鷺沢文香「face to face」 (34)
文香「ん…」
目が覚めた時、カーテンで覆われた窓の外はまだ暗闇に塗られていた。
夢を見ていた気がする。何の夢だったかは思い出せないけど、多分幸せな夢。
枕元に置いた赤色の時計は五時半を指していたが、何故か私はもう一度眠ろうという気になれず、冷たい空気を纏う部屋で体を起こした。
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文香「…」
カーテンを開けて外を見ると、丁度向こうの空が白く光りだしているのが見えた。
まだ太陽は全て顔を出し切っていないというのに、少し遠くを走る国道には何台もの車が行き来している。
それを見ただけで、何故か感傷的な気分になる。
胸がキュウッと縮こまる様な、そんな気分。
それを全て変な時間に目が覚めた所為にして、私は太陽と反対側で白く霞む半月をしばらく見詰めていた。
私の名前は鷺沢文香。
職業は、アイドルをやってます。一応。
アイドルと言っても宗教的な偶像崇拝の方では無く、あくまで歌って踊る女性タレントの方。
鏡の向こうで歯を磨きながらこちらを睨み返している女は前髪が長く、内気な性格を体現している様に見える。
これなら宗教的な意味のアイドルの方が似合っているのでは無いだろうか。
それだと言うのに私にきらびやかな服を着せようとする『あの人』の考えている事はよく分からない。
文香「…ふふ」
鏡の中の女が少し笑った。
鷺沢文香、貴女にとって何が面白かったのだろうか。
女子寮から事務所までは歩いて十分か十五分。
いつもより少し早い時間に外に出る。
さっきまで窓から眺めていた街は夜明けと共に活気付き、人通りも随分と多くなる。
文香(…あれ?)
いつも通りの街の風景から切り離された様に、私の視界に入ってくる物がある。
文香(ここの本屋さん…潰れちゃったんだ…)
一度も入った事は無かったけど、事務所に行く時は毎日見ていた小さな書店。
今日はシャッターが上がっておらず、閉店のお知らせと書かれた張り紙だけが剥がれそうになりながら揺れていた。
文香「…」
ゆっくりと周りを見渡す。
道行く人は、この本屋さんが潰れた事を知っているのだろうか?
街から何かが失われた事に気付きもせずに、自分の日常を送るのだろうか?
文香「…?」
どうしてこんな事を考えてしまうのだろう。自分でも分からない。
今日は調子が悪い。なんだか変な気分。
文香(…そういえば、あそこに建つお店は毎回潰れるのが早いなあ…)
立地も悪くないはずなのに、不思議だ。
本屋になる前は何があったんだったか。
…思い出せない。
これでは周りの冷たい人間と同じじゃあないか。
…なんて、自己嫌悪と他嫌悪を同時にこなしながら、私は事務所の細い階段を上がった。
文香「…おはようございます…」
モバP「おう、おはよう文香。やけに早いな」
文香「なんだか…目が覚めてしまって…」
彼はこのプロダクション所属のプロデューサーさん。
本屋の店番をしていた私をスカウトして、この業界に踏み出させた張本人。
モバP「なんか怖い夢でも見たのか?」
文香「夢…?いえ、良い夢を…見た気がします」
内容は忘れてしまったけど。
モバP「はは、なら良かった」
プロデューサーさんはいつも子供の様に笑う。
人と会話するのが得意じゃない私の話を、一生懸命聞いてくれる優しい人。
モバP「今日のイベント、まだ春だってのに海の近くだからな。寒くない格好しとけよ?」
文香「は、はい…大丈夫です…」
モバP「…」
文香「…?どうか…しましたか…?」
モバP「いやなんか、いつもと雰囲気違うなーって」
文香「そうでしょうか…?」
モバP「あぁいや!悪い意味じゃ無くてな?」
慌てた様子で取り繕うプロデューサーさん。
それを見た私は、今度は自分でも分かるくらいに口角を緩め、微笑んでいた。
文香「…今日は…なんだか変な気分なんです…」
モバP「お、おお、そうか…」
プロデューサーさんが訝しげな表情を見せる。
私が笑うのが珍しいからだろうか?
