※完全オリジナル、地の文有。
初投稿で色々と至らない点があると思いますがどうかご了承下さい。
書き溜めたので徐々に投下して行きます。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1412704595
ーー勤務歴3年ほどで、俺は仕事を辞めた。
思えば俺なりに必死にやって来たと思う。中流の大学に入学し、何社にも落とされる中めげずに就活を続けようやく内定を勝ち取った。
不動産業、それが俺の就いた仕事だった。
今思えば何故俺があの仕事をしていたか分からない。
ーー俺は一体、何がしたかったんだ?
深夜近くまでなど当たり前な残業。ようやく帰宅してもやることは寝るだけ。そうして翌日も朝早く出社し、モデルルームだのなんだのを売る為に必死に営業に回る。数少ない休みは不定期で、それすら潰れる日も多くあった。
最初は契約を取った時にやり甲斐を感じた。今までの苦労が報われた、と。
しかしそんな喜びはすぐに次の業務の数々に打ち消される。
そうしていくうちに、心は確実に磨耗し、すり減っていった。
ーー俺が弱い事はわかっている。
小、中、高、大学とずっと運動部でやってきた。だから精神的にも肉体的にも自分は周りより幾分かは強い自信があった。
ただ、それはただのちっぽけなプライドだったわけだ。
俺なんかよりキツい思いをしながら仕事をしている人だっているだろう。むしろそれが圧倒的だ。多数派だ。
そんな中、俺はこうして仕事を辞め、社会のレールから逸脱したのである。
ーー
もうやけクソだった。
気付いたら辞意を表明し、辞表を出し、手続きを済ませ退社していた。
それからは少しの解放感に胸を躍らせ、普段ならできない事をやっていた。
ギャンブルや酒、買い物、テレビゲーム、周辺や遠くへ旅もした。
しかしそれら全て出尽くすと、今度は不安や焦燥に駆られる。
ーー俺はこんな事をしていていいのか?仕事は? 未来は?
幸い前職の給料の貯金がまだ残っている。
しかしいつまでもこんな生活をするわけにもいかないことは重々わかっていたのだ。
そこで、俺は地元に帰ることにした。もうこんな都会にいる理由もない。何故かここでまた別の仕事をする気には未だになれなかった。
「ーーこれで良し、と」
予め借り部屋の家具、荷物等は引越し屋に運搬してもらった。
部屋の解約その他諸々も済ませた所だ。
後は地元に帰るだけ。
俺は駅を乗り継ぎ、新幹線に乗車して、片道3時間程かけ帰省したのであった。
ーー
「ーー帰って来たのはいいが、何もすることねぇ…」
それから数日経ち、俺は見事なまでの穀潰しと成り果てている。
実家に帰って来て、まずは両親に仕事を辞めた訳を説明した。
二人は苦い顔をしながらも、俺の身を案じて何も言わなかった。てっきり怒鳴り散らされるかとばかり思っていた俺は、なんだか申し訳ない気持ちで一杯になった。
そうして時間だけが流れるーー
「暑いな…」
真夏の炎天下。
なんだか最近やけに独り言が増えた気がする。
今日は職業安定所に来ていた。
しかしどうもまだ働く気にはなれない。自分が怠け者の底辺なのはわかっている。しかし興味を惹かれる求人がなかったのだ。
ーー選ばなければ、何かしら仕事はある。
だが本当にそれでいいのか?
またあんな仕事場だったら?
地元は中々の田舎。選ばなければあると言っても、その総体的な数は都会のものと比べれば圧倒的に少ない。
はぁ、と一つため息をつく。
両親にこの事を帰って話せば、またあの苦い顔をされそうで、それを想像するとなんともいたたまれなくなった。
「なんだか帰りたくねぇな」
高校時代に通学用に使っていたバイクにまたがる。
時刻は正午を回っていた。
「寄り道でもしてくか」
なんだかまだ帰りたくはなかったので、道草を食うことにした。
ここが小学。
ここが中学。高校は隣町だからーー
何故か感傷的な気分になり、俺は自分が生きてきた道を回顧するように地元を周っていた。
思い出すのは学生時代、級友達の顔、部活での思い出など。
ーーあの頃は良かった。
世間体など気にせずに、目の前の事に取り組んでいれば良かったし、それが楽しかった。
恋愛、部活、勉強。
その全てが今となっては懐かしい。
遠く、記憶の片隅に置かれたセピア色の瞬間たち。
それは今になって俺の中で再び輝きを放っては、胸を締め付る。
「ーー帰るか」
やがてコンビニに着いて一服する。
煙草をふかしながら、家に帰ると一つ決心した。
そうしてバイクにまたがり、キーを回しエンジンをかけて発進する。
そういえば。
バイクを走らせながら、俺は未だ追憶の中にいた。
「ーー見えた」
国道を上って行くと、彼方に見える小高い丘陵地のてっぺんに洋館がチラリと顔を出す。
「どうせ帰っても暇だしな」
追憶は今、中学時代に遡っている。
ーー心霊スポット、いわゆるどこにでもある噂だ。
あれは確か夏休み、地元の仲間達と肝試しに行った時の話。
あの彼方に見える洋館に俺達は夜中突入した。
いや、突入と言うのは語弊があるかもしれない。何故なら中には入っていないのだ。不気味に佇む洋館を前にして俺達は怖気付き、遂に引き返したのである。
行ってみるか?
高鳴る鼓動。冒険心がくすぐられる。どうせ帰っても暇なのだ。それにまだ15時を回ったところで、家族に心配をかけることもない。
なんだか少年の頃に戻ったような気分で、俺は洋館に向けバイクを走らせた。
「ーーあった」
林に覆われた道を上って行くと、やがて拓けた頂上に到着する。
頂上までは舗装された道を行けばいいだけなので、簡単に来ることができた。あの頃と変わりない状態で、あの夜の記憶がフラッシュバックする。
「相変わらずデカイな」
西洋風の広大な洋館。
あの頃と変わらず、不気味な雰囲気を纏って鎮座している。
ホラー映画の舞台と言われても何ら違和感はない。
バイクを止め、洋館の入り口前に立つ。思わず見上げると、その大きさ、異質さを改めて実感できた。
建物自体は年季が入り、とても誰かが住んでいるようには見えないし、そうであるようなことは聞いたこともない。
「廃墟、なんだよな?」
建物自体には人が住んでいなくても、誰かの管理下にあるかもしれない。
もしそのような状態だった場合、許可なく立ち入れば法を犯すことになるのだ。
しかし。
「ーーどうせただの廃墟だ」
俺の中の冒険心が勝り、その危惧を彼方に押しやる。
お邪魔します、と心の中で唱え、古びた重い扉のノブに手をかける。
「ーースゲーな…」
施錠はされていなかった。
恐る恐る扉を開いていき、遂に俺は洋館内に足を踏み入れる。
そして辺りを見渡してみた。
ーーもしや、誰か住んでいるのか?いや、そんなはずは…
洋館の外見は寂しく、すすけて、ジメジメとして陰鬱。人がいるはずがない。
ならば、これは何だ?
外見とは真逆の洋館内。大理石の床は新品のようにピカピカで、誰かが数時間前にワックスでもかけたのかと思わせるくらいに、見たところチリ一つ落ちていないし、輝きを放っている。
エントランスはただっ広く、正面に
は階段。俺が立つ入り口から階段の最上まではいかにも高価そうなレッドカーペットが引かれている。
そしてフロアには何個かの扉。
もし誰かがいるならば、俺はただの不法侵入者だ。
しかし冒険心に煽られた俺は、自然と足を一番手前の部屋に向け進めていた。
ギギギ、と重苦しい音を立てて扉が開く。
「ーーここは?」
自分から見て左側、一番近くにあった部屋に入る。
縦に長いテーブルが端から端までずっと続き、その前には幾つもの椅子が不気味な程にズレ一つなく整然と並べられている。
「食堂か何かか?」
まるで洋画で見たような富豪の豪邸にある食堂を連想させる。
長いテーブルには真白なテーブルクロスが敷かれていて、そこには皺や汚れは一つもない。
ーー本当に誰かが住んでいるんじゃ。
今のところ人の気配はまるで感じない。しかし内部の様子は廃墟とは考えられないほどに整い過ぎている。
家主はただ外出していただけだったら?
遅すぎるが、ここに来て初めて後悔の念が湧く。
「ーーさっさと出よう…」
本当は廃墟なんかじゃなくて、誰かが住んでいるか管理下にあるんだ。
通報されたらたまったもんじゃない
懺悔の念に駆られ、さっさと洋館を出ようと踵を返した。
ーーやっちまった。
その瞬間であった。
食堂らしき部屋、俺が入ってきた目の前の扉が開いたのだ。
ギギギ。
軋む音を立て開かれた扉。
無職になり、加えて俺は前科者に成り果てるのか。
何度も己に叱責、罵倒を浴びせるが、それも今となっては後の祭り。
俺の馬鹿野郎。
遂に扉は全て開かれた。
ーーそこに立っていた者。
「ーーこんにちは。何か御依頼ですか?」
妖艶な美女の銀髪がサラリと揺れた。
「ーー何か御依頼ですか?」
妖しげな微笑を貼り付けたまま、銀髪の美女は俺に問いかけた。
幽霊か?
