星の声が聞こえている (63)
この町では星の声が聞こえるのだという。
星が人に囁くのだと。
確かにここの星はごく近いところにある。
山間にあって標高が高く余計な明かりもない。
だから手の届きそうなところにその光が見えるのだ。
強弱大小さまざまなそれは薄く赤や黄などの色を帯びて瞬く。
川のようにも見える白い靄が天頂を流れ、時折その上を尾を引いた光が横切る。
全体が呼応し合ってまるでなにか音楽を奏でているかのようだ。
それはまた信号や合図のようでもある。
声と表現する者もいるだろう。
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それだけならば単なる比喩に過ぎないが、過去には声の導きを受けた者もいたらしい。
星の示しにより結ばれた男女。
星の教えを受けてその知の体系を完成させた思索家。
この町の誕生も星に由来があるという話もある。
真偽のほどはともかくとしてここでは星がなにかと重要なものとして扱われている。
実際に聞いたことがなくても星の声の存在を信じる者はこの町に多い。
だがケイはそれが聞こえるなどとは十四年生きてきてただの一度も信じたことがない。
これまでも聞こえなかったしこの先も聞こえることはないだろうと彼は思う。
星の声などない、とまでは言わない。
もしかしたらそんなものもきちんと存在するのかもしれない。
だが人間には聞こえないのだろうという気がしている。
もし星が話すのだとしたらきっと彼らだけに通じる言葉で話している。
それは人間には理解できない。
だから聞こえないのと同じだ。
何かが変わらない限りいつまでたっても聞こえることはない。
ただ、聞くことができたらいいだろうなとは思う。
夜に時々ケイが家を抜け出して星を眺めるのは別にその声を聞くためではない。
聞こえたらいいなとは思っても聞こえるかもと期待したことはなかった。
そもそも普段は星の声について考えることすらない。
そうするのは単純に星が見たいと思うからだ。
町はずれに木材置き場がある。
開けた場所で、人がいることはめったにないので一人で星を見るのには都合がいい。
転がっている丸太に腰かけ柵に背を預けて夜空を仰ぐ。
途端、星の海に吸い上げられそうになる。
宝石の浮かぶ暗い水面に浮かび、それから沈んでいくような。
怖くはない。むしろ落ち着く。
そして水底で考える。
その日によって違ういろいろなこと。
明確にイメージできる事物であることもあればぼんやりとつかみどころのない感覚的なものであったりする。
そして今日が終わったのだと知る。
寂しいようでもありほっとするようでもある。
そのことが十分頭に染み渡ったら家に戻る。
抜け出したことが母にばれないようにそうっと部屋に入り込む。
ベッドに電気を消してベッドに横になりまた少し考える。
じきに眠りに落ちる。
もちろん星の声は聞こえない。
……
パンにジャムを塗りながら、朝が憂鬱なのはなんでだろうとケイはいつものように考えた。
目が覚めると頭と気分が重いのだ。
生活に支障が出るほどではないがその重みは間違いなく首や肩に感じる。
眠りが浅いのかなとまずは思った。
確かによく寝たという実感はなかった。
低血圧なのかもしれない、と次に思う。
体質的に朝が弱いということは十分あり得る。
ただ、基本的にはいたって健康体なので心の問題なのだろう。
これから始まる一日に期待していないということだ。
別に楽しいことがないわけではない。
そうではなく自分の側にそれを楽しむ才能がない。
沈んだ気分のままパンをかじった。
学校に着くとケイは窓際の自分の席に鞄を下ろした。
荷物の重みは肩から消えたが代わりに何か別のものが心を重くした。
教室には既に同級生のほとんどが来ていて、思い思いに雑談をしている。
昨日見たテレビ番組の話、家族や教師の愚痴、部活やもうすぐやってくるテスト期間の話。
聞くともなく聞きながらケイは鞄から取り出した本を開いた。
本は好きだ。
だが学校で読む本は嫌いだ。
読むために読むのではなく一人でいる理由づくりに読む本は面白くない。
そして一人でいることは好きだけれど集団の中で一人でいるのは嫌いだ。
同じようでいて全然違う。
一人でいるところを一人でない者たちに見られるのは怖い。馬鹿にされて笑われるのが怖い。
しかしだからといって周りの雑談に入っていくことはケイにはとてもできそうにない。
それを自覚するとき、ケイはひどく情けない心地になる。
どっちつかずの宙ぶらりん。
きっぱり片方を選んで泰然としていられない自分に苛立つのだ。
そんなことを考えているので当然ながら本の内容は頭に入ってこない。
ふと顔を上げると二つ前の席に少女がいた。
頬杖をついて窓の外を眺めていてこちらからはその横顔が見える。
真っ先に目を引くのは綺麗に形の整った眉と鼻筋で、物憂げな表情がとてもよく似合っていた。
一人でいるというのに彼女は全く気にした様子はない。
周りも同じように気にしていない。
なぜならばきっと彼女にはそれが許されているからだ。
どこか遠い世界にいるような雰囲気かそれとも孤独ではなく孤高を感じさせるのなにかがあるのか。
あるいはもっと別な理由かもしれないが、とにかく彼女が一人でいることは当然のように受け入れられている。
ケイは目を本に戻した。
あまりじろじろ見ていると他の同級生に変に思われるからだ。
特に異性をじっと見る行為はある種の意味合いを帯びて解釈されてしまう。
それは絶対に避けたかった。
別に直接はやし立てられることはないだろう。
それもあり得なくはないが、もっとあり得るのは自分のいないところで話の種にされることだ。
自分のあずかり知らぬことなど気にしても仕方ないのだろうが、なぜだかケイには気になった。
彼女は気にしないのだろう。
たとえ聞こえるところで悪口をたたかれてもきっと意に介さないに違いない。
だから何? と、そういった感じで。
彼女はきっと強いからだ。
授業が終わり、放課後。