~~~
船港近くのイベント広場に向かう為、プロデューサーさんが走らせる車に乗る。
文香「…」
車内で本を読むのは目に良くないから、窓を開けて外を眺める。
いつもは何となく気まずいけど、今日は何だか沈黙も心地良い。
車内はプロデューサーさんの煙草の臭いと、誰か他のアイドルの匂い。
その匂いは車に乗る時によっていつも違う。ラズベリーだったり柑橘系だったり、スイーツの様な甘い香りがする事も。
文香「…」
私は何となく、自分が座る助手席に体をすり寄せてみた。
飼い主に匂いをすり込ませる猫の様に。
モバP「…どうした文香。…おねむ?」
文香「えっ…その…何でも…無いです…」
プロデューサーさんに見られているとは思いもよらなかった。
まさか車に自分の匂いを付けていると言える訳も無く、私はさっきまで心地良かったはずの沈黙に耐えかね、俯いた。
~~~
ずっと何かを、諦めて生きてきた。
小学生の時はケーキ屋さんを夢見てた。子供らしい発想だと思う。
中学の時は小さな雑貨屋さんを営む夢を持っていたと思う。
近所の雑貨屋さんのお姉さん、皆からは魔女って呼ばれてたけど、不思議な魅力を持った綺麗な人だったなぁ。
いつの間にかお店を畳んで、いなくなってしまったけど。
高校の時は…多分作家でも目指してたんじゃ無いだろうか。
本は今でも好きだけど、自分で書いた事は一度も無い。
そんな風に、ただ何となく。
毎日をただ何となくこなしていた。
いつでも何かを忘れながら生きてきた。
そんな時、彼に出会った。
彼は内気な私の手を引いてくれて
私でも人を笑顔に出来ると教えてくれた。
私にも使える魔法を、教えてくれた。
~~~
モバP「文香…文香?」
文香「…んぅ?………あっ」
いつの間にか眠っていたらしい。
モバP「大丈夫か?会場着いたけど」
文香「は、はい…すぐ出ます」
モバP「はは、まだ時間あるし、慌てなくて良いよ」
やってしまった。
車でこんなに熟睡してしまうなんて
やっぱり今日の私はいつもと違う。
~~~
『鷺沢文香さんでしたー!どうもありがとうございましたー!』
イベントは滞りなく終了。
深くお辞儀をしてから、私はステージを離れた。
プロデューサーさんが裏で待っていてくれてるかと、なんて少し期待したけれど、どうやら近くにはいないらしい。
「あ…あの…!」
文香「?」
突然後ろから声をかけられた。
プロデューサーさんでは無いのは声で分かったので、イベントのスタッフだろうかと思い振り返ると、そこには私と同年代くらいの、普通の男性が立ってた。
男性「あの…ら、ライブ、お疲れ様でした…素敵でした…」
文香「は…はい…?ありがとうございます…」
一体この男性は何者だろうか。
ファンの方だとしたらここまで挨拶に来られるのは困るけど、無下に断る訳にもいかないし…
男性「あ、あの………覚えて、無い?」
文香「………?」
覚える?
何のことだろうか?
男性「いやあの…高校一年の時、同じクラスだったんだけど…」
文香「あ…」
……分からない。
彼には申し訳無いけど、まるで思い出せない。
恐らく会話した事も無いだろう。
文香「あの……ごめんなさい」
私は何に謝っているのだろうか?
彼を思い出せなかった事?
それとも、ステージ裏まで来ないでという拒絶?
男性「なんか…変わったよな…鷺沢さん…」
文香「っ…」
「おーい、文香ー?」
プロデューサーさんの声が聞こえる。
文香「ご…ごめんなさい…っ」
男性「…」
そう言い残して、私は逃げるようにその場を離れた。
モバP「さっきの人、知り合いか?」
帰りの車内。
ふいにプロデューサーさんが口を開いた。
文香「…高校の同級生…らしいです…」
モバP「らしい?覚えてないのか?」
文香「………はい」
モバP「…まぁ、気にする事無いって。テレビに出ると親戚が増えるって言うだろ?」
文香「はい…」
文香「…プロデューサーさん」
モバP「んー?」
文香「私……変わりましたか?」
今日一日、頭の隅で蠢いていた事。
モバP「それは、どういう意味で?」
ハンドルを握って前を向いたまま、プロデューサーさんがいつもの優しい声で、でも真面目な調子で聞き返す。
文香「今日の男性に、変わったなって…言われたんです…」
どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。
文香「まるで、今の私は…私じゃないみたい…」
モバP「文香だよ」
文香「え…?」
モバP「どんなに新しい自分を見付けても、文香は文香だ」
モバP「…シンデレラだって、みすぼらしい格好のまま舞踏会には参加しないだろ?」
文香「はい…」
モバP「なら、アイドルとしての文香は、普段の文香と違ったって、別に良いじゃないか」
文香「…」
モバP「あ!別に普段の文香がみすぼらしいって意味じゃなくてだな!?」
文香「ふふっ…」
プロデューサーさんがまた慌てだす。
そんな失礼な事、微塵も思ってないのに。
モバP「だからな、本屋で文香に会った時…なんちゅーか、月並みなんだけど、運命だーって思ったんだよ」
月並みなんかじゃない。
私にとってそれは、特別過ぎる言葉。
モバP「それは今でも変わらないからさ…文香は文香のままで、もっと俺を驚かせてくれよ」
文香「…はい」
モバP「ほんじゃ、そろそろ寮に着くからなー」
文香「…はい」
そうか。
私は、変わる事に怯えていたんだ。
新しい自分を見付け、過去の自分を忘れてしまう事を恐れていたんだ。
モバP「…あれっ?」
文香「どうか…しましたか?」
でももう、大丈夫。
モバP「あっこの本屋さん、潰れちゃったんだなーって。前は雑貨屋さんだったよなー。その前はケーキ屋さんで…」
文香「…ふふっ」
大丈夫。
変わらない物も、ここにあるから。
モバP「着いたぞ文香。お疲れさん」
文香「…プロデューサーさん」
夢を見たんです。
プロデューサーさんの、夢。
文香「プロデューサーさんは…どんな私でも…受け入れてくれますか…?」
車のドアを開けてくれたプロデューサーさんに、一本近付く。
モバP「お、おう。もちろんだ」
文香「…プロデューサーさん」
お互いの鼓動が聞こえるくらいに近付いて…
文香「目を…瞑って下さい」
不器用だけど精一杯の『私』を、この人に伝えたいから
期待
少しずつ何かを 忘れてゆくんだろう
現の夢との間で
揺れる
face to face 苦しまないで
face to face 一人じゃない
曖昧にしないで 自分の事を
上手く笑えなくて良い
それで良いよ
~おわり~
お疲れ様っす
短くてゴメンね
おつ モンパチとは懐かしい
タイトル見た時にビビっときたけどやっぱモンパチだったか
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