注意
・劇場版アイドルマスター輝きの向こう側へ、の嘘予告映画をSSにしてみました。
同様のSSが書かれていましたが、とりあえず投下していきます。
・地の文たんまりで長いです。
・入場者特典であった設定資料集は手に入れてないので全くわかんないです。
なのでその辺りぶっちぎって作ってあります。設定厳守の人は見ないほうがいいかもです。
・映像のみを見て考えた大量のオリジナル設定がある上に暗い内容となっていますので、ご容赦下さい。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1416146916
プロローグ
彼女は息継ぎをしながら、一つのマイクを掴んでいた。
身長は平均的な女の子と同等。その肩まで伸びた艶やかな茶髪と、頭頂部に取り付けた二つのリボンが印象強い少女。
少女の眼前には、修羅の如く殺意の視線を向ける、同じく少女。少しカールの効いた金髪のロングヘアと、その灼眼が光る。
その時、灼眼の少女が動いた。
手に持つ光の大鎌を振り切り、リボンの少女を切り裂こうとするが、それを防ぐのは手に持ったマイクスタンド。
熱を持つ鎌を防ぎ、二人の少女がほぼゼロ距離で視線を合わせた。
「美希――貴女がどうして……!」
「どうして? 春香も面白い事言うね」
美希と相手を呼んだ少女が、リボンの少女。
春香と相手を呼んだ少女が、灼眼の少女。
それぞれが言葉を投げかけた後は、その動きを常人が追う事は出来なかった。
光の大鎌が少し小さくなり、汎用性を上げると同時に、春香のマイクが動いた。
美希の鎌が振り切られると、それを跳躍で避けた春香が、その手に持つマイクから幾つもの矢を生み出し、それを一斉に放つ。
着弾。だがそれらは美希の肉体を貫くことなく、ただ土煙りとしてその場に舞い続ける。
美希の眼前には、トライアングルの形をしたフレッシュグリーンの光り。それが先ほどの矢を全て防いでいたのだ。
だから設定資料集じゃなくてビジュアルブックだって
何の設定も乗ってなくて背景とかが載ってるだけなんだって
「ハニーを盗ったんだ。春香が」
「違う! プロデューサーさんは自らの意思で私を!」
「一緒の事だよ。ハニーは美希を選ばなかった」
「だから殺したの!? 自分の物にならないからって――あの人が育ててくれた、その【アイドル】としての【力】で!」
「そうだよ。美希の物にならないのなら、要らない。もう美希自身も必要無い」
「美希!」
「でもその前に、春香。春香を殺さなきゃ……美希からハニーを奪った、春香を殺さなきゃ……!」
美希の手に持った大鎌が動き出すと同時に、春香も動いていた。
薄い刃を成形したマイクスタンドが鉈のようになり、美希の持つ大鎌との応酬を開始する。
僅かに光と光が互いを打ち消し合う音のみが聞こえてくるが、春香が劣勢の色を見せた瞬間、美希の蹴りが春香の腹部に思いきり入った。
春香の身体が飛び、古い建物の中に。
「ちっ」
舌打ちをした美希。美希の攻撃は、建物の中ではその真価を発揮出来ない。
が、そんな事は関係ない。美希はゆっくりとした動きで半壊した建物の中に入り、明かりを灯した。
「春香は、どこかな」
呟きながら歩き、静かに彼女を探す。
滴り零れた血であると思われる痕を見て、ニッと笑みを浮かべた美希は、ゆっくりとその歩を進めていた。
そこで、一人の少女が顔を出した。
「美希」
「貴音。夕方ぶりだね」
笑みを崩さず、目の前に現れた少女に会釈をする。
期待
貴音と呼ばれた少女は、その麗しい銀髪をなびかせながら、両手に一本ずつ、マイクを掴んでいた。
「美希。旧友としてのお願いです。抵抗をしないでくださいまし」
「無理だよ。貴音だって自分が愛した人を盗られたら、嫌に違いないの」
「劣情の縺れ――わたくしには経験の無い事でございます」
「なら経験したと思って考えてよ。貴音の誰よりも大切な人が、春香に盗られちゃうんだよ」
貴音は答えない。貴音はその場で力を込め、二本のマイクを振りかざし、頭上に鎖を顕現させた。
捕縛の術だ。鎖は美希の四肢に向けて伸びて、そしてそれを捕縛した――が、美希の表情は未だ明るい彼女のままだ。
「美希、観念してくれたのですね」
「カンネン? 違うよ。ミキは仲間を見つける事が出来たの」
「仲間――私と、美希が、ですか?」
「そうだよ。ミキと貴音は、仲間なんだよ」
貴音が一瞬だけ怯えた瞬間、美希はその捕縛の術を破り、静かに貴音へ近付いていた。後数歩――その数歩の間に。
「お姫ちんっ!」
「逃げてっ!」
小柄な体が二つ動いた。
その少女らは、互いに似た外見をした子供だった。
左頭部と右頭部、それぞれにまとめた髪の毛をなびかせながら、二人は指を美希に向けて指した。
刹那、現れる黄金の矢が美希を貫いた――と思われたが、現実は違った。
美希はその矢を全て手で掴んで、地に投げ捨てた。
投げ捨てられた瞬間に黄金の矢は光となって四散し、如何にそれが無力であったかを見せつけられているようであった。
「亜美、真美――邪魔を、しないでほしいの」
亜美と真美と呼ばれた少女――右頭部に髪をまとめた方が亜美、左頭部に髪をまとめた方が真美であり、二人は美希と級友であった。
もちろん――貴音も。
「二人はまだ子供だし、見逃してあげようって思ってたの。ハニーを盗る事もしなさそうだしね」
「ハニーって……ミキミキ」
「兄ちゃんを、はるるんに盗られた――それだけの為に?」
「それ……だけ?」
ギロリと、美希が亜美と真美を睨んだ。
「そうだよ。子供の恋愛だってわかってるの。でもね、人を好きになるのは理屈じゃない。
美希がハニーの事を思って毎晩どれだけ寝れなかったか、どれだけ苦しかったか、本当に二人に分かるの?」
亜美と真美は、返そうとしない。いや――出来なかった。
美希の出す殺気に、自身の力を引き出すことすら出来ない。亜美は真美に一瞬だけ目配せをして、貴音にも同じく目配せをした。
「何を、企んでいるのかな」
美希が問うた瞬間、亜美と真美が同時に動いた。
真美が掌から光の剣を取り出すと同時に亜美が貴音の元へ駆けた――のだが。
「甘いよ」
真美の剣を捌いた後、貴音へと駆けた亜美を、美希の鎌が貫いた。
鎌によって胸元を貫かれた亜美の柔肌から、血が溢れ出る。その光景を、貴音は目を見開いて眺める事しか出来なかった。
「あ――亜美」
「お、お姫ちん……?」
貴音の整った表情に、亜美の口から零れた、血がかかった。それすら化粧のように見えて、亜美は少しだけ微笑んだ。
「お姫ちん……逃げて、逃げて……」
「出来ません。妹のように愛した貴女達を見捨てる事など……!」
「お願い……もう一人のお姉ちゃん」
その言葉が、亜美の最後の言葉だった。
生気の無い表情で、胸から鎌を引き抜かれた亜美を、貴音が抱きしめた。
その視線の向こうでは、真美が涙を流しながら美希に鬼のような形相で切りかかっている。
「やめてください……美希――美希っ!」
貴音が叫んだ瞬間――真美も、その大鎌の餌食となった。
勝負はあっけなく、真美が大振りの上段構えをした瞬間に、手持ちのナイフのような形状をした光に、胸を貫かれて死んでいった。
真美に至っては、最後の言葉すら聞けずに。
「……こんな所かな」
「美希、貴方は……貴方と言う方は……っ」
「ふふ。貴音、今ミキと同じ顔してる」
美希の言葉に、貴音は酷く恐怖し、自らの顔面を、手で伏せた。
「わ、私は……!」
「こういう事だよ。ミキと貴音は、同じ状況になればこうなるんだって、ハッキリわかるんだね」
涙を浮かべて、亜美の亡骸を抱きしめていた貴音を、憂いの表情で見据える美希。
「でもいいんだよ貴音。ミキが全て受け入れてあげるよ。ミキが誰より、貴音を理解してあげる。貴音とミキは」
トモダチ――そう言いかけた所で、カタッと音がした。
「……律子、かな?」
「……さんを、つけなさい。美希」
物陰に隠れていた、後頭部から伸びる茶髪の髪の毛を二つの三つ編みでまとめた女性――いや、まだ少女と言える年頃の彼女は、秋月律子。
メガネの奥で迷いの表情を浮かべながら、一つの杖を取り出した。
「そういえば律子――律子もハニーを狙ってたよね」
「……ええ、そうね。私もまさか、こんな事になるなんて、思っても」
無かった。そう言葉を続かせながら、律子の杖が動いた。
周りに豪炎を生み出しながら、貴音と亜美の周り、そして真美の亡骸を守るように囲って、その炎を操る律子。
「でもね美希。私は貴方を誰よりも尊敬してた。誰よりも貴女になりたいと思って、誰よりも貴女を――」
「その言葉、もう少し早く聞きたかったな」
豪炎が、美希に襲い掛かるが、それを避けようとも、払おうともしない美希。
ただ豪炎の中を、ゆっくり、一歩一歩、歩いている。
信じられない、と言った面持ちで貴音がそれを見据えていると、律子も表情を険しくさせた。
「ホント……貴方は誰よりも才能に満ち溢れているわね」
「嬉しいよ。律子――ううん、律子さん」
「でもだからこそ、貴方をここから出すわけには」
再び、続ける事は出来なかった。
美希が駆け、鎌を構えるモーションも無く、ただ彼女の胸を、鎌の切先で貫いた。
音も無かったと、貴音は感じた。
律子は項垂れ、まるで自身の傷口を確認するように、その溢れる血に触れる。
刃を抜くことなく溢れてくる血に、自らがそう長くない事を、悟っているだろう。
「律子嬢……っ!」
貴音が叫ぶと同時に、律子が頭を上げた。
泣いていた。眼鏡の奥で光る涙を魅せながら、律子が美希の胸に飛び込んだ。
「ねぇ……なんで美希、何でなの……誰よりも強く、誰よりも魅力的だった貴女が、どうして……どうしてこんな――嫌よ、嫌よ……!」
「ごめんね。律子さん」
「謝らないで……謝らないでよ……っ」
それが律子の、最後の言葉。
貴音は、律子が亡くなったと悟った時には、亜美真美の時に感じた憤りを、美希に感じなくなっている事を、どこか恐怖していた。
「私は、私は……」
「さて――春香は、どこかな」
律子の亡骸に、もう目もくれない。
周りの豪炎を、まるで雑草のように払いながら、進むべき道を進んだ彼女が、一つの扉にたどり着いた。
それは建物の地下にある倉庫だった。貴重な物が保管されているのか、盗難防止に強固な素材で作られたそれは、鍵が開いている。
「春香」
呼ぶが、返事は無い。美希は、その扉に手をかけて――
「!?」
初めて、表情を崩した。
美希が扉に触れた瞬間、何かに引っ張られる感覚と共に、扉が開いて美希を部屋の中に閉じ込めた。
「春香――春香ぁ!」
叫び、その手に持つ鎌を、扉の向こう側に居た少女に向けて、思い切り振り込んだ。
リボンの少女――春香は、笑みを浮かべて、その鎌の斬撃を、その身に受け……そして、絶命した。
瞬間、扉は固く閉ざされ、中からは誰も開けられぬようになった。
美希は、その扉の中で、何を考え、何をしながらこれから過ごすのだろう。
封印されたその扉と校舎は、これからも封印されていく事だろう。
ここで三人称から、一人称へと切り替えよう。
私はこの惨劇を『眠り姫事件』と名付け、そして綴る事とする。
二度とこのような悲劇が起きぬように、こうして筆を執り、後世に残していく事が、私の役目だと、そう感じたからである。
最後に。私の級友に弔いの黙祷を捧げながら、ペンを置くこととする。
皆に祝福が、あらん事を。
(『眠り姫となる女』著:四条貴音から抜粋)
木製の机に本を乗せ、少女がぺらぺらと紙をめくっていく。青色のロングヘアを伸ばした細くも綺麗な瞳をした少女だ。
慎ましくも整った体系と、その物静かな印象が、どこか文学少女のようにも見える。
少女――如月千早は、少しだけ冷めた表情で本の内容を見返し、最後には一人の女性に視線を向けた。
「この内容は事実なのですか、ティーチ律子」
その少女の前席に座る、小柄な少女が声を上げた。整った茶髪と、それを分けてチャーミングな額を出した彼女は、水瀬伊織と言う。
「ええ。一命を取り留めた私が、今こうして教鞭を取っているというわけです」
伊織の問いに答えた女性が、秋月律子。
今千早が読んでいた本『眠り姫となる女』に登場した一人、秋月律子、その本人だと言う。
本にはおさげと記載されていた髪型は、今や後頭部でヘアバンドで止めてある。
それが似合っている大人の女性であるが、まだまだ実年齢は十九だという。
「有り得ない、いえ有り得ませんわ」
「何がでしょうか」
「私たち『偶像能力者-アイドル-』の力は、戦うためにあるわけではありませんもの」
伊織は、そう熱弁した後に、周りを見渡した。
周りの女生徒たちが頷き、それに良しと感じた伊織が、最後に視線を寄越したのは、千早だった。
「貴女もそう思うでしょう。如月千早」
侮蔑の視線にも似た何か。千早はその視線を感じながら、口を開いた。
「戦う為の力。そういう側面もあると言う事は、水瀬さんも知っての通りだと思うけど」
千早は立ち上がって、窓に手をかけ、開けた。
気持ちの良い風が入り込む。ロングヘアを揺れ動かす風を受け、千早は少しだけ髪を整えた。
その姿に、一瞬だけ伊織が見惚れていた事は、その場に居た誰もが察していた事だろう。
だがそれも一瞬だ。すぐに我に返った伊織が「千早、どこに行くの」と問うと、千早は視線だけ伊織に寄越しながら――窓から飛び降りた。
木材と石材を用いての建物、その四階に位置する場所から飛び降りたのだ。
着地場所は草原とは言え、その衝撃は女の子の二の足では耐えきる事は出来ない――そう思われた瞬間、歌が聞こえた。
千早の腹から腹式呼吸によって生み出される、音域の広い歌声が放たれる。
瞬間、何か力のような物が千早を包み、地面へと落下していく彼女への運動エネルギーと摩擦を緩和し、ついでにはいているスカートがめくれないよう揚力にもなった。
着地。衝撃を受ける事無く草原へと足を付けた千早は、スカートに着いた木の葉を払って、草原の先にある、一本の桜の樹に向かった。
流れるような動作で一連の行動を取った彼女に、熱い視線を向ける子供たちも少なくは無い。
その姿に、伊織は憤りを感じながらも「いいえ、違うわ」と強く言い放つ。
「私たち【偶像能力者(アイドル)】としての力は、人々を救うための物よ。戦うためにあるわけでは無いわ」
偶像能力者――アイドルと呼ばれる、力を持つ者達がいる。
神通力と言う、本来人には無いエネルギーを【力】として顕現出来る者達がそう呼ばれ、貧困や疫病、そして戦争などで苦しむ民衆を救うためにそれを使役するのだ。
先ほど、千早が行った衝撃緩和の術も、神通力を用いた技術の一つで、ここに居る律子以外の者達は、全員アイドルとしての力を――【アイドル候補生】として『学ぶ』為に居る。
「その通り。アイドルとしての力は、人を救うためにあるものです。
――ですがその力を用いれば、人を殺める事も出来る。その事を、あなた方は認識するべきなのです」
律子の言葉に、伊織が少しだけ表情を歪める。
――自分は間違っていない。だが自分を間違いと言う。それが気に食わない。間違っていないのに。
伊織の言葉と裏腹に、皆の表情は明るい。
伊織はどこか周りから疎外された気分で、椅子に座り直した。
如月千早は、校舎から少し離れた場所にある、桜の木に腰を落とした。先ほどまで読んでいた本をもう一度熟読する。
気に入ったからでは無い。喉を休める為に、やる事が無いからだ。
ぺら、ぺら、と、紙の捲る音と木々の騒めきしか聞こえてこない。もう少し周りが静かならば、心臓の音まで聞こえそうな程だった。
