鷺沢文香「百薬の長でも草津の湯でも」 (12)

※モバマスSS
※地の文あり
※登場キャラ……文香、楓

※Coだけどクールじゃない

※鷺沢文香
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※高垣楓
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●00



……そうしたあなたのあまりにも正確な優しさの中で、
私が何か判らない物足りなさを感じていたのに、あなたはお気づきだったでしょうか。
あなたの優しさの中には、いつも、あなたが残してきた過去が感じられました。

……それを、そねんだ訳ではないのです。
ですが、それでも、やはり、そうした過去の日々がなかったかのように、私はあなたに愛してもらいたかった。
はじめてのようなやり方で、あなたに愛してもらいたかったのです。

(柴田翔『されど 我らが日々――』)


●01

私のプロデューサーさんは、出会ってから今に至るまで、
変わらず魅力的な方であると私は思います。



『……アイドルをお探しですか? 当店は……アイドル雑誌などのお取り扱いはございません。
 ……違うのですか? ……ええと……あの、お話がよく飲み込めないのですが』

プロデューサーさんに初めて出会った時、私が抱いた感情は困惑でした。
私は、それまで日焼けした古本の不思議と仄甘い匂いに浸っていましたし、
これからもそうするつもりでした。それ以外の世界は、目に映っても心に浮かんでいませんでした。

けれど私のプロデューサーさんは、私の手を引いて、
強引なまでの勢いで、目映いほど輝くステージに連れて行きました。



『書店のお仕事は座っていればよかったのに、アイドルというのは……』

初めて足を踏み入れるアイドルの世界は戸惑いの連続で、最初は不安さえ感じる暇がありませんでした。
ある種の無知は恐怖心を鈍感にします。この世界で、私は赤ん坊同然でした。

『書の世界はどこか時が止まったような感覚で……
 でも、もしアイドルという道に一歩を踏み出せば、私も前に進めるでしょうか……?』

『……新しい自分、興味あります。アイドルになったらもしかしたら……』



プロデューサーさんが手を引いて導いてくれる世界は、好奇心と不安が背中合わせでした。
うまく行かなかったらどうしよう、期待に応えられなかったらどうしよう……と思い、
人の目に怯み気圧される瞬間もたくさんありました。

そうして、たたらを踏んだり尻餅をついたりする私を、
プロデューサーさんは何でもない風な顔で支えてくださいました。

『……多くの人に見られるのは、やはり苦手です。守ってください』

今に輪をかけて未熟だった私は、ファンの皆様のため、という意識を持つほどの余裕がなくて、
燦めくステージの興奮と、舞台裏で見守ってくださるプロデューサーさんとの間を往復していました。

『……まだまだ新米のアイドルですけれども……私、せめて顔を上げて……
 こうして、目を見てお話できるように頑張ります』

『……書との出会いは人生を変える、という名言があります。
 プロデューサーさんは私を……変えてくれました。人生の、教科書のよう……』

遅ればせながら、プロデューサーさんが私を守ってくれている、ということが実感できて……
語弊を恐れずに言えば、私はプロデューサーさんのためにアイドルを演じていました。



●02

ただあなたに手を引かれるだけだったアイドルの姿が、私の新しい頁として綴じられるのに、
そう時間はかかりませんでした。プロデューサーさんとの時間は、格別に濃密でしたから。

『……書との出会いは人生を変える、という名言があります。
 プロデューサーさんは私を、変えてくれました。人生の、教科書のよう……』

プロデューサーさんの手で、私の知らない私が、新たに綴られていきます。

『私からは、物語など生まれないと思っていました……でもプロデューサーさんが紐解いてくれました』

プロデューサーさんの手で綴られる、アイドル・鷺沢文香の新章を、私は心待ちにするようになりました。
一番熱心なファンよりも――もしかすると、プロデューサーさん自身よりも、その思いは強いかも知れません。

