P「出来損ないのプロデューサー」(231)
リモコンの電源ボタンを入れて、チャンネルを回す。
独りの夕飯時の暇つぶしにはちょうどいいから点けた……というわけでもない。
ただこれが習慣であり、当たり前になってしまっていたというだけだった。
「……!?」
不意にチャンネルを回す手が止まる。
ゴールデンタイムの歌番組。画面いっぱいに1人の女の子が歌って踊っている。
彼女の姿はあの頃から変わらず可愛らしいままだった。
変わったとすれば、それは歌唱力やダンスといった技術だろう。
カメラ目線、女の子と目があう。
がむしゃらに歌って踊っていたあの頃と違って、今はカメラワークもしっかりと意識して動いている。
「……って、何で俺がこんなことを気にかけなくちゃいけないんだ」
今となっては関係のない話。
かつて彼女をレッスンで指導していたこと。
かつて彼女のために仕事をとってきたこと。
かつて彼女と一緒にオーディションに挑んだこと。
かつて彼女のプロデューサーを勤めていたこと。
かつて彼女の一番側で支えていたこと。
全ては昔のこと。今となっては関係のない話。
「……」
リモコンの電源ボタンを押して、テレビの電源を切る。
ブツンという安っぽい音と一緒に彼女は消えた。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1353663055
歌番組の生放送を終えた彼女は、スタッフに挨拶を済ませると事務所に戻った。
事務所では高木社長が「生放送、みていたよ。素晴らしい出来だったじゃないか」と賞賛の言葉を送ってくれた。
その言葉に側にいた事務員の小鳥は、彼女なら当然ですよと茶々を入れる。
それは本来なら小鳥のいう台詞ではなかった。彼女なら当然だと誇らしげに語ってくれるのは、いつも彼女のすぐ側にいた彼の台詞だった。
小鳥の正しい台詞は「二人共、流石ですね!」と彼女と彼を労ってくれるものだ。
「我が765プロに君のようなアイドルがいてくれて良かったよ。アハハハ!」
高木社長が豪快に笑い、釣られて小鳥と彼女も笑いだす。
事務所に笑い声が響く。その中に彼の笑い声は混じっていなかった。
帰宅して、寝ようとする彼女は電気を消すためにスタンドの紐に手をかける。
スタンドのすぐそばには写真立て。そこには765プロの集合写真が収められている。
真ん中に写ろうとする当時のアイドルたち。彼女たちに押しのけられた彼が隅の方で目立たないように立っている。
視線を移すと、写真立てがもう一つ。中身は彼女と彼のツーショット。
番組収録のロケ先で、現地のスタッフに撮ってもらったものだ。
写真の中の彼は、彼女の横で優しい笑顔を浮かべている。
しかし、彼はもう自分の横にはいない。
彼女のプロデューサーである彼は、ある日を境に姿を消してしまったからだ。
もう随分と彼に会っていない。何度も連絡を取ろうとしたことはあったが、結局は通じなかった。
彼のことを感じ取る術は彼との思い出を振り返る、メールを読む、そして今こうしているように写真を見つめるくらいのものだ。
プロデューサーとして隣にいてくれた頃は彼のことを考えただけで暖かい気持ちになれたのに、今はただ辛いだけ。
それでも、彼女は彼のことを考えずにはいられなかった。忘れることができなかった。
彼女は目尻に涙をためながら、小さく「会いたい」とつぶやいた。
改行してください
読みづらいのか? すまない、こっちでやるのは始めてなもんで。これが普通だと思ってた
地の文とセリフの間は改行してくれ、読みにくくてしかたない
こんな感じで
>今はカメラワークもしっかりと意識して動いている。
>「……って、何で俺がこんなことを気にかけなくちゃいけないんだ」
>今となっては関係のない話。
教えてくれてありがとう。次から気をつける
>>1 頑張って
面白そう先が気になるわ、期待してます。
人ごみに流されながら、彼は自宅へと向かう。
朝おきて、昼に仕事して、夜に寝る……毎日がその繰り返し。
新しい職場ではうまくやっている。
営業で磨いたコミュニケーション力で人間関係も比較的に良好、概ね問題なし。
見下されるほどでもなければ、嫉妬されるほどでもない。それが今の立ち位置だ。
肝心の仕事の方は、プロデューサー時代の激務の賜物か、毎日ノルマをしっかりとこなしている。
残業することもあるが、元々アイドルを売り込むための企画やオーディションの対策資料などを作って徹夜をすることが更にあったのでそれほど辛くもない。
むしろ、楽な……若干、力を持て余しているとも言える。
以前のように「トップアイドルを生みだす」なんていう高い目標もない。だから、仕事もそこまで頑張らなくていい。
多少、手を抜いても及第点に到達していれば何の問題もない。
それは彼にとって非常に楽なことであり、同時にとても空虚なものだった。
>>1 すまないが地の文でも長い時は所々で改行を頼む
読み辛いっす
内容は面白いと思うので完走期待してます。
こんな時間にこの道を歩くのは初めてだった。
人ごみの中、彼女は歩く。
ドラマの収録を終えて、そのまま直帰。事務所に寄らないのは収録が遅れてしまったからだ。
「はあ……」
俯いて、ため息ひとつ。
人気が上がれば、アイドルとして彼女に求められるレベルは高くなっていく。
そんな当たり前のことはわかっている。
それは彼女にとって喜ばしいことだ。評価されているということだから。
それでも、都合よく物事が進まないというのは辛いものだ。
今日のドラマの収録にしても、新曲の収録にしても、彼女の仕事には、作る人間とそれを扱う彼女の間で解釈の違いが生まれる。
どちらがどちらになれるはずもなく、互いに一方通行なもの。
そんな時に彼は、彼女に対して的確なアドバイスを送る。
彼女のことを一番理解しているからこそ、時には作り手に対しても進言する。
彼女を作り手に合わせ、作り手を彼女に合わせる。
作り手と彼女の誤差を限りなく0にすること、それが現場での彼の仕事だった。
今の彼女は独りだ。その誤差の修正を独りでやらなくてはいけない。
もちろん作り手の方もアドバイスをくれるが、それはどこか彼女の中で引っかかるというか、言っていることはわかるがいまいち要領を得られないのだ。
明日もまた収録だと思うと少し憂鬱な気持ちになってしまう。
「はあ……」
また、ため息。今の自分の姿を見たら彼はどう思うだろうか?
ふと彼女はそんなことを考えた。
おそらく彼のことだ。
「アイドルが暗い顔しない」とか「ため息をすると幸せが逃げる」といった軽口で自分のことを慰めてくれるのだろう。
そんな情景を思い浮かべた彼女は小さく笑う。
明日のことを今日悩んだって仕方のない話だ。
自分にできることを精一杯する。それだけでいい。
彼女は自分を鼓舞するかのように、頭をあげる。
「えっ!?」
瞬間、彼女は息を呑んだ。
数メートル先、人ごみの中に見覚えのある背中が目に留まる。
彼女は知っている、あの大きな背中を。
いつも自分を導いてきてくれた、それを見間違えるはずがない。
人ごみに流されて消えていく背中。
彼女は走り出した。
ここで見失ったら、もう二度と会えないのではないかという予感がしたから。
人ごみをかき分けて、その背中に向かって力強く叫ぶ。
「――っ!」
改行って、こんな感じでいいのか?
読み易くなったと思います。
一瞬、立ち止まる。
背中から聞こえてきた言葉は彼にとって馴染みのあるものだった。
「プロデューサー」、かつて彼を表す記号だった言葉。
でも、それは昔のことで今の彼をその名で呼ぶ人間は周りにはいないはずだ。
職場の同僚や上司は、彼のことを名前で呼ぶが「プロデューサー」とは呼ばない。
だから、今のは空耳だ。過去に未練のある自分が聞いた幻聴だ。
それとも、今の言葉は確かに誰かが言ったものなのだけれど自分に向けた言葉ではないのかもしれない。
人ごみを見回してみる。行き交う人の波、これだけ自分以外の人がいるのだからプロデューサーの一人いたっておかしくない。
いずれにしろ、自分には関係のない話だ。そうやって、自分を納得させて彼は再び歩き出す。
「――っ!」
同じ言葉が、さっきよりも鮮明に耳に入ってくる。
さっき聞こえた時と同じ声。忘れるはずのない彼女だけの声だ。
でも、彼女がここにいるはずがない。
今聞こえたのはさっき聞こえたものと同じだ。
またそうやって自分を納得させる。確認することが怖いから。
自分の後ろに彼女がいる。
その確信が現実だと理解したくなかった。それでも、体は彼の意思とは無関係に動く。
振り返った先には彼女の姿があった。
まだ読みづらい気がする
地の文の中でも改行で間隔開けて欲しいな
わがままごめん
一文が長い場合は、改行しろってことか?
地の文が多いから、地の文でも適度に改行してほしいってことだろ
一行の長さとしてはそこまで長いものでもないし
SSスレであまり書式の話なんてしたくないからこっちに書いてみた
アイマスSS練習用スレ - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1337865028/256)
とは言っても書く人の自由なのであまり気にしないで
それはともかく今後の展開が楽しみだ
よくある設定ながらも視点が変わるとこやラストの引きがうまくて、先が気になる
人物描写も丁寧だから続きを楽しみに待ちたい
なかなか
男と女が意味深に見つめ合っている。
周りにはそう見えるのだろう。何事かと、二人のことをみる。
きっと頭の中で好き勝手なことを思っているに違いない。
彼にしてみれば周囲のあらぬ誤解など気にかける必要はどこにもない。
どうせ、見ず知らずの他人だ。
自分のことなどすぐに記憶から抜け落ちてしまうだろう。
しかし、彼女の場合は違う。
彼女はアイドル。
もし今この状況で彼女が「彼女」であることを知られたら、それは見た人の記憶に深く残るものだ。
ゴシップ誌には熱愛発覚といった記事が載ってしまうだろう。
何かが起きれば、世間を騒がせられる。それくらいの話題性と知名度が今の彼女にはあった。
もう彼女と関わりをもっていない彼だが、彼女の活動に悪い影響がでるのは避けたい。
彼は急いで彼女の手白く細い手をとる。
こんなことをした方が返って目立つのでは?
そんな考えが一瞬頭に浮かぶが、とにかく今は彼女を人目から遠ざけることが先だ。
握り締めたその手に彼女の体温を感じながら、
彼は彼女の手を引き、人ごみから逃げるように走り出した。
二人で辺りを見回してみる。夜の公園には誰もいない。
結構な距離を走ったのか、互いに呼吸が荒い。
彼が彼女の手を離す。
彼女の顔が寂しそうなものに変わるが、彼はそれを無視してまっすぐ自販機へと向かっていく。
彼女もその後を黙ってついていく。
投入口に硬貨をいれて飲み物を買う彼と、後ろで待つ彼女。
無言の時間がずっと続く。
「あの、プロ」
彼に声をかけようとすると、目の前にペットボトルのお茶を差し出された。
彼の方を見てみると、自販機にもたれて空いた手に持った缶コーヒーを口につけている。
とりあえず飲め、そういうことなのだろう。
彼からの無言のメッセージを受け取った彼女はペットボトルを受け取ると彼にならい、キャップをあけてお茶を飲む。
温かくて、少し苦味のある味が口に広がる。
「まったく、トップじゃないにしたってもうかなりのメジャーアイドルなんですから」
独り愚痴るように言葉を漏らす彼。
にもかかわらず、敬語をつかっているのは彼女に向かって話しているからだ。
「気をつけないとダメですよ」
「はい……すみません、プロデューサーさん」
彼女に対する注意と優しさが混ざり合った言葉に彼女、三浦あずさは申し訳なさそうに頭を下げた。
支援
「お久しぶりです、プロデューサーさん」
「ええ、こちらこそ。お久しぶりです、あずささん」
そこで会話が途切れる。別に何かを話さなくてはいけないというわけではない。
それでもあずさは会話を続けるために口を開く。
「えっと、プロデューサーさんが元気そうで安心しました。ずっと連絡がとれませんでしたから」
「ええ、元気ですよ。健康が取り柄みたいなものですし」
小さく笑う二人。
元気だという彼の言葉は嘘だ。
健康なことは事実だが、あずさの言う元気というのはそういうことじゃない。
彼はそれを理解した上で、あずさに元気だと言う。
「そう言えば……この間、生放送の歌番組見ましたよ。ほら、ゴールデンタイムの」
「ほ、本当ですか。なんだか恥ずかしいです」
あずさは顔を隠すように両手を赤くなった頬にそえる。
もう何度も見たその仕草に、彼は懐かしさを覚える。
「まっ、実際懐かしんだけどさ」
「プロデューサーさん、何か言いましたか?」
「いえ、あずささんは変わらないな。そう思っただけです」
「そうですか。あの、プロデューサーさん……どうでしたか?」
「どう……と言いますと?」
「その、私のパフォーマンスです。歌って踊っている時は、自分のことは見えませんから」
「そうですね」
彼は両手を組んで考える……ふりをする。
プロデューサーをしていた頃のように、あずさのそばで、あずさのことを見ていたわけではない。
そもそも、あの番組は偶然見たものだ。その上、彼はあずさの出番が終わる前にテレビを切った。
細かい指摘など出来るはずもない。
それでも彼女は、彼の言葉を期待した目で待っている。
だから彼は……
「とてもよかったと思いますよ」
とりあえず、あずさのパフォーマンスを褒めることにした。
実際、彼はあずさのパフォーマンスの完成度は高いと感じた。
しかし、それはテレビ越し、観客としての目線での意見でしかない。
現場を離れた自分の感覚が本当に当てになっているかはわからなかった。
だから、彼はこんな当たり障りのない言葉を選んだのだろう。
「カメラ、しっかりと意識して動いていましたね」
「あっ、わかりますか? 自分ではちゃんとできたか不安だったんです」
彼女の今のアイドルとして立ち位置ならカメラの把握などできて当然だ。
その後も彼は、「歌詞に合った歌い方でしたよ」とか「もう少し動きを……」といった、
いかにもプロデューサーらしい言葉をあずさにかけた。
正解を当てなくていい。あずさの心を動かせれば、それでいいのだから。
後はあずさが勝手に完結してくれる。
事実、あずさは「うーん」と言って、自分のパフォーマンスを振り返っているようだ。
彼の的確でもなんでもない嘘の言葉。
そんな言葉でも、あずさは……
「ありがとうございます、プロデューサーさん」
とても喜んでくれた。
「そう言えば活動の方はどうですか? 歌って踊るだけがアイドルの仕事じゃありませんし」
彼は話を変えようと別の話題をあずさに投げかける。
あずさの活動、それは彼が自分から調べなくても勝手にメディアを通して伝えられるものだ。
現在、あずさがドラマの主演を張っているのも芸能ニュースを見て知っている。
「活動の方はどうですか?」、それが彼からの収録は上手くいったのかという質問だとあずさは理解していた。
あずさは一瞬、顔を曇らせるがすぐにいつも表情に戻して、彼の質問に答える。
「えっと……そうですね。まあまあでしょうか」
「まあまあ……ですか」
「はい、まあまあです」
まあまあ、つまり可もなく不可もなく。
自分の言ったことを繰り返す彼に合わせて、あずさもその言葉を繰り返す。
今日の収録はそういう出来だったのだと、彼に、自分に言い聞かせるように。
あずさは嘘をついている。
収録が上手くいかなかったから、こんな時間に帰ることになったし彼と出会ったのだ。
それでも彼女は、彼に余計な心配をさせまいと嘘をつく。
彼とあずさはわかっている。お互いに嘘をついていることに。
あずさは彼の元気だという言葉が嘘だとわかっている。
彼はあずさのまあまあという言葉が嘘だとわかっている。
かつて、二人はプロデューサーとアイドルだった。
辛い時も悲しい時も嬉しい時も楽しい時も、すべての時間を分かち合ってきた。
そんな二人が言葉だけの嘘で相手を騙せるほどに薄っぺらな関係のはずがない。
彼もあずさも、相手の愛想笑いの向こうにある目に見えないものを確かに感じ取っていた。
なあ、他に書きたいものが出来たとしてもまずはこっちを終わらせてからやるべきなのか?
