・オリジナル設定、オリジナルキャラクターが登場します。
・やや性的な表現が含まれます。
・初めての地の文SSですので、お見苦しい点もあるかと思われますが、ご容赦ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1459173859
西門慶(にしかど けい)は、346プロダクションの自身のデスクで、静かにコーヒーを飲んでいた。
次に、朝一番に行う業務として、アシスタントの千川ちひろが運んできた自分宛の郵便物を、ペーパーナイフで丁寧に開封していく。中身は他会社のパンフレットなどが多いが、既に開封されているものは、経理から確認のために回されてきた、協力業者からの請求書だったりする。
書類関係を検めた後に、新聞を流し読みしつつ、慶はこの346プロダクションの今後に思いを巡らせた。
アメリカから帰国した346グループ会長の娘が、常務として346プロダクション・アイドル事業部の陣頭指揮を執り始めたのが、つい一週間程前。
346のアイドル部門は創設されてまだ数年だが、美城常務は、346のブランドイメージに沿う者だけを起用し、沿わない者はてこ入れする、という極端な方針を打ち出した。
これまでの346は、個々の個性を生かしつつ、自由に活動させるという方針だったが、それではいつまでたっても成果が得られない可能性がある、との考えらしい。
周囲の者たちには、狼狽える者、慌てる者などが多かったが、慶自身はその混乱の渦中からは少し離れたところで、状況を静観していた。
アイドル部門自体が成熟していない中での、この極端な方針転換である。迂闊に動いて火傷をするのは御免蒙りたい。
慶は美城常務の方針に、賛成も反対もしていない。
これまでは確かに、346プロダクションで働く者の多くに、346は老舗で大手だから大丈夫という油断が瀰漫していた。
個々の個性を生かして自由に活動させる、と言えば確かに聞こえは良い。だが、裏を返せば成長の停滞とも言え、実力の無い者がのうのうと会社に居座り続けるということでもある。
切磋琢磨を惹起し、アイドル達の成長を促す。競争についていけなくなった者は切り捨てる。弱肉強食と優勝劣敗は世の理であり、単純明快で良いではないか。
しかし、実力主義にも問題はある。某企業で年功序列を撤廃し、成果主義を導入したところ、新人が育たなくなったという例があるのだ。ベテランが、将来自分のライバルになるかもしれない者を、なぜわざわざ育成してやらねばならぬのか、というわけだ。
十年後、二十年後の会社経営を鑑みれば、人材育成が困難になる危険性を孕んでいることを、美城常務は理解しているのかどうか。
西門慶という男は、「西門製薬」という大手製薬会社の御曹司である。
西門家は、江戸時代末期のとある蘭学者が開祖らしい。らしい、というのは、慶が自分の家の由来など特に気にしていないためだ。
江戸幕府の終焉、明治政府の樹立、富国強兵策の推進、そして対外戦争。江戸末期から明治の激動の時代に、この蘭学者は医学から薬学の道を志し、巨万の富を築き上げた。
何をしたのかと言うと、日本は文明開化によって爆発的に人口が増えること、戦争では必ず負傷者が出ることに着眼し、必然的に医薬品の特需があることを予想したのである。
日本という閉鎖されていた島国が大きく生まれ変わるなかで、この蘭学者は時流を読んで、多額の借金までして製薬工場を作ったのだから、その慧眼は瞠目に値する。
それ以来、第二次世界大戦で日本が敗戦するまで、この製薬会社は大きく成長した。それこそ、他の著名な財閥と肩を並べるまでに。