そんな世界を、千早は特に何も思う事無く、ただ本を捲っていた。
登場人物に思いを寄せる事も、その物語にも似た実話に心を痛める事もしない。
ただ千早は、本を捲る事に集中していた。
――その時だった。
「ねえ。貴女、アイドルになりたいの?」
女の子の声が聞こえた。
その少女は、千早の着ている制服とは違う、セーラー服を着込んでいた。
頭頂部に二つのリボンが見えて、一瞬この本に出てくる【天海春香】のようだ――そう千早は考えた。
バカらしいと、千早はすぐに自分の想像を振り切った。例え律子の言う通り、この本の内容が事実だとしても、天海春香は死んでいる筈だ。
「別に」
「え、だって貴女はこの学校の生徒なんでしょう?」
「だったら何よ。必ずアイドルにならなければならないのかしら。私はただ、歌いたいだけ」
「そうなんだ。でも私は勿体ないって思うな」
「なぜかしら」
「貴女、とっても可愛いから」
彼女は名を【春香】と名乗った。
千早はそれすら偶然だと認識し、ただ本を読むことに集中した。
隣に座る春香の事を邪険に思うことなく、二人の奇妙な時間がこの時、始まりを告げた。
第一章
アイドル養成教育機関【765プロダクション】の朝は、早朝七時半から始まる。
その時間には生徒は全て講堂に集められ、聖歌を歌う事が義務付けられていた。
とは言っても、生徒の総数は七人。教鞭を執っている律子を入れても八人と、広い講堂に居るには少なすぎる数だった。
「アイドルとなれる【候補生】自体、珍しいものです。七人いるだけでも幸運な事なのですよ」
律子はこう言う。毎年六人居れば数が多い方。七人など十数年ぶりなのだという。
律子もそれを経験していないのだから、彼女が誇る事では無いだろうと、千早は思っていた。
「ねえ、千早ちゃん」
千早の事をちゃん付けで呼ぶ人物は、千早が知る限り二人。一人は萩原雪歩という、物静かな少女だが、この声はその子では無い。
「どうしましたか、あずささん」
千早が応じたのは、千早より四歳年上の、三浦あずさという女性。
十代の少女達しかいない中で唯一の二十台女性で、千早は彼女の事を少しだけ尊敬していた。
彼女はその魅力的なプロポーションとは別に、もう一つ才能を持っていた。
それはその綺麗な声から発せられる歌声だ。
千早はその歌声に、どこか憧れを抱いている。
自分には無い優しい歌声――その歌声を聞いて、千早は少しだけ心を開いていた。
「いいえ。私今日はチーズケーキを焼いてきたの。おひとついかが?」
「ええ、では頂きます」
断る理由は無い。そう言葉を交わしていた所で「私語は慎みなさい」と律子から喝が入る。
あずさがウインクしながら千早に視線を送ると、千早も短く微笑んだ。
聖歌を歌い終わると、今度は座学の時間がやってくる。
「座学とは言っても、難しい事は何らありません。最初に少しだけお勉強をして、後はその力の使い方を体で覚えるしかないのです」
律子がそう言って、黒板にチョークで描く文字を、千早は情報として視線で取り込んでいた。ノートに書き込むまでも無い。
だがノートへの書き込みを行い、なおも頭を抱える少女が二人。
「うぅ……」
高槻やよい。オレンジの髪の毛を二つ結びにした、小柄な女の子だ。
まだ齢十四歳で、その舌足らずなところが可愛らしいと、千早は少しだけ彼女に、微笑ましさを抱いていた。
「うぬぅ……」
我那覇響。少しだけ焼けた肌とその長い黒髪をポニーテールでまとめた、同じく小柄な少女だ。
だがやよいとは違い、彼女は齢十六と、千早と変わらない歳なのだ。
二人が同時に、間に座る伊織に視線を送ると、千早と同じく視線で理解はしているものの、解り易くノートで描かれたそれを、二人に見せる。
パッと明るい表情を見せる二人に、千早はフフッと微笑んだ。
「……何よ千早」
「別に。ふふ」
笑いが堪え切れなくて、千早はもう一度、笑った。
実技の授業がやってくる。
授業としてはこちらが本流で、千早は少しだけ億劫になりながら、校庭へ出た。
草原が広がる校庭で、律子が杖を一つ掲げて、その先端から一つの炎を生み出した。
「神通力の力を用いれば、無から有を生み出すことは可能となります。さぁ、皆さんも」
千早は、その「無から有を生み出す」と言う技術が、座学上で何と言うかを思い出していた。
【ヴィジュアル】と呼ばれる能力であり、これに優れている者は、擬似的な生物を生み出すことも可能となる。
「――っ!」
掌に力を込める。イメージが形となり、微弱な炎が顕現される――が、すぐにそれは風でかき消される。蝋燭の火よりも火力が弱ければ、意味が無い。
「うーっ」
千早の横で、掌に一生懸命力を入れる少女が一人。
萩原雪歩。その肩まで伸ばした茶髪と、透き通るような白い肌、そしてその端麗な顔立ちが印象強い、可愛らしい女の子だ。
彼女は、顔を真っ赤にしながら掌に力を込めているが、あれではビンの蓋すら開かないだろう。
「雪歩。がむしゃらに力を込めるだけじゃあだめだよ。もっと、神通力を意識して――ほら」
見本として、隣で掌に千早と同じサイズの炎を生み出した少年――いや、少年のような印象を抱く少女がいる。
菊池真。バッサリと切られた黒髪と、その清潔感が、まるで男性のように見えて、千早も初対面では「男性一人で大変ね」と声をかけた程だった。
「うぅ……こんな小さな炎も出せないなんて……こんな……こんなダメダメな私は」
そう言った所で、雪歩が自分の手から一つの道具を生み出した。工事用スコップだ。
「穴掘って埋まってますぅ――っ!」
「……雪歩。それある意味、炎生み出すより難しいんだけど」
萩原雪歩は、力の使い方が下手なだけで、ヴィジュアル能力は、765プロの中でも優れていた。
そのヴィジュアルの授業を行っている所で、お昼休憩の時間がやってきた。
食堂から持って来た昼食と、そのティーセットを浮かしながら、律子が「皆さんも浮きながら、食事をしましょう」と提案した。
浮く――重力に縛られる人間に向けて何とも難しい事を言う物だと思いながらも、千早は少しだけ喉に力を込めて、そして腹部にも力を込めて、それを顕現した。
【ヴォーカル】と呼ばれる、千早が特化している能力。
それには空気を操る能力があった。空気を喉から取り込み、それを神通力を介してエネルギーへと変換し、意のままに操る事が出来るのだ。
千早は、操った風で自身を浮かせて、律子の用意した昼食のサンドイッチを口に含んだ。
レタスとトマト、チーズとパンの食感が、空腹の千早を潤した。
「千早ちゃん」
隣に、いつの間にかあずさが立っていた。
いや立っては居ない――千早と同じく浮いてはいるのだが、いつの間にか隣に居て、千早も一瞬驚いた。
浮いている原理は千早と同じだが、それは少しだけ覚束ない。
少しだけフラフラとしている事が、まだあずさ自身の【ヴォーカル】能力が未熟である事を物語っているが、問題はその「あずさのみが持つ能力」だ。
あずさの【ヴィジュアル】能力は、とある事に特化している。
それは、音も無く自分自身を「瞬間移動」させる事の出来る能力だった。
「はいこれ。朝言っていたチーズケーキよ」
皿に乗せられたチーズケーキと共に、フォークを渡してくるあずさ。驚きながらも「頂きます」と礼を言い、受け取る千早。
千早の隣に、腰を下ろしたあずさ――その視線が、どこか熱を帯びている事を、千早は感じ取っていたのだろう。
アイドルとしての知識を学ぶ時間は、お昼までである。それから夜までは、各々好きな事をして過ごすのだ。
千早はその時間を、桜の木の下で過ごす事が好きだった。
桜の木の下で横たわりながら、木々の音を聞きながら眠る――その時間が、彼女は大好きなのだ。
「おはよう、千早ちゃん」
「お休みなさい、春香」
「酷いなぁ、もう」
そんな千早に声をかける一人の少女――春香だ。春香はフフッと微笑みながら、寝転がる千早の隣に座った。
「そうしていると、眠り姫みたいだね」
「おとぎ話かしら」
「ううん。ねぇ、知ってる? 桜の木の下には、女の子が眠ってるんだって」
おかしいね、と笑いながら、春香が校舎を見据えていた。その視線を見ながら、千早はどうしても気になった事を問いかけた。
「ねえ春香。貴女は天海春香なの?」
「あれ。フルネーム教えたっけ?」
「……いいえ。何でもないわ」
やはり――というべきか、春香の名前は【天海春香】――四条貴音の書いた【眠り姫となる女】の登場人物であり、死んだはずの存在。
だが千早は、神通力と言う不可思議の力があるのならば、その怨念や力が、天海春香という存在をこの世に留めていても、不思議ではないと考えていた。
「その制服、可愛いね。千早ちゃんに似合ってるよ」
「貴女の着ている制服の方が、私の好みだわ」
二人してそんな他愛もない話をしていた。
千早はもうこの時、眠る事を考えてはいなかった。
三時のお菓子。その時間に千早が教室に戻ると、教卓には一つの瓶が立っていて、その瓶には固く蓋が閉じられていた。
「何をしているの?」
「あ、千早。今からちょっとした勉強をするんだ」
響が答える。皆の中心にいた律子が、杖を瓶に向けて振る。
力場が発生して、瓶の蓋が回転し、それを開けた。
【ヴィジュアル】とも【ヴォーカル】とも違う能力――神通力を純粋な力場として顕現する事の出来る能力、それが【ダンサー】の能力だった。
中に入っている飴玉が幾つか零れ出し、やよいが「勿体ないです!」とそれを拾い上げた。
「ダンサーの力を用いれば、離れた場所に力場を送り込み、こうした便利な方法として使う事が可能です」
「流石ですわ、ティーチ律子」
伊織がフフッと微笑み、やよいによって再び閉じられた瓶の蓋を、同様に開けた。
少しだけ時間はかかったが、綺麗に開けられたその瓶の蓋に、周りも拍手を送る。
「どう千早。貴女には出来る?」
試されているようだ、と千早は考えた。
試しに神通力を放出してみるが、千早はダンサー能力自体は苦手で、瓶が少し動いた程度に終わる。
「私には、まだ無理ね」
「そうでしょう。焦る事は無いわ。貴女もこれから覚えればいいだけだもの」
伊織が少しだけ嬉しそうだ。千早に出来ない事が、自分には出来るという事が嬉しいのだろうか。だが、千早は気にしていなかった。
「そうね。別に普通に開ければいいだけだもの」
千早は瓶を手に持って、その蓋を開いた。中に入っているハッカの飴玉を取り出して口に含み「美味しいわ」と一言。
「何でも神通力に頼る事は、むしろ思考の退化だと言わざるを得ないわね。……勉強にならないから、今言うのは適切ではないかもしれないけれど」
キュッと強めに蓋を閉め、それを伊織に渡した。伊織は少しだけ表情を歪め、それを捻った。
瓶の蓋は開かず、この時間、伊織は飴玉の味を楽しまなかった。
765プロダクションの寮は、校舎からの道を数分歩いた所にある。
部屋は一人ひとり設けられているが、伊織が自らの部屋と選んだ部屋は大きく、ベッドも特注の物だった。
「やよい、響。今日は一緒にお泊りをしましょう」
伊織がそう提案すると、二人が頷いて伊織の部屋に向かう。雪歩と真はそれぞれの部屋に向かい、千早も自らの部屋に入った。
高槻やよいは、まだ出会って間もないこの二人と、仲良く生活を共にしていた。
水瀬伊織は少しばかり高飛車な所はあるが、自身の夢や目標に向けて努力の出来る子ではある。
我那覇響は、やよいを可愛い可愛いと何時も褒めてくれている事が嬉しくて、自自らついつい、彼女の元へと行ってしまうのだ。
だからお泊りをしましょうと言われた際の、やよいの喜びは、計り知れないものだった。
すぐさま着替えを取りに行き、石鹸等も全て自前の物を用意した。
彼女が伊織の部屋をノックし、入室の許可を貰った際には、既に響が先に来ていて、伊織の用意したお菓子を口にしていた。
しばらく雑談をしながら、お菓子を食べる時間が。その雑談の中で、響がやよいに問いかける。
「やよいはどうして、候補生になったんだ?」
それは、やよいの家庭事情も絡んでくる問題であり、普通なら濁す所ではあったが、二人の前だからと前置きをして、話し始める。
「765プロダクションの、補助制度って知ってますか?」
「知っているわ。候補生となれる者の親族を保護対象とし、金銭等で最低限援助を行う制度の一つね」
765プロダクションは、毎年人々を救う存在――アイドルとなる者を育成し、そしてそれを世に送り出している。
以前こそ眠り姫事件――四条貴音の遺した書籍にあるアイドル候補生による暴走事件があった為に、アイドルが生まれる事は無かった。
だが、やはりアイドル一人が世にもたらす影響と言う物は大きい物だ。
そのアイドルとなり得る存在――候補生は、候補生としての段階で、既に家族の癒しや、支えになっている事が多い。
そんな候補生達が親元を離れていても、最低限保護が出来るように援助を行う制度の一つが、その補助制度だった。
「じゃあやよいは、その補助金制度が目当てで、アイドルになろうとしたのか?」
「簡単に言うと、そういう事になるのかも……」
「良いんじゃあないかしら。
理由はどうあれ、アイドルとなり得る才能を持っているのだから、その力を世の為人の為に学ぶ事は、候補生としての義務よ。
響はどうして、候補生になったのよ。貴女は確か、極東の島国に住んでいた筈よね」
「そうだぞ。じ――私は、極東の島国で生まれ育ったんだけど……その島国は、今も紛争状態でさ。疫病も蔓延っているし、正直地獄みたいな所なんだ」
「逃げてきたの?」
「それは違う! わ、私がアイドルになる事で、故郷を救う事が出来る……それ以上に嬉しい事は無いって……そう、思ったから」
伊織はここで、意地の悪い聞き方をしたと、自分でも思っていた。
「悪かったわね。悪気があったわではないけど、貴女を傷つけてしまったかもしれないわ」
「いや……大丈夫」
少しだけ重たい空気になった所で――やよいが「じゃあ」と声を上げた。
「伊織ちゃんは、どうして候補生になったの?」
「アイドルとして世の為にこの心身を捧げる。それが候補生なり得る者の義務だからよ」
「義務……?」
「そう。候補生となり得るのは千人に一人。
そしてアイドルとして崇められる存在となり得るのは、さらに一握り。
その千人に一人に選ばれたのだから――それを嫌と言える奴の、気が知れないわ」
嫌と言う者が一人、夜の寮を一人で歩いていた。既に湯浴びも済み、湯上りのストレッチも終わらせた彼女は、外に出た。
夜風と共に髪が揺れ動く。少し涼しい夜風が、湯上りの体には気持ちよかった。
だが彼女はただ涼みに来たわけでは無い。
喉と腹に力を込め、力強い歌声で、彼女は歌い上げる。
――それは誰が聞いても見事な歌声だった。
腹式呼吸から出される高い声と、それを震わす喉。だがそれを歌う千早はどこか、悲しげだ。
――優。
如月千早は、ただ歌う事が好きなだけの、普通の女の子だった。
彼女には一人の弟がいた。如月優という、まだ幼い子供。
彼は疫病にかかり、その幼い命を亡くした。
千早の両親は、なぜか千早を責めた。
アイドルとしての力を持つのに。
人々を救う力を持つのに。
なぜあの子を救えなかったのだ。
お前は人の子では無い。
――千早が一人で暮らして行ける年になった時、両親が涙を流しながら言った。
出ていけ、悪魔の子。
千早には両親が何を言っているのかが、分からなかった。
アイドルとしての力。その力を用いれば、優は助かったのだろうか?