不審者が出ることもあるので気をつけるようにとの校内放送を聞きながらケイは学校を後にした。
背後でにわかに校舎全体が活気づくのを感じる。
これから部活動の時間なのだ。
どこか締め出されるような心地で足を運んだ。
川沿いの道を下り、背後の賑わいが遠ざかったところでようやく息をつく。
これでケイが一人でいることを意識する人間は誰もいなくなった。
気兼ねなく一人でいることができる。
もちろんさきほどまでにしても咎める者はいなかったのだが自意識というのは厄介だ。
誰が咎めなくともケイ自身がケイを咎める。
つくづく集団生活に向いていないことを自覚して落ち込んだ。
川面を見下ろすと鴨が泳いでいた。
こちらと同じく川を下るコースをとっていて、ケイはしばらく速度を合わせて歩いた。
動物はいいなと思う。
別に彼らが純粋な心を持っているなどとは思わない。
ただおそらくは些細なことで悩むことはないのだろう。
それが羨ましい。
知能は高ければ高いほどいいらしい。
ケイにはそうは思えない。
しなくてもいいはずの悩み事に足を取られるのが知能の高さゆえだとしたら、そんなものはいらない。
くよくよ悩まない性格に生まれたかった。
集団の中でも楽しく過ごせる資質かあるいは一人でいてもそれが気にならないだけの強さ、ないしは鈍感さがあればよかったのにと思う。
不意に声が聞こえた。
顔を前方に向けると、道の先で数人の少年たちが立ち止まり何やら笑いあっているのが見える。
こちらと同じく学校帰りのようだ。
ケイは再び気分が沈むのを感じた。
別に気にせず横を抜ければいいのだが、気にしないというのが何より難しい。
気になるものはなるからだ。面倒くさい性格ということ。
ケイは堪えきれずに道を右に折れた。
逃げるように、だが不自然にならないくらいの足取りで彼らから遠ざかった。
建物の間の細い道をたどっていくとやがて山沿いに出る。
遠回りにはなるがとりあえず人の目は気にしなくてもいい。
山腹の木々の間から鳥のさえずりが聞こえた。
ケイは後ろ、それから周りを確認してようやく肩から力を抜いた。
やはり生きるのに向いてないのかもしれない。
そんなことを思う。
ため息が出た。
山を右手にして歩いていくとまずはあまり広くもない畑地に出る。
もうそろそろ何か作付けの時期なのか堆肥の臭いが鼻をついた。
さらに進むと山の斜面から土砂を切り出す工事現場。
それを通り過ぎると山を越えて伸びてきた道路にぶつかる。
道路はそれなりに幅があって、山向こうとつながっている。
ケイは立ち止まって道路の先を眺めた。
時期によってはそれなりに車通りはあるのだが今は一台も見えない。
薄灰色の道が山を上って木々の中に消えていた。
じいっと眺めていたがやはり車は来なかった。
こちらから向こうに行く車もなかった。
動くものは何もなく、聞こえるものも何もなかった。
いや。
ケイはなにやら妙な音を聞いた気がして顔をそちらに向けた。
道路の向こう側は軽い下りになっていて、こちらからは死角の箇所がある。
どうやら異音はその辺りから聞こえてくるようだ。
少しばかり背伸びをして見下ろすと、ぼさぼさの後ろ頭が見えた。
道路脇の窪地に男が座り込んでいた。
男は黒く丈の短いコートを着ていて、その裾からさらに白い裾がのぞいている。
重ね着をしているようだ。
まだまだ寒い時期ではあるからそのこと自体は別におかしなことではないがその白い方の服には見覚えがある。
白衣のように見えた。
男は手元を見下ろして何やらいじっているようで、彼の身じろぎに合わせて異音が大きくなったり小さくなったりする。
音に混じって低い鼻歌が聞こえた。
どこか音程の外れた奇妙なもので、鼻歌と思わなければそう聞こえないほどだったが異音と合わさるとなぜかちょうどよく響きあっているようにも感じた。
「やっぱり具合がいい」
男のつぶやきが聞こえた。
「ここならちゃんと聞こえるかも」
それからさらにぶつぶつ言いながら手元の何かをいじってはしきりにうなずいた。
思い出すことがあった。
この時期、不審者が出没することがあります、気を付けて帰りましょう――
ケイはこっそり距離をとると、男に気づかれないように立ち去った。
ゆっくりと離れる間あの音と鼻歌がかすかに聞こえていた。
その二つはなぜかケイの頭にくっきり残って、家に帰り着いてからもしばらく消えなかった。
その夜、ケイは家を抜け出した。
玄関を通ると母に見つかるので運動靴を履いて部屋の窓からそっと出た。
目指すのはいつもの木材置き場だ。
誰かに見つかることのないよう目立たない場所を歩く。
月明かりはあるが一応気を付けて慎重に足を進めた。
木材置き場は相変わらず人気がなく、がらんとしていた。
ケイの専用席も前と変わらずそこにあった。
専用席、つまり丸太に腰かけ柵に背を預ける。
ぐっと身体をそらすと星の海が目に飛び込んできた。
ケイは夜の冷たい空気を深く吸い込んで、それからため息をついた。
静かだった。
星はちらちらと瞬いたりゆっくりと位置を変えていったりはするが物音をたてることはない。
無論星の声が聞こえることもない。
だから自然と意識はぼうっとなり、夜空とそれから自分の中に沈んでいくことになる。
空と意識の暗闇にまず最初に浮かんできたのは、クラスメイトの少女の横顔だった。
窓際に一人で座っていたあの少女だ。
彼女の名前はスズという。
スズは誰かと群れることはない。
いつもはほとんど一人でいる。
その点についてはケイと同じだ。
ただ、彼女は別に話下手というわけではないらしい。
話しかけられればちゃんと応えるし、その応えぶりもしっかりしている。
不愛想ということも特にはない。
その点がケイと大きく異なる。性質が大きく違うのだ。
スズは一人でいることも群れていることも可能な上で一人でいることを選択している。
ケイには選択の余地はない。
一人でいること以外に選択肢がない。
ケイは一人でいることを思い悩む。
スズは一人でいることに悩まない。
