように。
でもゆっくりでいいんだ きみの声が響く
そんな距離が 今はやさしいの 泣いちゃってもいい?
ステージ上の加蓮を見つめる慶は、やはり自分が彼女をプロデュースすることになって良かったと思った。
他のアイドルよりも手間暇かけて育て上げた成果が、いま如実に現れている。
いつの間にか歌が終わり、会場は水を打ったように静まりかえった。加蓮が一礼すると、一拍おいて、割れんばかりの拍手が轟いた。
加蓮は拍手が収まるのを待ち、観客に対して頭を下げた後、謝意を述べる。
「まだまだ駆け出しのアイドルですが、北条加蓮をよろしくお願いします!」
月並みだが、誠心溢れる加蓮の挨拶に、会場の観客は再び惜しみない拍手を送った。
ライブが終わった後、用意していたCDは完売した。
加蓮は丁寧に、CDを購入したファン一人ひとりと握手し、CDにサインしていった。
「お疲れ様。初めてのライブとしては、大成功だな」
「ありがと、慶さん。私、そんなに上手くできたんだ」
「これなら、今後のアイドルとしての活躍も期待できる。もっと自分に自信を持ってもいいぞ」
「こんな私が、アイドルか……なんだか夢の中にいるみたいだよ」
イベント終了後、加蓮は舞台袖でパイプ椅子に座りながら、客が三々五々散っていく様子を、ぼんやり眺めている。
「だが、ここがゴールじゃないんだ。ここがスタートラインなんだからな?」
「そう、だったよね……でも、今は夢の中にいるみたいで、なんだかフワフワしてる」
そう言いながら、加蓮は慶に顔を向けた。
「アイドルとしてデビューできたのも、慶さんのおかげだよ。本当にありがとね」
「俺は、加蓮の手伝いをしただけだ。アイドルになれたのは、加蓮が努力を積み重ねて、ここまで諦めなかったからさ」
「そう言ってくれると嬉しいな。あの、慶さん……」
加蓮はパイプ椅子から立ち上がり、しっかりとした眼差しで慶を見据える。それから数舜の後、慶の胸に飛び込んできた。
「慶さんが、私のプロデューサーで良かったよ。これからも、私のプロデューサーでいてくれる?」
「ああ、俺は何があっても、お前のプロデューサーだ」
慶は加蓮をしっかりと抱き留め、加蓮の頭を優しく撫でた。
先ほどのライブを見るに、加蓮の実力はまだ伸びる余地があると思える。これが完成形ではないのだ。
今の加蓮は、言わば璞のようなもので、余分なものはそぎ落とし、磨くべきところも多い。
彼女が秘めるポテンシャルの大きさを感じ、慶は北条加蓮というアイドルに、広大無辺な未来を見ていた。
◆
慶は、346プロダクション内の役員室の前にいた。扉をノックし、返事を聞いてから入室する。
部屋に入ると、美城常務は革張りの椅子に座り、オーク材の重厚なデスクに肘をついていた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
美城常務の用件は薄々感づいているが、それを顔に出さずに慶は聞いた。
「君の担当するアイドルのことで、すこしね。まあかけたまえ」
「いえ、このままで結構です」
美城常務は、美人と言っても差し支えない。玲瓏たる美貌の持ち主だが、その鋭い双眸は、他者を畏怖させてしまう迫力がある。美城会長の娘ではあるが、親の七光りを頼るような甘いところは一切無い。
「君が担当している、北条加蓮というアイドルだが、彼女はあまり成果が出ていないようだ。君がどのようなプロデュースをしているのか、直接聞きたいと思ってね」
やはり加蓮のことか。予想していたことなので、慶は取り乱すことはなかった。いずれ常務から指摘されるだろうと思っていたので、あらかじめ言い訳は考えていたのだ。
「北条加蓮は、言わば大器晩成型でしてね。確かに、他のアイドルよりも少し歩みは遅いでしょう。しかし、つい先日のデビューライブでも良い反響がありましたし、用意していたCDも完売しました。この先の成長についても、期待できると思います」
「君も、私の方針は知っているはずだ。彼女の歩みを、もう少し早めることはできないのか」
「私としましては、北条加蓮の成長が、人よりも少し遅いというだけで切り捨ててしまうのは、いかがなものかと愚考いたします。常務は、『助長』という話をご存じでしょうか? 昔、宋人が苗を早く成長させようとして……」
「もういい、皆まで言うな」
慶の言わんとしていることは、常務にも伝わったらしい。
「北条加蓮の件については君にまかせよう。一応ノルマを課すが、君の采配にまかせる。今までの実績を見るに、君は過去に何人かのアイドルを大成させているのだからな」
慶は、ほっと胸をなでおろした。
「では、私はこれで……」
「待ちたまえ。今日はもう一つ用件がある」
後ろを振り向きかけた状態で、慶は焦りを覚えた。他に何か誹謗されるようなことがあるのか。
「もう一つ、とは?」
「君は立派にやってると思うが、良くない噂を聞く。単刀直入に言えば、西門慶は担当アイドルに手を出していると」
美城常務は、アメリカで仕事をしてきたというだけあって、疑問があればなあなあで済ますつもりはないようだ。
しかし、慶はこれに関しても対策があった。
「事実無根の噂ですね。自分で言うのも烏滸がましいのですが、恐らく私に対する嫉妬が根底にあるのだと思います。私はこれまで、何人かのアイドルを世に送り出してきたという自負がありますし、私が大手企業の御曹司であるということで、よからぬ反感を受けるのでしょう」
「西門製薬だったな。前から気になっていたのだが、そんな君が、どうして芸能プロダクションに入社しようと思ったのだ?」
「好きだからですよ。私は、多くの人と触れ合うのが好きですし、人が夢と希望を持ち、輝きながら活躍するのを見るのが好きですから」
会話の中で、常務の口から西門製薬という単語を引き出せたのは僥倖だった。
もっとも、常務に言わせるためにあえて、「大手企業の」と婉曲な言い方をしたのだが。
美城常務は沈思している。西門製薬の紐付きだと考え直すことによって、この男は切れないと判断するだろう。