終戦後、他の財閥と同じようにGHQに解体された西門だが、その膨大な資産はいささかも失われておらず、現代に到るまで財政界にいまだに隠然たる影響力を持っている。
大企業の御曹司なのだから、芸能プロダクションで働くことはおかしいと思われるだろう。しかし慶には兄がおり、慶自身には一族の継嗣たる資格は無い。
父親は、慶に西門製薬本社の役員、またはグループ会社の役員の席を用意していたが、彼はにべもなく断った。面倒ごとは兄に任せて、自分は放埓に生きればいいと思っていたからである。
そんな西門慶が、なぜ346プロダクションなどという畑違いの会社に入社したのか、それは二つの理由にある。
一つは、西門製薬が346の筆頭スポンサーであること。自社でテレビ番組、映画まで制作し、ライブなどのイベントを企画する346は、西門製薬にとって格好の広告塔だった。そういう西門製薬の御曹司が入社を希望してきたのだから、346側としても否とも言えない。
確かに、西門製薬は346の株主ではある。しかし、この男は西門製薬から正式に出向してきたわけではないため、適当な部署に配属させて、捨扶持を与えておけばいいという魂胆であったろう。
二つ目の理由は、慶自身にある。それは、慶が非常に好色であるということだ。
彼が職場を選定する際、真っ先に考えたのは、女性と触れ合う機会が多い場所が良いということだった。
十代の頃から、不純異性交遊によって親を困らせてきた彼だから、女性、それもとびきりの上玉と出合える場所と言えば、芸能プロダクションだろうと安易に考えたのだ。
では、346プロダクションに入社した彼が、ただ窓際で遊んでいただけかと言えば、決してそうではない。
長身と、端整なルックスを持つ慶は、担当のアイドルとすぐに打ち解けることができた。数ダースほどの女を手玉に取ってきた彼なのだから、未通女(おぼこ)同然の少女たちとのコミュニケーションなど朝飯前である。それに、慶は時代に合わせたセンスと機知によって、彼がプロデュースしたアイドル達はそれなりに売れていた。
そんな慶に唯一不満があるとすれば、自分がどんなに成果を上げても、所詮は親の七光り、コネで入社した奴だからと周囲から評価されてしまうことだった。
◆
慶が廊下を歩いていると、前方から清川武大(きよかわ たけひろ)が現れた。
「やあ、清川じゃないか」
「西門君、おはよう」
慶と挨拶を交わしている、この清川武大は、風采の上がらない小男である。見た目は、まさに慶と対照的であった。とても同期とは思えない。
慶が、それなりの数のアイドルを世に送り出しているというのに、清川が担当するアイドルは、あまり活躍できていない。機転がきかず、熱意はあるが仕事ができないといったタイプで、他の社員から侮蔑の目で見られている。
そんな清川だが、今時では骨董品かと思われる程に珍しい善人であり、心底から彼を嫌っている社員は皆無であろう。
もっとも、慶自身も、他人に容喙できるような立場ではない。担当アイドルに手を出しているという噂に始まり、慶自身の圭角もあり、あまり周囲からの評判は芳しくないのだ。
しかし慶の場合は、嫉視反感に財閥の御曹司というファクターが多分に含まれている。そんなものは幼い頃から経験しているため、腫物扱いは気にもならない。
「聞いているよ、西門君。最近、また新しいアイドルをデビューさせようって話じゃないか」
「清川は耳敏いな。まあ、いろいろとプランを練っているところだよ」
「そうなんだ。君はいいな、仕事ができる男で。今度じっくり、そのプロデュースのノウハウを指導してほしいもんだよ」