一人でいることが好きでその通り一人でいることまでは一緒だ。
だが他に共通点はおそらくは存在しない。
彼女みたいになれたらなあとケイは思った。
細かいことにくよくよすることもないだろうに。
強くなればいい。
ケイの頭のどこかでそう囁く声がある。
自分を変えることができればもう悩むこともない。
確かに、とうなずきかけてふとケイは思う。
確かにそうだけれど、どうすれば強くなれるのだろうか。
スズのように何事にも動じないようになればそれは確かに強くなったといえるかもしれない。
だがそうなる方法がわからない。
何事かに動揺してしまう性質の矯正方法ということだが、足し算の計算間違いを直すようなものとはわけが違う。
考え違いは後から直せばいいが反射的に動じてしまうのは動じた後に修正できるものではないしできたところで意味はない。
動じてしまう性質を根こそぎにしなくてはならないのだ。
それに、とケイは付け足す。
物事に動揺することが自分を自分たらしめているものだとしたら、安易に直していいものかどうかもわからない。
つまりはこういうことだ。
自分をよりよく変える上で自分ではなくなってしまった場合それは本当によりよくなったといえるのだろうか、と。
変化するとはどうしても自分ではなくなるということと背中合わせになる。
それはわかっているし当たり前のことだ。
気になるのはどれくらい自分ではなくなるのかということ。
鳥が生き残るために熊のようになってしまったとしたらそれは果たしてよいことと簡単に言ってしまっていいのだろうか。
つまり、
(ぼくは変わりたいけど自分でなくなるのも嫌なのか……)
どっちつかずの宙ぶらりん。
要するにその『迷う』ということが自分の性質なのだろう。
迷い動じることは簡単にはやめることができないという問題。
さらに、迷わなくなることで今までの自分でなくなった場合それでいいのかという問題。
この二つにケイは阻まれている。
考えれば考えるほど深みにはまる。
別のことを考えようと思い、ケイは目をつむった。
どうせこれ以外にもいくらでも悩み事はあるのだ。
せっかく考えるなら楽しいことを考えられればいいのだが、これもきっと性質なのだろう。
母のことやこの町の外のこと、将来のことをつらつらと考えていくうちに意識はさらにぼんやりとしてきた。
考える内容も曖昧になってごちゃごちゃと取り留めがなくなった。
男の背中がまぶたの裏に浮かぶ。
ノイズ交じりの妙な音と鼻歌も聞こえた。
和音でもないはずなのに変に調和して耳の奥に残る音……
ケイははっとして身体を起こした。
耳をすます。
それは確かに聞こえていた。頭の中だけの音ではない。
音の出どころは近くではないが遠くでもないようだ。
いまいちわからないが聞こえてくる方向にいたってはもっとわからない。
顔をあちこちに向けてみるが音は一様に聞こえてきた。
ケイは不安になって立ち上がった。
あのなにやら怪しげな男がそう遠くもないところにいる。
すぐにでもここを離れた方がよさそうだ。
木材置き場の柵の切れ目、出口に速足で向かった。
音がわずかに大きくなった。
さらに気が急いて歩みが早くなった。
ほとんど小走りになって柵の間を抜ける。
その瞬間ぬっと大きな影が前に立ちはだかって、ケイは小さく悲鳴を上げて派手に転んだ。
思わず前に出した手に激痛が走った。
……
「大丈夫? 痛かっただろ?」
「はあ……まあ」
男の気づかわしげな声にケイは身体を固くしながら答えた。
ガーゼとテープで処置してもらった手をじっと見下ろす。
大きく擦りむいた傷は依然として痛んでいるが、少しは楽になった気がした。
「悪かったよ。急に鉢合わせたもんだから避けようがなくて」
「別に……」
ケイはもごもごと答えながら丸太にのせた尻の位置を直した。
場所は変わらず木材置き場。
男に助け起こされて手当てをしてもらってなので時間もそう経過してはいない。
恐る恐る視線を持ち上げると、地面に置いたライトの明かりに男の柔和な顔が照らされていた。
年はよくわからないが若くはない。
かといってそう老けているようにも見えない。
三十代ほどなのだろうが雰囲気や声の印象はもっと若かった。
見ない顔だなと思った。
もちろん町に住む人全員の顔を覚えているわけではないがとにかくケイの知らない顔だった。
「ムロイだ」
急に男が言うのでケイは思わず身体を震わせた。
「ムロイ?」
「そう。俺の名前。今日の昼頃にこの町に入った」
そうですか、とケイは気の抜けた返事をした。
唐突な自己紹介だったのでうまく反応できなかったのだ。
ムロイはそんなケイを気にした様子もなくうなずいた。
「ああ、よろしく」
ムロイは次に「君の名前は?」と訊ねてきた。
よく知りもしない人に明かすのはためらわれたが、上手く拒否することもできず結局は教えることになった。
「なるほど、ケイね。いい名前だ」
彼はそう言ってもう一度うなずいた。
「とにかく怪我させてごめんな、ケイ。何かお詫びができればいいんだけど」
「そんな……いいですよ」
ケイは戸惑って首を振ったが、ムロイは引き下がらなかった。
「そういうわけにはいかないよ。何かなかったかな」
正直なところ初対面の人にそんなに気にされても困る、とケイは思った。
なんだか変な人だしなおさらだ。
ムロイはしばらく大きなリュックサックをがさごそ探った後、ぼさぼさの頭をかきながらつぶやいた。
「何もないな」
「その……あまり気にしないでください。自分のせいって部分も大きいですし」
早く切り上げて帰ろう。そう思った。
事務的なこと以外で人と話すのはなんだか久しぶりで、居心地の悪さが胸のあたりに溜まっていくのを感じる。
ちくちくと不快で、できることならすぐにでも逃げ出したい気分だった。
と、その時だ。あの音が再び聞こえた。
ケイは思わずそちらに目をやった。
「ん、気になる? この音」
ムロイはそう言ってリュックサックから何かを取り出した。
音はその何かから聞こえてくるようだ。
(……携帯ラジオ?)