それもそうだ。西門製薬は346の筆頭スポンサーなのだから、その紐付きの慶に不埒な真似はできない。
もし慶を解雇したとしても、不当解雇だと主張されたら346と西門製薬の関係は気まずくなるだろう。万が一、西門製薬が346から手を引くということになれば、融資を受けている銀行からも、猜疑の目で見られかねない。
慶は内心でほくそ笑んだ。毎日株価を検めていれば、おのずとわかることだが、346プロダクションの株価は微妙に下降気味なのだ。常務の改革によって路線変更し、成功を収めたプロジェクトもあるが、逆に急ブレーキがかかってしまったケースもある。
今の世の中は、アイドル戦国時代と言っても良い。多くの芸能プロダクションが簇生するなか、315プロダクションのようなライバル会社も台頭しているのだから、美城常務にも焦燥が無いはずがない。
資本主義が蔓延して久しいこの世界で、346が広告塔として使えなければ、西門もあっさり手を引くだろう。
ディケンズの「大いなる遺産」ではないのだから、江湖のスポンサーの全てが、マグウィッチのような者ではないことを美城常務は理解しているはずだ。
いや、思い違いと言う点では、ミス・ハヴィシャムかもしれないが。
「……わかった。この件に関しては今後持ち出さないこととしよう」
長い沈黙の後、美城常務はそう言った。頭の中で計算ができたのだろう。
「北条加蓮の件も併せて、常務のご英断に感謝いたします」
慶は深々と頭を下げた。
「君にはさらなる活躍を期待している。担当してもらうアイドルを増やすかもしれないが、うまくやってくれ」
「ありがとうございます。私も常務のご期待に背かぬよう、粉骨砕身し、邁進する所存でございます」
慇懃すぎるかと思ったが、これくらい下手に出られたら文句は言えまい。
そんな慶の様子を見て、美城常務は僅かに口角を上げた。
「大仰な言い方だな。コンセイユがアロナックス教授に仕えるがごとき忠誠心を、君に期待しても良いのだろうか?」
まさか、美城常務がヴェルヌを引き合いに出すとは思わなかった。慶の中での、美城常務のイメージにそぐわない。しかし慶は、この発言に美城常務の稚気を感じとった。
「“ご主人様のお好きなように”、と言いましょうか。それとも“美城常務のお好きなように”、と言いましょうか?」
慶がそう返すと、美城常務は吹き出し、笑顔を見られたことが恥ずかしかったのか、ぞんざいな手振りで出ていけと命じた。
慶は努めて平静に取り繕って退出した。廊下に出た後、一つ深い溜息を吐いた。
美城常務はあのように言ったが、従順なコンセイユではなく、不羈のネッド・ランドかもしれないし、アロナックス教授だと思った相手が、ネモ船長だったりするかもしれない。
346プロダクションという船が行きつく果ては、神秘の島か、それともモスケンの渦潮か、それは誰にも予見できないだろうと思われる。
今更だが
これ金瓶梅入ってるならスレタイにそれいれてもよかったんじゃね
パフュームか。映画版は色々端折られてた気がする
◆
「かんぱーい」
都内某所のレストランに、慶と加蓮の唱和が響く。
初めてのライブの後、加蓮から頑張ったご褒美が欲しいとねだられたので、慶はこのレストランに食事に誘ったのだった。
乾杯の後、二人は同時にグラスに口をつけた。加蓮が飲んでいるのは、ノンアルコールカクテルの「シンデレラ」。オレンジ、パイナップル、レモンをシェイクして作られるこのカクテルは、前途洋々な加蓮にとって、名前からしてふさわしい。
一方、慶のグラスには「ロマネ・コンティ」が注がれている。高級ワインとしてはベタだが、デュマが「脱帽して跪いて飲むべし」と評した逸品である。
最初のオードブルの皿が下げられると、次に運ばれてきたのは伊勢海老のクリームスープだった。
慶はスプーンを取り、姿勢をまっすぐに伸ばし、胸元とテーブルの間に拳大の間隔をあけて、音を立てずにスープを飲んだ。
加蓮も慶の真似をしようとしたが、あまりうまくできていない。
次の料理は、鯛のコニャックの蒸し煮。その次は、和牛ステーキのフォアグラ添え。慶は洗練された手つきで、加蓮は覚束ない手つきで、二人の食事は進んでいった
実は、加蓮をこんな高級レストランに誘ったのも、ちゃんと理由がある。
まず、加蓮ぐらいの年頃の少女は、皆背伸びをしたがるものだということ。慶もこのあたりはしっかり心得ている。
次に、加蓮に正式なテーブルマナーを覚えさせること。
加蓮が順調に活躍していけば、いずれ社会的身分の高い人々と会食する機会もあると思われる。トップアイドルとしての意識を、涵養するためでもあるのだ。
「どうだ? 絵に描いたような高級レストランだろ?」
「う、うん……正直、緊張しすぎて味がわかんないよ。だって、このドレスにこぼしたらと思うと気をつかうしさ」
今の加蓮の服装は、ピンクのカクテルドレスである。慶がこの食事のためにレンタルしたもので、初めて着るドレスに加蓮は戸惑い気味だった。
「その気持ちは分からなくもない。けど、テーブルマナーは万国共通だし、今のうちに覚えておけよ」
「えーっ、二人っきりの食事の時でも、私の教育なの?」
頬を膨らませる加蓮を見て、やっぱり早すぎたか、と思わないでもない慶だった。
一通りコース料理を食べ終えると、二人は満足気な様子で、ぼんやりと外の景色を眺めていた。窓から見える都内は、すでに夜の帳が下り、ビルや街灯の光が夜景を彩っている。
「なあ加蓮」
「何、慶さん?」
「この後、俺の家に来ないか?」
慶のこの言葉は予想していなかったのだろう、加蓮の顔がみるみる紅潮していく。
「もう、何言ってんの……バカ……」
「来ないか、と言っただけだ。何を想像してるんだ、お前は」
「慶さんの意地悪……」
しかし、加蓮もそれが何を意味するのか、理解できるだろう。
だが、慶は加蓮が拒否するとは思わなかった。加蓮の好意には気付いているし、慶も加蓮に対して、プロデューサーとアイドルという立場を越えて、愛情を抱いている。
「じゃあ行こうか」
そう言って席を立つと、加蓮は訝し気な顔をする。
「慶さん、お酒飲んでたよね? 飲酒運転はダメだよ」