何を言っても、嫌味に聞こえないのが清川の美点かもしれない。他に二、三言葉を交わし、二人は別れた。
慶が廊下の曲がり角にさしかかった時、後ろで女の声が聞こえた。振り返ってみると、清川が、自身の担当アイドルの神谷奈緒と、何か話しているところだった。
神谷奈緒は、いまのところ芽が出ていないアイドルである。少し恥ずかしがりやで、扱いにくいように見えるかもしれない。
一見すれば、ぱっとしないプロデューサーに、ぱっとしないアイドル。
しかし慶は、神谷奈緒は磨きようによっては大成すると睨んでいる。例えば、他のアイドルとユニットを組ませれば実力を発揮すると思うのだが、清川は彼女のポテンシャルを引き出せていない。
慶は心の中で神谷奈緒に同情しつつ、その場を離れた。
◆
ジュースキントの、「香水 ある人殺しの物語」という小説をご存じだろうか。
超人的な嗅覚を持つ主人公グルヌイユが、街中で出会った女性の香りに憧憬を抱き、その香りを香水で再現しようとして、次第に狂気に取り憑かれていく物語である。
いま、慶の目の前にいる一ノ瀬志希という少女は、グルヌイユと同じように優れた嗅覚を持ち、尚且つ彼女自身の体臭は完全に無臭だった。楊貴妃や薫大将の体質である、挙体芳香とは真逆と言える。
匂いが無いというのは想像以上に奇妙なもので、ただでさえ彼女は猫のように歩くものだから、視界に入っていないと存在を認識できない。
「それで、研究の方は進んでいるのか?」
「まあねー……ほら、これ見てよ」
志希が差し出したのは、化粧水を入れるようなスプレーボトルだ。中には透明な液体が入っている。
「これが例の香水か。ただの水にしか見えないけどな」
「間違っても飲んじゃダメだよ。試すなら、一吹きだけにしてね。名付けて、『サテュリオン』なのだ」
「ラブ・ポーションじゃないのな」
「チッチッチ、捻りが足りないよ、西門クン」
サテュリオン。それはローマの政治家、ペトロニウスの著作「サテュリコン」に登場する媚薬の名である。正確に言えば、媚薬の原料となる植物の総称で、それが現代では何にあたるのか、諸説あり詳細は不明だ。
慶は、一ノ瀬志希に自分のタワーマンションの一部屋を与えていた。慶が、フロアごと借りているうちの一室である。
志希と出会ったのは、慶が以前にアメリカにいた時だ。
偶然慶が住んでいた都市に、飛び級で大学に入学し、化学を専攻している日本人がいると聞いて、興味本位で会いに行ったのだ。
アイビーリーグの某大学に、飛び級で進学しているとあって、当初、彼女との会話にはついていけなかった。
メルヴィルの「白鯨」におけるクジラの生態解説や、デュマの「モンテ・クリスト伯」における毒薬の解説などを想像すればいいかもしれない。素人にもわかりやすいようにかみ砕いているが、度々登場する専門用語を調べていては、日が暮れてしまう。
本当に日本語を話してるのか、と言いたくなるぐらいだったが、志希との会話にある種の諧謔を感じた慶は、それ以降なるべく彼女が興味を持ちそうな話題を心掛けた。
“……では特別に、奥様だけにお教えしましょう。いいですか? 例えばマチンという薬を最初は一グラム、次の日は二グラムと量を増やしていくと、二十日目には二十グラムのマチンを一度に摂取することになりますが、死ぬことはございません”
“まあ、そうなの?”
“しかし、最初から二十グラムも接種してしまうと、その人にとって猛毒になるのです。こうすれば、同じ瓶から飲んでも、相手だけ殺せるでしょう?”
“素晴らしい考えだわ!”