更新速度が変わらないなら新しいの書いていいと思う
というかそんなの各々の自由だろ
並行して書けるなら書いて良いと思いますよ。
他のを書く影響でこっちが放置状態になったり、
最悪エタったりするとマズイかと…
たぶんその新たに書く方のスレが荒れると思います
『こっち書いてる余裕があるなら早く○○の方を書けよ』
的な批判が始まったりして。
今書いてるのを終わらせて次が堅実だとは思いますが
最終的には>>1氏の判断で良いかと。
自分としてはエタらなければそれで良いので。
複数のスレ掛け持ちして書いてるやつなんてしょっちゅういるから自分の好きな様に書いたら良い
作者が2ヶ月放置して処理されなければ荒れたりしない
〇〇のスレの更新はまだか?なんて言われても、放置してることで荒れてるのは見たことない
「……」
「……」
二人の間に無言の時間が流れていく。
何もしていなくても時間はたち、体だけは冷えていく。
彼は缶コーヒーを口元で傾けてみるが、口に流れてこんでこない。
どうやら飲み干してしまったようだ。
「さてと……それじゃあ、俺はこれで」
彼は空き缶を少し乱暴にゴミ箱に放り込み、「おやすみなさい、あずささん」と言って帰ろうとする。
その動作と言葉は、普段からあずさと会っているかのような自然さがあった。
こうすれば、あずさも同じように「おやすみなさい、プロデューサーさん」と返してくれると思った。
だが、あずさは飲みかけのペットボトルを鞄にしまい、帰ろうとする彼を追いかけてくる。
どうやらあずさはまだ彼を帰す気はないようだ。
「ま、待ってください。プロデューサーさん!」
「……なんですか?」
無視を決め込んで、帰ってしまえばいいのに。
それでも、あずさに話しかけられたら返事してしまう自分の未練がましさに嫌になりながら彼は立ち止まる。
「えっと、その……もう少し何か話しませんか?」
「あずささん、ひとついいですか?」
「はい。なんですか、プロデューサーさん?」
「さっきから俺のことをプロデューサーと呼んでいますけど、俺はもうあずささんのプロデューサーではありません」
「……」
自分とあずさはもう無関係の人間だと、
あずさを突き放すように傷つけるように冷たく言い放つ。
かつてのあずさなら、涙を浮かべてその場を去ったに違いない。
それでも、あずさは顔を背けることもなく彼の瞳をじっと見つめてくる。
どうすれば、あずさの元から離れられるか彼は考える。
しばしの思案のあと、彼はゆっくりと口を開いた。
「俺があずささんの元を離れてどれくらい経ったか知っていますか?」
「えっ?」
「質問に答えてくださいよ。どれくらい経ったか、わかりますか?」
「はい。それは……もう随分と長い時間が経ちました」
「そうです。あずささんが髪を切り、その髪が昔と同じ長さに戻るくらいの時間が経ちました」
「……」
「最初に見た時は驚きましたよ」
あずさの元を去った彼が次に彼女を見たのは、何気なく点けたテレビの歌番組だった。
そこに映るあずさは、もう自分の知っているあずさではなかった。
髪を切ったあずさは生まれ変わったかのように全ての技術が向上していて、ステージの上でそれを遺憾なく発揮していた。
「女性は何かあると、けじめをつけたり、自分を吹っ切るために髪を切ると聞いたことがあります」
失恋した女性が髪を切るという話はよく聞く話だ。
「あずささんも俺のことを吹っ切って、新しく再スタート出来ていて嬉しかったですよ」
少し寂しかったですけどね、と続けて彼は自嘲気味に笑う。
日毎に雑誌や芸能ニュースで増えていく彼女の活躍と話題に、自分の存在はなんだったのか?という自問自答を繰り返したことが何度もあった。
「違います、あれは」
自分があずさに必要ないということを説明しても、あずさは否定してくる。
そんなあずさに、彼はあずさを勇気づけるかのように優しい口調で語りかける。
「今のあずささんのアイドルとしての地位、それはあずささんが自分ひとりの力で勝ち取ったものです」
「違います、違いますよ……プロデューサーさん」
「あずささんに俺は必要ありませんよ。自分の力、信じてください。そうでなくちゃ、今まで頑張ってきたあずささんがかわいそうじゃないですか」
「私にはプロデューサーさんが!」
「俺はあずささんに相応しい男ではありませんから」
「そんなはずはありません! だって、だって……」
あずさは肩を震わせながら、自分の中にある一番大切な思いを口にしようとする。
「プロデューサーさんは私の!」
「俺はあなたの運命の人なんかじゃない!」
あずさが、彼女にとって一番大事な言葉を言う前に彼はそれを否定した。
堰を切ったように、彼は自分に何度なく言い聞かせてきた呪いの言葉を吐く。
「運命の人が、あなたの期待を裏切るものか!
運命の人が、あなたを傷つけるものか!
運命の人が、あなたをかなしませるものか!
運命の人が、あなたに涙をながさせるものか!
そして、なにより」
息を荒げながら、彼は呪いの言葉の最後を紡ぐ。
「運命の人が、あなたを捨てて逃げ出すものか」
乙
盛り上がってまいりました
P、何をやらかしたんだよ
プレッシャーに勝てなかったんだよ…あの圧倒的存在感を放つ…二つの山によるプレッシャーにな…
つまりヤリ捨てして逃げたのか・・・普通にクズじゃねえかww
アイドルのプロデュースの期間は1年。それが雇い主である高木順一郎との契約だった。
1年という長いようで短い時間はあっという間に過ぎていった。
活動の最後を締めくくるための特大の仕掛け、引退コンサート。
あずさと作る最後の大舞台、それは同時にあずさとの別れを意味していた。
彼は引退コンサートがあずさにとってずっと忘れられない思い出にするため、会場にドームを選んだ。
引退コンサートに向けて彼は自分の持てる力の全てを注いだ。
雑誌やCM、会見と少しでも多くの人をドームに集めるために宣伝をした。
広いドームに響くファンの大歓声。
それが自分にできるあずさへの贈り物だと信じて。
しかし、現実は非情だった。
あずさが最後の曲を歌い終えた時、会場は静かだった。
大歓声は聞こえてこない。痛いくらいに静かなままだった。
ステージに立つあずさはファンに向かってお辞儀をする。
それを合図にファンが口々に不満を漏らしながらドームから出て行く。
最後の一人が出て行くまであずさは頭を下げたままだった。
舞台裏であずさのことを見ていた彼は、あずさが涙を浮かべているのを見逃さなかった。
誰もいなくなったドームの中、あずさの小さく嗚咽を漏らす声だけが響いた。
それは迷子の女の子が泣いているようにも見えた。
彼はあずさに何か声をかけようと近づく。
お前にそんな資格があるのか?
突然の声に彼は足を止める。それが自分の心の声だと自覚するまで数秒かかった。
引退コンサートの会場にドームを選んだのは、他でもない自分だ。
もし自分がドームなど選ばなければ、こんなことにはならなかったのでは?
そもそも、どうしてドームなんて選んだ。
あずさのためなんて本当は建前でしかなかったのでは?
自分のプロデュースするアイドル、自分の作りあげた「作品」を世に知らしめるためではなかったのか?
アイドルであるあずさへの賞賛は、同時にプロデューサーである自分への賞賛でもある。
結局は自分のためではなかったのか?
心の隅にあるどす黒いものが急速に膨らんでいき、彼の心を埋め尽くしていく。
あずさの期待を裏切った。
あずさを傷つけた。
あずさを悲しませた。
あずさに涙をながさせた。
その全ては自分の独りよがりが招いた。
それを自覚した瞬間、彼はあずさから逃げるように走り出した。
泣きじゃくる、彼の言葉を待っているあずさをそのままにして。
その日を境に彼が765プロに戻ることはなかった。
「俺はあずささんの積み上げてきたもの、アイドルとしての地位も人気もファンも全て壊しました」
この業界での失敗が何を意味するか、彼はよく知っている。誹謗中傷の対象になるということだ。
「アイドルひとり満足にプロデュースできない、女の子ひとりの夢も叶えられない出来損ないのプロデューサー……それが俺です」
よっぽどのことがなけりゃそんな状態に陥ることなんてないんだがな
普通にパフェコミュをしっかりとってればラストのドームライブも成功するしな。
しかし、ヤリ捨てるか……それはそれで面白そうだな。
かつての担当アイドルをヤリ捨てて、今は同じ事務所の別のアイドルのプロデューサーをやっているみたいな感じで
まぁそれは別の機会と言うことで。乙。
別のも書き始めた。こっちと同じでチマチマ書いてく
あずさにとって忘れられない思い出となってしまった引退コンサート、その原因は自分にあると彼は語った。
しかし、あずさはそうは思わなかった。
「プロデューサーさん、あの時のことはプロデューサーさんが悪かったんじゃありません。あれは私の実力が足りなかったことが招いたことです」
もし、かつてのあずさが今ほどの実力があればコンサートを成功させられただろう。
彼は、あずさの期待を裏切ったと言っていたが期待を裏切ったのは自分の方だとあずさは考えていた。
ファンの期待、そして何よりも彼の期待を裏切ったことが辛かった。
「俺はあずささんの実力をよく理解し、その上でそれに適した会場を選ばなければいけません。なのに、結果は……これがどういうことかわかりますよね、あずささん」
「……」
「俺はあずささんの実力を把握していなかった。あずささんのことを理解していやしなかった」
あずささんのプロデューサーなのに、と彼は続けた。
「結局、俺は自分のことしか考えていなかったんですよ」
「それじゃあ、プロデューサーさんは自分の立場のために私を利用したということですか?」
「そう……ですよ。俺は認められたかった、自分の力ってやつを。あずささんが成功すれば、それはプロデューサーである俺の実績につながるわけですからね」
「それは本心ですか?」
「えぇ……本心ですよ」
彼は吐き捨てるように、自分に言い聞かせるように喋る。
あずさがオーディションに合格する、ライブを成功させる、番組の収録でいい結果を残す。
それは、彼がアイドル「三浦あずさ」という道具をつかい、独りで勝ち取ったものではない。
アイドルとプロデューサー、二人の力で勝ち取ったものだ。
それを理解していない彼ではないと、あずさは知っている。
独りの力を認めるということはあずさの否定につながるから、
自分の中の本心と真逆のことを言っているから、
目の前の彼はこんなにも辛そうな顔をしているのだろう。
「あずささん、俺のことは忘れてください、考えないでください。俺とあずささんの1年間、そんなものは最初からなかったんです」
「どういう意味ですか?」
「言葉の通りです。俺はあずささんの経歴に泥を塗りたくった張本人」
そんな出来損ないのプロデューサーの存在も、そんな男と積み重ねた一年という過去も全て、あずさの記憶から消えてしまえばいい。
「明日もあずささんは、これまでと同じように俺のいない日々を送ってください」
「プロデューサーさん……」
「そして、今度こそ見つけてください。俺なんかじゃない、本当の運命の」
彼がその言葉をあずさに向かって放った瞬間、
パンッ!
薪が弾ける時のような乾いた音が夜空に響く。
熱くなった左の頬に手を当てた時、彼は自分がぶたれたことに気づいた。
これはあずささん、怒っていい
「あずさ……さん?」
「すみません、プロデューサーさん。痛かったですよね」
あずさは彼の手をどかし、自分が叩いた頬をいたわるようにさする。
「覚えていますか、プロデューサーさん?
初めて私とプロデューサーさんが出会った時のこと、
オーディションに合格した時に一緒に喜んだ時のこと、
収録が上手くいかなくて、二人で悩みながら成功させた時のこと、
迷子になった私を何時間もかけて迎えにきてくれた時のこと」
目を閉じ、胸に手を当て、彼と共有した大切な時間を振り返りながら、
あずさはゆっくりと彼に語りかける。
「プロデューサーさんと過ごした毎日の思い出は、今も私の中で大切に残っています。プロデューサーさんは、どうですか?」
「それは……」
あずさの元から逃げ出した彼だが、あずさのことを考えない日はなかった。
あずさと同じように目を閉じれば、本当に充実していたあの頃がすぐに浮かび上がってくる。
「俺もあずささんとの思い出を忘れたことはありません」
「それなら、どうして私がプロデューサーさんのことを忘れられますか? プロデューサーさんとの思い出をなかったことにできますか?」
「でも、それは結局悲しくて辛い思い出に終わってしまうじゃないですか」
どれだけ楽しい思い出を重ねても結局、引退コンサートは失敗に終わり、あずさは辛い思いをしてしまった。
終わりよければ全てよしという言葉があるが、それならば、その逆に終わりが悪ければ、全ては悪いという形でしか残らないのではないだろうか。
「だったら、そんな思い出は……」
「プロデューサーさん、過去は消せませんよ。それがその人にとって大事なものであればある程、いくつになったって忘れられません」
彼はあずさのことを忘れようとしたが、できなかった。
なら、あずさに自分のことを忘れてほしいと彼は望んだ。
しかし、あずさは、それは出来ないといった。
「じゃあ、いったい……いったい、俺はどうすればいいんですか?」
彼は情けないと思いつつも、あずさにそう問いかけるしかなかった。
「プロデューサーさんは、どうしたいですか?」
「えっ?」
答えを期待していたわけじゃない。
年下の女性に弱音を吐く女々しい男に幻滅して、いっそ「甘えないでください」と冷たく切り捨ててもらえば楽だと思った。
むしろ、そうしてほしかった。
だからこそ、彼はあずさの予想外の返答に戸惑った。
「大切なのは、どうすればいいかじゃなくてどうしたいか。私はそう思います」
「俺がどうしたいかですか、何をするべきかではなくて?」
「プロデューサーさんは、どんな時も私の意思を尊重してくれましたよね? それはどうしてですか?」
「それは……あずささんのやりたいようにやらせてあげることが、一番あずささんが輝けると思ったからですよ」
プロデューサーという立場上、担当アイドルにあれこれ指示を出して従わせることは可能だ。
彼がその気になれば、世間に定着している「三浦あずさ」というアイドルのイメージとは真逆の方向で売り出すこともできただろう。
だけど、彼はそれをやろうとしなかった。
それは女の子を大事にするという765プロの方針に共感したということもあったし、
なにより彼はあずさにはあずさらしく、ありのままでいてほしかったからだ。
「私もプロデューサーさんには輝いていてほしいです。プロデューサーさんには、自分に嘘をつかないでありのままでいてほしいです」
あずさは「だから……」と小さく言いながら彼の両手をとり、その大きな手を自分の手で優しく包み込む。
「教えてください、プロデューサーさん。プロデューサーさんの本当の気持ちを、願いを」
「俺は……」
あずさの記憶から消えてしまいたい。
「違う、そうじゃない!」
彼は浮かび上がってくるものを、声を上げて否定する。
「俺は、あずささんの引退コンサートを失敗に終わらせてしまった時、何もかもが終わってしまった。そう思っていました」
「……」
「たぶん俺は自分を慰めたかったんです」
あずさの記憶から消えてしまいたい。
あずさに自分はもう必要がない。
自分はあずさの運命の人ではない。
出来損ないのプロデューサー。
何もかもがあずさを傷つけた自分を悲劇の主人公にして納得させるための役作りであり、自分を守るためにかけた呪いにしかすぎない。
「でも、本当は何も終わっていないんですね」
「かつて憧れた立場まできたけれど、夢は果てしなく広がって止まらない。そんな歌詞があるように、物事に終わりなんてなくて、ずっと続いていくものだと思います」
「そうですね……なんでそんな当たり前のことに気づけなかったんでしょう」
「……」
「俺はまだ何もしてない。あずささんのプロデュースも完了してない。二人でトップアイドルにもなってない。俺の気持ちをあずささんに伝えてもいない」
両手にあずさのぬくもりを感じながら、
彼の呪い―嘘―を形どっていた、あずさに対する負い目や自分のやってしまったことに対する後悔や自責の念が剥がれ落ちていく。
そしてその奥にある、隠し続けてきた、許されないことだと言い続けてきた、自分の本当の気持ちが姿をみせる。
「俺は、あずささんの隣で同じものを見て、聞いて、感じて一緒に歩いていきたい。
また、あの頃に戻りたい。
俺は……あずささんのプロデューサーでいたいです」
声を震わせて、全てを吐き出す彼を見て、あずさは彼の手をギュッと強く握る。
「私も……プロデューサーさんの隣で同じものを見て、聞いて、感じて一緒に歩いていきたいです。そして、私とプロデューサーさん、二人でもっとたくさんの思い出を作っていきたいです」
「いいんですか、こんな出来損ないのプロデューサーで?」
「私にとってのプロデューサーは、プロデューサーさんだけです。それに……」
「それに?」
「プロデューサーさんは、私の運命の人ですから。私の隣にいてほしい人は、プロデューサーさん以外は考えられないですよ」
顔を赤くし、はにかみながら自分の思いを伝えてくれるあずさ。
こんな自分を見限ることなく、想い続けてくれたあずさ。
彼はそんなあずさに向けてただ一言、ありきたりだけれど万感の思いを込めて送る。
「ありがとう……あずささん」
彼とあずさが再開した夜から1ヶ月がたった。
そして、今日彼は再び765プロへと足を踏み入れた。
この1ヶ月、彼はそれまで勤めていた職場を辞めるために同僚に業務の引き継ぎなどを済ましてきた。
これで765プロに自分を雇ってもらえなければ、正真正銘の無職だ。
職場という後ろ盾をなくしたのは、彼なりの不退転の覚悟の表れともいえる。
彼は社長室と書かれたプレートが貼ってあるドアをノックし、「失礼します」と一声かけて中に入る。
社長室には、椅子に座る高木社長とその傍らで秘書のように立っている小鳥が待っていた。
「お久しぶりです……社長、音無さん」
「お久しぶりです、プロデューサーさん」
「久しぶりだね。元気そうでなによりだ」
挨拶を済ませると彼は自分がここに来た理由、あずさのプロデューサーに復帰したいということを伝えた。
「白々しい申し出だということはわかっています。でも、俺にはまだやらなくちゃいけないことがあるんです。社長、お願いします。もう一度、俺にあずささんのプロデューサーをやらせてください」
深く頭を下げる彼を見て、それまで黙って彼の申し出を聞いていた高木社長がゆっくりと口を開く。
「……君の言っていることを説明してあげよう」
その言葉には、彼が知っている温厚な高木社長とはかけ離れた冷たさを帯びていた。
「君は、我が765プロの宝であるアイドルを悲しませた挙句、自分はプロデュースを放棄して雲隠れをした。黒井のような言い方をすれば、商売道具を傷つけて無責任にも逃げ出したということだ」
「社長、そんな言い方……プロデューサーさんは!」
「いいんです、音無さん」
彼は自分のことをかばおうとしてくれる小鳥に内心感謝しながら、彼女をとめる。
確かに高木社長の言い方はきついものだが、それは決して間違ったことではなく事実だからだ。
「そんな男が今更、のこのこと765プロに戻って来て三浦くんのプロデュースをさせてくれ……君はそう言っているんだ」
高木の社長の言葉に、彼は改めていかに自分が身勝手な頼みをしていることを痛感する。
「普通に考えれば、戻れるはずがないと考えると思うのだが……かつてのよしみにでも期待しているのかね?」
怖い怖い
「君、我が765プロの方針は知っているかね?」
「それはもちろんですよ。765プロはアイドルを、彼女たちの意思を第一に尊重しています」
「わかっているじゃないか。つまり、そういうことだ」
「……?」
「この件に関しては三浦君に一任してあるのだよ」
「あずささんに……ですか?」
「うむ……これはプロデューサーである君とアイドルである三浦くんの問題、もっと言ってしまえば君と三浦くんの男女の問題だ」
「……っ! 社長、俺とあずささんは!」
高木社長の発言に、彼はおもわず身を乗り出すが高木社長は手をだして制する。
「言わなくてもいい。男女が親しくなれば可能性というのは出てくるものだ」
何の可能性とは言わなかったが、恐らく高木社長は彼とあずさの関係がどういうものか既に気づいているのだろう。
「そんな二人の問題に、私が横からしゃしゃり出ていいとはとても思えないのだよ。なあ、音無くん?」
高木社長は芝居がかった口調で小鳥の方を見る。それに合わせて、小鳥も同じような口調でしゃべりだす。
「そうですね、二人の問題……ということは二人の間で納得のいく答えが出たのなら、何も言えませんよね」
「彼が戻ってくることを三浦くんがそう望んでいるなら仕方ない。なにせ、765プロは「アイドルの意思を第一に尊重する」プロダクションだからね」
「はい。それに社長、プロデューサーさんに戻ってきてほしいと思っているのは、どうやらあずささんだけじゃないんです。私も含めて、他のアイドルの子達もなんですよ」
「なんと、それは本当かい!? 奇遇だね、私も彼には戻ってきてほしいと思っていたのだよ」
「社長もですか?」
アハハハっと笑い合う二人。目の前の二人のやり取りをみて彼は、それがどういう意味かを察した。
「社長、それじゃあ……」
「うむ、よくぞ戻ってきてくれた。我が765プロは君を歓迎するよ」
「またよろしくお願いしますね、プロデューサーさん」
「社長、音無さん……ありがとうございます」
彼は、自分を暖かく迎え入れてくれた二人に深く頭をさげた。
「さっ、君はいまこの瞬間から765プロのプロデューサーだ。早く担当アイドルの元へ行ってあげたまえ」
「頑張ってください、プロデューサーさん」
「はい、わかりました!」
彼は社長室を出るときにもう一度頭をさげた後、自分を待ってくれている人のもとへと駆け出した。
「音無くん、黒井のように私を甘いと笑うかね?」
「いえ、その優しさが社長のいいところですよ」
「そう言ってくれると助かる。彼を見ているとね、昔の自分に重ねてしまうのだよ」
高木社長は、昔を思い出すように彼の出て行ったドアの方をジッと見つめる。
「かつて君を……」
「いいんですよ、順一郎さん」
何かを語ろうとした高木社長を、小鳥は名前で呼んで遮る。
高木社長は、小さく「すまない」と言って小鳥に謝った。
「年を取ると、生きてきた年齢と生きていける年齢の比重が変わってしまうから、どうしても昔のことばかり考えてしまう。彼は、過去に縛られるにはまだあまりにも若すぎる」
「社長……」
「彼はこれからも過去に引きずられそうになるだろう、苦しまされることもあるだろう。だけど、彼ならきっと乗り越えてくれるに違いない。私はそう信じているよ」
「今日、こうしてここに戻ってきたようにですか?」
「うむ、彼には隣で支えてくれる人がいるからね。きっと大丈夫だ」
「社長、随分とプロデューサーさんのことを買っていらっしゃるんですね」
「当然だ。なにせ彼は、私が目をかけた男なんだからね」
そう言って、高木社長はニヤリと笑った。
ピヨちゃんって、アイドルだったの?