加蓮が真面目なことを言うので、慶は少し安心した。言われなくても、誰かを横に乗せる以上そんな真似は絶対にしないが。
「そんなことはしない。アバルトはこの店の駐車場に置いて、タクシーを拾うさ」
「店に車を置きっぱって、そんなことやっていいの?」
「なあに、俺はこの店の常連だし、オーナーとは知り合いだからな」
このブルジョワめ、という加蓮の呟きを受け流しつつ、慶は席を立った。
◆
「わあ、綺麗……」
窓際に立つ加蓮は、外の夜景に見とれている。そんな加蓮を肴に、慶はソファに座り、「響」をロックで飲んでいた。微酔気味の慶にとって、響の馥郁たる風味が心地良い。
ガラステーブルの上に置かれた、響の二十四面カットのボトルがダウンライトに照らされ、一種のインテリアとして機能している。
「ねえ慶さん、他にも部屋あるんだよね? 346のプロデューサーって、こんなタワーマンションのワンフロアを貸し切れるぐらいギャラ貰ってるの?」
「そんなわけないだろ。俺は親の脛を齧ってるんだから」
「大手製薬会社の御曹司は、ドラ息子ってわけだね」
そう言って、加蓮はクスリと笑った。事実、反論のしようがないほど、加蓮の言う通りだった。しかし、このまま黙っているのも癪である。
「じゃあ、そのドラ息子の言いなりになって、のこのこ俺の家までついてきたお前は何なんだよ」
「親不孝者でも、私にとっては頼れるプロデューサーだからね。ふふっ」
加蓮は窓から離れて、慶に近づいてきた。
「で、私のプロデューサーさんは、どんなとこまでプロデュースしてくれるのかな?」
加蓮は蠱惑的に笑い、慶の首に腕を回し、唇を塞いできた。間髪入れずに、加蓮の舌が唇をこじ開けてくる。
こんなことまで教育したか、と慶は自問した。
加蓮のなすがままになりながら、慶は十六歳の小娘にしてはやるじゃないか、という感想を抱いた。だが、歯がカチカチと触れてしまうあたり、まだまだ技量不足は否めない。
教えることはまだまだ多そうだな、と慶は思った。一瞬、サテュリオンを使ってみようかと考えたが、最初ぐらいは等身大の加蓮を味わってみようと思い直す。
「加蓮、あまり性急すぎるのは良くないな。キスっていうのはこうするもんだ」
慶は加蓮を優しく引きはがした。見つめ返す加蓮の目には、期待と不安の光が揺らめいていた。
ベッド上での合歓の後、加蓮は静かな寝息を立てて、慶の隣で眠っている。
そんな加蓮の寝顔を見ながら、サテュリオンをどうやって試そうかと慶は思案していた。
志希からは、慶と志希以外の人間で試すように言われている。いままでサテュリオンの試作品を幾つも試用しているため、慶や志希では耐性がついている可能性がある、ということらしい。
媚薬としては使えるが、加蓮は慶に好意を抱いているから、惚れ薬としてサテュリオンの薬効を確認できない。そこで慶は、自身に何の感情も抱いていない、適当な人物がいるかと脳内の記憶を手繰る。
暫く天井を見つめていると、慶は悪辣なアイデアを思いついた。
その閃きには美城常務の、
「君にはさらなる活躍を期待している。担当してもらうアイドルを増やすかもしれないが、うまくやってくれ」
という言葉が根底にあった。
◆
数日後、346プロダクション社内の廊下の曲がり角にて、慶は神谷奈緒を待ち構えていた。
奈緒は今日、第二レッスン場を使用すると調べ上げている。慶は、奈緒を担当している清川から、詳細なスケジュールを聞き出していたからだった。アイドルが使用するレッスン場やスタジオが被らないように、という名目である。
奈緒がレッスン場から出てきたとき、慶は偶然を装って曲がり角から出た。
「こんにちは、神谷さん」
「あっ、お、お疲れ様です、西門さん」
先ほどのレッスンの名残か、頬に微妙に朱がさしている。
「レッスンかい? 精がでるね」
「あ、うん、アタシも早く、一流のアイドルとして活躍したいかなーって感じでさ」
神谷奈緒は、突っ慳貪のように見えるが、恥ずかしがりやでいじられやすいキャラをしている。純情で騙されやすい性格をしているので、周囲には彼女の姿は微笑ましく映ることだろう。
慶は、そんな彼女がいつまでも芽がでないことを惜しんだ。
「神谷さんは努力家だね。俺の担当しているアイドル達が、サボっているとは言わないけど、神谷さんの姿勢は見習わせないと」
「そ、そんなことないって……」
褒められて恥ずかしかったのか、奈緒は頬を染める。
「そうかな? 俺の目から見ても、神谷さんはもっと活躍して然るべきだと思うけどね」
何か思うところがあるのか、奈緒は黙り込み、うつむいた。
「俺で良ければ、相談に乗るけど」
慶はそう言いながら、近くの小会議室のドアを指さした。
今のところは順調に運んでいると、慶は思った。この小会議室は、今日はもう誰も使用しないと既に調べてある。
慶は奈緒を椅子に座らせ、向かい合うように自分も座った。奈緒から無理に言葉を引き出す必要はない。
暫くの沈黙の後、奈緒は訥々と話し始めた。どうして自分は、こんなにも努力しているのに、なかなか飛躍できないのか。清川のプロデュースが間違っているとは思わないが、それでも違和感を覚えること。いまの自分は、何が間違っていて、どう直せばいいのか。
やはり、慶の予想通りだった。いまの奈緒は、自分の立場に不満を持っている。それに、美城常務の方針転換に焦燥している。しかし、自分が活躍できないのは、清川にも責任の一端があるとは考えず、全て自分のせいにしているのは、彼女の性格ゆえだろう。
次第に、奈緒の言葉に苦衷が滲んでくるのが、手に取るようにわかった。このあたりだろう、と慶は内心身構える。神谷奈緒の心の隙間に付け入り、無門の一関を破る好機は、そろそろだ。
慶は自然な動作で、腕時計で時間を確認した。清川から聞き出したスケジュールによれば、そろそろ彼が奈緒を迎えにくるはずだ。
「……なあ奈緒、俺はお前が、このまま終わるようなアイドルじゃないと思ってる」
「え?」
慶は奈緒に詰め寄り、彼女の手を握った。口調の変化と、突然手を握られるという行為に、奈緒は思考がストップしている。これでイニシアチブはこちらのものだと、慶は勝利を確信した。
