この世の果てへと至る旅路 (61)
「この世の果てに連れていって欲しいな」
唐突に先輩が、そんなことを言いだした。
僕は飲みかけのオレンジジュースを机の上に置くと言葉を返す。
「何処ですか、それ」
「行ってみれば分かるよ、きっと」
先輩がオレンジジュースを一口しながら一言。
いつもの戯言ならば、そのまま聞き流してしまってもよかったのだが。
なんだか今日の先輩は雰囲気が違う気がした。
「ね、連れていってよ」
「自転車で行ける距離ですか?」
滑稽な返答だ、と僕は自分で思った。
自転車で行ける距離かどうかなど関係ないだろうに。
「行けるよ、きっと行ける」
悪戯っぽい子供の様で、何もかもを悟った聖人の様でもある先輩の笑顔。
僕の視線はそんな先輩の笑顔に釘付けになってしまう。
「さ、連れ出してよ王子様」
「……」
差し出された先輩の手を握る。
想像していたよりも温かい先輩の手。離したらそのまま消えてしまいそうな先輩の手。
「……エスコート致します、お姫様」
「うむ、くるしゅうない」
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「暑くないですか?先輩」
荷台へ声を掛ける。
「んー、暑いよ。すっごい暑い」
傍に居なければ聞こえない大きさの先輩の返答。
僕はその返答を聞いて安心した。
暑いと言われて安心するのも変な話だが。
声が返ってこないと不安になるほど、先輩は重量感がないのだ。
「日本の夏って感じだねー」
「辛くなったら言ってくださいね。日陰探します」
「……ありがと」
後ろを振り返る。自分の汗が前髪を伝うのが見える。
先輩はいつも通り、平然とした顔で僕の運転に揺られていた。
暑いと言った割に汗は全然かいていない。
いい事なのか、悪い事なのか。
「ねぇ」
「はい、なんでしょうか」
木陰で佇む僕と先輩。
学生にとっては夏休みでも世間的には平日の街並み。
疎らな人通りは今の僕らにとって好都合だ。
「あれ、あれが食べたいな」
「……?」
先輩の指差した方向を目で追う。
僕のと同じような自転車。違う所を上げるとすれば、荷台に先輩の代わりにクーラーボックスが乗っている所か。
その自転車の主と思われる麦わら帽子のおじいさんと目が合う。
にんまりと音がしそうな笑み。
僕はそんなおじいさんの笑みと先輩の笑みを交互に見比べてから、財布へと目を落とした。
あまり浪費はしたくない。
が、先輩の願望を浪費と表現もしたくなかった。
書き溜めないのでマイペース更新
長いか短いかも決まってないです
ではまた
乙
「おいしいね」
「はい、おいしいです」
アイスを舐めながら並んで歩く僕と先輩。
買ったのは先輩の分だけ。僕が舐めているのはおまけで貰った分だ。
「得しちゃったね。二人で来てよかった」
「そう、ですね」
屈託のないおじいさんの笑顔がリフレインされる。
僕が彼氏くんと呼ばれた時、先輩は特に何も言わなかった。
だから僕も特に何も言わない事にした。
気にならないわけではないが、気にしても仕方ないだろうし。
「あー、おいしかった」
先輩はアイスを舐め終わるまでに5、6回ほどおいしいを口にした。
決して、このアイスが特別おいしいわけではないと思う。
名残惜しそうにアイスの棒を舐める先輩。
小動物みたいで可愛い。
「さて、そろそろ行こっか」
「了解です」
荷台に先輩が座ったのを確認して、僕はペダルを漕ぎ出す。
自分でもどこへ向かおうとしているのか、分からない。
先輩に聞いてもきっと明確に答えてはくれない気がする。
悪意ではなく、先輩も答えが分からないからだろうけれど。
「このまま行くとどこに出る?」
商店街を抜けた辺りで、先輩が聞いていた。
「多分海……ですね」
この辺からはあまり出たことがないので、僕の返答も曖昧になる。
間違っていても咎められることはないだろうが。
「海……か。いいね、海」
先輩の一言に僕はペダルに込める力を少し強めた。
急ぐ必要があるかは分からなかったが、答えあわせは早い方がいいだろう。
「キミは海、よく来るの?」
「いえ、ほとんど。海に繋がってるかどうかもうろ覚えでした」