「あずささん……」
事務所から、そう遠くない公園。
彼は自分を待ってくれている人、あずさの元へと来て驚いていた。
それは、あずさの姿が自分のつい最近まで知っていたものと違っていたからだ。
目の前で立つあずさは驚いた彼の顔をみて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
あずさの長い髪はすっぱり切られて、綺麗に短く整えられていた。
「私、願掛けをしたんです」
「願掛けですか?」
「はい……」
きっかけは、引退コンサート失敗のほとぼりが冷めた頃、同僚の秋月律子から言われた一言だった。
「もう一度、アイドルとして再スタートしてみませんか?」
その頃の律子は、アイドルからプロデューサーに転身していた。
律子は、アイドルをソロではなくユニットとしてプロデュースしようとしていた。
そのユニット「竜宮小町」の白羽の矢が立った三人が、
可愛い系として人気を得ているが、ファン数が伸び悩んでいる水瀬伊織。
その幼さと無邪気さで、徐々に注目されてきている双海亜美。
そして既に引退して、一度は世間の批判を受けた三浦あずさだった。
律子としては伊織のリーダーシップ、亜美のもつポテンシャル、あずさの持つ最年長故の他二人にはない女性らしさに期待していた。
話題性も既に一定の人気を得ている伊織、サイレントマジョリティーを期待できる亜美、そこにあずさの復活と抜群なものだ。
あずさにとって、律子の提案は魅力的なものだった。
竜宮小町として再デビューをはかれば間違いなく、一気にスターロードを駆け上がっていくことができるだろう。
だが、あずさは自分の力で新たなスタートを一からきりたかった。
あずさは律子の提案を断り、ソロで再デビューをしようと決めた。
その決意に律子、伊織、亜美は、それぞれ激励の言葉を送ってくれた。
「……敵いませんね、プロデューサー殿には。あずささん、頑張ってください」
「はあ、あんな奴のどこがいいんだか……頑張りなさいよ、あずさ」
「あずさ姉ちゃん、頑張ってね。亜美も真美と一緒にメッチャ頑張るから!」
自分が失敗を乗り越えて活動している。
そんな姿が彼に届けば、また自分の元へ戻ってきてくれると、あずさは信じていた。
再デビューの会見をする前日、あずさは過去の自分と決別するかのように髪を切り、彼が戻ってくるまで、髪を伸ばし続けようと心に決めた。
「もし、俺が戻ってこなかったら……どうするつもりだったんですか?」
「ずっと伸ばしていたと思います」
「平安時代の貴族の女性みたいな長さになってもですか?」
「そうですね……それだけ長い時間がたったとしても私はプロデューサーさんを待ち続けていると思います」
「バカな人ですよ、あなたは。自分の成功よりも、こんな男を選ぶなんて」
「自分のことよりも大切なもの……ありますよ、プロデューサーさん」
「そうですね……」
かつての彼も、自分のことを気にせず、あずさのプロデュースのことばかり考えていた。
それは、あずさのことが心のそこから愛おしかったからだろう。
あずさも同じだ。彼のことがどうしようもないほどに好きだから、彼を信じて待ち続けることができた。
互いに想い合っていたのに、自分が逃げ出したせいですれ違いが起きてしまった。
そう思うと彼は、自分が非常に恥ずかしく思えた。
彼は、恥ずかしさをごまかすようにコホンと咳払いをすると、あずさの今日の活動の予定を聞く。
「あずささん、本日の活動の予定は?」
「えっと、今日はドラマの収録がありますね」
「わかりました。それじゃあ、俺の車で行きましょうか」
「は~い」
歩き出す彼の腕に、あずさは自分の腕を絡める。
「あ、あずささん?」
「プロデューサーさん、私が迷子にならないようにお願いしますね」
頬を赤らめて、彼にお願いするあずさ。
車の置いてある駐車場は、事務所から公園へ行く途中にある。
いかに方向音痴なあずさでも、そこまで行く途中で迷うことなどまずない。
それでも、あずさは彼が隣にいることを感じるために、彼の手を掴んでくる。
スーツ越しに、あずさの体温を感じる。
彼もまたあずさのことを強く感じたくて、あずさにこんなお願い事をする。
「あずささん……俺からもいいですか」
「はい、なんですか?」
「俺が……もう二度とあずささんの元から逃げ出さないように、しっかりと掴んでいてください」
「ふふっ、わかりました。離せと言われても絶対に離しませんよ」
彼の言葉に、あずさはより一層、体を近づける。
それに合わせて、彼の方も少し体をあずさの方に傾ける。
二人の距離がより一層に縮まった。
「さあ、行きましょう、あずささん」
「はい、プロデューサーさん」
二人は互いに支え合うように寄り添いあい、歩き出す。
これから二人で作っていく最高の未来へ、まっすぐに。
fin
おっつん
―後日談―
「懐かしいですね」
「はい……」
彼とあずさは二人で縁側に並んで座って、アルバムを眺めていた。
二人の思い出が散りばめられた本のページを一枚めくるたびに、二人でその時のことを振り返る。
不意に彼は、顔を上げて遠い目をする。
「あの時のこと、思い出しているんですか?」
「ええ……大変でしたよね」
あの時のことを思い出して、自然と彼の口元が緩む。
そんな彼とは対照的に、あずさは頬を膨らませる。
「もう、笑い事じゃなかったんですよ。出来損ないのプロデューサーさん!」
「わかってますよ」
確かにあの時は、彼もあずさも大変だった。
それでも、あの一件がきっかけになって、お互いの気持ちを確かめ合ったことで、二人の仲はより親密なものになったと彼は思っている。
だからこそ、今こうして二人で笑い話の一つとして思い出を語ることができる。
過ぎ去った時間は、記憶の中で美化されたり、曖昧になっていくものだが、
彼があの時に感じたあずさの優しさ、手の温もり、ついでにあずさにひっぱたかれた頬の痛みも全て、色あせることなく甦ってくる。
それはきっとあずさも同じなのだろう。
「もし……あの時の、最初の引退コンサートが失敗しないでいたら、私たちはどうなんていたんでしょうか?」
「さあ、なんとも言えませんよ。それは、もしもの話でしかありませんし」
「ふふっ、それもそうですね」
小さく笑うあずさに、彼も笑みで返す。
彼はまたページを一つめくる。そこには、あずさの笑顔の写真が収められていた。
プロデューサーとして、あずさの色々な写真をみてきたが、この写真のあずさの写りはとても良かった。
プロのカメラマンでも、こんなベストショットは中々撮れないだろう。
「この写真、すごく良く撮れてますね。誰が撮ったんでしょう?」
彼がぽつりとつぶやくと、あずさは人差し指で彼の頬をツンとつつく。
「ん?」
「覚えていないんですか?」
あずさの顔は少し不満げだった。
「あの頃、私がこんな笑顔を見せたのは誰だったが、よぉく思い出してください」
あずさはそう言い残すと夕飯の準備に取り掛かった。
彼は知っている。この写真は、自分が撮ったものだ。
あずさがカメラのレンズ越しに見せた、とびきりの笑顔が何よりの証拠だ。
彼が一番好きな、優しくて暖かい笑顔。
彼はアルバムを閉じて、ひとつ心に決める。
このアルバムは大切にしまっておこう。そして、いつかあの子が大きくなった時に見せてあげよう、と。
お前のお父さんとお母さんは、こんな風に出会い、想いを重ねて、一緒に歩んできたんだよ、と教えてあげたい。
縁側はすっかり夕暮れに染まっていた。
「手伝いますよ」
彼は、キッチンにいるあずさに声をかける。
「いいんですか、……さん?」
あずさは彼の名前を呼んで、気遣う。
あずさとしては、プロデューサーとして忙しい彼のたまの休日くらいゆっくりと休んでいてほしいようだ。
「二人で協力してやりましょう。あの頃みたいに」
「アイドルとプロデューサーの頃みたいにですか?」
「そういうことです」
「ん~、それじゃあ、お鍋の方をみてもらっていいですか?」
「ええ、わかりました」
彼は立ち上がって、あずさのいるキッチンへと向かった。
fin
乙!
後半になるにつれて会話文が多くなって、展開が駆け足になってしまった。
ところで聞きたいんだが、これ同じネタで別のアイドルでやりたい場合はこのままこのスレを使っていいのか?
ここでやめちゃうなら出来損ないの>>1と呼ぶことにしよう。
あまりに短いしここでいんじゃねーかい
依頼出すよりはここでやったほうが誘導とかなくて楽だな
ぜひ続けろ下さい
レス読む限りじゃあ、このままここで続ければいいみたいだな。
後はどのアイドルにするかとシチュエーション。
>>38みたいなのもいいが、ゆっくり考えるか。
もしよかったら一緒に色々と考えてくれ。
まあ、雑談スレでやれって話なのかもしれないが。
>>38みたいなシチュにするなら、どうにかしてアイドル二人に救いがあって欲しい
ヤリ捨ててる時点で二人が救われるのはPに制裁がくだったときだけだろ
いっそアイドル二人をボロボロになるまで犯して捨てて三人目に手を出すくらいの方がいい
リモコンの電源ボタンを入れて、チャンネルを回す。
独りの夕飯時の暇つぶしにはちょうどいいから点けた……というわけでもない。
ただこれが習慣であり、当たり前になってしまっていたというだけだった。
不意にチャンネルを回す手が止まる。
ゴールデンタイムの歌番組。画面に1人の女の子が映っている。
しばらくの沈黙の後、テレビのスピーカーから音楽が流れ出す。
それと同時に彼女もゆっくりと音楽に合わせて動き出す。
やがて前奏が終わり、楽曲のタイトルと共に彼女のことを紹介するテロップが現れる。
「……っ!」
そのテロップをみた瞬間、彼はリモコンの電源ボタンを押してテレビの電源を切る。
ブツンという安っぽい音と一緒に彼女は消えた。
「クソ!」
彼は頭を振りはらい、一瞬前に自分がみたものを忘れようとする。
しかし、そんな都合のいいことなど出来るはずがなかった。
テロップに書かれていた文字は、彼の頭に直接刻まれたかのように離れない。
それほどまでに、その文字は彼にとって強烈だった。
彼は、脳裏に刻まれてしまった文字を小さな声で読み上げる。
「キングレコード所属……大富、貴音」
窓の方を見てみると彼が彼女、四条貴音とよく見た月がそこにあった。
夜空に煌々と輝く月。月光に怪しくも美しい銀髪を輝かせながら、月を見上げる少女がいた。
――ああ、今日も夜が来てしまいました。
彼女、大富貴音は月の美しさに魅入るよりも夜の暗闇に不安を覚えた。
それは自分にとって忌まわしい時間が来たことを告げているからだ。
もう何度となく繰り返してきたこと……だが、それは貴音にとって決して慣れるようなものではなかった。
「あなた様……」
貴音は、かつて自分がそう呼んでいた男、プロデューサーの姿を月に映す。
彼はいつだって悩める自分を導いてきてくれた。それは暗い夜道を照らす月のようだった。
「私は……私は、どうすればよいのでしょうか?」
声を震わせながら、月に問いかけてみるが返事はない。痛いくらいの沈黙だけが残ってしまう。
貴音は手を胸のあたりで強く握る。
――大丈夫です。辛くはありません。いつもと変わらない一夜です。あなた様と、私の仲間と共に歩んだ記憶があれば……耐えられます。
何かを決心した貴音は、部屋を出て自分を妻と呼ぶ男のもとへ向かう。
月が暗闇の雲に飲まれて消えた。
結婚してますやん
どんな路線なの?
乙
暗い部屋、年の離れた男と美しい銀髪の少女が絡み合う。
男が腰を押し出すと、少女は自分の股の間に強烈な異物感を覚える。
少女にとって、初めての経験が血を流すほどの痛みよりも、捧げたい人に捧げられなかった深い悲しみの方が上回った。
今では、そんな感情も過去のものになるほどに男との一夜を過ごしてきた。
少女は悔しかった。自分が男を受け入れられる状態になってしまっていることに。
だから、少女は今の自分の状態が、悦びからくるものではなく、痛みを和らげるためのものだと納得させた。
男に限界を迎えさせれば、この夜の行為は終わりになる。
男の動きに合わせて、少女は銀髪を振り乱し、よがり声をあげる。
こうすれば男を一層に昂ぶらせることができるからだ。
もちろん、これは少女の演技でしかない。
だが演技にしろ、自分が男の「それ」を喜んでいることを口にしなければならないことに、少女は強く自己嫌悪する。
やがて、男の動きが早くなるにつれて、限界が訪れる。
男が腰を引き抜くとうめき声と共に、少女の白い肌に向かって欲望を吐き出した。
直接的な言葉を使わずにエロ書くって難しいな
初っ端からキツイ展開だなこれ…
わーお
乙
つ、続きはこないのかな。
こっちはもう書かないんか?