「俺は前から、お前が伸び悩んでいるのを知ってた。本心を言うと、俺はお前をプロデュースしてやりたいぐらいなんだ」
「そんなこと、急に言われても……」
奈緒は困惑し、下を向く。そこで慶はあえて一度手を離し、椅子に座り直した。
「いきなりこんなこと言って悪かった。けど、俺の気持ちは無碍にしないでほしい」
「い、いや、こんなアタシを気にかけてくれるのは、正直嬉しいよ。けど、アタシは……」
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
しかし、気まずい空気になるのも予測していたことだ。こういう空気になったら、自分から話題を変え、別のものに目先を向かせることができる。
「ごめん、奈緒。なんだか乱暴だったよな」
「いや……西門さんに、そこまでご心配かけてるなんて、こっちこそ悪かったよ」
悪いのはこちらの方なのに、奈緒はまるで自分に非があるような言い方をした。
「そうだ、俺、良いものを持ってるんだ。ほら、香水なんだけど」
「香水? アタシ、そういうは疎いんだけど……」
「心を落ち着かせる香水だよ。ちょっと試してみようか」
そう言いつつ、慶は懐からサテュリオンを取り出し、奈緒と自分の間に一吹きした。キョトンとしながら、奈緒は匂いを嗅いでいる。
「ん……なんだか、言い匂いだな」
暫くの間、奈緒は目を瞑りながら匂いを嗅いでいたが、目を開けた時には、困惑したような顔をした。
「あれ、何だろ……ちょっと、眩暈がするような……」
奈緒の姿勢が崩れかけた。慶は素早く立ち上がり、奈緒の体を抱き留める。
「大丈夫か、奈緒」
「う、うん……」
慶は奈緒を抱きしめながら、廊下の気配を探った。この部屋に入る時、わざとドアを少しだけ開けておいたのだ。
間違いなく、誰かが外から室内を覗き見ている。おそらく清川だろう。
気付かないふりをしつつ、慶は自分の唇を奈緒のそれに近づけていった。奈緒は特に抵抗する素振りも見せず、慶の接吻を受け入れた。
次の瞬間、ドアの外から慌ただしい、駆け去るような足音がした。奈緒は驚いて、唇を離した。
「やばっ、もしかして、誰かに見られた?」
「ん? 何のことだ?」
十中八九、清川だろうが、慶はあえて知らないふりをする。
「アタシの思い過ごしかな……いや、何でも無い」
奈緒はそう言うと、もじもじし始めた。慶は奈緒が何を言いたいのか察したが、あえて何も言わなかった。
そろそろ、清川さんが迎えに来ると思う。暫くしてから奈緒はそう言って、会議室から出て行った。慶は引き止めもせず、黙って見送る。
去ってゆく奈緒の背中を見ながら、慶は事が上手く運んだことと、サテュリオンの真価を確認できたことで、思わず笑みをこぼした。
◆
奈緒との事件から暫くして、慶は再び美城常務に呼び出されていた。
ノックをし、返事を待ってから入室する。
「まあ、かけたまえ……と言っても、君は立ったままで良いのだったか?」
「私も、デジャヴを感じます」
慶は、美城常務のデスクの前で直立した。
「今日は君に聞きたいことがある。清川君のことだ」
「清川君は私の同期ですが、彼がどうしたのです?」
美城常務は、まっすぐに慶を見据える。
「清川君が、退職届を提出してきた」
「それは何故?」
その原因を作ったのは慶であるが、空々しく慶は聞いた。
目の前で、担当アイドルが他のプロデューサーと交情を深めていたのだ。気の弱い清川のことだから、慶に食って掛かってくることもあるまい。
慶はあの時そういう計算をし、あえて清川の目の前で奈緒と接吻して見せたのだ。
この少女にふさわしいプロデューサーは、この自分だと示すために。
「さあ、私にもわからない。確かに、彼の業績はあまり良いとは言えなかった。しかし、仕事に対しては真摯に取り組んでいたし、彼なりに努力している面もあった。それに、346を取り巻く情勢は予断を許さないため、一人でも多くの人材を欲しかったのだが。そこで、同期の君は何か知らないだろうかと思ってね」
なるほど、そういうことか。やはり、全て慶の思惑通りに事が進んでいる。
「成果主義、実力主義は、常務が先般の会議で披瀝されたことでもあります。同期として酷な言い方に聞こえるかもしれませんが、率直な意見を申しますと、彼は常務の求める有為な人材ではなかったのではありませんか」
慶はここで一度言葉を切り、常務の表情を窺った。常務は無言で先を促した。
「むしろ、ここで泣いて馬謖を斬り、全体の弛緩した空気を引き締めるという常務の判断は、統括重役として称賛に値するものだと思われます」
慶の言い回しは、あくまでも美城常務の意見に賛同するものであり、自分から積極的に清川を追い落とそうとする言質を取らせていない。また、美城常務に対する阿諛追従も含まれており、狡猾で巧妙な弁舌だった。
それに、わざわざ一社員の処遇について諮問されるということは、自分は美城常務からそれなりの信頼を得ていると、慶は判断した。
美城常務は暫く思案しているようだったが、顔をあげると、
「君の意見はわかった。では、清川君が担当していたアイドルだが……」
清川を切り捨てることは、決定したかのように話を進めた。
「私には是非とも、神谷奈緒を担当させていただきたいのですが」
慶が言うと、美城常務は少し驚いたような顔をした。
「私にとっては、彼女も懸案事項の一つだったのだ。何せ、いままで様々なてこ入れをしたにも関わらず、彼女の業績は伸びていない」
「私が見るに、神谷は北条とおなじように、大器晩成型だと思います。いま暫く、私におまかせください」
「何か構想があるのだな。よろしい、君の好きなようにしなさい」
奈緒を担当したいと言うのは、少し性急すぎたかもしれない。しかし社内には、美城常務の方針に反発している勢力も大きく、美城常務としては少しでも使える手駒が欲しいはずだ。
ここは美城常務に与するべきだろうと、慶は判断した。
そろそろ、美城常務の後ろ盾を得て、346内での地歩を固める時期なのではあるまいか。
◆
