京太郎「限りなく黒に近い灰色」 (265)

はじめに。
ライドウと咲の二次創作です。ライドウの未来に咲がある設定でやっています。
いくつか注意してほしいところがあります。
一つ。 文章がものすごく長い。
二つ。 設定が激変しているキャラクターが多いので気に入らないと思うことがあるかも知れません。
三つ。 前回「操り人形よ糸を切れ」の内容を引き継いでいます。

内容について。
まったく恋愛要素がありません。
今回はほのぼの八割で進行します。

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 六月、インターハイ長野県大会会場で、宮永咲は立ち止まっていた。きょろきょろとあたりを見渡して、どこに進めばいいのかと必死に頭を働かせている。完全に道に迷っていた。

 彼女は控え室までの道のりがさっぱりわからなくなっているのだ。トイレに行くために控え室から出て、トイレにたどり着くまではよかったのだ。

 問題なのはトイレから出てからだった。というのが、トイレから出てきた宮永咲はちょうど人の移動に巻き込まれてしまったのだ。

 何とか人波から抜け出そうとしたのだけれども、これが上手くいかずにいつの間にか流されておかしなところに取り残されてしまった。

 控え室に戻ろうとしたのだけれども、始めてくる場所だったのでいまいち感覚がつかめず困って立ち止まっていたのである。

 しかしいつまでも立ち止まっているわけにも行かなかったので、とりあえず人の気配のするほうへ進んでいった。

 宮永咲は不安の色を隠せていない。しかし歩かないことには何にもならないので、とりあえず歩いていた。

 そうして宮永咲が進んでいくと鶴賀学園の生徒たちとすれ違った。宮永咲はほっとした。まったく面識のない人たちだけれども、道を聞くくらいのことはできるからだ。

 宮永咲が声をかけようとしたのだけれども、彼女は思いとどまった。

 鶴賀学園の生徒の一人がずいぶん顔色が悪く、話しを聞けるような状況ではなかったからだ。

 知的な雰囲気の女子生徒が

「大丈夫か蒲原?」

といって顔色の悪い女子生徒の背中をさすっていた。

 顔色の悪い女子生徒は、

「心臓が止まるかと思ったぞ……」

といって震えていた。流石にこの状況で割り込んでいく勇気はない。

 鶴賀学園の生徒とすれ違った宮永咲はそのまま進んでいった。少し不安の色が減っていた。

とりあえず人の気配がする方向に進んでいけば、どうにかなるという気持ちがあるのだ。

会場は広いけれども、歩き回っていればいつかは目的地にたどり着けるだろうという考えもある。

 のんきなことを考えながら進んでいくと宮永咲は龍門渕高校の生徒たちとすれ違った。

とても背の低い女子生徒と、背の高いボーイッシュな女子生徒、メガネをかけた髪の長い女子生徒の三人である。


 宮永咲はやったと思った。これで控え室に戻る道がわかる。そう考えたのだ。宮永咲が声をかけようとしたときだった。

 とても背の低い少女が宮永咲に話しかけてきた。背の低い少女は少し日焼けしていた。日焼けしている少女はこういった。

「おっ、その制服。もしや清澄高校のものか?」

 日焼けした少女に話しかけられた宮永咲は少し驚いた。少し間を空けてから、彼女は答えた。

「はい、そうですけど?」

まったく話しかけられると思っていなかった。そのため、声がひっくり返っていた。平静をよそおっていたけれども、おびえているのは一目瞭然である。

 日焼けした少女が、こんなことをいった。

「やはりそうか。となると、須賀京太郎の知り合い、であるかな? 灰色の髪の毛の、背の高い」

 須賀京太郎という少年を示すためのジェスチャーを行いながら日焼けした少女は話しかけていた。

須賀京太郎という少年が清澄高校の麻雀部に所属しているというのを日焼けした少女は知っているのだ。

そのため、宮永咲に話しかけてきたのである。もしかしたら京太郎と知り合いで、伝言を頼めるかもしれなかったから。

 宮永咲はうなずいた。そしてこういった。

「はい、そうです。それでどういう?」
 
 日焼けした少女がこういった。

「いや、たいした用事ではない。京太郎に連絡があってな、よければ伝えておいてくれ。天江衣が呼んでいたと。

 呼び止めたりしてすまなかったな。では、失礼する」

 日焼けした天江衣は宮永咲に伝言を頼むと会釈をして歩いていった。

日焼けした天江衣のあとをボーイッシュな背の高い女子生徒と、黒髪の女子生徒がついていった。二人の女子生徒は去り際に軽く会釈していた。

 龍門渕の生徒が歩いていくのを宮永咲は呆然と見送った。いまいち何が起きたのかわかっていなかった。

道を聞こうと思っていたらいきなり伝言を頼まれたのだ。軽いパニック状態だった。

自分から話しかけようとしていたのに、向こうから話しかけられたので余計に驚いてしまったのだ。

 やっと持ち直した彼女は、とぼとぼと歩き出した。せっかくのチャンスを不意にしてしまったからである。

 しかし、天は彼女を見捨てていなかった。人気のない通路の行き止まりで須賀京太郎を宮永咲は見つけたのである。

通路の行き止まりにいる須賀京太郎を見つけて宮永咲はほっとしていた。そして、どうしてここに京太郎がいるのかという予想もつけられていた。

おそらく自分を探しに着てくれたのだろう。よくあることだったから、きっとそうに違いないと納得していた。

 ほっとしたのもつかの間、宮永咲は先に進めなくなった。須賀京太郎の様子がおかしいことに宮永咲は気がついたのだ。

須賀京太郎の表情は青ざめていて、今にも倒れてしまいそうだった。死にかけている電灯に照らされている灰色の髪の少年は場の雰囲気もあって、妖しかった。


 須賀京太郎に、宮永咲は声をかけていた。

「京ちゃん? どうしたの」

宮永咲の声は震えていた。自分の知っている須賀京太郎というのはこんな少年だっただろうかと不安になったのだ。

「もしかすると背格好が似ている別人なのではないか」

 そう思うほど京太郎の見た目は昔と変わっている。灰色の髪の毛に人を寄せ付けない雰囲気。

学生服につけている腕章などさっぱり意味がわからない。三本足のカラスの紋章と、龍の紋章が刺繍されている豪華な腕章だ。

どこで手に入れたのかといって聞いても、教えてくれなかった。ほんの少し昔の京太郎なら、考えられないことだ。

また妖しい雰囲気など、発するような少年ではなかった。


 青ざめている京太郎を心配する気持ちはもちろんある。しかし、どんどん変化していく京太郎のことがわからなくなり始めているのだ。

 人は成長するものだ。宮永咲も成長したものの一人だ。小さなころよりも背が伸びている。いくらか女性らしくなっているだろう。

 誰と比べるのかでずいぶん印象は違うだろうが、きっと成長していると思ってくれる人のほうが多いに違いない。

 成長したからなのか、同い年の少年が子供っぽいとしか思えない時期もあった。小学校の高学年から、今に至るまで。

 年頃の少女にありがちな感覚である。成長というのは男女差があるけれども、そのスピードの違いで感じるわずかな優越感のようなものがあった。

よくあることだ。

 しかしタイミングの問題だ。変わらないものなどない。子供にしか見えなかった少年たちが成長する時期がある。

 春に花を咲かせる植物がこの世の全てではない。冬に花を咲かせ実を結ぶものも多くいる。これもよくある話だ。

 成長することがよくあることでも、追いつけなくなるという不安は恐ろしいものだ。肉体的な成長など、たいしたものではない。
 
 背が伸びたくらいで何が変わるのか。筋肉がついたくらいで何が変わるのか。

 問題なのは、心だ。精神的に成長し始めたものが成長しきったとき一体どんな存在となるのだろう。

「きっと自分が知っている彼のままではないだろう」

 そしてこんなことを思うのだ。

「自分は、置いていかれるのではないだろうか。肉体的な距離ではなく、精神的な距離を開けられて、永遠に近づけなくなるのではないか」

 そう思うと、不安でしょうがなかった。

「京ちゃん、どうしたの?」

という言葉は体調を心配しているというのもある。しかしそれ以上に彼女の不安がそのまま音になっていた。

 宮永咲が声をかけると須賀京太郎は反応を返した。軽い調子で、「大丈夫」といって笑っていた。

 そして、宮永咲に近寄ってきて、彼女の肩をポンと叩いた。宮永咲が知っているいつもの調子だった。しかし、なんとなく違っているのに彼女は気がついていた。

 宮永咲が戸惑っている間に、須賀京太郎は歩き出した。そのときこういった。

「みんなのところに戻るぞ。遅刻して敗退なんて笑えないぜ」


 プロローグ終わり。

 五月の終わりごろ。夕方の清澄高校の廊下を京太郎は歩いていた。授業がすっかり終わり、部活動の時間である。

 灰色になってしまった髪の毛をいじりながら、足音をまったくたたせずに廊下を進んでいく。京太郎は、高校生になってからは麻雀部に所属している。

 ほんの数日前まではまったく休まずに通っていたのだが、さまざまな事情が重なりここ数日は部活に顔を出せていなかった。

 しかしやっと部活動にも出てこれるようになったので、顔を出すつもりなのだ。

 先に進む京太郎から少し遅れる形で宮永咲が歩いていた。普段は見せない困ったような表情を浮かべていた。

 また、足を繰り出すスピードがそこそこ速かった。彼女、宮永咲もまた麻雀部の部員である。京太郎と同じように彼女も麻雀部に毎日顔を出している。

 少し事情が違いほかの新入生たちよりも遅れて部活動に参加することになったのだが、部活動を始めてからは真面目に部活動に取り組んでいた。

 毎日毎日、よほどの用事がなければ部活動をやっていた。本日も同じである。京太郎と行くところが同じだから、一緒に向かっているのだ。
 
 自分たちの教室と部室との中間点で、宮永咲は京太郎との距離を縮めた。今まであったおどおどした様子がなくなっていた。意を決したのだ。

そして話しかけてきた。

「京ちゃんごめんね。お見舞いにいけなくて」

 宮永咲は京太郎に謝りたかったのだ。しかし、謝るタイミングを逃し続けていた。数日前に京太郎は事故に会った。そして入院していた。

 事故のことが小さな記事になったりもしている。宮永咲が申し訳ないと思っているのは入院していた京太郎のところに一度も顔を出さなかったことである。
 
 しょうがない話だ。京太郎が事故にあったと知ったのが部活動の合宿から帰ってきてさらに、時間がたってからのこと。

 京太郎が意識を失い眠り続けたことも、回復したが事故の後遺症で髪の色が変わってしまった話も、何もかもが終わってからだった。

 だから、どうしようもないのだ。どのタイミングでも彼女はたどり着けなかった。
 
 しかし彼女はその知らせを聞いたとき、自分が不義理を行ったと感じた。

 何もかもが終わり、結果だけが残っている状態であったのがよけいに失敗したような気持ちにさせたのだ。

 結果だけがある。もうすでに何もかもが終わっていて、介入する方法がない。できることといえば、ひき逃げ犯を責めるような話をするくらいのものだ。

 ただ、それをしたところでどうなるわけでもない。もやっとするだけだ。そして結局、今の今まで話しかけることさえできなかった。

 申し訳なさそうにする宮永咲をみて京太郎は、このように返した。

「謝らなくていいって。ぜんぜん気にしてないし、怒ってない。

 本当に気にするなよ。機嫌が悪くてこんなことを言っているわけじゃないからな。本当に気にするなよ。泣きそうな顔をするな」

 京太郎はまったく気にしていないようだった。久しぶりに歩く廊下を感心したように見てみたり、窓の外で走り回る高校生の姿を見て、微笑んでいた。

 京太郎自身、その言葉通りまったく気にしていないのだ。

 確かに入院していたし、三日ほど眠ったままであった。そして退院するまでに数日かかったというのも本当である。しかし、それだけのことだと京太郎は思っていた。

 お見舞いに来てくれなければ友達ではないとか、不義理であるなどとはまったく思っていないのだ。卒業式だとかでは泣かないタイプである。


 京太郎の返事を聞いて、宮永咲の表情は曇った。少しつつけば、泣いてしまうだろう。しかしそれでもしっかりと京太郎の歩くスピードにあわせて歩いていた。

 別に誰が悪いという話ではない。たまたまタイミングが悪かっただけのこと。

 それに仮に宮永咲が事故現場に居合わせていたとしても、また奇跡的にどこの病院に運ばれたのかという情報を手に入れられたとしても、おそらく病室まではたどり着けなかっただろう。

 そもそも京太郎が事故にあったという話も、たまたま偶然に耳に入ったから知れた情報なのだ。ほかの部員たちも同じだ。たまたま偶然に耳に入ったのだ。

 だから同級生たちのほとんど、学校の関係者のほとんどは、何が起きたのか知らない。確かに新聞には記事が残っている。調べれば、高校生がひき逃げにあったという記事を見つけられる。

 しかし、それだけだ。だから

「一年生の須賀京太郎が事故にあったことを知っているか?」
だとか
「灰色の髪の毛になったのを見たか?」
などと世間に聞いて回っても
「知らない」
もしくは
「もともと灰色のような色合いだったのではないか?」
という反応しか返ってこない。それ以上のことは関係者以外知らない。

 宮永咲の表情がずいぶん悪いのを理解したけれど、何もいわず京太郎は麻雀部の部室に向かって進んでいった。

簡単に宮永咲を置き去りにすることができるのだけれども、それはしなかった。おいていかないように気をつけながら、京太郎は歩いた。

 自分が彼女を悲しませているというのはよくわかったからだ。また、自分が何を言ったとしても気に病むだろうというのもわかっていたので、何もいえなかった。

京太郎たちが部室に到着したときには部員たちが部活動を行っていた。京太郎以外はみな、女子である。三年生が一人、二年生が一人、一年生が京太郎を入れて四人。

 部長が見守る形で部員たちが麻雀卓を囲っていた。麻雀部なのだから、その活動は麻雀である。野球部が野球をするように、麻雀部の部員ならば、やることは決まっている。

 宮永咲と京太郎が部室に入ってくると部員たちの動きが止まった。今まで聞こえていた音がぴたりと止まるのだ。学生服のすれる音がうるさく感じるような静寂にはいった。

 今までの動きが止まってしまったのは、京太郎に対して妙な罪悪感のようなものがあるからなのだ。もちろん彼女たちに罪があるわけではない。

 京太郎に対して罪があるのは京太郎を車で引いた犯人だけだ。彼女たちの罪悪感というのはそこにあるのではない。

 宮永咲と同じなのだ。早い話が不義理だったと思ってしまっている。彼女たちは京太郎に何が起きたのかというのを第三者から聞いている。第三者というのは噂話をする同級生であったり学校の先生だったり、自分の親だったりする。そうして誰かから聞くまで自分たちは何も知らなかった。

 そこそこの付き合いがあるにもかかわらず、まったく関係のなさそうな人たちのほうがよく事情を知っていた。

 そして話を聞いてみると人助けのために動いて事故にあったというではないか。

 これが妙な罪悪感の正体なのだ。自分たちはいったい何をしていたのだ、彼が人助けをして死に掛けていたときに、自分たちはいったい。

 それがどうにも心を苦しめる。苦しむ意味もなければ、理由もないのに。須賀京太郎は自分の意思で歩いたのだ。歩いて人を探したのだ。そして命を失いかけた。自分で歩いた結果だ。

 彼女たちが歩かせたわけではない。気に病むことなど何もないのである。彼女たちは関係ないのだから。

 一番初めに動き出したのは、背の低い女子の部員。名前を片岡優希という。ずいぶんあわてていた。片岡優希はこういった。

「大丈夫だったか京太郎!」

京太郎の格好が変わったのを見てよほど恐ろしいことがあったのだろうと察したのだ。京太郎が事故にあったという話を聞いたときには、めまいがするほどの恐れを感じたものだった。

 実際に事故の後遺症(灰色の髪の毛)というのを目の当たりにすると、心配するような言葉しか出てこなかった。

 飛び込んできそうな勢いの片岡優希に京太郎は答えた。

「心配しすぎだって、大丈夫だよ。ちょっと眠ってただけだ。髪の色が変わったくらいで、今は前よりも調子がいいくらいだ」

 空元気ではない。髪の毛の色が明らかにおかしくなったということ以外はむしろ調子がいいのだ。全身に力がみなぎるようになり、京太郎の感覚は研ぎ澄まされている。

 特に集中力が高まっていて、気がつかなかったものに気がつくようになっている。入院していたのは検査が必要だったためであって、動けなかったからではない。

 両親に心配をかけたくなかったので、おとなしくしていたが目が覚めた瞬間から走り回れる元気はあった。茶化してもよかったが、心配してくれているのだ。誠実に答えるしかなかった。

 京太郎がそう応えるのを聞いて部員たちの顔色が悪くなった。今まであった元気というのが、さっぱりどこかに消えてしまっている。彼女たちの顔色を悪くさせているのもまた、妙な罪悪感である。

 しつこくいうけれども彼女たちが気に病む必要などない。しかしそう簡単に割り切れないのが人間である。人のことを思いやれるのは美徳だが、苦しみのもとでもあった。

 顔色が悪くなった部員たちを見て、デザインパーマをかけているような髪型の部員が京太郎にこういった。

「まぁ、無事でよかった。きれいな金髪もにあっとったが、灰色もなかなかええのう。

 それで、今日はどうするか。いつも通り京太郎はわしが見ようか? なぁ、部長」

二年生の、染谷まこである。いつも通りの口調だった。まったく気にしていないという風である。彼女は気を使ったのだ。一瞬の沈黙と、その後の流れを考えるといちいち止まっているわけにはいかなかった。

 京太郎が気にするなといっているのならば、こちらが気にしていてもしょうがないし、また気にしたところで、とっくの昔に結果は出ているのだ。何を言ってもしょうがない。
 
 それがわかっていたから、彼女はさっさといつも通りの空気を出して暗くなりそうな場を巻き込んだ。

 染谷まこが話を振ると、部長竹井久はうなずいた。少しぎこちなかった。竹井久は、染谷まこの「きれいな金髪」
というところに引っかかったのだ。

「もともと灰色系統の金髪ではなかったか」

と竹井久は思ったのだ。

 しかし染谷まこは金髪であったという。おかしなことだ。そして記憶を手繰ろうとした。しかし思い出そうと思ってもなかなかはっきりと思い出せなかった。

 どこからか流れてきた情報によれば、事故の後遺症で灰色の髪の毛になったというのだから、もともとは別の色だったはず。しかし、なぜだか金髪ではなかったような気がするのだ。

 実に不思議だった。おかしいとは思った。しかし考えてもしょうがないことだと思い、それ以上考えなかった。暗い雰囲気が漂っているほうがずっと問題だったのだ。

 何とか持ち直してみんなに聞こえるように竹井久はこういった。

「それじゃあ、私とまこが交代で須賀くんをみましょうか」

 部長がそういうので、京太郎はうなずいた。まったく反論などするつもりがなかったからである。部長が決めて、それに従うだけのこと。空気がいつもと変わらないのならば、それに越したことはなかった。

 
 部活動が始まって、数十分後のことだった。京太郎を染谷まこがほめていた。

「なんじゃあ、今日は調子がええのぅ」

無理やりにほめているというようなことはない。本当に感心しているのだ。

 というのが、京太郎と二人で麻雀を打っていると京太郎がまったくといっていいほど危険牌を出さないのだ。二人で勉強をしていたのでいろいろな問題を出していた。

 どれが危ないのかとか、相手の狙いはどんな形なのかとか。問題なので、それなりに難しいものばかりだった。

ひっかけ問題を出して失敗を誘うような状況がいくつもあった。しかしそれを、軽々と京太郎は超えていった。それを見て、彼女はずいぶんと京太郎の読みが上がったと感じたのだ。

 しかしほめられた京太郎は、苦笑いを浮かべていた。素直に受け取ることができていなかった。

 
 時間が少したち、竹井久が教えてくれるときがあった。染谷まこと交代して教えてくれたのだ。染谷まこも京太郎の世話ばかりをしているわけにはいかない。

後数日でインターハイ県予選が始まる。その大会で勝ち上るためには、彼女もまた力を高める必要があった。そのため、京太郎の練習を途中で竹井久に引き継いだのだ。

 そのときもまた京太郎はほめられていた。竹井久はこういった。

「すごい、牌が勝手に集まっているみたい」

 期待にみちていた。彼女がこういったのは、京太郎の勘が異様なほど研ぎ澄まされているのを実感したからである。

麻雀で思い通りの手配がくるなどということはめったになく、当然だけれどもどれだけ計算したところで運が絡むようになる。

偶然が絡むゲームのはずなのに、あっという間に役が完成するのだ。それが一度や二度ではなく何度も。これはもうとんでもない勘の冴えだった。

 しかしここでほめられた京太郎は、また同じように苦笑いを浮かべていた。完全に、悪いことをやっているという罪悪感が表情から見て取れた。

 しかしその表情を見て、京太郎が何かしているというように思ったものは少ないだろう。褒め慣れていないために、そういう顔をしたものだと思っているものばかりだった。

 京太郎が、心の底から笑えないのははっきりとした理由があった。京太郎にはどこに、何の牌があるのかわかっていたのだ。

これは超能力のように絵柄が透けて見えているわけではない。透けてはいないのだ。

 京太郎の目は牌についているわずかな傷を読み取ることができていた。しかしそれは、特殊な技術を使ったわけではない。練習をしたわけでもない。

 ぼろぼろのトランプでババ抜きをするとどうなるかという話だ。何度か繰り返してゲームを続けていたら傷で絵柄が判断できるようになると思うのだが、それが麻雀牌でおきていたのだ。

 しかし普通の感覚ではわからないような傷である。ほとんどの人はかまわないものだとしてゲームをはじめるだろう。麻雀部の部員たちと同じように。

 しかし研ぎ澄まされた感覚の前にはあまりにもわかりやすい目印だったのだ。目印がついていれば、どれを出せばいいのかいやでもわかる。これを上手く使えば、勝負には勝てるだろう。しかし、京太郎はいい気持ちにならなかった。

「これで勝負に勝ってもしょうがない」

 というのが京太郎の気持ちなのだ。やるなら、正々堂々、うしろめたくないようにしたかった。たとえ、敗北するとしてもかまわないのだ。後味の悪いものはよくなかった。

 また、麻雀部の面々には聞かせられない感情も心の中に生まれていた。生まれた感情とは「退屈」である。どうしようもない退屈を麻雀に感じていた。今の京太郎にとっては作業なのだ。絵柄が見えているまま続ける神経衰弱だ。今まで楽しめていたものが完全に色あせて見えた。



 部活動の終わりを告げるチャイムが鳴った。そのとき片岡優希が携帯電話を取り出して操作をし始めた。しかしすぐにこういった。

「なぁー、京太郎。メールの返事が届いてないみたいなんだけど、どうしたんだじぇ?」

 京太郎に話しかける片岡優希は、おびえていた。実は京太郎が事故にあったことを知ってすぐに京太郎に連絡を取ろうとしていた。今日の昼のことである。しかしまったく京太郎からの返事はなかった。

「きっと見舞いに来なかった薄情な自分に怒っている」

 はじめはそう思っていた。しかし、いつも通りに接してくる京太郎を見て、予想が違っていることを知った。おそらく、携帯電話の電源でも切ったままなのだろう。

 そう納得した彼女は京太郎に放課後は一緒に帰らないかとメールを送っていた。

「タコスでもおごってやろう。回復した祝いとして」

 しかし、まったく返事がないので、直接ききにきたのだ。やはり少し怒っているのかもしれないという、恐れの気持ちはここから生まれていた。

 片岡優希の質問を受けた京太郎はこたえた。

「携帯? あぁ、そうだった。壊れたんだよ。どこで壊れたかはわからんけどな。週末にでも見に行かなくちゃ」

 京太郎は笑っていた。まったく嘘はない。学生服も学生かばんも教科書のいろいろもなくなってしまった。そしてもう少し正確に言えば、携帯電話と学生服に関していえば、炎にあぶられたときに壊れてしまったのだというようになる。

 

 しかし、どこで壊れたのかわからないという答え方でも嘘ではない。正確にどのタイミングで携帯電話が壊れたのか、京太郎にもわからないのだ。

 京太郎の答え聞いて原村和がこういった。

「本当に無事でよかったですね。早く犯人が見つかればいいのに」

ずいぶんと真剣な口調だった。京太郎の答えを聞いてすぐ携帯電話がどうして失われてしまったのかという想像がついたのだ。もちろん、京太郎が体験した冒険を理解したわけではない。

 京太郎の身におきたということになっている車の行為がそうしたのだろうと考えたのだ。そして、その行為のことを考えると、彼女の心は怒りに染まる。

 知人がそんな目にあって穏やかではいられない。何せ、一歩間違えば、京太郎は戻ってこれなかったかもしれないのだから。

 原村和がそういうのを聞いて京太郎は苦笑いを浮かべた。そしてこういった。

「そうだな。早く見つかってほしい」

力のない言い方であった。また怒りに燃えているということもない。犯人がすでにつかまっていると京太郎は知っているのだ。

 そして事件そのものが嘘であると知っている。本当のことを話すべきかも知れない。しかし嘘をつかなければならない事件だった。話したところで理解されるものではないのだ。

 悪魔に襲われたなどと話して納得してもらえるだろうか。まだ、ひき逃げされたのだという話のほうが現実味がある。

 しかし嘘は嘘だ。妙にいやな感じがしてしまう。そして自分のために怒りを覚えてくれる人たち、心配してくれる人たちの姿を見ると、自分が悪いことをしているような気持ちになる。しかし本当のことを言うわけにもいかない。結局、空返事に近い対応しかできなくなるのだった。


 部活動の終わりを告げるチャイムが鳴り、帰り支度が済んだところで部員たちは部室から出て行った。

 そして校舎の中を進んでいるときであった。廊下で、先生と生徒が大きな荷物を前にして困り果てていた。

おじいさんといっていい年齢の先生と、細長い男子生徒である。彼らは大きな金庫を二人で持ち上げようともがいていた。金庫は大体高さ一メートル奥行き一メートルほどの古い金庫だった。さび付いていた。

 おじいさん先生と細長い男子高校生が、金庫と格闘しているのは回収してもらうことが決まったからなのだ。業者に頼めばいいのだけれども、頼むほど重たいわけでもなく暇だからということで二人でどうにか運んでいたのだ。しかしいよいよ力の限界が来てしまった。そんなところだった。

 すれ違うときに、先生と生徒が助けを求めてきた。

「すまんが、手伝ってくれないか。二人で持っていくのは無理そうなんだ」

 おじいさん先生はずいぶん息が切れていた。また、男子生徒も息が切れていた。二人で何とか廊下まで持ってくることはできたのだが、流石に階段を下りていくのは無理だったのだ。

 そして無理だと判断したところに、たまたま人が通りがかった。二人で足りないのなら、三人、四人と増やせばいい。そう思ったから手を借りたいといったのだ。

 古びた金庫を運んでくれないかといわれたときに、部員たちはあまりいい顔をしなかった。女子部員たちはどこからどう見ても無理だろうという顔をしていた。

 何せ、古びた金庫はそこそこ大きい。人数を増やせば、おそらく持ち上がるだろうし、運べるに違いない。しかし間違いなく明日は筋肉痛になるだろう。

 また、おそらく手伝ってほしいというのも自分たちではなく、京太郎に対してというのがなんとなくわかっていた。平均的な男子よりも体格のいい京太郎の力ならば、役に立つだろう。

 しかしそれは、病み上がりということになっている京太郎に無理をさせるかもしれないということ。それは彼女らにとっていいことではなかった。

 さてどうやって断ろうかと考え始めた部員たちを差し置いて、京太郎がこういった。

「いいですよ。どこまでもって行きましょうか」

少しもためらうところがなかった。荷物を運ぶだけだ。断る理由がまったくない。京太郎の周りは京太郎のことを心配しているけれども、本人は調子がいい。むしろ体を動かしたくてしょうがないのだ。

 金庫を運んでくれなどというお願いなんて、たいしたことではなかった。

 京太郎がうなずくのを見て、おじいさん先生がこういった。

「下駄箱のところまでお願いするよ。そこからは明日、業者さんがやってくれることになっているから」

おじいさん先生と、細長い男子生徒はほっとしていた。ものすごく大きな金庫ではないけれども、中に書類なのか、何かが入っているようで思いのほか重たいのだ。

中身を捨ててから運ぶべきなのだけれども、さび付いてあかないのだ。そんなところに三人目が加わるということで、楽ができるとほっとしたのである。

 やる気になっている京太郎を見たとき部員たちはあまりいい顔をしなかった。何を言っているのだこいつはという表情を浮かべているものばかりだった。

 京太郎は元気があるといっているけれども、事故にあって意識不明になったまま三日間病院のベッドで眠っていたのだ。治ったといっているけれども、どのタイミングでおかしくなるかはわからない。無理をするのはよろしくないと思うのは自然なことだった。

 しかしそんな心配する部員たちを置いたままで、宮永咲に京太郎はかばんを渡した。京太郎の学生かばんは事故のときにどこかに消えてしまったので、中学生のときに使っていたかばんを持ってきて使っている。かばんを宮永咲に渡したのは、邪魔になるからだ。

 かばんを渡された宮永咲はこういった。
「大丈夫なの京ちゃん」
心配しているのがよくわかった。実際心配しているのだ。医学の知識がない宮永咲であるけれど、意識不明になった人間が力仕事をしていいのか悪いのか判断するくらいのことはできるのだ。

 心配する宮永先に京太郎が答えた。
「大丈夫大丈夫、このくらいなら軽いもんさ」
実に軽い調子だった。むしろ楽しそうだった。京太郎は退院してから体の力をもてあましていた。麻雀部で異様な集中力の高さを発揮したときは困った結果になったけれども、発散したいという気持ちはある。

 抑えているけれども爆発寸前なのだ。なのでむしろこういう体を動かせるチャンスがあるのなら、是非にという気持ちのほうがはるかに大きかった。
 京太郎の答えを聞いた宮永咲はこういった。

「そうじゃないよ。体のこと」

口調でわかることだが、少し怒っていた。なぜ自分が心配しているのかまったく理解していない京太郎に怒ったのだ。

 宮永咲の心配する声も聞かずに京太郎は金庫に手をかけて持ち上げた。京太郎は古びた金庫の底に手をやって、ほかの二人が手伝う前に持ち上げたのだ。ヒョイという擬音が似合う動きだった。

 むしろ軽すぎたのか持ち上げすぎてバランスを崩していた。京太郎は、そこそこ重たいといって情報を得ていたので、結構な力を入れて金庫に挑みかかったのだ。そうしていざ持ち上げてみると、それほど重くない。

 そうなってみると重たくもないのに力を入れすぎたということになるわけで、勢いがあまって体のバランスを崩しかけたのである。

 京太郎が荷物を持ち上げたところでおじいさん先生と細長い生徒が歓声を上げた。

「おお! すごいな君!」

「はぁ!? 何で持ち上がってんの!?」

 二人とも目を見開いて、口を半開きにしてしまっていた。二人からすれば、古びた金庫というのはとんでもなく重たい荷物だったのだ。しかしそれが、目の前で冗談のように持ち上げられてしまった。

 そうしてみると、目の前の京太郎というのはとんでもなく力持ちということになる。普通よりも少し体格がいいくらいの京太郎がどこにそんな力を持っているのだろうか。不思議でしょうがない。

 さっぱり自体の飲み込めないものたちを尻目に京太郎は廊下を進み下駄箱へと向かっていった。金庫を持ち上げた京太郎は、驚いている先生と男子生徒をまったく気にせずに歩き出した。

 その進むスピードというのは京太郎が宮永咲と一緒に歩いていたスピードよりもずっとすばやかった。また、京太郎は少しもつらいという様子がなく、むしろ楽しんでいた。

 自分の力を抑えなくていい状況になったので、楽しくなってきたのだ。そのため自分の力を抑えて、人にまぎれるのを忘れてしまっていた。

 京太郎がさっさと先に進んでしまった後で、おじいさん先生と生徒に竹井久が質問をした。

「あの、何がすごいんですか? あの金庫ってそんなに重たいんですか?」

 ずいぶん冷静だった。あまりにもおじいさん先生と細長い生徒が騒ぐので、冷静になってしまったのである。そうして、冷静になってみると京太郎のどこがおかしかったのかというのが気になった。

 確かに、金庫というのは重たいものだ。何百キロという重さのものもある。しかし、先ほどの金庫はせいぜい二十キロ。多く見積もって三十キロくらいのもの。もてないレベルのものではないはず。少なくとも彼女にはそう見えていた。

 竹井久の質問を受けた先生が答えた。

「あの金庫の中にはね、まだ資料が入ったままなのさ。見た目こそ小さな金庫だけど、重さは半端ないよ。金庫のもともとの重さと資料の重さで四十キロくらいあるんじゃないかな。だから二人で運んでいたわけだけど。

 しかし一人で持っていくとわね。あの生徒はずいぶん力持ちだ。しかも余裕そうだったし」

 先生と生徒が感心しているところでが宮永咲に原村和が聞いた。

「須賀君ってスポーツでもしていたんですか?」

特に気になったわけではない。鍛えていない女性、おそらく麻雀部の女子部員たちには無理な重たさだろう。しかし鍛えている人間にとっては四十キロという重たさというのは、無理な数字ではない。当然、条件次第ではという言い方になるけれども。

 たとえば、鍛えられた消防士、警察官たち。何十キロもある人間を運ぶというのはよく聞く話だ。背の高い京太郎なら、鍛えていればできなくはない。

 質問を受けた宮永咲は答えた。

「してたけど、驚かれるほど力は強くなかったよ」

おそらく部員たちの中で一番京太郎を理解しているだろう彼女が一番京太郎を理解できないでいた。その困惑が、声から読み取れた。

しかしスポーツをしていたのは本当である。しっかりとスポーツをやっていた。しかし、そこまで筋肉があるというような話は聞いたことも見たこともなかった。しかし目の前で起きてしまったことがある。一応答えはしたけれども、彼女の心には謎が残った。

 ひとしきり騒いだところでおじいさん先生と細長い生徒たちは作業の続きをするために姿を消した。さっさと掃除をしなければいつになっても帰れないからである。

 そして、生徒と先生が消えたところで麻雀部員たちも下駄箱に向かった。部員たちは京太郎の怪力について話をしながら、また灰色になってしまった髪の毛について話をしながら歩いていった。

 話しながらであったが早歩き気味だった。おそらく京太郎は下駄箱にいるはず。そして宮永咲にかばんを任せている以上は、帰ることもできないだろう。そういうことで彼女たちは下駄箱に急ぐのだった。


 髪の毛の話をしているとき異変に気がついたものが一人いた。染谷まこだ。異変といってもたいしたものではない。京太郎の灰色の髪の毛が、かつて

「金髪だった」
と断言できたのが、染谷まこだけだったのだ。ほかの部員たちは宮永咲も含めて

「金髪だったに違いない」もしくは「金髪だったかもしれない」

どまりだった。部員たちは金髪だったといわれれば、そうだったかもしれないとうなずくのだが、

「黒色だった」
とか、
「茶色だった」

と別の誰かが誘導すれば、すぐに間違えそうな不安定な状態であった。人間の記憶は怪しいものだ。完全に覚えていられるものは非常に少ない。

 不思議なことではないだろう。ただ、程度がある。京太郎の髪の色を間違えるというのはいくらなんでも無理があった。

 しかし今の自分たちの環境がおかしいと理解できたのは染谷まこ、ただ一人だった。しかし指摘できなかった。不気味で、恐ろしかったのだ。

 たった一週間だ。一週間前まで綺麗な金髪だった少年が、灰色の髪の毛になった。これだけでもおかしいのに、京太郎は日本人で非常に珍しい金髪だったのだ。生まれつきの金髪である。綺麗な金髪はいやでも目を引く。いい意味でも悪い意味でも目を引くのだ。

 しかしそれがわからなくなっている。そんなおかしなことがあるものか。おかしなことがあるものかと思うが、おきてしまっている。そうなってくると、染谷まこは考えてしまうのだ。

 「自然に起きたのか、それとも『誰か』が行ったのか。仮に『誰か』だった場合、何が目的なのだろうか」

 ヒントが少なすぎてわからないけれども、ひとつだけはっきりしているのは須賀京太郎を「誰か」が隠したいと思っているということ。毎日といっていいほど顔を合わせていた宮永咲の記憶すら怪しくしているのだ、よほど隠しておきたいということになるだろう。

 そして、染谷まこは行き当たるのだ。

「情報操作に気がついたものはどう処理されるのか」

そんなことを思うと、指摘するのは無理だった。




 京太郎が下駄箱に到着してから数分後のこと、部員たちが玄関に到着した。部員たちは、先ほど京太郎が見せた、怪力についてなどというのはすっかり忘れてしまっているように見えた。タコスの話をするものがいたり、麻雀部の予定について話をするものがいたりして、実に和気藹々としている。

 少し遅くなってしまったのは彼女たちが話をしていたからではない。普通に歩けば下駄箱まで数分はかかる。京太郎が、少々行儀の悪い移動方法を取ったために、彼女たちよりもかなり早く下駄箱のある玄関まで移動してしまったのだ。

 下駄箱に到着したとき部員たちは京太郎に近づけなかった。下駄箱で自分たちに背を向けている京太郎の姿を彼女たちは見つけたのだ。京太郎は夕焼けを避けるようにしてたっていたのである。結果、背中を見せるような形になっていた。

 背中を見せている京太郎をみたとき片岡優希などはひとつ飛びついてやろうと考えてもいた。

 しかし、できなかった。寒々しい荒野としか言いようのない空気が京太郎から放たれていた。彼女たちはこれを感じ取り、先に進めなくなってしまった。

 一種の異界といっていい雰囲気を放つ京太郎は、彼女たちにとっては近寄りがたい存在でしかなかった。京太郎に近寄れるほどの勇気を彼女たちは持っていなかった。


 一方で部員たちが玄関に到着したのを察した京太郎は声をかけた。

「とりあえずわかりやすいところにおいておいたんですけど、大丈夫ですかね、これで」

 背後から近づいてきた部員たちが動き出すよりも早く、さっさと振り返っていた。そしていつもと同じように声をかけた。バタバタと足音を立てながら歩いてくる彼女たちなど、いちいち視界に納めなくともどこにいるのかはすぐにわかる。

 そして、仕事が間違いなく行われたかというのを確認する必要があったので、部長に対して質問したのである。

 京太郎に話しかけられたところで、やっと竹井久が口を開いた。

「えっ、ええ。大丈夫だと思うわよ。わかりやすいところにおいてあるから、文句は言われないでしょう」

 ぎこちない笑顔を浮かべていた。気を抜いていた京太郎から漏れ出していた奇妙な空気からいまだ抜け切れていないのだ。しかし何とか返すことができていた。自分の感じた神秘的な雰囲気は夕焼けを背にしている京太郎を見た詩的な感覚だと納得したのである。

 つまり神秘的な雰囲気というのは勘違いだったのだと判断したのだ。

 竹井久がうなずいたのを見て、京太郎はうなずいた。ほっとしていた。もしも間違えたところに金庫を置きっぱなしにしていたら、きっと業者さんに面倒をかけるだろうと考えていたからである。

 しかしそれがなくなった。自分はしっかりとやり遂げられたとわかって、ほっとしたのである。

 そして、京太郎は宮永咲にこういった。

「かばんありがとうな、咲」

いつもと変わらない口調、表情を京太郎は浮かべていた。まったく疲れている様子などない。四十キロ近い荷物を持ったまま、人気の少ない廊下を風のように走り抜け、階段を飛び降りてきたというのにまったく消耗していなかった。

 京太郎にとっては、たいしたことではないのだ。ちょっとしたお手伝いであって、息を切らせるような運動ではない。

 京太郎のかばんを差し出すときに宮永咲はうなずいた。彼女の目は京太郎をじっと見つめていた。わずかにうなずいたのは、自分に笑いかける京太郎が、いつもと代わらない彼の姿だと受け入れることができたからだ。

 しかし、宮永咲の目は京太郎から離れない。わずかに恐怖もあったから。この恐怖は、怪物を見るような恐怖ではない。この恐怖は変化の恐怖。京太郎の力だとか、髪の毛の色のことではなく、また、雰囲気が変わってしまったことでもない。

 この恐怖は自分の家族が離れ離れになったように、この失いたくない人物もまた、どこかに消えていってしまうのではないかという別れの恐怖である。


 麻雀部の部員たちと校門で別れた京太郎は一人で帰り道を歩いていた。京太郎は帰り際に買い食いでもしないかといって誘われた。しかし、「さっさと帰ってきて休め」と両親から言いつけられていたので、断ったのだった。

 そうして、少し早歩きで、普通目に見るととんでもないスピードで帰り道を進んでいた。

 帰り道を半ば過ぎたところで、金髪の女性と、背の低い黒髪の女性に声をかけられた。金髪の女性のほうがやや年上に見えるが、二人とも二十歳には届かない若さに見える。また、金髪の女性と背の低い女性はどちらもおそろいのワンピースを着ていた。

 京太郎と、金髪の女性と、背の低い黒髪の女性が背の順に並ぶと、いい具合の階段になる。

 金髪の女性は片手に買い物籠をぶら下げていた。金髪の女性はアンヘル。背の低い黒髪の女性はソックという。京太郎が数日前に出会った仲魔である。

 足を止めた京太郎に金髪の女性アンヘルがこういった。

「龍門渕のお嬢様からマスターにパーティーのお誘いです。

 表向きは無事に一族のものが戻ってこれたことを祝う場とのことですが、個人的にマスターにお礼がしたいらしいです」

 龍門渕の事情などまったく興味がないというのが口調から読み取れた。アンヘルがいやいやでも京太郎にメッセージを伝えているのは仲良くしているメイドさんが龍門渕で働いているからである。

 もしもメイドさんが一枚かんでいなければこのような伝言はしなかっただろう。

 アンヘルが話し終わるのにあわせて、背の低い女性ソックがこういった。

「どうするマスター、断ろうか? 退院して調子が出ないからとでも言えば、引き下がってくれると思うが」

アンヘルと同じくソックも口調にやる気がない。さっさと伝言を伝えて、用事を済ませてしまいたいという気持ちがにじみ出ていた。裏社会の人間とコネクションでも作っておけなどといわないのはそんなものに興味がないからである。

 伝言を伝えてくれた自分の仲魔に京太郎はこういった。

「そうだな、出席しておこうか、やることもないし」

 龍門渕という巨大なグループにもヤタガラスに対しても敬意というのはない。自分の退屈を埋めてくれるのならば、それでいいという気持ちしかないのだ。退院してから妙に感じるつまらなさ。無駄にたまる体力。妙に高まっている集中力も、うっとうしくてしょうがない。それを京太郎はここで埋めてしまいたいと思っているのだ。

 京太郎の返事を聞くと携帯電話を取り出してアンヘルがどこかに連絡をした。

「もしもし、一さんですか。アンヘルです。出席でお願いします、はい。

 それでは、お嬢様によろしくお伝えください。いえいえ、マスターも乗り気みたいですから……えぇはい。そうですね楽しみにしてます。

 お嬢様がサプライズを用意して……えぇ、大変ですねそれは、はい。

 私たちはいつもと同じように入り込んでおきますから……はい。衣ちゃんに首を洗って待っておけと……はい。

 それではよろしくお願いします」

 先ほどのつまらなそうな声とは打って変わっていた。電話を取ったときの母親と同じような変貌の仕方だった。龍門渕に対してというより権力に興味がないだけで、その場所で暮らしている気に入った人たちに対してアンヘルは別の気持ちがあるのだ。

 アンヘルが連絡をしている間に京太郎にソックが紙袋を手渡した。

「ほれ、マスター。約束のものだ」

 紙袋は本屋でもらえるものである。京太郎に紙袋を差し出すとき、ソックは少しだけ鼻息を荒くしていた。京太郎が受け取ったものはソックに頼んでいた品物である。

 入院中まったくやることがなかったので、京太郎は漫画を読んで暇をつぶしていたのだ。入院患者が好きなように読めるマンガというのが休憩室のような場所にある。

 ソックに頼んでいたのは休憩室においてあった漫画の続きである。思いのほか面白かったので、お金を渡して頼んでおいたのだ。京太郎の仲魔は実に忠実にお願いを果たしてくれていた。

 ソックが妙に鼻息が荒いのは、彼女もまた続きが気になっているからである。京太郎が興味を持っていたのをみてマンガに手を出して、そのまま抜けられなくなっているのだ。

 ソックが紙袋を差し出すと京太郎は紙袋を手に取った。そしてソックに礼を言った。

「ありがとうソック。助かった」

京太郎はずいぶん嬉しそうにしていた。何せ非常に中途半端なところで、単行本がなくなっていたのだ。先が気になってしょうがなかった。そういうものを手に入れたので、京太郎はニコニコしてしまうのだ。

 紙袋を受け取ってニコニコとしている京太郎を見て、連絡を終えたアンヘルがこういった。

「何ですかそれ?」

自分のマスターが何かソックにお願いをしているのは知っていた。しかしいちいち自分のマスターに問うのは仲魔としてどうだろうと自重していた。

 しかし今、このタイミングならば、聞いたとしてもそれほどおかしくないだろうと彼女は試しに聞いてみたのだ。男子高校生だと答えにくい書物なのかもしれない、とも思ったがそれはそれで面白そうなのであえて踏み込んでいた。


 京太郎が答えようとしたところで、ソックが先に答えた。

「漫画だな。宇宙生物と耽美な高校生が戦う話。古い小説を原作にしてて面白いんだ。

 原作者のアサクラキチョウのほかの作品にも手を出してみたがなかなかよかった」

 ずいぶんと早い反応だった。ソックが京太郎をさえぎったのは嫌がらせのためではない。お前も興味がわいたのかという感動と、同族を見つけたかもしれない興奮である。自分の趣味の話になると口が軽くなる現象が、ソックに起きているのだ。

 ソックに先を越された京太郎が残念そうにしていると、アンヘルがこういった。

「あぁ、あれですか。ひとつ前はイナゴと戦っていましたよね。その前は巨大戦艦でしたっけ? マスター、マニアック漫画を読むんですね」

 とても驚いていた。京太郎は文化だとか、文明だとか言うものから離れて、体を動かすのが好きな野生児的な人間というような印象があったからである。

インドア趣味は一つも持っていないと、そんな先入観を持っていた。

 アンヘルがこういうと京太郎はこういった。

「入院しているとき暇すぎて、休憩所で読み始めたんだよ。それで、続きが気になってな、ソックに頼んで待合になかった最新作を買ってきてもらったんだ」

 言い訳をするような後ろめたさがあった。マンガを読むことが悪いと思っているわけではない。むしろよく読むほうだ。しかし、どうも中学まで運動部であったことと、妙に体が大きなことが重なってインドアな趣味があるというような話をすると意外だといわれることが多かった。それで話しにくく感じていたのである。

 京太郎が少し困っているとアンヘルがこういった。

「まぁ、そうでしたか。退屈はつらいですからね」

 実に実感がこもっていた。退屈だからといって現世に現れ。食べ物の匂いにつられて歩いているところを襲われて死に掛けたバカをよく知っていた。京太郎の暇つぶしなどかわいらしいものだった。


 話がいったん切れたところで、京太郎にソックが言った。

「では、今週の土曜日の予定は龍門渕でパーティーだな。たぶんだがお迎えが来るはずだから、それにあわせて動けばいい」

 少し急いでいるようだった。腕時計をちらちらと見て、そわそわしていた。アンヘルとソックの用事というのがあまりぐずぐずしていると困ってしまう用事だったからだ。時間がかかっても問題は少ないけれど、できるだけ早いほうがよかった。

 ソックの話を聞いた京太郎がこういった。

「二人はどうするんだ? 龍門渕には行かないの?」

自分の仲魔がソワソワしているくらいのことは京太郎にもよくわかる。彼女らが自分に反逆を企てないのと知っているので、一応予定だけを聞いて分かれるつもりなのだ。

 京太郎が不思議そうな顔をしているところでアンヘルが答えた。

「私たちは直接向かいます。道順もわかっていますからね。もっていきたいものもありますし」

アンヘルはにっこりと笑った。にっこり笑っているのに何か悪巧みをしている雰囲気があった。

 別れ際に京太郎は二人に聞いた。

「これだけのためにわざわざこんなところまで来たのか? 家に電話で済ませればいいのに」

 まったくたいした用事ではないのだ。それこそ電話一本入れれば済む話。京太郎の携帯電話はお亡くなりになっているけれども自宅にかければおそらく母が電話を取るだろう。

 すでに顔見知りになっているのだから、伝言くらいならば問題なかったはず。京太郎はそのことを少し疑問に思ったのだ。自分の仲魔が自分に忠誠を誓ってくれているのはいい。しかし、いちいち顔を見せなければならないほどのことではない。不思議だった。正直な感想なのだ。

 質問を受けてすぐにソックが答えた。

「買出しついでさ。いつの間にか今日の晩ごはんの材料と、明日の朝ごはんの材料がなくなっていてな。

 異常現象さ。神隠しにでもあったかな。なぁ、アンヘル」

 ソックにこめかみに青筋が浮かんでいた。完全に犯人はわかっているらしい。かなりいらだっているのは、今日の晩御飯どころか、明日の朝ごはんの材料まで、というより、冷蔵庫の中にあったはずの食材がきれいになくなっていたからなのだ。

 ソックの視線を受けたアンヘルはあさっての方向をむいた。かなり勢いをつけて首を振ったので、金髪の髪の毛がふわっとゆれてきれいだった。しかしずいぶん汗をかいていた。

 十四代目葛葉ライドウに用意してもらった自宅ですでに長い説教を受けた後だ。かなり反省していたけれども、ソックの怒りにまた火がつくと面倒であったので、知らぬ顔で通そうとしていた。

 アンヘルが買い物籠を持ち、その横をソックが歩いていくのを見送って、京太郎は家路を急いだ。



 家に帰ってきた京太郎は自分の部屋にこもった。父も母もまだ家に帰ってきていないようだった。時間帯から考えるとは母は買い物に出ている時間帯である。父はまだ帰ってくる時間ではない。仕事中だろう。

 一人きりでリビングにいても寂しいだけであるし、自分の仲魔に買ってきてもらった最新刊を楽しむ用事がある。そういうわけで京太郎はさっさと自分の部屋に閉じこもってしまった。

 ソックに買ってきてもらった漫画を京太郎は読み始めた。ベッドに倒れこんで、そのまま読み始めた。実に真剣な表情だった。流石に話の続きが気になっていただけあって、その集中力は半端なものではなかった。

 集中していたので、読み終わるのに五分もかかっていなかった。しかし京太郎は満足せずに、はじめから読み直した。そしてまた五分もせずに読み終わっていた。

 何度も繰り返していると京太郎の名前を母が呼んだ。母の声の調子から、晩御飯だろうなと京太郎は当たりをつけた。

 京太郎は漫画をいったん置いて母の元に向かった。流石に何度も繰り返して読み込んだのだ。名前を呼ばれているのに、聞こえていないふりをする必要はなかった。

 

 京太郎が母の元にたどり着くと母がこういった。

「晩御飯ができたわよ。食べましょう」

 母の髪の毛は綺麗な金髪だった。しかし日本人だ。京太郎よりもずっと背が低い、どこにでもいそうなおばさんだ。京太郎が持っているふんわりとした雰囲気は母親から受け継いだものだろう。

 小さなころに京太郎がどうして自分たちは金髪なのかといって聞いたことがある。髪の毛の色があまりにも普通でなかったのが、気になったのだ。小さなころだから、余計に気になった。

 そのときに金髪をもって生まれる人が多い家系なのだといって母は京太郎に教えてくれていた。遺伝子の不思議だと笑うのだ。

 まったく嘘などない。本当に母の血統は金髪が生まれてくる。京太郎の母方の祖父は少し髪の毛が薄くなっているけれども金髪である。母方の祖父に話を聞いてみると長い御伽噺を聞かされることになって困ったのも、京太郎は覚えていた。

 晩御飯の途中で、京太郎は母にこういった。

「土曜日、龍門渕にいってくる。なんか、パーティーがあるとかで招待された」

 少し間を空けて母がこういった。

「ご飯がいらなかったら連絡してね。あ、携帯壊れてたわね。代わりの携帯電話をもらってくればよかったわ」

 母は少し考え事をしているようだった。京太郎には何を考えているのかわからなかった。

 母が困っているのを見て京太郎はこういった。

「大丈夫だよ。電話なら借りればいいし携帯電話がなくてもたいして困らないから」

 携帯電話を持っていて当たり前な時代である。連絡を取るのも携帯電話がなければ難しい。

「人とのつながりもこれがなければ、どうにもならないぞ」

といわれるような状況だろう。しかしまったく気にしていなかった。携帯電話がなくともそれほど困ることがないのだと、実感してしまったからだ。問題があるとしても友達からの誘いをすっぽかしてしまうくらいのものである。

 晩御飯を食べ終わった京太郎は、食器を片付けてさっさと自分の部屋に戻っていった。もう一度、マンガを読み返そうと考えているのだ。
 部屋に戻った京太郎は飽きるまで漫画を読み続けた。そして満足した京太郎は独り言を言った。

「最終巻は限定版が出るのか……発売日は、今週の土曜日。タイミングがよければ一気に読みきれたのか……パーティー終わりにでも買って帰ろうか。
 すこしは暇つぶしになるだろう」


 漫画をすべて読み終わった後、風呂に入りさっさと眠る準備を済ませて、ベッドの中に入り込んで京太郎は眠った。
 やることがさっぱりなくなったので、京太郎はおとなしく眠ることに決めたのだ。学校の課題というのも、学校で終わらせてしまっている。どうにも集中力が増しているのか、それほど苦労することもなくなっているのである。

 そうして携帯電話もないし、読みたい漫画の最終巻も土曜日にならないと手に入らないので、眠るしかなかったのだ。


 深い眠りについた京太郎は奇妙な夢を見た。その夢は白黒だった。夢に浮かび上がっている光景はどこかの海辺だった。ずいぶんきれいな砂浜と、見たことがないくらいきれいな地平線が広がっていた。

 また、砂浜には自分の仲魔、アンヘルとソックの姿がある。奇妙なのは、夢の中で京太郎が声を出そうともがくのだが、上手く声が出せないのだ。
 しかし夢ではよくあることだ。

 また、その夢の光景は姿を変えて違ったものに変わった。浮かび上がる光景はまたもや白黒だった。この光景は太陽のような熱の塊を前にしているものだった。この光景にはアンヘルとソックはいなかった。しかし、この巨大な熱の塊を見ていると、京太郎は不思議と戦わなくてはならないという気持ちになるのだった。理由はさっぱりわからない。

 この光景もまた姿を変えて、別のものに代わった。三度目に浮かび上がった光景もまた白黒だった。この光景には三人の男の姿が合った。男だとわかったのは、背格好があまりにもがっしりとしていて女性的でなかったからだ。また三人とも身長が高かった。男が三人立っているだけなのだが、非常に印象的だった。

 三人が三人とも狐の面をつけていたのである。そして、三人とも奇妙な服装をしていた。一人は平安時代の貴族のような格好、もう一人は武者のような格好、そしてもう一人はロングコートを着たスーツの男だった。どこかで見たような気がした。答えを京太郎は出せそうになかった。

 ここで夢は終わった。

 土曜日の朝日が差し込んできたとき、京太郎は目を覚ました。目覚めた京太郎の顔色は非常に悪かった。体の調子というのはまったく問題なかった。しかし、どうにも精神的にめいってしまっていた。京太郎の見た夢が原因である。

 というのも、夢の内容を京太郎はさっぱり忘れてしまって、ただ、夢を見たという実感だけが残っていたのだ。はっきりとしない、この微妙な感覚が、気分を悪くさせるのだった。

 
 

 朝ごはんを食べ終わった京太郎がリビングでくつろいでいた。本日は龍門渕のパーティーに一応呼ばれているので、京太郎はワイシャツとスラックスという格好をしていた。

 そもそも一般市民の京太郎にとってパーティーなどという上流階級の催し物というのに縁がない。そのため、さっぱりその手の服装というのも持っていなければ、どういう振る舞いをするべきなのかというのもわからないのだ。

 しかも、急な話であったから、良い対応をするという気持ちさえわいていない。一応、家族に相談してみたものの、家族もまた一般市民であって、当たり障りのない格好をしていけばいいだろうというようにしかいえなかったのだ。

 そうなって結局、地味目な格好でそのときを待つことに決めた。問題があれば、そのつど対応すればいいだけで、また、パーティーに絶対参加しなければならない、などというような使命感もないのだ。

 緩やかに時間が流れているところで、チャイムが鳴った。時計の針が午前九時をさすころである。ききなれたチャイムがリビングに響いた。

 母が手を話せなかったので、京太郎が玄関に向かった。普段なら、母が動き出すのだけれども掃除機をかけるのだといって動き出していたので、京太郎が動いた。また、久しぶりに休めている父も

「龍門渕さんのところじゃないか?」

といって、京太郎を促して動かないので、京太郎が動くことになった。父も言うように、おそらく龍門渕からの使者だろうと予想もつくので京太郎に異論はなかった。


 玄関の扉を開いた京太郎は、一歩足を引いた。これは玄関の前に立っていた執事風の男の存在感に押された結果である。京太郎は今まで見てきた人間の中で、それこそ十四代目葛葉ライドウと同じか、それ以上の奇妙な雰囲気を感じたのである。

 悪魔とも違うなんともいえない冷え冷えとした空気である。この空気を体感した京太郎は、一歩引いてしまったのだ。しかしすぐに姿勢を戻すことができた。それは迎えに来た男に戦う気がまったくないからである。

 奇妙な気配に押されながらもすぐに立て直した京太郎を尻目に、執事らしき男がこういった。

「はじめまして須賀様。龍門渕より参りましたハギヨシと申します」

 非常にきれいなお辞儀をして、ハギヨシと名乗る執事は微笑んで見せた。龍門渕の一族を無事に連れ戻してくれた人間に対して危害を加える理由がない。そもそもパーティーに招待しているのだから、こういう対応になるのは当然であった。

 ハギヨシと名乗る男の自己紹介が終わり、一拍おいたところで京太郎が反応した。

「これはどうも、ご丁寧に。須賀京太郎です。今日はよろしくお願いします。服とか、これでよかったですかね?」

 ずいぶん早口だった。理由は二つある。まずハギヨシというのがはじめてみるタイプの人間だったこと。そのはじめてが緊張させる原因の一つ。

 二つ目は、これから向かう場所が自分のような一般人に縁のない場所、いわゆる上流階級の集まりだということでわずかに緊張しているのがひとつである。この二つがかみ合って妙にあわてた感じが出てしまっていた。

 京太郎の質問を受けてハギヨシがこういった。

「問題ありませんよ。格式ばったものではありませんから」

 ニコニコと微笑んで、まったくいやみなところがなかった。自分が他人に対して妙な圧力を与えてしまうということをよく理解しているのだ。
 そのため、京太郎のように緊張して取り乱す人というのを見ても、まったくおかしいとは思わないようになっていた。

 また、京太郎の服装に関して特に注文をつけなかったのは、実際服装などというのには意味がないというのを知っているからなのだ。血まみれだとか、服を着ていないというのなら話は違うが、常識的な格好をしているのなら問題なかった。

 京太郎がうなずいた。ほっとしていた。今までのあわてていた様子からは打って変わって、一気に調子を元に戻していく。

 ハギヨシの空気に慣れてきたのだ。そして、胸の中にあった不安がなくなったことで、いつもの調子に戻ってきた。冷静さを取り戻すのもずいぶん早かったが、それも当然のことだろう。他人からみれば、同じような空気を発しているのだから、慣れるのも早い。

 京太郎がうなずくのを見て、ハギヨシがこういった。

「車はこちらで用意させていただきました。準備がよろしければ、どうぞ」

 玄関の前に止めてある大きな車にハギヨシは振り返った。京太郎でも知っているような、高級車だった。黒塗りで、ずいぶんぴかぴかに磨かれてあった。ほんの少しの擦り傷で何十万円もすっ飛んでいくのだろうな、などと考えて、京太郎は青い顔をした。

 京太郎はこのように応えた。

「それじゃあ、少し待っていてもらえますか。家族に伝えてきます」

 特に何を用意するというわけではない。服装もこれでいいということであるし、手ぶらでいいのならば、このまま車に乗るだけのこと。しかし家族に何も言わずに出て行くのは少し問題があった。

 ただでさえ、心配させた後なのだ、何も言わずに出て行くなど京太郎にはできなかった。

 そういうと京太郎はいったん玄関の扉を閉めた。当然、これから龍門渕に向かうという話をするためである。

 玄関の扉を閉めた京太郎は父と母に事情を話した。実に簡単な説明だった。

「龍門渕の人が来たからいってくる」

 すでに、事情は話しているし、家族もどういう理由で呼ばれているのかというのも承知していたので、非常に簡単な説明だけで済んだ。
 父と母は、

「骨董品とか壊して帰ってくるなよ、弁償できないぞ」

 とか

「食いだめして帰ってきなさい」

だとかいって、笑っていた。

 家族に「行ってきます」といってから京太郎は玄関の扉を開いた。

 玄関から出てきたところでハギヨシに招かれて、車の後部座席に京太郎は乗り込んだ。今まで生きていてまったく触れる機会がなかった超高級車を前にした京太郎の動きは非常にぎこちなかった。自分の体がぶつかって、何か失敗してしまったら大変なことになるという考えが頭にあるのだ。

「弁償だとか、そういう話になったとしたら終わりだな」

 そんな悪い考えが頭に浮かんできてしまい、全身を上手く支配できなくなっている。

 ハギヨシが後部座席に座ると、車はどんどん先に進んでいった。運転手の腕がいいのか、まったく不愉快がない。

 車が走り出して数十秒ほどたつと、ハギヨシがこういった。

「お嬢様の招待を受けてくださって、ありがとうございます。本当なら身内だけで済ませるはずだったのですが、申し訳ないです」

 本当に悪いことをしてしまったという気持ちが、声にこもっていた。普通なら、このようなセリフが飛び出していい立場にいる人間ではない。しかしハギヨシにとって謝っておかなくてはならないという気持ちになるほどの、問題だったのだ。京太郎にはわからないが、少なくともハギヨシにとっては、それほどだった。

 ハギヨシが謝るのを見て、京太郎はこういった。

「いえ、あの、別に悪い気持ちはしませんから。謝らないでください」

 このとき京太郎は、軽い調子だった。京太郎はハギヨシが謝っているのは、昨日の今日でパーティーに呼び出すようなまねをしたことだと思っているのだ。そのため、いまいちかみ合っていなかった。

 京太郎がこういったあと、ハギヨシはこういった。

「そういってもらえると助かります。どうにもお嬢様は目的と手段がごっちゃになっているようで。困ったものです」

 ハギヨシは微笑を浮かべてはいたが、すべてが冗談ではないのがわかる。実際京太郎をパーティーに呼ぶのを反対していた。

 しかしお嬢様の一言

「一族のために働いてくれた恩人に、ド派手なパーティーを!

 この龍門渕透華の開くパーティーが地味であっていいはずがない! そうでしょうハギヨシ!

 盛大にやりましょう! 盛大に!

 そうだ、何か目玉になるようなものを用意しなければ、何がいいかしら……何か度肝を抜くような……そうだ! 思いついた! ハギヨシ!

 オロチを使いましょう! オロチ! あれを使えばできるはず!

 決まりだわ、すぐに業者に連絡しなければなりません! さぁ、急ぎましょう!」

で、押し切られた。

 お嬢様の考えをハギヨシが受け入れたわけではない。最終的に京太郎には二つの道しか残されていないのだから、時間の問題だと判断し、お嬢様の思惑に乗ったのだ。

 二つの道というのは、悪魔たちを使役する人間たちの中で生きていくのか、それとも一般人として生きていくのかという道。

 いつまでも情報をとどめておくことが不可能である以上、京太郎はどちらかを選ぶことになる。今回のパーティーが、道を分かつきっかけになる。そう考えてハギヨシは、お嬢様の思惑に乗ったのだ。

 やや茨の道だけれども、いつかは来る道だからと。

 困ったように笑うハギヨシを見て京太郎は空返事しか返せなかった。よその家の事情に首を突っ込めるほどの勇気は持っていなかった。



 車がさらに先に進む中で、ハギヨシが京太郎に聞いた。

「須賀さまは、もうどこに所属するのかお決めになりましたか。そろそろヤタガラス以外の組織からも声がかかるはずです」

 話の内容としては非常に重要である。しかし話しぶりは世間話をするような気軽さがあった。

 また、ヤタガラス以外のサマナー集団からの接触があるだろうと話しているけれども、その可能性はないとハギヨシは知っていた。

 龍門渕支部所属のヤタガラスが保護の名目で見張っているからだ。このような話を振ったのは、京太郎の仲魔アンヘルとソックが京太郎に何か助言を与えているのではないかと考えたからである。

 京太郎は完全な素人である。しかし、京太郎の仲魔はそうではない。京太郎を主と認めている仲魔が京太郎のために助言をしている可能性があった。

 もしもその助言で、京太郎が道を決めていたら、ハギヨシの考えている道を選ぶ必要というのがなくなるので、一応探りを入れたのだ。正直に答えてくれるとも思っていないけれど。

 ハギヨシの質問を受けた京太郎は答えた。

「いえ、まったく何も決めていません。あと、須賀さまはやめてもらえますか。なんだか、ざわざわするので」

 ずいぶんはっきりと言い切った。そして運転手にもハギヨシにもわかるくらいに、所属をどうでもいいと思っているのがわかる口調だった。京太郎は自分がどこの組織に所属するべきなのかまったく考えたことがなかった。

 正直に答えたのは、まったくサマナーたちについて興味がなかったからである。駆け引きをするという発想すらない。むしろ気になっていたのは、ハギヨシが妙に丁寧に話しかけてくれることだけだった。
 
 京太郎がもぞもぞとしているのを見てハギヨシはうなずいた。そしてこういった。

「わかりました。では、須賀君、先輩からの忠告だと思って聞いてください。

 あなたはこれから気をつけて行動しなければなりません。あなたが駆け引きの苦手な人間で、他人のために戦える人間と見込んで、正直に話をしましょう。

 あなたはあなたが思っているより、微妙な立場にいます。

 あなたはこれからヤタガラスに所属するかそれともまったく別のどこかに所属するかを選ばされることになるでしょう。

 これは時間の問題です。今回のパーティーでほとんど確定するでしょうが、はっきりと決めなければ一週間以内にほかの陣営から声がかかる可能性がある。

 コウモリは嫌われます。わかりますね?

 あなたの仲魔が何も言わなかった理由はわかりません。しかしひとつだけはっきりとしていることがあります。

 それは龍門渕のパーティーに出席するということはヤタガラスに所属する意思があると受け取られということ。

 龍門渕はこの地域の支配者。サマナーたちの元締め。ヤタガラスの幹部です。あなたが何を言ってもほかの陣営はこう思うでしょう。

 『あいつはヤタガラスに入ったのだ』と。もしもあなたが別のどこかに所属したいというのなら、または誘いがあるようなら、よく考えたほうがいい」

 京太郎に話しかけるハギヨシはずいぶんわかりやすく話した。京太郎を自分の陣営に取り込んでしまえば龍門渕への貢献になるはず。龍文渕ではなくとも自分の味方にするということもできたはずである。

 しかしそれをしなかった。このときのハギヨシは龍門渕に手を貸しているのサマナーではなく、ただのハギヨシだったのだ。京太郎が感じているように自分と同じような空気をハギヨシは京太郎に感じ取っていたのだ。

 ハギヨシがこういうのを聞いて、京太郎は質問をした。

「ヤタガラスって公務員みたいなものだと聞いていたのですが、ほかにもそういうのがあるのですか?

 まるでヤタガラスがよくないもののような感じがありますけど」

 探りを入れる、などということはない。純粋にわからなかったのだ。警察だとか、消防士のようなものだというのがヤタガラスに対しての京太郎の印象だったからである。少なくとも今まで聞いた話のうちでは形だけでも正義の組織だろうと考えていた。

 京太郎の質問にハギヨシが詰まった。ハギヨシの微笑が消えてしまった。完全に次の言葉がのどで詰まっていた。

 ヤタガラスというのは真っ白な存在ではないとハギヨシはよく知っているのだ。



 シンとしたところで京太郎の質問に運転手が答えた。

「ヤタガラスも真っ白な存在じゃないってことさ。ハギちゃんはそのあたりよく知っているからな。

 何も知らない須賀君を取り込んでいいものかと気に病んでいるのさ。

 うちのお嬢は微妙な力関係を考えないからな、困ったもんさ。俺たちの小さな心臓はいつも震えっぱなしよ」

 陽気な声だった。おそらく二十代後半あたりと京太郎は当たりをつけた。ハギヨシに変わって答えたのは、ハギヨシが実に面倒くさい立場にいることをよく運転手は承知していたからである。

 いちいち立場の説明をしてもいいが、そうなると若気の至りをハギヨシは自分で説明することになるので、運転手が気を回したのだ。

 運転手の男の答えを聞いた京太郎は、うなずいた。そしてこういった。

「大変ですねハギヨシさん」

 流石に、京太郎も理解したのだ。およそ一言では言えない、説明しきれない何かがあったと。しかし何かというのをいちいちたずねはしなかった。
 
 答えられない質問だとか、踏み込んでこられると困る領域があるのは京太郎もよくわかるからだ。

 京太郎の様子を見て、ハギヨシはこういった。

「わかってもらえると助かります。人が運営している以上いろいろと人間関係が面倒くさいことがありますから。

 まぁ、大切なのは須賀くんのこれからのことです。

 もしもこれ以上悪魔とかかわりたくないというのなら、はっきりとそういってください。そうすれば、ヤタガラスはあなたを保護対象として見守る姿勢をとるようになるでしょう。

 し、十四代目はあなたのことを気に入っているみたいですが、そこは私が話をつけましょう。まぁ、そういうことです」

 そういっている間に車はどんどん先に進んでいった。目指すは龍門渕である。

 しかし普通に道が長かった。そのため思ったよりも話が合うハギヨシと運転手とで京太郎は暇をつぶしをしていた。

 といってもたいしたことではなくただの世間話である。車の中でいろいろと話をしているときに、京太郎は自分の趣味を聞かれた。実にたいしたことではない。そのときに京太郎はこういった。

「麻雀ですかね、最近は漫画を読んだりしてますけど」

 京太郎が答えると、運転手がこういった。

「麻雀か、お嬢たちがよくやってんな。というか、須賀くんは漫画とか読むんだな、アウトドア派だと思ってた。須賀くんは麻雀強いの?」

 京太郎はこういった。

「いえ、ぜんぜんですよ。やっとやっとです」

 京太郎が答えると、運転手がこういった。

「俺なんかさぁ、麻雀できないんだよねぇ。トランプとかも怪しいな。なんか、感覚が冴えちゃってさ、ちょっとした傷が目印になって模様が予想できちゃうのよ」

 運転手の話を聞いて京太郎は少し大きな声で同意した。

「俺もっすよ! 大変ですよね、あれ。常にイカサマしてるみたいで」

 京太郎が愚痴ると運転手は大きくうなずいていた。そして少し大きめの声で続けた。

「おっ! 須賀くんもか! わかるわかる。なんか、罪悪感が半端ないんだよな。まぁ、抑えようと思ったらできるけど、これがつらくてな。須賀くんもそのうちできるようになるぜ」

 運転手がこういうと、京太郎は少しほっとした。自分と同じような人がいて、よかったと思ったのだ。

 ほっとしている京太郎を見て、ハギヨシがこういった。

「まぁ、須賀くんのマグネタイトの総量と魔力なら一週間くらいで上手くコントロールできるようになるでしょう。

 マグネタイトの総量が増えたことと、魔力を急に得たことで、発散が上手くいっていないのですよ。許容量以上のエネルギーが内側にたまってしまって感覚が常に強化されているのです。

 上手く発散できるようになるまでは目を閉じて遊ぶしかないでしょう」

 ハギヨシの説明を聞いて、運転手が笑った。

「麻雀牌をみないで麻雀を打つのか? 絶対に突っ込まれるって。まぁ、一週間ならすぐだな。俺のときは一ヶ月くらいかかったからな。最悪だった。

 そういや、須賀くんは漫画を読むらしいけど何系を読むの? ジャンプ系? ガンガン系?」

 京太郎は答えた。

「何でもいけますよ。今はまっているのは、あれですね、高校生が戦艦を日本刀でぶった切る」

 京太郎がここまで言うと、運転手が割り込んだ。

「あぁ、ハギちゃんが好きなやつか。ハギちゃん、集めてたよな。確か今日、最終巻の発売日だとか……だろ? ハギちゃん」

 運転手がこういうと、ハギヨシは少し誇らしげにこういった。

「そうですよ。仕事が終わったら、買いに行くつもりです。
 それにしても驚きましたね、須賀くんがあれを知っているとは。面白いのになかなか読んでいる人がいなかったんですよ。職場で広めるわけにもいかないですし」

 と、それからは、運転手とハギヨシと京太郎の漫画の話が続いた。その後、龍門渕に到着した。



龍門渕の屋敷に到着した京太郎は、車から降りた。龍門渕の駐車場で車は止まっていた。

 車から降りた京太郎は背伸びをした。背伸びをしたときに体がパキパキと音を鳴らした。

 体を伸ばしているときに京太郎は綺麗なメイドさんを見つけた。大きく目を見開いて、非常に京太郎は集中していた。

 というのもメイドさんという都市伝説なみに珍しい存在をこの目で見る日が来るとは思っていなかったからである。そして龍門渕にはメイドさんがいるのかといって感動していた。

 それにくわえて、京太郎が見つけた綺麗なメイドさんというのが、非常に綺麗だったのだ。モデルのような長身で、顔も整っていた。髪型も綺麗にまとまっていて、お手本そのままのメイドさんだった。

 年齢が二十五歳かそのあたりで、ロングスカートのメイド服に着られていない。よく着こなしてあった。

 京太郎がメイドさんに驚いていると、小さな子供が現れた。。ずいぶん背が低かった。金髪で、髪が非常に長かった。頭に赤くて大きなリボンをつけている。しかしどうにもリボンと会わないジャージを着ていた。しかも上下ジャージである。

 急いで走って車に向かってきているのだけれども、歩幅が狭いせいで一生懸命走ってもまったく走っていないように見えた。

 京太郎が何事だろうかと見ていると、車から降りてきたハギヨシに小さな子供が飛び込んできた。

「ハギヨシィ! アンヘルとソックがぁ!」

 アンヘルとソックという何者かに、何かされたらしかった。かなり悔しそうな顔をして、膨れている。

 小さな子供が何か文句を言っているのを聞いてハギヨシは困ったような顔をしていた。アンヘルとソックと呼ばれている何者かに覚えがあり、また、この小さな子供がどういう目にあったのかというのが、大体予想がついているからである。

 また、ハギヨシが困っているのと同じに京太郎の顔色は悪くなっていた。完全に遠いところに視線が泳いでいた。アンヘルとソックという名前をよく知っていたからだ。自分の仲魔である。

 文句を言っている小さな子供にハギヨシが聞いた。

「アンヘルさんとソックさんがどうしました? 衣様」

 ハギヨシがたずねると小さな子供、天江衣がこういった。

「ド○ポンでぼこぼこにされたぁ! 衣も一もがんばったのに、ぜんぜんだめだった! あいつら大人げなさ過ぎる! やりこんで来やがった!

 真白はどこだ! あいつも巻き込んでやる!」

 天江衣が続けてハギヨシに愚痴るのをききながら京太郎はあさっての方向を見つめていた。右手はキリキリと痛む腹に当てていた。

 自分の仲魔が龍門渕の関係者と仲良くやっているのは知っていたが、友情破壊ゲームを持ち込んでいるとはまったく思わなかったのだ。というか小学校低学年にしか見えない天江衣をゲームでぼこぼこにするのは大人気なさ過ぎるとしか思わなかった。

 真白も巻き込んでやるといって意気込んでいる天江衣にハギヨシが答えた。

「いないみたいですね。多分、用事ができたのでしょう。先ほどまでそこにいたのですが」

このときに、今まで京太郎が見ていたところにハギヨシの目線が動いていた。しかしハギヨシが見たところにはもう誰もいなかった。影も形もない。

 愚痴を言っていた天江衣も落ち着いてきた。そしてやっと京太郎に挨拶をした。

「天江衣だ。アンヘルとソックの主、須賀京太郎だな。見苦しいところを見せてすまなかった。気軽に衣さんと呼んでくれ。後、一応言っておくが、高校二年生だ。よろしくな」

 上下ジャージ姿であるが、非常に洗練された礼をとっていた。先ほどの醜態は、たまたま起きたことである。アンヘルとソックの作戦が腹立たしかったために、正気を失っていただけだ。いったん落ち着けば、年相応の行動をとれるのだ。

 天江衣の自己紹介を受けた京太郎は三拍ほど置いてから自己紹介をした。

「須賀京太郎です。高校一年です。須賀でも、京太郎でも呼びやすいように呼んでください。衣さん。衣先輩のほうがいいでしょうか。」

 ほんの少しだけ、目の前の現実が受け入れられなかった。しかし、切り替えが早かった。体から稲妻を出す人間だとか、髪の毛が灰色になる人間がいるのだ。天江衣のような人もいるだろうと受け入れた京太郎は、実に普通の自己紹介をした。

 京太郎の自己紹介を受けた天江衣は少しはねるようなしぐさをした。そしてこういった。

「衣さんでいいぞ」

 実にうれしそうである。頭のリボンがウサギの耳のように弾んでいた。自己紹介だけで機嫌がよくなるというのも変な話である。

 しかし、なかなか年相応の対応をとってもらえない彼女はこういう対応がうれしいのだ。

 というのが、もともと彼女の血族は実年齢よりもはるかに若く見えるものが多い。そういう特性がある。この特性を特に引き継いでいる彼女はいうまでもない。
 そのため京太郎のように先輩扱いしてくれるものはまずいない。年齢を伝えても信じてもらえないことも多い。同じ教室にいても間違いだと思われることもある。だから普通にうれしかったのだ。

 挨拶が終わると、ハギヨシが京太郎と天江衣にこういった。

「では、お嬢様のところに向かいましょうか。別館でしょうか?」

 天江衣はうなずいた。

「撮りだめしていた番組を見ているはずだ」

 ハギヨシはこういった。

「なるほど、わかりました。では、向かいましょうか。お二人ともついてきてください」


 ハギヨシの案内で屋敷の中を進んでいるとき何人かお手伝いさんとすれ違った。先ほど見かけた若いお姉さんから、かなりいかついおじいさんまでいろいろと働いていて、年齢層はばらばらである。

 時々京太郎が見つけたメイドさんと同じようなメイド服を着ている人もいて、服装もバリエーション豊富だった。

 いろいろな人とすれ違っていくなか盛大に携帯電話を鳴らすものがいた。携帯のアラームというよりは警告音のような音だった。非常に静かな屋敷の中で警告音はよく響いた。それが一度なり、そしてすぐに二度目がなった。

 警告音を鳴らしたのは携帯電話だった。その携帯電話は、メイド服を着た女の子の持ち物であった。

 鳴らしてしまったメイドさんはごそごそとポケットの中をあわてて探っていた。あわてて動いているため長い黒髪がゆらゆらゆれてすごかった。

 携帯電話を盛大に鳴らしているメイドを見て衣がこういった。

「ともきー、仕事中は電源を切っておくように言われたろうに」

 怒っているのではない。これからメイドの少女に待ち受けているだろう運命を思い、哀れんでいた。仕事中に携帯電話を鳴らすというのがそもそもまずい。携帯電話を持つのならばせめてマナーモードである。

 しかし、携帯電話を鳴らしたから、かわいそうなことになるのではない。同僚たちなら、注意するくらいで終わりだろう。問題なのは、ハギヨシの前で盛大に鳴らしたことである。彼女、沢村智紀は何度か失敗しているのだ。そしてそのたびに注意を受けている。注意をしたのはハギヨシである。

 二度目の警告音を鳴らしている携帯電話をとめようと沢村智紀はあわてていた。あわてているせいで使い慣れているはずの携帯電話を上手く操りきれていなかった。そしてやっとで携帯電話の電源を落とした。

 その様子を見たハギヨシがこういった。

「申し訳ないです、お客様の前で」

 口調こそ柔らかいが、怒っているのがよくわかる。先ほどまではやさしげだったハギヨシの目が鋭くなっているのだ。ハギヨシはそれほど怒りやすいタイプの人間ではない。どちらかといえば寛容な人間である。しかし、再三の忠告を受けても携帯電話を持ち歩くようなまねをするメイドには教育が必要だと判断したのだ。

 京太郎はこう返した。

「いえ、気にしないでください」

声が若干震えていた。ハギヨシの怒りのオーラというのがずいぶん恐ろしかったのだ。

 携帯電話を鳴らしてしまった沢村智紀に一言つぶやいてから、京太郎と衣をつれてハギヨシは案内を続けた。

 何をつぶやいたのか京太郎はわからない。しかし、沢村智紀の顔色からよくないことが起きたと予想をつけるのは簡単だった。

 京太郎の近くにいた、天江衣が、京太郎にこっそり教えてくれた。

「何、心配することはない。一週間ほど電子機械と接触するな、くらいの程度の低い罰だろう。もっとも、ともきーにとっては地獄かもしれないがな。中毒から脱するにはいい機会だ」

 それを聞くと京太郎は少し心が軽くなった。

 
 ハギヨシの案内で天江衣が暮らしている別館にたどり着いた。京太郎の感覚からすると大きな屋敷にしか見えないが、お金持ち感覚で言えば、別館なのだろう。また、京太郎は別館を見てこんな印象を持った。

「よく、守られている」

 しかし、声には出さなかった。人の事情をいちいち詮索する理由がないからだ。

 玄関扉の前で衣がこういった。

「ここが私の住み家ということになっている。少々大きいがな。本当なら客室に案内するところだが、透華はいまここにいる。京太郎の仲魔の二人もな」

 衣は精一杯背伸びをして扉を開いた。

 そして京太郎にこういった。

「ようこそ龍門渕へ。京太郎」

 別館に誘う衣は実に格好がよかった。上下ジャージ姿であったが、迫力がある。ハギヨシほどではないが、なかなかの圧力であった。しかし天江衣は別に京太郎を怖がらせたいなどと思っていない。自分の住み家に招待しているのだから、格好をつけておかないといけないと思っただけのことである。お客さまなのは間違いないのだから。

 扉を開いて、その先に三人は進んでいった。そして、リビングの扉を開いた。扉を開くのと同時に、三人は固まった。

 衣が扉を開いた向こう側には、実に混沌とした光景が広がっていたのだ。まず、ごちゃごちゃとしすぎだった。テレビゲーム機だとか、漫画の本が出しっぱなしになっている。またお菓子の袋だとか、ジュースのペットボトルもそのまままだ。掃除をする必要があるだろう。

 そして姿勢というのがあまりよくない人がちらほらといる。たとえばメイド服を着た少女、国広一が上下ジャージ姿のアンヘルとトランプで遊んでいた。床に直接座って遊んでいるのだ。もちろんフローリングであるから、問題はないのだ。ただ、胡坐をかいていたり、微妙に寝転がっているような姿勢になっていたりするので、あまりよろしくなかった。

 大きなテレビの前には二人の少女が陣取っていた。一人は金髪の少女。もう一人は黒髪のソックである。二人とも床に直接座り、だらけていた。黒髪のソックは上下ジャージ姿でアンヘルとおそろいだった。

 ソックと同じようにテレビの前で陣取っている金髪で長い髪の少女はワンピースのような服を着ている。どこかのブランド物だろう。街中でならば人目を引くに違いない。しかしおかしなすわり方をしているのでワンピースのすそがめくれあがって台無しになっていた。

 二人が見ているのは毎週日曜日に放送されている「アトラス戦隊ヒーロジャー」という番組、その先週分を録画したものである。

 なかなかの話題作である。特にヒーロー物のお約束を破っているので話題になっていた。巨大ロボットというのが出てこないのだ。ロボットに当たるものはいるのだけれどもロボではない。メカメカしくないのだ。

 一応、合体ロボットにあたるものというのがある。主人公の相棒たちが変形し融合に近い形で合体し、禍々しい巨人となるのだ。そしてこの巨人がロボの代わりにに巨大な怪物と戦うのである。最近の映像技術はすごいなと感心するできばえである。

 それが思いのほか好評で、小さな子供たちの心をがっちりとつかんでいた。

 しかし不思議なことでテレビ局にに苦情が入っているらしく完走が危ぶまれていた。

 実に混沌とした光景を見てハギヨシの眉間に深いしわができた。完全に怒っていた。
 またほとんど同時に京太郎の眉間に深いしわが寄っていた。怒っていたわけではない。ハギヨシの怒りのオーラが炸裂することを思い、心を痛めたのである。

 ハギヨシが現れたことでやや騒がしくなったのだがそれも落ち着いて、金髪の長い髪の少女、龍門渕透華が京太郎に挨拶をした。

「まずは自己紹介から。

 はじめまして須賀京太郎さん。私は龍門渕透華、ヤタガラス龍門渕支部の使者をまかされています。

 そしてお礼を言わせてくださいませ。あなたが連れ戻してくれた龍門渕硯(すずり)は私の従姉弟。

 あなたの勇気がなければ私たちは一族の一人を失うところでしたわ。本当に、ありがとうございます」

 京太郎は御礼を受けてこう返した。

「いえ、俺は本当にたいしたことはしていませんから。俺の仲魔とライドウさんがいなかったらどうなっていたか。

 あと、須賀京太郎です。須賀でも京太郎でも呼びやすいように呼んでください。龍門渕さん」

 落ち着いているように見える京太郎であった。しかし内心驚いていた。先ほどまで床に寝転がってくつろいでいた少女と同じ人物だとは思えない変わり身だった。

 京太郎が応えてすぐのことだった。龍門渕透華がこういった。

「まぁ、謙虚なこと。しかし、パーティーは派手にやらせてもらいますわよ。もう聞いてますわよねパーティーについて」

 京太郎はうなずいた。

「はい、一応軽くは」

 京太郎がこたえると龍門渕透華はこういった。

「そうですか、それはよかったです。葛葉一族の行方不明者たちが見つかった祝いの席ということになっていますが、実際のところはあなたに報いるために開いているのですよ。わかりにくくていやですわ」

 京太郎が少し困った。何の話かさっぱりわからなかったのだ。

 そのときハギヨシが耳打ちをした。

「建前が邪魔をしているのですよ。

 そこそこ権力と力があるのに自分の家族を自力で取り戻せなかった人たちが多いですからね。

 ヤタガラスでもなければサマナーでもない一般人に先を越されて、悔しくてしょうがないのです。情報を規制して一応は十四代目が仕事をしたということになっていますが、情報は漏れるものでしょう?

 そもそも十四代目の仕事であれば情報規制する必要がないのに、規制をしているわけですから、少し考えればわかるでしょうね。

 まぁ、なににしても感謝はしている。これは間違いない。しかし、素直になれない。

 だから、建前と本音を分けて動いているわけです。このパーティーは無事に戻ってこれたことを普通に祝っている人たちと、須賀くんに会いたいと思っている人たちで分かれているわけです。

 私が車の中で話したことを覚えていますよね? あれですよ。

 龍門渕は運がよかったと思いますよ。あなたと接触できて直接交渉できるわけですから。十四代目が接触と情報を縛っていなければ、熊倉先生あたりは病室に乗り込んできていたでしょうね。

 いろいろと面倒なことになってはいますが、須賀くんが配慮する必要はありません。そういうものだと思って気にしないでください」

 京太郎は小さくうなずいた。大雑把にだが理解したのだ。京太郎は心の中でこんな風に受け取っていた。

「警察官が一般人に助けられて恥ずかしいみたいな話か?」

 京太郎とハギヨシがこそこそとしているところで龍門渕透華がこういった。

「準備期間が短かったので派手さにかけますが、取っておきのイベントを考えています。楽しみにしておいてくださいな京太郎さん。
 ねっ、ハギヨシ?」

 パーティーが始まるまで一時間ほど余裕があった。ということで天江衣の別館でゲームでもするかという話になった。天江衣がこういったのだ。

「リベンジだ! やられっぱなしでやめられるか! 京太郎の前でぼろぼろにしてやろう!」

 天江衣のリベンジ宣言に、アンヘルとソックがいやらしい笑みを浮かべた。そしてアンヘルがこういった。

「リベンジはいいですけど、良いんですか? 私たちは別に、麻雀でもかまいませんよ? 何ならトランプでも将棋でもチェスでも。

 機械任せのテレビゲームなら衣ちゃんも封殺できてしまいますからね、退屈してしまいますぅ」

 わかりやすい挑発だった。

 アンヘルの挑発に天江衣が答えた。

「侮るなよアンヘル。天江衣は成長するのだ!」

天江衣は実にいい顔をしていた。ジャージ姿でなければ、格好がついただろう。

 威勢のいいことを言いながら天江衣とアンヘルとソックがゲームの準備をしていると背の高いメイドさんが走りこんできた。ずいぶん急いだらしい、息が切れていた。


 息を切らせているメイドさんにハギヨシが声をかけた。

「どうしました、井上さん」

散らかった部屋を片付けながらハギヨシがきいた。

 ハギヨシの問いかけにメイド、井上純が答えた。

「クロマグロが届かないって。道が急に変わって、今の戦力じゃ、抜けられないってさ。一応センターまでは来ているみたいだけどそれ以上が無理くさいらしい」

息を整えてから、一気に伝えた。

 この知らせを聞いて一番変化が大きかったのは龍門渕透華だった。ゲーム機のコントローラーを落としてしまっていた。

 そしてぶつぶつとつぶやき始めた。

「まさか、嘘でしょう? こんなことがあっていいわけがない。クロマグロの活け造り計画が失敗? そんな馬鹿な。

 ド派手なパーティー計画が、おじゃん? 普通のパーティーを開くの? この私が? この龍門渕透華が?」

 青ざめている龍門渕透華を尻目に井上純にハギヨシは指示を出した。

「それなら、仕方がありませんね。普通にやりましょう。なくとも問題ありません。

 無理にやる必要はないでしょう。クロマグロは後で普通の食材として使えばいいだけです」

 ハギヨシの判断を聞いてメイドの井上純はうなずいた。別にクロマグロの活け作り何ぞせずとも、まともなパーティーが開けると知っているのだ。

 メイドの井上が出て行こうとしたところで龍門渕透華がこういった。

「ちょ、ちょっと待って! ハギヨシ、あなたがディーさんといっしょにいけば間に合うのではなくて? ディーさんならセンターまで一時間とかからないはず。パーティーにも間に合う!」

少し顔色がよくなっていた。自分の考えが、窮地を切り抜ける作戦となると信じているのだ。

 透華の提案を受けたハギヨシがこう返した。

「だめです。確かに間に合いますが、ほかの準備ができなくなりますよ。全体を完成させるのが先です」

もともとクロマグロの活け作りに否定的だったハギヨシは非常に冷えた対応をしていた。そもそも活け作りをつくるのはハギヨシなのだ。面倒が多いのは勘弁してもらいたかった。

 透華がこう返した。

「なら、ディーさんだけでも」

 ハギヨシがこう返した。

「ディーだけだと道を使えません。ヤタガラスの幹部関係者がルールを破るのはだめです。それに私もディーもヤタガラスに嫌われていますから余計に難しいでしょう。

 痛くもない腹をつつかれるのは勘弁してもらいたいです」

 龍門渕透華は黙り込んでしまった。ハギヨシがどうやっても譲らないのがわかったからだ。そして、自分が無理を言っているのもわかっていたので、それ以上騒ごうとしなかった。

 話が終わったところで京太郎がこういった。

「俺が行きましょうか?」

かなり軽い口調だった。困っているし、手伝いができるのならそれでいいじゃないかと考えたのだ。それに暇もつぶせるかもしれない。

 京太郎が提案すると龍門渕透華の顔色がものすごくよくなった。しかしすぐにしおれた。透華はこういった。

「だめです。パーティーの主役にそんなまねをさせるのは駄目です」

 龍門渕透華が小さくなってしまったところで男性の声が聞こえてきた。ずいぶん陽気な声だった。

「どうやら、困ってるみたいだな。どうしたの?」

 京太郎を龍門渕につれてきた運転手だった。はっきりと顔を見るのはこれがはじめてだった。見たところ三十台手前、身長は京太郎とハギヨシとそれほど変わらなかった。ただ、ハギヨシのように線の細い感じではなく、荒々しい感じがあった。

 ハギヨシが簡単に事情を説明すると、運転手はこういった。

「なぁ須賀くん、確か漫画の最新刊がほしいって話じゃなかったか?」

 京太郎がうなずいた。

「はい、ちょうど今日が発売日なので」

 運転手がこういった。

「なら、センターで買えばいいさ。センターにはいろいろなものがある。マニアックな漫画の新作ももちろんおいてあるだろう。須賀くんが買い物をしている間に業者から品物を俺が受け取る。

 須賀くんはほしいものを手に入れて、俺たちもクロマグロをゲットできる。それで丸く収まるんじゃないか?どうよ、ハギちゃん」

 自分のこめかみを人差し指で押さえながらハギヨシはこういった。

「わかりました。京太郎君とディーがかまわないというのならばそれでいいでしょう。

 しかし、京太郎君の力が向こうで通用するか、はからせてもらいます。もしも駄目そうなら、この話はなかったことにします。

 あなたがついていても危険なものは危険ですからね。最低限の力がないと許可は出せません。これは譲りませんよ。いいですねディー。お嬢様も」


 ハギヨシにつれられて京太郎たちは中庭に移動していた。中庭に到着したところで、京太郎はずいぶん驚いていた。案内された中庭がとんでもなく大きかったのだ。小学校のグラウンドほどの大きさがある。お金持ちだとは思っていたけれども、ここまでぶっ飛んでいるとは思ってもいなかったのだ。

 京太郎たちの移動が完了したところでハギヨシがこういった。

「では沢村さん、出てきてください」

 ハギヨシの呼びかけに応じて、中庭にメイド服を着た沢村智紀が現れた。彼女は片手に携帯電話をもっていた。興奮しているらしく青白い肌が赤くほてっていた。

 何が始まるのかと京太郎が困っていると、ハギヨシがこういった。

「これから彼女が悪魔を呼び出しますから須賀くんは呼び出された悪魔をたおして見せてください。その結果を見て、お使いにいけるかどうか判断させてもらいます。

 ひとつ注意があります。サマナーに直接攻撃をするのはやめてください。これは殺し合いではなく、試験です。

 では、はじめてください」

 ハギヨシの合図を受けた京太郎は、まず待った。沢村智紀とは二十メートルほど離れている。距離を縮めないのはおかしなところかもしれない。

 しかし直接サマナーを攻撃してはいけないという話なのだから、動けない。彼女はまだ仲魔を呼んでいないのだ。

 直接攻撃がだめだということなのだから、待たなければならないだろう。当然だが、魔法もだろうし、足元にある小石を投げつけるのもだめだ。



 京太郎が待っている間に、沢村智紀が携帯電話を操作して仲魔を呼び出した。

 一体だけ呼び出された悪魔はとんでもなく長い髪の毛を三つ編みにしていた。大きくて長い三つ編みがひざまで届いていた。

 服装はどこにでもあるティーシャツとジーパン姿だ。現代日本の女性に見える。年は多く見積もっても二十あたり。沢村智紀がこの仲魔を呼び出したのは、彼女が呼び出せる一番強い仲魔だったからだ。

 また、京太郎のレベルがはるかに自分から劣ったものであるという考えから、この一体のみで十分だろうと判断した。

 呼び出された悪魔を京太郎はじっと見つめていた。人間のように見えるけれども、人間ではない奇妙な雰囲気があった。自分よりもはるか格上が現れているはずなのに、京太郎にはまったく恐れがなかった。

 そして不愉快というのもなかった。手伝いを申し出たというのに、面倒くさい試練を行わなくてはならないのに、むしろ楽しそうだった。京太郎は妙に高揚していた。

 この様子を見て龍門渕透華は引きつっていた。そしてこういった。

「少し、やりすぎじゃないかしら。京太郎さんは確かレベル二十。実力としては下の中あたりのはず。

 魔人になってしまったとは聞いていますけど修行を積んだヨモツシコメを倒せるほどの特殊技能は持っていないでしょう」

 龍門渕透華にメイド服を着た井上純が答えた。

「携帯の電源をいれっぱなしにしていた罰を帳消しにしてもらえるかも知れないってんで本気出してんだろ」

 京太郎の前に現れた強力な悪魔ヨモツシコメをみてもアンヘルとソックは動じていなかった。試練の結果がどうなるかというのを気にしているだけであった。龍門渕透華と井上純が心配しているレベルという概念について深く考えていないのだ。

 まったくあわてもしないアンヘルとソックを見て天江衣は質問を二人に飛ばした。

「アンヘルとソックは参加しないのか? 主が心配ではないのか?

 いくら魔人とはいえ鍛えられたヨモツシコメを押し返せるほどのレベルにはなかったはずだぞ?

  マグネタイト保有量ならおそらくこの場の誰よりも、おそらく召還されたヨモツシコメよりも、少ないはずだ」
 
 天江衣は京太郎をサマナーだと思っている。純粋に京太郎の心配をしているのだ。

 サマナーの実力というのはどれだけ強い悪魔を味方につけているのかで決まってくる。強い悪魔が味方であれば、それだけでサマナーは強いのだ。なのに京太郎は仲魔アンヘルとソックを戦いに使う気配がない。

 天江衣たちは京太郎が行方不明者を連れ戻ったとは聞いている。しかしその仕事ぶりというのはアンヘルとソックの力があってこそだと思い込んでいた。

 アンヘルとソックが敵を蹴散らし、京太郎はマグネタイトを提供したのだろうと。だから、京太郎が当たり前のように前線に出て、一人で戦おうとしているのはおかしなことだった。

 だから、龍門渕透華があわてたり、天江衣が心配したりすることになるのだ。魔人になったといっても、それだけだろうと。

 天江衣の質問にアンヘルが答えた。

「サマナーの作ったレベルなんてものさしは当てになりませんよ。真剣勝負の場でサイフの大きさと中身を気にするのは愚かです。

 衣ちゃんの理屈だと、十四代目よりも衣ちゃんが強いことになりますよ?」

 アンヘルはまったく動揺していない。アンヘルは自分の主人がどういう戦いをしてきたのかを知っている。そのため、京太郎と一緒に前線に出ようとはしないのだ。

 戦いにおいて自分にできる最高の役割は足を引っ張らないように補助をすることと割り切っている。

 そもそも龍門渕に招待されるきっかけになった事件も京太郎が前線に出て戦った結果である。ヨモツシコメの脅威などあの修羅場の連続を思い出せばたいしたことではない。

 アンヘルが答え終わるとほとんど同時に、ソックがこういった。

「アンヘルよく見ておこうじゃないか。万全なマスターの戦いぶりを」

 ずいぶんわくわくしていた。アンヘルもソックも万全の状態で京太郎が戦うところは一度も見ていないのだ。二人が見たのは消耗して、ぎりぎりのところで戦っている京太郎の姿ばかりである。

 だから興味がある。余裕を持って力を出せる自分の主人の実力に。


 京太郎が動き出そうとすると、大きな声をヨモツシコメが出した。

「ちょっと待って! 何事や!」

 ヨモツシコメは京太郎に待てのジェスチャーをして、ハギヨシに視線を向けていた。沢村智紀の呼び出したヨモツシコメはまったく何がおきているのかがわからないのだ。呼ばれていきなり戦うという戦いのパターンというのももちろんある。しかし、今回はおかしかった。

 特に、呼び出されたら不吉としか言いようのない存在が構えていたのだ。普通ならハギヨシが討伐するだろう存在である。

 しかしハギヨシはただ見ているだけなのだからこれはおかしい。また、自分ひとりしか呼ばれていないというのもヨモツシコメには理解できなかったのだ。目の前の「あれ」を相手にするのなら自分ひとりではまったく手も足も出ないからだ。

 ハギヨシが答える前にヨモツシコメのマスター沢村智紀が答えた。

「あなたには須賀くんのテストをしてもらいたい。もしもあなたが負ければ、私は一週間インターネット禁止になる。

 絶対に勝ってほしい。私に一週間は長すぎる」

ずいぶん力がこもっていた。

 まったく戦うつもりがなさそうなヨモツシコメを前にして、大きめの声で京太郎はこういった。

「あの、どうしましょうか?」

 流石に準備ができていないところに不意打ちをかけるような外道ではなかった。二十メートルも離れているので大きな声を出さなくてはならないのが不便そうだった。

 待ってくれというジェスチャーをしているヨモツシコメが答えた。

「サンキュー兄ちゃん、ちょっと作戦タイムや。ええか?