そう見えた。
大まかな形としては片手に乗るくらいの大きさの直方体。
色は赤みがかった茶色だ。
その携帯ラジオらしきものからはノイズのような高い音が聞こえる。
まさにラジオのチューナーがうまく会ってない時に出るあの耳障りな音。
昼間も聞いたあの異音だ。
ケイの口から自然と疑問が漏れた。
「何ですか、それ」
「見たまんまだよ、携帯ラジオ。チューナーの壊れたやつ。だった」
「だった?」
「そう、俺が作りなおした」
ケイはしばしその元携帯ラジオの音に聞き入った。
しかしどう聞こうとも意味のある音には聞こえない。
「……直ってませんよ?」
「当然。直したわけじゃないからね」
ムロイはケイの怪訝な視線を浴びながら、得意げに言った。
「これはね、星の声を聞くための装置だよ」
……
星の声を聞くための装置、と彼は言った。
それは今、ケイの手の中にある。
夜が明けて学校。昼休み。
校庭の隅の目立たないベンチに腰かけて、ケイは途方に暮れていた。
(こんなもの押し付けられても……)
ムロイはお詫びのしるしとして装置をケイに貸すと宣言した。
「あげることはできないけどね、興味があるなら少しの間使っててもいいよ」
「え……別にいいです」
「いいっていいって、遠慮しない。また明日の晩に会おう」
そういうとムロイはさっさと立ち上がってどこかへ行ってしまった。
ライトの明かりが遠ざかって、後にはケイが残される。
遠慮じゃないんだけど、とケイは口の中だけでつぶやいた。
(本当になんなんだろう)
手の上のそれを見下ろす。
携帯ラジオ。
見た目はそれ以外の何物でもないが、星の声を聞くための装置と言われると何やら重量がある気がしてくる。
スイッチは入っていないので今は何も音はしない。
家に置いておくと母に見つかってなにか問題が起きないとも限らないので持ってきてしまった。
そして昼休みは目立たないようにいつもここに来るのだが、教室においておくのもなんとなく心配で持ち出してしまう。
結果として今手元にあるわけだ。
いろいろと角度を変えて観察する。
何の変哲もないシンプルな箱型。
特に目を引くような要素はない。
ひっくり返して裏も見るがそこにも何もなかった。
スイッチに指をかけ、しばらく迷った末にオンにする。
しかし何の音も聞こえてこない。
「あれ?」
おかしいなと耳を近づけた。
昨夜は確かに音がしていたのだが。
いや、とケイはさらに耳を近づける。
鳴っている。
小さくてわかりづらいが、間違いなく音がする。
装置にぴたりと耳を付けるとそれはさらによく聞きとれた。
相変わらず雑音のように聞こえる。
高かったり低かったりする音の集まり。
耳障りなはずなのに、だが聞いていても苦痛ではないのが不思議だ。
風の吹き渡る砂漠が頭に浮かんだ。
晴れ渡って強い日差し照り付ける黄砂の海。
強風が砂の粒を乱暴に転がす。
もみくちゃにされてぶつかり合う粒が奏でる音、それに似ているような。
もちろん砂漠など行ったことも見たこともないのでただのイメージだが。
その砂漠には誰もいない。
人間は存在していない。
音にあふれているのに無音と同じ。
純粋な空白がそこにあった。
「これが……星の声?」
空白の中でケイはつぶやいた。
装置から耳を離す。
いつの間にか閉じていた目を開く。
イメージの中よりもだいぶ優しい日の光に照らされる校庭に戻ってきた。
装置のスイッチを切った。
しばらく校庭で行われているサッカーの様子をぼーっと眺めた。
その耳にあの音がまだ響き、頭の中には空白に触れた感覚が残っている。
悪い気分ではなかった。
決して悪い気分ではなかった。
そのうちに昼休みの終わりが近づき、サッカーをやっていたグループは引きあげ始めた。
ケイは彼らが完全にいなくなってから教室に向かった。
……
「こんばんは。あれは気に入ってもらえたかな」
先に来ていたらしいムロイは、丸太に腰かけたままこちらに笑いかけてきた。
ケイは無言で近づいて、装置をポケットから取り出した。
「これは一体、何なんですか?」
あれ、とムロイは驚いた顔をした。
「昨日教えなかったっけ?」
「星の声を聞くための装置ですか?」
「なんだ、ちゃんとわかってるじゃないか」
ケイは首を振る。
「確かにちょっと不思議な音はしますけど……壊れたラジオと何が違うっていうんですか」
ムロイはそれを聞いて、なるほど、とうなずいた。
「その疑問はもっともだね」
彼はケイの手から装置を受け取ると、立ち上がってスイッチを入れた。
さああ、と木々のざわめきのような潮騒のような音が流れ出す。
昼間よりも大きくはっきりと聞こえた。
その音と夜の闇をバックにムロイは口を開く。
「確かにこれを星の声と断定するには材料が足りないかもしれない。なぜならこれは星が発してる波を受信して音に変換したものにすぎないからだ」
「星の波?」
「そう、星が出す電磁波、つまり可視光や放射線なんかを拾って音に変換するようにこの装置はできてる」
ケイは思わずそれに目をやった。
見た目は相変わらず安物の携帯ラジオだが。
「本当は赤外線や重力波も拾えればよかったんだけど、ちょっと無理だった。だから完全な声とは言えないんだ」
ムロイはそう言って空を指し示す。
「星の出しているあらゆるメッセージを受け取って人間にもわかるように翻訳する。それが俺の研究目的で、夢でもある」
一筋、星が流れた。
「もう二つ疑問があります」