無礼甚だしいが、思わずそう感じてしまった。
スラリと伸びた背丈、手足。
白いワンピースに薄手のカーディガンを羽織る真っ直ぐなロングヘアー、銀髪の女。
銀髪と言ってもそれは白みがかっていて、粉雪のような儚さを感じさせる。
瞳は淡い朱色がかっている。
その浮世離れしたおぼろげな妖艶さに、この世ならざる何かを感じたのだ。
あ、あ…
開いた口が塞がらない。
声にならない声が出るのみ。
依頼って?
不法侵入した俺を咎めないのか?
あ…あ
開いた口を必死に動かし、言葉にしようとする。
「ーーご、ごめんなさい!」
殺されるとさえ思った。
だから最初に発したのは謝罪の言葉だったのである。
「はい? 御依頼があってここに来られたのでは?」
頭を垂れる俺の頭上から、涼やかな声が降り注ぐ。
だから、依頼って何だ!?
ここは正直に訳を話した方がいいだろう。それ相応の罪を犯したのだから。俺が全てにおいて悪い。
ゆっくりと頭を起こし、俺は正面の女を見据える。
淡い朱色の瞳に吸い込まれそうになるが、なんとか邪念を振り切り、俺は誠心誠意で訳を話した。
「ーーなるほど。そうだったのですか」
通報されると思った。いや、そうされるのが至って自然な流れだろう。
だが、女は声を荒げるような素振り一つ見せずに、涼しい微笑を浮かべている。
「確かに、廃墟と思われても仕方ありませんね。しょうがないと思います」
そうして俺を責めないどころか、同情さえしているのである。
「本当にすみませんでした」
今となっては後悔や申し訳なさで胸が一杯だ。
20代半ばにして、一時の激情に身を任せるのは危険だとようやく学んだ情けない自分。
「確かにそれは悪い事ですが、管理が不届きだった私共にも非はありますので、おあいこということでどうでしょうか?許します」
そして俺の罪を赦す女。
一体何者だ?
失礼にもそんな事を思ってしまい、目の前の女に釘付けになる。
「外装もリフォームする必要がありますね…」
俺の視線を気にする様子などまるでなく、女は独り言を何かブツブツと呟く。
ーーそれから。
「なんだか、不法侵入者の俺に茶まで出して頂いて…本当に申し訳ないです…」
どういう流れか、俺はいつの間にか長いテーブルの片隅に座り、高級そうな紅茶を啜っている。
「それはもういいのです。ここで会ったのも何かの縁ですし」
そうして女は俺の正面に同じように腰掛け、紅茶を口に含む。
女の器の大きさに度肝を抜かれた。
そして俺がもし泥棒だったらどうするのかと、逆に女の身を案じる。
「…今日も暑いですね」
幾ばくかの沈黙の後、女は世間話を始める始末。
彼女の特殊な雰囲気にあてられたのか、ゆったりとしたペースに乗せられて、俺も自然と口を開いていた。
「ーーそうですか。仕事をお辞めになられて、ご実家があるこの地へ帰省なされたと」
自分でも分からない。女の不思議な雰囲気やペースに導かれるように、俺はある事ない事を次々と捲し立ていた。我ながらなんと情けない事か。
「お気持ち、お察しします」
なんだか泣きたくなってきた。
なんと弱い人間だろう。
「ーー私はここに数年前に移り住んで来たのです」
ゆっくりと、女は虚空を眺めがら語り始める。
「ここに来る前は、私も仕事がなくて、途方に暮れていました」
どうやら昔からこの洋館に住んでいた訳ではないらしい。
「今は何をされているんですか?」
「それはーー」
そこで女の表情に少し影が落ちたように見えた。
何か人に言えない都合でもあるのだろうか?
「あ、すみません。話せないことなら大丈夫です…厚かましくしてすみません」
「あ、いえ! …全然大丈夫です」
少し間が空いてから、やがて女は気恥ずかしそうにしながら言葉を紡ぎ出した。
「ーー今は、小説とかエッセイとか、レポートを書いてます」
小説家なのか?
「凄いですね! どんな本を?」
「主に怖い話とか、伝承に関する個人的見解とか、そういう話を書いています…」
俯きがちにもごもごと呟く女。
ホラー小説を書いているのか?
「何て本を? 読んでみたいです」
生まれてこの方読書とは無縁な人生を送って来たが、純粋に尊敬の念が湧いて、興味も湧いた。
「それはーー」
幾つか著書のタイトルを女は口にする。それを取りこぼさないよう頭の片隅にインプットさせた。
真っ赤な西日が窓を通して部屋に降り注ぐ。
「ーー今日はありがとうございました。身内以外とお話しするのは久しぶりで、なんだか凄く楽しかったです」
「いえ、こちらこそ勝手に家に入り、無礼を働き本当に申し訳ありませんでした…」
あれから話が思いのほか膨らみ、盛り上がった。気づけば部屋に置いてある高そうな古時計は18時過ぎを差している。
真夏は日も伸びて、真っ赤な西日はさんさんと燃え盛る。
二時間を過ぎる間ここで話していたのか。
時間はあっという間に過ぎたが、俺達はそんな長い間とりとめのない話をしていたのだ。
「じゃあ、本当にすみませんでした…俺はこれで失礼します」
夕餉の時間も近い。これ以上長居するのは迷惑だし、家族も心配するだろう。
「もうその事についてはいいのです。私のような者と話して下さりありがとうございました」
「いえいえ…こちらこそ」
そして俺は洋館の入り口を抜け、外に出る。
玄関まで見送ってくれた女を背にして、バイクにキーを挿す。
あ、そういえば!
そこで、女のそう言う声が背後から押し寄せ、俺はそちらへ振り向く。
「ーー今更ですが、お名前聞いていませんでした」
そうだった。
色々とどたばたがあって、何故か最初に交わされるであろうやり取りを俺達は忘れていたのだ。
「ーー神山龍一です」
「龍一さんですね…」
女は俺の名前を噛みしめるように何回か小さく呟いたように見える。
そして。
「ーー私は、咲夜雪子です」
咲夜雪子。
それは彼女が醸し出す雰囲気にぴったりな、美しい名前だった。
「龍一さん、またいつでもここにお越し下さい。色々なお話しを聞かせて下さい」
バイクのエンジンをかけて、俺は洋館を後にする。
女、雪子のその言葉には、彼女の願望も幾らか含まれているように思えた。
不法侵入がもたらした奇妙な出会いは、俺をさらなる奇怪な世界へ誘うキッカケであったことにその時は気付きもしなかったーー
「ーー使用人、お手伝いのバイト、か…」
俺の目はアルバイト情報誌に注がれている。
あれから翌日。
相変わらず仕事にありつけない俺は、せめてアルバイトぐらいはしないと家に居づらいと、駆り立てられるように書店にあったフリーペーパーを手にとっている。
「面接の後、採用の場合のみ連絡致します、か…」
書店の片隅、無料の情報誌コーナーに積まれた求人誌。
ペラペラとめくってだいたいを流す。
やれ笑顔のある職場です…だの、人との触れ合いを云々…だの、見飽きた売り文句ばかりが目立つ。
そういう職場に限って何か裏がある、黒い雰囲気を感じる俺は心が荒んでいるのだろうか?
前の職場の嫌な思い出がリフレインの様
に何度も押し寄せるが、頭をブンブンと振って必死に振り払った。
他人が見たら変人この上ない。
「ーーいっそのこと、この使用人?だか手伝いにでも応募してみるか?」
ペラペラとページを戻して、数刻前気になった求人項目をもう一度眺める。
それにしても、使用人ってメイド?執事の事も言うんだよな?
その求人の仕事内容が記された項目には、
「清掃、炊事、洗濯、その他雑務。未経験者歓迎、住み込み可。男性も可」
などとある。いわゆる家政婦みたいなものであろうか。男でも大丈夫らしい。
(給料も悪くないし、候補にしておくか)
そうして求人誌をパタリと畳んで、バッグの中に放る。
さてと。
書店に来た目的は求人誌を漁る為もあるが、別の目的もあった。
ーー
(都市伝説はどのようにして作られたか…ね)
一冊の著書を手にとって、めくってみる。
著者の欄には、
「咲夜雪子」
の文字。
昨日、俺の過ちから生まれた出会い。
儚げな銀髪の美女。
あの涼やかで美しい微笑が脳裏に焼きつき消えなかった。
そんな彼女が書き溜めた一冊の本を見つける。
それは以外と容易に見つける事ができた。その手の界隈では有名ということなのであろうか?