海水がギリギリ届かない辺りの波打ち際に立つ先輩。
僕もそんな先輩に習って隣に立つ。
この時期にしては人が少ないな、と思ったらどうやらここは遊泳禁止らしい。
そんなことも知らなかった。
「んー、ちべたい」
スリッパの先輩はずかずかと海の方へと進んで行く。
スニーカーの僕はそんな先輩の様子を見守る。
「キミもおいでよー」
ばしゃばしゃと音を立てながら先輩が振りかえる。
日光を吸いこんでしまいそうな綺麗な黒髪。
そんな黒髪とは逆に日光を反射してしまえそうなほど白い肌。
僕はそんな先輩に見とれてしまった。
アイスを舐めていた時とはまるで別人に見える。
「……あ」
はしゃぎ気味に水音を立てていた先輩の身体がぐらりと揺れた。
僕の視界の中でゆっくりと傾いていく先輩。
続いて大きな水音。
「先輩っ!」
スニーカーであることも忘れて先輩の元へ駆け寄る僕。
水を吸って足元がどんどん重くなる。
それでもなんとか先輩の元へと辿り着いた。
「先輩!大丈夫ですか!」
「あはは、少し足をとられちゃったよ」
全身から水を滴らせながら笑う先輩。
顔色は悪そうに見えない。ひとまずは安心だろうか。
「歩けますか、先輩」
「大袈裟だなぁ」
とりあえず波打ち際から避難してきた先輩と僕。
日陰にいても寒いだけなので日向に並んで座る。
この陽射しの強さだ、しばらくこうしていれば乾いてくれそうなものだが。
「……っしゅん」
靴だけの僕はそれでいいが、全身濡れてしまった先輩はそうもいかない。
早急に乾かさないと、風邪でもひいては大事だ。
「とりあえずこれ着てください、先輩」
僕はTシャツを脱いで先輩へ渡す。
汗でびしょ濡れで効果はあまりなさそうだが、無いよりはマシではなかろうか。
「肌着一枚で平気?」
「少なくとも、今の先輩よりは」
小さく肩を震わせながら問いかける先輩に僕はそう言葉を返す。
こんな状況にそぐわないかもしれないがなんだか変に安心してしまった。
先輩が何も感じない人のように思えていたから。
ちゃんと先輩が現実にいるものなのだと、実感出来たような気がしたのだ。
つづく
「本当に大丈夫ですか、先輩」
「大丈夫だってば。心配性なんだから」
服からぽたぽたと雫を垂らせながら歩く僕と先輩。
もう少し乾かしてからにしませんか、と僕は言ったのだが。
先輩達ての希望で出発することになったのだ。
別に反論する気はないが、大丈夫なわけがないのも事実なわけで。
「ねぇ、後輩くん」
「なんでしょうか、先輩」
「水、買ってくれないかな」
「……そのぐらい、承諾の必要ないですよ」
自販機に立ち寄り水を買う。
喉が渇いたのだろうか、ついでに自分の分も買っておく。
「……んっ……ぐ」
「……先輩、それは?」
言ってからまぬけな質問をしたものだと自分で思った。
銀色台紙に並んだ白い錠剤。
見た目は市販の風邪薬と相違ないが、そんな生易しい物ではないのだろう。
「本当はね、持ってくる気なかったんだけど」
僕の質問への返答代わりに先輩が口を開く。
「キミといれる時間を少しでも長くしたくってね」
もう一度水を一飲みしてから先輩はそう続ける。
僕の中の後悔が膨らむ音が聞こえた気がした。
そんな覚悟が出来て僕が先輩を連れ出したかと問われれば答えはノーなのだから。
先輩と入れる時間が少しでも長くなれば、と思ったのは事実だけれど。
「さ、行こ」
「あの、先輩」
「ん?」
僕の声に振り返る先輩。
その表情に焦りや苦悶といった負の感情は見て取れない。
そういう感情が見て取れればこの場で帰る選択肢を正当化も出来るものを。
先輩のこういう所が僕を不安にさせる。
「……いえ、行きましょうか」
「しゅっぱーつ」
怖くないですか、とか。不安じゃないですか、とか。
いろいろ聞きたいことはあるのだけれど。
どう答えられても納得できる気がしないので、僕は聞かない事にした
海岸線沿いを走る僕と先輩。
照り付ける太陽のおかげで僕の靴はすっかり乾いていた。
きっと先輩の服や髪も同じ状況なのではなかろうか。
靴と違って服や髪だと状況が全く同じとは言い難いだろうが。
「また暑くなってきたねー」
「そう、ですね」