数日後、正式に神谷奈緒の担当プロデューサーとなった慶は、空いていた部屋を貸し切り、奈緒に指導を行っていた。
これまでに何度か彼女と顔を合わせ、引継ぎを行ってきたが、二人はあえて清川の名を出そうとしなかった。
サテュリオンの薬効か、奈緒は清川のことなど忘れたかのように接してきたのだ。随分と都合の良い香水ではないか。
「では最初に、握手の方法から……」
「握手? 手を握って、笑顔で受け答えするだけだろ?」
さて、第一回目の指導となる今日は、ファンとの握手の方法である。
たかが握手と思う人もいるだろうが、これがなかなか侮れない。
「握手をするとき、自分から手を差し出すなよ。相手が手を出した後、初めてこちらも手を出すんだ」
「えっ、自分から握手しに行っちゃダメなのか?」
奈緒はポカンとしてる。その理由を、慶は説明した。
人間は、パーソナルスペースというものを持っている。ニュアンスとしては、縄張りやテリトリーという言葉が近いだろうか。簡単に言えば、他人が近づいてきて不快に思う距離のことだ。
例えば、電車に乗る想像をしてみれば、理解しやすいかもしれない。他に座席が空いているのに、おそらく殆どの人は、見ず知らずの他人の真横に座ろうとは思わないはずだ。
つまり、自分から手を差し出すということは、相手のパーソナルスペースを侵害することになり、無意識のうちに相手に不快感を与えてしまう。
「相手が手を差しだしたら、相手の手を下から掬い上げるように両手で持つ。そして、相手の目を見ながらとびっきりの笑顔をし、一言二言、言葉を交わす。些細なことだけど、こういう細かいことに留意することによって、他のアイドルと差をつけられるぞ」
ビジネスの場合は、両手で握手をするのは大袈裟に見えるのであまり好ましくない。しかし、アイドルの握手会ではその大袈裟が求められる。
習うより慣れろ、ということで、さっそく奈緒に握手の練習をさせてみた。
「ほら、俺が客の役をするから、やってみようか」
「うん……えっと、お客さんが手を差し出してから……」
奈緒は慶が指導したことを、懸命に実践しようとしている。しかし、これは存外難しいもので、動作に気を取られて笑顔がぎこちない。
「奈緒、笑顔が引きつってるぞ」
「ご、ごめん……握手って、結構難しいんだな」
最初はこんなものだろう。しかし、これはこれで悪いものではない。奈緒は握手に必死になっているが、見る人によれば、初々しさともとれるだろう。
「まあ、やっていくうちに慣れるしかないな。じゃ、本番よろしく」
「えっと、三日後だったっけ?」
慶は、奈緒の握手会を三日後に設定している。地味かもしれないが、無名に等しい奈緒には、ファンと身近に接するイベントは何よりも大事である。
基礎をしっかりと築いていれば、その上にどれだけ物を載せても揺るがない。しかし、基礎を堅牢にしないうちに上に積み上げてしまうと、累卵の危機となってしまう。そうなると、後から基礎を築きなおそうをしても遅い。
百人のファンを千人に増やすのは厳しいが、千人のファンを一万人に増やすのは難しくないし、一万人のファンを十万人に増やすのはもっと容易いということだ。
「いいか、奈緒。どんなトップアイドルだって、最初から万人に知られた人気者だったわけじゃない。地道に仕事をこなし、下積みを経験したからこそ、今日に多くのファンを勝ち得ているんだ。今はどんな仕事も、将来の自分の糧になると思って全力でやれ」
「目の前の仕事が、将来の糧か……よし!」
奈緒の目が、真剣そのものになっている。
駆け出しのアイドルには、余計なことを考えさせずに、目の前の仕事に全力で取り組ませるのが良い。
そして、仕事に集中して周りが見えなくなっているアイドルをフォローするのが、彼女のプロデューサーたる自分の仕事なのだ。
握手会当日、会場にはそれなりの数の客が詰めかけていた。
「し、新人アイドルの神谷奈緒です。よろしくお願いします!」
奈緒は、慶の指導通りに客の一人ひとりと握手を交わしている。しかし、あまりスムーズとは言えない。
もっと気の利いたことを言えないのか、と思うかもしれないが、新人アイドルがあまりにも場馴れしているようだと、逆に不自然に見えるものだ。
会場の出口付近で、慶は目立たぬように立っていた。退場していく客の様子を、細大漏らさず観察するためである。
「神谷奈緒ちゃんって、今日初めて知ったんだけど、あのあたふたした雰囲気が可愛いな」
「握手する時、かなり緊張してたぞ。顔赤くしてたし……でもあのぎこちなさが逆にアリだ」
「あの娘、要チェックかもしれんぞ。346所属だし、これからイベントとかにも出てくるかもな」
「さすがは346ってかんじだよなー」
二人連れの客の会話を盗み聞きし、慶はやはり自分の計算は間違っていなかったと思った。
アイドルという仕事は、夢を売る仕事である。余程目の肥えた者でない限り、殆ど笑顔で騙されてくれるから安いものだ。
客と握手を続ける奈緒を見つつ、慶は今後のプロデュース方針を決めあぐねていた。
奈緒と加蓮は一歳違いだが、346には同時期に所属している。二人の関係はいたって良好で、ユニットを組ませるのという手もある。いや、ソロで活動させるより、そちらの方が良いだろう。
しかし、この二人だけだとパンチが弱い気もする。どこかに良い人材はいないものか、或いは、何か他のプロデュースの方法が無いものか。
慶が黙考している間、次第に握手に慣れてきたのか、奈緒の笑顔は自然体になっていた。
◆
ある日の夕刻、慶は自分のデスクルームで、書類に目を通していた。美城常務からメールで送信されてきたデータを、印刷したものである。
「ねえ、ちょっといい?」
顔を上げると、加蓮と奈緒が、開いたドアの外から窺うように慶を見つめていた。
「何だ?」
「ほら、奈緒が説明してよ」
「どうしてアタシが!」
「私よりお姉さんでしょ」
何を言いたいのか知らないが、二人は肘で、互いに小突き合っている。
仲が良いのは結構だが、いつまでもじゃれ合いに付き合っている暇はない。慶はデスクの上で無言のまま手を組み、話を始めるように促した。