“東洋人は、つくづく薬の知識に長けていますからね……”
……決して、こんな会話をしていたわけではない。
数日おきに訪ねてくる日本人を見て、志希も鬱陶しくならなかったのか。最初は暇つぶし程度にしか思っていなかったであろう。恐らく、志希がまともに食いついてきたのは、慶が製薬会社の御曹司と知ってからだと思われる。
それから暫く経って、日本に帰国する直前、慶は別れの挨拶のために志希の下を訪れた。そして、その席で志希に言われたことが、慶の人生の転機となる。
その日は、穏やかな日差しの昼下がりだった。
大学の図書館には、幾人かの学生の姿が見受けられ、アメリカン・ボザール様式の館内は、学問に対しての誠実さを要求してくるような、森厳な雰囲気を醸成している。
しかし、その一角で交わされている慶と志希の会話は、鴆毒に等しいものだった。外の天気とは正反対に、そこだけ淫雨が降り注いでいるようだ。
「……そんじゃあさ、あたしも連れてってくれない?」
「おいおい、冗談はやめてくれ」
「冗談だと思う? こー見えても、志希ちゃんは大まじめなのだよ」
ニタニタと笑う志希を、慶は呆れ顔で見た。まるで、不思議の国のアリスに登場するチシャ猫のようだ。
この時、既に志希は大学卒業間近であり、てっきりアメリカで化学分野の仕事に就くものだと思っていたから、慶としては青天の霹靂である。
そんな慶の内心を知ってか知らずか、志希は机に置いてあったハードカバーを、慶の目線に持ち上げて見せる。
その表紙には、「Das Parfum – Die Geschichte eines Mörders」と記されていた。
「ジュースキントか」
「なんだ、この小説知ってたの」
「原作も読んだし、映画も観た」
「なら話が早い♪」
志希は、卑猥な笑みを浮かべながら人差し指を立て、クルクルと回してみせる。
窓からは光箭が差し、空気中の埃がキラキラと反射され、静謐な図書館を演出しているが、彼女の表情と仕草は、この雰囲気の中では軽薄に過ぎた。
「知ってると思うけど、グルヌイユはね、街中で一目惚れした女性に惹かれ、その体臭を香水で再現しようとするんだ。まあ、のめり込みすぎて殺人とかやっちゃうんだけどね。けっきょく、なんだかんだあって死刑宣告を受けて処刑台に登らされる……」
志希はそこで言葉を切り、首を吊るような手振りをした。
「……けど、その香水を観衆にふりかけて、自分に死刑を求刑した者たちを魅了して、判決を覆しちゃうんだ。人間の精神を捻じ曲げる香水……そんなものがあったら、すごいと思わない?」
そんなものがあったら、すごいどころの話ではない。呆然とする慶の表情に満足しているのか、志希は話を続けた。
「そこで志希ちゃんは思いました。ファンタジーの中で、惚れ薬ってのが出てくるでしょ? ほら、おとぎ話の魔女が、悪い顔しながら鍋をかきまぜてたり……誰もが現実にはあり得ないと思ってるけど、なんとか再現できないかなーって」
慶は、志希の真意が読めなかった。しかし、ここは志希に話を続けさせるべきだろう。彼女はよく、煙に巻いた話し方をするが、発する言葉には必ず意味があるということを、慶は短い付き合いで知悉していた。
“She keeps Moet et Chandon in her pretty cabinet”……どこかで聞いた歌詞が、脳裡を掠めた。
「だからさ、志希ちゃんのギフテッドの頭脳と嗅覚と、キミの財力がタッグを組めば、向かうところ敵なしってわけ」
怪訝な顔をする慶を嘲笑するように、志希は更に言葉を継ぐ。
「惚れ薬があれば、キミはどんな女も掌中にできる。惚れさせるということは、つまり傀儡にできるってわけだからね。鷦鷯深林に巣くうも一枝に過ぎず、って誰かさんは言ったらしいけど、キミの野心が世間の片隅に収まるとは思えないなー」
「なら、志希にはどういうメリットがある? 香水だか惚れ薬だか知らないが、俺を利するためにしかならないじゃないか」