ケイは消え去った流星の跡から視線を下ろしてムロイに言った。
ムロイはどうぞと微笑んだ。
「その装置が星の波……その、電磁波をきちんと拾えてるって保証はあるんですか? 他のものを拾っている可能性は?」
「いい質問だ」
彼はうなずく。
「確かにその可能性は無視できない。受信機の指向性を強化して明らかに余計な電磁波を修正する機構は組み込んである。だがそれでもきちんと選別しきれているかというとそれはない」
「じゃあ」
「うん。実際邪魔なのも混じってるだろうね。とりあえず拾った声の大きさが昼に弱く夜に強いことからうまくいってると思うしかないな」
ケイは昼間には装置の音が小さかったことを思い出した。
「で、次の質問は?」
ケイは一拍おいて口を開いた。
「それは本当に星の声なんですか?」
「と言うと?」
「だってその装置はさっきムロイさんが言っていたように単に星が発する電磁波を拾っているだけじゃないですか。
それを音に変換したところでそれは何かのメッセージとは言えないんじゃないですか?」
言われたムロイは瞬きして口をつぐんだ。
手元の装置を見下ろして、しばし考えこんだようだった。
「それは、考えたことがなかったな」
ケイはさらに続けた。
「そもそも星がメッセージを出しているなんて、どうしてそう思うんですか」
ムロイはぎょっとした様子でケイを見つめてきた。
ただ、それは核心を突かれて動揺したというよりは、そんなことを聞かれるとは思わなかったという驚きのようだった。
「そんなことを聞くのかい?」
彼は実際に口に出しもした。
「だってそうでしょう」
今度はケイが空を指す。
「まず、星が意思を持っているのかが分からない。意思がないならメッセージを紡ぐことができない。
次に、意思があったとしても人間に興味がなければこちらにとって意味のあるメッセージは送られてこない。違いますか?」
ムロイは大きく目を見開いてケイを見ていた。
何も言わずにケイの顔を凝視していて、ケイはだんだん怖くなってきた。
怒らせたかもしれない。
心配になったその時、ムロイが再び口を開いた。
「なるほどなあ」
ムロイはしきりにうなずいた。
「そういえば考えたこともなかったよ。星は人間に何かしらのメッセージを送っていて、人間がそれを聞き取れないだけだとなんでだか思い込んでた。それ以外の可能性は思いつきもしなかった」
今だ鳴っていた装置のスイッチを切って彼はこちらに訊ねる。
「じゃあ俺は無駄な研究をしていたのかな」
「それは……」
「君はどう思う?」
ケイの目をじっと覗き込んで彼は言った。
ケイはたじろいだ。
そんなこと分かるわけがない。というか知ったこっちゃない。
だがケイにはきっぱりとそう言うことができない。
彼の性質は迷いだからだ。
「君はあの音を聞いてみてどう思った?」
ムロイは急に問いを変えた。
「あの音は君にはどういう風に聞こえた?」
強い風の吹き渡る砂漠が目の前に鮮やかに浮かぶ。
何処までも続く空白。誰もいない。
「そうか」
ケイの答えにムロイは神妙にうなずいた。
そうか。もう一度うなずいた。
「星は孤独だ。一つ一つ気の遠くなるほどの距離を隔ててぽつんと浮かんでいる」
「孤独……」
「周りにあるのは何もない空間。暗い空白だ」
空白。
黄砂の海の空白。暗黒空間の空白。
闇の中を漂う自分を思い浮かべる。
遠く、はるか向こうに光が見える。他者がいる。
しかし触れることはできない。
理解し合うなど望むべくもない
「君の聞いたのは星の孤独なのかもしれないな」
ケイはムロイの手の中の装置を見下ろした。
「まあ違うかもしれない。どちらの可能性も、一応は存在する」
よし、とムロイは脇のリュックサックを持ち上げた。
「俺はそろそろ行くよ」
「どこに?」
「星を観察するのにいいポイントがあるんだ。ほら、あの山のあたり。君も帰りなさい」
ムロイは装置をケイに放った。
不格好に受け取ると、ムロイはもう歩き出していた。
短いコートの端からみっともなく白衣の裾がのぞいていた。
こういう雰囲気好きです
期待
レスしていいものかずっと悩んでたww
最初っから見てるよ
……
果てしなく広がる砂の野に佇んで、ケイは思う。
なぜあの夜はあんなにしゃべることができたのだろうと。
本来ならよく知りもしない人を相手にあんなに長々と会話ができるはずもない。
それなりに知っているクラスメイト相手でさえろくに意思の疎通もできないというのに。
ムロイという男になにかしら気安さを感じたのかもしれない。
よく知らない相手だからこそ気負わずに話すことができたのかもしれない。
だが、もしかしたらそれはこの、星の声を聞いたのがもっとも大きな理由だったのかもしれない。
装置から耳を離してまぶたを開けた。
校庭ではサッカーがちょうど終わったようだった。
装置のスイッチを切って、しかし立ち上がらずに空を見上げた。
星は見えない。装置のスイッチが入っていない今、声も聞こえない。
薄曇りの空がただ漠然と広がっているだけだった。
なぜムロイは星の声の研究をしているのだろうか。
その日最後の授業を受けながらふとケイは考えた。
あるかどうかもわからない不確かなものを追っている理由は何なのだろう。
星に意思があるわけもなく、あったとしても人間を気にするはずもなく、気にしたとしてもあえてこちらに呼びかけるとも限らない。
それでも星の声があると信じているのはなぜだ?
