橙子「年末だな。式」 (15)


某年12月31日

「全く、なんだってこんな日に橙子の所に行かなきゃならないんだ」

曇天の天候ではあるものの街中での人の量はいつもよりも増している。

雑踏の中、人々は各々の考え事をしながらそれぞれの行く場所へと向かっているだろう。

例えば来年の目標や、今夜の献立なんかだ。私なんかは橙子が仕事を最近回さないのでそのことについてイラついてはいる。

人それぞれ考えることは全く別なのに、この日だけは家へと帰っていく。

生物の帰巣本能という奴だろうか。だとしたら堅苦しくて、家から抜け出した私が今から行く場所が家となってしまうのは少し釈然としない。

幹也の所へ行こうとしたが鮮花にまた難癖つけられるのを思うと、年末だってのに嫌な気分にされてしまう。

だから私は行く宛先のない迷い猫の様になってしまったのだ。いや、行くあてはあるがあまり行きたくはない。

しかし、時間を潰す先もこれと言って他に当たる先はない。

ならば、決まりと思い、いつもの着なれた道を進み目的の場所へと歩を進めていたのだった。

そしてこう愚痴を脳内で零しているうちに辿り着いた。

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「おい、橙子いるか」

「んー、なんだ式か。今日は休みだぞ」

背もたれのある椅子に座りながら、橙子は机の上の整理をしていた。

背もたれには、橙子のオレンジ色のコートが掛かっている。

どうやら年末の大掃除という物らしいが、あの量じゃ今日中に終わることは無いだろう。

「俺に仕事を最近回してないくせによく言うよ」

私は無駄に幾つものテレビが置いてある前のソファに、腰を下ろした。

相変わらず無駄な位にテレビが並んでいる。どうせ橙子がジャミングするのが面倒なので買ったんだろうと私は推測している。

ソファに横になり首を橙子の方へと向けた。もちろん抗議の顔を見せるためだ。

「仕方ないだろう。最近は物騒な仕事が出てこないんだ。お前には仕事が回ってこないが、黒桐なんか猫の手も借りたいぐらいだったじゃないか」

「今月なんか仕事したの一回だったぞ俺。それも橙子の雑用だったし。来年はもっと仕事よこせ」

「わかった。善処しよう。ところで、お前なんでここに来たんだ? 今日ぐらい家に居てもいいだろう」

目を閉じて肩を竦めて、おどけた様に言った。その後に胸ポケットから煙草を一本と百円ライターを取り出し、火をつけた。

橙子は口にそれを加え、しばらくの間は煙を肺に回していた。

火がついた煙草の先は紫煙をゆらゆらと立たせながら、点滅信号の様に紅く仄かに光っていた。


「家は堅苦しくて嫌なんだ。幹也の所へ行ってもよかったが、鮮花に噛みつかれるのはのは嫌だからここに来た」

橙子は口から煙草を離し、背もたれに背中を任せて天井を向いて煙をゆっくりと吐いていく。

吐き終えて、私の方をみた顔は口の形が三日月へと変化していた。何って意地悪な奴だ。

「……なるほど。まぁ、家が嫌なのは私も同じだ。妹となんか特に関わりたくないものだ」

「橙子妹いるのか?」

「ん? ああ、世間で言うショタコンって奴だろうけどな。身内が不祥事で警察の世話にならなければいいがな」

橙子は煙草にもう一度口をつけて、窓を見た。

私も釣られて窓を見る。

外にはひらひらと白い球がゆったりと降っていた。雪が降っていた。

「雪か。全く天気も、もう少し休んでくれたっていいのにな。……そうだ、式。お前暇だったな」

「ああ、仕事くれるのか?」

「いや、私の話し相手だ」

「なんだ。俺寝るから帰るとき起こしてくれ」

「そういうな。式。なんだったなら、もう私は帰ってもいいんだぞ」

「……いいよ。聞いてやる」

全く年末まで嫌な奴だ。


「式。人ってのは何のために年を迎えるんだろうな」

いつも通り素っ頓狂な質問をしてきやがった。

「そりゃ、年が来るからだろ」

「そうだな。だが、それは日付という概念があるからこそだろう? 日付がなければ人は一年の区切りという物は認識できない」

「……新たな気持ちで一年を迎えるためか?」

「ん、まぁ概ねそんなところだろう。一年間に積もった疲れや、苦しみを『空』にしてまた一年を新しく始めるためだろう。全く、いい記憶しか残さないってのは本当に都合がよすぎると思うがな」

「人間なんてそんなもんじゃないか。いつだって自分に都合のいい記憶しか残さないじゃないか。橙子だってそうだろ。先月分の給料がまだ振り込まれてないぞ」

「そう噛みつくな。金の工面は来月までにはちゃんとやっておくよ。まぁ、そういう風に人間は区切りを迎えると記憶を『空』にしたがるものだ。年末の偉い坊さんたちの鐘つきだって結局は煩悩を『空』にして伽藍堂な心で新年を迎える為だからな」

「で、結局何が言いたいんだお前」

橙子のうんちく話にイラついた私は橙子へと結論を問うた。

橙子はその言葉を聞くと、煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

空の境界とは珍しい


どうやらこちらの意図を察してくれたらしい。黒桐だったらもうちょっと付き合ってやっただろう。アイツは誰に対しても虫がよすぎるんだ。

「だからな、ここの事務所の名前は『伽藍の堂』だぞ。こんなにも年末を迎えるのにふさわしい場所はないと思わないのか?」

「橙子、俺お前と一緒に年越すなんて絶対嫌だからな」

「なんだ。乗ってくれたっていいじゃないかたまには。……黒桐にもたまには自分の時間を与えてやれ。あいつだってお前にかかりきりというわけにもいかんだろう」

「……嫌なものは嫌なんだ」

……そうだ。嫌なものは嫌なんだ。アイツの都合だってあるけど嫌なんだ。

「……仕方ない。じゃあ私はここらで撤退するとしよう」

橙子は椅子から立ち上がり、大して片付けていない書類の山をゴミ箱に投げ込んだ。

ああ、これでまた私は今日どこで過ごすか考えなきゃいけないのか。

自室に戻ってもいいがあそこは味気なさ過ぎる。

「ああ、そうだ。式。どうせだ。今日はここの使用権のお前に引き渡そう。どうせ行くあても無いだろう。警備でもしておいてくれ」

そういうと橙子はオレンジ色のコートのポケットから事務所の鍵を抜き取ると私の方へと投げた。

ちゃりんと小さな金属音が鳴り私の傍に落ちた。

「じゃあね。式。良いお年を」

それだけいうと橙子は事務所から出て行った。

カツカツと橙子が階段を下りていく音が響いていく。

「何が良いお年を、だ」

私は起き上がり、床に落ちた鍵を拾い少し前に知り合った人物を思い出した。

鍵を見るまで忘れていた記憶の中にいた奴の事を。

再びソファへ横になり、掌の中の鍵を見つめた。

私はそれを機に物心ついたときから今までの事を振り返りながら、意識が許す限り物思いにふけり続けた。

私は部屋に漂うヤニの臭いに不快感を覚えながら、瞼を閉じ記憶を掘り起こす。

――窓の外は雪が強くなっていた。



『ん、家族団欒の最中すまない黒桐。悪いがちょっと急な仕事が入ってね。事務所まで来てくれないか。何、すごく簡単な仕事だ。ただちょっと先方が気難しい方でね。お前に一任しようと思う。ああ、急がなくていいぞ。そうだな。三時間後ぐらいがいいな。――分かったって給料はちゃんと払うよ』



あの日片割れを無くした私の間を埋めたのはアイツだった。

いつからだろうか。アイツを殺したいと思い始めたのは。

もしかしたらきっかけは些細なものだったかもしれない。

ただ、この想いは今も胸に残り続けている。

いくら時間が経とうが、年を越そうが「空」にはならないだろう。

私の胸は――もう「伽藍堂」になることは無い。


目が覚めると、見知った天井だった。

ヤニの臭いは消え、代わりに珈琲の匂いが事務所には漂っていた。

照明も付いていることからもう日は沈んでしまったのか。

橙子が帰ってきたのかと思い、私は起き上がる。

本気でアイツ私と年越す気じゃないだろうな。そんなのだったら最低な年越しだ。

まだ鮮花とにらみ合いをしていた方がいささか有意義だ。

「おはよう式」

そんな事を思っていると随分と聞きなれた声が私の耳に飛び込んでくる。

珈琲を飲みながら、橙子の机の前にあるソファに座っていた。

いつも通り黒色で固まっているような服装だった。

眠気眼だった私は一気に目が覚めてしまった。


「お前、家にいたんじゃないのか」

「ん?そうだったんだけど、橙子さんが仕事が出来たっていうから来たんだけど特に何もなくてさ。着たら式がいてこのまま帰るのも申し訳ないからね」

……アイツ、余計なことしやがって。

時計を見るともう20時を回っている。これから家に返っても、もう特にやることは無い。

家に帰っても秋隆に心配をかけたことを咎められるだけかもしれない。

そうなると年最後に少し嫌な思いになる。

もうどうせだ。橙子の厚意を受け取ろう。

「黒桐。ちょっと俺に付き合えよ。気になる蕎麦屋あるんだ」

「僕、今持ち合わせないよ?」

「奢ってやるよ。俺に付き合ってくれた礼だ。あと俺の部屋に泊まっていけ」


どうせだ。少しぐらい羽を伸ばしたって許されるさ。

人間は都合のいい記憶しか残らないんだ。それならいつか問い詰められたって恍けてしまえばいい。

それに死んでしまえば、死者が語ることは何もない。なら生きているうちに文句言われている方がきっと楽しいさ。

煩くなれば殺せばいいさ。その時はその時さ。

私は黒桐の手を引き、事務所から出て街中へと歩いていく。


外は雪が積もってはいるが、もう止んでいた。

ただ目の前に広がるのは誰も足跡をつけていない白い道。

私と黒桐はその白い道に足跡を付けて、ゆっくりと歩いて行った。

くしゃりと雪が沈む音が聞こえる。私の隣では黒桐が白い息を吐きながら歩いている。

辺りには誰もいなく、二人だけの世界の様に想えた。

私と黒桐は他愛もない話で笑いながらお互い白い息を吐きながら道を歩いていく。

私の手にはナイフじゃなく黒桐の手が握られている。

寒さや暑さには強い私だが、握ったこの手の暖かさは正直まだ慣れない。

ただ今時間をかけて慣れて行くしかない。

だったら――来年の今頃もきっとこうしているだろう。

そう思うと私はなんだか楽しくなり、黒桐の手を引いて軽やかに歩いていた。



道は白く、先は見えない。

<了>

乙です

乙、いい雰囲気だ

乙です

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