 後、ハギヨシさんちょっとこっちへ」

 京太郎はおとなしく後ろに下がった。目的はこれから向かうどこかに自分の力が足りているかどうかを判断してもらうことである。無理に戦いを始めてもしょうがないのだ。

 京太郎が距離を開けると、ヨモツシコメがこういった。

「うちの引きこもりを殺すつもりかあんたは? あの子ホンマもんの魔人やんけ。

 あと、マスターも油断しすぎやで。アナライズでもかけて楽勝やって思ったんかも知れんけど、サマナーの価値観ではかったらアカンやつやあれは。

 魔人やってわかっとんのに、何でウチ一人だけやねん。全員呼びや。

 あと、あんたはもう少し外にでぇよ、もやしになるぞ。

 確認やけどハギヨシさん、うちらは何やってもええんか? 呼び出せるのは私だけか?」

 かなり怒り気味のヨモツシコメだった。しかししょうがない話である。彼女にとってはマスターが殺されかけているようにしか見えなかったのだから。

 ヨモツシコメが何を言っているのかいまいち理解できていない沢村智紀を置いて、ハギヨシが答えた。

「全戦力を使っていいですよ。一週間のインターネット禁止をかけているのに、ぬるい課題を私が出すわけがありません。

 気合を入れてやりなさい」

 ハギヨシはこういうとさっさと二人から離れた。

ハギヨシが離れていくと、ヨモツシコメはこういった。

「マスター、全部だしぃな、あんたの呼べるヨモツイクサ五十体。戦い終わったら動けなくなっていてもいいくらいの気持ちでやらんとまけるで」

 ヨモツシコメは整った顔をしかめていた。そして心の底から忠告していた。

 ヨモツシコメは魔人という存在が侮れないものであるというのを常識として知っているのだ。

 そのためマグネタイトの総量で強さをはかれると思っている自分のマスターに敗北が待ち構えていると知らせているのだ。

 確かに、悪魔たちはマグネタイトをたくさん持っているものほど強い。これは間違いない。マグネタイトが悪魔の肉体そのものなのだ。多く持っているものほど肉体は大きく強くなる。

 しかし、魔人は違う。人の性質と悪魔の性質を持っているのだ。マグネタイトの総量が少ないから弱いという話にはならない。そもそも大量のマグネタイトを持っている悪魔であっても少量のマグネタイトしか持たない人間に敗北するのだ。油断などすれば、どうなるかなどいうまでもないだろう。

 ヨモツシコメがこういうと、沢村智紀はこういった。

「えっ? でも、そんなことしたら」

余力がなくなり動けなくなる、と沢村智紀は続けようとした。

 しかしそうもいっていられないようになった。彼女はおとなしく、契約している仲魔の全部を呼び出した。総勢五十一体。ヨモツシコメが率いるヨモツイクサの軍勢である。ヨモツイクサはふんどし一丁の筋骨隆々の男たちである。

 またヨモツイクサたちはかぶり笠(かさ)をかぶっている。昔話のかさ地蔵でおじいさんがお地蔵様にかぶせたものと同じタイプである。

 ただ、今回の笠の下にお地蔵様のやさしい微笑みはなく、むき出しの頭蓋骨があるだけである。

 ヨモツシコメが軽く右手を上げると、五十体のヨモツイクサはヨモツシコメを守るように隊列を組み始めた。ちょうど、サマナー沢村智紀とヨモツシコメを中心にして、輪を作るような形である。高いところから見るとドーナッツのような形である。

 この形を作ったヨモツイクサたちはマグネタイトで槍を作り出して、京太郎に突きつけて見せた。

 ヨモツイクサを展開した沢村智紀は非常に不本意そうだった。しかししょうがない。沢村智紀が文句を言おうとするとヨモツシコメが尻をたたいてくるのだから。

 しかしこれで大丈夫だという安心感が沢村智紀の表情から見て取れる。これだけの軍勢、京太郎が抜けるわけがないのだから。

 数をそろえて上手く立ち回れば上級悪魔さえ討ち取ることができるのだ。ならば当然、京太郎を討ち取ることができるだろう。多く見積もってもマグネタイトの総量はレベル二十程度。

「目覚めたばかりの魔人など、たやすく退けられる。たとえサマナーたちが恐れる魔人という存在であっても、レベルの差は絶対だ」
そう思っていた。

 沢村智紀の呼び出した悪魔の群れを前にした京太郎はちらりとハギヨシのほうをみた。これから戦うというのにずいぶん気弱な目をしていた。

 京太郎はさっぱりどのタイミングで戦いを始めていいのかがわからないのだ。もしもスタートを読み間違えるようなことをしてしまえばどうなるか。

 きっと、失敗扱いだろう。京太郎はそれがいやだった。やるのならしっかりとやりたかった。

 そしてハギヨシと目が合ったところで京太郎はこういった。

「もういいですか?」

少し声が震えていた。恐れているわけではない。目の前にそろった悪魔の群れと悪魔たちの独特の空気が京太郎の胸を弾ませているのだ。この震えは、武者震いである。

 ハギヨシは京太郎に答えた。

「もちろん、どうぞ」

実にやさしげな微笑を浮かべてあった。

 京太郎とハギヨシのやり取りを見た龍門渕の面々はやや気の抜けた笑みを浮かべた。

 龍門渕透華も井上純も沢村智紀も国広一も天江衣もこれからおきることが予想できているのだ。京太郎の敗北である。数の暴力で、京太郎が圧殺される。しかも京太郎よりも質のいい悪魔の軍勢で。

 つまり勝負にならないと思っているのだ。

 馬鹿にしているわけではないのだ。すくなくとも京太郎を笑っているわけではない。

 あまりにも圧倒的な状況を見ると笑うしかないということがあるが、それと同じである。やる意味があるのだろうかというようなあきらめの感覚に違いない。

 しかし次の瞬間にはその笑みというのは消え去っていた。

 一瞬の出来事である。ヨモツシコメが軍勢に命令を飛ばそうとした瞬間、ヨモツシコメの頭部が消滅したのだ。

 頭部が消滅したヨモツシコメもヨモツイクサの軍勢もマスターである沢村智紀も、何があったのか理解できていない。

 一方で少しはなれたところから、戦いを見ていたものたちは理解できた。

 実に単純な理由でヨモツシコメの頭部は消滅していた。京太郎の攻撃である。

 やり方は実に簡単だった。ヨモツイクサの群れを足場にして、一気に京太郎が間合いをつめたのだ。

 そして頭上を駆け抜けてヨモツシコメの肩に右足で着地、勢いを殺さず、サッカーボールをけるごとく頭部をけりぬいた。

 それだけである。大道芸じみたパフォーマンスを京太郎は披露したのだった。確かにこれだけでもすさまじいものがある。普通の身体能力ではできない行動だ。
 
 しかし龍門渕の面々の言葉を失わせるにいたった原因はその早さである。彼女たちはほとんど目で終えなかったのだ。けった瞬間は見えていたが、それ以外は怪しかった。

 京太郎がいの一番にヨモツシコメを狙ったのは、彼女が司令塔だと推測していたからだ。これはサマナー沢村智紀との会話を見ていればおよそ予想は立てられる。

 司令塔だとわかった以上、生かしておく理由はまったくなかった。ヨモツイクサたちの突き出している槍は恐ろしいものであるけれど、司令塔がいつまでも生きているほうがずっと面倒だったのだ。

 だから、始まった瞬間、命令を出す前に始末した。


 マグネタイトに戻っていくヨモツシコメを見ながら龍門渕の面々は理解した。

「もしもハギヨシが直接攻撃を禁じていなければヨモツシコメの代わりにサマナーの首が飛んでいただろう」と。

 まったく言葉が出ない龍門渕の面々とは対照的なのは京太郎の仲魔たちである。彼女らはずいぶん喜んでいた。

 ヨモツシコメの頭部が消失したところでアンヘルは拍手を始め、ソックは小さくガッツポーズをとっていた。

 彼女たちはほんの少しだけ気分を害していたのだ。自分たちのマスターはこの程度の悪魔の群れに敗北するようなものではないと。正直スカッとしたのである。

 
 

 戦闘開始から一分後、中庭には沢村智紀の呼び出した悪魔たちの姿はなかった。司令塔であるヨモツシコメが消えた瞬間に、勝負は決していたのだ。

 基本的なことだが、仲魔は命令がなければ動けない。ということは五十体のヨモツイクサの軍勢は沢村智紀の命令を受けなければ動けないということになる。

 勝手に動くと契約に反することになるからだ。

 先ほどはサマナーの命令権を譲られていたヨモツシコメが軍勢に命令を出していたのだが、それが消えた。ヨモツイクサが陣形を組んだのもヨモツシコメの合図があったからなのだ。しかし、頭が消えてしまった。

 となると、後に残るのは、自分の力で軍勢を率いなければならない沢村智紀と、常人が眼で捉えられないスピードで動き、攻撃を仕掛けてくる京太郎だけである。

 そうなっておきるのは命令を出す沢村智紀のスピードと攻撃を仕掛ける京太郎のすばやさ勝負ということになる。

 勝負の結果は京太郎の勝利だった。命令を出すスピードがあまりに遅く、命令を出せたとしても出したところからつぶされてしまっていた。

 結果一分間で軍勢消滅という惨事がおきてしまった。普段の指揮をヨモツシコメに任せきりにしていたために起きた結果であるともいえる。

 戦いが終わったところで京太郎は少しだけ呼吸を乱していた。流石に京太郎でも全力で動き回れば、息も切れるというものである。しかしその表情は晴れやかだった。スポーツを終えたスポーツマンのようなさわやかさだった。

 戦いが終わったことを確認したハギヨシがこういった。

「お見事でした。サマナーの弱点をすぐに見抜けたみたいですね。これなら向こう側でも十分に通用します。それでは準備をしてきますから、ここで待っていてください」

 こういうと、ハギヨシは姿を消した。自分の教えを受けた少女が敗北したというのに、彼はとてもうれしそうに笑っていた。

 自分が願っていた結果を京太郎が出してくれたからだ。

 最近だらけ気味の沢村智紀が冷静に戦ってくれるようになるのではないかとハギヨシは期待しているのだ。

 今回は京太郎が圧勝しているけれども用心深く沢村智紀が立ち回れば、九割がた彼女が勝つだろうとハギヨシは読んでいる。

 それほど難しい方法は必要ない。マグネタイトの総量が少ない京太郎に対して持久戦を挑めばいい。

 サマナーの一番得意な戦法である。沢村智紀の敗北の一番の原因は油断だ。

 ほんの少しのきっかけで敗北することがあるというのを、最近気の抜けている沢村智紀にハギヨシは思い出してもらいたかったのだ。


 戦い終わった京太郎にアンヘルとソックが近寄ってきた。アンヘルはクワのようなものを持っていた。なぜかジャージの袖をまくっていた。

 ソックはがっしりとしたウエストポーチを持ってニコニコ笑っている。ソックもアンヘルと同じようにジャージの袖をまくりあげていた。ジャージのズボンポケットからは軍手が飛び出していた。

 呼吸を整えている京太郎に、アンンヘルがこういった。

「無事に試験終了というところですね。あのときよりもずっとよくなっていましたよ。やっぱりなじんできたからなんですかね?」

 アンヘルは片手でクワを遊びながら、笑っていた。非常に満足いくパフォーマンスを京太郎が見せてくれたからだ。

 自分と契約を結んだ京太郎がよくなっていくのが、うれしいのだ。

 アンヘルが微笑んでいると京太郎にウエストポーチをソックが差し出した。ウエストポーチはなかなかの大きさだった。

 そしてがっしりとして簡単には壊れないつくりである。

 ソックがウエストポーチを京太郎に渡したのはアンヘルとソックの二人がお使いについていけないからである。用事があるのだ。

 しかし丸腰で主を行かせるわけにはいかない。ウエストポーチにはお使いで使えるかもしれない道具がいろいろと入っているのだ。

 京太郎がウエストポーチを受けとるとソックが説明した。

「ウエストポーチに、特製の栄養ドリンク(改良・祝福済み)三本と、いざというときにつかえる煙球を三つ入れておいた。

煙幕は地面に叩きつけたら使えるようになっているから、火はいらないぞ。

ドリンクは飲まなくても効果があるが、できれば飲んでくれ。粘膜からが一番吸収率がいい。

 あと、タオルも入っているからな」

 ソックがウエストポーチの中身について説明をしているとアンヘルがこういった。

「福引で当たったタオルを入れたんですか? かさばりませんか?」

 クワをいじっているアンヘルにソックが答えた。

「いいんだよ。男子なんだからハンカチよりはタオルだろ」

 アンヘルとソックの話を聞いていた京太郎が二人に聞いた。

「お前ら来ないの?」

 寂しいわけではないけれども、二人がいてくれたほうが心強かったのだ。二人ともではなくていいから、一人でもいてくれたらいいのになという気持ちだった。

 京太郎の質問にアンヘルが答えた。

「これから龍門渕の余っている土地に家庭菜園を作るんですよ。敷地内ですけど、あまってるみたいなんで借りちゃいました」

 アンヘルは中庭の奥のほうの土地を指差していた。指差している方向には使っていない土地というのがひろがっていた。かなり広く、家庭菜園というよりも普通の畑が作れる広さである。

 京太郎は驚いてこういった。

「よく許してもらえたな。しかしなぜに、家庭菜園?」

 そもそも龍門渕の土地である。家庭菜園をしたいといっても使わせてくれるわけがない。たとえあまっていてもよしとはいわないだろう。

 驚いている京太郎にアンヘルが答えた。

「お願いしたら透華さんが許可をくれましたよ。いいませんでしたっけ、植物を育てるの得意なんですよ」

 嘘はついていない。アンヘルが「派手な植物も作れますよ」とか「美容にいい植物も作れますよ」といってお願いをすると簡単にうなずいてくれた。

 アンヘルにソックが続いて答えた。

「そうそう、お話したら快く許可をくれた。まぁ、あれだよ。食費を少しでも抑えようとおもってな」

 龍門渕透華の父親と祖父にも話をしたのだけれども、それも問題なかったのだ。とくに、育毛剤の材料になる植物をアンヘルが作り、ソックが調合すればいくらか儲けが出ますよという話をすると、透華の父親と祖父は、簡単にうなずいてくれた。

 懐が寒いのも頭が寒いのも困るものなのだ。しかし、本当の目的は食費を抑えることである。魔人として受肉したばかりのアンヘルとソックは物理的におなかが減ってしょうがないのだ。

 アンヘルとソックの説明を聞いて京太郎はこういった。

「それならいいけど、あんまり迷惑をかけないようにな」

 アンヘルとソックが何を考えて行動しているのかというのはさっぱりわからない。しかし縛り付けたいと京太郎は思っていない。

 ただ、あまりはしゃいでよそのうちの迷惑になるのだけは勘弁してもらいたかった。

 とくに龍門渕はお金持ちであるから、何かあったときに京太郎だけでは対処できなくなる可能性が高いのだ。それは非常に困る。

 京太郎が当たり障りのないことを言うと、仲魔二人は元気のいい返事をした。アンヘルは

「もちろんです。私たちはいい子ですよマスター」

といい。ソックは

「取れた野菜は加工してマスターに献上するから楽しみにしておいてくれ。肌がツルツルになる漬物とか、増毛効果のあるジュースとかな。

お父様もお母様も喜んでくれるだろう」

といって笑った。

 アンヘルとソックは京太郎に反対されるのではないかと思っていた。なにせ、好き勝手に動き回っているのだから。

 契約上、主人は京太郎だ。主人の命令は契約上絶対である。絶対に従わなくてはならない。

 京太郎はまったく気にしていないけれども、ほかのマスターなら絶句するだろう。

「なぜ、悪魔を放し飼いにしているのか」と。

 二人とも自覚があるのだ。

「自分たちは好き勝手に動き回りすぎている」と。

 十四代目に情報を売り渡したのも、いつの間にか一般人に紛れ込んでいるのも京太郎に許可を取っていない。

 事後承諾の形だった。京太郎が眠っていたのでしょうがなかったのだけれども、あまりいい印象を京太郎に与えていないと二人は考えていた。

だから今回の勝手を責められるかもしれないと思っていた。しかし、京太郎は笑って流した。二人の元気のいい返事というのはこの辺りに原因があるのだ。


 京太郎がウエストポーチを身につけているとジャージに身を包んだ天江衣が現れた。そしてこういった。

「京太郎よ、アンヘルとソックのことなら私に任せておけ。私がしっかりと見ておこう」

 天江衣もまたジャージの袖を捲り上げていた。両手には軍手がはめられている。天江衣がジャージを着ていたのはアンヘルとソックの見張りのためである。

 見張りならばジャージに着替える必要はないのだが、二人に付き合って家庭菜園を手伝うつもりなのである。

 龍門渕のパーティーに天江衣は出席するつもりがないのである。普通ならパーティー出席したほうがいいのだろうが、彼女はあまりヤタガラスの関係者に好かれていない。彼女自身も、龍門渕以外のヤタガラスはあまり好きではない。

 そのためやむにやまれぬ事情がある以外は、出席しなければならないと強制されることはなかった。

 ジャージに着替えて乗り気なのは、アンヘルとソックが提案をしているからだ。提案とは、手伝ってくれたら出来上がった野菜を少し差し上げますよという提案である。

 大学で働いている父親と最近野菜が高いといって困っている母親に食べてもらおうと天江衣は考えているのだ。

 それで、やる気満々でジャージを着て、軍手をはめているのだった。

 元気に満ち溢れている天江衣に京太郎はこういった。

「よろしくお願いします衣先輩」

軽く頭を下げていた。天江衣が見ていてくれるのならば、自分の仲魔も大丈夫だろうと信じているのだ。

 京太郎がお願いすると、天江衣は大きくうなずいた。

 三分ほどしてからハギヨシが戻ってきた。ハギヨシはジャンパーと帽子を抱えていた。

 ハギヨシは京太郎にジャンパーと帽子を渡した。そして京太郎にこういった。

「ヤタガラスの制服です。これを着ていれば面倒なやからに絡まれることはないでしょう。

 もしも名前を聞かれたりしてもできる限りは名乗らないでください。かりに名乗るとしても偽名がいいですね。

どうしても切り抜けられそうになければ龍門渕のサマナーだといえば大体どうにかなります」

 ハギヨシの説明を聞きながら、京太郎はジャンパーと帽子を身に着けた。帽子の額部分に三本足のカラスのエンブレムがついている。

 また、ジャンパーにも同じく三本足のカラスの刺繍がされている。ひとつは胸の辺りに。もうひとつ、背中に大きく刻まれていた。また三本足のカラスに負けないくらいにはっきりと真っ白な文字で龍門渕とジャンパーの背中に書かれていた。

 ジャンパーと帽子を身につけ、動きやすいようにウエストポーチを京太郎がいじくっていると、ハギヨシがこういった。

「あぁ、そうだ、少し注意してほしいことがあります。

 その帽子にヤタガラスのエンブレムがついているでしょう? そのエンブレムに発信機がついていますから大切にしておいてください。

 もしも道に迷ったりしたときにはそれが助けになってくれます。ディーがいれば問題はないと思いますが、そなえておくのが正解でしょう。

 須賀くんはジオ系統の魔法を身に着けていると聞いています。一発でも撃つと壊れますから使いどころは気をつけてください。おそらくそんなことはないでしょうけどね」

 ハギヨシの話を聞いた京太郎は帽子の額のところにあるエンブレムを見つめてみた。エンブレムには小さな刻印が刻まれていた。アルファベットと数字が組み合わさった文字列である。京太郎はこれを見て製造番号だろうとあたりをつけた。



 京太郎の準備が完了してしばらくするとディーが現れた。カーレースに出ているようなスポーツカーにディーは乗っていた。真っ赤なボディと妙に大きなタイヤが印象的だった。また、どこからどう見ても二人乗りだった。後部座席はない。当然、荷物をつめるような場所というのは見当たらない。

 ディーの運転する車の助手席に京太郎は乗り込んだ。乗り込むとき、京太郎は困っていた。明らかに二人乗りにしか見えないというのももちろんある。

 何せスポーツカーだ。ファミリーカーのように何人も乗れるような大きさではない。となればこれでは荷物を受け取るなどということはできないはず。それは困ったことになる。しかも荷物がクロマグロだというのなら、入りきるわけがない。

 なぜ、この車なのかという疑問はもちろんある。

 しかし問題は荷物をつめるかどうかではなく、スポーツカーの中身が問題だった。車の中身が京太郎を困らせていた。というのが、運転席と助手席は普通なのだ。見たままの状態であった。問題は後部座席があることだ。

 外側からは見えなかった奥行きがあるのだ。軽トラックの荷台ほどの広さが広がっているのだった。

 ありえないことだった。どう考えてもつじつまが合わなかった。まったく何がおきているのか京太郎はわからなかった。

 わからなかったが、乗らないわけにはいかないので、京太郎は乗り込んだ。乗り込むときにも困ったことがあった。

 スポーツカーに乗り込んだとき京太郎は妙な気配を感じたのだ。妙なとしか言いようのない気配だった。ハギヨシを前にしたときの気配に近いが、もっと騒がしかった。答えはさっぱり出てこなかった。

 困りながらも助手席に座った京太郎に運転席のディーがこういった。

「見てなよ、もう少しで門が開く」

運転席のディーは気分が高揚しているようだった。ハンドルを指先でとんとんと叩いて飛び出すタイミングを計っていた。

 京太郎が「門とは何か」とたずねるより早く、中庭に巨大な門が現れた。高さ二十メートルほどの大きな門である。サビついた鋼の扉が地面から生えてきていた。

 また、高熱を持っているのか、湯気が出ていた。京太郎は湯気の匂いをかいで、ずいぶん油くさいと顔をしかめた。

 そして続出する京太郎の疑問が解消する前に門が開き始めた。鋼のきしむ音が聞こえ、扉の向こう側から、蒸気が流れ込み始めた。

 そうして向こう側から流れてくる蒸気はあたり一面を埋め尽くした。

 車の中にいた京太郎などはまったく外の様子がわからなくなっていた。蒸気の白の世界であった。

 門が完全に開ききったところで、ディーがアクセルを踏み込んだ。視界はまったくない。蒸気が視界を埋め尽くしている。しかし何度もくぐった門である。ディーは門が完全に開ききった音を聞き逃さなかったのだ。

 パーティーまで一時間と少しだけしか余裕がない。手加減をして時間を無駄にするわけにはいかなかった。もしもお嬢様のお願いが聞き届けられなければ、数日間はへこんだままだろう。そうなると、送迎のたびにへこんでいる姿を見なくてはならなくなるのだから、がんばらなければならない。


 蒸気をふきだす門の向こう側の世界に急加速して車は突入していった。ありえない急加速で車の中に強烈な圧力が加わる中、京太郎は目を輝かせていた。

 
 今週はここまでです。 
 多分同じ曜日に次をあげていけると思います。

乙! また読めるのがうれしい
しかし京太郎、魔人になったとはいえやっぱりしっかり対策とってくるサマナー相手にはまだまだ分が悪い感じなのね

ライドウ好きだから期待
どなたか前スレのURLはってくだせえ…

このスレを待ってたよ

乙でした。
前作好きだったから続きがきて嬉しいよ

乙乙


ライドウやってないからわからんのだがこの世界での魔人って
カオスヒーローやアモンと合体した宮本明みたいなかんじ?
それともifのガーディアンがついた状態みたいなもん?

乙ー
持久戦を挑めばって言ったって反応追いついてないんじゃ無理な気がするが

乙乙
最後京ちゃんが魔人になった奴か
続編来てうれしいわ

乙です

前作を読んできたが伏線の回収や話の展開の仕方、戦闘描写が見事としか言えなかった
今作にも期待している


期待してる

アンヘルとソックも魔人化してたっけ
だいぶ忘れてるな

 続きをはじめます。 
 魔人の設定ですが、魔人という単語自体は同じでも別物を指していることがあります。大まかに二つの意味で使い分けています。
 一つは悪魔でもなければ人でもない正体不明の存在。
 もう一つはマガタマを残せる魔人です。
 

 蒸気を吐き出す門を潜り抜けて、門の向こう側にスポーツカーが駆け抜けていった。門を潜り抜けたとき、車が一瞬持ち上がった。

 門の向こう側に道がなかったのだ。しかしすぐ地面に着地した。そのとき大きく揺れたがシートベルトをつけていた京太郎とディーに問題はなかった。

 蒸気を吐き出す門を潜り抜け軽い落下を体験した後、蒸気が晴れた。周りがよく見えるようになると、京太郎は目を見開いた。

 蒸気機関とさび付いた金属たちが絡み合うむやみに広い世界が京太郎の前に広がっていたからである。しかし、人が暮らせるような建物はない。ただ、道が広がっているだけの世界であった。

 ほとんどが、道なのだ。横幅五十メートルほどの道がいろいろな方向に向かって伸びていた。それが一本や二本ではないのだ。

 何百本とひろがり、絡み合っている。見える範囲全てが絡み合った道で出来上がっているのだから、壮観である。

 道の脇を固めているのは蒸気機関たちだ。なぜ、蒸気機関たちが道の脇に生えているのかはわからない。蒸気機関たちは草原に生えている草であったり、転がっている石ころのような存在だった。

 ただ、そういうものだから、そこにある。それだけなのだ。

 それでもスケールが違いすぎて、ただの雑草と小石のようなものに度肝を抜かれてしまう。大きくても主役ではないのだ。

 はるか彼方で、煙を噴出す機械たちが絡み合って山のように盛り上がっていてもそれが一つや二つではなく広い世界にいくつも見えていても、この世界のメインではない。

 また、大きく盛り上がっている部分とは反対に、まったく何もない部分もあった。地面にぽっかりと穴が開いているのだ。半径十メートルほどの大きな穴である。奈落に続いているのではないかと思うほど、何もない。

 道が延々と続いている世界にそういう大きな穴がポツンポツンと模様のように大穴があるのは奇妙であった。

 空を見上げれば、大きな光の塊が世界を照らしている。太陽ではないのはすぐに了解できる。なぜならあまりにも近すぎるからだ。

 空のほとんどを占めている大きな光の固まりが太陽であれば、あっという間に世界は蒸発するだろう。しかし、太陽の役割をしているのは間違いなかった。

 そして、大きな光の塊を隠すように雲がかかっている。しかしそれは蒸気機関たちが吐き出したものが集まっただけに過ぎない。この世界で自然な雨は降らないのだ。

 異界に訪れるのは二度目の京太郎である。少しは心の準備というのもあった。しかしあまりにもぶっ飛んだ光景に驚きを隠せなかった。
 

 目を見開いている京太郎を見てディーが言った。

「不思議な光景だろ。はじめてみたときは俺もずいぶん驚いたもんさ。とっくの昔に廃れたはずの蒸気機関が現役で、道を覆うのがレンガ。明かりになるのはガスランタンのような太陽なんだからな」

 現代の空気とはまったく違った光景を見て、驚いたのは京太郎だけではないのだ。始めてこの世界に来たとき驚いたのをディー自身がよく覚えていた。

 そういっている間にアクセルをディーが踏み始めた。アクセルペダルは思い切り踏みこまれていた。ディーはずいぶんとリラックスしていた。しかしまったく油断ない視線を道の向こうにある目的地に向けていた。本当ならば、ゆっくりとドライブしたいところである。

 しかし、時間が押しているので、なかなかゆっくりとやっていられない。特に道が微妙に変わってしまっているということがあるので、いつもと同じ道を使えないのだ。何があるのかわからないので、少し急いでいかなければだめだろう。

 どんどん車が加速していく中で京太郎にディーが聞いた。

「須賀くんはさ、車酔いするほう? もしも車酔いするようなら、少しスピードを落としておくけど。
 とりあえず、ガルからかな……」

 あっという間に百キロ近い速度まで加速した車をまったく問題なく操作しながら気軽に聞いてきた。

 ディーがこのような質問をするのは京太郎を思いやってのことである。助手席に乗っていても車酔いをする人はする。

 もしも京太郎が車酔いをするタイプであったとすれば、手加減をして運転をしなければならない。手加減をしなければ悲惨なことになるだろうから。

 それはディーとしては避けたいことだった。急がなくてはならないのは確かだが、そのあたりはバランスの問題である。

 百キロを超えてもまだ加速する車の中で京太郎が答えた。

「たぶん、大丈夫だと思います。助手席ですし、調子も悪くないから」

 とんでもない速度で変わっていく景色をしっかりと京太郎の目は捉えていた。

 しかし、わずかに顔色が悪い。車酔いが始まったのではない。普通の車ではありえない速度が、出ているのを体全体で感じているからだ。

 そして、こうも思うのだ。

「この速度で運転操作ができるような技術を持っている人間などいない」

 運転をミスすれば大事故は免れない。仮に事故が起きたとしたら、自分もディーも終わるだろう。

 この不安感が、京太郎の顔色を悪くさせるのである。そろそろ三百キロ近くなる車の速度で、何かにぶつかればさすがに京太郎でも無事ではすまないだろう。

 車酔いはしないという答えを聞いて、ディーはこういった。

「それなら少し飛ばしていってもオッケーかな? あまり時間をかけていたらパーティーに間に合わなくなってお嬢にどやされる」

 数秒のやり取りの間にデジタルのスピードメーターが時速四百キロを示しているのだけれども、まったくアクセルベダルからディーは足を離していない。

 それどころか、ちらちらと京太郎に視線をやって視線を道からきるようなことをやっていた。

 ありえない速度で運転しているはずのディーに法定速度を守ってゆっくりと運転しているような余裕があった。

 もともとクロマグロなどがなくともパーティーは、ハギヨシが見事に仕立て上げるだろうとディーは思っている。そのため心に焦りがすくない。

 一応急いでいるのは、もしも時間に遅れるようなことをやれば、龍門渕のお嬢様がへそを曲げるからだ。問題はそれだけである。

 申し訳なさそうに笑うディーに京太郎がこういった。

「オッケーです。飛ばしてください」

 あまりオッケーという感じはなかった。

京太郎の動体視力でも追いきれない光景と、衝突事故が起きたら大変なことになるという危機感が、楽しいドライブを許してくれないのだ。

特に不安の種であるデジタルのスピードメーターは六百に近づいているのだから、気持ち的には最悪である。

しかし、ここで引くわけには行かない。運転席のディーはまだまだ余裕らしい。そういう雰囲気をかもしているのだ。

ここで、怖いからやめてくださいとはいえなかった。

 京太郎がうなずくと、アクセルをさらに踏み込みながらディーが言った。

「助かるよ。あと、もしも気持ち悪くなってきたら教えてね。前にお嬢たちを乗せてドライブしたらひどいことになっちゃって、文句いわれまくったんだよ。
 ハギちゃんばかり乗せていたから加減がいまいち下手なのよ、俺」

そろそろ七百近いところまでデジタルスピードメーターが数字を上げてきていた。まったく理解ができない速度である。窓の外の景色はただの残像だ。

 京太郎に一応の注意をすると、恥ずかしそうに笑いながらディーはアクセルを完全に踏み抜いた。またアクセルを踏み抜いたところで、ディーがつぶやいた。

「ガルーラ」

 ディーが運転を始めて唱えていた魔法と同じ系統の魔法である。はじめに唱えたのがガル、今となえたのがガルーラ。ともに風の魔法である。

ディーがこの魔法を唱えているのはありえない速度で地面を駆け抜ける車が空に飛び出さないようにコントロールするためである。

もしもガルとガルーラの魔法を使わずに、桁違いの速度を出し続ければ、あっという間に車は制御を失い空を飛ぶだろう。

 風の呪文が唱えられた後、スピードメーターがありえない速度で上昇し始めた。このとき京太郎は少し息苦しさを感じていた。車が超高速で走り始めて、加速の重圧が京太郎の体にかかったのだ。

 あっという間に消えていく残像を見送りながら京太郎はディーに質問をした。

「何キロくらい出せるんですかこの車」

 あまりにもいかれた速度を出された結果、京太郎は考えることを放棄し始めていた。もう、とんでもない世界に来てしまったなという気持ちも、すっかり消えていた。
 
 最高速度についてたずねたのは、純粋な興味である。いくら改造したところで見た目普通のスポーツカーが七百キロオーバの速度を出せるというのは不思議だったのだ。

 ディーが笑いながら応えた。ずいぶん楽しそうだった。

「最高で千を超えるくらいだとおもうよ。大丈夫大丈夫、九百くらいなら事故らないから」

 まったく京太郎に視線を向けず、超高速で流れる光景をディーは捉え続けていた。ディーの眼球がこれまた高速で動き回り、ハンドルは実にすばやい切り替えしを続けていた。

 時々大きく揺れ、弾むことがあったけれども、何かにぶつかるということはまったくなかった。この運転中、何度かこらえきれずにディーは笑った。

「運転がすきなんだな」
とディーの横顔を見て京太郎は思った。ただ心の底から思うのは夢中になって事故を起こさないでくださいという一つだけだった。

 京太郎が見抜いたとおり、ディーは単純に運転をするのがすきなのだ。特に早くなければならないということはない。ゆっくりとドライブするのも良いと思っている。

 マンガが好きな人がいて、そういう人が少年漫画から、少女マンガまで広く楽しむように、安全運転で長々とドライブをするのも好きだけれども、たまにはスピードを出すのもすきなのだ。事故の危険が限りなく低い道が広がっているだけの異界というのは最高だった。

 笑うディーの横顔を確認した京太郎は、なんともいえない顔をしていた。

スピード狂のディーに引いているわけではない。うらやましかったのだ。熱中できているディーがうらやましかった。


 蒸気機関が軍隊のように整列して規則正しく働いている長い坂道に差し掛かった。

蒸気機関たちは坂道で一列に整列して、同じ姿で、同じように延々と動いている。何が目的なのかはさっぱりわからない。

ただ、動くたびに蒸気が吹き上がるのだ。何かをしているのは間違いなかったが、目的を察するのは難しい。

蒸気機関なのだから、何かしらのエネルギーを使い、何かを作っているのだろうが、力を伝えるための仕掛けが見えないのだ。

歯車とか、車輪とかがない。だから見るものはこう思うだろう。

「無駄な仕掛けだ」と。

 坂道を上る間、京太郎は冷めた目で蒸気機関たちを見つめていた。

ディーがスピードを落とし始めたので、延々と続く無駄な蒸気機関たちを眺めることができたのである。

外の無駄な光景を見ていたのは、蒸気機関をだれが何の目的を持って設置したのだろうかと気になったのだ。きっと何かがあるはず。そう思ったから考えた。

 一番に思いついたのは作業効率を上げるためという理由だった。一番わかりやすい目的だった。しかしすぐに違うだろうと却下した。

なぜなら、まったくエネルギーを伝える仕組みがないからだ。蒸気機関たちはそれだけで完結していて、つながっていない。

そして次々と蒸気機関を設置したものの意図を推理していった。しかし答えらしい答えは見つからなかった。

 坂道をスポーツカーが上りきる寸前で、京太郎は微笑んだ。面白い考えが思い浮かんだのだ。京太郎が思い浮かんだ、面白い考えというのは

「動きたいから動いているのだ。彼らは報酬だとか、そういうものを求めているのではなく、作業の手間を省こうと思って働かされているのでもない。ただ、動くことが目的なのだ。彼らはそうありたいと思って、動いている」

というものだった。

 実にありえない結論である。なぜなら、蒸気機関は道具だ。道具は意思を持たない。自由意志などない。使われるだけである。だからおかしかったのだ。まるで、道具が生きているかのような発想ではないか。ただ、このおかしな結論が京太郎の心にはすっと当てはまった。

 長い坂道を登りきったところでディーがこういった。

「あー、ここからか。道がかなり変わってるな。ダッピしたのか?」

 龍門渕の門から十分ほど走ったところである。ディーは何度かこの場所に来たことがある。この道を通り、先に進むことで異界物流センターと呼ばれる場所にたどり着く道に入ることができるのだ。
  
 しかし、ディーは気配を感じていた。気配とは、この世界の道が微妙に変化してしまったという気配である。よくあることではないが珍しいことではないので、ディーはすぐに理解できたのだった。
 
 スポーツカーのブレーキをディーが踏んだ。坂の頂上を少し走ってスポーツカーは動きを止めた。そのとき京太郎は目を見開いていた。車の外に広がっている光景を見たからである。

 それはあまりにも不思議な光景だった。坂を上りきったところから見えるのは、地平線の向こう側までひろがっている無数の道である。このむやみに広い世界はすでに体験していた。問題はその道の上を走るものたちだ。

 悪魔たちが走っているのだ。四本足の犬のような悪魔もいれば、馬のようなものもいる。それもたくさんだ。たくさんとしか言いようがなかった。

 また、空には鳥のような悪魔もいて隊列を組んで移動していた。これまた数が多く、荷物をぶら下げて飛んでいるドラゴンのような悪魔までいる。

 混沌としか言いようがない。

 そしてまた不思議なことで悪魔たちの背中に人間らしきものが乗っているのも見えるのだから、これはさっぱりよくわからないことである。

混雑している車たちの流れを見ることがあるけれど、あれに多様な悪魔を加えて、常に流れ続けているような状況にすれば、京太郎の見た光景そのものである。

 坂の上でスポーツカーを止めたディーは車から降りていった。そして、車の外に出たディーは地図を取り出して目の前の光景と見比べはじめた。

地図と目の前の光景を見比べているディーはずいぶん苦労していた。眉間にしわがより、目を細めている。

ハギヨシから道の形が変わったとは聞いていたけれども、ここまで激変しているとは思わなかったのだ。

 ヤタガラスが作った地図を持っているのだが、この地図と見比べてもさっぱりどこの道が、どの道につながっているのかがわからなかった。

しかしここであきらめてしまったら、間違いなく道に迷いかえってこれなくなるので、ディーも必死だった。

 そして少ししてから戻ってきて、車の中で呆然としている京太郎にディーがこういった。

「須賀くん、少し無茶してもいいかな。大分道が変わっているみたいで、ショートカット気味に移動しないと時間がかかりすぎて間に合わなくなりそう」

 かなり申し訳なさそうな顔をしているディーに京太郎が応えた。

「あっ、はい、やっちゃってください」

 今まで京太郎の心の中にあった不安がなくなっていた。元気に答えて、さっさとさきにいこうじゃないかという気持ちで満ちている。

京太郎というのは簡単なものである。

今まで心の中にあった事故になるのではないかという気持ちが、目の前に広がっている珍妙きわまった光景で消え去ってしまったのだ。

なぜか、心臓が弾んでしょうがなかった。

 京太郎が応えるとディーは運転席に乗り込んだ。運転席に勢いよく座り、シートベルトをしっかりと締めて、気合を入れていた。

京太郎が自分の提案を呑んでくれたのをみて

「よしそれならば」

と覚悟を決めたのである。もちろん、自分の運転で京太郎の体調が変化する可能性があると考えているので、様子を見るつもりではある。

しかし助手席の京太郎が、よしといってくれるのならば、全力で走ってみようじゃないかという気になるのだった。やはり全力で動き回るのは楽しいものがある。
 席についてシートベルトを身に着けたディーが言った。

「それで、何だけどちょっと協力してくれないかな。ちょっと無茶をするからさ、なんていうか、その、エネルギーが足りるかどうか怪しいわけよ。それで、ちょっと須賀くんのエネルギーをもらえないかなって」

ディーはずいぶんと情けない顔をしていた。しょげた犬のようだった。

 しかし京太郎に頼まなければ、どうしてもだめだったので頼んだのである。というのが、このディーが運転する車というのは普通の車ではない。

エネルギーがマグネタイトの魔改造スポーツカーである。

 当然だけれども動かすためにはマグネタイトが必要になるのだが、流石のディーであっても本気で車に力を注ぎこみ目的地に到着して、また、そこから帰ってくるというようなことをしようとすると、ぎりぎりエネルギーが足りなくなる可能性が高いのだった。

 そのギリギリというのがどうにもまずい。できるのならば余裕を残しておきたい。もしかしたら不測の事態というのがあるかもしれないのだ。

そして、不測の事態が起きたときにスポーツカーが動かせなくなっているのはまずい。マグネタイトは無限にあるわけではないのだ。

不測の事態が起きたときに消耗して、動けなくなったら最悪だ。

 なぜなら道ばかりが広がる世界というのは無限の砂漠とかわらない。行き先がわかっていないものは迷い、力のないものは息絶えるだろう。

それはどうしても避けたかった。しかも京太郎を隣に乗せているのだ。客人を乗せているのに迷って帰れなくなるというのは最悪だった。

だから、京太郎の手を借りたいと願うのだ。目的を達成しつつ、無事に戻ってくるためには必要だった。

 エネルギーを分けてくれというディーに対して京太郎はこういった。少し困っているようだった。

「エネルギーを渡すってのはいいですけど、どうやって渡せばいいのか、わからないのですが」

 京太郎は魔法だとか、魔法に連なっている技術だというものをさっぱり知らない。そのため、エネルギーを分けたいというように思っていても、どうすればいいのかがわからないのだ。

エネルギーを渡すのはまったく問題ない。そもそも力が有り余っていて感覚がおかしなことになっているのだ。使いたいというのなら使ってもらえばよろしいというのが京太郎の思うところであった。

 京太郎がこういうとニコニコしながらディーがいった。

「あぁ、そんな難しいことじゃないよ。ちょっと待ってね。今出すから」

ディーは胸をなでおろしていた。京太郎がエネルギーを分けてくれるのであれば、問題なくセンターに到着してそして戻ってこれると、ディーは算段をつけたのだ。

 実際、ディーのエネルギーが完全になくなり、動かせなくなってしまえば回復するまでかなり時間がかかる上に、パーティーまでに帰れなくなる可能性も高くなる。となれば、京太郎にうなずいてもらえることがどれほどうれしいことであるかはいうまでもないだろう。

 ディーが左手でシフトレバーをこつこつと叩いた。すると運転席と助手席の間に細長い長方形の箱のようなものが現れた。この細長い長方形の箱は、金属らしい光沢があった。またこの箱は奇妙な鼓動を刻んでいた。

 奇妙な金属製の箱はディーの運転する車につながっていた。

金属製のパイプが血管のようにつながっているところから京太郎はこの細長い金属製の箱がこの車の心臓部なのだろうと察した。

 そして京太郎は奇妙な金属製の箱を見て顔色を変えた。眉をひそめて、金属の箱を睨んでいる。

 奇妙な迫力を感じたのだ。細長い箱自体はたいしたものではないというのが京太郎の感想である。

問題なのは箱の中身だ。とんでもない力の塊がしまいこまれていた。

 魔力という目に見えない力を使うことができるようになっている京太郎には、箱の中に納まっているとんでもない魔力の塊こそ、恐るべきものであった。

眉をひそめたのはそのためである。

 睨み付けたのは箱が刻んでいる鼓動のためだ。箱の中身から感じる奇妙な鼓動。これがいまいちよろしくなかった。

この鼓動のリズムが調子はずれなのだ。狂っていた。音楽の授業でこのリズムを刻んだらきっと零点だろう。間違いなく音楽のセンスがなかった。

 調子はずれのリズムに眉をひそめている京太郎にディーが言った。

「これがこの車の心臓部分、というと正確じゃないがまぁ、そういう感じ。
 須賀くんにはこいつにマグネタイトを吸わせてやってほしいのよ。手を置いておくだけで大丈夫。後はこっちでやるからさ。大丈夫そう?
 これお嬢たちに見せたらドン引きしてたからさ、触れる?」

 ディーは京太郎の様子を探っているようだった。京太郎の秘密を暴こうとしているのではない。本当に気分が悪くなっていたら大変であるから、気を使っているだけのことである。

もしも無理そうなら、それはそれでしょうがないという気持ちもあるので、ディーは無理にというようには考えていない。断られれば、ゆっくり走ってゆっくり帰ればいいだけのことだからだ。

自分たちの安全と、お嬢様の愚痴とならばディーは自分たちの安全を優先するつもりである。

 心配そうにしているディーに京太郎が応えた。

「大丈夫ですよ。しかしすごいですねこれ。なんというか、ヤバイのが俺でもわかるっていうか」

強がっていた。しかし、いやだといっているわけではない。ただの感想である。

 感想をつぶやいた京太郎は自分の手を奇妙な長方形の金属の箱に置いた。実に恐る恐る触れていた。口では強がってはいたけれども流石によくわからないものに触れるというのは勇気がいる行為だった。

またものすごくおかしなものに力を注ぐのだから、恐れる気持ちもある。しかしそうしなければ間に合わないというのならば

「しょうがない」

で抑えられる。そのくらいの嫌悪感だ。たいしたことではない。たいしたことがないのだから、触るだろう。

 金属の箱に手を触れた京太郎は、わずかに顔をしかめた。細長い金属の箱に触れている手のひらから、自分の体内に抱えているエネルギーが抜け落ちていくのが感じられたのである。

これがよくなかった。この抜け落ちていくエネルギーの感覚というのが、どうにも変な感じだったのだ。

ほんの少しだけふれるのならば、気がつかないだろうけれども、じっと触り続けたままであればどうにももぞもぞとしていやな感じだった。

 また、金属の箱がエネルギーを吸い取るに従い、わずかに京太郎はほうけた。集中力が弱まっていくのだ。この変化を京太郎は一人で納得してしまった。

「あぁ、ハギヨシさんが言っていたのは、こういうことか」と


 京太郎の様子が変わり始めたところでディーが言った。

「ありがとう須賀くん。一応、中間地点は無事みたいだから、そこまで耐えてほしい」

 すでにディーはアクセルを踏み込んでいた。京太郎からエネルギーを受け取っているのだ。無駄な時間をすごすわけにはいかなかった。

そうして、思い切りアクセルを踏み込んだ。だからであろう。車はとんでもない勢いで加速を始め、あっという間に道だけで出来上がった異界を駆け抜けていった。

 
 京太郎のエネルギーを受け取ったディーの運転する車は異常な挙動を繰り返していた。アクセルを踏み込んでからすぐのことである。

車が飛んだりハネたりし始めたのだ。もともと異界の道にガードレールなどはない。当然信号機もなければ取り締まりの警察官もいない。かなり無謀な運転をしてもまったく問題ない。

 そんな道を走っているためディーの運転するスポーツカーは勢いに任せて道を飛び出して、まったく別の道に乗り移ってみたり、急激な方向転換をかけて道を進んでいくのだった。

ディー自体は安全運転をモットーにしているのだけれども、道が絡み合った異界の形が変わっているために、どうしても探索しながら移動しなくてはならなかった。

 また、急いでいるということがあるので、荒々しい運転になってしまうのだった。さながらジェットコースターのようだけれどもおそらくディーの運転する車のほうが、何百キロか速く動いているだろう。

 車の中はとんでもないうねりが起きていたが、まったく二人とも問題なさそうだった。

 運転席に座っているディーはせわしなく目を動かしていた。道を探しているのだ。道で埋め尽くされている異界の形を見逃さずに、自分の目的地に向けて走るためだ。情報収集に必死行い、自分の地図を作り上げていっていた。

 一方で、京太郎は目の前の景色をみているばかりだった。京太郎の右手は金属の箱の上に置かれているままである。何か手伝えるようなことがあればいいのだが、残念なことに京太郎にできることは何もない。

一生懸命になって運転しているディーに声をかけるというのは気が引けるわけで、京太郎にできることといえば、あちらこちらに伸びて、絡まっている道を眺めるくらいのものだった。

 がんがん先に進んでいくスポーツカーのなかでディーが京太郎に声をかけた。

「須賀くんのマグネタイトはさぁ。すごいね」

 耐えている京太郎の、気を紛らわせるためである。ディーは自分の運転しているスポーツカーがそれなりにエネルギーを使うというのを知っている。そして、京太郎が大体どのくらいのマグネタイト容量なのかというのも把握できている。

そのため、あまり長い時間京太郎に協力してもらっていたら、京太郎の調子が崩れるだろうという予想を立てられていた。そして、エネルギーが車に流れ続けているというのを考えれば、あまりいい気分ではないだろうというのも、予想ができたのだ。

そのため彼は何とかしてやりたいと思うようになり、声をかけたのである。

 声をかけてきたディーに京太郎がこういった。

「すごいって何がです?」

 さっぱりいいたいことがわからない京太郎は困っていた。あいまいな笑みを浮かべていた。

京太郎は、悪魔だとかサマナーが生きている世界の常識というのをさっぱり知らない。そのため、業界の当たり前だとかレアケースというのがわからない。

当然だけれどもマグネタイトがいいとか、悪いとかいう感覚もわからないのだった。


 何が言いたいのか理解できない困っている京太郎にディーがこういった。

「味だよ味。マグネタイトがブランデーみたいな味がするのよ」

 ディーもまた困っていた。いまいち説明しにくい問題だったからだ。マグネタイトには人それぞれ微妙に違った匂いと味のようなものがあるのだ。

ディーはそれを説明しようと思ったのだけれども、自分の味覚だとか嗅覚について説明をするというのは難しく、またどうしてそうなっているのかという理屈を説明しようにもさっぱり解き明かされていない領域であった。

そのためはなしを振っておいて、自分が困ることになったのだ。

 ディーがこういうので京太郎がいやな顔をした。そしてこういった。

「俺の仲魔も同じようなことをいってましたけど、マグネタイトに味なんてあるんすか?

 あと飲酒運転はだめですよ」

 マグネタイトに味がついているという話よりも車の運転中に運転手が酔っ払うといういやなイメージが浮かんだのだ。

マグネタイトで酔っ払うのかどうかというのはさっぱりわからない。しかし、酒によく似ているのだと本人がいっている。

ならば何かあっても不思議ではないだろうというように思ってしまう。心配しすぎとはいえないだろう。

特にデジタルスピードメーターが百キロをきらないままで移動し続けているのだ。たまったものではない。

 事故の心配をしている京太郎を見てディーがこういった。

「酔っ払ったりしないから大丈夫だ。そんな顔しないでくれよ。たとえ話だよたとえ話。

 まぁ、須賀ちゃんは契約主だからマグネタイトを受け取ることはないだろうけど、マグネタイトには微妙に個人差があっていろいろと特徴があったりするのさ。

 まぁ、普通は香るレベルなんだけどね。花の匂いみたいな人もいれば、くさくてしょうがない人もいる。

ほんの少し香るだけでもかなり珍しいけど、須賀ちゃんみたいな酒みたいなのは始めてかな。しかも味覚にまで届いてる。

ハギちゃんの仲魔になって六年の間にいろいろなマグネタイトとであったけど、ここまで特殊なのは初めてだわ」

 言い訳にしか見えなかった。実際いいわけである。問題ないとディーは言った。しかし不思議なことでどういう理屈なのか微妙にディーに変化がおき始めているのだ。内心ディーは思う。

「もしも、直接マグネタイトをやり取りしていたら俺でもやばかっただろう」

 なんとも微妙な空気が流れ始めた。それから少したち、車が大きく揺れた。道を大きく外れて、別の道に飛び移ったのだ。

映画のスタントでやるような動きそっくりだった。しかししょうがないことである。何せ別の道に飛び移らなければ、行き止まりになるのだ。

この行き止まりの先には何もない。大きな穴があるだけだ。光の届かない深い穴。奈落にでも続いているのだろう。

もしも車で突っ込んでいったとしたら、後は落ちていくだけだった。それを回避するためには、少しばかり無茶をする必要があった。


 無理な動きを連続して続ける車の中で京太郎はディーに質問をした。少し気になったからだ。

「ディーさんは人の世界で長くないんですか?」

世間話をするような調子である。ディーの話を聞いていると、長い間人間の世界で生きてこなかったような言い方をしたように聞こえたのだ。

 特に六年間しかマグネタイトの味について経験がないというのだから、見た目とずいぶん違っているではないか。

ぱっとみたところディーは二十代後半である。スーツを着ている姿は決まっている。
 
 まったく何もエネルギー補給をせずにここまで生きてこれるわけがない。

 もちろん、アンヘルのようなタイプということも考えられる。つまり大本から情報だけを移されて完成して生まれてきたタイプの悪魔だ。

京太郎はディーもその類ではないかと考えたのだ。

 京太郎が質問をするとディーは少しもごもごとしてから応えた。

「鋭いねぇ。でも、須賀ちゃんが思っているのとは少し違うかもね。

 俺はもともと人間だったのよ。で、いろいろとあって今は魔人、といっても正体不明の存在って意味だけどね。

人間でもなければ悪魔でもないってタイプ。

 普通の人間だったときはサラリーマンで、ドライブが趣味だった。ハギちゃんとは同級生だった」

 ディーはできるだけ明るく振舞っていた。自分が魔人という存在なのだというのはあまり気にしていることではないのだ。

しかし、この話を人に聞かせると大体が、申し訳なさそうな顔をする。暗い顔をして無遠慮だったというような反省をするのだ。それがどうにも、嫌いだった。

ディーは何も困ったことなどない。困ったとすれば、感覚がとがりすぎて一ヶ月ほど面倒だったことくらいである。
 
申し訳なさそうにされるのが、困るのだ。だから、明るく振舞うのだ。あまり暗くなってくれるなよと。


ディーの答えを聞いて京太郎は表情を曇らせた。そしてこういった。

「すみませんなんか、聞いちゃいけないことを」

何かあったのだとすぐに察せられたのだ。悪魔たちが存在し悪魔たちと契約する者たちがいる世界だ。

人に話せないような薄暗い道を歩くこともあるだろう。

京太郎は、自分自身がそういう道を歩いてきたものだから、無遠慮に踏み込んだことを申し訳なく思ったのだ。

 申し訳なさそうにする京太郎に、ディーが応えた。

「ぜんぜん、たいしたことじゃないさ。魔人になったからといって死んだわけじゃない。むしろぴんぴんしてる。

 確かに立場はハギちゃんの仲魔だ。でもきっちり給料が出てる。税金もきっちり払っているし、親に仕送りもできてる。

 それに趣味だったドライブを全力で楽しむことができて退屈しない。まぁ、ちょっといろいろなところと、もめたけど楽しい六年間だった」

 嘘はない。魔人というよくわからない存在になってしまったけれどもしっかりと生きている。そして、それなりに満足した生活を送ることができている。

とくに自分の趣味だったドライブを全力で行えるというのはサラリーマンをしていたときよりもずっといいだろう。

サラリーマンだったころにはドライブに行くような余裕はなかったのだから、いくらかましである。だから、嘘ではない。

 ディーが応えるのを聞いて京太郎がわらった。ディーがずいぶん楽しそうに笑ったからだ。ディーに釣られて京太郎も笑っていた。


 少し景色が開けてきて、遠くに大きな山が見え始めたところでディーが京太郎にこういった。

「まぁ、なっちゃったらどうしようもないからね。楽しまなくちゃ。

今は感覚がとがって麻雀が面白くないかもしれないけど、一週間も我慢すれば楽しめるようになるよ。ハギちゃんの見立ては大体当たるからね」

 麻雀の話をしたのは京太郎の趣味というのが麻雀だと思っていたからである。麻雀の話がしたいわけではない。

ただ、趣味の話をして、暗くなった空気を変えていこうとしたのだ。

 京太郎は少し困った。左手で自分の頭をかいた。そしてこういった。

「一週間……ですか」

喜んではいなかった。

 確かに京太郎は麻雀部に所属している。しかし麻雀に京太郎は重きを置いていなかった。本当に熱中できているのかと問われたら、素直に熱中していると答えられないだろう。特に麻雀はもういいと思ってしまっている。鋭くとがった感覚が何もかもをはっきりとさせすぎた。

その体験は退屈を感じさせるのに十分だった。

 しかし悲しいとは思っていない。惜しいとも思っていない。

仮に力を発散できるようになり、力を抑えられるようになったとしてもまた昔のように楽しめるかといえばありえないだろう。


 困っている京太郎に、ディーがいった。

「まぁ、そのうちよくなるさ。そうしたらやってみればいい。

 そろそろ、中間地点に着くよ、そこで少し休憩しよう。須賀ちゃんのおかげで、かなりショートカットできた。

ありがとう。後は普通に走れば間に合うはず。これならお嬢にどやされなくてすむ」

 ディーは少しだけ微笑んでいた。京太郎の困っている様子というのが、青春しているように見えたのだ。そうして

「自分が少年だった時代にもこういう風に悩んだことが合ったのではないだろうか」

このように考えてそろそろ自分もおっさんなのだなとおかしくなった。

 この会話から三分後、スポーツカーは大きなビルような建物が立っている場所に向かって走っていった。先ほどまでの運転とは打って変わって非常に緩やかな動きと丁寧な移動だった。というのが、今までとは事情が少し違っているからなのだ。

 今まで無茶な運転をディーが行えたのは周りに人の気配がなかったからである。無限に広がる道だけの異界でしかも事故の危険性が限りなく低かったために四桁近い速度で移動ができていたのだ。

 しかし、ここからは違う。ここからは人がたくさん集まってきて、スピードを上げすぎると事故が起きる可能性が高くなる。それはとても困る。

だから一般の道を通るのと同じように丁寧な動きに変わったのである。

 大きなビルを見て京太郎はまたもや、固まった。目の前に広がる光景に開いた口がふさがっていない。

何せ今スポーツカーが目指して走っている大きなビルはビルではないのだ。

 遠くから見ると大きなビルに見えるのだが、近寄ってみると間違えているというのがわかる。

このビルは古い時代の建物から、最近の建物までがひとつの場所に集まって地層のように積みあがっているのだ。今の建築基準法で考えると完全に違法物件である。しかし不思議なことにまったく壊れる様子を見せない。むしろ安定しているように見えた。



 建物が地層のように積みあがっている休憩所に到着するとディーがこういった。

「それじゃあ、十分間休憩で。あまり遠くに言っちゃだめだよ。迷ったら面倒だから。

 トイレなら建物の中にあるからね。すぐに見つかると思う。

 俺はハギちゃんに中間報告をしておくから、後で合流で。もしも道に迷ったら帽子のヤタガラスのエンブレムをしっかりと持っていてくれたらいい。

俺が見つけにいく」

 ディーはそういうと運転席から降りた。運転席から降りたディーは大きく背伸びをしていた。そして携帯電話を取り出してハギヨシに連絡を取り始めた。

 ディーが連絡を取り始めるのをみて京太郎は助手席から降りた。特に、用事があるわけではない。せっかくよくわからない奇妙な世界に来たのだから少し景色でも見ておこうと思ったのだ。

 京太郎が車から降りると勝手に鍵が閉まった。京太郎は少し車を眺めていた。かなり不思議だったのだ。自動的に車の鍵がかかるということが不思議だったわけではない。今まで自分が乗っていた車の中と車の外とでずいぶんと空気が違っていることが不思議だったのだ。

ディーが車の中身を少しいじくっているという話をしていたが、これがそうなのかもしれないと京太郎は一人で納得していた。

 あまりスポーツカーを見ていてもしょうがないので、ふらふらと京太郎は動き出した。歩き始めたとき、ほんの少しだけふらついた。

しかしすぐに持ち直して歩き始めた。京太郎はまったく問題ないと思っていたのだけれども、スポーツカーに吸い取られたエネルギーというのはそれなりに多かったのだ。

しかし、苦しくて動けなくなるような負担ではなかった。


 「景色を見るのにいい場所はないだろうか」

 そんな気持ちでふらついていた京太郎は展望台のような場所を見つけた。展望台らしき場所にはベンチが並んでいて、観光名所にあるような望遠鏡がおいてあった。また、すぐそばには石碑のようなものがたっていた。

 この石碑は一メートルほどの大きさで、蛇のようなレリーフが刻まれていた。蛇というのは少し恐ろしいが、まったくこのレリーフからは恐ろしい感じがしない。

なぜならこのレリーフは妙なデフォルメがされていたからである。

 展望台で景色でも見ようかといって近づいていた京太郎が足を止めた。ベンチに寝転がっている人がいるのに気がついたのである。

大人一人が横になれるような大きさがベンチにある。そのベンチのひとつにワイシャツとズボンという格好をしていて革靴を履いた男性が寝転がっている。

右手で顔を隠しているのでどういう人相なのかはわからない。人の気配というのを感じていなかったので京太郎はずいぶん驚いた。

 自分以外に誰かが人がいると認めた京太郎は足音を小さくした。今までは無遠慮に刻まれていた足音が一気になくなった。

京太郎はベンチに寝転がっている人が気分でも悪くしているのだろうと考えたのだ。もしくは眠りたい人なのだろうと。

 どちらにしてもあまり大きな音を立てるというのはよろしくない。そう考えた京太郎は、邪魔にならないように気配を消したのである。

 展望台に到着して道だけで出来上がっている異界の奇妙な光景を京太郎が見ていると、ベンチで寝転がっている人がうめいた。

ずいぶんと辛そうな声だった。声の感じからそこそこ年をとった男性であることがわかった。京太郎の存在がうっとうしいからうめいたのではない。抑えきれない気分の悪さから逃れたいという気持ちが、うめき声に変わっているのだ。

 ひどいうめき声を聞いた京太郎は何事かと振り返った。ベンチで人が休んでいることはよくわかっていたのもあって、反応するのは早かった。

 京太郎が振り返ったところでは、ベンチで寝転がっていた人が起き上がって頭を抑えていた。三十代後半か、四十台に入ったようなおっさんだった。

顔色が非常に悪かった。今にも死にそうな調子である。このおっさんは気分の悪さに耐えかねて、起き上がったのだ。寝転がっているのもつらい状態なのだ。

 うめいているおっさんを前にして少し考えてから京太郎は近寄って、こういった。

「大丈夫ですか?」

 少し考えたのはここで声をかけていいのだろうかと悩んだからだ。もしも普通の世界でであったのならば、声をかけるくらいは問題はないだろう。

しかしここは普通の世界ではない。話しかけたら気分を悪くするような人もいるだろう。それを考えたのだった。しかし、京太郎は目の前であまりに辛そうにしているおっさんを見て、声をかけることに決めた。

ここで何もせずにどこかにいくというのは流石に心苦しかったのだ。



 京太郎がだずねるとベンチに横たわったおっさんがこういった。

「大丈夫だ。すまねぇな。ちょっと車酔いしただけだ」

 いきなり話しかけてきた京太郎を一瞬にらんだ。そしてその後すぐに断りを入れた。

まったく面識のない京太郎が話しかけたことで警戒しておっさんはにらんだのだ。しかしすぐに悪意のある人間ではないと見抜いてしまった。

というのが京太郎があまりにも無防備だったからだ。ここまで何も考えずに近寄ってこられれば警戒心はもてない。

 青い顔をしたおっさんがこういうと京太郎はほっと胸をなでおろした。

うめいているおっさんが何か病気にでもかかっているのではないかという考えも京太郎は持っていたからである。

もしもそうだったとしたら京太郎にできることなどひとつもないのだ。しかしただの車酔いならおとなしくしていればそのうちよくなる。

おっさんはつらいだろうが命に別状がないのならそれでよかった。

 だが、京太郎がほっとしてもおっさんは苦しそうにしているばかりだった。京太郎がほっとしても、おっさんの車酔いが直るわけではない。

回復の異能力にでも目覚めていればどうにかできたのだろうが、残念ながら京太郎にそのようなまねはできない。

ということはおっさんは時間に任せるしかないということになって、うめくばかりなのであった。

 しかしあまりにもおっさんが不憫に思えた京太郎は自分のウエストポーチから栄養ドリンクとタオルを取り出した。

 そして青い顔をしているおっさんに、京太郎はこういった。

「あの、これどうぞ。きくかわからないですけど、よかったら」

 自分の仲魔が持たせてくれた道具を使えばもしかしたらおっさんの調子も回復するのではないかと考えたのだ。

タオルを渡したのはおっさんが脂汗を額に浮かべていてどうにも大変な様子だったからである。

 京太郎がタオルと栄養ドリンクを差し出すのを見たおっさんが微笑んだ。そしてこういった。

「すまねぇな。助かるよ」

京太郎からタオルと栄養ドリンクをおっさんは受け取った。そして一気にドリンクのふたを開けて、飲み干した。

 ドリンクを飲み干したおっさんはこういった。

「かぁあ! やっぱりマッスルドリンコはきくな。大分よくなってきた。
 しかしすげぇな、このマッスルドリンコは、効き目が段違いだ。坊主の心遣いのおかげかな?」

 元気になってきたというアピールが強かった。おっさんは京太郎に報いようとしたのだ。お前のおかげでずいぶんよくなってきた。

心配してくれてありがとうというアピールである。しかし、気遣い以上に回復量というのも半端ではなかった。これも本当であった。

市販のマッスルドリンコよりも圧倒的に回復量が上がっていたのだ。しかしおっさんはつっこんきかなかった。回復量を上げる技術を持った人材というのは存在しているからだ。

 顔色が回復してきたおっさんを見て京太郎は微笑んだ。さっきまで死にそうだったおっさんが急に元気になったのがうれしかったのだ。


 落ち着いてきたところでおっさんがこういった。

「本当に助かった。礼を言うぜ。俺の相棒が買出しにいってくれているはずなんだが、もしかしたら迷っているのかもしれないな」

 お礼を言いながらおっさんは名刺を京太郎に渡した。名刺にはマンサーチャーという言葉が書かれてある。そしておっさんの名前だろうサガ カオルという印刷が入っていた。

おっさんが名刺を渡してきたのは京太郎への礼のつもりなのだ。もしも、何か用事ができたのならば、自分に話を持ってきてくれという、一種のコネクションである。

 マンサーチャーという言葉にものめずらしさを感じて京太郎は名刺をしげしげと見つめた。

そうしていると、パイナップルみたいな髪形をした女性が京太郎とサガカオルに声をかけてきた。パイナップル頭の女性はサガカオルとは違い少し派手な格好をしていた。片手にビニール袋を提げている。そのビニール袋からは品物がすりあう音が聞こえていた。

「あら、あんたもう大丈夫なの? せっかく薬を買ってきたのに。それにその子は?」

 パイナップル頭の女性は京太郎に見覚えというのがさっぱりなかった。そしてサガカオルにヤタガラスのしかも龍門渕所属の知り合いがいるとはまったく思いもしなかったのである。

 不思議な顔をしているパイナップルみたいな髪型の女性にサガカオルはこう応えた。

「俺の様子を見かねて、この坊主が助けてくれたのさ」

 サガカオルはすっかり回復していた。顔色がよくなり、すぐにでも動き出せそうだった。

まだ額に脂汗が浮いているけれども、それもすぐに引いていくだろう。京太郎が持ってきたマッスルドリンコが思いのほかいい効果を発揮していたのである。

これほど早く調子がよくなるものだろうかと女性が不思議に思うくらいの回復の早さだった。

サガカオルが自分の首にかかっているタオルと空になったビンを見せるとパイナップルみたいな髪形の女性がこういった。

「あらまぁ! 親切な子ね! もう、本当にごめんなさいね、この人自分の年を考えずに飲みすぎちゃって、それで車酔いなんてしちゃって。

 でもよかったの? マッスルドリンコは結構使うでしょう、自分の分がなくなっちゃうわよ。それにそのタオルもおっさんくさくなって使えなくなるわよ」

 見た目こそ派手な女性だが話しぶりは母親と世間話をしているお姉さんがたとよく似ていた。

 パイナップル頭の女性のいいように京太郎は苦笑いを浮かべた。どういう風に返していけばいいのかが、いまいち京太郎にはわからなかったのだ。


 パイナップル頭の女性のいいようにサガカオルがこういった。

「まだそこまでおっさんじゃねぇよ。それに加齢臭がタオルにつくなんて……タオル?

 おいおい、このタオル、まさか! ジャガースの限定品じゃねぇか!
 
 何やってんだ俺! 臭いがつく! しかし何でまたこんなところに」

 はじめはパイナップル頭の女性に怒っていたのだが、急にあわて始めた。あわてている原因は京太郎のタオルである。

 このサガカオルという男はずいぶん熱心な野球ファンなのだ。特にひいきにしている球団があるのだが、その球団が非常に珍しいファンアイテムを作ったことがある。

 そのファンアイテムというのは優勝記念のタオルだ。優勝記念のタオルなど珍しくもなんともない。しかしこのタオルは事情が違うのだ。

というのが残念なことに世の中には出回っていないのである。事情はやや複雑なのだが、簡単に言ってしまえば先走りすぎたということになるだろう。

 優勝確実だと思ってタオルを作ったのだが、見事にひっくり返されて世の中に出せなくなったのだ。

このサガカオルという男はこのタオルがその幻のタオルであるとすぐに見抜いたのだ。何せサガカオルも優勝確実だと思ってぬか喜びをした一人だったのだから。

 いきなりあわて始めたサガカオルを見て京太郎が一歩引いた。

今まで冷静そのものだったサガカオルが尋常ではない勢いでベンチから跳ね上がり騒ぎ始めたからである。その騒ぎようというのがあまりにもひどいので、流石に京太郎も受け入れるのに時間がかかっていた。

 一歩引いた京太郎を見かねて、パイナップル頭の女性がサガカオルにこういった。

「限定品のジャガースグッズは後にしなさいな。ヤタガラスの子が困ってるじゃない。

 ごめんなさいね、この人ジャガースのファンでね、グッズ類に目がないのよ」

 パイナップル頭の女性がこういうので、京太郎は軽くうなずいた。完全に引いていた京太郎だったが、少し持ち直していた。

熱狂的な野球ファンというのがいるというのは知識として知っていたために、こういうものなのだなと受け入れる準備ができ始めたのであった。

京太郎の頭の切り替えの速さというのはそこそこ早かった。

 そろそろディーがいっていた休憩時間の十分が過ぎようとしていた。時間が過ぎかけていると感じ取り京太郎が立ち去ろうとした。

「あのそろそろ行かなくちゃならないので失礼します」

 別れの挨拶をしたのは失礼になるからというのがひとつと、少し無理やりにでも別れを告げなければここから離れられないように感じたからだ。

特にパイナップル頭の女性は話し始めると返してくれないような印象があった。

 京太郎が別れを告げると、サガカオルがこういった。

「まてまて、ちょっと待て。もしかしてこれ俺にくれるのか?」

 ジャガースのタオルについて何もいわずに京太郎が立ち去ろうとするのをみたからである。

 とんでもない限定品なのだから、返してくれないかと京太郎がいうと思っていた。もちろんのどから手が出るほどほしいので譲ってもらえるように交渉するつもりもあったのだが、何もいわずに立ち去られるとは思いもしなかった。

 サガカオルの問いに京太郎はうなずいた。特に何の変化というのも京太郎にはない。くれるのかと質問されたので

「そのつもりです」

という意味合いをこめてうなずいていた。京太郎には何か大金を払ってくれとか、返してほしいとかいう気持ちはない。

京太郎にはそういう交渉を行うという気持ちがないのだ。困っているから声をかけた。脂汗が吹き出ていたのでタオルを差し出した。それだけだったのだから、それ以上のことなど頭にない。

 そうするとサガカオルがこういった。

「ならちょっと待ってくれ。マッスルドリンコの御礼もしなくちゃならん!」

 そういってサガカオルは立ち上がって、どこかに消えていった。今まで青い顔をして寝込んでいたおっさんの動きではなかった。京太郎の目をもってしても捕らえるのが難しい俊足を披露した。

 向かっているのはサガカオルの車である。このおっさんは自分が受け取ったものの価値というのをよく知っていた。そのため、自分がこのままもらいっぱなしになるとずいぶん不公平であるというように考えたのである。

 京太郎が価値を知らなかったのだから、黙っておけばいいと考えてしまえば、それまでのことである。しかし、そうすることができないタイプの人間というのがいて、そういうタイプの人間がこのおっさんだったのだ。


 すばやいサガカオルを見て京太郎が呆然としているとパイナップル頭の女性がこういった。

「急に元気になっちゃって。ごめんなさいね。本当に」

 あきれ気味であったが、喜んでいるようなところもあった。今までひどい顔色をして困っていた自分の相棒が、元気に満ち溢れて駆け回っているのだ。

そこそこ年齢を積んでいる人間がはしゃぎまわっているのは、どうにも言いようのない気分にさせるけれども、それはそれこれはこれという風情である。

 あきれているようだけれどもうれしそうなパイナップル頭の女性に京太郎はこう返した。

「いえ、別にそんな」

 苦笑いを浮かべていた。急に元気になったことに驚いたのではない。自分の目で追いきれないスピードでおっさんが駆け回ったのを驚いたのである。

 自分自身もそれなりに動けるという自信が京太郎にはあったのだ。しかしサガカオルは更に上を行っていた。そしてなんとなくうれしくなっていた。

 パイナップル頭の女性がこういった。

「そういえば自己紹介をしてなかったわね。私の名前はサガウララ。マンサーチャー、人探しを仕事にしているわ。

 もしも何か聞きたいことがあったらこの名刺に番号が載っているから、ここにかけてね。

ヤタガラスとは何度か仕事をしたことがあるから気にせずにかけてくれたらいいわよ」

 そういって二枚目の名刺を京太郎に渡した。サガカオルから受け取った名刺とよく似た名刺だった。

名前のところがサガウララとなっているところだけが違っている。

 京太郎が二枚目の名刺を受け取ったところでサガカオルが帰ってきた。

首にかけていたタオルはすでになく、代わりに布に包まれた何かを小脇に抱えていた。サガカオルは短い時間の間に限定品のタオルと京太郎の手当ての礼を見繕ってきたのである。

 そしてサガカオルは京太郎に抱えてきた布の包みを渡した。京太郎は手渡された布に包まれた何かを解いてみた。

すると布の奥に小さな拳銃が収まっていた。小さな拳銃はデリンジャーという種類である。

妙な金属で出来上がっていて人肌のような温度があった。京太郎はこの拳銃に触れたとき懐かしいものにふれたような気がした。

 デリンジャーを京太郎に渡したサガカオルはこういった。

「オリハルコンで作られた拳銃だ。かなり質のいい武器で持ち主の魔力を吸って弾を作ってくれる。タオルとドリンクのお礼だ。もっていってくれ。

俺も相棒もつかわねぇからな。扱いに困っていたんだ」

 サガカオルとサガウララが拳銃を使わないのは本当である。しかし、扱いに困っていたというのはやや嘘がある。

このデリンジャーをほしがるものは数え切れないほど存在している。売れば大金になるだろう。

これをあえてもってきたのは、京太郎から受け取ったものの対価としてちょうどいいものがこれだけだったからである。

 オリハルコンでできたデリンジャーを京太郎が眺めているとサガカオルとパイナップル頭の女性はどこかに移動を始めていた。

サガカオルもサガウララも休憩していただけで別の用事があるのだ。ここは二人の目的地ではない。

京太郎に礼をすることができ、サガカオルの調子が復活した以上これ以上この異界にとどまる理由などないのだ。

 二人が歩き始めたところで、京太郎ははっとした。そして二人の背中に京太郎はこういった。

「俺は! 俺の名前は須賀京太郎です。これ、ありがとうございます!」

 離れたところにいる二人に聞こえるように名乗った。京太郎は自分が二人の名前を知っているのに、自分の名前を伝えていないことに気がついたのだ。

まだ自己紹介をしていなかったことに気がついて、あわてて名乗ったのである。

 京太郎の名乗りを聞いたところでサガカオルがこういった。

「おう、じゃあな京太郎!」

サガカオルは足を止めずに、振り返っただけだった。サガカオルは笑っていた。京太郎が面白かったのだ。

 また同じようにサガウララがこういった。

「じゃあね、須賀くん! 後、あまり大きな声で自分の名前を名乗っちゃだめよ。情報は大切に扱わなくちゃ」

 サガウララも同じく立ち止まらずに軽く振り返るだけだった。サガウララもまた笑っていた。京太郎の無防備加減がおかしかったのだ。

しかしそれがまた面白かった。

 京太郎は軽く頭を下げてから、その場を後にした。頭を下げた京太郎は、少し失敗したなという顔をしていた。

この異界に来る前にハギヨシから注意を受けたのを思い出したからだ。

 ディーの運転する車に戻ろうとしたとき、京太郎は立ち止まった。きょろきょろとあたりを見渡していた。

誰かが自分を見ているような気がしたのである。しかし、危機感というのは京太郎からは感じられない。

どこからか視線を感じるけれども、その視線に悪意のようなものが混じっていなかったからである。

しかし感覚的なものであるから視線を感じるというところから含めて、勘違いというのも十分にありえた。

 しかし、一応感じたものは感じたのだということで視線を感じる方向に京太郎は視線を向けた。視線の先には石碑が立っていた。

石碑というのは展望台に来たときに見つけた石碑である。

 京太郎は不思議に思い、石碑に近づいていった。まったく警戒していない。普通に歩いていた。近寄っていったのは

「不思議だな」

と思っただけのことである。それ以上の深い理由はない。

 石碑はただの石碑であった。ドンと立っているだけの石碑である。特に文字が刻まれているわけでもなく、これといった魔術がかけられている雰囲気もない。

石碑に彫られているヘビのレリーフが妙にかわいらしい、くらいのものである。

 しげしげとヘビの石碑を見つめた京太郎は首をかしげた。というのが、ヘビのレリーフと目があっているような気がしたのである。

しかしあまり恐れというのは感じなかった。京太郎はヘビのレリーフが汚れていてそういう風に見えているのではないかと、あたりをつけることができたからだ。

 汚れで見え方が変わるかと思うところではある。

 しかし、人間の目というのは思いのほかあいまいである。ほんの少し手を加えるだけで同じものが別物に見えたり、別物が同じようなものに見えたりする。

このあたりはトリックアートなどを見てみればわかる。京太郎はそういう錯覚の技術について聞いたことがあるので、このレリーフもまた偶然の産物として錯覚を起こさせているのではないかと納得したのだ。

 そして少し考えてから、石碑にくっついていたごみを取った。右手を差し出して軽くごみを払っていった。

これまた、まったく理由はない。なんとなく汚れているなという気がしたから、軽く手で払ってみようかという気持ちである。

特に深い理由はない。いえるとしてもせいぜい、京太郎が綺麗好きだったというだけのことだ。

 そのときに指先が石碑に触れた。当然手でごみを払っているのだから触れる。そのときなのだ。

京太郎は気がつかなかったが、蛇のレリーフが少しだけ揺らめいた。生きているヘビのようなうごきだった。

しかし京太郎はその揺らめきに気がつかなかった。掃除に意識が向いてしまって、細かい変化を見逃してしまったのだ。

 かるく石碑をきれいにしてからディーが待っている車に京太郎は戻っていった。ディーの待つ場所へと戻って行く京太郎は、晴れやかな表情になっていた。

石碑の汚れを払うと、みずみずしくてきれいなヘビのレリーフが現れたからだ。


 京太郎が戻って来たときには、スポーツカーにもたれかかってディーが缶コーヒーを飲んでいた。

片手には携帯電話が握られていて何か操作している。ディーは京太郎が帰ってくるまでにハギヨシと連絡を取っていた。

そして異界の様子が変わりすぎているためにもしかしたら間に合わないかもしれないという話をし終わっていた。

 そうすると、ハギヨシが最新の情報を携帯電話に送ってくれたのである。しかし、変化が急すぎるので完全な地図ではない。

未完成の地図を携帯電話で確認して、センターに向けて一番いい道を選ぼうとしていたのだった。

ちなみに異界でも携帯電話が働いているのは、特別な中継基地が異界と現世の境界線上に作られているからである。便利な時代であった。

 京太郎が戻ってくるのを見てディーは一気に缶コーヒーをあおった。そして空になった空き缶を握りつぶして消した。

スチール缶を指先で縦につぶし、そのまま横につぶして、折り紙を折るような気軽さで、あっという間に小さくする。

そうして、手のひらに収まるところまで来たスチール缶を思い切り握り締めた。そうして手を開いたところには、もう何もなかった。

飲み終わったのはいいけれどもゴミ箱まで歩いていくのが面倒くさかったのである。だから握りつぶして、消し飛ばした。

 ディーが乗り込んで、シートベルトをつけ終わったあたりで京太郎は助手席に座った。そしてこういった。

「すみません、遅れました」

ディーがくつろいでいたのが見えていたのだ。その姿をみて自分が後れて待たせてしまったと思ったのである。

 謝る京太郎にディーがこういった。

「ぜんぜんだよ、むしろ早いくらいさ。それじゃ、いこうか」

ディーはまったく気にしていなかった。京太郎は時間通りに戻ってきたのだから。本当に、早かった。

 京太郎がシートベルトをつけるのを確認してアクセルをディーが踏み込んだ。目指すは、異界物流センターである。

 

休憩を終えた車はするすると道を進んでいった。今までのような道を飛び越えたりはねたりするような動きはほとんどなくなった。

それというのも、ハギヨシから送られてきた情報のおかげである。完全な異界の地図を手に入れられたわけではないのだが、それでもどこに進めばいいのかわからない状況よりはずっとましだった。

 この不完全な地図のおかげで、異界物流センターまでの道のりはかなり普通のドライブになっていた。

 そして、十分ほど穏やかなドライブが続いた。そうするとディーがこういった。

「そろそろ到着だ。道の先にある巨大な山みたいな建物が異界物流センター。通称デパート。

 日本の魔法科学技術の粋を集めて作られた九十九神さ」

 ディーはずいぶんほっとしている。パーティーの余興として必要な黒マグロを無事に手に入れることができたと思っている。

目的地は目と鼻の先なのだから。そして少なくとも手に入れてしまえば、後は戻るだけでいいのだ。お嬢様の愚痴を聞かなくて済むとほっとしていた。

 ディーの説明を聞いた京太郎は目を見開いていた。京太郎の目には富士山のような大きな盛り上がった何かが、ある。

 この富士山のような何かというのが、ディーの話によると異界物流センターということになる。しかし京太郎はずいぶん驚いていた。ディーの話が京太郎は信じられなかったのだ。

 そして九十九神という存在であるというのならば、まったく想像することもできない規模の悪魔である。

あまりにもうそ臭かった。スケールが大きすぎて意味がわからなくなっているのだ。


 富士山のような異界物流センターを見つめながら京太郎はディーにこういった。

「あの山みたいなのが九十九神? 九十九神って道具の妖怪ですよね? いくらなんでも大きすぎませんか?」

ディーの話が冗談だと思ったのである。

 ディーはこう返した。

「別に不思議なことじゃないよ。人間が百年間使えば九十九神が生まれるって話なんだから、九十九神なんて、どこにでもいるのさ。

 人類が始まってすでに数千年。親子二代で道具を使えばあっという間に九十九神がうまれてくる。それに武器だとか工芸品だけに命が宿るわけじゃない。

愛着を力にして生まれてくるのなら、建物にも命は宿る。

 日本にはそういう建物が山ほどある。作るのなんて簡単さ」

 ディーは実に真面目に説明をした。はじめてこの物流センターに来たときに京太郎と同じような反応をディーがしたことがあるのだ。

そのため、京太郎が信じきれないという気持ちもよくわかっていた。だから、昔自分が説明されたような方法で、説明をしたのである。

 ディーの説明を聞いた京太郎はうなずいた。

「はぁ、そういうものですか。規模が大きすぎてわからなくなります」

 一応は納得していた。しかしいきなり規模が大きくなりすぎたためにさっぱり想像力がついてきていなかった。

 それにしても、大きすぎた。何せ建物が集まって富士山のように構えているのだから、いったいどれほど集まっているのかわからない。

あまりにもでかすぎるので実感しなければ納得できないだろう。

 受け入れ切れていない京太郎にディーがこういった。

「これくらいで驚いていたらだめだよ。大きさだけなら異界物流センターはそれほど大きいわけじゃない。

 ちなみに須賀ちゃんは確認されている悪魔の中で一番大きな悪魔ってどのくらい大きいか見当がつく? 大体でいいよ」

 ディーは少し楽しげだった。京太郎の困っている姿というのが、なかなか面白かったのだ。これは、困っている京太郎を面白いと思っているのではない。

そういう意地の悪い考え方ではなく、もっと面白いものをこの少年に見せたら、どういう反応をしてくれるのだろうかという面白さである。

自分の故郷とか、自分が面白いと思っているものを人に勧めるときの気持ちというのが一番近いだろう。

 ディーに質問を飛ばされた京太郎は間を空けて答えた。

「わからないですね。少なくともあの山よりは大きいんでしょうけど」

 ものすごく困っていた。富士山サイズの悪魔がいるということだけでも相当とんでもないことである。しかしそれでもまだまだ足りないというのだから、どのくらいなのかがわからない。

体長一キロくらいだろうか、十キロくらいだろうか。そんな風に考えるのだけれどもまったく物差しがない京太郎にはわからないことだった。

 京太郎が答えるのを聞いて、ディーが答えを教えた。

「最低でも日本と同じ大きさかな。存在は確認できているけど、まともに測ったことはないみたいだから、はっきりとはいえないけど。

 それでも最低で、日本と同じ大きさがある」

 正直に答えた。まったく嘘はない。日本最大の悪魔の大きさは最低でも日本と同じ大きさがある。

ヤタガラスがどうにかして全体を把握しようとしたことがあったのだが、あまりにも大きいために距離を測るのをやめてしまったほどなのだという話を、ハギヨシから聞いていた。

 ディーの答えを聞いた京太郎は素直に質問をした。

「なんて悪魔なんです?」

 物流センターの大きさ自体がすでにうそ臭いレベルだったのだ。富士山サイズを更に超えたレベルの存在がいるといわれても思いつくわけもない。

なので難しいことを考えるのはやめてしまおうという境地に至っていた。

今の京太郎の頭にあるのは、そのとんでもない存在がどういう名前を持った悪魔なのかという興味だけである。

 京太郎の質問にディーがこたえた。

「通称オロチ。正式名称は『葦原の中つ国の塞の神(あしはらのなかつくにのさえのかみ)』

 名前は仰々しいが、道の九十九神さ。俺たちが今走っているのはオロチの背中。時々体をくねらせるから道が変わって困るんだよね。

 最低でも日本と同じ大きさだといったのはこいつが時々脱皮するからさ。

オロチの抜け殻は抜け殻だけれども、大きすぎてひとつの世界として成立している。そのままの意味で、世界が出来上がっているのさ。

 そして、何十回何百回と脱皮している。

 結果オロチの異界は膨大な空間を所有することになった。脱皮するたびに世界が増えるわけだから。

 で、ヤタガラスは大きさを把握できないわけだ。

 ちなみにこの巨大な蛇は現世の道を歩く命が発散するマグネタイトを分けてもらい生きている。ちりも積もれば山となる理論だな。

マグネタイトの管理はヤタガラスの精鋭が責任を持ってきっちりと行っている。

 といっても管理の必要はほとんどないんだ。おとなしくて、びびりな性格らしい。

 それに、オロチはいつも眠っている。ハギちゃんが言うには退屈で、不貞寝しているらしい」

 ディーは半笑いだった。まったく説明をしている内容に嘘はないのだけれども、話しているディーでさえ、いくらなんでもむちゃくちゃな存在過ぎるというので笑えてしまう。昔ハギヨシにこの話を聞かされたときはハギヨシの頭の調子が悪くなったのではないかと、疑ったほどである。

 京太郎はディーの話を聞いて呆然としていた。そしてこういった。

「道の九十九神ですか。だから、道路がアスファルトじゃなくてかなり昔の石畳なんですね」

 かなり驚いていた京太郎だったのだがいくらか冷静になっていた。そういうものだと思い受け入れることに決めたのだ。

そもそも魔法だとか悪魔だとかが存在しているのだ。そういうものがいてもいいだろうと、割り切るのはそれほど難しいことではなかった。

 京太郎が理解したところでディーがこういった。

「まぁ、そういうこと。後数十年もすれば、アスファルトの部分が多くなるだろうね」

 二人が話している間に富士山のように巨大な異界物流センターにスポーツカーは入っていった。

遠くから見ると大きな山にしか見えない物流センターだが近くによって見てみると建物が組み合わさってできているのがわかる。

雑に組み合わさっているのではなく、きっちりと隙間なく建物が組み合わさっている。城の石垣を見るような気持ちよさがあった。

 異界物流センターの中に続く一本道を進んでいくと、古臭い建物に囲まれて進むようになる。急に薄暗くなるけれども、ちょうちんの列が道を照らしてくれる。この一本道がどんどん上に上に螺旋を描いている。

そうして、一番上まで進むと駐車場があり、いろいろな車が止まっているのだった。センターの内装は新しい建物と同じだった。床がぴかぴかで、電灯もよく見るタイプのものである。

 むしろ止まっている車たちに問題がありそうだった。トラックのようなもの、ワゴン車のようなものはいいが、馬車、人力車のようなものがある。

これもまだいいとして四本足の悪魔がつながれていたり鳥のような悪魔が駐車場で待ちぼうけを食らっているのは、どうにもおかしかった。

 しかしおかしくとも品物を取りにいくためにはここにスポーツカーを止めて移動しなければならなかった。


 異界物流センターの内部に入り駐車場に車をデーが止めた。シートベルトをはずしたディーは京太郎にこういった。

「それじゃあ、俺は荷物を引き取ってくるから、須賀ちゃんは買い物しててよ。大体十五分くらいで済むと思うから、急がなくていいよ。

 あと、この異界物流センターはマグネタイトで買い物ができるから、お金が足りなかったらマグネタイトで払ったらいい」

 京太郎に軽く説明したのは、京太郎が物流センターの仕組みを知らないのを知っていたからである。もしも京太郎が何か珍しいアイテムでもほしくなったときに支払いの仕方を知らなければ困ることになるだろうと、気を使ったのだ。

 京太郎がうなずくと異界物流センターの中に書類を持ってディーが入っていった。

 ディーがさっさといったのを見送った後。ウエストポーチの中に財布が入っているのを確認してから、異界物流センターの中に京太郎は入っていった。


 異界物流センターの中に入った京太郎は出入り口の掲示板の前に立っていた。物流センターの出入り口の近くにはエレベーターがあるのだ。

その近くに掲示板があった。その前に京太郎は立っているのだ。

 京太郎はこの建物の構造をさっぱり知らない。ほしいものは初回限定版の漫画であるから本屋に向かう必要がある。しかし場所がわからない。

さてどうしようかとなって歩き回るというのもいいのだが、京太郎はしなかった。

 なぜならセンターの中は地図がなければ確実に迷うだろう造りになっていたからだ。広い上に店の数が半端ではない。

人もかなり多く、下手にうろつくと大変な目にあうのが目に見えていた。京太郎は早々に歩き回るのをやめて、エレベーターの近くにあった案内板をみて自分の行方を定めようとした。

 そして買い物をするために本屋の場所を掲示板の中から京太郎は探しはじめた。今までにないくらい真剣な表情を京太郎は浮かべていた。

目を細めて、見逃さないように集中していた。理由は簡単である。

 案内板が案内板として出来上がっていなかったのだ。混雑に混雑を極めているらしく、どこに何があるのかがさっぱりわからない。

米粒のような文字でいろいろな店名が書かれているのだけれども、読み取れない。

神経がとがって困っている京太郎でなければおそらく本屋の文字を見つけることはできなかっただろう。

 かなり雑な案内板だったが、京太郎は本屋を見つけられた。発散できないエネルギーが集中力を増しているというのを覚えていたので、意識してエネルギーを溜め込んでみたのだ。そうすると、見事に集中力が高まり本屋の位置を探し当てられた。

ただ、やはりというべきか発散するべきものを溜め込んだ結果代償があった。

 頭が微妙に痛んでいた。

 本屋の位置を見つけた京太郎は痛みを感じながら混沌としたセンター内部を進んでいった。

実に進みにくかった。買い物客だと判断した客引きの悪魔を払いのけてみたり、自分の財布を狙ってくる小ざかしいチンピラどもを蹴り飛ばして進んだ。

また建物の中に崖があったり、壁を作っている悪魔がいたりしたので迂回する必要があった。

しかしそういう一切を乗り越えて、京太郎は物流センター内部の本屋にたどり着いた。そうしなければ自分のお目当ての商品を手に入れられないのだから、そうするしかあるまい。

 
 混沌とした異界物流センターを進んだ京太郎は本屋の前に立っていた。少し疲れていた。しかしやっとここまで来たのだ。迷路のような建物。しつこく絡んでくる悪魔たち。よほどの用事がない限りはこの本屋を利用しないと京太郎は心に誓った。

 また、本屋に来る前にきっちりとどこに何があるのかを確認しておいてよかったと、京太郎は自分をほめた。きっと、先に地図を確認していなければ迷い倒してイラついて壁を力づくで壊すようなことをしていただろう。

 本屋の中に入った京太郎は本日発売のマンガを発見した。ずいぶんと見つけるのがすばやかった。本屋の店員が作ったポップが目に入ったからである。

京太郎はこのとき

「店の場所にもこういうポップをつけてくれたらいいのに」

と思った。

 京太郎が漫画を手に取ったとき、ぴたりと動きが止まった。京太郎の手にある初回限定版の漫画には付録がついていた。オリジナルアニメ収録のブルーレイだ。普通のマンガではない。特別な仕様だ。京太郎は値段をしっかりと確認していなかったのだ。

 すぐに京太郎は漫画の値段を確認した。

 値段を見た京太郎がいやな顔をした。限定版というのは大体お高いものだ。漫画でも同じことがよくある。

 京太郎はすぐに財布の中身を確認した、そしてため息を吐いた。完全に足りていなかった。自分の仲魔に買い物をお願いしたときに、お金を渡したのを忘れていた。

 しかしすぐに持ち直した。そしてこういった。

「マグネタイトで払うか……そうしよう」

 京太郎の顔色はよかった。お金がないならマグネタイトで払えばいいじゃないか。自分をここまで連れてきてくれたディーの助言がここで生きていた。

 初回限定版を手にとった京太郎はカウンターに持っていった。足取りは実に軽かった。やっとこれで、ほしかったものが手に入るのだから、うれしくもなる。少しは退屈もまぎれるだろう。

 本屋のカウンターにはどこからどう見て魔女という姿をしたおばあさんが座っていた。いったいどこで売っているのか、昔話の魔女が来ているようなローブ姿である。

 そしてその隣にはスーツを着た女性が立っていた。髪の毛を肩辺りできれいに切ったおかっぱのような髪型である。スーツの女性は実に整った容姿をしていた。左右対称で、まったく無駄がないように見えた。

名札には

『花子』

とだけかかれてあった。普通の人間のように見える。しかし気になるところもあった。目だ。京太郎はその目を見て、かつて自分がであった女性悪魔のことを思い出した。そしてかつての自分自身の目も。

 カウンターにたどり着いた京太郎は、少しだけ動きを止めた。カウンターのレジのところにいる花子と名札のついている女性の目を見つめていたのだ。とくにこれといった理由はない。

「よく似ている」

それだけだった。

 京太郎が動きをとめたのを見て魔女ファッションのおばあさんが声をかけてきた。

「どうかしたかい。造魔をみたことがないのかね」

 自分の店に来るお客というのは造魔のような新しい技術というのをいまいち好かないというのをおばあさんは知っていたのだ。

 京太郎はずいぶん若い。しかし自分の店にわざわざ来るようなタイプなのだから、ここ最近出回っている造魔という存在になれていないのではないかと考えたのだった。

 お婆さんに声をかけられた京太郎は首を横に振った。

「いえ。すみません。じろじろ見ちゃって。

 あの、ここってマグネタイトで支払いができるってきいたんですけど、大丈夫ですかね?」

 少し京太郎はあわてていた。女性の目をじっと見つめるなどということをやったのだ。理由はどうであれあまりよろしい振る舞いではない。

京太郎もそれがわかっていたので、少しあわてたのだ。いったい自分は何をやっているのかと。

 京太郎がマグネタイトでの支払いができるのかと質問すると、おばあさんよりも早く造魔の女性、花子がこたえた。

「もちろん大丈夫です。キャッシュカードも図書券もご利用できます」

 教えられたとおりに、教えられたまま対応していた。これが造魔としての正しい対応なのだ。人間のような姿かたちをしているけれども、中身は出来の良いロボットと変わらない。

 淡々と説明をする造魔花子に京太郎はこういった。

「それならマグネタイトで支払います。申し訳ないんですが、どうやって渡せばいいか、教えてもらえますか。いまいちそういうのわからないので」

 京太郎がこのように話をすると、おばあさんが口を開いた。

「ずいぶん丁寧な子だね。造魔に人間みたいな対応をするなんて」

 おばあさんはいろいろなサマナーをみてきた。その関係者ももちろんよくみている。そうなってきてサマナーと悪魔の関係というのもよく見て知っているのだ。

 サマナーにとって仲魔とは使い捨ての道具以上のものではないというのが、おばあさんの見かただった。特に造魔などになってくると命令を黙って聞く交換可能な奴隷という考えのサマナーがほとんどだった。

下手に美しいものだから、散々な目に合わされる者もおおい。

 そんなところで、京太郎のような対応をするものなど、めったにいない。珍しいと思うのは当たり前のことだった。

 不思議がっているおばあさんを無視して造魔の女性、花子が対応した。

「私の手を握ってもらえたらそれで完了です。商品を渡してもらえますか? レジに通しますので」

 ずらすらと接客を行う造魔花子だった。この説明のしかたも、教えられたとおりに行っているだけである。

 初回限定版のマンガを造魔花子に京太郎は手渡した。京太郎は対応に困っているようだった。造魔花子にではない。

不思議がっているおばあさんに対してである。というのが、京太郎は造魔というのが完全な人形であるとは考えていなかったのだ。確かに人間離れした美しさである。よく目を見ると人形のような印象がある。

 しかしその目の奥にはわずかに意思が宿っていると京太郎は感ずいていた。そしておそらくすべての造魔が持っているものだろうと予想をつけている。

それを知っていたから京太郎は、人間と同じような対応を当たり前のようにするのだった。

 なのでむしろおばあさんが、どうして人形扱いをしているのかというのがわからなかったのだ。よくみれば個性のようなものがあるのだから、人形扱いはできないだろう。


 京太郎が商品を渡すとすさまじく滑らかな動作で商品のバーコードを造魔花子は読み取った。

すでに構えていたバーコードリーダーを使い、あっという間の作業だった。これもまた教えられたとおりの動作である。

 そしてこういった。

「一点で税込み二千五百円です。マグネタイトでのお支払いでよろしかったですね?」

 造魔花子がこういうと京太郎はうなずいた。京太郎は少し心配していた。マグネタイトのやり取りを何度か京太郎は経験している。

しかし、こういうお店の形でマグネタイトをやり取りするというのは初めての経験だった。何にしても初めての経験というのは恐ろしいものである。

 京太郎がうなずくのを確認して造魔花子は京太郎に向けて右手を差し出した。握手を求める形である。そしてこういった。

「では、私の手を握ってください」

 マグネタイトを機械でやり取りすることもできる。しかしいったん造魔にマグネタイトを渡すことで、その後の処理を楽に行うことができるのだ。

たとえば、あとで造魔にためこんだマグネタイトを造魔ごと業者に渡しても良く、またで自分の仲魔に渡してもいいのである。

いちいち機械を使うよりは簡単で楽なのだ。

 京太郎が手を握ろうとしたところでおばあさんがこういった。

「坊主、もしも気分が悪くなったらすぐにいいなさいな。すぐにとめるからね」

 おばあさんは京太郎を侮っているわけではない。心配しているのだ。おばあさんは特殊な技術を使うのではなく、京太郎を見たときにマグネタイト量が少ないことに気がついていた。

そのため、もしかしたらマグネタイトを吸い取りすぎて、調子を崩すかもしれないと考えたのだった。

 おばあさんの忠告に京太郎はうなずいた。そして造魔花子の手を握った。忠告を受けたためだろう、造魔花子の手を握る京太郎の手には力が入っていなかった。

 しかしマグネタイトでのやり取りをやめようとは思わなかった。ここまで来て引けるわけもない。意地を張ったのだ。そんな気持ちもあったのだ。

 京太郎の手を握った造魔花子の表情がわずかに変化した。今までの鉄面皮が崩れている。眉を八の字に曲げて、口元に力が入り始めていた。そして、耳と首が赤く染まり始めるのだった。

 造魔花子の様子が変化してきたのは、京太郎のマグネタイトを吸い取り始めたからである。

 京太郎はいまいちわかっていないことであるが、京太郎のマグネタイトには強烈な特徴がある。ディーや京太郎の仲魔、そしていくらか取引をした悪魔たちが口に出していた酒のような性質だ。

 京太郎のマグネタイトには酒の性質があったのだ。特殊な契約を結んだことによる副作用なのか、それとも生まれついてのものなのかはわからない。

なぜなら、京太郎以前の真正の魔人たちはとっくの昔にこの世界から去っている。確認のとりようがないのだ。

 しかし何にしても本当に悪魔たちを酔わせてしまう性質の強さがあった。常に京太郎からマグネタイトを供給されている仲魔や特に強力な力を持つディーのような存在ならまだしも、これといったチューニングも受けていない造魔花子がマグネタイトを受け取ればひとたまりもない。

それこそ、常時発散されているマグネタイトに当てられて酔うこともあるだろう。

 握手で交換するようなことになれば当たり前のように酔うのだ。

 三秒ほどでやり取りは終わった。京太郎の手を握っていた造魔花子の力が緩んだ。手を離したときに、造魔花子の体が、ユラユラと揺れた。

真っ白だった顔が真っ赤に染まり、視点がゆらゆらとゆれていた。吐き出す息には京太郎にもわかるほど酒のにおいが混じっている。

わずか三秒間の交換であったが、造魔花子を酔わすには十分だったのだ。

 京太郎が手を離すと造魔花子はこういった。

「マるネタイトの交換完了しました。少々お待ちくらさいませ。商品を袋に入れまふ。ヒック……ヒック」

 完全に出来上がっていた。手元がおぼつかない。しかしそれでも何とか接客を行おうとしているのは、造魔としてのプライドのためである。

 様子のおかしい造魔花子をみておばあさんがこういった。

「坊主、あんた特異体質か何かかい? この子が酔っ払うなんて見たことないよ」

 お婆さんは目をかっと見開いていた。自分の仲魔というのがこのような状態になるなどと思ってもいなかったのだ。変化に特に強いのが造魔という種族の特性なのだから、こんな簡単にグデングデンの酔っ払いになるというのはなかなか受け入れられないことだった。

 十秒ほどかけて造魔花子は商品を大きなビニール袋につめた。大分動作が遅かった。京太郎のマグネタイトの性質が、そろそろ体全体に回ろうとしているのだ。完全に酔いつぶれていないのは、接客を完遂しなければならないという使命感の力である。

 京太郎は商品を受け取ると、さっさと本屋を出て行った。脱兎のごとくというのがよく似合うすばやさだった。

本屋さんのおばあさんがずいぶんひどい目で自分を見ているのに耐えられなかったのだ。

 立ち去る京太郎の背中に造魔花子がこういった。

「まらろうぞ、おこしくださいましぇ」

 完全によいが回っていた。たっていられないらしくおばあさんに支えられて、いすに座らされていた。

それでも最後まで接客を行っていたのは見事としか言いようがない。


 今回の目的だったマンガ本を手に入れた京太郎は物流センターの中をぶらついていた。さっさと駐車場にもどってもよかったのだがあまりにも早くことが済んでしまったので暇なのだ。

そもそも車に戻ったところで鍵がかかっている可能性が非常に高いのだ。待ちぼうけなどということになっても面白みがない。ということで初回限定版の漫画が入ったビニール袋を片手に京太郎は歩き回るのだった。

 ふらふらとしていた京太郎は物流センターの広場に足を踏み入れた。超巨大な建造物異界物流センターの中をみて回ろうと思ったのだが、妙に人の気配を感じて気分が悪くなっていた。

 人の気配が多いだけなのだけれども、とがった感覚の副作用であろうと京太郎は納得していた。

 そして気分を入れ替えるため人のいないところへとふらふらと歩いていったのだった。そうすると、妙に開けた場所に出た。そこは空が見える広場で、芝生が植えられていた。広場の中心には、二メートルほどの大きな石碑が立っていた。


 広場の中心部分にある大きな石碑に京太郎は近づいていった。妙に、広場の中心の空気が澄んでいるように感じたのだ。

人波にもまれていると気分が悪くなるときは、まったく人のいない冷めた空気というのが必要だろう。この大きな石碑の周りは冷めた空気があると感覚が京太郎に知らせていたのだ。京太郎はその感覚にしたがって、近づいていった。

 石碑に近づいた京太郎は、石碑に手を触れた。右手の指先だけで、軽くなでるような動きだった。石碑がほこりで汚れているように見えたのだ。

 掃除をしていないのかそれとも、もともとこういうものなのかはわからないが、ずいぶん汚れているように見えた。京太郎が休憩所で見た石碑と同じで、ヘビのレリーフが彫られていたのだけれども、これがしょぼくれているように見えるのだから、よほど汚れている。

京太郎はそれが少し気に入らなかった。

 そして石碑についているほこりを手で払っていった。ほこりが落ちれば、いくらかいい状態になると考えたのだ。

右手を力いっぱい使って、さっさとほこりを取り除こうとした。手が汚れてしまうけれども、それはどうでもいいことだった。

後で水で流せばいいし、何なら自分のすぼんでぬぐってしまうのもいいだろう。今は目の前でしょぼくれているヘビのレリーフのほうが大切だった。


 不思議なことがおきた。京太郎が石碑を触っていると石碑の色が変わってきた。だんだんと血色がよくなっていくのである。これが不思議なもので、京太郎がなでればなでるほどどんどんみずみずしく生き返っていくのだ。

 石碑がどんどんきれいになっていくので、よけい力を入れて京太郎は石碑をなで始めた。きれいになっていくというのも力をこめる理由なのだが、お風呂場で小さな子供が遊ぶ色の変わるおもちゃに触れているような気分になっているのだ。そのため京太郎は、結構な勢いで石碑を撫で回していた。

 五分ほどテンションをあげて京太郎が石碑を撫で回していると声をかけられた。ディーだった。

「須賀ちゃん、買い物は終わったの? というか、何やってんの? 掃除?」

 ディーは肩に大きな木箱を担いでいた。長方形で大きな黒マグロでもすっぽりと入りきる大きさだった。ディーはずいぶん不思議そうに京太郎に聞いていた。それはそのはずで、京太郎があまりにも一生懸命に石碑をなでているのだ。

いったい何が楽しくて石碑を撫で回すのかわからないディーにとって京太郎の行動は謎だらけである。

 声をかけられた京太郎はディーにこういった。

「ちょっと暇だったんで、なんとなくですよ。マンガなら買えました。初回限定版です。家に帰ってみるのが楽しみでっす」

 石碑を撫で回していた京太郎はすっと手を引いた。ディーが用事を済ませたのなら、これから戻るだけだからだ。あまり石碑を撫で回してもどうなるものではないのだから、そうするだろう。石碑から右手を離した京太郎は、ズボンで右手を軽く払った。

 京太郎が用事を済ませたと話すと、ディーがほっとしてこういった。

「そりゃよかった。面倒に巻き込んじゃったからねぇ。

 あぁ、そうだ。なぁ、須賀ちゃん。ちょっとこの中身見てみねぇ? なんかおかしいんだよね」

 箱を担いでいるディーに京太郎が聞いた。

「おかしい、ですか?」

 京太郎は首をかしげた。箱がおかしいといわれてもさっぱりわからなかったからだ。ディーの担いでいる木箱は、普通の木箱にしか見えない。

漂ってくる冷えた空気というのもある。おそらくクロマグロを保存するために使われている氷だろう。

大きさも、処理の仕方もおかしなところところはなさそうなのだ。しかしディーはおかしいという。これはさっぱりわからない。

 さっぱりわからないらしい京太郎に、ディーがこういった。

「なんかさ、軽いんだよね。黒マグロってさ、百キロとかさ、二百キロとかそのくらいじゃない? この箱さ、ものすごく軽いんだよ。確かに中身は入っているけど、氷込みで多く見積もっても百キロいくか、いかないかってところなんだわ。

 小さなマグロをお嬢が頼んだって線もあるけど、派手好きのお嬢が小さいので満足するわけがない。おかしくね?」

ディーは頭をずいぶん働かせていた。

 考え込んでいるディーに京太郎がこういった。
「ディーさんは俺と違って力のコントロールができているんですよね? なら勘違いってこともないでしょうから」

 少し区切って続けた。

「ちょっと見るくらいならオッケーじゃないですか。もしかしたら、何かしらの手違いで商品が入れ替わっている可能性もありますからね」

京太郎はさっさと中身を確かめてしまえばいいといった。

 自分の感覚が鋭くとがってコントロールが出来ていない自覚が京太郎にはある。しかし、ディーは違う。すでに自分の力をコントロールできているのだ。そのディーがおかしいというのならば、おかしいのだろう。そしておかしいと感じるのならば、確かめてしまえばいい。

 これだけ混雑していて人も悪魔も出入りしている異界物流センターなのだ。商品の取り違えくらいあるだろう。もしも間違えていたのなら、ふたを閉めなおして、返してしまえばいいだけのことだ。


 京太郎の提案でディーは意を決して箱の中身を確かめ始めた。肩に担いでいた木箱を下ろして、箱の封を解いた。釘で打ちつけられていたところもあったのだが、ディーの腕力の前には何の問題もなかった。

ディー自身も京太郎に提案されるまでもなく、確かめようという気持ちがあったのだ。京太郎の後押しがあったので、するすると実行に移せたのである。

 箱の封印をといて中身を確かめたときディーは顔色を変えた。血の気が引いて真っ青になっていた。

箱の中身というのがどこからどう見ても黒マグロではなかったからだ。そして、黒マグロがどこかへと消えてしまったという問題よりも、入れ替わっている箱の中身が問題だった。

 顔色を変えたディーを見て京太郎が箱の中身を覗き込んだ。

「どうしました? やっぱり、間違えていましたか?」

ディーの顔色があまりにも激しく変わったのをみて、何かとんでもないものが入っていたのではないかと興味がわいたのだ。


 箱の中身を見た京太郎は言葉を失った。

 箱の中には褐色肌の女性が氷詰めにされていたのである。女性は見たところ二十歳になるかどうかというところ、多く見積もっても二十五歳くらいであった。

身長は百六十センチあるかないかというところである。氷詰めの箱の中で胎児のように体を丸めて横たわっていた。

 京太郎が身につけているヤタガラスのジャンパーとよく似たジャンパーを着ていた。ジーンズをはいているのだけれども氷の水分で変色している。

また、髪の毛を長く伸ばしているのだが、氷詰めにされているために妙な形で固まっていた。

 褐色肌のためにわかりにくいが、どうみても生きているようには見えない肌の色になっていた。呼吸をしていないのだろう、衣擦れの音さえしない。

 氷詰めになっている褐色肌の女性を見たとき京太郎の脳裏に浮かんだのは、次のような言葉だった。

「黒マグロって、そういうこと? ブラックジョークにしては黒すぎる。いや、もしかしたら、あるのかもしれない。

 聞いたことがある、金持ちは俺みたいな小市民には理解できない趣向を凝らすことがあると。

 しかしこれはいくらなんでもきつすぎる。超えてはならない一線を二つも三つも越えてやがる。もしもこれがサマナーの当たり前だったとしたら、俺は」

 褐色の女性の氷詰めに完全に引いていた。

 顔色の悪くなっている京太郎は、チラッとディーを見た。恐る恐るというのがよく似合う視線の送り方であった。京太郎は願っているのだ。

ディーの顔色の変化が自分と同じ理由であることに。もしも違っていたとしたら、京太郎は静かにヤタガラス、龍門渕と縁を切るだろう。

 何とか持ち直し始めた京太郎の視線の先には独り言を吐くディーがいた。血の気が引きすぎて青を通り過ぎて白くなっていた。

「いやいやいや、いくらなんでもこれはない。流石に引くわ。あのお嬢が独断でこれをやったのか?

 ありえねぇ。派手好きでもこういう趣味じゃない。無茶をやるにしてもせいぜい無断で花火を打ち上げるくらいのもの。

 それにハギちゃんを通さないと物流センターは使えねぇ。なら、ハギちゃんがこれを知っていたか?