「邪魔するぜ」
赤いチェックの服を着た青年が、返事を聞くこともなく無遠慮に部屋に入ってくる。
玄関の電気は点いておらず、部屋の方だけ薄暗く点いている。
青年の目的の人物は、部屋の方で何もしていないをしていた。
気の抜けた、不抜けた、ボーッとしている、鬱々としている。
表現は様々だが、そんな彼の姿は青年を苛立たせるものには違いなかった。
「いつまで、そうやって引きこもっているつもりだよ!」
青年は彼に向かって吠える。
こんな男が、自分-天ヶ瀬冬馬-が率いるアイドルユニット「ジュピター」を倒したと考えると不思議でならない。
団結だ、仲間だと甘ったれで生ぬるい考えをもった765プロのプロデューサー。
そんなプロデューサーの下で群れている、四条貴音、我那覇響、星井美希の三人のアイドル。
正直、自分が負ける要素などないと思っていた。
現に初めて彼の率いるユニット「Project Fairy」と戦ったフェスでは、雨天で中止になってしまったが、自分の圧勝だったと感じ取れた。
雨の影響で片側のスピーカーは故障していたが、冬馬にとっては何のハンデにもならなかった。
だが、IA大賞発表の少し前のフェスでジュピターはProject Fairyに敗れた。
自分が心の底から負けを認めることができるくらいの、気持ちのいい負け方だった。
冬馬が彼に負けたのはこの一度ではない、二度だ。
IAと同じくアイドルの名誉とも言えるIUでの決勝戦、ジュピターは竜宮小町と戦い敗れた。
なぜ、かつて自分が圧倒してやった相手に自分が負けたか、その疑問はすぐに解けた。
IU優勝を喜びあう竜宮小町のメンバーとプロデューサー。
その輪から、少し離れた所に嬉しそうな顔をしている彼がいた。
おそらく彼の存在が竜宮小町に何らかの影響を与えたのだと、冬馬は理解した。
冬馬はかすかに彼に期待していた。
自分を倒すほどのアイドルユニットをうみだしたプロデューサーなら、IA大賞を受賞するに違いない。
他のアイドルならともかく、自分を負かしたこいつらなら納得がいく。
勝者として負けた自分たちの分までやってくれるはずだと思った。
だが、Project FairyはIA大賞を受賞しなかった。
その上、IAにノミネートされたユニットのプロデューサーである彼がハリウッドに留学せず、この散らかった部屋にいる。
空港近くの海で彼と再開した時は思わず「あんた、何でここにいるんだ?」と間抜けなトーンで喋ってしまった。
その後、どういったわけかProject Fairyのリーダーだった四条貴音がキングレコードに移籍し、そこの社長と結婚した。
Project Fairyは事実上、解散となった。
冬馬は事態の流れに対して、何もアクションを起こさない彼に憤慨した。
あの男が黙って引き下がるはずがない!
自分を倒した男は、そういう奴だ。
冬馬は彼に連絡をとり、ケータイ越しに「いいのかよ!」と叫んだ。
だが、彼はそんな冬馬の言葉を「仕方のないことなんだ」と返した。
冬馬はムカついた。
その感情が何処から来るものなのかは理解できなかったが、とにかくムカついた。
それを境に冬馬は頻繁に彼の家に来るようになった。
彼の家ですることは決まっていた。ありったけの罵詈雑言を彼に浴びせかけることだ。
冬馬は、自分の中にある彼に対する怒りを躊躇することなく言葉にしてぶつけてやった。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、冬馬は自分が何故ムカついたのかを唐突に理解した。
自分の認めた男がこんなところで腐っていることが、どうにも腹立たしいのだ。
すまんね、響の方ばかり書いてて。でも、こっちを未完にするつもりはないよ
乙乙
よっしゃ!ホモスレやんけ!
「何か言えよ!」
反応ひとつ返さない彼に苛立ちは更につのり、冬馬は彼の胸倉をねじり上げる。
怒気をはらんだ視線をぶつける冬馬、彼はそれを感情の宿らない目で受け止める。
それは傍から見ればにらみ合いのように見えるが、実際は冬馬からの一方的なものに過ぎない。
彼の視界に冬馬は写っているが、彼は冬馬のことを見てない。
「一流を扱えるのは、一流だけだよ……冬馬」
「なに?」
胸倉を掴む力がわずかに弱まる。彼のこういう反応は初めてのことだ。
「黒井社長の言うとおりだったってことだよ。弱い奴がでしゃばっちゃいけないんだ」
「……」
冬馬はひとまず彼の独白を聞こうと思った。
「俺のプロデュースしたアイドルユニット「Project Fairy」、その誕生は偶然だったんだ。プロデューサーとして、誰をプロデュースするかを選んでくれと社長に写真を見せられた時、俺の中で「この子だ!」って感じたのが貴音だった」
初めて出会った時の貴音の姿を思い出す。
澄み切った青空、強い生命を感じさせる桜の木、そこから舞いおちる桃色の花弁、枝の隙間から差し込む優しい木漏れ日、そして桜を見上げながら、そよ風に銀髪を揺らし、詩を口ずさむ少女。
それは一枚の絵画だった。
「その後、社長からプロデュースするアイドルは三人だって聞かされたんだ。てっきり貴音だけをプロデュースするかと思っていたから、ちょっと驚いたよ。俺は響と美希を選んだ。理由は……貴音に感じたものに近いものを二人に感じ取ったからかな」
直感で残りの二人を選んだ彼だが、その選択は間違ってはいなかった。
貴音、響、美希の三人は普段から交友があったようで、互いが互いの性格をよく理解していた。
そのおかげでレッスンをする三人の息はぴったりだった。
「さっきも言ったけど、Project Fairyの誕生は偶然にすぎない。アイドルたちと深く関わって、彼女たちのことを理解しているわけでもない駆け出しのプロデューサーが、自分の直感だけでメンバーを選んで出来たユニット。でも……その偶然が奇跡だった」
Project Fairyのメンバーには、それぞれ強みがあった。
リーダーの貴音ならボーカル、響ならダンス、美希ならビジュアルといった具合に。
メンバーは自分の強みを活かして、他のメンバーの足りない部分を補った。
Project Fairyはボーカル、ダンス、ビジュアルとアイドルに必要なジャンルが非常に高い水準でまとまっていた。
その死角のなさが生みだすパフォーマンスは、Project Fairyのデビュー曲「オーバーマスター」を発売初週でいきなり20位以内にチャートさせるほどのものだった。
「活動を重ねていく内にProject Fairyは、貴音たちはどんどん強くなっていった。それは技術的なものだけじゃない、人間的にもだ。本当に……輝いていたよ」
一瞬、彼の顔が穏やかなものになる。だが、また感情のない瞳にもどる。
「でも……ある時気づいたんだ。貴音たちの成長に、俺がついてこれていないことに」
「……!」
目覚しい成長をとげる貴音たちに比べて自分はどうだ?
貴音たちの力に見合うだけのプロデュースをしてやれているのか?
どれだけ優れた道具でも、扱う人間がそれに見合った能力を持ち合わせていなければ意味がない。宝の持ち腐れだ。
貴音たちの自分に向けてくれる信頼や期待が時に重苦しく感じてしまう。
彼が自分の中にあるこの感情が劣等感から来るものだと気づいたのは、つい最近だった。
乙
「一流を扱えるのは、一流だけだよ……冬馬。俺には貴音たちに見合う力がなかった」
「下らねえ……」
沈黙を決め込んでいた冬馬だが、彼の言葉にそう吐かずにはいられなかった。
どうして、この男はこんな面倒なことを考えているのだろう。
「あんたは自分の出来ることを、あいつらのために最善を尽くせばいい。それだけの話だろ!」
「そんなことはわかっているよ」
「なっ……」
「そんなことは、プロデュース中に何度も自分に言い聞かせたよ。でもな、冬馬……一度それを自覚してしまったら、どれだけ割り切っても、それはつきまとう……いいや、へばりついてくるんだ」
彼は貴音たちの成長を感じる度に、自分の中で出したはずの答えと自分の中から湧き出てくる疑問がぶつかり合った。
「そうだとしても、あんたは自分の出した答えを選びつづけたんだろ」
でなければ、ジュピターがProject Fairyに負けるはずがない。
迷いのある人間がまとめるユニットに負けるような実力はもちあわせていない。
「でも、ジュピターを倒すほどの実力をもつProject FairyはIA大賞を受賞しなかった。それが、現実であり、事実であり、結果であり……俺の力が足りなかったことの証明でもあるんだよ。それが分からないお前じゃないだろ、冬馬」
冬馬は彼から、気まずそうに視線を逸した。
そんなことはない!と声を上げて、彼の言葉を否定するべきだったのかもしれない。
だが、冬馬はそれをすることができなかった。
彼の出した結論「自分のプロデューサーとしての腕が足りなかった」に納得してしまったからだ。
Project FairyにはIA大賞を受賞するだけの実力を持っている。
だが、IA大賞を受賞しなかった。
どこに問題があったのか?
ユニットに問題がないなら、問題は別にある。それはユニットを扱うプロデューサーに問題があると考えるのが自然だ。
ユニットの楽曲のプロデュース、ファンの数や注目度の把握、プロモーション、テレビ出演による外へのアピール、ライブの企画等、全てプロデューサーの仕事だ。
これが上手くいかないのなら、どれだけ実力をもったユニットでも有名になることは出来ない。
そういう点では、かつて自分をプロデュースしていた、僅かな期間で自分を圧倒的な人気を誇るアイドルにした黒井社長のプロデューサーとしての腕前は一流だったのかもしれない。
「あんたの言いたいことはわかったよ」
「そうか……」
「でもよ、あんたはここにいちゃいけないはずだろ?」
話題のすり替え、冬馬はそれを自覚した。
「あんたはProject Fairyのプロデューサーだろ? あんたのいる場所はこんな小汚い部屋じゃないだろ、四条貴音の側じゃないのかよ!?」
「貴音は、もう俺の手を離れたよ。遠くへ行ってしまったんだ」
彼は、窓の方に顔を向けて輝く月を見つめる。
月に手を伸ばしたところで、その手は届くはずもないし、まして掴むことなどできやしない。
彼にとって、四条貴音はそういう存在になってしまったのだ。
「だからって、ここに引きこもっていたって何も変わらないだろ! 四条が本気で、あそこにいることを望んでいると思ってんのかよ、取り返せよ!」
「今の俺に出来ることなんて……」
「やってから言え!」
彼の後ろ向きな言葉を聞いて、冬馬の苛立ちは頂点に達した。
彼をねじ上げる手とは逆の手を大きく振りかぶる。
「いい加減に、目を覚ませえ――――――っ!!」
大きく吠えて、彼を殴ろうとする瞬間、
「やめなさい、冬馬!」
部屋に声が響いた。
勢いを崩された冬馬は、彼をねじり上げたまま声のした方を向いてみる。
そこには、一人の女性がいた。
下ろせば肩口あたりまでありそうな髪を邪魔にならないようにバレッタでとめている。
フォーマルな黒スーツをしっかりと着こなしている。
いかにもやり手のキャリアウーマンと言った様子だ。
彼女のかけているメガネも合わさって、理知的な印象を抱く。
だが、同時にメガネの奥の瞳には幼さが残っている。
それも当然だ。彼女はまだ19歳なのだから。
765プロに所属する竜宮小町のプロデューサー、秋月律子がそこにいた。
自分で書いておいてあれだけど、このPにしろ、あずさの時のPにしろ、屁理屈こねてウザく感じる時がある
まあなんか酔ってる感じはするかな
乙
良いと思うけどね
「秋月……どうしてお前がここに」
突然の展開に冬馬は動揺を隠せない。
何も行動せず部屋に引きこもっているのだ、もう彼は765プロと関わりがないと思っていた。
だが、事実として律子が目の前にいる。
「おかえり、律子」
動揺する冬馬をよそに彼は律子を迎える言葉を送った。
彼の言葉に、律子は優しく微笑み返す。
冬馬は、律子が鞄と一緒に白いビニール袋を抱えていることに気づいた。
そこには、様々な食材が入っていた。
彼と律子のやりとりと袋の中身で、冬馬は大体を察した。
その瞬間、冬馬の中で何かのラインを越えた。
「ハッ! そういうことかよ……IUを制覇した人気ユニット竜宮小町のプロデューサーにかかれば、引きこもりの男一人食わしていくくらい楽勝だろうな」
自分の中の感情を叩きつける言葉ではなく、明確に相手を傷つけるための目的をもった言葉が出る。
冬馬は、彼をねじり上げる方の手に力を入れて彼を壁に叩きつける。
「冬馬、プロデューサー殿に!」
「こいつをプロデューサーなんて呼ぶな」
冷たい目で彼を目下す。彼に変化は見られない。
「あんたはプロデューサーなんかじゃねえ、ただの出来損ないだ! プロデューサーとしてだけじゃなくて男としてもな!」
冬馬は彼に向かって、そう吐き捨てると部屋を出て行った。
部屋に沈黙が残る。
彼は壁に背を預けたままズルズルと座り込んだ。
「出来損ないか……まったくだ」
「出来損ないでいいじゃないですか。完璧な人なんてどこにもいませんよ」
―それは詭弁だよ、律子。いや……俺を慰めるためか―
「私は、あなたの味方ですよ」
耳元で甘く囁く少女。
少女はスーツの上着を脱ぎ、薄緑色をしたブラウスのボタンに手をかけた。
ベッドの上で、若い男と少女が生まれたままの姿で求め合う。
いや、求めあってはいない。むしろ、男からの一方的なものだ。
少女は男からの激しい責めを受け止めている。
少女にとっての初めての経験も今と同様に激しく一方的なものだった。
男を気遣って、言葉で慰めようとしたら男の琴線に触れてしまった。
いまにして思えば、当然だったのかもしれない。
男は大切なものを失った。反面、少女は栄光を掴み取った。
そんな「勝者」である少女の言葉が、どうして「敗者」である男の心を慰めることが出来るのだろうか。
お前に何がわかる、それが男に組み敷かれた時に放たれた言葉だった。
引き裂かれるような痛みに涙しながら少女は男の顔をみた。
泣いていた。少女とは別の……銀髪の少女の名前を呼びながら。
―この人は壊れてしまう―
初めてのことを終えた少女は、そう思った。
少女のもつ強い責任感と、栄光を掴む時にできた男に対する微かな淡い想いがそれを加速させた。
だから、少女は今も男を慰めている。
白い肌を興奮で赤くし、男に責められることに悦びを感じながら。
少女の嬌声が耳から入り、脳髄に伝播していき、男の中で更なる興奮と快楽がうまれる。
男は理解していた。自分が少女にしていることが逃避であることを。
こんなことは一時的なもので何も意味をなさない。
だが、今の自分に事態を動かせるほどの力はない。無力だ。
男に出来ることは、自分の不甲斐なさを欲望に混ぜ合わせて目の前の少女に叩きつけることだけだ。
男の腰のあたりに甘い痺れが走る。男が腰を引くと同時に欲望が少女に向かって吐き出された。
―俺は悪人になりたい―
欲望を吐き出し終えた男は、一瞬そんなことを考えた。
何もかも自分に都合よく捉えて、自分のことだけを考えて、罪悪すら感じない。
そんな「性格的にクズ」と言われる部類の人間になれたら、
今の自分の苦しみから開放されるんじゃないかと……そう考えた。
大丈夫!十分クズだよ!