難しい言い回しで連ねられた内容に、俺の容量に乏しい脳内は悲鳴を上げる。
そんな中なんとか内容を噛み砕いていくと、
・都市伝説と言われる伝承についての概要
・有名な都市伝説の紹介
・それらが生まれた時代背景と、繋がり
などが彼女の推察、個人的見解と共に記されている。
この手のエッセイやレポート系の本というのは初めて読んだと言っても相違ないが、これはこれで中々面白かった。
(都市伝説…か)
気がつくと俺はその本を手に取り、レジへ向かっていた。
「ーーあの、こんにちは」
なんという偶然か。
昨日の彼女の著書を購入し、俺は書店を出た。
入り口の自動ドアが開いた瞬間、目の前に立っていたのは彼女、咲夜雪子だったのである。
「ーーいやー、なんと言うか…偶然ですね」
場所は変わって、田舎町唯一のカフェで俺達は昼食を摂っている。
雪子の住む洋館から書店までは以外と近く、彼女は執筆の息抜きに暑い中わざわざ歩いて来たとのことだった。
「ーー車はあるのですが、あまり運転は得意じゃなくて」
一応自家用車は持っているらしかった。
書店で出くわし、彼女の方から昼食をどうかと誘われたので、彼女をバイクの荷台に乗せてここまで来たのであった。
たわいない話をお互いに交わしていると、やがてそれぞれの昼食がテーブルへ運ばれる。
会話も程々に俺達は昼食を片付けていった。
ーー
「それではまた、いつでもいらして下さい」
昨日も聞いたような言葉が雪子から発せられた。
今日一番日が照っている昼下がり、俺達は別れた。
俺はバイクを押しながら歩き、彼女を途中まで見送る。
寂れた神社の前に差し掛かると、やがて雪子はここまでで大丈夫です、と静かに告げたので、そこで別れた。
「ーーこんな所に神社なんてあったんだな」
彼女が遠くなるまでその背をぼーっと見送ってから、ふいにそんな事を口に出してみる。
ガキの頃に地元周辺はよく駆け回ったものだが、ここに神社があったことなどすっかり忘れていた。
田んぼ道の路肩にバイクを停めると、鳥居を潜って境内に足を踏み入れてみる。
ーーまるでここだけ時間が止まっているようだ。
そんな印象を受ける、物寂しい神社。
田んぼが周りを取り囲み、その間にポツンと存在する。
敷地は狭く、本殿らしき小さな社が一つと片隅に小祠が建つのみで、人の往来をまるで感じない。
「ーー良い仕事が見つかりますように」
ここに来たのも何かの縁とばかりに、小銭を一つ賽銭箱に放ってから願いを口に出す。
そして数秒間手を合わせた後に一礼して、踵を返した。
乾いた地面を踏みしめ、来た道を引き返し、再び鳥居を潜ろうとした。
「ーーその願い、叶えてあげましょうか?」
その刹那。
シャン、と鈴が鳴ったように聞こえて、俺の頭の中に誰かの声が共鳴する。本能が危機を察知し、反射的に振り向いた。
「ーーさあ、どうする?」
ーー最後に俺が見た幻影は、狡猾な笑みを浮かべた、耳と尻尾が生えた巫女服姿の若い女だった。
ーーさん、龍一さん!
誰かが俺を呼ぶ声がする。
永遠と、ずーっと続く暗闇。
それはまるで膨張と縮小を繰り返す広大な宇宙の中。
「龍一さん!」
しかし、漆黒の闇に一筋の光が差すと、それはやがて淡い色に変わり、薄くなり、そうして…
「ーーッ! ここは・・」
真夏の強い日差し。
開かれた双眸。思わず目を細める。
覚醒し意識や視界が明瞭になると、やがて記憶も呼び覚まされる。
ようやく完全に覚醒した時、俺の顔を上から覗き込む者の影が直射日光を遮った。
「ーー雪子、さん?」
「大丈夫ですか!?」
俺の顔を覗き込む雪子の姿がそこにはあった。
気付けば俺の頭は硬いコンクリートに正座する雪子の両腿の上に置かれている。
「ーーすみません、起きます」
「ダメです! もう少しこのままで…」
申し訳なくなって、体を起こそうとするが、彼女にそれを拒まれた。
ーー
「ーーごめんなさい。熱中症ですかね…」
神社の境内で少し休んだ後、だいぶ楽になった俺は雪子の住む洋館で引き続き休ませてもらっていた。
彼女の話によれば、何か嫌な予感めいたものを感じたので引き返したところ、俺が境内の外、鳥居を出た場所で倒れていたとのことだ。
「ーー龍一さん、何か倒れる前におかしな事にあったりしませんでしたか?」
雪子の私室らしき広い部屋内で一通り彼女は状況説明を終えると、そんな問いを俺に投げかける。
おかしな事…
倒れる前の記憶を、パズルのピースをはめるように一つずつ丁寧に埋めていく。
そういえば。
いや、あれはもしかしたら熱中症で幻を見ただけなのかもしれない。
だけど。
ただの陽炎や蜃気楼めいたものならともかく、幻が話しかけて来たりするのだろうか?
あれは幻ではなく実在していたのでは?
あの声は?
ひたすら俺の顔を伺う雪子。
信じてもらえる筈がないが、一応話すだけ話してみるか。
俺は気絶する前に見た幻のような存在について、覚えていること全てを彼女に吐き出した。
「ーー私は物書きですが、実はもう一つやっている仕事があるのです」
俺が一連の事を洗いざらい伝えると、雪子は何の脈絡もない話を切り出した。
信じてもらえなくても構わない。ただ、龍一さん、あなたにそれが起こった以上私は説明する義務がある。
と前置きを置いて。
「ーーこの世には科学では未だ解明できない現象があります」
一体どういうことであろうか。
「私達はその現象を、超常現象、超自然現象、などと呼んでいます」
ここに来てオカルト話か…
「私達はそれを研究し究明、解決するための仕事をしています。
ーーそう、ここ、超自然現象対策室で」
どういうことだ…?
今雪子が話した事。
俺の脳内は処理可能な情報量をとっくにオーバーして、パンク状態に陥っている。
超自然現象対策室? 解決? 研究?私「たち」?
呆然とし、次から次へ聞きなれない単語が浮かんでは消え浮かんでは消え、何も返答する事ができない。
それを察したのか、彼女は更に続ける。
「ーー私の本は、いわばその仕事の結果で得た副産物とも言えます。
私達は、私は、それら超自然現象を解決し、二度と繰り返されぬようこの本に封じ込めるのが使命なのです」
そう言って雪子はテーブル上に置いてあった赤いカバー掛けの本を掲げる。
「ーーごめん。なんだかさっぱりわからない」
反射的に、至極真っ当な感想が自然とこぼれた。
「それは当然だと思います。しかし龍一さんが体験した事象は、恐らくそれら超自然現象の可能性があるのです」
雪子はそう言うと、広い部屋内にコの字状に設置された本棚の一つから、分厚いファイルを引き出す。
そうしてテーブル上にドサリと置くと、必死な面持ちで一ページずつ食い入るように確認してはめくって行く。
「ーーありました」
「化狸、通称マンハント。
美しい女人の姿で現れ、誘惑などで気をそらせ、人の生気を吸い上げると言われている。対象はいずれも男性のみで、いずれのケースも被害者は命に別状なし。被害を受けた者は皆一様に気絶し、数分、数時間後に目を覚ます。なお、気絶前の記憶の欠如等は個人差あり。大抵は夕時、1人でいる男の前に現れている。完全に人の姿にはなれないようで、いずれも狸の様な耳と尻尾を付けたまま現れる」
更に、雪子はテーブルの引き出しから、数枚の書類を取り出した。
「最近、化狸によるものと思われる被害が増えています。これも、これも、これも。解決依頼もこのように増えています」
そして、龍一さんもこの中の一人になってしまったと思われます。
と補足する彼女。
「…俺は、死ぬんですか? いや、死ななかっただけマシか…」
「そうですね…超自然現象の中には、被害にあった人を、現象が見える見えないに関わらず何らかの災厄によって死に追いやる恐ろしい物もあります」
俺はまだ運が良かったということか?
正直未だ信じられない事だが、彼女の態度には有無を言わせない様な頑なさがあり、俺はこれが現実であるということを実感した。
「それじゃ、俺はこれからどうすれば?」
問題はそれだ。超自然現象だとか超自然現象対策室だとか、封じ込めるだとか、そんな事は今は置いておいて、俺はどうすればいいのか。それしか頭にない。
「それなんですがーー」
雪子はそう言うと、黙ってしまう。
もしかして打つ手がないのか?またあの幻だか化狸だかマンハントとか言う奴に襲われるのか?
「ーーこの通りです!」
いきなり彼女はそう叫ぶと、目にも止まらぬ速さで頭を深く下げた。
「ーーえ? 頭を上げて下さいどうしたんですか!?」
もしや俺は死ぬ運命にあるのかーー!?