その答えは、当時の千早では否だっただろう。今の千早でさえ、弟を救う力など、あるわけではないからだ。
――このアイドルとしての力が、私から全てを奪っていった。
千早は全てを無くし、そして無益な生を得るためだけに、765プロダクションへと来た。
――私は、歌を歌いたいだけです。アイドルに興味は、ありません。
765プロダクションでの自己紹介をする時、千早はそう言った事を思い出していた。
三浦あずさは、寮の中で迷っていた。
ヴィジュアル能力が高く、瞬間移動の力を持つ彼女は、重度の方向音痴であり、ホンの少しの道を歩くだけで迷う人だった。
彼女はとある人を探している最中に、迷い込んだ先で、一つの地下へ向かう道を見つけ出した。
「あら。何かしら」
螺旋階段状の、地下へと続くその階段――その階段を降りようとした所で「三浦さん」と呼び止められた。
「あら、ティーチ律子。探していたのです」
「私を、ですか?」
あずさを呼び止めたのは、秋月律子だった。彼女は、首を傾げてあずさに近付く。
「ええ、聞きたい事があって――ティーチ律子は、四条貴音が今どうしているのか、お分かりになりませんか?」
「貴音が……どうしたというのですか?」
「ええ……実は私、四条貴音と共に暮らしていた事があるのです」
それは数年前の話。
病に苦しみながら世を彷徨っていた四条貴音を、三浦あずさが保護をした。
彼女自身の力もあったのだろうが、献身的なあずさの看病により、病は回復傾向へと進み、あずさはそれでも彼女の面倒を見続けた。
妹のように可愛がっていた。
そんな彼女が、あずさの元を離れたのが、数年前。
「貴女に相応しい女となって参ります」
そう書置きだけを残して――
そしてあずさは「眠り姫となる女」を読み、その著者が四条貴音である事を知り、765プロへと入ったのだった。
「そう、でしたか。残念ですが、四条貴音が今どの様に生活をしているかは、定かではありませんが――案外、近くに居るのかもしれませんよ」
「それは、どういう」
「人の想いという力は計り知れないものです。
恋慕・怨念・尊敬――それらが如何なる形でもこの世に留まり続け、貴女を見守っている……かもしれませんよ、という意味です」
律子の言葉に、笑みを浮かべたあずさ。
――あずさの視界にはこの時、螺旋階段は既に映っていなかった。
菊地真と萩原雪歩は、もう少しで月も見えなくなりそうな夜を、共に校庭を走る事で過ごしていた。
「ハッ……ハッ」
雪歩にとっては少しだけハイペース。真の足に合わせた走り込みなので、体力の無い雪歩には難しいのだろう。
真はそれを察し、少しずつ、少しずつペースを落としていく。気付かれないように、雪歩に察せられないように、少しずつ。
「雪歩、凄いじゃあないか。ボクのペースにここまでついて来れるなんて」
「そ、そう……かな……?」
「そうだよ。じゃあ後一周だけして、今日は終わろうか」
「うん……ごめんね真ちゃん。毎日毎日、付き合せて」
「何度も言ってるだろう? それは良いんだよ。雪歩の方が偉いよ。自分に足りない物を理解して、それを補おうとするのは」
雪歩と真が知り合って間もない頃。
体力も、自信も、アイドルとしての力量を何一つ持たない雪歩。
彼女が自分が持たない全てを持つ人――真にコンプレックスの相談を持ち掛けたのが始まりだった。
「じゃあ、まずは努力で何とかなる、体力を身に着けよう」
今まで雪歩の友達には、率先した解決策を出してくる子達は居なかった。良くも悪くも典型的な「女の子」しか居なかったのだ。
――雪歩はそのままでいいよ。
――自信に満ちた雪歩なんて雪歩じゃない。
――私たち、アイドルの力なんて持ってないし。
雪歩は、心の奥底で、真に相談をしても、同じようにあしらわれると思っていたが、違った。
彼女は、まるで男の人のように、ハッキリと言い放ってくれたのだ。雪歩に足りない物を補う為の方法を。
雪歩を想い、雪歩の為に。
「体力が付けば、アイドルとしての勉強にもついていける。アイドルとして成長すれば、自信も自ずと付いてくる。大丈夫、雪歩は強くなれる」
「……うんっ」
雪歩はこの時、何とも言えない幸福感に満ちていた。
心が落ち着く。心が満たされる。
この気持ちを何と言うのだろう。
この時はまだ、雪歩は自らの気持ちに、気付いていなかった。
第二章
座学授業の最終日。この日はペーパーテストが行われた。
水瀬伊織は、淡々と万年筆を動かして、回答を記載していた。
『問一。神通力としての力を用いての能力、その主な三つを答えよ(三つから派生された能力に関しては省略とする)』
『答一。神通力としての力を用いた能力は以下の通りである。
・喉から空気を取り込み、腹部に溜め込んだ神通力を介してエネルギーに変換し、それを歌声として顕現し力とする【ヴォーカル】
・神通力を直接エネルギーとして外界へ放出する際に、形を思い描いて顕現させることで、無から有を生み出す【ヴィジュアル】
・神通力を直接自らや周りに放出する事で、力場を発生させる【ダンサー】』
『問二。神通力を持つ人間の特徴を答えよ』
『答二。神通力を持つ人間としては、以下の特徴が考えられる。
・身体的魅力がある人物。人々に愛情や劣情を多く向けられる事の多い人物がこれに当たる。
・精神的魅力がある人物。身体的魅力がある人物よりも、好意の目で見られる事の多い人物がこれに当たる。
・独創的な魅力や、口にするのも憚れる神秘的魅力がある人物。人々に崇められる、まるで神のような存在となっている人物がこれに当たる』
『問三。神通力を持つ人間は千人に一人と言われている。ではその中でアイドルとなれる人材は全体の何割か』
『答三。世の定義としてのアイドルという意味では十割がアイドルとなれるが、
偶像機関が指定する定義のアイドルという意味では、一割に満たない』
『問四。偶像機関とは何か』
『答四。偶像機関とは765プロダクションのような
「アイドルを世に送り出し、世界に活気及び平和をもたらす為に作られた、全国家公認プロジェクトを管轄する機関」である。
アイドルの育成及び管理・プロデュースが主な仕事である』
『問五。アイドルとしての仕事を簡潔に説明せよ』
『答五。人々に笑顔と幸せを届ける、価値ある仕事である』
五問という少ない問題数ではあるものの、全て文章問題である為、時間がかかった。
伊織が全ての回答を終えた所で、如月千早が最後の回答を答え始めた。迷いの無い筆筋に、伊織はフッと息をついた。
如月千早の才能は、765プロダクションに居る全員が認めている。
伊織以外は、千早と親しげに話しているし、千早もそれを拒んだりはしない。
伊織とて千早の才能を認めている。だがそのアイドルとしての価値観が、伊織とズレている事が問題なのだ。
伊織は自らの答えが百点であると自信を持っていう事が出来ると考えていた。
だが千早はそれを否定する。いや否定ではない――受け入れないのだ。
それが気に食わない。伊織は万年筆をググッと握り、怒りを抑えていた。
高槻やよいが赤点を出した。全五問中一問正解という所で、秋月律子が溜息をついた。
「確かに全ての問題が、及第点を与えたい回答ではありましたが――」
『答一。【びじゅある】と【ぼーかる】と【だんす】の三つです』
『答二。可愛くて、カッコ良くて、強い人』
『答三。神通力を持っていれば皆アイドルです』
『答四。765プロダクションの事です』
『答五。皆に笑顔とハッピーをお届けするお仕事です』
「必要な知識を正しく身に着けて、初めて偶像機関が管理するアイドルとなり得るのです。
ただアイドルとしての力があれば良いというものではありません」
律子も少しだけ困り気な表情でやよいを叱咤していると、そこで千早が割り込んだ。
「律子。この位いいのでは? 全ての回答は、意味として間違っているわけでは無いわ」
「はい。ですが問題は答四です。
問一から三の間違いは、まぁ良いとしても、問四は今後関わるかもしれない機関として、必要最低限知っておかねばならない知識です。
ですから理解を求めているのですよ」
千早と律子の、その言葉が伊織を更に不快にさせた。
「何を甘い事を言っているのですか。
やよい、貴女はアイドルとしての仕事を身に着ける為に、候補生としてここにいるのでしょう? ならばこの程度のテストは全問正解して当然よ?」
「うぅ……はい、ごめんなさい」
やよいの謝罪。その言葉を受けて、どこかスッとした気持ちになった自分に嫌気を持ちながら、伊織が律子に向き合った。
「これで、座学の授業が長引くのですか?」
「いいえ。他の全員は全問正解をしておりますので、高槻さんの為だけに授業を延長させるわけにはいきません。
高槻さんは、毎日授業の後、私の部屋にて居残り授業とします」
「はい……」
少しだけ元気を無くしたやよいを見据えて、伊織は少しだけバツが悪そうな表情を俯かせた。
テストの時間が終わり、実技授業が始まる。
今はダンサー能力の勉強として、自由にダンサー能力を用いた組み手を行えという授業だった。
ダンサー能力は、力場を自らにまとわせることで、それを防具や攻撃力として使用する事が出来る。
今から行う授業では、腕の周りにだけ力場を発生させ、二人一組で怪我をしないように組み手を行う。
格闘技の技術はいらないが、雪歩はこの機会に、真に組み手を教わるそうだ。律子もそれを了承している。
「アイドルは、仕事中に命を狙われる事もあります。自衛の為にも格闘技や戦闘技術は身に着けておいた方が良いでしょう」
その時間。伊織が先ほどの件でやよいを誘い辛くなっている状態で、千早が伊織に声をかけた。
「水瀬さん。一緒にやりましょう」
「……良いわよ」
伊織もそれに了承した。
千早は少しだけ時間をかけて、自らの腕に力場を発生させた。伊織は開始数秒で、力場をまとわせている。
「貴女、本当にヴォーカル以外は下手ね」
「必要ないと、思っていたもの」
伊織が遅く右の拳を突き出すと、それを左の腕でガードする千早。
その動きはあくまで組み手――相手を怪我させない程度のものだった。
加えて、力場をまとっている腕以外への攻撃も禁止されている。
ゆっくりとは言え、力場を発生させている状態で拳を入れれば、骨にヒビを入れる程度の威力は出る。
今度は千早が、ゆっくりと左拳を突き出すと、それを伊織が手の平で受け止め、流した。
「水瀬さん、さっきの言い方は、無いと思うわ」
「さっきのとは?」
「高槻さんの事よ」
ピクリと、伊織の表情が動く。千早が再び拳を出すと、今度は強く、それを払った。
「確かにアイドルとして必要な知識かもしれない。でも高槻さんだってサボっているわけでは無いわ。
一生懸命の形に、部外者が――全問正解して当然だとか、基本の事と言われれば、誰でも気分が悪いわ」
「でも、ティーチ律子が必要な事を言わないのだもの。私が言うしか無いじゃない」
「友人だから」
「そう、大切な友人だもの」
「友人を責めて、内心スッとしている何て事はないでしょうね?」
伊織の表情が、ここで大きく揺らいだ瞬間、伊織の拳が素早く伸びた。
力場を含んだ右ストレートが、千早の腕部に強打し、それを受け切ると同時に、距離を取る二人。
そこから、千早が喉と腹部に力を込めて、風を発生させるタイミングと、伊織の掌から赤い稲妻が発生するタイミングは、ほぼ同時だった。
「貴女がやよいを気に入っている事は分かった。でもだからって、私をバカにしないでちょうだい!」
「バカにしていないわ。気になった事を聞いただけよ。質問に答えて頂戴」
「答える義務、あるのかしら」
「あるわ。貴女の言葉は、態度は――人の心を簡単に抉る事が出来る、アイドルには程遠い存在よ。
そんな貴女に、アイドルなり得る高槻さんを潰させるわけにはいかない」
「貴女の思い描くアイドルとは何? 私はこの力を用いて、人々に救いを与える事を目的としているわ。
それこそ、アイドルというものでは無いかしら」
「貴女の力で、人々は本当に笑顔になれるかしら。ハッピーになれるかしら。少なくとも高槻さんの笑顔は、私を笑顔にしてくれるわ。
偶像とは、そういう人の事でしょう?」
「……アンタが、言わないで!」
伊織の掌から放たれた稲妻を見た瞬間、彼女の杖が伸びた。律子の生み出した豪炎が、伊織の放つ稲妻を引き裂き、そして――
「やめなさい! 淑女としての嗜みを忘れる事なかれ!」
彼女の怒号を浴び、千早と伊織は、それぞれ風と稲妻を収めた。
「伊織。私が確かに叱咤を緩めてしまった事が原因ですが、貴女の仕事は何ですか?」
「……今はこの力を正しく使う方法を学ぶ事です」
「千早。確かに貴女の言葉にも正当性はありますが、貴女も部外者なのです。言葉を慎むように」
「……申しわけ、ありませんでした」
「連帯責任です。貴女達全員で、授業の後に第二倉庫の整理を行いなさい」
千早と伊織は、少しだけ目を合わせて、そして俯いた。
第二倉庫は、授業で使う備品や、過去の授業などで使っていた杖などを収納する倉庫である。
前任者がかつて整理整頓が出来ない方であったらしく、今も乱雑に物が置かれている。
「じゃあ、パパッとやっちゃおうか」
「そうね。じゃあ雪歩ちゃんと真ちゃんは、あっちの方をお願いね」
「やよいは私と一緒にやるぞ。こっちの棚」
「う……はい」
真の言葉に、あずさが同意して役割分担が組まれる。あずさは一人、真と雪歩は二人、やよいは響に誘われ二人でやる事となり――
「……じゃあ私たちは、こっちやるわよ」
「そうね」
千早と伊織の二人で行う事が、自然に決定した。
「水瀬さん、これ何かしら」
「それは欧米の機材を模した『マイク』って言うヴォーカル能力を増幅させる触媒よ」
「へぇ……貰っても良いのかしら」
「ダメでしょう。ヴィジュアル能力が強化されれば、自然と生み出せるようになるそうよ。
それはあくまでヴィジュアル能力が弱いアイドルが補助として使う物よ」
「水瀬さんは、何でも知っているのね」
「それ相応の努力はしたわ」
「その努力は、とても誇らしい事だと思う」
千早の言葉に、え、と視線を寄越した伊織。
「水瀬さんのダメな所は、他人に攻撃的な所だと思う。
私も、人の事は言えないけど……人は見た目よりナイーブで、傷付きやすい生き物だと思う。だから――」
「貴女、また喧嘩するつもりなの?」
「仲直りしたいと、思っているの」
千早の視線は、真っ直ぐに伊織へ向けられている。伊織はその視線を向けられながら、自問していた。
――千早は私を許そうとしている。
――自分は出来るのか。
――この、千早と、自分を許すという事が。
「……私も、悪かったわ」
――今はこれが限界だと思う。
伊織がそういうと、千早がフッと微笑んだ。
「水瀬さん、さっきは酷い事を言ってしまって、ごめんなさい」
「……私の方こそ」
二人の謝罪を見据えて、くすくすと笑い声が聞こえた。嫌な笑い方ではないが、見られていた事を知って伊織が焦りを見せる。
「あ、貴女達聞いて――!」
その際に足をもつれさせて、転んだ伊織。転んだ際、乱雑に置かれた備品の中に、見覚えの無い箱が一つ、伊織の視線が捉えた。
「何かしら、これ」
小さな箱だ。伊織の小さな手と同じくらいの長方形で、そっとそれを開けた。
「――鍵?」
それは、どこにでもあるような鍵ではあったが、物々しい雰囲気に満ちていた。
その近くに、トライアングルに似た形の絵が書かれた小さな紙もあったが、それが何かは分からない。
まるで人の怨念が込められているような気がして、伊織と千早はその箱ごと、律子の元へ届けに向かった。
「それは、禁断の鍵です。私の部屋にて管理します」
律子はそう言って、伊織の見つけた鍵を持ち、二人を部屋から追い出した。
どう言う鍵なのかも、触れる事も出来ないまま、二人は律子のいた部屋を後にする。
「あの鍵、何だったのかしら」
「禁断の鍵と言っていたわね。
思い当たるとしたら、過去のアイドル候補生が生み出してしまった兵器とか、危険な触媒を封印した物と考えるのが普通ね」
「候補生が兵器を?」
「事実であると捉えるならば、かつての星井美希暴走事件もそれに当たるでしょう。
私は信じたくないけれど、そのヴィジュアル能力が優れ過ぎてしまった結果、創作者として兵器を生み出してしまった者。
強力過ぎるアイドルとしての力を封印された人も、少なくは無いわ」
伊織の考察に、千早はふと一人の少女の事を思い出した。
「ねぇ水瀬さん。貴女は『眠り姫となる女』を、事実と考えるかしら」
「ノンフィクションであると明言されているし、アイドルの力は時として、現代兵器を上回る力を持つのは、否定しないわ。
千早はあれをフィクションだというの?」
「いいえ。だって――」
天海春香。
その存在が千早の前に現れたという事実が、千早を悩ませていた。
「貴女は何者なの? 天海春香」
「いきなりだね、千早ちゃん」
いつもの桜の木の下。春香がそこで一人、腰を下ろしていた。
「何者と言われても……私は天海春香。ただそれだけだよ」
「貴女は生きているのかしら。それとも死んでいるのかしら」
「その答えには、死んでいると答えるしか無いかな」
「既に故人であるある筈の貴女が、なぜここに」
「うーん……分からない、かな」
「分からない?」