「キミの言うとーり。ま、あたしには最初(はな)から惚れ薬を使ってどうこうしようって意図は無いわけよ。強いて言うなら、学術的興味ってとこかな?」
慶は目の前にいる少女を、まるで蛇のように錯覚した。アダムとイヴに、失楽園を齎す蛇の誘惑。
しかし、慶はその誘惑に乗ることにした。志希の言うとおり、このまま財閥の次男として燻っているのも癪である。ここはひとつ、蛇の甘言に従い、荒淫と頽廃で身を崩すのも良いのではないか。
慶は黙ったまま、志希に右手を差し出した。志希は脂下がった顔で、両手で慶の右手を包み込み、ブンブンと上下に振る。
「けーやくせーりつー♪ どんどんぱふぱふー♪ これであたしとキミは一蓮托生……ま、一つよろしく!」
志希は、先ほどとは打って変わって莞爾と笑い、両手に力を籠める。この瞬間、慶は自分の親族に対し、面従腹背の態度を取ることを決めた。悪魔に魂を売った気がしないでもないが、その感傷はすぐに打ち消した。
世に従へば、身苦し。従はねば、狂ぜるに似たり。昔の人は良いことを言う。それならば、存分に狂ってやろうではないか。
脳内の遠くで、彼女との契約を回想しつつ、慶はスプレーボトルを見つめる。
「しっかし、グルヌイユの香水を本当に再現できるとはねぇ」
「何なら試してみる?」
「興味はあるな」
媚薬というものは、二種類に大別できる。
一つは、性器の機能を一時的に向上させるもの。近年開発されたバイアグラなどは、勃起機能改善薬として特に有名だ。
古くからのもので言えば、卵、馬肉、狸汁、蝮酒などがあるが、これらは個人差が大きく、ほとんどプラシーボ効果に近い。
もう一つは、精神に影響させるもの。所謂、「惚れ薬」というものだ。
しかし、惚れ薬のように精神を操る薬品は、まったくのファンタジーであり、この世には存在しない。
つまり、媚薬は二種類あると言ったが、実在するのは前者のみと言える。
ところが志希は、後者の媚薬を開発してしまったのだ。
かつて、オーストリアの精神科医フロイトは、性欲とは、性的衝動および欲求を引き起こす心的エネルギー、「リビドー」であると提唱した。
しかしこれは、根拠が無い、妥当性に欠けるとして近年では否定されている。
一般的な生物学的見地からすると、男性の場合は、睾丸内で精子が生成される際に、テストステロンという男性ホルモンの一種が分泌され、それが性欲を引き起こすとされる。
一方女性の場合、排卵周期によって、このホルモンの分泌量が変化するという仕組みだ。
当然のことながら、テストステロンの分泌量には個人差があり、女性の分泌量は概ね男性の十分の一といったところだろう。
ならばテストステロンを投与すれば、性的興奮を亢進させることができるという理屈になるが、そう簡単ではない。
テストステロンは、アドレナリンと同じように鎮痛作用を持ち、量が増えると性格が暴力的になるといわれ、極度の興奮は心身に負荷をかけてしまう。それに近年では、前立腺癌の発症リスクが上昇するという研究結果も学会に提出されている。
そもそも、どうやって相手に投与するかという問題がある。
効果が覿面なのは静脈注射だが、これは相手に注射針を打たなくてはならないため、論外。
密かに、飲み物や食べ物に混ぜるという手段もあるが、経口摂取は吸収率という点で非効率すぎ、現実的ではない。
そこで志希は、匂いによる惚れ薬の開発を研究することにした。
嗅覚は、人間の器官の中でも謎の多い部分であり、多彩な可能性を秘めている。
特に、鋤鼻器(ヤコブソン器官)は、フェロモンを受容する器官であり、ドミトリー効果などを利用すれば、惚れるとまではいかなくても、相手の意識をこちらに向けさせる、または同調させられるのではあるまいか。
慶は志希の希望通り、香水を作成するための資金と場所を提供した。
市販で購入できる資材は、すでに粗方志希が所有していたが、慶が驚いたのは、調香の材料が意外に値のはるものが多いということだった。