ボソリと、何か呟く声が確かに部屋に響いた。
「ーー現象解決の為に、どうか協力してはもらえないでしょうかーー?」
「ーーそれで、お姉、この男の人は誰?」
「マンハントの被害に遭われた神山龍一さんです」
雪子の衝撃的な話を受け、あれから翌日のこと。
俺は再び雪子の自宅である不気味な洋館、彼女の私室に召集される。
未だ超自然現象については信じきれている訳ではないが、昨日彼女に頭を下げられ、化狸による事件解決の為に協力する事を承諾してしまった。
正直、後悔の念が強い。
場の雰囲気に流されやすい俺…
「ーーちゃっかり連絡先まで交換してるし。どこの馬の骨かも知らない男にお姉は…危機感がないのよ!」
そして今日は新たに初見の女が1人。
ーー咲夜桜子。
部屋の壁に背をもたれ掛けて俺を好き勝手言うこの女は、どうやら雪子の妹らしい。ここに来た時雪子から今日は彼女が加わるという説明を受けたのだ。
「桜子、そんな事言ったら失礼よ! 私達に協力して下さるの!」
「だってさー、絶対この人お姉に下心持ってるよ?」
妹、桜子は俺の出身校に通う高校2年生らしい。今日は日曜。つまり学校は休みだからここにいるということか。
「ーー下心…そう、なんですか…?」
2人が話す光景をただ傍観していると、いつの間にか雪子がそう言って俺を上目遣いで伺ってくる。
ーー仮に下心あっても、はいそうです。なんて言える訳ないだろ…
上目遣いにやられそうになるが、ここは撤回しないと。
「下心って、そんな訳ないですよ…だいたい俺達知り合って間もないし」
「ですよね…! ごめんなさい…もう!桜子は…」
「絶対嘘だよ! 顔見ればわかるもん!」
俺の顔ってそんなにいやらしい顔なのか?
「あのな、初対面の人にそんな事言ってると嫌われーー」
「はいはい。わかりました神山さん!」
俺の言葉を途中で遮り突っぱねる桜子。雪子とは対照的な肩ほどまでの長さの漆黒の髪を乱して声を荒げる。
何故こうも初対面の女に突っかかられなければいけないのか。どうも俺と桜子は馬が合わないらしい。
閑話休題。
「ーー俺が…化狸をおびき寄せる囮、ですか…」
そうして俺達三人はめいめいにベッドや椅子に腰を掛けて、本題である化狸の件について話し合っている。
「ーーはい。化狸も悪戯に命を奪うような真似は今はしないはずですし、そのようなケースも報告されていませんから、危険性は低いと思います」
俺はどうやら囮役にされるらしかった。
「ーー具体的には、俺が囮になってどうするんですか?」
もう何もかも吹っ切れた。無職になって自暴自棄になっているのかもしれない。囮でもなんでもやってやる。どうせやる事ないし。人の役に立てるなら何もしないよりマシだ。
「それは、化狸についてもう一度説明してからの方がいいですね…」
そう言って雪子は顎に手を当てて何やら黙考する。
「化狸は、男の生気を吸って力を得ているようだわ」
黙考する雪子の代わりに説明を始めたのは桜子。
「そもそも、何の為にそんな事を?」
「色々調べたら、昔は昔、遥か昔に人々によって封印されたあやかし、ないし幽霊の類の化狸がいたと言う話にありつけた。
正に私達が対峙している問題の正体ね。それで奴が封印されたのが恐らくあんたが被害にあった神社よ。
この辺り一帯には昔から化狸にまつわる言い伝えがあって、それらを祀った神社があるの」
「ーーそれって…封印されてたんじゃ」
「察しが悪いわね…つまりそれが破られたってこと。
それであんたの質問だけど…あくまでも推測に過ぎないけど、他の件も最近の出来事だし、恐らく奴は封印を破ってまだ間もない。
だから本来の力を呼び戻す為に生命力が強い男を見つけて誰彼構わず生気を吸って力を蓄えているというわけね」
「つまり、そいつが封印以前の状態に戻ったら…」
「ーー多くの人に災厄が訪れる可能性があります」
俺の言葉の後に続いた沈黙を、雪子が破った。
そしておもむろに立ち上がる。
「ーー化狸が封印されていたのは、あの神社で間違いないでしょう。これを見て下さい」
そこまで言うと、彼女は写真を俺に向けて掲げて見せたので、それを受け取る。
「これは、祀り神の石像?」
神社に祀ってある御神体。その石像が破壊され無残な姿になっている光景が写っている。俺が参拝した時はこんな風にはなっていなかった筈だ。
「俺が参拝した時はこんな風にはなっていなかったですが…」
「それは本殿の社ではなく、境内の端にあった祠の御神体を写したものです」
なるほど。
俺は本殿しか見ていなかった。これはあの小さな祠の御神体ということか。気づかなかった。
それにしても罰当たりだな…
「誰かが悪戯で壊したのかもしれません。それで封印が解かれた可能性も考えられます…」
痛々しいような、苦しい表情を雪子は浮かべている。
よく廃神社が心霊スポットとして密かに持て囃され、荒されるというケースを聞いたことはあるが、あそこは廃ではなく現役の神社な筈だ。
しかしあんな所、田んぼ作業の人くらいしか通らないし、参拝する人もほとんどいないだろうからな…
「ここ以外の周辺神社を調べましたが、荒されるなどの異常は見られませんでした」
ということは本当に奴が存在して、封印されていて、それが解かれたとするならば、その場所はあの神社以外には考えられないだろう。
だが。
「ーーそれで、そいつの封印が解かれた今、どうするんですか? 俺を囮にして、また奴を封印するとか…」
そう俺が口にした瞬間、ドン、という音が部屋の端から生じる。
ビクリと一瞬怯んで、その方向に目を向けると、いつの間に移動したのか、そこには雪子の姿が。
同様に、いつの間に用意したか分からないホワイトボードが現れ、その横に彼女は堂々と立っていた。
「ーー龍一さん、左様です! このまま化狸を自由にさせるのは危険です。なので、私達は再び化狸を封印します!」
部屋に響き渡るのは雪子の強い意志を孕んだ声。
「ーー作戦名は名付けて、真夏の遊撃作戦、です…!」
少し赤面した様子で彼女は高々と宣言した。
ーー恥ずかしいなら、わざわざ作戦名なんて作って叫ぶ必要ないのでは…
「ーーコホン。桜子、いつものお願い」
静寂に耐えかねて、雪子は妹の桜子を手招きするようにして呼び寄せる。
「ーーはいはい。お姉はいつも好きだね、これやるの」
そして桜子は姉に呆れた様子で、カポン、とホワイトボードに置かれたマジックのキャップを外し、雪子が宣言した作戦名をそこに書き記し始める。
「ーーそれでは、これより具体的な作戦案を出していきましょう」
ーーかくして、化狸、マンハントと呼ばれる超自然現象解決の為、俺達は来る作戦実行に向け案を出し合った。
(まだアイツは現れないな…)
そもそも本当に化狸なんているのか?
やはり単なる幻覚だったのでは?
雪子立案による真夏の遊撃作戦は、あれから翌日である今日の夕刻に実行された。
ーー暮れなずむ夕時、俺は数日前倒れた神社にいる。
俺以外には誰もいない境内。
寂しさと僅かな恐怖、緊張を感じる。
何もすることがない。境内に置かれた錆だらけのベンチに腰を掛ける。
ふと、昨日雪子と打ち合わせをした瞬間が脳裏をよぎった。
「ーーそれでは龍一さん、龍一さんはまず先日の神社で待機していて下さい。
そうです、待機です。化狸が現れるまで待機して頂きます。
はい。恐らく化狸はあの神社をねぐらにしていると考えられます。
だからまたあの場所に現れるはずです。
化狸による被害は龍一さんの件を除くとほぼ日が暮れかかる夕時に起こっていますので、その時間の少し前からあの場所で待機…です」
とりあえず奴が現れるまで待機しとけ、ということらしい。
しかし本当に現れるのだろうか?
これじゃまるでUFOを信じて現れるのを待つ子供みたいだ。
彼方の上空には夜の訪れを前に山に帰るカラスの群れが。
その鳴き声がここにも届き、物寂しさは加速される。
それを聞いていると次第に感傷的な気分になり、恐怖や緊張は和らぐのであった。
「ーーもう帰っていいかな?」
誰も、誰もいない境内。
もう夜はすぐ目の前に迫っている。
オレンジの空には次第に夜の帳が下り、段々と全体を食い尽くす。
1人呟いたところで、孤独は増すばかりだ。
雪子からの連絡は未だにない。
こちらから入れてみてもいいだろう。
重い腰を上げ、ズボンのポケットから携帯を取り出す。アドレスの項目から雪子の電話番号を選択し、発信した。
「ーーもしもし。俺です」
二回呼び出した辺りで雪子は出た。
「全然現れないです。どうします?もう時間も時間ですし…」
長い退屈な時間のおかげで、もうやる気もなにもかも完全に失っていた。
「ーーはい。今日のところは引き上げ、ということですね?」
電話の向こうの雪子から、今日のところは解散しましょうと提案が出された。
助かった。これ以上こんな退屈な場所にいるのはごめんだ。
「ーー分かりました。それでは今日はここで解散で。はい、それではまた明日ーー」
ーー今日は疲れたな。
ーー明日もこんなことをしなくちゃいけないのか?
「ーーあなたまた来たの? 懲りないお方ね」
「ーー雪子さん、ちょっと待って下さい」
何かがおかしい。
通話終了、帰宅。そういう流れの筈だ。
「ーー聞いてる? 無視は駄目よ?」
孤独な状態にいたせいで遂に俺は精神に異常でもきたしたか?