それを自覚した時、既に私の中は、プロデューサーさんへの感謝が敷き詰められていました。

『……プロデューサーさんと過ごす時間が増えるたび、私という書も厚みを増す。
 それは、幸せです。心より感謝します。深く』



『プロデューサーさんは、甘いです。甘やかしてくれる、という意味です』

私のために心を配ってくださる方。
記憶の中で轟いて眠れなくなるほどの興奮と歓声の中、道を示してくださる方。

『……目は口ほどに物語ると言います。プロデューサーさんの目も、同じ』

私の中に、プロデューサーさんへの恋が入り込むのは、ありがちな展開でした。
本でしか恋愛を知らなかった私にすら、明白な事実でした。

『プロデューサーさん……私が目で語る言葉、分かっていただけますか……?』

私はプロデューサーさんへ近づくのをためらいませんでした。
私のプロデューサーさんなら、最初に私からアイドルへ続く扉を開けてくれたように、
私から恋愛へ続く扉を開けて、素晴らしい世界を見せてくれると信じられたから……だったと、思います。



プロデューサーさんは、いつだって頼りがいのある男性です。
プロデューサーさんは、私が自分に危機感を抱いてしまうほど、私のことを察して動いてくださいます。

そんな、これ以上望み様がないほど行き届いたプロデューサーさんの存在が、
私の内心をきりきりと痛ませるようになったのは、いつからでしょうか。


●03


「――大丈夫ですから、どうかご心配なさらず、お仕事に戻ってください……。
 私も、プロデューサーさんの仰るとおり、ちゃんと休息しますから……」

私の声は、声帯を震わせるたびに腫れぼったく痛みました。
きっとプロデューサーさんなら、電話ごしでも不調に勘付いたでしょう。

通話を切ってから、髪が乱れるのも構わず寮のベッドに身体を倒します。
無造作に転がした身体が、熱く重苦しく、私は嫌でも自分の体調を実感させられます。

同室の子も仕事に出て行って、風邪引きの私が寮室に一人――
という状況をプロデューサーさんが心配してくださいましたが、
私は症状がたいしたことない素振りをして、強引に通話を打ち切りました。

実際、体温計がさした温度はかろうじて37度台でした。
発熱だけを考えれば、たいしたことではありません。

アイドルという仕事は、歌ったり踊ったりという体力的な消耗もあれば、
あちこち移動したりいろいろな人と会ったりという精神的な消耗もある、ハードな仕事です。

今はアイドルをしている私も、ほかの仕事は古書店の店番しかしたことがありませんでした。
もともと体力に乏しい私は、プロデューサーさんやトレーナーさんが配慮してくださっても、
時折こうして体調を崩してしまいます。



本当は、タオルで身体を拭くぐらいしなければ、熱が長引いてしまいます。
が、一人では指先一本も動かす気力が湧きません。
部屋に一人きりで、蛍光灯のかすかな音ばかりが耳に入り込んできます。

電話をかけたとき、プロデューサーさんは心配そうな口ぶりを聞かせてくれましたが、
今私がこんな風に発熱で惚けている間も、仕事をしているのでしょうか。



そのまま何をするでもなく、ベッドに寝転んだままでいると、
寮室のインターフォンが突然鳴りました。一回、二回、三回――

私は気力を振り絞ってベッドから起き上がり、応答機のパネルまでよたよたと歩いて、
モニタも見ずに送話ボタンを押しました。



「ピンポーン♪ 楓急便です。真心を届けに参りました。お風邪を召しちゃ――めっ、ですよっ」

私は脱力して壁にぶつかり、膝から床に落ちました。
上体が壁に引っかかっているうちに、手を伸ばして、
かろうじて――本当にかろうじて――ドアロックの解錠操作ができました。


●04


「はーい、文香ちゃんが残さず食べてくださって嬉しいですよ。お粗末さまでした」
「いえ、とんでもありません……ごちそうさまでした」

私の部屋を訪ねてきた先輩アイドル・高垣楓さんは、
室内のインターフォン応答機の前でへたり込んでいる私を見て、一瞬ぎょっとしたようでしたが、
私の意識がはっきりしているのを確認し、さらに食事すら摂っていないことを聞き出すと、
部屋の台所に行って料理を作ってくださいました。