ほんの少しずつ重くなっていくペダル。
先輩が行きたい場所まで僕の身体は耐えられるだろうか。
僕は元々そこまで体力があるほうじゃない。
面倒くさいという理由で運動部に入ることを敬遠していた自分に少し苛立ちを感じてしまう。
「綺麗だねー、海って」
先輩に言われて視線を少し水平線の方へ向ける。
光を反射してキラキラと輝く海。
そんな海を細い眼で見つめる先輩。
先輩の方が綺麗だ。思っても言えないけれど、本気でそんなクサイ事を思った。
続く
おつ
水平線へ夕日が沈んでいく。
その様子を僕と先輩は並んでみていた。
凄く綺麗な光景だ。
もっと楽しむ余裕があればなおよかったのだが。
「きれー……」
しみじみと呟く先輩。
さっきよりも声のトーンが低いような気がする。
自分の気持ちを勝手に反映させてしまっているだけだろうか。
「来てよかったね」
口元を緩ませながら、顔だけでこちらを向く先輩。
折角の綺麗な黒髪が潮風でパリパリになってしまっている。
「……ん」
自分でも全く無意識だった。
不意に伸びた手が、先輩の髪に触れる。
頭頂部ではなくもみあげ当たりに触っている辺り、無意識下でも僕は僕だ。
「あはは、くすぐったいよ」
意に介する様子の無い先輩。
半分ほど沈んだ夕日が僕達の影を伸ばす。
先輩は少し目を細めて僕を見つめている。
心臓の音が手を伝わって先輩に伝わっていないか不安だ。
「あ、あの……先輩」
「なにかな?」
これは俗に言う、いい雰囲気ってやつなのではなかろうか。
童貞特有の勘違いというならば、別に勘違いで構わない。
音が自分でも聞こえるほど強く喉を鳴らす。
「せんぱ……っ」
意を決して言葉を発した僕の体が防波堤に押し付けられた。
柔らかい先輩の感触が全身に触れる。
鼓動が一気に早鐘を打つ。
その鼓動の音に負けず劣らずの高音。
サイレンの音が海岸線を通り過ぎていった。
「……」
「……」
先輩は何も言わない。
僕も何も言えない。
さっきのパトカーが先輩を探しているとは限らない。
もちろん、失踪した先輩の捜索願が出ていてもおかしくはないわけだが。
「……そろそろ、行こうか」
先輩の小さな声。
相変わらず感情は透けてこない。
ここで僕が取り乱しながら帰る案を提示したら先輩はどんな顔をするのだろうか。
そんなくだらない事を考えながら僕は立ち上がった。
「……んぐ」
先輩が薬を飲んだのを確認してから自転車をこぎ始める。
人気の無い海岸沿いは薄暗くて、明かりと呼べるものはぽつぽつと立った街灯と僕の自転車から伸びるライトの明かりだけ。
普段通っている道はとうに通り過ぎてしまって、今は道なりに道を進んでいる状態だ。
多少休んだとはいえへろへろの足。
自転車の速度低下は自分でも分かる次元になってしまっている。
「少し歩こっか」
「……はい」
気遣ってくれる先輩の言葉に強がる余裕も無い。
このまま海岸沿いを進むとどこへ出るのだろう。
どこの街にも繋がっていないわけはなかろうが。
「うりうり」
「……何するんですか、先輩」
先輩が指先で僕の頬をぐりぐりしてくる。
「難しい顔、してるからさ」
あくまでも軽い口調で先輩が言う。
鏡があれば確認したかった。
僕は今一体どんな顔をしているのだろう。
暗くなければ先輩の瞳に映る自分の顔が確認できたかもしれない。
「……ごめんね」
先輩が何か言った気がした。
きちんと聞こえたような気もする。
「……?」
でも僕は敢えて聞こえなかった方を選んだ。
先輩のためか自分のためかは分からなかったけれど。
続
「……ふぅ」
立ち上る湯気の中、僕は体を脱力させた。
お風呂がこんなに気持ち良いのは生まれて初めてかもしれない。
顔にばしゃばしゃとお湯を被るとまた小さく息を吐く。
「……どうだ」
「あっ、はい。気持ち良いです」
「……そうか」
貸し切りに近い湯船。
話しかけてきたのはこの銭湯の主人であるおじいさん。
僕がこうして安堵の息を吐けるのもこの人の厚意のおかげである。
走り疲れてもはや足取りすらふらふらになってしまった僕。
自転車を支えになんとか歩いて辿り着いたのがこの銭湯だった。
「わっ、銭湯だよ銭湯っ」