そんな慶の様子をみて、結局折れたのか、奈緒が恐る恐る話し始めた。
それは、ささいなボイスレッスンだった。奈緒と加蓮は自主練として、シンデレラプロジェクトに所属している、new generationsというユニットの曲で練習していたのだ。
そこを、当のシンデレラプロジェクトの、渋谷凛というアイドルが通りかかり、周囲の勧めもあって三人でレッスンしたという。
「シンデレラプロジェクト」とは、346が企画したプロジェクトである。アイドルを目指して応募してきた少女たちの中から、有望な原石を選び出し、新たにデビューさせようというものだ。
今年の春に発足したばかりであるが、夏ごろにはプロジェクトの全員がデビューし、定例行事のサマーフェスにはプロジェクト全体の新曲を披露し、成功を収めている。
多少のトラブルもあったようだが、いままで素人だった少女たちを育成及び指導し、短期間の内にプロジェクトの十数人を全員デビューさせたのだから、あちらの担当プロデューサーはなかなかの辣腕家だと言えよう。
渋谷凛は、そのシンデレラプロジェクトの一員である。
十五歳という年齢からすれば、かなり背が高く、黒く豊かな長髪の持ち主である。直接話したことは無いが、態度はいつも沈着で、同年代に較べれば大人びている。
サマーフェスを過ぎたころから、その渋谷凛と加蓮と奈緒が仲良くなったのは知っていた。しかし、加蓮と奈緒がここまで特定の人物に固執するのは珍しい。
慶は件のレッスンを直接見たわけではないが、次第に熱を帯びてくる奈緒の口調から察するに、二人は渋谷凛と精神の深いところで通じ合ったのだろう。
この仕事では、そういうことが稀にある。
「……だから、その、我儘言うみたいなんだけどさ、凛と加蓮とアタシの三人で、ユニットを組んでみたいんだ! 三人で歌ったとき、なんて言ったらいいかわかんないけど、手応えみたいなものがあって……」
興奮する奈緒を、慶は冷静な目で見ていた。最初は奈緒をからかう風だった加蓮も、真剣な面差しになっている。
奈緒の熱弁が途切れた後、長い沈黙が部屋の中を支配した。だが、堪え切れなくなった慶は吹き出し、呵々大笑する。
自分たちのプロデューサーがおかしくなった。奈緒と加蓮は互いに顔を見合わせ、不安そうな目で慶の顔を凝視した。
こんなお誂えがあってもよいのだろうか。哄笑を収めた慶は、デスクの上に置かれた資料に目を落とした。その一枚目には、ダイヤモンドの意匠と共に「Project Krone」という表題が躍っている。
「渡りに船とはこういうことを言うのかな。新しい企画があるから、本当はお前らを呼んで、俺の方から話をしたいと思ってたんだ」
奈緒と加蓮は、揃って首を傾げた。
「新しい企画には、二人と渋谷凛が入ってる。まあ、あっちにも事情や予定があるだろうし、シンデレラプロジェクトのプロデューサーとも話しをつけなくちゃならない。調整は俺がするから、精々頑張って、渋谷凛を口説き落とすことだな」
「ありがとう、慶さん!」
慶の言葉を聞いた二人は、「やったー!」などと言いながら、手を取り合って欣喜雀躍した。
二人が意気揚々と退出した後、慶は改めてクローネの書類に目を通しつつ、その先にある美城常務の意図を洞察しようと試みた。
無名に近い二人が、いきなり美城常務発案のプロジェクトに抜擢されるとは思ってもみなかったが、これは慶に手心を加えてくれたのだろうか。それだけ自分は、美城常務から信頼されているのだと考えて良いのか。
クローネの他のメンバーには、シンデレラプロジェクトの渋谷凛ともう一人、アナスタシアというアイドルが加えられている。これは、シンデレラプロジェクトに対する分断策であろうか。
慶は、先般の会議で美城常務が方針発表した際、シンデレラプロジェクトのプロデューサーが、常務に楯突いたことを思い出した。
彼は世渡り上手というわけではなく、弁が立つわけでもない。しかし、仕事に対しては誰よりもひたむきで、常務もそんな彼を高く評価しているはずだ。
やはり、分断策というのは穿ちすぎだろう。美城常務は、会社の利益を考慮しなければならぬ立場である。成長著しいプロジェクトを、わざわざ潰すような真似はするまい。ただ、彼女自身のプライドの高さゆえに、彼に強く当たっただけのことだろう。
そして常務が渋谷凛、アナスタシア両名をクローネのメンバーに選出したのは、二人が持つ何かを見出したからに違いない。
慶は益体も無い妄想を止めることにし、椅子に深く座り直した。
渋谷凛、北条加蓮、神谷奈緒の三人がユニットを組んだら、どんな化学反応がおきるだろうか。
ユニット名はどうしようかと考えだしたとき、慶は皮算用している自分に気づき、思わず苦笑した。まだ、あの三人でユニットが組めると決まったわけではないのだ。
◆
慶は左手にウイスキーボトルを持ち、グラスを持った右手で、志希の部屋のドアをノックした。部屋の主がいようがいまいが、返事は無いと知っているので勝手に入る。
志希は作業台に向かって、何かこまごまと作業をしていた。慶は近くの机の上にボトルとグラスを置き、椅子を引き寄せて座った。
ウイスキーを置いた机の上には、小壜が二つ無造作に置かれていた。小壜にはそれぞれ、「Amor et Psyche」、「Neapel nacht」と書いたラベルが貼られている。
慶はコルク栓を抜き、ウイスキーをグラスに注いだ。氷や水を用意するのが面倒なので、ストレートで飲むことにする。
「今日は……ボウモアの十五年かな。どう、当たってる?」
志希が、作業を続けたまま言う。香りだけで銘柄を当てるのはさすがだが、いまとなっては別段驚きもしない。
しかし、慶は彼女の嗅覚に敬意を表し、とりあえず賛辞を送った。
「ご名答。お前なら、今日の俺の昼飯まで当てられるんじゃないか?」
慶はグラスを傾け、ボウモアを一口舐めた。心地よい痺れが舌に触れ、次に柔らかなピートが鼻腔をくすぐる。最後に、繊細な余韻が口の中に残った。
「で、今はどんな研究をしてるんだ? サテュリオンの改良か?」