真後ろ、すぐ後ろから声が聞こえる。
ゾワッとした寒気が全身を襲い、ピクリと身体が振動する。
するとそれからは石のように身体が硬直して動かない。
どうしました? と電話から響く雪子の声。
「ーーほら、何か言ってるわよ? 出ないの?」
まるで今の俺はメデューサに石化された人間だ。
振り返れ。
いや、怖い。嫌だ。
その間で揺れる心。
ギ、ギ、ギ…と、まるでそんな効果音が聞こえてきそうな挙動で俺は恐る恐る振り向いていく。
「ーー出ないなら私が代わりに出てあげる?」
「ーーいえ、お構いなく。失礼しました」
俺は一体何を言っているんだ。
カオス。一言で表すならばそんな状況。
振り向いた俺の眼前、息がかかりそうなほど目の前。
先日俺が気絶する前に見たような巫女服姿の女が。
(頭に耳、そして縞模様のないデカいふさふさの尻尾。間違いない、こいつは…)
「ーー雪子さん、た、狸が現れました」
「え? 私に何か御用かしら?」
「離れろ。お願いだから。いや、お願いします」
「まあそう言わないの。照れちゃって! かわいいお方」
ーーどうしてこうなった。
何度もその言葉が頭の中で点滅している。
いや、形的には作戦は上手くいっている。
いっているのだが。
「ーーあんた、ホントに化狸ってやつでいいんだな?」
「まあそうだけど。狸って呼ばないで。私にも名前があるんだから」
「分かった。だからまずはその組んだ腕を解け。そして離れろ」
化狸ってやつは現れた。どうやらこの女がそれで間違いない。
そして何故か俺はこいつに、どういう訳
か一方的に好かれている。
再び俺が会いに来た、それはつまり俺はこいつに興味、好意があると勝手に解釈した模様で、今に至る。
ーーどうしてこうなった。
俺の報告を聞くと、雪子は電話が音割れするほどの声を上げた。
そして作戦再開ということになったのだ。
(待機してこいつが現れた。次のステップはーー)
今一度作戦の内容を胸の内で復唱する。
(俺はこいつを雪子と桜子がいる別の神社までおびき寄せる)
この様子ならそれも難なく達成できそうだ。
俺が帰ると言うと、こいつはこうして付いてきた。
離れろと言っているのに、未だ腕を組んで俺に密着する化狸。
おびき寄せるというと、モンスターに追われる人間の光景をイメージして戦々恐々していたが、それはあっさり覆された。
ーーどうしてこうなった。
俺は化狸を連れて、二人が待つ神社へ向かう。
「ーーてか、あんた化狸なんだろ?何で人の姿してるんだ?」
「面白いからよ」
「ーーはっ!?」
「私は人を驚かす事が好きなの。だからこうして人の姿に化けて出ているのよ」
まるでそれが当たり前とでも言うかのように、化狸は屈託無く笑う。
「あんた、男の生気を吸い上げて悪さしようとしてるんじゃ…」
「なるほど。何やら電話とやらで話していたようだけど、私の事を知っているのね。でもそれは間違っているわ」
どういうことだ? 話が違うじゃないか…
「ーーまあ、あなた達が何を企んでいるのか話してくれたら、私も教えてあげる」
悪戯を企む子供のように、ニッ、と笑う化狸。
まずい。
作戦をばらすわけにはーー
どうすれば…
「とにかく、人に見られるから離れろ。そして人に化けられるならその耳と尻尾、服装をどうにかしろ」
とりあえず時間を稼げ…!
二人が待つ神社までは確かもう10分弱くらいで着くはず!
「ーーもう。話を逸らしたわね? 分かったわ…」
そう言うと、化狸はボン、と煙を立てて姿を変える。
「どう? 似合ってる?」
煙が瞬時に晴れると、そこには現代風の格好をした女の姿が。
耳と尾も無くなっている。
「どう? どう?」
「分かった分かった。似合ってるよ。変なポーズやめろ」
「ーーてへっ」
「てへっ、じゃねぇ」
俺の反応が見たいのか、化狸は逐一煽ってくる。
そうしてまた密着して来た。
ーー帰省してから何もかもおかしい。
雪子に出会ったと思いきや、今度は超自然現象だの超常現象だのに見舞われ、今こうして幽霊だか妖怪と言われる存在といる。
夢、じゃないんだよな…
ーー化狸は俺達の企みをそれ以上追求せず、それからは無言でひたすら歩いた。気付けば二人が待つ神社まではあと少し…
ーー
下坂神社。
俺がいた神社から歩いて10分弱の場所に位置する、雪子と桜子が待つ神社。
下坂神社は小さな山のてっぺんに居を構える、比較的大きな神社だ。
境内までは山肌に築かれた石段をずっと登っていく必要がある。
その階段の前で。
「ーー分かったわ」
そう言って、俺に密着していた化狸は絡ませた腕を解いた。
その表情はどこか悟っているかのよう。
「ーーあなた達、私を封印か、消そうとしてるでしょ?」
サーッ、と微風が吹き抜けた。
真夏だというのにそれは嫌に冷たい。
化狸の長い黒髪が絹糸のように流れる。
夜の闇と、僅かばかりの暮れる夕陽、そのオレンジ。
そして妖艶な女に化けるこの世ならざる何か。
不思議なコントラストはまるで絵画を眺めている気分だ。
「ーーそんな…」
「嘘はつけないのね。顔に出てるわ。優しいお方…」
俺達の作戦は悟られた。
どうしてだ? どうすれば!
「ーーここはね、私が封じ込まれた場所だから」
「…そんな! あんたはあの神社に封印さ
れたんじゃ…!」
どういうことだ! 事前情報は誤っていたということか?
「違うわ… そうね。あなたには教えてあげる。私のことを」
化狸はそう言うと、酷く寂しそうな顔をして、そして笑った。
ーーあなたは、あの人に似ている。
化狸は俺に近づき、片方の手を俺の頭部にかざす。
「ーーこれは…!?」
彼女の手が俺にかざされたその時。
目の前に突如暗幕が引かれ、まるで走馬灯のように様々な瞬間が暗闇の中を駆け巡る。
ーーそして俺は彼女の全てを知った。
ーー
「ーー誰が壊したか知らないけど、あの神社の御神体が壊されたことで私を封じ込める力が弱まり、結果私はこの場所で再び目を覚ましたって訳よ」
俺は彼女の全てを知った。
かざされた手がゆっくりと離されると、目の前を覆った暗闇も消滅する。
ーーそんな! そんなことって…
「さて、それじゃ行きましょう?」
化狸は俺に全てを伝え、まるでもう心残りはないとでも言うようなすっきりとした表情で石段を上って行く。
「あんた、それでいいのか!?」
「いいのよ。私がいたら困るでしょ? ふふっ、短い間だったけど楽しかったわ」
どうしてそんな顔ができるんだ!
ーーお前は人々に災厄をもたらす様な邪悪な存在じゃない!
なのにどうして…
化狸は石段を上る。
まるでそれは絞首刑者が上る13階段。
頂上で待つのは、彼女にとっての全ての終わりだ。
唖然。
しかし固まった体を必死に動かし、俺は次第に遠くなる彼女の背を追う。
「ーー龍一さん、ありがとうございます! 後は私達に任せて下さい」
やがて俺は石段を上りきり、広い境内に入った。
目の前には化狸の背と、彼女と対峙する雪子と桜子。
「ーー待ってくれ! こいつはーー!」
人間に災いをもたらす様な存在ではない!