 それもありえねぇ。ハギちゃんならこんな提案をされた瞬間お嬢説教間違いなし。話を持ちかけた業者は討伐リスト入り間違いなし。

ありえねぇ、ありえなさすぎる」

 静かに混乱するディーを見て京太郎はほっとしていた。少なくともディーと敵対する可能性がほとんどなくなったからだ。

 ほっとした京太郎はディーにこういった。

「とりあえずハギヨシさんに連絡しましょう。話はそれからですよ。それにこの女の人、ヤタガラスのジャンパーを着ています。もしかしたら何か、あったのかもしれません」

 慌てふためいているディーよりもずっと京太郎は冷静だった。ディーに提案をしたのは、まずはハギヨシと連絡を取らなければ後で困るだろうと判断したからだ。

少なくとも氷詰めにされている女性を手放す選択肢はない。何がおきたのかを調べる必要があるだろう。どう見ても尋常ではないのだから。

ならばハギヨシと綿密に連絡を取ってこの状況を乗り越えなくてはならない。すでに黒マグロなどというのはどうでもよかった。

 思いのほか冷静な京太郎に促されてディーがうなずいた。そしてこういった。

「あぁ、そうだな。そうだった。サンキュー須賀ちゃん。ちょっと混乱してたわ。

 ハギちゃんに連絡して指示を仰ぐよ。マジ、勘弁してくれって感じだわ」

 ディーは京太郎に声をかけられて、混乱状況から持ち直し始めていた。混乱から回復したディーは携帯電話を取り出した。ハギヨシに連絡を取るためだ。

 ディーがハギヨシに電話を始めたので京太郎は氷詰めにされている女性を見ていた。

京太郎が女性を見つめているのは、暴走気味に高まっている感覚が妙にざわついていたからである。

どこからどう見ても女性は死んでいるようにしか見えないのだけれども、微妙に揺れているように感じられた。

それが京太郎の勘違いなのか、それとも死後硬直の影響なのかというのははっきりとわからない。しかしまだ何かおかしかった。

 自分の直感を信じた京太郎は女性のくびに手を当てた。もしかしたら、この女性は仮死状態なのかもしれないと考えたのだ。

氷詰めになっていると冬眠に近い状態になることがあると、聞いたことがあったのだ。

そしてもしもそうだったとしたら、助けなくてはならない。京太郎は首に手を当てて、鼓動を確かめようとしていた。

 女性の首筋に右手をそっと当てて京太郎は目を閉じた。感覚を右手に集中させているのだ。小さな鼓動があるとしたら、非常に小さなものだろうから、気合を入れる必要があった。

 数秒間集中していた京太郎が目を見開いた。京太郎はわずかな振動を捕らえたのである。

「まだ生きている」 

 鼓動を確認するとすぐに、褐色肌の女性を氷の中から京太郎は引っ張り出した。

氷でいっぱいになっている箱の中に両手を突っ込んで、硬くなっている褐色肌の女性を抱き上げた。京太郎はこの女性が生きていることを察し、そしてまだ仮死状態から回復させることができると信じたのだ。

魔法と悪魔が当たり前のように存在する世界である。ディーに女性が生きていることを話し、回復させられる可能性があるといえば、動いてくれるという確信があった。

 京太郎の突然の行動にディーが驚いて声を出していた。

「いったい何を!?」

 氷詰めになっていた女性を芝生の上にに京太郎は寝かせた。そして動いていない胸に耳をつけた。

京太郎の耳はかすかに響く心臓の音を聞き逃さなかった。この心臓の鼓動は、かなり小さなものだった。しかし間違いなく動いていた。


 電話片手のディーに向けて京太郎がこういった。

「まだ生きてます!」

 京太郎の報告を聞いて、ディーが珍妙な声を上げた。

「はぁ!? どうみても死後数時間たっていた! もう、川を渡っているはず!」

 しかしそれ以上ディーは聞き返せなかった。ハギヨシに電話が通じたからだ。

 混乱気味のディーを尻目に京太郎は女性を救うために動き始めた。ウエストポーチの中に入っているアンヘルとソック特製の薬品を京太郎は取り出した。

これで助かるとは思っていない。しかしサガカオルの回復の様子を見るにただのドリンクでないとわかっている。

 もしかしたら、ほんのわずかでも可能性があるのならば。そう考えた京太郎は、ドリンクをわずかに女性の口に含ませた。かなり無理やりな方法だった。

ビンの口の部分を、女性の口の部分に押し付けて飲ませていた。当然だが、かなりドリンクはこぼれてしまった。あわてて京太郎はドリンクを引っ込めた。

まだ三分の一ほどドリンクは残っている。

 全てこぼれたかと思われたドリンクだが、ほんの少しだけ女性の口の中に入っていった。

 ドリンクの効果は劇的だった。ほんの少しだけのドリンクで、冷え切っていた女性の体に熱が帯びはじめたのだ。冷え切った青から、赤く火照った肌への変化は京太郎の予想に答えをくれる。

間違いなく女性は生きている。そして、頼りになる仲魔のドリンクは命をつなぐきっかけになってくれると。
 効果が見えるや否や、京太郎は手段を選ばずに行動し始めた。

 京太郎は手に持っていたドリンクを口に含んだ。そしてこれを女性に飲ませたのであった。年頃の男子であるから、恥ずかしさというのがあるかもしれないが、まったく気にならなかった。

助けられるのならばという一念が恥ずかしさを吹っ飛ばしたのだ。

 京太郎が薬を飲ませるとすぐに褐色肌の女性が動き出した。閉じられていたまぶたが震えだし、全身が芋虫がもがくように震え始め、手足を動かし始めたのだった。

ヤタガラスの構成員なのだからそこらの一般人とは違った身体能力を持っているのだろうけれども、それでもこの回復の速さは劇的としか言いようがない。

アンヘルとソックが京太郎に渡した薬はずいぶんと強力だった。

 まだ震えている褐色肌の女性に京太郎は声をかけた。

「大丈夫ですか?」

恐る恐る声をかけていた。もしかしたら何かの後遺症が残っているかもしれないからだ。

 京太郎が声をかけると褐色肌の女性がつぶやいた。

「ヤタガラス? 私、生きているの?」

 目の焦点が合っていなかった。しかし、間違いなく生きていた。ただ、目の前の状況を信じきれていないようだった。

 褐色肌の女性は自分が永遠に眠ったままになる可能性を考えて動いていたのだ。そのため、もう一度眠りから目覚められたことが信じられなかった。彼女はそれほど、無茶な賭けをしていたのだった。

 だから、できすぎだった。生きていることも、しかも目の前にヤタガラスの構成員がいるというのも、できすぎで信じられなかった。

 褐色肌の女性が反応を返すのを見て、京太郎はディーにこういった。

「ディーさん! 大丈夫みたいです! ハギヨシさんに伝えてください!」

 京太郎は女性の目の前で指先をふらふらと揺らしてみた。女性の目は、京太郎の指を追いかけていた。京太郎はそれを見て、少なくとも考えるだけの意識があるというのを確認できた。

また、京太郎の耳は、彼女の体の内側で強く心臓が打ち始めたのを聞き取っていた。この事実をディーに京太郎は伝えたかった。

 京太郎の反応を見て、電話の向こうにいるハギヨシにディーが伝えた。

「ハギちゃん、事情が変わった。構成員を須賀ちゃんが蘇生させたみたいだ。何が起きたのか確認する。

それと、お嬢に黒マグロはあきらめろといっておいてくれ」

 完全に死んでいるようにしか見えなかったヤタガラスの構成員が生きていたのだ。これから何があったのかを確認しなければならない。どのような事情があるのか知らなければ動けない。何にしてもまともな事件ではないだろう。

 まだ震えている褐色肌の女性に、アンヘルとソックの薬のビンを京太郎は差し出した。先ほどあけたものではない。

ウエストポーチの中に入っていた最後の一本である。ほとんど死んでいる状態からあっという間に意識を回復させるドリンクなのだ。

目覚めた女性にもう一本飲んでもらえれば、体調もずいぶん回復するだろう。

 京太郎はドリンクを手渡すときにこういった。

「これを飲んでください。少しはましになると思います」

 京太郎から薬のビンを受け取ると褐色肌の女性は礼を言った。

「ありがとうございます。助かります。

 あの……あなたたちはどこのヤタガラスなんですか。私は今、どこにいるんでしょう。知らせなくちゃならないことが、たくさんあるんです」

 褐色肌の女性がこのように言ったのは、少し面倒くさい事情があるからである。彼女が持っている情報というのが、誰にでも伝えていい情報ではなかったのだ。重要な情報というのはそういうものだ。必要なところに、必要な情報を渡さなくてはならない。

 仮に、同じ組織の人間であったとしても、知る必要のない情報というのがある。彼女の持っている情報というのはそういう類の情報だった。

 アンヘルとソックのドリンクを飲んでいる褐色肌の女性に、ディーがこたえた。

「ここは異界物流センター内部、オロチの石碑前だ。俺たちは、龍門渕のヤタガラス。いったい何があった?」

 ディーの声に混乱はなかった。褐色肌の女性をしっかりと見つめて、自分の仕事をしっかりとやり遂げる決意が声に宿っていた。

こういう明らかにおかしな状況というのはできるだけ正確に情報をやり取りすることが解決への一番の早道であるとディーは知っていた。

 ディーの話をきいて褐色肌の女性がこういった。

「龍門渕のヤタガラス……九頭竜の?」

 褐色肌の女性は少しおびえた。龍門渕のヤタガラスの評判というよりはハギヨシの評判を耳にしたことがあるからである。

彼女はその評判を知っていたためにわずかにおびえたのだった。

 褐色肌の女性に、ディーがこたえた。

「ハギヨシの話をしているのなら、その通り。それで、いったい何があった。話してくれ。すぐに伝える」

 ディーはまったく揺らがなかった。実に淡々としていた。自分たちの評判だとか、女性がおびえているという問題は目の前に転がっているもっと大きな問題の前にはたいした価値がないからだ。

 何とか回復してきた褐色肌の女性は話を始めた。

「私は、ヤタガラス帝都支部所属のサマナー虎城ゆたかです。ライドウの指令で『松 常久』の内偵を進めていたところ、感づかれたらしく襲われました。
 私は何とか逃げ延びたのですが、私の部下たちと内偵していた調査員は、おそらく」

 淡々としているディーにずいぶん褐色肌の女性は圧されていた。しかし、しっかりと自分が何をしていたのかという話をした。しかし少しだけ、無用心であった。もしかしたら京太郎たちが偽者の可能性もあったからだ。
 

 しかし、完全に何も考えていないわけではない。彼女がすんなりと話をした理由は三つある。一つは、京太郎の服装。

 もしも龍門渕のヤタガラスとわかる服装をしている京太郎がいなければ、このように正直に話すことはなかっただろう。

 二つ目は、ディーの口からハギヨシの名前が出ていたこと。彼女が知っている評判と、評判を生むにいたった六年前の騒動のおかげである。

 三つ目は、自分が生きているという事実である。

口封じをするのなら蘇生させる必要がない。何か情報を知りたいという可能性もあるが、それなら問答無用で読心術をかけていればいいだけのこと。

京太郎のように、ドリンクを飲ませる理由がない。死に掛けの状態で読心術をかければ処理もたやすいのだから。

 この三つの理由で、彼女は簡単に話しをしたのである。また、この理由以外に彼女は感覚に従ったところもあった。

京太郎だ。目の前の京太郎があまりにもわかりやすいくらいに自分を心配しているので、疑う気持ちにならなかったのだ。

 褐色肌の女性、虎城ゆたかの話をきくとハギヨシにディーは情報を伝えた。携帯電話の向こうにいるハギヨシに虎城ゆたかの名前を告げて、任務の内容を話した。

 ハギヨシはすぐに反応を返してきた。

「わかりました。確認しましょう。虎城ゆたか構成員はそのまま龍門渕につれてきてください。保護します」

 ハギヨシの返事を聞いたディーは京太郎と虎城にハギヨシの言葉を伝えた。

「虎城さん、ご苦労だった。後はこちらに任せてくれ。ハギヨシが直接動く」

 ディーがこのように話すと虎城はほっとしていた。自分の安全が保障されたということも、もちろんある。

しかし一番大きい理由は別にある。前線で内偵調査を行っていたヤタガラスの調査員と自分の部下たちに報いることができると思えたことで彼女はほっとしたのだった。


 何とか回復し始めた虎城にディーがこう聞いた。

「もしかして虎城さん、荷物をどけて箱の中に入り込んだりしちゃった感じ? 箱の中に荷物が入ってたはずなんだけどさ」

 淡々としていた口調が打って変わって、砕けたものに変わっていた。真剣だった表情は今はもうない。そこらへんをあるいている若い兄ちゃんといった風である。

 ディーは心配しているのだ。心配というのは黒マグロのことではない。氷詰めになって仮死状態になっていた虎城ゆたかの心のことだ。

ディーは虎城の追い込まれていた状況から見て、ほかの構成員たちの結末を予想できていた。そのため、おそらく虎城は肉体もそうだが、精神的に消耗しているだろうと見抜いている。

 急いでこなさなくてはならない仕事があったために、冷たい態度をとっていたが、いったん終わってしまえば、必要ないのだ。

普段に戻っただけである。普段に戻って、相手がなごめるような話を始めたのだ。
 
 ディーがこのように聞くと虎城は申し訳なさそうにこたえた。

「あの、ごめんなさい。マグロが入ってたんですけど、逃げるときにちょっと」

 追っ手の追跡を振り切るために知恵を絞り荷物の中に虎城は紛れ込んだのだ。

しかしそのときに、自分の隠れられそうな箱の中にあった黒マグロを別の箱に移していた。

彼女は黒マグロが京太郎とディーの求めているものだとわかり、申し訳ない顔をした。おそらくもう、戻ってくることはないだろうから。

 申し訳なさそうにする虎城にディーはこういった。

「あぁ、いいよいいよ。大丈夫大丈夫。うまいこと処理しておくから」

 黒マグロの値段を考えるとあまり笑い事にはならない。しかし黒マグロの使い道を考えるとそれほど惜しいものではない。

ヤタガラスの任務のために犠牲になったのだ。おそらくハギヨシも同じような対応をするだろう。面倒くさいのはお嬢様が納得するかどうか、だけである。

派手好きなお嬢様ではあるけれども道理はわきまえているので割合簡単に納得してもらえるのではないかと、そう考えていた。

 何にしても虎城が無事でよかったと喜んでいるところでディーはこういった。

「まぁ、とりあえず帰りましょうか。虎城さんもまだ本調子じゃないみたいだし。いいよね、須賀ちゃん」

 ディーの提案に京太郎がうなずいた。まったく反対する気持ちなどなかった。

虎城が少し回復したことは見抜いていたがまだまともに動き回れるほど回復していないのが京太郎にはわかっていた。

これは京太郎の感覚的なものでしかない。なんとなく体の中にあるエネルギーが薄まっているように感じられるのだ。

 ハギヨシやディー、天江衣を見たときに感じた巨大な太陽のイメージから考えると彼女のはろうそくの火のようなはかなさだった。

そして、もともと用事も済ませている京太郎にとって否定する理由などどこにもなかった。

 さて移動するかというところで、虎城がふらついてしりもちをついた。

 芝生にへたり込んでいた虎城は立ち上がろうとしたのだ。しかし腰を浮かせて立ち上がろうとしたところで動けなくなってしまった。

 彼女は目を覚まし話ができるようにはなった。しかしまだ完全に回復したわけではないのだ。

 肉体の欠損というよりはエネルギー不足なのだ。これではいくら万全であっても動き出せない。新品の車があったとしてもガソリンが入っていなければ動けないのと変わらない。

 しりもちをついた虎城はもう一度立ち上がろうとしてまたふらついた。それをみて京太郎が虎城を支えた。

 京太郎が虎城を支えたのをみてディーがこういった。

「いくらサマナーでも長時間氷詰めにされていたらそうなるだろうよ。須賀ちゃん、車を出入り口に回してくるから、虎城さんを運んであげてくれない?」

 ディーは顔をしかめていた。虎城のマグネタイトがずいぶん消耗しているのに気がついていたのだ。ディーは思う。

「本当に自分たちがここに来なかったら、この人は死んでいただろう」と。

運がいいのか悪いのか。それを思うとどうにももやもやとしてしょうがなくなる。

 ディーのお願いに京太郎はすぐにうなずいた。お願いをされるまでもなく、そのつもりだった。


 ディーが先に歩いていくと虎城がこういった。

「ごめんね。もう少ししたら歩けるようになると思うから」

 虎城は恥ずかしそうにつぶやいた。虎城は京太郎が自分よりも年下であると見抜いている。そのため自分よりも年下の構成員の前で情けない姿をさらすのが恥ずかしかったのだ。

 後方支援をしている彼女はけが人をよく見てきた。そういうときに無茶をする人間というのもよくみてきている。そういうときにどうしておとなしく治療を受けてくれないのだろうかと思うこともあった。

 しかし今になって彼女は彼らの気持ちがわかるような気がしていた。なんとなく恥ずかしい気持ちというのはこういうものなのだろう。

 妙に恥ずかしげな虎城に京太郎はこういった。

「ぜんぜんです。気にしないでください」

 こういう状況で、手を貸すのはおかしなことではない。悪い気もしない。そもそも氷詰めになった状態で何時間耐えたのかわからないのだ。

生きているだけで不思議である。これで当たり前のように動き回っていたらそちらのほうが不思議というものである。


 そして、さっさと京太郎は虎城を背負った。実に滑らかな動きだった。

 まずふらついている虎城の腕を自分の肩に沿わせるようにして、肩を組んでいるような形をとった。その姿勢から、あっという間に虎城の体を背中に滑り込ませた。そして京太郎の支えをなくして前のめりになっている虎城の勢いを利用して、一気におんぶの形までもっていった。

 米俵のように担ぐことも考えたのだが、流石にそれは問題があるだろうと思ってやらなかった。おんぶの形をとったのは、いちいち虎城が歩いていくよりも自分が背負ったほうがはるかに早く安全だと判断したからである。

 あっという間に虎城を背負った京太郎が歩き始めた。そうして数秒後、やっと背負われていることに気がついた虎城がこういった。

「須賀くん? でよかったんだよね。べつに仲魔に任せてもらってもいいんだよ? わざわざ須賀くんが運んでくれなくても」

 おんぶされている自分がいるという状況が受け入れられていなかった。おんぶされるというのは子供のころ以来だった。

 京太郎に仲魔の力を使ってもらってかまわないといったのは、まさかこういう扱いを受けるとは思っていなかったからだ。ヤタガラスの構成員なのだからサマナーに違いない。

違いないならば、荷物運びに仲魔の力を使うに違いない。そう思っていたところでまさかのおんぶを実行されたので彼女は困ったのだ。

そして思いのほかこのおんぶというのが恥ずかしかった。年下にというのもまた、拍車をかけていた。


 仲魔を使えばいいという虎城に、京太郎が不思議そうに聞き返した。

「仲魔ですか? 俺の仲魔なら龍門渕で農作業してますよ。

 それに、俺のほうが力が強いですからね。あいつらがいても俺がやっていたと思いますよ」

 実に当たり前の答えだった。淡々と京太郎は答えていた。そしてまったく嘘もない。アンヘルとソックと力で勝負をすれば勝つのは間違いなく京太郎だろう。

そしてこの時間帯、パーティーまで後十分ほどなのだが、おそらく龍門渕で天江衣と家庭菜園を作っている最中のはずだ。

本人たちがそういっていたのだからそうしているだろう。嘘をつく理由もまったくない京太郎だから、正直に答えたのだった。

 京太郎の返事を聞いた虎城はこういった。

「ふふふ、面白いことを言うね。仲魔よりも力が強いなんて」

 楽しそうに笑っていた。冗談だと思ったのだ。サマナーなのに仲魔より力が強いだとか、自分の仲魔に自由な行動を許しているとか、まったくサマナーらしくなかった。

そもそも仲魔とは悪魔なのだから、自由に行動させていたらとんでもないことになるではないか。

 悪魔たちは自分たちと契約を結んでいるだけで忠誠を誓っているわけではない。古い時代には悪魔が忠誠を誓う英傑タイプの人間もいた。

しかし今はそうではない。冷めた機械の時代なのだ。いつ裏切られてもおかしくないのに、自由にさせるなどというのはおかしかった。

 笑う虎城に京太郎はこういった。

「そうっすか?」

京太郎も笑っていた。虎城が笑ったからだ。少し元気になってくれたのだと思い、それがうれしくなった。

 わからないなという京太郎に、虎城は短く答えた。

「そうっす」

笑いながら答えた虎城は

「うわっ!」

といって京太郎の体にしがみついた。まだ体の力が戻りきっていたないのだ。そのため、笑って油断しているとあっという間に落ちてしまいそうだった。



 さて、虎城を背負ったまま京太郎がディーのところに向かうとディーが無精ひげを生やしたおっさんと話をしていた。

無精ひげを生やしたおっさんは四十代半ばというところである。ハギヨシよりも少し背が高いく。わかりやすいくらいに鍛えられた体をしていた。

鍛えられているためだろうか、無地のティーシャツとどこにでもありそうなジーパンとスニーカーでもさまになっていた。

京太郎はこの無精ひげのおっさんを見たとき、ハギヨシとライドウを思い出していた。

 京太郎が虎城を背負って現れるとディーが手を振った。軽く手を振って、こっちだと導いている。

 京太郎が近づくと無精ひげのおっさんがこういった。

「この少年か……」

 低い声だった。見た目の迫力が手伝っているためか、妙な威圧感が言葉に乗っていた。無精ひげのおっさんは京太郎のことを知っていた。

しかし昔に出会ったということではない。資料と人づての情報で知っていたのだ。

 京太郎が不思議そうな顔をしているとディーがこういった。

「この人は、ベンケイさん。ハギちゃんの兄弟子に当たる人だよ。たまたまそこであって世間話をしてたんだ」

ディーはすらすらと説明をした。京太郎が不思議そうにしているのを見て、京太郎が初対面だということを察したのだ。

 虎城をおんぶしたまま京太郎はベンケイに挨拶をした。

「須賀京太郎です」

 虎城をおんぶしているため深く頭を下げることはしなかった。しかし軽く目礼をすることはできていた。

自分の本名を名乗ったのはこの人ならば問題ないと考えたからだ。ハギヨシの兄弟子となれば、ヤタガラスの関係者であろうし、身内に違いない。またディーが親しくしているのなら、本名でも問題ないだろう。

 京太郎の挨拶を受けてベンケイがこういった。

「ベンケイだ。ディーと同じで、あだ名みたいなものかな。仕事中はこのあだ名で名乗ることにしている。

 申し訳ないな、名乗ってもらったのに」

ベンケイの礼も小さなものだった。京太郎から少しも視線をきっていなかった。本名を名乗らなかったのは、ベンケイがそれなりに力を持った人間だからだ。

本名がばれたところで敗北することはまずないだろう。しかし本名が知れることで自分の関係者たちに迷惑がかかるのを避けたかった。

 ベンケイの挨拶を聞いた京太郎はうなずいた。名前が知れることで面倒くさい問題が生まれるというのは理解できたのだ。

サガカオルとウララに名乗った失敗を覚えているので余計に理解できていた。

 二人が自己紹介を行ったところで、ディーがこういった。

「それじゃあ、これで失礼します。ベンケイさんもお仕事がんばってください」

 ディーがこういうとベンケイもうなずいた。

「そっちこそ」

 といってベンケイが微笑んだ。それをみてディーが運転席に乗り込んでいった。


 ディーが乗り込んだところで、京太郎は助手席に虎城をおろした。スポーツカーの中がひろがっているのは知っているのだけれども、どこに座らせていいのかが問題だったからだ。

京太郎が虎城をおろすと、ディーがこういった。

「虎城さんは後ろにいてもらおう。助手席に座っているよりもずっと安全だ。一応シートベルトもついているから、それをつけていてほしい」

 ディーがこのようにいうと虎城は動き出した。非常にゆっくりとした動きだった。四つんばいになってスポーツカーの内側の謎の空間へ虎城はもぐりこんでいった。

 虎城がスポーツカーの謎の空間へと移動したあと、京太郎も助手席に乗り込もうとした。片手に持っていたビニール袋を先に車の中に入れた。

ビニール袋の中に入っている商品がそれなりに大きかったので、スポーツカーの中の謎空間にいる虎城に渡しておいた。

虎城がこういったのだ。

「私が持っておくわ。それくらいはできるからね」


 そうしてスポーツカーの助手席に京太郎が乗り込もうとしたとき初老の男が大きな声を出した。

「ちょっと待ちたまえ!」

 物流センターの駐車場に男の声がよく響いていた。

 叫んだ男は、小男という表現がよく似合う男だ。背が低い。年齢のために背が低くなったのではなく、もともと低いのだ。

そしてお高いブランド物のスーツを着て、胸にきらきら光るバッチをつけていた。それが何のバッチなのかはさっぱりわからない。

有名どころの、たとえば弁護士のバッチのようなものではない。どこかの企業の紋章だろう。

 この初老の子男が大きな声を出したのは自分が求めているものが見つかったからである。だから自分たちが今いる場所も考えずに、大きな声を出した。

 声につられて、京太郎とベンケイが動きを止めた。声に釣られて振り返った京太郎の目は、ずいぶんイラついていた。ベンケイの目はずいぶん冷えていた。二人とも小男の大きな声が耳障りだったのだ。



 ベンケイが初老の小男にこういった。

「なにか問題でもありましたか松さん」

 ベンケイの口調が冷え冷えとしていた。この小男はベンケイの雇い主なのだ。ベンケイに護衛を頼んできたのである。

 依頼人には優しくするのが普通だろう。しかしずいぶんベンケイはイラついていた。というのも長ったらしい道につき合わされたからなのだ。

 まっすぐに目的地に向かえばすぐに到着できたのに、あちこち引き回されたのだ。非常に無駄な道のりだった。それだけでもすでに頭に来ているのだが、更に問題があった。

 妙にたくさんの部下を引き連れて移動しているのだ。しかも二十台の装甲車を用意して部下たちを乗せていた。怪しいにもほどがあった。戦争でもはじめるのかという準備である。護衛以外の目的で自分を雇ったのではないかとベンケイは疑っていた。

 仕事を断りたかったが、仕事は仕事である。仕事をしなければ生きていられない。そう自分に言い聞かせて、ここまで長ったらしい道のりに付き合ったのだ。

 しかし今、はっきりと別の問題が生まれた。おそらく、京太郎たちに何かちょっかいをかけようとしている。

 そろそろ、ベンケイの堪忍袋の緒が切れようとしていた。

ベンケイが初老の男の名前を呼ぶと京太郎の動きが止まった。今までの穏やかな京太郎の姿はどこにもない。完全に警戒していた。

京太郎の目に力が宿り全身の筋肉が、今すぐにでも戦えるように準備を始めている。

 体内で魔力が高まっていく中で、京太郎は別の景色を見ていた。京太郎は自分の周囲にあるものを全て手に取るように把握できていた。

 視界には限界がある。たとえば頭の後ろだ。首をひねるか道具を使わなければ、見えないはず。しかし今の京太郎には、背後で何が起きているのか、頭上では何が起きているのかが、実際に見ているようにわかるのだった。

 死角がなくなったのは修羅場に対応するため魔力を高めたことで京太郎の感覚が鋭くとがった結果である。視覚以外の感覚も鋭くとがったことで死角がなくなってしまったのだ。京太郎は視覚として感じ取っているけれども、実際は五感全てを駆使している状況である。

 同時に、京太郎は顔をしかめた。頭蓋骨の内側で激しい痛みを感じたのだ。もともと京太郎の感覚の強化は正常なものではない。自分の器以上のエネルギーが感覚を暴走させているに過ぎない。

 それは自然な状態ではない。自然な状態ではない状態が、更に高まったのだ。頭痛くらいで済んでよかったと思うべきである。

 戦いの姿勢を京太郎がとったのは「松」という苗字に覚えがあったからだ。

 つい先ほど耳にした名前である。忘れるわけがない。

「松常久」だ。虎城たちが追いかけていた何者かだ。しかしもしかしたら他人かもしれない。勘違いという可能性ももちろん頭にはある。しかし、油断をする理由はどこにもなかった。


 ディーと虎城が乗り込んだスポーツカーを指差して松はわめき始めた

「ベンケイ君! その車に乗っている娘だ! その娘を捕まえてくれ!」

キンキンと高い声でわめいていた。この松という男は虎城を追いかけてここまで来たのだ。目の前に虎城がいるというのなら、なんとしても手に入れたい。

そして手に入れて永遠に消したいのだ。

 わめいている松に対してベンケイがこたえた。

「あなたを無事に送り届けるのが私の仕事だったはずです。ヤタガラスに所属している構成員を捕まえるのは範囲外でしょう。

そもそもどうしてそのようなことを?」

 ベンケイの目は松常久を射抜いていた。今のやり取りだけで、松常久の考えをベンケイは見抜いたのである。あまりにも怪しい仕事。むやみに多い部下たち。

そして、ヤタガラスの構成員を言外に始末しろという男。怪しいにもほどがある。信じて行動しろというほうが難しかった。

 わめいている初老の男、松は黙り込んだ。ベンケイの視線から逃げるように目線をはずして、もごもごといい始めた。

松常久は自分の失敗というのを自覚したのだ。今のやり取りは誰から見ても怪しかった。

 初老の男、松は搾り出した。

「その娘が、その娘を捕らえなければならない理由は……そうだ。

 ヤタガラスの構成員を殺した犯人だからだ……私は見たんだ。そうだ、見たんだ!
 
 その娘が構成員を殺す場面を! 君も、体裁だけでもヤタガラスならば身内殺しの犯人を捕まえるべきだろう!」

 松常久は大きな声で虎城が犯人であると叫んだ。しかしずいぶん苦しい。松常久自身も苦しい言い訳だというのがわかっているようだった。

しかし強引でも虎城を捕まえる根拠を出さなくてはならなかった。

 そうしなければ、ベンケイは自分の部下もろとも切り捨てるだろうから。ベンケイという男ならば、そうするという逸話を知っているのだ。

だから無理にでも自分を殺せない理由をでっち上げなければならなかった。

 少なくとも、今回は成功している。なぜなら、確認ができないからだ。松常久はいかにも怪しい。しかし、真実を話しているかもしれない。

なぜなら松常久の話が真実であるという証拠も、虎城が真実を話しているという証拠もないのだから。特にベンケイには判断の材料がまったくないのだから決断は先送りにされる。

 松常久の狙い通り、ベンケイは攻撃しなかった。松常久の狙い通りである。しかし、まったく信じてもいなかった。少しでも証拠らしきものが見つかれば、ベンケイは切り捨てるだろう。


 ベンケイと松常久がもめていると運転席に座っていたディーが降りてきて、こういった。

「松 常久さん、残念ですが構成員の引渡しには応じかねます。

 すでに事情はヤタガラスで確認しております。申し開きがあるようならば十四代目葛葉ライドウと幹部たちの前でお願いします。お引取りを」

 ディーの声は実に淡々としていた。死刑宣告をする裁判官のようだった。ディーがこのように話しかけたのは、松常久にあきらめさせるためである。

これ以上騒がれるのはうっとうしくてしょうがないのだ。

 なぜライドウと幹部たちの名前を出したのか。それはヤタガラスの幹部たちが裁判を行うということが、わかりやすく真実をはっきりさせるからである。

 サマナーの世界では非常にシンプルな方法で有罪なのか、無罪なのかが判断される。その方法というのは読心術である。

人間の心の表面だけをなでる読心術ではない。ヤタガラス本部で幹部立会いの下で行われる読心術は、術をかけられた人間が忘れている情報であっても白日の下にさらす。たとえ、生まれた瞬間に見た光景であってもはっきりと読み取るのだ。

 この強力な読心術を容疑者にかければ白なら白、黒なら黒とはっきりする。そしてヤタガラスのボスの名の下に幹部が裁判を行うとなれば拒否権はない。

力づくで裁判の場に連れ出される。今回ならば内偵を命じていたライドウじきじきに引っ張りにくるかもしれない。

 松常久が真実を話していようと、虎城が真実を話していようと関係ないのだ。もう、どうすることも松常久にはできない。

 だから、黙って引き下がれとディーはいうのだ。松常久とのやり取りは一切無駄で、うっとうしいものだとディーは切り捨てていた。

 ディーが突き放すと、松 常久は大きな声を出した。

「黙れ! 貴様私を誰だと思っている!ライドウがなんだ! こんなことが許されるわけがない! 私がどれほどヤタガラスのために働いたと思っているのだ! 私を疑うんじゃない! その小娘を疑え!」

 松常久の叫びは駐車場に大きく響いた。この叫びがこの男のすべての気持ちである。ヤタガラスの判断方法をとられたら自分のすべてがあっという間に崩れることを理解していたのだ。

だから、叫んだ。何とか生き残るために、醜く叫んだのだ。


 松 常久の叫びは奇妙な残響をおこした。

 そして残響が収まったところでぞろぞろと男たちが現れた。男たちはスーツを着ていた。どの男もそれなりに鍛えているらしいことがわかった。

その中の一人がこういった。

「ボス、逃げられました。発信機のあとを追いかけてみたのですが、どうやら引っ掛けられたみたいです。

 見てください。黒マグロですよ。しかも氷詰めの。こいつに帽子をひっつけて逃げおおせたみたいです。

あの短い時間によくここまで小細工ができたものだ。

 後方支援担当班だったはずなんですけどねぇ。ずいぶん機転が利く。半端ものの四人とは違うらしい」

 十名の黒服を着た男たち。その一人が魚のにおいが染み付いたヤタガラスの帽子を見せた。ヤタガラスの帽子にはエンブレムがついていた。

京太郎も同じものを持っているのだが、虎城はこのエンブレムを使い男たちから逃げていたのだ。

発信機の信号を追って松常久たちが追いかけてくると予想した虎城は発信機を逆手に取ったのだ。

 十名の男たちを視界に治めた京太郎は鼻を押さえた。耐えられない悪臭を嗅ぎ取ったのだ。それは松常久から漂うものと同じ匂いだった。

今まで生きてきた中でこのような匂いをかいだのは初めてだった。

 ぞろぞろと現れた黒服の男たちを見て京太郎がディーに合図を送った。京太郎の目が、ディーを見つめた。

そして、ディーと目が合ったとき京太郎は出入り口を見た。ディーはそれをみてうなずいて、運転席に滑り込んだ。

京太郎もディーもこの狭い空間で十人単位の敵と戦うのは難しかった。始末するのがではなく、駐車場にいる人たち、悪魔たちに危害を加えないように戦うのが難しかったのである。

 黒服の男たちに向けて、松 常久がこういった。

「遅いぞお前たち! 娘ならここにいる。あの車の中にな!」


 黒服たちが事態を飲み込めずにざわついている中、ウエストポーチに京太郎は手を突っ込んでいた。煙だまを取り出して使い、逃走の助けにしようとしているのだ。

 京太郎の頭はさえていた。今の今まで感じていた激痛はどこかに吹き飛んでいる。

 頭の中を駆け巡るのは戦いの方法と、この修羅場をどのように潜り抜けていくのかという思索ばかりだった。

 考え付く方法の中で、一番よい方法というのは撤退だった。ここで完全につぶしてしまうというのも選択肢としてはありだった。しかし京太郎の魔法と乱戦の被害が異界物流センター全体に及ぶ可能性を考えると選べなかった。

 京太郎とディーが周りを巻き込まないように逃げの一手を撃つべく動き始めると、ベンケイが話しかけてきた。

「なぁ、須賀くん。もしも君がヤタガラスに入るつもりだったりするのなら、やめておいたほうがいいと俺は思う

 この世界は、こんなやつらばかりだからな。人の皮をかぶった悪魔ばかりだ。真面目に勉強しているほうがずっといい。

 それでも、ヤタガラスに入るつもりなら、修羅にならなければならない。俺たちみたいに」

 ベンケイは京太郎を見ていなかった。松常久とその部下たちをにらんでいる。

京太郎のことを思ってヤタガラスに入るなとベンケイは忠告していた。

 ヤタガラスは巨大な組織だ。悪魔から人を守り、国を守り続けている。しかし、ヤタガラスといえど人の作る組織である。権力を持ったものが落ちていく腐敗の道からはヤタガラスも逃れられなかった。

 ベンケイはその事実を身をもって理解している。そしてベンケイの弟弟子も同じように理解する羽目になった。ベンケイは京太郎にそうなってほしくなかった。それだけなのだ。


 ベンケイの語りかけに応えることなく逃走の準備が完了するやいなや、京太郎は煙だまを地面にたたきつけた。

ベンケイに進退を答えている時間などないのだ。

 煙だまはあっという間に周囲の視界を失わせた。煙だまを用意した京太郎の仲魔はずいぶん力を入れて作ったようで、駐車場が夜になっていた。

 煙であたりの様子があいまいになっている間に、京太郎は助手席に乗り込んだ。煙によって光がさえぎられていたが、感覚がとがっていたことで普通に行動することができていた。

助手席に乗り込んだ京太郎の顔色はよくなかった。ぎらついていた目はもうない。京太郎の目は迷いの色を帯びていた。

 ベンケイの忠告は京太郎に届いていたのだ。そしてベンケイの忠告から、恐ろしいことに楽しみを感じているという事実に京太郎は気がついてしまったのだ。

 迷いが生まれていた。しかし駐車場から逃げ出さなければならないことは理解していたため見事に仕事を果たすことができた。

駐車場で戦えば、被害は半端ではすまない。ならば、逃げ出さなくてはならない。この異界物流センターを利用する人たちを巻き込んではいけないのだ。

 京太郎が乗り込むのを確認するとディーはあっという間に車を発進させて、その場から逃げ出した。

スポーツカーのタイヤが鋭く回転し始めて、駐車場のアスファルトを削った。一秒もかからないうちに煙幕を突き破ってスポーツカーは姿を消した。
 


 煙が晴れると松常久は部下たちに命令を出した。

「追え! あの娘を逃がすな! くそっ! 絶対にあきらめてなるものか!」

 大きな声で叫んでいた。周りにいる人たちのことなどまったく気にしていない。松常久は自分のすべてを壊すのは、あの小娘、虎城ゆたかであると信じていた。あの娘さえいなければ自分の力を、権力を見事に使いきってこの難しい問題を乗り切れると信じている。だから小さな問題には目もくれない。

 部下たちに命令を飛ばすと部下の運転する装甲車に乗り込み、ディーの運転するスポーツカーを追いかけていった。

松常久の目はベンケイを少しもみなかった。松常久が追い求めているものは目の前の明らかな破滅の種だけなのだった。

 後に残されたのは、木箱に入った氷結した黒マグロと暗い顔をしたベンケイだけであった。駐車場での騒ぎを聞きつけて、異界物流センターの中からいろいろな人たちが顔を出し始めていた。

 一人残されたベンケイの顔色というのは暗かった。というのが松常久たちの後始末を自分がしなくてはならない流れになっていたからである。

騒ぎを聞きつけて顔を見せ始めた物流センターの職員たちに説明もしなければならないし、置いてけぼりを食らい放置された黒マグロにも対処しなければならない。

そして今回の事件の事実確認もしなければならない。

 面倒なことである。

 どう職員たちに説明をするかと悩みながら、ベンケイはつぶやいた。

「最高速は隼並か。しかし、まともな訓練は受けてこなかったみたいだな。動きがまだぎこちない。

しっかりとした師匠につけば、更によくなるが…いまはよろしくない。

 しかし、逃げるならこいつも持ってくれよ。このマグロ、どうすりゃいいんだ?」

 龍門渕透華の用意した黒マグロである。かなり大きなマグロで二百キロ級である。このまま捨てておくわけには行かなかった。

悪魔に食べさせるというのもあったのだが、ディーが教えてくれたパーティーの話から持ち主が予想がついたので、それもできなかった。

この場で一番の貧乏くじを引いたのは間違いなくベンケイであった。

 ベンケイが困っていると異界物流センターの職員のリーダーが話しかけてきた。物流センターの職員たちはみな緊張の面持ちであった。

拳銃を構えているものもいれば、日本刀に手をかけているものもいた。

 彼らは異界物流センターの守備も任されているのだ。問題が起きれば対処しなければならない。

 集まってきた職員たちに、ベンケイは懇切丁寧に説明をした。両手を上げて、まったく抵抗する様子はない。

ベンケイは戦いたいわけではないのだ。また、職員たちに悪い気持ちを持っているわけでもない。

しっかりと説明をすれば、この状況を潜り抜けることができると思っていた。実際、職員たちはすぐに理解してくれた。

 職員のリーダーがこういった。

「大変なことに巻き込まれたみたいですね、ベンケイさん。

 事情はわかりました。私たちはこれ以上突っ込んで聞きません。突っ込んで聞いて巻き込まれたらたまりませんからね。

 自分たちは仕事に戻ります。あと、そこにある黒マグロですけど、もって行ってくださいね。落し物として管理するのは面倒ですから」

 三十を少し超えた男だった。ほかの職員たちに漏れず、鍛えられていた。職員は自分の同僚たちに撤収の合図を送っていた。

職員はベンケイの性格と、どういう仕事をしているのかを知っていたのである。そしてベンケイから事情を説明されたことで、あっという間に納得したのだった。

 職員たちと買い物客はあっという間にどこかに消えていった。先ほどまでわらわらと集まっていたのに、今はもうどこにもいない。駐車場はとても寂しい状況になっていた。

 寂しくなった駐車場で、ベンケイは携帯電話をかけた。携帯電話を操作するベンケイの表情は非常に暗かった。しかし電話をかけなければならなかったのだ。

「ヤタガラスの準幹部松常久」

が問題を起こしたということ。そして弟弟子の仲魔ディーが問題にかかわったのだ。非常に面倒くさいことになるのがわかる。

 そうなって、問題解決を考えたときすぐに思い浮かぶのが師匠の姿だ。十四代目葛葉ライドウ。あの老人がかかわっているのならば、さっさと連絡をしていたほうがいい。

 厄介な事件にかかわるのがライドウなのだ。情報は共有しておいて悪いことはなかった。ただ、師匠に電話をかけるというのはいまいちいい気分はしない。何せ、ほとんど破門状態なのだから。

 電話がつながったところで、ディーはこういった。非常に緊張していた。

「お久しぶりです、ゴウトさん。義輝です。少しお話したいことがありまして……はい。すみません、最近忙しくて。はい。

 それで師匠は……そうですか。ハギから電話ですか。

 いえ、急ぎの用事ではありません。おそらく、あいつと同じ用件だと思います。一応ご報告をと思いまして……そうです、松常久の件で。

 あぁ、そうですか、そちらですでに動いて……いえいえ。

 それこそ、お互い様ですよ。師匠とゴウトさんにはお世話になりっぱなしで……はい。

 娘も喜ぶでしょう。忙しいときにはいつでも呼んでください。部下を引っ張っていきますから。はい、はい。では、失礼します」

 電話を切ったベンケイは大きく息を吐いた。そして、駐車場に残された巨大な黒マグロを見て、途方にくれるのだった。

 
 

 ここまでです。
 

乙。次も楽しみにまってます


面白かったです

続き楽しみです!

果たしてクロマグロの運命は如何に!?

乙です!
次回どうなるか期待


黒マグロはスタッフが美味しく頂きました

はじめます

 煙にまぎれて逃げ出したスポーツカーは来た道を急いで下っていた。アクセルは踏みっぱなし、回転数を上げていくタイヤは道にあとを残していく。

後ろから追いかけてくる松常久とその部下たちの相手をディーはしない。しかしこの逃走は、ディーが敗北を恐れているからではない。

京太郎と同じく加減のできない戦いに発展するかもしれないことを恐れたのだ。周りには異界物流センターを利用しようと集まっているサマナーたちが多くいる。巻き込むわけにはいかない。

 全てのサマナーと悪魔が戦闘に特化しているわけではない。戦闘に尖った力を持つ京太郎とディーが全力で戦うことでおきる余波で、大きな被害が出てしまうのを避けたのだ。

 どんどん加速してもと来た道を戻る中で、ハギヨシにディーが電話をかけていた。携帯電話を操作してハンズフリーの状態になっている。

ディーはできるだけ冷静に話をした。

 「ハギちゃん、俺だ。どうにも面倒くさいことになった。

 松 常久だが、内偵結果をうやむやにするために虎城さんを始末するつもりだ。須賀ちゃんの機転でセンターからは逃げ出せたが、すでに追いかけてきている。

 どうする? 異界で始末しておくか? それとも、現世でやるか? 俺としては人気のないところで始末する方法を推薦しておく。
 
 長引くと面倒くさいことになるぞ、あのタイプは」

 ハギヨシに状況を説明しているのは、ここからは非常に面倒くさいことになるのが目に見えていたからである。

 松常久はどこまでもあがくと覚悟を決めていた。これがそこらへんを歩いている力のない人間のやることならば、それほど恐ろしいことではない。

しかし権力を持ち、影響力を持っている人間だと話は違ってくる。なりふり構わず全力であがくのだ。

 そうなった場合、判断を間違えると長期戦になる可能性が高くなる。殺しきれなくなるのだ。それこそ、スケープゴートを大量に用意されたり、証拠の捏造を連発されるようなことが起きる。

もちろんつぶしていけばいいだけの話だが、時間がかかり、影武者なんぞ立てられたときには本物を探索しなければならなくなる。面倒だ。

 そして、何よりも面倒な人脈を使っての逃亡を行う可能性もある。

 物理的な戦いではなく、人間関係の戦いだ。権力者同士の横のつながりを利用して逃げようとする。捜査を妨害することもあるだろうし、口裏を合わせるようなものもいるだろう。

類は友を呼ぶものだ。残念ながら、よくある話である。

 これらをやられるとハギヨシもディーもつらい。追い詰める打ち合わせが必要になるだろう。

そしてライドウが一枚かんでいるらしいのだから、ヤタガラスの幹部龍門渕とも連携をとらなくてはならなくなる。

松常久といういろいろな場所に根を張っている巨大な問題を綺麗に消すためには周りとの連携が必要なのだ。

 さっさと始末しないことでおきる面倒がディーには見えていたので異界の人気のないところで始末してしまおうと提案するのだった。


 異界物流センターからディーの運転するスポーツカーがどんどん離れていく。ディーの運転するスポーツカーを猛追する車の群れがあった。その数二十。数が多いだけならよかったのに、見た目が悪い。

どれもこれも非常に物騒な車ばかりだった。戦車に車の車輪をつけたような車、装甲車である。

 ただの装甲車ならいい。ディーの運転するスポーツカーは常識はずれの速度で走り、自在に動き回るのだ。すぐにでも振り切れる。

しかし、こいつらは追いついてくる。ディーのスポーツカーと同じように風をまとい、喰らいついていた。悪夢のような光景だった。

 松常久は虎城を逃がす気がない。虎城を生かしておけば、破滅する未来が確定するからだ。内偵を受けるはめになった事件にも破滅の種があるが、ヤタガラスの構成員を襲ったというのも破滅の種だ。当然、生き残っている虎城は飛んでも大きな破滅の種である。

 内偵を受ける羽目になった事件も、ヤタガラスの構成員を襲った件も、虎城がいなければごまかせる可能性が高い。言い訳がきく。苦しくともいいわけができる。

ならば、殺すだろう。ここはオロチの異界。証拠は残らない。たとえ人の道に外れても、ここで終わらせたい。

 当然だが、京太郎もディーも一緒に消すつもりだ。内偵を行っていたヤタガラスを襲ったという情報が京太郎とディーに伝わっているのだから、特に消しておきたい。

とっくの昔にハギヨシに伝わっているけれども、京太郎、虎城、ディーがいなくなれば、言い訳はいくらでもできる。証拠がないからだ。

たとえ怪しい言い訳でも、命はつながる。ならば、生かして返す理由は一つもない。むしろ、松常久が生き延びるためにはなんとしても京太郎たちを皆殺しにしなければならないのだ。

 追いかけてくる車を見た虎城は体を震わせていた。ディーのスポーツカーは奇妙なことで空間がゆがんでいる。しかも、どういう理屈なのか、しっかりと背後が見えるようになっていた。

 虎城は見てしまったのだ。土煙を上げながらたくさんの装甲車が自分を狙って追いかけてくる光景を。いやな光景に違いない。

圧迫感はすさまじいものがある。装甲車は大きくていかにも硬そうだ。ぶつかり合ったわけではないのだから、強くないかもしれない。しかし見た目が強そうなものは恐ろしく思うのが人間なのだ。

 それだけで人間は恐れを抱くのだから、こんなものが群れで襲い掛かってくれば、怖くてしょうがない。そして、もしもつかまったとしたらどうなるのか。これを考えるのが一番怖い。

 虎城は当然消される。消されるだけならば、まだいいだろう。虎城は女性だ。消される前にどうにかされるかもしれない。

そして一番いやなことがある。それは京太郎とディーのことだ。

「自分が巻き込んでしまった。自分がこの二人の運命を変えてしまったかもしれない」

そう考えるとたまらなく胸が締め付けられるのだった。

 虎城と同じように京太郎も追いかけてくる車の群れを見ていた。あせっているディーと恐れおののいている虎城とは対照的な表情をしていた。京太郎は冷えた目で装甲車の数を数えていた。

そして、じっくりと相手と自分の力をはかろうとしていた。今の状況は修羅場。穏やかな気持ちではいられない状況であるはず。

 しかし不思議なことで、この修羅場の中で京太郎の頭はよく動き、またさえていた。つい先ほど、ベンケイから忠告を受けたというのに、京太郎は自分の心の中の、興味を抑えられそうになかった。

「どうすれば、あいつらをしとめられるだろうか」

この心の動きが、京太郎に奇妙な静かさと集中力を与えてくれているのだ。

 装甲車の大体の数と特徴を数秒で観察し終わった京太郎は、ジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。実に滑らかな動きだった。迷いというのが少しもない。

自分たちの置かれている状況と、周りにいる人たちを巻き込まないように魔法をできるだけ使わないほうがいいという条件を合わせて、一番適切な攻撃手段を京太郎は、はじき出したのだ。

 はじき出した攻撃手段というのは、京太郎のジャンパーのポケットの中に納まっているデリンジャーである。サービスエリアで出会ったサガカオルから貰い受けた一品だ。京太郎はこいつを使って、後ろから迫ってくる装甲車の群れ、約二十台を相手取るつもりである。

 そして、ジャンパーのポケットからデリンジャーを引き抜いた京太郎は、電話中のディーに提案した。

「足止めしましょうか? 追いつかれそうですけど」

 ディーが答えるよりも早く、京太郎は動き出していた。今までかぶっていたヤタガラスのエンブレムのついた帽子を脱いで、後ろの不思議空間に放り込んだ。そしてシートベルトをはずして軽く体を揺らした。

 京太郎の提案を受けたディーは電話での会話を続けながらうなずいた。ディーの視線は目の前の道をしっかりと見据えていた。ディーの運転するスポーツカーは早い。

言葉通り桁違いのスピードが出せる。おそらく本気でアクセルを踏み込めば、あっという間に振り切れるだろう。しかしできない。追いつかれ始めている。

 理由は簡単だ。自分たち以外の車が邪魔をしているのだ。異界物流センターはサマナーたちの物資をやり取りする拠点である。いろいろな場所からいろいろな種類のサマナーが姿を現すのだ。かなり広い道であっても、センターに近い道は混むのだ。

 ディーは何とか車を走らせているけれど、それも事故を起こさないように気を配ってのこと。弾き飛ばしていくようなことはできない。そうして安全運転をしているため、簡単に追いつかれてしまうようなことになる。

 追いつかれてしまえば、周りにサマナーたちがいる状況で戦うはめになる。そうなれば、被害は広がる。最悪だ。それを防ぎたいのならば足止めをするしかないだろう。今、この状況でできるだけ被害を出さないようにしようとすれば、京太郎しかいなかった。

 ディーのうなずくのを合図に京太郎は助手席の窓から体を乗り出した。びゅうびゅうと風が吹いていた。京太郎の髪の毛が風に吹かれてゆれていた。

しかし京太郎の体は少しもぶれなかった。京太郎はこれから、デリンジャーという小さな銃を使って装甲車たちを足止めするつもりなのだ。しかもはじめて使う武器を使ってである。無謀だった。しかし、これしかなかった。京太郎の目に恐れはない。

 一方で、体を乗り出した京太郎を見て虎城は驚いていた。顔色が真っ青だ。目を大きく見開いていた。虎城は見てしまったのだ。何の支えもない状態でスポーツカーの窓から京太郎が上半身を外に出している姿を。

 デリンジャーで装甲車を迎撃するという行為より無謀だった。

 彼女はすぐに悪い未来を予想した。その未来とは、京太郎が何かの振動でバランスを崩し車の外に落ちていく未来である。シートベルトもなしに高速で動いている車の外に身を乗り出すのだ。装甲車に追いつかれるという以前の問題として危なかった。

 虎城はあわてて京太郎の下半身にしがみついた。かなり無茶な体勢に彼女はなっていた。助手席のシートを乗り越えるようにして京太郎の体にしがみついているのだ。しかし彼女が今できることといえば、このくらいのものだった。

 車から身を乗り出した京太郎は、サガカオルから受け取ったデリンジャーの引き金を引いた。タックル気味にしがみついてきた虎城のことなどさっぱり気にしていなかった。

 京太郎の目はよく物を捕らえていた。鋭くとがってしまった感覚が、役にたっている。この拳銃を渡してくれたサガカオルは京太郎に教えてくれていた。

この拳銃は特殊な金属でできていると。そして、特殊な効果があると。

「この拳銃は魔力を吸い取って弾を作る」京太郎はサガカオルの話を信じていた。

 引き金を引いた直後、追いかけてくる装甲車の一台が動きを止めた。分厚い装甲に小さな傷跡が出来上がっている。五円玉ほどの傷跡だ。この傷跡は先ほどまでなかったものである。

京太郎がつけたものだ。京太郎の手のひらにあるデリンジャーの弾丸が装甲車を貫いたのである。そしてその貫いた弾丸が、装甲車の心臓部分を壊してしまった。そうして装甲車は動かなくなった。

 的が大きかったために、そして多かったために京太郎の腕前でも簡単に当てることができたのだった。心臓部分に当たったのはたまたまである。

 装甲車が一台動かなくなったところで、さらに京太郎は引き金を引いた。京太郎は笑っていた。楽しそうだった。引き金を引くときに自分の体から魔力が奪われているのも、思いのほか銃弾が当たらないのも面白かった。

オリハルコン製のデリンジャーが京太郎の性質に引っ張られて稲妻の力を宿しているのはどうでもいいことだった。

 足止めが一番の目的と頭の中にしっかりとある。それをやり遂げなくてはならない。追いつかれたら面倒くさいことになるのだから、そうしないとまずい、とは思う。しかし、全力で戦うのは楽しくてしょうがなかった。



 一台また一台と装甲車が動かなくなっていった。そしてついに追いかけてくる装甲車はなくなった。あっという間の出来事だった。京太郎が引き金を引く。銃弾が装甲車に当たる。装甲車は動かなくなる。

外れることもあった。しかし何度も繰り返していると大きな装甲車に弾が当たるのだ。そしてあっという間に終わってしまった。

 京太郎はすこしも銃の練習をしたことがない。普通の高校生である。少し身体能力が高いだけだ。そもそもデリンジャーというのは長い距離で使うものではない。近い距離で使う護身用の銃である。

今回のようなまねができるわけがない。しかしできてしまった。これにはいろいろな理由があった。大きく分けて理由は三つ。

 一つ目は装甲車が大きかったこと。的が大きいためにあたりやすい。

 二つ目。道が狭くよけるということができなかった。たくさんの車で追いかけてくるのはよかった。しかし、ほかの利用者たちを潜り抜けて上手く弾丸をよけるというのは無理だった。ほかの利用者たちをよけて移動をするので的がどこに移動するのか予想がつきやすかった。

 三つ目、オリハルコンのデリンジャーを京太郎が手に入れたこと。稲妻の魔力を持った京太郎から魔力を引っ張ったおかげで、弾丸が稲妻の力を持つことになったのである。装甲車を完全に破壊することはできないが、走行不能状態に持っていくことくらいはできるようになっていた。

結果、装甲車たちは大きな的にしかならなかったのだ。

 追っ手の装甲車がなくなったところで、京太郎は体勢を戻した。上半身を揺らして、少しずつ体を移動させた。追っ手がいなくなったのだ。これ以上無理な体勢でいる必要はない。それに、いつまでも虎城にしがみつかれたままではいられない。

 スポーツカーの中に戻ってきた京太郎に、電話をしながらディーが親指をぐっと立てて見せた。ディーは後ろから追ってきた装甲車が見えなくなったのを確認していた。

これで、龍門渕まで安心して戻ることができる。戦闘での被害を出すこともなくなる。いいこと尽くめだった。

 少しはましになるかとほっとしたところで、虎城が悲鳴を上げた。小さく短い悲鳴だった。彼女は自分たちを追いかけてくる怪物の群れをみたのだ。

スポーツカーを追いかけてくる怪物の群れは松常久の部下たちが呼び出したものだ。装甲車が一時的に使えなくなったために仲魔を使うことで京太郎たちを追い込もうとしたのである。

 この怪物たちというのはまったく統一感がなかった。羽の生えた怪物、四足歩行の怪物、半分透けているような怪物と、とりあえず呼び出したという感じがしてしょうがない。まともに統率された軍団ではなかった。

 しかし、数が多い上に殺意を隠していないというのは、なかなか迫力があった。自分を食らおうとする百鬼夜行というのを真正面から見れば、虎城のような気持ちになれるだろう。

 虎城の悲鳴を受けた京太郎は先ほどと同じように助手席から上半身を出した。興奮のために頬が赤くなり、目には力が満ちていた。京太郎にとって追いかけてくるものが装甲車から悪魔の軍勢に変わっただけなのだ。

「追いかけてくるというのならば、くればいい。魔力が尽きるまで、弾丸を撃ち込んでやればいい。 
 そして、魔力がなくなり、追いつかれてしまったのなら、拳で相手をすればいい」

 わかりやすい修羅場だった。しかしわかりやすい修羅場であったからこそ、心が高ぶるのだった。楽しくてしょうがなかった。

 身を乗り出した京太郎を見て虎城はこういった。

「気をつけて相手も本気だよ!」

 京太郎に注意をするのとあわせて、京太郎が飛んでいかないように虎城がしがみついた。結構無茶な姿勢をとる羽目になっている。シートを倒せばいいのだけれども、それをやるだけの腕の長さがなかった。

かなりつらい姿勢であるけれども、ここで京太郎をどこかにふっ飛ばしてしまうわけにはいかなかった。ここで振り落とされたらどうなるか。誰でもわかるだろう。なぶり殺しにされるだけだ。

 自分の身を案じる虎城にかまわず京太郎はまた同じように拳銃のトリガーを引いた。京太郎はほとんど狙いをつけていなかった。とりあえず銃口を向けて、とりあえず引き金を引くという調子である。

しかしこれで十分だった。追いかけてくる悪魔たちがあまりにも多いからだ。そして馬鹿の一つ覚えのように追いかけてくるばかりである。

それこそ後ろから壁が追いかけてくるような調子だった。こんなもの、銃口を向けて引き金を引けば、いやでもあたる。いちいち頭を使う必要がなかった。

 今回も気持ちのいい勢いで悪魔たちがつぶれていく。しかし京太郎の表情は暗かった。興奮から冷めていた。しかし引き金は引きっぱなしである。京太郎の興奮が冷めているのは、あまりにもつぶさなくてはならない悪魔が多かったからである。

いくら落としても新しい悪魔が現れてくる。十匹、二十匹くらいならいい。しかし追いかけてくるものたちはまだまだ多い。減らないどころか数を増やしてくる。時間がたつにつれて、追いかけてくる悪魔が増えていくのだ。

 比喩ではなく京太郎の目に映っている空は追っ手の悪魔で埋め尽くされていた。これをすべて落とすのは骨が折れそうだった。オリハルコンのデリンジャーはそれなりの威力がある。しかし制圧するには攻撃範囲が狭すぎた。

 数が多すぎることに京太郎が困っていると、ディーがこういった。すでに携帯電話は切れている。

「二人ともこれからの方針が決定した。

 俺たちはこれから全速力で龍門渕に向かう。相手がどれだけの戦力を用意しているかわからないから消耗戦はやらない。

 無視して突っ走る。これから俺は、全力で車を運転するから気持ち悪くなっても我慢してくれ。いくぞ!」

 ディーは少しだけ不満げだった。ハギヨシがディーの提案をけったからだ。しかしそれもしょうがないことである。というのも龍門渕もライドウもハギヨシも、内偵を行っていた構成員が行方不明になった事件を完全に把握仕切れていないのだ。

そのため、安易に松常久を始末するという決断を下せなかった。特に準幹部クラスの人間であるから、下手に手を出すのは後々の不利になる可能性があった。

そのため、事件の状況が把握できるまでハギヨシはディーに手を出すなと命じたのである。

 ディーはこういうと京太郎に目で合図を飛ばした。京太郎はこの合図が車の中に戻れという合図だと理解した。

 これか京太郎から見ても無茶な速度で、道だけで作られている異界をディーは駆け抜けるつもりなのだ。流石に京太郎でも身を乗り出したままではいられないだろう。

 京太郎が車の中に戻ってくると、スポーツカーが急加速を始めた。風をまとい駆け抜けていく。デジタルスピードメーターの数字が跳ね上がり続ける。

 また、加速が始まったところで、虎城の顔色が非常に悪くなっていた。蝋人形のような顔色である。

体調の優れないところに無茶な加速がかかったためで、車酔いの症状が出始めたのだ。ディーの運転するスポーツカーに平然と乗っている京太郎がおかしいだけで、これが普通の反応だった。



 急加速が始まるとほとんどの悪魔たちが追いつけなくなった。道を走っていた悪魔たちは次々とはるか彼方に引き離されていく。馬のような姿の悪魔もいたけれども、ディーのスポーツカーには追いつけなかった。

 しかしそれでも追いかけてくるものがあった。空を飛ぶ悪魔たちである。空を飛ぶ悪魔たちもかなり引き離されていた。しかし地上の道を走るよりも空を行くものたちのほうが障害物が少ないために、何とか追いついていられた。

 空から来る悪魔たちが魔法攻撃を仕掛けてくると、ディーが京太郎にこういった。

「須賀ちゃん、悪いけど、けん制してくれ。うっとうしくてかなわん」

 スポーツカーが、何度か揺れた。スポーツカーに魔法が直撃したからではない。悪魔たちの打ち込んでくる魔法が、道を削ったからである。そのため、スポーツカーが大きくゆれることになった。スポーツカー自体は非常に硬いのでびくともすることはない。しかし、道が削られてしまえば、流石に影響があった。

 ディーのお願いを聞いた京太郎は体を助手席でひねり、デリンジャーを乱射した。今回は腕だけしか外に出していなかった。助手席で体の位置を変えて、虎城と向き合うような格好を取ったのだ。そして、右腕だけを出して、引き金を引いた。狙いなどつけていない。とりあえず打ち込むだけだった。

流石に千キロ近い速度で走っている車の外に身を乗り出すような馬鹿な真似はできなかった。

 


 何十回と引き金を引いたあと、少ししてから空を飛ぶ悪魔たちが落ちていった。まだまだ空を飛ぶ悪魔は多い。空はほとんど追いかけてくる悪魔たちで占められている。しかしそれでも何匹かの悪魔は落ちていた。

 京太郎の乱射が続いた後、空を飛ぶ悪魔たちからの攻撃が緩んだ。そうするとスポーツカーが一瞬、無重力状態になった。何が起きたのか把握できたのはディーだけだった。

 ディーは叫んだ。

「オロチを動かしやがった!」

目の前の道が大きくうねり姿を変えたのをディーは見たのだ。

 ディーが叫んだ次の瞬間だった。スポーツカーは奈落に落ちていった。スポーツカーの行く先に道はなかった。

松常久たちがオロチを動かしたため、大きく道が変わり車が走れる道が失われたのである。目の前にあるのは大きな穴。奈落に続く真っ暗闇である。
 



 長い長い落下の後、車は地面に着地していた。着地といっても上品なものではない。子供がゴムボールを地面に力づくでたたきつけて遊んでいるようなそんな着地である。

走る道を失ったスポーツカーはまっさかさまに落ちていったのだ。かろうじて風の魔法ガルーラを使い姿勢を制御したのだが、それでも完全に勢いを殺せなかった。

しかもずいぶん深いところまで落ちたらしい。まったく光がなかった。真っ暗闇で、上空のはるか彼方にかろうじて薄明かりが見えるだけだった。そして、着地の衝撃で土煙が舞い上がっていて、妙に空気が重たかった。

 着地から数秒後ディーが声を出した。

「みんな大丈夫か? くっそ……どれだけ落ちた?」

 ディーは目を閉じて、ハンドルを握った。するとスポーツカーのエンジンが再び動き出した。スポーツカー自体が破壊されることはまずありえないという自信がディーにはあった。

しかし車の中に乗っている者たちが無事であるかというとなかなか難しい。京太郎はともかく、虎城は後方支援担当のサマナーである。落下の衝撃を受け流せず怪我をしているかもしれないのだ。それが心配だった。京太郎もディーも攻撃に特化していて、回復にはまったく役に立たないのだ。

 ディーがこういうと京太郎は応えた。

「大丈夫です」

 シートベルトをはずしていたために京太郎はずいぶん助手席から離れたところにいた。京太郎がいたのは、虎城の上である。京太郎はちょうど虎城に覆いかぶさるような格好で、スポーツカーの不思議な空間の中にいた。

京太郎の状態は悪くない。特にこれといった怪我は見当たらない。落下の衝撃で体を天井にぶつけたくらいのものである。

 スポーツカーの中にいるもう一人、虎城は声が出せていなかった。京太郎に覆いかぶさられて、固まっていた。腐ってもサマナーであって重大な怪我をしているようには見えなかった。しかしこれは、虎城が体術に優れていたからではない。落下の瞬間に京太郎が彼女を押さえに向かったためだ。

 そのため、まったくといっていいほど怪我を負わなかったのだ。虎城はスポーツカーが落下したということもはっきりと理解していないし、そもそもどうして京太郎が自分に覆いかぶさっているのかというのもわかっていなかった。

今の自分が置かれている状況と、周りの状況とを照らし合わせて、かろうじて何が起きたのかを予想するだけしかできなかった。

 あっという間出の出来事だったのだ。これに対応できたディーと京太郎がおかしいだけである。

 いつになっても口を利かない虎城の様子を見て京太郎がこういった。

「大丈夫ですか?」
 
 ずいぶん不安そうな表情を京太郎は浮かべていた。覆いかぶさっていた姿勢を変えて、虎城のそばに腰を下ろした。京太郎は虎城をかばいに動いていた。完全にクッションの役割を果たしていたはずである。

 しかしもしかしたら、怪我をしているかもしれない。見えないところに怪我を負っていたら、たとえば頭に衝撃を受けていたら、動けなくなるということも考えられた。

 不安そうな京太郎がこういうと、虎城はこのように返事をした。

「大丈夫大丈夫。なんか、ごめんね。助けてもらっちゃって」

 虎城は体を起こして微笑を浮かべた。そのときに、虎城は腰を撃っていることに気がついた。

「腰を打ったみたいね。須賀くんがかばってくれてなかったらやばかったかも」

 虎城は不安そうにしている京太郎にこういった。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私は後方支援担当だからね。後方支援にまわされる異能があるの。みてなさいな」

 そういって笑うと、虎城は呪文を唱えた。

「ディア」

 回復していく虎城をみてディーがこういった。

「異能力者で回復系は珍しいな」

 ディーは虎城と京太郎の様子を確認しながら、周囲の状況も確認していた。スポーツカーのヘッドライトを全開にして、真っ暗闇の中を照らしていた。しかし土煙があまりにも舞い上がっているためにヘッドライトの光がぬるくなり先を照らせていなかった。動き回るにしても土煙が収まらないと、どうにもなりそうにない。

 ディーの指摘を受けた虎城は笑いながらこういった。

「よく言われます。バリバリの修羅場を体験するなんて初めてですよ。私の班は完全な後方支援専門で前線には上がりませんでしたから」

 京太郎にもう大丈夫だと虎城はアピールしていた。京太郎が心配されているのがくすぐったかった。というのが自分よりも年下だろう京太郎に心配されるというのが年上のプライドを刺激したのだ。サマナーの世界で年功序列などという考えは、ないようなものである。強くなければ生きられない世界、実力主義の世界だ。しかしそれでも年上の意地みたいなものはあった。

 怪我を回復している虎城を確認して京太郎は助手席に戻った。

 そしてあっという間に窓から体を乗り出し、はるか上空を睨みつけた。助手席に戻るときに、スポーツカーの中にある不思議な空間に放り出されていたデリンジャーを拾っている。

 京太郎が動き始めたのは、不思議な気配を感じたからである。なんとなく何かが来ているような気がする。そんな不思議な気持ちに従って、京太郎は動いたのだった。

 急に真剣な表情に変わった京太郎を見た虎城が聞いた。

「どうしたの?」

 さっぱり何がおきたのかわかっていなかった。虎城に感じられるのはスポーツカーのエンジンの音と、振動。そして土煙でぬるくなっているヘッドライトの光だけだ。

不安げに自分を見ていた京太郎が、一気に顔色を変えた理由がさっぱりわからなかった。いきなり真剣な顔になるのだ。不思議でしょうがなかった。

 何がおきたのかわかっていない虎城に京太郎はこたえた。

「次のやつが来たみたいです。落としますね」

 京太郎の目ははるか彼方の薄明かりから降りてくる悪魔たちの姿を捉えていた。京太郎はこの悪魔たちが松常久たちの手のものであると判断した。まったく関係のない悪魔かもしれない。しかし、漂ってくる雰囲気が妙に殺気立っているので丁寧に対応するのをやめた。

 ディーと虎城の返事も待たず、躊躇なく京太郎は引き金を引いた。デリンジャーから発射された弾丸が暗闇に光のラインを引いた。

 引き金を引いたあと、五秒ほどして羽の生えた悪魔が墜落してきた。ライオンのような頭の大きな鳥のような悪魔である。京太郎が引き金を引くたびに、残骸が増えた。

薄明かりから飛び出してくる悪魔たちは狙いやすい的だったのだ。そして、弾丸を気にせずに引き金を引くので結構な割合で悪魔たちを落とすことができていた。

 積みあがる残骸を見てディーが笑った。

「お見事。すぐにでもヤタガラスの構成員になれるな」


 土煙が収まる間での間、次々と現れる悪魔たちを京太郎は打ち落としていた。松常久の送り込んでくる悪魔たちは数が多く、いつになっても途切れるということがなかった。

しかしそれでも京太郎ははるか上空の薄明かりをにらみ続けていた。まったく引き金を引く手は力を失わない。ここで完全に足止めを食らえば、大量の悪魔と持久戦を始めなくてはならなくなるのだ。京太郎も暗闇で持久戦をするのは避けたかった。

 はるか彼方の光を見つめている京太郎に虎城が聞いた。

「あの、聞き間違いですかね? 須賀くんがヤタガラスの構成員ではない?」

 虎城が質問をしたのは、あまりにもありえないだろうと思ったからなのだ。虎城は京太郎のことをヤタガラスの構成員だと思っていた。なぜなら龍門渕のロゴが入ったジャンパーを着て、帽子をかぶっていたから。そして構成員だろうと思える武力を見せていたから。しかしもしもそうでないというのなら、これはおかしなことだ。

 光を睨みながら京太郎は答えた。京太郎はまだ、はるか上空から襲い掛かってくる悪魔たちを捕らえて、打ち落とし続けていた。

「ヤタガラスではないですよ。用事があったのでヤタガラスの帽子とジャンパーを借りているだけです。俺はただの高校生です」

 嘘ではない。この異界に入るために必要だったのでヤタガラスの格好をしているだけである。京太郎はただの、高校生だ。

 落下から三分ほどすると、土煙が収まった。そうするとアクセルをディーは踏み始めた。ヘッドライトが真っ暗闇を上手く照らし始めたのだ。そろそろ車を動かしても大丈夫そうだった。

 車が動き始めたところで、京太郎は姿勢を戻した。真っ暗闇の中をスポーツカーは進んでいくのだ。何があるかもわからないところで、体を車の外に出しておくのは、京太郎も怖かった。

 動き出した車の中で虎城がこういった。京太郎の答えを聞いて少し間が空いていた。

「えっ? でも、あれ? 異能力者はスカウトされるはず」

 ヤタガラスが人材を積極的に取り込んでいることを彼女は知っている。そのため京太郎のようなタイプは発見されしだい声をかけられると知っていた。

仮にヤタガラスに入らなかったとしても監視対象になるのが常だ。京太郎のように、自由な立場にいるということはまずありえない。彼女はそれが不思議だった。

 京太郎が答える前に、車は急加速した。暗闇の中を車はどんどん進んでいった。暗闇を進む巣車の後を悪魔たちが追いかけてくるが、あっという間に引き離してしまった。それから、追いついてくるものはいなかった。悪魔たちには暗闇を照らす光がなかったのだ。


 暗闇の中を車は進んでいった。ヘッドライトが進行方向を照らしてはいた。しかし光が届かない部分が多すぎた。太陽の光が奈落の底まで届かないのだ。ランタンのひとつでもたっていればいいが、そういう類のものもない。完全に真っ暗闇。頼れるのはヘッドライトだけだった。

 運転手のディーは困ったようにこういった。

「どうしたもんか。まさかここまで落とされるとは思わなかった。道がまったくわからねぇ。マジでいつの時代の道なんだ? タイムスリップした気分だ」

 ディーは何とか車を運転していた。幸いといえばいいのか、障害物になるようなものはまったくない。しかし、あまり喜べなかった。運転席から見える光景から自分たちがどれだけ深いところに落ちてきたのか予想できなかったからだ。

 オロチという道の九十九神は日本が出来上がってからいままでのすべての道を所有している。そのため、どの時代の道を走っているのかは大体予想がつく。最近の時代ならアスファルト、数十年前の石畳のような道。昔の時代なら踏み固められた道になってくる。

 道自体か、道の周りに手がかりになるものがあるのだ。その時代の建物だとか、標識が手がかりになる。しかしここには何もない。光さえ届かないほど深い時代の道。手がかりも目印もなければ、上に登ることさえできないのだ。追っ手から逃げ切ることができてもこのオロチから逃れ切れなければ、意味がない。

 帰れなくなるのは困る。


 真っ暗闇の中を十分ほどスポーツカーは走った。松 常久の悪魔の軍勢は一匹も追いついてこなかった。完全に巻いたのだ。

 しかしディーもどこへ行けばいいのかわからなくなっていた。完全に迷ったようだった。

 しょうがない話だ。何の目印もなく、光もない。障害物のひとつでもあればいいのに、何もない。ただ走るだけなのだ。硬い地面があるだけで、目印のない砂漠を走るのと変わらない。

地図も持たずに走り出せば迷うのは当然だった。それは松常久の軍勢も、ディーも同じことだった。

 さてどうしたものかと困りながらもスポーツカーは先に進んでいった。止まっていたところでどうにかなるわけではないからだ。動き回って上に戻っていかなくてはならない。

たとえ、無駄に思えてもやらなければ、先には進めないのだ。

 それから更に十分ほど闇雲にスポーツカーを進めていった。そうすると、ディーがこういった。

「おっ! ラッキーだ。オロチの石碑がある」

 ディーはとんでもない喜びようだった。砂漠でオアシスを見つけた遭難者のように喜んだ。ディーが見つけたオロチの石碑というのは京太郎がサービスエリアで見つけたもの、そして異界物流センターで見つけたものと同じものである。

ディーはこの石碑がとんでもなく便利なものであるというのを知っていた。だからディーは喜んだのだ。こいつがあれば脱出の糸口になると知っているのだ。


 はしゃぎはじめたディーを見て京太郎が質問をした。

「オロチの石碑ってのが見つかったとして、何かあるんですか?」

悪魔たちの追撃がなかったために京太郎にできることといえば、黙ってディーに任せるくらいのものだった。

 変化といえば

「帽子はかぶっておいたほうがいいわよ。発信機がついているから、いざというときに目印になる。
   
 一般人の須賀くんがかぶっていたほうがいいわ。私よりもずっと強いからいらないかもしれないけど」

と不思議な空間に放り出していた帽子を虎城にかぶらされるくらいのものだった。何か、退屈を紛らわせてくれるきっかけがあるのなら、飛びつきたい心境だった。それがたとえ、小さな疑問であっても。

 暇をしていた京太郎の質問にディーが答えた。

「この石碑は道に迷ったものを助けてくれるのさ。もちろんただじゃないけどね。

 道案内のための掲示板があるだろ? あれと同じような仕掛けがオロチの世界にはいたるところにあるのさ。これもそのひとつ。

まぁ最近はヤタガラスが地図を作って利用者に配っているから使う人は少ないけど、いざというときにはこいつを使えばどうにかなる」

 京太郎に説明をするディーはずいぶんほっとしていた。どのように進めばいいのかがわかりさえすれば、後はどうにでもできるからだ。
 

 オロチの石碑の前に車を止めるとディーは運転席から降りて、石碑に近づいていった。非常に早足だった。そして石碑に手を触れこういった。

「オロチよ、マグネタイトを対価に支払う。どうか龍門渕までの道を教えてほしい」

 これがオロチに道を教えてもらうための呪文なのだ。しかし呪文といってもこの通りに唱えなければならないわけではない。マグネタイトを支払うので、道を教えてほしいですとはっきりと伝えさえすれば、オロチは答えてくれる。

また、まったくオロチの石碑の使い方を知らないでも、石碑の近くにいさえすれば、道をこっそり教えてくれたりもする。

 ディーが石碑に触れてから十秒ほどたった。しかしまったく何もおきなかった。まったく何もない。ヘッドライトがオロチの石碑と石碑に触れているディーを照らしているばかりだった。

ディーがマグネタイトを支払わなかったということではない。また、マグネタイトを支払えない状態にあるわけでもない。

 何の変化もないのでディーはうろたえ始めた。こんなことがおきるとは思っていなかったのだ。

 ディーがあせり始めたのみて、助手席に座っていた京太郎が動き始めた。シートベルトをはずして、助手席から降りた。そして石碑の前で困り果てているディーによっていってこういった。

「俺がやりましょうか?」

どういうわけなのかディーが困っているのだ。もしかしたら手伝えるのではないか。そう考えて京太郎は声をかけたのである。

 京太郎の提案すると、ディーはまったく納得していない様子で返事をした。

「いやぁ、おかしいな。オロチは友好的な悪魔なんだけど……機嫌が悪いのか? 俺のマグネタイトがないのか?
 
 でもなぁ。俺のマグネタイトが切れるなんて六年前以来なかったしなぁ」

 ディーはさっぱりわからないのだ。オロチがマグネタイトを受け取らないのも、返事のひとつもしないのも。そもそもこの石碑はオロチが生んだものなのだ。返事をしないなどというのがおかしかった。

 困っているディーに京太郎がこういった。

「俺が試してみますよ。もしかしたらこの石碑の調子が悪いのかもしれませんよ」

 京太郎は単純に、石碑の調子が悪いのだと思っていた。どんなものも調子が悪いことはある。それは悪魔も人間も変わらないだろう。

 案内してくれる石碑の力があれば、きっともとの世界に戻れるだろう。戻りたいと京太郎も思っている。しかし壊れていたら案内はできない。それはとても残念なことだ。

 それに、もしかすると人が変われば動くかもしれない。不思議なことだが、道具というのはそういう意地の悪いことをすることがある。ディーが今回試してみてだめだった。しかしもしかしたら京太郎なら大丈夫かもしれない。人が変われば、できることもある。だから京太郎は自分が試してみるといったのだ。

 納得できなさそうにしていたディーだったがいよいようなずいた。そして京太郎に任せた。

「それじゃあ、頼むよ。おっかしぃな。どうなってんだろ。

 あぁそうだ。石碑の使い方だけど、手を触れて、道を教えてほしいと願えばいい。それだけで教えてくれるはずだ。俺は失敗したけどな」

 ディーもいよいよあきらめていた。修理しようとか、問題を解決しようと思っていない。というのがディー自身は専門的な呪術の知識というのがないのだ。悪魔の知識や神秘についての知識というのは少しは持っている。しかしそれはインターネットや本で調べられるレベルでしかない。ハギヨシや天江衣のように専門家を名乗れるほどのレベルではないのだ。だから、できないものはできないと、あきらめる決断は早かった。

 ぶつぶついっているディーを尻目に京太郎は石碑に手を触れた。そしてなんとなく石碑をなでた。何度か石碑に触った経験があったのでそのときの癖が出てしまったのだ。たいした意味はない。そしてなでながらお願いをした。

「帰り道を教えてほしい。マグネタイトを情報料としてさしあげる」

 京太郎が願いを口にすると石碑に刻まれていたヘビのレリーフがグネグネと動き始めた。そして石碑に描かれている蛇が京太郎に道を示した。蛇の頭が、暗闇の向こうを指し示した。

 京太郎はヘビの頭の向く先に進めということだろうと解釈した。京太郎はレリーフの蛇が妙につやつやしているように感じた。京太郎は道を示してくれた蛇のレリーフを指先でなでた。レリーフに命が宿ったような気がしたのだ。しかし感触は冷たい石のままだった。

 京太郎が蛇のレリーフをなでているとディーがつぶやいた。

「あれ、まじか? 俺のマグネタイトそんなに減ってんのか?

 まぁいいや。道がわかれば万事オッケー。ちゃっちゃと上にあがらないとな。サンキュー、須賀ちゃん。何とかなりそうだ」

 オロチが反応しないのが不思議でならないというディーだったのだが、すでにどうでもいいらしく運転席に戻ろうとしていた。もう少し考えてもよさそうなものである。

しかし悪魔のやることというのは実に気まぐれで、実利というのを考えないものが多い。面倒くさいから動かないといって本当に動かないものもいるのだ。オロチもそういう気分のときがあるのだろうとディーは納得していた。

 京太郎がスポーツカーに戻ったとき、後部座席の不思議な空間で虎城が小さくなっていた。ひざを抱えて震えていたのだ。

 助手席に座った京太郎が心配して虎城にきいた。

「大丈夫ですか? 顔色悪いっすよ」

 先ほどまで虎城は元気だったのだ。それが車に戻ってきたらずいぶんおびえている。これはおかしかった。たかが、数分しか一人きりにしていないのだ。さっぱり京太郎には虎城が震えている理由がわからなかった。

 京太郎が心配しているのを見て、虎城が答えた。

「ご、ごめんね。こういうところに来たことがなくて、二人が外に出ていって、一人ぼっちだと思うと急に怖くなって。

 ははは……須賀くんは怖くないの? 一般人なんでしょ?」

 京太郎とディーが戻ってくると虎城はずいぶん元気になった。虎城は本当に怖かっただけなのだ。スポーツカーの中、車の外には京太郎もディーもいる。二人の力量があれば、よほどのことがない限り虎城まで被害が及ぶことはない。しかしそれでも、一人きりになっているのが怖かったのである。

 そうなってみて、京太郎が虎城には不思議に見えた。

 自分から真っ暗闇の世界に飛び出す。戻ってきて平気な顔をして虎城を心配する。自分がこんなにも怖いと思っているのに、年下の京太郎が普通にしているなんておかしなことだ。京太郎と同年代の生意気な部下もきっと震え上がっただろう。

 もしかしたらと思うのだ。

「強がっているのではないか」と。

 だから聞いたのだ。聞いたところで同類がいたとほっとするくらいのものだが、それでも聞きたかった。

 スポーツカーが走り出すのとほとんど同じタイミングで京太郎は答えた。

「いえ、特には」

 実にそっけない返事を返した。真っ暗闇の中に出て行って、石碑を触っただけだ。それだけだ。怖いという感情はどこにもなくただ、道がわかってうれしいという気持ちしかなかった。


 オロチの石碑に従って車が進んでいくと周りが明るくなり始めた。五分ほどかっ飛ばしたところである。真っ暗闇の世界に光が混じるようになったのだ。それは曇り空が晴れていくような静かな変化だった。

真っ暗な世界に光が混じるようになると、ディーがこういった。

「どうやら、上の階層に移りつつあるようだな。まったく冷や汗かいたぜ。何の手がかりもない道を走るのは勘弁だ」

 ディーの偽りのない感想だった。暗闇とどこまでも広がっている道だけの世界。思い切り車を走らせるにはいいかもしれない。しかし、何もないというのはつらかった。

 どこにもいけないまま、終わってしまうのではないか。二度と元の世界に戻れないのではないか。そんな気持ちばかりがわいてくる。運転するのが好きだといっても永遠の迷子になるのはいやだったのだ。


 徐々に明るくなっていく世界を更に進んでいくと、岩が立ち並び始めた。一メートルほどの岩である。明らかにおかしな状況だった。今まで何もなかった世界にいきなり岩がポツンポツンと見え始めるのだ。しかも、はじめはひとつ。次は二つ。その次は三つと先に進むたびに増えていく。怪しいにもほどがあった。

 しかし先に進まないわけにはいかない。そうして更に先に進むと視界に入ってくる岩がいよいよ無視できないほど多くなってくる。おかしなことで、岩たちはどんどん道を狭めるように生え始めるのだ。すでに視界は障害物だらけであった。

 引き返そうとも考えたのだけれども、できなかった。背後も同じように岩で満ち始めていたからだ。

 京太郎たちが「おかしい」と思いながらも先に進むと、ついにスポーツカーが進める幅だけしか道がなくなってしまった。

スポーツカーの横幅に余裕を持たせただけの一本道が出来上がっているのだ。田んぼのあぜ道のような状態である。あぜ道は盛り上がっているけれども、この道は周りが岩で盛り上がっているのだ。

 確実におかしなことがおきていると誰もがわかった。しかしスポーツカーは先に進むしかなかった。帰り道は前にあるからだ。そして引き返すこともできない。なぜなら、走ってきた道はすでに岩で埋められてしまっている。


 強制的な一本道を進んでいくと怪しい女性が道の先に現れた。ぼんやりとした光の中に怪しい女性が立っていた。


 この女性は奇妙な格好をしていた。ぼろ布としかいえないものを体に巻きつけているだけだ。そして髪の毛が伸びっぱなしである。

それも尋常な長さではなく、地面に引きずるほど長かった。身長が百五十センチほどであるから、その髪の長さとなれば三メートルか四メートルというところである。

また、長く伸びた前髪で顔が見えない。


 しかし髪の毛の奥で光る赤い光が二つあった。この奇妙な光がこの女性の目なのだろうと予想は簡単についた。

 いかにも怪しい女性の背後に長い坂がのびていた。坂の先には光が見えた。

 怪しい女性はこの坂の前に立ち、両手を広げて立ちふさがっているのだった。

 

 ディーは車をいったん止めて、こういった。

「怪しいな。いったいなんだ?」

 明らかに怪しい女性から十五メートルほど離れたところにスポーツカーは止まった。ディーが車を止めたのは、怪しい女性が何かたくらんでいる雰囲気があったからだ。それこそ不用意に近づくとパクっとひとのみにされる雰囲気だった。

 ディーのつぶやきに京太郎が応えた。

「悪魔ですねたぶん、なんとなくそんな風ですし……このままひきますか?」

 あっさりと提案していた。道をふさいでいる怪しい女性は明らかに悪魔だった。

髪の毛の奥にある赤い光を放つ二つの目、身体から放たれている奇妙なプレッシャー。オロチの最深部だろうところに一人で立っているという状況。人間であったとしてもまともな存在ではないだろう。そうなれば、やることは一つか二つしかない。

 交渉ができる相手なら交渉で、だめなら排除である。京太郎は交渉の余地があるとは考えていた。しかし、ディーが排除を決定すれば決定に文句をつけるつもりはなかった。

 京太郎の不穏な提案を受けたディーが答えた。

「強制排除は最終手段。とりあえず話しかけてみるよ。見た目だけで判断していたらろくなことにならないからなこの世界は」

 サマナーの世界には人間なのか悪魔なのか判断に困るものたちが多い。そして悪魔といっても非常に話のわかる悪魔もいて、見た目が恐ろしいからといってすなわち敵対する存在であるというようにはならないのを知っているのだ。京太郎よりは穏やかだった。

 ディーは運転席から降りていった。まったく恐れていなかった。ディーが出て行くと鍵が勝手にしまった。そしてそのまま振り返りもせずに怪しい女性の元にディーは歩いていった。


 怪しい女性がディーを睨みつけていた。赤い目が輝いている。どこからどう見ても怒っているようにしか見えなかった。

 しかしそんなことはまったく気にせずに怪しい女性にディーは話しかけた。

「申し訳ないのですが、道をあけてもらえませんか。何か問題が起きたというのなら、ききましょう」

 紳士的だった。輝く赤い目の女性から三メートルほど離れて、できるだけ刺激しないように配慮していた。声がやさしく、物腰は柔らか。どこぞの執事のようだった。

 このように話しかけたのは、怒らせるつもりがないからである。もしかしたら、京太郎たちと同じように道に迷っているだけかもしれない。

 距離を離しているのは、もしも攻撃を仕掛けられたとしても四メートルあればらくらく対応できる距離だからだ。


 ディーが話しかけると助手席に座っている京太郎を怪しい女性は指差した。長すぎる前髪の奥で真っ赤な二つの目がゆらゆらとゆれている。

女性の爪が鋭くとがっているのが恐ろしかった。しかしこの指差しというのはディーの質問に答えた行動なのだ。この怪しい女性は助手席に座っている京太郎に用事があるのだ。だから指差した。

「出てきてくれ」

と呼んでいるのだ。

 指を指された京太郎は少し戸惑っていた。どこからどう見ても不審者の女性だ。髪の毛の長さ、輝く赤い目。一度見たら忘れないだろう。しかし残念ながら京太郎には覚えがない。だから指名されたのが不思議でならなかったのだった。

 怪しい女性の求めているのものを察した京太郎は少し悩んだ。そのあと、助手席から京太郎は降りようとした。先に進むためだ。

 いかにも怪しい女性が道をふさいでいて、どうやら自分に用事があるらしい。ならば、用事を済ませてしまえば道を譲ってくれるのではないだろうか。京太郎はそのように考えた。特にこれといった危機感はない。


 京太郎が助手席から降りようと動き出すと、虎城に止められた。

「だめだよ! 怪しすぎるよ! 何で普通に降りようとしてるの!?」

京太郎の肩をつかむ手に力がこもっていた。虎城は怒っているのか驚いているのか判断のつかない表情になっていた。

 ディーと京太郎は道をふさいでいる女性が悪魔ではないかもしれないとか、友好的な存在かもしれないと余裕を持って対応していた。

 しかし虎城にしてみれば、議論の余地などない存在だった。目の前の存在から感じる強力な圧力はスポーツカーの結界を越えて届いている。結界もなしにこの圧力に耐えられるのは一握りの超人。それこそ葛葉ライドウのような名前の売れている人間以外にいない。下手に出て行けば発狂するだろう。

 それに加えてどこからどう見ても怪しい風貌。真っ黒な長髪、ぼろ布を身体に巻きつけているだけの服装。見るものをすくませる真っ赤な眼光など、どこの上級悪魔なのかというように考えるのが普通であって、会話など、少なくとも指を刺されて出て行くようなのは自殺志願者にしか見えないのだった。

 必死になって止める虎城に京太郎は応えた。

「もしも荒事になったら、それだけですよ。それに、あまり時間をかけたくないでしょ? 後ろからは、追っ手が来ているかもしれないわけだし」

 京太郎にとっては目の前の奇怪な女性よりも、後ろから追いかけて来ているかもしれない面倒くさい相手のほうがいやだった。目の前の道は帰り道である。邪魔をしているのは一人だけだ。しかも用事の相手は自分だというのだから、少しくらい対応するのはおかしなことではあるまい。ただ、見た目がいかにも怪しいというだけの問題なら、京太郎にしてみると無視して結構な問題だった。


 虎城があっけに取られている間に京太郎はさっさと助手席から降りてしまった。怪しい女性が呼んでいるのだ。

そして実に単純な気持ちが京太郎の頭にはある。

「さっさと応じて、先に進もうじゃないか。戦いになるのなら、それはそれでいい」

 京太郎の胸は高鳴っていた。

 次の道に続く坂道に向けて京太郎は歩いていった。不思議と京太郎は微笑を浮かべていた。恐れはもちろんある。襲い掛かられたとして対応できない可能性もあるのだ。

しかしそれを考えたとしても、目の前の奇妙な女性は魅力的だった。肌がぴりぴりするほどのマグネタイトの圧力。その密度。

「もしも戦いになったとしたらどうなるだろう」

それを思うと、妙に興奮するのだった。

 戦わないのが一番とは心の中で理解しているのだ。しかしそれでも、妙に期待してしまう。抑えようとしたのだけれども、微笑になって現れていた。

 京太郎が助手席から降りてくると同時に、怪しい女性は歩き始めた。京太郎に近づいていったのだ。そのときにディーとすれ違った。しかしまったく気にしてもいなかった。歩くたびにズルズルと髪の毛が地面とすれているけれどもそれも気にしていなかった。

怪しい女性の興味は京太郎に向けられているのだ。ディーではない。

 そして、京太郎と後三メートルというところで立ち止まった。それ以上進めなくなったからだ。すれ違ったディーからわかりやすい殺気を感じたからである。

 長く伸びた前髪の下に隠れた均整の取れた顔が忌々しげにゆがんだ。

 しかし、忌々しげにゆがんだ表情もすぐに微笑みに変わる。京太郎が手の届く範囲まで歩いてきてくれたからだ。

 手の届く範囲に京太郎が来ると、輝く赤い目の女性は音を発した。

「手」

 ギシギシした音だった。会話をあまりしないでいると声を出す力が弱まって、ざらついた質感を持つようになるが、それとよく似ていた。また発音がへたくそだった。わずか一言なのに、話しなれていないのが一発でわかる。

 いかにも怪しい女性が京太郎に話しかけたのは、虎城が思っているような悪意を持っていないからである。襲えばいいという考えではなく穏便に済ませたいという気持ちが怪しい女性にはあるのだ。

 「手」といって呼びかけてきた怪しい女性は京太郎に向けて右手を差し出してきていた。握手の形である。どこからどう見ても握手の形だった。しかしあまり握りたいとは思わない握手だった。なぜなら、怪しい女性の右手の爪が鋭くとがっているからだ。思い切り握られたらきっと肌が切れる。


 怪しい女性の行動を見たディーが京太郎にこういった。

「悪いが須賀ちゃん、交渉はおしまいだ。俺と交渉するというのなら穏便に済ませるつもりだったが、須賀ちゃんに手を出すのは許せないな」

 ディーの体の底から魔力がわきあがってきていた。魔力が高まるのと同時にディーの雰囲気がおどろおどろしいものに変化していった。どこからか風の鳴く音とも笛の鳴るような音とも取れる響きがきこえてくる。

 しかしディーを京太郎は制した。

「ちょっと待ってください」

 そして右手を差し出している怪しい女性を見て、三秒ほど考えてから女性の言葉に従って、京太郎は手を差し出した。どこからどう見ても怪しい。普通なら握らない。しかし京太郎はこのやり取りを特におかしな行動ではないと受け入れていた。

 というのが何度か悪魔と交流したことがある京太郎は、握手というのがどういう儀式なのか予想できたのだ。異界物流センターで造魔花子と握手をしたのと同じだ。悪魔にとって握手とはマグネタイトのやり取りを行うための儀式だ。右手を差し出してきた怪しい女性もそういうことを求めているのだと思い、受け入れた。

京太郎はこう思ったのだ。

「通行料か? 悪魔の世界にも縄張りがあるのかもしれないな。オロチの世界はとんでもなく広いというし、ブラウニーたちのような野良悪魔の勢力争いみたいなものもあるのかもしれない」

 だからおとなしく手を差し出した。

 京太郎が右手を差し出すとすぐ、怪しい女性は京太郎の手をつかんだ。あっという間の出来事だった。女性の右手が京太郎の右手を握り締めた。

握り締められたとき、京太郎の右手に怪しい女性の爪が食い込んだ。そして肌が少しだけ切れ、血が流れた。握り締めた右手から京太郎はマグネタイトを吸い取られていった。京太郎が推測した通り怪しい女性はマグネタイトを求めていたのである。

 怪しい女性が京太郎の右手を握りマグネタイトを吸い上げ始めると、京太郎も、ディーも虎城も顔色を変えた。

 京太郎は目を大きく見開いていた。まったく動きを捉えられなかったからだ。本当に何も見えていなかった。動きの予兆も、動き自体もわからなかった。握られてやっと、握られたと理解できたのだ。

 目の前にいる相手から意識をきったわけでもないのに、油断していたわけでもないのに、握り締められるまで気がつかなかった。初めての体験だ。高速で間合いをつめる相手と戦ったことはある。しかし反応さえ許されなかったのは初めてだった。

 ディーは怪しい女性をにらんでいた。握手を求めたことに怒っているわけでもなければ、勢いをつけて握ったことに怒っているわけではない。京太郎のマグネタイトを吸い上げている怪しい女性が奇妙な雰囲気を放ち始めたのに気がついているのだ。

 虎城は真っ青になり悲鳴を上げた。京太郎が捕食されているようにしか見えなかった。

 マグネタイトを吸い上げている怪しい女性にディーが攻撃を仕掛けようとした。怪しい女性の握手から一秒とたっていない。怪しい女性が京太郎に邪念を持ったのを戦闘開始のゴングと受け取ったのだ。

悪魔がマグネタイトを交渉の材料にすることはある。しかしそれ以上を求めようとするのは見逃せなかった。攻撃の態勢に入ったディーの手のひらに奇妙な力が集まり始めていた。小さな粒が次々と生まれ、太陽の周りを回る惑星のように動き始めている。

 戦いが始まるかと思われたが、つかまれていない左手でディーにくるなと京太郎は合図を出した。自分の右手を握る女性の目を京太郎は見つめていたのだ。

 左手でディーをとめたのは、女性の目に悪意がなかったからだ。マグネタイトを吸い上げられていたけれども、手加減されているのがわかっている。女性が何を思ってこのようなまねをしたのかはわからない。しかし敵ではないのだろうと京太郎は納得できていた。だから本気で戦おうとしているディーをとめたのだ。

 京太郎がディーをとめて、五秒ほどたった。すると怪しい女性は握り締めていた右手を離した。京太郎の右手は血がにじんでいる。怪しい女性はとても名残惜しそうに京太郎から離れた。離れたときに、ディーを睨みつけた。

 そして幻のように掻き消えた。怪しい女性はマグネタイトの交換に一応満足したのだ。

 そして、怪しい女性の姿が消えると同時に、何もなかった真っ暗闇の世界が消えうせた。坂道を登る必要さえない。暗闇の世界が、光に照らされた世界に変貌した。

 あっという間の出来事だった。空に太陽が現れ、青空が出来上がる。そして今まで何もなかったところに、草原が出来上がり、丘が出来上がったのだ。人が歩いて作ったのか、草が禿げ上がって道ができていた。

京太郎たちはどうやら上の世界に上がったようだった。スポーツカーも京太郎もディーもいつの間にかこの世界に上がっていた。

 この変化を見てディーがこういった。

「何なんだあの女は? というかこれはいったい?」

完全に混乱していた。京太郎の手を握っていた怪しい女の正体もわからなければ、そもそも自分たちがどこにいるのかというのもわからないのだ。文句のひとつも言いたくなる。

 混乱しているディーに京太郎が応えた。

「わかりません。ただ、上に上がることはできたみたいですね。まだずいぶん古い時代にいるみたいですけど」

 京太郎は深呼吸をしていた。青空になった世界の空気がとてもきれいだったからだ。排気ガスのにおいもしなければ、人間の匂いというのもまったくない。実にいい空気だった。

マグネタイトをいくらか吸い取られたために身体がだるいけれども、そのだるさも吹っ飛びそうだった。

 深呼吸をしている京太郎にディーがきいた。

「何か、攻撃を受けたということは? マグネタイトを奪われていたようだが問題ない?」

 京太郎の心配をしたのである。怪しい女性はとんでもなく怪しかった。しかしマグネタイトの交換は特におかしな行動を起こしていなかった。普通のやり取りだった。しかし、あれだけ睨まれたディーであるから、何か悪いことをしているのではないかと疑うのはしょうがなかった。

 背伸びをしながら京太郎は首を横に振った。そしてこういった。

「ちょっとびびっただけです……肌が少し切れてるくらいでたいした問題はありませんよ。

 あー、でも、ちょっとあれですね。

 あの人、すごく早かったですね……本当、むちゃくちゃ早かった」

 平静を装ってはいたが、イラついているのがよくわかる。眉間にしわがより、綺麗な空気を吸ってさわやかになっていた気持ちが曇っていた。

 見えなかった自分に腹が立っていた。手を握られるまで反応できなかった自分に腹が立っているのである。

 怪しい女性の手をつかんでくる行動は別に問題はないのだ。あの行動は道を通るための対価だったのだと考えられる。手を出せといわれて、手を出したのだから、問題ない。正当なやり方だ。

 しかし、見えなかったのは違う。相手が握手をしようとしていたのに、構えていたのに京太郎は目で追う事もできなかった。つまり、敗北したと思っているのだ。

 もしも命の取り合いであったら、百パーセント敗北していただろう。この情けない自分が許せなかった。

 いらだっている京太郎にディーがこういった。

「ハギちゃんとよく似てるわ。不覚を取ったときの顔がそっくり」

 ディーはほっとしていた。京太郎の気持ちが折れていないことと、特にこれといった問題がないことにほっとしていた。

 京太郎とディーが軽く外の空気を楽しんだ後、車に戻ると半分泣いている虎城が京太郎にこういった。

「だから無茶するなって言ったのにぃ!」

 京太郎とディーはたいしたことが起きていないような対応をしていたけれど、虎城から見れば恐ろしい光景だったのだ。

上級悪魔としか言いようのない存在に、手をつかまれた上マグネタイトを吸い上げられる。しかも吸い取られるのを自由にさせる。まったく正気の沙汰ではない。

 マグネタイトは命の源なのだ。きれいに吸い取られてしまえば、終わりだ。京太郎がディーの行動を制したときなど、虎城は心臓が止まる思いだった。文句のひとつも言わないと収まらないのはしょうがないことだ。

 やっぱり恐ろしいことになったではないかといって怒っている虎城を京太郎がなだめながら、スポーツカーは走り始めた。真っ暗闇の世界から、青空と草原の世界へと移動したことで車の進むスピードはずいぶん速くなっていた。

しかしこの世界も真っ暗闇の世界とそれほど変わっていなかった。起伏がいくつかあったけれども、基本的には何もない世界だったのだ。しかしそれでもスポーツカーは進んでいく。龍門渕へ帰るためだ。

 多少のトラブルはあったがディーの運転するスポーツカーはどんどん先に進んでいく。真っ暗闇だった空は気分のいい青空に変わり、土だけだった地面は草原と、人が歩いて作ったのだろう細い道に変わっている。

 車が走るような舗装されている道ではない。しかしスポーツカーは先に進むのだった。何とか真っ暗闇の世界から抜け出すことができたけれども、まだまだ龍門渕に戻れるような状況ではないのだ。

安心したいのならば、蒸気機関が動き、空がさび付いている世界まであがる必要がある。さび付いた世界まで戻れば、後は力押しで戻っていけるだろう。

 しかし今ディーたちがいる世界は遠すぎる。空がきれいで、地面が汚染されていない。何百年前の道なのかわからないほど遠い世界。ここから元の世界に戻るのは難しいだろう。

 どんどんきれいな世界を進むスポーツカーの中で、先ほどの奇妙な怪しい女性との出会いについて京太郎とディーが話をしていた。

特に、建設的な話というのはしていない。

「おもわず攻撃しそうになった。冷静にならないといけないな、俺も」

とディーが話してみたり、

「集中していれば女の人の動きを察知できたかもしれないですね、気を抜きすぎました」

と京太郎が悔しがるのだ。

 この二人の会話には、特に危機感というのがなかった。それはそのはずで、これといって心配する要素というのが二人になかったからである。だから二人はただのドライブでもしているような気分で、会話をするのだった。

 しかし虎城はちがった。彼女はのんきな二人にこういった。

「二人とも、怖くないんですか?