「うん。確かに私は美希に殺された。それだけは覚えているんだけど、それ以上の事は何も。
何でここにいるのか、何でこうして千早ちゃんと、楽しくお喋り出来ているのか」
天海春香は、星井美希を封印し、そして散った。
そしてなぜ今この時、自身の前に彼女は微笑んでいるのか、その理由さえ、分からないのだ。
気味が悪くなって、千早はただ、春香に問いかける。
「ねぇ、答えて。天海春香」
「何かな」
「貴女は何者なの」
「だから――私は天海春香。ただそれだけなんだよ」
死んでいる、天海春香。
怨念か、心残りか。
天海春香はなぜここに顕現されているのだろう。
千早にはそれが分からなかった。
たぶん誰にも、分からないのだろう。
千早が教室に戻ると、そこには次の授業に向けて用意をする生徒たちの姿が映った。
響とやよい、そしてやよいとも仲直りをしたのか、伊織が楽しそうにお喋りをしている。
その光景を微笑ましそうに眺めながら、千早も自らの席に着くと、響が声を上げた。
「知ってるか? 私たちの中から、アイドルが選ばれるかもしれないんだって」
「そのアイドルって言うのは、偶像機関指定のアイドルという意味かしら」
「そうだぞ。律子と雑談しているときに、少しだけ教えて貰ったんだ!」
偶像機関が指定するアイドルは、候補生の中でも特に優秀なアイドルが選ばれる。
指定されたアイドルは、名実共に偶像となり、一生を人々の為に費やす事となる反面、全ての成功が約束されている。
地位や名声、権力――あらゆる全てがその物の思い通りとなるのだ。
そこで、やよいが首を傾げた。
「そういえば気になったんだけど、もしその、偶像機関っていう所に選ばれなかったアイドルは、どうなるの?」
「どうもしないわ。765プロダクションだって偶像機関の一施設よ。
指定されなかったと言っても、その施設で学んだという資格が、個人のアイドル活動に適用できるだけよ」
偶像機関指定のアイドルとは違い、個人のアイドル活動でも人々の為に各地を廻る事は許可されている。
その活動で金銭や食物を得たりする事も、生涯滞在する事を条件に、アイドルへ破格の待遇を用意する地も珍しくは無い。
それを簡潔にまとめ、千早が口に出す。
「つまり――偶像機関に選ばれれば、自由は無くなる代わりに偶像機関が全ての仕事を与えてくれる。
地位も名声も自動的に手に入る。プロデュースしてくれる。
選ばれなくても自分で各地を巡る事によって人を助け、そしてそれによって地位や名声やお金等を得る事が出来る。個人プロデュース、と言う事ね」
「そう言う事。まぁでも、アイドルを志す以上、偶像機関指定のアイドルとなる事は、一種の目標でしょう」
「でも自由を欲するアイドルもいる筈よ」
「指定アイドルだって、望めば何でも手に入るわ。畑を耕したかったら畑の仕事を望めばいい。色男を侍らせたければそういう仕事を望めばいい。
それで救われる人類が居れば、一人残らず救うのがアイドルと言う仕事よ」
趣味を、したい事を仕事に出来ると言うわけだ。それを偶像機関が叶えてくれるのだ。
「誰かな……私かな?」
「響はもう少し、淑女の嗜みを身につけなさい。その男口調はアイドルらしくないわよ。真もね」
「何さ、もう」
「ま、真ちゃんはそれでいいと思うよ」
そこで、伊織の視線が千早へ再び向いた。――以前のように、侮蔑の表情では無い。
「貴女はどうなの」
「どうとは」
「指定のアイドルに、なる気はあるの?」
伊織の言葉に、千早は少しだけ考えた。
「――この力で、誰かを救う力があるのなら、そうする事も、良いとは考えるわ」
「貴方自身がそう望む訳では、無いのね」
「私はただ歌いたいだけ。その歌で救われる人がいるなら、私は幾らでも歌うわ。
地位も名声も、お金もいらない。
ただ私が歌う、ステージがそこにあれば、それでいいの」
菊地真は、自分と雪歩しかいなくなった教室で、先ほどの伊織の言葉を気にして、髪の毛に触れた。
765プロダクションに来る前は、髪の毛をベリーショートにしていたが、今や肩までかかる程度まで伸びていた。
「……切ろうかな」
何となくそう呟くと、隣に居た雪歩が尋ねる。
「髪? どれくらいまで切りたいの?」
「ん、ああ……ちょっと調整する位かな。一応女の子らしく、なってきた所だから」
「伊織ちゃんの言ってた事、気にしてるの?」
「少しはね。でも言われてもしょうがないかなとは思っているんだ」
彼女は幼い頃から、男の子のように育てられてきた。
空手を習い、オモチャは男の子用の物を、そして男らしく有れと教えられ来た彼女は、ようやくアイドルとしての力を見入られ、ここまでやってきた。
そこでも男らしく見られ、誤解され、真は少なからず気にしていた。
だが自分にも非があると認めてもいた。
男勝りの口調に、態度になってしまった環境を恨んだ事はあれど、父親を憎んだ事は一度も無かった。
一つの側面だけで言うならば、尊敬すらしている。
だから真は今までの環境や、その立場に甘んじて居た自分に対しての、ささやかな抵抗として、こうして髪を伸ばしているのだ。
「じゃあ、私が切ってあげようか?」
「雪歩が?」
「うん。友達の髪の毛を整えたりする程度なら、結構やってるんだよ」
近くに散髪屋さんも無いしね、と苦笑した雪歩。
確かに765プロダクションは、あらゆる環境から孤立した場所にある。
近くの集落に行くのだって、馬車を使って半日を費やさなければならないのだ。
ならば、と。真は雪歩にお願いする事にした。
雪歩は手入れ用のハサミとシーツを用意し、真を椅子に座らせ、シーツを首に巻き付け、切った髪の毛が体にかからないように配慮した。
クシを取り出し、真の綺麗な髪に触れ、雪歩は少しだけ躊躇いを見せながらも、それぞれ長さの異なる伸びた髪の毛を、少しずつ切っていく。
ハサミの切れる音だけが、教室に響く。窓は完全に閉じられて、風の音すら聞こえない。
雪歩はそんな静寂の中、ただ真の凛々しい後姿に、惹かれていた。
「ねぇ、真ちゃん」
「何かな、雪歩」
「真ちゃんは、女の子らしくなるために、アイドルになろうとしたって、言ったよね」
「そうだね。そういえば雪歩が何でアイドルになろうとしたのか、聞いて無かったね。聞いても良いの?」
「私の場合は、スカウトだった。
偶像機関の人たちが、お父さんとお母さんへ直談判して、娘さんにはアイドルになれる素養がありますって。
お父さんもお母さんも、泣いて喜んでたけど、私にはそんな、大それた力があるなんて、思えなかった。
――自分に、自信が無かったから」
クシを通して、長さを調節する為に、ハサミで切る。既に何でも繰り返した動きでも、真の髪を切っているという現実が、雪歩を悩ませていた。
「今は、自信はある?」
「分からない……分からないよ」
そこで雪歩の手が、止まった。
確かに昔より、自信はついた。
だがそれでも、自分に大それた力があって、その力を用いて人を救える、人々に癒しを与えられるなんて、そんな事を考えた事も無かった。
今まで周りに居た友達と、何ら変わらないと思っていた自分が、特別な存在などと、自分自身が一番認めたくない事だったから。
「父さんが言ってた。自信って言うのは、行動した後に自ら身に着けていくものなんだって。
最初は誰もが不安で押しつぶされそうになって、失敗して、学んでいく。
雪歩の不安なんて、髪を切るこの動作みたいなものさ。友達の髪の毛を整える事に慣れて、人にやってあげる事が出来るようになる。
アイドルだって同じだよ。今は力が無いから、自分に自信が持てないだけで、力をつければ、自ずと自信の方からやってくるんだ。
――気にせず、ボクの髪を切って、自信にして行けばいいんだよ」
真の、ポジティブな言葉に、また自分は救われた――そう感じた雪歩。
彼女は、迷いの無い動作で、真の髪の毛を整えていく。
真に似合う調整の仕方を、雪歩は今この765プロダクションに居る、誰よりも知っている。それは自信を持って言える。
なぜなら――
「真ちゃん」
「何かな」
「私、真ちゃんの事が――好き」
雪歩の言葉に、真は少しだけ沈黙し――そして、目を細めた。
――ボクはこの好意を、どう受け止めたら良いのだろう。
そう考えている間に、雪歩による調整は終わっていた。
切り終わった調整は、これまで培ってきた真の自信を、際立たせるような。そんな魅力ある調整となっていた。
一人、如月千早は歌を歌っていた。
歌う場所は765プロダクションに山ほどある、使われていない教室。
何十と言うクラスを持てるように設計されたこの校舎で使われている教室は一つしかない。
なので鍵は常に開けられ、整備もされていない。
千早はそんな使われていない教室で、ただ喉を、腹を、自分自身の体を用いて、歌と言う表現を行っていた。
自分が自分であろうとする証明であるように歌い上げるその声は、誰が聞いても魅力的に聞こえる。
――そう、彼女が聞いても。
「ここで、聞いていてもいいかしら」
「あずささん」
三浦あずさが、千早の歌っている教室の椅子に座り込んだ。千早はそれを許可し、再び歌い始める。
淡く歌われるそれは、アカペラに合う悲恋歌だ。あずさはその歌声を聴いて、ただ静かに心を震わせた。
千早の歌を好きになり、彼女の歌声をずっと聞いていたくなり、そして――
千早の歌が終わると、あずさは自然と彼女に向けて拍手を送っていた。千早は少しだけ顔を赤めて、ぺこりと一礼をした。
「相変わらず、素敵な歌声ね。千早ちゃん」
「ありがとうございます。私はあずささんの歌声が大好きです」
「まぁ、嬉しい」
あずさも歌う事は好きだったが、千早の歌声に勝るとは考えてもいなかった。
誰よりも魅力的で、誰よりも優しい。誰よりも歌う事に特化した、そんな千早を、あずさは――
千早の歌う壁際のステージ。そこへ赴き、カーテンを掴んで自らと千早にかぶせた。
「あずささ」
「しーっ。人が来ちゃうでしょう?」
何をしているのか問おうとした千早に向けて、その綺麗な人差し指を鼻の前まで持って行き、静かにしてねと合図するあずさ。
あずさは、そうして静かになった千早を見据えた。
細くて、抱きしめたら折れてしまいそうな、そんな千早を見据え、あずさはフッと微笑んだ。
あずさより少しだけ小さい背の千早――その千早の頬に、あずさの手が触れた。
頬を引き寄せ、自らの顔を近づける。唇と唇が近づき、後数センチ――
そんな所で、足音が聞こえた。ドタドタと廊下を走る音が、二つ。
「待て、いぬ美!」
響の声だ。千早は慌ててその場から退き、教室の外を見る。
「我那覇さん?」
響と、白い気をまとう大型の犬がいた。何事かと問う前に、その犬は気配と共に、消えていった。
「あれ。千早と、あずささん?」
「響ちゃん。今の犬は?」
「あれは私が顕現したんだぞ!」
「顕現って――ヴィジュアル能力で?」
ヴィジュアル能力は、無から有を生み出すことも可能となる。それこそ生物を生み出すことも可能にはなる。
だがそれを叶える事の出来る人間は数少ない。
無機物の物や、炎や水と言ったように、自然現象や物体を生み出すことは容易くとも、擬似的な生物を生み出すとなれば、並大抵の技術では不可能な事だ。
「凄いわね、我那覇さん」
「へへー。これで私も、偶像機関指定のアイドルに一歩近づいたかな?」
照れくさそうに笑いながら、そう言った響。その彼女に向けて賞賛を送る千早。
響が再び犬を顕現させて、それを追いかけていく姿を見送った後に、千早が少しだけ躊躇いながら、あずさに向き合った。
「あの、あずささん」
「何かしら、千早ちゃん」
「あの、さっきの、あれは……」
「乙女の口から言わせないで。貴女も女の子でしょう?」
千早が次の言葉を探す時には、あずさは笑みを浮かべてその場から立ち去っていた。
――その意味を、千早はどう受け取ってよいのか。それだけで頭がいっぱいだった。
伊織はやよいと共に、夜の草原を散歩していた。
夜風が気持ちよくて、伊織はフッと笑みを浮かべて、やよいに向き合った。
「ねぇやよい。例えば貴女が偶像機関指定のアイドルとなったら、何を望むの?」
千早に向けた質問と、同じ質問を、彼女に向けた。
彼女は家族の為に765プロダクションに身を投じた。
その支援を目当てにと言えば聞こえは悪いが、その後の生活は、やよいやその家族の今後を左右するものとなる。
「貴女は家族と共にいる事を望む? それともまだ見ぬ誰かを笑顔にする為に、家族と離れる選択を選ぶ?」
まだ十四歳であるやよいにとって、それは少し酷かもしれない質問ではある。
だが、遅かれ早かれ考えなければならない事だ。伊織はそう考え、彼女にそう尋ねていた。
「私は――」
少しだけ答を躊躇いながらも、ハッキリとした口調で、やよいは言い放つ。
「どっちの為にも、色んな所で、色んな人たちに出会って、いろいろな経験をして、家族にそれを聞かせられたら、幸せかなーって」
伊織は、その彼女の言葉に、少しだけ呆気に取られたような表情を向けた。
「それは――家族と共に、各地を転々とする道を選ぶって事?」
「うーん。どっちかっていうと、家族の元を少し離れる事になっても、最後に我が家へ帰る事が出来れば、それでいいと思うんだ」
そうすれば、皆が皆幸せになれるよね、と。そう言って、やよいは満面の笑みを浮かべた。
「……そうね。偶像機関指定のアイドルでも、個人でアイドルをするにしても、可能ではある」
だが苦労も多い。
彼女は家族との幸せと、アイドルとしての幸せ、二つを手にする事を選ぼうというのだ。
並大抵の事では無い。その内に体を、心を壊してしまいかねない。
――だがそれでも。
「私は貴女を応援するわ。やよい」
「えへへ。ありがとう、伊織ちゃん」
「この間はごめんなさい、やよい。私、貴女を叱咤して、どこか内心、喜んでいた自分が居たわ。救われた自分が居たわ」
「良いんだよ。だって人間って、難しい生き物だから」
「それを認められる貴女は、本当に強い子ね」
伊織はこの時、やよいを親友として認めた。
最愛の親友。
彼女の幸せが、自らを幸せにしてくれるような気がして。
伊織はこの時、愛情と言う物を初めて知ったのかもしれない。
なんで亜美真美すぐ死んでしまうん・・・?
数か月の月日が流れる。
既に季節は春を過ぎ、夏を迎えていた。
皆での生活も慣れてきて、共に笑い合う生活が、これからも続く――そんな日の授業終わりに。
律子が一言、言い放った。
「最後に。本日、偶像機関任命官との協議により、如月千早を偶像機関指定のアイドルと任命する事が決定しました」
皆が、唖然としていた。千早も同じく。
「この一年は学業への専念を命じられました。皆さんにも同じくチャンスはありますので、どうか諦めずに、自らの技能を磨いて下さい」
律子はそう言ってニッコリと笑うと、教室を出る。
静まり返る教室。だがそれもすぐに盛り上がる。
「凄いよ千早! 在学半年で、指定アイドル任命だなんて!」
「今日はお祝いね!」
「千早凄いな! 自分も負けないようにするぞ!」
そこで、千早がフフッと笑みを浮かべて、響に向き合った。
「我那覇さん。一人称が自分になってるわよ」
「うあ――き、聞き間違いだぞ! じ、私の一人称は私なんだから!」
笑いが蔓延り、教室に穏やかな雰囲気が流れ込む。伊織も少しだけ悔しく感じながらも、拍手を送った。――だが。
「――でも、残念ね。私は選ばれても、あまり嬉しくは無いわ」
その言葉は、伊織を激昂させるには十分すぎる発言だった。
「――認めない!」
一つの椅子が、壊れた。
赤い稲妻が伊織の手から放たれ、椅子を焼き払ったのだ。
半年も強化された神通力から作り出される稲妻は、伊織の手で小さく、だが確かに強い威力を内包する物となり、皆が一瞬で後ずさる。
「私は認めない――貴女が、アイドルだなんて!」
静まり返る教室。千早が目を細めて、周りの安全を確認するように、皆に視線を送る。
唯一伊織の近くに居るやよいも、驚きと恐怖で唖然としているだけだ。怪我はない。
「水瀬さん」
「何なのよ、貴女は。名誉の事なのよ?
世の為人の為に働く事が出来る、候補生となった人間の、女の子の、永遠の憧れ――それを貴女は手にできるのに。
それを、残念だなんて……ふざけないでよ!」
「水瀬さん、怖いわ」
「撤回なさい、千早。名誉の事だと、光栄な事だと崇めなさいよ!」
千早の視線と、真の視線が合った。
喉から空気を取り込んだ千早と、脚部と指先に神通力をまとわせた真が、同時に動いた。
千早の生み出した風が伊織に襲い掛かると、それを稲妻で振り払おうとする伊織。
だがその瞬間に後ろはがら空きとなり、神通力を用いて速度を得た真の指先が、伊織の首筋に軽く触れる。
その瞬間に意識を失った伊織と、自動的に消えていく稲妻。
「真、ありがとう」
「いや……今の伊織は、少し怖かったしね」
でも、と真の口が動いた。
「伊織程ではないけど、皆思った事だったよ、今のは」
「そうね。私も軽率な発言だったと、今思ったわ」
「元より、千早は歌が歌いたいだけだって言うのは、皆知ってる。
でも、伊織は誰よりも、アイドルとなれるように努力をしてきた。
――ボクは、努力が全てだとは思わないけど、努力をした人間は、どんな形であれ、報われるべきだと思ってる」
――君は、アイドルとなる為に、努力をしたかい?