その言葉を人間が理解できる可能性はもっとないだろうに。
たいした疑問ではない。どうしても知りたいわけでもない。
それでも頭の半分を占めていたのはそのことで、もう半分はあの空白だ。
ムロイは突然やってきてケイの頭の中をあらかた占拠し終えてしまったようだった。
ムロイは一体何者なんだろう。
別段偉かったりすごかったりする人間でないのはわかる。
ではそんな人物を自分が気にするのは一体なぜなのだろう。
授業の終わりを告げるチャイムを聞きながら、ケイはなおもしばらく考え続けた。
夜、木材置き場に赴くと、すでにムロイはケイの専用席に収まっていてこちらに手を振った。
昼間考え続けていたことを聞こうとして、しかしなかなか言葉にならないまま持て余しているうちにムロイは何かを差し出してきた。
「いいのが撮れたよ」
デジタルカメラの画面には星雲と呼ばれるものだろうか、渦を巻くミルクのような靄と、薄ぼんやり照らされる岩石質やガス質の星と、それから何もない闇などが映っていた。
黒い画面を指さして訊ねると、望遠鏡の精度が悪くて上手く撮れなかったものだという。
「でもなんかいいだろ?」
それらの写真を見てケイが思ったのはもちろん綺麗だなあということだったが、それにもまして強い印象なのは孤独だなあということだった。
写真の中には連星と呼ばれるものや衛星を伴ったものもあるのだが、広大な空間の中にぽつんと浮かんでいることに対する心許なさというのか、胸の内に生じるきりきりとした痛みが拭い取れない。
だが星は何も言わない。結晶化した強靭だけがそこにある。
その一部が音として漏れ聞こえたのが星の声なのかもしれない。
孤独に軋む悲鳴ではなくただ単に孤独であることの報告。
きっとだから自分はそれに惹かれてやまないのだ。
装置をポケットから取り出してスイッチを入れた。
星の声が流れ出す。星の声ではないかもしれない異音が流れ出す。
ケイには空白に聞こえ、他の人にはそうは聞こえないであろうノイズ。
カメラをリュックサックにしまい込みながら「今夜は特によく聞こえるねえ」とムロイは言った。
星は寂しがらない。
ただ無表情に孤独を受け入れる。
淡々とそこに在り続ける。
そのことに疑問を持つこともない、とそんな風に思える。
似たような存在を自分は知っている。とケイは思った。
独りであり、それをただ受け入れ、どころかそれを選択している様子すらある少女。
スズ。
「ムロイさんも独りなんですか?」
ケイが訪ねるとムロイは不思議そうな顔をした。
「どういう意味だい?」
ケイははたと口を止めた。
深く考えて出した言葉ではなかった。
ただ、ムロイもスズと同じなのか気になったのだ。
星のような在り方をしているのか、それを聞きたかったのだ。
だがそれを形のはっきりした質問にするのは難しい。
「独身かってことなら見ての通り。家族はいるのかってことならいたにはいた。ふらふら職にもつかんなら出てけって勘当されたけどね」
それはケイの聞きたいことではない。
では何が聞きたいのかというとそれは言葉にならない。
「星の観察じゃよほどうまくやらない限り食ってけないんだよ。恐竜博士とおんなじさ。いわゆる『役に立たないもの』には誰もお金を払ってくれない。それでも好きだから仕方ないけどね。
やめようという気にはならないんだからやめる理由もない。そんなこんなで続けていたら、まあ純粋な意味での独りになっちゃったかな。誰も俺のことなんか気にしなくなった。胡散臭い目では見られることはあるけどそれだけ。
誰にも認めてもらえないのはまあ仕方ないな。もう慣れた。でも大好きな星にも見向きもされてないってことを考えるとそれはつらい」
虫の声と装置の音の中、ムロイはそう言ってどっかりと丸太に座り込んだ。
空に手を伸ばしてからからと笑う。
「せめて触れたらいいんだけどねえ。その点では化石と触れ合える恐竜博士が羨ましいよ」
ケイもその隣に腰を下ろして装置を脇に置いた。
ノイズの音が耳から入り込み、脳で一つのイメージをつくる。
夜の砂漠は月明かりに照らされて静かで、やはり誰もいなかった。
誰もいない風景に声が響く。
「でも寂しいとは思わないんだ。思えないと言った方が近いと思う。他のことには気が回らない。いいか悪いかはわからないけど」
目から入る風景と脳の風景、その両方で星が流れた。
一条の白い線を夜空に引いて、すぐに消えた。
「だからまだやめようとは思わない」
……
次の日の体育の時間、担当の教員は自由に活動してよろしいと宣言した。
学期の終わりも近くこなすべき課程も片付いたのでというのがその理由らしい。
ケイはいきなり地面が抜けた心地がした。
サッカーや野球の道具を抱えて賑やかに駆け出していくクラスメイトたちを見ながら、性質が違うんだなあとぼんやり思う。
頭で考えるよりも先に襲ってくるどうしようもないいたたまれなさ、足のすくむような感覚を、彼らは知ることがないのだろう。