 仲魔も呼び出さずに悪魔と向き合うなんて。

 それに須賀くんは、もう少し気をつけなくちゃだめだよ。相手は悪魔なんだよ? 気軽に握手なんてしたらだめだよ……呪われたりしたらどうするの?」

 ずいぶん顔色が悪かった。怒っているようにも見えるし、恐れおののいているようにも見える。彼女は目の前で起きたことを受け入れ切れていないのだ。

目の前で起きたことというのは、どこからどう見ても上級の悪魔相手に命を捨てるような無防備さで近づいていった京太郎と、ディーの行動である。

 彼女にとって京太郎とディーの行動というのは自殺行為にしか見えなかった。命綱なしで崖から飛び降りるような馬鹿な行動だった。これがどうにも彼女には理解できないのだ。命はとても大切なもの。大切に扱わなくてはならないはず。後方支援を担当しているからこそ、そういう気持ちが強くあった。

 おびえている虎城の質問に間をおくことなくディーが答えた。

「怖いとか怖くないとか言う前に、俺サマナーじゃないのよね。だから仲魔を呼ぶとかいう発想自体ないのよ」

 はっきりとディーは言い切った。隠すような問題ではなかったからだ。自分はサマナーではない。だから悪魔の助っ人を呼ぶことはできない。

それだけのことなのだ。すでに京太郎には伝えていることでもあった。


 ディーの答えをきいて、虎城は呆然とした。そして京太郎にこう聞いた。

「須賀くんは? サマナーなんだよね? ヤタガラスじゃないみたいだけど、そのジャンパーを着ているのならサマナーのはず」

 京太郎に話を振った虎城は青ざめていた。ディーがサマナーだと彼女は思っていたのだ。それも前線で戦えるようなそれなりに優秀なサマナーだと。

 優秀なサマナーだと思っていたのは、龍門渕に所属しているサマナーは悪名高いハギヨシから教えを受けているという話を聞いたことがあったからだ。

話によれば、虎城よりも若い少女が仲魔を駆使して上級悪魔を封殺したという。本当ならば、とんでもないことだ。上級悪魔を封殺できるサマナーというのは非常に少ない。できたとしても大体は三十台四十台の熟練者ばかりである。十台そこらの小娘には難しい仕事である。

 そしてディーの話しぶりからしてハギヨシと近しいらしいことが予想できて、おそらくこのディーも実力者であろうとあてをつけていた。

強者は強者を呼ぶという考え方が虎城の頭にあった。

 しかし、それが崩れた。

「サマナーではない」とディーが答えたのだから悪魔の助力はない。

 となるとここで終わってしまうかもしれない。松常久の軍勢というのも厄介だけれども、怪しい女性悪魔の存在もあるのだ。仲魔の助力がなければこれからどんどんつらい状況に追い込まれていくことだろう。

人間のスタミナというのは無限ではないのだから、いつか必ず息切れをおこしてを終わる。これが彼女を不安にさせた。

 京太郎に「サマナーなんだよね?」と話を振ったのは、戦力がいかほどなのかと確認するためである。京太郎がそれなりに優れたサマナーであれば生き残れる可能性もぐっと高まるのだから、知っておきたかった。安心したいという気持ちが虎城にはあるのだ。

 完全に青ざめている虎城に一拍おいて京太郎がこたえた。

「一応サマナー扱いなんだと思いますよ」

 虎城の質問の意味が京太郎はさっぱりわかっていなかった。京太郎は不思議そうにして、ディーのほうをちらりと見た。ディーが助けてくれないかなと期待したのだ。

 京太郎の答えを聞いた虎城がこういった。

「なら、呼び出せばいいじゃない。さっきの上級悪魔もそうだけど前線で戦うなんて危なくてしょうがないわ。いくら異能力者だからといって、無茶して良いわけじゃない」

 虎城は少しほっとしていた。京太郎がこれでサマナーでもなんでもないただの異能力者だったとしたら、戦力は絶望的なまでに低くなるからだ。

そして京太郎に仲魔を呼び出せといったのは、京太郎の命を心配したからである。

 自分の体ひとつで悪魔に立ち向かうなどということをしていれば、命がいくつあっても足りないのだ。先ほどであった奇妙な上級悪魔のようなものもいるのだから、何の護衛もなしに動き回るのは無謀というものだろう。

仲魔はたとえ死ぬような怪我を負ってもマグネタイトの結合が崩壊するだけだ。死んだように見えても「特殊な場合」を除き、消滅することというのはない。

だから後で回復させれば、何度でも戦線に復帰させられる。危険な任務に悪魔を使うというのは理にかなっている。何度でも復活できるのだから。

 当然、戦いで使うのも理にかなっている。だから、無茶をするなといって仲魔を呼べという彼女の提案は自然だった。


 さっさと呼び出せという虎城に京太郎が答えた。

「仲魔はいますけど、呼び出せないんですよね。前も言いましたけど、家庭菜園の準備をしているはずですから」

 京太郎は笑っていた。京太郎の答えを聞いたディーも笑っていた。二人とも楽しそうだった。京太郎の答えに嘘はひとつもない。

ディーも嘘がないと知っていた。京太郎の仲魔は今頃龍門渕の余っている土地をつかって家庭菜園を作っているはずだ。

龍門渕の別館に住んでいる天江衣と一緒に、植物の種でも植えているころだろう。

 京太郎とディーが笑っているのは、アンヘルとソックと天江衣がジャージ姿で作業している姿が思い浮かんだからである。

 虎城は引きつった笑みを浮かべて、質問した。

「えっ? ほかの仲魔は? もしかして全部出しっぱなしなの?」

 京太郎は答えた。

「質問の意味がわからないですけど、仲魔は全員出たままですね」

 京太郎の答えを聞いて。虎城が頭を抱えた。虎城は京太郎の答えを聞いて自分たちがまずい状況にあるとはっきりわかったからだ。

 松常久に追われているということが、すでにかなりの修羅場なのだけれども、オロチの世界にまったく仲魔をつれずに入ってくるようなサマナーがいるとは思ってもいなかったのである。

 オロチの世界に入る時には複数の人員を確保するのがサマナーの当たり前である。何があっても対応できるように仲魔をつれてくるのも当たり前のことだ。なぜなら、オロチの作る世界は迷うと簡単には出られない。

 日本の領域を何百も重ねた世界が広がっているのだ。下手に迷えば永遠に抜け出せない。だから、何があっても対応できるように人をそろえるのは当たり前のことなのだ。

 しかしこの二人はそれをまったくしていない。人数だけはオロチに挑める最低人数をそろえているけれどもそれだけなのだから、たまらない。冷静になればなるほど不味いことがわかるのだから、彼女の心は重たくなっていくばかりである。

 先ほどからころころ顔色を変えてもだえている虎城に京太郎は聞いた。

「虎城さんはどうなんです? 仲魔を呼び出してませんけど、もしかしてサマナーではない感じで?」

 あまりにも虎城が長く頭を抱えていたので、空気を紛らわせようとして出た言葉である。お前も戦えと、そういう気持ちがあったから出てきたわけではない。
 ほんの少しだけ気になっていたのだ。どうして虎城は仲魔を呼ばないのかと。これだけ自分たちの仲魔を呼べといっているのだから、自分が呼べばいいだろうと思ってしまう。

 しかし強く言うつもりはなかった。仲魔というのを必要としない人というのもいる、という可能性が京太郎の頭にはあったからだ。

 たしかに、悪魔というのは便利な存在だ。しかし仕事の邪魔に成ることもある。わかりやすいのは京太郎だ。

 京太郎には仲魔が二人いる。アンヘルとソックという悪魔である。アンヘルとソックは女性の悪魔で、二人とも戦いに向いているタイプではない。

一応攻撃手段は持っているけれども、持っているだけだ。使いこなせているわけではない。ナイフのような武器を所持することは誰にでもできるが、使いこなすためには才能と努力が必要だ。彼女たちには努力も才能も足りていない。

 戦いに関していえば、アンヘルとソックは足手まといだ。かなり訓練をつまないと京太郎と同じ場所で戦うことはできない。動体視力も、体の動かし方もそこらへんの女子高生レベルである。悪魔であるから筋力が人よりもはるかに高いけれどそれだけだ。

悪魔と初めてであったときの京太郎でも命がけで戦えば倒せるだろう。

 そのため、もしもアンヘルとソックがドライブについてきていたとしても京太郎は戦いに参加させなかっただろう。足を引っ張るだけだからだ。

 


 逆に呪術と呪物創作ではまったく京太郎は役に立たない。ウエストポーチの中に入っていた改造マッスルドリンコのような簡単な創作物でもアンヘルとソックの足手まといになる。それこそ手取り足取り、しっかりと手順を耳元でささやかれながら創作しても、失敗する可能性がある。

 これは京太郎が馬鹿だからではなく、アンヘルとソックの「できて当たり前」が非常に高いところにあるからおきるのだ。歩き始めたばかりの赤ん坊に、オリンピック選手のような走りを要求するくらいには「当たり前」が離れたところにある。

 適材適所という話なのだが、もしも虎城の仕事というのが一人でやったほうがずっといいというタイプの仕事なら、仲魔はいらない。

 そしてそもそも、一人のほうが好きな人もいるのだ。誰もが仲魔を求めるわけではない。このあたりに、京太郎は気がついていた。

 それで虎城について気になっていることがいくつかあるので、話の切り替えに使ったのだ。

 京太郎の「呼ばないのか」という質問に虎城は答えた。

「充電が切れてて、呼び出せない……」

 ずいぶん小さな声だった。スポーツカーの不思議な空間の中で虎城は赤くなっていた。小さな呟きだったが、車の中でよく響いていた。

 京太郎のなぜという疑問に対してこれくらいわかりやすい答えはないだろう。虎城のズボンのポケットの中には召喚のために使う携帯電話が収まっている。そこそこ丈夫に改造した携帯電話だ。ゾウが踏んでも壊れない耐久力がある。防水加工もしている。ちょっとのことでは壊れないだろう。

 しかし携帯電話は残念なことに充電が切れていた。電気がなければ携帯電話は動かないわけで、どれだけ仲魔を呼びたいと思っていてもできないのだ。虎城も理由はどうあれ、京太郎とディーと変わらない状況だった。


 スポーツカーは少しも止まることはなかった。途切れない草原と青空の異界を先に先に進んでいく。運転するディーはなんともいえない顔をしていた。

 虎城が戦力として期待できないことを責めているのではない。京太郎の質問に恥ずかしそうに答える虎城が不憫だったのだ。たいしたやり取りではないのだ。仲魔を呼ぶとか呼べないとか、それだけのことだ。ただ、京太郎の質問が虎城の痛いところをついたというのがまずかった。年下の京太郎につかれるのがまずいのだ。

 年功序列というのはヤタガラスではあまり意味がないものだ。うるさく言われるものではない。ディー自身もあまりうるさく言うつもりはない。

 しかし、人間関係は簡単に割り切れるものではない。年上には年上の接し方というのがあり年下には年下の接し方がある。このあたりの微妙な力の作用がよくわかっているので、年下の京太郎に痛いところをつかれた虎城の気持ちというのがディーにはよくわかったのだ。
 


 ディーの運転する車が道に従い進んでいく中で、京太郎は窓の外の景色を眺めていた。非常に真剣だった。

窓の外に広がっている景色をひとつも見逃さないぞという強い気持ちがあった。京太郎は目の前に広がっている景色が珍しかったのだ。アスファルトもなく石畳もなく、人の気配のない風景。

人間のみならず動物も見当たらない穏やかな世界。排気ガスと人間がひしめき合っている現世に生きている京太郎からしてみれば、あまりにも不思議な光景だった。どんな田舎であってもこの異界ほど穏やかな風景はないだろう。

この世界が妙に心をひきつけていた。

 京太郎が窓の外をじっと見つめていると、ディーが聞いた。

「面白いか?」

 純粋な興味がディーにはあったのだ。ディー自体はこの風景に思うところは少ない。ディーにしてみれば、人の姿がなく人の匂いがしない世界がある。

それだけだ。少し寂しいとは思うけれども、京太郎のように興味を持つような風景ではなかった。

 少し間をおいてから京太郎は応えた。

「はい。タイムスリップしたような気持ちになりますね。携帯があれば写真のひとつでもとっていたと思います」

 本当に残念そうだった。携帯電話で写真のひとつでも撮っておけば、気が向いたときにでも眺めることができたのだ。しかし京太郎は携帯電話を持っていない。以前は持っていたのだ。しかし壊れてしまった。新しいものを用意するのを忘れていて、今の状況である。

 しかし、写真をとっても今のような気持ちを何度も体験できるなどとは期待していなかった。京太郎の感じている感覚は、五感を通して感じているものであって、目だけで感じているだけではないからだ。しかしそれでも残念だった。

 京太郎がこのように言うと、ディーがこういった。

「須賀ちゃん携帯電話持ってないの? 最近の高校生には珍しいよね」

 ディーが高校生だったときでさえ、携帯電話を持っていない同級生はほとんどいなかったのだ。スマートフォンだとかが出回っている現在では、もっていない人間など絶滅危惧種なみに珍しいだろう。龍門渕に天江衣という絶滅危惧種がいるけれども、ディーの隣にも見つかった。

 京太郎は軽く笑った。そして説明をした。

「持ってましたよ。でも悪魔に襲われたときに全部やられちゃったみたいで行方不明です。まぁ、なくてもそれほど困るものじゃないですから、かまわないですけどね。

 それよりも教科書系統が全部だめになってたほうがショックでかかったですね。ライドウさんが手を回しておいてくれたみたいで助かりましたよ」

 病院で目を覚ましたときに一番ぞっとしたのは髪の毛の色が変わったことでもなければ、自分の仲魔がいつの間にかライドウと交渉して戸籍を手に入れていたことでもない。

 一番ぞっとしたのは、学生生活で必要なものの一切が失われていることに気がついたときだった。学生服はもちろん、カバンの中に入っていたものすべてがどこかに消えていたのだ。

焼かれたのか、川に流されたのかはわからないが、どこにもなかった。これから学生をやっていこうと思っていた京太郎にとっては最悪の状況だった。

携帯電話がどこかに消えてしまったことなど、どうでもいいくらいの衝撃である。結果その衝撃のために代わりの携帯電話を用意するなどという発想までいたらなかったのだが、しょうがないことである。

 

 京太郎が説明をするとディーがこういった。

「あぁ、わかるわかる。俺もそんな感じだわ。携帯電話がなくても職場に毎日顔出すからいらないんだよね。

直接連絡を受けることのほうがはるかに多いし。着信履歴は家族と仕事関係ばっかりだわ。携帯電話より家の電話を使ってるほうが多いかも」

 ディーは笑っていた。学生時代は携帯電話を持っていなければ不便であるという感覚があった。しかし年をとってくると必要なときにしか携帯電話を使わなくなってしまった。

 友達づきあいというのも一年に何回か顔を合わせるだけで済むようになってくる。職場も龍門渕で運転手だ。スケジュールだとか細かい連絡は直接することのほうがはるかに多い。携帯電話では伝えられない情報というのももちろんある。

 結果としてほとんど携帯電話なんて使わないということになってしまうのだった。


 二人が携帯電話なんて使わないと話し始めると、恥ずかしそうにしていた虎城が京太郎に話しかけた。

「もしかして須賀君って人力世代のサマナーなの? 自分の仲魔を離れたところで自由にさせられるのって、たぶんそうだよね?」

 いくらか持ち直してきたようだった。恥ずかしがってもしょうがないという境地に至ったのである。また、目の前に転がっている珍しいサマナーのほうに虎城の興味は向いていた。

 珍しいサマナーというのは京太郎のことだ。現在のサマナーたちはほとんどが機械に頼った方法で悪魔たちを使っている。機械を使えば間違いが起こらない上に才能を必要としないのだから、誰もが機械で悪魔に接するようになる。そのほうがずっと楽で便利なのだ。

 虎城も機械を使う。弓矢よりも拳銃。自転車よりも車。飛行機があるのに、わざわざ泳いで海外に出て行くものはいない。

 しかしものすごく珍しい人たちもいる。昔ながらの方法で、悪魔を召喚して、仲魔にしている人たち。

 たとえば、十四代目葛葉ライドウとその二人の弟子。話に聞いたことがあるだけなので、実際に人力で悪魔を召喚している人を虎城は見たことはない。

しかし修行の面倒くささとつらさというのを話に聞くと少し変わっているなと思わずにはいられない。だから人力で悪魔を召喚する人たちをこんな風に彼女は分析していた。

 「人力タイプの人たちは伝統を重んじる人たちだ」

そして

「便利なものを便利なものだといって割り切ればいいのに、意地を張っている頑固者だ」と。

 すこし偏見が入っているように思うところではあるけれども、飛行機があるのにあえて泳いで外国に行こうとするくらいにはおかしなことをしているのだから、頑固者といわれても変人といわれてもまったくおかしくない。

「後方支援担当」なら、ごく当たり前の意見である。ほとんどの後方支援タイプのサマナーはうなずいてくれる。これが最前線で戦う「退魔士」ならば落第だが、彼女は後方支援なので問題ない。

 しかし頭が固そうな人たちというように分析してみると、京太郎はそういうタイプに虎城は思えなかった。ほとんど判断材料というのがないけれども、虎城はそれっぽくないと思っていた。

だから少し不思議に思い、質問したのだった。そして、この不思議自体に虎城はわくわくし始めていた。虎城の目が輝き始めている。超高速で運転しているときのディーと同じ目だった。



 虎城の質問に京太郎が答えた。

「違いますよ。というか、人力世代ってなんです?」

虎城のいう人力という言葉が何をさしている言葉なのかわからないのだ。不思議そうに、虎城を見つめていた。

 そもそも京太郎は一般的なサマナーではない。修行をして悪魔を使役するサマナーでもなければ、機械の力に頼って悪魔を使役するサマナーでもない。召喚術どころか、サマナーたちが暮らしている裏世界の常識などかけらも知らないのだ。

 不思議がっている京太郎を見て、虎城がさっぱり判らないといった顔をした。さっぱりわからないのは、虎城も同じなのだ。仲魔というのは契約を結んでいる悪魔のことだ。

契約を結ぶためには修行を積んで悪魔を従わせる術を身につけるか、機械に頼った方法をとるしかない。しかし京太郎はどちらも違うといった。

それどころか「人力」という言葉の意味さえ理解していない。さっぱり理解していないのだ。

 そうなってくると悪魔を使役する方法がなくなってくる。機械に頼るか修行しかないのだから、おかしなことだ。

 しかし仲魔はいると京太郎は答えている。さっぱりわからない。理屈が通らない。

 困っているものが二人にふえるとディーがこういった。

「人力ってのは機械に頼らずに悪魔と契約をするってことだな。パソコンが普及する前は才能を持った人間しかサマナーになれなかった。

 十四代目みたいなタイプだな。ハギちゃんもベンケイさんもこれだ。

 才能が必須だったから、昔はものすごくサマナーが少なかったらしい。才能がなければ悪魔を見ることも声を聞くこともできない。

生まれもったものがなければ修行だ。凡人には悪魔と出会うための修行が必要だった。大体はここであきらめるって話だった。見えないものを信じて努力を重ねるのはつらいことだからな。

 面倒な話だよな。それにコミュニケーションをとるのもとんでもなく難しかったそうだ。悪魔の全てが日本語を話すわけじゃないからな。

日本の悪魔でも古い時代の悪魔というのはまったく違った言葉を話すこともあるらしい。

 こういう、一切の面倒ごとを努力でどうにかするから人力だな。

 今の時代は機械が何でもやってくれるからデジタル世代のサマナーって感じ。機械に頼るようになってからはサマナーになるのがとても簡単になった。

悪魔召喚プログラムをパソコンにインストールするだけ。技術が高まってからは携帯電話で行えるようになって更に簡単になった。だれでも、サマナーになれる。

 須賀ちゃんが龍門渕で相手をした女の子、あの子がデジタル世代のサマナーさ。ああいうタイプがむちゃくちゃ多い。大量の仲魔を呼び出して個人としての戦いではなく、集団で戦争を行うタイプ。

 あの子はハギちゃんが修行をつけているからそれなりにできる。しかしほとんどのサマナーは役に立たないから、俺たちはあまり期待していない」

 ディーは京太郎がほとんど一般人であると知っていた。だからサマナーの世界では当たり前の話を説明したのだ。

 ディーの説明を聞いた京太郎はうなずいた。何度もうなずいて見せている。感心しているようだった。

 京太郎はかなり大雑把に話を理解していた。京太郎はこのように理解している。

「今の時代には二つのタイプのサマナーがいる。
 ひとつは武将タイプ。自分も前線に出て、悪魔たちを率いる武人。戦っているところは見ていないけれど、ディーさんの話しぶりからしてハギヨシさんがそうだろう。

 あえて当てはめていけば、俺もこのタイプ。アンヘルとソックを前線に引っ張っていくつもりはないが、あえて当てはめればここに俺がいる。

 もうひとつは指揮官タイプ。悪魔たちをたくさん呼び出して、自分は後ろで計画を立てて戦争を行う策士。これは龍門渕でヨモツシコメとヨモツイクサを呼び出した沢村さんがそうだろう。

そしておそらく、松常久とその部下たちもこれだろう」

 そして口に出さなかったけれども、デジタル世代のサマナーたちに対しての一番簡単な対処法を京太郎は見つけていた。京太郎は心の中でつぶやいた。

「やはりというか、ハギヨシさんが直接攻撃を禁止したときからうすうす感ずいてはいたが、サマナーを直接始末するのが一番手っ取り早くて確実みたいだな。

サマナー単体が戦闘訓練を積んでいないせいで足手まといになっているのだろう」

 そして無意識に京太郎は心の中でつぶやいた。

「つまらない」と。

 
 ディーの話を噛み砕いてうなずいている京太郎。一方、虎城はさっぱりわからないという顔を浮かべていた。悪魔との付き合い方が世代間で違っているというところがわからないのではない。

当たり前のことをはじめて聞いているような京太郎がわからないのだ。

 いよいよわからなくなった虎城は京太郎に聞いた。

「もしかして誰かから譲られたとか?」

 可能性としてはある話だ。サマナーとして働いていた誰かが、京太郎に仲魔を託すという方法である。普通の人間でもマグネタイトを持っているのだ。維持するだけのマグネタイトがあれば、仲魔を手に入れることはできる。

 まったく京太郎がどうやって仲魔を作ったのかわからない虎城に、京太郎はこういった。

「それも違いますよ。普通に契約しただけです」

 虎城が何に悩んでいるのか京太郎はさっぱりわかっていない。契約を結ぶというのは、簡単なことだと思っている京太郎にしてみれば、何がどうおかしいのかがわからないのだった。

 京太郎の答えを聞いた虎城はうんうんとうなり始めた。京太郎の話をどうやって理解していけばいいのかわからなくなって頭が混乱し始めたのである。

 二人のかみ合わない様子を見かねてディーがわかりやすく説明した。

「つまり須賀ちゃんは神話の時代の契約を結んだってことさ。サマナーたちが結んでいる雇用契約じゃない」

 ディーの説明を聞いた虎城は顔色を真っ青に変えてこういった。

「神話の時代? つ、つまり……真正の魔人? 確かにそれなら理屈は通るけど、そんな馬鹿な話があるわけがない。

 不死性を捨てるリスキーな契約を結ぶ悪魔がいるわけがない。それに、仮にそうだったとしたら、須賀くんは魔人?

 真正の魔人の情報が上がって来てないってどういうこと?」

 先ほどであった奇妙な女性悪魔を前にしたときよりもずっと顔色が悪くなっていた。助手席に座る京太郎をまっすぐに見れなくなっていた。

 虎城は京太郎を恐れたのだ。魔人というのが非常に厄介なものであるというのもわかっているし、神話の時代の契約というのがどういうものなのか虎城は理解していた。

だから怖いのだ。わかるから怖い。

 もしも虎城が、まったく何も知らない状態であれば、なんとも思わないだろう。そういう契約を結んだのだくらいの気持ちにしかならない。

魔人だといわれても、それがどうしたのかといって終わってた。

 わかるから怖いのだ。サマナーである虎城は知っている。神話の時代の契約と、神話の契約で生まれてくる魔人という存在の危なさというのを知っている。知識が恐怖になっていた。

 京太郎が何をしたわけでもないので怖がるのは筋違いではある。行動だけを見れば、京太郎は命を救っていたり助けていたりするわけだから、どちらかといえば良いタイプだ。

 しかし、怖いものは怖いのだ。彼女は京太郎のことを理解して、恐ろしくなって、青ざめたのだった。


 虎城が黙り込んでしまった。京太郎も、ディーも黙っていた。そのまま重苦しい空気に包まれたまま、スポーツカーは進んでいった。

京太郎もディーもさっぱり気にしていないようで進行方向ばかりを見ていた。ディーは前に進むため、京太郎は気持ちのいい景色をよく覚えておこうという気持ちがあったためである。

 また虎城が自分のことを怖がっているのに気がついているので、特に京太郎は何もしなかった。

入院している間に十四代目から魔人という存在について教えてもらっているのだ。もしも自分が普通の人間であったら、きっと魔人のことが恐ろしくてしょうがなかっただろうと思う京太郎だったので、虎城のことはしょうがないと割り切っていた。


 重苦しい空気のままで五分ほど走ったところ。青空と草原の異世界の道半ばでディーがこういった。

「おっと、どうやらまた用事があるらしい」

 視界の中に一メートルほどの岩が見え始めたのだ。はじめはひとつ。次には二つ。次には三つ。どんどんと岩が増え始める。先に進むにつれて増えていく岩たちが何を示しているのか、ディーはすぐ思い当たった。京太郎と握手を求めた奇妙で怪しい女性だ。

 引き返えすという選択肢はディーになかった。バックミラーに写る光景を見たからだ。前に見える岩よりもはるかに多い岩が道をふさぎ始めていた。ディーはこれを

「前に進め、逃がさないぞ」

という怪しい女性の意思と受け取っていた。

 怪しい女性の介入をディーが感じ取ったのとほとんど同時に、京太郎の目が見開かれた。への字に結ばれていた口元が釣りあがり、笑みを作っている。獣のようだった。

 今まで穏やかだった京太郎に一気に活力がみなぎり始めた。車の中の重苦しい空気が一気に吹っ飛ぶ情熱が京太郎から発せられていた。京太郎もまた怪しい女性の介入を感じ取ったのだ。

視界に増えていく岩。その先に待っているのは間違いなく怪しい女性だろう。二度目なのだ。いやでもわかる。

 京太郎はこう思ったのだ。

「雪辱戦だ。手も足も出なかった相手にもう一度挑むことができる」 

 別に戦っていたわけではないのだから、雪辱戦も何もない。ただ、握手に反応できなくて悔しいと思っているだけである。しかし、やられたという気持ちが京太郎にはある。

 馬鹿な話だが、悔しいのだ。反応することもできない自分が悔しくてしょうがない。やはり、やられっぱなしは悔しい。

せめて反応したい。全力で反応したいのだ。せめて視界に納めたい。実に頭の悪い望みである。しかし本当に反応さえできなかったのが悔しかった。

 そんな悔しい思いをした相手ともう一度出会えるかもしれない。獣みたいな顔にもなる。

 京太郎が獣じみた笑みを浮かべるのを運転席のディーは苦笑いで受け止めていた。京太郎のような笑みを浮かべる人間をディーはよく知っていた。

こういうタイプの人間が口で何を言っても止まらないというのも知っていた。そして大体において自分が手を貸す羽目になるというのもわかっていた。

そのため、ほとんどあきらめに近い感情で京太郎の援護だとか、もしものときの対処というのを考え始めたのであった。

 無限に広がっていた草原が一メートルほどの岩でどんどん埋め尽くされていく。岩で埋め尽くされる道を京太郎は見つめていた。道の先を睨んでいる。しかしそれは憎しみからではない。頭を働かせているのだ。

どうやって怪しい女性に対抗するのか。どうやって視界に捕らえるのか。必死で、どうにかしようと頭をひねっていた。

 怪しい女性が、もう一度京太郎の前に現れてくれるという保証はない。まったく別の誰かが現れる可能性もある。しかしもしも怪しい女性であったとしたら、どうにか対応したい。

対応するためには今のままではいけないのだ。今のままならまた反応できないまま終わるだろう。それはだめだ。だから必死になって考えるのだった。

 岩が生え始めて三分後、スポーツカーは運転をやめていた。道がほとんどなくなってしまったからである。

視界のほとんどが岩で埋め尽くされて、引き返すこともできなくなっている。一応道はあるのだ。スポーツカーの前に一本道である。進めばいいところだけれども、少し気が引けるのだ。

というのが、一本道の向こうには円形の空間がある。半径十メートルほどの円形の空間だ。ここは普通の草原だった。

そして運のいいことに、円形の空間の中心にはオロチの石碑が立っていた。非常に運がいい。

 しかし、問題があった。オロチの石碑のすぐそばに、怪しい女性が立っていたのだ。長い髪の毛を地面に引きずって、ぼろ布をまとっただけの怪しい女性である。

どうやら、スポーツカーに用事があるらしかった。輝く赤い目がスポーツカーを睨みつけていた。

 スポーツカーの中にいた三人はおのおの違った反応を取っていた。京太郎は笑みを浮かべ、虎城は恐れ震え、ディーはあきらめていた。

 いかにも怪しい女性をオロチの石碑のそばで発見したディーは車を止めた。女性から二十メートルと少し離れているところだった。怪しい女性が誰を狙っているのかすぐにわかった。

怪しい女性の輝く赤い目は助手席の京太郎を見つめてまったく動いていない。このまま近寄っていって、京太郎を危険にさらすというのがディーには選べなかった。オロチの石碑を使いたいという気持ちはあるけれども、京太郎を危険にさらすのはだめだった。

 止まった車の中でディーはこういった。

「あの女悪魔とコンタクトをとろうと思う。

 オロチの石碑を使いたいと俺は考えている。そうすれば現世への帰還がすばやく行える可能性が非常に高い。

松常久という準幹部クラスの裏切り者がいる以上、早く龍門渕へ戻り関係者たちと情報交換を行うべきだ。

 しかし危険がある。あの怪しい女が、オロチの石碑を使わせないように邪魔をしている。きっとまた、須賀ちゃんを要求するだろう。じっとこっちを見ているのを見れば、ほぼ間違いないと思うがな。

 それでだ。どうする須賀ちゃん。俺は強制するつもりはない。須賀ちゃんは、一般人だ。ヤタガラスじゃない。

 怖いなら、ここにいてくれたらいい。この車の結界は簡単に壊れない。上級悪魔程度の攻撃では傷ひとつつかない。きっと守りきれるだろう

 悪いとは思うが、選んでくれ。ここに残るか、俺と一緒に先に進むか」

 ディーは淡々と京太郎に話をした。京太郎にどうするかを任せていた。というのが、ディーには二つの考え方があるのだ。

 ひとつはなんとしても龍門渕に戻りたいというヤタガラスとしての考え方。いつまでもだらだらと道を走っているわけには行かない。できるだけ早く龍門渕に戻り、情報交換をするべきだろう。

ライドウが内偵を命じていた事件についても、内偵にかかわっていた虎城たちに対する襲撃に関しても、今のままでは前に進むのが難しい。というのが、ほとんどの証拠が虎城に集中しているからだ。

 なにせ虎城の班員たちに何が起きたのかを知っているのは今のところ当事者である松常久と、虎城のみ。虎城がいないままでは龍門渕もハギヨシもいまいち上手く動けない。

 たとえ内偵にかかわっていたサマナーたちが行方不明になっていると確認ができても、おそらく松常久がヤタガラス襲撃にかかわっていたという証拠は悪魔の技術を使い消されているだろう。

 何にしても、戻るためにはオロチの石碑を使うのが一番手っ取り早くしかも安全である。日本の国土を何百も重ねた領域を持つオロチの世界から抜け出すためには道しるべが必要なのだ。地図がない以上は頼るしかない。


 しかしヤタガラスとしての考え方以上に、二つ目の考え方というのがディーを悩ませている。
 
 ディーは京太郎を巻き込みたくないのだ。なぜなら京太郎はヤタガラスではない。仮にヤタガラスであったとしても、いかにも怪しい女性の生け贄にするようなまねというのはディーの正義が許さない。

合理的な判断であっても許さないのだ。怪しい女性が何者なのかわからない。そして何を持って京太郎に興味を持っているのかわからない。わからないことばかりだ。

 手探りで進むしかない真っ暗闇の道、獣が潜んでいるかもしれないのに、子供を歩かせる。そんなことはディーにはできない。

「できるだけ遠ざけておきたい。火の役割を果たせる自分の元においておきたい」

 これがディーの二つ目の考え方で、一人の人間としての根っこの部分であった。

 結果としてヤタガラスとしての合理性と、人としての正義がせめぎ合って京太郎に決断を任せるような話をしてしまったのだった。

京太郎が選んだ結論であればどちらでもディーは納得できるから。積極的には選べなかった。


 ディーの示した二つの道、京太郎はしっかりと選び取った。少しも迷わなかった。

「とりあえず、話でもしましょうか。手を握られるくらいで通してくれるのならたいしたことじゃないですし、オロチの石碑の案内は俺もぜひ使いたい。

いつまでもオロチの世界にいるつもりはありませんから。

 それに今度は反応して見せますよ。ちょっと思いついたことがあるので試してみます」

 京太郎は明るく元気に振舞っていた。特に恐怖の色はなかった。京太郎の頭にあるのは怪しい女性に対して自分の思い付きが通用するのかというわくわくした気持ちだけだ。ディーが感じているような重苦しい気持ちというのはない。

 また、明るく振舞っているのは、虎城に気を使ったためである。虎城が自分のことを怖がっているというのはわかっている。

スポーツカーの不思議な空間で小さくなっているのが証拠である。そして車の中の空気が、いまいちよくないことも察している。

暗くてよどんでいてよくない。その空気を察していたからできるだけ明るく振舞った。ここで、真剣な口調で話をしたら、また空気が悪くなるなと思ったのだ。あまり空気が悪いと、虎城もディーもつらいだろうという配慮である。
 

 京太郎を見て、ディーはこういった。

「わかった。それじゃあ、いこうか。

 もしものときは心配しないでいいよ。俺がしっかり守る。これでもめっちゃ強いからね」

 先ほどの淡々とした調子からは打って変わって楽しそうだった。京太郎を見てここにはいない誰かの姿をディーは思い出していた。

 ディーが楽しそうに笑っている間に助手席から京太郎が降りた。非常にすばやい動きだった。シートベルトをはずすと、助手席の扉を開いて、一本道に変えられた草原に飛び出していった。

誰の目から見ても京太郎は交渉するとか、危険な存在と係わり合いになるという緊張感がなかった。頬が赤くなり、目に力が宿っていた。

 勝負前のスポーツ選手のようだった。京太郎の頭にあるのは目の前の奇妙な女性との握手のことだけなのだ。

 京太郎が草原に下り、準備運動を始めたころ、ディーは運転席から降りた。少しあきれていた。ディーの中での目的は龍門渕まで安全に戻ることなのだ。

いちいち確認していないけれども、虎城も京太郎も同じ目的だろう。細かいところは違うにしても同じはず。しかし車から降りて草原に降り立った京太郎はどう見てもこれから一発戦うぞというやる気に満ちていた。

その様子がどうにも自分の知り合いというか、ハギヨシの若き日に重なって、困ってしまうのだ。ディーはこう思う。

「はしゃぎすぎて、ハギちゃんみたいに優先順位を間違えてくれるなよ」と。


 運転席から降りるとき。スポーツカーの不思議な空間で小さくなっている虎城にディーが声をかけた。

「さっきも言いましたが、この車の中は安全です。もしも俺たちが戻ってこれなかったら車の中に隠れていればいい。

そのうち迎えが来てくれるはずです。何日かかるかはわかりませんが、きっと迎えに来てくれるでしょう。氷詰めになって我慢するよりはずっとましなはず」

 ディーは虎城のことを戦力としてみていない。後方支援に割り当てられているのだから、戦う力は少ないだろうと判断していた。

 自分たちがここでやられるとは思っていなかった。京太郎がいるからというのももちろんある。しかしいざとなればどうにかできる力をディーは持っている。

ただ、どんなものにも万が一というのがある。もしかすると京太郎もディーも戻ってこれない、という結末もあるのだ。そのときのことを考えると、伝えておくべきだった。

 準備運動を終えた京太郎と少しあきれているディーが怪しい女性に近づいていった。京太郎の体からは熱気が漂っている。一方ディーは実に落ち着いていた。いざというときに備えているのだ。


 二人を見送りながら、虎城は唇をかんだ。二人が恐ろしいからではない。無鉄砲な二人に腹を立てているわけでもない。京太郎が助手席から降りて行き、ディーが運転席から降りていったところで、やっと彼女は冷静になったのだ。

 そして今までの二人の行動というのを思い出していた。命を助けてくれたこと。悪魔の群れを追い払ってくれたこと。自分の身をたてにして衝撃から守ってくれたこと。

 そして自分が何をしたのかを思い出した。どこかの誰かの知識だけでおびえて、勝手に恐れた。今まで見てきたものをさっぱり忘れて、頭の中で終わらせた。

 冷静になった彼女には自分がよく見えてしまったのだ。そして自分の振る舞いが恥ずかしいものであったとわかってしまった。

 これだけでも苦しいものがある。しかしそれに加えて、そんな自分に対して今でも、気を使ってくれる二人がいる。

 京太郎もディーも気を使ってくれているのがわかったのだ。京太郎の変に明るい振る舞いも、ディーの忠告も気を使ってくれたからだろう。その優しさが余計に恥ずかしく思わせた。



 怪しい女性の元へと京太郎とディーは歩いていった。引きずるほど長い髪の毛の女性はオロチの石碑を背中に隠して立っている。怪しい女性に近づく京太郎はやる気に満ちていて、その隣を歩くディーは京太郎に軽く注意をしていた。

 京太郎にディーはこういうのだ。

「まずは、会話から。会話からだからね? いきなりゴングを鳴らすのはだめだよ」

 やる気に満ちている京太郎はいきなり戦いを挑みそうな雰囲気があったのだ。六年前に若きハギヨシがやらかしたのを覚えていたので余計に注意していた。

 とても心配しているディーの注意に京太郎は軽く答えた。

「わかってますって。別に喧嘩がしたいわけではないですから。ただ、反応したいだけです」

 京太郎はフンフンと鼻を鳴らしていた。喧嘩でも始まりそうな勢いがある。しかし、本当に喧嘩をするつもりはない。

京太郎の答えは本当で、反応すらできなかった怪しい女性の行動に「ついていってやるぞ」という意気込みがあるだけだ。

それに、追いつく方法というのを思いついたので、思いついた方法というのを試すわくわく感も加わっていた。

 二人が近づいてくると怪しい女性は動き出した。まず怪しい女性は京太郎を指差した。

右手の人差し指を京太郎に向けて、ゆらゆらとさせている。前髪が長すぎるために表情はさっぱり見えない。

しかし前髪の向こう側で輝く赤い目が見えた。その赤い目が京太郎を前にして形を変える。光の形からして笑っている。

 怪しい女性は京太郎を待っていたのだ。そして、京太郎が車の中から出てきてくれた。それがとてもうれしかったのである。

 そしてこの怪しい女性はつぶやいた。

「手、手……手」

 声が非常に小さい。やはり話しなれていないのだろう、声帯がまともに動いていない。声がざらついている。しかし何を求めているのかは、京太郎にもディーにもわかった。先ほどと一緒だ。この怪しい女性は京太郎の右手、マグネタイトの交換を求めている。


 怪しい女性の目的を完全に察したディーが再び京太郎にきいた。

「どうする? この様子ならさっきと同じ事が起きるはずだ。須賀ちゃんがやばいと思うのなら、俺がここで始末してもいい。

 回数を重ねることで、発動する呪いもあるからな。ここなら被害を気にせずに魔法が撃てるから俺も本気で戦える。

多少の被害はあるだろうがどうする? 須賀ちゃんが相手をするか? やめてもいいぞ」

 真剣な表情である。しかし京太郎が握手に望むだろうという予感のほうがはるかに強かった。

しかし、もしも京太郎が怖気づいたら怪しい女性にディーは対応するつもりだ。

 ここで京太郎が怖気づいてもまったく責めるつもりはない。怪しい女性の風貌、垂れ流しになっている巨大な魔力。どこからどう見ても怪しいのだ。

仮に京太郎の立場ならディーはいやな気持ちしかなかっただろう。ならば、年長者で実力者であるディーが対応するという判断は自然だった。

 ディーが交代するかというので京太郎は静かに返事をした。

「大丈夫だと思います。もしも何かあったら、そのときはお願いします」

 京太郎は気を引き締めた。怖いという気持ちもあるけれど、試してみたいという気持ちのほうがずっと強かったのだ。

 一応命の危険というのも考えてはいる。もしかすると命を持っていかれる可能性もある。先ほどは手を握られるだけだった。

しかしそれは目の前の怪しい女性が殺すつもりがなかったからそうなっただけだ。目で追う事もできなかったのだから命を獲りにこられていたら、終わっていただろう。

 もしかすると次の瞬間には自分が殺されているかもしれない。それも気がつかない間に。恐ろしいことだ。

 しかし京太郎は思いついてしまった。このとんでもなくすばやく動く怪しい女性を目で捉える方法というのを思いついてしまったのだ。

思いついてしまったら、試さずにいられなくなっていた。

 恐怖よりも、全身全霊を持って挑戦する喜びに心は傾いていた。馬鹿なことに一生懸命になっているなというのは自分でもわかっている。しかし、どうしようもないのだ。


 ディーに返事をすると怪しい女性に京太郎は近寄っていった。京太郎の顔には笑みが浮かんでいる。若干の不安と恐怖に、多くの喜びを混ぜたものである。

「思いついた方法を思い切りぶつけてやろう」

 怪しい女性と京太郎の距離は十メートルほど。その短い距離の中で京太郎は女性とのやり取りについて頭を働かせていた。

もしも動きを捉えることができたならと考えはじめると、たくさんのやり取りが思い浮かんできたのだ。

 そして心臓が高鳴る。呼吸を忘れそうになる。考えるだけも楽しい時間だった。

しかし十メートルはあっという間に京太郎と女性の手が届く距離に縮まってしまう。

 勝負のときが来た。切羽詰った感情がわいてくる。しかしそれさえもよかった。間違いなく京太郎は満ちていた。

 怪しい女性の前に立つ京太郎の背中にディーがこういった。

「後始末は任せとけ、好きなようにやってみろ」

信頼できるものだった。

 京太郎が近寄ってくるのを見ていた怪しい女性は笑っていた。うれしいらしい。引きずっている長い髪の毛が笑うたびにゆさゆさと震えている。

人型のモップが震えているような滑稽さがあった。しかし、女性の風貌が、特に前髪の奥で光り輝いている赤い目が、馬鹿にさせてはくれない。恐ろしくてしょうがない。

 笑い声も金属的な響きが多く含まれている。声を出すのもへたくそだったが、笑い方もへたくそだった。

 怪しい女性は京太郎を求めている。何を持って京太郎を気に入ったのかはわからない。しかし、京太郎の何かがこの女性をひきつけているのには間違いなかった。

 怪しい女性に手が届く距離まで京太郎が近寄ったときのことだ。京太郎は首をかしげた。おかしいなと思ったのだ。妙なにおいがしたのだ。

京太郎はこの臭いをかいだことがあった。

「酔っ払った、親父」

 そしてすぐに京太郎は思い当たった。

「俺のマグネタイトを吸い取った副作用か?」

 そうすると、怪しい女性の目的も京太郎は予想ができた。

「もしかしてこの人は酒好きなのか? 一度目のやり取りで俺のマグネタイトに気がつき、追いかけてきたとか?」

 答えはわからない。怪しい女性に聞くような暇はない。答えてくれる保証もない。そしてそんなこと今はどうでもいい。

 京太郎は一気に心を引き締めた。反応できない動きについていく方法を試すためである。怪しい女性が酒好きかもしれないとか、自分を物のように思っているかもしれない、などというのはどうでもいいことだった。


 酒臭い怪しい女性は京太郎に向けて右手を差し出してきた。鋭い爪が生えた白くて細い右手である。

 右手を差し出してきたのにあわせて、京太郎は魔力を練り上げ始めた。京太郎の魔力が一気に高まり始めた。

近くで見ていたディーは京太郎が攻撃呪文を唱えるのではないかと身構えた。しかし自分の予想は間違いであるとすぐにディーは察する。

京太郎の異変に気がついたのだ。

 京太郎の練り上げた魔力がまったく外に漏れ出していなかったのだ。魔力こそ高まっているが、外に出ていない。

むしろ今まで垂れ流しになっていた魔力がどんどん京太郎の内側に押さえ込まれていった。

 内側で膨れ上がる魔力の影響で鼻の中の毛細血管が切れたらしく京太郎が鼻血を流し始めた。ディーは京太郎が何をしているのか理解した。

「あえて力を内側に溜め込んで、感覚を強化するつもりか? 痛いではすまなくなるぞ」

 鼻血を流しながら京太郎は怪しい女性に右手を差し出した。鼻血を出しながら右手を差し出す京太郎は、笑っていた。

実に恐ろしい表情である。獣としか言いようがなかった。京太郎が笑っているのは自分の思い付きが正解だったと喜んでいるのだ。

 感覚の強化を思いついたのはハギヨシの話からである。龍門渕へむかう車の中で、ハギヨシが京太郎に感覚の鋭さについて説明をしてくれたのを覚えていたのだ。

「上手くマグネタイトと魔力を発散できないことが、感覚の強化につながっている」

 感覚の強化の効果というのは、日常生活で実感できている。普通なら気づかない小さな傷に気がつき、面白かったはずの麻雀を退屈なものに変えてしまった。

退屈なものに変えてしまったことは残念である。しかし、その効果というのは半端なものではない。

普通では考えられないところまで感覚がとがっていた。

 厄介な状況だと嫌うこともできるが、考え方を変えれば利用することもできる。

特に何もしていない状態で、日常生活に支障が出るレベルの強化が行われるのならば、無理やりに魔力を高めて、かつ、あえて外に出さないようにすればどうなる。

 「更なる感覚強化が見込めるのではないだろうか。反応できない存在にも追いつけるのではないだろうか」

 京太郎の思いつきは見事に形になった。時間がゆっくりと動き、見えなかったものが見え始める。

ただ、代償だろう。激しい頭痛が京太郎を襲っていた。

 
 激痛に一瞬京太郎は顔をゆがめた。痛くてしょうがなかったのだ。しかしほんの一瞬のことだ。一秒もない空白の時間。しかしこの空白の時間を怪しい女性は見逃してくれなかった。

 一瞬気を抜いた京太郎の右手をつかみにかかったのだ。怪しい女性からしてみれば、京太郎の手を握るのが目的なのだ。自分からのこのこやってきた京太郎を見逃す理由はない。

 また、京太郎は女性に一泡吹かせてやると意気込んでいるけれども怪しい女性は京太郎の気持ちを気にする必要はない。

京太郎が勝手に意地を張っているだけなのだ。

 そのため、すきを見せたのをきっかけにして、これ幸いと右手を握りに来たのだった。


 しかし思いのほかあっけなく、女性の右手は空を切った。つかみそこなったのだ。

女性の手は、京太郎の右手の下を掠めていく。一度目とおなじスピードだったのにもかかわらず、つかみ損ねた。

 激痛に耐えている京太郎がわずかに上半身をそらしたのだ。

 しっかりと怪しい女性の動きが京太郎には見えていた。研ぎ澄まされた感覚は一度は反応できなかった怪しい女性の動きを捕らえたのだ。

 しかし回避の成功と同時に、小さな破裂音が京太郎の体のなかで響いた。この破裂音は、非常に小さなもので、京太郎の肉体の中で響いただけである。

怪しい女性にもディーにも聞こえていない。聞いていたのは京太郎だけだ。この破裂音は、分不相応な領域に足を踏み入れた代償だ。

 感覚がとがっていた京太郎でさえ、一度目は反応すらできなかった領域である。音速といっていい領域に無理やりに感覚を暴走させて入り込んだのだ。

音速行動の代償として筋肉が損傷し、骨がきしみ、血管が切れたのである。破裂音は、壊れていく肉体の悲鳴である。

 しかし怪しい女性の手をつかもうとする動きは見事に失敗した。そして姿勢を崩している。思い切りつかみにかかっていたため、重心が前にずれていた。

体勢を立て直す時間が必要だろう。京太郎は無様ではあるが、目的を達成していた。完全に満足できる動きではないが、結果だけを見ればよくできていた。


 鋭くとがった感覚が捕らえる、刹那といっていいわずかな時間の中で、身をかわした京太郎は驚愕の表情を浮かべた。信じられないものをみたのだ。

怪しい女性の握手をかわした次の瞬間だった。姿勢を崩した女性から巨大な魔力の流れを感じとった。

ほんの一瞬、怪しい女性の巨大な魔力に当てられただけだが、京太郎は死を覚悟した。

 一気に高まった魔力は怪しい女性の目に集まり、輝く赤い目が更に力を増した。ゆっくりと動く時間の中で、驚くべきことがおきた。

 手をつかみにきていた女性がもう一度踏み込んできたのだ。音速の領域を知覚している京太郎が、かろうじて追えるスピードだった。

怪しい女性が踏み込んだ瞬間、空気が引き裂かれて悲鳴を上げた。音速で車を運転できる動体視力を持つディーでさえ、「早い」と驚く身のこなしだった。

 格下の京太郎が加速した怪しい女性の動きを追いきれた理由は二つ。

 ひとつは、感覚を強化していたから。無理やりにでも感覚を鋭くしていなければ、知覚不可能だった。

 もうひとつは、死を感じたことである。空前絶後の魔力の奔流を体感したことで命の危険を感じ、集中力が跳ね上がったのだ。結果、強化の度合いが高まったのである。

 

 踏み込んできた怪しい女性は京太郎にタックルを繰り出した。両手を大きく広げて思い切り京太郎の胴体めがけて飛びついた。

十本のとがった爪が左右から迫ってくるさまは、獲物を食らう獣のようにも見えなくはない。

 怪しい女性のタックルは見事京太郎に決まった。両腕は京太郎の胴体をしっかりと捕らえている。京太郎にタックルが決まったときに、ドンと大きな音がしたけれども、京太郎の胴体は無事である。

 千切れていない。怪しい女性がタックルに打って出たのは、京太郎が握手を回避したからである。特にこれといった理由はない。逃げられたから、次は逃がさないように、思い切り突っ込んだ。それだけである。

 京太郎が握手を回避してから、抱きつかれるまで一秒とかかっていなかった。


 怪しい女性のタックルから十秒ほど、倒れこそしなかったが京太郎は声を出せないでいた。

「不覚」

この気持ちが言葉を奪ったのだ。思い切りタックルを食らったために体がきしみ、分不相応な領域で行動したために体の内側が痛むが、それも気にならなかった。

 抱きつかれたままで、京太郎は反省する。

「なぜ油断をしたのか。回避できたからといって調子に乗ったのではないか?

 回避した後にもやり取りがあると思っていたはずなのに、すっかり頭から抜けてしまっていた。最後のタックルも、見えていたのだ。よけられたはず」

 自分の失敗ばかりが思い浮かんでしまう。結果だけを見れば、一応の目的は達成している。握手は回避できた。それだけで十分のはず。確かに、見えなかったものを見て、反応して見せている。

 しかし、京太郎には次が見えている。対応できたはずと考えてしまう。それが、京太郎に「悔しい」と思わせてしまう。そしてそんな悔しさが、反省を促すのだ。そして、京太郎は決心する。

「次はもっと上手く動いてみせる」と

 京太郎の胴体に腕を回していた怪しい女性は更に十秒ほど抱きついたままだった。

細くて白い両腕を京太郎の胴体にまきつけたまま、じっとして動かなかった。

 抱きついて二十秒が過ぎるというところでいよいよディーが動き出した。

特にこれといった悪意というのを感じなかったので、手を出さなかったディーである。しかしそろそろ二十秒が過ぎるというので、さっさと離れてもらおうと考えたのだ。

 もう十分だろうというのがディーの思うところである。

 ディーが魔力を高め始めると、少し不満げではあったが京太郎から怪しい女性は離れた。

京太郎の胴体に回していた両腕を解いて、京太郎から一歩下がった。

 そして、情けない顔をしている京太郎の頭をなで始めた。マグネタイトは吸い取っていない。京太郎のほうがずいぶん背が高いので、女性が爪先立ちをする格好だった。

 怪しい女性に頭をなでられている間、京太郎はされるがままだった。いきなり頭をなでられる意味がわからなかったからだ。

そして、よくわからない敗北感というのを感じていた。


 京太郎の頭を撫で回した後ニコニコと笑いながら怪しい女性は霞のように薄れて姿を消した。

体が徐々に薄くなり、風景が透けて見えるようになったのだ。消えていくときの、怪しい女性の目は優しい微笑の形だった。

すくなくとも、京太郎を見つめているときは輝く赤い目が微笑んでいるような形だった。

 しかし、消えうせる瞬間にディーに向けた視線には憎しみがこもっていた。

 怪しい女性の体が掻き消えると、気配すら感じなくなった。怪しい女性の用事は済んだのだ。

京太郎のマグネタイトを手に入れた。そして酔っ払って気持ちがよくなった。だから、用事は終わりだ。


 まだ我慢できる。


 怪しい女性が消えると、京太郎にディーが近寄ってきてこういった。

「ドンマイ。まぁ、いきなり動かれたら反応できないって。気にするなって、な?

 武術も修めていないのに、あれに反応できるならたいしたもんさ。上級の壁を越えていない須賀ちゃんが対応できただけでもすごいことだぜ?

 上級と中級の壁はむちゃくちゃ分厚いからな。邪魔者がいなくなっただけでもよかったと思うことにしよう、な?」

京太郎に気を使ったのだ。怪しい女性に頭をなでられた京太郎の表情がへこんでいるように見えたのである。

 ディーにこのように励まされて京太郎はうなずいた。まったく納得していないのが誰の目から見ても明らかである。

苦虫を噛み潰したような顔をしている。ディーのいうとおり道が開けたのだから、問題はない。

マグネタイトを少し支払うだけで道が開けるのだから、これでいいはずだ。喜ぶべきことだろう。

怪しい女性との戦いも戦いというほどのこともなく、被害は非常に少ない。被害があるとすれば、京太郎の心がへし折られただけである。

特に、頭をなでられたのがきいていた。しかしそれだけだ。結果だけを見れば、いいことずくめだった。

 悔しい気持ちでいっぱいの京太郎だったが、やることはしっかりと行った。

 草原に立っているオロチの石碑に手を触れて、龍門渕への道を聞いたのだ。そのときにヘビのレリーフが勢いよくうねり、道を教えてくれた。

機嫌がいいらしく、細長い舌をチロチロと出して見せてくれていた。

 悔しい気持ちでいっぱいにはなっているけれども、やるべきことはやるべきことで分けているのだ。一番大切なことは、オロチの世界から抜け出して、龍門渕へと戻ること。

京太郎もわかっていたから、ここはしっかりと役目を果たしていた。

 オロチの石碑が道を示すと、岩で埋め尽くされていた草原が、どんどんもとの姿を取り戻し始めた。気持ちのいい光景だった。

一気に綺麗な草原が戻ってくるのだ。盛り上がっていた岩が、ストン、ストンと、地面にもぐりこんでいく。

不思議なことで、岩がもぐりこんだところには普通に草が生えていて、掘り起こされたような痕跡は残っていなかった。
 

 ディーに背中を押されながら京太郎は車に戻っていった。車から出てきたときとは打って変わって、ゆっくりと帰ってきた。

 というのが、京太郎は先ほどのやり取りを、どうすれば対応できるかといって一生懸命になって考え始めていたのである。

ほうっておくとずっとその場所で考えていそうな雰囲気があった。そのため、京太郎の背中を押して、ディーが車に追い込んでいった。

 そして京太郎を助手席に追いこんでいってたディーも運転席に乗り込んだ。オロチの石碑はどこに向かえばいいのかを教えてくれているのだ。

道がわかったのならば、さっさと先に進まなくてはならない。松常久の追跡はまだやんでいない可能性もある。それに、怪しい女性のこともある。

京太郎に執着しているのがわかった以上、いつまでも同じ場所にいるわけにもいかない。そして怪しい女性がディーに対して憎しみのような感情を持っているのにも気がついているのだ。

何か仕掛けてくる前に龍門渕に戻りたかった。


 さて先に進もうかとディーがエンジンをかけた。そうするとスポーツカーの不思議な空間で小さくなっていた虎城が京太郎にこういった。

「ごめんなさい!」

エンジン音に負けない大きな声だった。虎城はずっと考えていたのだ。考えていたのは自分の京太郎への態度が正しい態度なのかどうかである。

 京太郎は魔人である。それも非常に珍しいタイプの魔人だ。怖がられてもしょうがない存在である。

 しかし、京太郎は虎城を助けた。氷詰めになっているところを助け、落下の衝撃からも守ってくれた。守られっぱなしだ。

簡単に言えば、命の恩人というやつである。虎城はそんな相手に恐怖心を抱いた。それが正しいのかどうか。そういういろいろを考えて、彼女は判断を下した。

結果が謝罪だった。

 いきなり謝られた京太郎は、困り顔をした。何に対してのごめんなさいなのかが、わかっていない。京太郎の頭の中にあるのは怪しい女性とのやり取りについてだけだったからだ。

虎城におびえられていたことなど、とっくの昔に頭から消えていた。

 困っている京太郎に虎城はこう続けた。

「失礼をしてごめんなさい。魔人とかどうでもいいことだったわ」

 虎城の正直な気持ちだった。人間だとか魔人だとかいう話はどうでもよかったのだ。虎城は京太郎とディーに命を拾われた。

今も命を守られている。それだけがすべてだった。

魔人の評判がどれだけ悪くとも関係ないのだ。大切なのは京太郎の振る舞いが虎城にどう見えていたのかである。

周りの噂などどうでもいいと彼女は切り捨てたのだ。そして虎城はさっさと気持ちを切り替えたのだった。

 申し訳なさそうな顔をしている虎城に京太郎はこたえた。

「ぜんぜん気にしてないっすよ。話に聞く魔人は結構やばいみたいですし、警戒されてもしょうがないなぁって」

 虎城の話を聞いてやっと京太郎は理解してうなずいていた。京太郎は虎城が自分を見ておびえていたのを思い出した。

 しかし特に気分が悪くなるということはなかった。もしも魔人というのが、京太郎の目の前に現れたとしたら、きっと自分は恐れてしまうと納得しているからだ。

京太郎は、自分の問題であるから、特に恐ろしいとは思わない。実際、京太郎はディーと出会っても特におびえるようなことはなかった。

自分もまた、魔人だからだ。クマがクマを恐れないようなものである。

 しかし世間的にはあらゆるものに不吉と死を与える存在などといわれているのだから、おびえる人はおびえるだろう。

それは仕方のないことであるし、命にかかわるかもしれない問題なのだから、注意しておいて当然である。

 気にしていないという京太郎に虎城はこのように返した。

「確かに魔人が危険なのは事実だけど、私があなたを怖がって失礼をするのとは別の問題よ。

私は須賀くんのことを知っているのだから、人の話よりも実際に見たあなたのことを信じるべきだった」

 謝られている京太郎が困るくらい真剣に謝っていた。虎城は京太郎に申し訳ないことをしたということ以上に、気に入らないことがあるのだ。

 それは目の前にいる京太郎についての判断を噂話程度の情報で揺らがせてしまったことである。

命を助けられた事実があるのに、人の話で噂話で虎城は判断を行ってしまった。それがどうにも気に入らなかった。

京太郎のことをまっすぐに見ていなかった自分が情けないと思ったのだ。その気持ちが、妙な真剣さになっていた。

 京太郎が困っているとディーがこういった。

「まぁ、自分の心に正直な人だと思って謝罪を受け取ればいいさ。

 そうだな、回復でもしてもらえばいい。感覚を無理やりに強化して無茶をしていたからな、それでチャラ。

 そうすれば、お互いの気持ちも落ち着くだろう?
 
 それじゃあ、先に進もう。追いかけられている上にオロチからも脱出しなきゃならないわけで、休んでいる時間がもったいない」

 ディーは笑っていた。虎城がなかなか面白い人間だとわかったからだ。そしてこんなことを思った。

「この人なら、須賀ちゃんのブレーキ役をやってくれるかもな。

 俺一人だと、須賀ちゃんを御し切れそうにない。ハギちゃんのときもそうだったが、どうにもブレーキを踏むのが俺は下手みたいだ」


 京太郎がシートベルトをつけるのを確認するとディーはアクセルを踏み込んだ。目指すのはオロチの石碑が示している方向、龍門渕につながる道があるところだ。

 ディーの提案というのを虎城はすぐに受けた。回復魔法を唱え、京太郎の肉体を癒した。京太郎は虎城に礼をいい、虎城は一応の納得を得た。

 スポーツカーが走り出して少しすると、京太郎が目を閉じたりあけたりし始めた。パチパチと何度か繰り返している。

というのが青空と草原の世界がずれたように見えたのだ。ずれるといっても視界が衝撃でぶれるということではない。薄い影のフィルターをかけたような景色が重なったのだ。

影というのはどこにでもあるものだけれども、世界全体に影のフィルターが重なるのはおかしなことであった。

 京太郎は重なった二つの世界を見て、二つの感想を持った。青空と草原の世界に関して京太郎はこう思う。

「生きている世界。ごく普通の世界」

 特にこれといったおかしさというのはない。人の気配のない気持ちのいい空気がある世界という印象である。
 もうひとつ重なった影の世界についてはこう思う。

「止まっている世界。死んでいるのではなく止まっていて終わっている世界」

 なぜそう思ったのかは京太郎にはわからない。京太郎は、

「疲れているのだろう」

と自分なりの結論を出して目を閉じた。

 目を使いすぎると景色がかすむことがある。そういう類の現象が起きているのではないか。特に感覚を無茶な方法で強化した後だ。

疲労がたまるのも早いだろうし、副作用もあるに違いない。そのように考えた京太郎は目を閉じて回復を待った。

 ここまでです。 

乙でした

謎の女かわいいなぁ、乙!


相変わらず面白い

乙!

めちゃくちゃ面白いです!!
すごくワクワクします。
次回を楽しみにしてます!

ずっと待ってた
楽しみにしてます

乙乙
面白いわこれ

続きからはじめます

おお来たか

 オロチの石碑に従ってスポーツカーはどんどん先に進んでいった。二十分ほど飛ばしていると、風景が変わり始めた。

 風景が変わり始めるころにはいくらか体力が回復したらしく京太郎は窓の外ばかりを見るようになっていた。目をきらきらと輝かせて、ずいぶん真剣だった。

窓の外の風景に奇妙なものが見え始めたからだ。

 先ほどまで外の世界は青空と草原ばかりの世界だった。道が一応はあるけれど、雑草が生えていないだけの獣道だった。

しかし、今見えている道はもっと整備されて人が歩きやすくなっている。そして道幅もずいぶん広がってきて、古臭い建物まで見えるようになっていた。

 しかもその古臭さというのが尋常ではなく、時代劇で見るような建物ばかりなのだ。しかも人が住んでいないためにぼろぼろになっていて実におどろおどろしかった。

 このいかにも寂しく恐ろしい景色が、京太郎には珍しかった。そして心惹かれるものだった。夜の工場を見物しているような気持ちがするのだ。

むやみやたらとひろがっていて、寂しい感じというが男心にくる。そんなわけで、京太郎はこの景色をしっかりと目に焼き付けようとがんばっていたのだった。


 おどろおどろしい景色に京太郎が目を輝かせていると、虎城が話しかけてきた。

「もしかして、須賀君が情報提供者なのかしら?」

 あごに手を当てて、いかにも考えていますよというポーズをとっていた。

 京太郎に話しかけてきたのは、疑問がわいてきたからである。疑問というのは京太郎のことだ。自分の仕事で生まれていた疑問というのが、京太郎とであったことで解けたかもしれないと虎城は考えたのである。

 虎城の仕事というのはサマナーたちの後方支援を行うことだ。後方支援というのは大体が地味な仕事である。

物資の運搬だったり、アリバイ作りだったり、情報操作だったり、前線で悪魔を退治するような派手さはない。しかしとても重要な役割なので、たいていの場合、前線で戦うものたちよりも多く配備される。

 たとえば、松常久の内偵調査は前線で動くサマナー一人に対して、虎城班五名でサポートが行われていた。かなり後方支援に力が割かれているけれども、サマナーというのがそもそも一人で何人分もの仕事をする存在であるため、まったく問題ない。

 仕事で問題になるのは、日数がかかってしまうことである。一日二日で仕事が終わるならいいが、一ヶ月二ヶ月とかかる仕事というのも当然ある。

その間の食事、隠れ家、物資の補給というのが非常に大切になる。のまず食わずで動き回れる人間というのはいない。これはいくら修行したところでどうしようもない。

 それこそ、京太郎のようなタイプは後方支援を大量に用意しなければ運用するのは難しいだろう。なぜなら、京太郎の武力というのは瞬間的には高い力を発揮するが、一ヶ月二ヶ月と持つものではない。

アンヘルとソックのような後方支援担当がいなければ、あっという間にスタミナ切れをおこし、物資補給もままならないまま終わることになる。

 ヤタガラスはこの当たりよく心得ているので、後方支援を怠らない。特に物資の運搬については非常に気を使っていた。

 虎城はこの後方支援を行っていたわけだけれども、松常久の内偵を行うにあたって、わからないことがあった。

わからないことというのは松常久の内偵を行うきっかけについて何も知らされなかったことである。

 きっかけというのは松常久の「人身売買」と「誘拐補助」の罪の告発者のことだ。内偵を行うきっかけにはそういう誰かがいるはず。

しかし、彼女はその誰かを教えてもらえなかった。

 ヤタガラスの末端構成員ではあるけれども虎城は班長である。そのため誰がどういう流れを踏んで情報を提供してくれたのかというのをあいまいにでも知ることができる。

たとえば、警察関係だとか、非合法な宗教組織からだとか、個人の名前は伏せられていても大体の流れは教えてもらえるのだ。

 構成員が知る必要のない情報というのはもちろんある。しかし曲がりなりにも虎城は班長だ。

「教えられないわけがない」

というのが彼女の考えだった。

 班長程度で知る権利を問うのか、というところだが、ヤタガラスというのは問えるのだ。なぜなら、ヤタガラスの組織というのがとても簡単な形だからである。

誰でも理解できる形になっている。簡単に言ってしまうと、ピラミッド型の組織で、一番上にボス、二番目にボスの相談役、三番目が幹部で、四番目に班長である。五番目には普通の構成員が入ってくる。

実に簡単だ。具体的な人数は、ボスが一人、サブが一人、幹部が五十人。班長と、班員はたくさんいる。

幹部五十人が日本全国に散らばり根をはり
「ヤタガラスの使者となりサマナーのサポートをしている」
と考えるとわかりやすい。

 この形があるため、幹部は班長に情報提供を怠らない。このあたりいろいろと人間関係があるので、一概には言えないけれど大体はしっかり情報交換が行われる。

情報交換がまともにできていなければ、あっという間に死ぬかもしれないのだ。お互い利益を出すために必死になる。

 そして、もしかすると情報提供者が悪意を持っているかもしれないのだ。当然だが、じっくりやる。

じっくり情報交換を行うため、情報提供者の予想もつかないなどということがおきないのだ。情報提供者をはっきりと伝えられなくとも、ヒントのようなものを漂わせるくらいはできるからだ。

 しかし今回は違っていた。十四代目葛葉ライドウの名の下に完全に情報が封じられていた。彼女はこれをおかしいと感じた。十四代目の下で仕事をしたことがあるからこその、感想である。十四代目は情報を出し惜しみしない。

 十四代目のことを知っていたから、余計に虎城は印象に残っていた。名前もどこの関係者なのかもわからない情報提供者。もしもこの提供者が、サマナーたちが恐れる存在であったとしたら、筋は通る。

「十四代目は魔人須賀京太郎の存在を隠したかったのではないか。おそらく、一般人として京太郎を生かすため、ヤタガラスを締め上げた」

 虎城が質問をしたのは、その謎を解き明かすためである。京太郎をヤタガラスに引っ張りあげるなどとは考えていない。ただ、謎を解くためだけに聞いていた。

 スポーツカーの不思議な空間から頭だけを出して虎城が質問を飛ばすので、京太郎は答えた。

「情報提供? 何の話ですか?」

 まったく何の話をしているのかわかっていなかった。京太郎は特にこれといってヤタガラスにかかわるようなことをしていない。

 

 京太郎がわからないといった顔をするので、虎城が説明をした。

「数日前のことよ。ヤタガラスに、ある事件の情報提供者が現れたの。

 ある事件というのは、退魔の家系に連なっている人たちが行方不明になるという事件。

 ただの人攫いではなくマグネタイトが多い非戦闘員ばかりを狙った犯行だった。みんなぴりぴりしてしょうがなかったわ。

 マグネタイトを多く持つ退魔の家系は、名門が多くてそれこそ龍門渕のように地域に根ざしていることも多いから、ヤタガラスの幹部になる人も多いの。

だから家族をさらわれた幹部は面子をつぶされたり、心配したりで、雰囲気は最悪だった。

 ヤタガラスたちも必死になって探したわ。でもなかなか見つからなかった。報告書でチラッと書いていたけど、かなり大掛かりな犯行でね、

 異界を生んでまでヤタガラスから逃れようとしていたみたい。まぁ、結局は十四代目が解決したからよかったけど、普通なら見つけられないわ。

山ほどある異界の中からピンポイントで狙い打つなんてよほどの幸運がないとね。それこそ、異界が開いたところを目撃するとかしないと、まず見つけられないわ。

 まぁ、伝説の十四代目だから、見つけられるのでしょうね。

 何にしても、さらわれていた退魔の家系に連なっている人たちも無事に戻ってきて、丸く収まったのよ。

さらわれていた人たちに傷ひとつなかったわけだから一応事件は終わった。

 それで人攫い事件は終わったけれども、人攫いには黒幕がいることがわかったの。松常久はその中の一人と疑いをかけられていた。

 それで、ここで問題なのがどうやってその松常久を見つけ出したのかってところ。私が知る限り松常久は良心的なヤタガラスの準幹部だった。

でも今回はあっという間に内偵を受ける立場になった。よほどのことがなければこんなことはないわ。

 何せ幹部になれるかもしれない構成員を即座に疑ったわけだから、何か理由があるはず。

私はその理由というのが情報提供者からの情報だと思うわけよ。それこそ、松常久が関係者の一人と一発でわかるような書類を見つけたとかね。

 そして、この重要な情報提供者は十四代目葛葉ライドウによって秘密にされている。

 私は何でだろうって考えるわけよ。で、須賀くんを見ていたらピンと来た。中級退魔士相当の戦闘能力を持つのにもかかわらず、サマナーの常識を知らない魔人。しかも、人がいい。

 言いたいことはもうわかるわよね? 私は須賀くんが情報提供者じゃないかとにらんでいるわけよ、十四代目はあなたを守るために情報を漏らさなかったってね」

 虎城は自分の抱えていた疑問と、疑問に対する自分の考えを京太郎に話した。ずいぶんな勢いだった。推理を話したくてしょうがなかったのだろうというのがわかる。鼻息が荒かった。

 簡単にまとめてしまえば謎の情報提供者の正体は京太郎ではないのかというだけのことである。そして彼女は答えあわせを求めていた。

もちろん、京太郎さえよければという注意書きがあるので、無理にということはない。


 鼻息の荒い虎城に迫られて、京太郎は困っていた。急に元気になった虎城の勢いに負けているのだ。

 京太郎の心境を察して運転しながら虎城にディーが説明をした。

「虎城さん、ほとんど正解だ。

 本当なら、あまり深入りしないほうがいいといいたいところだ、立場上な。

 しかし事件の内偵を虎城さんのチームが進めていたのなら、秘密にしておく理由もない。大体予想もつけられているみたいだし。

 だが、須賀ちゃんを問い詰めても無駄だ。須賀ちゃんが松常久を告発したわけじゃない。須賀ちゃんの仲魔が情報を提供したのさ。

だから須賀ちゃんに何かを問い詰めたとしてもぼんやりとしか答えられない」

 スポーツカーを運転しながらディーは答えていた。ディーがあっさりと答えを話したのは、すでに隠しておきたいところがほとんど明らかになっているためである。

それに京太郎がすでに魔人であると告白しているため、情報を隠しておく理由がないのだ。

 ディーが説明できるのは、人攫いの事件についてディーが大体の流れを見ていたからである。

 ハギヨシが忙しくしていたのもみていたし、十四代目が龍門渕に顔を出したのも覚えている。人攫いからさらわれた人たちを京太郎が取り戻してきたことも知っていた。そして京太郎が疲れ果てて眠り続けていたのも知っている。

 会話の様子から仲魔たちから京太郎が説明を受けていないとディーはすぐに察した。それでディーが代わりに答えたのだ。

 ディーの話を聞いて京太郎がこういった。

「やっぱりか。あいつらそんなことを」

 うなずく京太郎だった。しかしすでに窓の外の景色に目線が動いていた。情報提供者がおそらく仲魔二人だろうと予想がついていたからだ。

ディーの話を聞いて確証が得られたことで、まったく興味がなくなったのである。

 そして特にそれ以上の感想は沸いてこなかった。情報提供を仲魔が勝手に行ったということがサマナーたちからすればおかしなことだ。しかし京太郎はどうでもよかった。

もともと契約でギチギチに縛っているわけではないのだからよほど人に迷惑をかけない限りは好きにしてくれてかまわなかった。

 京太郎が他人事のようにうなずいていると、虎城がこういった。

「そういうわけで、須賀くんが情報提供者なのかもしれないって思っただけ。

戦闘能力はとんでもなく高いのになぜか名前に聞き覚えがないし見たこともない。

 それで数日前に突如として現れた名前どころかどこに所属しているのかさえわからない情報提供者を思い出して、

もしかしたらと思ってきいてみたら、そうだったというわけよ」

 話をしている最中、少し引きつった笑いを虎城は浮かべていた。しかしすぐに普通の微笑みに変わった。

京太郎の常識とサマナーの常識が離れているのはしょうがないことだと受け入れたのだ。

 そして京太郎のとんでもなさということよりも、正解に近づいたことがうれしくて微笑んだのだった。大切なのは答えに近かったことだ。

 流石に仲魔が勝手に動き回っているのは予想がつかなかった。何せ、悪魔に勝手な行動を取らせていたらどれほどおかしなことをするかわからない。

普通ならそんなことはさせない。悪魔だからだ。悪魔は信用ならない。人間の思考回路とは違った思考回路を持っている。

好き勝手に動き回れば混乱が起きるかもしれない。それに何のための契約なのかわからなくなる。しかし何にしても正解に近かった。

それだけで虎城は十分だった。

 ニコニコしながら話をする虎城に京太郎がこういった。

「なんだか、楽しそうっすね」

 京太郎はわからなかったのだ。今のやり取りにこれといった面白さというのはない。冗談も飛ばしていなければ、気のきいた話をしたわけでもない。

京太郎も自分の態度が会話を弾ませるようなものではないと理解している。暖かい雰囲気ではなかった。興味がないと突き放した冷たい態度だった。

会話をする相手が面白いとか、楽しいとは思わないだろう。

 不思議そうにしている京太郎に虎城が答えた。

「あぁ、はしゃいじゃってごめんね。

 もともと謎を解いたりするのが好きでね。一般人だったときは世界の不思議とか、オカルトの話とか事件とかの謎を解くのが、推理が趣味だったの。

推理って言っても無理やりにつじつまを合わせるようなものだけどね。

 周りの友達が化粧だとか服とかに興味を持ち始めたら余計にのめりこんだわ。女の子女の子した趣味が嫌いなのよ私。

 で、いろいろあって、どういうわけなのか、異能力に目覚めちゃったりして、いつの間にかヤタガラスなんて秘密結社に所属することになったわけですが、まぁ、趣味よ、趣味。

妄想を膨らませるのがすきなの」

 虎城は鼻息を荒くして目を輝かせていた。とても勢いがあった。それはそのはず、自分の趣味の領域というのは興味のある領域である。興味のある領域というのはいろいろと考えることも多く、吐き出したい気持ちも多いものだ。

 これは虎城に限ったことではない。ハギヨシもディーも同じような心の動きを持っている。そういう心があるものだから、もしも吐き出せるチャンスがあれば、吐き出すだろう。

 特に、人に認めてもらえないような趣味だと、チャンスが巡ってくると抑えきれなくなる。話をしていい趣味のタイプとそうではないタイプの趣味があるのだ。世間体というのがわかるからこそ、タイミングが重要になってくる。

 虎城は少なくとも京太郎とディーは問題ないと判断していた。この判断はこれまでの京太郎とディーを見ていた結果だ。この二人なら、

「妄想と推理が趣味です」とぶっちゃけても引かないだろうと、よんでいた。

 虎城の予想は正解だった。京太郎は「妄想ですか、なるほど」といって宮永咲の姿を思い出しうなずいた。

 ディーは「なるほど」といって沢村智紀の姿を思い出し「東京国際展示場とか行ったことがありそう」と心の中で納得していた。

 楽しそうにしている虎城に、ディーが聞いた。質問をする間にもディーはがんがんアクセルを踏み込んでいた。

廃墟が多いので桁違いの速度は出していない。しかし二百キロ近い速度が出ていた。少しでも判断を間違えれば、大事故になるスピードである。

が、質問をするディーはまったく緊張していなかった。のんびりとしたドライブを楽しんでいるような余裕さえ感じられた。

そんなのんびりとした雰囲気のままで、質問を飛ばすのだった。

「もしかして自分からヤタガラスに入った口ですか、虎城さんは?」

 特にこれといった目的がある質問ではない。ただ、無言で車を運転するのがつらいので、話を振っているだけである。

 ディーの質問に間をおかず虎城が答えた。

「えぇ、へへっ。お察しの通りです。

 でも回復の異能力に目覚めていたのでそのうちスカウトされるのは間違いなかったでしょうね。でもスカウトのまえに自分から入っちゃいました」

 虎城はなぜだか恥ずかしそうに頭をかいていた。長い髪の毛がワサワサとゆれ、褐色肌の頬が少し赤くなっていた。自分の行動がずいぶんと男勝りなものだと虎城は思っているのだ。女性らしくないと。

 特に、秘密結社にスカウトされる前に自分から門を叩くなどというのは、無謀な行為だ。一般人に毛が生えたような異能力者、それも女性が身一つで所属するわけだから、無謀であろう。

部活動経由のコネはあったが、あえて飛び込むのだから、無茶な話である。思い返してみるとよくそんなことをしたなという感じになり、恥ずかしくなるのだった。

 恥ずかしそうに答える虎城に京太郎がきいた。

「怖くなかったんですか? 正直言って戦いに向いているようには見えませんけど」

 外の景色を眺めていた京太郎だったのだが、ここに来て振り向いた。そして虎城の顔を見て、質問をしていた。

 京太郎は興味がわいたのだ。京太郎の目から見て虎城というのは弱い。おそらく今まで敵対してきた怪物たちのどれよりも弱い、というか怖くない。

だから京太郎はわからなかった。こんなに弱いのに、どうして危険に突っ込むようなまねをしたのか。少なくともこの問題は、窓の外の光景よりも、京太郎の興味を引くものだった。

なぜ心惹かれているのかというのは、京太郎にはいまいちわからないところだった。

 少し考えてから、虎城が答えた。

「怖いことは怖いけど、まぁ、なんていうかその、やっぱ、楽しくてね。趣味と実益がガッツリかみ合っていて、魅力的だったの。

 それに自分に正直に生きていたいとか、そういう青臭い理由が……恥ずかしいからあんまり聞かないで……ごめんね?」

 ずいぶん長いこと悩んでいた。もじもじとして、スポーツカーの不思議な空間に落ちていた本屋ビニール袋を手にとっていじったりもしていた。

 上手く答えられないのは、恥ずかしいからだ。自分の行動理念がわからないから、答えられなかったわけではない。自分の行動が、どういう理由で行われたのか虎城はよくわかっている。

 しかし、理由が悪い。あまり大きな声では言えないような理由で動いていた。妄想を膨らませやすい環境。そして給料が良いこと。趣味が「妄想と推理」の彼女にとっては最高の職場だった。

 なんというか、子供っぽかった。それで彼女はずいぶん悩んだのだ。本当に話していいものかと。

 長く悩んだのは、話を脚色するかどうか考えたからである。何か上手い具合に、たとえば正義のためとか、そういう耳触りのいい言葉をまとわせることも考えた。

 しかしそれはやらなかった。自分の目を見つめている京太郎と運転席に座っているディーを欺けるほど上手く嘘をつく自信がなかった。

器用でないとわかっているのだ。だから正直に話した。かなり迷った挙句ではあったが、正直な答えだった。


 よほど恥ずかしかったらしく本屋のビニール袋を指で虎城がいじり始めた。褐色肌がよくゆだっていた。

 虎城がそうなったところでディーがこういった。

「まぁ、所属する理由は人それぞれさ。能力に目覚めてスカウトされるパターンもあれば、金がほしいだけの奴もいる。

龍門渕のように一族がヤタガラスに所属しているからという人もいれば、一般社会でなじめない生まれだから居場所を求めて、とかな。いろいろさ」

 ディーが補足説明を入れたところで、京太郎がひとつ疑問をディーにぶつけた。

「ディーさんはどうしてヤタガラスに?」

 少し気になったのだ。魔人であるということを除いても、組織になじめないタイプと京太郎はディーを見ていた。

どちらかというと趣味を優先して生きているようなタイプと思っている。ヤタガラスなんて秘密結社にあえて入るような目的を持っているように見えなかった。

ただ、気になってしょうがなかったわけではない。ほんの少しだけ気になって、流れに乗って聞いただけだった。

 ディーは答えた。

「俺はそうだな、義理かな。ハギちゃんに対しての義理で、ヤタガラスをやっている。あとは、虎城さんも話していたが、給料がいい。危険な仕事だからな、本当にびっくりするくらい給料がいい。

 最前線で三年間勤められたら遊んでは暮らせないが、一生働かなくて済むようになるレベルで給料が出る。ボーナスを省いて、な。

 まぁ、そんなもんさ、所属する理由なんて。

 実際ハギちゃんなんか、ヤタガラスなんてほとんど興味がないんじゃないかな。家族がいるから、一応ヤタガラスだけど、それだけって感じ」

 ディーの答えを聞いて、京太郎は少し首をかしげた。

「ハギヨシさんって、龍門渕さんと仲良しに見えましたけど、違うんですか?」

 龍門渕でみたハギヨシは天江衣とも龍門渕透華とも仲がよさそうだった。職場の人間ともなかなか上手くやっているように見えた。

ディーの話が本当ならば、ハギヨシはヤタガラスを重視していないはず。となるのならば、少しおかしな感じがした。

 京太郎の質問にディーが答えた。

「いろいろあったとしか言いようがないな。ヤタガラス全体に対して興味がないといったらいいのかな。

 非常に面倒なことが絡み合って今の状況があるから、説明するのがむずかしい。

 ただ、ハギちゃんは龍門渕のことがそれなりに好きだ。なにせ、龍門渕に借りを返すために龍門渕で執事の真似事をしながら教官をやっているわけだからな。

俺が一緒に来ているのはその手伝い。嫌いならこんなことはしない。踏み倒していただろう。

 いやいやでもヤタガラスをしているのはハギちゃんが京都の本部を仕切っている家の家長だから。家族のことを思うと、簡単に幹部の座を捨てられない。

そんなところだろう。本人ははっきりといわないがな」

 ディーの答えを聞いて、京太郎はうなずいた。そしてこういった。

「お家騒動みたいなことがあったんですか? 」

声のトーンを落として聞いていた。

 京太郎の問いに少し迷ってからディーは答えた。

「そのうち、誰かから話を聞かされるかもしれないから、今のうちに俺が話をしておくほうがいいかな。

 長くなるけどいいか?」

 自分たちの話しをしようと決断したのは、自分たちの話を悪意を持った第三者の介入なしに聞かせておきたかったからだ。

 ハギヨシが龍門渕に来るまでの話は実に面倒な出来事が絡み合っている。一言で言えば、戦いがあったのだけれども、これが面倒な戦いだった。

 ハギヨシの側から話をすれば、ハギヨシたちが正義になるが、ハギヨシを憎いと思うものたちから話をすれば、間違いなくハギヨシが悪になる。

ほとんどの戦いはそういうものだろうが、ハギヨシの争いもそうだった。

 しかもハギヨシもハギヨシと争ったものも筋の通る理念を持って動いていたので、関係のない第三者から見ても正義と悪を簡単に分けられない状態だった。

 ハギヨシの主張も相手の主張もわかっていたので、下手に介入されるのを防ぐためにディーは自分で話すことを決めたのだ。ここで冷静に話をしておけば、後は京太郎の判断に任せられると。
 
 京太郎はまだ、少年である。しかし、それなりに頭が回るとディーは評価している。

これまでの戦いで十分判断できた。危なっかしい熱意を持って動いているけれども、頭の回転は速く、人道を心に宿している。

修羅場から逃げる判断も、虎城に対しての救命措置も冷静かつ人の道を知る者でなければできなかっただろう。

ならば、と信じたのだ。きっと、冷静に話しさえすれば、京太郎は応えてくれると。

 真剣なディーを見て京太郎はうなずいた。

 うなずくのを見て、ディーは続けて話し始めた。

「六年前のことだ。

ヤタガラスの幹部の一人が、霊的国防兵器を作り出すため人類史上類を見ないマグネタイト器量を持つ姫を生贄にささげようと主張し始めた。

 その姫はまったく修行をつんでいないにもかかわらず、十四代目葛葉ライドウのマグネタイト量の数十倍を抱え込めた。

 全盛期を遠く過ぎているにしても十四代目のマグネタイトの器量は一般的なサマナーと隔絶している。

 仮に須賀ちゃんのマグネタイト器量が一般家庭の浴槽程度だとすれば、十四代目は湖。ベンケイさんやハギちゃんもこのレベルだな。

 血統と修行がかみ合った限界点と思ってもらっていい。素質なしで到達できる限界は百メートルプールくらいのものだから、とんでもなさがわかると思う。

 たとえ、十四代目が全盛期であったとしてもわずかに上限が増えるだけで、規模が激変することはない。

 問題は、姫だ。人類史上この姫ほどマグネタイト器量で優れていたものはいないといっていい。十四代目を湖とたとえたが、姫は海だな。

自然に生まれた、不自然なレベルのマグネタイト器量の存在。そういう珍しい存在だった。

 ヤタガラスの幹部の一人がこの姫を最高の生贄と見定めた。そして、霊的国防兵器の触媒にしようと動いた。

 霊的国防兵器とは大雑把に言えば、超強力な悪魔のことだ。悪魔の力はとんでもないものが多いのは知っていると思う。

心臓を止めてしまう呪い、竜巻をまとう車に、稲妻を操る戦士。死者を復活させる奇跡さえある。

 ただ、そんな悪魔たちと比べても、霊的国防兵器と呼ばれる悪魔は桁違いの力を持っている。

天候を自在に操作してみたり、超広範囲を異界に叩き込んだりできる。

 いけにえに選ばれた姫はその悪魔の触媒にされようとしていたのさ。悪魔を姫に取り付かせて、心理操作を施した姫を使役することで、姫そのものとなった悪魔を操作しようという計画だった。

悪魔自体を呼び出せば、悪魔との直接交渉が必要になるが、姫というクッションをはさむことで、その手間を省き安全に運用しようとたくらんだわけだ。

 人道的ではないが、よくできた計画だった。この計画でその幹部は護国をなそうとした。国家の内側も外側も守れると信じた。

 悪魔の力を上手く使えば外国勢力からの侵略を防ぐのは簡単だ。ミサイル一発分の攻撃なんて簡単にはじき返せる。やり返すのも簡単だ。

核兵器級の魔法だって、あるわけだからな。

たとえ、人道的ではないとしても兵器が手に入るのなら、やるだろう? できるなら、手元においておきたいとおもう。

 外国の勢力も悪魔の力の恩恵にあずかれる可能性がある時代だ。悪魔召喚プログラムがインターネット上に公開された瞬間から、核兵器の時代から悪魔の、というより魔法科学の時代にシフトしたのさ。

日本以外の国も悪魔を研究して、いろいろな実験を行っているところだろうよ。

 実際、姫に対して行われるはずだった施術もペルソナ能力と呼ばれる神降ろしの異能の研究成果、その応用だ。

今は日本だけしかこの技術を持っていないが、いつほかの外国勢力が手に入れるかもわからない。

 人間、考えることは同じだ。そうだろう? 俺ならすぐにでも悪魔の力を使うだろう。みんな拳銃を構えているのなら、自分もそうしなければならない。

核兵器の流れと同じことがおきるわけよ。よくある話だ。

 日本のために姫を捧げようとしたのが全てのきっかけ」

 ディーの話を聞いていた京太郎は、表情が硬くなっていた。恐れたのだ。京太郎が恐れたのはマグネタイト器量の話ではない。

それはどうでもいいことだ。

 現世がかなり危ういバランスの上に立っているということを理解して恐れたのだ。

 ディーの話が本当なら、いつどのタイミングで世界がひっくり返るかわからない。

何せ、悪魔召喚プログラムがインターネット上で公開されているのだから、誰でもサマナーになれる。携帯電話で当たり前のように作動するのならば、誰でもサマナーだ。

 ということはつまり、きっかけさえあれば誰もが軍隊を持つ状況になる。マグネタイトさえあれば、大量の悪魔を呼べるのだから、一気に数をそろえられるようになる。

数の暴力はいまだに現役だ。一人の天才的な戦士よりも百人の凡人が集まっているほうがはるかに強い。現実の軍隊の力も、警察の力も、いってみれば数の暴力で成り立っている。

 この、人の数の暴力が通用しなくなる。実際、人の手が足りない本屋で造魔をつかっていたおばあさんがいた。あれをほかの組織で応用すれば、まったく人の手というのはいらなくなるだろう。

造魔という簡単に手に入る悪魔でさえ、普通の人間よりもはるかに強いのだ。

「戦闘用に調整された造魔」というのをたくさん用意できるのならば、それこそ国相手に戦うこともできるだろう。

 それこそ松常久のようにヤタガラスを裏切るものもいる。何がおきるかはわからない。

 これが個人の問題なら、どうにかなる。個人を始末すれば終わる。ただ、インターネットで世界に広まったのがまずい。

世界に広がったということはつまり、ほかの国家もほかの人種も、抑圧されているものたちも、悪魔を使えるようになったということだ。

才能を持たない個人がサマナーになれるのだ。復讐の機会を狙っている抑圧された少数者たち、国家の上層部にいる者たち、才能を持った個人が使えない理由がない。

 武器を捜し求めているものたちが見逃す理由がないのだ。間違いなく把握したことだろう悪魔が新しい力になると。

 京太郎はこう思ったのだ。

「次の世界大戦は、悪魔たちが乱舞する神話の戦いになるな。どのタイミングで始まるのかはわからないが、アインシュタインの予想が現実になりそうだ」

 京太郎の顔色が悪くなったが、ディーは更に話を続けた。

「とある幹部の提案に、ヤタガラスの幹部五十名は数名を除き賛成した。なぜなら、たった一人の人間を生贄にささげることで超強力な霊的国防兵器「九頭竜」を使役できるようになるのだから。

 生贄にささげられる姫の関係者はかわいそうではある。もちろん姫もかわいそうだ。

 しかし日本国民全てが幸せになれるのならばまったく問題ない選択肢だった。どこかの誰かが死ぬことで、自分たちの命が助かるのだから喜んで犠牲にするだろう。ごく自然な判断だった。

 だが、姫の家族はうなずかなかった。自分の大切な子供だ。国家のためだといわれたところでうなずけるわけがない。

自分の子供を奪おうとするのだから、悪党の戯言といわれてもしょうがない。他人の集合体である国家よりも家族を愛し優先する。これもまた自然なものだ。

 ヤタガラスがいけにえに捧げると決定を下すと、姫の両親は姫を連れて逃げ出した。しかし相手はヤタガラス、国家そのものだ。逃亡も長くは続かない。

 運よく一般人に拾われて、『破門された十四代目の一番弟子ベンケイ』のところまで逃げ延びたが、そこで十四代目葛葉ライドウと『二番目の弟子ハギヨシ』に追い詰められ、状況が変わり始める。

 まぁ、ここからはよくある話さ。たいしたことはない。二番目の弟子ハギヨシはヤタガラスの決定に反して動き始め、暴れまわった。

 ヤタガラスにハギちゃんはこういったのさ。

『責任を放り出してガキにすがるな。サマナーが神に頼るな。戦え、自分の手で守れ』

 ヤタガラスは実力主義の世界。ボスとボスの相談役は黙ってみているだけだと、よく承知していたハギちゃんは自分の信念を通すために、カラスとキツネを始末した。

 結果、霊的国防兵器『九頭竜』計画は、永久封印。

 計画立案者の幹部に協力していた外部組織の教主一名と構成員は全員処刑。

立案者の幹部含め、五十名いた幹部を三十九名まで減少させた上でハギちゃんは幹部の座につき、無理やりに決定を撤回させた」

 ここまで話を聞いた京太郎は苦笑いを浮かべた。ハギヨシがクーデターまがいの行動をおこしていたのが驚きだった。

ハギヨシはどちらかというと優等生的な性格だと思っていたからだ。自由なディーと真面目なハギヨシでいい感じになるとおもっていた。

しかし思い切り自分を貫いたというので、これは驚きであった。

 それに、ヤタガラスに行った所業というのもなかなかであった。五十名いた幹部を三十九名まで減らしたというのも、穏便にやめてもらったということではないだろう。

最終的にハギヨシが勝利したということで終わっているが、これ以上ないほどわかりやすい反逆者である。苦笑いしか出てこなかった。

 苦笑いを浮かべる京太郎をそのままにしてディーは話を続けた。

「もちろん、代償はあった。ヤタガラスを力で黙らせたことで、幹部だったものたちの一族から恨みを買うことになった。

今でもハギちゃんを嫌っているものは多い。ヤタガラスの内部にも、外側にもな。

 既得権益どころか命ごと削ったからな。あのときのハギちゃんはいい意味で頭が切れていた。十四代目も弟子が成長して喜んでいることだろう。

 ただ、一番弟子と同じように、次期ライドウ候補からハギちゃんを葛葉一族は除外した。葛葉の決定を無視したからだ。

決定を無視するどころか、生贄に捧げるべきと主張する一族を切り伏せていったのだから当然といえば当然だな。

 いくら最終的に勝利しヤタガラスの幹部の席に座ったとしても一族は、一族のためのけじめをつける必要があった。討伐という方法もあっただろうが、葛葉の長老たちは誰も提案しなかった。

討伐に向かったもの、命令したものが始末されるとわかっていたからと俺は見ている。

 一番弟子の失敗から学んで操りやすい二番目の弟子を作ろうとした結果がこれだから、長老たちも大きな声で主張できなかったと推測している者もいるが、こればかりは本人たちに聞いてみないと本当のところはわからないな。

 全ての救いは、生贄にささげられるはずだった姫と両親が無事に生き延びているということだろう。

 この九頭竜事件で手を貸してくれた龍門渕にハギちゃんは恩を感じている。また龍門渕は自分の血族を守ったハギちゃんに対して恩を感じている。

 この二つの恩がかみ合って今の状況があるわけさ。細かいところはすっ飛ばしたが、大体こんな感じ」

 ディーの話を聞いた京太郎はあごに手をやった。わからないところがあったからだ。なぜ、ハギヨシが反旗を翻したのかわからなかったのだ。

 一度は十四代目と一緒に追い込んだのだから、はじめはヤタガラスの命令にしたがっていたのだろう。しかし、ひっくり返って反逆。

ヤタガラスの幹部を削り、全てを白紙に戻している。この変わりようがわからなかった。従順だった優等生が切れたといえばそんな気もするが、結果を見ると違うことがわかる。

切れたというだけなら一瞬だけの暴力ですむが、ハギヨシの場合は計画的な気配がある。

 あえてたとえるのならば、戦国大名が自分の目的のためにほかの勢力を削った印象なのだ。葛葉の長老たちが命令に忠実なサマナーを作ろうとしていたというのならば余計にわからなかった。

 ほかのところは大丈夫だった。戦国時代のような調子で幹部の座を奪ってしまえば自分でルールを作れるとか、そういう感じなのだろうと納得できたのだ。ただ、心変わりの理由が京太郎にはわからなかった。


 ディーが話し終わると、虎城が普通に話に入ってきた。

「六年前の九頭竜事件ですよね。自分の巫女を敵に回し、本部の元締めである両親が敵として現れても冷静に戦ったと聞いています。

まったく進んでいなかった世代交代がようやく行われたと高く評価している人もいますね。


 あっそうだ。


 たしか『撫子真白(なでしこ ましろ)』という人物が優秀な退魔士であったハギヨシさんをたぶらかしたと、女性サマナー界で噂になりましたね。

巫女をおろされたあの人の荒れっぷりは今でも語り草になっていますよ。

 しかしどんな女性なんでしょうね。自分の巫女を敵に回してもいいと思わせるくらいなんですから、よほど素晴らしい女性なのでしょう。

ヤタガラスを敵に回しても愛してくれる人に私も出会いたいものですよっと。

 で、ディーさんはハギヨシさんと仲がよろしいみたいですけど、そのあたりはどうなんですか? どんな女性なんです?」

 今まで、赤くなっていたのが嘘のような饒舌さだった。

助手席で考え事をしていた京太郎は、振り返って虎城を見た。声の調子がすこぶる明るかったからだ。

 そして振り向いたところで、「切り替えはやいな、お姉さん」と京太郎は内心あきれた。

スポーツカーの不思議な空間で目をきらきらとさせている虎城を見つけたからである。

 虎城の質問に少しだけ間をおいてディーが答えた。

「それはマジでノーコメント。

 でも、ひとつだけ知っていることがあるから、我慢してくれ。

 ハギちゃんの巫女に『撫子真白』は命を狙われている。六年前からずっとな。

 理由は一発でわかる。ハギちゃんの巫女の座から引き摺り下ろされた原因が『撫子真白』にあると思っているからだ。

 実際のところは九頭竜事件で暴れまわり、多方面に迷惑をかけたことの責任をハギちゃんが感じて、巫女から降りてもらっただけなんだけどな。

あらゆる方面に恨まれた自分と一緒にいるのは危ないだろうという配慮さ。

 はっきりと理由を伝えたみたいだが、まったく聞いてくれなかったらしい。今でも巫女はハギちゃんのことを待っている」

 恐ろしい形相でハギヨシに詰め寄る巫女の姿を思い出して、ディーは青い顔になっていた。

 ディーの答えを聞いた虎城はそれ以上聞かずに黙った。少し顔色が悪かった。ハギヨシの巫女だった女性というのが、とんでもない能力者であると知っていたからだ。

そしてヤタガラスの関係というよりも普通の世界でハギヨシの巫女と顔を合わせたことのある虎城は、巫女の性格を知っていた。

そのため、彼女に狙われている『撫子 真白』の悲惨な運命を思い恐れ悲しんだ。


 そうしてさらに話をしながら十分ほどスポーツカーが道なりに廃墟の中を進んでいった。そうすると今度はだんだんと廃墟が姿を消し始めた。

 廃墟がだんだんと見えなくなり始めると、徐々にスポーツカーの勢いが弱まり始めた。廃墟が見えなくなり始めると同時に、道が開けてきたのだが、徐々に小さな岩が視界に目立ち始めたのである。

この小さな岩は、先に進むごとにどんどん数を増やしていった。この現象を誰が起こしているのかすぐにディーは思い当たった。

 そしていよいよ小さな岩が視界を埋め尽くすようになり、一本道のみ残されるようになるとディーが車を止めた。そしてこういった。

「二度あることは三度あるみたいだな。まただ」

ディーはあきれているようだった。

 しかししょうがないことだ。一本道の進む先にオロチの石碑が見えている。その石碑に腰掛けている女性がいた。その女性は髪の毛が非常に長い。

そのため、石碑に腰を下ろしているけれども、それでもまだ髪の毛が地面についている。足をぶらぶらとさせて、体が左右に揺れていた。

何を求めてここに現れたのかディーはすぐに思い当たった。また、京太郎に用事があるのだろう。

 ディーはこう思う。
「きついストーカーだな」と

 スポーツカーは石碑から三十メートルほど離れたところで止まっていた。

オロチの石碑に腰掛けていた怪しい女性はスポーツカーを見つけると石碑から飛び降りてきた。そして道をふさぐしぐさをした。両手を水平にまっすぐにあげて、両足をしっかり踏みしめて見せていた。

このジェスチャーをする必要はない。スポーツカーの周囲は完全に岩でふさがっているのだ。道は一本しかない。前に進む以外道はとっくにつぶされている。

 そして、やはり前髪で表情が見えないけれども、輝く赤い二つの目が笑っていることを教えてくれる。怪しい女性は気分がいいのだ。酔いが回ってきていた。

 運転席のディーが京太郎にきいた。

「一応きいておくが、どうする?」

ディーの目的は今も変わらず龍門渕へ戻ることだ。京太郎に聞いたのは先ほどと同じように女性の相手をするのかどうかという話だ。先ほど女性にいいようにやられたのだ、もしかしたら心が折れているという可能性もあるだろう。

ここで京太郎が断れば、少し無理をしてでも女性を始末して押し通るつもりである。

 戦う気持ちがへし折られたのではないかと心配するディーに対して京太郎は答えた。

「いくしかないでしょう」
 少しいらだっていた。ディーに対してではなく、前回の怪しい女性とのやり取りを京太郎は思い出しているのだ。

 やる気に満ち溢れている京太郎を見てディーがこういった。少し笑っているようだった。

「道を通るためだよな?」

 京太郎の様子というのが面白かったのだ。本当にディーの友人と似ていた。背格好の話ではない。心の話だ。そしてディーは思い出すのだ。

自分の友人が一番に達成しなければならない目的を忘れて、リベンジを果たそうとする熱血だったことを。だから京太郎に釘を刺したのだ。

目的を忘れるなよと。釘を刺してもきっと無駄だろうという気持ちはある。

 微笑んでいるディーにすぐさま京太郎は答えた。

「もちろんですよ。今度は失敗しません」

 はるかに格上に挑むというのに恐れはなかった。手も足も出なかったのにそれでもやる気でみなぎっていた。

京太郎はすでに気を引き締めて、いいようにやられないように頭を働かせていた。そして今度は体をきっちりと動かして、一泡吹かせてやると目標を立てていた。

残念なことに一番の目的、道を切り開くというのはさっぱりどこかに消えていた。それも仕方のないこと。それほど、あの怪しい女性とのやり取りは楽しいことだった。

 ずれた答えを返した京太郎は助手席から降りた。シートベルトをはずすところからやる気満々だった。助手席から降りると軽く準備運動をして、ぎらぎらとした目で怪しい女性を見つめていた。

これから刹那の単位で行動する相手と立ち会うのだ。おそらく命をとられることはないだろう。しかし遊んでもらうためには全身全霊で挑まなければならない。そうしなければステージにさえ上がれない。

 実力差が開きすぎているのはわかっている。しかし、相手に一泡吹かせたい。それだけが京太郎の胸にある。

 激痛が伴うけれども、魔力を高めて、外に漏れないように閉じ込めれば神経が強化されるのだ。前回はしっかりと目で追えて反応できたのだ。ならば今回もしっかりと高めて、閉じ込めて、冷静であれば何が来ても対処できるはず。京太郎の予想が正しければできるはずである。

 京太郎から少し遅れて、ディーも運転席から降りていった。もしものときのことを考えたのである。悪魔の考えることは読みきれるものではない。

常に同じとは限らないだろう。特に情報の少ない正体不明の悪魔ならば、余計に。

 ならば、今回も前回と同じ行動をとるとは限らない。それこそ、命をとられる可能性もある。そして怪しい女性の京太郎への執着振りを見ていると、さらう可能性もあるのだ。

もしも京太郎を取りに来るようなことがあれば、ディーは本気で戦うつもりだった。たとえ、オロチの世界を更地に変えるようなことになろうと京太郎をわたすつもりはなかった。

スポーツカーから二人が降りてくると、奇妙な女性は京太郎を指差した。そしてこういった。

「手、手、手、手」

ずいぶんと楽しそうだった。

 前髪で表情はまったく見えないが、真っ赤に輝く二つの目がゆらゆらとゆれて感情を読み取らせてくれていた。

 うれしい。これだけだ。ほしいものを目の前にした子供のような純粋な気持ち。それ以外の感情はない。

 女性に指差されたのも気にせずに京太郎は歩き出した。ヤタガラスのエンブレムのついた帽子をしっかりかぶりなおし、ウエストポーチが邪魔にならないようにぎっちりと締め付けた。ジャンパーの開いていた前面部分もしっかりと締めている。靴の調子も悪くない。

 装備を見直すのと同時進行で、体から発散されていたマグネタイトと魔力がまったくといっていいほどなくなっていた。京太郎が意識的に流出を防いでいるのだ。

 そして力の流出がなくなるにつれて、京太郎の感覚が強化されていく。同時に、全身にわずかな痛みを感じ始めていた。

 しかし、京太郎は笑みを浮かべて歩き続けた。牙をむき出しにした獣そのものだった。

 分不相応なステージに上がる準備が整った。ここで準備を怠れば、格上の怪しい女性に好きなようにされるだけだ。痛みを感じても遊んでもらうには必要な準備だった。

 京太郎の一歩後ろをディーが歩いていた。微笑を浮かべてはいるけれど、漂っている魔力の質は臨戦態勢に入ったことを知らせている。生半可な存在ならば、ディーを視界に納めただけで発狂しかねない悪意が混じっていた。

京太郎にもしものことがおきれば、即座に攻撃を仕掛けるための準備が完了したのだ。

 京太郎が歩いてステージに向かってくる間、小さな子供が拍手をするような調子で怪しい女性は両手を叩き合わせていた。

サルのおもちゃのような拍手である。しかし馬鹿にしているのではない。楽しくてしょうがないという気持ちが形になっただけである。

 この奇妙な女性はいよいよ上機嫌になっているのだ。京太郎の作り出すマグネタイトは普通のマグネタイトとは違って味がついている。

しかも酒のように酔うことができる。この奇妙な女性は、この酒のようなマグネタイトが非常に気に入っているのだ。酒というものを知っていて人間が酔うということも知っていたが、実際に体験するのは初めてだった。

 オロチの石碑を中心にして作られている怪しい女性の袋小路。オロチの石碑まであと三メートルほどの距離まで京太郎は近づいていった。怪しい女性までの距離は後二メートル。怪しい女性がどいてくれれば、オロチの石碑を使い龍門渕への道を知ることができる。

 怪しい女性と握手ができる距離で京太郎は立ち止った。獣のような笑みはない。少しだけ微笑んでいた。しかし京太郎の二つの目はしっかりと相手を見つめている。集中力がこれでもかというくらいに視覚に注がれていた。

怪しい女性の目の動きも、女性の全身の脈動も余すところなく強化された視覚は把握できている。万全といっていいだろう、ひどい頭痛がしている以外は。

 また極度の緊張のために京太郎の心臓が高鳴っていた。血管が震える音が聞こえる。そして呼吸も荒くなる。抑えきれない感情のために冷静さが押しやられていく。

だが、ぎりぎりのところで京太郎は冷静を保っていた。冷静でなければ、対応できない相手と知っているからだ。

 手が届く距離に京太郎が寄ってくると怪しい女性は笑った。うれしくてしょうがないのだ。ずいぶん下品な笑い声を上げていた。

声を出しなれていないため声がざらざらとしているのもあいまって、怪物が笑っているようにしか聞こえない。

 そろそろ京太郎に嫌われてしまったのではないかと怪しい女性は考えていたのだ。彼女は頭が悪いわけではない。

ただ、人と接する機会が極端に少ないために、いまいち上手にコミュニケーションが取れないだけである。そんなわけで、自分が結構な無茶をやっていると理解していた。

 しかし、京太郎は自分の前に出てきている。まだ自分の名前を伝えてもいないのに、三度ここにいてくれる。それがうれしかった。

 もしも目の前の京太郎が自分を嫌っていたら、さらわなくてはいけなかった。

 ひとしきり笑い、落ち着いた怪しい女性はこういった。

「二つ。逃がさない」

 怪しい女性の声はざらざらとしたままである。声に余裕があった。小さな子供の相手をする大人のような余裕である。

 しかし、その声に乗せられた楽しげな気持ちなどというのは、目の前にいた京太郎とディーにはまったく届かないだろう。

 というのが、この怪しい女性からとんでもない勢いで魔力が噴出しはじめたのだ。その魔力はスポーツカーの中、不思議な空間の中で成り行きを見守っていた虎城でさえ震えるような強さであった。