へとへとな僕を元気付けるように先輩が言う。
もしかすると単に初めて見る銭湯にテンションガ上がっただけかもしれないが、ここはいい方に捉えておく。
「……もう閉まってるみたいですよ」
「……え」
中に明かりは付いているものの、ドアに掛けられた札は『閉店』になっていま。
先輩が心底残念がっている。
僕はというと、銭湯が閉まっていることよりも銭湯が閉まるような時間になっていることの方を気に掛けていた。
「……なんだ、お前ら」
閉店の札をしげしげと眺めていた僕らに銭湯の中からガラス越しに声が掛けられた。
先輩よりも背の小さい白髪の老人。
老人としてもかなり歳が進んでいる方であろう。
「あの、今日はもうやってないんですか?」
先輩がガラス越しに言葉を返す。
「……」
潮風でパサパサの髪をした少女と汗でパリパリのTシャツを着た少年。
そんな僕達が目を細めた老人の目にどう写ったのかは分からないが、僕らは閉店後の銭湯の中へととおされたのだった。
「……」
僕は男湯と女湯を隔てる壁の方を見る。
この壁の向こう側に産まれたままの姿の先輩がいるわけだ。
なんてことを考えてしまったらもうダメだ。
意識が全て壁の方へ吸いこまれてしまう。
「きもちーねー、後輩くん」
「っ」
突如先輩の声が響いてきた。
完全に不意を突かれた僕はばしゃんと音を立てて湯船へ沈む。
「どしたのー?」
「なんでもないですー」
先輩の声に釣られて間延びした声が出た。
頭がふらふらする。
湯冷めしないうちに出た方がいいかもしれない。
浴室から出ると、鈍い音を立てながら乾燥機が回っていた。
僕はタオルを腰に巻くと、その鈍い音の正面に座る。
先輩と一緒に旅へ出なければ一生経験することがなかったような経験。
「……勝手に洗わせてもらったが」
「いえ、助かりました」
「……そうか」
それだけ言っておじいさんは男湯の脱衣所から出ていってしまった。
なぜおじいさんはここまでしてくれるのだろう。
こういうのを聞くのは少々無粋なのかもしれないが。
体の疲労が大分解消された僕は脱衣所の前で先輩を待っていた。
先輩にとっては初体験の事ばかりだろうし色々心配なのだが。
だからと言ってここで女湯の脱衣所へ入って行くのもおかしな話だ。
悶々としながら僕は待つ。
「あ、待たせちゃったかなー」
程なくして現れた先輩。
水気の残った髪が頬に張り付いている。
ほんのりと蒸気した頬。
病院に居た時や並んで歩いていた時ともまた違う印象。
まぁどの先輩も魅力的なのだけれど。
まだ続
乙
「ありがとうございました」
僕はおじいさんに深々と頭を下げた。
もう動けないとまで思っていた体の疲労は大分解消されている。
その代わり逆にもう動きたくないと言う感情も湧いてきたが。
「……行くのか」
おじいさんは先輩と僕を交互に見てから呟くように言った。
こんな時間に出歩いている理由は聞いてこない。
聞かれても困るけど。
「ありがとう、おじいさん」
「……うむ」
おじいさんは何か言いたげに見える。
だが何も聞いてこない。
理由も無く助けるはずがない、というのは僕が捻くれているだけなのだろうか。
外へと向かう先輩の背中を見ながら僕は財布を開けた。
「……いらん」
既にお札に指を掛けていた僕。
その言葉を聞いて財布から手を離すとおじいさんの方を向いた。
正直、状況を考えると素直に受け入れるのが正しいのだが。
「どうしてここまでしてくださるんですか」
ここで聞かない人の方が少ないのではなかろうか。
そんな風に自分に言い訳しながら僕は疑問を口にした。
「……」
おじいさんは僕の方を見ていない。
去って行った先輩の背中を追うように出入り口の方を見ている。
答えにくい事だったりするのだろうか。
「……その金はあの子に使ってやってくれ」
今度はちゃんと僕の方を向いておじいさんが言う。
僕の質問の答えにはなっていないが。
「……お世話になりました」
優しい人もいるものだ、と納得して僕はもう一度頭を下げた。
そしてそのままおじいさんの方は見ずに出入り口へ向かう。
「夜になっても涼しくはならないねー」
「お風呂に入った直後なのもあるかもしれません」