若い者の多くは陽の光を好み自由を愛するかのように言われるが自分のような例外もいる。
昼行性の生き物もいれば夜行性のもいるのは当然なのだが、そのことは実のところあまり気にしてもらえないのだ。
異物のように見られるならばまだいい方かもしれない。
大抵はそんなこと意識してもらえてすらいない。
校庭を目立たないようにうろうろしてたどり着いたのは結局あのベンチだった。
恐る恐る座って、居心地の悪さに身震いする。
誰かの視線を感じる気がする。
どうせなら装置を持ってくればよかった。あれは自分を完璧に独りにしてくれるからだ。
自分という外殻の過敏を思う。
人の視線への感度の過ぎたる高さを思う。
要はそれなのだ。他人の視線ではない。それを感じる自分の問題なのだ。
自分を縛り、刺し、傷つけるのは自分だ。自分の中の虚栄心がそれをする。
他人を嫌って軽蔑すらして、しかし他人から好意的な何かを与えられることを望んでやまない。
切り捨てたいが切り捨てられない。
強くなることも鈍感になることもできない。
なんでこんなに悩まなくちゃならないんだ?
ケイは悪寒の中、地面を穴のあくほどじっと見つめながら思った。
なんでぼくだけ?
足音がしていた。
ケイはそれに気づいていたが知らないふりをしてやり過ごすつもりだった。
だから目の前でそれが止まった時、心臓が嫌な音を立てて脈打った。
「聞きたいことが二つ」
無感動な声はケイの頭の上からそう言った。
「……なに?」
ケイはかすれ声でその少女を振り仰ぐ。
スズはともすれば冷酷にさえ見える瞳でこちらを見下ろしていた。
その口が開く。
「なんで遊ばないの?」
なんでって……と、それは言葉にならなかった。
あまりに大きい衝撃がケイの言葉を封じた。
突き付けられた、と感じる。
今まで気配でしかなかった悪意が突如牙を剥いたような。
「ぐ、具合が、悪いから」
「嘘」
「嘘なんか」
「違う。嘘」
嘘じゃない。意気がしぼんで声にならなかった。
いきなりなんなんだろう、とかろうじて思った。
ぐわんぐわんと波打つ頭蓋の中でそれを考えられたのは一種の奇跡だったかもしれない。
自分は何かスズの気に障るようなことでもしたのだろうか。
なんでいきなりぼくを責めるんだろう。
「なんで……なんでそんなこと訊くの?」
「気になったから」
なんだか惨めになった。
自分はこの少女の気分一つでどん底に落とされるのだ。
知らず目に涙がにじんだ。
次、とスズは質問を切り替えた。
「あなたいつもここで何してるの?」
「え?」
「昼休みになるといつもここにきてる。何か理由でも?」
彼女はそう言ってケイの隣に腰かける。
ケイはびくりと身体を震わせて、大切な安定を失ったような不安に襲われた。
こんなところを誰かに見られたら変な話の種になるかもしれない。
胸がざわざわする。
だが彼女は気にしないのだろう。
強いから。他人の弱さなど気にも留めない無神経さを備えているのだから。
初めてケイの胸の内に憎しみが湧いた。
「君はなんでそんなに強いの」
口から漏れた言葉が震えるのは怯えのせいかもしれないし怒りのせいかもしれない。
ケイがそのとき感じていたのは単に胸が痛むということだけだった。
ひどく傷む。
うつむいたままで判然としないがスズがこちらを向く気配がする。
「質問したのはこっちだけど」
知るものか。ケイは無視して続けた。
「君は独りでいてなんで平然としていられるの」
ゆっくりと視線を持ち上げて、スズのそれとぶつける。
視界がぐらぐらして今にも失神しそうだったが、言葉は止まらなかった。
「なんでそんなに無遠慮に人に訊ねて平気なの。
なんで人の視線やどう思われているかが気にならないの。
なんでいろんなことに無関心でいられるの」
なんで怖くないの。
言葉を重ねながら頭の隅では理解している。
この先に待つのは後悔と自己嫌悪だ。
だがそれでも胸が痛いのだ。
「考えたこともなかった」
スズはぽつりと言った。
「考えたこともない?」
「わたしは独りでいたいから独りでいる。したいようにしてるのだから人が何を言おうが気にならない」
「本当に? 全然?」
「本当に。全然」
「人の悪口や視線も?」
「そう」
それから彼女は言った。「なんでそんなこと訊くの?」
つくりが違う、と感じた。
同じく孤独でありながら、絶対に理解し合えない。今、改めて、愕然とそれを思い知った。
誰かがシュートを決めたのかまばらな歓声が聞こえた。
バットがボールを捉えたいい音がした。
ケイたち二人の周りでは音はしなかった。
ケイは立ち上がるとふらりと歩き出した。
ぼくはスズのようにはなれない。そう口の中でつぶやきながら。
「どこへ行くの?」
「帰る」
「まだ授業終わってないよ」
ケイは知るものかと歩き続ける。
「結局昼休みはここで何してたの?」
最後にこの声だけが聞こえてきたので、
「星の声、聞いてた」
とだけ答えてもう後は何も言わなかった。
残りの授業を受けずに帰ったので母に叱られた。
心配と不安の入り混じった声での叱責だった。