そう叫ぼうとした。しかし。
「いいの、ありがとう。さあ、私を消してーー!」
化狸は自ら終わりを望んだのだ。
彼女の意外なる懇願の言葉に、二人は少し呆気に取られた様にも見える。
そして一つ風が吹き抜けて。
「ーー分かりました。桜子、お願い」
「分かった。お姉、行くよ」
雪子の手に掲げられるのは、いつか見た赤いカバーの本。
桜子の手には、呪符とみられる紙札。
「ーー狗神憑きね」
微かな化狸の呟きが風に乗り俺の耳へ届く。
そして桜子が待つ札が光を放ちーー
「ーー狼…か?」
光の中から神々しい狼の様な獣が姿を現わす。
それはグルルル…と猛々しい唸りを放ち、化狸に牙を剥いた。そして。
「ーーさあ、全ての罪を祓いなさい!」
ーー桜子の叫びを合図に狼は解き放たれ、一直線に化狸に飛びかかる。
お前はそれでいいのかよ。
俺が見たあいつの全て。
あれが真実ならば、俺はーー
「ーー駄目だ! 止めろ!」
もうどうにでもなれ。
仕事を辞めた時点で俺の人生なんて真っ当な道から外れてるんだ。
やりたいことはやった。
飽きるまで遊んだ。心残りはない。
自分でも分からない。
自然と動いた俺の体は、化狸の前に飛び込んでいた。
目の前には猛獣。
俺は一体、何がしたかったんだーー
遠くで聞こえる雪子の悲鳴を最後に、俺の意識は途切れた。
「ーーキヨマサ様!」
「ああ、ヤエか…すまない。俺は…」
「話さないで…!なんて酷い事を…!」
この光景は…
俺はどこかで見た様な映像を見ている。
「俺はもう駄目だ…お前を助けられなかった…本当に…すまない」
「やめて…やめて!」
流血し倒れる男と、それを介抱する女。
流れる鮮血は止まらない。
そして遠くからけたたましい怒号が押し寄せる。
「ーーヤエ、逃げろ。お前だけでも」
「そんな…あなたを置いて行けません!」
群衆の声は地響となり、空気を震わせる。
そして。
「ーーいたぞ! 化狸め! 殺せ!」
目をぎらぎらと光らせ、手に武器を持った群衆。
一体どちらが妖怪か、怪異か。
群衆は暴徒と化し襲いかかる。
悲劇の恋物語はそうして幕を閉じた。
ーー
「ーーヤエ。それがあんたの名前か」
「ーーあなた…どうして!」
俺は死んだ。
そう思った。
だが、どうやら変なところで運はいいらしい。
重い瞼を開ければ、そこには倒れたらしい俺を覗く3人の顔。
「ーー龍一さん! 大丈夫ですか…!?」
「馬鹿! あんた死にたいのーー!?」
悲鳴にも似た二人の声。
ギシギシと痛む上体を無理やり起こす。
「ーーすまん」
クラクラとする頭。
「こいつは、俺達に危害を加えたりなんかしないーー
あのファイルの情報は誤りだ」
「そんな…! それでは龍一さんが見舞われたことは…!?」
そうだな。あれは確か…
何故か笑えてきて、顔が綻ぶ。
「ふっ…いや、確かにこいつは危害を加えたかもしれない。だが、人を殺めたり災厄を起こしたり、そういう意味の危害は決して加えないさ」
「意味が分からない!どうしてそんな事が言えるのっ!?」
真意が分からないであろう俺の釈明を追求する桜子。
「ーーこいつは」
駄目だ。意外とダメージが大きかったのかもしれない。
出血などは見られないが。
朦朧とする意識。
「ーーただ寂しくていたずらしてただけなのさ」
本日二度目。俺の意識は彼方へ。
ブラックアウトしたーー
「ーーそれでは、化狸はその寂しさを紛らわす為に人の前に化けて出て、彼女の気にあてられた方々が気絶した、という事なんですね?」
気付けば朝、俺は見知らぬ部屋で目を覚ます。
見知らぬベッド、見知らぬ天井…
「ーーそうですね…迷惑かけてすみませんでした」
昨晩二度目の気絶をした俺は、ここ、咲夜家の洋館の一室に運ばれて目を覚ましたのであった。
そうして俺が見せられた化狸の記憶の一部始終を説明し今に至る。
俺は今一度、あの記憶を呼び覚ます。
ーー昔、ある時代にあった話、よくある昔話。
傷付いた化狸を助けた若者がいた。
若者から助けられた化狸はみるみる内に回復し、再び野に放たれる。
それから幾つか日は流れ、男の前に美しい女が現れる。
断る男をよそに、女は一方的に男の畑仕事、身の回りの世話を手伝い始めた。
最初こそ不審がった男だが、いつしか二人は共に助け合って暮らしていった。
男は、女が助けた化狸ということに気付いていた。
ふとした瞬間に、女が耳と尻尾を生やしている場面を盗み見てしまったのだ。
しかし男は何も言わず、平和な時を過ごした。
しかし束の間の平和は崩れ去る。
ある朝、男はまるで人が変わったかのように激怒し、女を追い出した。
女は男の住む村の外れまで追い立てられ、男から捨て台詞を吐かれた後、遂に村を追い出された。
それは女を無事に村から逃がす為の男の演技だったのだ。
化狸が未だ生き永らえ男の元に匿われているという話がどこかから漏れ出し、それは瞬く間に周辺の村中に広まったのである。
結果、男は化狸を匿った罰として村八分を受け、遂には激しい暴力を受けた後に命を落とす。
男の異変を不審に思った女、化狸は再び男の元を訪れると、そこには息も絶え絶えで倒れ伏す男の姿が。
そして近づく群衆の姿。
そうして男は息を引き取り、女、化狸は群衆に追い回される。
攻撃を受け弱った化狸は、遂に捕まり、遠方から呼び寄せられた僧によって封印されたーー
「下坂神社に封印されて、念の為その神社を中心として四方に新たに神社を建てることによって封印の力を強めたーー」
「その一つ、龍一さんが倒れたあの神社の御神体が壊された事によって、化狸の封印が解けたということですね?」
封印が解かれた化狸は、男を死なせてしまった己を責めた。
そうしてふらふらと彷徨い、寂しさを紛らわす為に人の前に化けて出て驚かせ、気絶させていたという。
「ーーそう言えば、あの化狸、その男と俺が似ているとか言ってたような…」
「容姿的なことですかね?」
「さあ…そう言えば…」
あの化狸はどうしたんだ?
ここにいないあの女はあの後どうなったのか。
「ーーお姉、学校行ってくる…って、あんた目を覚ましたんだ」
化狸のその後を聞こうとしたが、その瞬間桜子が姿を見せる。
「うん。行ってらっしゃい」
「あんた、お姉ずっとあんたの事診てたんだから、感謝しなさいよ? それじゃ」
言うだけ言って桜子はさっさと退室して行った。
嵐が過ぎ去り、部屋には静寂が訪れる。
「ーーその、本当にすみません」
「いいんです。それより…」
すると雪子は気まずそうに顔を歪ませた。
「被害者である龍一さんに無理を言ってお願いして、挙句危険な目に遭わせてしまって…!
本当に、私こそ本当にごめんなさい…謝って済まされることではありませんが…本当にごめんなさい。私の未熟さ、甘さ、無責任さのせいで…私の浅はかな考えでーー」
ブツブツブツ…と呪詛を唱えるように延々と謝罪と己を責める事を繰り返す雪子。
いけない。これは止めないと。
「雪子さんのせいじゃありません。俺の責任です。断る事だって俺はできたんです」
「でも…! 私が頭を下げて強くお願いしたせいで、断りづらくしてしまって!」
「いや、雪子さんはちゃんと言ってくれました。
万が一の事があるかもしれない、そして今回の事件は他に頼りがなくて、解決の為、化狸を見つけ出して封印するにはそれしか方法がないって。
その上で俺が選択した事です。雪子さんは悪くありませんよ」
「ーーでも…! 本当にごめんなさい」
まずい。これはどこかで断ち切らないと延々と続くやつだ。
「あー…それじゃ、それと俺を看病して下さった事でおあいこって事でどうですか…!
ほらこれでまーるくおさめまっせー…みたいな。ははっ」
「…ごめんなさい」
「あー…そう言えば化狸はあの後どうしました?」
話題を切り替えて雰囲気を立て直さないと。
「化狸は…逃げられちゃいました」
「そうですか…」
なんだか悪い事をしてしまった気になる。いや、実際そうしてしまったのか…
「ところであと一つ。雪子さんが持っている赤いカバーの本、あれは…?」
桜子が持っていた呪符、それに赤い本…
「あれは私の商売道具と言ったところでしょうか。あそこに現象、怪異を封じ込めるんです…封入された現象はあの中に文字となり記号となり情報化され、二度と外に出ることはできないでしょう」
「つまりあの本に現象を封印すると…妹さんが持っていたお札は?」
「あれは呪符というお守りの一つで、私達狗神憑きの咲夜家に伝わる道具です…妖怪などの現象の類にはあの札を使い、対象を弱らせ、そしてあの本に封印するんです」
そうだったのか…
「それじゃ、雪子さんと妹さんはそれを仕事にしていると…確か超自然現象対策室、でしたっけ?」
「そうです。本部があって、その下に地域ごとに支部があるんです」
「そんなに規模が大きかったんですか…ということはこの館はその支部の一つという訳ですね」
そんな規模が大きい組織だったとは。聞いたこともないし、何か裏めいた事情があるのだろうか。
そして狗神憑きという言葉。
謎は深まるばかりだ。
「ーー私達は、災いを成す全ての現象をこの世界からなくす為に活動しているんです」
雪子は遠い目をして、複雑そうな、悲しそうな顔をして綺麗な顔を歪ませた。
「そうだったんですね…」
掛けるべき言葉が何かあるはずだが、非力な俺にはこの場面においてそれらを思い浮かぶに至らなかった。