気持ちは解るが、襲うのはマズい
人も車も通っていない道。夜の都会でも、そういう場所がある。
彼はそこを歩いていた。
冬馬は彼に対して引きこもりのような発言をしているが、別に彼は一日中家に籠っているわけじゃない。
確かにベッドの上で死んだような目で、起きては寝てを繰り返すような時期はあった。
だが、律子に対して自分の鬱憤をぶつけて大切なものを奪ったことが原因か、それとも単に流れた時間の影響か、今の彼はそういう時期を脱していた。
ただ鬱々と落ち込んで引きこもっているだけでなく、失敗した過去と向き合い自分を分析することが出来た。
気持ちにある程度の整理がついた。
それでも、突然自分を責める声が聞こえてくるときがある。
―お前がProject Fairyを潰したことには変わりない。彼女たちの夢を奪った。挙句、貴音の未来まで奪った。それにお前が律子にしたことはどうする? 響や美希には対しては? 誰から償う? どうやって償う? 気持ちの整理……そんな耳に優しい言葉で自分を許そうとしているだけだろ?―
頭の中、声が粘液になって湧いてくる。頭の中は粘液でいっぱいになってしまう。
だか、粘液は止まることなく湧き続けた。
粘液が耳や鼻、口、瞼から溢れ出る。顔中の隙間から溢れ出す。
そんな時、彼は外に出て頭の中の声が聞こえなくなるまで、ひたすら歩き続けた。
時間は決まって夜。夜の静かさと冷えた空気が彼を落ち着かせた。
それが逃避であることを彼は理解していた。
静かな夜を歩くことで逃避をするか、かつての同僚を欲望の捌け口にして逃避をするか。
それが彼のここ最近の夜の過ごし方だった。
過去とは向き合ったが、今とは向き合おうとしていない。
それが今の彼だった。
たくさんの人の喋る声、靴がアスファルトを叩く音、誰かのケータイの着信音、車のエンジン音。
大富貴音は、無数の音が混ざり合う空間を歩いていた。
貴音は夜の都会があまり好きではなかった。
夜空を見上げる。視界の隅の方に高層ビルが映っていた。
星の輝きよりも、人の作った電気の光の方が目立っている。
人が手を加えることの出来ない領域に強引に混ざっているようで嫌だった。風情がない。
もっとも、一番の理由は建物が邪魔で月が見えにくいことだが。
貴音は歩く速度を早めた。家で待つ夫のためではない。
月がみたいからだ。
月を見ているときは、幸せだったあの頃に帰ることが出来る。
過去に行くことで、その記憶を糧にして、今を生き続けることが出来た。
ここを抜け出して、月の見える場所に行きたい。
記憶の中にいる彼に早く触れたかった。
しばらく歩いた貴音の周囲は静かで高い建物はなかった。
貴音は夜空を見上げる。
黒い空が無数の星で散りばめられている。
貴音はその中でも一際存在感を放つ星、月をじっと見ていた。
貴音の意識は過去へ向かっていった。
一日の始まりの記憶。
「おはよう、貴音。調子はどうだい? 今日もよろしく」
朝、事務所にきた時に彼からかけられる言葉。
明るくて優しい笑顔。今日の活動も頑張れる気がした。
レッスンの時の記憶。
「もう少し動きを抑えた方がいいと思う。この歌には」
自分たちのダンスについて、彼の考えが伝わってくる熱心な言葉。
メンバーの一人が彼に向かって意見をいった。そうすると彼はしばらく考え込み、その意見を取り入れつつ指導した。
一通り踊ったら集合し、反省会をする。それを繰り返し、全員で楽曲を作りあげていった。
オーディションやフェスに挑む時の記憶。
「お前たちなら絶対に勝てる!」
自分たちを信じてくれている力強い言葉。
彼の信頼に応えたい。そう思うと、不思議と力が湧いてきた。
勝ったときは共に喜び、負けたときは沈んだ雰囲気の中でも次に勝つためにはどうするべきかを全員で考えあった。
一日の終わりの記憶。
「お疲れ様、また明日」
活動を終えて事務所を出るときにかけられる言葉。
「また明日」、それは明日も一緒に活動をするということ。明日も彼と共に活動ができると思うと嬉しかった。
ある夜の記憶。
「このビーフシチュー美味しいよ」
自分の作った料理を褒めてくれる言葉。
お世辞を言っているのかと勘ぐってしまったが、彼のその顔をみて本当に美味しいと思っているのがわかった。
「貴音はいいお嫁さんになるな」
彼の何の気もなしに言った言葉。
自分の頬が熱くなるのを感じた。
彼から顔をそらしながらも、彼との生活を思い描いてみる……耳まで熱くなった。
貴音は食事をしていた。
皿には、いくつかの料理がある。
料理には二つの傾向があった。
美味い料理と不味い料理。貴音はそれを見分けられていた。
貴音は、美味い料理だけを食べる。不味い料理には一切、手をつけない。
貴音は過去を糧にして生きている。
どうせ糧にするなら、美味い方がいい。わざわざ不味いと分かっているものを糧にする必要はない。
貴音は自分に優しい記憶だけを思い出すようにしていた。
ひとしきり美味い料理を食べた貴音は席を立つ。
貴音は自分の意識を今に戻した。
月に雲が掛かる。光が濁り、貴音の周囲が暗くなる。
「私は何をしているのでしょうか」
答えてくれる相手は誰もいなかった。
大富貴音は孤独だった。
765プロからキングレコードへ移籍し、四条貴音から大富貴音として再デビューの話をされた時、夫は新しいプロデューサーをつけると言った。
夫の考えは読めていた。昔の男などさっさと忘れろということなのだろう。
貴音はその話を断った。
それは体を捧げても心までは捧げるつもりはないという夫に対する明確な意思表示であり、精一杯の抵抗でもあった。
仲間もプロデューサーもいない孤独な活動、それは貴音にとって、ある面ではプラスに働いた。
自分のすることにおいて誰にも指示されない、誰にも合わせる必要がない。全てが自分の感覚で行える。
売上や視聴率のといった数字の結果さへ出せば、あとは自由にやれる。
レッスンをしている最中で表現に悩むことはあった。当然、指導をしてくれる人はいない。
だから、貴音は必死に悩みぬき、自分なりの答えを見つけた。
悩みの中から掴んだ貴音だけが表現できる楽曲、それが多くの人に感動を与えた。
所属が大手のレコード会社ということもあって資金も潤沢、おまけに様々なところに顔も利く。
アイドルとして活動を行う上での環境は、間違いなく765プロよりもいい。
孤独が生み出した貴音だけの歌と夫が社長を務める強大なバックボーン。
この二つによって大富貴音の人気は、四条貴音として活動していた時に比べ大きく上回っていた。
おかげで芸能雑誌には、今年のIA大賞の受賞の貴音なのでは?という記事も書かれている。
大富貴音のアイドルとしての活動は充実している。
だが、それでも貴音の心は満たされることはなかった。
どれだけ記録的なヒットを出しても、貴音はあまり喜ぶことができなかった。
一緒に喜んでくれる人がいない、寂しいのだ。
そして、寂しさを紛らわすために月をみて、過去を振り返る。
「会いたい……会いたいです……」
貴音は泣きじゃくりながら、自分の中にある想いを口にした。
そんな時だった。
「貴音か?」
突然、自分を呼ぶ声がした。
涙を素早く拭き、険しい目つきで声のする方をみるが暗くてよく見えない。
黒いシルエットの大きさから見るに男だろう。
ゴシップ記者かと思ったが、わざわざ声をかけてくる理由がない。
それに呼び方も「貴音」と呼び捨てだ。
自分を今そう呼ぶのは夫くらいだ。
「貴音……だよな?」
だが、改めて自分を呼ぶ声は夫のより若い。聞き覚えのある声だった。
月にかかっていた雲がとれる。
光を遮っていたものがなくなり、再び月が辺りを照らす。
「……貴方……さま」
「やっぱり貴音だった」
男が安心したような顔をする。
男は、かつてのプロデューサーだった。
おつ
家に帰る途中、誰かの泣く声が微かに聞こえた。
気のせいかもしれない。
無視して帰って寝ればいい。それで済む話だ。
だが、彼はそれをすることができなかった。
暗闇の中、泣き声をたどりながら歩く。
徐々に大きく聞こえてくる声。泣いている声は聞いたことはなかったが、貴音の声に似ていた。
小さな人影が見えた。声はそこから聞こえてくる。彼は「貴音か?」と声をかけてみた。
どうして声をかけたのか?
理由なんかない。あげるとしたら、放っておけなかったからだ。
泣いている人がいたら、声をかける。
それをすることは彼にとって自然だった。
声をかけると、黒い影が威圧的な空気を醸し出した。
警戒されている。こんな夜に後ろから馴れ馴れしく「貴音」と呼べば当然か。
そもそも貴音だということもわかってない。
もう一度、確認のため「貴音……だよな?」と声をかけてみると、威圧的な空気は消えた気がした。
空が晴れて、影に色がついた。輝く銀髪、貴音だった。
「久しぶりだな。どうしたんだ、そんな顔してさ?」
目の前の貴音の顔は信じられないものを見たような顔をしている。
彼は貴音から夜空の月に視線を変える。
「月を見ていたのか? ははは、貴音は相変わらずだな」
「……」
「それにしても、まさかこんな所で会えるなんて俺たちには不思議な縁があるのかもな。もう俺たち」
「貴方さま!」
プロデューサーとアイドルの関係でもないのにな。
彼がそう言い終える前に、貴音は飛びつくように抱きついた。
ふわりと甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。
律子のものと似ているが、どこか違う。
これは貴音の匂いだ。そうか、これが貴音の匂いなんだ。
「……貴方さま……貴方さま……貴方さま」
貴音は愛しい人の胸で嗚咽を漏らしながら、何度も名前を呼ぶ。
彼はそんな貴音を抱きしめようとする。
二人の距離が更に縮まる。貴音の香りを一層強く感じ取れた。
愛おしさがこみあげてくる。
強く抱きしめる瞬間、貴音の背中に回した両手を貴音の肩まで運びなおす。
彼は貴音を引き離すように、手を前に出した。
「……貴方さま……どうして」
「俺には出来ないよ……何も」
貴音から目を逸らしながら彼はそう答えた。
貴音は彼の手をとった。その手は、夜の空気にさらされた彼の手と同じように冷たかった。
貴音は彼の手を、自分の頬にそえる。冷たかった。
自分には、貴音に温もりすら与えてやることが出来ない。
やっぱり俺に出来ることなんて何も……
突然、貴音の頬に添えている方の手の指先に湿り気を感じた。
貴音の頬を伝って落ちた涙だった。
「助けてください……貴方さま」
貴音の涙と助けを求める言葉が、彼の中で何かを弾けさせた。
泣いている。貴音が泣いている。
俺はまた貴音を泣かしてしまったのか?
あの時の、IA大賞発表の夜の時みたいに。
だとしたら……わかりきっていることだけれど、俺は最低だ。
担当だったアイドルを二度も泣かせるなんて、冬馬の言うとおり出来損ないプロデューサーだ。
でも、貴音はそんな俺でも求めている。助けてくれと言っている。
なら、俺のするべきことは……
「貴方さま……」
「貴音……俺は……」
―やめろ!―
自分の中から湧き上がる想いを口にしようとした時、粘液が湧いてきた。
―何を考えている。まさか、「お前を助けてみせる!」なんて言い出す気か? カッコつけるなよ―
粘液は、彼の想いを塗りつぶすように更に湧き出てくる。
頭が割れるような痛みが走る。息も荒くなってきた。
―大体、助けるってどうやってだ? さっき抱きしめようとしたみたいに貴音の寂しさでも埋めてやるのか?―
粘液の分泌は止まらない。
貴音が何かを言っている。よく聞きとることが出来ない。くぐもったような声だけする。自分を心配している顔をしていることだけは見てわかった。
―それとも、律子とは違って優しく「して」やるのか?―
粘液が頭を埋め尽くしてしまう。視界までぼやけてきた。
―お前、どうせ貴音の涙と言葉でその気になっただけだろ?―
顔中から粘液が溢れ出てくる。
彼はなんとかそれを防ごうと両手で頭を抱え込むように覆った。
だが、粘液は溢れ続け、押さえ込んでいる指からドロリとはみ出てきた。
無茶苦茶に頭を振るが、粘液は振り払えることなくベッタリとへばりついている。
―そういうの何て言うか知っているか……自己満足って言うんだよ―
「黙れえ―――――――――――!」
すぐそこに貴音がいることを考える余裕もなかった。
彼は悲鳴のような叫びをあげながら駆けだしていった。
病院が必要ですねえ
自宅に戻った彼はおぼつかない足取りで洗面台へ向かった。
思いっきり胃の中にあるものをぶちまけた。
溢れてくる粘液を吐きだせそうな気がした。
冷蔵庫から律子が買い置きしておいてくれたミネラルウォーターを取り出し、コップに注がず、そのまま口をつけて飲む。
窓を開けて、夜風を浴びながら大きく何度も深呼吸をする。
汚物を吐き出し、口と食道を洗い流し、冷たくて新鮮な空気を吸う。
そこまですると、ようやく落ち着いてきた。
「助けてください……か」
それが何を意味しているのか彼は理解していた。
大富の元から救い出してほしいということなのだろう。
だが、それを今の自分に出来るかを考えた時……
「やってから言え!」
不意に冬馬の声が聞こえた。以前、自分に対して冬馬が向けた言葉だった。
ハッとして辺りを見回すが部屋には自分以外は誰もいない。
「……何もしようとしない人間には、何かを言うことすら許されないか」
彼はしばらく考えた後、ケータイを手にとった。
傘を持ってくればよかった。
黒い雲に覆われて今にも雨が降りだしそうな空を見上げて、彼はそう思った。
彼は公園のベンチに座り、人を待っていた。
昨日の内に、会って話したいという要件をメールでは伝えてある。
もっともこちらから一方的に送ったものでしかないので、来る保証はない。
それでも、彼は相手が来るような気がした。
あいつはそういう男だ。
しばらく待っていると目的の人物がやってきた。茶髪に目立つ赤チェックの服、天ヶ瀬冬馬だった。
「来てくれてありがとう、冬馬」
「馴れ馴れしいんだよ。何の用だよ……出来損ない」
冬馬は彼に対する嫌悪を隠すことなく吐き捨てた。
「昨日、貴音と会ったんだ。貴音は泣いていたよ」
冬馬は一瞬きょとんとしたが、すぐにいつものような鋭い目つきに戻した。
「……あんな奴でも泣くときがあるんだな」
「ああ、俺も驚いたよ」
彼は自嘲気味な笑みで返した。
「それで、あんたはどうしたんだよ?」
冬馬は鋭い目つきのまま彼に尋ねた。
彼はしばらく黙り込んだ後、「逃げだしてきたよ」と答えた。
冬馬は彼の返答に「そう……かよ」と怒りを抑えながら、震える声で言った。
「わかったことがあるんだ」
彼は今にも殴りかかってきそうな冬馬から目を逸らしながら言った。
「自分が未練がましい人間だってこと」
彼は昨晩の貴音の顔を思い出しながら、つくづくそう思った。
「自分には貴音たちに見合う力がなかったとか、自分に貴音をどうにかする力なんてないとか、気持ちの整理はついたとか……それはわかっていることだったし、散々言い聞かせてきた。自分でも納得していた」
この間、冬馬にねじ上げられた時のように彼は独白を続ける。
「それなのに、実際に貴音を見たら……貴音に対する気持ちがどうしようもない程に溢れてきた。貴音は俺に「助けてくれ」って言ってくれた。俺はそんな貴音を見て、確かに助けたいって思ったんだ。でも……やっぱり俺には無理だっていう気持ちが出てきた」
「助けたいって思ってるんじゃねえか。無理だとか、そういうのは逃げ道でしかないだろ」
「ああ、まったくだ」
自分の感情が逃げ道だとハッキリ言ってくる冬馬に、彼は頷いた。
そう……わかっている。自分のやってきたことは逃避でしかないことなど。
「あんたは答えを出したのかよ?」
「貴音が泣いている。なら、俺のしなければいけないことは決まっているよ。だから、頼む……冬馬の力を貸してほしい」
彼は、冬馬の目をしっかり見ながら言った。
冬馬は「それが俺を呼んだ理由かよ」と言い、彼は「ああ」と短くだけ答えた。
冬馬は彼の目に視線を固定したまま、ゆっくりと歩み寄る。
「まったく……あんたは」
どこか呆れのニュアンスが混じっていたが、穏やかな声だった。
冬馬は、フッと笑う。彼も同じように唇を歪めた。
直後、冬馬は彼の左頬に握り拳を叩きつけた。
雨が降りだしてきた。
「ふざけるなぁっ!」
彼を殴り飛ばした冬馬は狂ったように叫んだ。
「人を散々失望させておいて……」
雨の中、冬馬はよろめく彼を何度も殴った。
彼は、顔や胸、肩に腹と殴られた箇所の鈍い痛みと濡れて張りつく衣服の気持ち悪さを感じながら冬馬の怒号を聞く。
頭にも痛みが走る……粘液だ。
「何もしようとしなかった奴が!」
―部屋でずっと引きこもって、時間が過ぎることだけを考えたな。その間に何をした? 過去の自分と向き合っていた? ただ現実を受け入れられなくて、思い出に浸っていただけだろ―
そんなことはわかっている……
「他の女に走った奴が!」
―律子を使って何回、自分を慰めた? お前に気があるから、お前の欲望にいくらでも付き合ってくれたし、けっこう「ハード」なこともやって、律子を都合のいい捌け口にしていたな―
そんなことはわかっている……
「そんな奴が……今更……今更ぁ!」
―冬馬の言うとおり今更だ。都合がよすぎる。お前は自分のことしか考えてない―
そんなことはわかっている……
「この出来損ないが―――――――っ!!」
冬馬が腕を振りかぶり、彼の顔面に向かって固く握りしめた拳を叩き込もうとする。
彼は冬馬の拳に合わせて、頭を前に出した。
彼の額と、冬馬の拳が激突する。
冬馬は痛みに顔を歪め、咄嗟に腕を引く。
だが、彼は逃がさないと言わんばかりの勢いで冬馬の手首を握りしめた。
「わかっている……」
雨が激しく打ちつける音が響く中、それは冬馬にハッキリと聞こえた
地の底から響いてくるような低い声だった。
「そんなことは……全部わかっているんだ」
彼の濡れて垂れた前髪の隙間からぎらついた瞳が見える。
それを見た冬馬は恐怖に似た感情を覚えた。
「貴音に何もしようとしなかったことも、律子を汚したことも、自分が身勝手な人間だということも……」
彼は握りしめる手の力を強めながら言葉を続ける。
「俺に失望したと言っておきながらここに来た冬馬、お前の人の良さを利用しようとしていることも……全部……全部わかっていることだよ」
「あんた……」
事実だった。
冬馬が何度も自分の元へ訪れて叱責し、立ち直らせようとしていたことはわかっていた。
そんな優しい冬馬なら自分に協力してくれるという打算があったから、彼は冬馬を呼んだ。
「さっきも言ったけど俺はもう決めた。立ち止まるつもりはない。冬馬……お前を利用させてくれ。俺が、俺自身の望むことを叶えるために」
友達に何か頼みごとをするときのような軽い口調だった。
冬馬は握っている彼の腕を振り払い、胸倉をつかんだ。
人を殺せそうな程の視線をぶつける。彼はそれを真っ向から睨み返した。
冬馬は彼の瞳を覗き込む。瞳の奥に、小さな火が灯っているように見えた。
冬馬は乱暴に彼を突き放した。
「あんたには、借りがある。仲間がいることの強さを教えられたっていう大きな借りがな。だから……これでチャラだ」
それが冬馬なりの承諾だった。
冬馬の意思が伝わったのか、彼は「ありがとう」と言った。
冬馬は「フン……」と言いながら、彼に背を向けて去っていった。
雨に打たれているはずなのに、不快感はほとんどない。
むしろ満ち足りた気持ちですらあった。
―ようやく動き出しやがった―
冬馬の口端はわずかにつり上がっていた。
通して読むとPの確認作業の繰り返しになっちゃてるなあ。何回おんなじこと言ってるのやら
Pのダメっぷりが際立つからいいよ
フライパンに蓋をして、火にかけること数分。
蓋を開けると、湯気と一緒に味噌の香りがした。
フライパンを軽くゆすり、中にある鯖と煮汁を絡める。
彼はガスコンロの火を消し、フライパンの中身を白い皿に移した。
白い皿と一緒に、ご飯をもった茶碗、ほうれん草のおひたしが乗っている小皿をテーブルまで運ぶ。
テーブルには座布団の上であぐらをかいている冬馬がいた。
冬馬は割り箸を割って、彼の運んできた料理を食べ始めた。
この間の雨の日から三日たった今日、冬馬は彼から話があると連絡がきたので彼の部屋に出向いた。
彼の部屋に来ると「夕飯はまだか?」と聞かれたので「ああ」と返すと、彼は「わかった」と言って、いま冬馬が食べている料理を作った。
「それで……具体的にどうするんだ?」
冬馬は程よく甘辛い鯖味噌を食べながら質問した。
自分を呼び出すということは、今後について何か決まったということなのだろう。
「貴音を助けるためには、そもそも貴音に会わなくちゃいけない」
彼は自分の分の鯖を煮込みながら、そう答えた。
「連絡先、知らないのか?」
「ああ……」
彼は四条貴音の連絡先は知っていたが、大富貴音の連絡先は知らなかった。
四条貴音のケータイに電話をかけてみてが、「おかけになった電話番号は現在つかわれておりません」と事務的な機械音が返ってきた。
メールも送ってみたが、電話の時と同じような内容のエラーメールの返信がきた。
待ち伏せも考えたが、貴音にあらぬ噂が立ちかねないので止めた。
「冬馬、お前にはアイドルとして復帰してもらう」
なるほどな……
冬馬は黙ったままだったが、彼の考えを察した。
確かに芸能界にいれば、貴音と接触する機会は夜道を歩くより可能性はある。
彼はもう一度、プロデューサーとして芸能界に足を踏み入れる気でいるのだろう。
だが、一つ問題があった。
「アイドルに復帰するって言っても、俺はもう961プロを抜けたんだぜ?」
アイドルを辞めた冬馬は、どの事務所にも属さないフリーランスだった。
現在は元アイドルとしてルックスの高さを活かし、ファッションモデルの仕事などをして生計を立てている。
普通に暮らしていくならそれで問題はないが、アイドルとして活動をするとなると形式上、どこかのプロダクションに籍を置かなければならない。
765プロにでも籍を置くのか?