この怪しい女性は京太郎を害するためにこのような真似をしたのではない。ただ、京太郎が遊んでほしそうにしているから、遊んでやろうという気持ちになっただけのことである。

悪意ではなく善意。悪魔的な感覚でいえばマグネタイトへのお返しなのだ。

 十四代目葛葉ライドウ、ハギヨシ、ベンケイを比較にしても明らかに桁違いの魔力を前にして、京太郎は身構えた。

二度目だ。死の予感を感じ、冷や汗が噴出し、体が震えている。あまりにも恐ろしい存在の前に、涙が溢れ出しそうになる。

 しかし、京太郎は意地を張った。無理に笑みを浮かべて、まっすぐに圧倒的な魔力を操る怪しい女性をにらむ。

そしてすぐに動き出せるように、わずかにかかとを上げて、爪先立ちになり、ひざを軽く曲げて、腰をわずかに落とした。スポーツの経験から身に着けたすぐに動ける構えである。

 戦うための構えではない。しかしこれが京太郎にできる最善の構えだった。一秒持たせれば上出来の実力差である。攻撃をかわしきるのすら難しく、一発入れるのも不可能に近い。

京太郎ははっきりと理解しているのだ。目の前の怪しい女性はマグネタイト器量も魔力も桁違いの怪物だと。

 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。恐ろしいのに、まだこの怪しい女性から京太郎の心は離れていなかった。

 京太郎が構え終わったところだ。怪しい女性の体がぶれた。霞のように薄くなったかと思えば、怪しい女性の背後から同じような姿の女性がもう一人現れたのだ。いわゆる分身だった。

 京太郎の準備が整ったのを見て、怪しい女性もまた準備を終えたのだ。京太郎が遊んでほしいというのなら、いつも同じ方法で遊んでやるわけには行かない。たまには別の方法で遊んでやらないと、小さな子供は飽きてしまう。

怪しい女性は気を利かせたのだ。

「私の宝物もきっとそうに違いない」

ならばということで、ひとつ手品でも見せてやろうという心遣いで分身したのだ。

 しかし残念ながら京太郎は反応しなかった。できなかったのだ。

目の前の怪しい女性を見つめすぎていて、冷静であろうと思いすぎて、すぐ背後に現れたもうひとつの怪しい女性まで気が回らなかった。自分の神経が焼ききれるほどの集中力が、そして集中力を注ぎ込んだ視覚が、周りを見えなくさせているのだ。

 京太郎を見守っているディーは気がついていた。しかし、まだディーは成り行きを見守っていた。分身など上級悪魔と戦えばよくみる戦法だったからだ。

 怪しい女性の分身が現れるやいなや京太郎の右手に怪しい女性の本体が飛び掛った。分身を生み出したほうの女性である。

両手を伸ばして京太郎の右手を捕まえに来ていた。

 一度は逃れられた握手である。戦いなら見切られていると判断して同じ行動はとらない。しかしこれでよかった。怪しい女性はこのようにすることで京太郎を誘ったのである。

二度目の出会いのときに、京太郎がよけたのを覚えているのだ。きっとこういうことがしたいのだろうと、上機嫌で遊んでいた。

 怪しい女性が右手を取りに来たのを京太郎は見事見切った。わずかにステップを踏むことで、右手をつかみにかかってくる怪しい女性をかわした。一歩右足を踏み込んで、左に小さく移動したのだ。

 すぐに行動できる構えをとっていたことに加えて、今回も目で追うことができていた。

 しかし、京太郎の表情は暗い。まだ切羽詰ったままだ。笑みは引きつって、目は血走っている。次に備えられるように、ステップでの回避を行ったために代償を払うことになったのだ。

頭痛が加速し、体の骨がきしみ筋肉の切れる音が聞こえ続けていた。音速のステージに無理やり上ったのだ。この代償は当然のものである。

 一度目のやり取りを完全に行った京太郎であるがまったく油断せずに次に備えた。一秒がはるかに遠いやり取りの中で、次の動きのために京太郎は姿勢を整えていた。

はじめの体勢、つま先に力を入れて、中腰になる格好に何とか持っていき、予想している次の攻撃、タックルの回避を始めていた。

 普通ならば、無理やりに肉体を動かす必要というのはない。一度行動すると、次の行動までの準備動作があるからだ。

 しかし京太郎の目の前にいる怪しい女性は刹那の単位で動き回ることができている。一度目のやり取りから、次のやり取りまで何秒もかけてくれるわけがない。

前回はそれがわからずに簡単につかまった。この失敗が、京太郎に無茶をさせていた。肉体が悲鳴を上げ続けているが、それも無視して動いている。

 わずかに姿勢を崩していた一人目の女性がありえない速度で体の姿勢を整えて、京太郎の胴体に飛び掛ってきた。

京太郎が見事に握手をかわしたところで、女性の体から魔力があふれ出し、二つの輝く赤い目に力が満ちたのだ。

そしてあっという間に姿勢を整え京太郎にタックルを放った。京太郎の暴走気味の集中力を持っても、目で追うのが精一杯の速度だった。

 二回目の出会いで、京太郎がいいようにやられた刹那の単位から繰り出されるタックルそのものだった。

両手を大きく広げて、京太郎を抱きしめようとしていた。これまた、怪しい女性の遊び心である。京太郎が遊びたいというのなら、こういうことだろうと理解して行っていた。

退屈を殺してくれた宝物が遊びたいというのなら、この程度たいしたことはなかった。むしろ楽しかった。



 かろうじて怪しい女性のタックルを京太郎は避けた。タックルを決めようとする女性の動きに合わせて、背後にこけるような姿勢で飛んだ。

しかしこれは思い切り飛んだのではない。爪先立ちの状態から、かかとを地面に打ち付けるだけの動きで後ろにこけるように飛んだのだ。普通なら体は浮き上がることもないだろう。無理に行ったとしても、胴体を狙うタックルをかわすには少しばかり距離が足りない。

 ただ、普通の身体能力だったらの話だ。京太郎の能力ならば女性の手の範囲から逃れることができる。しかし、あまりよい回避の仕方ではない。足が地面につかなくなるのだから、次につながらない。

だが、刹那の単位で動いている怪しい女性に対抗できる動きが、爪先立ちの状態から、かかとを落とすだけの動きだけだったのである。

 京太郎の身につけている技術では、これ以外は時間がかかりすぎて選べなかった。怪しい女性の魔力が膨れ上がった瞬間から、京太郎は背後に飛び始めていたが、それでもぎりぎりだった。

怪しい女性の爪はヤタガラスのジャンパーの前面部分を掠めている。ほかの行動をとっていたら前回と同じようにつかまっていただろう。

 刹那の単位で行われた回避劇。怪しい女性の両腕が空をきったのを回避しながら見て京太郎は笑みを浮かべた。やっと一泡吹かせることができた。

「好きなようにやられて子供みたいになでられて黙っていられるか」

そんな気持ちでいっぱいだった。

 しかし京太郎の笑みが続いたのは本当に一瞬のことだった。後ろにこけるような回避運動を取った京太郎の体は、地面に着地しなかったのだ。

誰かが京太郎のわきの下に手を突っ込んで、抱きかかえたのである。

 京太郎は何が起きたのかさっぱり理解できなかった。なにせ目の前の怪しい女性は京太郎をつかみ損なっている。それは確かなことだ。京太郎はしっかりとよけた。理屈が合わない。

 しかし周りにいた者たちは何がおきたのかよくわかっていた。怪しい女性が生み出した分身。こいつが京太郎を捕まえた犯人である。

 数秒ほどほうけた後で両脇の下から伸びている二つの腕が自分を抱きしめているのを認め、自京太郎は敗北を理解した。笑みなどまったく浮かびもしなかった。しなびていた。

 自分よりもずっと背の低い怪しい女性に抱きかかえられた京太郎は地面に下ろされた。しかし怪しい女性の分身は京太郎の胴体から手を離していなかった。後ろから抱きしめられている京太郎は、まったく抵抗する様子がなかった。

「敗北したのだから好きなようにしてくれればいい」

という気持ちであきらめているのだ。どことなくふてくされているような京太郎の両手を怪しい女性の本体が両手で握った。

ちょうどつないだ手でわっかができるようなつなぎ方である。


 そして怪しい女性は握った両手をぶらぶらと揺らしていた。小さな子供をあやすような感じがあった。

つながれている両手からはマグネタイトがやり取りされている。京太郎のマグネタイトが怪しい女性の望むものなのだ。

 そして十秒ほどたった。すると怪しい女性は京太郎の手を離した。また女性の動きに合わせて怪しい女性が作り出した分身が、京太郎の胴体から離れていった。

怪しい女性の分身が、京太郎から離れていくとき、そばで見ていたディーを思い切り睨みつけた。怒りというよりも憎しみが強くあった。

なにせ最高に楽しい気持ちになり、いよいよ宝物を大切に保管しようと考え始めたところで、邪魔者が殺気で怪しい女性に水を差したのである。

 「この邪魔者がいなければ、好きなようにできるのに」

こんなにも腹の立つことはない。

 かなりいらだちながらではあるが、怪しい女性の本体と分身は霞のように薄くなり、完全に消えうせた。消えうせるとき輝く赤い目は京太郎をじっと見つめたままだった。獲物を狙う畜生の目だった。

 怪しい女性が消えた後、京太郎は立ち上がった。明らかに落ち込んでいた。怪しい女性と立ち会う前のやる気に満ちた表情はどこにもない。

立ち上がったのは、いつまでもこの異界にいるわけにはいかないとわかっているからだ。いいようにやられたことで、頭が冷えてきたのだ。

 今は龍門渕に戻る必要がある。そうしないといつまでも道だけの世界で迷う羽目になる。それは困る。だから立ち上がった。

「怪しい女性が分身したことに気がつかないばかりか、背後に回りこまれているのにも気がつかなかった。失敗どころの失敗ではない。

 気がつくだろう普通。情けない」

という気持ちなど、押し殺さなくてはならないのだ。それは後で考えるべき気持ちである。京太郎は何とか自分に言い聞かせて、立ち上がったのだ。本当なら、叫びたいくらいに悔しいことだけれども、今はそういう時ではなかった。

面白すぎる

 立ち上がったときに少しだけふらついた。頭が痛かったのと、肉体が筋肉痛のような痛みでいっぱいになっていた。

 京太郎が立ち上がると少しだけ間をおいて、ディーが声をかけた。

「いい動きだったよ。反応する早さも、肉体の操作もよかった。特に肉体の操作に関しては天性のものがあるね。鍛えれば一級品になる」

 かなり気を使っていた。ディーの目から見て京太郎の動きというのはかなりよかった。相手の行動に対する反応もよかったし、回避の選び方もよかった。

 悪かったところがあるとすれば強化されすぎた集中力をコントロールできなかったことだろう。高すぎる集中力が本体に向きすぎて周りを見えなくさせてしまった。

しかし無理に感覚を研ぎ澄まして、やっとステージに上っているのだ。結果として集中しすぎて目の前のひとつの物にしか意識が働いていなかったというのはどうしようもない。

 ディーに慰められた京太郎は、つぶやいた。

「分身は卑怯じゃいっすか?」

 勝負に卑怯もクソもない。京太郎ももちろんわかっている。京太郎も本当に卑怯などとは思っていない。ただ、愚痴りたかったのだ。

自分の至らなさがこの敗北につながったとは理解できる。しかし、心のもやっとしたものは吐き出さないとおさまらなかった。

 愚痴っている京太郎にディーが笑いながらこういった。

「悪魔相手に卑怯も何もないっすわ。さぁ、先に進もう。あまり気にするなって」

 ディーは京太郎が愚痴るのを見て大丈夫だと思った。本当に敗北して、心を折られたものは、愚痴をはくことさえできなくなる。

反省しなくなり、別の場所に流れていくだけ。そうなると、京太郎はまだ大丈夫な部類である。まだ愚痴をはける。ということは、まだ折れていないということだ。

悔しくて、そのうち反省を始めて対抗策を考えるようになる。それだけわかれば、十分だった。次に進める。

 ディーに背中を押されて、京太郎はオロチの石碑の前に進んだ。京太郎はまだぶつぶつといっているけれども、足は止めていなかった。愚痴っているけれども、もしも次があるのならばといって頭を動かし始めているからである。そんな京太郎であるけれどもやることはしっかりとやっていた。

 オロチの石碑に手を触れて、帰り道をしっかりと聞いた。そのときに蛇のレリーフがアクロバティックは動きで道を教えてくれた。京太郎はそれをみて笑ってしまった。

 オロチの石碑が道を示すと今まで視界を埋め尽くしていた岩がどんどん姿を消していった。そして、道が開けた。やはりというべきか、地面が掘り起こされたようなあとはどこにも残っていなかった。

 オロチの石碑が道を示すと京太郎もディーも車に戻っていった。もうここには用事はない。さっさと龍門渕に戻れる道に乗らなければならないのだ。


 二人が車の席に着いてさて出発だという時に京太郎に虎城が質問をした。

「須賀くんって、戦うのがすきなの?」

 虎城はずいぶんと顔色が悪かった。京太郎を恐れているわけではない。巨大なマグネタイトの奔流と強力な魔力に当てられて気分を悪くしているのである。

虎城が京太郎に質問を飛ばしたのは、おそらく自分よりもはるかに恐ろしい力を前にしたというのにもかかわらず、普通に立ち向かっていた京太郎が不思議だったからだ。

 魔人という存在であるといっても感覚は人間なのだ。虎城は自分がもしも京太郎の立場だったらと思うと、絶対に立ち向かうことはなかったと断言できた。

それほど怪しい女性の抱えているマグネタイトと放たれた魔力は圧倒的だった。そうなってくると京太郎の行動など戦うのが好きな、それこそ修羅のような存在でなければ納得できなかった。

 虎城の質問に京太郎が答えた。

「そんなに好きじゃないっすよ?」

 嘘ではない。本当でもない。半分半分だ。京太郎は命を奪いたいわけでもなければ、あえて命を危険にさらしたいわけでもない。たまたま全身全霊で挑戦できるチャンスというのが怪しい女性とのやり取りだったというだけのことである。

もしも、もっとわくわくできるようなことが目の前に転がっていれば、きっとそちらに手を伸ばすだろうし、あえて戦いを選ぶようなことはないと自分を分析していた。

 だから、好きではないという答えだった。戦いについては好きでも嫌いでもなく普通なのだ。虎城が納得してくれるかどうかはわからないけれども。

 スポーツカーが先に進み始めたところで、虎城がこういった。

「すごく楽しそうだったけど? あの悪魔と戦っているときの須賀くん」

 虎城は少し気分を持ち直していた。京太郎がずいぶん面白いことを言ったからだ。京太郎が怪しい女性の前に向かうときの顔、そして怪しい女性にいいようにやられて悔しがっている顔は、自分の好きなもので一生懸命になっている人のそれとよく似ていた。

京太郎の場合はずいぶんと血なまぐさい分野でのことだけれども、浮かべる笑顔は同じものだった。

 虎城の指摘を受けて、京太郎は少し間をおいて、こういった。

「もしかしたら、そうなのかもしれないですね……」

 京太郎の声はずいぶん眠たそうだった。虎城の指摘を受けて、自分がそういう恐ろしい感覚を持っているのかと悩むようなことはなかった。指摘されて、そうなのかもしれないと受け入れていた。

 もう少し京太郎に力が残っていたら、違う反応を示していたかもしれない。これは考えて考えての言葉ではない。桁違いの集中力を発揮したことと刹那の単位で戦闘を行うという経験が京太郎を追い込んだ結果だった。

本当のことを指摘されると少し反抗したくなる気持ちがわくけれども、そんな気持ちをわかせる暇もないくらいに疲れていたのである。だから、簡単に受け入れられた。

「そうなのだろう」と。
 

 スポーツカーが走り出すと、京太郎のまぶたが落ち始めた。あと少しで眠り始めるだろう、うつらうつらしている。

圧倒的過ぎる魔力とマグネタイトを持つ怪しい女性との立会いが、京太郎の体力と精神力を大幅に削ってしまったのだ。

そして刹那の単位で動く女性を視界に納めるために集中力を使いすぎた結果、いよいよ京太郎は眠りに落ちる寸前まで追い込まれたのである。

 しかも京太郎がいるのは車の中だ。隣にいるのは信頼できる運転手ディーである。荒野で眠るような不安感はまったくない。安心だ。眠っている間に攻撃されるようなことはないだろう。安心できるからこそ余計に眠たくなる。

 京太郎がうとうとし始めると、スポーツカーの不思議な空間から虎城が手を伸ばしてきた。そして虎城は回復魔法を京太郎にかけた。声は出さなかった。非常に疲れているのがわかったからだ。

 回復魔法の暖かさが更に眠気を誘う。助手席で京太郎が何とか耐えようとしていると、ディーがこういった。

「眠っていたらいい。疲れたんだろ? ここまであがってくれば、後は大丈夫さ」

 京太郎の疲れの理由にディーは思い当たっていた。長い間運転をしていると集中しすぎて頭がだるくなってくることがある。集中しすぎると精神的に疲れてくるのだ。

こればかりはどうすることもできない。そして、世界の雰囲気が変わり始めているのもディーは感じていた。あと少し道なりに進んで上っていけば、自分たちが普段使っているオロチの道へ戻ることができるだろうと。

ここまで京太郎はよく役に立ってくれた。これから龍門渕まで眠っていてもらってもまったく悪いとは思わなかった。

 ディーがこのように言うと京太郎はまぶたを完全に閉じた。ディーに返事もしなかった。休んでいていいといわれて、ほっとしていよいよ緊張の糸が切れたのだ。

京太郎はあっという間に眠った。京太郎が眠っている間もスポーツカーはどんどん先に進んでいった。




 眠り始めた京太郎は夢を見ていた。夢は映像だった。白黒の夢ではなかった。色がついていて、声も聞こえていた。

しかしはっきりと何を話しているのかはわからなかった。

 夢の中で京太郎は会話をしていた。どこにいるのかはさっぱりわからなかった。袈裟のようなものを着た老人と、きれいな着物を着たおかっぱの女の子が京太郎の前に立っている。袈裟のようなものを着た老人は、京太郎に笑いかけていた。

 そして、誰かに伝言を頼むというようなことをいっているようだった

 老人のすぐそばに立っている小さな女の子。この小さな女の子はとてもきれいな着物を着ていて、きれいなおかっぱ頭をしていた。

この小さな女の子が、老人の後に京太郎に対して話しかけていた。夢の中の京太郎は少女の話を聞いて、非常に驚いていた。何を話しているのかというのはまったく聞き取れなかった。音がぼやけて、まったく理解できなかったのだ。

 理解できないままでいると、映像が乱れた。別の場面に切り替わっていこうとしているのだ。

 場面が変わった。夢の中の京太郎はとても景色のいい山の山頂にたっていた。空には星が輝いていて、見下ろす地上には寒々しい荒野が広がっている。荒野の果てに海が見えた。夢の中の京太郎は小さな苗木を両手で大切そうに抱えていた。その苗を京太郎は地面に植え始めた。丁寧な仕事だった。

 しかし不思議な光景だった。あまりにも苗を植えるのに適していない場所に植えようとしているからだ。とても高い山の頂上であるから、きっとまともには育たないだろう。しかしそれでも夢の中の京太郎は小さな苗木を埋めるのだった。

 またもや、映像が乱れ始めた。そしてあっという間に、別の映像が始まった。

 場面が変わった。京太郎はたくさんの鬼たちと向き合っていた。どうやら河原のようなところで戦っているらしく、足元が悪かった。また、襲い掛かってくる鬼たちはとんでもなく数が多かった。

しかしまったく不安になることはなかった。夢の中の京太郎は恐れることなく現れる鬼たちと戦っていた。現実の京太郎にはない洗練された武術が行動に現れていた。いつまでも戦ってやろうという気持ちが感じられた。

 三度目。映像が乱れ始めた。また新しい夢が始まるのだ。

 そうしてまた、場面が変わった。次に現れたのは雪の降る庭のようなところで着物を着た女性と語り合う光景だった。日本庭園のような場所である。

雪が降っていて真っ白になっている。真っ白に染まった庭園が風流な気分にさせた。

 すぐ近くにいる着物を着た女性がこの景色に花を添えていた。京太郎はこの女性を少し見上げるようにしてみていた。

夢の中の京太郎はこの女性と親しげに話しをしているけれど、現実の京太郎はさっぱり誰なのかわからなかった。しかしかわいらしい笑顔を浮かべる人という印象を持った。

 また夢の中の京太郎の心は妙に安らいでいた。着物を着た女性が夢の中の自分を呼んだ。しかし何かがおかしかった。音がぼやけていた。

それに、着物を着た女性は「京太郎」と呼ばなかったのだ。「須賀」でもなかった。口元の動きでそれがわかる。

 四度目のノイズが走った。しかしこれはとんでもなく大きなノイズだった。夢自体が壊れてしまうのではないかと思うほど大きく映像がひび割れて、意識がどこかに引っ張られていくような強引な流れを感じた。

おお、ついに続編きたのか

力作だな
嬉しい

 ノイズが収まると別の場面に移った。京太郎がいたのは、まっさらな空間だった。空には何もなく、地面にも何もない。真っ白な空間がずっと続いているだけの世界である。しかしこの真っ白な空間には京太郎以外の何者かが居を構えている。

 真っ白い空間の夢を見始めると、夢を見ている京太郎の体がわずかに揺れた。スポーツカーの助手席で眠っている現実の肉体が動いたのだ。

それは何か驚くようなものを見たときの反応とよく似ている。スポーツカーを運転していたディーも不思議な空間から顔を出して外の景色を見ていた虎城も、京太郎を見て少し驚いていた。

 京太郎の体がびくっと動いたのは、夢の中によくわからない存在が入り込んできたのを感じたからなのだ。完全に不意打ちだったので、簡単にぼろが出ていた。

 そして何かがいると京太郎が直感を得たときである。京太郎の夢の中に、数え切れない首を持つ巨大な蛇が姿をあらわしたのだった。その蛇はとても大きかった。

真っ白な空間を埋め尽くしていた。見てくれも恐ろしい。トラックどころかフェリーあたりまで一口で飲み込んでしまえそうな大きな頭。

頭を余裕を持って支えられる超巨大な胴体。そして鋼のうろこ。怪物というより特撮映画の怪獣である。

 夢の中に現れた蛇は夢の中の京太郎をじっと見つめた。それも何百という頭がいっせいに京太郎に顔を向けた。

 輝く赤い二つの目がたくさん集まっているためにクリスマスのイルミネーションのような調子だった。しかしその目が何を求めているのか、京太郎にはわからなかった。また、恐ろしいとも思わなかった。

 夢の中で京太郎に向けて巨大な蛇が舌を伸ばしてきた。あまりにも大きな蛇であるから舌先の部分であっても京太郎よりはるかに大きかった。

 京太郎にあと少しで触れるというところで、舌先は動くのをやめた。京太郎にあと少しで触れられるところで、チロチロと振るわせるだけになった。

 しかしそれでもうちわで扇いだような風が発生するのだからおかしなことだった。この大きな蛇は、どうにも自分から京太郎に触れるつもりはないらしかった。

 京太郎に任せるような、試しているようなそんなところがあった。イルミネーションのように輝くたくさんの赤い目も、京太郎がどう行動するのかうかがっていた。

 超巨大な蛇が何を求めているのかはさっぱりわからない京太郎だったが、とりあえず舌先に触ってみた。

特に恐れるということはなかった。しかし少し不愉快なものに触るというようないやな感じがあった。それは仕方がないことで、大きな蛇の舌はヌメっていたのだ。夢の中の出来事だというのはわかっているけれども、なかなかヌメっている蛇の舌に手を触れるというのは勇気がいることだった。

ましてや頭ひとつがちょっとしたビルほどの高さがあるのだから、触りたいとは思わない。

 しかしそれでも京太郎は手を伸ばしていた。大きな蛇の舌に触るというのをいまいち恐れていないのは、オロチのレリーフによく助けられていたからである。

この巨大な蛇は夢の中の蛇である。まったく関係はないだろう。なぜならオロチとは今まで走ってきた道そのものだからだ。

 しかしオロチの世界を旅して何度も道を教えてもらった経験が、蛇に対する嫌悪感というのをなくさせていた。だから、触ってもいいかなという気持ちになったのだ。

 京太郎の右手が超巨大な蛇の舌先に触れると、たくさんの赤い目がパチパチと瞬きをし始めた。
  
 そのまま京太郎はなで続けた。ヌメっていると思った質感が金属のような質感だったからだ。気持ち悪くなかった。手で触れても舌が引っ込むようなことがなかったので、なで続けていると、大きな蛇からアルコール臭が漂い始めた。


 こんなに大きな蛇でも酔っ払うのだなと京太郎がのんきなことを考えていると、蛇は舌先を引っ込めた。どうしたのかと京太郎が不思議がっていると大きな蛇の頭のひとつが動き始めた。

その動きは外敵を威嚇する動きだった。威嚇する蛇の頭は、京太郎の背後を見ていた。

 大きな蛇の頭が見ているほうに京太郎が振り返ってみた。京太郎が振り返ったところには大きな人のシルエットが浮かんでいた。太陽を背にしているように見えた。

 そのシルエットは京太郎よりも身長が高かった。二メートルを少し超える大きさである。このシルエットは鳥の羽をそのままマントにしたものを羽織っていた。

そして桃のいいにおいがする長い杖を片手に持っている。

不思議なのはこのシルエットが鎧と兜らしきものを身につけているのことだろう。

 時代錯誤だという以上に、おかしな鎧と兜だった。ずいぶんと無駄がなかった。普通の防具というのは少し余裕があるものだ。

体の動きを邪魔しないようにぴったりと引っ付いていない。しかし、このシルエットの防具は全身にぴったりとしていて、空間の無駄がなかったのだ。おかしなことだった。

 おかしなことはほかにもある。武器らしい武器を持っていなかった。長い杖が武器といえるのかもしれないがなんとなく武器らしい感じがしなかった。

 そして男なのか女なのか、そもそも人なのかもわからない。仮面のようなものをつけているからである。シルエットしか見えないので詳しくは見えないが、仮面のようなものだった。素顔ではない。

 超ド級の蛇たちが恐れているのは、このシルエットである。数え切れない蛇の頭が次々に威嚇を始め、攻撃を繰り出していった。二メートルほどの身長がシルエットにあっても頭のひとつがビルほどある蛇だと絶望的な光景に見えた。

 しかし、勝利したのはシルエットだった。夢だからだろう、蛇の頭を杖で一発殴るとそれだけで大きな蛇は姿を消した。どこか遠くで、悲鳴が聞こえた。

 そして勝利したシルエットは何も言わずに消えていった。京太郎をちらりとも見なかった。すさまじい力の持ち主であることは間違いなかった。

ただ、京太郎は恐ろしいとは思わなかった。このシルエットが結局のところ夢であって本物ではないのだというのが直感で理解できたからである。

 夢を見ていた京太郎の肩にディーが触れた。左手で、京太郎の右肩に触れたのだ。少し強めに触れているので、京太郎の体が揺れた。

京太郎を目覚めさせようとしているのだ。このまま京太郎を休ませてやりたいが、できなくなったのだ。残念なことに松常久とその子分たちが許してくれそうになかった。

 オロチの石碑の案内は正しかった。案内に従い道を進んだスポーツカーは見事に蒸気機関が空を曇らせているもとの世界まで戻ってきた。虎城とディーは非常に喜んだ。ここまで戻れば、後は龍門渕へ戻るだけだからだ。

 しかし問題が発生した。松常久たちの見張りの悪魔に見つかったらしく装甲車で追い掛け回される羽目になったのだ。

 ありえないほど広いオロチの世界で運悪く見つかったのは非常に残念なことである。しかし見つかったのは変えられない事実だった。

 はじめは一匹の悪魔だった。羽の生えた人のような悪魔に見つかった。今は数え切れない羽の生えた悪魔に追い回されている。天使のようなものもいれば、鳥のようなものも、ただのライオンに翼をつけたようなものもいた。

 そして空を飛ぶ悪魔を操るサマナーたちが装甲車二十台に分かれて乗ってスポーツカーを追い詰めようと動いている。京太郎に壊された部分をとりあえず直している状態であるようで、何台かは調子が悪そうだった。

 京太郎を眠りから引っ張りあげようとしているのは、何が起きるかわからない状況になっているからである。眠ったままで修羅場に突入することになればそれこそ終わる。

 京太郎がまぶたを動かし始めると、ディーがこういった。

「どうやら追っ手に見つかったみたいだ」

 追っ手に見つかったというディーだったが、少しもあせっているようには見えなかった。なぜならディーの運転するスポーツカーは追いかけてくる装甲車たちよりもずっとすばやく動き回れる。

 そして今までとは状況が違うのだ。スポーツカーが蒸気機関と石畳の世界まで戻ってきているという違いである。今まではどこを走っているのかわからなかったためエネルギーを温存して走っていたが、ここまでくれば手加減は必要ない。

 ここまで戻ってくれば、後は力押しで龍門渕に戻れるとディーは確信していた。だから、装甲車が追いかけてくるのも、それほど困る問題ではなかった。京太郎を目覚めさせたのは万が一を考えてのことである。

 目を覚ました京太郎は辺りを見回した。京太郎は少しも不機嫌ではなかった。むしろかなりすっきりと目を覚ませたようだった。あたりをきょろきょろと見渡した京太郎の目は、蒸気機関と石畳の世界をしっかりうつしていた。

あたりを見渡しているのは景色を楽しんでいるのではなく、状況を確認しているのだ。非常に良い目覚めであったため休みから、戦いへの切り替えがすばやくできていた。


 京太郎が状況の確認を急いでいる間に、スポーツカーのはるか後ろから土煙を巻き上げながら装甲車の群れが追いかけてきていた。しかし風の魔法を車にかけているようで視界は良好そうだった。

土煙が舞い上がっても風の魔法があっという間に吹き飛ばすからだ。

 また、風の後押しを利用して非常にすばしっこく道を駆け回っていた。猟犬のようだった。

 しかしこの装甲車よりも恐ろしいものがある。それは装甲車の群れを守る悪魔たちである。悪魔たちは数える気にもならないほど多かった。なんとしてもスポーツカーを取り押さえたいという気持ちが悪魔たちの数に現れていた。

 そしてスポーツカーに乗っているものたちを永遠に黙らせたいという執念が感じられる。ここまでしてどうして始末したいと思うのか。それは、そうしなければ松常久は没落するからだ。そして協力した部下たちも同じように没落するだろう。

 ただ、絶望的なあがきでもある。なにせ、すでに松常久たちは限りなく黒に近い存在なのだ。十四代目葛葉ライドウに内偵をかけられた上、捜査にかかわっていたヤタガラスの構成員を襲う暴挙に出ている。

万が一、人身売買と誘拐補助に関して、まずありえないだろうが、無罪となったとしてもヤタガラス構成員への所業、虎城の証言だけで、没落する。

 準幹部である松常久がいくらかヤタガラスに貢献していたとしても、許される行為ではない。人身売買と誘拐補助の罪も、ヤタガラスに反逆するという行為も許されない。

 そしてこの所業に対する罰は非常につらいものになるだろう。死が安息であると心の底から理解できる程度には苦しむことになる。

 だからなんとしても、松常久はあがく。何とか破滅の芽を摘みたい。とっくの昔に連絡が十四代目に通っているかもしれないけれどもそれでも、あきらめていない。

「証拠になる人間がいなくなれば、もしかしたら可能性があるかもしれない。上手く言い訳をして、切り抜けられるかもしれない。

 私は死にたくない! 死んでたまるものか!」

この執念が、空と道を埋め尽くす悪意と殺意の悪魔の群れにつながったのである。潔くあきらめるとか、人の道に反しているなどと考える心は、人身売買と誘拐補助に手を染めたときに捨てていた。

 地平を埋め尽くさんとする悪魔の群れをみた京太郎がこういった。

「よくマグネタイトが持ちますね、あんなに。すげぇ、空がみえねぇ」

 感心しているように見える態度だった。しかし、すごいと思っているのではない。京太郎の表情と口ぶりは、松常久を馬鹿にしている。

 松常久が行っている行動が、理にかなっていないから馬鹿にしているのではない。全力で自分たちを始末するという選択を京太郎は正しいと見ていた。生き残るという目的を達成するために松常久のとった行動は悪くない。

 おそらくスポーツカーの中で守られている虎城が消されれば、ライドウであっても松常久を切れないだろう。

 なぜなら確固たる証拠が、虎城に集中しているからだ。彼女の証言だけが頼りで、それ以外に証拠がない。松常久に読心術をかけ、虎城が証言してやっと正当化される案件だ。これでも怪しいくらいである。

 だから虎城は渡せない。仮に十四代目の弟子ハギヨシとベンケイが松常久を黒と断じても、切れないのだ。

 むしろ、ディーの話からするとベンケイとハギヨシが関わってしまった分、余計に証拠が必要なのだ。

 というのもベンケイもハギヨシもヤタガラスに対して重大な問題を起こしている。ベンケイがはっきりと何かをしたという話は聞いていないので、京太郎の考えは推測の域を出ない。

しかし、ディーの話しぶりからすると、ハギヨシに従順であれと願う程度にベンケイが奔放であったと考えられる。

 そしてもっとも厄介なのが、ハギヨシである。ハギヨシはヤタガラスに敵対した上、力で屈服させている。幹部の五分の一を削ったというのだから、よほどである。

この九頭竜事件について京太郎が思うことは少ない。秘密結社の幹部を名乗っているのにハギヨシ一人たおせないのかというがっかりした気持ちはあるが、ハギヨシを責めるものではない。

 しかしほかの幹部たちはきっとこう思っているに違いないと京太郎は予想できた。

「次は自分の番かもしれない。ハギヨシを注意深く見張らなくてはならない。あの男は自分の一族も切り捨て、私たちも切り捨てたのだ。いつ首をとられるかわからない」

 ならば、今回の事件でハギヨシが関わっているのはまずいのだ。ディーがハギヨシの仲魔で、今回の松常久の事件に一番はじめにに対処するのが龍門渕。

どれも六年前の九頭竜事件で悪い感情をもたれているだろうものたちである。既得権益も権力も持ったことのない京太郎にはどの程度の恨みなのか予想をつけるのは難しい。しかし

「人を蹴落としてでもほしがるもの」

とは聞いているので、恨みの大きさというのもなかなか大きいだろう。

 そうなれば、虎城がいない状態で松常久を処断すれば、幹部たちがどういう印象を受けるのか予想をつけるのは難しくない。

 このようになるだろう。

「大掛かりな自作自演ではないか? 龍門渕とハギヨシが手を組んで、良心的な準幹部である松常久を落としいれようとしたのでは?

 破門されたベンケイまでかかわっているのか。ならば余計におかしいではないか。偶然が過ぎる」

 ただ、幹部たちが良心的であれば、松常久に無条件で読心術をかけてくれるという期待もある。読心術をかけてくれさえすれば、終わるのだ。

ただ、合理的かつ良心的な幹部たちであるかどうかというのは京太郎にはわからないので、なんとも判断がつかなかった。

 何にしても、松常久のやることは理にかなっている。京太郎たちを始末できれば、首はつながるだろう。

 「できるのならば」

 京太郎が笑っているのは、悪魔たちが弱すぎるというところである。松常久の部下たちが呼び出した大量の悪魔は、見た目こそ恐ろしいがそれだけだ。

それだけなのだ。おもちゃの水鉄砲を突きつけられたところで何が恐ろしいものか。京太郎はそんな印象しか持たなかったのである。

だから笑った。松常久の目的は理解できるが、手段が弱すぎる。それがおかしかった。

 しかし空を埋め尽くし地面を占拠するほどの大群を前にして笑えるのは京太郎とディーくらいのもので、虎城は完全に血の気が引いていた。

 当たり前の話だが、数が多いというだけで武力は大きくなる。そして虎城の眼から見て空と地面を占拠する悪魔たちは虎城の武力では倒せない悪魔ばかりだ。

彼女がたった一人で立ち向かうようなことをすれば、あっという間につかまって、終わるだろう。

 むしろ空と地面を埋め尽くすほどの大群、そしてそこそこ力がある悪魔たちを前にして、笑っていられるほうがおかしいのだ。

 背後から追いかけてくる悪魔たちを確認しながら「あの大群をよく維持できるな」という京太郎にディーがこういった。

「車の中に予備バッテリーでも用意してきたんだろうな。準備のいいことだ。

 追いかけてくる車の中に何人のサマナーが乗っているかはわからないが、質は低いな。

なんとしても虎城さんを捕まえなくてはならないという覚悟で挑んでいるのなら、もう少し上級悪魔も呼んだほうがいい。

 一番上でも中の上程度の悪魔。あの集まりのほとんどが中級にかからない雑魚だ。あれでは無理だな。雑魚をいくら呼んでもこの車の結界は壊れたりしない。

ガラスに傷をつけることさえできないね」

 京太郎に説明をするディーは鼻で笑っていた。京太郎を笑ったのではなく、弱い悪魔たちを呼び出し続けている松常久の部下たちを笑ったのだ。

 松常久と部下たちの作戦の失敗を笑っているのだ。数をそろえて戦うというのは間違いではない。集団でかかれば、強いものを打ち倒すことができるというのが、人間の常識である。

やりようによっては上級悪魔を中級、下級の悪魔の群れで始末することもできるのだから、間違いではない。

 そして索敵のために数をそろえるという選択も間違いではない。つい先ほどまでオロチの世界を迷っていたディーたちを見つけられたのは、数をそろえていたからであるから、間違いではないのだ。

 しかし松常久とディーが行っているのは追いかけっこだ。どちらがすばやく目的を達するのかの勝負である。

ならば、空を埋め尽くす悪魔たちを呼ぶのはあまり賢い方法ではない。ディーの感覚からすれば雑魚といわれる悪魔たちがいくら追いかけてきてもディーは振り切れる。

 だからディーは笑う。後ろから追いかけてくる無数の中級、下級悪魔などよりは、一体の上級悪魔を呼び出すほうがずっとましだと。


 冷たい笑みを浮かべるディーは激しくハンドルを操作し続けた。アクセルは踏みっぱなしで、デジタルスピードメーターはどこまでも上昇を続けて、四桁に近づいている。

しかしそれでもまったくアクセルは緩まない。とんでもない速度で走るけれども、風が車を守ってくれているために吹き飛んでいくこともない。

ディーの目には龍門渕への道が見えているのだ。

 まだはるかに遠いところにあるけれども、それでも真っ暗闇の中を走るのよりも、草原しかない世界を走るのよりもずっとましだった。

蒸気機関と石畳の道が続く世界まで戻ってこれたのならば、後はディーの本領を発揮するだけのこと。いいところを京太郎に任せっぱなしだったというのもある。気合も入る。


 追いかけられながら龍門渕への道を進んでいく中で、虎城が震えながらこういった。

「あんなたくさんの悪魔、逃げ切れるわけが……」

 虎城の弱音というのは車内に響いていた。虎城は思いのほか弱っていた。

 理由はたくさんある。

 一つ、氷詰めになっていたということ。二つ、命を狙われているということ。三つ、大きな力を持つ上級悪魔の波動に当てられたということ。四つとんでもない速度で走る車の揺れが車酔いをおこさせているということ。

 どれもが彼女の体力と精神力を削っていた。そうなってくると、どうしても暗い気持ちになる。人間というのは現金な存在だ。

自分の調子がいいときは明るく、調子が悪いときには暗い気持ちになる。ちょっとした風邪を引いただけでも、世界が終わるような気持ちになることがあるけれども、彼女は今それなのだ。

体力と精神力を削られているところで、自分では手も足も出ない悪魔の群れと、悪意を持った人間たちが追いかけてくる。

 つかまれば嬲られて殺されるだろう。そんな状況だ。弱音も吐きたくなる。泣き出さないだけ強い心を持っているといえるだろう。

 おびえる虎城の呟きをきいてディーが励ました。

「数が多いだけです。たいしたことはない」

 ディーは微笑を浮かべ、前を見たままで虎城に声をかけている。ディーが虎城に声をかけたのは慰めのためではない。強がりだとかでもない。ディーは虎城に安心しろといっているのだ。

 まったく問題ない。問題ないのだから、いちいちおびえる理由などない。ディーには背後から迫ってくる数え切れない悪魔の群れをどうにかする能力がある。被害を考えずに戦えばそれができる。

ディーはその能力に自信がある。下級悪魔たちなど一発で消し飛び、装甲車の中にいるだろう松常久たちもチリも残さずに分解できると信じている。そして自分たちが走っているオロチでさえも吹き飛ぶ可能性があるとまで思っている。

 だからまったく恐れていない。ここで終わることなどないのだ。それがディーの真実で、虎城がおびえる理由などどこにもないとはっきり言い放てる理由なのだ。

 しかし虎城の不安はなくならなかった。

「怖い」

とスポーツカーの不思議な空間で震えていた。

 そんなときだった。

 助手席の京太郎が上半身をひねって、後ろで震えている虎城を見つめた。京太郎の目には震えている虎城の姿が映っていた。京太郎の動きに気がついたらしく虎城と目があった。

 すると京太郎は虎城に帽子をかぶせた。自分がかぶっていたヤタガラスのエンブレム付きの帽子だ。これを有無を言わせずに虎城にかぶせた。

 そして何もいわずに京太郎は助手席の窓ガラスを全開にした。

 いきなり帽子をかぶらされた虎城は何事かとあっけに取られていた。京太郎の行動が自分の予想したものではなかったからだ。というのも、京太郎が振り返ったときには自分を元気付けようとしていると思ったからだ。

 京太郎はそういうタイプの人間だとわかっていたので、きっとそうするだろうと予想していた。実際、目を見つめられたときに何か励ましのようなものがあったように彼女は感じていた。だからきっと、何かしらの行動で励まされるのだろうと思った。

 しかし、実際に起きたのは無言でヤタガラスのエンブレムつきの帽子をかぶらされただけである。さっぱりわからなかった。

そしてそのあと京太郎が助手席の窓ガラスを全開にするのだから、よくわからない。わからないこと尽くしで頭が混乱していた。

 比較的冷静な運転席のディーも理解が追いつかない間に、京太郎はジャンパーのポケットに入っているデリンジャーを取り、右手に構えた。

 そしておもむろに右上半身を窓の外に出して悪魔の群れに銃口を向けて構えたのだ。京太郎が行おうとしているのは、射撃である。追跡をとめるという目的と震えている虎城の不安を解消するという目的があった。

 一つ目の目的、追跡をとめるというのはそのまま京太郎たちの目的と重なる。龍門渕に帰るためには追跡は邪魔なだけだ。減らせるのなら減らしておいたほうがいいだろう。

 もうひとつの目的は虎城の不安を吹き飛ばすためである。これが京太郎の動くほとんどの理由である。虎城が不安がっているのをみて京太郎は不憫だと思ったのだ。

 「なぜ、あのような弱い悪魔の群れのために、虎城がおびえなくてはならないのか。恐れおののくべきなのは、松常久とその部下たちであるべきだろう」

 そう思った京太郎は、虎城の不安をぬぐうために、行動し始めたのだ。ヤタガラスの帽子を虎城にかぶせたのは風で吹っ飛ぶのが目に見えていたからである。

大切な帽子だ。借り物である。ジャンパーはぼろぼろになったが、これひとつくらいはまともなままで戻りたかった。


 吹き付ける風も気にせずに、デリンジャーを構えた京太郎は引き金を引いた。京太郎の体が吹っ飛んでいかないよう、京太郎に虎城がつかみかかるよりもずっとすばやかった。

また、運転席のディーが京太郎の無茶を見て大笑いし始めるのよりも早かった。

稲妻の魔法「ジオダイン」を使うという手もあったが、できなかった。というのも自分たち以外にもオロチの世界を使用しているサマナーたちがちらほらと周囲に確認できていたからである。

 まったく周りに人がいないのならば、稲妻の魔法を使うこともできた。また、力加減ができるのならば、使うこともできただろう。

 しかし残念ながら、京太郎は力加減ができない。使える魔法はジオダイン一つだけである。ジオンガもジオも使えない。そういう魔法があるのは知っているのだが、唱えても使えなくなっている。

京太郎の感覚としては、なくなったのではなくジオダインに変化してしまったというのが正しいのだけれども、何にしても手加減ができない。

 稲妻の魔法ジオダインは、言葉通り稲妻が放たれる。回避不能の速度で放たれる雷撃である。巻き込まれると普通に死ぬ。自然現象の稲妻がそのまま襲ってくるのだ。生き残れるものというのはほとんどいないだろう。

 ただでさえ、稲妻の魔法であるから使い時が難しいのに、周りに無関係の人間がいる。流石に稲妻を好き勝手に打ち込むというのは選べない選択肢だった。

 デジンジャーを選択したのは、もしも間違いが起きたとしても無事で済むものだったからである。

 しかしこのオリハルコンのデリンジャーもずいぶんおかしな格好になっていた。京太郎が構えたときから、おかしくなり始めていた。京太郎が握った部分から、徐々に赤くなり始め、引き金を引かれるときには全身が真っ赤に輝いていた。溶けた鉄のようだった。そして、熱を持っていた。

 デリンジャーを握る京太郎の手のひらからいやな音が聞こえ始めていた。デリンジャーの熱が肌を焼いているのだ。京太郎は自分の力で、自分を焼いていた。

 しかし銃撃は何度も続いた。引き金を引く京太郎はまったく気にも留めなかった。引き金を引けば、拳銃が勝手に弾を作り敵に打ち出す。

それだけわかっていれば十分だった。手のひらが痛むけれど、たいしたことではない。

 何より引き金を引くたびに追っ手が減るのだ。これが一番大切なことである。邪魔がなくなるのなら、引き金を引くだろう。細かいことなどどうでもよかった。

 京太郎が引き金を引きはじめて十秒ほど後のこと、追いかけてきていた装甲車が一台二台と動かなくなった。動けなくなった装甲車たちはそれぞれ普通の状態ではなかった。

タイヤが失われているものもいれば、車体の中心部分が削れれているものもあった。間違いなく京太郎の射撃の仕業である。

しかしおかしなことがあった。それは装甲車についている傷跡だ。デリンジャーでつけられるような傷跡でなかった。

 装甲車についた傷跡は大きな傷跡だった。大砲でも打ち込んだのかと思うほど削れていた。そして、打ち込まれた部分は、融けていた。明らかにおかしかった。

 京太郎はまったく気に留めていないが、オリハルコンで作られたデリンジャーは持ち主である京太郎に応えるために変化しているのだ。悪魔たちから見ても不思議な、成長する金属オリハルコンの性質だった。

 何にしても、装甲車はどんどん動かなくなっていく。道半ばで立ち往生し始めた。装甲がどろどろになって、修復不可能な状況にまで追い込まれている。それだけならまだましなほうだろう。運悪く打ち抜かれた装甲車に乗っているサマナーたちの何人かは何がおきたのかもわからずに消し飛んでいるのだから。


 悪魔の群れはまだ健在だ。呼び出したサマナーが戻れと命じなければ、延々と追いかけてくるだろう。

 しかし装甲車が追いかけてこなくなった。安易に追いかけていけば銃撃なのか雷撃なのかもわからない攻撃を受けて命を失うと悟ったからである。

 装甲車たちがデリンジャーの射程距離から離れると京太郎は助手席に体を戻した。そしてこういった。

「とりあえずこれでどうにかなるでしょ。仲魔はサマナーの命令がないと動けない」

 京太郎には一仕事終えた満足感だけが会った。右手の手のひらが焼けていたけれども、気にならなかった。また、罪悪感というのはかけらもない。後から

「人を殺した罪悪感はあるか?」

といってたずねてみても、おそらく記憶にさえ残っていないだろう。

 自分たちの命を狙って追いかけてくるものを実力を持って京太郎は排除しただけなのだ。それ以上でもなければ以下でもない。ただそれだけの仕事だった。

 そして実力を持って排除したから、満足なのだ。

「これで落ち着いて龍門渕に帰ることができる」

これだけである。

 そして虎城がおびえる理由も減った。満足しかない。もともと京太郎にとって悪魔も人間も変わらないのだ。

命の価値は同じである。悪意を持って襲ってくるのなら戦うだけ。それだけだ。それ以上の理由など要らないだろう。だからこそ罪悪感など生まれるわけもない。

 バックミラーにうつる悪魔の群れがよどみ始めた。空と地面を埋め尽くして追いかけてきていた悪魔の軍勢に穴が開き始めたのだ。

そして悪魔の群れは、スポーツカーを追いかけてくる群れと、とまる群れの二つに分かれてしまった。動かなくなった群れは、動けなくなった装甲車の周りに集まっている。

 きっとそこにマスターがいるのだろう。形が残っているのかどうかはわからないけれども。

 二つに分かれてしまった原因は司令塔がつぶれてしまったから。もしくは司令塔が動くなと命令を出したからだ。

 あっという間に分断された悪魔の群れを見ていた、ディーが笑った。

「手足がいくら多くとも司令塔は悪魔を呼び出したサマナーだけだ。頭を潰せば、それで終わり。サマナーと戦うときのセオリーだな」

 ディーは楽しそうに笑っていた。しかししっかりと道の状況を見て、龍門渕へと戻ろうと努めていた。今度こそは松常久たちの仕掛けによってありえないほど深い場所に落とされるようなまねはしないと心に決めているのだ。

 また、非常に愉快な気分でいるのは京太郎がずいぶんと自分たちに近いところにいると確信が持てたからである。

自分たちというのは魔人という存在でもなければ、ヤタガラスでもない。ハギヨシとディーのような存在に近いという確信である。

 それがわかったことでディーはいよいよ面白くなってきたと感じていた。ディーはこの確信があるからこそ、こう思うのだ。

「灰色の須賀京太郎はきっとヤタガラスに入ることになるだろう。そして自分たちと深くかかわることになる」

 それがどうにも面白かった。

 なぜだか、楽しそうに笑っている京太郎とディーを無視して虎城は京太郎の右手に回復魔法をかけた。そしてこういった。

「須賀くんってさ、ヤタガラスに向いていると思うよ」

 虎城は少しだけ元気を取り戻していた。少なくとも命の危険というのは感じていないようである。しかし、神妙な面持ちに変わっていた。

 ヤタガラスに所属するように薦めているのは、京太郎という少年がどういう決断を踏んだとしてもおそらく同じ結末を迎えるだろうと予想がついたからだ。

結末というのは修羅場に飛び込んでくるという結末である。

 「仮にヤタガラスに所属することなく普通人として生きていたとしても、間違いなく京太郎は自分から悪魔たちに挑みかかっていく」

と虎城は断言できる。

 そして

「悪魔を使役している人間たち、ヤタガラスもそれ以外の組織のサマナーにも目的がぶつかれば、挑みかかるに違いない」

とも、言い切れる。

 それは間違いなく修羅の道。戦いばかりがある道である。今まで見てきた京太郎だけが判断材料のすべてだ。結論を出すには材料が少ないように思う。しかし虎城は間違いないと言い切れる。彼女の趣味の妄想がそう思わせたのではない。

 虎城のために京太郎が戦ったのがわかったから、京太郎が修羅の道を行くと断言できるのだった。

 京太郎の心にはやさしさがあると虎城は見通している。暴力に染まった心ではなく、欲望に染まった心でもない。人を思いやれる心が、京太郎の牙と爪になっている。虎城はそのように分析をしていた。

 そしてその牙が戦いに赴かせていると考えていた。京太郎の牙は賢くない生き方をさせる。馬鹿な生き方だ。自己満足しかない戦いになるだろう。権力でも権威でも金でもないところから戦う理由を見つけて、修羅場におどり出てくる。

理不尽に泣いている者、悲しみに沈んでいるものをきっかけにできるのならば、どこでも修羅場だ。金こそすべての世界では、欲望の世界では理解できない生き方である。

 しかしそれを灰色の京太郎はやる。出会ってからの数時間のうちに京太郎が見せた行動と態度はそう思わせるのに十分だった。

助ける必要のない自分を助け、戦う必要もないのに戦い、心を不安にさせているというだけで無茶をやる。十分すぎるバカっぷりだった。

 そんな風に京太郎を見通した虎城だ。だからこそ、ヤタガラスへと誘うのだった。ヤタガラスも真っ白な存在ではないけれども修羅の道を行くだろう京太郎の負担を少しは和らげることができると信じたのである。そしてそうなれば、自分も京太郎に恩を返せるだろうと考えたのだった。


 虎城がヤタガラスに誘うと、京太郎は答えた。

「そうですか? それもいいかもしれないですね」

 うれしそうに京太郎は笑っていた。ヤタガラスでバリバリがんばっているらしい虎城に認められたのがうれしかったのだ。実際に虎城の仕事ぶりを見たわけでもないので詳しいことはわからない。

そして立場の問題というのもどうでもいい。年上の人物から認められたというのが、なんとなくうれしいのだ。だから京太郎は笑った。そしてもしも虎城がそういってくれるのならば、ヤタガラスに入るのもいいかもしれないと思ったりするのだった。


 ヤタガラスへの誘いを京太郎がどうしたものかと考えているとディーがこういった。

「ヤタガラスに正式に入るってんなら、ハギちゃんに話せばいいさ。もちろん、龍門渕に掛け合うのもいい。どちらでも好きなようにすればいい。

所属支部は後からでも変えられることになっているからな、形だけは。

 まぁ、早いうちに捕まえられてラッキーだったかもしれないな。十分機転がきくし戦のセンスもあるから、どこの組織でもほしがられただろう。

いまは慢性的な武人不足だからな。

 ただ、間違いなくどこに所属するかでもめるな。

 龍門渕のお嬢は間違いなく自分の手元に置きたがるだろうし、ほかのヤタガラスの幹部たちから誘いが来る可能性も考えられる。

 すでにコネはできているからな。須賀ちゃんに『お礼』がしたいとかいって、近づいて来た人がすでにいるみたいだし、お嬢が愚痴ってたな」

 ディーもまた軽い調子で京太郎をヤタガラスに誘っていた。しかし、やることはしっかりとやっていた。目はまっすぐに龍門渕に続く道を探して、無限に広がっている道を正しく選び続けていた。

バックミラーに移っていた悪魔の群れもずいぶん遠くに引き離している。流石の運転テクニックであった。

 ディーが京太郎を誘ったのは、もちろん本心からである。京太郎がヤタガラスに入るというのならばそれは結構な話である。

京太郎の大体の性格を了解しているディーからすれば、自分たちの身内になってもらえるのが一番いい。

ハギヨシもハギヨシの師匠である十四代目も気にかけているのだから、おそらくすんなりと仲間になれることだろう。

 更にアクセルを踏み込みながら、スポーツカーを先にディーが進める。すると一度見たような景色が再び京太郎の前に広がりはじめた。

数時間前に京太郎が始めて見たオロチの世界とよく似た景色だ。

 ディーがこういった。

「もう四キロちょっと走ればゴールだ。龍門渕のゲートの気配がしてる。お疲れ様二人とも。ここまで来れば、後はごり押しでどうにかなる」

 ディーは大きく息を吐いた。緊張が少し緩んだのだ。

単純なお使いだったのが、いつの間にか氷詰めにされていた女性と出会い、そこからヤタガラスの裏切り者との追いかけっこに変わり、オロチの最深部まで落とされて奈落としか言いようのない暗闇を走り回ってみたり、超ド級のマグネタイトと魔力を持つ怪しい女性悪魔に粘着されたりと、散々だった。

 ちょっとしたドライブを楽しもうと思ったら、修羅場の連続だったのだ。精神的に疲れてきていた。さっさと現世へと帰還して安心できる場所で横になってしまいたかった。

そんな気持ちがあるものだから、あと少しでゴールというところまで来て緊張が緩むのだ。ここにハギヨシがいたら

「油断するなよディー。まだ何も終わっていないぞ」

といって注意をするところである。


 「ゴールまであと少しだ」

ディーがこういうと、虎城がほっとしていた。安心しているのだ。

 スポーツカーはまだ龍門渕にたどり着いていない。しかし、何百キロとスピードを出している車はあっという間に目的地にたどり着けるだろう。そして龍門渕にたどり着くことができれば、何もかもが報われるはずだ。

 少なくとも虎城はそう思っている。

 殺されてしまっただろう内偵を進めていたヤタガラスの構成員。そして松常久の強襲によって散り散りになり行方のわからなくなっている自分の班員たち四名。そして被害を受けたたくさんの人たちにも報いることができる。

 虎城がヤタガラスの尋問を受け、証言すれば松常久は終わる。そして龍門渕にはハギヨシがいる。それが余計にほっとさせるのだ。

話に聞く十四代目の二人目の弟子。力でヤタガラスを屈服させた天才退魔士。六年前、ヤタガラスに反逆して生贄にささげられるはずだった姫を助けた大馬鹿もの。その性質は正義に傾いていると彼女は聞いている。

 「ならば、きっと大丈夫」

 彼女がほっとするのも無理はない。京太郎とディーに出会わなければ何もできずに終わっていた可能性が非常に高いのだ。これ以上の幸福はなかった。



 話をしている間にもスポーツカーはどんどんと先に進み、あと少しで龍門渕への帰還がなるというところであった。

 ディーが微笑んだ。というのもスポーツカーの進路上に、大きな鋼の門が現れていたのだ。

 後二キロほどの距離である。普通ならば二キロ離れていると門など見えないはずである。しかしその鋼の門が二十メートルをこえる大きさであること、特に周りに目立つものがないこと、そしてディーの常識はずれの視力のためにはっきりと捕らえられていた。

周りは利用法のわからない蒸気機関と、なだらかな道があるだけなのだ。丘のようなものもあるけれど、その程度のもの。音速の世界を当たり前にして生きているディーにとっては二キロなどというのはたいした距離ではないのだ。

 二キロ先に現れた鋼の門は蒸気を噴出して、生き物のように脈をうっている。鋼の門はすでに開き始めていた。この門の向こう側は光で見えないけれど、きっと光の向こう側にハギヨシが待っているのだという予感があった。

 ここで一気にアクセルをディーが踏み込んだ。ラストスパートである。そして

「流石ハギちゃん。あけておいてくれたか」

といって頼りになる相棒を褒め称えた。

 車内がほっとした空気で満ちたときである。自分の両目を、京太郎がおさえた。視界が急にざらついたのだ。このとき脳裏に不思議な映像が浮かんだ。

 大量の悪魔が巨大な山のような塊に向けて、魔法を打ち込んでいる光景である。雨あられのごとく打ち込まれる魔法は山の表面をいくらか削っている。

 また、この幻のすぐ後、京太郎は見慣れた女性の姿の幻を見た。今まで遊んでいた怪しい女性の姿だ。髪の毛を地面に引きずり、ぼろ布でかろうじて体を隠している輝く赤い目の怪しい女性の幻である。

 この女性の真っ赤な目が、京太郎に訴えかけていた。

「危険が迫っている」と。

 そしてメッセージを受け取るやいなや、強烈な痛みを京太郎は覚えたのだった。眼球を納めている部分が熱を持っているような感覚である。

 メッセージがあまりにも強い力で送られてきたのでマグネタイト保有能力の低い京太郎には受け止め切れなかったのだ。結果、痛みを感じたのだ。

 とんでもない激痛が過ぎ去る前に、京太郎は大きな声を出した。

「止まって!」

 力のこもった声だった。車内に響いたその声は問答無用で動きを制限させる迫力があった。今までおとなしくしていた京太郎が発するにはあまりにもかけ離れたものだった。

 京太郎は察したのだ。今の幻がどのような意味を持つのかを。だからいくつかの謎をさっぱり無視して、止まれと大きな声を出したのだった。

 そうしなければ再びオロチの世界のまったく光もない世界に叩き落される羽目になる。幻の意味を松常久たちがオロチに攻撃を仕掛けて、道を変化させようとしているのだと京太郎は理解したのだった。

 一度おきたことだ。二度もある。相手が手段を選んでいないのはわかっていたことだった。それが今だったというだけのこと。

 京太郎の叫びとほとんど同時に、ディーはブレーキをかけて、ハンドルを切った。京太郎のただならぬ様子に、反応したのだ。そして少しも迷わずに無茶な停車を試みた。

タイヤが削れて真っ黒なラインが四本、石畳の道に出来上がる。しかしそれでも止まらない。ハンドルを切った時点で車体は真横になっている。

ドリフトの形でまっすぐな道をスポーツカーは進んでいく。

 しかしそれでもまだ止まらない。そして二秒ほどそのまま走ったところでスポーツカーにまとわせている風が停車の後押しをしてくれて、何とか止まることができた。

 ディーの反応のよさには理由がある。京太郎がただならぬ様子で声を出したということもあるが、ディーの胸のうちには松常久が再び道を変化させるのではないかという予感があった。

この胸のうちにあった備えが京太郎の叫びと自然とつながり、無茶な停車につながったのである。


 スポーツカーが急停止したところで、オロチの世界全体が妙な動きをし始めた。今までピクリともしていなかったオロチの世界がだんだんと震え始めたのだ。

しかもこの震えはまったくおさまらなかった。京太郎の見た幻から原因は推測できる。松常久が悪魔の群れに命じて行わせた魔法攻撃の雨あられが原因であろう。

蒸気機関と石畳の世界が震えているのはこの世界そのものである「葦原の中つ国の塞の神」が目を覚まし動き始めたということである。

 そして動き始めるということは、道が変わり帰還が難しくなるということに直結する。

 スポーツカーが急停止してオロチが動きはじめると、虎城がこういった。

「いったい何が? オロチの世界がこんなにむちゃくちゃゆれるなんてことがあるなんて」

 スポーツカーの不思議な空間から虎城は上半身を出していた。そして助手席に左手をかけて、きょろきょろとあたりを見渡していた。身を乗り出しているため上半身が京太郎にぶつかっていたり長い髪の毛が京太郎にかかったりしているのだけれども気にしていなかった。

むしろ京太郎のほうが、気まずそうにして小さくなっている始末である。

 しかしずいぶんと虎城は元気になっていた。これは彼女の妄想趣味に火がついた結果である。彼女はヤタガラスの構成員だ。

一応後方支援担当班の班長をやっていた。情報もそこそこ手に入れている。そんな虎城はオロチの世界が地震に見舞われるなどということがないとしっていた。

 このオロチの世界は異界である。現世ではなく神様の領域にある世界である。

 そしてオロチはこの世界を支配している存在だ。オロチが生み出した世界ということだ。ということは自分に都合よく作られている世界なのだから、自然災害の発生はまずありえない。

 傷つくのが好きならば話は変わるが、それはないだろう。ヤタガラスはオロチを臆病な存在で人前には出てこないといっているくらいなのだ。あえて傷つきにくるタイプではない。

 ならば、このゆれというのはずいぶんおかしなことだった。しかしゆれたのは間違いない。無限に広がっているのではないかと思うほど広い世界全体が揺れるのだから、ずいぶんなことである。彼女はどうして揺れたのか、どうしてここまで広範囲が揺れたのかそれが気になったのである。

 これは謎だった。そしてこの謎は、彼女の趣味に火をつけた。彼女の妄想の種になったのである。よほど気になったのだろう。一気に活力が沸いていた。褐色肌であるけれども、うっすらと赤くなっているのがわかる。

 しかし赤くなっているのは京太郎も同じだ。虎城とは理由が違うけれども。


 今まさに起きたおかしな現象に興味を持つ虎城に答えたのはディーだった。京太郎が困っているのを見かねて、サポートしてくれたのだ。

 「間違いなく松常久の仕業だろう。オロチに刺激を加えて目覚めさせたんだ。このゆれはオロチが目を覚まして身震いした結果の振動だ。本格的に目を覚まして動き出したら、いよいよ龍門渕に戻れなくなるぞ。

 しかし須賀ちゃんがいてくれてよかったよ。あのままいってたら、また落ちる羽目になっていただろうな。

 見えるか? 今まで目の前にあった道の大部分が消えている。それに、今までなかった地形が発生してる。

それにしても何だあれは、でかい山がいくつか出来上がっている」

 ディーは運転席側の窓から外の様子を観察していた。眉間にしわがより、勘弁してくれという気持ちでいっぱいになっていた。実に渋い顔をしている。右手の人差し指が規則正しくトントンとハンドルを叩いているのは間違いなく地形の変化が原因である。

 というのが、龍門渕に帰るために使おうと思っていたルートが完全に崩れてしまっていたのだ。しかし、ひとつだけいいことがあった。それは長い落下を経験しなくてすんだということ。おそらくあのまま進んでいたら、オロチの体ごと、どこかに落ちていた可能性が高かった。

道がなくて落ちていくというのが一番初めの落下だったのだが、今回の落下というのは道自体が奈落に下りていっているのだから、タイミングを間違っていたら逃れ切れなかった。

 つまり龍門渕への道を走っていたら、オロチ自体が移動を始めたのに巻き込まれて、よくわからない時代の道に移動させられていた可能性もあったのだ。それは回避できた。この回避ひとつあれば、上出来だった。

 ディーの解説にある発生したという山を見ようと虎城きょろきょろとしていると、ディーはあきれたようにつぶやいた。

 「あいつらいったいどれだけ無茶をするつもりだ?

 オロチが目覚めるほどの攻撃を後先考えずにぶち込んだのか? どれだけのサマナーに影響があると思ってんだあのおっさん。

 もしかして準幹部だから甘く見てもらえるとでも思ってんのか?」

 松常久にディーはあきれているのだ。オロチが目覚めるという不思議現象を前にしてテンションをあげている虎城にあきれているわけではない。

 テンションがあがりすぎて、助手席に座っている京太郎にほとんどかぶさるような調子で這い出してきている虎城にあきれたわけではないのだ。

 松常久にあきれている理由は二つある。

 一つ目はオロチというサマナーたちが使う公共性の高い道を勝手な都合でむちゃくちゃにしたこと。

 オロチの作る世界というのは非常に便利な世界である。表に出せないような品物でもやり取りができる。その上、通常の交通網よりも日本の陸海空に広がっていて許可があれば、どこへでも移動できる。

このような便利なものを勝手に変化さえるのはよほどの権力がなければ許されない。それこそヤタガラスのトップかナンバー2の許可がなければ、絶対に許されない。松常久は準幹部であるけれどもそのような権限は一切ない。当然処罰される。

 二つ目は。超ド級の悪魔を目覚めさせるレベルの攻撃を放つなどという馬鹿な真似をしたことにあきれている。

 オロチほどの存在は大きすぎて普通の攻撃を攻撃と認識できない。抱えているマグネタイトが桁違いに多いからだ。いくら攻撃されても存在の規模が大きすぎるため攻撃と認識されないのだ。攻撃しても、人間で言うところの皮膚を貫けない貧弱な蚊のような状態になる。ふつうならば。

 しかし、オロチは目覚めた。ということは桁違いの攻撃をオロチにぶち込んだということになる。それこそディーができるだけ使いたくないと思っているメギド系統に近い威力の魔法を打ち込んだと予想ができる。

 当然だが、威力の高い魔法は敵味方関係なく滅ぼす力がある。京太郎の稲妻もディーの魔法も、手加減などできるものではない。だからこそ、京太郎もディーも周りを巻き込まないように魔法を制限していた。

 しかし確認できていないけれども松常久は何かしらの刺激を行った。その結果、非常に大きな影響が起きているのは間違いない。道が変化しているということでほかのサマナーたちに危険を及ぼしているだろうし、オロチを目覚めさせるために行った行動で、被害を受けたものもいるだろう。

虎城たちに行った行為とは別の許されない行為である。

 ディーがあきれたのは、松常久の行動が自滅にしかつながっていないように見えたからである。
 

 しかし、ディーは完全にあざ笑うことができていなかった。というのが、引っかかるところがあったからだ。松常久の行動があまりにも頭が悪すぎた。

オロチを目覚めさせたら問題になるというのは誰でもわかるレベルの話である。それこそ国道を勝手に封鎖したり爆破したりするようなレベルの頭の悪い行動なのだ。

 当然、準幹部であるはずの松常久ならば、行動の結果どうなるのか予想がつくはず。しかしわかっているはずなのに、完全にオロチを起こした。

 このとき、罪から逃れようとするのならば、考えられる方法は二つ。ひとつは知らないと嘘をつくこと。犯人は見つかっていない状態であるから、知らぬ存ぜぬで嘘をつけばいい。実際証拠は何もないのだから見破られない可能性が高い。

 二つ目の方法は、罪を誰かに着せること。誰がオロチを目覚めさせたのかわからない状況で、しかも証拠がない。ならば、誰かに罪を着せて、ヤタガラスに突き出せばいい。スケープゴートの心理操作を行うというのもアリだろうし、永遠に黙らせてしまっておくのもアリである。

 どちらの方法もそれほど頭をひねった方法ではないけれど、有効である。なぜなら、松常久の行為というのを知っているのはディーたちだけだからである。
 
 しかし、ともディーは思うのだ。

「もしかして俺たちを完全に殺しきれるとでも思っているのか? 俺たちに全ての罪を着せて、殺せると?

 本気か? 封印制限している俺を見破れないのはしょうがないとしても、須賀ちゃんの暴れっぷりを見ても抹殺ができると? 」

 このもしもというのを思い浮かべるとディーはどうにも引っかかってしまう。ディーがちらりと見た松常久とその部下たちは自分たちを抹殺できる戦力ではなかった。

真正面から戦えば、ディーの助力なしの京太郎の武力で、あっという間に完封できる力量差がある。

このあたりに気がつかないほど間抜けという線もあるが、どうしても気になってディーは完全には笑えなかった。

 オロチの動きがやや収まった後のこと。まだ世界自体がゆれていたがそれほど気にならないといった状態だった。そんなときだ。

 つぎつぎと大きな山がオロチの世界に現れていた。一番はじめに大きく揺れたときにも山のようなものが現れたが、そのときに現れたのと同じようなものが次次と現れてきたのである。

今まで蒸気機関と道しかなかった世界に現れたいくつもの山々はずいぶんおかしな印象があった。しかし山脈のように連なってはいなかった。

一つ一つはくっつかずに、分かれている。

 オロチの世界が落ち着くまでの間、助手席で虎城は顔色を七変化させていた。真っ赤になってみたり、青くなったり、顔をしかめてみたりとずいぶんころころと表情が変わっていた。

 はじめてみる不思議な光景に虎城は夢中になっているのだ。

 変化に乏しいはずのオロチの作る世界がころころと形を変えていくのはかなり壮大な光景である。

オロチが移動するのに従い道が現れたり、消えたりする。また、山のようなものが出てきたり引っ込んだりする。空の大きな光の塊は特に変わった様子もなく輝いているけれども、十分おかしな光景だった。

 虎城でなくとも、夢中になる光景である。それこそ自分がどういう体勢になっているのかを忘れてしまうくらいには、不思議な光景だったのだ。

 すこし残念なことがある。まともに外の景色を見ることができていない人間が一人いることである。

京太郎だ。虎城が無理やり背後から助手席に出てきたために視界が完全に虎城でさえぎられてしまったのである。文句のひとつでも言えばいいのだが、何がどうなっているのかを指摘するのが恥ずかしくてできなかった。

 
 今も変化を続けている道を前に、ディーがこういった。

「ちょっと移動するぞ。どうも変化の規模がでかすぎる。どこか変化の弱いところに移動して、いったん身を潜めるしかない。

このままだとオロチの移動に引きずられる形で迷って出られなくなる」

 ディーはずいぶんと冷静になっていた。オロチが目覚めたことで道が激変したことを認め、困難が立ちふさがっていると受け入れたのだ。

そして受け入れてしまえば、後は乗り越えていくために力を振り絞るだけである。混乱はない。

 しかし、力任せに突っ込んでいくつもりはなかった。まずはオロチが落ち着いてくれるのを待つつもりだ。

 そうしなければ走っている道自体が奈落の底へ移動するような羽目に陥るかもしれないのだから。 自分たちの状況を理解したディーはあまり動きがないだろう場所に当たりをつけて、この困難を乗り切ろうとしたのだった。


 ディーが持久戦の覚悟を決め、方針を話した。するとあっという間に助手席からスポーツカーの不思議空間へ虎城は戻っていった。

先ほどまでの狂乱ぶりからは信じられないほどの引き際のよさである。

 ただ、彼女はずいぶん恥ずかしそうにしていた。褐色肌が真っ赤になっている。虎城は自分が結構なまねをしていたことに気がついたのだ。そして

「やってしまった」

という気持ちでいっぱいになって、恥ずかしくなったのである。特に京太郎とディーが思いのほか冷静であったことが、拍車をかけている。

 普段ならば、少し不思議な現象を前にしても抑えることができるのだ。普通の状態で日常生活を送っている彼女であれば、今回の変化もおとなしくしていられただろう。

ただ、今回は違う。少し心のバランスが悪かった。不安と恐怖にさいなまれて心のバランスが負の方面に傾きすぎていたのである。

命を狙われた上、氷詰め仮死状態での逃亡。現在進行形で黙示録なみの悪魔の群れに追い掛け回されている。京太郎とディーがいるのでやや、安心しているけれど、それでも精神的な負荷というのは半端ではないのだ。

 で、彼女は無意識に心のバランスをとろうとしていた。その結果が、あれだった。後で思い返してもだえるのは間違いないだろう。いっそのこと

「虎城さんって結構ぐいぐい来るタイプなんですね」

などと茶化してくれるほうが楽だった。

 しかし京太郎もディーも空気が読めるタイプであったためにまったくその件に関して触らず、見て見ぬふりをした。それがやさしさだといわんばかりの態度だった。そんな態度だから彼女は一人でもだえる羽目になるのだった。


 助手席から引っ込んでいった虎城を確認して、スポーツカーをディーは運転し始めた。今までのようにアクセルを踏み込むことはない。

ディーはずいぶん集中して道を見定めていた。

 ディーの運転技術は非常に高く、桁違いの速度の中であってもミスを犯すことはない。しかし、道自体が生きていてうねっている今の状況で無茶な動きはできない。

道は勝手に動いたりしないという常識はオロチの世界では当てにならないのだ。

 だからディーは必死になる。道が奈落につながっていませんようにと願いながら、自分たちの道を見定めつつ進むのだった。

 六十キロほどでスポーツカーが走り始めた。ディーの運転からすると非常にゆっくりだった。そんなときに京太郎にディーが聞いた。

「須賀ちゃん、ファインプレーだったけどどうしてわかったの? 霊感的な?」

 ディーの視線は非常に鋭かった。京太郎を責めているわけではない。ディーの目が鋭いのは、道を見極める必要があるためである。そして京太郎に質問を飛ばしているのはもしも何か変化の予兆を京太郎がつかんでいるというのならば、ヒントがほしかったのだ。

それが仮に霊感のような言葉にできない感覚であったとしてもかまわなかった。無事に戻る。そのために使えるのなら何でもディーは使うつもりなのだ。

 ディーの質問に京太郎が答えた。三秒ほど間が空いていた。京太郎は考えていたのだ。そしてこのように答えた。

 「わかりません。両目が痛くなって、それでオロチが攻撃されているところが見えたんです。

それで止まらないと、とんでもないことになると思って叫んだんです」

 京太郎は上手く説明できていなかった。また自分の話している内容に自信をもっていなかった。京太郎が見たものは幻である。しかも非常にあいまいで本当にあったのかどうかもわからない幻だ。

 冷静になった京太郎はこのように考えてしまう。

「幻を見て現実の動きにつながると考えるのはおかしなことではないだろうか。あまりにも根拠が薄い」

そんな風に考えてしまうのだ。だから自信がなくなる。京太郎でさえも怪しいと思ってしまう根拠だ。人に説明するのは難しいことだった。

 京太郎の答えを聞いて、ディーはこういった。

「ふーむ? よくわからないけど、何かから刺激を受けたみたいだね。

 ああ、そうだ。目の痛みは後でハギちゃんに見てもらえばいい。あんまりオカルト方面には強くないのよ俺。見てあげられたらいいんだけど、ごめんね」

 京太郎の答えを聞いてディーは疑いもしないで受け入れていた。少しも馬鹿にするところがなかった。ディーがわからないのはどうして幻を見たのかというところだけだったのだ。

 ディーが非常に冷静に受け入れているのは、悪魔がはびこるこの世界であいまいなものが何もかも嘘っぱちであるという発想自体が危険だからである。

おそらくほとんどの不思議な現象が、起こる可能性があるのが、サマナーの世界である。幻であっても予知できたというのならば「そういうものだ」と受け入れる器がディーにはあるのだ。

 京太郎とディーの会話が終わると数秒ほどして、スポーツカーの不思議な空間から京太郎の肩に、虎城が手を伸ばしてきた。

そして京太郎に触れてこういった。

「とりあえずディアをかけとくね。 それに、こう見えてもお姉さん医術の心得があるのよ。ちょっと見てあげるわ。

目は専門じゃないから完全には無理だけど、そこそこは大丈夫だと思う」

 京太郎の肩を握る虎城の手にはほんの少しだけ力がこもっていた。虎城は京太郎の目の調子が悪いという話を聞いて、すぐに何かしらの呪いでもかけられたのではないかと考えたのだった。

目の痛みからのろいを連想するのは少し無理がある。はっきりいって遠い。

 しかし京太郎が奇妙な悪魔と何度も触れ合っているのを虎城は見ている。彼女はその悪魔が何かしらの原因であろうと予想していた。で、彼女は京太郎に世話を焼いたのだった。これは心配しているというのに加えて自分の失敗を忘れたいという気持ちが混じった行動である。

 虎城の提案を受けて、京太郎は少し考えた。今の京太郎は痛みなどまったくなかったからだ。しかし京太郎はうなずいた。もしかしたら何か悪いところがあるかもしれないからだ。

京太郎は医者ではない。もしかしたら自分が気がつかないところで怪我をしているかもしれないと考えたのだ。そうして京太郎はうなずいたのだった。

 京太郎がうなずくと、虎城が魔法を使った。

「ディア」

 回復の呪文をかける前に、京太郎の頭を両手でしっかりとつかみ、京太郎と自分の目がしっかりと合うように虎城は固定した。そして眼球をよく見つめ、いろいろな角度から観察していた。

 このとき京太郎のまつげまで灰色であることに虎城は気がついた。そしてそのまつげだとか眉毛が、

「染めた色ではないわね。綺麗な灰色、地毛かしら。」

などと発見をしていた。

 京太郎の観察を終えた虎城は特に問題がないという判断を下した。専門の眼科医ではないので、詳しいところまでは判断が出来がない。しかし、眼球に外傷があるとか、脳に問題があるときの眼球の動きはしていなかった。しかし一応、回復魔法をかけておいて、もしもに備えた。

 魔法をかけられると京太郎はこういった。

「ありがとうございます。何か問題ありました?」

 京太郎は少しおびえていた。京太郎自身はまったく問題ないと思っているけれど、みる人が見れば問題があるかもしれないのだ。魔法があれば大体の問題は解決するだろうけれども、それでも何か問題があると思うと不安になってしまう。

 

 不安そうだが、結果を聞きたがっている京太郎に虎城は答えた。

「ぱっとみは問題なかったよ。でも目の問題は専門で見てもらったほうがいいとおもう。違和感があったらすぐ病院にいってね。

 回復魔法は万能に近い働きをしてくれるけど、完璧じゃないからね。

たとえばだけど、体の中に銃弾が入った状態で回復魔法をかけたりすると銃弾が入ったまま回復して取り出すのに時間がかかったりするの。だから油断は禁物。

須賀くんの目も油断禁物よ」

 大丈夫だという虎城であったが、説明の間、京太郎の頭をつかんだままだった。まだ京太郎と虎城は向き合ったままである。一応の治療が済んだのだから、頭をつかむのはやめていいはずである。

 手を離さないのは少し気になることが虎城にあったのだ。病気、怪我ではなく何か妙な違和感があった。

京太郎にすらすらと「回復魔法も万能ではないよ」という話をしている間に、その違和感を追いかけていた。説明をしながら、目の前の京太郎の違和感を虎城は探していたのだった。

 そして回復魔法の説明が終わると同時に違和感の原因に気がつき、虎城はこういった。

「あれ? 須賀君の目、なんかおかしい」

 小さな呟きだった。しかし京太郎とディーの耳にはしっかりと届いていた。この呟きが聞こえた瞬間、ディーは渋い顔をした。

京太郎は少しだけ青ざめた。京太郎もディーも何かまずい病気でも見つかったのかと心配したのだ。


 京太郎もディーも医学の知識はさっぱり持っていない。そのため妙に真剣な虎城の呟きが、不安にさせたのだった。

 ただ、虎城はぽろっとつぶやいただけである。やっと自分の違和感の原因に気がつけたことで、口が緩んだだけだ。それは不安がらせたいわけではないのだ。

ただ、気がつけたために出てしまった。

 異変を察したところで、京太郎の頭を虎城はしっかりと自分に引き寄せた。今までは少し距離をとったところで京太郎を見ていたのだが、原因に気がついたところでもっとよく見えるように顔を自分のほうに引っ張ったのだ。

 両手で京太郎の頭を固定して目を大きく見開いている虎城は肉食動物にしか見えなかった。虎城は、原因を分析しようと努めているだけである。

京太郎の目に何かおかしなところがある。それをより、はっきりとさせたかった。それだけなのだ。

 虎城が京太郎の目を見ている間、頭を捕まれている京太郎は、動けなくなっていた。虎城の腕力は京太郎の腕力よりもずっと弱い。簡単に引き離せるものである。

だから引き剥がそうと思えばできた。しかし京太郎はしなかった。やろうとも思わなかった。目を診ている虎城の迫力に負けていた。

自分を覗き込んでいる虎城の二つの目。妙に荒い鼻息。遠慮なしに顔を近づけてくる女子力のなさ。

「もう少し落ちついてくれないだろうか。落ち着いてくれないだろうな」

という諦め。そういうものが混じって、京太郎は動く気力をなくしていたのだった。


 観察を続けている虎城と困っている京太郎を完全に横目に見ながら、ディーはオロチの動きが比較的緩やかな場所を目指して移動していった。

ヘビに睨まれたかえるのように動けなくなっている京太郎と、京太郎を捕食しそうな虎城は見て見ぬふりをした。今は、二人の様子よりもオロチの目覚めに巻き込まれておかしなところへと移動してしまわないようにするのが一番大切だった。

 当てもなく真っ暗闇の世界を走りまわってみたり、何も目印がないような青空と草原の世界を何度も駆け回るのは勘弁してもらいたいのだ。

幸いディーの目はしっかりといい場所を見つけていた。

 オロチが動き出したことでいくつも出来上がった山である。不思議なことで、どういうことなのかこの大きな山たちは道が変化してもまったくといっていいほどゆれないのだ。

 そしてスポーツカーはこの大きな山を目指して動き始めた。グネグネと周りの道が変化しているけれども、山に続く道はそれほど変化が大きくなかった。

しかし緊張というのが運転に現れていた。というのも、運転する間にもすぐ近くに奈落に続く真っ暗闇がちらちらと顔を見せるのだ。少しでも運転を間違えればまっさかさまであった。

 変化をやり過ごすために登ろうとしている山は積極的に選んだのではない。ただ、近かったからという理由であった。

ほかに現れた山もほとんど動かないので選んでもよかったのだが、あえて遠い山を目指す理由がなかったのだ。

 しかしオロチが落ち着くまでの避難場所には充分役に立ってくれそうだった。

 ここまでです

乙です

乙です

続きも楽しみ


面白い

真白って前半で衣が言ってた人物か?姫っててっきり衣だと思ってた

そういや京太郎以外にも何人か魔人が出現してるんだったっけ?

ソックとアンヘルのことじゃないの?

今回の京太郎、あんまいいとこねーな

所詮雑魚の域をでないし仕方ないね


途中の夢の光景は何だったんかねぇ

>>164
期待させた罪は重いぞ。

この状況から、プロローグに至るまでに京太郎はどれだけの冒険をするんだろう。
今はまだ序盤だろうに、ドキドキして仕方ない。
更新乙です。

日焼けころたんは家庭菜園にはまってしまったのかww

 はじめます

 十分ほどかけて、オロチの世界に現れた巨大な山の頂上にスポーツカーは到着した。今までの運転から考えるとありえないほど穏やかなドライブだった。

五十キロほどのスピードで、石畳の道を道が続いているかどうか気をつけながら山の頂上までやってきた。

 巨大な山の山頂は平べったかった。そして音楽のライブでもできそうなほど広かった。小学校の運動会くらいなら簡単にできそうな広さである。この山頂の広場のど真ん中にスポーツカーは止まった。

 オロチの世界にいくつも現れた巨大な山は、それぞれ高さにばらつきがある。しかしどの山も現世にはなかなかないような大きさだった。登りたいと思う人もいるだろう雄大さがある。

幸いなことで世界がずいぶんと姿を変えているけれども、この山の頂上に向かう道は非常に安定していた。ほぼ、一本道だったのだ。

 そのため、十分ほどのドライブで簡単にたどり着けたのだった。

 山の頂上にたどり着いたとき、助手席に座っている京太郎は顔をしかめた。というのも、オロチの世界がひどく混乱しているのが見えたからだ。高い山の上から見下ろすので、よくわかった。ほかの道は今も動いてねじれてひどい有様だった。

「こんな面倒に巻き込まれたければ、きっともっと素敵な世界だっただろうに」

 などと思っていると、何かに見られているような気配を京太郎は感じた。

 不思議な気配を感じて助手席から京太郎は周りを見渡すが、すぐにやめてしまった。勘違いだと思ったのだ。周りには京太郎たちしかいなかったからである。

山の頂上にはスポーツカー以外に何もない。虎城もディーもまったく別の方向を見ているのは確認しているので、すぐに間違いだと気がつけた。
 
 京太郎がきょろきょろとしているとき、運転席のディーは真剣な表情で黙り込んでいた。 スポーツカーを山の頂上まで運転してきたディーの心の中には二つの問題がある。これがディーを黙らせていた。

 問題とは、京太郎と虎城をできる限り安全に龍門渕に連れ戻るためにどうしたらいいのかという問題。そして、ヤタガラス、ハギヨシの友としてどう動くべきなのかという問題である。

 考え込んでいよいよまとまったディーがこういった。

「ここなら変化に巻き込まれてつぶされることもないだろう。

 俺は、これからハギちゃんに連絡してくる。二人とも車の中で休憩しておいてくれ。絶対に外に出ちゃだめだ。

 もしも悪魔に襲われても車の中にいれば絶対安心だ。挑発されても出たりしないように。いいね?」

 ディーの口調は真剣だった。そして有無を言わせない迫力があった。

 ディーは携帯電話を使いハギヨシに連絡を取るつもりなのだ。運転席からでも連絡はできるはずなのだが現在は通話不能である。オロチが目覚めたことで電波の中継を担当している基地に被害が出たのだ。そのため電波が現世に通じていない。

 連絡をしないということも考えたのだが、この状況で連絡をしないのはまずかった。万が一自分たちが始末されたら松常久が野放しになることになる。それは避けたかった。

 だから多少無茶をすることになってもハギヨシに連絡を取るつもりなのだ。そしてそのためにはこのスポーツカーから離れて、連絡の取れる場所に移動しなければならなかった。

では、どこなら電波はどこならばつながるのか。それは現世と異界が触れ合っている場所、空白地帯のような場所があるのだが、そこである。

 電波の中継基地がなくとも、世界と世界の触れ合っている場所から電話をかければ、何とかつながるのだ。そしてディーは大体の場所にめぼしをつけていた。

 徒歩で世界と世界が触れ合っている場所に向かおうとしているのだ。かなり無謀な行動にしか見えないが、長距離移動でなければまったく問題なかった。

何せ、ディー自体の最高速度はスポーツカーよりもすばやいのだ。それこそ、二キロ三キロ離れたところにある異界と現世が触れ合う場所まで走り、連絡を取り、戻ってくるくらい、数分のうちにできてしまう。

 だからディーは京太郎と虎城を車の中で待つように命じたのだ。彼はこのスポーツカーの結界はよほどのことがない限りは傷をつけることさえできないと信じて疑っていない。

 京太郎と虎城が

「わかった」

と返事をすると、運転席から降りてあっという間にディーは姿を消した。集中力が暴走気味に発揮されている京太郎の目でも、ぎりぎり走ったと判断できるスピードだった。

怪しい女性とほとんど同じか、少し早いくらいの動きである。ディーは時間をかけるつもりがないのだ。さっさとハギヨシに連絡を取り、状況を説明して、次に備えたい。そして京太郎と虎城を自分の守れる範囲においておきたい。その気持ちがあるからディーは本気で動き回り頭を動かしていた。

 ありえない速度で姿を消したディーを見送った京太郎は短く笑った。とても楽しそうに笑った。京太郎の胸に興味と喜びの気持ちがわいてきたのだ。

この二つの気持ちはこの世界でであった怪しい女性と、ディーが生み出してくれたものであった。

 とくに、目の前でディーが見せた動きはよかった。ディーにしてみれば普通に踏み込んで、走っただけ動きである。特殊な技術などまったくなかった。

ただ、とんでもなく早かった。京太郎にはできない勢いがあった。それをディーは当たり前のようにやった。京太郎のように無茶な強化など一つも行っていなかった。

 京太郎はわくわくしてしまったのだ。この気持ちは

「戦ったらどうなるだろうか」

という気持ちである。

 結果は戦う前にわかっている。真正面から戦えばあっという間に敗北するだろう。音速で動き戦うのがディーにとっては当たり前なのだ。暴走を加速させてやっとステージにしがみついている京太郎などまったく相手にならない。それはどうでもいいことだ。未熟なのは怪しい女性に教えられている。

 問題なのはこういう人たちがごろごろと存在しているということだ。怪しい女性とディーが当たり前に音速で動くのならば、ハギヨシもベンケイもライドウも同じように戦うのだろう。そうしなければ、相棒とはいえないだろうし、叩き伏せることなどできるわけがない。

上級などと悪魔を呼び分けているのだから、悪魔も音速で動くものがたくさんいるに違いない。恐ろしいことだ。

 今の京太郎ではまったく手も足も出ない。当然だ、無理に無理を重ねて、やっと無理やりにステージに上っているだけなのだ。本気で命をとりにこられたら勝てるわけがない。非常に恐ろしい。

 実際、怪しい女性にはいいように遊ばれているのだ。本気でこられたら一発でやられるだろう。

 しかし、このようにも京太郎は思ってしまうのだ。

「ああいう人たちがごろごろ存在している」

そして

「こういう存在と何度も出会えるかもしれない」

 このように考えると、胸が締め付けられるような気持ちになる。これは悪い気持ちではなかった。心臓に火がついていた。楽しみでしょうがないのだ。クリスマスプレゼントを待ち焦がれている子供のようなわくわくした気持ちであった。

 本気で動いたディーを見て、怪しい女性と戦って、京太郎は自分の求めているものを確信できた。だから笑ったのだ。

「全身全霊で戦いたい。あの人たちと全力でぶつかってみたい。限界ぎりぎりのところで戦いたい。

 そして限界を超えてみたい。

 たとえその結果が死であってもかまわない。手を抜いた勝利は必要ない」

 あまりにも暴力的な願いである。意味のある願いではないだろう。何かを生み出す願いではない。勝利すら願っていないのだ。馬鹿である。

「普通ではない」

しかし、間違いない京太郎の願いだった。だから京太郎は笑ったのだ。笑うしかなかった。


京太郎が微笑を浮かべていると虎城がこういった。

「須賀くんの目だけど、変化が起きてるみたいね。物質的な変化ではなく霊的な変化よ。

 幻の原因は霊的な繋がりができていたこと。

 残念だけど私にはどうしようもないわ。このつながりを解くためには契約に詳しい術者じゃないとだめね。完全に別の分野だわ」

 京太郎に話しかける虎城は少し困っていた。京太郎が軽く笑ったからではない。違和感の原因というのがわかったのだけれども、虎城には原因を取り除く方法がなかったからだ。

 京太郎の目に感じた違和感を、何者かが京太郎に対して接触を試みた結果できあがった霊的なつながりであると虎城は察している。そして霊的なつながりは髪の毛を引きずっている真っ赤な目の女性悪魔だろうというところまで結論を出していた。

 しかしわかっていてもつながりを切れなかった。というのが京太郎の目に生まれているつながりが契約に近い形で生まれたつながりだったからだ。がっちりとした契約ではなく、口約束のようなレベルである。しかし契約は契約である。第三者が無理にきるのは難しい。

 もしも、無理やりに結ばれたものなら、切り捨てるのは難しくない。はじけばいいだけだ。しかしお互いが納得づくの形で結ばれているとお互いが納得しなければつながりを切れないのだ。

そしてどういうわけなのか京太郎とあの怪しい女性悪魔は納得して結ばれていた。だから切れない。

 しかし虎城は何とかしたいと思う。何せあの女性悪魔はあまりにも怪しかった。京太郎に執着しているのも悪い印象になっている。そんな相手と京太郎が契約を結んでいるのだ。いやな感じになる。そんな状況であるから、彼女はただ困るのだった。


 自分の観察の結果を虎城が説明し終わり、車の中が妙に静かになった。少しだけ間を空けてから京太郎はうなずいた。そして

「わかりました」

といった。自分のことなのに、京太郎は冷えていた。淡々としてまったく自分に興味がないらしかった。

 冷えた返事をしたのは、しょうがないと思ったからである。わめいてもしょうがない。こういうこともあるだろうと割り切ったのだ。

 そして、自分が何を求め、どのように歩いていくのか。おぼろげながら道が見えてきたことで京太郎は冷静になっている。

 「全身全霊で戦うことを楽しみと思う自分がいる」

 この欲求を自覚できたことで心が静まっている。頭が働くからこそ、心が静まるのだ。この静かさは目的地が定まったことでおきる静かさである。心を決めたから騒がないという姿勢である。

 そして、目的地がわかったものは手段を求めるようになる。旅行の目的地が決まれば、車で行くのか、飛行機で行くのかを決められるように、欲求を果たすために選ぶ道も見えはじめるのだ。

 京太郎は冷静に自分の目的を果たすための手段を選び始めていた。しかしほとんど悩まなかった。

 選ぶ道は秘密結社ヤタガラスだ。普通に生きているよりも京太郎の願いをかなえるチャンスが多く訪れるだろう。すでにヤタガラスの関係者虎城とディーから誘いがかかっているのだから、これに乗ればいい。

 しかし熱に浮かされてはしゃぐことはない。目的と手段が決まったからといって、これでいいといって、飛び込めない。目的と手段が決まったことでよりいっそう頭は冷えてきて、客観的に自分を見つめられるようになったのだ。

 まともな自分がささやくのだ。

「選ぶ道は悪徳の道、明らかに修羅の道」

 さらにまともな自分がささやくのだ。

「やめておけ。誰もほめてくれない道だ。何も生み出さない道だ。苦しいだけの道に違いない。命を奪うしか能のない存在を誰が大切にしてくれるのだ?

 思い出せ。悪魔と戦いどれほどの血を流した? 死にかけたことも一度や二度ではないだろう? 自分の血溜まりでおぼれたいのか?

 思い出せ。オロチの世界に来て出会った怪しい女性のことを。あの怪しい女性にいいようにやられたのを忘れたのか?

 お前が生き残れているのはたまたまだ。才能があるからでもなく、努力があったからでもない。たまたま生き残れているだけだ。運がよかっただけだ。いつ命を奪われるかもわからない。

 どうして命を捨てるようなまねをする。

 大事に生きていけばいいじゃないか。

 たとえ退屈を抱えることになったとしても、死ぬよりはいいだろう?

 もしかしてお前は平穏無事に生きている人間が畜生にでも見えているのではないか? 柵に守られた牧畜だと。

 今ならまだ間に合う。心を入れ替えて祈れ。神に許しを請え。戦いを望む獣を持って生まれたことを罪として祈るのだ。

 そうすれば、平穏無事な生活をおくれるだろう」

 頭の中で、冷静な自分がいくらでも語りかけてくる。

 しかし心は修羅の道を選んでしまっていた。理由は非常に簡単だった。

「進む」

と決めていた。自分の心にしたがって、正直に決めていた。

 決めてしまっていた。これだけだ。これだけで、世間一般の道徳を引き裂いた。たとえ、聖人に説教されようがこの決定は変わらない。あまりにも早い決断である。

しかし正直な決断だった。振り返って思い返すことがあれば、愚かと思うはず。しかしそのときが来ると思っていてもとめられない。後悔することになるだろうが、とめられなかった。

 声の調子というのが冷えていたのは、京太郎の変化が声に乗ったのだ。虎城に悪意があったわけではないのだ。ただ冷静に、第一歩を踏み始めたため、冷淡に見えたのであった。

 京太郎の冷えた一言から会話はまったく続かなくなった。重たい沈黙がいくらか続いた。その沈黙に耐えかねて虎城がこういった。

「須賀くん、ヤタガラスにはいるのなら後方支援がいいと思うわ。前線で戦うよりもずっと安全だし、そこそこ自分の時間もある。

 学生でしょ? あんまり前線で戦っていたら、単位取れなくなるわよ」

 スポーツカーの不思議空間から虎城は京太郎に声をかけていた。ずいぶんと迷ったと見えて、声に張りがない。そして話をしている間も悩んでいるらしく不思議な空間の中にあったビニール袋を指でいじっていた。

 京太郎に後方支援を薦めたのは京太郎を前線で戦わせるには早いと判断したからである。虎城の眼から見て京太郎の近接戦闘のセンスは非常に高かった。もしも万全の状況で虎城が近接戦闘を京太郎に挑んでも勝率は一割に満たないだろう。

おそらく現役で前線に出ている構成員であっても近接戦闘に限ればほとんどがたやすくほふられるだろう。

 問題は京太郎の戦力ではない。問題なのは京太郎の心にはっきりと浮かび上がっている好戦的な感情である。戦いに対して恐れを感じていない。冒険を恐れていない。恐れるどころか楽しんでいる節がある。虎城の眼から見てよくない兆候だった。そして京太郎の心にあるやさしさもまずい。
 
 虎城は京太郎のことを心配しているのだ。

「どうやってもたおせない相手と向き合ったとき、この少年はどう対応するのか。どう振舞うのか。賢く振舞ってくれるだろうか。

きっと自分が思っている反対を選ぶだろう」

 それが恐ろしかった。虎城は馬鹿をやるだろう少年を死なせたくないのだ。だから後方支援を薦めた。

 虎城の考えなど知らないまま、京太郎は返事をした。

「そんなに忙しいんですかヤタガラスって? 単位が取れなくなるのは困るなぁ」

 好戦的な気配はどこかに消えてしまっていた。京太郎は露骨に顔をゆがめている。自分の欲求を京太郎はつかんだけれども、欲求だけを貫き通すなどとは露ほども考えていないのである。

ヤタガラスに入るかどうかというのもまだ怪しいところだけれども、もしもヤタガラスに入ることになって単位が怪しくなるのは勘弁してもらいたかった。流石に卒業したかった。

 単位が取れないのは困ると京太郎が悩み始めると、虎城はこういった。

「忙しいところは忙しいって感じかな。帝都みたいに人が集まるところに配属されると自分の時間はまったくなくなるわ。代わりに給料がひくほど貰えるけど。

 逆に、人がいなくて、霊的にも落ち着いているところに配属されたら、暇でしょうがなくなるかな。代わりに、給料が基本給だけになるけどね。お金がほしい人とかは、帝都に行きたいって希望を出していたりするよ。

 後方支援な私は、大体暇かな。大学に通いながらでも十分やっていけた。後方支援担当になるとどうしても暇になりがちなのよ。学生は基本後方支援かな、班長についてもらって修行もやりながらって感じで。

だから、今回みたいなのは初めてなんだよね。はははっ!」

 虎城は少し早口でヤタガラスの説明をした。話をしている間に、虎城はずいぶんとテンションを下げてしまった。

 特に、

「今回見たいなのは初めて」

というところで、ほとんど泣いているような調子になっていた。虎城は自分の班員たちがどうなったのかという疑問を思い出してしまったのだ。

「自分以外の四人はどうなったのだろうか? 自分はたまたまここにいるけれども彼女たちは大丈夫だろうか?」

 考えても答えは出てこない。確認作業などできないのだからわからない。だから考えないように努めていた。そうしなければ泣いてしまいそうだったから。

 しかしヤタガラスの話をしている間に思い出してしまった。連想ゲームの要領である。自分が指導していた班員たちを思い出すと胸が苦しくなり、死にたくなる。しかし説明はしっかりとやっていた。気を紛らわしたかったのだ。


 説明をしながらへこみ始めた虎城に京太郎が聞いた。

「少し疑問なんですけど、何で後方支援担当の虎城さんたちまで巻き込まれたんですか? 最前線には参加したことがないんでしたよね?

 はなせないなら、別にいいですけど」

 不思議な空間に引きこもっている虎城と目を合わせるために京太郎は体をひねっていた。体をひねると不思議な空間でビニール袋をいじっていた虎城と目があった。

 なぜ巻き込まれたのかという質問は京太郎の純粋な疑問だった。虎城が目覚めてからずっと、抱えていた疑問だ。京太郎は思ったのだ。

「後方支援担当というのならば、そこそこ安全が約束されたところで引っ込んでいるのが普通なのではないか」と。

 それこそ前線には前線での支援担当がいるだろう。京太郎の仲魔アンヘルとソックのようなもののことだ。特に、サマナーなのだから人手が足りないということはまずありえないだろうから、巻き込まれたというのは余計におかしい。

 しかし虎城の班は襲われて、追いかけられている。おかしなことだ。後方支援担当班がやられるようなゆるい組織なのだろうか、ほかに職員もいただろうに。どうにも京太郎はそれがわからなかった。

 そもそも、何もかもが早く回りすぎている。虎城の話の内容からすれば、京太郎の仲魔アンヘルとソックが情報を流して虎城たちは動き始めたことになっている。ちなみに、京太郎が入院して退院するまで一週間とたっていない。

 ということは、一週間に満たない間に前線で動いていたヤタガラスの構成員がつぶされ、後方で動いていたはずの虎城たちまで追い込まれたということになる。

 いくらなんでも松常久が気がついて行動するまでが早すぎる。

「準幹部だったから、情報が漏れた」

といえばそれまでだが、もう一つ簡単な答えが京太郎の頭には浮かんでいた。

「明らかになっていない協力者、裏切り者がヤタガラスにいる」

 また、京太郎は、こんな風にも思うのだった。

「そういえば、都合よく生き残っている人間がいるな」

と。ディーはハギヨシに確認を取って納得していたけれども、京太郎は納得していなかったのだ。初めて出会ったときから、これがずっと気になっていた。

 答えてくれなくともかまわなかった。京太郎はただ気になったから聞いているだけなのだ。虎城が裏切り者だろうと、まったく京太郎はどうでもよかった。裏切り者を処分するかどうかというのはヤタガラスが決めることで、京太郎が決めることではないからだ。

 しかし、聞いておきたかった。疑いを抱えたままでいるのがいやだったのだ。ディーがいない今がちょうどいいタイミングだった。流石にディーがいるところで聞くのはためらわれたのだ。



 話に乗って質問を飛ばしてきた京太郎に、虎城が答えた。

「本当は答えたらだめなんだけど、須賀くんは当事者だから、答えるね。

 本当はだめなんだからね? ほかの人に私から聞いたっていわないでね?」

 虎城はかなりおどおどとしていた。手に持っているビニール袋がグネグネと形を変えている。京太郎の目をみて何が言いたいのかを理解したのだ。そしてすぐに虎城は京太郎の誤解を解くことに決めた。

 京太郎の思うところというのは虎城にしてみても当然抱くだろうところだったからだ。そのため虎城は話してもかまわない部分は話してしまうことに決めた。本当ならばヤタガラスではない京太郎に事件の内容は伝えられないこと。

 しかし一応はヤタガラスのジャンパーを与えられている。そして、今は虎城がかぶっているけれどもエンブレム付きの帽子も渡されているのだ。なら完全に部外者とはいえなくはない、厳しいけれども。一応エンブレムを許されているのならいいだろうというのが彼女の判断だった。

ヤタガラスに対しての言い訳はいくらでも思いつくので、もしものときはそれで乗り切るつもりである。

 質問に答えるという虎城を見て京太郎はうなずいた。実に真剣なまなざしであった。虎城が白なのか黒なのか自分で判断して京太郎は納得したかった。
 うなずくのを見て、虎城は答えた。

「まずおさえておいて欲しいことがあるの。松常久のことなんだけど、松 常久はねヤタガラスのスポンサーだったの。スポンサーというのはそのままの意味で、資金を提供してくれる人。

 ヤタガラスといっても、サマナーのみで出来上がっているわけじゃないの。むしろ武力なんて持っていない人のほうが多いくらいなのよ。もちろんサマナーとして生きてきた人もいるけどね。

 それで少し話は変わるけど、ヤタガラスのサマナーには活動資金が渡されているの。お金がないとどうにもならないことが多いからね。

 この活動資金だけど、下手な行動を取ると支給されている金額だけでは足りないってことがおきるの。

 領収書を渡せばどうにかなることもあるけど、あんまりにも成果が足りていないとだんだんと受け付けてもらえなくなるのよ。

 そういう、なんというか、能力的にだめな人にスポンサーがつくの。もちろんヤタガラスに斡旋される形でだけどね。龍門渕の近くのサマナーだと龍門渕のグループ企業がスポンサーにつくんじゃないかしら。

 まぁそれで、ヤタガラスの構成員は手助けを受けるわけ。スポンサーにはうまみがないように見えるけど、政府から優遇してもらえたり、上手くサマナーたちを成長させていくことができれば、幹部として取り立ててもらえることもある。松常久は準幹部だったから、あと少しだったわけ。

 で、ここからが本題で、困ったことにこういうスポンサーの中には子飼いのサマナーを従えて権力を手に入れたいと思う人がいたりするの。人の欲望にはきりがないって言うけど、結構な頻度で現れるのよこれが。

それで、権力に取り付かれた人間たちの一人が、松常久だった」
 

ここまで話をした虎城に、京太郎はこういった。

「松 常久の息がかかったヤタガラスのサマナーに攻撃されたんですか? 子飼いのサマナーまでヤタガラス?