真の言葉に、千早は何も答えなかった。
高槻やよいは、律子の部屋に向かいながら、先ほどの伊織と千早、そして真のやり取りを思い出していた。
「――皆を笑顔にする為のアイドルなのに、何で、何で傷つけ合うんだろう」
まだ十四歳のやよいから呟かれる、素朴な疑問。
その疑問を持ったまま、やよいが律子の部屋をノックした。
「入りなさい」
「失礼します……」
ペラペラと、書類を捲る律子の後ろに立ったやよい。
ペーパーテスト以来、補習授業を受ける事が習慣となっていたやよいは、近くにある教科書とノートを取り出そうとした。
そのやよいに、律子が尋ねた。
「やよい。貴女の家族は今大丈夫かしら」
「え」
「支援があるとは言え、必要最低限の援助だけです。それでは、幼い妹や弟達は、まだまだ貧しいままなのではないですか?」
「何を」
「私個人が、貴女に援助を致しましょう。その代り――私の研究を、手伝って頂けませんか?」
ニコリと笑いながら、やよいに向き合った律子。
その律子の言葉に、やよいは先ほどまで起こっていた教室のやり取りが、頭の中から抜けている事に気付かなかった。
「援助――」
「ねぇ。悪い事では、無いでしょう?」
そう呟き、律子はその幼い唇に、自らの唇を重ね合わせた。
その時やよいは、自分にしか出来ない事。自分自身がやらなければならない事を、認識した。
765プロダクションには、旧校舎と呼ばれる場所があった事は、誰もが知っている。
今や桜の木しかない草原の下に、かつて星井美希と呼ばれる少女が眠っている事も、皆が逸話として知っている。
「それで、どうなったの?」
二人の少女が同時に声を上げる。
右頭頂部で髪を短く結んだ少女と、その正反対の位置、左頭頂部で髪を結んだ少女だ。
見た目は二人とも瓜二つで、その髪の毛を結う位置のみが、異なっている。
二人は同じ形のおしゃぶりを口にしながら、ベッドの上に寝そべり、本を読む女性の傍に寄り添っていた。
「旧校舎の桜の木の下には、女の子が眠っていて――何年も何年も、その扉が開く時を、待っているのです」
女性が、読み聞かせるように本を捲る。
その美しく綺麗な銀色の髪と、端麗な顔立ちが印象強い女性は――名を四条貴音と言う。
「何年も――何年も」
「可哀想」
右頭頂部に髪を結った少女――双海亜美が呟くと、今度は左頭頂部に髪を結った少女――双海真美が口を開いた。
「ねぇ、お姉ちゃん。このお話、真美知ってる気がする」
「亜美も。ねぇお姉ちゃん。このお話、亜美たちは知ってるの?」
「……いいえ。初めて読み聞かせましたよ。きっと似たような夢でも、見たのでしょうね」
二人の頭を撫でた貴音は、二人をベッドに寝かせ、毛布をその上にかけた。
「さあ、お休みなさい。明日も良い日になりますよ」
「うん」
「おやすみ、お姉ちゃん」
二人の微笑みを見据え、貴音はその場を離れた。
――下ごしらえが、もう終わろうとしていますよ、お姉様。
桜の木に背中を預け、物寂し気な表情をしている少女がいる。如月千早だ。
「元気、無いね。千早ちゃん」
「死んでいる貴女に言われるほどではないわ」
「皮肉が効いているね……どうしたの、千早ちゃん」
「別に、何でも無いわ」
「何でも無くないよ。勉強で分からない事でもあった? 私は先輩だし、見てあげようか?」
「大丈夫。どうやら私は、偶像機関指定のアイドルになれるそうだから」
「そうなんだ。おめでとう」
「ねぇ春香。貴女はアイドルって、何だと思う?」
その言葉に、先ほどまで饒舌に言葉を口にしていた、春香が口を閉ざした。
「アイドル――」
「ええ。貴女もかつて、あの星井美希と共に学んだというなら、アイドルを目指した者なのでしょう」
「千早ちゃんは、アイドルって何だと思う?」
「質問を質問で返さないで」
春香は、少しだけ困ったような表情ではにかみながら、千早に手を伸ばした。
「場所、変えて話さないかな?」
少しだけ憂いを浮かべて、春香が提案する。彼女のその表情を見据え、千早は思わず、手を取った。
虹色のドラマパートとは違うのね
第三章
千早は春香の手に引かれながら、寮の奥の奥――千早が一度も見たことが無い奥の方まで行く。
するとそこに一つの、螺旋階段がある事を初めて知った。
「何、これ」
「こっち」
千早の問に答える事無く、螺旋階段を一歩一歩降りていく春香。その春香に連れられ、千早も同じく、歩を進める。
その道中で、春香が口を開いた。
「アイドルは、広義での物言いは、確かに世の為人の為に働く、能力者の事を言うよね」
広義での、という言葉を強めに発音し、春香が言う。
「でも元々、アイドルの力って言うのは、制御が出来ない、魔女の力だった」
伊織の言葉を思い出す。アイドルの力は時として、現代兵器を上回る力を持つ事があると。
「ヴォーカル能力も、ヴィジュアル能力も、ダンサー能力も、そこから派生する様々な特殊能力も。
極めてしまえば、人を簡単に殺める事の出来る力なんだって、そう教わらなかった?」
「教わったわ。だけど、人には他人を思いやる心があり、その力が人を助ける事は出来る。そうも考える事は出来る」
「そう、それは立派な事。それがアイドルとしての、立派な義務であり、使命なんだと思う。
でも、アイドルだって、魔女の力を使う事が出来るだけの、ただの人でしかないんだよ」
螺旋階段を全て降り切り、今度は長い廊下が続いた。レンガ積みにより作られた長い廊下を歩きながら、春香の言葉は続く。
「星井美希は、一人の女の子だった。座学が嫌いで、アイドルなんか興味は無かったけど、自分に出来るならやってみようかな、と。
――そういうだけの、怠惰な子だったけど、そこで一人の男性に出会った」
それは、プロデューサーと呼ばれる、偶像機関から派遣された、当時765プロダクションで教鞭を執っていた男性だという。
「素敵な人だったよ。別に色男って言うわけでもないけど、誰よりも一生懸命で。
やる気の無かった美希を、アイドルとしての才能に限界を感じていた皆を、全員偶像機関指定アイドルにしちゃう位、凄い人だった。
――千早ちゃんだからこそ言うけどね。私も美希も、その人を愛していたの」
愛――その言葉を聞いて、千早は表情を伏せた。
意味は二つ。
愛した弟を亡くしたという意味。
己惚れではないだろう。あずさに愛情を向けられているという意味。
二つとも、自分でどう受け止めればいいか、分からない事だったのだ。
だが春香はその事を知らない。構わず続けてくる。
「美希はその男性を手にする為に、誰よりも最強のアイドルとなった。
踊れば全ての男を魅了し、歌えば森羅万象を従え、その身体の前では一国の王すら恋に陥った。
そんな最強のアイドルとなった美希の愛情を、その男性は拒否して、私を選んだ。――選んでくれた」
『眠り姫となる女』に記述してあった通り。二人は恋愛関係の縺れにより仲違いを起し――
「それから美希の暴走が始まった。
人を魅了する、人を幸せにする筈の力が、なぜ自分の想いを叶えないのか。
その答えが分からなくなって、美希はプロデューサーを、殺してしまった。
歯止めが利かなくなって、学友を傷付け、殺し、そして――私に封印された」
長い廊下を歩く時間が、終わった。
廊下の奥には一つの大きな扉。
扉には頑丈な錠がかけられているが、その錠は禍々しい力に包まれていて、その瘴気に当てられた千早は息が荒くなる。
千早が立っているのがやっとの状況でも、春香は何ともなさそうに、扉に手を付けた。
「この中に、美希が眠ってる」
「こ――この、中、に?」
「そう。この前千早ちゃんに、知ってるか聞いたよね。『桜の木の下には、女の子が眠ってるんだって』って」
「え、ええ」
「『眠り姫』――アイドルとしての力を、魔女の力として使ってしまった者の末路。
人を幸せにする為の力は、同時に自分自身を、そして他人の命を壊す事が出来る。
魔女の力であるという戒めの為に生まれた、暴走した者を封じ込める言霊なんだ」
星井美希はここで、人々の戒めとなって眠り続ける。
死ぬ事も無く。生きる事も無く。
ただ星井美希は、この中で、眠り姫として、生き続けるのだ。
「もちろん封印を解く事は出来る。でも、その封印を掛けた私の記憶は、死ぬ直前までしかない。
死んだ後に何で私が、ここに顕現しているのか。千早ちゃんの前に現れたかが分からないから、この封印を解く鍵を見つける事は、出来ないと思う」
星井美希という女の物語。
天海春香という女の物語。
二つの物語を聞き、千早は息苦しさも相まって、その場にへたり込んだ。
「千早ちゃん。アイドルって、何だと思うって、私に聞いたよね」
頷いた千早。春香は首を横に振った。
「分からないよ。美希みたいになる事が本当のアイドルだって言うなら、私はそんなアイドルを目指さなかった。
答えなんてきっと、一人一人が考えなければならない事であって。
美希の言うアイドルは『人を傷つける力』でしか無くて。
私の言うアイドルは『人を守る為の力』でしか無い」
答えは貴女の中にある。
春香はそう言って、千早の手を引いて、ゆっくりと歩きながら、その扉前を後にした。
――その物陰で、一人の少女が、千早と同じく息を荒くしていた事を、気付かないまま。
水瀬伊織は、とんでもない事実を聞いてしまったと考えていた。
星井美希。かつて765プロダクションを崩壊まで追い込んだ、伝説のアイドル。
天海春香の言葉と、四条貴音の言葉を借りるなら、眠り姫となった女が眠っているのだと言う。
だが――伊織の中で何かが囁いた。
星井美希と同じ力を手に入れれば?
使い方さえ誤らなければ、星井美希と言うアイドルの力は、全てを手に入れるに相応しい力だ。
その力さえ、我が物に出来れば。
伊織はグッと息を飲み込んで、震える足に鞭を打って走り出す。長い廊下を。螺旋階段を。
千早と――あの天海春香と名乗った女は既に居なくなっていて、その姿を咎める者はいなかった。
伊織は走る。淑女の嗜みなどどうでも良い。
あずさや響に声をかけられても、無視して走る。
転び、転倒し、頭を打っても気にしない。
ただ律子の部屋へと、走り、そして――
少しだけ開かれたドアの隙間から、見てしまった。
律子が、物々しい注射器を持ち、試しに液体を少しだけ噴出させた。
光が当たっているせいか、緑色に発光する液体を見据え、にやりと微笑んだ律子は、その注射器を――
親友の、高槻やよいの血管に注入していた。
「何をしているのですか。ティーチ律子」
思わず尋ね、そして、律子は伊織へと向いた。
「伊織。人の部屋を覗き込むのは、悪趣味ですよ」
ふふっと微笑みながら、ガーゼを取り出し、注射器を刺した部位に当てて、アルコール消毒を済ませる律子。その手際は極めて鮮やかだった。
「何をしているか、でしたね。研究の一環です」
「研究――薬物研究、ですか?」
「ええ。候補生の体内にある神通力を、薬物を用いて増幅させる研究です。
これさえあれば、神通力が少ない者をアイドルとする事も、神通力が尋常でない者をさらに成長させることが出来るのです。
研究をしない手は無いでしょう」
「でも、何で、やよいを」
「彼女自身が、望んでいるのですよ」
「嘘。だってやよいは――」
「高槻やよいは、神通力こそ常人を超える量を持っていますが、その力を制御できていない。
ならば、神通力をさらに増幅させることによって、半ば強引に能力として顕現させることが可能となればいい。
彼女にとっても、これ以上無い解決方法なのですよ」
「ねぇ、やよい。貴女が言いなさい。そんな物必要ないと。ねぇ、やよい」
呼びかけに――やよいは答えない。虚ろな瞳を伊織に向けて、しばらくして再び、律子へと視線を向けた。
「せんせぇ。おくすり」
「ふふ、ええ。聞き分けの良い子供が、私は大好きですよ」
「やよい!」
そこで、律子が鋭い視線を伊織に向ける。
「やよいは自らの意志で、こうする事を決めたのです。伊織、貴女は何の用で、ここまで来たのですか?」
「用――用」
そうだ、と思い出す。周りを見渡して、とある物を探すと――机の上に、一つの箱が置いてあった。
箱を手にし、中に鍵が入っている事を確認する。
禍々しい雰囲気をまとった鍵。
目を凝らしてよく見ると、それにはあの『天海春香』と似た雰囲気の、力場で包まれている事がハッキリと分かった。
「ティーチ律子。
例えば私が、星井美希を復活させ、その力を用いてやよいのアイドルとしての力を目覚めさせる事が出来れば。
やよいの薬物投与を、止めて頂けますでしょうか?」
目的は、変わっていた。
自分の為に星井美希を復活させようとしていた伊織の目的は、やよいの為に変わっていた。
「――ええ。私は教鞭を執る者です。皆がアイドルとなれるのならば、私は生徒の自主性を尊重します」
ニッコリと微笑んで、それに頷く。
その言葉を聞いて、伊織は再び走る。
その後ろ姿を、虚ろな目で見据えるやよいが、最後に口にした言葉は。
「――わたし、あいどるに、なれる」
そんな力無い一言であった。
既に夜は更けていた。我那覇響は一人で、ヴィジュアル能力を用いて擬似生物の顕現を練習していた。
犬の姿をした子はいぬ美。
猫の姿をした子はねこ吉。
蛇の姿をした子はへび香。
ハムスターの姿をした子はハム蔵。
シマリスの姿をした子はシマ男。
オウムの姿をした子はオウ助。
うさぎの姿をした子はうさ江。
ワニの姿をした子はワニ子。
豚の姿をした子はブタ太。
モモンガの姿をした子はモモ次郎。
十匹まで同時に顕現が出来るようになり、最後にもう一羽。
鶏の姿をしたコケ麿と名付けようとした子を顕現しようとした所で、神通力の制御が上手くいかず、皆まとめて消失していった。
「うーん……上手くいかないぞ。もしかして自分、才能無いのかな……」
そういう彼女だが、実力者から見れば、彼女の十匹同時に擬似生物を顕現する能力こそが本来有り得ないほどの実力がある事の証明に他ならなかった。
確かに、一人前のアイドルであれば、擬似生物を生み出すことは、不可能ではない。
だが、擬似的にとは言え、命を生み出すという行為は、極めて難しい。
一匹の顕現でさえ、大抵の能力者は苦労をする事を、彼女は同時に十匹も成しているのだ。
これで才能が無いと言われてしまえば、765プロダクション全員が才能無しと言われてしまう事だった。
だが響は、まだそれを知らない。
誰も教えてくれないから。
彼女は、完璧であろうとするが故に、他人に努力の跡を見せたがらない、強がりの女の子だった。
水瀬伊織は走る。
全力で、螺旋階段へと向かい、そして螺旋階段を駆け下り、駆け下りた先の長い廊下を、その幼い両足で駆けた。
扉の前で息を整えていると、禍々しい雰囲気が、その息継ぎを阻害するようだった。
だが伊織は、確たる意思を持って、まずは呼吸を整えようと必死になる。
ハー、ハーと、呼吸の音と、地下の廊下に聞こえる風の音だけが不気味に聞こえた。
だが伊織はそんな事を気にするまでも無い。
鍵を、手にして、その鍵を、構え、そして。
鍵穴に、差し込み、両腕で、しっかりと、捻る。
その行為だけで、何日もかかっているように感じられたが――確かに、伊織の耳に届いた。
カチリと、錠が開いた音が。その感触が。
その瞬間、扉が開いて、禍々しい雰囲気が、解き放たれる。
ギィ、と音を鳴らしながら開かれた扉。最初は光が入らずに見えなかった扉の奥が、だんだんと見えるようになってくる。
――そこで、二つの光が、扉の奥に見えた。
灼色の光。伊織は目を開きながら、その光が何かを捉えた。
瞳の色だ。
灼眼の瞳が、こちらを見据えている。
続いて見えてくるのは、綺麗な金髪だった。その光り輝くようにしている髪の毛は、その少女の腰まで伸び、所々跳ねている。
薄い橙色の肌。きめ細やかな肌と、その端麗な顔立ちが、まるで見る者全てを崇めさせるような――そんな美貌に満ちている。
「――ねぇ、デコちゃん」
「デコ……私の事……?」
「そうだよ。君が、ミキのフーインを解いてくれたのかな」
「やっぱり――貴女が」
「うん。ミキだよ」
星井美希。
最強のアイドルであり、誰よりも輝き、誰よりも美しい、誰よりも――神に愛されたアイドル。
――今、眠り姫の封印が、解かれたのだ。
天海春香が、胸を抑えた。何かに強く引っ張られる感覚がして、その場で膝を付き、桜の木を見据えた。
「まさか……!」
「ど、どうしたの、春香!」
近くに居た千早が寄り添うと、春香が「大変なんだ……!」と声を荒げる。
「――美希の、眠り姫の封印が、解けちゃった……!」
どういう事なのと言う、千早の問いかけが言い終わる前に――千早も、何かを感じた。
封印された扉の前に立った時とはまた違う、まるで何かに魅了されるような雰囲気が、千早の全てを包んだ。
息が苦しくなって、急いで授業で習った【ヴィジュアル能力】を展開する。
千早の制服が、一瞬でひらひらとした衣装に切り替わる。
それは青色を基調色とした衣装で、その丈の短いスカートが印象強い、可愛らしい格好だ。
だが、その衣装はあくまで『防護衣装』の役割を果たす、戦闘衣装だった。