麝香などはまだまだ序の口で、特に「龍涎香」の法外な値段を知ったとき、慶は閉口したものだ。
ちなみに龍涎香とは、マッコウクジラの体内に生成される結石で、偶然体内で消化できなかった食物(イカなど)が数年がかりで結石になり、偶然クジラの体外に放出されたものが数年かけて海を漂流し、偶然浜に漂着したものを、偶然人間が採取することによって世間に流通している。
おそらく、天文学的な偶然が積み重なって、この代物が入手できるのだろう。そのため、グラムあたりの値段は金を越えることもある(付言すると、生成された期間によって龍涎香のランクも変わる)。
これだけ説明すれば、龍涎香がどれだけ希少な品か、おわかりいただけるかと思う。
高価なだけなら、金はあるので問題は無い。しかし、志希が罌粟(ケシ)や大麻が欲しいと言い出した時には、さすがに躊躇した。
言うまでもなく、これらの単純所持及び栽培は法律で罰せられ、所有するには国家から認可を受けなければならない。
そこで慶は、法律の抜け穴を利用することにした。
何ことはない、罌粟や大麻を、家畜の飼料用という名目で輸入したのである。その手の偽装工作をして麻薬を販売する業者はいくらでもおり、発注する際も海外のサーバーを経由し、仕入れ先も登記ででっちあげた幽霊会社(ペーパーカンパニー)を指定した。
志希曰く、できれば「蘭奢待」も欲しかったとのことだが、いくら大金を積んでも、正倉院に秘蔵されている香木は、さすがに入手できない。
蘭奢待は「東大寺」とも呼ばれる香木で、歴史上の朝廷の功臣たちが、その香木から一片を切り出すことを、恩賜として当時の天皇に許されたという。
蘭奢待は伽羅(沈香)の一種で、天下一の名香と言われており、そんな国宝級の代物には手を出せないので断念した。
かの有名な「ジョイ」という香水も、常識では考えられない程の値段がするし、マリリン・モンローが就寝時につけていたとされる「シャネル№5」も、一般人が毎日使用するには躊躇われる金額である。
慶は香水の相場を調べていくにつれ、人類がどれだけ香水に情熱を注いできたのか、再認識した。
「えいっ!」
ぼんやりしていたら、プシュ、というスプレー音がした。慶は慌てて、目の前に意識を戻した。
「どう?」
志希が悪戯っぽく笑う。彼女がサテュリオンを噴射したと気づいたのは、その噴霧を十分に吸い込んでしまった後だった。志希も、わざとらしく深呼吸する。
「即効性があるからね、今にも作用してくると思うよ」
「そんなわけあるか……」
言い終わるか終わらないかの内に、視界が少し揺れた。まるで、人生で初めて煙草を吸ったときのように。
「まさか……」
「ふふふ、結構効くでしょ? 今にも、志希ちゃんにメロメロになっちゃうんじゃないかな?」
確かに、志希を見つめていると、心の中に漣がたっているような気がする。心なしか、志希の表情も蕩けて見えた。
「ねえ……」
志希が何か言いかけたが、もう我慢できなかった。慶はやにわに志希を抱きすくめると、その唇を、自身の唇で塞いだ。
さっきは少し眩暈がしただけと思っていたが、いざ志希の唇を吸い上げると、口の中を蹂躙したくなった。慶は目一杯に舌を伸ばし、志希の口をまさぐる。 明らかに今の自分は、普段よりも興奮しているようだ。つい二日前に、彼女を抱いたばかりだというのに。
志希は薄目を開けて、なすがままになっている。彼女に対する愛しさと、彼女を滅茶苦茶にしたいという獣欲が、心の中で絡み合った。
「ぷはっ……薬効はバッチリだね。いままでこんなに食いついてきたことなかったのに」
一旦志希を開放すると、彼女は嫣然と微笑み、満足気に宣った。
ならばこちらも、その研究成果に報いねばなるまい。
「ちょっとこっちに来い」
慶は、志希の手をつかんで引っ張っていく。
部屋の隅に置いてある仮眠用のベッドに、慶はやや乱暴に志希を押し倒した。
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません