吸血鬼と猫(14)



私は、俗に吸血鬼と呼ばれる種族だ。

生まれは1824年のアイルランドで、それなりの人生を謳歌していたのだが、諸々の事情で今は日本に暮らしている。


…それにしても良い気分だ。
今、日が沈みかけて私達が過ごしやすい時間帯と言うのもあるのだろうが、この日本という国は我が故郷に負けず劣らずの良い国だ。


この時間帯、夕日に照らされた紅葉や銀杏の木の影が薄く長く庭に溶け、隣の家からは中学生の兄弟が学校から帰ってきた音が聴こえてくる。
何かが特別な訳では無いが、それゆえにこの国の自然な姿が見える。
庭の一角に植えたネギを晩飯にと手に取ろうとすると、すぐ隣に上等な絹のように白い猫がいることに気付いた。

「おいでなさい」
と私が声をかけると白猫は少しも警戒する事無く私の肩に飛び乗った。

種族柄、今までは一人でいることが多くそれなりに寂しい思いをしていたのだが、動物と言うのは不思議なものだ。
この白猫がいるだけで私は胸中に合った寂しさを綺麗さっぱり忘れてしまった。


その日の晩飯は珍しい客人であり、これからの家族になるであろう白猫に冷蔵庫に有った鮭を差し上げ、その姿を愛でながら人肌に温めた焼酎を飲み干した。




場所を居間から縁側に移した私は高く蒼暗い空を見上げた。

日は完全に沈み、三日月を二日ほど超えた弓の様な月が天空に姿を置いている。

古い友人達が好きだった月。国が違えどもあれと太陽だけは決して変わらない。


…そういえば、この国では月の形状に独特な名前を付けていたのを頭の隅に思い出すが、しっかりと記憶している訳ではない。

まあ…この場合、私が適当に名前を付けるのも勝手でしょう。

弓の様な形状のあの月は…そう、「llphe」とでも呼びましょう。今度から、私の心の中だけで。
横で毛布の上に包まわっている白猫に微笑みかけると、私は風で少し温度が下がった白湯に手を伸ばす。

日本の酒は非常に美味しいのだが、こうして飲んだ後に白湯を飲まなければ明日に堪えるというのが辛いところだ。
やはり寄る年波には勝てないのだろうか…

そんな事を種族柄にも無く考えていると、横で寝ていた白猫が腕に身体を擦り付けてくる。
どうやら気付かない内に随分と長い間外にいたらしい。

人間なら寒さで気付くのだろうが、私達に体温は存在しないため、時間が経っている事に気付かなかった。

私は白湯の入っていた湯呑みと猫の毛布を持って居間へと戻った。




カチャり、カチャり。
と食器の擦れる音が静かに響く。

手慣れた手つきで私は焼酎のセットと湯呑み、そして鮭の皿を洗う。
ここでも人間ならば普通はお湯に設定して洗うのだろうが、私は冷水で洗っていく。

…水を見ると思い出すのは嫌な記憶が多い。
一番深く頭の中に刻み込まるているのは、友人の死だ。
私が吸血鬼になる前、家の前の川で遊んでいた時だ。
一人の友人が足を滑らせて頭を打った。
元々身体が弱かった彼女は、九歳の誕生日に初めて私達と川で遊んだのだが、その日が彼女の命日となった。
…今でも覚えている。
あの日、夜になったら皆で彼女にプレゼントをあげようと計画を練っていた事を。
母に教えて貰いながら作った花冠を彼女にあげようとしていた事を…今でも覚えている。

カチャり。
食器を洗い終わった。
湿っぽい話は今日は思い出さないでいよう。
今日は新しい家族を迎えたんだから。
「ねえ、そうでしょ?」
そう言ってしゃがみ込むと、私は白猫の顔を見る。

白猫は不思議に思ったのか、しきりに瞬(まばた)きを繰り返すと首を横に傾げた。

なんと仕種が人間臭い猫であろうか。
私は思わず空気を漏らして笑ってしまった。



さて、短針が差す数字はⅦ。
私は今日も日課をこなす事にした。
棚に置いた箱を一度ちゃぶ台の上に置くと、そこからビオラと弓を取り出す。

丸一日振りのビオラを構えるて2分足らずの調律を終えると、私は題名の無い曲を弾きはじめた。

頭の中に浮かんだメロディーを口と鼻の奥で口ずさみながら繋げていく。
今日の曲調は随分と緩やかだが、白猫からするとビオラの音はあまり心地好い物では無いらしい。
完全無視。といった様子で部屋のあちこちを歩き回っている。