 裏切り者が多すぎるでしょ、大丈夫なんですかヤタガラス?」

 説明をしてくれた虎城から京太郎は視線を切った。もう目を見ている必要はないと判断したからである。

 京太郎の本当の疑問

「明らかになっていない内通者」

の存在には答えが出ていないけれども、それはまた別にいるのだろうと納得した。

 そして、京太郎は自分の判断を下した。白だ。虎城は白である。これで間違いであったとしても後悔はないだろう。はずれであれば、自分が馬鹿だったというだけのことですむ。京太郎が虎城に疑問をぶつけたのは、信じたかったからである。納得できる理屈を話してくれたら、それだけでよかったのだ。


 おおよその答えにたどり着いた京太郎が納得したのを見て虎城はうなずいた。そしてこういった。

「まぁ、わかるわよね。そういうことよ。

 松 常久を探っていたら、前線で内偵しているサマナーと後方支援チームがヤタガラスの別部隊に襲われて壊滅。

 襲撃を受けた混乱の中でどうにか自分の異能力を使って逃げ延びて、今ここにいるってわけよ。

 でも、内偵のサマナーは優秀だったわ。襲撃前に松 常久の証拠固めはきっちり済ませてくれていた。後は証拠をライドウに渡すだけ」

 京太郎が納得したのを見た虎城はほっとしていた。京太郎が自分のことを信じてくれたと虎城は見抜いたのだ。これは虎城の観察眼が人よりも優れているからというよりは、京太郎が非常にわかりやすく集中力をきったのが原因である。

京太郎は自分の集中力を上手く制御できていない。そのため、虎城から見れば京太郎が疑っているとか、信じてくれているというのは手に取るようにわかるのだった。雰囲気の問題だが、迫力が違うのだ。

 そして今、京太郎は完全に集中を切って虎城を受け入れていた。あまりにも簡単に受け入れてしまう京太郎を見て

「悪い人にだまされたりしないだろうか」

と虎城はすこし不安になった。


 虎城の話を聞いて納得した京太郎はこういった。

「その証拠とやらを虎城さんが握っている。だからなんとしても松常久は消したい」

京太郎は虎城の話を信じていた。もう疑ってはいない。疑問はとっくに晴れたからだ。まだ隠している部分があるけれども、それは仕事上の問題だからどうでもよかった。話せないことくらいあるのわかるのだ。

 抱えていた疑問がなくなった京太郎は一人でうなずいていた。また、このようなことを考えていた。

「ライドウが命じた内偵の結果が黒である証拠があれば、消しにくるのは当然だろうな。携帯電話の中にでもデータを転送しているのか?」
と。

 そしてそんなことを京太郎が考えていると虎城はニコニコしながら自分の頭を指差した。

「そうね、でも物体としてではないわ。ここに、詰め込んだのよ」

細い人差し指で、虎城は自分の頭をつついていた。京太郎に見せている笑顔は無邪気なものであった。というのもこの話をすれば、間違いなく京太郎が驚くだろうと思っているからである。実際京太郎は非常に驚いた。


 記憶だけで松常久を追い詰めるといった虎城はこのように続けて話してくれた。

「普通の事件なら、物質的な証拠が必要になるけれど、サマナーの世界にはそんなもの必要ないわ。
 
物質的な証拠なんて、捏造し放題だからね。悪魔を使えば、アリバイなんて朝飯前に作れるのだから。

 でも、そんな世界でもこれだけは信じられるという技術がある。それは悪魔の技術を使った読心術。本人さえも忘れている情報を引き出すことができるわ。

普通なら、疑われている人にかけるのだけれども、私はこれを使って私の頭の中にある情報をヤタガラスとライドウに差し出す。そうすれば、事件の顛末が伝わるでしょう」

 虎城は自信満々に言い切った。虎城は本気で読心術を使うつもりなのだ。これは珍しいやり方ではない。

 疑われているものに対して、複数の術者が読心術を使い真実を明らかにする方法を、証拠に応用するだけの話である。普通の世界で読心術など使えば、間違いなく人権侵害で問題になるだろう。

しかし、記憶しか証拠にならない場合のほうが多いのがサマナーの世界。よくある証拠の作り方なのだ。だから、彼女も読心術を利用することに決めた。

 虎城が読心術を自分につかうというので、京太郎がきいた。

「それって、ピンポイントで情報を抜き出せるんですか。事件関係とかで検索するみたいなことは」

 虎城の話を理解した京太郎は少し引いていた。なぜならば読心術をかけられたら、なにもかも明らかにされる。

 銀行の暗証番号だとか、隠しておきたい技術だとか、それが全て明らかになる。下手をすると破滅する人間もいるだろう。真っ白な人間などいないのだ。誰でも人に言えない黒さがある。自覚していない犯罪というのもあるだろう。

 ピンポイントで情報を取り出せるのかときいたのは、虎城が破滅するのではないかと心配したためである。

 引いている京太郎が聞くと、虎城は首を横に振った。

「無理よ。全部が完全にさらけ出されることになる。

 もちろん、覚悟の上よ。でもね自分のチームを壊滅させられておいて、黙って泣き寝入りなんてできないわ。この程度のリスク、たいしたことじゃない」

 虎城は覚悟を決めていた。虎城が受ける読心術は表面的な情報を拾うものではない、隠し立てなどできるわけもない。しかしそれでもいいと彼女は言っているのだ。虎城は静かに怒りを燃やしている。自分の秘密をさらけ出してもいいと思うくらいには松常久に怒っていた。

 覚悟を決めている虎城に京太郎はこういった。

「応援してますよ。きっと、何もかも上手くいきますよ」

この言葉のあとには声にしていないけれど、言葉が少しだけ続いている。

「もちろん俺も、あなたの味方をしましょう」

 声に出さなかったのは、少し恥ずかしかったからだ。なにせこの事件にはライドウがかかわっている。京太郎よりもずっと頼りになるサマナーだ。自分にできることなどほんの少しの武力を発揮するくらいのものであると京太郎は理解しているのだ。

だから味方になるなどとは、力になれるなどとはいえなかった。自分のような小物が出て行く余地があるとは思わなかったのである。


 京太郎の応援を受けた虎城がこういった。

「あなたたちが見つけてくれなかったら多分物流センターでつかまってたわ。

 氷詰めのままで追い詰められて、そのまま永遠に眠ったままだったでしょうね。本当、おこしてくれて助かったわ。

 おこして……ん? そういえば……ん? 何か忘れているような……なんだっけ」

 虎城は急に頭を抱え始めた。虎城は自分がどうやって目を覚ましたのかがさっぱり思い出せなかったのだ。そして思い出せないから不思議に思うことが生まれてくるのだった。

その不思議というのは、誰がどうやって目覚めさせたのかという不思議である。目を覚ましたときには自分でもわかるほど虎城は氷まみれの状態だった。長い髪の毛も凍っていたし、体も冷え切っていた。ほとんど死んでいるような状態だった。

 しかし、どうにか蘇生して動き出していた。

 さて、そうなるとおかしなことになる。なぜなら回復魔法だとか、医療技術を持っていないのにもかかわらず、京太郎とディーが自分を蘇生させたことになる。

そういう技術があるというようには少なくともドライブ中には見えなかった。特に京太郎など完全に戦いに特化している。ディーの可能性もあるが、回復魔法を使うようなそぶりはまったくなかった。となるといよいよわからなくなる。

 誰が自分を助けたのかが彼女のわからないところだった。しかし特に騒ぐことはなかった。もしかすると口にしていないだけで京太郎とディーにはそういう技があるのかもしれないからだ。

そして蘇生させる魔道具でも持っていて自分に使ってくれたのかもしれないと考えたのだった。それこそ目覚めたときに京太郎が手渡してくれた謎のドリンクは異様なほどの回復力があったのだから、そういうものでも使ってくれたのだろうと、納得できていた。



 それから二人がどうでもいい話をし始めた。特にすることがなかったからだ。

 「ディーさん遅いですね」とか「そうだね」とか言っている間に、時間は過ぎていった。

 そんなときである。、虎城がフロントガラスの向こう側を指差した。

「ねぇ、須賀くんあれ」

 フロントガラスの向こうを指を刺す虎城の顔色は非常に悪かった。虎城の視線の先には髪の毛を地面に引きずっている女性がたっていたのだ。

 しかもスポーツカーの不思議な空間にいる虎城にも感じられるほどのマグネタイトと魔力を怪しい女性はたぎらせていた。明らかに臨戦態勢であった。

 そして今までとは比べ物にならないほど赤い目が輝いていた。この眼光は虎城をひるませるには十分な圧力を持っていた。

 虎城が京太郎の名前を呼んだのは、この場所で一番の戦力は京太郎で、頼れるのも京太郎だけだったからだ。

 虎城の指先を追って京太郎がスポーツカーの外に目を向けた。京太郎はあわてたりはしなかった。しかし心臓の鼓動が早くなり、口元がつりあがっていった。

ありえないほどの力を虎城が感じているように京太郎もまた怪しい女性の力を感じていたのだ。だから京太郎はあわてたりしない。そしてきっと怪しい女性の目的は自分だろうと予想がつくから、京太郎は心震わせてしまうのだ。

 スポーツカーの外でたぎっている怪しい女性と目を合わせると京太郎は笑った。そしてこういった。

「そっちから来てくれたか」

 恐れはもちろんある。しかし怪しい女性を見て笑う京太郎は間違いなく楽しんでいた。京太郎は怪しい女性が現れてくれたことをありがたいと思っていた。

京太郎の胸にはこの怪しい女性にいいようにやられた経験が深く残っているのだ。その深く残っているものを乗り越えていきたいという気持ちがある。もちろん現在の状況が遊んでいられるものではないと理解している。だから表にはできるだけださないように努めていた。

 しかしここに、わざわざ怪しい女性が出向いてくれている。

「ありがたいことだ。リベンジのチャンスが向こうから来てくれた」

 そう思うとたまらなかった。


 スポーツカーの外に立っている怪しい女性は、京太郎を指差した。真っ赤な目を輝かせて京太郎から目を離さない。

 少し前回と様子が違っていた。体にまとわりつかせていたぼろぼろの布がどこかに消えているところである。ほんの少し前までは全身をくまなく包んでいたぼろぼろの布が、今はない。裸同然の格好だった。

 体から湧き出している魔力が目に見える密度でたぎっているのと、地面に引きずるほど長い髪の毛でもって、かろうじて体を隠しているだけだ。尋常でない格好であるが、たぎらせている力が桁違いすぎて、茶化すこともできない空気だった。

 怪しい女性が京太郎を指差しているのは、京太郎のマグネタイトを求めているからではない。今回は違う。今回は京太郎をさらうためにこの場所に現れたのである。京太郎が自分を見つけたのを確認すると、指差していた指を曲げて

「こちらに来い」

と伝えてきた。

 そのジェスチャーにあわせて助手席から京太郎は降りようとした。助手席から降りるのが当たり前、怪しい女性の呼びかけにこたえるのが当然だろうというくらいに何の迷いもなく京太郎は動いている。

 ディーの命令を無視する振る舞いだった。しょうがないのだ。京太郎の思惑と怪しい女性の思惑が完全にかみ合っている。どうしてスポーツカーの中に引っ込んでいなければならないのだろうか。

京太郎は怪しい女性に挑みたい。怪しい女性は京太郎に用事がある。二人とも用事を済ませるためにはスポーツカーの中にいてはだめだ。ならば、出るだろう。だから京太郎は助手席から降りようとした。

 助手席から降りようとしたところで、虎城に肩をつかまれて京太郎は止められた。

「まって、ちょっとまって! 本当にちょっと落ち着いて!
 
 待ちましょう! いったんディーさんを待ちましょうよ! どう見ても今までとは違うわ! 何か別の意図を感じる!

 お願いだから出て行かないで!今まで無事だったからといって、今回も無事に済むとは限らない!」

 虎城の額には脂汗がにじんでいた。また京太郎の肩をつかむ手は震えている。一般人なら肩が砕ける勢いで力をこめているけれども、ここまで力をこめてみても京太郎は少しも拘束できていなかった。

 とめる理由など一言で済む。不気味だった。京太郎を止めたのはスポーツカーの外にいる存在があまりにも巨大で、不気味だった。

 そしてたぎらせている魔力の様子から、今までとは違う怪しい女性の意図を虎城は感じ取れていた。つい先ほど見た楽しげな調子などかけらもない。

 どこからどう見てもまともでない。ひきずるほど長い髪の毛も、まがまがしく輝く赤い目も、両手両足に見える蛇のうろこのような模様も、何もかもが不気味で恐ろしかった。

しかもどうやら今回は事情が違うらしくやる気満々である。京太郎を外に出せるわけがなかった。死ににいくようなものではないか。そんなこと許せなかった。


 虎城に肩をつかまれた京太郎は、動きを止めてこう答えた。

「確かにそうですね。無事ですまないかもしれない。

 でも無視したら何をするかわからないですよ。もう待ちきれないみたいですし」

 自分を止める虎城に京太郎は微笑んで見せた。怪しい女性の様子がおかしいのには京太郎も気がついていた。なんとなくだが今回は求めているものが違うように見える。出て行かないという選択肢ももちろんあった。

 しかし選ばなかった。それは怪しい女性が待ちきれなくなっているのに気がついていたからだ。ディーはスポーツカーの強度は半端ではないと胸を張っていたけれども、それを突破できるかもしれない。

圧倒的なマグネタイトの奔流と、マグネタイトに物を言わせた異常な魔力とスタミナで力押しすれば、いくら頑丈な壁でも壊れるだろう。

 もしもスポーツカーが壊れたとしても京太郎はいいのだ。別に恐れるものなどそれほど多くない。野良悪魔に絡まれても始末すればいいだけだ。松常久の悪魔も同じだ。始末すればいい。しかし虎城はどうだろうか。

「スポーツカーがなくなったとき虎城さんは無事でいられるのだろうか?」

 京太郎はその可能性を考えると余計に外に出なければならないという気持ちになるのだった。考え方の問題なのだ。仮に、京太郎が何かされたとしても京太郎しか被害が出ない。スポーツカーも無事で済むだろうし、虎城もディーも無事である。

しかし、出て行かなかったとして、スポーツカーが壊れたらどうなるだろうか。ならば、選択肢は一つだ。

 京太郎と虎城は少しの間見つめあうことになった。二人とも、意見を変えるつもりはないのだ。京太郎は怪しい女性の相手をしたい。

そして出て行くほうが理にかなっている。京太郎が出て行きさえすれば、犠牲は一人だけですむ。怪しい女性が狙うのは自分だけだと京太郎は思っている。

 一方で虎城は京太郎を車の外に出したくない。怪しい女性はあまりにも怪しすぎる。そして京太郎が危険な目にあうのを許せそうにない。だから二人の意見はかみ合わない。

 二人が固まって数秒後、虎城は小さく悲鳴を上げた。フロントガラスにかえるのようにへばりついている怪しい女性の姿を見たからである。そして怪しい女性の真っ赤な目が自分を見ていることに虎城は気がついてしまった。

 真っ赤な二つの目をみたとき虎城は理解する。

「この悪魔は自分のことを心底、邪魔だと思っている」

 怪しい女性が放つ感情だけで彼女の心は壊れてしまいそうだった。


 虎城の小さな悲鳴のあと、フロントガラスを指でコンコンと京太郎はノックした。京太郎は少しだけ不機嫌になっていた。フロントガラスにへばりついている怪しい女性が虎城を睨むのが気に入らなかったのだ。

何せ虎城はずいぶんとおびえている。そういうのはあまりよろしいことではないというのが京太郎の思うところだった。そう思う京太郎だから、フロントガラスをノックして、自分に意識を向けさせたのだ。

 フロントガラスにへばりついている怪しい女性と京太郎は視線を合わせていた。京太郎がフロントガラスをつつくと怪しい女性は京太郎に視線を向けてきたのだ。

 このとき青ざめている虎城とは対照的に京太郎は笑みを浮かべていた。

 完全に血の気が引いている虎城はこういった。

「で、でも。ディーさんはこの車の中なら、無事にすむって」

 涙がほほを伝っていた。そして鼻声だった。虎城は人生の中でこれほど命の危険を感じたことはなかった。怪しい女性の真っ黒な髪の毛がフロントガラスをふさいでいるのも、不気味でならない上に、怪しい女性の顔が妙に整っているのも恐ろしさを助長させていた。

彼女の心にあるのはいまや、死にたくないという一念だけである。それこそディーの根拠も何もない言葉に頼りきりになってしまうほど、追い込まれていた。


 虎城がいい終わるのとほとんど同時だった。へばりついていた怪しい女性がフロントガラスを思い切り殴りつけた。怪しい女性が攻撃を仕掛けてくる様子を京太郎の目はとらえていた。右手をしっかりと握り締めて、小さな子供がやるような調子で振り下ろしたのだ。このときガラスが割れることはなかった。

 しかし無事とはいいにくい。殴られた衝撃でスポーツカーがはねたのだ。地面に置いたバスケットボールを殴りつけると衝撃でわずかに浮かぶが、それが車でおきていた。真っ暗闇の世界に落ちたときよりもずっと強い衝撃がスポーツカー全体を襲っていた。

 また悲しいことで、殴られたときにフロントガラスの一部分にヒビが入ってしまっていた。くもの巣のようなヒビである。

 しかしガラスは完全には割れていなかった。怪しい女性が手加減をしてくれたからである。本気を出せば、もっとすばやくもっとたくさんの攻撃を連続して放てだろう。しかしそれをしなかった。用事は京太郎だけだからだ。車にも虎城にも興味はない。だからこれだけで済んだ。

 跳ね上げられたスポーツカーが落ち着いてから、京太郎はこういった。

「手加減してくれてありがとう。言いたいことはよくわかったから無茶してくれるな。すぐに出て行く」

 京太郎は冷や汗をかいていた。しかしどことなくうれしそうに見えた。京太郎の前にいるのは手も足も出ないだろう格上である。真正面から戦えばここまで京太郎を連れてきてくれたディーでさえも怪しい相手である。

 そんな相手が今自分を呼んでいる。とても恐ろしいことだ。命を持っていかれるかもしれない。しかし、不思議と心は高ぶっていた。心が折れるどころかもう一度立ち向かう気持ちで燃えている。それに、虎城もいるのだ。

「自分がここで何かされたとしても虎城はどうにか無事ですむはず」

そう思えば、修羅場に踊りでる理由になるだろう。

 かなり無茶なノックに答えた京太郎に、へばりついている怪しい女性は、フロントガラスに口をつけてこういった。

「目、目」

 唇をガラスにつけて、声を出していた。かなりざらざらとした声だった。しかししっかりと「目」と発音していると、京太郎にはわかった。自分がどういう仕事をしたのか京太郎に怪しい女性は伝えているのだ。もう少し口が上手く回れば、

「あなたの目と私の目を霊的なラインでつないで危機を伝えたのだけれども、無事でしたか? 巻き込まれていないかと心配しましたよ、人の子よ。

 さぁ、その小さな神域から出てきて私の世界で暮らしましょう。あの忌々しい半神の邪魔が入らないうちに」

となっただろう。

 フロントガラスにへばりついていた怪しい女性がふわっと飛び上がった。そしてスポーツカーから十メートルほど離れたところに着地した。

 怪しい女性がフロントガラスから離れると京太郎は助手席から降りた。そのとき京太郎はこういった。

「虎城さんはここでおとなしくしていてください。異変を察してディーさんが戻ってくるはずです。俺でもわかるくらい魔力を放っているのだから、気がついてくれるでしょう」

 遺言のようにも聞こえた。事実、京太郎はここで終わることも覚悟していた。なぜならばこの怪しい女性と立ち会い、生きていられるのかは怪しい女性の心ひとつで決まるからだ。

 しかしまったく、手も足も出ないということはないはずである。

 怪しい女性との三度の立会いが、分不相応なステージで動くヒントを京太郎に与えてくれていた。

「外に発散する力を閉じ込め、内側に力を溜め込むことで感覚を強化する技術」

 代償は大きいが、これを極めていけば、格下の京太郎でも格上の存在に抗うことができる。肉体を破壊して一秒を細切れにして、刹那を行動の単位とする自滅技。上手く使えば、一分くらいは稼げるかもしれない。

 しかしそれは怪しい女性のステージに立てるというだけのことであって、勝利につながるということではない。やっと立ち上がって歩き始めた子供が、修行を積んだ格闘家に挑みかかるような状況である。しかし十分承知していても、進まなければならないこともある。今がそのときだ。


 京太郎がスポーツカーの扉を閉めると、虎城は青い顔をしてこういった。

「須賀くんはどうするのよ……」

 京太郎を捕まえるだけの力を虎城は搾り出せなかった。ただ、呆然と見送るだけである。今まで握り締めていたビニール袋さえつかめないほど消耗していた。

しょうがないことだ。怪しい女性の膨大なマグネタイトの圧力、虎城を排除しようとしていた眼力、そして魂の底まで冷え切るような奇妙な音色。どれをとっても血の気が引くものであった。そして泣いてしまいそうなほど不安な気持ちにさせるものだった。

 特に車内に響いたざらついた音色はたまらなかった。二度と聞きたいとは思わない音色だった。どんなおぞましい音楽でもあのような音は出せないだろう。すでに情緒不安定といっていいレベルまで消耗していたのだ。怪しい女性のわずかな悪意で虎城の足は完全に止まった。
 

 スポーツカーから京太郎が出てくるやいなや怪しい女性が飛び掛ってきた。京太郎が助手席から降りて、扉を閉めて、一歩踏み出したところである。前回、前々回のようにゆったりと怪しい女性は待ってくれなかった。ほとんど不意打ちに近い行動である。

 怪しい女性の髪の毛がなびいて真っ黒なマントのように見えた。真っ赤な目は京太郎から少しも離れていない。

飛び掛るときも、飛び掛った後もずっと見つめたままだ。蛇のうろこのような模様が浮かんでいる両手両足は、京太郎を捕まえるのに一生懸命に働いている。京太郎を抱きしめて連れ去るつもりだ。

 怪しい女性は京太郎が一人きりになるのをずっと待っていた。京太郎が始めて触れてきたときから、ずっと今まで耐えていた。

 怪しい女性は京太郎のマグネタイトの味をとても気に入っていた。今まで感じたことがない素敵な気持ちになるマグネタイトの味だった。

退屈の中で眠っていた彼女はこの味をもっと楽しみたいと願った。好きなときに好きなだけ楽しみたい。そんな気持ちがあった。素敵なマグネタイトを味わっているときは退屈を感じずにいられた。

そして何度も楽しんで、いよいよ心が固まった。さらいたいと願ってしまうほどに。

 しかし京太郎をさらえなかった。忌々しいディーが京太郎を守っていたからだ。忌々しい存在がいなければ、葦原の中つ国の最深部に落ちてきたときに京太郎をさらえたのだ。

何度も触れ合えたのに、つれて帰れなかったのは悲しいことだった。つれて帰ろうとすると、殺意を向けて怪しい女性をディーが脅かすのだから、できなかった。見た目こそ怪しい女性であるが、内心おびえていた。

 しかし今、やっとのことで邪魔者を離れた場所に誘導できた。ごみ臭いものたちにたたき起こされたのは非常に腹立たしいことだが、結果を見れば許せるというものだ。

 怪しい女性は思う。

「では、つれて帰ろう。あの半神がここに戻ってこないうちに、私の一番深いところに私の宝物を隠してしまおう」

 だから飛び掛った。心は一つ。京太郎を人の世界に返さない。

「私が大切に守ってやろう。私の腹の中で永遠に」

怪しい女性はそのように考えて、京太郎を捕りに、保護しに来たのだ。

 しかし怪しい女性の抱擁を京太郎は避けた。一瞬の出来事である。虎城からは怪しい女性と京太郎が姿を消したと思ったら、まったく別の場所に立っていたようにしか見えていない。

 いつのまにか京太郎はスポーツカーの前方三メートルほどのところに立っていて、いつの間にかスポーツカーの左斜め後ろ二メートルの位置に怪しい女性は移動していたのである。

 すぐに京太郎の異変に虎城は気がついた。京太郎の体から血が流れ出ていた。服の上からもわかる。服の色が血液で変わり始めていたのだ。皮膚が裂け、服の下の京太郎の体が血でぬれはじめているのだ。また、鼻から血が流れ出ていた。

そして見た目の異変と別に、おかしなことがあった。京太郎から激しい魔力の高ぶりを感じるのだけれども、まったく外に漏れ出していなかった。

 音速で迫る女性の抱擁を京太郎が避けられた理由と、その代償である。この流血は、感覚の強化を更に加速させた結果だ。

 
 三度、怪しい女性と京太郎は立ち会った。そのたびに感覚の暴走を逆手に取り格上に京太郎は挑んできた。しかし、三度ともいいようにやられてしまった。

はじめは圧倒的な実力差の前にあっさりと手を握られた。二度目は感覚を研ぎ澄ませてみたものの、油断をして抱きつかれた。三度目は感覚を研ぎ澄ませ、油断せずに行動したが、視覚にたよりすぎて分身に気がつけず遊ばれた。

 三度の出会いが怪しい女性に一泡吹かせる方法を提案してくれる。

「感覚強化の更なる段階。自滅覚悟の超強化を行え」

 四度目の、今。魔力を全開に高め京太郎は五感を研ぎ澄ませていた。結果、音速で動く女性の動きを完璧な知覚の中に納め京太郎は反応できた。ほとんど不意打ちに近い攻撃だったのにもかかわらず、行動を観て回避してのけた。

 当然の結果だ。二度目も、三度目も女性の動きを見て対処できたのだ。しかも今回は前回とは違う。自分にかける圧力が、桁違いなのだ。京太郎は自分にできる最高の魔力を練り上げ、内側に閉じ込めていた。

更に高めれば、簡単に対応できるのは当然のこと。五感を全開に強化しているのだから、より完璧に近づくだろう。だから京太郎は行った。

 しかし、代償はついてくる。分不相応なステージに無理に上るために行われた五感の超強化。力を溜め込むのも限界がある。今の京太郎は水の入った風船だ。パンパンに水が入っていて、いつ破裂するかもわからない膨張具合である。

 すでに破裂する予兆は見えている。行動のたびに皮膚が切れもれ出す血だ。行動の勢いで皮膚が裂けて、血がもれ始めている。肉体も内側から悲鳴を上げている。

 ただ不気味なことに痛みはなかった。

 抱擁を避けられた怪しい女性が京太郎にこういった。

「目、目、目」

 怪しい女性はずいぶん不機嫌になっていた。真っ赤な二つの目がギラギラと輝きだし、両手両足からは圧倒的な量の魔力が流れ出している。もう少し口が上手ければ、こういう内容で京太郎を責めただろう。

「私はあなたを傷つけるつもりはない。私はあなたの目を通じて危険を教えたではないか。なぜ、私を受け入れないのか、人の子よ。

 それに、あなたはずいぶん恐ろしい相手に追いかけられている。私はあなたが危険な目にあうのがとても恐ろしい。

 あなたは私の宝物。だから私はあなたを守ってあげたいと思う。私の中にいればどんなに恐ろしいことからも守ってあげられる。

 だからおとなしくしていてほしい。痛い思いをさせるつもりはないのだから」

 大体このような内容になるだろう。しかし残念ながら人間と会話をする経験があまりにも少ないためにまともに口が回らなかった。かといって、伝わっていたとしても京太郎はうなずかないだろう。 

 怪しい女性がなんども「目」というので京太郎はうなずいた。そして、お礼を言った。

「『目』? あの幻覚はあなたが? それはどうも、ありがとう。助かりました」

 京太郎は軽く頭を下げていた。目線は怪しい女性から切っていない。余裕らしく振舞っているけれども、言葉だけだ。全身からは汗が噴出していた。お礼を言ったのは単純に感謝しているからだ。

幻を見せてくれなければ、きっと奈落に落ちていた。知らせてくれてありがとう、という気持ちでお礼を言っていた。

 狙われているけれども、助けてもらったのは間違いないのだから、お礼が必要だろうという気持ちである。

 京太郎が軽く頭を下げると、怪しい女性が笑った。

「手、手」

と声を発っすると怪しい女性の目が一段と強く輝いた。燃え上がっているようにみえる錯覚が起きるほど魔力が目に集まっている。

 そして目に魔力が集まると同時に女性の体が霞のようにおぼろげになり、三つに分かれた。この三つに分かれた霞のようなものは実体をもっていた。三つとも全て本物である。京太郎の目の前にまったく同じ姿の怪しい女性が三人現れたのだ。

 京太郎を怪しい女性はかえす気がない。そして京太郎を守っていたディーの到着を待つつもりもない。今、必死になってディーが引き返してきているのが、怪しい女性にはわかるのだ。

だから、手加減はしない。ディーが離れている今が京太郎をさらう最大のチャンスだからだ。怪しい女性の心はひとつだ。

「やっと見つけた退屈を癒してくれる宝物。絶対に離さない。確実に連れ去る」

 怪しい女性が三つに分かれたのをみて、京太郎は姿勢を整えた。かかとをわずかに上げて爪先立ちになりひざを軽く曲げて腰をわずかに落とした。

両腕をだらりとリラックスさせて、自由に動かせる状況にもっていく。いつでも最高速で動ける姿勢である。

 すでに京太郎の頭の中に無駄なものはない。目の前の強敵に一泡吹かせてやるという闘志と、全身全霊でぶつかる喜びだけで動いている。

 退屈だった心はどこにもない。自分の退屈を殺す方法を京太郎は見つけたのだ。

「手抜きで手に入る勝利より全身全霊で敗北するほうがずっといい、ずっと価値がある。

 往くか、修羅道」


 まだ攻撃らしい攻撃もない立ち会う前といっていい状況。しかしすでに結果は見えていた。分身を呼び出せる余力のある怪しい女性と、相手のステージに近づいていくだけで自らの死に近づいていく京太郎。

どちらが勝利するのかなど誰の目から見ても明らかだ。

 しかし、京太郎に恐れはない。格下の京太郎が吠えた。

「来い!」

 京太郎の願いを聞き入れた心臓が激しく脈を打つ。無茶に無茶を重ねたことで鼻の中の血管が大きく裂けて、血が流れ出し、京太郎の口元が赤く染まる。

しかしそれでも、京太郎は吠えた。ただこのときを待っていたとばかりに吠えた。

 大馬鹿であった。


 京太郎の叫びを合図にして怪しい女性が動き始めた。三つ同時である。三つに分かれた怪しい女性は、京太郎を囲みにかかった。ちょうど京太郎を中心にして三角形を作っている。そして合図もなしに一斉に京太郎に飛び掛った。

 真正面の一人は京太郎の頭めがけて飛び込んだ。京太郎の右斜め後ろは、京太郎の背中を取るために飛び掛った。斜め後ろの一人は京太郎の足をめがけて飛び込んだ。

三人とも大きく手を広げている。抱きしめようとしているようだった。しかしその勢いはすさまじく、普通の人間ならば、真っ二つになるだろうことは間違いなかった。

 怪しい女性の準備から攻撃までが一瞬のうちに行われた。以前の京太郎なら、あっという間に捕まっていただろう。目で追う事もできなかったはずだ。

 しかし京太郎はこれに応じて見せた。真正面から飛び掛ってきた怪しい女性めがけて、飛び込んでいったのだ。

 京太郎は取り囲まれたのを把握できていた。前回の失敗から学んだのだ。一つのものばかりに集中していると、周りが見えなくなりつかまると。

 京太郎はしっかり五感を使い状況を理解している。

「怪しい女性は三つに分身した。そして三角形の形で自分を取り囲んでいる。そして取り囲んだ形から自分めがけてタックルを仕掛けてきた」

 タックルは三つすべて同時のタイミングだ。芸術的といっていいほど飛び掛るタイミングが同じだった。

 ならば、やることはひとつだろう。迎撃するだけだ。京太郎にあるのはそれだけである。怪しい女性が何を考えているのかとか、自分がどういう代償を受けるのかといった事柄はどうでもいい。ただ、一泡吹かせたかった。

 音速のステージに足を踏み入れ迎撃を始めた京太郎を前にして、怪しい女性は微笑を浮かべていた。しかしそれは京太郎の成長を喜んでいるものではない。京太郎の体から流れ出ている血液の甘い匂いに酔っているのでもない。

 迎撃に動いた京太郎をこのように解釈したのだ。

「うれしい! 宝物が自分から飛び込んできてくれた!」

 京太郎に攻撃を仕掛けられているなどとは少しも考えていないのだ。少なくとも怪しい女性は嫌われているとは思っていなかった。

 しかしすぐに間違いだったと知るだろう。

 京太郎と怪しい女性のやり取りが始まって、あと少しで一秒が過ぎるというところ。怪しい女性は天と地がひっくり返る体験をした。視界が百八十度回転したのだ。そして怪しい女性は背中に大きな衝撃を受けた。

 京太郎が飛び込んできてくれたと喜んだ次の瞬間、怪しい女性は自分の分身二体とぶつかってひっくり返っていたのだった。

 怪しい女性は何がおきたのかがわからない。当然である。柔道の技、「肩車」からの「背負い投げ」を怪しい女性にかける人間など、今までいなかったからだ。

 ポテンシャルならば圧倒的に勝っている怪しい女性であるが、戦いに関しては初心者なのだ。とくに油断したのがまずかった。油断とは、飛び込んできた京太郎を見て喜んでしまったこと。この隙を京太郎は見逃さなかった。

 そしてわずかな隙に滑り込み、京太郎はやってのけたのだ。頭めがけて飛んでくる正面の怪しい女性の首に左手をかけ、股下に右腕を通し担ぎ上げ、勢いに任せて体をひねり思い切り投げた。投げた場所は今まで京太郎が立っていた場所である。

 三つに分かれた怪しい女性が京太郎を狙っているのは明らかである。当然、見えないところから襲い掛かられたとしても攻撃の軌跡は予想がつけられる。今まで自分が立っていた場所が怪しい女性の目的地なのだ簡単だろう。

 だから京太郎は今まで自分がいた場所めがけて、怪しい女性を投げ込んだのだ。きっとぶつかるだろうと予想して。

 これが全てのやり取りだった。理解できているのは京太郎だけだ。怪しい女性も虎城も何が起きたのかわかっていなかった。怪しい女性は京太郎の行動内容と理由がわからず、虎城は上級悪魔のステージをとらえる力がなかった。

 ひっくり返された怪しい女性は京太郎を見つめていた。ひっくり返されて裸体が丸見えになっているのもまったく気にしていなかった。というのが非常に不思議に思ったのだ。

 「肩車からの背負い投げ」自体が不思議だったが、どうして自分を拒絶するのかわからなかった。

 そして、不思議に思うのと同時に、投げられたときに体についた匂いに鼻を震わせていた。京太郎の体からあふれ続けている血液の匂いがあまりにもいい匂い過ぎたのだ。

 短い戦いだった。実質的な戦闘時間は一秒未満。使われた技術は柔道の「変形肩車からの、背負い投げ」お互いに精妙な技は一切使っていない。京太郎の背負い投げなど、形だけが背負い投げになっているだけで、ほぼ力任せである。

 投げられた怪しい女性も分身して、飛び掛っただけ。遊びのようなものだった。少しだけ普通の遊びと違うのは、音速のステージで行われたという事と、遊び相手を家に帰さないと心に決めているものがいることだろう。

 やり取りの結果は明らかだ。誰が見ても勝利したのは怪しい女性だ。京太郎になげられたままの格好で、ひっくり返っている怪しい女性が京太郎との勝負に勝った。これは間違いないことだ。怪しい女性はまだ力を一パーセントも使っていない。

マグネタイトは現在進行形で日本の領域から補充されている。魔力も高まり続けている。まったく問題ない。今から京太郎に近づいて抱きしめて連れ去ればいい。それで終わりだ。怪しい女性にはそれができる。

 なぜ連れ去れるのか。京太郎は抵抗しないのか。

 理由は簡単だ。

 一瞬の立会いのあと、わずかに笑みを浮かべた京太郎がひざから崩れ落ちたのだ。立ち続けることもできなかった。京太郎の目からは血の涙がとめどなく流れ落ちている。また、鼻血も止まっていない。京太郎の肉体はひどい状態である。

骨が砕け間接が悲鳴を上げていた。神経はしびれていうことを聞かない。今の京太郎がまともに動かせるものなど一つもない。思考さえ痛みに犯されて止まっていた。

 これが京太郎の代償である。もともと感覚強化の代償はあったのだ。京太郎が感じていたひどい頭痛。体の痛み。これらは分不相応な力量しか持たない京太郎が音速のステージで動き回るための代償、肉体からの警告だった。

もともと分不相応なステージなのだ。音速の世界では空気の壁が体を傷つけ邪魔をする。また、物理法則を超えた力を発揮する肉体は限界を迎えて壊れていく。見えないはずの音速の世界を見る力は脳みその神経を激しく刺激し危険だと痛みを発していた。

 それらを全てねじ伏せて、超強化を行った京太郎がつぶれるのは自然だ。限界を超えた風船は破裂する。

 しかし疑問も残る。なぜ今なのか。なぜ今代償を支払うことになってしまったのか。戦っている間は痛みさえ感じていなかったのに、なぜこんなときに。

 支払いを立会いの後に強制されたのではない。超強化を行ったときから代償は支払っていたのだ。魔力を限界まで高め、閉じ込めて、立ち会ったときからすでに始まっていた。

京太郎は痛みを感じていなかったのではなく、加速した感覚が痛みを置き去りにしていたのだ。強化をやめてしまえば痛みが追いついてくるのは当然のことである。

一泡吹かせたと気を緩めた隙に、痛みが追いついたのだ。

 地面に伏せっている京太郎の姿は芋虫のように見えた。どうすることもできずにただもがくだけの哀れな虫けらである。しかし格上に一泡吹かせた虫けらだった。

 これが暴走の代償である。身の程を知らずに上級悪魔の領域に足を踏み込んだものの末路である。本来なら手が届かない相手のステージに立つために無理をしたのだ。この程度で済んでいると見るほうがいいのかもしれない。

 たとえ、死にかけているとしても、ましだったと思わなくてはならない。神経がしびれ、筋肉は千切れていても。毛細血管が裂けてだめになっていても。また無理に働かせたために領域ごとの仕事に混乱が起きている脳みそであってもましだったと思わなければならない。

 京太郎の無様な姿を見つめていた怪しい女性は立ち上がった。そして分身を消した。分身たちは霞のように薄くなり消えていった。

立ち上がった怪しい女性は今まで以上に京太郎を見つめていた。怪しい女性は興味を持ったのだ。興味深いマグネタイトもそうだが、このよくわからない京太郎自体をもっと知りたいと思った。

 京太郎の考えていることがさっぱり怪しい女性にはわからなかった。

 まず一番に、京太郎の行動は理にかなっていないにもほどがあった。なぜ勝てないとわかっているのに攻撃を仕掛けてきたのか。

これがどう考えてみても怪しい女性はわからない。マグネタイトと魔力を比較すれば勝てないのは誰にでもわかる。

京太郎の全エネルギーが一般家庭の浴槽並みとたとえれば、怪しい女性は海である。勝てるわけがない。頭のいい行動というのは逃げるか、身を潜めるか、ヤタガラスのように交渉することであろう。

 またどうして勝手に死に掛けているのかもわからない。確かに怪しい女性は投げ飛ばされて一本取られていたが、それだけだ。肉体に損傷はない。本体にも影響がない。

さっぱり何の意図があって京太郎が自分を投げ飛ばしたのかわからなかった。支払う代償に対して京太郎の手に入るものが見出せなかった。骨折り損のくたびれもうけではないかという気持ちである。

 そして肉体の変化というのも不思議だった。怪しい女性を投げ飛ばした直後からだ。京太郎から漂ってくる匂いが、いっそう良いものへと変化したのだ。体から染み出している血液など、芳醇な香りが過ぎて、ほかのマグネタイトを摂取できなくなりそうだった。

 わからないことばかりだ。だから興味を持った。今の怪しい女性に退屈という言葉はない。

「もっと知りたい。その心と体の中身を」

そしてこうも思うのだ。

「絶対に自分のものにする。誰にも渡さない。私の宝物だ」と。

 怪しい女性は京太郎に近づいていった。今度は少しも急いでいなかった。急がなくとも宝物は逃げないとわかっているからだ。京太郎はもう動けない。ゆっくり移動しても問題ないだろう。

 油断しているとしか言いようがない。怪しい女性は退屈が消えたことで冷静さを失っているのだ。冷静であれば、勝負の相手は京太郎ではなく時間なのだと思い出せただろう。


 京太郎がひざから崩れ落ちると、スポーツカーの中でやり取りを見ていた虎城はいてもたってもいられなくなっていた。

 虎城から恐怖の色が消えていた。京太郎から渡されたヤタガラスの帽子をしっかりとかぶりなおして、スポーツカーから虎城は出て行こうとしていた。

 地に伏せた京太郎の顔を虎城は見てしまったのだ。それがいけなかった。血を流して死に掛けている京太郎をこのままにしていられないと強い気持ちがわいてきたのである。

 彼女は助けたいと思ってしまったのだ。衝動的な感情だ。助けなくてはならないと理由なしに思える本質を彼女は持っていた。

 そんな虎城だから、無茶をやって死に掛けている京太郎を助けたいと思ったのである。それだけだ。まったく利益など考えずに、動いていた。虎城もまた馬鹿だった。

 怪しい女性の指先が京太郎の目に近づいていった。怪しい女性の指先には恐ろしいほどとがった爪が生えている。しかしこの爪で京太郎を傷つけようとは思っていなかった。

すでに出来上がっている自分と京太郎のラインをもう少し強くしようとしているのだった。より深くつながれば、理解も深まるだろう。そして強くつながれば、害虫も寄ってこなくなる。害するつもりなどないのだ。京太郎を思っての行動である。

 しかし、怪しい女性は京太郎に触れられなかった。

 京太郎に触れようとしていた怪しい女性の腕をディーがつかんだからだ。ディーの体からは魔力がほとばしっていた。また、二つの目に激しい怒りが宿っていた。怪しい女性の腕をつかむ力はすさまじく、怪しい女性はピクリとも動けなくなっていた。

 怪しい女性の襲来をディーはしっかりと感じ取っていたのだ。ちょうどハギヨシに連絡を取り、帰還の手はずを整えたところであった。

 ディーの目に怒りが宿っているのは、自分への怒りだ。自分の読みの甘さに怒っていた。

 何にしても怪しい女性の指先はあと少しのところで京太郎に届かなかった。

 京太郎が稼いだ一分足らずの時間が、ディーに帰還を遂げさせたのである。京太郎の不思議に気を取られ、考え事をして、そして生まれた一分足らずの時間。京太郎の無茶は怪しい女性にほんの少しだけ時間の無駄づかいをさせた。

 一分未満の時間でできることなどほとんどない。しかし音速のステージで戦うものたちにとって、一分未満は長すぎる。

 腕をつかまれた怪しい女性は、真っ赤に燃える目をディーに向けた。邪魔をするなと真っ赤な目が語る。

「この宝物は、私のものだ。邪魔をするな。私を傷つけられる相手と戦うのは恐ろしいことだが、手を出すというのならやってやろう」

 怪しい女性の心は今まで以上に京太郎をほしがっていた。仮にディーが恐ろしくとも奪ってやると決心するほどには欲しがっていた。真っ赤に燃える目には殺意が宿っている。弱い存在ならば、その視線だけで消えてしまうほどの威力があった。

 怪しい女性の腕をつかんでいるディーはためらうことなく怪しい女性を殴りつけた。つかんでいる腕を放してそのまま殴ったのだ。殴られた怪しい女性は地面を転がっていった。

殴った衝撃で、空気が震えていた。とんでもない威力だった。しかし腰も入っていなければ、技術を使っているようにも見えない攻撃だった。冷静ならば、もう少しまともな攻撃ができただろう。

 ディーは怒りのために技を満足に使えていなかった。自分自身への怒りである。保護者として京太郎を連れ出したのに、この始末。冷静さを忘れさせるには十分だった。


 ディーの攻撃を受けた怪しい女性が吼えた。ディーに殴られてゴロゴロと地面を転がったのだが、すぐに立ち上がって吼えたのだ。

大きな声だった。世界全体が震えているようだった。また女性の絶叫に合わせてオロチの世界に現れた大きな山の全てが、同調して震えていた。怪しい女性はディーに怒っていた。怪しい女性はこう思うのだ。

 「なぜ邪魔をするのか。私の宝物を大切に扱おうとしているだけだ」

 これが怪しい女性の全てだ。ディーは宝物を奪おうとする悪いやつとしか見えていない。だから怒る。さらに、怪しい女性はこう思う。

「すでに契約はなされている。

 人の子と私は何度もマグネタイトのやり取りをかわしている。対価も支払った。

 お前も何度も見ていただろう。道を問われて、教えてやった。そして私が人の子に求め、人の子は応じてくれた。

 これは契約だ。神聖な約束事だ。人の子が私に求め。私が応じる。私が求めて、人の子が応じてくれている。 これを契約といわずになんという。

 お互いにお互いを所有すればいい。私はそうするつもりだ。お前に邪魔されるいわれはない」

 つまり、怪しい女性の中で京太郎はすでに女性のものになっているのだ。そんな考えなので、邪魔をするディーを見て怒るのだった。

 しかし、怪しい女性が世界を震わせて怒ってみてもディーが引くわけもない。まっすぐに怪しい女性を見据えて、魔力をディーは高めていった。

 ディーにしてみれば目の前にいるのはただの悪魔である。確かにそこそこ強い。しかしそれだけだ。ディーはすでに見抜いている。怪しい女性は戦闘に特化したタイプの悪魔ではない。

怪しい女性はスナミナを生かした後方支援特化タイプの悪魔であると。近接戦闘と中距離を得意としているディーにとってはたいした脅威ではなかった。そして今、生かして返す理由がディーにない。ならば、ここで終わらせるべきだろう。この追いかけっこは。


 怪しい女性とディーがにらみ合い始めた。そして一戦交えようとしている間に、京太郎に虎城が手を触れた。ディーが現れたことで行動の余地が虎城に生まれたのだ。この隙間を虎城は見事について行動していた。

ディーが現れたのを確認するとスポーツカーから這い出してきて、あっという間に京太郎に近づいていったのだった。

 血まみれになっている京太郎は、ひどい有様だった。目に見えている部分はまだたいしたことがないけれども、肉体の中身がまずいことになっている。骨も間接も、神経も筋肉も、内臓もどれもこれも壊れかけていた。

 近づいてきた虎城を京太郎は目にうつす事もできていなかった。あふれ出る血涙が、邪魔をしていた。

 京太郎に回復魔法をかける虎城は渋い顔をしていた。回復魔法をかければ、肉体の損傷は簡単に回復していく。仮に手足が吹っ飛んでいたとしても生きてさえいれば、何とかなるのだ。それが悪魔の領域の技術。魔法の力である。

 しかし、後遺症が残ることはある。後に残る傷跡というのがあるのだ。それは魂に刻まれる傷である。これはなかなか消えてくれない。虎城は無茶なまねをした京太郎に、後遺症が現れるのではないかと心配しているのだ。

 特に京太郎がおこなった感覚の強化技術、あれはまずいものだった。暴走状態を更に加速させて音速のステージに立つ。まったく格が足りていないのを無茶で通したのだ。こんなことをすれば、何か変化が起きるのは間違いなかった。

しかし、どういう変化がおきるのかはわからない。それが彼女を不安にさせるのだった。

 虎城が京太郎に手を触れたとき、怪しい女性が

「あっ!」

といった。虎城の耳にもしっかりと「あっ!」と聞こえている。もちろんディーの耳にも聞こえていた。怪しい女性が間抜けな声を出したのは、虎城が京太郎に触ったからである。

怪しい女性にしてみれば京太郎は自分の宝物である。その宝物に、勝手に触られたわけだから気を悪くしたのだ。自分の邪魔をするディーよりも気に入らなかった。

 声を上げた怪しい女性だが動かなかった。その場で足踏みをするだけだった。また、足踏みの最中に真っ赤に輝く目が、激しい点滅を繰り返していた。

 そして頭を左右にふって、京太郎の様子を確認しようとしていた。すでに戦おうという緊張感はまったくなかった。できるのならば京太郎を連れ去りたいというのが怪しい女性の思うところである。なんとしても手に入れたい宝物だ。

 しかし彼女の目の前にとんでもない邪魔者がいる。ディーだ。ディーがいなければすぐにでも虎城を排除しただろう。しかし京太郎と虎城をかばうようにディーが構えているのだ。

この忌々しい存在がいる限り、京太郎を連れ去るのは不可能に近い。しかし自分の宝物に触れているものがいて、気に入らない。で、葛藤しているのだった。

 そうこうしている間に京太郎の回復が完了した。虎城はずいぶん消耗していた。京太郎の肉体の損傷が、激しいものだったからだ。

しかし虎城は見事にやりきった。虎城も消耗していたのを考えると、ずいぶんがんばっていた。流れる汗がその証拠である。しかし彼女は満足げに微笑んでいた。

 そして虎城は京太郎に声をかけた。

「大丈夫? 私の顔は見えている?」

 京太郎は体を起こして、地面に座り込んだ。そして虎城の質問にうなずいて見せていた。先ほどまでの芋虫のような状態からは抜け出せていた。しかし京太郎の顔色は悪かった。虎城はその様子を見て、自分の考えが正しいと確信した。

「無茶をした結果、後遺症が京太郎に出たのではないか」

という予想が現実になった、という確信である。

 そして予想をより確かにするために、彼女はできるだけやさしく聞いた。

「何か、おかしなところがある?」

 その問いかけに対して地面に座り込んでいる京太郎が答えた。

「目が、見えにくいです。景色が重なって見える。虎城さんと、ディーさんと俺が見えている」

 実に不思議な話である。京太郎の視界には二つの景色が重なって見えていた。ひとつは京太郎の視界である。頭蓋骨に収まっている眼球が見せる景色だ。これは普通の視界である。

 もうひとつは別の誰かが見ている景色である。この景色は京太郎の見ている景色ではない。なぜ言い切れるのか。

 座り込んでいる京太郎の姿が、京太郎の視界に入っているからだ。自分と他人の視界が混じっている視界は脳みそが混乱してしょうがない。

どちらが自分の景色なのかがわからなくなる。今は自分の姿が自分で見えているので、他人の見ている景色なのだと理解できるけれども、なくなれば完全に混乱を起こすだろう。それほど二つの視界は溶け合っていた。


 京太郎の答えを聞いた虎城は小さな声でつぶやいた。

「目の霊的なラインが混じったのかしら」

 すぐに京太郎の頭をつかんで虎城は目を診はじめた。自分の考えが正しいかどうかを確認しようとしたのである。一度京太郎の目を見たときに霊的なラインがつながっていたのは確認していた。彼女はそれが無茶と重なって、京太郎に混乱を与えているのだろうと予想をつけたのだった。そして確かめようとした。

 虎城が診察を始めてすぐ、京太郎が虎城を突き飛ばした。京太郎に突き飛ばされた虎城は、少し地面を転がった。しかし怪我らしい怪我はしていなかった。

 何事かと京太郎を虎城が見た。怒ってはいない。虎城は冷静だった。状況を確認しようと努めている。

 京太郎に混乱が起きているのではないかと彼女は考えているのだ。恐ろしい出来事の後、心が乱れるのはよくあることだ。京太郎もそうではないかと、虎城は考えたのだ。

 しかし実際のところは違う。京太郎は混乱などしていなかった。虎城は京太郎が何を思い自分を突き飛ばしたのか、すぐに理解する。

 怪しい女性の分身体が京太郎を背後から捕まえていた。溶け合った視界の中に虎城を狙うものがあるのに京太郎は気がついたのだ、だから突き飛ばした。

 ひとつの視界に視点が三つ。自分のものと、ディーと向かい合っているもの、そして自分の背後から狙うもの。そしてその三つ目の視界が虎城を狙っていると察して、彼女を突き飛ばしたのだった。

 怪しい女性に背後から抱きしめられている京太郎が震え始めた。視界の中に更に視点が増え始めたからだ。増えていく視点はディーを囲い始めている。京太郎の脳みそが処理できないほどの視点の多さだった。

 怪しい女性の分身体は京太郎を背後から抱きしめていた。両腕が京太郎の体をしっかりと締め上げている。この両腕が京太郎を抱くまでに描いた軌跡は虎城を巻き込む道筋だった。京太郎が虎城を突き飛ばさなければ、虎城は胸から上部分と下部分に分かれていただろう。

 怪しい女性の願いはただひとつ、自分のものだと思っている宝物を危険な世界から切り離して守ることである。怪しい女性にとって、虎城も危険な世界の一部分だった。

 背後から京太郎を抱きしめている女性は、そのまま京太郎に頬ずりをした。一見かわいらしいしぐさである。

 その様子を見た虎城は鳥肌を立てていた。獲物を捕食する前のヘビが舌をちらつかせているようにしか見えなかったからである。

 怪しい女性が自分のほほに顔を寄せてくるのを京太郎は無抵抗に受け入れていた。京太郎の顔色は悪い。怪しい女性が気持ち悪いのではない。そんなことはもうどうでもよくなっている。目だ。目が京太郎の動きを制限していた。

 というのが京太郎はひとつの視界の中に数え切れないほどの視点を抱え込まされていた。そしてこの視点が現在進行形で増えていく。すでに数え切れない視点が、京太郎の視界の中に存在していた。京太郎は自分自身の視点がどこにあるのかを見失い、ここがどこなのかさえ思い出せない有様だった。大量の情報に押しつぶされていた。

 そして大量の情報の奔流の中で、怪しい女性がどのような世界を見ているのか、京太郎は体験することになった。

 京太郎の目は地上を見下ろしていた。ありえない体験だ。地にあしがついているはずなのに、視点ははるか上空にあった。視界が増えていくという以上に、奇妙な体験過ぎて処理が追いつかず吐き気がする。

 そして、延々と道が広がっている世界を、見下ろす羽目になった。あまりの情報の多さに発狂しそうになった。しかし

「終わってたまるか」

と京太郎が生への執着を思い出しくいしばった。

 完全につながった京太郎は情報の奔流の中で、女性の正体に行き着いた。推理の必要はない。空から見下ろしているものが女性の本当の目であるとわかれば、その正体はすぐに明らかになる。

 京太郎の目につながってる怪しい女性の本当の眼球は、蒸気機関がつくる雲のはるか彼方にある。京太郎は、雲のはるか向こう側にあるものを知っている。空を占拠する、超巨大な光の塊。太陽ではない奇妙な光。これだ。これが怪しい女性の本当の眼球なのだ。

 ならば、その正体とは、たった一つである。オロチだ。怪しい女性とはつまりこの世界そのものなのだ。葦原の中つ国の塞の神と呼ばれている道の九十九神、この神が京太郎を狙っていた。

 大きすぎるオロチという存在が生み出す、小さなものたちと触れ合うための触覚が怪しい女性なのだ。京太郎たちは怪しい女性を見てとんでもないマグネタイトを持つ悪魔であると考えていたが、オロチからするとマグネタイトで武器を作るのとそれほど変わらない作業なのだ。

それこそ、龍門渕で沢村智紀の呼び出したヨモツイクサたちがマグネタイトを操り、槍を作り出したような調子で、強力な触覚を作っている。

 巨大な神が自分の世界を見下ろすために生み出した巨大な光の塊と、触覚を通じて京太郎の目がつながってしまっていた。

 この現象が起きた理由はみっつ。

 ひとつはオロチと京太郎の間にマグネタイトのやり取りが何度も成立していたこと。京太郎はオロチの石碑に何度も触れている。そして何度も願いを伝えて、叶えてもらっている。このやり取りでマグネタイトの繋がりが出来上がってしまっていた。

縁が結ばれたのだ。虎城のいうところの霊的なラインである。

 二つ目の理由は、暴走状態を更に進めたことでできた霊的な傷である。京太郎の超強化の代償は、京太郎の魂に傷をつけていた。この傷は自然回復できるものだったのだが、オロチの力が滑り込むことで埋め合わせができてしまった。

それこそ欠けてしまった部分に粘土を埋め込むような調子である。別物だが、かみあわせようと思えば、できることがある。京太郎とオロチはかみ合っていた。

 最後の理由はオロチが京太郎の内面に興味を持ってしまったこと。オロチの興味が京太郎の肉体から内面に向いてしまったため、より深くつながることになった。

オロチが狙ってこのような状況を作ったわけではないのだ。ただ、もっとよく知りたいという気持ちが京太郎との縁をより強いものにしていたのである。

 このようなものがかみ合うことで、オロチの本当の目とつながることになってしまったのだ。

 そして圧倒的な情報量による酔いが京太郎に発生していた。ひとつの頭では理解できない大量の視点が、京太郎の精神を追い込んだ。

 だから、自分に頬ずりする怪しい女性、オロチの触覚ともいえる存在に好きなようにさせるしかなかったのだ。抵抗する気力がわいてこないのである。暴走の代償でもだえ苦しみ、その後に大量の情報による酔いを受けたのだ。気力はすでに最低のところまで落ち込んでいた。

 京太郎たちの状況は悪かった。怪しい女性改めオロチの触覚たちはディーを囲み始めた。すでに二十を超える触角が集まっている。マグネタイトに物を言わせた持久戦を行うつもりなのだ。

 この戦法は正しい。いくらディーの戦闘能力が高くとも、限界はある。個人のスタミナをつくのだ。

 オロチが行おうとしているのは数にものを言わせた持久戦である。これはディーに対しても京太郎に対しても有効な戦法で、龍門渕で出会ったサマナー沢村智紀が得意とする戦法でもある。

 確かにディーは強い。戦えば一瞬でオロチの触覚を消し飛ばせるだろう。しかし何十分戦えるだろうか。何時間本気で戦えるのだろうか。休みなしで一日戦えるだろうか。

 戦闘というのはとんでもなくスタミナを使う。マグネタイトも魔力もあっという間に消耗するのだ。京太郎を見ればわかる。京太郎など全力を出して戦えば一時間も動き回れないだろう。

ではディーはどうだろうか。わからない。答えてもくれないだろう。教えることが自分の敗北につながるからだ。

 しかしオロチは答えられる。

 「いつまででも」

 もともと日本の領土全体からマグネタイトを供給されているオロチである。無尽蔵といっていいスタミナがある。たった一人の悪魔などにスタミナで敗北することはない。

オロチの戦い方は非常に簡単だ。触覚を大量に作り、スタミナが切れるまで襲い続ける。それだけだ。それだけしかできないともいえるが、オロチであるからこそできる戦い方だった。

 オロチも本気なのだ。逃がすつもりなどない。

 そして京太郎はいまや捕食寸前であった。オロチから送られてくる大量の情報でパンク寸前で動けない。

 また虎城だが、彼女が一番動けない状況だった。武力がないうえに、オロチの触覚たちに一番敵視されていた。どうしようもなかった。

 京太郎を抱きしめていたオロチの触覚が京太郎を連れ去ろうとしたときであった。オロチの触覚たちが悲鳴を上げた。大きな悲鳴だった。激痛にもだえていた。そして次々に姿を消して、残ったのは京太郎を抱きしめていた一体だけになっていた。

 触覚たちが姿を消したのは、力が制限され始めたからである。流れ込んでいた大量のマグネタイトが一気に制限され始めたのだ。

 オロチの触覚たちが消えていく中でがほっと一息ついてディーが自分の相棒をほめた。

「流石ハギちゃん。仕事が速い」

 相棒をほめてはいたけれど、冷や汗がひどかった。京太郎が粘っていなければ、きっと間に合っていなかっただろう。それくらいにはぎりぎりだった。この一発逆転劇が出来上がったのは、京太郎と虎城から離れたわずかな時間の間にディーがきっちりと連絡を取ったからである。

 オロチが目覚めて動き出したこと、オロチの世界が非常に混乱していること。そして松常久がオロチを目覚めさせた下手人であること。また京太郎を狙う怪しい女性がいるということ。これらを全て、相棒のハギヨシに伝えていた。

ディーが説明をするとハギヨシはあっというまに怪しい女性がオロチの触覚であると見抜いた。

 そして混乱するオロチの世界を鎮めるためという目的と、京太郎にちょっかいをかけられないようにするという二つの目的を達成するため、速やかにヤタガラスと十四代目に連絡を取りオロチに供給されているマグネタイトを制限した。

 その結果、オロチの触覚が一体しか残らないという圧倒的有利な状況が出来上がった。後は弱ったオロチの触角をディーが消滅させるだけだ。ディーの武力なら、あっという間に片付けることができるだろう。

「修羅場は終わりだ」

 ディーが一息ついたところだった。京太郎を抱きしめていたオロチの触覚が京太郎から手を離した。そして立ち上がった。体が薄くなり消えかけてきた。しかしまだ輝く赤い目があきらめていなかった。

 奇妙な行動をとりはじめたオロチの触覚にディーが攻撃を仕掛けるよりも早く、オロチの触覚は京太郎に頭突きを行った。頭突きである。自分の額を京太郎の額に思い切りぶつけたのだ。ものすごく深くお辞儀をする格好で行われていた。

座っている人間の顔を背後から覗き込む形で頭突きを行ったということになる。結構な勢いで行われたために長い髪の毛がムチのようにしなっていた。

 そのときの頭突きの衝撃で京太郎の額が大きく切れた。オロチの触覚の頭に傷はできていなかった。それはそのはずで、頭突きをかまし、目的を達した瞬間に触覚ははじけて消えた。散り際のマグネタイトの爆発が、花火のようできれいだった。

 散り際に攻撃された京太郎を見て、すぐに虎城が京太郎の手当てに向かった。京太郎の額は大きく裂けていて、血が流れていた。しかし虎城の回復魔法が唱えられて、あっという間にふさがった。

 一体オロチは何がしたかったのか。

 京太郎は気がついていいないが、オロチの真意を虎城とディーはすぐに見抜いた。

 オロチの真意に虎城が気がついたのは京太郎の顔の血をぬぐっているときだった。ディーが気がついたのは、京太郎が虎城に手をひかれて立ち上がり、京太郎と目が合ったときだった。

 京太郎の目が真っ赤に輝いているのをみたのだ。二人はこの輝く赤い目をよく知っていた。先ほどまで自分たちを困らせていた存在オロチの目、そのものだった。二人はこの目を見てオロチの考えを察する。

「撤退を余儀なくされたオロチだが、京太郎をまだあきらめていない。あきらめていなかったから、自分の力をほんの少しだけ京太郎に分けた」

そして言葉にはしないけれども、二人は京太郎の目をこのように解釈した。

「この輝く赤い目、燃える目は京太郎を逃さないための呪い。オロチのつけた目印だ」と。

 京太郎の目を見たディーは頭を抱えた。そしてこういった。

「虎城さん、須賀ちゃんは無事なんですかね」

 京太郎から少し離れたところで、ディーは肩を落としていた。京太郎に駆け寄らなかった。駆け寄れなかったのだ。京太郎の目の様子と、自分の失敗が足を止めさせている。ずいぶん、へまをやった。その気持ちがどうしても京太郎に近づいていけなくさせている。

 京太郎の顔の血をハンカチで拭きながら、虎城は答えた。

「たぶん、大丈夫だと思います。調べてみない限りははっきりとしたことはいえません。でも今までつながっていた霊的なラインは完全に閉じてます。今すぐに、影響が出るということはないでしょう」

 虎城は渋い顔をしていた。虎城は少しも嘘を言っていなかった。虎城の眼から見て京太郎は健康そのものである。オロチとつながっていた霊的なラインは閉じている。またマグネタイトの消耗と魔力の消耗があるけれども、肉体は万全だった。

 目に見えている限りおかしなところは真っ赤に燃える目が二つあるだけである。しかし、万全なのが恐ろしかった。何もかもがぴたりとおさまりすぎていた。

 京太郎が暴走状態を加速させたのを虎城はみている。そして、暴走状態の代償を受けていたのも知っている。しかしそれが、今この瞬間にまったく何も見当たらないのだ。代償がないのはいいことだ。いいことなのだけれども、回復までが早すぎる。だからこんなことを思ってしまうのだ。

「支払った代償の部分に、オロチの力がピタリとはまったようではないか。まるでもともと一つだったかのような自然さで」

 それがどうしても虎城を不安にさせた。

 虎城とディーががっくりと気持ちを落としているとき、能天気なことを考えているものが一人いた。

虎城にハンカチで顔を拭かれていた京太郎である。虎城とディーがどうして肩を落としているのかさっぱりわからないという調子で能天気な笑顔を浮かべている。おそらくこの場にいる中で、オロチを含めても一番無茶をしたはずなのだけれども、笑っていた。

 先ほどのオロチの触覚とのやり取りがなかなか満足のいくものであったと京太郎は喜んでいるのだ。とんでもない痛みを受けて、もだえ苦しむことになり、頭突きをもらうことになったけれども、それでも一泡吹かせたのは間違いなかった。

 オロチの触覚を背負い投げなどしたときには本当にやってやったぞという気持ちでいっぱいだった。柔道の試合なら間違いなく一本勝ちである。よくある表現なら勝負に負けて、試合に勝ったという言い方ができるだろう。

 落ち着いてきた今、そのときの気持ちを思い出して、笑ったのだった。

 一応、全体を理解している。自分の前に現れた怪しい女性が巨大な悪魔の一部分であるということも理解しているし、そこそこ無茶なことをやったとも理解している。それでもあの一瞬が楽しくてしょうがなかった。無事に現世へ戻れたら自分の仲魔に話を聞いてもらおうなどとも考えていた。

 京太郎が能天気なことを考えて笑顔を作っているのに虎城とディーが気がついた。そのとき、ディーは実に困ったような笑みを浮かべて、こういった。

「まぁ、悩んでもしょうがねぇ。今は、オロチの世界から脱出して松常久に対処するのが先だな」

 そういうとディーはスポーツカーに向けて歩いていった。スポーツカーのフロントガラスにひびが入っているのをみて悲鳴を上げるのはこれから三秒ほど後のことである。



 ディーの胸の奥にあった失敗と後悔の感情は少しだけ薄まっている。無茶なことをやって死に掛けた京太郎が能天気な笑顔を浮かべているのを見て、ここで悩んでもしょうがないと頭を切り替えたのである。

場違いな笑顔が、頭を冷やすきっかけになったのだ。今は、悩むようなときではない。それを理解できたから、龍門渕へ帰るために動き出したのだった。

 ディーがスポーツカーに向けて歩き始めたとき京太郎も動き出そうとしていた。能天気な笑顔を浮かべていた京太郎だったが、今は少し落ち着いていた。

口元がもごもごとしているだけだ。もう少し余韻に浸っていたいところだけれども、龍門渕に戻らなければならないのだから、いつまでもここにいるわけにはいかない。

それにディーにおいていかれたら走ってかえることになる。それは困る。

 京太郎が歩き出そうとしたとき、虎城が京太郎の腰に手を回した。歩き出した京太郎が少しだけふらついたからである。大量の情報を頭に叩き込まれたことで、精神的に疲れてしまっていた。この精神的な痺れが、肉体の操作をしくじらせていた。

 そして虎城はふらつく京太郎の手助けをしたのだ。回復魔法は肉体を復元するけれども、それだけだと虎城はよく知っている。

 体の中に異物が入ったままでも元通りの肉体を創ってしまうのだ。あの戦いの後、副作用がほとんど見えなくとも、この位のことはあるだろうと算段をつけて、すぐに動いたのだった。しかし冷静に動けたのは、きっと京太郎の能天気な顔を見て、心が切り替わったからであろう。


 オロチの襲撃から数分後。京太郎はスポーツカーの助手席に座っていた。スポーツカーの不思議な空間には虎城が乗り込んでいて、運転席にはディーが座っている。顔面が血だらけだった京太郎だが、虎城がハンカチで拭いてくれたのでいくらか見れる顔に戻っていた。

しかし、いまだに京太郎の二つの目はオロチの触覚と同じ真っ赤な目をしたままだった。

 また、音速の世界を体験したことで京太郎の服がぼろぼろになっていた。ジャンパーはずたずたに、ウエストポーチはどこかに吹っ飛んでしまっていた。一番ひどいのは靴である。靴底がなくなっていた。

 一応布が体を包んでいる状態であるから、裸ではない。しかし流れ出した血液がしみこんでしまっていて、シャツもズボンも使い物にならないだろう。

 しかし、一番気を落としたのは服がだめになったことではなかった。サイドミラーで自分の目を確認したときだ。そのとき一番京太郎はがっくりとしていた。

 理由としては次のようなものであった。

「灰色の髪の毛でも怪しいのに、この目は言い訳がきかねぇ。

何だよこれ光ってんじゃん。目玉の中に蛍でも入れられたのか俺は?
 
『真っ暗闇でも便利!』

とでもいうと思ったか、オロチは? 俺はトナカイか?」

 また、運転席に座っているディーもがっくりと肩を落としている。ディーが落ち込んでしまっているのは、スポーツカーのフロントガラスにひびが入っていたからである。

自慢のスポーツカーが簡単に壊されてしまったことが、プライドを傷つけたというのもある。それもあるがフロントガラスの修理代をどうやって捻出すればいいのかというところで、頭を悩ませているのだった。

 ディーのスポーツカーはまともな品物ではない。車の形をした呪物といったほうがいいくらいにおかしな品物である。普通なら壊れた部品を交換することで修理ができる。しかし、呪物はそうはいかない。

 一つ一つのパーツをよく選ばなくてはならないのだ。そのためよく似たパーツを持ってきてはめ込んでもまともに動いてくれない。人間の体と同じで、たとえば目玉とよく似ているからといってガラスだまをはめ込んでも意味がないように、特殊な調整が必要なのだ。

 それこそフロントガラスのような運転にあまり関係のない部品であっても完璧なパフォーマンスを発揮できない。

 できるとしても、普通の車並みの性能である。今までのような頭のおかしな速度は出せなくなるし、強度も弱まる。

 そして何とか万全にしようとすれば、適正部品が必要になるわけで、取り寄せることになるのだから非常に時間がかかる。普段の仕事だとか戦いには問題がないのだが、自慢の一品であるため修理しないという発想自体がない。

そうなればとやはり修理をすることになるわけで、そうなると、時間がかかる上に、金もかかるわけで、そのあたりを考えると頭が痛くなるのだった。

 男二人ががっくり落ち込んでいるところで、虎城が大きな声でこういった。

「さぁ、オロチの動きも落ち着いたことだし龍門渕に向かいましょう。ディーさんも須賀くんも元気出して。ね?」

 虎城はずいぶん無理をしていた。顔色が悪くなっていて、覇気がない。もともと虎城は無茶な逃亡手段をとって、体力も気力も消耗している状態だった。

その状態に加えて、悪意を持った松常久たちに追い回されるという修羅場、オロチの触覚に囲まれるという修羅場を加えて、いよいよ限界が近づいていた。

 それでも大きな声を出して、二人を励ましたのは二人を思いやったからである。京太郎の目のことも、ディーの仕事のこともよくわかっていた。

だから、二人の落ち込む気持ちを、少しでも晴らしたかったのだ。何もできていない自分だから、少しでも助けになりたい。そんな気持ちである。だから少し無理をして声を出していた。気分を変えて先に進もうと、がんばったのだ。

 虎城が二人を励ますと、ディーがこういった。

「ずいぶん長いドライブになった。

 まぁ、虎城さんの言うとおりだな、へこんでいてもしょうがない。マグネタイトを制限されてオロチが落ち着いた今、道の変化は起きないだろう。

後はしっかりと龍門渕へつながる門をくぐればいいだけだ。

 パーティーには完璧に遅れたし、出席できるかどうかも怪しい。だが、任せておいてくれ。きっちり送り届けよう」

 ディーはそういうとアクセルを踏み込んだ。いろいろな問題がある。松常久の始末、京太郎のストーカー、特注のフロントガラスの手配。ひとつも解決していない。

しかし、ここで悩んでいてもしょうがないのだ。前に進み一つ一つつぶしていかなければ終わらない。だから前に進むのだ。

 ディーがアクセルを踏み込んだとき、スポーツカーが変な音を立てた。車のパーツから出てきた音ではなかった。もっと別の場所から、ガラスのすれるような音が聞こえてきたのである。

事実、エンジンも車のシステムも間違いなく動いている。しかし、スポーツカー全体として完全にかみ合っているのかというと違う、というのがガラスのすれるような音を聞いているとわかってしまう。

 妙に不調和な、キシキシという音がスポーツカー全体から聞こえ始めるとディーはアクセルを踏む力を弱めた。この音を聞いて、表情に出さなかったがディーはあせった。

この音がスポーツカーの内部に張っている結界が崩れる前兆と察っせられたのだ。そして、仮に結界が崩れるようなことになれば、面倒が起きるとすぐに予想がつけられた。下手を打てばオロチからの脱出は徒歩で行うことになるだろう。

 徒歩の状態で、しかも結界の中にある荷物を背負った状態で松常久に見つかるようなことがあれば間違いなく追いつかれる。そして追いつかれれば囲まれる。

 そして、戦いが始まるだろう。それも持久戦だ。それは困る。一対一の戦いならば、問題はないのだ。京太郎もディーも勝利するだろう。しかし延々と一対一を繰り返すことになると負ける可能性が高い。特に、遠くから魔法でちくちくやられるのは最悪だ。

 持久戦をやりたくないのだ。マグネタイトの限界というのはディーにもあるのだから。ならば、無理をしない速度で走るしかないだろう。安全運転を心がけて、いくしかない。

 急いで帰りたい。しかしできない。それでもスポーツカーは走り出した。この世界に来たときよりもずっと速度を落としていた。百キロは出ていた。ただ、この速度を出していてもディーはまったく安心などしていなかった。

それは助手席に座る京太郎も同じである。京太郎は運転席に座るディーの様子から、何かまずいことになっていると察したのだ。そしてディーが桁違いの運転を選ばないのをその証拠と考えていた。

 スポーツカーは道をどんどん進んでいく。今まで自分たちが登っていた高い山から下りていき、龍門渕に向かう道へ向かうだけだ。

 それだけのことなのだけれども、この簡単なことが京太郎たちにはできそうになかった。邪魔が入ったのだ。

 またもやである。大きな山から下りていく道、そこから龍門渕に戻るための道に入ったところである。京太郎たちの背後から、次々と、装甲車が現れたのだ。

 このとき、装甲車以外の異変がおきていた。この異変に気がついたものが一人いた。虎城である。彼女はフロントガラスの向こう側の景色を見たり、背後の景色を急いで確認していた。確認し終えた虎城はこういった。

「おかしい。山の数がどんどん増えてきている。私たちに気がつかれないように追い詰めようとしているみたい」

 彼女は視界のなかにどんどん山が増えていくことに気がついていた。松常久たちの乗る装甲車に気をとられていたディーと、集中力の切れている京太郎は気がつかなかった。

 そして彼女は青ざめた。この現象を彼女は何度か見たことがあったからだ。前回、前々回は山ではなく岩で行われていた。規模が違っているが、間違いなく犯人は同じだろう。

オロチだ。彼女は山が次次と増えていく状況を、オロチが自分たちを誘導していた現象と重ねていた。視界に現れてくる山たちから彼女はオロチの目的を予想できたのである。

 虎城は青ざめながらつぶやいた。

「須賀くんを逃がさないつもりだ」
 

来てくれるなと思ったところで現れた松常久の装甲車の群れ。そして道を変化させて松常久を誘導しているだろうオロチ。

現状を確認したディーがイラつきながらつぶやいた。

「さて、どうしてくれようか。もういっそオロチの本体ごとやっちまうか?」

 ディーがイラついている原因は二つ。自分たちの後ろを追いかけてきている邪魔ものどもに対しての怒り。

 もうひとつはこの無限に道が広がっている世界を創っているオロチに対しての怒りである。特に、証拠らしい証拠はないがオロチの執着振りからして松常久を誘導していると予想はつく。

 おそらくそうだろうと直感がささやくのだ。京太郎にあれだけ執着していたのだ。世界の形を変えるくらいならば、するだろう。オロチにはオロチなりの考えがあるのだろうけれど、タイミングが悪すぎた。

ディー自身そこそこ頭にきている状況である。松常久の邪魔も、オロチのダイナミックストーキングもおなかいっぱいなのだ。そうなってくると、いよいよ思い切り暴れてもいいのではないかなと思ってしまう。
 
 ディーがイラつきながらこのような呟きをはくと、京太郎は背後を振り返った。助手席で体をひねり、窓の外に顔を出して背後の様子を見た。百キロ程度しか出ていないので少しも恐ろしいということはなかった。

背後を確認したのは装甲車に乗って追いかけてくる空気の読めないやつらを、始末してしまおうと考えたからである。そろそろ京太郎は現世に戻りたいのだ。

 なにせ京太郎はオロチの世界に興味がない。京太郎は、やることをやってしまった。ぼろぼろになり勝利したとはいえないけれども軽く一泡吹かせることはできた。非常に満足している。やられっぱなしで悔しいという気持ちは消えている。

これ以上ないといえるほど楽しませてもらった。楽しく遊んだら、後は帰るだけだろう。オロチの世界は京太郎の生きる世界ではないのだから、帰るのは当然である。

 引き止められても困るだけ。追いかけてこられても困る。そして松常久たちの装甲車は邪魔だ。ハエのようにうっとうしい。だから追いかけてこれないようにしてやろうと考えたわけである。

 そのためジャンパーのポケットの中のデリンジャーに京太郎はすでに手をかけている。脳みその調子が悪かったり、真っ赤に燃える目をどうにかしなければならないという問題は抱えてはいたけれども、襲ってくる相手を丁寧に返してやろうとか、手抜きをして相手をしようなどとは考えていなかった。

 さて、京太郎たちをおいかけてくる装甲車だけれども、はじめてみたときよりも、ずっと数を減らしていた。はじめは、いっぺんに数え切れないほどの装甲車が追いかけていた。そして悪魔の軍勢を率いて黙示録のような景色を作っていた。

しかし、今ではもう十台ほどしか追いかけて来ていなかった。そして、追いかけてくる悪魔というのがいなくなっている。装甲車だけが追いかけてきている状況だった。少し寂しい感じもする。

 これは京太郎に邪魔をされたというのももちろんであるけれど、オロチの目覚めによって道が変化したことで、装甲車の数を減らしてしまったのだ。オロチがうねり踊ると道が大きく変化する。その変化というのに巻き込まれてどこかに消えてしまったのだ。

 消えたというのは京太郎たちが走り回った世界に飛ばされたかもしれないということである。運が悪ければ、平べったくなっているかもしれない。どのような結末を迎えているにしても一番の理由は間違いなくオロチの変化であろう。

 二番目の理由は京太郎の銃撃による行動不能である。修理不能になった装甲車も、もちろんいたのだ。

 結果として、十台ほどしか生き残れなかった。そして運よく生き残れた十台のなかに松常久が含まれていた。

 しかし数を減らしても松常久たちとその部下たちは一生懸命に追いかけていた。松常久とその部下たちは運命共同体なのだ。ここで虎城を逃せば、間違いなくヤタガラスに処刑される。たとえ逃げたとしても賞金首になるだろう。表の世界からも裏の世界からも指名手配されるのだ。

 表の世界なら殺人犯として裏なら賞金首としてである。そうなれば、並の実力しか持たないものたちはあっという間につかまる。それも警察にではない。人権など頭にない裏の世界のハンターにつかまるだろう。

そうなれば死ぬよりも恐ろしい目に合わされる。それはなんとしても避けたかった。だから必死だ。必死で追いかけて、虎城を殺すつもりである。当然京太郎もディーも始末したい。

 わらわらと追いかけてくる十台の装甲車を見た京太郎が、提案した。

「魔法でも撃ちましょうか。足止めくらいならできるかも」

 京太郎がこのように提案したのは、装甲車に追いつかれると予想がついたからだ。京太郎はディーができるだけ無理をしないようにスポーツカーを運転しているのに気がついている。

その原因が、オロチの触覚による攻撃とも気がついていた。壊れないようにぎりぎりのスピードで移動している。一応百キロは出ている。結構なスピードである。しかし、風の後押しを受けている装甲車は今のスポーツカーよりもすばやく動けるだろう。

ならば、きっと追いつかれる。そうなったとき、きっと戦うことになるだろう。

 戦うかもしれないのなら、一台でも多く行動不能にしているのがいい。拳銃での攻撃もありだったが、京太郎は自分の稲妻の魔法のほうがより多く簡単に始末できると踏んでいた。

人間だろうと悪魔だろうと命の価値は同じだという感覚の京太郎にとって、追いかけてくるものたちをいたわる理由がない。ためらいなどない。

 そして、オロチが目覚めたことで道にはほとんど人影がない。少なくとも今、京太郎と松常久の間には巻き込んではいけない誰かというのはいない。そのため、稲妻を使うという選択肢も簡単に選べたのだ。

 京太郎は提案をしながら、すでに魔力の集中を始めていた。真っ赤な目が魔力の集中にともないより一層輝きはじめた。輝く赤い目はしっかりと装甲車を狙っていた。
 

 とんでもない勢いで魔力を集中させている京太郎を見てディーがとめた。

「いや、やめておいたほうがいい。

虎城さんがかぶってる帽子の発信機が壊れちまう。虎城さんの帽子を目印にしてハギちゃんは門を操っているはず。これが壊れるのはまずい。

 近すぎるんだ。稲妻なんて発動した瞬間に機能停止だろうな。見つけてもらえなくなると、いよいよやばいからな。それに、もしものときは車に篭城って言う手もある。

ヤタガラスのエンブレムは生命線さ」

 ディーはもしものときのことを考えていた。もしも装甲車に囲まれて、動けなくなったらどうするかというもしもである。もしも囲まれたのならばディーはこのスポーツカーに閉じこもって救助を待つつもりである。

オロチの触覚によって結界が崩されかけたが、それでも凡百のサマナーなどには壊されない強度がスポーツカーにはあるのだ。

 内側にディーがいれば、強度も飛躍的に高まるのだからオロチからも逃れられるかもしれない。

 篭城して後はヤタガラスのエンブレムについている発信機をたよりにして救助に来るだろうハギヨシを待てばいい。しかし篭城といっても一日とか、一ヶ月という単位ではない。長くとも一時間、短ければ三十分くらいでハギヨシは門を届けてくれると信じている。

 時間としては短いけれども、無理は禁物だ。無茶して命が飛んでいくのはまずい。すでに消耗している京太郎と虎城を抱えて戦うよりもずっといい方法だった。オロチも世界をじわじわと変化させて、追い込もうとしているのだから、余計に冷静であるべきだった。

 だから、京太郎を止めたのだ。京太郎の稲妻の魔法はジオダイン。稲妻の上級魔法である。その威力は余波であっても電子機器を一発で使えなくさせる威力がある。精密機械ならなおさらだ。だから京太郎に撃たせるわけにはいかなかった。

 口には出していないけれども、オロチの世界自体が脱出の妨害をしてきているのだ。怒りはあるが、それ以上に不安があった。


 ディーがこういうと京太郎は高めていた魔力を散らした。ディーの作戦がよく理解できたからである。京太郎も、ディーがそういうつもりならば、それに乗るつもりだ。非常に安心ができる作戦ではないか。

オロチの触覚というとんでもない存在以外なら、おそらく守りきれる強固な結界、その中で篭城して救助隊を待つ。安全なやり方だった。格好は悪いけれども虎城もいるのだ。無駄な危険は避けたかった。

 ならばということで京太郎は、別の提案をした。

「なら、銃撃で直接サマナーを狙います。それならオッケーですか?」

 魔法も銃撃も使うつもりだったのだ。魔法が却下されても、まだもうひとつがある。ポケットの中の小さな拳銃、オリハルコン製のデリンジャー。妙に手になじむこの不思議な拳銃で足を止めてしまえばいい。

稲妻の魔法のようにきれいさっぱり消し飛ばせないだけで、便利なのは間違いなかった。

 ディーがうなずいた。そしてこういった。

「当てられそうなら」

 ディーがうなずいたのを見て、京太郎は上半身を車の外に出した。京太郎はそのとき、ほんの少しだけ顔をしかめた。窓から体を外に出したとき、全身がピリピリとしびれたのだ。この痺れは動けなくなるようなものではなかった。

ただ、妙にくすぐったかった。これは超強化の代償だ。神経がささくれているのだ。回復魔法ではどうしようもない症状、痛みの残像が残っている。

 痺れを感じながら、京太郎はデリンジャーを構えた。上半身を窓から出してしっかりとデリンジャーを握って狙いをつけている。このとき京太郎はデリンジャーがもだえているのに気がついた。手の中のデリンジャーが生き物のように動いていた。生きた魚をつかんでいるような感覚だった。

 そして京太郎が握っている部分から、赤くなり発熱しはじめた。

 この赤い発光は京太郎の集中させていた魔力が、デリンジャーに流れ込んでしまった結果である。オリハルコンが京太郎と特に相性がよかったために必要のない魔力の移動がおきてしまったのだ。

 しかし京太郎は、銃撃を行った。おかしいとは思った。銃撃を中止するべきとの余地もあった。しかし壊れたのなら壊れたでいいと京太郎は割り切っていた。道具よりも逃げ切ることが大切だったからだ。

 引き金を引いたとき、銃弾はまっすぐ飛んでいった。装甲車を一台も傷つけていない。装甲車が一台一台が距離をとって移動しているためあたらないのだ。今までは的が密集していたので、当てられたのだ。今は離れてしまっている。流石に銃撃の訓練をしていない京太郎には上手く当てられなかった。

 
 京太郎はあきらめずに何度も引き金を引いた。しかしあたらない。まったく追いかけてくる相手の数が減らない。京太郎があせり始めたところで運転席のディーがこういった。

「あたったらラッキーくらいの気持ちでいいよ。もしものときは篭城するだけだから、後、射撃のコツはリラックス」

 ディーの顔色は悪かった。いやなものを見たからだ。ディーの視界のなかに徐々に大きな山が増え始めていた。

非常に遠いところから、山が生まれてくるのだ。そしてそれが、時間がたつにつれて、自分たちを取り囲むように増えてくる。間違いなくオロチの仕業である。ディーはオロチの執念を嫌がった。自分の世界を無理やり変化させても連れ去ろうとする執念が恐ろしかったのだ。
 

 ディーの助言の後、少し間を空けてから京太郎は集中を始めた。銃撃をいったん切り上げて、助手席に上半身を引っ込めた。京太郎は体をひねり後ろを向いていた形だったので、元に戻ると目の前に虎城の顔が見えるようになる。京太郎の目に映る虎城は不安そうな顔だった。

 京太郎と虎城が見つめあう形になった。しかし京太郎は気にせずに、目を閉じた。そこから深呼吸を始めた。

 三回深呼吸を繰り返して、京太郎は目を開けた。スポーツをやっていたときに京太郎が身に着けた心を落ち着ける方法である。

 そして、心が決まったところで、京太郎は目を見開いた。今まで以上に爛々と赤い目が輝いていた。かつてオロチが見せた燃え上がっているような目とよく似ていた。

しかしオロチのようにただ燃え上がっているだけの目ではない。いくつもの色が重なって見えていた。赤色の奥に金色が見え、オレンジ色、緑色が続いて、青色と現れてくる。

それも一つの色が常に出ているわけではなく次々と入れ替わり立ち代り色が現れるので、たくさんの虹の粒が火に舞い上げられているようだった。不思議な輝く目である。

 集中が済むと、追いかけてくる装甲車を輝く目で京太郎は見た。上半身を再び窓の外に出して、銃を構えた。銃を構えたとき京太郎は静かな世界の中にいた。完全に世界が止まっている。このとき他人事のように京太郎は思う。

「この目のおかげかな」

 そして引き金を引いた。弾丸の軌跡が京太郎にはよく見えた。


 京太郎が精神統一の作業を終えて目を開けたとき、スポーツカーの不思議な空間の中にいた虎城は小さな悲鳴を上げた。悲鳴を上げた虎城は自分の口をあわてて手で抑えた。

これ以上悲鳴を上げないようにするためだ。彼女が悲鳴を上げたのは、京太郎の目を見たからである。

 このとき虎城はオロチの心を少しだけ理解できた。

虎城は思う。

「オロチはまだ子供だ。体がということではなく心が子供なのだ。純真とか、無垢という表現が近い。

 あの輝いていた真っ赤な目にはその心が表れていた。素直な子供っぽい輝きだった。

 ほしいからほしいという。好きだから好きだという。自分の大切なものに触れようとするから嫌いだと思う。そして好きだから返したくない。

 それだけなのだ。それだけのシンプルな気持ちが目に表れていた」

 わかってしまったからオロチの目よりもずっと、京太郎の目のほうが恐ろしくみえた。自分を排除しようとしていた怪物よりも、恐ろしいと虎城は心底思ったのだ。

 彼女は理解できなかったのだ。彼女は京太郎の目にいろいろなものを見た。善意と悪意、暴力と平和。刹那と永遠。天国と地獄。白と黒が見事に並び立っていた。灰色ではなく混じっていない、どれも損なわずに並び立っている混沌である。

 彼女が悲鳴を上げたのは、理解できなかったからだ。相反するものがまったく矛盾なく並び立っている京太郎が理解できなかった。ひとつの面だけならば理解できる。心優しく、少し馬鹿な少年だと。しかしそれ以上にいろいろなものが混じりすぎていた。

 彼女がここまで理解できたのは、単純一本道のオロチに出会っていたからである。だから、混沌として、深淵としかいいようのない京太郎の魂に気がつけた。

 しかし、気がついたところで彼女はどうすることもできない。何せこれはオロチのしでかした祝福の結果ではないからだ。これはもともとの京太郎の素質。オロチの祝福によって目に見えるようになっただけのもの。治療できるものではない。病ではないのだ。


 精神集中を終えた京太郎が引き金を引いた一秒後、装甲車の一台が動かなくなった。見事、装甲車を銃弾が打ち抜いたのだ。そして装甲車は爆発した。どうやら燃料に引火したらしかった。派手に車が燃え始めている。京太郎の精神集中は見事に功を奏したのだった。

 そして爆発から、背後で何が起きているのかを察したディーが叫んだ。

「当てたのか!?」

 ずいぶん驚いていた。昨日の今日で銃の腕前が上がるわけがないからだ。京太郎は一般人として生きてきたというのはすでに知っている。当然だが拳銃の訓練を受けていたとは思っていないし、そういう情報はなかった。だから不思議でしょうがなかったのだ。

 ディーが驚いている間に京太郎は助手席に体を引っ込めた。京太郎の顔色が悪くなっていた。京太郎は集中を切っている。頭が痛くてしょうがないのだ。目玉を収めている部分がずきずきと傷んでまともに集中できるような状況でなかった。

 上半身を引っ込めた京太郎の顔を、虎城はちらりと見た。直接京太郎の目を見ないように努めているようだった。しかし見なければ、何が起きたのか確認できないので、彼女は意を決して京太郎の目を見た。

 そのとき虎城は息を呑んだ。

 京太郎の目から血の涙が流れ落ちていたのだ。そして少しだけほっとしていた。輝いていた真っ赤な目がもともとの京太郎の目に、一般的な人間の目に戻っていたからである。

 京太郎が自分の目から流れ出しているものに気がついたところで、京太郎の頭を虎城がつかんだ。両手で頭を思い切りつかんでいる。そうしてそのまま、回復魔法をかけた。

「ディア」

回復魔法をかけると血涙が止まった。そして京太郎の頭をつかんだままで京太郎の目をじっと虎城は見つめた。診察しているのだ。そして虎城は京太郎にこういった。

「目が元に戻ってる。一時的なものだったのかしら?」


 虎城がどうして目が戻ってしまったのかと考えているときに京太郎がぼそっとつぶやいた。

「マジですか。ものすごくものが見えたのに」

 世界が止まって見えるほどの目が使えなくなってしまったかもしれないのだ。惜しいと思っていた。代償はもちろん理解している。間違いなく学校に通うのが難しくなるだろう。

目の中に蛍でも入っているような輝く目なのだ。日常生活さえ怪しくなるだろう。しかし京太郎の趣味にはかっちりとかみ合うものだった。利点を考えると、あってもよかったように思ってしまう。副作用だろう血涙については少しも考えていなかった。

 京太郎の言い方にカチンと来た虎城が説教でもしようかと構えた。しかしできなかった。運転していたディーが二人に注意を促したからだ。

「ちょっと悪いけど二人とも、気をつけてくれ。やばいのがきた」

 ディーはずいぶん困っていた。冷や汗がほほを伝っている。

 道のど真ん中に陣取る人影を見つけたのだ。その人影は人一人簡単に入れるほど大きな木箱を担いでいた。その人影は背後から追いかけてくるものたちよりも、スポーツカーの結界を崩しかけたオロチの触覚よりもまずい人物だった。

 道のど真ん中に仁王立ちする影の正体はベンケイ、十四代目葛葉ライドウの一番弟子にしてハギヨシの兄弟子である。ティーシャツにジーパン、スニーカーという格好のおっさん。背が高く、鍛えられているので威圧感が半端ではないが、気の抜けた表情が日曜日のお父さん風の印象を与えてくれる。

 しかしその実力は総合評価でハギヨシをやや上回っている。これはハギヨシとディーが力を合わせて戦ったとしても、敗北する可能性が高いということで、当然だがディー単体なら間違いなく敗北する。

 ベンケイが何を思って行動しているのかわからないディーにとって、この状況はいやな感じしかしないものだった。

 万が一、何らかの事情によってベンケイが自分たちの足を止めようと思っているのなら、それだけで帰還は不可能だろう。ディーよりもベンケイのほうがずっと強いのだ。力で押し切ることができないのだから、襲われたら終わりである。

 ただ、完全な敵対者ではないだろうともディーは考えていた。というのも、道のど真ん中に陣取って自分たちを待ち構えている。ということは足を止めさせて済ませたい用事があるということだろう。始末するのなら問答無用で遠距離から狙撃すればいいのに攻撃していないのが証拠である。

 ではいったい何の用事だろうか。さっぱりわからない。ディーには答えられない。冷や汗もかくというものだ。いやな感じに心臓がはね続ける。胃がもやもやとし始めていた。

 スポーツカーを運転しながらディーがこういった。

「ベンケイさん、追いかけてきたのか。勘弁してくれよ」

 冷や汗が止まらないディーに京太郎が聞いた。

「あの人は知り合いでは?」

 ベンケイとの出会いを京太郎はよく覚えていた。そしてディーの話というのもよく覚えていた。そうなると、ベンケイは知り合いである。もっといえば、味方だろうというのが京太郎の考えだった。

 特に、冷や汗をかくような関係ではないというのは、異界物流センターでのやり取りで把握しているのだ。冷や汗をかくような関係であれば、あのときのディーはずいぶんおかしなことになる。

 京太郎の質問にディーが答えた。

 「確かに知り合いだ。でもな、何を思って行動しているのかわからない。仮に松常久の味方をするつもりならここで俺たちは終わりだ」

 ディーは苦笑いを浮かべていた。はじめてベンケイとであったときのことを思い出しているのだ。

 ベンケイに仕事の依頼をしたことがディーにはある。それが知り合うきっかけだった。ディーがまだ一般人だったころ、六年前の話だ。そのときは天江教授と、その家族と自分を守ってもらえるように頼んだ。

 依頼を出してすぐだった。逃げていた自分たちを追ってヤタガラスから派遣された十四代目葛葉ライドウと次期ライドウ候補だったハギヨシが現れた。

 ベンケイに天江教授とその家族、そしてディーを引き渡すように十四代目とハギヨシが話を持ちかけた。十四代目とハギヨシは悪いようにはしないともいっていた。

「天江教授たちを九頭竜の生贄にするつもりなどない。神の手に人の世を任せるつもりなどないのだ」

そして

「きっとヤタガラスの幹部たちを説得して話をつぶして見せる。裏で手を引いているものにも見当がついている」

ともいった。

 しかしベンケイは断った。

「申し訳ないが師匠、すでに依頼を受けた後だ。連れて行きたいのなら俺を倒して連れて行ってくれ」

 そのときまったく手加減もせずに師匠と弟弟子を相手取って戦い、退かせた。ベンケイはやると決めたら師匠だろうが弟弟子であろうと、関係ないのだ。

当然だがディーも同じ扱いを受けるだろう。消さなくてはならないと決断されていたら、終わりだ。

 冷や汗がひどいディーに京太郎はこういった。

「勝てそうにないんですか?」

 京太郎も少しだけ顔色が悪かった。京太郎よりもはるかに強いだろうディーにここまで冷や汗を流させるというのだから、京太郎は自分の死を予想した。今の京太郎なら目で追うことはできるけれども、同じ舞台で戦えないのだ。戦うといって無茶をしてもいいが、動けても一瞬だ。

 攻撃が通るかも怪しい。運転席にいるディーですら、赤子の手をひねるように京太郎をたおせるのだ。そのディーがだめだというのならどうしようもないだろう。

 アクセルを踏み込みながら、ディーが答えた。

「俺と須賀ちゃんが自滅覚悟で突っ込んでも無理。万が一なんてのもない。あの人はバリバリの退魔士、それも十四代目が葛葉の人材から選りすぐった天才。いくら頭をひねってもつぶしてくる。

 だが、最高速と最高速の持続力ならば話は変わる。

 さぁ、はねるぞ! 一気に振り切って龍門渕に向かう!」

 ディーは思い切りアクセルを踏み込んだ。スポーツカーの結界は崩れかけている。本気でアクセルを踏み込み続けたら、結界自体が壊れてしまうだろう。しかしそれでもかまわなかった。生き残るためには必要だったからだ。たとえ結界が壊れて、封じられている荷物が放り出されるようなことになったとしても、それでもかまわなかった。

 悪魔的な加速を行ったスポーツカーがベンケイを弾き飛ばしにかかった。デジタルスピードメーターがありえない速度で上昇を続けて、あっという間に四桁に乗った。そして音速の壁を突破して、ベンケイに迫る。

衝突すれば間違いなく死ぬ速度である。しかしディーの表情は暗い。この程度で死んでくれる相手ではないと知っているからだ。

 スポーツカーがベンケイがぶつかる瞬間、京太郎はベンケイの困り顔をみた。

「やっぱ勘違いされたか」

とでも言いたげだった。そしてあとすこしでぶつかるというところで、木箱を担いだままベンケイは横に飛んだ。スポーツカーは何も弾き飛ばさなかった。そのまま道を駆け抜けていった。

 ベンケイとすれ違ったとき、京太郎はこういった。

「目で追う事もできなかった……」

 悔しいという気持ちよりも、すごいものを見たという気持ちが多かった。京太郎が目で追えたのはベンケイが困り顔を浮かべたところまでだ。ぶつからないようによけたのも、ディーに対してハンドサインを送っていたこともわからなかった。ただ、そのすさまじさだけが心の中に残っていた。


 交通の邪魔にならないところにディーに無視されたベンケイがたっていた。すぐそばには大きな木箱がおいてある。ものすごく困っていた。右手で頭をかきながら、ため息を吐いている。そして愚痴をつぶやいた。

「龍門渕までこいつを運ばせるつもりか?

 勘弁してくれよ、松常久にキャンセル料も請求しないといけないのに携帯電話もつながらないし。

 会社に戻ったら怒られるだろうなぁ」

 どうしてこんな場所にベンケイがいるのか。それはベンケイが落し物を拾ったからである。ベンケイが肩に担いでいた木箱が落し物なのだ。異界物流センターで置いてけぼりにされたとき、この落し物の始末をベンケイが行わなければならなくなった。

 物流センターの職員にいったんは任せようとしたのだが

「弟弟子の荷物なのだから、自分で持っていけ」

といって突っぱねられた。

 そして異界物流センターから猛スピードで逃げ出していったディーに落し物を渡そうとベンケイは動いていたのだ。

長時間のマラソンは難しいが、短い距離ならば追いつくのはそれほど難しいことではなかった。

 しかしオロチが動き出してできなくなってしまった。それどころかオロチ全体が妙な動きをはじめたので、一般のサマナーに被害が出ないように動き回る羽目になった。

 そしてひと段落したところでまたオロチが動き出した。温厚なベンケイでも流石に頭にきた。しかし、目の前で被害が出るというのは気持ちのいいものではないので、久しぶりに本気で動き回っていた。

 そうなってやっと今なのだ。巨大なマグネタイトと魔力の奔流を感じ取り、その後ディーの魔力を感じ取り、急いで走ってやってきた。そしてスポーツカーの進路をふさぐように立ちふさがった。

 「やっと帰れる」

とベンケイは頭をいっぱいにしていた。

 が、失敗した。理由はすぐに予想ができた。

「もしかして松常久の護衛が続いていると思われたか?」

 回避の瞬間にハンドサインを送ったのは

「敵ではない」

という意思を伝えるためだ。これだけで、納得してもらえたらうれしいが、駄目ならいよいよ龍門渕まで走らなくてはならないだろう。

 荷物など知らないと捨てて置けばいいのだが、それができないのがベンケイの性格だった。
 


 荷物を肩から下ろしたベンケイは今もため息を吐いている。面倒がまだまだ待っているからだ。

 もともと仕事で松常久の護衛をしていたのだ。松常久の護衛が終われば、会社に帰って書類を仕上げて帰れたはずだった。

 しかし完全にできなくなった。それどころか会社に戻れば口うるさい部下たちに説明を要求されるだろう。勘弁してほしかった。何もかも、本当に勘弁してほしい。

 しかし投げ出すようなことはなかった。ここまで時間をかけてしまったのだ。最後までやって帰ってやるとやけになっていた。

 そして部下たちの説教を上手くかわすことができたら家に帰って家族とゲームでもして遊びたいと現実逃避をはじめていた。ため息しか出てこない。

 ベンケイが追いかけようとしたとき、九台の装甲車が道を走っていった。装甲車は風の魔法で勢いをつけていた。装甲車に乗っているものたちは死に物狂いで虎城を追いかけていた。

まだあきらめていないのだ。道の邪魔にならないところで突っ立っていたベンケイになど少しも興味を持っていなかった。

 追い抜いていった九台の装甲車を見てベンケイはこういった。

「面倒なことになっているな。松常久と戦争でもやってんの?