冬馬は、鰹節の上から醤油がかかったほうれん草のおひたしを口に含めながら彼の背中を見つめた。
「冬馬の新しい所属プロダクションは、もう決まっているよ」
冬馬の疑問に対して「そんなことはわかっている」というニュアンスを含めた声で答えながら、彼は自分の夕飯をテーブルに運んできた。
料理を置いた彼は近くにあるクリアファイルから数枚の紙切れを取り出し、冬馬に渡した。
紙には、現住所や緊急連絡先、労働条件や給与振込先といった内容の文章が並んでいた。
最後の紙の一番下には、彼の苗字の後にプロダクション社長と書いてあり、彼のフルネームと捺印がされてある。
契約書だった。
「俺が建てた芸能プロダクションだ。冬馬は俺の会社の所属アイドルになってもらう」
こいつ、正気か?
冬馬は唖然とした顔で彼の顔を見たが、彼の顔は当然だと言っている。
「プロダクションに所属してなきゃいけないのは、あくまで形式として……いわば、アイドルとしての体裁みたいなものだ」
だから無名の芸能プロダクションであっても、冬馬が実在するプロダクションに籍を置いている事実があればそれでいい。
「冬馬の実力なら平気だよ。すぐにのし上がれる」
「ふん、当たり前だ」
冬馬は自分がそれだけの力を持っていることを自覚していた。
彼の言葉を借りるなら「そんなことはわかっている」といったところだ。
自信に溢れる冬馬の姿を見て、彼はやはり冬馬に協力を申し出てよかったと再確認した。
ライバルとしては恐ろしかったが、味方としてはこれほどまでに頼もしい存在はいない。
「なあ……」
突然、冬馬がご飯を食べながら聞いてきた。
「このプロダクションの社員って……」
「俺一人だ。俺は社長兼プロデューサー兼マネージャー兼トレーナー兼事務員兼清掃員兼その他諸々だ」
即答だった。
「大丈夫なのかよ。その……事務とか経理とか。あんた、プロデューサーだったんだろ?」
「パソコンでデータの打ち込みは出来るし、小遣い帳のつけ方くらい知っているよ。安心してくれ冬馬、仕事というのは覚えれば出来るものだから」
冬馬は思わず頭痛を抑えるように頭に手をやった。
何だか不安になってきた。
契約書に載ってある住所と電話番号が目に入る。
それはどこか見覚えのあるものだった。
まさか……
冬馬はポケットからケータイを取り出し、彼のプロダクションの電話番号にコールする。
直後、彼の部屋の電話が鳴り響いた。
彼は冬馬に意地の悪い笑みを浮かべながら受話器をとった。
「お電話ありがとうございます。こちら……」
冬馬のすぐ近くとケータイから彼の明るくハキハキした声が聞こえてきた。
彼が芸能プロダクションを設立してから、3週間が経っていた。
冬馬は自分の所属するプロダクションの事務所、つまり彼の部屋で雑誌を読んでいた。
雑誌の表紙にはゴシック体で「衝撃! 天ヶ瀬冬馬、復活!」と大きく書かれていた。
他にも「呉越同舟? 元961プロアイドル天ヶ瀬冬馬と元765プロ所属プロデューサーが新プロダクションを設立」と書かれている雑誌や、「天ヶ瀬冬馬、再デビューが起こす経済効果。アイドルバブル再びなるか?」と書かれている雑誌、また別の雑誌には……と言った具合に方向性は様々だが自分が再デビューすることが取り上げられている雑誌がテーブルの上にたくさんあった。
この3週間、冬馬はアイドル活動をしていなかった自分のブランクを取り戻すためにひたすらレッスンに打ち込む傍ら雑誌のインタビューに応えた。
インタビューを載せている雑誌はどれも有名なものばかりで、恐らく自分の考えている以上に「天ヶ瀬冬馬の再デビュー」は世間で話題になっているだろうと予測できた。
冬馬は雑誌を読み終えるとテーブルに雑誌をバサっと投げ捨てた。
自分のことが話題となっている雑誌ばかりが広がっているテーブルを見ていると、なんだか自分という存在が世界を埋め尽くしているような征服感がした。
だが、同時に腑に落ちないことがあった。
冬馬は自分の実力の高さをよく理解しており、それに絶対の自信を持っている。
自分ならば世間を賑わすことなど造作もない。事実、無数の雑誌がそれを物語っている。
だが、いくら実力があっても、話題の転換が早い芸能界で一度は芸能界を去った自分にそこまで注目が集まるのだろうか?
あれだけの有名雑誌、しかも複数の取材枠を自分の再デビューという話題だけで勝ち取れるとも思えなかった。
だとしたら、誰か仕掛け人がいるはずだ。
「なあ、やっぱりあんたが何かやったのか?」
冬馬は机のパソコンと向かい合って作業をしている彼に向かって言った。
彼はキーボードを叩く作業を止めて、クルッと椅子を回転させて冬馬の方を見る。
手にはコーヒーの入ったマグカップを持っている。
「元々、世間の冬馬に対する興味の火は消えてなかったんだ。なにせ、冬馬のいたジュピターはあまりにも突然すぎる解散をしたから」
「ああ……」
「冬馬や他のジュピターのメンバーが芸能界を去って、芸能界は間違いなくつまらなくなったよ。今のアイドル達のレベルが低いというわけじゃないけど、冬馬たちのレベルのアイドルっていうと本当に少ない」
「それは四条たちのことか?」
彼は冬馬の問いに何も答えずコーヒーを少し飲んだ後、話を続ける。
「だから、多くの人は望んでいたと思う。また芸能界を大荒れさせてくれるとんでもないアイドルを」
「それがあんたの言う俺への興味の火か?」
「今回はその火に冬馬の再デビューっていう大きな燃料が投げ込まれたんだ。燃え上がらないはずがない。後は、それをどんどん燃え移さしていくだけだ」
「じゃあ、あの雑誌取材って……」
「俺のつてだよ。Project Fairyのプロデューサー時代に色々とお世話になってさ。協力してもらった」
「なるほどな」
冬馬は納得したような様子で頷いた。
仕掛けというほどに手の込んだものではなかった。要するに彼は自分の持つパイプを有効利用したということだ。
「それじゃあ、後は俺が本格的に再デビューして一気に燃え上がらせればいいんだな?」
自然と体に力が入る。彼に協力する形とは言え、またステージに立てると思うと不思議と気分が高揚してくる。
だが、彼は「いや、まだだ」と短く、ハッキリと冬馬の言うことを否定した。
「はあ!? どういうつもりだ、もう世間(ステージ)のボルテージは最高潮なんだぞ!」
盛り上がっている所で水を刺された冬馬は湧き上がる不満を隠すことなくぶつけた。
彼は冬馬になだめるように落ち着いた口調で冬馬に語りかける。
「そんなことはわかっているよ。でもな、冬馬……お前は天ヶ瀬冬馬なんだよ。そこらにいるアイドルとは違うんだ。そのお前が、今の状態を最高だと言って満足していいのか?」
「……何か考えがあるのかよ?」
「あらかた有名雑誌を使っての世間へのアピールはやった。だけど、あと一押しがほしい」
「でも、今あんたが言ったように有名雑誌はあらかた」
そこまで言ったところで、彼は手を前に出して冬馬の言葉を遮る。
「有名な雑誌ならな……でも、有名な記者なら別だ」
ピンポーン!
彼はインターフォンを鳴らして、目の前の日本家屋を見上げながら待つ。
しばらくしてもインターフォンから人の声は聞こえてこない。
もう一度押してみる。
ピンポーン!
軽くて高い音がインターフォンから響く。おそらく家中にも響いているだろう。
だが、やはり誰も出てこない。
アポは取ってあるはずなんだけどな……
最もこれから会う相手が自分の頼みを聞いてくれるかは別の話だが。
引き戸に手をかけてみると、引き戸は抵抗することもなくあっけなく開いた。
彼は無用心だなと思いながらも玄関に入り、靴を出船の形にそろえて上がり込む。
目的の人物を探すために色々と部屋を回る。
どの和室にも陶器だったり掛け軸だったり絵だったり彫刻だったり、とにかく高そうなものが置いてあった。
あらかた部屋を回ってみたが誰もいない。
彼は2階の部屋の窓から大庭に建っている木造の小屋をみた。調べてないところというと、後はあそこぐらいだ。
階段を下り、玄関から靴を持ってきて、大庭に直接出ることができる廊下で靴を履き直した。
鯉池のある大庭を歩いて、小屋へと入る。
小屋に入った途端、土臭い匂いが彼を歓迎した。
土臭いといっても、決して不快なものではなかった。
むしろ、どこか落ち着く匂いだった。
小屋の奥を見ると老人がろくろを回していた。
作業用として着ているのか、青い和服には泥が跳ねたような跡が点々とある。
回転するろくろの上で粘土の塊は、老人の手で押され、潰され、外側に引っ張られ、やがて空洞のある形が作られていく。
その様子を彼は老人に声をかけることも忘れて見入っていた。
彼は小屋の脇にある棚に視線を移す。棚には無数の焼き物が置いてあった。
彼は棚にゆっくりと近づき、焼き物を眺める。
棚に並んでいる湯呑や皿にどれだけの価値があるか彼にはわからない。
わかっていることは、この焼き物には相当な値段が付くということだけだ。
「それを見て、君はどう思ったかね?」
老人は成形されていく粘土の塊に両手を添えて、厚みを均等にしながら彼に声をかけた。
「……どう思った、ですか」
老人の質問に、彼はもう一度焼き物をじっと見る。
「凄い……ただ、そう思いました」
「ずいぶんとあっさりとした感想だね」
彼は心の中で老人に「そんなことはわかっていますよ」と返した。
自分でも小学生並の感想だということはわかっている。
この焼き物を見た時、彼はアイドルのとんでもないパフォーマンスを見せられた時と同じ感覚になった。
具体的にどこが凄いのか挙げられない。
いや……挙げることは出来るのだが、それをしたくない。
ここが凄い、ここが素晴らしい、そういう言葉が邪魔な装飾に思えた。
凄いものは、凄い。
だから、彼は目の前の焼き物を凄いと思った。
「そうか……凄いか」
ろくろを止めて棚の方へ来た老人は、焼き物の一つをとる。
そのまま表場を変えることなく、焼き物を眺める。
老人は「ふむ」といった様子で頷くと、なんのためらいもなく焼き物を床に投げ捨てた。
老人は棚からまた一つ焼き物をとり、眺めて、また捨てた。
唖然とする彼など気にすることなく老人は、彼が「凄い」と評した焼き物を次々眺めては投げ捨てていく。
棚に並んであった焼き物は最後の一つの湯呑になった。
老人はそれを眺めると「ふむ」といった様子で頷くと、
「なるほど。確かにこれは君の言うとおり、中々凄い」
彼にその焼き物を見せて、棚に戻した。
意味がわからない。
老人の一連の行動を見て、彼はそう思った。
「今、棚に戻した焼き物とそれまで捨てた焼き物に何の違いがあるんですか?」
そう聞かずにはいられなかった。老人は事も無げに言う。
「形やほんの僅かなヒビなどの問題もあるが……一番は私が気に入らなかったからだね」
「たったそれだけのことで……」
「いや、これはとても重要なことだよ。自分の気に入る、気に入らないを押し通すことは」
老人は世間から名のある芸術家として名声を得ているが、老人にとっては自分のやっていることは泥遊びでしかなかった。
ただ、その泥遊びに一切の妥協もせず、自分の納得いくまでやっているだけだ。
泥遊びも極めれば、陶芸という一つの芸術に到達する。
「エゴを押し通せる人間は強いよ。迷いがないからね。まあ、それで飯を食っていくことができるかどうかは別だが」
老人は割れた焼き物を箒で掃きながら、焼き物の残骸が集まった箇所まで持っていった。
まるで焼き物の墓場だった。
「そもそも私の焼く湯呑なんかよりも紙コップの方が安価で済むし、落としても割れない。同じ飲む器という意味では、紙コップの方が優れている点は多い」
老人は墓場から死体を一つ取り出してみては、墓場に捨てた。
「私の作った焼き物は泥遊びの結果でしかない。しかしだ、私は泥遊びを大真面目にやっている。命をかけていると言ってもいい」
そこまで言うと老人は棚の焼き物をとって、先ほどと同じように彼に見せる。
「これがあなたの言う命をかけた泥遊びの結果ですか?」
「そうだ。これだけじゃなく、捨てた焼き物も含めた全てに私の命が練りこんである」
彼は改めて、焼き物の残骸が集まっている墓場を見る。
たった一つの納得できるものを作るために他の命を練りこんだ焼き物を捨てるというなら、あの墓場には老人の命も捨てられているということになる。
あれは焼き物の墓場でもあり、この老人の墓場でもあるのだ。
老人が命を削って作り、他の命を犠牲にしてまで選んだ焼き物。
そう考えると、ついさっきまで投げ捨てられた焼き物と老人が差し出す湯呑が同じようには見えなくなった。
「正に命懸けですね」
彼が冗談っぽく言うと老人はニカッと白い歯をみせた。
焼き物を通して感じる老人の命の輝きのようなものに多くの人が魅せられて、この焼き物にとてつもない額をつけるのだろう。
「命……ですか。もしかして、それがアイドルの記事を書く理由ですか?」
「そうだな……若者のあふれるパワー、若者が放つ命の輝きを多くの人に知ってもらいたい。だから、私は芸能記者なんていうものをやっているのかもしれない」
彼の質問に、芸術家で活躍する一方で芸能記者をやっている山原太郎は顎鬚を撫でながら答えた。
Pとアイドルの話から完全にPだけの話になってしまっているなあ。
Pとトウマの話に軌道修正するんだ!