生姜をほどよく効かせたおかゆは、風邪で弱った私の食欲でも、無理なく完食できて、ようやく人心地。
楓さんの家庭的な面を見て、私は素直に感心しました。



「あの、楓さん……?」
「文香ちゃん、どうしたの?」
「楓さんが来てくださったのは……もしかして、プロデューサーさんが?」

私は、楓さんの訪問をプロデューサーさんの差金だと思いました。
プロデューサーさんはご多忙ですし、部屋に体調不良の女性一人でいるところへ、
不用意に訪問するような軽挙は避ける方です。

なので、プロデューサーさんが楓さんに頼んで、私の様子を見に来させたのでは、と考えました。
ですが、楓さんは笑って首を横に振りました。

「あの人、私には特に何も言ってくれませんでしたよ?
 ただ、顔にはしっかり書いてあったので……私が勝手に来てみました」
「……楓さん、すごいですね。顔だけでわかったんですか……」

楓さんは、私の問いかけを笑って否定しました。
その笑顔は、礼さんがなぞなぞを出す瞬間を連想させました。



「あの人は、担当アイドルの体調というデリケートな情報なら、不用意に明かしたりしません。
 そういう配慮はできる人です……まぁ、時々寝癖が直ってなかったり、ズボンのチャック開けっ放しだったりしますが」
「……それ、見つけた時にプロデューサーさんへ言ってあげました?」
「放置しちゃいました。仕事終わりに一杯やってる時で、変な雰囲気になるのも嫌でしたし」

楓さんとプロデューサーさんと親密なところがさりげなく明かされて、
微熱が染み込んだ頭に動揺が降って湧きました。

「文香ちゃんは……ええと、19歳でしたか。んー、もう少し。誕生日来たら、飲みに行きませんか?」
「私が……ご一緒してもよろしいのでしょうか? たぶん、強くありませんよ」
「えー……そうですね。私とサシが不安なら、あの人も誘って……きっと楽しいです」

私は、プロデューサーさんと楓さんが、静かで薄暗いカウンターに席を並べている様を想像しました。
それはまったく実体験に基づかない妄想だったのでおぼろげでしたが、
はっきりしないがゆえに却って私の心へ執拗に巻き付き、どうしても離れません。

「プロデューサーさんって、酔うとどんな感じになるんでしょうか……?」

私は、いつもでき過ぎなぐらい私を支えてくださるプロデューサーさんが、
楓さんの前では、いくらか隙を見せるのだろうか、と邪推しました。

ついさっき“顔にはしっかり書いてあったので”なんて聞かされましたし。
私にはちょっと真似できそうもない観察力です。

「酔いが回ったら、その人の振る舞いが劇的に変わるとか……あの人に関してはそういうのありませんね。
 それでも……普段あの人をよく見ている文香ちゃんなら、わずかな違いに気づけるかも……」
「私が……プロデューサーさんを、よく見ている……そうでしょうか……?」

楓さんの指摘は、私にはちょっと首肯しがたいものでした。
もし楓さんが体調を崩されても、私はそれをプロデューサーさんの顔色から見抜けるでしょうか。

「とりあえず、あの人が一番目を向けているのは、今のところ文香ちゃんだと思います。
 そして、文香ちゃんもあの人を目で追っていますよね。結構な頻度で……」
「……お恥ずかしいところを」

私が羞恥でくちびるを噛むと、楓さんはくつくつと喉の奥で笑いました。
楓さんには珍しい――ほかの人で言えば、あいさんがときどき見せるような笑い方でした。


●05

「もし、あの人が私に、文香ちゃんの知らない顔を見せてたら――気になりますか?」
「それは……プロデューサーさんですから、そういうことも、きっとあるでしょう。
 楓さんのような方を、私のような半人前と同じ扱いしてたら、失礼にあたりますから」

楓さんは、アイドルとしての先輩であるだけでなく、
アイドルデビューする前は、雑誌のモデルとして活躍されていました。

「私はまだまだです……アイドルなのに、人の目線で未だに苦手で……楓さんとは大違いです」
「そうですかねー。私、もう文香ちゃんは一端のアイドルだと思いますが」

楓さんは、無邪気なほどあっさりと断言してくださいました。
先輩アイドルである楓さんに褒められると、
プロデューサーさんやトレーナーさんとは違った面映ゆさがあります。