息苦しい感覚がすぐに無くなり千早は立ち上がって周りを見渡した瞬間――
寮の窓から、爆発が見えた。
少し前に遡る。
星井美希は、封印されていた部屋を見渡し、少しだけ体に付いている埃を払うと、立ち上がって伊織の目の前に。
背が高い。綺麗な女性と言う印象が強いが、その声色がまるで十代の少女のようで、伊織は思わず警戒のレベルを下げてしまう。
「ね、ねえ。貴女は星井美希なのよね」
「何度も言ってるの。ミキの名前は、星井美希。ちなみにまだ十五歳なの。デコちゃんのお名前は?」
「わ、私は、水瀬伊織よ。私も十五歳」
「へぇ、ミキと同い年なんだ。ねぇデコちゃん、デコちゃんは美希のフーインを解いてくれたし……ご褒美あげるよ。何がいい?」
ご褒美、と言う言葉に、伊織は思わず飛びついてしまう。
「な、なら、私と、私の親友を、最強のアイドルにしてほしい! そのアイドルとしての力で、私は、この世界を、全てを、見返す事が目標なの!」
「デコちゃんだけじゃなくて、デコちゃんのお友達も?」
「そうよ。その親友は、力が無いばかりに、傷付いている。親友を救うためには、親友も最強のアイドルになる他無いのよ!」
伊織の、必死の願いに、美希が少しだけ唸る。
「ごめんね、デコちゃん。ミキにはデコちゃんの願い、叶えられないや」
「な――何で……最強のアイドル何でしょう!? その力を用いれば、何でも出来るんじゃ――何でも手にする事が、出来るんじゃ」
そこで、美希の声色が、変わった。
「知らないの? アイドルの力って言うのは、破壊の力なんだって」
「ち、違うわ星井美希! アイドルの力は、何も破壊をする為の物だけじゃあないわ。
創造したり、再生したり、人の心を癒す事の出来る力――その力を、私は」
「ミキに、その力は無いと言ってるの」
ゴメンね、と一言だけ呟いて、美希が伊織の横を通り過ぎた。
「ああそうだ、デコちゃん。デコちゃんに大切な人がいるなら、デコちゃんともう一人だけ――そのお友達だけなら、見逃してあげるよ」
「……え?」
「ミキ、これから全てを壊しちゃうから」
「す、全てを壊す……? 一体、何を」
「誰にも聞いてないかな? ミキ、この世界が大っ嫌いだから、全てを壊す事に決めたんだ」
ゾクリと、背中が震えた。
――自分は、とんでもないものを甦らせてしまったのだと、後悔する前には、既に美希はその場に居なかった。
「やよい――やよい!」
大切な親友を思い描く。同じクラスの友達に思考を巡らせながらも、伊織はただやよいの元へ再び走った。
やよいだけは助ける。そう心に決めて。
我那覇響が寮に戻って、シャワーを浴び直そうとしていた時だった。
カツカツと、歩く音がする。
既に夜も更けている。こんな時間に起きているのは誰だろうと考えた所で、ぞくりと、殺気が響を襲った。
すぐにその場から数メートル程後ろに飛び退き、擬似生物・いぬ美を顕現させる。生成までかかる時間は、約三秒。
「――へぇ、生体生成を、そんな短時間で行えるなんて。さすが、ミキのコーハイだね」
目の前から、光の鎌を持った少女が歩いてくる。
年は響とそう変わりなさそうだが、その美貌が、雰囲気が、全てが自分と違うと見せつけてくるようで。
「誰――誰だ!」
「聞いた事ないかな? ミキの名前は、星井美希だよ」
「星井、美希……!?」
頷いて、その鎌を思い切り振り込んだ美希を見据え、響が無意識にいぬ美の背中飛び乗って、いぬ美に回避を任せる。
天井に足を着き、そこで響は、自身の体に力場を発生させた。
「こんのぉ!」
天井を蹴って、それを運動エネルギーとして利用した響の、強力なパンチ。
だが、それを掌で簡単に受け止めた美希が、手に持った鎌を、響に向けて振り下ろす――
「響――っ!」
真の声が伸び、美希が腹部を強打されて思い切り吹き飛んだ。
寮の壁に衝突したが、それに対してダメージを受けた様子も無い。
既に真は戦闘衣装を身にまとっていた。
響も急いでそれを顕現し、その顕現が終わった所で、後ろから雪歩とあずさの二人が駆け寄ってくる。
「響、あれ、何?」
「星井美希って言ってたぞ」
「星井美希って――あの本の……?」
「来るわ!」
真、響、雪歩の三人による会話を遮ったのは、あずさだった。
地を蹴り、思い切り速度を得て駆けてくる美希の鎌を、真が剣を顕現してそれを受け止め、響の回し蹴りが美希の顔面を捉えた。
だが美希は回し蹴りを、顔に強力な力場を発生させる事で防いで、一瞬鎌を手放して、掌から光を放った。
瞬間、寮が爆発した。
その爆発から逃る為に、真と雪歩とあずさはヴォーカル能力で浮き、響はいぬ美を顕現して、その上に乗っていぬ美を浮かせる。
「――ダメだ、外に出てくるよ!」
美希は、不敵な笑みを浮かべて、地面に足をつき、こちらを見据えている。
あの余裕は何なのだろうと、響が考えている間に、雪歩がヴィジュアル能力を用い、その手にマイクを顕現させ、マイクによって神通力を増幅させる。
「お願い――!」
ヴィジュアル能力によって生み出される、銀色の光を放つ矢。
形は少しだけ歪で、まるで普段用いているスコップのような形状をしたそれを、いくつもいくつも顕現させる。
雪歩が唯一、得意と言える力だった。
「当たってぇ!」
一斉に、それを放つ。美希を狙って行くそれは、美希の華麗な動きを前には、全てが地面に着弾した。
全ての回避を確認した所で、美希が地面を蹴って、思い切り雪歩に向けて鎌を構えた。
その恐怖に一瞬体を竦ませていると、一瞬で雪歩の元へ瞬間移動したあずさが、雪歩を抱きかかえて、再び瞬間移動を開始する。
「瞬間移動能力者――あはっ、みんな狩り甲斐があるの……!」
一瞬の内に美希から距離を取ったあずさと雪歩を視線で追おうとしていると、その視界の隅から、真が駆ける。
「はあ――っ!」
剣と鎌の、激しい攻防。数秒それを繰り返した所で、響が擬似生物・へび香を顕現させた。
素早い動きで美希を噛みつこうと伸びるへび香を、真の攻撃をいなした美希が、鎌で切り裂いた。
切り裂かれた瞬間に消えていくへび香だが、すぐにいぬ美の牙も伸びた。
「いいよ。いいよいいよ! 皆面白いの!」
大きく鎌を横振りすると同時に美希が全員の表情を見据える。
「黒い子は、ダンス特化。ヴィジュアルも申し分無いね。戦闘能力は高め」
真に視線を向けながら、美希が言う。
「ポニーテールの子は、ヴィジュアル特化だけど、ダンスもキレがいい」
今度は響に視線を向ける。
「おっぱいが大きい人は、瞬間移動が強みだね」
あずさへの視線はどこか一部を見ている。
「白い子は――君が、一番厄介……かな?」
最後に鋭い視線を、雪歩に向ける。
「白い子は、美希の後釜になれるサイノーを感じるよ」
「え……?」
「自信を持っていいの。ミキは人を見る目はあるつもりだよ」
「雪歩!」
先に、真が動いた。
その殺気の行き先が、他の誰でも無い雪歩に向いている事を感じていた為か、三人が同時に動いていた。
真の剣が伸びると同時に顕現される、いぬ美とへび香の二体を捌いている所で、あずさが瞬間移動を二度、繰り返した。
まずは美希の目の前まで瞬間移動を行い、美希の動きを一瞬乱した後、今度は美希の背後に回り込んだ。
「これで、終わり!」
あずさの拳に、力場が発生する。エネルギーと言うエネルギーが全て拳に集まり、一点突破の攻撃力を有する事となるが――
そこで、誰かに腕を掴まれ、拘束された。
ググッと力を入れられ、拳に力場を発生させていたあずさには、その締め付けられる痛みすら激痛に感じる。
あずさは視線を、自分を掴むもの、自分を拘束するものに向けると、そこには見知った顔が見えた。
「ティーチ律子……!?」
その眼鏡をかけた端麗な教育者を見据え「なんで……!」と声をかけると、彼女はその言葉に回答はせず、言う。
「お久しぶりですね」
律子は自分の顔に、右手を掲げる。
まるで汚れを落とすかのように剥がれ落ちる、律子の顔。その剥がれ落ちた表情から現れた――銀髪の女性。
「お姉さま」
ニヤリと笑いながら、そう言い放つと、あずさは驚愕の表情を浮かべる。
「貴音ちゃん……!?」
四条貴音。
かつて星井美希と共にアイドルとしての技量を学んだ者であり――幼い頃、あずさと共に育った、妹分だった。
貴音は、あずさの体に神通力を通し、あずさを気絶させる。
あずさを、潤んだ瞳で見据える貴音の隣に、美希が近付いた。
「貴音、久しぶりだね」
「美希。お久しゅうございます」
「その人が、貴音の大好きな人なのかな」
「ええ。私が、劣情を抱いた初めての女性――ふふ、真に貴女は聡明でしたね、美希。感謝いたします」
「お礼なんか良いよ。――ミキと貴音は、友達なんだから」
雪歩の生み出す矢が伸びる。それを美希と貴音が回避すると同時に、真の剣がさらに伸びた。
「あずささんを――返せ!」
「返せ? おかしな事を述べるのですね、菊地真」
真の剣を、様々な空間から伸びる鎖が、それを弾き返す。
「お姉さまは――もう私の物です」
貴音の言葉に、真は一瞬怯え――そして、貴音が消えると同時に、美希が真に切りかかる。
真と美希の応酬が始まるとき、貴音は既にそこにはいなかった。
水瀬伊織は走り、そして辿り付いた。
秋月律子の部屋。その部屋の奥には、ベッドの上で横たわる、親友の姿があった。
「やよい――やよい、逃げるのよ。ここから」
そう声をかけても、やよいは何も言わない。
薬物依存のせいで、人の言葉を認識出来なくなっているのか――そう考えて、彼女の肩に触れた瞬間。
やよいはその拳を、伊織の頬目がけて振りかざした。
「っ、やよい!?」
それを、反射神経のみで避ける事に成功した伊織が、目にしたその姿は――
「うっ……うー……」
その瞳には、既に何も映っては居ない。自分も、世界も。
あの優しかったやよいの姿は既に無く、伊織を何と認識しているのかも分からない。
「やよい……? やよい、なの? 貴女は」
「うっ――うーっ!」
やよいが、その体から大量の神通力を放出する。
薬物のせいかは分からないが、尋常ではない量の神通力が彼女の体にまとわりついて、無理矢理戦闘衣装に身をまとわせた。
伊織もすぐに、衣装を身にまとい、そしてやよいの動きを待った。
やよいの動きは、酷く直線的だった。
体にまとわせた神通力を、ただ真っ直ぐ押し込んでくる拳、蹴り。
その全てが人体を破壊するには余裕ある威力を誇っていて、伊織はその攻撃をただ避ける事に集中していた。
律子の部屋を出て、寮の外にある柱の一つ。その柱に目を付けたやよいは、それを殴り、蹴り、それを破壊して、掴んで――振り回した。
コンクリートによる、ただ物理的な暴力は、それ故の破壊力を持つ。その圧倒的な暴力を、ただ伊織は躱し、逃れ、そして声をかけるのだ。
「やめなさい、やよい!」
だがやよいは攻撃の手を緩めない。それどころか、攻撃をすればするほど、その殺意を増していくようだった。
伊織はヴィジュアル能力で、紅い球体を顕現した。電気を放電しやすい性質のそれに、自身の能力を組み合わせる。
稲妻を生み出し、それを用いてコンクリートの柱を破壊する。
その過程でやよいの手を少しばかり焼いてしまったが、やよいの体から大量に放出される神通力が、それを数秒も時間をかけずに治癒し、やよいはさらに暴力を振るう。
「目を醒まして!」
動きが直線的であればあるほど、やよいの動きは簡単に見て取れる。だが反撃が出来ない程の暴力は、伊織を苦しめる他無かった。
伊織は涙を流しながら、親友のそれを見据え、ただ彼女は、こう思うだけだった。
「私が真のアイドルならば、親友を救う事くらいは、簡単な事のはず」
伊織は覚悟を決め、ただ体中に電力を走らせた。
それが、伊織の本気。
全てにおいて破壊力とエネルギーを含んだ行動をとる事が出来る、彼女自身の能力だった。
星井美希は、菊地真、我那覇響、萩原雪歩の攻撃をいなしながらも、その攻撃を緩める事無く、ただ殺し合いを楽しんでいるようだった。
少なくとも彼女――萩原雪歩にはそう見えた。
雪歩の矢と、真の剣、そして響の顕現する動物達の猛攻をいなしながら、皆にダメージを与えていた。
だがそれでも、飽きは来るという物だ。
「もういいよ。皆消えちゃえばいいって思うな――っ!」
真と響を地面に叩きつけ、空中を舞った美希の姿を、全員見据える事しか出来なかった。
既に皆満身創痍。美希の攻撃に耐える事しか出来ず、それ以上何も出来ない。
美希は、空中にトライアングルに似た光を三つ生み出し、その中心部から、必殺の光を生み出す。
それが皆に向けられ、放たれる瞬間。萩原雪歩は自身の死を、覚悟していた。
――だが、そこで歌声が聞こえた。
歌声は空気となり、そして空気は更に力となって、二層の障壁となって顕現した。
美希の技として放たれた光は、その風に全てかき消された。
その風を生み出した少女は――その青く長い髪の毛をなびかせて、ただ三人を庇って、膝をついた。
「千早っ」
「千早!」
「千早ちゃんっ!」
真、響、雪歩が、その少女の名を呼ぶ。
「新しい子――ふうん。そっちの白い子より、もっと手応えありそうな子だね」
冷たく、だが燃え滾るような視線を、少女に向ける美希。
如月千早は、ただ美希の視線を捉え、そして尋ねる。
「――あれが、アイドルの力だというの?」
「そうだよ。君たちが何の疑問も持たず、ただ持てはやした力。それが今のミキだよ」
「魔女としての力――貴女が、眠り姫」
「星井美希。きみの名前は、聞かないでおくね」
美希が駆ける。千早が応酬する。
先ほどまで美希と攻防を繰り広げていた三人よりも、余裕のある動き。
だがしかし美希の攻撃を一人で回避し、攻撃を加える千早の動きは、酷く鈍重だ。あれではすぐに、殺されてしまう。
真と響は、その動きを見据えて、自分たちも動かねばと視線を合わせた。
「雪歩はここにいて」
そう言って、真が動いた。
真の剣が美希の鎌に合わさり、動きが止まった瞬間、へび香といぬ美の牙が、美希の首を噛もうとした、その時。
「うざいの!」
美希の全身から放たれる、強い神通力がへび香といぬ美を消し去り、千早と真を吹き飛ばして、美希は響へと駆けた。
「――へぇ。君は、美希と貴音と、同じ匂いがするの」
響の眼前へと来た美希と、その一瞬の出来事に身を動かす事すらできなかった響が出来た事は、口を動かす事だけだ。
「に、匂い……?」
「うん。孤独で、でもどこか寂しがりやな……そんな匂い」
響の頭を、数回撫でる。
暖かい人の手を、響は久しぶりに感じたと思った。
だが、その感覚を楽しむ暇も無いまま――響は、急に姿を消した。
「響、ちゃん?」
「な――何をしたんだ、お前!」
雪歩が、今はそこに居ない子の名を呼び、それをかき消すように真の叫び声が聞こえる。
だが美希はあっけらかんとした表情で「別に?」と返す。
「新しい友達に、ちょっと自覚させようと思っただけなの」
「自覚――なんの」
「人は何時だって、一人なんだよって。そう自覚させてるだけだよ」
真はそこで、考える事をやめて、その怒りを美希にぶつける事にした。
剣を振り切り、美希に向けて叫ぶ。
「あずささんに、響まで……お前だけは――お前だけは!」
「煩いなぁ――もう少し、楽しむつもりだったけど」
そこで鎌を振り切った美希が、真を弾き飛ばし、その指に光を集中させた。
距離や範囲は狭いが、その代りに破壊力にのみ焦点を置いたエネルギー波を、真に向けて、美希は言う。
「君は一足先に、退場してほしいな」
「真っ」
千早が美希を止めにかかるが、少し遅い。
放たれる光。
だがその一瞬早く、彼女が動いた。
萩原雪歩が、真の肩を押して――その光は、雪歩の胸を貫いた。
「雪歩……?」
「――真、ちゃん」
小さく。良かったと、雪歩が呟くと、雪歩はその身を真に預けた。
まるで眠っているようで、真は「ねぇ雪歩」とその肩を揺する。
その姿が静かになった事で、美希はそれ以上、真に向けて視線を寄越す事は無かった。
「この――っ」
千早が動いた事が理由の一つでもある。
千早から放たれる風と戦いながら、美希はその時間を楽しむように鎌を振り込んでいた。
しかし、真は既に美希の事を、気にしてもいない。
目を開かない。段々と冷えていく、その小さな体。
「ねぇ雪歩、起きてよ……目を醒ましてよ、雪歩っ」
大粒の涙が、雪歩の頬に当たっても、彼女は目を開かない。
「まだ、ボクは返事をしていないじゃないか……またボクに、好きって、そう言ってくれよぉ……っ!」
真とて、本当は分かっているのだ。
雪歩がもう、死んでいる事を。
自分を庇って死んだ事を。
真は分かっている。
だが、では自分はどうして戦っているのだろう
自らの命と、そして仲間を守る為に――アイドルとして、美希と死闘を繰り広げた筈なのに。
自分は脆く、弱い。
アイドルになれると、もっと強くなれると。雪歩にあれだけ偉そうに教授していた自分より。
「雪歩――ボクより君の方が、やっぱりアイドルだったよ」
羨ましかった。雪歩の女の子らしい魅力が。
笑顔が可愛らしくて、微笑むときの仕草が、泣く時の声が。
真はずっと大好きだった。