弦楽器と猫の組み合わせと聞くと、一般的な日本人は何を思い付くだろうか。
私は日本人では無いが、私は一つの本を思い付く。
それは今の私の様に緩やか曲を弾く本では無く、むしろ真逆と言っていい曲調の曲を弾いていた。
曲の題名は「印度のトラ狩り」本の題名は「セロ弾きのゴーシュ」である。

なんでこんな事を書いたのかはわからない。
ただ、猫があまりにもジッとしていないので同じ様な場面を思い浮かべたからだろう。そんなところだろう。


…ふぅ、ビオラの区切りが着いた。
後半で少し波が揺れた気がしたが、特に問題は無い。
せいぜい隣の家の食事中のbgmの一端を担った程度の事だ。

吸血鬼で書いたのか。楽しみだよ



ビオラを片付けていると、隣の家から大きな溜息が湯舟の音と共に聞こえてきた。
おそらく、大黒柱が帰ってきたのだろう。

実を言うと、私は綺麗好きだ。
今も、ビオラを棚に片付ける際に見つけた小さなゴミを摘んだところだ。

そして、気付いた。

いかに綺麗な白猫と言っても、ついさっきまで外に居たのだ。
寝転がっていた白猫を抱き抱えてジッと見てみると…やはり汚れが付いている。

私は急いで浴場へと足を運んだ。
幸(さいわ)い、風呂は既に洗ってあるので後は湧かすだけである。そして、それも5分足らずで終わる。


私は白猫を脱衣所で降ろすと風呂湧かしのスイッチを押す。
昔は水から湯にするのに随分と時間が懸かったものだが、時代の流れとは実に素晴らしい物だな。
こうして科学技術の発展を心の底から感心、感動出来るというのも吸血鬼ならでは無いだろうか。等と思いながら、私は着替えを取りに再び居間へと戻る。

白猫が後に続いて脱衣所から出ようとするが、それでは連れてきた意味が無いではないか。
私はソッとドアを閉めて白猫の脱出を阻止した。

あっという間に風呂が湧いた。
本当に現代の科学は素晴らしい。


…さて。保温が勿体ないので目的を果たそうか。


「お風呂に入りますよ」
私は先程から脱衣所の中をグルグルと回っていた白猫に声をかける。

服を脱ぎ、カゴの中に入れる。
透けるような白い肌の身体のあらゆる所に噛み後が見える。
そんな私の身体を見て、白猫は少し怯えた様な表情をしたが、私が何でもないと微笑みかけると、すぐに安心した表情に戻った。

屈んだ私に近付き、身体を擦り寄せてくる白猫。
私はその無防備な白猫を抱き抱えると浴場に入った。


湯気の充満した浴場は入っただけで私の身体を湿らせる。
それは白猫に取っても同じだったようで、腕の中の白猫は解りやすく嫌悪感からの鳴き声を出した。

私は後ろ手で浴場の扉を閉めると念のためにカギを掛ける。
そして白猫を降ろすとシャワーを手に持った。

臨戦体制に入った私を見ると、白猫は脱兎の如く脱衣所へ駆けたが、扉はカギが掛かっている為に開かない。

私はレバーを回してシャワーを出すと、温(ぬる)めのお湯が出るように温度を調整する。
動物にシャワーをするのは長い人生の中で初めてだ。
しっかりと考えてやろう。



左手で白猫を軽く押さえ、右手に持ったシャワーを白猫の身体にゆっくりとかけていく。

いっぱいの湯水を受けた白いビロードの毛は水滴を表面に光らせる。
まだ湯水を受けていない部分との差に私は色気を感じた。

しかし、そこで作業を終える訳には、いかない。

私は右手を左右に動かして白猫の身体全体にシャワーをかける。
白猫は少し暴れたが、左手で押さえながら白猫の身体をマッサージすると途端に甘えた調子に変わる。
まったく…随分と現金な猫だ。

レバーを回してシャワーを止め、石鹸を手に取る。
そういえば、動物用の石鹸を使わなくても良いのだろうか?
なんて、今更思っても仕方がない事を頭に浮かべながらも、既に白猫の身体で石鹸は泡立っている。