「あ、そっかぁ」
傍から見ると滑稽に聞こえるであろう会話だ。
先輩は小さく笑っている。
僕も釣られて笑った。
「これからどうしましょうか、先輩」
「んー……」
先輩がここにきて初めて悩む素振りを見せた。
何か心境の変化があったのだろうか。
僕は悩んでない時間が無いような状況なのでむしろ今更ではあるけども。
「あっち、あっちに行ってみよう」
悩んだ末に先輩が指差した方向は街とは反対方向だった。
僕は何も答えずサドルを跨ぐ。
直後、荷台に何かが乗った気配。
喉を鳴らす音も聞こえた。
音が止まるのを待ってから、僕はゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
『病院に帰ろう、連れていって』
先輩がそう言いだすのを僕は待っているのかもしれない。
待つ必要なんてないだろうに。
自転車を漕いでいるのは他ならぬ僕なのだから。
先輩を連れて帰ることはそう難しい事じゃないはずだ。
「銭湯って洗濯機あるんだね、初めて知ったよ。キミは知ってた?」
「いえ、僕もほとんど利用した事無かったので」
「そうなんだ」
先輩は相変わらず他愛もない会話を続けている。
事は僕が思っているほど重大ではないのだろうか。
誘拐未遂騒ぎがどうのと言う話はどうでもいい。
先輩の身体が平気ならなんだって。
どのぐらい走っただろうか。
立ち並んでいた建物がだんだんと疎らになり、その代わりに自然が増えてきた。
街灯もほとんど無く、車の往来もほとんどない。
まるで世界に先輩と二人だけになってしまったような感覚。
先輩の息遣いが大きい音に聞こえた。
「どの辺りまで来たんだろうね」
先輩がぽつりと呟く。
とても小さい声なのに、まるで音叉のように反響して耳に響いた。
「確認してみますか?」
僕は自転車の速度を落としながら尋ねる。
「確認できるの?」
「多分、大丈夫だと思います」
僕は自電車を止めると、スマートフォンを操作してマップを起動した。
山間に位置するので少し心配だったが、右往左往しつつも矢印が停止する。
アテも無く走っていたが結構な距離を来たものだ。
もし捜索願が出ていたとしてもそう簡単に見つかる距離ではなくなっている。
その事実がまた少し僕の胸にちくりと刺さった。
もちっと続
乙
「どの辺りまで来たかそれで分かるの?」
スマートフォンを覗き込んでいた僕の耳元に先輩の声。
続けて先輩の顔がにゅっと僕の首元を掠めながら現れた。
先輩の髪に首筋を撫でられて僕の身体が思わず身震いする。
心臓の鼓動も当社比5割増しだ。
「どこを見たらいいの?これ」
「あ、えと……ですね」
先輩の細い指がスマートフォンを奪い取ろうとする。
その過程で僕の手と先輩の手が触れた。
なんて冷たい肌なのだろうか。
僕の体温が吸い取られるような錯覚すら覚えるほどだ。
それで先輩の身体が温かくなるなら、それはそれで構わないけれども。
「ここが病院?」
「ですね」
「結構遠くまで来たんだね」
先輩は僕から受け取ったスマートフォンをまじまじと眺めている。
電子機器が珍しいのだろうか。
事実、先輩がそういうものを使っているのを見た記憶は一切ない。
「はい、返すよ」
また先輩の指が触れた。
さっきは感じる余裕の無かった感触を味わう。
柔らかい。
自分の指とは根本的な構造が違うとすら感じるほどに。
「さっきからどうしたの?」
「へっ?」
自分でもどこから出したか分からない声が出た。
「心ここにあらずって感じがするよ。もしかして疲れた?」
「えと、その……」
疲れていないわけではないけれど、心ここにあらずな理由は全く別なものなので。
というか思いっきり先輩に察知されてしまっていた事が恥ずかしい。
僕はどもりながら思わずたじろいでしまう。
「少し休もっか」
「……はい」
「……んぐ」
僕と先輩は道の外れに転がっていた大きなコンクリート片に腰を下ろした。
元がなんだったのかは分からないが、風化による削れで腰掛けに丁度良いのは確かだ。
「いよっと」
先輩が握っていた薬の銀色台紙を放り投げる。
中身が無くなったのか、はたまた薬を飲む気が失せたのか。