志希は、牛脂のような塊をヘラで抉り、均等に切った何かの欠片にこすり付けている。
「サテュリオンは効果ばっちりみたいだけど、あたしとしては満足してないんだよねー」
「もう十分だろう。これ以上、どこを改良するんだよ」
「『香水』だとさ、グルヌイユはたった一滴で広場の群衆を魅了してたでしょ? いまのサテュリオンだと、だいぶ効果が弱い気がするんだ」
志希は手を動かしたまま、話を続ける。
「やっぱり、自然由来の香油や精油だけだと、効果が出ないみだいだし、今度はグルヌイユのアンフルラージュを編み出そうかと思って」
アンフルラージュとは、脂に香りを移す技術だったか。冷浸法と温浸法の二つがあり、グルヌイユが行ったのは前者のはずだ。
「美少女の香りでも蒐集するつもりか? やめてくれよ。サテュリオンの製造過程で、既に違法薬物にまで手を出しているんだから、さすがに人間の死体まで用意できないって」
「別に死体じゃなくても構わないんだけどね。芸能プロダクションに努めてるキミなら、何とかならないかな?」
「お断りする」
「にゃはは! 冗談だって」
それなりの期間、慶は一ノ瀬志希と過ごしているが、いまだに彼女の本心を掴めない。
サテュリオンという至高の媚薬を発明したにも関わらず、それでも飽き足らずグルヌイユの究極の香水を追い求めている。
サテュリオンも、使い様によっては十分他人を支配することもできるだろうに、彼女はそんなことには興味を持っていないようだ。
慶は改めて、部屋の中を見渡した。雑然と物が散らばっているように見えるが、欲しいものが手に届く位置にあるということを、慶は知っていた。
壁際は殆ど棚で占められており、ラベル付きの壜が所狭しと並んでいる。
オレンジ、レモン、ローズマリーなどの植物の香油は勿論のこと、鍵付きの棚には麝香、龍涎香、海狸香、霊猫香など、希少な素材が収納されている。
また、壁に残った僅かなスペースには、ヴァトー作「ユピテルとアンティオペ」の小さなレプリカが掛けられていた。この絵は、「香水」を装丁する際に表紙としてよく使用されているので、志希が飾ったものだろう
部屋の中央部には幾つかの作業台が並んでおり、それぞれの上に大小さまざまなビーカーやフラスコ、乳鉢、漏斗、小型蒸留器などの器具が置かれている。
こういう部屋は、妙に居心地が良い。それに酒の肴として、志希と取り止めのない会話をするのは心が休まる。
志希は集中した顔で、作業を続けている。時折試片を矯めつ眇めつしながら、香りを確かめたりしている。
一方、志希の隣の作業台の上では、遠心分離機が作動していた。この機械は志希にねだられて買い与えたものだが、本当に調香に必要な道具なのだろうか。
「……あのさあ、アイドルって楽しいの?」
志希は手を止めて、いきなりそんなことを言い出した。
「さあな、俺はアイドルをやったことないから、楽しいかどうかわからない。けど、アイドルは皆、楽しそうに活動してるよ。もちろん仕事だから、楽しいことだけじゃないけどな」
志希は、ふーんと、興味があるのか無いのかわからない返事をした。彼女は再び机に向き直り、作業を続行した。
「どうした、お前もアイドルやってみたいのか」
「あたしにできるわけないよ」
「誰でも最初はそう言う。お前は頭が良いんだから、歌もダンスもすぐ覚えられるだろう。意外に、そのキャラが受けるかもしれん」
慶は、半ば本心で言っていた。志希はルックスもスタイルも良いのだから、アイドルとしていい線いくかもしれない。
「あ、そういえばさ、最近このマンションに不審者が出るらしいよ」
志希と会話していると、急に話題が変わるのはいつものことである。
「昨日ラウンジで、優雅な奥様方がそんな話してた」
「このマンションは防犯設備が整っている。よそ者が入れるわけないだろ」
慶と志希が住むこのタワーマンションは、七階まではテナントや、複数階をぶち抜いたホールになっており、エレベーターもそこで途切れる。それより上は住居階になっているのだが、住居階に上るには八階のラウンジから別のエレベーターに乗り換えなくてはならない。
当然、ラウンジには受付や警備員室もあり、部外者が簡単に入れないようになっている。
「キミは朝出て行ったら、夜まで帰らないし、あたしはひょこひょこ出かけたりするし、どうかなーって……」
志希には失踪癖がある。どこで何をしてるのか知らないが、何日も家を空けることが多い。そう言われると、このフロアが無人になる時間も長い。
「うちの鍵が壊されてるわけでもないし、帰ってきたら部屋のものが動いてるわけでもない。ましてや何かを盗まれてる形跡もない。不審者なんて、どうせ有閑マダム達の噂話だろうよ」
「ならいいんだけどね」
慶はふと、壁に掛かっている時計を見上げた。もうすぐ日付が変わる。
十二時を過ぎると、シンデレラの魔法は解ける。そんなことを考えていると、急に漠然とした不安が沸き上がってきた。
心臓の鼓動が早くなり、足元に奈落が開くような錯覚を覚えた。
「どうしたの? 何か怖いことでも想像した?」
いつの間にか、志希が慶の顔を覗き込んでいる。
「……どうしてわかったんだ」
「だって、いきなりキミの臭いが変わったんだもん。何か、すごく怯えてた」
「いや、何でもない」
慶は深く息を吐いた。既に動悸は去ったが、泥濘のような何かが、心の底で熾火のように燻っている。
「どうしたのかなー? よしよし、いいこでちゅねー。怖い夢を見るなら、お姉ちゃんが添い寝してあげようかー?」
志希が、小馬鹿にするように嗤った。しかし、慶が何かを怖がることなどそう無いので、彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。
「いらん。ほら、研究とやらが残ってるんだろ。俺のことなんかどうでもいいから、続きしとけ」
「はーい」
志希は目を細めながらも、再び作業に取り掛かった。
馬鹿馬鹿しい。仕事は順調に進んでいるではないか。まずはオータムフェスだ。そこで成果を出せば、次のシンデレラの舞踏会につなげることができる。