白い泡が白いビロードの毛にくっついている状態は、まさしく雲のようだ。

普段届かないであろう背中を左手で掻き、右手は足を順番にマッサージの要領で洗っていく。


すっかり全身を洗い終わると、次は泡を丁寧に落としていく。
上から順にシャワーをかけていくのだが、目に泡が入らないように左手でしっかりガードをする。


初めてだったが意外と出来る物だな。





さて、風呂場から出すと、白猫は猛スピードで脱衣所から出ようと扉に飛び掛かった。
しかし、猫の一匹や二匹の体当たりで開くほど我が家の扉は軽くない。
首元を掴んでバスタオルの上に置くと、以外と簡単におとなしくなった。

なるべく優しく白猫の身体を拭いていくのだが、これは猫にとっては苦痛のようだ。
今まで聞いたことがないような鳴き声を出して白猫は私に抗議をする。
残念なことに、止めるつもりは毛頭無いのだが。


丁寧に水分を拭き取ると、私はゆっくりと脱衣所の扉を開ける。
まさしく、満を辞したのだろう。
猫は跳ねるように脱衣所から飛び出した。
「そんなに嫌だったのですか」
私はバスタオル等を洗濯カゴに入れて、白猫の後を追った。



白猫は居間に居た。

何も置いていなかった事が猫にとって都合が良かったのだろうか。
白猫はちゃぶ台の真ん中に身体を包まらせて私が来るのを待っていたようだ。
私がちゃぶ台の隣に座ると、白猫は場を動かずにジッと私を見つめる。
ひょっとすると、これは警戒なのだろうか。

相手が猫と言えども、無言の空間というのは気が滅入るものです。
私は冷暗所からツナ缶を取って来る事にしました。

立ち上がった私を見ても、猫は場を動きません。

…おかしいな、警戒している動物なら動作の一つ一つにもっと反応するはずだが。

猫に対して一抹の疑問を持ちながら、私は冷暗所へと向かいます。

すると…

カタッ
とちゃぶ台の揺れる音が聞こえ、振り向くと白猫が私の後ろについて来ました。

これが…噂に聞く野性の本能とやらでしょうか。



「さあどうぞ。ツナ缶ですよ」
白猫は私が開けたツナ缶をあっという間に食べ終えた。
しかも食べ終わった後に一声ニャンと鳴きだす始末だ。

私は驚くやら呆れるやらで…ようするに唖然とした。

それにしてもこの白猫、本当にただの猫なのだろうか。よもやすると妖怪の化け猫では無いだろうか。

いやいや、流石にそれはないだろう。妖怪等と言うのはただの都市伝説だ。
吸血鬼の私が言うのも何だが、ありえない存在だ。
というか、今まで見たことがないのでその線はありえないだろう。

私は自分で見たことがあるものしか信じない主義なのだ。



ツナ缶を食べ終わった後、白猫はスッカリと警戒心を解いてくれた。
やはりこの猫、現金である。


そうしてしばらく…


夜は更けて隣家の住人が寝静まった頃、私は弓型月の『llphe』に照らされた薄暗い外へと踊り出た。
少し改良した右胸ポケットの中には白猫が堂々と入っている。

「今日も美しい夜景ですねえ」
私は誰も聞いていないであろう独り言をツラツラと言う。
もちろん、白猫からも返事は無い。あったら困る。


「こういう時には吸血鬼も悪くない。そして、コンビニが24時間営業なのは本当に助かります」
そう、今私が何をしているかと言うと、買い物なのだ。



先に言っておくが、私は真っ当な吸血鬼である。
故に、太陽の光を浴びると灰になって死んでしまう。

と言っても100%死ぬ訳では無く、朝焼けや夕焼けの太陽ならば平気なのだが、理論はよくわからない。
ひょっとすると太陽の光の中で波長の短い光に触れると灰になるのかもしれない。


さぁて、買い物をしよう。

時速20kmの速度で歩いて数分後、目当てのコンビニにたどり着く。
別に近くコンビニが無いわけではない。わざわざ遠い所のコンビニを使うのは顔を覚えられない様にだ。

基本的には、隣人と出会う生活をしていない。
吸血鬼が静かに暮らすための世渡り術だ。
誰だって歳を取らない生物は怖いだろう?

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