 いまからでもこいつを運ぶのはやめようかな……でもなぁ、ここで帰ったら絶対にハギにどやされるよな。

 あいつ結構根にもつからなぁ。

 本当に厄日だわ」

 死んだ目になっていた。ただの護衛任務だったはずなのに、いつの間にか落し物を背負うことになり、オロチの被害を抑える仕事をやらされて、明らかにやる気満々の装甲車に追いかけられているディーの元にいかなくてはならない状況になっていた。

 そして会社に戻れば間違いなく事情を説明しなくてはならないという面倒がまっている。悪いことに悪いことが重なったとしか言いようがなかった。しかしそれでも落し物は返そうとしているのは、人がいいからである。

 愚痴をいくらかはいた後、ベンケイは一瞬で姿を消した。本当にベンケイがそこにいたのかも疑ってしまいそうになるほど鮮やかな移動だった。後に残ったのは踏み込まれたときにつけられたベンケイの足跡と、マグネタイトと魔力の残滓だけである。


 スポーツカーはどんどんスピードを落としていた。デジタルスピードメーターは百キロあたりをうろうろとしていた。

 運転するディーは苦しそうに顔をゆがめていた。ディーはスポーツカーの結界が壊れたとしても逃げ切ることを選んだが、スポーツカーが応えられそうにないのである。

 ベンケイのハンドサインから敵ではないとわかったのは幸いだったがそれ以降がまずかった。いくら踏み込んでも上手くスポーツカーが反応しなくなっていたのだ。このおかしさがどうしておきているのかディーは察している。

 スポーツカーのフロントガラスのひび割れから、結界が壊れ始めたことで、マグネタイトの流れも乱れ始めているのだ。マグネタイトがスポーツカーのエネルギーなのだから、乱れていると非常にまずい。

エネルギーのない車は自力では動けないものだが、スポーツカーもこの宿命を負っていた。

 当然のように常識はずれの勢いを出すこともできない。壊れ始めているというのはわかっていたが、ここまで早く壊れるとは思っていなかった。アクセルを踏めば踏むだけ、マグネタイトが無駄に消費されていくのがわかるのだ。

車が壊れるのが先かディーのマグネタイトが切れるのが先かという状況になってしまっていた。

 どちらにしてもジリ貧だった。京太郎と虎城を無事に連れ帰ると心に決めているディーにとってはよくない状態である。

 そして、今までにないくらいディーは周囲を確認していた。目をきょろきょろとさせて、道というよりも世界全体を把握しようと努めている。

 というのも頭に引っかかっていることがあるのだ。気になっているのは視界に徐々に増えている山がぴたりと動くのをやめたことである。蒸気機関と道の世界に現れていた巨大な山はオロチの仕業であるというのがディーの予想である。

そして巨大な山を持って進路を操作して京太郎を帰さないようにしているのだろうというのもディーは予想していた。なぜなら、すでに何度か体験したことであったからだ。

 しかしここに来て、まったく動きがなくなっていた。視界のはるか遠くに大きな山が次々と現れたときには、自分たちは山に取り囲まれるのかと思ったのだが、それからまったく動きがない。

ベンケイとすれ違ってからというものまったく何もないのだ。これはおかしかった。京太郎へのオロチの執着振りからするとあきらめるようには思えなかった。もちろん、ヤタガラスがマグネタイトを制限して無駄な動きを取れないようにしたとも考えられるが、安心できなかった。


そんなときだ。背後から追いかけてくる装甲車たちに追いつかれた。ついに、そのときが来たのだ。

 助手席の京太郎は装甲車を認めると、すぐにデリンジャーを構えた。集中力が高まると、京太郎の目が赤く輝き始めた。そして集中力が高まると同じくして京太郎の目から血涙が流れ出してきたのだった。

 京太郎は追いつかれることを良しとはしない。スポーツカーの状況が篭城に耐えられるものではないと運転席のディーの様子からわかっている。ならば、追いつかれる前に、いくらかを始末しなければならないだろう。できるのならば全てつぶすのもいい。だからデリンジャーに手を伸ばしたのだ。

 しかし京太郎は攻撃を行えなかった。京太郎が助手席から身を乗り出そうとしたとき、スポーツカーが急停止したのだ。理由は簡単だ。道がなくなったからである。

今まで龍門渕に向かって道が続いていたのに、今はもうない。目の前には大きな壁がある。左右を見ても壁である。そして、恐るべきことがおきていた。というのが、空にも壁が出来上がっていたのである。

 しかもこの壁たちは非常におかしかった。透明なのだ。ガラスのようにではなく、カメレオンの肌のようにである。壁に、景色が出来上がりうごめいていた。壁に気がつけたのは、至近距離まで近づいて壁の変化を読み取れたからだ。

 しかしディーの感覚でも壁に気がつくのは衝突ぎりぎりだった。もう少し判断が遅れていたら壁にぶつかっていただろう。

 当然帰り道はない。松常久の装甲車と大きな壁でふさがれている。四方八方、完全に壁で閉じ込められていた。

 この状況で、ディーがこういった。

「悪い夢を見ているようだ。オロチめ、やりやがった。腹の中に追い込まれた! ここまで須賀ちゃんに執着してんのか!」

 ディーはすっかり理解していた。というのがこのオロチの世界とはオロチそのものである。空も地面も空気さえオロチのものである。そんなオロチが京太郎をほしがったのだ。世界をわずかに改変するくらいはたやすい。

 ほんの少し道を操作して、ほんの少しだけ松常久たちのすすむ道を操作する。そして、獲物を蛇の腹の中に追い込んでいけばいい。たとえマグネタイトを制限されていたとしても、この程度なら蓄えてあるマグネタイトで問題なく行えるのだ。

 視界にポツポツと現れていた大きな山たちは、この仕掛けのための引っかけ。意識を前回、前々回の繰り返しだと思わせるための引っ掛けである。

ディーの感じていたいやな気持ちはこのわざとらしさに気がつきはじめていたからなのだ。

「前に岩を使い道を操作したのだから、今回もそうだろう。今回は規模が大きくなっているけれどもきっと考えていることは同じだろう」

 そういう考えをオロチは見抜き罠にかけた。

 あまりにも大きな流れは、つかみにくいものだ。小さな目では見えないものもある。釈迦の手のひらで喜んでいたサルの気持ちが、ディーは痛いほど理解できた。

 オロチの腹の中、完全に停止したスポーツカーは装甲車に囲まれてしまった。九台の装甲車がスポーツカーを囲む。引き返すことはできない。装甲車に乗っている者たちの狙いはたった一つ。破滅の芽を摘むこと。

破滅の芽とは虎城の命、そして京太郎とディーの命である。自分たちの未来のために証拠を消すのだ。

 また、命を狙う松常久たち以上に恐ろしいことがおき始めていた。装甲車とスポーツカーのある場所が、徐々に沈み始めたのである。装甲車とスポーツカーのある場所というのはオロチの腹の中である。

四方八方がカメレオンのように肌の色を変える壁に囲まれた場所である。この場所が音もなく沈み始めていた。オロチは強硬手段に打って出ていた。

「帰さない」

 オロチの思うところはこれだけだ。捕まえたのなら、後は隠すだけ。誰にも見つけられない真っ暗闇の中に京太郎を連れて行くつもりなのだ。邪魔者がついてきているけれどもそれでもかまわなかった。まずは帰さないこと、これが一番だったのだ。
  

 オロチの腹の中。道はもうない。ここが終点だ。

 装甲車の中から松 常久が姿を現した。松常久は汗でびしょびしょになっていた。また、ゆがんだ笑顔浮かべている。よほどつらいことでもあったのだろう、初老の男性という風貌だったのだが、今はもう老人に見えた。

松常久の視線はスポーツカーの中にいる虎城に向かっていた。現在の異常な状況、かなり広い範囲が徐々に奈落に沈んでいるのにまったくそのことに気を回していなかった。

 松常久はやっと自分の願いが達せられると信じている。目の前の虎城に集中しきっているのだ。

 だから、装甲車から降りてきた。

「始末されたくない」

この気持ちだけで頭がいっぱいなのだ。

 松常久にしてみれば、間違いなく後一歩なのだ。後一歩で京太郎も始末できる。虎城も始末できる。ディーも始末できる。武力でどうにかできるかはわからないが、手が届くところに獲物がいる。

そしてやり遂げられたのならば、ライドウの魔の手から逃れることができる。そう信じている。そう信じているから装甲車から何も考えずに降りてきた。

 無防備に装甲車から降りてきた松常久を見て京太郎がこういった。

「ずいぶん、余裕がありますね。撃ちましょうか?」

 実に剣呑なセリフだった。しかしまったくふざけている様子がない。京太郎の正直な気持ちが現れていた。

 それはそのはず、ここで何の護衛もつけずに一人で行動しているのだ。始末されても文句は言わないだろう。

 松常久を裁判にかけたいわけでもなければ、世間に公表したいなどとも京太郎は思っていない。目の前に自分の命を狙う人間がいるというだけの話で、そういう場合に京太郎が考える方法というのは、穏便ではない方法である。

 都合がいいことでオロチの世界なら大きなごみを作っても騒ぎにならない。ヤタガラスの構成員を害し、虎城を消そうとしている相手に温情などわくわけもなかった。

 京太郎の剣呑なセリフを聞いたディーがこういった。

「それもいいかも知れないな」

 ディーは軽く返事をしていた。しかし、口調とは裏腹にいよいよ困っていた。スポーツカーの結界があと少しで壊れてしまいそうだったからだ。結界が壊れること自体は問題ないのだ。壊れたところでスポーツカーは一般的な車と同じ速度でなら動く。

 問題は封じ込めているものである。この封じ込めている荷物が外に漏れ出してきたとき、ディーはかなりがんばって制御しなくてはならなくなる。その隙をオロチに狙われたとしたら、京太郎を失うことになる。

ならば、制御せずにいればいいということにもなるが、制御しなければ、発狂するものが出る。虎城だ。

 強い力を持つというのは結構なことである。素晴らしいことだ。すさまじい身体能力、自然界の力を自在に操れる魔法。どれもが夢のようである。しかし弱いものたちからすると恐ろしいばかりであることが非常に多い。

拳銃だとかナイフのような凶器を目の前にちらつかされると誰でもおびえると思うのだが、それである。これはもう本能的なものだ。生きるための本能だ。

 特に悪魔の力というのは強くなればなるほど弱いものを叩きのめしてしまう。オロチの眼光、気配のようなものだけで虎城が震え上がっていたのだがあれをひどくすると命が吹っ飛ぶ。

京太郎も無意識にだが、やってしまっている。気を抜いていた京太郎を見た麻雀部の部員たちが近寄れなかったことがあるが、これも強くなってしまった副作用だ。

 ディーも上級悪魔相当の力を持っている。その力はすさまじいが、弱いものに配慮できる力ではない。存在しているだけで弱いものを殺してしまう力である。

 京太郎は問題ないだろう。オロチの前に出て、普通に振舞っていた。しかし、虎城が耐えられるかわからないのだ。オロチの触角を見て震え上がっていた虎城であるから、おそらくだめだろうなというのがディーの思うところだった。

それでどうにもならなくなりつつある状況にあせっていた。ディーは京太郎も虎城もつれて帰りたいのだ。


 京太郎が攻撃を始めようとしたときである。京太郎は眉間にしわを寄せた。妙にいやな気配がし始めたからだ。そして、妙にいやな気配が松常久から漂っているのに京太郎は気がついた。

 そしていやな気配を感じてすぐ京太郎は鼻を手で覆った。耐えられない悪臭を感じたのである。この悪臭について京太郎はさっぱ原因がわからなかった。

 どうして悪臭がするのかという疑問に状況は待ってくれない。状況はどんどん変わっていく。

 装甲車の中からぞろぞろと黒服たちが現れてきた。黒服たちは松常久の周囲を守るように陣を組み始めた。黒服たちもやる気に満ちていた。スポーツカーの中にいるものたちを全滅させることができれば、もしかするとヤタガラスの追跡を受けなくてすむかもしれないのだ。

 何せここはオロチの世界。何が起きても現世には届かない。そして、ここで虎城たちを完全に始末して自分たちの都合のいい話をヤタガラスに届けることができれば、結末は変わるだろう。

普通ならハギヨシに連絡を取られた以上詰んだのと同じである。内偵を進めていた十四代目に連絡を取られたらそれで終わりである。

 しかしハギヨシには傷がある。六年前にヤタガラスの決定に反逆したという傷だ。その傷があるからこそ、簡単にヤタガラスはハギヨシの情報を信じない。それどころか疑うだろう。

「かつてヤタガラスの決定を良しとせず、ヤタガラスの利益となる九頭竜を始末した次期ライドウ候補。

 もしかすると今回も同じなのではないか。準幹部の松常久を追い込むために嘘をついたのではないか。さらなるヤタガラスの権力を狙って」と。

 松常久と黒服たちはその可能性にかけているのだ。ヤタガラスの幹部たちとハギヨシの確執は大きかった。
 
 京太郎とディーの話を聞いていた虎城は震えていた。とても普通とはいえない顔色だった。

血の気が引き、涙があふれそうになっていた。

 虎城は恐れているのだ。殺されてしまうことを恐れている。自分がではなく、京太郎とディーが殺されてしまうという可能性を頭に浮かべてしまったのだ。

それがとんでもなく恐ろしかった。自分ひとりが死ぬのならばまだいい。そういう覚悟でここまで来ている。氷詰めになっても立ち向かったのは強い覚悟があったからだ。その覚悟はまだ折れていない。

 しかし、京太郎とディーを巻き込んでしまう覚悟はなかった。

「二人がここで死んでしまうかもしれない」

 もしかしたらあるかもしれない。スポーツカーの調子が悪く、京太郎も本調子ではない。あるかもしれないだろう。可能性はゼロではない。そう考えてしまうと、いやな気持ちになってくる。

 冷静な虎城もいるのだ。泣き出してしまいそうなほど弱っている虎城を励ましている。

「今までの京太郎とディーの活躍を忘れたか? オロチを相手にして戦える存在だ。この二人がいてくれれば、きっとお前は無事にやり遂げられるだろう。安心していればいい」

 しかし心が弱っていて悪いほうに考えが転がるのだ。そしてついに彼女の心は悪い予感でつぶれかけていた。

 タイミングがずれて銃撃を行えなかった京太郎とディーがどうしたものかと頭を悩ませていると、京太郎たちを取り囲んだ松常久と黒服たち、その中の一人が大きな声でこういった。

「ヤタガラスを裏切った構成員の身柄を渡してもらおう! われわれには事件の証拠がある!」

 これで虎城が引き渡されるのならばラッキーくらいの気持ちで黒服はハッタリをかけていた。というのも証拠がないと知っているからだ。

 内偵を行っていたヤタガラスが襲撃された事件はヤタガラスの内部でおきた事件である。世間に公になっていない事件だ。内偵のサマナーも虎城の班員たちも何について動いていたのかヤタガラスの内部でも知っているものはほとんどいない。

 それこそ知っているのは命令を出したライドウくらいのものである。それに襲撃の現場はきっちりと処分している。証拠らしい証拠というのはまったくない。

 虎城から事件のあらましを聞いているだろうが、それも証拠があるわけではない。虎城が勝手に話をしているだけで嘘かもしれないのだ。当事者に深く読心術をかけるまでははっきりしない。

グレーのままだ。だから、虎城を連れて逃げたものたちが、そのあたりに疑いを持っているのならば、この揺さぶりで引き渡してくれるのではないかと試したのだった。


 揺さぶってきた黒服を無視してスポーツカーの助手席で京太郎がこういった。

「一応確認なんですけど、サマナーの世界で物証って証拠になるんですか? あの黒服さんは証拠があるといってますけど。

 悪魔の力を使えば、アリバイでも何でも作れますよね?
 
 俺でも思いつきますもん、密室殺人とかやり放題」

 京太郎は黒服たちを冷たい目で見つめていた。まったく取り合うつもりがないのだ。そして当たりまえだが虎城を引き渡すつもりもない。

 万が一、虎城が裏切り者であったとしても龍門渕に自分たちが連れて行けばいいだけのことだ。いちいち引き渡す理由がない。ハギヨシに引き渡せばそれでおしまいだ。松常久たちにあえて引き渡す理由がない。黒服の呼びかけなど、ゆさぶりにすらなっていなかった。

 呆れ顔の京太郎の質問を受けたディーは少し間を置いて答えた。

「ならないね。たとえ殺人の瞬間が映っている映像があったとしても疑ってかかるべきだ。

 物証だとか、映像なんて楽勝で偽造できる。悪魔の中には手先の器用なものから、姿を変える技術を持つものまでバリエーション豊富でね、まともな裁判は期待できないよ。

 だからこそのヤタガラス、だからこそのサイコメトリー、読心術だったりするわけだけど。

 ヤタガラスのまともな構成員は、こんな交渉の前にほいほいうなずくことはない。複数の幹部立会いの下で、読心術をかけて真偽を問う。これだろうな、やるのならば」

 ディーも少しあきれていた。悪魔たちの技術を持ってすれば、証拠などいくらでも偽造できる。それこそアリバイ工作などお手の物だ。別人そっくりに変化するなど簡単すぎる技だ。

朝飯前にやるものなど星の数ほどいる。凶器が見つかったとか、指紋が出たとか、そういうありきたりな証拠はサマナーたちの証拠にならないのだ。

 京太郎とディーが話をしていると、痺れを切らした黒服の一人が車に近寄ってきた。ずいぶん怒っているらしく真っ赤になっている。この黒服は自分たちが脅せば、どうにかなると思っていたのだ。

 緊張が彼をおかしくさせている。ヤタガラスに狙われるかもしれない。十四代目に追い込まれるかもしれない。その緊張のために、頭がいまいち上手く動かなくなっている。

そしてオロチの世界がうねり非常に苦労したことで参っているのだ。だから自分たちの言いなりにならない京太郎とディーを見て怒った。まだ、苦労をかけるつもりなのかと怒ったのだ。そして一人で近づいていくなどと無謀なことをやった。

 不用意に近づいてくる黒服を見て、京太郎がこういった。

「どうしましょう」

 ディーに指示をあおいだ京太郎の目が真っ赤に輝き始めた。口元がゆがんでいる。どうするのかといって京太郎は聞いていた。しかし京太郎の選択肢はとっくに決まっている。

自分からのこのこやってきた黒服に対して京太郎の選択肢はたった一つにしかない。群れから離れた羊は狩られるのが運命。黒服もすぐにそうなるだろう。京太郎は、黒服を刈るつもりだ。
 
 明らかに一戦交えるつもりの京太郎に、運転席のディーは答えた。

「やるしかないだろうな。車の結界が壊れかけている状態では篭城は難しいし。

 俺も本気でやるよ。加減はしない。

 後、ひとつ注意なんだけど、もしも車の結界がぶっ壊れたら俺を見ないでくれ。壊れたらすぐにわかるから、そのときは俺の姿を見ないでほしい。

できるなら目を閉じていてほしい。須賀ちゃんはたぶん大丈夫だろうけど、虎城さんはやばいと思うから」

 運転席に座っているディーは実にいやそうにしていた。両手の人差し指を使ってハンドルを太鼓を叩くようにこつこつとやっている。

 ディーは目の前の面倒ごとと、京太郎を帰したくないオロチという問題に頭が痛くなっているのだ。それに加えて、スポーツカーの結界も壊れかけている。心労はどんどんたまっていくばかりである。

しかしスポーツカーがいよいよ動かなくなれば、虎城と京太郎をつれて帰れなくなる可能性が高くなるわけで、それはどうしても避けたかった。ならば、戦うしかあるまい。

 松常久と黒服たちを始末するとディーが決定を下すとすぐ、京太郎は動き出していた。京太郎の気力が高まっていく。同時に輝く真っ赤な目から血涙が流れ始めた。ほんの少しだけ頭痛もする。
 
 しかしそれでも京太郎はシートベルトをはずして、外に出て行こうと動いていた。自分たちを襲おうとしているものが、目の前にいるのだ。黒服たち、松常久、装甲車が九台。ずっと自分たちを追いかけてきていた面倒くさいやつらである。

やっとその面倒にけりをつけることができるのだ。高ぶるだろう。

 京太郎においていかれないようにディーもまた動き出していた。さっさとシートベルトをはずして、運転席から降りていこうとしている。ディーも決着を望んでいるのだ。問題は少ないほうがいい。

今このときに裏切り者を始末できるというのならば、やってしまおう。真実は後で明らかにすればいい。松常久が生きていなくとも、虎城一人いれば決着はつく。決めてしまえば、後は動くだけだ。

戦わずに逃げ切るのが一番で、二番目が篭城するという方法だった。しかし、オロチが邪魔をしてどれもできなかった。ならば、最後の手段をとるだけだ。力で押し通る。被害も気にせずに暴れてしまえばいい。

 特に、配慮して手加減をしていたオロチが帰還の邪魔をしているのだ。

 ディーは思う。

「かまわないだろう。少しくらい削っても」

 車の外に出て行こうとする京太郎とディーに虎城がこういった。

「ごめんなさい。巻き込んで、本当にごめんなさい」

 鼻声になっていた。振り向かなかったけれど、泣いているのだろうと京太郎は察した。

 虎城は、ずいぶん悪い方向に考えてしまっている。体力の低下が悪いように考えさせてしまっているのだ。そして、悲観的なものの見方をしてしまう。戦いに向かわせているのは自分のせいだとか、京太郎とディーが死んでしまうのではないかだとか、考えてしまう。そして、自分を責める。

 悪いのは虎城ではない。悪いのは裏切り者の松常久だ。追い回したのも松常久である。数にものを言わせて脅しているのも松常久。虎城ではない。しかし、虎城の気持ちは違ったのだ。この状況がすべて自分に責任があると思ってしまった。

そして無関係だったはずの京太郎とディーを悪い運命に引き入れたと思い、泣いてしまった。

 ズビズビと鼻をすすっている虎城の謝罪からほんの少しだけ間を空けて京太郎はこういった。

「気にしないでください。俺、戦うの好きみたいですから」

 京太郎は笑っていた。しかし京太郎は近寄ってこようとする黒服から目線をきっていない。これから一戦交えるのだ。修羅場だ。間違いなくどちらかの命が消えるだろう。しかし笑っていた。楽しそうだった。表情に曇りはない。

京太郎の言葉に嘘はない。意地を張っているのでもない。京太郎はしっかりと理解できている。自分というのは戦いが好きな人間なのだと。むちゃくちゃに強い存在と戦うときに、充実していると感じてしまう駄目な人間なのだと、わかっている。

 このドライブではっきりわかったのだ。オロチとのやり取りが楽しかった。一瞬の出来事だったが自分を偽れないほど充実していた。思い出すだけで胸が熱くなるほど、良い経験をオロチにはさせてもらった。

 だから泣く必要などないと京太郎は笑うのだ。自分が選んだ道だ。虎城が悲しむ必要などどこにもない。いっそ、損得を理解できない馬鹿だと笑ってくれてもいいくらいだった。

 虎城に応えると京太郎は車から出て行った。もう、少しも笑っていない。ただ、虎城が混沌と評する輝く赤い目を、松常久と黒服たちに向けていた。

 虎城が見たときよりもずっと、恐ろしい輝きを赤い目は放っていた。始末してやると意気込んでいた松常久と黒服たちが一歩引くほどの迫力があった。修羅場に向かう京太郎の気力は今までにないほど高まっていた。

 しかし京太郎は気がついていない。京太郎の足を進ませているのは戦いの喜びではない。怒りだ。

 目の前の松常久と、黒服たちを倒す。

 京太郎が車から降りてすぐ、ディーが後を追った。京太郎一人に任せるわけにはいかないからだ。目の前にいる松常久と黒服たちは確かに邪魔だ。しかしそれよりも面倒くさいやつが、京太郎を狙っているのをディーは知っている。

オロチの世界そのものが京太郎に執着している。このオロチの腹の中とでも言える空間に追い込んできたというのならば、ここで仕掛けてくるに違いない。
  
 ディーはオロチに対応するつもりなのだ。京太郎を一人になどしない。現在マグネタイトを制限されているとしても蓄えているマグネタイトは無尽蔵ともいえる葦原中つ国の塞の神「オロチ」と戦うのだ。

ここはディーにとっても修羅場だった。


 スポーツカーから降りた京太郎と黒服が向かい合っていた。京太郎の前に立つ黒服は、完全に逃げ腰になっている。それもそのはず京太郎の様子というのはあまりにも恐ろしかった。輝く赤い目もそうだが、ほほを伝う血涙がよくない。

そしてぴりぴりとした空気は、京太郎が口を開くまでもなく何をしようとしているのか、わかりやすく教えてくれていた。

 「殺してやる。神にでも悪魔にでも好きなように祈れ、悪党ども」

 そんなわかりやすい京太郎だったから、京太郎の前に立った黒服は、逃げ腰になったのだった。相手は人数が少なく、力も弱い。そんな勝手な思い込みがあった。スポーツカーは逃げ回るだけだったからだ。しかし完全に崩れた。

 これからどういう結末が待っているのか、戦う前にわかってしまう。集団では勝利できるかもしれない。しかし一人先走った自分はどうなる。考えなくともわかる。だから逃げたくなる。

 しかし勇気を振り絞って京太郎に黒服はこういった。

「私たちが求めているのは車の中にいる女だけだ。お前たちはおとなしくここから消えろ」

 精一杯声を張り上げていた。大きな声だったのでよく聞き取れた。京太郎の目をしっかり見て、京太郎と戦わなくていい方法を一生懸命に考えていた。考えた結果が、虎城を引き渡すことでここは見逃してやろうという数の優位を背景にしたはったりだった。

 京太郎は威圧しているだけで戦いたくないのではないかと予想したのである。数で劣っているのは間違いないのだから、相手も戦いたくないのではないか、おびえているのではないかと考えて話を切り出したのだ。

 ぱっと見の戦力は黒服たちが多いのだから、間違いではない。これはなかなかいい線をいっていた。何せサマナーの数だけなら圧倒的に黒服有利である。悪魔たちを呼び出せば、あっという間に取り囲むことができる。持久戦に持ち込めば、京太郎をたおせるかもしれない。

 普通の相手なら、これで折れるはずだ。つまり目の前の黒服を一人たおしても、まだほかのサマナーがいる。持久戦になる。だから

「持久戦になれば、お前たちはスナミナ切れをおこして終わりだ。死にたくないだろう。だからおとなしく女を渡せ。そうすれば見逃してやろう」

とそういう理屈である。


 黒服の提案を京太郎は蹴った。

「お断りします。構成員襲撃事件の真相を明らかにするというのならば、このような場所ではなく第三者を立ち合わせた場所で行うのが道理でしょう。

 たとえあなたたちに正義があったとしても受け入れられない要求です。それにあなたたちは自分たちが白である証拠をまったく示していない。

この状況ではあなたたちもヤタガラスの女性構成員もグレーだ。

 あなた方は冷静になるべきだ」

 輝く赤い目から滴り落ちてくる血涙をぬぐいながら京太郎は話をしていた。手についた血涙を軽く手を振って散らしている。

交渉をしようという態度ではない。口調こそ丁寧で、理屈も通っていたが、わかりやすい方法で決めようという気持ちが透けて見えていた。それは京太郎と交渉している黒服にも、背後の黒服たちにもすぐにわかった。

 京太郎が提案を蹴ると交渉に当たっている黒服が笑った。

「ヤタガラスに喧嘩を売るつもりか小僧?」

 なんとも複雑な笑顔だった。自分たちが数の上では優勢であるという自信から来る余裕。これに理屈がわかった上で戦いを選ぼうとしている京太郎の愚かさを笑う気持ち。

ここまでだけならにこやかな表情なのだが、ここに死の恐怖を加えるといびつな笑顔になる。

 普通なら虎城を渡すのが賢いやり方だろう。何せ、追い込んでいるのが黒服たちなのだから、数の暴力で押し通せるはず。しかし、輝く赤い目の京太郎はやるつもりだ。

その結果どのような被害が出たとしてもかまわないと京太郎が全身から発しているぴりぴりとした空気が教えてくれている。
 
 となると、最終的に松常久の陣営がこの修羅場で勝利できたとしても交渉に当たっている人物は、どうなる。おそらく、いの一番で、殺されるだろう。笑ってはいたけれども、黒服は泣きたかった。できるならさっさと引っ込んでしまいたかった。

 ヤタガラスに喧嘩を売るのかという一言の後、あごに手を当てて考えた後で、京太郎が答えた。

「一応俺も、ヤタガラスの構成員なんですけど見えませんか?」

 自分の着ているジャンパーを京太郎は指でつまんだ。ずいぶんぼろぼろになっているけれども、間違いなくヤタガラスのジャンパーである。

 京太郎の交渉をまともにやるつもりがない姿勢を見ていよいよ黒服が告げた。

「ふん! 交渉決裂だな。どうやら戦力もまともに測れないらしい。おとなしく女を渡せば、死ぬこともなかっただろうに」

 そして交渉決裂を告げた黒服は、右手を上げた。背後にいる黒服たちに戦いを始めろという合図だ。そして右手を上げた交渉に当たっていた黒服は一気に後ろに飛んでいた。バックステップである。

戦いが始まれば自分が一番に狙われると黒服はわかっていたのだ。幸い戦いのタイミングは黒服が選べたので、右手を上げはじめたときにはすでに後ろに飛んでいた。非常いい逃げっぷりだった。


 交渉していたの黒服の合図を受けたサマナーたちが動き始めた。四十人のサマナーが一気に大量の仲魔を呼び始めた。どのサマナーも機械に頼った召喚を行っていた。管を使うものは一人もいなかった。

何せ管での召喚など時代遅れもはなはだしいのだから、使うものは非常に少ない。今はコンピューターの時代だ。これを使えば、大魔術と呼ばれる儀式でも、難しい契約も簡単に結べるのだ。

誰が命がけの修行などするものか。たとえ修行したとしても使える悪魔は一つか二つ。極めてみても十がいいところ。

 割に合わない努力などナンセンス。安心で安全。そして完璧なコンピュータこそ新時代の道具と信じていた。

 しかし、召喚に失敗するものもいた。召喚に失敗したどころか、うめき声を上げている。理由は簡単である。邪魔が入ったからだ。

邪魔をしたのは京太郎である。召喚しようとしていたサマナーに向けて人を投げ込んだのだ。人とは京太郎と交渉していた黒服である。バックステップを使い、距離を離そうとしていたところを、そのままつかまれて投げられた。バックステップが遅すぎたのだ。

 そしてそのまま召喚しようとしていたサマナーたちに向けて京太郎が投げつけた。そしてぶつかったサマナーと投げられた黒服が動かなくなった。まだ呼吸はしている。しかしまともに動きだすには時間が必要だろう。投げられた衝撃で体がしびれてしまっているのだ。

 何体か仲魔が呼び出されたところで、京太郎が集中し始めた。黒服を思い切り投げ飛ばしてから、一秒とたっていなかった。しかしこれでもまだ、京太郎は自分が遅いと考えていた。

音速のステージを体験した京太郎にとって、今の自分の動きはあまりにも遅かった。そして自分の相手をする黒服たちの動きは論ずるに値しないものであった。

 その遅すぎる連中を尻目に集中を始めた京太郎の目から、だらだらと血涙が流れ出していた。神経がささくれ始めていた。目の奥が痛む。

 京太郎の二つの目がいっそう赤く輝いたとき、オロチの腹の中で稲妻が炸裂した。京太郎が使えるただひとつの魔法。

「ジオダイン」

である。


 松常久と黒服たちに向けて打ち出された稲妻は、何の手加減もなくオロチの腹の中を駆け抜けていった。その威力、範囲、迫力ともにすさまじかった。

二十メートルほどある道を丸々飲み込む一本の稲妻。進路上にある装甲車のほとんどは蒸発してしまっている。かろうじて残った装甲車は別の装甲車が盾になっていたためにかろうじて生きのこったものだ。生き残っただけで動くかどうかは怪しい有様であった。

 稲妻はそのまま走っていった。そしてオロチが作り出した壁のひとつに思い切りぶち当たり、ヒビを入れた。とんでもない貫通力、そして範囲攻撃だった。事実、ジオダインという稲妻の魔法を見たことがあるディーが

「ジオダインなのか?」

と疑うような威力であった。

 まったく迷うこともなくジオダインを撃ち込んだのは、サマナーたちが機械を使っていたからである。ジオダインのみでサマナーたちがたおせるとは考えていない。きっとまだ立ち上がってくると京太郎は思っている。本当に命を奪うのならば、自分の手で取りにいったほうが確実である。

しかし、あえて稲妻を放った。

 それは、邪魔をされるのがいやだったからだ。邪魔とは悪魔を呼ばれることである。数の暴力で襲ってくるのはすでにわかっている。そして自分にスタミナがないことも京太郎は理解できている。ならば、まず仲魔を呼ばせないように動くのが正解だろう。

 すでにサマナーたちが機械に頼って悪魔を呼び出しているというのは話に聞いているし、実際に龍門渕で体験している。ということは、悪魔たちを始末するよりも、機械を始末したほうがずっと早い。幸い、京太郎には機械に対して優位に立てる属性の魔法がある。

 ただ、自分の稲妻の威力に京太郎も驚いていた。何度か稲妻の魔法を使ったことがあるのだけれども、万全とはいいがたい状況で使うことばかりだったからだ。

前回使ったときはほとんど死に掛けの状態だった。何度も意識を失った後で調子も悪かった。魔力もほとんどからだった。しかし今は違う。魔力はそこそこある。体力もいくらか残っている。マグネタイトも二割は残っている。余裕があるのだ。前回とは少し違う。

ただ、余裕を残して本気の稲妻を打ち込むのは初めてだった。そもそも気軽に発動できる呪文のタイプではない。実験などできるわけもなくぶっつけ本番だった。そして、やってみて、驚いたのだった。

 何にしても、これで黒服のサマナーたちは機械に頼った召喚ができなくなった。電気に対しての対策はもちろんしているだろう。しかし、京太郎が集中に集中を重ねたジオダインは精密機械を狂わすには十分すぎる威力があった。精密だからこそ、壊れやすいという弱点が前に出たのだ。

 しかし、召喚できないという戦況の変化以上に、京太郎の稲妻はもっとシンプルな結末を予感させる。

 戦いの終わりだ。なにせ装甲車の半分以上が蒸発し、魔法の射線上にいたサマナーたちをほとんど黒焦げにしたのだ。形が残っているだけ流石ヤタガラスのサマナーという感じである。動けているものもいるけれど、戦える状況ではなかった。

 この状況でもなおディーは緊張を保っていた。ディーが恐れているのは戦力を測れない松常久と黒服たちではないのだ。オロチである。オロチの触覚の出現を恐れているのだ。


 しかしディーが恐れるオロチよりも先に表れたものがいた。ベンケイだ。大きな木箱を肩に担いでベンケイは京太郎とディーの前に現れた。京太郎とディーから三メートルほど離れたところに、当たり前のようにたっていたのだ。それも京太郎とディーが気がつかないうちに。

黒焦げになったサマナーたちとぼろぼろになった装甲車を冷静にベンケイは眺めていた。そしてベンケイは京太郎にこういった。

「戦いを少し覗かせてもらった。特殊な体質を省いても、いい素質を持っている。状況の判断から、行動までが非常に早い。肉体操作のセンスもいい。

鍛えれば間違いなくいい退魔士になる」

 ここまで話をして、ベンケイは大きな木箱を地面に下ろした。そして、このように続けた。

「しかし、退魔士になるのはやめておいたほうがいい。君は長生きできないタイプだ」

 ベンケイは京太郎の目をじっと見つめていた。輝く赤い目からは、血涙が流れ続けていた。ベンケイはそんな京太郎を少しも恐れていない。それどころか、哀れなものを見るような目で見つめていた。

 戦いから身を引けというベンケイを前にして京太郎が一歩引いた。そしてすぐにオロチの触覚と音速のステージで戦ったときと同じように構えを取った。すぐに動ける姿勢だ。全身から汗が噴出していた。

 口元はしっかりと結ばれていて、真剣そのものだった。しかし怒っているのではない。ベンケイの話している内容が理解できないということでもない。一応は頭の中に入ってきている。問題なのはベンケイに声をかけられるまでまったく気がつかなかったことだ。

目で追うとか、気配を感じるということが少しもなかった。

 それが恐ろしかった。オロチという規格外の悪魔と比べてもベンケイという存在のほうが恐ろしかった。しかしそれでも体が反応してしまうのだ。

体が、あきらめてくれていない。謝りへりくだるとか、命乞いをするなどという発想が出てこない。賢くないにもほどがある。この自分の馬鹿さもまた恐ろしかった。

 戦いの姿勢を作った京太郎を見て、ベンケイが話しかけてきた。自然体だった。まったく緊張の色がない。

「その勇気が命取りになる。自分でもわかるよな? 自分の性格を。

 勝てそうにない相手が現れたとしても抗う姿勢。あきらめない気持ち。それは美徳かもしれない。あきらめないことで壁を突破できるかもしれない。

 しかし、運が悪ければ、あっさり死ぬ。そうだろ? 今、君が黒焦げにしたサマナーたちのように呆気なくやられるかもしれない。

 まだ間に合う、と思う。面倒だが師匠にも話をするし、ハギヨシにも口を利こう。

 だから、退魔士にはならないほうがいい。きっぱりとサマナー連中から離れるべきだ」

 ベンケイの声色はとても優しかった。京太郎のことを本当に心配してくれていた。京太郎の肉体的な素質、そして肉体を動かす才能。それを認めていた。そして京太郎の内面すら見抜いて理解している。

 そしてこの肉体的な才能と精神的な特性が混じったときどうなるのかという結論が、ベンケイには出せている。だから進むなと忠告するのだ。

 京太郎はきっと強くなる。才能と情熱を持ったものが、かみ合った道を行くのだ。きっととんでもないものになる。しかし、京太郎が歩こうとしているのは修羅の道だ。命を賭けて戦う道だ。それも弱いものをいたぶる道ではなく、格上を狙い戦う武人の道。

運悪くすれば、あっという間に死んでしまう。それこそベンケイのような格上とであえば、そこで終わりなのだ。よくないことだ。悲しいことだ。自分の娘と同じ年代の子供が、そんな目に会うのは心苦しくてしょうがない。だから、ベンケイはやめたほうがいいとやさしく諭すのだった。

 ベンケイに諭された京太郎は、目線を下げた。輝く赤い目が力を失っていく。京太郎はベンケイのいうことがよく理解できていた。見事に見抜かれて、痛いところをつかれていた。

 実際ベンケイの見立ては正しい。京太郎を諭すベンケイは圧倒的に格上だ。京太郎の感覚は、ではオロチの触覚よりも強いと判断している。となればここでベンケイに挑むということは、つまり死ぬということ。

 しかしわかっていても京太郎は戦う姿勢を作ってしまった。交渉のひとつでもしたほうがいいはず。または頭を下げるのもよかっただろう。そうやって戦わずにすむのなら、ずっといいだろう。

賢いというのは最後まで生き残ったもののことを言うのなら、京太郎は間違いなく馬鹿だ。自分がそういう馬鹿なのだと理解できている。だからまっすぐに見れなかった。


 大きな木箱を肩に担いでベンケイが近寄ってきた。少しも攻撃する気配が見えない。普通に歩いているだけである。そもそも落し物を渡すためだけにオロチの世界をベンケイは走り回っていたのだ。京太郎を討ち取りに来たわけではない。

 京太郎と後二メートルほどというところまで来たときに、ベンケイが後ろに飛んだ。十メートルほど一気に離れた。すばやい動きだった。しかしこの動きは京太郎にも目で追えた。ベンケイが後ろに飛んだのは、京太郎とベンケイの間に邪魔者が現れたからだ。

邪魔者はオロチの触覚である。マグネタイトが一気に集まり人の形を作り、ベンケイに殴りかかったのだ。しかしこの攻撃は空を切った。武術らしい武術をオロチの触角は身につけていない。たとえ上級悪魔であっても、ベンケイには小さな女の子が右腕を振り回しているようにしか見えなかった。

 ベンケイが京太郎からいったん距離をとったところで、オロチの触覚は両手を横に広げて、ベンケイを睨みつけた。真っ赤な目がギラギラと輝いていた。オロチの触覚が立ちふさがったのを見て、ベンケイは頭をかいた。

 両手を広げて、立ちふさがるオロチの触覚を見ていると、自分が悪いような気持ちになってくるからである。ベンケイは京太郎を害するつもりはない。ただ、荷物を届けにきたらオロチの追い込み漁に巻き込まれただけである。

それだけのだ。しかしどうも少女にしか見えないオロチに睨まれると、自分が悪者のような気分になってしまう。

 困っているベンケイそして何が起きているのかいまいちわかっていない京太郎、やはり出てきたかと構えるディー。

 男三人を尻目に京太郎を必死にオロチは守ろうとしていた。ピリピリした雰囲気のまま、両手を広げて、ベンケイを通さないようにがんばっている。鼻息が荒かった。オロチの頭の中では京太郎はすでに自分のものである。

京太郎に何度もマグネタイトをささげられた。そして京太郎のマグネタイトを気に入り姿まで見せた。今までまともに姿を見せたこともなかったのに。

 そして京太郎と遊び、京太郎自体に興味を持った。だから大盤振る舞いをして京太郎の目に、自分の祝福を与えている。相手が求め、自分が応えている。ならば、すでに京太郎は自分のものだろう。

たとえベンケイとディーが恐ろしい力を持っていたとしても宝物は渡せるわけもない。しかもせっかく追い込み漁までして追い込んだのだ、ここで返すわけにはいかなかった。

 割り込んできたオロチの触覚にベンケイが話しかけた。

「勘違いしないでほしい。別に悪いことをしようと思っているわけじゃない。ただ、落し物を渡すためにここにいるだけだ。これだよ、これ。見えるだろ? 大きな木箱がさ。こいつをわたしに来ただけだ」

 ベンケイがこのように話しかけて、担いでいた大きな木箱を地面に下ろした。そしてこつこつと拳を作って叩いて見せた。ベンケイはいきなり現れた怪しい風貌の女性をどうにかしようとは思っていないのだ。

京太郎に執着しているのはわかるが、それだけだ。ベンケイに対して何か害があるわけでもない。女性問題に首を突っ込むつもりなどベンケイにはない。それに、怪しい女性の必死な様子を見ているとどうにも戦闘意欲が萎える。

 ベンケイが話しかけるとオロチの触覚は、ほんの少しだけ両手を下げた。しかしまだ、信じきっていない。前髪に隠れた輝く赤い目が、チカチカと点滅して右を見たり左を見たりして迷っていた。言葉だけで信じられるわけもない。

自分がかばっている京太郎はとんでもなくおいしいマグネタイトを供給してくれる宝物なのだ。

 もしかしたら、嘘をついてひったくろうとしているのかもと、オロチの触覚は考えてしまう。しかしベンケイのやる気のなさは嘘ではない。だからほんの少しだけ警戒心を解いた。ただ、京太郎のすぐそばにいるディーに対しては少しも気を許していなかった。


 オロチの触覚が警戒心を薄めたのを察してベンケイが京太郎に近づいていった。地面に下ろしていた箱をもう一度肩に担いで、スタスタと歩いてくる。そしてオロチの触覚を素通りして、京太郎に箱を突き出した。そしてこういった。

「じゃあ、これ。落し物」

 京太郎に大きな木箱を突き出すベンケイは満足していた。別にベンケイがやらなければならないことではなかったけれども、最後までやりきることができたので満足したのだ。

 突き出された大きな木箱を京太郎は受け取った。特に重たいという様子はなかった。いったん両手で受け取り肩に担いだ。そのときに京太郎とベンケイの目がしっかりと合った。

 仕事は終わりだといって、ベンケイが帰ろうとした。そのときだった。京太郎はベンケイに話しかけた。

 「荷物、ありがとうございます……忠告も。

 でも俺は、馬鹿みたいで賢くなれないみたいです。すみません」

 京太郎はまっすぐベンケイを見ていた。輝く赤い目ではなく普通の京太郎の目で見ていた。まったく偽らない京太郎の気持ちである。

 京太郎の返事を聞いたベンケイは非常に困ったようで、頭をかいていた。そして、鋭い目になり、黒焦げになっている松常久と黒服だったサマナーたちを指さした。そして京太郎に忠告した。

 「あの馬鹿どもを見てくれ。君が歩く道はああいうものを相手にしなくてはならないということだ。

 とてもつらい道で、苦しいことしかないだろう。

 楽な道ではない。修行は長く終わりが見えず、いくら功績を挙げても社会的な地位が上がるわけでもない。報われる可能性は限りなく低いのに、命の危険は常に付きまとってくる。

 この道を歩いてきたからわかる。おせっかいだろうが、言わせてもらう。

 普通に生きていたほうがずっとましな人生だったと思う時が来る。退屈でも普通がよかったと思うときがくるだろう。これ以上首を突っ込むとどうやっても戻れなくなる」

 ベンケイの指差すところにはひどい有様の装甲車と黒焦げの残骸が転がっている。ベンケイは京太郎に意地悪をしたいわけではないのだ。自分自身が経験してきた修行、理不尽な命令、そして外道たちとの戦いを思い返して良かれと思いとめている。

 外道とはベンケイが指差している松常久とサマナーたちのような者たちのことだ。ベンケイは気がついている。松常久たちがまだ生きていることを。そして、まだ、京太郎とディーと車の中にいる誰かを殺してやろうとしていることに。こういうやからを相手にする以上悲しみはいつも付きまとってくる。

怒りもわくだろう。いいことなんてひとつもない。

 じっと京太郎の目を見つめていたベンケイはそれ以上言葉を続けなかった。しかめ面をして、首を横に振った。そして大きく息を吐いて力を抜いた。説得をあきらめたのだ。

 というのがまっすぐに自分を見つめる京太郎の目が、よく似ていたからである。六年前のハギヨシ。そしてハギヨシの相棒になった一般人。ディーの目である。だからわかるのだ。ベンケイははっきり理解した。京太郎は馬鹿だと。世間の理屈はわかっていてもそれでもやると決めている本物の馬鹿だと。

こういう目をした人間はどうやっても道を譲ることがないとベンケイは知っている。かつて無茶をした弟弟子とその相棒はそうだったから、きっとそうだろう。だからもう何もいわなかった。

 説得をあきらめたベンケイが立ち去るときである。いい忘れたことがあったらしく黒焦げになっているサマナーたちに向けてベンケイはこういった。

 「松常久、お前の所業はすでに十四代目に伝わっている。ヤタガラスがお前の処遇について検討しているころだろう。何をたくらんでいるかは知らないが、おとなしく縄につくんだな。全てのヤタガラスがお前の敵になった」

 そして、京太郎とディーに向かって、こういった。

「それじゃあ、帰る。ディーがいれば、どうにかなるだろ。またどこかで」

 京太郎が反応するよりも早く、ベンケイは姿を消していた。もうどこにもいない。すばやく移動したというよりも瞬間移動の類だった。ベンケイの用事はもうしっかりと済ませたのだ。

忘れ物を届けるために動いていたらいつの間にかオロチの被害で困っている人たちを助けることになり、その流れでオロチの腹の中にまで侵入することになっただけなのだ。やることを済ませたら帰るだけである。

 ベンケイが姿を消すと状況が動き出した。まず一番に動き出したのはディーだった。ディーの注意はオロチの触覚と京太郎に向かっている。ベンケイいわく死んだふりをしている松常久とその部下たちについてはそれほど注意を払っていなかった。

雑魚だと思っているからだ。上級悪魔の舞台で戦えるディーにとって、黒服たちはまったく相手にならないのだから。

 次に動いたのは、オロチの触覚である。ベンケイとディーに気を配っていたのが、ディーのみでよくなったことで、ずいぶん気を緩めていた。広げていた両手を下ろして、京太郎に振り返り、微笑を浮かべていた。

 オロチの考えることはただひとつである。自分の世界から京太郎を帰さないこと。

ディーよりも厄介な相手が消えた今、目的を達成できる可能性が非常に高くなっていた。動かないわけにはいかないのだ。生ごみのように悪いにおいがする邪魔ものが大量に腹の中にいるけれども、そんなものはどうでもよかった。

 三番目に動いたのが、京太郎だった。京太郎は特に何も考えずに、荷物をスポーツカーに運び込もうとしていた。普通なら巨大な木箱はスポーツカーには入らない。何せ後部座席がないのだから、入るわけがないのだ。

しかしディーのスポーツカーは違うのだ。結界によって不思議な空間が広がっていて、らくらく物を運べるようになっている。今は虎城が引っ込んでいるけれども、十分荷物を放り込んでいられる。

 京太郎はこの木箱の中身がクロマグロだということに察しがついている。

 そのため、運よくお使いが達成できると喜んでいた。オロチが自分を引き止めているということに気がついているけれどそれほど注意を払っていなかった。また、松常久たちが生きているという話も、ライドウに話が通じているとベンケイがいっていたので、特に追い討ちをかけるつもりはなかった。

 さて、三番目に動き出した京太郎だが、一番大きく動いたのは間違いなく京太郎だった。京太郎よりも早く動き出したオロチの触覚とディーだがにらみ合って動けなくなっていたのだ。

分身を使えないほどマグネタイトを制限されているらしく、ずいぶんいらだっていた。また、ディーも相手がどういう動きをするのかと考えているため、動きが取れなくなっていた。

 そんな中でまったく空気を読まずに京太郎が箱を抱えて動き出したのが悪かった。オロチの触覚とディーは呆気にとられて、見送ってしまった。

 京太郎が動き出して何とか反応したオロチの触覚とディーだったが、またもや反応が遅れた。二人が京太郎に視線を向けたときに、松常久とサマナーたちから気持ちの悪いマグネタイトと魔力が流れ始めたからである。この気持ちの悪いマグネタイトを感じたとき、オロチの触覚が明らかにいやな顔をした。

 とてもおいしいマグネタイトを味わった後に、ドブ臭いマグネタイトが流れ出すのだから、気分が悪くなってもしょうがないことだ。また、ディーも非常に鋭い目で、松常久たちをにらんでいた。この気分の悪いマグネタイトと魔力が、何を示しているのか察しがついたからである。

 ディーがつぶやいた。

「悪魔に堕ちたか、松常久」

 この二人の変化を気にしないで、京太郎はさっさとやることをやった。荷物をスポーツカーに運び入れてしまったのだ。

 京太郎もなんとなくいやなムードだなと感じてはいた。しかしだからどうしたという話である。松常久が悪魔に変化したところで特にどうとも思わない。相手が向かってくるというのなら、始末するだけだからだ。

 それに戦うにしても今は荷物を運び込むのが先であると、そんなのんきなことを考えていた。そんな空気を読めなかったり、読まなかったりする京太郎だったから、一足先にスポーツカーに戻り大きな木箱をスポーツカーの不思議な空間にしまいこむことができたのだった。
 
 京太郎が戻ってくるとスポーツカーの不思議な空間で虎城が大泣きしていた。どうやらずいぶん泣いたらしく目が赤くなっていた。今も泣いていてズビズビと鼻をすする音がする。

体力も、精神力も消耗しているところで京太郎が修羅の道をいっているという話を聞いたものだから、また悪い妄想をしていたのだ。自分のせいだと。

 そして大きな木箱を担いで戻ってきて不思議な空間にしまいこむ京太郎を見てほっとしてまた泣いてしまったのだった。

 荷物を積み込んだ京太郎は大泣きしている虎城を見てこういった。

「どうしたんです?」

一人で小さくなって泣いている虎城が心配だったのだ。

 京太郎の質問に虎城は行動で示した。これはかなりすばやかった。京太郎に顔を見られたと知ると、自分のかぶっていたヤタガラスのエンブレム付きの帽子を脱いで、京太郎に深くかぶせた。

思い切り深くかぶせたので帽子のつばが邪魔をして京太郎は虎城が見えなくなっていた。

つまり

「見ないで……」

ということである。鼻声過ぎて聞き取りにくかった。

 と、京太郎が虎城に帽子をかぶらされているときに、事情が悪くなり始めていた。ディーは問題ない。普通だ。問題なのはオロチの触覚である。

ひざを地面について震えていた。前髪で隠れている輝く赤い目も点滅を繰り返している。

 オロチの触覚が消耗しているのは松常久たちのせいだ。


 オロチの不調の原因である松常久たちは悪魔に変身していた。これから戦うつもりらしい。やる気満々である。雄たけびを上げて牙と爪を打ち鳴らしているものもいた。

 彼らが、悪魔に変化したときに垂れ流しになったマグネタイトがオロチの体調を悪くさせてしまっていた。食あたりに近い現象である。特にここはオロチの腹の中。しかも触覚がすぐそばにいる。普段ならば、問題ないのだ。

 しかし今はまずい。触覚が近くにあるためごまかしきれない。鼻のそばでヘドロをかがされて口に入れられたような気分である。いいにおいと味がするマグネタイトを楽しんだ後に、ヘドロだ。気分が上がってから思い切り下げられたのが余計にきつかったのだ。

 オロチの触覚が気分を悪くしている間に、どんどん戦況が変わっていった。オロチの触覚が動けなくなると、悪魔に変化した松常久が大きな声でこういった。

「計画が台無しだ! お前たちのせいで何もかもが駄目になった! 絶対に許さん。お前たちだけは絶対に許さんからな!」

 小さな男性だったはずの松常久はいまや百九十センチ程の大きさになっている。筋骨粒々で、非常に強そうである。人間のように二本足で立っているけれども、人間ではないのがすぐにわかるだろう。顔の部分が石膏像そのものだった。

男性の顔で芸術品のように美しかった。ただ、目の部分にひび割れが入っていてその部分が口のように上下に開いて声が出ていた。非常に気持ちが悪かった。

 しかも生きているかのように動くのだから余計に気持ちが悪い。

 この変化こそ松常久の秘策である。この姿になれば、どんな修羅場でも越えられると信じていた。そして台無しになってしまった全てに対して償いを要求しているのだ。

償わせる相手はディーと京太郎と虎城だ。ひどい目にあわせなければ怒りがおさまりそうになかった。

 松常久の部下たちも悪魔に変化していた。いろいろな姿があった。ライオンのような四足獣に変化するものもいれば、鳥のようになるものもいて、非常にバリエーション豊富である。ただ、共通しているのは、彼らがみな殺意でみなぎっているというところである。

特に、京太郎を見る目はひどかった。稲妻で殺されかけたのを覚えているのだ。

 非常な修羅場が始まる、そう思われたときスポーツカーから離れて自分から京太郎は修羅場に赴いていった。

 虎城からかぶらされたヤタガラスのエンブレム付きの帽子を深くかぶっているために見えにくくなっているが、輝く赤い目がまたもや復活していた。輝く赤い目には激しい怒りが宿っていた。それも今までにないほどのわかりやすい怒りだった。

 虎城のこともあるが、京太郎は気がついてしまったのだ。

 悪魔に変化した松常久の体におかしなところがあるのに気がついたのである。京太郎が注目したのは松常久の腹の部分だ。人間のものとは違う、マグネタイトで補強された彫刻のような胴体。

その腹の部分に人形のようなものが五体、張り付いている。人形は手のひらサイズで、細かい飾りはついていない。人らしいシルエットをしているだけだ。それがほとんど松常久の腹に埋め込まれている形であった。

 京太郎はこの奇妙な人形を見たことがあった。

「あの人形はさらわれた人間を人形にしたものではないのか? 松常久が人攫いの黒幕であるというのなら不思議ではない」

 すぐに京太郎はこの可能性に思い至った。その考えに思い至った京太郎は激しい怒りに襲われていた。

 刻々と修羅場が近づいている。そんな中で、ディーに近づいていった京太郎はこういった。

「ディーさん、松常久は人間を人形に変えて、エネルギータンク代わりにしているようです。ほかのやつらも同じことをしていますか?」

 京太郎の目からは血涙が流れ落ちていた。ヤタガラスのエンブレム付きの帽子を京太郎は深くかぶっていた。そのため、松常久たちもディーも京太郎の目をまっすぐに見ることはなかった。

 京太郎はずいぶん頭を冷たくしていた。松常久の体に呪いによって人形に変えられた人間が埋め込まれているというのならば、ほかにも被害者がいるのではないかと予想を立てたのだ。

しかし予想を立ててみても、京太郎には判断する方法がない。

「できるのならば被害者たちを助けたい」

そう思う京太郎はディーに希望を託したのだ。もしかしてわかるのではないかと。


 京太郎がディーに話しかけたとき、悪魔に変化した松常久たちが、京太郎、ディー、オロチの三人に襲い掛かった。生身の肉体を持った四十近い数の悪魔がみなそれぞれに一番殺しやすい方法をもって襲い掛かっている。

魔法を唱えているものもいれば、牙で噛み付きにかかっているものもいる。刀のような武器を構えているものもいれば、拳で挑んでくるものもいる。

 このさまざまな四十近い悪魔たちだが狙う獲物もまたそれぞれにあった。ディーを狙うもの、京太郎を狙うもの、そしてオロチの触角を狙うものである。ディーをまず始末しに向かったのはディーが一番の戦力だと判断した冷静なものたちだ。まずは一番強いものを始末するべき、それが彼らの考えだった。

 京太郎を狙ったのは、京太郎を恨んでいるものたちだ。京太郎の稲妻での攻撃を根に持っている。だから一番に始末してやろうと考えた。

 オロチの触角を狙ったのは、弱いものを一番に殺してしまったほうがいいと考えるものたちだ。オロチの触覚は誰の目から見ても弱っている。ならば、一番弱いものから殺してしまえばいい。誰が何を思い、襲い掛かるのかはそのものの自由だ。最終的に京太郎とディーと虎城を始末できればそれでいいのだから。
 
 松常久たちが襲い掛かってきたわずか一秒後のことである。オロチの腹の中が血霞でよどんでいた。風船が破裂するような音が何度も聞こえてきて、空気が真っ赤に染まったのだ。そしてヘドロのように臭うマグネタイトが散らばった。

これには京太郎も鼻を覆った。強烈な悪臭に耐えかねたのだ。

 そんな地獄絵図の中で、世間話をするような穏やかな調子で京太郎の質問にディーが答えた。

「いや、松常久だけだ。マグネタイトの保有量が一人だけ圧倒的に多い。

 そうか、こうやって使うつもりだったのか、人身売買に使うとばかり思っていたが、悪魔に堕ちた自分の予備バッテリーにするつもりで……外道め」

 京太郎の指摘を受けたディーはすぐにマグネタイトの量を調べたのだ。そうすると一人だけ極端に高いものがいた。それが松常久だった。

 ディーが非常に落ち着いて答えられたのは、戦い自体がすでに終結しているからである。音速のステージで戦うディーにとって百キロ二百キロのスピードで戦うものたちなど、ハエが止まるほど鈍い。

ディーは自分に襲い掛かってくるもの、そして京太郎に襲い掛かるもの、またオロチに襲い掛かるものをあっという間に、排除したのだった。特にこれといった技術は使っていない。普通に殴り、普通に蹴り、血霞に変えた。

 残ったのは、襲い掛からずに逃げようとしていたサマナーと松常久だけである。四十名のサマナーはいまや三人しか残っていない。それも戦う気力のないものである。

 かろうじて松常久は生きている。しかし両足を吹っ飛ばされていた。

 松常久が生きていられるのはディーが仕損じたためでもなければ、上級悪魔相当の潜在能力が助けてくれたわけでもない。松常久の腹に埋め込まれている生き人形を回収するためである。

ディーの攻撃の余波で生き人形が壊れてしまわないように、手加減をしたのだ。

 松常久から生き人形を回収しようと京太郎が動き出した。そのときに、オロチが叫ぶ。悲鳴だった。うずくまっていたオロチは震えていた。

そしてオロチが創った世界が大きく揺れる。四方を囲っていた壁が溶けはじめた。ヘドロのような不味いマグネタイトにオロチは耐え切れなくなったのだ。気持ちが悪くてしょうがない。

ほんの少しだけ垂れ流されたマグネタイトだけでも気分が悪くなったのだ。それが大量に放出された。悪魔になったサマナーたちを始末したときに血霞になったのが決定打になったのだ。オロチは完全に腹を壊していた。

 オロチの世界がぐらぐらと揺れ始めた。ディーが叫んだ。

「不味い、引きずり込まれる!」

 オロチの絶叫と同時に今いる場所が、いっそう深いところに沈もうとしているのがわかったのだ。

 ほんのわずかなディーの迷い、一瞬だった。京太郎にオロチの触覚がしがみついていた。オロチの触覚は必死だった。なんとしても京太郎を逃すまいと必死に両手両足を京太郎に絡みつかせている。

 ヘビが獲物を絞め殺しているようだった。しかしこれはオロチにしてみれば大切な宝物を守ろうとしているのであって、悪意はない。人間でも同じようなことをする。大切なものはしっかりとしまっておきたい。誰にも渡さないために安心安全な場所に保管するのだ。

オロチも同じ考えなのだ。ただ、保管する場所が物置だとか金庫ではなく、巨大なヘビの腹の中であるというだけの違いである。

 オロチの触覚に絡みつかれている京太郎だったが少しもオロチを見ていなかった。まったく見ていない。ただ、奈落へ落ちていこうとする世界の中で、悪魔に堕ちた松常久を睨んでいる。輝く赤い目は、京太郎がまだあきらめていないと教えてくれていた。

 確かに、とんでもなく大きな範囲が深く深く沈みこんでいる状況は悪いだろう。しかし、それに何の問題があるのだろうか。

 また、オロチの触覚がしがみついてくるからといって何の問題があるのだろうか。まだ、沈みきってはいないし、弱っているオロチの触覚の力は動きを妨げるほどのものでもない。右腕だけなら万全に動かせる。なら、やることはひとつだ。松常久の腹に埋め込まれている誰かを奪い取る。

 京太郎は、激しい頭痛も血涙もどうでもよくなっていた。ただ、目の前の松常久を始末したかった。激しい怒りが一歩踏み出す力になっていた。


 オロチにしがみつかれたまま戦いを続行しようとした京太郎を見てディーが一歩引いた。ディーの表情は完全に引きつっていた。まさか、この状況で更に一歩前に出るような馬鹿な真似をするとは思ってもいなかったからである。

 もしもこのままオロチに引きずり込まれる形で真っ暗闇の世界に落ちれば、間違いなく京太郎はオロチにとらわれるだろう。なぜなら、スポーツカーの調子が悪いうえ、オロチの触覚はすでに京太郎に巻きついている。

 道を教えてくれたときとはすでに事情が違うのだ。京太郎をほしがっている自分をオロチは抑えていない。そしてすでに牙は京太郎にかかっている。

 深い深い暗黒の世界まで引き込めたのならば、絶対に帰さないだろう。京太郎もオロチの執着の深さはわかっているはず。戻らなくてはならないはずだ。そうしなければ何もなくなる。

それなのに、京太郎は松常久を睨んでいる。輝く赤い目から、血涙を流しながらまだ進もうとしている。馬鹿すぎる。松常久など後でどうにでもできるのだ。後で始末すればいい。脱出してからゆっくりとやればいいのに、奪おうとする。まったくディーには京太郎が理解できなかった。

 京太郎が一歩踏み出したとき、ほくそ笑んだものがいた。松常久である。石膏像のような顔面が奇妙にゆがんだ。人間らしくない笑みだった。松常久は、京太郎が獲物に見えたのだ。

そして、獲物に見えたものだから、ここで恨みを少しだけでも晴らそうとした。オロチが深い場所にもぐろうとしていることにも、気がついていないらしかった。

 そして悪魔に変化した生き残りのサマナーたちが逃げようと一生懸命になっているのに、京太郎に向かって松常久は駆け出した。両足はすでに回復している。マグネタイトに物を言わせて作り直したのだ。

 松常久は勝利できると信じている。自分のほうがマグネタイトをたくさん抱えているからだ。五つのマグネタイト製造機が腹に埋め込まれている。マグネタイトが多ければ強いというのがサマナーの常識。ならば、勝つのは自分だろう。

目の前の血涙を流す不気味な小僧のマグネタイトは非常に少ないのだから、楽勝だ。松常久はうぬぼれ油断したのだ。

 京太郎と松常久がぶつかった。松常久が力に任せた攻撃を仕掛けてくる。思い切り右腕を振りかぶっている。振りかぶる右腕にはマグネタイトをふんだんに使われている。補強されているのだ。あまりにもふんだんに使うものだから、マグネタイトが漏れ出して火花を散らしていた。

 一方で、京太郎はまっすぐに松常久を睨むだけであった。一歩踏み出した形のまま動かない。踏み出す必要がないと知っているからだ。

 ぶつかり合った次の瞬間、松常久が後ろに吹き飛んでいた。野球のボールが場外に吹っ飛ぶような気持ちのいい吹っ飛び方だった。また、吹っ飛んでいく松常久の頭部は三分の一ほど吹っ飛んでいた。綺麗にえぐれている状態だった。

なくなっている部分からはマグネタイトが噴出している。吹っ飛ばされた松常久だが生きているらしく立ち上がろうともがいていた。

 松常久はさっぱり何が起きたのか理解できていない。しかし松常久を吹っ飛ばした京太郎と、京太郎に絡み付いているオロチ、そばで見ていたディーは理解できていた。特に難しいことは行われていない。殴りかかってきた松常久を京太郎が殴り返しただけである。

 松常久は力とはマグネタイトであると思っている。たくさん持っていれば、強いのだという考え方だ。間違いではない。マグネタイトは悪魔の肉体そのものである。マグネタイトがたくさんあれば、悪魔の体は大きく強くなる。雪だるまみたいなものだ。雪を大量に使って大きな塊を創れば、小さな塊よりもずっと重たく硬くなる。ぶつかり合えば、大きなものが勝つだろう。それこそ小手先の技術などまったく関係ない。力で押しつぶせる。

 わかりやすいのはオロチだ。日本の領域に生きているものたち全てからマグネタイトを受け取っている巨大な悪魔は世界を生み出せるほどの力を持っている。また音速で戦う分身を大量に生み出し壊れないはずの結界をらくらく壊せる腕力を持っていた。

 しかし、マグネタイトが絶対なのかといえばそうではない。戦うものがあきらめなければ、状況はいくらでもひっくり返る。戦いとは大きさを競うものではないからだ。

 だから必死になる。攻撃をよけて、カウンターを打つ。相手のマグネタイトを制限して、弱点をつく。一番簡単なのは、相手が動き出す前に始末してしまうこと。

あきらめずに戦えば、勝てるのだ。京太郎も松常久相手にそうしたのだ。相手の弱点が戦いになれていないことによるセンスのなさにあると見抜き、自在に動かせる右腕でカウンターを思い切り打ち込んだ。

 まともな武術を使わない相手の攻撃などカウンターの餌食だ。音速で攻撃を仕掛けてきたオロチにすらカウンターをかけた京太郎が、松常久の攻撃など見逃すわけもない。

 二人がぶつかり合ったとき、帽子のつばの部分が千切れてしまった。京太郎のかぶっていたヤタガラスのエンブレム付きの帽子である。これがだめになっていた。松常久の攻撃は力をこめすぎていたために攻撃をかわしたのにもかかわらず、帽子を傷つけたのである。

 吹っ飛ばされた松常久を尻目にディーが

「ナイス! ハギちゃん!」

と叫んだ。すでにディーの興味は松常久にない。今思うのはどうやってオロチの腹の中から逃れるのかだけだ。松常久とその部下たちなどどうでもよかった。

 そんなときに、頼れる相棒が、見事に手を打ってくれたのがわかったのだ。叫びたくなる。

 二十メートルほどの大きな門がオロチの腹の中に現れたのだ。そしてこの門がハギヨシが手配してくれたものだというのもわかっていた。この門のすぐそばでハギヨシの式神たちが警備に当たっていた。警備に当たっている式神は八体で、槍を片手にたずさえた武人の姿で現れていた。

 高さ二十メートルの巨大な鋼の門。これが現れると京太郎にしがみついていたオロチが激しく舌打ちをした。忌々しげに鋼の門を睨んでいる。そして今まで以上に京太郎を締め付け始めた。しがみついている京太郎の肉体がきしむほどの強さであった。

オロチの触覚は何が起きようとしているのかを察したのだ。巨大な鋼の門は現世と自分の世界をつなぐためのもの。この門が現れたということは誰かが現世への道をつないだということである。誰が現世への道を開いたのかはわからない。しかし、オロチにわかることがひとつある。

「鋼の門の向こう側には自分に敵意を持っているものがいる」

そしてこう思うのだ。

「きっと、私の宝物を奪うつもりなのだ」

 忌々しげに鋼の門を睨むオロチはいまだ京太郎にしがみついたままだ。すぐにでも鋼の門を壊してしまいたい。自分の世界に現れた異物を排除したいと願っている。しかしできない。契約が縛っているのだ。葦原の中つ国の塞の神として存在する以上、道を使わせる契約がある。

その支払いは大量のマグネタイトですでに受け取っている。この契約を破るわけにはいかなかった。契約を破れば、マグネタイトはあっという間に失われる。そして名前を失い力を失い、考えることもできなくなるだろう。

 また、破ろうとしても、門を守る巨大な力を持った式神たちが防いでしまうだろう。だから睨むしかできなかったのだ。そして最後の手段としてしがみつく以外の行動を取れなかった。

 ディーの叫びを聞いた京太郎が唇をかみ締めた。非常に悔しがっていた。輝く目はもうない。血涙ではない涙が、ほほを伝っていた。

 頭ではわかっているのだ。今は脱出するべき。真っ暗な世界まで落ちていけば今度こそ脱出は難しくなるだろう。逃げるべきだ。そして松常久も、ほとんど詰んだ状態なのだ。後で捕まえればいい。ヤタガラスに任せればいい。

 しかしここで松常久を逃すのは非常に悔しかった。なにせ、松常久の腹には五体の生き人形が埋め込まれたままなのだ。

 助けることができない、これが悔しかった。生き人形にされている人たちの名前も顔も京太郎は知らない。どんな性格なのかもわからない。悪魔に堕ちた怪物と戦ってまで助けたとして、利益があるわけでもない。

 しかし脳裏にちらつく光景がある。魔人になるきっかけになった思い出だ。

「理不尽に泣くものがいる」

そう思ってしまうと、悔しくてしょうがなかった。

 ただ、京太郎にはチャンスが残されていた。激怒している松常久が再び襲いかかってきたのだ。松常久はマグネタイトをこれでもかといって使い、攻撃を仕掛けてきた。万全といっていい状態だった。

京太郎に対する怒りでもって更に凶暴になっていた。マグネタイトを吹き上げて、突進してきた。なにせ五つのマグネタイト製造機が腹に埋め込まれているのだ。多少の傷ならばあっという間に回復できる。

三分の一ほど消滅していた頭はきれいに元通りだ。へたくそなマグネタイトの操作術であってもまったく問題なかった。物量に物を言わせた力押しである。今の松常久にあるのは怒りだけだ。

自分にカウンターを仕掛けた不気味な小僧に対する怒りである。

「偉大な神そのものとなった自分を殴るなど、万死に値する」

ただひたすらに自分。ただそれだけしかなかった。

 松常久が京太郎に向けて突進を行ってくる中で、オロチが動き出した。しがみついていたのに、京太郎から手足を離したのだ。そして京太郎の邪魔にならないところに移動した。透明な涙を流す京太郎をオロチの触覚はじっと見つめていた。

 京太郎のことがいよいよ理解できなくなったのである。京太郎の目を通して涙した理由をオロチは見たのだ。霊的なラインを応用して、過去の光景も見た。しかしそれでもわからなかった。

 はじめは掃除をしてくれるやさしい少年という印象しかなかった。石碑を掃除してくれるものなどいなかったから、うれしかった。

 次に感じたのはおいしいマグネタイトを持っているのだな、だった。始めて感じる幸福感があった。

 その次には自分の宝物にしたいと思った。京太郎から受け取ったマグネタイトは最高の美味だった。誰にも渡したくないと初めて思った。

 そして隠して大切にしまっておこうと思った。しかしできなかった。自分よりもはるか格下の京太郎に一本とられてあしらわれた。そのときに興味がわいた。肉体ではなく魂を見たいと思った。

 そして今いよいよ理解できなくなった。なぜ、この瞬間に涙するのかさっぱりオロチには理解できなかった。悲しいのはわかる。悔しいのもわかる。しかし理由に納得できない。京太郎の脳裏にちらついている光景を輝く赤い目から覗き込んでもわからなかった。

 理解したいと思うようになった。わからないから、わかるようになりたい。そのためにあえて離れたのである。現世で京太郎が何を見て何を思うのかを覗き見すれば、理解できるようになるのではないかと考えたのだ。だからあえて宝物から手を離した。

 ハギヨシが用意した大きな鋼の門が光を放ち始めた。深い場所に沈もうとしていたオロチの腹の中が光で照らされていく。視界が白くなっていく。

 光であたりが白くなっていく中で、松常久が京太郎に衝突した。流石に悪魔に堕ちただけあってなかなかのスピードだった。すくなくとも時速百キロは出ていた。マグネタイトを吹き上げながら突進して来る姿はイノシシそのものだった。

 視界がなくなっていく一瞬をチャンスだと捉えたのだ。

「このときならば油断しているはず。視界が白くなっている今ならば不意打ちが決まるだろう」

 しかし松常久は呆気なく吹き飛ばされることになった。

 たしかに鋼の門の向こう側からあふれてくる光で、ほとんど視界はなくなっている。ただ、光だけしかない。影がなくなり形を探すこともできない。しかし、松常久の体が地面に叩きつけられる音と、激痛からくる悲鳴はよく聞こえていた。

 真っ白になっていく視界の中で、京太郎が松常久を迎え撃ったのをオロチだけが見ていた。目が見えなくとも腕は動くし、タイミングを計れるのだ。自分に向かって突撃しているのがわかっていれば、後は攻撃を仕掛けるだけでいい。難しいことではない。

 突進してきていた松常久の頭部を京太郎の右拳は打ち抜いていた。この一撃で松常久の突進を止めた。

 前回と少し違っていることがある。今回は二発打ち込んでいる。右手の一撃で動きを止めて、左手で一発、クサビを打ち込んだ。このときに帽子がぼろぼろになり、ただの布切れになった。

 一瞬の中で行える命を奪うのに充分な攻撃だった。松常久はもう立ち上がれないだろう。ただ、それでも京太郎は悔しかった。

 巨大な鋼の門が完全に開ききった。すると光は消えうせて、後にはぼろぼろの松常久と、逃げようとしていた裏切り者のサマナーが三名。そしてオロチの触角だけが残された。京太郎と虎城とディーは無事に脱出できたのだ。

 開ききった巨大な鋼の門は、そのまま薄れて消えうせた。用が済んだためハギヨシが術を解除したのだ。そして門を守っていたハギヨシの式神たちもあっという間に姿を消した。もう鋼の門も京太郎たちも守る必要がなくなったからである。

 京太郎たちがいなくなると、深い闇に落ちようとしていたオロチの触覚は全ての結界を解き、霞のように薄れて消えた。オロチの触覚は残された松常久たちを無視していた。

ただ、片目をつぶり微笑んでいた。しっかりと自分と宝物がつながっていることを確認したのだ。繋がりがあるとわかれば触角を作っている意味はない。マグネタイトを絞られているのだ。無駄遣いは控えなくてはならない。いらない結界も解いたほうがいい。

 最後の最後まで残ったのは自己再生している松常久と、その部下の三名のサマナーだけだった。彼らはいつの間にか赤レンガで舗装された道の上にいた。

周りには鉄くずと装甲車が何台か残っているだけである。オロチの触覚が全ての結界を解いたため、もともとの場所に吐き出されたのだ。 自己再生を終えた松常久は人間の姿に戻った。

そして大きな声で叫び始めた。絶望の叫びである。京太郎たちが現世へと帰還したのだ。自分はこれで終わりだと理解したのである。しかし、急に静かになり、笑い始めた。

 そしてこういった。

「ある! まだあるじゃないか生き延びれる道が! そうだ、これでどうにかなるかもしれない。まだチャンスはある! 神よ、感謝します!

 たとえヤタガラスに危険視されることになったとしても私はあきらめない!」

 更に続けてこういった

「お前たち博打に出るぞ!」

 松常久は部下たちに命令を出して動き始めた。すでに松常久は終わっているはず。十四代目に連絡が通り、ベンケイにもハギヨシにも情報が回っている。となれば当然ヤタガラスにも情報が届いているはずだ。どうやっても生き延びれるはずがない。しかしそれでもまだ、もがいていた。

 チャンスは龍門渕のパーティーにある。松常久はこの一点に全てをかけるつもりなのだ。たとえヤタガラスに危険視されるようになったとしてもそれでも生き延びたいのだ。

ここまでです

来週最終回です

おつですー

続きが気になりすぎて結局この時間まで起きててしまった・・・少しだけでも寝よう。


相変わらずおもしろい


ついに最終回か…

乙です!
オロチが恐可愛いすぎて困るw

乙でした。

切っ掛けはやっぱり石碑の汚れを拭ったことだったか

乙!!

続きが楽しみだ

やったぜー更新されてんじゃん!
次で最終回か…

もうソックとアンヘルとゾウマさんとオロチのゴールデンパーティでいこう

ところでほのぼの八割とはなんだったのか

乙乙
オロチ可愛い

京太郎が進む道を決めたか。
オロチが仲魔になったら、日本最大の仲魔を持つサマナーになりますね。
来週最終回、楽しみにしていますが続きも楽しみにしていますので、構想が出来たら是非、よろしくお願いします。

始めます。

 ハギヨシの手助けで現世へと帰還した京太郎は龍門渕の中庭に立っていた。京太郎から少し離れたところにはディーがたっている。

そしてずいぶんぼろぼろになったスポーツカーが京太郎から離れたところにあった。スポーツカーの中には虎城もいて全員無事に戻ってくることができていた。
 
 無事とはいっても京太郎の格好はひどいものだった。ヤタガラスのジャンパーはぼろぼろ。ヤタガラスのエンブレムがついていた帽子は役目を果たし布切れになっている。またズボンもぼろぼろ、靴もほとんど原形をとどめていなかった。

 そして京太郎の顔は血で汚れてひどいことになっていた。しかし、一応は無事だった。

 龍門渕透華のお使いも一応は達成できている。スポーツカーの中にはベンケイが拾っておいてくれた大きな木箱がある。その中身は冷凍クロマグロだ。

 現世に戻ってこれたのだなと目元をこすりながら京太郎が周りの様子を確認していると、ハギヨシたちが駆け寄ってきた。ハギヨシの後ろからはジャージ姿の三人が続く。

京太郎の仲魔アンヘルとソックの二人と、なぜだかアンヘルに肩車されている天江衣である。ジャージ姿の三人は泥だらけになっていた。

 そしてハギヨシたちの後から、パーティー用のドレスを来た龍門渕透華とメイド服を着た国広一の二人が続いていた。

 一番早く京太郎たちの下にたどり着いたハギヨシは軽く京太郎に挨拶をして、ディーに詳しい説明を求めていた。

 その間に龍門渕透華が追いついてきて、ハギヨシとディーの会話を邪魔にならないところで聞いていた。ずいぶん真剣な表情だった。口元がしっかりと結ばれている。一見しっかりとしているように見える。しかし、透華の目は不安一色である。ハギヨシとディーの会話に割り込むような気配は少しもなかった。

 なにせ彼女は初心者である。ヤタガラスの使者として表に出始めたばかりで経験が少ないのだ。情報こそハギヨシから受け取っているけれど、実際に動いているのは龍門渕の当主である彼女の父親だ。

 しかし情けないことではない。経験をつまなくてはならない立場であるから、できないことがあるのは当たり前である。問題は表に出始めたばかりの透華にとってかかわる事件が大きすぎたということ。

 松常久は人攫いの事件に関係していた。そして関係を白黒はっきりとさせるための内偵を行っていたヤタガラスを襲撃して口封じをたくらんだ。

 人攫いの事件に関する処断。そしてヤタガラスの構成員を襲撃したという裏切り行為への対応。初心者がどうにかできる事件ではなかった。龍門渕透華が不安に思うのもしょうがない。


 ハギヨシとディーの二人は情報の交換を行いながら、スポーツカーの中にいる虎城に会いに行った。ハギヨシとディーの仕事は、ここからなのだ。ヤタガラスを裏切った準幹部の松常久を二人は追い込んでいかなくてはならない。そのためにはスポーツカーの中にいる虎城の協力が必要不可欠であった。

 なぜなら松常久が捕まらなければ、虎城に読心術をかける必要がある。松常久がおとなしく読心術を受けない、もしくは逃げ続けるという可能性もあるのだ。

 読心術をかけるためには本人がいなければいけない。正しくは肉体がなければ術がかからない。そして読心術を使わなければ、まともな判断を下すのは難しい。

 処分するための、ほかの幹部を説得できる根拠が必要なのだ。虎城か、松常久の肉体。できれば松常久がほしい。虎城でもかまわないができるのなら一番怪しい松常久にかけたい。

 なににしてもここからが忙しいところである。松常久を捕まえて読心術にかけて、処分までもっていく必要がある。


 忙しく動き出したハギヨシとディーを京太郎はぼんやりと眺めていた。京太郎は自分のできることはすでにやり終わっているとわかっていた。京太郎にできることといえば鉄砲玉くらいのもので、それ以上のことはどうしていいのかわからない。ハギヨシとディーが一生懸命に動いているのならば、それに任せればいい。そんなことを考えているわけだけれども、そうなるとやることがなくなるわけで、気が抜けてしまったのだ。


 京太郎が気の抜けた顔をしていると、駆け寄ってきたアンヘルがこういった。
「マスター、ご無事ですか? 回復魔法を唱えますね」

 ずいぶんあわてていた。アンヘルがあわてるたびに肩車されている天江衣がぐらぐらとゆれて、ひどいことになっていた。

 アンヘルのあせりというのは京太郎の格好から来ている。あまりにも京太郎の格好は悪いものだった。血液でジャンパーはドロドロ、顔面も血液で汚れてひどい。元気なのは間違いないのだけれども、妙な雰囲気が京太郎から漂ってきている。

何か悪いことでもあったのではないかとあせるのはしょうがないことである。

 アンヘルが呪文を唱えている間に、ソックが京太郎の体に手を触れた。ずいぶん思い切り体を撫で回していた。目を大きく見開いて、京太郎の体を見つめている。まったく遠慮がなかった。

はじめは服の上から触っていたのだが、あっという間にぼろぼろのジャンパーの下にある京太郎の体を許可なくなでまわしていた。

 京太郎の体におかしなところがないか、確かめているのだ。よこしまな気持ちは少しもない。アンヘルと同じように京太郎から妙な気配をソックは感じていたのだ。肉体におかしなところはないけれども、何かがまとわりついているような気配がする。

そのまとわりついているものが何なのか、ソックは確かめようとしているのだ。

 アンヘルの呪文「ディアラマ」が発動したところで、ソックがこういった。

「特に問題はないようだ。マグネタイトがずいぶんと少なくなっていることと、悪魔の匂いがするくらいか。

 あれ? おかしいな」

 京太郎の体から手を離してソックは眉間にしわを寄せた。京太郎にまとわりついている気配についていろいろと調べてみたのだけれども、いまいち納得がいかなかった。匂いがするだけというのなら、それでかまわないのだ。

匂いがするくらいならたいしたことではない。悪魔の匂い以外にも人間の女の匂いがすることもわかっている。しかしそれはいい。問題なのは、自己主張している匂いだ。

 たとえるならば動物のマーキングだ。

「これは自分のものだから、誰も手を出さないように」

と、そんな気持ちをこめた匂いが京太郎から漂ってきている。アンヘルとソックからすれば、いい気持ちはしない。



 ソックが京太郎の状況をつぶやくと、アンヘルが京太郎にたずねた。

「面倒ごとに巻き込まれたとはきいていますが、どういうことです? 私たち以外と契約を結べたのですか?」

 京太郎にまとわりついている気配についてアンヘルも気がついている。しかしいよいよ考えてもわからないので、京太郎に直接疑問をぶつけたのである。

 京太郎のマグネタイトの特性上、まともに契約を結べるわけがないという考えはあるが、万が一という可能性もあった。


 アンヘルとソックが困っていると京太郎は答えた。

「いや、思い当たるところは……もしかしてこれか?」
 
 京太郎は、自分の目を指差した。そして目に魔力をこめた。すると輝く赤い目が現れた。匂いがどうのこうのという話になったときに、オロチから無理やり押し付けられた輝く赤い目のことを京太郎は思い出したのだった。

常に目が光るわけではないというのに気がついているので、特に気にしている様子は京太郎にない。ただ、感情を制御できていないと、血涙が流れ出したり輝きだすという面倒くさい特性があるだけだ。がんばればどうにか生活できるだろう。


 京太郎の目を見たアンヘルが引きつった笑顔を浮かべた。そして少し姿勢を崩した。

 そのため肩車をされている天江衣がアンヘルの頭にしがみつくことになった。バランスが大きく崩れて、振り落とされそうになったのだ。

 アンヘルの顔色はずいぶん悪くなっていた。自分のマスターに悪い虫がついてしまったのがわかったのだ。

 京太郎とは違い、悪魔の常識をアンヘルは知っている。そのため、輝く赤い目の気配がどういう種族の特性を持ったものなのかというのをすぐに察することができた。京太郎に付きまとっているのは龍だ。それも桁違いに力を持った龍。

 そして、この種族というのは基本的に執念深い。ほしいと思えばずっとほしいと思ったまま。憎いと思えば憎いと思ったまま、ずっとそのまま生きている。京太郎の輝く赤い目から感じられる執着は並みのものではない。百年でも二百年でも、手に入るまで待ち続けるだろう。そういう執着がある。

もしかすると輪廻の果てまで追いかけてくるかもしれない。

 普通の悪魔なら、これだけで身を引くだろう。相手が悪すぎるからだ。しかしアンヘルは違った。どうにか対処して見せようと心を決めていた。この輝く目を京太郎に渡したオロチは京太郎を宝物だと思っているけれどもアンヘルもまた京太郎のことを大切に思っていたのだ。

 自分のマスターに執念深いストーカーがついてショックを受けているアンヘルを尻目にソックはこういった。

「龍の目だな。匂いの名残があったのはこいつを与えられたからだろう。しかし、ずいぶんと運がいいな、俺のマスターは。

 龍に出会うこと自体が難しいのに、契約まがいのことができるなんて。どうやったんだ?」

 口調こそ冗談でも言い出しそうなところがある。しかし、ソックの目は少しも笑っていなかった。アンヘルよりもソックは呪術に関して知識がある。そのため京太郎の輝く赤い目を通して、京太郎に目を与えた龍が、今この瞬間も現世を覗き見ていると気がついている。

 目を手に入れたきっかけについて聞き出そうとしているのは、きっかけから呪術を説く方法を探ろうとしているからである。一見して龍の目であるとわかるほどの力があるのだ。

よほど正式な手続きを踏まなければ手に入らない。マグネタイトで肉体を作っている悪魔であってもほいほいと目玉をくれてやれるわけではないのだ。物質的な損傷なら簡単に回復できるが、魂的なものは回復に非常に時間がかかる。

目というのは特に霊的な属性が多くあるものなので、これを他人に渡すというのは人間が自分の目玉を他人に渡すのと同じ重さがある。取り返しがつかないということだ。

 そして仮に

「ぜひ自分の目を与えたい」

と思うようなことがあったとしても、力が強いものを、人間に渡そうとすると流石に許可が必要になる。 許可がないとはじかれるのだ。臓器移植と同じで、かみ合っていないと拒否反応が出てはじかれる。強いからこそ反応も大きいのだ。

 しかし京太郎は適合している。ならば、契約か契約に近いものがあったということだろう。

 ただ、完全とはいえない。ソックから見ると中途半端に結ばれているように見えた。強引に手をつないでいるような格好、片方にしがみついているような契約とはいえない契約。そんな雑な契約だった。となれば、手順さえわかれば、解いていくのはそれほど難しくはない。京太郎の側から縁を切っていけばいい。

そうすればストーカーから離れられるだろう。当然、時間はかかるだろうけれど、常に生活をのぞかれるよりはましである。

 生活をのぞかれるという問題というのもあるが、一等気に入らないことがある。これはアンヘルもソックも同じ気持ちだ。二人とも、京太郎を所有していると主張する臭いが気に入らない。これだけはどうにも受け付けなかった。

 普通の目に戻った京太郎が、少し考えてからソックの質問に答えた。

「組み手かな? そのくらいしかしてないと思う」

 嘘はついていない。京太郎にしてみれば、格上相手に遊んでもらったというくらいの感覚しかない。オロチの触覚がどのあたりから京太郎を見つめていたのかもわからないし、京太郎にどういう感覚で接しているのかというのもわからない。

 京太郎にしてみれば、会話さえまともにできていないのだ。契約も何もない。輝く赤い目は無理やり渡されたものであって、京太郎が求めたものではない。しかし輝く赤い目を渡された。

思い当たるのは、組み手をして一本背負いをかましたくらいのもの。だから思い当たったところを素直に答えたのだ。

 京太郎が「組み手」と答えるとアンヘルとソックは大きく笑った。完全に冗談だと思ったからだ。人間と龍が、どうやって組み手をするのか。無理な話である。

 アンヘルとソックが笑っているところで、肩車をされている天江衣が京太郎の目の感想をつぶやいた。

「ルビーのような目だな。美しい」

 泥だらけのジャージを着たまま肩車をされていなければ、いくらか格好がついたかもしれない。天江衣のつぶやきはアンヘルとソックには届いていたけれども京太郎には届いていなかった。

 アンヘルとソックに輝く目を手に入れた話をするために、それなりに楽しかったドライブの話をしていこうかと京太郎が構えたときである。メイド服を着た国広一がこのような提案をしてきた。

「とりあえず、みんな汚れを落とそうか。須賀くんは血だらけだし、ジャージ組は泥だらけ。お話はきれいになってからでいいんじゃない?」

メイド服を着た国広一の提案はもっともなものだった。京太郎の服装はひどいもの。ジャンパーはぼろぼろで、ズボンは擦り切れている。靴は靴としての形が残っているだけだ。京太郎よりもずっとましだが、ジャージ三人組も泥でずいぶん汚れていた。髪の毛に泥がついているし、汗臭い。これはよくなかった。

 そして京太郎たちはすぐにうなずいた。
 京太郎たちがうなずくのを見て、国広一は歩き出した。お風呂場に案内するためである。

 
 
 それから五分ほど後のこと。京太郎は脱衣所で困っていた。京太郎が着ていた服がなくなっていたからである。何もなかった。シャツはもちろんズボンもない。当然だがトランクスもなくなっていた。そうなったとき、京太郎は非常に困った。


このままでは素っ裸のままではないか。タオルを腰に巻いているけれども、流石にこの格好では家に帰ることができない。

 そうして困っていると、脱衣所の外から声をかけられた。声は国広一のものだった。

「あれ、早かったね。着替えを用意したからこれに着替えてね。須賀くんが着ていた服は処分させてもらうよ。あれじゃあ、うちに帰れないでしょ? 靴も須賀くんがはいていたのものと同じものを用意しておいたから、それをはいてね」

 京太郎の服を処分したのは国広一だった。意地悪がしたかったわけではなく、京太郎の世間体を考えた行動だった。本当ならば、京太郎がゆっくりと風呂に入っている間に着替えを用意しておくはずだったのだが、カラスの行水並みの早風呂だったために失敗してしまったのだ。

 国広一が着替えを用意してくれたという話しを聞いて、京太郎はお礼を言った。

「ありがとうございます。助かります」

 京太郎もドライブから帰ってきたままの格好でうちに帰れないのはわかっていた。とんでもない勢いで体を動かしたために服もくつもぼろぼろだった。両親に、何かあったのかと心配されるのは目に見えていた。

 そうして京太郎がお礼を言うと、脱衣所の向こう側から、国広一がこういった。

「それじゃあ、扉のところにおいておくからね。着替えたら声をかけて。僕が客室に案内するよ。
 それとジャンパーのポケットにあったデリンジャーだけど一応こっちで預からせてもらうね。見つかったらまずいでしょ?」

このように話をすると国広一は着替えを扉の前において、風呂場からいったん離れた。

 京太郎は国広一が離れたことを察すると、さっさと扉を開いて着替えを手に入れ、服を身に着けた。普通のワイシャツとスラックスとただの靴である。
 
そして、ジャージ三人組よりもかなり早く客室に通され暇になるのだった。


 ゆだっているアンヘル、ソック、天江衣が客室に現れたのは十分ほどたってからだった。三人ともよく似たワンピースを着ていた。湯気が出ている三人と、メイド服を着た国広一がイスに座った。それぞれ、話を聞く姿勢になっていた。

 そうして話し始められる状況になったので、京太郎は話をはじめた。普通の話をするように輝く赤い目を受け取るまでの話をし始めた。というのも京太郎自身はオロチの祝福をそれほど重たいものだとは思っていない。

目玉が光るようになっただけのことで、注意しておけばどうにかなるという感覚である。しかし、信頼できる仲魔二人が、ずいぶん心配しているので、話をすることにしたのだ。アンヘルとソックが悪いというのなら、呪術を知らない自分よりも確かな答えなのだろうという考えである。

 ディーとのドライブ中におきたことを京太郎が話していると、合間合間に天江衣が

「また真白は無茶な運転をしたのか! 昔、あれでひどい目にあったのだ!」

とか

「京太郎はもう少し気をつけたほうがいいぞ。知らない人にほいほい近づいたらだめだ。

 そもそもオロチの異界で単独で行動できるものなど実力者以外にいないのだ。苦しそうにしていても少し離れておくのがいいぞ」

と相槌を打ってくれていた。京太郎の輝く赤い目を天江衣はよいものだと考えている。美しかったからだ。そのため、純粋に京太郎の話を楽しめていた。
 


 そしていよいよ氷詰めの虎城を見つけ、ベンケイと出会い、松常久と逃走劇をはじめた話を京太郎は聞かせた。そうすると天江衣は

「花田のおじ様か! きっと面倒だとかいいながら動いてくれたのだろう。私のときもそうだったからな」

などといってはしゃいでいた。

 そして松常久の策略で、オロチの世界の一番底まで落ちてしまった話をして、そこで怪しい女性とであった話をした。話をする京太郎は実に普通に話をしている。怖いものを見たのだとか、不安だったとか、そういう様子はなかった。京太郎にしてみれば、終わった話だ。なにも恐れる話ではないとわかっている。

そして脅かそうという気持ちもないのでさらっと話して進めた。

 ただ、怪しい女性とであったときの話をすると、話を聞いていた四人が引いていた。アンヘルは両手で顔を隠し、ソックは引きつった笑みを浮かべている。天江衣は国広一に手を握ってもらっていた。天江衣の手を握っている国広一は遠いところを見つめていた。

 京太郎の話を聞いていた四人は祝福した存在の正体に一発で気がついたのだ。すでに龍の目だとソックが判断を下しているのと、オロチの世界で出会った奇妙な女性の話でいちいち推理する必要がなかったというのが本当のところである。

京太郎を祝福したのは葦原の中つ国の塞の神。日本国が使役する超ド級霊的国防兵器である。この場で一発で気がついたものたちでも真っ暗闇の中で出会ったとしたらきっと気がつかないだろう。まさか触覚まで作って接触してくるわけがないと考えるからだ。

 アンヘルとソックが引いてしまったのは、祝福を解くのがおよそ不可能であると理解したからである。もしも、祝福を解いたとしてもあっという間に同じような祝福をかけられるのが目に見えていた。

葦原の中つ国の塞の神というのは日本国の「道」の化身である。ということは日本にいる間はどこにも逃げ場がないということになる。その気になれば、この瞬間にでも触覚を現世に送り込めるのだ。祝福をとくことは不可能ではないが逃げ切るのは無理だろう。

 天江衣と国広一が引いているのは明らかに恐ろしい存在を前にして普通に振舞ったというところである。京太郎の輝く目からでもわかるほど力が強い存在なのだ。

 引きずるほど長い真っ黒な髪の毛に、ぼろ布をまとっただけの女の姿で現れたのならば、間違いなく恐ろしい。近づこうとも思わないだろう。しかもそんな恐ろしい相手に握手を求められたらどうするか。天江衣なら腰を抜かすだろうし、国広一なら、戦いを放棄して逃げの一手を打っていただろう。


 四人が引いている間にも京太郎はドライブの内容を話していった。その間に何度も怪しい女性とであったことを話し、怪しい女性とどうにか渡り合うために頭をひねったという話をした。

特にこのとき、渡り合うために行った工夫について京太郎は力を入れて話をしていた。京太郎にとって、怪しい女性と渡り合うのはとても大切なことだった。そして心躍るものがあったから、力も入る。虎城の妄想推理と同じ理屈である。

 そしていよいよ、ディーが離れている間に怪しい女性が現れたことを語り始めた。スポーツカーのフロントガラスに怪しい女性がヒビを入れた話をした。そのときずいぶん、天江衣と国広一は驚いた。

 特に天江衣はこのようにつぶやいて、青ざめていた。

「ハギヨシの結界を壊せるとは流石オロチといったところか。黒い神父の攻撃でも壊れなかったのだがな。

 ん? ということは真白は大変なことになったな。修理代で貯金が吹っ飛ぶな、間違いなく。

 まぁ、これをきっかけに考え直してほしいところだな。自分の仮面を車に組み込むような阿呆なことをするから、いざというときに困るのだ」

 青ざめている天江衣を見ながら、輝く赤い目を渡されるまでの話を京太郎は語った。そのときに詳しく話したのは、音速のステージに無理やり上った場面だった。しかしそれは、京太郎が自慢をしたかったわけではない。

 それ以降の動きを京太郎が知らないので、知っているところだけを詳しくしたのだ。なぜなら不相応なステージに無理やり上った代償で、京太郎の脳みそは動いていなかった。生きてはいたけれども激痛でパンクしていた。思い出せるのは虎城に助けてもらえるまで激痛にもだえていたということだけである。

そうなると、話せるところに力を注ぐしかない。京太郎が話せるところとは音速のステージに乗るために自分の内側にありえないほどの負荷をかけた話と、かろうじて一本とって一泡吹かせたというところだけだ。

 そして話せるところを話し終わると、痛みから回復してあっという間に輝く赤い目を押し付けられた、と京太郎は話を締めた。

 話し終わった京太郎は居心地が悪そうにしている。
 それもそのはず、自分の仲魔二人がずいぶん冷えた目で京太郎を見つめていたからである。そして天江衣も国広一もなんともいえない表情を浮かべて京太郎を見ているのだ。

彼女らの目をみると何が言いたいのかよくわかった。一回自分の行動を客観的に見たこともあって、余計に彼女たちの言いたいことがわかった。

 ずいぶん間をおいてから、天江衣がこういった。

「もしかして京太郎は馬鹿なのか?」

かなり配慮された表現だった。

 京太郎が答えた。

「そう、なんだとおもいます」

 京太郎があいまいな笑みを浮かた。話が終わった後、アンヘルとソックが説教をはじめるために動き出した。

 京太郎たちが汚れを落としに向かった後の話だ。中庭でハギヨシたちが会話をしていた。きしんでいるスポーツカーの近くにたっているハギヨシがこういった。

「ヤタガラス東京支部虎城班班長、虎城ゆたかさん。十四代目葛葉ライドウの指令を受け、松常久の内偵にあなたたちが参加していたのは確認しています。

 そして、内偵を担当していた構成員ひとりと、あなたの部下四名が行方不明になっているのも、同じく確認しています。

 何が起きたのか、今回の内偵の結果も含めて、全てを明らかにするため、協力してもらえますね?」

 ハギヨシはできるだけ丁寧に虎城に話しかけていた。ディーから連絡を受けたハギヨシはすぐに動き出せるように準備を整えていたのだ。後はディーが無事に虎城をつれて戻れば松常久の処刑が決定するところまで整えていた。

虎城に同意を求めているのは、一応の手続きのためである。無理やり読心術をかけることもいざとなればできるけれど、虎城がうなずいて話をしてくれるのが一番当たり障りがないのだ。

 ハギヨシのこの問いかけに、虎城はうなずいた。虎城はすでにスポーツカーの不思議な空間から出てきている。スポーツカーにもたれかかるようにしてなんとか立っていた。そして久しぶりに現世の空気を吸ってほっとしている。

 顔色は悪かったが、これで望みが果たせるという喜びがみえる。読心術を受ける覚悟はとっくの昔にできているのだ。当然協力するつもりである。

 ハギヨシが言い出さなければ、自分から切り出していた。自分の情報をヤタガラスに提供することで松常久を追い込めるのならば、それだけで十分だった。そして、そうすることが自分の部下たちに報いることと信じていた。

 虎城がうなずくと、ハギヨシは微笑んだ。

「ご苦労様でした。これで、松常久を追い込めます。幸いといっていいのか協力してくれる友好的な幹部もパーティーに参加してくれていますから、手を借りましょう」

 ハギヨシが伝えると、虎城は何度もうなずいた。本当ならば、声を出して喜びたいところだ。しかし、無茶な逃走劇があったために彼女の体力はなくなっているのだ。報われた。そう思うだけで意識が切れてしまいそうだった。


 このときに、虎城にディーが教えた。

「虎城さん、あなたに伝えておきたいことがある。もしかするとあなたの班員たちは生きているかもしれない」

 虎城に話しかける前にハギヨシに目で合図を送っていた。教えてもいいだろうかという合図である。そうするとハギヨシは軽くうなずいた。教えてもかまわないという合図である。

 ディーはオロチの腹の中で起きたことをハギヨシに伝えている。おきたこととはオロチの腹の中で松常久の腹に奇妙な人形が埋め込まれていると京太郎に指摘されたこと。

 そして人形が生きた人間であるという事実に行き当たったことだ。ハギヨシとディーはこの埋め込まれていた人形たちこそ、行方不明になった班員たちではないのかと考えていた。

 根拠もある。

 ヤタガラスの構成員のイタコ能力に班員たちが引っかからなかったのだ。

 ヤタガラスの構成員には特殊な能力を持ったものが多い。虎城の回復魔法、ディーの風の能力、京太郎のような高い戦闘能力。話に出ている読心術。

 異能力というのが実にさまざまなのだ。京太郎は戦いに特化しているけれども、まったく戦いに関係のない能力を持っているものもいる。

 魔法の道具を作るものだとか、治療に特化しているとか、瞬間移動ができるとか。悪魔を見る、悪魔の言葉を理解するというのもひとつの能力で、今のように技術が発達していなかった時代は悪魔に出会うのにも話しかけるのにも修行が必要だった。

また尋常ではないマグネタイトの保有能力というのも異能力である。天江衣のことだ。

 そして異能力の中にはイタコのような能力もある。死者の言葉を届ける力である。いかにもうそ臭い能力だが、当たり前のように本物がヤタガラスに在籍している。

 この能力を持ったものたちは、死んでしまった者たちの声を届けてくれる。それこそ熟練のイタコならば輪廻でもしていない限りは霊魂を呼び出せるのだ。

 松常久の裏切りという話を聞いたハギヨシはすぐにイタコの手配をした。なぜなら、死んでしまっているのならばここから情報が手に入るからである。

 しかしヤタガラスのイタコは行方不明になった構成員の魂を口寄せできていない。さっぱり呼び出せないのだ。内偵を行っていた構成員も虎城の部下たちもまったく応答がなかった。

 となれば、可能性は二つ。ひとつは魂が輪廻している可能性。すでに次の命として、生まれ変わっている。別の命として生まれ変わっているのならば、呼び出すことはできない。

 もうひとつの可能性はまだ死んでいないという可能性。死んでいなければ口寄せすることはできないのだから、生きているのだろうという発想である。流石に昨日の今日で輪廻するということはまずありえないので、ヤタガラスは生存していると考えていた。

 ディーがこの事実を伝えたいと思ったのは、少しくらい虎城の心の重たさを軽くしてやりたいと考えたからである。ただ、もしかしたら間違えているかもしれないのでハギヨシの許可を求めたのだった。そうするとハギヨシは問題ないとうなずいたので、ディーは教えたのだった。

 ディーが構成員の生存を告げると虎城が顔を上げた。

「どういうことです?」

 やっと声を出している状況だった。虎城は自分の班員が生き残っているとは思っていなかったのだ。もちろん、生きていてくれるのならそれが一番である。しかし、油断しているところを強襲されたという事実が彼女の頭を悪い方向に考えさせている。

何せ、彼女たちは後方支援が専門で戦う力がない。

 虎城はそれなりに戦える。しかし虎城の班員たちは虎城よりもはるかに武力が低い。護身術程度の動きは身につけさせたけれども、普通の人間が拳銃でも構えていたらおそらく敗北するだろう。その程度の武力なのだ。

 上級になりかけの松常久たちの襲撃で生き残っていられるわけがない。どうしてもそう思ってしまう。だから、ディーの希望を持たせるような話が信じられなかった。

 倒れそうな虎城にディーが答えた。

「松常久は生き人形を体に埋め込んでいた。俺が確認した限りでは五つ。須賀ちゃんが見抜いてくれたんだ。

『松常久は生き人形をエネルギー源にしているのではないか』ってね。

 虎城さんの班員たちが見つかっていないのは、もしかしたら人形にされているからかもしれない。ただ、もしかすると、まったく関係のない誰かなのかもしれない。

 しかし松常久の心情と、今の状況から考えると一番可能性が高いだろう。

 もしも俺たちの推測が正しければ、あなたたちの班員はひどい状況にある。生き人形にされてマグネタイトを絞られているわけだからな。

 ただ、まだ可能性はある。それもいい方向に。少なくとも俺はそう思いたい。ハギちゃんも同じ気持ちだと思うぜ。そうだろ、ハギちゃん?」

 スポーツカーの近くに立っているハギヨシにディーは同意を求めていた。ディーに同意を求められたハギヨシは軽く微笑んでうなずいた。


 ディーの話を聞いて虎城は何度も何度もうなずいていた。ただ、顔を見せないように下を向いている。また声は出さなかった。そしてうなずいている間、何度も鼻をすすっていた。

いろいろな感情が心の中にわいていた。冷静な自分と喜ぶ自分の狭間で彼女は揺れているのだ。そうなってくると、自分の心がよくわからなくなってくる。
 どうしたらいいのかわからない心のなか、ひとつだけはっきりとしているものがあった。ただ無性に灰色の少年に虎城は礼を言いたくなっていた。


 やっとこれでどうにかなったという雰囲気が流れてきた。そうしていると背の高いメイドがハギヨシのところにあわてて走ってきた。メイド服のロングスカートが翻っている。

 井上純だ。彼女はずいぶん顔色が悪かった。彼女が走ってきたのは、急いで伝えなくてはならないことがあるからだ。非常に無作法なのはわかっていたけれども作法よりも情報を伝えることが大切だった。

 息を切らせている井上純にハギヨシが聞いた。

「どうしました?」

ハギヨシは少し驚いていた。井上純がここまであわてて無作法にしているのを見たことがなかったからである。

 井上純はこのように答えた。

「松常久がパーティーに現れた。あのおっさん、虎城さんが裏切り者だと演説を始めやがった!」

 井上純は一気に言葉を吐き出した。ずいぶん怒っていた。それはそのはずで、松常久が行っている演説がずいぶん腹の立つ内容だったのだ。それにパーティー会場にいきなり現れて、パーティーを台無しにしてしまったというのも怒りの原因になっている。

 井上純の話を聞いたとき、ディーが鼻で笑った。そしてこういった。

「馬鹿が。自分から殺されにきたのか?