「まぁ、文香ちゃんがあの人の担当になったばかりの時、私は思ってたんですよね。
 なんか過保護じゃないかなーって。19の女に対する扱いにしては……とか」

楓さんに言われて、私もスカウトされたばかりの頃を振り返ると、それだけで溜息が漏れてしまいました。
当時は余裕がまったくありませんでしたが、今なら楓さんの言葉に頷けます。

「過保護にされると――それも、年上の男性相手だと、
 対等に見られていない気がして、気に障ることがありませんか?」
「あの時は……その、なんとかアイドルらしくなろうと思っていて、精一杯で、そこまでは……」

私がそれを口に出した瞬間、楓さんの不思議な目が、ふっと細められて、

「……“あの時は”ですかぁ」

私は、思わず顔を伏せてしまいました。
もともと目を見て話すのが苦手な質(たち)ですが、これは――

「楓さん……意味深な言い方、しますね」
「文香ちゃんこそ」



「あの人は、デキる人ですよねぇ。
 落ち着きがあって、なかなか動じてくれない――ときどき、小面憎くなります。
 なのに、ふと思い出したように心をくすぐってきたりして。あーズルいズルい」

楓さんはプロデューサーさんのことを話しているにもかかわらず、
私はなぜか、楓さんの視線が私にぐんと迫っているよう感じました。

色違いの神秘的な双眸から、揺らぎもせずに真っ直ぐ見つめられると、
同性である私であっても、少しドキドキしてしまいます――風邪のせいかもしれませんが。

「完璧ですよね――あくまでプロデューサーとしては、ですが」

私の意識が浮ついたその一瞬、楓さんは上目遣いで、まさに緩んだ私の内心に入り込みます。
くちびるを開いただけで、声が詰まりました……これは、風邪のせいではありません。

「そう。あの人、男性としてはちょっと抜けてるところがあります。
 何せ、恋煩いしている女の子に、ほかの女性――私なんか差し向けるんですから、ねぇ」
「……楓さん?」

私の顔は、楓さんの視線に縫い留められたように動きませんでした。



「文香ちゃん。恋煩い、してませんか?」
「私……恋煩いなんて、そんな」
「違うんですか?」

楓さんは、計算しつくされた角度で――しかしほとんど自然に――首を傾げました。
その動作は同じアイドルの目から見ても、ほんのわずかしか作為を感じさせませんでした。

「……あれですよ、あれ。『忍ぶれど』……この先は、ええと……『色に出でにけりわが恋は』でしたっけ?」
「……『ものや思うと人の問うまで』と続きます……」
「良かった! 年始に覚え直したの、まだ忘れてませんでした」

●06

「文香ちゃん。何か胸に閊(つか)えることがあれば、話してみませんか?
 私、これでも事務所で“かえ姉様”って呼ばれてるんですよー」
「ああ……未央さんのアダ名、気に入ってるんですね……」
「ええ。それで、文香ちゃんは?」

私は気怠い思考で、楓さんの追及をはぐらかそうと試みましたが、すぐに諦めました。

それに、思うところがないといえば、嘘になります。



「……プロデューサーさんのことを、好ましいと感じていたり、憧れたり……
 そういう気持ちがありましたし……それを、恋かな……と思ったこともあります……」
「んー、“思った”……ですか」
「ごく最近ですけど……私は、それが本当に恋なのか……と疑うようになりました」

心中に引っかかる疑いに“かえ姉様”が何かしら手がかりを与えてくれないか、
と頼りたくなって、くちびるがするすると言葉を吐き出してしまいます。



「プロデューサーさんは……識見も人格も、本当に信頼できる方です。
 また、私にもったいないほどよくしてくださいます……」

プロデューサーさんが私に見せてくれるあらゆる美点は、
私が最初に出会った時から今に至るまで、まったく変わる所がありません。

「けれど、それを私は……いつしか、素直に認められなくなりました」

プロデューサーさんは、出会った頃と同じように、私に良くしてくださいます。
私がプロデューサーさんと出会ってから、こんなに変わってしまったのに。

「それは、私以外の誰かが、プロデューサーさんに綴(つづ)った物語です……。
 それを目の当たりにするのが、苦しいのです……」

プロデューサーさんは、物語など生まれないと思っていた私から、物語を繙(ひもと)いてくださいました。
では逆に、プロデューサーさんの物語に、私は何か一節でも書き加えることができたでしょうか?