なんでそんなことしたの。あんたはそういう子じゃないでしょ。
心配させないでよ。理由は何なの。ちゃんと言いなさいよ。
それを無視してテーブルの木目をにらんでいると、知ってるんだからねと母は続けた。
あんた夜にこっそり家を抜け出してることあるでしょ。知ってるんだから。
母さん一人であんたにあまり構ってやれなかったから少しくらいはと思って見逃してたけど。
でも最近は目に余るわよ。
ここのところ毎日みたいだし、手に怪我してたこともあったし。
それに今日のこれでしょ。もう、本当に心配させないでよ。
最後の方はかすかに泣き声も混じっていた。
なおも続きそうな気配だったが、途中でチャイムが鳴って母はテーブルを離れた。
その間にケイはこっそり涙を拭いてテーブルを立ち、部屋の窓から抜け出した。
ムロイが木材置き場に姿を現したのは町が闇に沈みきるその間際だった。
ケイはずっと専用席でうずくまって彼が来るのを待っていた。
「あれ、今日はずいぶん早いね」
ケイは無言で立ち上がるとムロイの前に歩いていき、装置を乱暴に手渡す。
「ありがとうございました、返します」
そのまま広場の出口へと足を向けた。
「楽しかったです。どうも」
「ちょっと!」
呼び止める声は一拍分の間を置いて聞こえた。
「どうしたのさ」
無視して歩き続けるとムロイは慌ててケイの前に回り込んできた。
「どうしたのってば」
ケイは彼の目をにらむようにして見上げた。
「ぼくはみんなと同じように楽しんで笑うことができません。そうしたいとも思えない」
「え?」
「でも一方でぼくはスズのように独りでいても平然としていることもできない。
弱いんですよ。どうしようもなく中途半端です。
みんなとおんなじにもなれなければ完全に別のものにもなれない」
話をうまく呑み込めていない様子のムロイに、無理もないなと思いつつも怒りを覚えて続ける。
「ぼくはムロイさんやスズが羨ましい。
あなたたちのようになりたい。なりたかった!」
スズのように超然として大勢に与せずそれでいて平然としていられる強さがほしかった。
ムロイのように大勢にそっぽを向かれるような生き方をしながらもそれを気にしない無邪気さがほしかった。
だから二人が眩しく思えて、心惹かれてたまらなかったのだ。
ケイには何もないから。
ムロイは呆気にとられた顔を、次第に真剣なものに変えていた。
ケイの目を見て、手の中の装置を見下ろし、それから自らを指して口を開いた。
「俺には、俺の世界しか見えない」
それからケイを指して続ける。
「君には、君の世界しか見えない」
そして、スズにはスズの世界しか見えないのだろう。
「それぞれの世界は交わるようでいて本当の意味で交わることは絶対にない。
なぜってそういうものだからだ。
俺は君になれないし君は俺になれないんだ。当たり前だろう?」
だから、とムロイは続ける。
「君の苦痛は俺にはわからない。真に理解してやることはできない。
俺に言えるのは一つだけだ。
君の世界には君の世界だけにしかできない在り方がある」
「……在り方?」
「そうだ。俺は俺であることしかできない。君も同じだ。それぞれがそれぞれの生き方しかできない。
だったらそれをとことんまで突き詰めてみるといい。
もしかしたら何かが見えるかもしれない。もちろん見えないかもしれない」
ケイの生き方。
迷うという在り方。
「きっと苦しい道だと思う。
それでも後悔はしないですむとも思う」
ケイは歩き出した。ムロイはもう止めようとはしなかった。
「頑張って」
その声が背後に聞こえた。
……
あれからムロイには会っていない。
木材置き場には行くことがなくなったし昼間にも見かけていない。
もう会うこともないのではないかという気もする。
いつものように授業を受けながらケイはぼんやり思い出していた。
ムロイは自分の生き方をとことんまで突き詰めろと言った。
あの時は曖昧にしかわからなかったが今ならもう少しはっきりとした形でわかる気がする。
二つ前の席で窓の外を見ている少女ではなく星の魅力に憑りつかれた男でもないケイだけの生き方。
大勢と同じ感覚を共有することができずそれでも大勢を意識せざるを得ないふらふらとしたケイだけにしかわからないことがある。
迷う苦しさだ。
スズにはこれを理解することはおろか認識すらできないだろう。
ムロイだって似たようなものだ。
なぜ迷うのか、なぜ苦しいのか、それを気の済むまで問い続けることができるのはケイだけなのだ。
だから問い続ける。答えはきっと出ない。死ぬまでそうだろう。
答えの出ないことを確認するための生涯になるかもしれない。
だがそうしている限り後悔せずにもすむように思った。
頭の中にざりざりと異音が響く。
星の声が聞こえている。
おわり
雰囲気というか、言葉選びがすごい良かった
最後消化不良気味だったのが残念でならない
乙
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