山原は顎鬚を撫でながら彼のことを見る。
表場こそ変わらないが、焼き物を見ているときの目に似ていると彼は思った。
自分の方が背は高いはずなのに見下ろされているような気分だ。
「それでこの老骨に何の用かね? まさか私の焼き物を買いに来たわけではあるまい」
山原の言葉に彼は小さく笑った。
今の自分の財布の中身に加えて、着ているスーツや鞄に腕時計といった身につけているもの全てを換金しても山原の作った芸術品を買う金額には届かないだろう。
山原もそんなことは分かっているはずだ。つまり、さっさと要件を話せということだ。
「俺のプロデュースするアイドル、再デビューをはたす天ヶ瀬冬馬の記事を書いて欲しいんです」
「かつて、私がProject Fairyの記事を書いたようにかい?」
彼は山原の言葉を無言で肯定した。
彼と山原の出会いは、まだ彼がProject Fairyのプロデューサーをしていた時だった。
活動の一環として福岡へ遠征ライブをしにいった際、山原の方から一方的にProject Fairyの取材をさせてくれと声をかけられた。
山原は芸術家としてはもちろん、芸能記者としても一流の人間だった。
だが、同時に自分の気に入ったアイドルにしか取材をしないという人間でもあった。
その山原がProject Fairyを取材し、記事を書いた功績は非常に大きかった。
Project Fairyがジュピターに勝てた要因の一つとして山原の記事を挙げている業界人もいる。
それほどまでに山原の書く記事は、魅力的であり絶大な影響力を持っているものだった。
「天ヶ瀬冬馬、彼は炎のような男だ」
炎と聞いて、一瞬961プロの炎を象ったロゴが彼の頭に浮かんだ。
「炎とは、自分以外の全てを焼き尽くす凄まじさを持っている。炎に焼かれないためには、同じだけの強さの炎になるしかない」
「それは俺に冬馬を扱いこなせるのかと聞いているんですか?」
「ああ、そうだ」
山原はジッと彼の顔を見る。彼は自分が試されていることを直感した。
その答えを山原に言うよりも先に頭に鈍い痛みが広がる。
―無理だな。普通に考えてみろ、貴音たちProject Fairyを扱いこなせなかったお前に天ヶ瀬冬馬を扱いこなすことが出来るわけがない―
粘液が湧いてきた。
―それともあれか? Project Fairyの3人は扱いきれなかったが、冬馬1人なら扱いこなせるとでも言うのか?―
湧いてきた粘液は毒となって頭の中を汚していく。
―今は再デビューの準備期間だから冬馬を誤魔化せているが、本格的に再デビューを果たしたらお前の手腕を嫌でも見せなくちゃいけなくなる。その時にお前は冬馬を満足させられるだけのプロデュースが出来るのか?―
粘液の分泌は止まらない。頭痛が激しくなる。
―765プロに戻る度胸がなくて、プロダクションを新設したお前に付き合わされている冬馬は哀れだな。お前はまた誰かの夢を奪って、貴音も取り戻せないまま終わるだろうさ―
粘液は毛穴から溢れ出し、顔が粘液で覆われていく。視界がぼやけてくる。
それでも彼は粘液で絡みついた喉から必死に自分の答えを吐き出す。
「……扱いこなせるか、扱いこなせないかは大した問題じゃありません」
彼の言葉に山原は「ふむ……」と興味深そうな声をあげる。
「出来るできないの話じゃなくて、やらなくちゃいけないんです」
「答えになっていないと思うがね」
「そんなことはわかっていますよ。でも……もう決めたことですから」
雨の日に冬馬に宣言したように山原に自分の決意を示す。
自分が冬馬に見合う力を持っているか、そんなことは後から嫌でもわかってくる。
なら、今はそんな先のことを憂いてもしょうがない。
貴音を取り戻すためにやるだけのことをやるだけだ。
「Project Fairyの頃もそうだったが、君は面白い男だな。そんな君がプロデュースする天ヶ瀬冬馬も面白くなりそうだ。記事の一つでも書けそうなくらいに」
山原は、彼の肩を叩いて笑った。
後日、天ヶ瀬冬馬の記事が掲載れた雑誌が一つ発売された。
その雑誌は発売初日で完売するという異例の売れ行きをみせた。
天ヶ瀬冬馬の記事を書いたのは山原だった。
控え室の中、ざわついた声が響き、いくつもの視線を感じる。
それは明らかに彼と彼の隣にいる青年、天ヶ瀬冬馬を意識したものだ。
しかし、彼と冬馬はそんなものはどこ吹く風といった様子で壁に背をもたれさせながらオーディションの開始時間を待っていた。
彼は冬馬を全国放送かつゴールデンタイムでの歌番組のオーディションに出場させた。
全国の人が一番テレビを視る時間帯で、天ヶ瀬冬馬の復活を見せつけるという狙いがあった。
彼は誰かを探すように控え室を見回す。冬馬は彼が誰を探しているのか、すぐにわかった。
「四条の奴は来てないみたいだな」
「ああ……」
冬馬の言葉に彼は短く答えるだけだった。
これだけの大きな番組のオーディションならば参加していると思ったが、どうやらアテが外れたようだ。
それとも事前にこちらの情報を掴んで、貴音を出場させなかったのだろうか?
この1ヶ月という冬馬の再デビューの準備期間で自分の持っているパイプを使って、冬馬を世間にアピールしまくった。
更に山原の書いてくれた記事がダメ押しの一手となり、世間の盛り上がりは異常なまでになっていた。
おかげで連日、テレビのニュース番組が芸能コーナーにいけば最初に紹介されるのが冬馬だ。加えて、自室という名の事務所の電話は日中ずっと鳴り続けた。電話の内容は、冬馬の取材についてのものばかりだった。
今に限って言えば、注目度は冬馬の方が貴音を確実に上回っている。それは周知の事実となっていた。
ここまでしたのに、あの業界最大手のひとつとも言えるキングレコードの社長である大富が貴音を動かさないのは疑問だった。
こちらを警戒しているのか?
それなら願ってもない展開だ。向こうが守りに入るなら、こちらは好きなだけ攻めてやることが出来る。
もっとも、こちらのことなど歯牙にもかけていないということも当然、考えられるが……
控え室の扉が開き、審査員が入ってくる。そこで彼は思考を一旦中断する。
ひとまず色々考えるのは後に回そう。
今はオーディションに参加するアイドル、冬馬のことに集中するべきだ。
「冬馬、問題ないか?」
「誰に向かって言ってるんだ?」
フンッと鼻を鳴らして、余裕の表情で冬馬は答えた。
「あんたの方こそ……しっかり指示、頼むぜ」
「そんなことはわかっているよ」
「言うと思ったぜ」
彼の予想通りの返しに冬馬はニヤリと笑ってやった。
彼はもう一度「そんなことはわかっているよ」と返して笑ってやった。
冬馬は彼と向き合って、握りこぶしを彼の顔に突き出す。
「審査員共に見せつけてやるよ。目を逸らすことも、瞬きも許させないパフォーマンスってヤツをな!」
それだけ言うと冬馬は、彼に背を向けて会場へと向かった。
その背中からは絶対的な自信から来る覇気のようなものが炎のごとく燃え上がっていた。
冬馬……お前ってホントに凄いやつだな。カッコイイよ。
自分が冬馬という存在を燃え上がらせることができるか、それともその逆か。
一流を扱えるのは、一流だけ。IA大賞を受賞できる実力をもったProject Fairyを大賞受賞に導けなかった自分は一流とは言えないだろう。
自分など冬馬の炎に焼かれて塵になってしまうかもしれない。
そんなことはわかっている。だけど、彼は冬馬を扱いこなしたいと思った。
それは強い相手に対して自分の力を試したいという気持ちに似ていた。
出来る、出来ないじゃなくて、やらなくちゃいけない……いや、やってみせる!
彼は心に誓いを立てると、冬馬の後を追うように会場へと歩き始めた。
オーディション会場、そこは冬馬の世界だった。
ステージの上でパフォーマンスをする冬馬が全てを支配していた。
審査員も、既にオーディションを受けたアイドルも誰もが冬馬に釘付けとなっていた。
だが、冬馬はそんな視線はどうでも良かった。
いま、冬馬が興味を向けているのは、自分にアピールの指示を飛ばす男だけだ。
自分を倒したProject Fairyを育てあげた男の力をこの目で確かめたかった。
あんたが一流か、一流じゃないか。それを決めるのはあんたじゃない、この俺だ。
今のところ、彼が飛ばす指示に間違いはない。
こんなものじゃないだろ。もっと、あんたの力を見せてみせろ。
このままでもオーディションに合格することは出来たが、冬馬はパフォーマンスのレベルを一段階上げてみた。
それに合わせて彼は指示を飛ばす。冬馬はそれに従い、アピールをする。
端から見れば、手の動きや踊りに微妙な変化がついたようなものでしかなかったが、審査員たちはそれに気づいたのか、「ややあ」と言った具合に感嘆の息を漏らした。
やるじゃないか。
冬馬は、彼が自分のパフォーマンスにどれだけついてこれるか無性に試したくなった。
少しずつギアを上げていく度に、彼の出す指示を確認し、それをこなし、審査員の反応を見て、彼が自分についてくるのを確認する。
驚くことに彼はどこまでも冬馬についてきた。
なら……これでどうだ!
冬馬はパフォーマンスのレベルを更に上げる。
いつの間にか冬馬は彼を引っぱるよりも、彼を引き離すことに躍起になっていた。
会場は既に冬馬の独壇場から、冬馬と彼の勝負の場に変わっていた。
ペースを上げて走る冬馬に、彼は死に物狂いで食らいついてくる。
彼は冬馬に指示を飛ばす自分が、自分の持つ実力以上のものを出していることを実感していた。
それは冬馬が彼の持つ力を引き出しているとも言えた。
今までアイドルに指示をだし、アイドルを引っぱっていく側だった彼にとって、アイドルに引っぱられるというのは新鮮な感覚だった。
冬馬がいい意味で暴走してくれる。
彼は冬馬に最後までついていった。
冬馬のパフォーマンスが終わると、会場は一瞬静まりかえった。
審査員だけでなく、オーディションに参加していた他のアイドルとプロデューサーにも冬馬のパフォーマンスの素晴らしさが伝わったのだろう。
審査員の一人が静かにぱちぱちと拍手をすると、それが一瞬で周囲に伝播し喝采となった。
冬馬と彼は、自分の気持ちの昂ぶりを感じ取れた。互いに全力を出し切った充実感があった。
冬馬と彼は、しばらく見つめ合い小さく笑いあう。
オーディションは、冬馬の余裕の一位で合格した。
よっしゃ!ホモスレやんけ!!
オーディションが終わったあと、二人は事務所に戻った。
彼はマグカップにコーヒーを淹れると、冬馬に差し出した。
「オーディションおつかれ、冬馬」
「あんたこそな……っ!」
冬馬は彼から受け取ったコーヒーを飲むと一瞬、苦い顔をして、近くにあったスティックシュガーを3本程まとめて掴み取り、全部をコーヒーに入れた。
続けて、冬馬はコーヒーフレッシュをスティックシュガー同様にいくつか掴み取り、全部をコーヒーにいれた。
ティースプーンで、コーヒーと砂糖とミルクを混ぜ合わせる。
冬馬は味を確かめるようにマグカップに口をつけるが、少し悩むような顔をした後、スティックシュガーを2本追加した。
その様子を見た彼は何とも言えない顔―冬馬の飲んでいるコーヒーの味を想像していたのかもしれない―をしながら、スティックシュガーが1本はいったコーヒーを飲んだ。
「一位通過、流石だったよ」
冬馬は何も言わなかったが、「当然だ」と言わんばかりに口の中がベタつきそうなコーヒーを飲んだ。
「あんた、自分が一流じゃないとか言っていたな」
「それがどうかしたのか?」
「今日のオーディションでわかった。あんたは間違いなく一流だ」
彼は、自分の目を覚ますかのように勢いよくコーヒーを飲んだ。
冬馬の言った言葉が信じられなかったからだ。
「フォローのつもりか?」
ため息をつきながら、彼は言った。
「卑屈になるなよ。あんただって分かっているだろ?」
「俺は冬馬についていくだけで精一杯だったよ」
「それで充分だ。俺とあんたは互いの全力で競い合った。俺とあんたの力は拮抗した。あんたは俺を扱いこなしたんだ」
冬馬がそこまで言ってくれたにも関わらず、彼は頭では理解しているのだろうが、どこか納得していない様子で冬馬から目を逸らしながらコーヒーを啜った。
自分は冬馬の言うように一流なのか?
自分は本当に冬馬を扱いこなせたのだろうか?
冬馬を扱いこなしたいと思っていたが、こうして面と向かって言われると疑心暗鬼になってしまう。
確かに自分は、冬馬についていくことで自分の持つ力以上のものを引き出せた。
その結果、自分は冬馬の圧倒的なパフォーマンスに対して的確な指示を飛ばせた。冬馬を扱いこなした。
それは紛れもない事実だ。
客観的に考えて、冬馬ほどのアイドルを扱いこなせておいて一流ではないとは言えない。
ならば、自分は一流なのだろうか? 冬馬に相応しいプロデューサーなのだろうか?