愛していたのだ。
「雪歩――ボクは君を、好きだったよ」
最後に、唇を合わせるだけのキスをしよう。
それは何の償いにもなりはしないが、せめて生きている時に、その言葉を伝えられなかった、自分の弱さの戒めと、その後悔を含めて。
息継ぎをしながら、千早は美希の鎌を、光を、全てを回避しながら、美希に風の力で攻撃を加えていた。
まるでカッターのように鋭い威力を持つその力を用いた攻撃が美希に当たる――そう思われた瞬間、美希の放つ力場がそれを遮り、消失させる。
「くっ」
「君は潜在能力はあるけど、実戦経験がまるで無いのが問題なの」
そんなものがあってたまるか。千早はそう口にしようとした瞬間、背後から一本のマイクが飛来した事を察し、それを受け取った。
「それ――春香の」
受け取ったマイクに力場を注ぎ込み、同時に風を体にまとわせる。そのマイクは一つの大太刀のように顕現し、それを美希に向けて振り込んだ。
「春香――春香が此処に、居るんだねっ!」
美希が、先ほどまでの楽しそうな表情を、さらに歪めた。
美希は千早の未熟な力で作られた力場を一瞬で粉砕し、その千早を強く、蹴り飛ばした。
まるでお前に興味が無いと言ったように感じられるその扱いに、千早が唇を噛み締めたが、美希はそれをどうも感じていなかった。
寮の天井に、体を下し、ニヤリと笑みを浮かべて、美希は彼女――天海春香を見据えた。
「待ってたよ、春香。ずっとずっと――この時を」
「帰ろう、美希。ここは、私たちがいていい場所じゃない」
春香は、既にまとった戦闘衣装を整えて、そのマイクと、マイクスタンドから力場を発生させる。
力場がまるで双刃の薙刀のようになった所で、美希が「嬉しいんだ」と口にする。
「春香を、ミキの手で殺せる。もう一度殺せる。何度も何度も――殺せる事がっ!」
美希の大鎌と、春香の薙刀が、振られる。
今二人の『アイドル』が、衝突する。
水瀬伊織の攻撃は、全てが高槻やよいにヒットしていた。
やよいの戦闘衣装に繰り出される、突き・蹴り・そしてひじ打ちは、全てやよいの小さい体を吹き飛ばしていた。
だが、その痛みを感じないのか否か、どんな攻撃を繰り出しても、彼女はまた立ち上がり、襲い掛かってくる。
――痛みはあるのだろう。だがその驚異的な治癒能力により、やよいはその体の負担を軽減させているだけだ。
このまま限界まで殴り続ける事が出来れば、やよいは止まる。そう考えて居た伊織が、次の瞬間には、その考えをすぐに訂正する。
彼女の限界は、彼女の神通力自体の限界。
神通力は、その人間のエネルギーそのものだ。
もし限界まで神通力を放出させてしまえば――彼女は、やよいは生きた屍となる。
「……ならっ!」
治癒が間に合わないレベルで痛み付け、彼女の気を失わせる他無い。
伊織は攻撃の威力を上げて、彼女に襲い掛かる。
――だがそこで、やよいが一筋、涙を浮かべている事に気が付いた。
「やよい……っ」
「い、おり、ちゃん」
僅かに言葉にされた、伊織の名を、伊織は聞き逃さなかった。
「お願い」
伊織は攻撃の手を緩めない。絶対に親友を救うと決めて、伊織は自らの拳に、稲妻を走らせ、そして――
「私を殺して」
その言葉に、伊織は叫んで、そして、彼女の腹部を貫いた。
神通力の放出が止まり、やよいの体がぐったりと倒れる。その体を抱きしめ、伊織は「やよいっ」と彼女の意識を確かめる。
「……良かった」
「良くないわよ……良くなんかないわよぉ……っ」
流れる涙を止める事無く、伊織がやよいの体を強く抱きしめる。まだ温かい、生きている。
「私……貴女を、貴女を……っ」
「良いんだよ、伊織ちゃん……私はこれで良かったんだ」
「だから良くなんかないの! 貴女はこれから、立派なアイドルとなれる女の子だったの……それなのに……それなのに私は……っ」
「……伊織ちゃん、アイドルって、何だろうね……」
その言葉に、伊織は答えない。――いや違う。
答える事など、出来ないのだ。
やよいは言う。
「私は……皆がハッピーになれれば、アイドルなんて、いらない……そう、思ってるよ」
――だから伊織ちゃんは、何時でもハッピーで居てね。
やよいは、そう最後の言葉を呟くと共に、息を引き取った。
殺してしまった。大好きな親友を――大好きな彼女を、自分は殺してしまった。
「一体……アイドルって何なのよ……っ」
彼女の体を抱きしめながら、伊織はやよいに言われた言葉を、繰り返していた。
アイドルは、彼女の道標となる言葉だった。
だが彼女はその存在を、その有り様を、認めたくなかった。
親友を殺してしまったこの力を、伊織は誇る事など、一生出来るはずがないのだ。
響の頭の中に、幾つもの映像が流れるようだった。
疫病で苦しむ人たち。
死んでいく父、苦しむ母、その母を看病する兄。
それは地獄絵図のような景色だった。
兄は心身ともに疲弊し、母は「いっそ殺してくれ」と懇願する。
髪は既に抜け落ちて無く、綺麗だった母の面影などは微塵も無い。
そんな中、自分だけが無事だった。
兄は、765プロの情報を響に与えた。そして彼女に、アイドルとしての力がある事を。
最初は嫌だった。
もう父は居ない。母も亡くなりそうだ。兄も疲弊し、自分にも何か出来ないか、そればかりを考えていた。
だが兄は、一つ響に約束をさせた。
「誰か困っている人がいたら、助けてあげられるような、そんなアイドルになるまで、この家に帰ってくるな」
厳しい口調だが、響にはその真意が分かっっていた。
「お前だけでも、無事に生きていてほしい」
その祈りを、響は受け取って、ここまで来た。
成績は悪かった。だがそれでも、いずれ兄との約束を果たそう。そう思い――
――でも君は、何時でも一人だよ。
星井美希の声が、聞こえるようだった。
――人は何時だって一人なんだよ。孤独である筈なんだ。
――君のお父さんだってそうだし、お母さんだって死ぬときは一人だよ。
――お兄さんだって、今は一人。君は誰の近くにもいないし、傍に居たってその人と一つになれるわけでもないんだよ。
星井美希の声に、響は静かに、頭を垂れた。その通りだと思った。
自分はいつも一人で、どこか他人に頼ろうとする事を嫌っていた。
友達もいたけど、心の底で距離を取っていた。
そんな自分に――今、一人で何が出来るのだろう。
――友達になろうよ、響。
「友達……?」
――うん。嫌な事、ぜーんぶ放り出して、全てを壊そうよ。
――こんな嫌な世界、全部壊しちゃおう。
彼女の言葉に、響は何も言う事は出来なかった。
天海春香と星井美希の攻防は、如月千早の眼前で行われた。
だが千早は、その圧倒的な力量を見せられ、唖然とする他に、する事は何も出来なかった。
春香の双刃が美希に襲い掛かると、美希がそれを鎌でいなし、そして美希の反撃が舞う。
それを力場で回避すると同時にマイクスタンドで美希を殴り付け、そのまま膝蹴りを見舞う所で、美希がそれを肘打ちで受け止める。
その一連の動きで行われたそれぞれが、必殺の一撃である事は、少しでも神通力の使い道を学んだ者ならば、誰でも分かる事だった。
彼女たちは、本当に人間なのだろうか。
二人の攻防を目の前に、自分がいかに無力であるかを悟って居た千早。
そんな千早を嘲笑うように、美希が笑みを浮かべて春香に語り掛けた。
「強くなったね、春香! やっぱり人間の体を捨てて、神通力その物になった春香こそ、ミキのライバルなんだよ!」
「私も、ようやく思い出した。人間の体に固執したら、美希を倒す事が出来ない――だから私は、美希にわざと殺されて、この地に留まり続けた」
「それは春香の為でもあったし、ミキの為でもあった。最強のミキが、最強の春香を殺す。そうすればミキは正真正銘の強者になれる!」
「それが美希の望みだったの? 美希の望みは、あの人が望んだアイドルになる事だった筈」
「しつこいよ。手に入れられないなら壊すだけ。ミキは、ミキが手に入れたい幸せを叶える為、この力を手に入れたの!」
「やっぱり貴女は魔女――眠り姫の名が相応しい!」
「最高の褒め言葉なの!」
音速。
そう表現する事が相応しい攻防を繰り広げる彼女たちの姿が、何より魅力的に見えた。
やっている事は、ただの殺し合い。だがそれでも、千早はそれを美しいと思えたのだ。
あれがアイドルとしての力。
いや、魔女としての力を限界まで極めた者達の戦い。
眠り姫である星井美希と、神通力そのものとしてこの世に顕現した天海春香。
二人の戦いを見据え、それでも自分に何が出来るのかを考える千早――その彼女がふと何か気配を感じて、視線を桜の木に移した。
桜の木が、発光している。
薄い桜色の光を発する木を見、春香と美希も動きを止めた。
「あはっ――貴音が動いたね」
「貴音さんが……」
「そうだよ。貴音もミキ達と同じく、力を手に入れるつもりなんだよ。
――全てを手に入れる事が出来ないなら、力でそれを支配する。その為の力を」
美希が眠っていた部屋は、桜の木の幹が根付いていた。
複数に枝分かれしたそれは、まるで栄養を求める様に、ドクンドクンと動いている。
その幹と、銀色の鎖に繋がれた、意識を失った三浦あずさ。
その姿を潤んだ瞳で見据えながら、四条貴音がその両手を広げた。
「さあ――今こそ【誕生-でびゅう-】の時……私が望んだ世界が、今生まれるのですっ」
その声は、狂気に満ちている。その彼女の声に、三浦あずさは目を醒まし、口を開いた。
「貴音ちゃん……貴女が、なぜ……こんな」
「お姉さま。貴女は安心して、眠っていて下さいまし。
すぐに私と美希……そして、新たな友人である我那覇響と共に、貴女に相応しい世界を、作り上げて見せましょう」
「いらない……そんな、世界は」
「大丈夫です。貴女が望む暇も無く――この世界は、生まれ変わるのです」
桜の木は発光を続ける。あずさの体から、神通力が吸い上げられるようだったが、なぜかその神通力の終わりは見えなかった。
「私の体に、何を……」
「神通力を、無限に増幅させる薬物投与を行いました。高槻やよいには、感謝をせねばなりませんね」
「やよい、ちゃん……」
姿を見せなかったやよい。
彼女は、秋月律子――いや、四条貴音によって、既に……。
「貴音ちゃん」
「何でしょうか、お姉さま」
「貴女は、地獄に墜ちなさい」
「私はとっくの昔に、貴女によって墜ちているのですよ」
四条貴音は、狂気の笑みをやめる事は無い。
三浦あずさはただ、その身を幹と鎖に委ねる事しか、出来なかった。
星井美希が、ついに勝負に出た。
その手を振り上げ、フレッシュグリーンのトライアングルを空中に生み出すと同時に、その中心部から、必殺の光を生み出す。
天海春香はそれを察し、急ぎ自身の前に、防御障壁を発生させる。
何十にも重ねられた防御障壁に向けて、放たれる光。
その障壁を一枚ずつ破っていき、最後の一枚になった所で、如月千早が天海春香の隣に立ち、彼女を援護する形で、同じく障壁を生み出した。
「千早ちゃん!」
「春香っ!」
共に名を呼び合いながら、美希の放った光を受け続ける二人。だが限界は既に近かった。
「諦めなよ。君は良く戦った。春香はミキに殺される運命だった。世界は――こんな不完全な世界は、ミキが壊してあげるよ」
生まれた世界を間違えたね、と。美希が笑う。
だが千早は――その美希に向けて、鋭い視線を向ける。
「私は――何時だって一人だった。貴女と同じよ」
「そうだね、誰だって人は一人だよ。皆同じ。春香が隣に居たって、春香と君が一緒になる事は無い。でも――死ぬときは一緒だよ。良かったね」
アハッと笑った彼女に、千早が歌う。
「私は諦めない。一人だっていい。でも貴女ほど、私は孤独で、寂しい生き方をした覚えは無いわ」
「君が――お前がミキの、何を知ってるっていうの!?」
「知らないわよ。駄々をこねる子供の言う言葉なんて、理解する気も無いわ」
「殺す――お前は絶対に、殺す!」
光が、強くなる。
だがその強くなる光と共に、どこか千早は、力に満ち溢れるようだった。
歌う。千早が歌う。
その歌に魅せられ、春香がどこか、察したような表情で、千早へと手を伸ばす。
「千早ちゃん」
「春香……?」
彼女の呼び声に、千早が春香へ視線を寄越し――美希も同時に、驚きの声を上げた。
「お前も――お前も、アイドルの器を持っているというの!?」
彼女が、どういう意味を持って千早に【アイドルの器】と言ったのか、千早は理解していない。
だがそれでも、千早は自身が今【アイドル】となる事を理解した。
「千早ちゃんなら、大丈夫」
「春香……」
春香の、諭すような言葉に、千早も手を伸ばした。
その手を取り、そして――
「私――【アイドル】になるわ」
孤独でも良い。寂しくても良い。
だがそれでも。
「この世界を守って見せる。
不完全でも良い。
弟を救えなかったこの世界でも良い。
理解されなくても良い。
ただ、私を作ったこの世界を……私は、見捨てる事なんて、出来ない」
「うん。それでこそ【アイドル】だよ」
春香が、段々と消えていく。
その力が、千早へと流れていく。
千早が身にまとう、戦闘衣装が、桜色の光を放って、新たに生まれ変わる。
その手にマイクスタンドを持ち、その力を、思いきり振り込んだ。
美希の放つ光を打ち消して、美希の前に千早が降り立った。
――美希と同じく、灼眼の瞳を左目に宿して。
「春香。私――貴女の事を忘れない」
そう言葉にして、歌う。
その歌声は、この世界の全てに反響し、聞こえた。
千早の歌声を、聴いた気がした。
我那覇響は、顔を上げて、そして笑う。
「そうだ――そうだぞ。自分はどうして、こんな簡単な事、気付かなかったんだろう」
自分は一人だった。何時だって一人だった。
でもそれは、誰が悪いんじゃない。
自分だって、他人と関わろうとしなかった。
だがそれでも、繋がりを持つ事は出来る。
「こんな薄気味悪い所に居ても、千早の歌が、聞こえたんだ」
きっと大丈夫。
そう口にしながら、響はその身に、再び戦闘衣装をまとって、神通力を放出させた。
――友達に、ならないの? 響。
美希の声が聞こえた。
「友達だよ。もう」
――なら、ミキと一緒に。
「でも、自分はいかなくちゃ」
その薄気味悪い空間を、破壊する。
神通力の放出によって、外界へ出た響は、その場所が寮の草原であり、目の前には千早と美希がいる事を悟る。
千早は、その薄桃色の戦闘衣装を身にまとって、美希と対峙している。
その力は、強大な力となっている事が感じられる。もう、彼女を援護する必要は無いだろう。
「千早! 自分、あずささんの所に行くぞ!」
「ええ。――我那覇さん、一人称が『自分』になってるわよ」
「いいさ。これが本当の自分だから」
「そう。貴女は本当に、魅力ある女の子よ」
「ありがとう」
一言、礼を言っていぬ美を顕現し、その背に飛び乗って、あずさの匂いを追う。
匂いを追って向かう先は、寮の奥にある螺旋階段。
その螺旋階段を駆け、続く廊下を走り――そして辿り付くのは、星井美希の眠っていた部屋。
その部屋には、銀髪の女性と、今なお項垂れている、あずさの姿。
「――我那覇、響」
「四条貴音。あずささんを、返して貰うぞ」
貴音が、有無を言わずに動いた。
その手を振り上げると共に顕現される無数の鎖を、響は全てその拳で、粉砕した。
「お姉さまは、もう私の物です。誰にだって奪わせない」
「違うな。人は誰の物でもない。人は一人だぞ」
「貴女が言うのですか。故郷を捨て、全てを捨てた貴女が」
「一人だから――人は誰かと一緒に居る努力をするべきだったんだ」
だから自分は、お前とは違う。
そう言って、響が駆けた。
いぬ美の背を蹴って、へび香を顕現し、貴音がそれを鎖でかき消す。
それと同時にオウ助、ねこ吉、シマ男、うさ江、ワニ子、モモ次郎が貴音に襲い掛かり、それを神通力の力場でかき消した貴音。
「無駄です、無駄――」
そこで、貴音の表情が一瞬乱れた。
貴音の耳に、一匹の擬似生物が噛みついていた。
ハムスターの、ハム蔵。
一瞬だけ動きを止めた貴音へ、響が神通力を極限まで圧縮した拳の一撃を、その腹部に叩き込む。
貴音は吹き飛び、あずさの身を拘束している鎖も、解き放たれる。
あずさの体を抱き留め、そして揺すって起こすようにするが、それでも起きない彼女。
あずさの体が、だんだんと薄く消えていくように感じられた。抱きかかえている感覚も無い。
ただ、力の流れがその場に留まり続けているだけに感じて、響はあずさの最後が近づいていると感じた。
「あずささん……」
「お姉さまの神通力は、そのほとんどが私に移植されました。美希の力に影響を受け続けた、この桜の木の幹を触媒にする事によって」
「今この場に残っているのは、移植し切れなかった燃えカスみたいなもの、って事か」
「はい。これで私とお姉様は、文字通り一心同体。貴女が言うように、人は誰かと一緒になる為には、それ相応の犠牲と、努力が必要なのです」
「それは努力なんて綺麗な言葉じゃあない。ただの逃げだ」
「ではどうすればよかったのですか。お姉様は私と一緒になる事を望まなかった。ならばそれを認めろと?