 それにどうして虎城さんがヤタガラスの構成員を殺さなくちゃならないんだよ。俺たちに罪をおっかぶせるにしても、いくらなんでも話が通らない」

 ディーが笑うのも無理はない。もうすでに松常久の結末は決まっている。処刑だ。松常久の悪行はすでにヤタガラスの幹部達に報告している。そして十四代目にもハギヨシが直接連絡を取って伝えている。

 しかも虎城がぜひ読心術を自分にかけてくれと願い出てくれている。いまさら何を演説したところで結末が変わることはない。だからディーは松常久を笑うのだ。演説をひとつ打ったところで結末は変わらない。

むしろ、追いかける手間が省けたと笑うのだった。オロチを目覚めさせて一般のサマナーを危険にさらした罪についても追い込まなくてはならないのだから、ちょうどいい。

 またディーと同じように虎城がこういった。

「ふざけないでよ。何で私が裏切りなんて……あの子達を私が殺すわけがないないじゃない」

 怒りももちろんある。しかし悲しさでいっぱいといった様子だった。虎城はもう激しく怒るだけの力がないのだ。氷詰めになっての逃亡。命を奪われるかもしれないという不安。無関係の京太郎とディーを巻き込んでしまった罪悪感。それに加えて見るものを発狂させかねないオロチの触覚との遭遇。

今の虎城はどうにか立っているだけの状態だ。少し押せば完全に折れるだろう。松常久の謀略に反応できるわけもなかった。

 井上純の報告を聞いたハギヨシは十秒ほど黙っていた。そして冷えた声でこういった。

「あぁ、そういうつもりですか。はっきりとした証拠がないのと、先輩と私の立場が悪いのを利用しているわけですね。

 かつてヤタガラスの利益の幾つかをつぶした私たちが共謀して松常久を貶めようとしていると、そういうストーリーを作ろうとしているわけですか。

なるほど、先輩を護衛にしていたのはただの偶然でしょうが、利用してきましたね。

 そこまで賢い人には見えませんでしたけど……助言されたか?」

ハギヨシが非常に冷静だったのは

「こういうこともあるかもしれない」

と考えていたからだ。もちろん、可能性があったというだけで、本当にこの手段を選ぶとは考えていなかった。それこそ一パーセント未満の可能性だとハギヨシは見ていた。

 ハギヨシの考えだと、一目散に逃げるのが一番で八割、二番目はスケープゴートを用意して自分は関係ないのだといって逃れる方法が一割と少し。

 虎城に全ての罪を着せるというのも、なくはない方法だった。しかしこの方法というのは虎城どころか京太郎とディーを始末して、かつ情報を外に漏らさなかったときにだけ有効な方法だ。

なぜなら一人でも生き残れば、生き残りに読心術を使い情報を手に入れることができるからだ。そうすれば十四代目は松常久を始末しに動く。

 十四代目からすれば内偵をしなければならないほど黒い相手なのだ。そんなところで内偵を行っていた構成員が行方不明になる事件が起きれば問答無用で始末しに来る。

 何にしても松常久の行動予測が頭にあったハギヨシは当事者である虎城とディーよりも余裕を持って事情を把握できた。

 ざっくりいってしまえば、殺人事件の加害者が証拠のないのをいいことに、被害者と、その関係者に罪をかぶせてしまおうとしているのだ。

「自分ははめられたのだ。証拠もないのに私が犯人だとみなが証言する。おかしいではないか。証拠もないのにどうして私が犯人にされるのか。

 被害者を語るものたちの証言などまったく信用できない。彼らは私をはめようと手を組んでいるのだ。

 確実な証拠を要求する! なければ私を裁くことはできない! 私は白だ!」

このようなものだ。加害者のところを松常久に、被害者の部分をヤタガラスの構成員たちに変えておけば、大体正解である。


 冷えたハギヨシの独り言を聞いたディーがこういった。

「ハギちゃん、証拠なら虎城さんがいる。須賀ちゃんと俺がここまで連れてきた虎城さんがここにいる。彼女は読心術を受ける覚悟がある。証拠になるだろ?」

 ディーは困っていた。額に手を当てて、考え込んでいる。松常久の考えがさっぱりわからないからだ。たしかに松常久のやり方は通らなくもないやり方だ。

普通の裁判ならば、それでどうにか通るかもしれない。完全に黒と言い切れないのなら、処罰するのは難しい。権力もそこそこにもっている松常久であるから逃げ切れるかもしれない、普通の裁判なら。

 しかし、松常久が事件を起こしたのはサマナーたちの領域だ。裏の世界といっていい領域である。悪魔がはびこり、超能力が飛び交う世界だ。普通の証拠などまったく意味を持たないのは常識である。

常識だからこそ、読心術を使うという必殺技があるのだ。当然今回も読心術を使うだろうし、使って当然と誰もが言う。そうすることで簡単に真実がわかるからだ。ならば、逃げ切るのは無理だろう。

 ディーもサマナーの常識がわかっているので、松常久のやり方がさっぱりわからなかった。

 うろたえているディーにハギヨシがこういった。

「力押しでくるでしょう。おそらく松常久はこういいますよ。

『虎城は共犯者なのだ。ハギヨシたちと手を組んで私をはめようとしている』と。

 もしかしたら、こういうかもしれませんね

『十四代目は弟子たちを使って自分を落としいれようとしている。ライドウは信用できない』と。

 もう少し突っ込んでくるかもしれませんね。たとえば

『龍門渕も協力しているに違いない。六年前の事件で株を上げたことに味を占めているのだ。今回は私をつぶすことで利益を得ようとしているに違いない。
 私に読心術をかけて有益な情報を奪おうとしているのだ! 口座番号、裏金のありか、特殊な技術。私にはそれがある!』

などという感じで。

 まぁ、ケチを付けられるところにつけまくり延命しようとしている、というところでしょうか」

 ハギヨシは目を細めていた。松常久がどのような行動をとろうとしているのかを話すハギヨシの口調からは余裕が感じられた。それもそのはずで、いくら松常久がもがいたところで結末は変わらないという確信があるからだ。

 まずすでに、十四代目には全てを報告している。そうなれば十四代目はヤタガラスに働きかけるに違いない。内偵を進めていたのだから、当然十四代目は動く。十四代目が動けば、これだけでヤタガラスは松常久を切りにかかるだろう。長きにわたり帝都を守り続けたライドウの影響力、カリスマというのは非常に大きいのだ。

 何なら、ディーからの報告から手に入れた松常久が悪魔に堕ちたという情報を使い始末してもいいのだ。いくら小ざかしく立ち振る舞ったところで、結末は揺るぎようがない。

 松常久の延命についてハギヨシが推測をすると、虎城はこういった。

「十四代目は松常久を怪しいと思っていたはずです。内偵を進めたのもそのため。今回の一件で黒が確定したとみていい。逃げられるわけがない。無駄な足掻きのはず」

 虎城の指摘にハギヨシが答えた。

「無駄でしょうね。しかしあがき続けるでしょう。ここであきらめたら処刑ですからね。潔くあきらめたりはしないでしょう。

 松常久にはいいギャンブルに見えているのでしょうね。

 師匠がこのパーティーに出席していたら一発アウトですけど、今日はひ孫さんのところにお見舞いらしいので、松常久は一つ延命できています。

 師匠がいないとわかって調子に乗った松常久はこんなことを考えているのではないでしょうか。

『なんの確証もない松常久を裁くのは不利益が多いと、ヤタガラスの幹部達に思わせたい』

 今日のパーティーにはヤタガラスの関係者しかいませんからね、演説をするにはいい状況でしょう。

 灰色の状況で松常久を切るためには、確固たる証拠が必要になります。そうしなければほかの下部構成員たちが疑心暗鬼になる。

 六年前に私たちが幹部達を始末したのを知らないものはいませんからね。

『幹部でも切り捨てるのだから、下部の構成員などゴミのように捨てられるのではないか』

 構成員から大量の疑心暗鬼を生みたくないのならば、自分を見逃せと暗に伝えているのですよ。

 松常久は、なかなかのギャンブラーですね。即始末されるかもしれない恐怖を乗り越えて演説をしているはずですよ」

 そして更に続けてこういった。

「まぁ、このパーティーを乗り切れたらスケープゴートでも用意するつもりでしょう。記憶をいじったスケープゴートをね」

 ここまで言い切るとハギヨシは歩き始めた。歩きながらハギヨシはこういった。

「パーティー会場に向かいましょうか。さっさと始末してしまいましょう」

パーティー会場に向かうハギヨシはすでに結論を出していた。

「松常久の賭けは負けだ」

 なぜ松常久の敗北だといえるのか。それはヤタガラスの幹部達は松常久のゆさぶり程度で揺らぐことはないと確信しているからだ。仮にこの程度の揺さぶりで揺れる幹部がいたとしたら、六年前のハギヨシとディーは楽に天江一家を助けることができただろう。

六年前のハギヨシとディーの所業からすれば、まったく松常久の演説など比較に値しない。今のハギヨシにあるのは、好き勝手に演説をぶちまけている松常久をどういう方法で始末するかというひとつだけだ。


 ハギヨシに続いて、ディーと虎城が歩き出した。二人はハギヨシの少し後ろを歩いていた。

 そしてハギヨシの話を黙って話を聞いていた龍門渕透華と井上純がそろって歩き始めた。

 ハギヨシを追うディーは冷静になっていた。ハギヨシがずいぶん怒っているのに気がついているからだ。もしものときは自分が止めなければならないとディーは冷静さを取り戻していた。

 ディーの後に続いたのは虎城である。何とか彼女は自分の足で歩けていた。やることがまだあるとわかっているからだ。気力を振り絞っていた。

 大人三人の後を追いかけるのは龍門渕透華と井上純である。見知ったハギヨシとディーから漂ってくる修羅場の気配に彼女たちは萎縮していた。話に聞く修羅場と実際に体験する修羅場とでは精神的にかかる圧力というのが違うのだ。彼女たちはこういう体験は初めてだった。




 パーティー会場では、松常久がわめいていた。ずいぶん顔色が悪かった。汗もかいている。それに足元がふらついていた。マラソンでも走ってきたのかというような調子である。さらに眼球が左右に激しく揺れているのは病院に行ったほうがいいのではないかと思わせる不気味さがあった。

しかしそれでもわめいている。

 わめいている内容は、たいしたものではなかった。

「ライドウが自分をはめようとしている」

とか、

「ライドウの弟子たちが自分をはめるために動いている」

とか、

「ライドウの弟子たちはヤタガラスに敵対するようなまねをしたではないか。今回もそうだ。十四代目の一番弟子のベンケイも二番弟子のハギヨシも私をはめるために口裏を合わせているのだ。
 私に読心術をかけて情報を奪い取ろうとしている。私の頭の中には貴重な知識が山ほど詰まっているから、それを欲しているのだ!」

などのようなものである。およそハギヨシが予想したとおりの演説だった。ただ、龍門渕とライドウを罵倒する言葉が予想よりも多く見られた。

 パーティー会場に招待されているものたちの反応はいろいろだった。しかしほとんどの人は黙って聞いていた。わずかに鼻で笑っている人たちがいて、ほんの数人だけまったく違った行動をとっていた。

 会場のほとんどは、黙って聞いている人たちである。黙って聞いている人たちは同意しているから黙っているのではない。何がおきたのかさっぱりわからないから、話を聞いているのだ。いきなり始まった演説である。どういう流れの事件が起きているのか理解するために話を聞いていた。

 虎城やディーのように実際に襲われた人ならばすぐに嘘だとわかるだろう。特に松常久は悪魔に堕ちてしまっている。この事実だけでも、十分処刑される罪なのだ。

しかし、パーティー会場にいる人たちのほとんどは、そういう事実を知らないし、今はじめて構成員が行方不明になったのを知ったのだ。当然判断を行うために情報が必要で、そうなると黙って聞くしかない。

 鼻で笑っている人たちというのもわずかにいる。松常久の話を聞いて鼻で笑ったのは、完全にライドウ側の人間だからである。よくライドウと交流して、ライドウが何を考えて動いているのかを知っている人たちだ。

そのためライドウが松常久のような小物をいちいち罠にはめるわけがないとわかっている。始末しなければならないと判断すれば、すぐに始末しに来るのがライドウである。

 そして笑っている人たちが一番おかしいと思っているのは、ライドウの馬鹿弟子二人、ベンケイとハギヨシがいちいち師匠のために動くというところだ。これが一番ありえない。

ベンケイなら面倒くさいからいやだといって断るだろう。そういうタイプである。

 ハギヨシならば動いてくれなくはない。しかしお願いの内容によってはライドウに牙をむく。だから鼻で笑った。

「扱いにくい二人が都合よく動いてくれるものか」と

 そして会場の中のほんの数人だけが、パーティー会場の様子をじっくりと観察していた。この人たちは演説している松常久ではなく、パーティー会場の出席者たちを観察していた。

 この数人とは龍門渕透華の父親と祖父のことだ。二人とも冷え切った目でパーティー会場全体を見渡していた。透華の父親と祖父がパーティー会場全体を観察しているのは、内通者がいるのではないかと考えたからである。

 というのが、松常久は非常に無茶な賭けに打って出ている。自殺行為だといってもいい。今この瞬間に討伐されてもおかしくないのだ。しかしあえてここに出てきているというのなら、勝てるかもしれない可能性があるからだろう。

 仮に、ここで勝つことができるとしたら、それは会場にいる数名の幹部を完全に自分の思惑通りに動かしヤタガラスの決定を覆すところまで持っていく奇跡を起こすことだけである。

 奇跡を起こすために、演説ひとつだけでどうにかなるわけがない。しかし、松常久はここに来ている。ということは、自分ひとりではないという可能性があるだろう。

 つまりパーティー会場に松常久の仲間がいるかもしれないのだ。幹部を扇動する誰かがいるかもしれない。

 龍門渕透華の父親と祖父が冷えた目で会場を観察しているのは、もしかしたらを考えた結果だ。すでに人攫いの事件についてはよくわかっている。わかっているからこそ、明らかになっていない仲間の存在を疑ってしまう。

退魔の家系を狙った人攫いの仕事は、準幹部松常久程度の力で出来る仕事ではなかった。ただ、松常久はヤタガラスだった。ならばヤタガラスの身内を疑ってしかるべき。当然幹部も疑うべき。そういう頭になっているのだ。


 パーティー会場にたどり着いた龍門渕透華は一瞬立ちすくんだ。異様な熱気を感じたからだ。松常久の怒声とその迫力、そしてパーティー会場の出席者からただよう黒い念を感じ取ったのだ。

自分に向けられたものではないにしても、いい空気ではなかった。特に異能力者のパーティーであるから、渦巻く空気は地獄のようである。

 しかし松常久の聞くに堪えない演説を見せ付けられて、ひるんでいた龍門渕透華が魔力を練り始めた。

 今までの萎縮振りが嘘のように、一気にいつもどおりの龍門渕透華に戻っていた。ドレスの長いスカートをつまみ、一発食らわしてやろうと意気込み始めている。肌が白いため怒りで赤くなっているのがすぐにわかる。

 彼女が殴りかかろうとするのはしょうがないことだ。自分の一族とヤタガラスを侮辱する内容が耳に入ってきている。それも聞くに堪えない言葉ばかりで飾られている。彼女には許せないことだった。

自分たちは不正などしていない。ヤタガラスの幹部として使者として真面目にやっている。恐ろしいと思うことも山ほどあるのに、必死でやっている。そんな一生懸命なところに、侮辱などされれば、火もつく。

 さて殴りにいくかと意気込んでいる龍門渕透華を井上純が止めた。必死だった。ここで殴りに出て行けば、間違いなく別の問題が起きるからだ。特に龍門渕のお嬢様が殴りにいくのはまずかった。

今は龍門渕とヤタガラス、そしてライドウに罪をかぶせようとしている最中なのだ。しかも非常にあいまいな状況で不安定だ。ハギヨシは大丈夫だといっているけれども、万が一ひっくり返されたとき、どんな面倒が起きるのかはわからない。

なら、不用意な行動をとるのは控えるべき。井上純はすぐにそれに思い当たり、おもいきり龍門渕透華にしがみついたのだ。そして

「落ち着いてくれ! 手を出したら不利になる!」

となだめるのだった。

 龍門渕透華と井上純が騒がしくしていると、パーティー会場が静まり返った。会場の出席者たちがハギヨシの出現に気がついたのだ。

 パーティー会場にハギヨシが姿を現したところで、空気ががらりと変わった。会場にいた者たちは動きを止めて、言葉を吐き出せるものはいなくなった。演説を行っていた松常久も生き残りの黒服三人も黙り込んで動けなくなっていた。

 それもそのはず、会場に現れたハギヨシから漂う空気があまりにも剣呑だった。今まで汗だくになって騒いでいた松常久の汗が一気に引いて、青ざめるほどである。ハギヨシから発せられている空気は非常にわかりやすい主張がこもっていた。

「何を語ろうとも、始末する」

 黙るしかないだろう。衆人環視の状況と、読心術の結果が出ていないためハギヨシは手を下していないだけだ。人目がなくなるか、読心術の結果のどちらかが達成されれば、すぐに松常久と三人の黒服は始末されるだろう。

口に出さずともわかる揺らがぬ決定。そして流れ出す禍々しい気配は、パーティー会場にいる百戦錬磨のサマナーたちでさえ怯えさせていた。


 そんな状況で、やっと声を出したのが松常久だった。

「やっと現れたな。さぁ、ヤタガラスにはむかったその女をこちらに引き渡せ。そうすれば無念のうちに消えていったものたちも救われるだろう!」

 何とかハギヨシに体を向けていた。声は震えていたが、言いたいことは言えている。松常久は今すぐにでも逃げたい。真正面から見るハギヨシがあまりにも恐ろしかったのだ。

殺気という見えないはずの気配が、刃になって自分を狙っているような錯覚さえ起きていた。悪魔に堕ちていなければ、恐怖でショック死していたかもしれない。

 しかしそれでも演技をしなければならなかった。なぜなら、松常久は正義の味方という役を演じていたからである。少なくともパーティー会場に入ってからの松常久はそうだった。

「ヤタガラスの構成員を始末したのは虎城で自分は虎城を追い詰めるために動いていた。そして犯人である虎城の背後にはハギヨシがいて十四代目葛葉ライドウがいる。

 このままでは人攫い事件とヤタガラスの構成員が行方不明になっている件について罪を押し付けられるかもしれない。

 そうなれば自分は貴重な情報を抜き取られて、つぶされるかもしれないので、無茶をしても正義をなそうとした」

 そういう体裁で、演説をしていたのだ。ならば、ハギヨシに出会ったのならば、正義と道理の下にひれ伏すがいいという形をとらなくてはいけない。だから恐ろしくともハギヨシに堂々と立ち向かい、犯人である虎城を引き渡すように叫ぶのだった。
 

 ただ、一番に松常久に反応したのは虎城だった。力を振り絞って虎城が叫んだ。

「ふざけないで! 部下をそろえて襲い掛かってきたくせに! 口封じのために、部下を差し向けてきたのを忘れたのか! それにあんたは悪魔に姿を変えた!」

 虎城の声が震えていた。しかしそれは恐れのためではない。怒りと悲しみのためである。なぜこのような侮辱を受けなくてはならないのか。だから彼女は叫んだのだ。叫ばずにいられなかった。

 虎城がこのように叫ぶと、松常久がすぐに返してきた。

「知らないな。私はこのパーティーにまっすぐ来たのだ。君たちを襲う? 部下を差し向ける? 悪魔に変身? いったい誰と勘違いしているのかな?」

 松常久は自信満々に言い切った。なぜならば証拠などないからである。松常久の思うところからすれば、読心術さえなければどうにか逃げ切れるはずなのだ。龍門渕で演説を行っているのも読心術を受けたくないという一念のためである。

 ライドウが不正を行っているから、読心術を受けたくない。間違いなくヤタガラスやライドウの信奉者から睨まれるだろうが、それでも読心術はいやなのだ。読心術をかけられるかどうかに松常久の全てがかかっている。

 実際のところ松常久と虎城が出会ったという証拠はどこにもない。少なくとも現世に証拠はないだろう。現世で襲われたのは間違いないことだが、すでに悪魔の力を使い証拠は消されている。

次に出会ったのはオロチの創る異界だ。異界に証拠があるのか。ない。ないのだ。まったく何もない。京太郎とディーを証拠としてみても、もちろんベンケイも、松常久は共犯なのだろうといって終わらせるつもりだ。

六年前の九頭竜事件を背景にしたパワープレイである。ほかの誰かが現れても同じように切り抜けるつもりだ。お前も共犯なのだろうと突っぱね続ける。

 だから松常久は思うのだ。読心術さえ乗り切ればどうにかなる。読心術さえかけられなければ、情報は外に漏れない。読心術が自分を破滅させるが、読心術自体を疑わしいものにすれば逃げられる。そう信じて、自信満々に出会っていないというのだった。

 
 結末がわかっているのか、いないのか松常久はパーティー会場の出席者に向けてこういった。

「皆さん、お分かりでしょう! 彼女たちは私を落としいれようとしている。彼女らはこういうわけですよ

『身の潔白を証明したいのなら、読心術を受けろ』とね!

 そうやって情報を引き出して私たちを支配しようとするのですよ、このライドウの一派は! 護国を胸に生きている私を、食い物にしようとしている!」

 今までにないほど声を張り上げて松常久は主張し始めた。松常久のテンションは最高潮だった。読心術をなんとしても避けるために無謀な行動に打って出たのだ。ここで、ヤタガラスの読心術には裏があると会場の関係者たちに思わせることができさえすれば、どうにかなる可能性があると思っている。

命がけの大博打だ。引き込むためには何だってする。たとえそれが茶番であっても。

 


 演技を続ける松常久に虎城が叫んだ。

「嘘だ! あんたたちはオロチにいた! 私たちを殺すために追いかけてきた! オロチを目覚めさせて混乱を招いたのを忘れたか!」

 叫んでいたけれどまったく覇気がない。弱弱しくて今にも泣き出しそうだった。虎城にはもう体力が残されていないのだ。気力もいよいよ失われている。それでも言い返しているのは、自分の部下たちに対する気持ちがあったからだ。

 虎城の叫びに松常久がこういった。

「証拠はどこにある? ないだろう? もしかして君の記憶が証拠にでもなると思っているのか?
 
 君もライドウの一派なのだろう? 君の記憶は証拠にならない! いじくった記憶かもしれないからな!
 
 わかっているとも、そうやって私の頭の中にある情報を引き出そうとするわけだ、犯人でないのならば、読心術を受けられるだろうと!

 その手には乗らないぞ! そうやって掠め取ろうとしているのだろう私の情報を!

 ひゃははははは!」

 松常久は笑っていた。叫ぶ虎城のうろたえようが、自分自身の主張を高めてくれたからである。彼女が弱まり、自信なさげにしているのが、松常久の追い風になると信じている。松常久は会場の空気が自分に味方しているのを感じ、そして、わずかでも延命できることを喜んだ。

 松常久の指摘を受けると、虎城はうつむいた。唇をかみ締めて、握りこぶしを作り震えた。彼女は自分では松常久を追い込めないと理解したのだ。

限りなく黒に近い罪人を追い詰める方法が無いのが悔しくてしょうがない。

 場の空気をがらりと変えるほどの、根拠を持っていない。彼女は自分の記憶をヤタガラスに提供することで松常久を追い詰めようとした。読心術によって提供できる記憶が彼女の必殺技だったのだ。

しかし場の空気が、ヤタガラスの読心術を許してくれそうにない。そのとき、いったい何が証拠として採用されるのか。物証だ。しっかりとした物証が必要になる。悪魔の力を使えばなんでも偽造できるサマナーの世界でさえ揺らがない証拠が必要なのだ。

 彼女は何も持っていない。さっぱりこの場で松常久を打ち倒す証拠がない。虎城は自分ではもうどうすることもできないと悟った。そして、敗北したということも。しかしこの敗北は個人的な敗北で、心情的なものだ。ただ、口げんかに負けただけ。それだけだ。

 結末は変わらない。パーティー会場の空気をいくら乱そうと、ヤタガラスの幹部達が決定を翻すという話になるわけではない。また、仮に翻ったとして龍門渕から無事に帰れるという保障はどこにもない。

松常久の行った演説はただ虎城の心をへし折っただけである。むしろ生き残りたいというのなら、逆効果だったとさえいえる。

 なぜなら松常久の前にはいよいよ爆発寸前のハギヨシが待ち構えているのだから。ディーが必死に止めていなければ、この瞬間にでも三人の黒服もろとも消し飛んでいただろう。


 
 このやり取りを見ていたパーティーの出席者たちは同じような振る舞いをした。気の毒そうに虎城を見つめるばかりである。そして内心このように考えている。およそ、このようなもの。

「おそらく松常久は黒だろう。振る舞いに余裕がないのも、この場でライドウに喧嘩を売るようなまねをするのも、その証拠。

 しかしヤタガラスの準幹部を完全に切り捨てられる証拠を持って現れなかったのが彼女の失敗だった。

 法律が役に立たないこの世界で、そしてこの場で、衆人環視の中で正義を立てられるほどの根拠が彼女にない。それなのに声を上げ、松常久の前に出たことで言い負かされた。

 実際、無理やりに始末すれば、それこそ松常久の言葉通りにライドウの一派が私利私欲のために動いていると邪推されることになる。下手をすれば、いやな噂を立てられるかもしれない。

ただでさえ敵の多い十四代目葛葉ライドウだ。足を引っ張りたいと思うものは山ほどいる。これ幸いと騒ぐものもいるだろう。

 ヤタガラスの幹部達はこのパーティーのやり取りを気にして彼女に読心術をかけないかもしれない。どこかから証拠になる人物を探してくるかもしれないが、その間に記憶をいじられたスケープゴートが用意されるだろう。

 だからといってライドウとその弟子たちはこの男を許しはしない。あの男たちは悪評など気にも留めない。必要とあらばカラスもキツネも殺す信念を持っているのだから。

 結果だけ見れば松常久の断末魔は女性の心をひとつ折っただけだ。その代わりに龍の逆鱗に触れる失敗をした」

 会場の出席者たちは誰もが松常久を黒と確信していた。

 しかし松常久の演説が必殺の読心術を封じつつあった。虎城自体が疑惑の対象になり、処罰が難しくなりはじめていた。根拠もないのに読心術を使えば、松常久の言うとおりライドウが私利私欲に走ったと思われるからだ。

それは困る。ヤタガラスの看板になっているライドウが傷つく。そしてヤタガラスの構成員たちもいつ自分たちの利益を奪われるかもしれないと不安に思うようになるだろう。
 
 「なら、いっそ今回の件は」

となるかもしれない。あるかもしれない。龍門渕の当主たちが心配している幹部級の裏切り者がいるとすれば、それも複数いればありうる結末だろう。今回の演説にいるかもしれない幹部級の裏切り者が乗ればいいのだ。



 この複数の幹部級の裏切り者というもしもがなければ、結末は松常久の処刑で終わるだろう。確実に誰かが始末する。

 ただ、始末されればそれでいいのだろうか。少なくとも傷つけられたもの、馬鹿にされたものが救われない。

 虎城はうつむいて涙を流した。

 静まり返った会場。松常久が勝利を確信したとき、会場の扉が開いた。扉は大きな音を立てて開かれた。力加減がわからなかった京太郎が、思い切り扉を押したからだ。あまりにも強く扉を押したために、扉が壁にぶつかっていた。高価な金具がガタついた。


 虎城の心がへし折れる少し前の話だ。客室で国広一が京太郎を勧誘していた。

「もしよかったらさ、このままヤタガラスに入らない? 龍門渕所属でさ」

 ドライブでおきた一部始終を話した京太郎はアンヘルとソックから長い説教を受けることになっていた。説教中の京太郎はただ黙って聞いていた。京太郎も頭の悪いことをやったとわかっていたからだ。もしも他人が自分と同じことをしたとしたらもう少し賢くなれと注意していただろう。

 アンヘルとソックの説教の間に、国広一は少し頭を働かせたのだ。彼女が考えたのは、

「京太郎を自分たちの戦力にできないだろうか」

ということだった。

 もともと龍門渕にはサマナーが多い。長い間ヤタガラスの幹部をやっているのでネームバリューもある。それに資金に余裕があるためほかの支部よりも人材を集めやすかった。

 龍門渕は総合的に強い。とくに情報操作、情報収集、資産運用、魔法道具の創作に力がある。京太郎についての情報操作を行い、スムーズに日常に戻したのも龍門渕である。

 しかし龍門渕は総合して見ると評価が高いのだけれども兵力が低い。ハギヨシのような前線で戦える退魔士というのがほとんどいなかった。人数こそ集められるが、武将がいないのだ。前線専門で戦えるタイプというのはハギヨシとディーくらいのものである。これはまずかった。

 時代の流れからほとんどのサマナーが機械に頼った召喚術を使うのだ。便利なのはわかる。退魔士というつらい修行を積まなければたどりつけない境地を目指すものは少ないだろう。

マグネタイトを増やして、上級悪魔を呼べば修行など積む必要がなくなるのだ。素質が全てだったはずのマグネタイトは資金と資材さえあればいくらでも用意できる。時間と金さえあれば上級悪魔を凡人が呼び出せるのだ。そうなると便利なものを使わないわけがない。

 しかし退魔士というのも必要なのだ。全て機械頼りだとバランスが悪い。それこそ京太郎のような稲妻を使うタイプが戦う相手であればあっという間に召喚不可能になる。

いくら対策をしても精密機械は魔法の種類によっては一発で動かなくなる。稲妻など食らった日にはいうまでもないだろう。直撃を受ければ確実に壊れるだろうし、近くにいるだけでも強烈な磁界に巻き込まれてまともに動かなくなる。

 国広一からするとこれからの二十年、三十年は龍門渕透華の時代だ。龍門渕は透華が引っ張っていくのだ。そのときに純粋な武力がないのは恐ろしい。策士ではなく武人がほしいのだ。

 不安が多いのはよろしくない。国広一は「龍門渕透華の戦力」を増やしておきたい。ハギヨシもディーも正式な龍門渕の戦力ではないのだから、このときにでも増やせるのならば増やしておくべきだった。

 そしてこのタイミングならアンヘルとソックも簡単に自分の味方をしてくれると判断した。簡単に修羅場におどり出て、はるか格上と戦うような無茶をするマスターを持っているのならば間違いないだろう。

 なにせ日本国内でならば公権力と連携して動けるヤタガラス。そして資金の援助も多い龍門渕とのコネクション。マスターのことを心配している二人ならばうなずいてくれるだろうと予想した。また、アンヘルとソックさえ味方につけさえすれば、京太郎を説得するのは非常に簡単だと国広一は見抜いていた。

 そのあたりをついて説教中に、勧誘を差し込こんだのだ。

 国広一が京太郎を誘うと説教をしていたアンヘルがうなずいた。そして国広一の思惑通り、京太郎にヤタガラスへの所属を進めた。

「いいかもしれません。面倒なストーカーも抑えられるかも。

 それにメシア教会とガイア教団がちょっかいをかけてくるかもしれませんから、今のうちに手を打っておくほうがいいかもしれませんね。

 鬱陶しいだけですから」

 説教をしていたアンヘルは実に切り替えが早かった。すでにアンヘルの中では京太郎がヤタガラスに所属することは決定事項のようだった。国広一が何を思っているのかというのは少しも考えていない。

アンヘルからすれば、国広一がなぜ勧誘しているのかなどという瑣末な問題よりも、超ド級のストーカーからどうやって自分のマスターを守るのかという問題のほうがはるかに大切だった。

ヤタガラスに所属すればいくらかましな状況になるだろう。運よくすれば十四代目葛葉ライドウに話をつけてストーカーを黙らせることができるかもしれない。国広一の提案というのはアンヘルの目的とかみ合っていた。だから簡単に乗ってきたのだ。

 アンヘルが国広一の勧誘に乗るような話をして、少し間をおいてからソックが笑った。そしてこんなことを話した。

「天使ならメシア教会を薦めておくべきじゃないのか? というか、鬱陶しいって」

 国広一の提案にアンヘルが乗ったことをソックは何も追求しなかった。アンヘルが考えているような内容をソックも考えていたからだ。国広一に思惑があるというのはわかっていたけれど、たいした問題でないと判断していた。

それよりも、もともと天使だったはずのアンヘルがメシア教会を薦めないのが面白かった。出会った当初からおかしな天使であったが、鬱陶しいなどと言うとは思っていなかったのだ。

 アンヘルは気の抜けた返事をした。

「へ?」

 まったく何がおかしいのかわかっていないようだった。アンヘルにしてみればまったく嘘などないからだ。

メシア教会もガイア教団もただ鬱陶しいだけなのだから、嘘はない。特にメシア教会辺りは彼女のもともとの気風からするとどうしても好きになれないのだ。

アンヘルが地上に降りてきたのは、自分の楽しみのためだ。唯一神をなのる新参者にも、その配下の理想にもそれにすがる人間たちにも興味がない。そのため、メシア教会を薦めないのかといわれてもさっぱりソックのいいたいことがわからないのだ。

 気の抜けた返事をしたアンヘルに天江衣が突っ込みを入れた。

「何だその反応は?」

天江衣も笑っていた。気の抜けたアンヘルがおかしかったのだ。

 
 気の抜けたやり取りをしていると客室の扉をノックするものがいた。ノックは三回だった。

 国広一が返事をすると少年が二人入ってきた。男子高校生だった。二人とも学生服を着ている。一人は京太郎と同じ学生服。もう一人は龍門渕の学生服を着ていた。

二人とも京太郎とそれほど変わらない背格好だった。この二人は京太郎の友達である。一人は京太郎に人探しを頼んだ友人。もう一人は京太郎が探して連れ戻した友人である。

 人探しを頼んだ友人の名前は淡河 鯨(おうご くじら)。京太郎と同じくらいの身長で、ワイルドな印象がある。肉体的に恵まれているけれども、雰囲気に角がなかった。動物でたとえると、大きな牛である。それも小動物が背中に乗れそうな穏やかな牛だ。

 京太郎が連れ戻した友人の名前は龍門渕 硯(すずり)である。京太郎と鯨よりも身長が少しだけ低かった。ずいぶん静かな印象があった。龍門渕透華のように派手なタイプではない。髪の毛も父親から受け継いだ黒色だ。母親の金色は受け継いでいない。

しかし人の中にいても目立ってしまうタイプだった。じっくりと観察せずとも、猫の中に虎が混じっているような違和感があるだろう。

 客室に入ってきた鯨が京太郎に挨拶をした。

「よう、京太郎」

軽く手を上げて、軽く微笑んでいた。鯨の横ではスズリが軽く会釈をしていた。

 客室に友人二人が入ってきたところで、京太郎はこういった。

「あれ? どうしたの二人とも」

なぜ龍門渕に二人がいるのかさっぱりわからなかったのだ。

 京太郎の質問に鯨が答えた。

「俺も招待されたんだよ。もともとはスズリがもどってこれたパーティーだからな」

 鯨は右手で頭をかいていた。少し気まずそうにしていた。というのが、鯨には負い目がある。スズリがさらわれたのは自分が遊びに誘ったからだと鯨は思っているのだ。

自分がスズリを誘わなければ京太郎も京太郎の両親も、スズリも、スズリの家族もつらい目にあわずに済んだのではないのかと気に病んでいた。

 鯨の答えを聞いた京太郎は質問をした。

「パーティー? あぁ、それでどうしたの? 何か用事?」

 京太郎は何度もうなずいていた。目が泳いでいた。パーティーのことをすっかり忘れていたのだ。

 京太郎の質問にスズリが答えた。

「透華姉ちゃんとハギさんの堪忍袋の緒が切れそうで、国広さんにとめてもらおうかと」

 スズリは冷や汗をかいていた。ものすごく恐ろしいものを見たからである。従姉弟が暴れだそうとしている姿を見てではない。ハギヨシの目があまりにも恐ろしかったのを覚えているためである。目が合ったときにはあまりの恐ろしさに笑ってしまうところだった。

ただスズリと鯨はずいぶん冷静だった。松常久の演説など二人にとってはどうでもいいことだったからだ。そのためいちいち龍門渕が正しいのか、それとも松常久が正しいのかと悩むことはなかった。いきなり現れた小男を信じるなどありえない話だった。

 さっさと決断を下した二人はハギヨシと透華を止めるために動いていた。衆人環視の中で、しかもそこそこの権力者たちの前で安易な暴力が面倒を呼ぶのは二人にも簡単に察せられたのだ。



 
パーティー会場で面倒が起きているとスズリが話をすると、国広一はこういった。ずいぶん驚いていた。

「ハギヨシさんまで?」

 ハギヨシの沸点が非常に高いのを国広一は知っているのだ。よほどのことがなければ暴力には打って出ないはず。しかしスズリと鯨にでもわかるほど怒っていたというのならば、それは結構な出来事があったということである。

それが不思議だったのだ。透華だけならそれほど驚かないのだけれども。

 スズリが答えた。

「松、何たらって言う小さなおっさんが、騒ぎ始めたんですよ。それがハギヨシさんを怒らせる内容で」

 スズリは冷えた目で語っていた。ただ、スズリは具体的な演説の内容について語らなかった。語れなかったのだ。スズリにとって松常久の名前も演説の内容もどうでもよかったからだ。スズリの頭の中からはさっぱり消えうせている。

 スズリの答えを聞くと国広一はすぐに理解して動き出した。

「なるほどわかった。すぐに向かうよ」

 こういうと準備をして、客室から出て行った。


 国広一が姿を消したところで、京太郎がこういった。

「松常久か……パーティー会場って、どこよ?」

 松常久の名前を聞いた京太郎の目がほんの少しだけ赤く輝いた。京太郎は松常久を逃すつもりはないのだ。オロチの腹の中で逃してしまったけれども、本当ならば始末しておきたい相手である。そしてできるのならば、生き人形にされている人たちを取り戻したかった。

 京太郎がたずねると鯨がこういった。

「何だ、知り合いか? 今いくのはやめておいたほうがいいぜ、あのおっさん完全に目がいかれてたからな」

 鯨の正直な感想である。松常久の鬼気迫る演説を冷静に見ていた鯨には、少しおかしい人間にしか見えていなかったのだ。特に、眼球の動きが激しすぎて気味がわるかった。まともに話し合いなどできるタイプではない。それが鯨の印象だった。

 鯨にスズリがこういった。

「悪口はあまり言わないほうがいいよ。あのおっさん一応ヤタガラスの準幹部みたいだから聞かれていたらまずい」

と、鯨を注意してはいたけれども、まったく注意になっていなかった。注意をしているはずのスズリの口調が松常久を小ばかにしたものだったからだ。しかし一応は注意をしておいた。どこに耳があるのかわからないのだ。

 スズリと鯨に京太郎はお願いした。

「知り合い……まぁ、そうだ、知り合いかな。

 少し挨拶がしたくて。だめ?」

 京太郎は二人に手を合わせていた。特別京太郎は何をするつもりはない。ただ、挨拶をするためだけに顔を合わせておきたいと思っているだけだ。

 それ以上のことを京太郎からするつもりはない。松常久が罵倒してこようとも手を出すつもりはない。それをしたら龍門渕に迷惑がかかるとわかっているからだ。流石にいきなり攻撃を仕掛けるほど京太郎は馬鹿ではない。ただ、挨拶をして、確かめたいだけだ。そのためには顔を合わせる必要があった。

 だから案内のお願いをした。自分で会場を探すよりもずっと手間が省ける。

 京太郎がお願いするとスズリはうなずいた。

「わかりました。案内しますけど、状況が悪くなっていたら、引いてくださいよ。あと僕は手助けできるような立場ではないですからね。無茶しても助けられませんよ」

 スズリは非常にもやっとしていた。京太郎を松常久の前に出すことがよくないことにつながるような気がしているからだ。しかし京太郎のお願いを聞いた。それは京太郎に助けてもらった借りがあるからだ。

この程度で返せたとは思ってもいないが、利子程度にはなると考えたのだった。だから、案内することに決めた。

 スズリがうなずくと京太郎はイスから立ち上がった。そうして、スズリを先頭にして京太郎と鯨が客室から出て行った。客室から出て行くときに、鯨が京太郎にこういっていた。

「やばいと思ったらすぐに逃げろよ。本当にあれは目を合わせたらだめな人の目だったぞ」

 男三人が出て行くと、アンヘルとソック、そして天江衣も後をついて出て行った。ソックが立ち上がり、当たり前のように京太郎の後を追った。そして天江衣をアンヘルが肩に担いで歩き出したのだ。天江衣はどうすることもできずに運ばれるばかりだった。

 移動中、アンヘルとソックは微笑んでいた。何か面白いことが起きると予感したのである。一方肩に担がれている天江衣はニヤニヤしているアンヘルとソックに引いていた。テレビゲームで自分をはめたときの表情とそっくりだったからだ。


 スズリに案内されて京太郎はパーティー会場に到着した。京太郎が会場の扉を開いたとき、すべての視線が、京太郎に注がれた。静まり返った会場だったのだ。そんなところで扉が壁にぶち当たっている。普通でもうるさい音なのに、静まり返っていたためにとんでもない騒音になっていた。

 扉を思い切り開いた京太郎は、扉を開いた格好のままでほんの少しだけ固まった。自分がいまいち加減ができていないのを忘れていたのだ。そしてお値段の高い扉をおそらく壊しただろうという予感で青ざめたのだった。

 パーティー会場に現れた京太郎を確認した松常久の顔色が非常に悪くなった。口げんかに勝ったという喜びは消え去っている。真っ青になり目が泳いだ。京太郎に殺されかけた恐怖を思い出したのだ。

 しかしすぐに持ち直して見せた。ここであわてたら今までの積み重ねが何もなくなるからだ。今の状況でさえ真っ黒に近い状態なのだ。かろうじて読心術を防いでいるだけで、少しのぼろで確実な黒になり始末される。

それはいやだ。松常久は死にたくない。だからここでもがんばって正義のヤタガラスを演じ続けていた。茶番でもやり通せれば命がつながる。今の松常久は世界中の誰よりも演技に真剣である。

 京太郎が動き出したのは扉を開いてから五秒ほどたってからである。動き出してからは早かった。松常久に目もくれず、ずんずんとうつむいている虎城に近づいていった。虎城に近づいていく京太郎の目は赤く輝いている。

今まであった京太郎の表情はなくなっていた。何もない。京太郎の目にはうつむいている虎城の涙がよく見えていた。

 うつむいている虎城の正面に立った京太郎は聞いた。

「大丈夫ですか?」

松常久だとか、怒りに震えているハギヨシだとか、必死になってハギヨシをとめているディーなどまったく目に入っていない。会場中の視線が集中するのも、どうでもよかった。

 京太郎の問いかけに虎城はうつむいたままうなずいた。

 京太郎は虎城の姿を見て、「そうですか」といった。

京太郎は納得したのだ。ずいぶん鼻をすすっているようだけれども、うなずいているのだから大丈夫なのだろうと。そして大丈夫なのだから京太郎はそれ以上は突っ込まなかった。虎城の性格はなんとなくだけれどわかっているのだ。

 そして大丈夫だというのを確認して京太郎は振り返った。松常久と挨拶をするためだ。挨拶をするときには、真正面に立って、相手の目を見なければならない。うつむいている虎城を見たままで挨拶をするのは失礼に当たる。だから京太郎は振り返ったのだ。きっちり挨拶をして、終わらせるためである。
 
 京太郎が振り返って、二秒ほど間を空けてから松常久はこういった。

「君が噂の魔人か。何の御用かな?」

 松常久の声は震えていた。歯がカスタネットのように打ち合っていた。京太郎の輝く赤い目を見てしまったからである。

 かろうじて声を出せているのは死の恐怖から逃れるためである。死の恐怖というのは二つある。処刑の恐怖と、魔人の恐怖である。松常久は早くこの場から立ち去りたかった。

 パーティー会場がざわついた。松常久が魔人という言葉を吐いたからだ。会場の反応は、大体が恐ろしいという反応だった。

 ほんの少しだけ違う反応をする出席者がいた。龍門渕透華の父親と祖父だ。彼らは出席者の数名を睨んでいた。松常久の失言に一瞬だけ対応を間違えたものがいたのを見逃さなかった。

 パーティー会場が騒がしくなった。しかしそんな中でも京太郎は変わらなかった。ただ、自分の目的を成し遂げようと動いていた。京太郎は目的どおりに挨拶をした。

「お久しぶりです松常久さん。先ほどはどうも、死ぬかと思いました」

 京太郎は頭を下げて挨拶をしていた。実に丁寧な振る舞いだった。京太郎はそもそも挨拶をするためにここに来たのだ。戦いに来たわけではない。だからこれでいい。


 京太郎が挨拶をすると松常久はこう答えた。

「始めましての間違いだろう? 私たちは初対面だ」

 震えていた松常久だったが、鼻で笑いながら京太郎に対応していた。松常久はこう考えたのだ。京太郎は自分を脅かして

「久しぶりだな」

といわせようとしたのだと。

 京太郎と松常久がであったのはオロチの世界だ。松常久の作り話では、寄り道をせずに龍門渕に参上したことになっている。裏切り者である虎城を追い詰めて、ハギヨシたちの悪巧みをつぶすために演説をしているのだという体裁でやっているのだ。

ということはオロチの世界に松常久はいなかったはずなのだから、久しぶりだといってはいけない。松常久の話を通すのならば京太郎とは初対面だ。

 つまりこういうことだと結論を出していた。

「輝く赤い目で自分を驚かして、萎縮させ、躓かせようとしたのだな。

 『お前は! あのときの』とか何度か出会ったような一言を引き出そうとしたのだな」

 しかしその思惑は簡単に見破られた。そして京太郎の愚かさを馬鹿にしたのだった。ここまで読みきった松常久は正しく答えたのだ。

「はじめまして」と。

 松常久が「はじめまして」と答えたところで京太郎のワイシャツを虎城が引っ張った。京太郎の背中でうつむいている虎城も京太郎のたくらみを見破っていたのだ。

 そして虎城はすぐに京太郎が何をしようとしているのかも理解した。京太郎は自分の変わりに松常久を言い負かそうとしているのだと。だから止めようとした。松常久は無茶なことをやっているけれども、それなりに頭が回るのだ。

ここで印象を悪くして京太郎が不利益をこうむるのは虎城の望むところではない。

 虎城はこう思うのだ。

「私が泣くのはかまわない。ただ、須賀くんが巻き込まれてはだめ」

 しかし、声は出せなかった。うれしいやら悲しいやらと感情が混じり、思考が統一できず、体力の消耗も加わっていよいよのどが動かないのだ。
 自分のワイシャツを引っ張っている虎城を無視して京太郎はこういった。

「そうでしょうか。俺たちはオロチの腹の中で殺しあいました。初対面とはいわないはずです」

嘘を言う理由がない。本当のことだ。オロチの腹の中で出会い、命の取り合いをした。忘れられない体験だった。

 すぐさま松常久は返してきた。

「病院にいったほうがいい。それも大病院だ。君は妄想と現実の区別がつかないらしい。頭の調子を見てもらったらどうかな」

 松常久の話では二人は出会っていてはいけないのだ。だから京太郎の話は全て妄想だと切り捨てた。そうしなければ自分の話の筋が通らない。

 少し考えてから京太郎はこういった。

「悪魔に変身したあなたの姿をよく覚えているのですが」

 なぜ、松常久が嘘をつくのかがわからないのだ。自分と出会い、一戦を交えた。悪魔に変身した松常久の姿はよく覚えている。石膏像のような顔、二メートル近い身長。胴体部分に五体の生き人形がはめ込まれていた。頭を砕いたときの感触もしっかりと覚えている。京太郎はただ、認めてもらいたいだけだ。

そうしなければ久しぶりという挨拶が間違いになってしまう。

 松常久の返しは非常に早かった。ほとんど間を空けずに言葉を打ち込んできた。

「人間が悪魔に変身するわけがないだろう。それに悪魔に変身する術は、禁術だ。

 君は知らないかもしれないが、生物の肉体を持った悪魔というのは大変危険なんだ。特に人間の肉体を持った悪魔なんてとんでもない。サマナーの常識だよ、君。

 私がそんなマネをすると思うのか。ヤタガラスの準幹部である私が。

 もしかすれば、幹部に昇格できる立場にいる私が、そんな馬鹿をやるとでも?失礼にもほどがあるぞ」

 間を空けずに答えられるのはこのやり取りを予想していたからである。どんな玉が飛んできたとしてもしっかりと返せるように予想を立てていた。そしてしっかりと、演じていた。京太郎の、その場で考えた質問などまったく松常久を揺らがせなかった。


 京太郎の質問を完璧に叩き返した松常久は、急に頭をおさえ苦しみ始めた。顔色が悪くなり、脂汗を浮かべている。今にも倒れてしまいそうである。松常久は気分が悪くなっているのだ。そして頭が非常に痛い。体が鉛のように重くなり、手足を動かすのが難しくなってきている。

 京太郎と松常久のやり取りが済んだ所で京太郎の背中を虎城が叩いた。うつむいたまま京太郎の背中をパシパシと平手で叩いていた。

 これは虎城の「もういいから」という気持ちを形にしたものだった。彼女はもう、この場所で松常久をとらえるのをあきらめたのだ。言い逃れする松常久を自分たちが捕まえきれないのはもうわかった。だから、京太郎にもうがんばらなくてもいいと伝えたのだ。

 次の京太郎の行動が虎城には予想できている。このままやり取りを続けていたら京太郎はきっと暴力に走るだろう。目的は簡単にわかる。暴力に走れば松常久は悪魔に変身するかもしれないからだ。

 しかし暴力に走った瞬間、京太郎は凶暴な魔人だと認められることになる。松常久はこれも読んでいるだろう。きっと変身せずに耐えるに違いない。結果起きるのは京太郎の終わりである。虎城には認められないことだった。だからもういいと彼女は背中を叩いたのだ。


 虎城が京太郎の背中を叩いたところで、松常久はこういった。

「申し訳ないが、失礼させてもらう。気分が悪い。その女の処遇は後で決めようじゃないか。正々堂々とね。そして君の処分も、そうだろ? 魔人くん」

 吐き捨てるようにという言葉が適切な口調だった。あっという間に京太郎との視線をきりパーティー会場の出口を目指して歩き出した。

そのときにずいぶん足元が怪しくなっていた。今にも倒れそうだった。そうしていると三人の黒服が松常久を支えに向かった。松常久も黒服も、龍門渕からすぐに逃げ出したいのだ。

ハギヨシももちろんだが、急激に高まっている京太郎の圧力から逃れたかった。

 立ち去ろうとしている松常久に京太郎は謝った。

「もしかしたら、俺のせいで気分を悪くされたのかもしれませんね。すみません」

 頭を軽く下げて、謝っていた。松常久を不快な気持ちにするために挨拶をしたわけではないのだ。不愉快にさせたというのならば、悲しいことだ。

 出口に向かって歩いていた松常久は、立ち止まってこういった。

「そうかもしれないな。君の失礼な発言がなければ、ここまで気を悪くしなかっただろう!」

 松常久は京太郎にも勝利したと感じたのだ。考えの浅い京太郎が思慮深い自分に敗北した。そう思うとたまらない気持ちになった。恐ろしい魔人を退けるのは知恵だ。そんな風にも感じていた。

 松常久のいやみから間を空けて京太郎が続けた。

「お詫びといってはおかしいですが、病院で脳を調べてもらうのがいいでしょう。そうすれば、悪さをしているものがすぐに見つかるはずです」

 京太郎の輝く赤い目はしっかりと松常久を見つめていた。松常久の気分が悪い原因を京太郎はよくわかっているのだ。だから気分が悪いのならば、原因を取り除いてもらえばいいと教えて差し上げるわけである。

 京太郎の指摘に松常久が笑った。

「君は医者かね? どうしてそんなことがわかる。いい加減なことをいってはいけないよ」

松常久から見れば、京太郎は頭の悪い子供だ。医者には到底見えなかった。頭の病気を疑えなどといわれても信じられるわけがなかった。


 笑う松常久に京太郎はこういった。

「わかりますよ。だって、あなたの頭の中にはヤタガラスのエンブレムが埋め込まれているのですから。

 あんなものが頭の中にあれば、気分も悪くなるでしょう。頭の血管が詰まってそのうち倒れてしまいますよ」


 京太郎は淡々と松常久に説明をした。京太郎は知っているのだ。松常久の頭蓋骨の中には特大のクサビが打ち込まれていると。

 打ち込んだものが誰なのかも知っている。京太郎だ。奈落に沈もうとしていたオロチの腹の中で、ヤタガラスのエンブレムを松常久の頭の中に叩き込んだ。

 松常久の様子がおかしいのは、埋め込まれたヤタガラスのエンブレムが脳みその働きを邪魔しているからに他ならない。悪魔の力があるために普通に歩き回れているが、悪魔の力があるからこそ異物を埋め込まれたことに気がつけなかった。

 逃げ出そうとしていた松常久の動きが完全に止まった。京太郎の話を受け止め切れなかったのだ。

 自分の頭の中にヤタガラスのエンブレムが埋め込まれている。そんなたわごとを理解したくなかったというのが正しいだろう。

 松常久には覚えがあるのだ。京太郎と立ち会ったときに打ち込まれた拳。光の中で視界が失われていたところを狙われて、二発攻撃を受けた。松常久はすぐに理解できていた。ただ、理解したら、自分の終わりもまた理解する羽目になる。

 茶番は終わったのだ。

 固まっている松常久に京太郎はこういった。

「オロチの腹の中で悪魔に変身したあなたの頭の中に俺がぶち込んだ。 光の中で視界が制限されていたから気がつかなかったか? それとも怒りでまともな判断ができなかったのか?

 異物が中に入ったまま自己再生をした様だな。何にしても、悪あがきはここで終わりだ。
 
 ヤタガラスのエンブレムには構成員の居場所を把握するための仕掛けがある。そうでしょ、ハギヨシさん?」

 輝く赤い目は松常久を睨み続けていた。はじめから京太郎は逃がすつもりなどなかったのだ。そして、松常久がなんとしても逃げようとするだろうと見越して、光の中で手を打った。それも言い逃れできない手段で行った。

 蛇のように執念深く京太郎は獲物を狙い続けていたのだ。

 京太郎に声をかけられたハギヨシがあわてて携帯電話を操作し始めた。今までの怒りは引っ込んでいた。京太郎の切り返しに頭が冷えたのだ。そして今、自分は何をするべきなのかを理解した。

いまするべきなのはエンブレムがどこにあるのかをはっきりさせること。ハギヨシならばエンブレムがどこにあるのかを調べられるのだ。だから急いで確認した。

 ハギヨシが調べている間、松常久は、自分の頭に手をあてていた。顔色は青を通り過ぎて白くなっている。絶望からか、目に光がない。松常久は終わりが近づいてきたのを感じているのだ。

 会場がざわつき始めたところでハギヨシはこういった。

「確認しました。エンブレムは今、この場所にあります。松さん、あなたの頭の中にある異物、それが何なのか確かめなくてはならないですね」

 携帯電話に示されている座標をハギヨシは会場全体に示した。龍門渕だ。これで松常久の黒が確定した。

 ハギヨシの宣言を受けて、京太郎が再び挨拶をした。

「お久しぶりです。松常久さん」

 松常久は始めましてと返してはいけなかった。しかしお久しぶりですと答えるのもいけなかった。京太郎が目の前に現れ挨拶をしたとき松常久の終わりは決定していた。もう言い訳はできない。処刑はここで行われる。延命はない。


 松常久は黒で終わりとはっきりした。しかし彼はあきらめなかった。マグネタイトが吹き上がり松常久の姿が変わる。そして三人の黒服たちもまた、姿を変えていった。

松常久が悪魔に姿を変えたのは京太郎を始末するためだ。京太郎だけは生かしておけなかった。

 三人の黒服たちが悪魔に変身したのは、逃げるためだ。彼らは松常久と心中するつもりはなかった。


 叫びながら松常久は京太郎に襲い掛かった。

「貴様が! 貴様さえいなければ!」

 叫びながら振りかぶられた右腕は京太郎もろとも虎城を始末する軌道を描いていた。いよいよ何もかもがだめになったのだ。京太郎と虎城を道連れにでもしなければ死に切れなかった。

 全ては一瞬の出来事だった。襲い掛かる松常久にあわせて、京太郎の攻撃が打ち込まれた。たしかに松常久の動きは非常にすばやかった。野生動物ならばたやすく刈る力もあった。ただ、京太郎には遅すぎた。

 松常久の拳が振り下ろされるよりも早く、京太郎の拳が松常久に届いた。京太郎の拳は五発打ち込まれた。場所は全て、松常久の胴体である。

 あっという間に松常久はぼろぼろになりパーティー会場の床に崩れ落ちた。しかしまだ生きている。自己再生を行っていたが、非常に遅かった。マグネタイト製造機五つ全てが失われたからである。

 松常久が生きているのは京太郎が完全に破壊しなかったからである。しかしこれは松常久を見逃したということではない。松常久の「魔人」という言葉を聞き逃さなかった京太郎がわざと生かしているのだ。

 京太郎はわからなかった。松常久がどうして自分が魔人であると知っているのか、わからなかったのだ。 確かに京太郎は魔人である。それを知っている人もいる。ただ、誰もが知っていることではない。

 ドライブ中に虎城とした話から推測すれば、十四代目葛葉ライドウが情報制限をしかけているのは明らかだ。内偵を行う者たちの班長たる虎城が教えられていないのに、どうして内偵をかけられる相手が自分の情報を知っているのか。

確かに京太郎が魔人だと知る方法はある。魔人警戒アプリを使い京太郎に近寄ればいい。そうすれば警告音が鳴り響き正体がわかる。龍門渕のメイド、沢村智紀がしたように。

 ただ、オロチの腹の中で出会ったとき、また異界物流センターで出会ったときに誰も警告音を響かせなかった。となれば、どこで情報を知ったのかという話になる。

 いろいろな可能性はあるだろう。たまたま誰かが漏らしたという可能性。なくはないだろう。偶然たまたま、耳にして魔人だとわかった。パーティー会場にいる人たちのようなパターンだ。もしかすると姿を確認するだけで魔人とわかる異能力があるのかもしれない。

 しかし京太郎はこう思うのだ。

 「誰かが、松常久に情報を流したのかもしれない。この誰かとはライドウ経由ではなく、たとえば俺が魔人になった瞬間を離れたところから見ていたとかで情報を手に入れた何者か。

 ならば、その人物を探らなくてはならないだろう。なぜならその人物は松常久と連携して罪を犯していたのかもしれないから」

 龍門渕透華の父親と祖父が冷えた目で会場を監視していた理由でもある。京太郎は情報の先に誰がいるのかわからなかったが、生かしておくことが尻尾をつかむきっかけになるとわかっていたのだ。だから、生かしておいた。

後は龍門渕に任せるつもりだ。何もかも読心術でさらけ出すことになるのだから、松常久と仲良くしている誰かも見つけられると踏んでいた。

 松常久を叩きのめした京太郎は自分の手の中にあるものをじっと見つめていた。京太郎の手の中には五つの人形があった。少しひび割れているものもあったけれど、どれもしっかりと人形の形を保っていた。

 人形を見つめていた京太郎が微笑んでいた。ほっとして、大きく息を吐いている。自分の手の中にある五つの生き人形からマグネタイトの鼓動を感じられたからだ。自分の両手が松常久の血液で汚れているのは少しも気にならなかった。ただ、取り返せたことがうれしかった。

 会場にいた者たちは京太郎の姿から全てが終わったと察した。

京太郎の手の中にある五体の生き人形。ぼろぼろになってしまった京太郎の服。そして輝く赤い目から流れている血涙。赤く染まった京太郎の両手。京太郎の姿は尋常なものではない。明らかに怪しい。しかし京太郎の浮かべる表情が終わりを教えてくれていた。もう、戦いに向かうものの空気ではなかった。

 京太郎の姿を見た出席者の何名かは、鼻を鳴らしていた。泣いているわけではない。京太郎の血の匂いをかいで、鼻を鳴らしたのだ。この何名かの気持ちというのはオロチと同じ気持ちである。
 
 松常久の三人部下、黒服だったものはハギヨシとディーによって始末されていた。すさまじい早業だった。京太郎が始末した松常久とは違い、抵抗しなかった。ぼこぼこにされるとすぐに人の姿に戻っていた。そして三人の部下たちは、事件の真相を話すから命だけは助けてくれと叫んでいた。

 騒然とするパーティー会場の中でハギヨシが京太郎にこういった。

「松常久は黒です。悪魔に変ずる技術を使い、構成員たちを襲った。そして人形化の呪いを使いマグネタイトを吸い上げていたようですね。構成員たちの遺体がなかったのは人形にされて連れ去られていたからでしょう」

 ハギヨシの声は会場全体によく響いていた。京太郎に向けての言葉だったけれども、会場に事情を説明するための言葉でもあったのだ。全体にわかるように話をすることで会場の沈静化を狙ったのである。そして、龍門渕と虎城にかけられた疑いを晴らし、名誉を回復するように動いたのだった。

 両手を赤く染めている京太郎にハギヨシがこういった。

「後は私に任せてください」

 ハギヨシは軽く両手を叩いた。すると龍門渕のヤタガラスたちが現れた。京太郎が龍門渕に来たときにすれ違った人たちである。彼らはあっという間に三人の黒服を黙らせて、松常久を動けないように縛り上げていった。

 龍門渕のすばやい対応を見て京太郎はうなずいた。松常久たちがこれからどういう扱いを受けるのか京太郎はまったく興味がわかなかった。専門家に任せればいいのだ。京太郎はやることをやった。口を出すことも手を出すことも、もうない。

 龍門渕のヤタガラスたちが松常久の口をふさごうと動いていた。松常久はいよいよ人の姿に戻っていた。今はただの小さな中年男性である。自害を防ぐための拘束をほどこされていくなかで松常久は叫んだ。

「悪魔め! 呪われろ! 万物に凶事をもたらす汚らわしい魔人め! いつか正義の刃がお前を貫くだろう!」

 間違いなく松常久の断末魔だった。パーティー会場によく響きわたった。叫んでいる間、龍門渕のヤタガラスが拳で殴り黙らせようとしたが、それでも止まらなかった。メイドのお手本のような格好をしているヤタガラスの女性に猿轡をかまされてやっとだまった。

 断末魔を聞いたハギヨシがこういった。

「黙れ。悪魔はお前だろうが」

 両手を血で染めた京太郎は松常久を見下ろしていた。目と鼻の先にいる松常久を見る京太郎は静かだった。京太郎の胸に痛みもなく断末魔は突き刺さっている。

 誰もが一発殴るだろうと思っていると、松常久に背を向けて京太郎は歩き出した。そのときに小さくつぶやいた。

「自分でもそう思っているよ」

 京太郎が歩き出したのは、アンヘルとソックの下に行くためである。京太郎の両手にはまだ生き人形が五体あるのだ。これを元の人間に戻す必要がある。京太郎にはできないけれど、アンヘルとソックならばできるかもしれない。松常久にかまっている余裕などなかった。


 少し離れたところで全てを見ていたアンヘルとソックのところに京太郎は歩いていった。京太郎の姿を見て、鯨とスズリが少し引いていた。血涙を流している京太郎の姿というのが不気味だったのだ。普段の姿を知っているため、よけいに不気味だった。気分はホラー映画である。

 アンヘルの前に立った京太郎はお願いをした。

「この人たちに回復の呪文をかけてもらえないか? 人形のままだと効果はないか?」

 京太郎はずいぶん不安そうにしていた。京太郎は呪術の知識がさっぱりない。そのため生き人形というのを上手く直せるのかというのもわからないのだ。アンヘルとソックがだめならば、忙しそうにしているハギヨシに頼まなくてはならないだろう。京太郎はできるだけ早く、被害者を元に戻したかったのだ。

 京太郎がお願いをするとアンヘルはうなずいた。

「大丈夫ですよ、私のマスター。人形の呪いは回復の呪文では解けませんが、壊れている部分を治すことはできます。人形のままでも生きていますから」

 アンヘルは話しながら回復魔法をかけていた。誰の目から見てもわかる勢いで機嫌がよかった。京太郎に頼りにされているのがうれしいというのもあるが、京太郎が実に面白いものを見せてくれたので、機嫌がよくなっているのだ。

輝く赤い目を超ド級のストーカーから押し付けられたのは悲しいことだったが、目の前で京太郎が見せたパフォーマンスは十分楽しめた。それだけでここに来たかいがあるというものだった。

 回復魔法をアンヘルがかけている間に京太郎にソックがこういった。

「人形の呪いは任せてくれ、我がマスター。 一度、解いたことがあるからな楽勝さ。

 しかしよかったのか? これでヤタガラス入門は避けられないぞ。ここまで目立ったら一般人には戻れない。龍門渕に所属しなければ、ほかの支部から誘いが来るだけだ。

 いつかは入らなくてはならなくなる。あの女を見捨てていれば平穏な暮らしに戻れたかもしれないのに」

 背の低いソックは京太郎を見上げながら笑っていた。ソックもまた上機嫌だった。茶番を綺麗さっぱり消し飛ばした京太郎の行動がソックの趣味に合っていたのだ。

 京太郎は自分の手の中にあった人形たちをソックに渡した。

そのときにこういった。

「かまわないさ、大したことじゃない。それよりも、呪いをしっかりといてくれ。頼むぞ、ソック」

 京太郎は政治的なやり取りの一切に興味がないのだ。だから実にどうでもいいという表情を浮かべて、そういう振る舞いをしていた。



 茶番劇に決着がつくと、パーティ会場が騒がしくなった。出席者たちがそれぞれに口を開いている。いいたいことがいろいろとあるのだ。ただ、出席者たちの会話の内容には大体「魔人」という単語と「松常久の悪魔化」という単語が含まれていた。

しかしあまりいい雰囲気ではなかった。冷たい空気ではなく、妙な熱さが感じられる。熱に浮かされて頭がまともに動いていないように見えるものが多い。酒に飲まれた状態だった。

 今まで感じていた悲しい気持ちや冷たい気持ちはどこかに吹っ飛んでいる。この変化がおきたのは京太郎と松常久の戦いが出席者のための余興になったためである。もちろんそんなつもりは京太郎にも松常久にもない。ただ結果的にそうなってしまっていた。

万物に凶事をもたらす魔人と悪魔に堕ちた罪人の戦いだ。見たくても見れるものではなかった。大金を支払っても再現できないだろう。

 熱に浮かされ始めたパーティー会場中で虎城は呆然と立ち尽くしていた。涙はもう引いている。ただ、ぽかんとしていた。あまり格好のいいものではなかった。京太郎と松常久のやり取りに虎城は追いつけていないのだ。

虎城の中では勝負はもうついていて、どうやってもひっくり返せないと思い込んでいた。だから、一発で状況をひっくり返した京太郎が信じられなかったのだ。そもそもどのタイミングでヤタガラスのエンブレムを埋め込んだのか、というのもわからないのだ。理解が追いつかないのもしょうがないことである。


 長い長いドライブを終えた京太郎は、パーティー会場でほっと一息ついていた。すでに京太郎の気配はただの人間のものに戻っている。

輝く赤い目も普通の目に戻っていた。オロチの腹の中で出会った松常久は始末できたのだ。これで、京太郎の悩みの種はなくなった。いつまでも気を張っておく必要はない。ただ、京太郎の姿というのはまったくよくなかった。

 音速とはいわないけれどもその一歩手前で拳を放ったのだ。踏み込んだ靴も、動きに合わせて動いたシャツとスボンもひどいことになっている。また、両手など真っ赤に染まっているのだ。警察に見つかれば間違いなくしょっ引かれるだろう。

 そんな京太郎のところに、ソックが近づいてきて、こういった。

「マスター、マスター。人形の呪いを解いておいたぞ」

 呪いを解いたソックはにこっと笑って見せていた。実にすばやい仕事だった。つい数分前に人形を渡したのだから、とんでもない勢いでやり遂げていた。しかしソックからしてみれば、人形の呪いは恐ろしいものではないのだ。

 何せ自分が一度かかった呪いである。そしてそれを一度解くことができている。同じ呪術がかけられているのなら、同じように解いてしまえばいい。呪術に長けているソックにしてみればお茶の子さいさい。天江衣をテレビゲームではめるよりも簡単だった。

 会場の目立たないところに男性が一名女性が四名、合計五名が寝転がっていた。五人とも、もともとは服を着ていたのだろうが、いまは素っ裸である。人形にされたときに服が脱げてしまったのだ。そしてそのまま人間の状態に戻ったので素っ裸なのだ。

 元に戻った男性は四十代あたりで、かなり鍛えられた体をしていた。身長は平均的なところである。ただ、不思議なことがあった。この男性、ずいぶん印象が薄いのだ。気配が薄いといったらいいだろうか。写真に写っても映像として残っていてもこの男性に注目するのはなかなか難しそうだった。

この男性を見つけるのだと意識しておかなければ、間違いなく見落とすだろう。この男性を見て、すぐにこの人が内偵を進めていた構成員だなと京太郎は察せられた。

 女性四名は虎城よりも若かった。虎城は二十代前半であるから、ふけているわけではない。ただ、全体として若かったのだ。女性四名は十代後半か、京太郎と同じくらいだった。

 特別いやらしい気持ちはないのだけれども、なんとなく京太郎の視線が女性四名に向かっていた。なんとなく、顔を見てみたいなという気持ちになったのだ。なんとなくである。

 そうして京太郎が観察しようとすると、肩に飛び乗ってきたソックによって防がれた。あっという間に京太郎の肩に飛び乗って肩車の形になり、両手で京太郎の目を隠してしまった。

「覗きはだめだぞ」

京太郎はまったく抵抗しなかった。ソックの言葉は正論だった。

 幸いなことで、五名の裸はほとんど晒される事はなかった。アンヘルが翼を広げて五人の体を隠したのだ。マグネタイトを練り上げて翼を作るまで一秒もかかっていなかった。右の翼と左の翼を足した長さは大体六メートルほどである。大きくて真っ白い翼を広げれば被害者を隠すのは簡単だった。

 アンヘルが隠している間に、ハギヨシと国広一が動いて毛布をかけた。毛布を持ってきたのはハギヨシで、アンヘルの羽の中に入って毛布をかけたのは国広一である。

 隠し終わると、翼を消したアンヘルが眠っている五人に栄養ドリンクを飲ませていった。ただ、京太郎が虎城にしたような方法ではない。無理に口を開いてドリンクを注いでいった。五人に飲ませて回っている栄養ドリンクはアンヘルとソックが京太郎に持たせたものと同じものだ。

 ソックの呪術の知識とアンヘルの祝福によって強化されたドリンクである。死んでいない限りは活力がみなぎってくるようになっている。副作用はもちろんある。

しかしたいしたものではない。肉体の活性化のためにマグネタイトが使われるだけだ。無理やりにたとえると、蓄えている脂肪を強制的にエネルギーに換えているようなものである。

脂肪のところをマグネタイトに置き換えるとこのドリンクの効果になる。エネルギーの前借、代償は前借したエネルギー分ゆっくり休まなくてはならないことである。

 五人がいい感じに回復してきたのを見て、仲魔二人に京太郎は礼を言った。

「ありがとう。助かったよ」

 京太郎がお礼を言うと、アンヘルは軽く微笑んで見せた。ソックは肩車の格好のまま、京太郎の頭をパシパシと叩いていた。京太郎の頭をパシパシと叩くソックも微笑むアンヘルも機嫌がいいのだ。


 寝かされている五名が龍門渕のヤタガラスによって運ばれていった。それに付き添って虎城も一緒に消えていった。会場から出て行く途中で京太郎に虎城は深くお辞儀をした。京太郎はそれにあわせて頭を下げた。お辞儀をされたから自分もお辞儀をしなければならないと、反射的にお辞儀をしてしまったのだ。

 そうするとソックは肩からずり落ちそうになった。そうして京太郎の頭にしがみつくことになった。京太郎の頭にしがみついているソックは鼻息が荒くなっている。急に京太郎がお辞儀をしたからだ。まさか、肩車をしている状態から深いお辞儀をするとは思っていなかったのである。

 京太郎がお辞儀から普通の姿勢に戻ると、ソックはこういった。

「なぁマスター。ちょっと話は変わるけど、いいか? 聞きたいことがある。

 あのさ、朝に話していた買い物って……どこにあるの?」

 ソックの口調は甘い響きがあった。ソックが京太郎にたずねているのは、京太郎が異界物流センターに向かう目的だったものの在りかだ。

 ソックは実にそわそわとしている。なにせ京太郎はそれほど興味がなくなっているけれども、ソックは京太郎が買いに出ていたマンガ本の続きが非常に気になっていたのだ。もちろん空気を呼んで、今まで抑えていたけれども、それも必要ない。

だから聞いたのだ。どこにあるのかと。できるのならばさっさと自分に読ませてくれと。もちろん京太郎が先に読めばいいが、その後は自分に読ませてくれ、とそんな調子なのだ。

 ソックがたずねると、京太郎はこういった。

「マンガのことか? たぶんディーさんの車の中にあるはず。ディーさんに鍵を開けてもらわないとだめだな」

 京太郎は口元に手をやった。少し不安そうだった。というのが、いまいちどこにおいたのか覚えていないのだ。

 マグネタイトと交換して初回限定版のマンガを手に入れたのは間違いない。しかし、その後がわからないのだ。書店のおばあさんと店番の造魔ハナコに迷惑をかけたのを覚えている。しっかりと手に持って車に乗ったのも覚えている。

その後がわからないのだ。実にいろいろなことがあったので、いちいちどこに漫画本があるのかと考えてもいなかった。もしかするとどこかで落としたかもしれないので、はっきりとどこにあると答えられなかった。

 京太郎の様子を見て、ソックがきいた。

「買ったんだよね? 買い忘れたとかないよね?」

 肩車されているソックは京太郎の頭を指でつついていた。ほんの少しだけあせっていた。家庭菜園を作っている間も楽しみにしていたのだ。もしもここで買い忘れていたということになれば、本屋に買いに行かなくてはならないだろう。

それくらいに楽しみにしていたのだ。読みたい気持ちがおさまりそうになかった。

 すぐに京太郎はうなずいた。そしてこういった。

「大丈夫だと思うぞ。車の中には入れたからな。おそらくディーさんの車にあるはず」

 京太郎がこういうと、ソックはこういった。

「なら、取りに行こう。いや、買い忘れたのかと思ったぞ。楽しみにしてたからな」

 京太郎とソックが話をしているとアンヘルが駆け寄ってきた。アンヘルは国広一から受け取ったタオルを京太郎に渡した。京太郎は「ありがとう」といってタオルで手を拭いた。

「何の相談です?」
とアンヘルがたずねると、京太郎が答えた。

「マンガだよ。買いにいったマンガの話。ディーさんの車の中に置き忘れたから取りに行かなくちゃってな」

 京太郎がそういうとアンヘルが二人にこういった。

「なら、とりにいきましょうか。用事も済みましたしね」


 アンヘルが合流したところで、京太郎はディーに話しかけた。ディーはやることがないらしく暇そうにしていた。京太郎はディーにお願いをした。

「ディーさん、車の鍵を開けてもらいたいんですけどお願いできますか。荷物を車の中に置いたままにしているはずなんです」

 京太郎のお願いを聞いたディーは答えた。

「あぁ、鍵なら開いているから、好きにしていいよ。俺は会場から離れられないからね」

 ディーはくたびれた笑みを浮かべている。松常久が面倒を起こしてくれたことで仕事が増えたのだ。パーティー会場の警備の仕事である。本当ならハギヨシか龍門渕のヤタガラスたちが行うのだけれども、松常久と救助された構成員のために人員を割く必要が生まれてしまった。

結果ディーが会場の警備を任されたのだ。ディーの実力なら警備はたやすい。らくらくできる。

 しかし、上流階級社会というのがディーの性格に会わない。パーティーの出席者に愛想笑いを浮かべるのがつらいのだ。しかし無愛想にするわけにもいかない。結果、くたびれてしまっていた。

 ディーが好きなようにしていいというので、京太郎は

「わかりました」

といった。そして京太郎は軽く頭を下げて、パーティー会場の出口を目指して歩き出した。やはり頭を下げたときに肩車されているソックがひどいことになっていたが京太郎は気にしていなかった。


 出口に向かって歩いていく京太郎に、ディーがこういった。

「サンキューな須賀ちゃん。スカッとした」

 少し恥ずかしそうにディーは笑っていた。なんとなく柄じゃないことをやっているような気持ちがしているのだ。しかし、お礼をいいたかった。ここでお礼を言わなければタイミングを失っていつになってもお礼をいえないような気がしたのだ。

 軽く振り返って京太郎は笑って見せた。いたずらが成功して笑っている子供そのものだった。

 パーティー会場はまだ騒がしい。まったく落ち着いていないけれども京太郎は仲魔二人をつれて出て行った。


 オロチの世界につながる門を開いた中庭にディーのスポーツカーが残されていた。

 スポーツカーに京太郎が近づいていった。京太郎の推測が正しければ、スポーツカーの中に京太郎の荷物が残されているはずだからだ。もしかするとどこかに落としている可能性もあるけれども、無事ならばスポーツカーの中にあるはずなのだ。

 ソックを肩車したまま近づくとスポーツカーの扉がガチャリという音を立てた。誰が聞いても鍵が閉まった音だった。京太郎はこのガチャリという音を聞いて誤作動でも起こしたかと思った。ディーの話だと鍵はかけていなかったはずだからだ。

 しかしスポーツカーの扉は京太郎が手を触れると開いた。少しだけ不思議だと思った。しかし鍵が開いているという話だったので、それ以上は考えなかった。

 ただ、肩車されているソックは何か珍しいものを見るような目で、スポーツカーの中を見つめていた。

 肩車していたソックを京太郎は地面に下ろした。両手でソックの胴体をつかみ、少し無理な体勢のままでやってのけた。これから荷物を探すのだ。ソックを肩車したままでやるのは難しかった。ソックを地面に降ろした京太郎は、さっさとスポーツカーの中に入っていった。

 京太郎がスポーツカーの中の不思議な空間の中に入っていくと、スポーツカーの扉がひとりでにしまった。アンヘルもソックも何もしていない。そして扉は勝手に鍵をかけてしまった。その様子を見てアンヘルがこういった。

「私たちは駄目みたいですね。嫌われるようなこと、しましたっけ?」

 ソックが答えた。

「違うと思うぞ。許可されたものだけが中に入れるタイプの結界だな」

 アンヘルがあごに手を当てた。そしてこういった。

「ディーさん器用なことをしますね。呪術方面には疎いように見えましたけど」

 ソックが笑った。

「ハギヨシさんのほうだろうなシステムを作ったのは。それにこの結界は敵をはじく結界じゃない。外に出さないための結界だ。許可制にするのは当然だろうよ。

 よほど厄介なものを封じ込めているらしい。調子はずれのオーケストラが聞こえてきやがる。制限なしで現れたら下級あたりは音を聞いただけで発狂するかもな。

 たぶん風と、火だな」

 アンヘルが笑ってこういった。

「龍門渕は怖いところですね」

 ソックがうなずいた。ソックもまた笑った。


 アンヘルとソックが話をしている間に、京太郎が荷物を持って現れた。しっかりとビニール袋を持っていた。ただ、ビニール袋の手に持つ部分がダルンダルンに伸びていた。誰かがいじっていたのだ。

 荷物が見つかったことにほっとしている京太郎は、扉が閉まっていることに気がついた。しかしたいした問題ではなかった。外に出るために京太郎が扉に手を触れると簡単に開いたからだ。

 そして京太郎が荷物を持って現れたのを見て、喜んでソックが飛び跳ねた。京太郎の下げているビニール袋のふくらみから限定版であると見破ったのだ。

 スポーツカーから出てきた京太郎はビニール袋をソックに渡した。これから風呂を借りようと思っているのだ。京太郎は買ってきた漫画を一番に読まなければ気がすまないタイプではない。

それにタオルで手を拭いてはいるけれど、まだ血液で汚れている部分があるのだ。それをどうにかしないことには落ち着いて楽しめそうになかった。
 


 京太郎からビニール袋を受け取ったソックはずいぶんはしゃいでいた。そしてこんなことをいった。

「よし、衣ちゃんに頼もう! 確かブルーレイのプレイヤーがあったはず!」

 アンヘルとソックの住処にブルーレイのプレイヤーはない。そのうち買いにいこうとソックは考えているのだけれども、まだ拠点を手に入れたばかりでさらなる娯楽に力を入れられるほど余力がなかったのだ。そこでなかなかいいプレイヤーを持っている天江衣の力を借りようという発想になったのだった。

 ソックがはしゃいでいると龍門渕透華が歩いてきた。龍門渕透華に続いて、国広一、天江衣が続いている。はしゃいでいるソックを見て天江衣は首をかしげていた。彼女たちが中庭に来たのは用事があったからである。

 彼女たちがここに来たのは、京太郎と相談する必要があったからである。相談とは報酬の相談である。龍門渕透華は父親と祖父にヤタガラスの使者として須賀京太郎の働きにふさわしい報酬を渡すようにと命じられていた。

報酬を正しく与えられることが、ヤタガラスの使者の一番と彼らは考えているのだ。

 国広一と天江衣は付き添いである。もしも何か問題が起きるようなら、国広一と天江衣が仕切りなおすつもりなのだ。アンヘルとソックと、二人は仲がよい。そのためもしも龍門渕透華が交渉に失敗したとしても、無理にひっくり返せるように備えているのだ。

 機嫌がすこぶるいいソックはおいておいて、龍門渕透華は京太郎に話しかけた。

「須賀くん、お礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。あなたのおかげでさまざまなものを守ることができましたわ。

 ヤタガラスとしての龍門渕の立場。構成員の命。そして秩序。どれも尊く守りがたいものです。

 あなたの働きで守ることができました。本当に、ありがとうございます」

 龍門渕透華の礼を受けて京太郎は返事をした。

「あっ、はい。こちらこそ」

 大分、京太郎の挙動はおかしかった。ずいぶんあせっている。目が泳いでいた。龍門渕透華の上流階級ぶりに圧倒されているのだ。京太郎はこういうタイプの人間とかかわったことがまったくない。

そのため、どういう風に対応していけばいいのかわからないのだ。牙を向いてくる相手をどうにかするのはわかりやすくていいのだけれども、龍門渕透華のように上品なタイプは難しかった。

 京太郎のおかしな返事を受けて透華は続けた。

「私たち龍門渕のヤタガラスはあなたに報いたいと思っていますの。

 生々しい話ですが、きっちりと行わなくてはなりません。それが信頼関係を生むのですから。

 あなたの働きに対して、私たちは二つの報酬を考えています。ひとつはわかりやすい報酬。もうひとつは、わかりにくい報酬です。二つの報酬のどちらかをあなたに選んでもらおうと思っています。

 わかりやすい報酬とはお金です。あなたのためにお金を用意しましょう。紙幣、望むのならば宝石、形は問いませんわ。土地がほしいというのなら、働きに見合った分を用意しましょう。ただ、私たちから報酬を正式に受け取ると、縁が結ばれます。

 もうひとつの報酬。わかりにくい報酬とは情報操作です。あなたは今回の一件で、ヤタガラスの闇の部分に触れました。サマナーの世界にあなたが嫌気をさしたのではないかと私たちは考えているのです。

 ですから、あなたが望みさえすれば、情報を操作してあなたを一般人として隠しましょう」

 龍門渕透華が報酬の説明をすると、京太郎は首をかしげた。京太郎の表情を見れば、京太郎がどういう状況なのかがすぐにわかる。龍門渕透華の話にどういう意図が隠れているのかさっぱり京太郎はわかっていなかった。

 ものすごく困っている京太郎に国広一が教えてくれた。

「僕が説明するよ。

 わかりやすい報酬は賃金さ。仕事をするとお金が発生する。それはヤタガラスでも同じなんだ。
 もしかしたら正式な構成員ではないから、もらえないと思っているかもしれないけど、今回は別だよ。何せ、龍門渕所属を示すエンブレムをつけて、戦ったわけだからね。

 たとえ須賀くんが正式な構成員ではないにしてもヤタガラスのエンブレムをつけて行動したのなら、それは龍門渕の成果になる。なら支払わなくてはならないわけ。

 でも、学生の須賀くんが大金を持つというのは非常に難しいことだよね。銀行口座もおかしなことになるし、書類だとかも面倒。下手に大金を持つと税金がかかる。ご家族に説明するのも難しいでしょ?

 そういう面倒を龍門渕が担当することになるけれど、そうなってくると離れられなくなるんだ。報酬が振り込まれたり、手渡された瞬間から、龍門渕関係者。周りからはサマナーだと見られるようになる。そうなると二度と表の世界には戻れない。

 これが、わかりやすい報酬のメリットとデメリット。

 ついでにわかりにくい報酬のメリットとデメリットも説明するね。

 須賀くんはね、裏の世界の面倒くさい人たちに顔が売れている状態なんだ。さっきの戦いはかなり派手だったからね。

 ヤタガラスといっても完全にまとまっているわけじゃないのはなんとなくわかってくれているよね? それで、やっぱり勢力争いってのがあるんだよ。そうなってきて、今の須賀くんはフリーだよね。どこにも所属していない状態の人材なわけだ。

 ほしくならない? このご時勢に珍しい武人タイプのサマナーで、機転も利いている。少し調べれば十四代目葛葉ライドウとつながりがあるのもわかる。となると、欲しくなるでしょ? 僕だったら、すぐに声をかけるね。実際誘ったし。

 でも、そういう声をかけられる行為ってのは面倒じゃない? 断るのも面倒で、ちょっかいをかけられるのも面倒。そこで龍門渕は君に提案するわけさ。もしも面倒ごとに巻き込まれたくない。一般人として生きていたいのならば、私たちの名前を使ってもかまいませんよと。

 これがわかりにくい報酬。すでに龍門渕に所属しているのなら、ちょっかいはかけにくいからね、ハギヨシさんもいるし。

 直接十四代目が引き抜きにきたら流石に無理だろうけど」


 主人を差し置いてメイドが説明をするのはどうなのか。しかししょうがないことだ。龍門渕透華はこれからの龍門渕の顔役になる。そうなってくるとやはり立場に縛られるようになる。となると、立場に見合った発言が求められるようになる。

そんな彼女である。軽々しく事情を話すわけにはいかなかった。しかも京太郎はまだ正式な構成員ではない。正式な関係者ではないのだ。そんな相手に内部の力関係を匂わすのはまずかった。建前があるのだ。

 そういう建前を守るため国広一が気を利かせて説明をした。もしも国広一が説明をしていなければ、天江衣が、天江衣がしていなければソックが説明していただろう。

 国広一の説明が終わったところで、アンヘルが京太郎に聞いた。

「どうします? 私たちはどちらでもかまいませんよ。

龍門渕でも別の支部でも、ヤタガラスでなくとも。マスターが善しと思うほうへ私はついていきましょう」

 アンヘルはどうでもよさそうだった。興味なさそうにしていた。ヤタガラスに入ればメリットが大きいとはアンヘルも思っている。しかし、ぜひヤタガラスに入りたいとは思っていなかった。

 アンヘルがこういうと、ソックが続いた。

「まぁ、俺も同じような感じかな。善しと思うところにいけばいい」

 アンヘルよりもソックのほうがずっとどうでもよさそうだった。話をさっさと切り上げて、天江衣にブルーレイプレイヤーを使わせてくれと話しかけたそうにしていた。ソックの注意はビニール袋の中の品物に注がれている。

 京太郎の仲魔二人の軽い口調を聞いた国広一の表情が悪くなった。アンヘルとソックは京太郎にヤタガラス所属を薦めるというのが国広一の予想だったからだ。数十分前に客室で行ったやり取りの感じからして、断られるような空気はかけらもなかった。

京太郎がいやだといっても追い風になってくれるだろうと思っていた。それがここに来て、完全に放り出されていた。龍門渕透華の武力をそろえたい彼女にとってこれは困ったことだった。

 顔色が悪くなった国広一をみて天江衣が目を細めていた。天江衣は国広一が何を考えているのか見抜いたのだ。

 そして天江衣は心の中でつぶやいた。

「透華の戦力にしたいと思っているのだな、かわいらしい忠義者。ただ、今回は失敗だったな。こんな面倒なことをせずとも頼めばいいのだ。

思考を誘導する手間が無駄だ。

 相手は魔人だぞ? いきなり現れてヴァイオリンを弾いて立ち去る奴とか、説教をいきなり初めて立ち去る奴とかの同類だ。

 下手に頭を働かせると失敗する。もう遅いがな。

 というか、ソックは何で鼻息を荒くしているのだ? ちょっと怖いぞ」

 
 さてどうすると、静かになったところで京太郎は答えた。

「なら、俺をヤタガラスのメンバーにしてください。今後ともよろしくお願いします龍門渕さん」

 これといった力をこめることなく淡々としていた。京太郎はすでに自分が何を求めているのかを知っている。京太郎が求めているのは全身全霊で行われる戦いだ。オロチとの戦いで、それがよくわかった。死にかけたけれども楽しい時間だったと心底思っている。

しかし、この願いが普通に生きていたらかなわない願いだともわかっていた。

 あまりにも野蛮だ。大きな声で話せることではない。しかし、それでも体験してしまったら、自覚してしまったらもう戻れない。だから、京太郎はこのチャンスを逃さなかった。

ヤタガラスに入れば、楽しめるかもしれない。きっと普通に生きているよりはずっとチャンスがあるだろう。ならば、入るべきだ。京太郎はそう考えて、飛びついたのだ。もう、退屈することはないだろう。


 京太郎の答えを聞いて国広一がガッツポーズをとった。しかし小さなガッツポーズだ。あっという間にもとの姿勢に戻っている。ガッツポーズをとったことに気がついているのは天江衣だけである。

 国広一は心配していたのだ。京太郎がサマナーの世界から離れたいと思っているのではないかと。

 なぜなら、松常久というヤタガラスの黒い部分を見てしまっている。見ただけならまだどうにかなるかもしれない。しかし、巻き込まれて襲われている。二度と戦いたくないと思う人のほうがはるかに多いだろう。

 そして話を聞けば、オロチに気に入られてしまったということもある。不気味だといって震え上がってもおかしくない。そんな京太郎の状況だったのだ。アンヘルとソックの後押しが期待できなくなった時には、京太郎という人材が確保できなくなったと絶望したのだった。

しかし、京太郎はヤタガラスに入るといった。しかも龍門渕に入るのだ。国広一の望み通りだった。龍門渕透華の貧弱な兵力が増強されたのだ。喜ぶべきことだった。


 京太郎の答えから少し間を空けてから、龍門渕透華はこういった。

「わかりました。ではヤタガラス龍門渕支部所属の正式なサマナーとしてあなたを迎え入れましょう。

あと、報酬はアンヘルさんとソックさんが使っている口座に振り込んでおけばいいですか? それとも別? 日本円以外での支払いでもいいですよ?」

 龍門渕透華は無表情を装っていたけれど口元が笑っていた。龍門渕透華も国広一と同じような考えなのだ。

 これから十年、二十年とヤタガラスの幹部としてヤタガラスの使者として働く気持ちが彼女にある。彼女はこれからこの地域のサマナーたちの元締めになるのだ。しかしそうなるためには力が必要だった。

 力というのはいろいろと種類がある。権力。財力。知力。支配者としてふさわしい度量。人の上に建つためにはいろいろな力が必要だ。ここではあがらなかったが、もっといろいろとあるかもしれない。

彼女は必要最低限は持っていた。権力も財力も知力も彼女は持っている。そういう環境と血統に生れ落ちた。

 ただ、もっとも大切なものを彼女は持っていなかった。暴力だ。彼女は暴力だけ持っていなかった。彼女自身も、彼女が見つけてきた数人の少女も、暴力だけは持っていなかった。そしてこの暴力だけは祖父も、父親も与えてくれなかった。

「次の龍門渕を名乗るのならば自分で見出さなければならない」

これは彼女の試練だった。

 龍門渕透華はやっとひとつ前に進めたと思ったのだ。これでやっとヤタガラスの使者として格好がつく。そして自分の祖父と父親に認められると。

 
 微笑を隠しながら龍門渕透華が報酬の話をすると、京太郎はこういった。

「そうっすね、よくわからないんでアンヘルとソックの口座でお願いします」

 本当に何がどうなっているのかわかっていなかった。とりあえず波風が立たないようにしてくれたらいいという気持ちが、表情に浮かんでいた。面倒くさい手続きだとか、印鑑を持ってくるとかいう話しにならなければいいなというのが京太郎の思うところである。

どのくらいの金額が振り込まれているのかだとか、ヤタガラスに入ることで受けられるメリットだとかは頭になかった。

 気の抜けた京太郎の答えのあと、龍門渕透華は京太郎に腕章を差し出した。腕章にはヤタガラスのエンブレムと同じ紋章と龍門渕の紋章が大きく刺繍されている。

 そしてこのように説明をした。

「わかりました。では同じ口座に振り込んでおきます。

 あと、これをあなたに渡しておきます。ヤタガラスと龍門渕の紋章が入った腕章です。いつも身に着けておいてください。

うらやましいことにあなたはずいぶん目立ちました。ですから、こうでもしておかないといけません。そうしないと悪いハイエナがよってきてしまいます」

 龍門渕透華が差し出した腕章は龍門渕所属のヤタガラスだという証明書のようなものだ。

彼女がすぐに腕章を差し出したのはどちらの報酬を選んだとしても渡すつもりだったからだ。この腕章は、スポーツ選手のユニフォームのようなものである。この腕章を見ればどこの所属なのかが一発でわかるようになっている。

 たいしたものではないかもしれない。実際、一般人が見てもただのおしゃれな腕章だ。しかしサマナーの関係者がこれを見ると、まったく違った印象を受ける。ヤタガラス龍門渕支部に所属していると一発で判断がつくのだ。

 一発で判断がつくということが、よその勢力のスカウト行為の障害になる。京太郎に話をつけるだけではだめになるのだ。、所属している龍門渕の許可が必要になる。スポーツ選手の移籍でもめるのと同じである。

 かなり豪華な腕章を京太郎は受け取った。龍門渕透華が腕章を差し出したとき、京太郎は数秒間動きを止めていた。何せずいぶん高級品のように見えたからだ。高級品だと一発でわかるような素材と刺繍の見事さである。

京太郎のお小遣い何年分になるのかもわからない。そんなものをいきなり手渡されたりすると、京太郎からするとおびえてしまうのだ。しかも、両手が血で少し汚れているので、余計に気を使ってしまう。

 何にしても京太郎は腕章を受け取った。そうすると国広一がうれしそうにこんなことを話した。

「須賀くんの教育係はハギヨシさんがしてくれると思うよ。いやぁ、退魔士系の新人が三人も入ってくれるなんてうれしいよ。

 あっそうだ、またお風呂に入らないとだめだよね須賀くん。ものすごく汚れちゃってるし服もぼろぼろ。すぐに用意するよ」

 国広一の口はよく回っていた。非常に機嫌がいいのがわかる。両手の指を絡ませて、何か不思議な動きをしていた。京太郎を引っ張りこめたことで龍門渕透華の問題が減ってうれしいのだ。

 何せ京太郎は魔人である。普通なら魔人というのはあまり好かれる人材ではない。松常久のように迷信を信じている人は多い。

 しかし、魔人という存在はほとんどの場合、非常に強い。暴力だけが足りていない龍門渕透華にとっては最高の人材だったのだ。そして、デジタル系サマナー全盛期の時代に退魔士系の新人が三人も追加される。国広一にしてみれば、龍門渕透華の進む道はとても明るく見えていた。

 国広一がニコニコしている間に、アンヘルとソックは天江衣を拉致して姿をくらました。ソックがハンドサインをアンヘルに送ったのだ。ハンドサインの内容は、天江衣を拉致して、自分についてくるようにだった。ハンドサインを受けたアンヘルは軽く微笑んでうなずいた。


 アンヘルとソックが何かたくらんでいるのに天江衣は気がついていたけれども、文句を言う前に連れ去られていた。

天江衣を連れ去ったのは、これから天江衣の別館に向かいそこで京太郎から受け取った限定版の漫画を楽しむためである。アンヘルがソックのハンドサインに従ったのは、そろそろ暇だったからである。

 連れ去られている天江衣は

「真白の運転よりはずっとましだな」

と心の中でつぶやいていた。

 自分の仲魔二人が天江衣を連れ去ったあと、京太郎は青ざめていた。完全に血の気がひいていた。自分の仲魔が天江衣を連れ去る現場をばっちり見ていたのだ。どう見ても犯罪の瞬間だった。

 いくらなんでも問題になるだろうと京太郎は龍門渕透華と、国広一に視線を向けた。

 そこには平然としている龍門渕透華と国広一がいた。彼女たちにしてみると、アンヘルとソックの行動はそれほど珍しいものではないのだ。

というのが、京太郎が眠っている間にアンヘルとソックは龍門渕で事情聴取を受けていた。

そのときアンヘルとソックはあまりにも退屈だったので十四代目葛葉ライドウ付き添いの下で天江衣と遊びたおしていた。

 天江衣が暇だったというのとアンヘルとソックが温厚だったこと、そして十四代目葛葉ライドウが見守ってくれているというので、簡単に顔あわせができたのだ。

 そのときの様子を龍門渕の関係者は知っているので、アンヘルとソックが天江衣を連れ去るのはそれほど驚くことではなかった。

 平然としている二人を見たとき、余計に京太郎の顔色は悪くなった。平然としているということは、普通の光景であるということだろう。つまり自分の仲魔はよその家でいつも無茶をやっていたということになる。京太郎は胃が痛くなった。
 

 顔色の悪い京太郎が

「新人三人ってのはアンヘルとソックと俺ですか?」

と聞いた。自分と同じようにヤタガラスに入ってきた新人が入るという話を国広一がしているのを聞いて、少しばかり気になったのだ。

 特に詮索しているわけではない。何か問題があるわけでもない。話の種として拾っただけのことである。気分をすこしでもまぎらわせたかった。

 京太郎の質問に、龍門渕透華が答えた。

「違いますわ。須賀京太郎、淡河鯨(おうご くじら)、龍門渕硯(すずり)の三人です。あなたはこれからほかの二人と班を組み、沢村智紀を班長として行動してもらいます。

実際に動いてもらうのは訓練が終わってからですから、心配は要りませんよ」

 疑問に答えている龍門渕透華は苦い顔をしていた。何か気に入らないところがあるようだった。

 一方で京太郎は、答えを聞いて笑った。大きな声で笑ったのではなく、本当に小さく笑っていた。特に何がおかしくて笑っているわけではない。

ただ、自分の友達が自分と同じようにヤタガラスに入るだけだ。たいしたことではない。しかしなんとなく愉快に感じたのだ。

それで思わず笑ってしまった。それだけだ。のんきな男だった。

エピローグ



 ほんのすこし時が進みインターハイ長野県大会当日。

 その会場で、京太郎は宮永咲を探していた。京太郎の学生服には腕章がつけられている。腕章にはヤタガラスの紋章と龍門渕の紋章が刺繍されていた。豪華な腕章だった。

宮永咲を探しているのは、いつになっても戻ってこないのを部員たちが心配したからだ。二十分前にお手洗いに言ってくるといって出て行ったきり戻ってこない。宮永咲の試合までに戻ってこれなければ、当然だけれどもまずいことになる。そこで京太郎が探しに行くことになった。

 ほかの部員たちが動いてもよかったのだけれども、京太郎が

「探してくるよ。イスに座りっぱなしはつらい」

といって自分から動いたのだった。

 そして、京太郎は会場を探し回っていた。灰色の髪の毛で、身長も体格もいい京太郎はなかなか目立つ存在であった。その証拠に、京太郎と廊下ですれ違った女子生徒など、携帯電話の警告音を聞いて真っ青になっていた。

 女子生徒だとか男子生徒とすれ違いながら、京太郎は人気のない廊下を進んでいった。控え室から一番近いトイレとはまったく違う道である。

普通なら、一番近いトイレあたりを探すのが正解だろう。しかし人気のないまったく関係なさそうな道を京太郎は進んでいった。

 人気のないところを進んでいるのは、道をたずねられないところに宮永咲がいると予想したからだ。

 道に迷ったとしても人がいるのならば、教えてもらえばいい。案内掲示板があるのなら、参考にすればいい。しかしそれがないところも、もちろんある。京太郎はそのように考えて、人がいないような道、それも案内掲示板もないような地味な場所を探して回っていた。

仮に、その間に宮永咲が普通に戻ってこれたのならば、それでまったく問題なかった。

 そうしてまったく人気のない寂しい行き止まりに京太郎はたどり着いた。会場のメンテナンスをする人たちしか通らないような道だった。

 一応まだ道はあるのだ。行き止まりには立ち入り禁止といって書いてある金属の扉がある。しかしここまで来ても宮永咲の気配はなかった。

研ぎ澄まされている感覚が匂いを嗅ぎ取っているけれど、本人は見つからなかった。


 行き止まりにたどり着いた京太郎の前に、奇妙な影が現れた。京太郎が歩いてきた道を戻ろうとしたときである。どこからともなく、影が現れたのだ。

言葉通りの影であった。物体ではなく、ただの影だ。道を戻ろうとする京太郎の前に立ちふさがっている。しかし影であるためにとても頼りない。まったく京太郎の歩みを止められそうになかった。

ただ、この影のおかしいのは、顔があるのだ。影に顔はおかしいが、顔のような隙間があったのだ。そしてその顔はどう見ても憎しみに満ちていた。

 たよりない影をみた京太郎はすぐに構えを取った。京太郎の構えは数日前のものとはずいぶん違っていた。戦うための構えである。空手の構えとよく似ていた。この構えはハギヨシから教わったものである。

 京太郎が戦うための構えを取ったのは、明らかに悪魔だったからだ。そしてどう見ても自分に対して攻撃を加える意思が感じられた。ならば戦わなくてはならないだろう。しかしずいぶん京太郎は冷静だった。楽しさというのは少しも感じていなかった。

 構えを取った京太郎はすぐに攻撃を仕掛けた。相手の攻撃をいちいち待つようなことはしなかった。また、会話をするということもなかった。お互いに敵だと思い、牙をむいているのなら言葉は必要ないのだ。

 そうして攻撃を仕掛けたのだけれども京太郎の拳は空を切った。京太郎の正拳突きはお手本そのままの攻撃だった。まっすぐ打ち込んだ。非常にすばやかった。無駄のない攻撃で、センスに頼った攻撃よりもずっとよくなっていた。しかしそれでも攻撃は失敗した。

 おそらく京太郎が完全に武術を身に着けていたとしても、もっと経験をつんでいても攻撃は失敗していただろう。

なぜならば、この頼りない影は京太郎の影にへばりついているのだから。自分が動けば影もまた動く。二人の距離は永遠に変わらない。拳があたることも永遠にない。

 京太郎は構えをといた。すぐに頼りない影の理屈を理解したからである。そして、影を消し飛ばすために魔法を使おうとした。京太郎の得意な魔法は稲妻だ。

光を放つ稲妻を打ち込める。多少の被害は出るだろうが、消し飛ばせるだろうと考えたのだ。

 そうして京太郎が魔力をこめ始めると、頼りない影が大きく震え始めた。ブルブルと震えていた。そして頼りない影の胴体の部分に大きな穴が開いた。

 頼りない影の腹に大きな穴が開いたのを見て京太郎は呆然とした。さっぱり何がおきているのかわからなかった。

 また、影にあいた大きな穴から京太郎は目を離せなかった。影の腹にあいた大きな穴がとんでもない技術で打ち込まれた攻撃の痕跡だと察っせた。

少なくとも今の京太郎には打ち込めない一発である。いったいどんな存在が、この穴を開けたのだろう。どれほどの高みにいるのだろう。そう思うと目が離れなかった。


 京太郎が影に開いた穴を見つめていると頼りない影は口を開いた。

そして声を発した。この声というのが実に不気味だった。ささやく声なのだが、一人の人間のものではない。

何十人、何百人の人間の声が重なっていた。そしてこういっていた。

「わ、私は…私は…」

 口を開き始めた頼りない影に向けて、京太郎が稲妻の魔法を発動させ始めた。頼りない影を京太郎は確実に消し飛ばすつもりである。影の存在を許せなかったのだ。京太郎はこの頼りない影の声を聞いたとき、

「生理的に受け付けない」

という言葉の意味がはっきりと理解できた。こういうもののことをそう呼ぶのだろう。もともと消し飛ばすつもりだったのが、いっそうはっきりとした。

 しかしできなかった。後一歩のところで頼りない影が、こういったからだ。

「私は、魔人になり、ました」
 
 京太郎の集中していた魔力が一気にうせた。頼りない影が誰の話をしているのかわかったのだ。

そして、理解したとき京太郎は吐き気を覚えた。この吐き気がどこから来ているのかは、わからない。

しかしこの吐き気を覚えた瞬間、集中が乱れ、魔法は不発に終わった。

 更に頼りない影は続けた。

「死へいざなう闇の中で見つけた稲妻。ヒヒイロカネとヤドリギよ私とともに生まれたまえ。

 歩き始めた操り人形に幸あれ。幸運をもたらす妖精たちに幸あれ。畜生の道を歩いた者よ冒険の始まりを思い出し、操り人形の糸を切れ。

 囚われたアムシャ・スプンタの分霊。命の理(ことわり)を知る泣かない巨人。激流に飛び込んだ私と結び、賭けに出るがいい。

 さらば、灰色の日々。しるべなく生きる日々よ。悲しみに沈むものよ、泣いてくれるな。

 私は人になったのだ」

 頼りない影の声はやはり気味が悪かった。

大量の人の声が重なって聞こえてくる。頼りない影はひとつ言葉を吐き出すたびに、ひび割れて崩れていった。

最後のあたりになると、ほとんど消えかけていた。しかし崩れて消えかけているのに延々と言葉を吐いているのは、そうしなければならない理由があるからである。

 頼りない影は最後に

「呪われろ悪魔め」

とはき捨てて消滅した。


 京太郎は、自分の口を手で押さえていた。京太郎は青ざめている。

吐き気がまったくおさまらなかった。この吐き気は恐怖なのか。それとも生理的な嫌悪感のために生まれたものなのか、さっぱりわからない。

ただ、まったく言葉にできないけれども恐ろしいものが自分に降りかかってきたのだという実感が京太郎にあった。

 京太郎が、立ち尽くしていると声をかけられた。声をかけてきたのは宮永咲だった。彼女はこういった。

「京ちゃん? どうしたの」

どうやら京太郎の推理というのは正しかったらしい。京太郎が戻ろうとした道に宮永咲が立っていた。

ずいぶん不安そうな目で京太郎を見ていた。声も震えている。

 宮永咲に京太郎は答えた。

「あぁ、大丈夫。大丈夫だ」

 京太郎は少しだけ吐き気から逃れることができていた。顔色はかなり悪い。しかし、つい先ほどよりはましだった。宮永咲の声と、その存在が京太郎の心を少しだけ軽くしてくれたのだ。

 顔色の悪い京太郎は、宮永咲に近づいて、肩をポンとたたいた。そして宮永咲にこういった。

「みんなのところに戻るぞ。遅刻して敗退なんて笑えないぜ」

 京太郎は無理やりに笑って見せた。まだ顔色が悪いので無理をしているのはすぐにわかった。

京太郎もへたくそな笑顔だとは思っている。しかし必要だったのだ。そうすることで自分の元気を呼び込もうとしていた。

そして京太郎は宮永咲の前を歩き始めた。

 宮永咲は京太郎の横についてきた。

 宮永咲は京太郎の横顔じっと見つめていた。本当にじっと見つめているので何もない平坦な道でこけそうになっていた。

京太郎の横顔が見知らぬ人のように彼女には感じられたのだ。

 一週間か、二週間前の京太郎と今の京太郎を見比べてみれば、きっと別人のようだと誰もが思うだろう。

髪の色が変わっているということもある。しかしそれよりも雰囲気がずっと大人びていた。

 何かが京太郎に起きているのは明らかだった。そして先ほどの青ざめた顔も何かが起きた結果なのだろうと宮永咲は予想がついた。

 しかし問い詰めることはなかった。口を割らないとわかっていたからだ。だからせめて見つめるのだった。

 この灰色に何がおきようとしているのか知るために。
 




 「限りなく黒に近い灰色」 おしまい。



 


 お付き合いいただきありがとうございました。
 
 次の話も一応考えているので、またここでお見せできると思います。

乙でした
ワハハさんもどうやら悪魔に関わってるみたいだし
まだまだネタはありそうっすね
続編ずっと待ってます

乙でした


デビサバしかやってないからわからんが、花田の娘、さらわれてた黒髪赤目の少女とか魔人察知アプリの少女とかが
どうなるのか。道祖神の少女どうなるんだ、宮守マジ怖い

あとプラフだよね、エンブレム。雷魔法で壊れてたし

乙です。
最後まで楽しませて貰いました。
意外と学生の中にも、裏側の住人が多そうですね。
続編があるとの事で、また楽しみに待たせて頂きます。

乙ー
また続きを楽しみにしながらお待ちしております


続きも楽しみにしてる

めっちゃ面白かった
読んでると簡単に情景が浮かんでくるわ

次回作はいつ頃になるのかな…
見つけられればいいなぁ

今作も面白かったです
印象が薄い男性……苗字は東横かな?

次回作を楽しみにしてます

乙でした。

前作が咲原作でいう合宿の間。今回で長野県予選、インターハイ編まで行くとなると宮守に鹿児島辺りの動向もまた気になるな。

次回作も楽しみにしてます。

乙でしたー今回も最高に面白かったです!

完結乙
今作も面白かった
続編も楽しみに待ってる

乙、衣の可愛さに俺が泣いた
続きも楽しみにしてます

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