「……お笑いください……自分でも、少しおかしいとは思っていたのですが……。
 つまるところ、勝手に憧れて、勝手に苛立って……私の、独り相撲です……」

最初に好ましいと感じていたところが、今やそれを認識するたびに私の胸中をちくちくと刺してきます。
おかしな話です。いつか手に取ったスタンダールが、本棚から“それ見たことか”と呆れています。



しばらく沈黙が続きました。私は俯いて口を閉ざしていました。楓さんも何も言いませんでした。

やがて私がこわごわ顔を上げると、楓さんは明後日の方向を眺めていました。

「楓さん……本棚が、どうかいたしました?」
「んー……理屈っぽいなぁ、と思いまして。文香ちゃんみたいに読書家だと、理屈っぽくなるんですかね」

私は一気に脱力しました。
楓さんは、私が寮室に持ち込んだ蔵書を見て、うんうん唸っていました。

「私、偉そうに相談乗るなんて言いましたけど、私より文香ちゃんのが大人でしょうかね。
 理屈をこねるのは大人の証です。子供なら、理屈すっ飛ばして、気分と感情で動きますもの」

楓さんは本棚から目を離して、私の枕元で頬杖をつきました。
物憂げな顔が私の間近に――楓さんの瞳には、私もこんな顔をして映っていたのかも知れません。

「私、大人なんかやめてやる! と思うときがけっこうあります。
 理屈をこねるのが面倒くさくて……まさか本当にやめるわけにはいかないので、気分だけですが」
「……楓さん……」

「実は、今まさにそう思ってます。理屈をこねるの、面倒くさいなぁーって」
「…………えっ」

呆気に取られたその時、楓さんは頬杖を解いて、私の目を覗き込んできました。



「理屈抜きで聞きます。プロデューサーさん、私が取ってしまってもいいかしら。
 私が、プロデューサーさんとお付き合いしてもいいかしら」


●07

私は絶句しました――何か、とにかく何か喋ろうと思って、口を虚しくぱくぱくさせましたが、
風邪引きの喉からは一単語すら絞り出せず、意味を成さない呻きが一筋溢れただけでした。

「もし『言葉にできない痛み』があったら、きっとそれは『恋』ですよ」

その時の楓さんは、私が知るほかの誰よりも――幸子ちゃんよりも――得意満面という形容が似合う笑顔でした。



私が声を失ったままと見るや、楓さんは白々しい高さの声で喋り始めました。

「……まぁ、私も“かえ姉様”ですからね。面倒ですが、理屈もこねておきましょう。
 ほかの誰かがプロデューサーさんに綴った物語を見るのが辛い――へぇ、そうですか。
 その割には、あなたが知らないはずのプロデューサーさんの酔態に興味津々でしたねぇ」
「あ、あの……っ」

「文香ちゃんは、風邪で弱っている時にプロデューサーさんが連絡したにもかかわらず、
 ずいぶん素っ気ない態度だったと聞きました――だから私が代わりにここへ来たんですよ。
 その態度は、好きな人に弱った姿を見せたくないってことじゃありませんか」
「……楓さん……っ、その、私は……っ」

「文香ちゃんは一人前のアイドルになりました。大人にもなりました。
 だから仕事の枠を超えて、プロデューサーさんと対等になりたくなったんです。
 もうプロデューサーさんが手を引いてくれるだけでは満足できなくなったんです。
 自分がプロデューサーさんに変えられたのと同じぐらい、プロデューサーさんを変えたくなったんです」
「私は……プロデューサーさんの、こと……っ」
「知りたい、知りたくない、甘えたい、甘やかされたくない――たいへんですね。
 それだけ思いがごちゃついてれば『色に出でにけ』るのも当たり前です」