どちらにせよ先輩が薬を飲むことはもうないのだろう。
「もう平気?」
「はい、大丈夫です」
元から平気だったのだが、なんて余計な事は言わずに僕は答える。
僕の返答を聞いて先輩は立ち上がり自転車の方へ向かった。
帰ろう、の一言は出てこない。
僕らは同じ方向へまた進み始めた。
続
この空気感好き
何度目か分からない休憩。
山が近くなってきたせいか傾斜や凹凸が大きい道が多くなってきた。
先輩が人ひとりの重さを持っていたらきっとここまでこれなかっただろう。
人ひとりの重ささえ持ってないから心配なのだけれど。
「……ふー」
「大丈夫ですか?先輩」
僕は思わず先輩に聞いてしまった。
聞くつもりは無かったのだが、完全に脊髄反射的に言葉は出てしまって。
要は無意識的に聞いてしまうほど気になっていたのだろう。
「へ?何が?」
「いえ、気のせいならいいんです」
やっぱり濁された。
いや、自覚が無いのかもしれない。
そっちの方がよっぽど危険な気がする。
「そこで止められると凄い気になっちゃうなぁ」
「……すいません」
「謝られても困っちゃうけど」
先輩が困ったように微笑んだ。
深く息を吐くことが増えてますが大丈夫ですか、と言わなかった自分を褒めたい。
先輩が喉を鳴らす音を聞かなくなってから結構経っている。
何も無いわけがない。
聞いて先輩の身体がよくなるなら何度でも聞くが。
「ほらまた」
「……あ」
「凄く難しい顔、してる」
先輩の人差し指が僕の額をこつんと突いた。
僕の目の前に先輩の顔がある。
白くて儚くて、なんだかすごく存在が希薄に感じてしまう。
「……ごめんね、厄介な事頼んじゃって」
今度は聞こえないフリ出来ない状態で謝られた。
どう答えるのが正解なのだろうか。
大丈夫です、気にしないでください。
謝るぐらいなら最初から、言わないでください。
ここまで来たんですから、最後まで付き合いますよ。
色々と言葉は浮かんではきたけれど、そのどれも音になる前に喉元で潰れていった。
どの言葉も先輩を引き留めることは出来なさそうだから。
無駄な言葉を発すれば、先輩が更に遠くなってしまいそうだから。
「ここがこの世の果て、かなぁ」
先輩がごろりと草むらの上で横になった。
気楽にごろんといった風ではなく、横になるのも億劫と言った感じで。
「まだ行けますよ」
僕は思わず声を上げた。
先輩が遠くなってしまいそうだなんてかっこつけている場合ではない。
「うん、分かってる」
先輩は起き上がることなくゆっくりと目を閉じながら答える。
嫌な汗が僕の頬を伝った。
よく見たら先輩の額にも大粒の汗が浮かんでいる。
全く気付かなかった。
いや、先輩なら大丈夫だなんて勝手に考えて気付こうとしていなかっただけか。
「私の方がね、結構限界みたい」
先輩に言わせてしまったことを後悔した。
やっぱり余計な事は言わない方がいい。
「何故こんな事をしようと思ったんですか」
そんな僕の意志とは裏腹に言葉が口から飛び出してきた。
ここまでやらせておいて何も教えてくれないのか、という怒りというか悲しみというか。
そんな僕の中でぐるぐる回っていた感情が音になって飛び出したのかもしれない。
「んー、なんでだろう?突然だったんだよね、思いついたの」
先輩は務めて平静に答えを返してくる。
それが僕の中にある言い知れない感情をさらに煽った、気がした。
「両親は優しいし、お医者さんも全力で頑張ってた」
言葉を続ける先輩。
それは僕に語りかけているようでもあり、独り言を上の空で呟いているようでもあった。
「不満は自分の身体の事だけ。だからこんな事したのかな……ごほっ、ふっ……く」
「先輩っ!」
そこまで言って先輩が大きく咳き込んだ。
横たわった先輩の身体が大きく跳ねるほどの咳。
僕はすぐに先輩の傍へ駆け寄った。
「死にたいわけじゃなくて……生きるのが辛くなった、だけ」
先輩が僕の肩を掴む。
あまりに弱弱しい手の平。
付いていた血が僕の肩にじんわりと滲む。
「キミにしか頼めないと思ったんだ。ごめんね」
先輩が言いたいことを言い終えたと言った感じで沈黙する。
僕は全身で先輩の身体を支えた。