第一、自分は美城常務の覚えもめでたい。何も思い煩うことは無いはずだ。
そう自分に言い聞かせたが、まだ何かが、体に纏わりついているような気がする。
慶は、グラスに何杯目かのボウモアを注ぐと、味わいもせずに一口で飲み干した。
◆
もう日付が変わろうとしている時間なのに、346プロダクションの役員室は、煌々と明かりがついている。
美城常務は、何をするでもなく革張りの椅子に腰かけ、部屋の一点を見つめていた。デスクの上には、スマートフォンが置かれている。
不意に、着信があった。美城常務は素早く携帯を手に取ると、画面上の応答の表示をタッチした。
「こんな夜分に申訳ありません、常務」
「構わない」
電話の相手は、どうやら男のようだ。
「常務の日頃のご活躍は、私も聞き及んでおります。次はオータムフェスでございますね」
「挨拶はいい。例の件はどうなった?」
「苦労しましたが、この数か月の間になんとか尻尾は掴みました。証拠もそろえております」
「聞こう」
「まず一つに、西門慶は担当しているアイドルを、自分のマンションに連れ込んでいるようですね。何をしているかは、言うまでもありません」
男の報告を聞いたとき、美城常務の虹彩に瞋恚の炎が燃え上がった。
「やはり、西門慶が担当アイドルに手を出しているという噂は本当だったのだな……他には無いのか?」
感情を押し殺した声で、美城常務は先を促した。
「二つ目に……これが一番有力かと思われますが、彼は違法薬物に手を出しています」
「何だと」
普段は冷静沈着な美城常務といえども、これには一驚を喫した。声音に驚愕を隠せていない。
「どうやら彼は、幽霊会社を立ち上げて、海外の密売人から麻薬を輸入していたようです。どの業者かも調べ上げておりますので、後程お送りする資料をご確認ください」
「……ありがとう。君にはいつも助けられているな」
「いえいえ、美城常務の御為ならば、この程度のことは造作もありません。しかし……」
そこで男は言葉を切った。その沈黙には、何かを期待するような気配が感じられる。
「約束は守る。関連会社の役員のポストは、ちゃんと用意してある。私の念書も、数日中に送ろう」
「その言葉を聞いてようやく安心できますよ」
男の安堵を感じ取ると、美城常務は更に労いの言葉をかけた。
「決して日の目を見る仕事ではないが、これからもよろしく頼む、“清川君”」
「とんでもございません。全ては、“美城常務のお好きなように”……それではまた……」
清川武大との通話を切ると、美城常務はアイドル事業部の今後について思案した。
アメリカから帰国した後、346のアイドル事業部の舵取りをすることになったわけだが、自分は思い切った方針転換を行ったと、美城常務は思った。
346の社内を視察して、真っ先に目についたのが、社内の中世的停滞だったからだ。
働いている者の殆どに、346は老舗で大手だから大丈夫だという楽観があった。
このままでは、数年後には他のプロダクションに追い抜かれる。そう感じた美城常務は、自分が憎まれ役になろうとも、社内に蔓延る弊風を一掃する覚悟を決めた。
数十年にわたって、スポンサーとなっている西門製薬は、346プロダクションにとって心強い味方である。
しかし、時代の変遷と共に、西門の意向を忖度しなければならないことも増え、このままでは業務に柔軟性が喪失されると思った。
一新しなければならないのは、何も社内に限った話ではない。この際、社外に積もった塵埃も払い落とすべきだろう。
その点では、西門慶という男は恰好の標的だった。彼の弱みを握り、それを梃子に西門製薬を揺さぶることができれば、後はどうにでもなる。
今までは、西門慶を泳がせておき、尻尾を出すのを待っていた。その策略の一環として、清川武大の退職という茶番を演じ、清川を社外へ放逐したのだが、これが見事に奏功した。
そして、社外に出た清川を密偵に仕立て上げ、西門慶を監視させる。
清川には、346の関連会社役員のポストという餌をちらつかせたのだが、どうやら彼はいままで爪を隠していたらしい。清川は、美城の御庭番の如き活躍を見せた。
僥倖だったのは、西門慶がとんでもない爆弾を抱えていたということだ。未成年との不純異性交遊に、違法薬物所持というスキャンダル。
西門製薬としても、身内の醜聞が外部に漏れるのは防遏したいところであろうから、決して表沙汰にしないだろうし、こちらも外聞があるのでそんなことをする気も無い。しかし今後の交渉では、常に346が優位に立てる。
一方で、西門慶を惜しむ気持ちも無いわけではない。彼はプロデューサーとして、優れた才腕をもっていたし、余計なことを考えなければ、これからも346の戦力として利用するつもりだった。
しかし、このあたりが潮時だと美城常務は悟った。
346という鯱が、西門製薬という鯨を食うためにも、彼には精々撒き餌になってもらおう。
蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる、とはこういうことだろうか。
鴻鵠の翼と、鷹鷲の体を持ち合わせながらも、精神は蝙蝠であったことが、彼自身の破滅を招来するのだ。
無論、美城常務に罪悪感は無かった。西門慶は、今まで散々少女たちの体を玩弄し、存分に楽しんだのだから。
実際に事を始めるのは、今冬に開催されるシンデレラの舞踏会が終わってからだ。
美城常務の予想では、シンデレラの舞踏会は華やかな余韻を残しつつ無事に閉幕するであろう。
舞踏会が終わっても、アイドル達には十二時過ぎの魔法が与えられるだろうが、西門慶という男はどうなることやら。
恐らく彼は、グリム童話の悪役よろしく、踵や爪先を切り落としたり、真っ赤に焼けた鉄靴を履くことになるのだろう。
美城常務は、壁際の置時計に目をやった。
時計の針は、既に十二時を過ぎている。
終
拙い文章でしたが、お読みいただきありがとうございました。
いやいやいやいや、ここからだろ?
何の冗談よ?
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