楓さんは、おもむろに得意顔をすっと引き締めました。
無表情なのに、色違いの瞳二つが炯々と輝いていました。

「文香ちゃん。私がプロデューサーさんとお付き合いしてもいいかしら。私、本気で――」
「――わ……私、だって、本気ですっ! プロデューサーさんの――」

プロデューサーさんのこと、好きです――と続けかけて、また私の言葉は途切れました。

目線と目線で切り結んでいた楓さんの表情が、涼しげだった目元から奇妙に歪んで、
私がそれに気を取られて、開けっ放しの口でひゅうひゅうと覚束ない呼吸を二度した後、
楓さんは私から顔をそむけて、さっと両手で顔を隠しました。

●08

「……文香ちゃんごめんなさい……私、つい、熱くなってしまって……」

楓さんは、おもむろに顔を上げました。
こんなにきまり悪そうな楓さんの顔なんて見たの、私が初めてかもしれません。

「……風邪で弱っている後輩をいじめるとか……うわぁ。自己嫌悪です……」
「いや、その……あまり、お気になさらず……」

さっきまで楓さんの顔を覆っていた手を、私は自分の手を伸ばして握りました。
その時の楓さんの手は、おそらく私の額よりも熱かったと思います。



「楓さんは……私のこと“一人前のアイドル”って言ってくださいましたよね……」
「……そんなこと言ったかしら?」
「言いました。それも、本気で言ってくれて……とても、嬉しかったです」
「文香ちゃんにして珍しく……いやにきっぱり断言しちゃいますね。
 方便かも知れませんよ。アイドル・高垣楓って、こう見えて演技派で通ってるんです」



「それなら“プロデューサーさん、私が取ってしまってもいいかしら”も、嘘ととって構わないですね?」
「そんなこと言っちゃいけませんノー!」



「…………」
「…………」

「…………」
「……文香ちゃん」
「……人と話すのは……苦手です」
「……私も、あまり得意じゃなくて……こんな時、何を話せばいいのか……」


●09

楓さんが、私のシーツの上にのの字を書き始めたので、
私は沈黙をなかったことにして喋りかけました。

「ところで……私が今日プロデューサーさんにすげなくしてしまったこと、
 楓さんはプロデューサーさんから聞いてた風な口ぶりでしたけど……
 “私には特に何も言ってくれませんでした”とも仰ってましたよね」

まさか楓さんは、私の振る舞いまで表情から見抜いたのでしょうか。

「あ、それですか。“何も言ってくれませんでした”は嘘です。
 私があなたのお見舞いに来たのは、プロデューサーさんに頼まれたからです」
「なんでそんな嘘を……」
「そう言ったら、文香ちゃんがどう反応するかなーと思いまして」



この人は――高垣楓さんは、油断ならない方です。
楓さんの話はしっかり聞かないと、とんでもないことになるでしょう。

「まぁ、頼まれる前に顔色で気づいたのは嘘じゃないですけど」

楓さんの表情から、取り乱した様子は跡形もなく消え失せていました。
本当の演技派は、顔の下に潜む内心の切り替えまで上手いのです。

それでも……私だって、引けをとるつもりはありません。
私も楓さんと同じく、アイドルなのですから。



「まぁ、それはそれとして」
「……それとして?」

「文香ちゃんと一緒に呑むの……誕生日まで待たなきゃならないんですよねー。長いなぁ。
 そうだ、温泉はどうでしょうか。草津の湯、有名ですけど行ったことあります?
 あ……文香ちゃんは温泉いっぱいの信州だから、わざわざ県外行くことはないでしょうか……」

そういえば、楓さんは温泉も大好きな方でした。でも……草津?
楓さんが地元の紀州白浜を差し置いて、なぜ草津を……。

「温泉……ご一緒できるのは嬉しいですが……恋の病は治らないのでしょう?」
「そりゃあもう、ぜんっぜん効きませんねー」

楓さんが、また私に笑ってくださいました。
その表情は、誰かの借り物ではありませんでした。
楓さんがよく見せてくれる、ちょっといたずらっぽい微笑でした。



(おしまい)



楓Pってみんなダジャレすぐひねり出せるものなのでしょうか >>1にはだいぶ難しいことでした
>>1は『されど~』がどんな話だったかさっぱり覚えてません
読んでくれた人どうも

乙!
とても読みやすかったです

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