重い。僕は本当にこの人をここまで運んできたのだろうか。
「……ふー……ふー」
先輩はまだ生きている。
まだ生きている、と言う次元の状態ではあるが。
どうするのが正しいのだろうか。
僕は考えようと思ってやめた。
正確に言えば考えるまでも無かった。
僕は先輩を背中に背負って走り出す。
最初からここまで来なければよかったじゃないか。
このまま先輩が死ねばお前のせいだぞ。
なんて湧きあがってくる思考に今は蓋をして。
「すいません、先輩」
「……」
もう聞いているかは分からないが、僕は先輩に謝罪を口にした。
ここまで連れ出した謝罪もある。
生きるのが辛い先輩をまた辛い世界へ引き戻してしまう事への謝罪も含めた。
きっと先輩も僕と同じだったのだろう。
止めて欲しいけど、自分では言い出せなくて。
涙を流しながら僕は走った。
走って、走って、走って、走って。
気付けば僕は突っ伏していた。
全身が痛い。
立ち上がろうとして驚く。
体に全く力が入らなかった。
ここまで疲労していたのか、僕の身体は。
瞼が重くなる。
先輩は無事だろうか。
このまま僕も死んでしまえばいい。
そんな事を考えていたような気がする。
次で終わる
待ってる
気が付いたら僕は天井を見上げていた。
見たことのある天上だ。
僕は体を起こそうとしてふと気付く。
身体が動かない。
拘束されたりしてるわけではないので、いわゆる意思に反してと言うやつだ。
それでも何とか動こうとして僕はガタンと身を揺らす。
そんな僕の動きに近くの看護師さんが気付いた。
「先生、患者さんが目を覚ましました!」
辺りが慌ただしさを増していく。
僕はそんな喧騒から逃れるように目を閉じた。
後で聞いた話なのだが僕はどうやら3日程眠っていたそうだ。
そんなに眠った自覚はないし、そんな経験なかったので実感は全くなかったが。
「おはよう、寝坊助さん」
「おはようございます」
動けるようになってすぐ、僕は先輩に会いに行った。
僕が気を失った直後に僕らは巡回していたパトカーに保護されたらしい。
あと数分遅れていたら危うい状態だったらしく、僕の頑張りは無駄ではなかったとの事。
そもそもの原因が僕であった事について、大人達はあまり大きく責めなかった。
「この世の果てに連れていって欲しいって言ったのに」
たくさんの管に繋がれた先輩の声は、囁くようにか細い。
「……すいません」
その声に釣られて僕の声も小さくなる。
「……恨むよ」
先輩は天井を見ながら話している。
僕は先輩をじっと見つめながら言葉を返す。
「……構いません」
先輩の顔がゆっくりとこちらを向いた。
悪戯っぽく微笑んでいる。
それは僕が想定していた表情とあまりにも違っていて、僕はぽかんとした顔で先輩を見つめた。
先輩の左手の小指が弱弱しく伸ばされた。
何事か分からない僕。
しばし見つめ合う僕達。
『ゆ、び、き、り』
先輩の口の動きからなんとかそう読み取れた。
僕はそっと左手を差出すと、先輩の小指を自らの小指で絡め取った。
『ま、た、ね』
先輩が最後に言った言葉は、きっとその三文字だ。
ここで言う最後というのは今際の言葉ではなく、単に先輩が眠りに付いたと言うだけの事。
僕はひんやりとした先輩の感触を残した小指をぎゅっと握ると病室を後にした。
「あれ、こんなに近かったんだ。ここ」
「あの時は自転車でしたからね」
「なんだか寂しい感じがするなぁ」
「今度は自転車で来ましょうか」
「お、いいね。それ」
「もうあんな無茶はゴメンですが」
「ふふふ、約束は守ってもらうよ」
「今度こそ連れていってね、この世の果てまで」
「……エスコート致します、お姫様」
「うむ、くるしゅうない」
終わり
久々に地の文ありで中くらい書きました
お付き合いしてくださった方、ありがとうございます
よかったら過去作も見てください
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ではまた
良かった
乙
乙
雰囲気が凄い
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