(一難あってなんか燃え尽きたよ…真っ白に)
自室のベッドに腰掛けて、項垂れながらそんな言葉を内で呟く。
ーーあれから数日経った。
咲夜家で雪子に看病してもらい、体調を持ち直した俺。
あの時別れて以来、彼女達とは会っていない。
二人は今頃、新たな現象とやらを解決するのに動き回っているのだろうか。
対する俺は未だ無職のプータローでーー
体はなんだか重い。
「仕事、探さないとーー」
ふと、化狸の顔が思い出された。
長く艶やかな黒髪、まつ毛。くっきりとした目鼻立ち。そんな容姿から時折見せる子供の様ないたずらな微笑み。
(まあ、化狸って言うくらいだから本当は禍々しく邪悪で凶暴な姿なんだろうが)
時刻は午前11時過ぎ。寝すぎたようだ。飯を食おう。
重い体をなんとか起こす。
「ーー良い仕事ねぇかな」
「ーーその願い、叶えてあげましょうか?」
いつの間に窓が開いていた。
そこから生暖かい風が吹き抜け、カーテンを揺らす。
風に揺れる長い黒髪。
「ーーお前っ!?」
「あら、ちゃんとヤエって呼んで下さいな。キヨマサ様…ではなくて」
「龍一だ…それよりあんた…いや、ヤエ。お前…」
「私は大丈夫よ。助けてくれてありがとうございます…龍一様」
「様はやめろ…俺が勝手に自己満足でしたことだ…これからどうするんだ…?」
どこからともなく現れたのは、あれ以来姿を見なかった化狸、ヤエだった。初めて見た時のように、巫女服姿で頭には耳、臀部には尻尾を生やしている。
ーーもしや今度こそ封印されに行くのでは…
「あなたに助けてもらって、あれから私は考えたーー
私はキヨマサ様を失って、もうこうしてこの世界に留まっている意味も失った。だから今度こそ二度と解けないよう完全に封印されて消えたいと思ったけれど」
外の風景に注がれたヤエの視線は、やがて俺を真っ直ぐ捉える。
「ーーあなたがいるから、私はまだこの世界にいたいと思う。龍一様、私はこの世界に存在してもいいのかしらーー?」
期待、不安が入り混じった様な複雑な表情。
「そんなの俺は知らん」
「ーー酷いっ!?」
存在という事実そのものは誰にも批判なんてできない。
どのような経緯があろうと、人であろうがそうでなかろうが、この世に生まれ落ちたその時点でそれは運命なんだ。
生きることを誰でもない運命から既に、存在の許可を得ているのだと思う。
なら、後はどうしようとそいつの自由だ。生きようが死のうが。
「ーーあんたがこの世界にいたいなら、そうすればいい。ただ…
運命から存在を許可されて生まれてきた以上、その命を無駄にするなよ。それに、無駄死にしたらあんたが慕っていた男も悲しむんじゃないか?きっと」
それは、自分自身に言い聞かせているようにも思えたーー
「ふふっ…やっぱり姿も性格もキヨマサ様にそっくり。ありがとう。大好きよ、龍一様」
「やめろ。俺は妖怪になんざ好かれたくねぇ」
「そんな照れなくたっていいじゃない! 龍一さんっ、ヤエはいつでもお側にいますよ! ほら!」
「止めろ! くっつくな離れろ! 俺はキヨマサだかなんかじゃない!」
「わかってるわ! 私はキヨマサ様も、龍一様もお慕いしています!」
「意味が分からん! やめろ化狸!」
「狸じゃない! ヒト科タヌキ系女子よ!」
「訳がわからん!」
ーーその後、不審に思った母が登場した事で、ヤエは刹那の内に気付かれることなく退散した。
母は1人で騒ぐ俺の頭を心配し、
「ごめんね…龍一の辛さに気付いてあげられなくて」
と悲痛な面持ちで退室して行った。
違う。誤解だ、聞いてくれ…
ーー帰って来てから何もかもがおかしい。
「ーーもしかして、この求人って」
そんなこんなで色々と目まぐるしいこの頃。
俺は以前求人誌で見つけた使用人だかお手伝いのバイトに目をつけ、電話で募集し、今日現地での面接となったのだが…
「ーー何故気付かなかったんだ…いや、不審には思ったけどさ」
求人誌に記載された住所を基に、俺は面接会場にたどり着いた。
そう、咲夜家兼、超自然現象対策室支部となっている洋館の前に俺はいる。
「ーー何故気付かなかった」
何故電話で募集した時気付かなかったんだ俺!
いや、確かにどこかで聞いた様な声だとは思ったけどさ…
どんだけ鈍感なんだ俺は。
「何か嫌な予感がしてきた…バックれたい…」
仕事内容は炊事、洗濯、清掃とあった。そうか、こんなデカい洋館に住んでいるのは二人しかいない。
炊事洗濯はともかく清掃は大変だもんな…求人も出したくなるわ…どうやって許可されたのか知らないけど。
約束を取り付けた以上、破棄するわけにはいかないだろう…
重い足取りで洋館の玄関へ向かう。
そこには初めて浸入した時の緊張はない。代わりにあるのはまた別の方向の緊張である。
呼び鈴らしきものは見当たらないので、ノックし、ドアノブに手をかけるーー
「ーーあ、龍一さんですか? お久しぶりです! 今日はどうされました?」
あれー…? この人スーツ姿の俺を面接に来た人だと思ってないよこの反応は…
ふいに背後から声をかけられ振り向いた先には、外出から戻って来たのか、白い半袖ワイシャツ、スキニータイプのジーンズ、オシャレな黒いサンダル…と言った出で立ちの雪子が。
「ーーあの、今日アルバイトの面接に応募させて頂いた神山と申します…
すみません、予定の時間より早く着いてしまって…」
そういえば電話した時名字だけだけど名乗ったよ俺! 名字知ってる筈だろ…!
いや、フルネーム伝えるのが常識だよな…俺とした事が!
「ーーえ…神山さんって…あーっ!」
この人本当に気づいてなかったわ。
俺並みの鈍感だな。
「ごめんなさい! まさか龍一さんだとは…中へどうぞ!」
かくして、面接は始まったのだが。
「気付けなくてごめんなさい!」
雪子は俺に頭を下げる。
そして頭が勢い良くそのまま机にゴチンと衝突した。
「ーーいえ…俺も気付けなくて、なんと言うか、すみません」
「ーーあのっ! 龍一さん!」
「…はいっ!?」
ぶつけたままだった頭を起こし、急に声を張り上げたので、意表を突かれ驚いてしまった。
驚いた俺に対する雪子は、至って真剣そのものだ。
ゴクリ、と生唾を呑む。
彼女の口からどんな言葉が発せられるのか、鼓動は高鳴り、ドクドクと今にも破裂しそうだ。
「ーー龍一さん、もし良かったら、その…危険な目に合わせてしまった私が何か言える権利はないですけど…」
またその話か。
「それはおあいこで完結した話じゃないですか…気にしないで大丈夫ですよ、雪子さん」
「あ、あのーー!」
「ーーあ、はいっ!」
数秒間か、それとも数分間か。
何か言い淀む雪子、流れる沈黙。
ハッ、と彼女は息を吸い込んで、そして。
「ーーあの、もし良かったら…私の助手になって下さい!」
ーージョシュ? 外国人かな?
いや、待てよ。何故お願いされる? 雇って下さいとお願いするのは俺の方だろうがっ!
「一体どう言うことですか!?」
「今まで桜子となんとか二人で全てやってきたのですが…
最近やけに現象解決の依頼が多くて、本部も人手不足って言って補強もしてくれないんです…!
龍一さんしかいないのですっ!」
「いや、急にそんなこと言われても…!」
「お願いしますっ!」
俺、この人に頭下げられてばっかりな気が…
半ば泣き顔を浮かべる雪子。
ーー俺は一体何がしたかったんだ?
何度も、何度も繰り返しても答えが見つからないその問いの答え。
ーー誰かの役に立てるならば。
俺がもしここで嫌だと断ったらどうなるだろう?
(私達は、災いを成す全ての現象をこの世界からなくす為に活動しているんです)
そう言った際の雪子の辛そうな、苦痛を裏に秘めたような面持ち。
(俺は…俺は!)
お人好し、流されやすい、イエスマン…何とでも言え。
俺は彼女と出会ったその時から、何か引
き寄せられた、惹かれたのかもしれない。
目の前の綺麗な顔が、苦痛や絶望で歪んで欲しくない。
「ーーこちらこそ、その、俺なんかで良ければ…お願いします」
ああ、言ってしまった。もう後戻りできないぞ。
パァーッと、目の前の美女の顔が晴れていくのがわかる。
その表情が一番似合ってるぜ。
なんて馬鹿臭いセリフなんて言うつもりはないけれど。
「ーー龍一さぁぁぁん! ありがとうございますっ! ありがとうございますっ! そんな! 本当ですよね!? 本当ですよねーー」
瞬間、俺の傍に来て屈み込み、両手で俺の片手を握りブンブンと振ってみせる雪子。
散歩に行くのを察知した飼犬かよ…
と形容できるような、それ程の喜び様であった。
自然と俺の顔も綻ぶのが分かる。
ああ、生きてるってこういうことだったのか…
今感じているこの感情は、仕事に追われ心をすり減らし、そしてリタイアした俺がすっかり忘れていたものだった。
大事な物は、きっとすぐ側にだってある。
それは遠い未来でもなく、遥か昔でもない。
ーー今、ここに、きっとある。
そうして。
俺、神山龍一はどう言う訳か超自然現象対策室の支部である咲夜組、その助手となり晴れて再就職を果たした。
待てよこれ。周りになんて説明すれば…
「ーー何ボーッとしてるのよ。お腹減ってるんだから早くお昼作ってよ、使用人神山さん」
「黙れ桜子。高2にもなって自分で飯も作れない奴が偉そうに。嫁に行けねえぞ?