確かにそれは美談です。それでも、人は欲望があるからこそ、生きて居られる――!」
「難しく考える事じゃない。隣に居ればよかったんだ。ずっと居られなくても、少し離れてしまうだけでも、それで」
「ですがそれでも、お姉様は誰か、他の方へと向かわれてしまう――如月千早の元へと行こうとした」
今、響が抱きかかえていたあずさが、完全に消滅した。
神通力の燃えカスだけが残っている状態から、何も無い……響の腕は、今はもう、誰もいないのだ。
「もう、全て遅かったのですよ。私を待つ者など、どこにもいなくて、私は、もう――正真正銘、一人となってしまった」
だからこんな世界は、壊れてしまえば良いのです。
そう口にした貴音は、その肉体に神通力をまとわせる。
戦闘衣装をまとった彼女は、その強大な神通力を用いて、無数の鎖を顕現し、その鎖が全て、響に襲い掛かる。
擬似生物を同時に八つ顕現する。皆がその鎖を弾いている所で、響がいぬ美を顕現して、その地を蹴らせた。
いぬ美の脚力によって得られた速度と、その背中を蹴って増した加速。
その二つを用いて、響が貴音に向けて拳を振るうと、貴音も同じく拳を振るい、響の拳と重ね合わせた。
神通力同士の、激しい衝突が、二人の髪の毛をなびかせる。
「ですが、お姉様の神通力が――お姉様の想いがあれば、私は生きて居られる! それ以外を犠牲にしても、私は――!」
「駄々っ子の言葉は――もう聞き飽きたぞ!」
「駄々っ子――!?」
「そうだ……お前には、居るじゃないかっ、待ってくれる子達が!」
「どこにいるというのです! 私を待つ者など、どこにも」
そこで、視線の端に――二人の少女を見た、貴音。
亜美と、真美が、それぞれその口に加えていたおしゃぶりを取り外し、涙を流しながら――鳥籠の中で、叫んだ。
『お姫ちんっ!』
その言葉が放たれると同時に、貴音は神通力を弱め――響の拳が、その顔面を捉えた。
「ほら――いるじゃないかよっ!」
最後の一撃は、神通力を弱め、ただ全力で、その乙女の腕力から放たれる、その小さな拳で、貴音を殴り飛ばす。
地面にその体を預け、ただ力なくその場に倒れ続ける貴音。
亜美と真美が居る鳥籠を、響が強引にこじ開け、その二人を解放すると、二人は一目散に貴音の元へと駆ける。
「亜美……真美……記憶が、戻ったのですね」
「うん。お姫ちん」
「亜美たち、ずっとお姫ちんの事、忘れてた……はるるんもそうだけど、死んじゃった後に、全て忘れて……」
「でも真美たち、やらなきゃいけない事、あったんだ。大好きなお姉ちゃん達を、放っておけないって……そう思って」
「ふふ……妹に心配をかけるようでは……私は本当に、情けない姉でしたね」
ホントだよ、と。亜美と真美が笑う。
「……でも、亜美と」
「真美を生き返らせる為に、頑張ってくれてた事を、真美たちは知ってる」
「方法は間違ってても、その想いを、亜美たちは知ってる」
「だからお姫ちんの間違いは、真美たちの間違いでもある」
『一緒に正していこう。三人ならきっと』
「……いつの間にか、大人になっていたのですね。二人とも」
貴音が、亜美と真美の手を取り、そっと目を閉じた。
貴音の、膨大な神通力が、外界に放出され、それが解き放たれていく。
風と共に舞っていく神通力の力場が、まるで降り注ぐ光のように感じて、響はその光景を「綺麗だな」と呟いた。
「四条貴音。あずささんが欲しいって気持ちと、この二人を思う気持ち。どっちも本心からなんだよな」
「ええ。お姉様を愛し、妹たちを愛した。この気持ちに、嘘偽りはありません」
「なら貴音は、もう一人じゃない。その努力をしたんだ。隣に、ずっと皆、居てくれるさ」
神通力の光の中に、ふとあずさが微笑んだ気がした。
その微笑みと共に、貴音は一筋の涙を流しながら、亜美と真美の事を見据え――そっと、目を閉じた。
三人は、完全に姿を消した。
自らを形付ける神通力を完全に放出した貴音と、心残りを片づけた亜美と真美は、その役目を終えたのだ。
罪は消えない。でも三人と一緒に居る事で、四条貴音は幸せとなる。
その幸せを少しだけ羨ましいと思える。
我那覇響は、そう思いを馳せながら、その場に倒れこんだ。
「千早……後は任せたぞ」
少しばかり、眠る事にしよう。
希望を抱く歌姫に、響は一人、祝福を願って。
如月千早と星井美希は、しばしその場を動かなかった。
互いに互いの力量を、その場で計っていたのだ。
神通力の量は、元より千早の方が上。更に上乗せて、春香の神通力が千早に流れ込み、それが加算されている。それが美希には感じ取れた。
問題はその戦闘技術だ。美希は超攻撃特化の戦闘技術を持ち得ている。そのレベルは千早のような若年者を軽々と捻り潰す事の出来る力を持つ。
「お前の名前、聞いて無かったね」
「如月千早」
「千早さん。そう、いい名前だね」
殺す事が出来て嬉しいよ――そう美希が呟いた瞬間、二人は動いた。
美希が片手を振り上げると、トライアングルから放たれるエネルギー波が、千早へ襲い掛かる。
だがそれを、自身の前面に使い捨ての障壁を生み出すことでかき消し、自身の持つマイクスタンドに力を込めた。
神通力が薙刀のように形状を変化させて、それを思い切り振るう。
美希の鎌がそれを受け止めるが、それだけで衝撃波が周り一帯を覆うほどであった。
「あはっ、春香の力が、流れ出てくるみたい。とってもキラキラしてる」
「無駄口はその辺にしておきなさい」
「そうだね。今は千早さんを殺すことに集中するよ――!」
美希の鎌と、千早の鉈が切り結ばれると、美希はエネルギー波を連弾として放つ。
そのエネルギー波を全て避け切った千早は、一瞬で腹と喉に力を込めて、それを解き放った。
暴風のような威力で放たれた風が、美希に襲い掛かる。
暴風に押されて地面に叩きつけられ、また綺麗な頬が切れて、血を流す光景が、千早には見て取れた。
「あは――ミキに血を流させたのは、千早さんが初めてだよ!」
「光栄――ねっ!」
歌声の連弾。
暴風が続けて美希に襲い掛かるが、それを全て障壁でかき消した美希が、地面を蹴って上空を舞う千早に向けて、鎌を振り込んだが、それと同時にエネルギー波を放つ。
千早の頬と髪をかすめながらも、千早は歌う事をやめない。
暴風の連弾と、エネルギー波の連弾を放ちながら、二人がそれぞれの獲物を振り切った。
血だらけになりながら、二人が音速の動きで斬り合う中、如月千早の中に居る天海春香が叫ぶ。
『美希、貴音さんはもう散った! 亜美と真美だって、あの響ちゃんだって、貴女の元から離れた! 今貴女は本当に一人なんだよ!』
「しつこいの! 誰もいないなら、それでもいい! ミキはただ戦うだけ、壊すだけ!」
「本当に――貴女はこの世界を、何も知らないのね」
「何も、知らない?」
「不完全でも楽しい事なんていくらでもある。それを知ろうとも、楽しもうとしなかった貴女は、本当に愚かだわ」
「全部遅いんだよ! ミキにはもう何もない! 友達を――愛した人を亡くして、それでミキに何をしろって言うの!?」
そこで千早が、動きを止めた。
『遅くなんかない。遅くなんか、無いんだよ』
「ええ。遅くなんかない。貴女の罪は消えないけど、貴女はまだ間に合う。この世界を――感じる事くらいは、出来るのよ」
彼女の言葉に、美希も動きを止め――だがそれでも、彼女の言葉は止まらなかった。
「……遅いよ。あの人を殺す前だったら、全部受け止められた。間違いも正せた。でも、もう……あの人は」
あの人と語る美希。千早は『あの人』を知らない。だがそれでも。
「私が貴女の罪を受け止めるわ。――私も、アイドルなのだから」
「もういいよ! もう全部遅いんだから、だから!」
鎌を振るう美希と、それに応じる千早。
千早は、二、三撃、攻撃をいなすと――千早は諦める様に、その鎌を、その掌で受け止めた。
「一緒に行きましょう。美希」
「千早、さん……?」
「一緒に罪を償いましょう。そして、生まれ変わって、この世界を、この不完全な世界を愛しましょう」
「千早さん……!」
「私が貴女を受け入れる」
『私も、一緒に』
神通力を一斉に放出し、美希と自身を覆う千早。
彼女が何をしようとしているのか、美希には悟る事が出来る。
「一緒に――いてくれるの?」
「ええ。最後は一緒よ」
「どうして……美希をそこまで許してくれるの? 春香を、千早さんの友達を、仲間を、殺した美希に――!」
「どうしてかしらね。……ねぇ美希」
「何、かな……?」
「私は、かつて愛した弟を亡くした事がある。
弟を救えなかった事で、両親に呪われ、こんな世界に救いなんか無いって思ったわ。
でもそこで、春香に出会えた。この765プロで、皆に出会えた。
それはとても、素晴らしい事だわ。
救いは無くても、新たに道を選ぶことが出来る。
私はそれを、皆に教わったわ」
――だから次は、私が貴女に教える番なのよ。
千早はそういって、美希の頬を手に取って、その唇と、自身の唇を重ね合わせた。
――一緒に、この不完全な世界を、愛しましょう。
千早はそう言って、美希の強大な神通力を全て吸い上げ――それを外界に放出した。
影も形も無く消えていった二人と、その二人がいた軌跡を伝える様に、全世界へ降り注ぐ、神通力の光。
それがまるで、しんしんと舞い落ちる雪のように見えて、世界中の人々は、今全員、空を見上げた。
今、眠り姫が二人、この世を去った。
エピローグ
水瀬伊織は、世界中を渡り歩いていた。
765プロが壊滅状態となり、独学でアイドルとしての力を学んだ伊織は、その後偶像機関指定のアイドルに任命された。
だが、彼女はそれを拒み、世界を渡り歩く個人のアイドルとして活動をしていた。
今いる場所は、とあるスラム街。人々の心は荒れ果てているが、アイドルが現れるとその存在を崇め、そして救いを求める。
伊織はその場所で歌う。踊る。その魅力を使って、人々の心を潤す。
最後に、そのスラム街を律する男と会談し、流通の確保と労働問題の解決を図り、最後に偶像機関に連絡をし、資金援助を取り付ける事まで忘れない。
そこまでしてようやく人々が救える。
ただ人々の心を癒すだけでは無く、こうした現実的な解決策を持ち込む事こそ、人々の平和に繋がるのだ。
そして、スラム街を去る前に、一つの家を訪ねた。
その家は、病弱の両親と、五人の兄弟によって生計を立て、ひもじいながらも生活を続ける家庭だった。
高槻やよいの、家族だ。
高槻やよいの家には、偶像機関から資金援助が行われている。
だがそれも雀の涙程度に過ぎず、育ち盛りの子供たちを満足させるには至らないのが現状だった。
伊織はやよいの両親と会い、彼女の末路を話した。
薬物投与によって精神を殺され、最後には伊織の手によって死を望んで、そして、伊織がその命を終わらせてしまった事。
その事実を聞かされ、両親は伊織を一瞬恨むような視線を見せながらも、最後には頷き、彼女に一言。
「娘がご迷惑をおかけしました」
そう、謝罪の言葉を口にした。
「私は、何も救えなかった。娘さんの命も、そして――大切な人たちも。だから私には、お礼を言われる筋合いなど、無いのです」
伊織はそう言って、高槻家を後にした。
菊池真は、あの事件の後に、髪を伸ばし、そして女性らしい振る舞いを覚える事により、とある男性と婚約した。
幸せそうに見えて、伊織は「おめでとう」と言葉にするが、彼女は言うのだ。
「ボクは――雪歩を幸せにする事が出来なかった。そんなボクが、幸せになる事は、正しい事なのかな」
その言葉に、伊織は少しだけ考えて、思った事を口にする。
「人が幸せになる権利は、誰にでも平等に与えられている。
貴女が雪歩の事を思うなら、雪歩の分まで幸せになりなさい。
それが女性である、貴女の努めよ」
真はその言葉に、納得はしないまでも、それでも伊織の言葉に頷いた。
彼女はこれから、幸せになっていくのだろう。
その先にどんな困難があろうとも、伴侶と共に。
我那覇響は、偶像機関指定のアイドルとして、疫病に苦しむ人たちを救う為に活動を開始した。
彼女自身のヴィジュアル能力に加えて、偶像機関が所有する医療団体の活動によって、疫病が蔓延する地域の発生は抑えられている。
その分彼女の労力は凄まじいものであるだろうが――
「なんくるないさー。
苦しんでいる人たちが救われていく。
一人で苦しまなくたっていいようにする。
それが、自分の仕事だから。
皆が幸せになってくれれば、それで、自分は嬉しいぞ!」
彼女はそう言って、再び世界を巡り、そして誰かを救うのだ。
一人称が『自分』になった事によって、魅力が増したと感じた伊織は、どこか彼女を、羨ましいと思えたのだ。
伊織は街中を歩き、そして自問する。
――私は、果たして幸せになれるのだろうか。
人々を救う、人々に笑顔を届けるアイドルとして生きる事を決めて、やよいに最後、お願いされた言葉。
『伊織ちゃんはいつでもハッピーで居てね』
あの言葉を思い出して、考えるのだ。
――罪は消えない。その意識は消えない。
――星井美希を起こしてしまった罪は、その罪によって失ってしまった命は、取り戻せない。
――その思いの中で私は、はたして幸せになれるのだろうか。
――アイドルとは何なのか。その答えを見つける事は、出来るのだろうか。
答えは浮かばない。
自分にその価値は無いとして、足を止め、空を見上げたその時――
「ねぇ千早さん。ミキこーんな踊り、踊れるよ。ほらっ♪」
「ふふ、美希は本当に、ダンスが大好きね」
「千早ちゃん。もう少しでお昼になるし、今日のご飯は何にしようか」
「そうね……春香の作る料理なら、何でも良いわ」
声が、聞こえた。
振り返って、その少女たちに、視線を向ける。
涙を流し、そして手を伸ばす。
――罪は消えないけれど。
――アイドルとは何なのか。
――そのちゃんとした答えも、まだ分からないけれど。
――それでも手にしたい幸せはあるものだ。
おわり
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乙です。
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