男ってのは、疲れて帰って来て美味い飯がある、それだけで相手が何倍も愛おしくなる。それが何だ?日曜で休みだからってダラダラしやがって。だいたいーー」
「うっさい! 自分で作れるわよ! それに私は学校は休みだけどちゃんともう一つの仕事してるし! あんたは使用人なんだから、仕事してる私のご飯作るのは当たり前よ!」
「使用人じゃない。助手だ」
「でも結局家事もしてるじゃない。使用人と変わりないわよ…」
「うるせえ。ほら、カルボナーラだとっとと食えそして早く仕事に行け」
「やった…! 私の好物じゃないありがと大好き!」
「そのあからさまな態度は虫酸が走るぜ…」
ーー助手として咲夜家に仕え始めて、こうして桜子と口撃の応酬を繰り広げるくらいには慣れてきた。
炊事、貯まった洗濯、無駄に、本当に無駄に広い屋敷の清掃。
俺は主夫か。
しかし、なんだかんだやりがいを感じていなくもない。
女子力だか主婦力がどんどん高まっていくのが最近の悩みでもある。
一通りのルーティーンを終えて。
「ーー雪子さん、いつもの一通り終わりました。何か手伝えることは?」
「お疲れ様です龍一さん。いえ、私の方は特にありません。ありがとうございます。
桜子も丁度仕事に区切りがついて帰って来るので、夕飯にしましょうか?」
「そうですね。それでは準備します」
対策室というのは、主に個人や団体から現象、怪異の報告が入った際に、それを調査、解決するのが仕事らしい。
現象には妖怪系だの幽霊系だの、はたまた都市伝説の類だとか呪いだとかその種類は様々で、解決法も違うらしい。
だから調査から解決まで時間がかかるらしく、日によっては調査のために何時間も何日も潰すのはザラだ。
助手である俺は家事の他にも、こういった対策室の仕事の手伝いを頼まれることもある。
大変だが、前の仕事よりは充実していると思う。
「ーーさん? 龍一さん?」
「あ、すみません! ボーッとしてました…」
「慣れない仕事でお疲れでしょう…いつもありがとうございます!」
「あ、いえいえこちらこそ。再就職できて助かりました…」
「あの、龍一さん」
「何でしょう?」
雪子はちょうど本部に提出する現象の報告書を作成し終えたところだったようだ。
紅茶を一口入れて、そして俺に尋ねる。
「一緒に夕食の準備しませんか?」
「えっ? いや、食事の準備は俺の仕事ですので」
「確かにそういう約束ですが、でも、私達に対策室の仕事があると言っても、何から何まで任せるわけにはいきません! 龍一さんが大変で申し訳ありませんし、それに手が空いてる時は自分でやらないとっ!」
グッと、そう言って力強く拳を握る雪子。
「ーー妹にも見習って欲しいよ。爪の垢を煎じて飲ませーー」
「はいっ?」
「あああ! 何でもないです…! 本当ですか? ありがとうございます助かります」
「いえ! いつもお世話になりっ放しですから!」
そして雪子はすっくと立ち上がり、机に置かれたシュシュを手にして、それで髪を後ろで束ね一つに結う。
長く白みがかった、生糸のように滑らかな銀髪が一つに結わえられ、ポニーテールになる。
露わになる珠のような白い肌、そのうなじにピクリと鼓動が脈打った。
「それでは私の仕事も一段落着きましたから、早速夕食の準備に取り掛かりましょう!」
「あ、は、はい!」
雪子はやる気満々の様子で、仕事部屋を出ようとした。が。
いきなりくるりと踵を返した。
顔は何故か幾分か赤いように見えて、視線もどこかおぼつかない様子だ。
「そういえば龍一さんって、桜子は名前で呼びますよね?」
「そうですね…」
桜子に「桜子ちゃん」とでも言った日には、恐らく一言、「キモい、死ね」とでも罵声を浴びせてきそうで、とてもじゃないが呼び捨て以外に今のところ選択肢はない。
咲夜じゃどちらもそうだしな。
「だから、あの…私も名前で呼んで欲しいのです…」
いや、読んでるはずだが。
「あっ! その、さんは付けないでって意味で…」
つまり、桜子同様呼び捨てってことか。
だけどな、なんか雪子を呼び捨てで呼ぶのは抵抗があるというか。
あ、ここでは呼び捨てにしてるけど、心
の中で言ってる言葉だからここでの呼び捨てはノーカウント。って誰に言ってんだか。
とりあえず…
「でも、雪子さんは何か雪子さんって感じなんですよね…」
「駄目です」
「えっ?」
駄目って…
フグみたいに頬膨らませてあざとい…だがそこがかわいい…あざとかわいい…! じゃなくて何言ってるだ俺は。
だけどこの人の場合は絶対腹黒いとかじゃなくて素でやってるよ。
俺の声も名字も忘れる人だからな。人の事言えないけど。
「どうしても駄目ですか?」
「駄目です。怒ります」
「それじゃー、ユキ、は?」
「それも良いですけど…やっぱり名前でお願いします。それから龍一さんは私より何歳か歳上なんですから、敬語も駄目です」
注文が増えた…これはどんどん増える前に腹をくくるしかないな。
覚悟を決めろ!
「それじゃ…ゆき、こ」
「…! もう一度お願いします!」
「う……ゆきこ」
「もう一回!」
「雪子!」
「はい! 龍一さん!」
何これ罰ゲーム?
「雪子、早く夕食の準備しようぜ?」
「はい! 今日は何にしましょうかーー!?」
雪子は凄くご機嫌良さげだ。
尻尾が生えていたらきっとはち切れんばかり振っているだろう。
「ーーはぁ…疲れた」
帰宅一番、自室のベッドに倒れこむ。
疲れた。しかしその疲れは身体が解れるような、軽く運動した後のような心地よいもの。
前の仕事とはエラく違う。
雪子から、部屋はいらないほど余っているから好きに使って、住んでも構わないとまで言われているが、今のところはなんとなく勤務終了後は帰宅している。
「俺、これでいいんだよな?」
その問いの答えは、返って来ることはない。
「ーー良かったわね。願いが叶って」
返って来ることはない。
返って来ることはーー!
「化狸。帰れ」
「もう龍一様ったら、照れなくてもいいのに」
「俺はもう疲れてるんだ。かまってる余裕はない」
どうやって浸入したのか、ベッドの端にちゃっかり腰掛ける化狸、ヤエ。
「夜はこれからよ?」
「うるさい」
「そうだ! 今日面白い事があってね…」
「うるはい…」
心地よい疲れが、心地よい睡魔を呼び、そして俺を眠りへと誘う。
「…うるはぁい」
「私まだ何も言ってないけれど…」
「そうだ…ヤエ」
「どうしたの? 龍一様」
「雪子達…お前が悪さしないなら見逃してやるってよ」
「ーー! ふふっ、やっぱり龍一様が大好きです!」
「うるさ…」
今日の睡魔は、やけにいつもより心地よく、快適で、それでいて温かい。
遠くなる意識の中、ヤエが静かに歌を口ずさんでいるのがわかる。
それは俺を更に夢の世界へと誘いーー
って、何で今時のバラード曲知ってんのお前。
ーーこの世界は、どうやらまだまだ捨てたものではないらしい。
一時はレールから外れた。
しかしそれは永遠に続く脱線ではなく、別の道に移る為の新たなレールに乗り換えただけなのである。
焦っていては気付かないものもある。
大事な事は、遠くにもあり、近くにもある。
まだまだ未来も何もかも分かったもんじゃないが、希望を捨てるのには早すぎるだろう。
なら、焦らず行く事にする。
そうすれば、何かが変わるきっかけは案外近くにあることに気づくのかもしれない。
もしかしたら、ヤエが俺の願いを叶えてくれたのか?
今となって、そんな風にも思えたのであった。
「ーーおはよ。使用人龍一」
「ーーおはようございます! 龍一さん!」
「おはよう。桜子に雪子。朝食出来てるぞ」
超自然現象対策室、咲夜組、助手神山龍一の朝は早い。
外見はまるで廃墟そのものな洋館の施錠
を合鍵で解き、キッチンへ向かい、そして雪子と桜子に朝食を作り1日が始まる。
「ーーそういえば、龍一さんがここに来て下さって、今日で1カ月ですね!」
「お。そんな経ったのか…早いなー」
「これからも益々精進しなさい?下僕」
「下僕とは何だ小娘。あー…今日給料日だし夕飯は奮発しようかなと思ってたのになー…誠に残念だ」
「嘘よっ! 龍一お兄ちゃん大好き!」
「キモッ…」
「お、お兄さん! お兄様!」
「雪子までっ!?」
ーー一体俺は何がしたかったんだ?
その問いの答えは未だに見つからないけれど、まあそれでもいいかとさえ今は思っている。
何がしたいのか、何をするのか、そんなもん分からないが、だけどそれを探すことがーー
今はとても楽しい。
終
乙
終の前に「第一話」が抜けてるぞ
>>42
ありがとうございます!
改行の事を頭に入れてなくて凄く読みづらくしてしまいましたすみません…
これからですが、まだネタが思いつかないので、考えついたら二章も書き溜めようと思っています
以下はもし何かあれば出来る限り応答させて頂きまして、そしたらHTML依頼しようと思います。
こんなクソ自己満駄文に目を通して下さった方本当にありがとうございました。
乙。
次回作楽しみにしています。
完全オリジナルかぁなるほどなぁ
面白かった
是非続編も書いて欲しいです
>>46 ありがとうございます! 出来るだけ早くまた書き込めるようにします。
喰霊のアレかと思ったら全然違った
投下乙でした
設定もストーリーも話を拡げられる余地が
まだまだ沢山あるだけに、
是非とも続きを読んでみたい
おつ
楽しませてもらった
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