疑心ばかりが先行して、事実に対する確信がもてない。
彼の様子を見て冬馬は「まったく……世話の焼けるプロデューサーだ」と心の中で悪態をついた。
「あんたは一流だ。この俺がそう言ってるんだから、そうに決まってる」
冬馬は力強く彼に向かって言った。
彼は無言でコーヒーに映る自分の顔を見つめた。
そうだな……冬馬がそう言ってくれるなら、そうなのかもしれない。
今は考えるのはやめておこう。
冬馬の言葉を信じよう。
プロデューサーがアイドルの言葉を信じるのは当然のことじゃないか。
彼は、自分の目を覚ますかのように勢いよくコーヒーを飲んだ。
貴音を取り戻す話のはずなのになあ
冬馬がヒロインですよねえ
このPって貴音を取り戻すことと冬馬とトップへ上り詰めることが二択になったら
どう考えても後者をとるような気がする
過去は振り返らずに前だけを見て進む
なんていい話なんだ…
番組収録の日、彼は冬馬のパフォーマンスをよく観察した。
収録中に冬馬が行き詰まったら、自分が出来るだけアドバイスをするためだ。
アイドルの問題は、プロデューサーの問題。アイドルとプロデューサー、二人で解決する。
元々765プロで働いていた彼にとっては、それが当たり前だった。
しかし、冬馬は彼のアドバイスは必要ないと言った。
自分の問題は、自分で解決する。
元々961プロでソロ活動をしていた冬馬にとっては、それが当たり前だった。
「俺はアイドルとして、あんたはプロデューサーとして、お互いのフィールドで全力を尽くす。それで充分だ」
「俺のアドバイスは役に立たないのか?」
「あんたのアドバイスはきっと役に立つだろうさ。でも、そればかりなったらダメだ」
要は冬馬自身のプライドの問題なのだろう。自分にアドバイスを出来る優秀なパートナーがいても、それに頼り続けることになったら自分が腐るような気がした。
それはもう冬馬の言うところの甘えであり、馴れ合いになる。
冬馬はそう言った自分を弱くするものが大嫌いだった。自分に厳しい男なのだ。
「……わかった。だが、あまりにも酷いパフォーマンスだったら容赦なくダメ出しをさせてもらう」
冬馬の考えに理解を示した彼は頷いて言った。そこは基本的には好きにやっていいけれど、どうしてもダメな時は助けるという意味が込められていた。
「ハッ……上等だぜ!」
冬馬は彼の真意に気づいていたが、敢えて彼の言葉を額面通りに受け取り、強気に言い返してやった。
彼が自分に対して期待している以上のものを見せてやるという決意が込められていた。
そして、冬馬のパフォーマンスが収録された歌番組の放送日、日本中が沸いた。
ステージの上で歌い、踊る冬馬は一切のブランクを感じさせることなく、かつての冬馬よりも質の高いパフォーマンスを視聴者に見せつけた。
結果的に冬馬の再デビューを華々しく飾った歌番組は、今期最高の視聴率を叩き出すことになった。
そこから冬馬の快進撃は一気に始まった。
冬馬の元には大量ともいえる仕事のオファーがきた。同じTV局内でも番組ごとに取り合いが起きるほどだ。番組の出演依頼に限らず、大手企業からCM出演依頼なども来た。
もっとも貴音の出演する番組からは絶対にオファーが来なかったし、こちらが企画を渡しても通らなかった。
いずれにしろ、まず仕事には困らない。選り取りみどりだ。ギャラに関しても、天ヶ瀬冬馬だからという理由で多少ふっかけてやっても問題なかった。むしろ、仕事を持ってきた連中はその金額で済むなら是非といった具合だった。
彼はそういう輩に少なからず嫌悪感を覚えた。
冬馬が芸能界から身を引いていた時期は、冬馬を使わなかった癖に今になって甘い汁を吸いたさに媚を売ってくる……現金な奴らだ。
だが、多くの人間が天ヶ瀬冬馬は金になると認識しているということは、それだけ冬馬が世間を賑やかしていることの証明の一つでもあった。
彼の主な仕事は、そうして舞い込んでくるいくつもの仕事から冬馬に最適な仕事を取捨選択することだった。他にもライブの企画やフェスの参加、衣装調達、雑誌取材の日取り合わせなど、やること自体はProject Fairyのプロデューサーをしていた頃と大して変わらなかった。
強いて言うなら、金銭管理がより綿密になったことくらいだ。
彼と冬馬は、精力的に仕事をこなしていった。
二人の関係には765プロのようなウエットさと961プロのようなドライさが混ざっていた。
事務所でコーヒーや夕飯を共にしながら今後の方針や他愛ない話をする一方で、仕事ではどこか他人のように接する二人。
それは相手を信頼しているからこそ、相手に必要以上に干渉しないという形の表れでもあった。
二人は幅広く仕事をこなしていき、いくつものスタジオを駆け巡った。
だが、それだけ活動をしても、まるでこちらの動きを読まれているかのように貴音と遭遇することはなかった。
実際、仕事とかでもこれくらいの距離感の方がやりやすい
ホットプレートから肉の焼ける音と油の跳ねる音が聞こえてくる。
冬馬は焼きあがった肉を箸で掴み、小皿に適当に移していく。ホットプレートの空いた箇所に、彼は追加の肉を置いていく。
彼と冬馬の二人は、事務所で夕飯の焼肉を食べていた。
「予定と全然違うじゃねーか」
冬馬は甘口のタレにつけた肉を食べながら言った。
彼は冬馬を無視して、ボウルに入ったサラダ―ちぎったレタスと輪切りの胡瓜にドレッシングをかけただけのお粗末なもの―を小皿にとって食べていた。
「おい、聞いてるのかよ」
「あまり大きな声を出さないでくれ。壁だって厚くないんだから。それにせっかくの焼肉が美味しくなくなるだろ」
「あんたが食っているのはサラダだろうが」
「肉を食べる前に野菜を食べた方が消化にいいんだぞ」
レタスの上に焼けた肉を移して包み、食べる彼。
そんな彼の様子を見て、冬馬はため息をついた。
まったく、呑気に飯を食っている場合じゃねえだろ。
だが、冬馬はそれを口にしなかった。どうせ言ったところで、いつもの言葉で返されるだけだからだ。
「予定と全然違うか……正直もっと上手く事が運ぶと思っていたよ。こっちのことなんて気にも止めてないと思っていたし」
これだけ早くから牽制されるのは、彼にとって予想外だった。おかげで、貴音と一度も鉢合わせていない。
だが、向こうもそれだけこちらに対して驚異を感じているとも言える。
彼は目の前の青年に視線を向ける。
冬馬の記録的な再デビューが良くも悪くも働いてしまったということだろう。
「俺たちは大富の掌の上で踊っていたにしか過ぎないってことかよ」
「ああ、流石だよね」
彼は大富の迅速で計画的な対応を素直に賞賛した。
「関心している場合じゃねえだろ」
「そんなことはわかっているよ」
彼はいつもの言葉を呟きながら、グラスに注がれた烏龍茶を飲む。
一瞬、彼の瞳が雨の日にみせたギラついたものに変わった。
冬馬はそれを見逃さなかった。彼に何か考えがあると踏んだ冬馬は聞いてみる。
「どうするつもりだよ?」
「まどろっこしいのは抜きにして、直接のり込むしかない」
「のり込むって、エンペラーレコードの本社にか?」
「それをやる程の度胸は持ってないよ。乗り込むのは、大富さんが主催するパーティーだ。あの人は自分の力を誇示するためによくそういうことをやっている」
彼が大富と初めて出会ったのも大富の主催するパーティーだった。無遠慮に馴れなれしく貴音に声をかけていた大富の姿を思い出す。
「招待してもらえるのか?」
「まず無理だろうな。招待状なんて来やしないだろうさ。でも……」
「招待状があるなら別ってことか」
「招待状が送られるのは、業界の著名人やプロダクションの社長……それに昨年度、活躍したアイドルとそのプロデューサー」
「……秋月か?」
彼は黙ったままプレートの上の少し焦げた肉をとった。その行動は冬馬の言葉を肯定していた。
昨年度のIUを優勝した竜宮小町、そのプロデューサーの律子ならば招待状は来ていると彼は考えていた。
「渡してもらえるのか?」
「近いうちに会うつもりだよ。ダメだったら……また別の方法を考えるまでだ」
彼は覚悟を決めるように、自分の烏龍茶を一気にあおった。
「なあ……あんたと秋月って付き合ってたのか?」
「さあ……どうなんだろうな?」
冬馬の質問に、彼は首をひねった。
秋月律子はその外見から理知的で、どこか冷めているようにも見えるが、その実とても献身的な少女だった。
律子は毎日のように家に来ては食事を作り、彼の欲望を受け止めていた。
彼がより激しく、一方的に欲望をぶつけても律子は彼の元を去らなかった。律子としている間は逃避が出来たし、粘液は湧いてこなかった。
彼はそんな自分に都合のいい少女に次第に依存していった。溺れていった。
貴音に対する気持ちが途切れたことはなかったが、それとは別に自分を慰めてくれる律子に対する気持ちが生まれていた。
彼は律子が自分に対して好意をもっていることを感じ取っていた。
彼は律子を想い、律子は彼を想っていた。体も重ねた。
互いの気持ちが相手に向いているならば、それが歪んだ形だとしても付き合っていたと、相思相愛だったと言えるのだろうか?
「秋月とのこと、ケリつけてこいよ」
冬馬はテーブル脇にあるペットボトルに手にとり、彼につき出す。
それは彼への冬馬なりの激励だった。彼は冬馬に応えるように、空になったグラスを差しだす。
グラスの中に新しい烏龍茶が注がれていく。
トクトクという音が妙に心地よかった。
りっちゃん久しぶりやな
しかし、相変わらずのホモスレだ
1月からずっとそうです
貴音を取り戻すためにナチュラルにあまとう攻略してるもんな
むしろPと冬馬が相思相愛
誰がヒロインなんだ?
と思って最初から読み直したら貴音だったのな
途中から読んでたから普通に冬馬だと思ってたよ
貴音は犠牲になったのだ…冬馬攻略フラグ…その犠牲にな…
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| |/.;;;;//. | ||. | じゃあ、>>1は死刑という事で・・・。
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| |/. | |. || ( ) ワイワイ ガヤガヤ
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..∧_∧ (| |⌒/. ∧ ∧⊃イヤァァァ. //| (´-`;)(@・ )(;´∀)(
( ・∀・).(⌒| |//(;´Д`) ←>>1 // | ∧∧ ∧ ∧ ∧_∧. ∧∧
( )  ̄| |/ (⊃ / ⊂.⊃. // | (∀・ )( ´,_ゝ)( )(´∀`
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(__)_) | | / // / <_` )(´・ω)(д゚` )(
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~~ // / ( )( ゚∀゚)(` )( )(゚д
. // / ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
. // / (д- )( )( ´,_ゝ)(TдT)(∀` )
大富さんのパーティーの招待状が欲しい。会ってくれないか?
彼が律子に送ったメールは非常に簡潔な内容だった。
メールは便利だ。
面と向かって相手と話すのと違い、語気や相手の顔色を考えずにただ文字という記号を打ち込み送ればいいだけだからだ。
電話のように相手が出るのを待たずに伝えられる。
なんて気が楽なのだろう。
短く目的だけ語られる文面。それはプログラムされた機械的で冷たい文字という記号の羅列でしかない。
だからこそ、彼の送ったメールには妙な……刃物のような鋭利さがあった。
恐らく律子の心に簡単に突き刺さるだろう。
彼が何をしようとしているか、そして事が急を要することだと律子は察するはずだ。
そういう聡明さを秋月律子は持っているのだ。
数日中には、律子が動く。彼には確信があった。
事実、数日後、仕事を終えた彼の元に1通のメールが届いた。
今から会えませんか? 昔の場所で
送信者は律子だった。
突然のことに面食らったが、予想通りとも言えたのですぐに冷静になった。
彼は冬馬に軽く目配せして、「今日は直帰してくれ。大事な用が出来た」とだけ伝えた。
冬馬は無言のまま拳で彼の胸を軽く叩いた。
「わかってんだろうな?」
何がとは言わなかった。ただ覚悟を問う目で聞いてきた。
「そんなことはわかっているよ。俺のためにも、律子のためにも」
「……ならいい」
冬馬は、止まっているタクシーに向かって手を上げて、そのまま自宅の方へ帰った。
彼は律子がメールで伝えた「昔の場所」へと向かっていた。
具体的な場所は記されてはいなかったが、彼は「昔の場所」がどこを指しているか、ちゃんと理解していた。
しばらく歩いていると彼は視界に「昔の場所」を捉えた。
古びた雑居ビルの3階、窓ガラスにはテナント募集中という紙がデカデカと貼られている。
今はもう誰もいない。
だが、そこには確かに大勢の人がいた。
一人の男が、女の子の夢を叶えようと必死になっていた。
彼の出発点。かつての765プロの事務所だ。
俺をこんなところに呼び出すなんて嫌がらせのつもりか?
かつて自分のいた場所への懐かしさにフッと笑いながら、彼は律子に悪態をついた。
視線を雑居ビルの1階まで下げてみる。
人の賑わう声が聞こえる。居酒屋「たるき亭」は今日も繁盛しているようだ。
暖簾の掛かった入口、律子は歩いてやってくる彼をメガネ越しに見つめていた。
「意外と早かったですね。もう少し遅くなると思っていました」
「大事な要件だからな。自然と足が早くなったのかもしれない」
「そうですね。私も……」
あなたに会えると思ったら。
その言葉を律子は彼に聞こえないように胸の中で言った。
「立ち話もなんだし、とりあえず入るか?」
彼は顎でたるき亭をさした。しかし、律子は小さく首を横に振った。
「……少し歩きませんか、二人で」
律子の誘いに彼は「ああ」と短く応えた。
彼と律子は並んで歩き出した。
かつての通勤路。いつもこの道を歩きながら、貴音たちをどうプロデュースしていこうかと考えていた。
ここを歩かなくなってどれくらい経つだろうか?
事務所が移転してからは、この道を通ることはほとんどなくなった。
IA大賞を受賞できなくて、家にこもるようになってからは寄り付くこともなかった。
わざわざ自分から惨めな過去を思い出すような場所に来る必要もないからだ。
1年と数ヶ月前、トップアイドルを生み出すと息巻いていた自分が、希望とか未来に立ち向かえる力に溢れていた自分が眩しい。
そして、同時にひどく滑稽に思えた。
結局、俺は……貴音やみんなの夢も未来も。
こういう時、決まって粘液が湧き、彼を責め立て、頭を掻きむしるほどの頭痛を与えるが、今は不思議なほど落ち着いていた。
隣を歩く律子のおかげなのかもしれない。
彼は何も喋らない。律子もだ。
肩を並べて歩く二人は、何処か心地いい沈黙を楽しんでいるようにも見えたし、気まずさで何も言い出せないようにも見えた。
「今日は会えてよかったよ」
いつまでも沈黙を続けるわけにもいかないので、彼は口を開いた。
「あんなメールを送っておいてよく言います」
「ははっ、そんなことはわかっているよ」
元々は律子が自分にコンタクトをとるよう仕向けたメールだ。
それなのに送った自分が「会えてよかったよ」と言うのは、余りにも白々しい。
やや呆れた口調で返した律子に、彼は自嘲気味に笑う。
彼に釣られて律子も小さく笑った。
「ある日……私の元に1通のメールが来ました」
今度は律子の方から口を開いた。
「送信相手は、あなたから。送られてきた内容は、「しばらく家に来ないでくれ」それだけでした。混乱しましたよ。何事かと思って、あなたの家に行ってみれば……あなたの部屋の表札の上に、安っぽい白のプラ板に油性マジックであなたの苗字のついたプロダクション名が書かれていたものが掛かっていたんですよ」
律子はその時のことを思い出したのか、可笑しそうに笑った。
そんな律子の様子を横目で見ながら、彼は恥ずかしそうに「そんなことは……わかっているよ」と言った。
確かに自分の部屋が、アイドルプロダクションの事務所というのは自分でも無理があるとは思う。
もし街ゆく人に天ヶ瀬冬馬の所属するプロダクションが自分の部屋だと言っても、誰も信じないだろう。
「メールが来て1ヶ月、あなたの苗字のついたプロダクションからは天ヶ瀬冬馬が再デビュー。そして、今度は私に大富さんのパーティーの招待状を渡してくれ……本当にどういうつもりですか?」
「わかっているから、俺の誘いに乗ってくれたんだろ?」
彼は足を止めて、律子と向き合った。
「俺は貴音を取り戻す」
彼は短くそれだけ伝える。殺気すら感じさせる言葉だった。
律子は彼の覚悟が本物だと一瞬で理解した。
あなたは本気で、失ったものを……貴音を取り戻そうとしているんですね。
彼の覚悟に触れた律子は、おもわず喉を鳴らした。
彼は気圧されている律子に向かって半歩近づき、まるで握手をするように、ゆっくりと右手を差し出した。
彼が求めているのは握手ではない。大富の主催するパーティーへの招待状だ。
人の温もりではなく、温度を感じさせない紙切れを求めている。
彼は、律子より貴音を求めていた。
「……私では、ダメですか?」
律子は彼の右手を取ると、ぐいっと彼を引き寄せた。
不意をつかれる形となった彼の視界が、律子だけで埋まる。
離れようとしたが、律子に両手で顔を抑えられてしまう。
瞬間、唇に何かが当たった。
熱さと甘さ、そして柔らかさを兼ね備えた粘膜……それが律子の唇だと理解するまで、時間は掛からなかった。
彼と律子は、唇を重ね合わせた。
律子の話にケリをつけるためとは言え、どんどん貴音がヒロインから遠のいていく。
どっかで1カット、貴音視点をねじ込むべきだったのかもしれない。
この話のメインヒロインはあまとう、サブヒロイン筆頭候補が律子になってるな
貴音は捕らわれのお姫様状態だから出番が少ないのはしょうがないな
ヒロイン…たか…ね…?
このSSはあくまで舞台が貴音BADアフターなだけであって
ヒロインあまとうと共に挫折から立ち直るPの話だろ
なんかもう貴音はこれ以降でなくてもいいような気がしてきたぞ…
まあ好きに書いてくれ。面白い乙
かつて毎晩のように嗅いだことのある匂い。秋月律子という少女の匂いが、強く彼の鼻腔を刺激した。
それだけ彼と律子が密着しているということだ。
彼が律子と唇を重ねたのは初めてだった。
異性に唇を許すというのは特別な意味合いがある。
律子の体を汚してしまったが、せめて唇……心だけは、という彼の律子に対する想い。
加えて、彼の貴音への想いが律子と唇を重ねることを許さなかった。
律子とは決して唇を重ねない。
彼が律子に対して一方的に引いたラインだった。
しかし、今それが律子によって一方的に破られた。
律子は舌で閉じられた彼の唇をなぞり、口裂をたどりながら、彼の唇を開かせていく。
口内に侵入してきた律子の舌が彼の舌を捉え、ねっとりと絡みついてきた。
交じり合う二つの舌からは唾液が分泌され、口内で混ざり合う。
二人は湧き出てくる唾液が口からこぼれないよう飲みくだす。
今、自分と律子は互いの唾液が混ざり合ったものを飲んでいる。
彼はそれを自覚した瞬間、首筋から耳の裏側にかけてゾワリと寒気が走った。
律子は彼を更に求めるように、一層激しく舌を絡めてくる。
舌だけでなく歯、それを支える歯茎、口腔粘膜、おおよそ舌が届く範囲全てを蹂躙されていく。
律子の与える圧倒的な快楽に、頭がぼおっとしてくる。
俺……いま侵されているんだ。律子っていう毒に。
彼は、ここが外で助かったと思った。
もし、自分の部屋で同じことをやられたら、間違いなく律子に荒ぶる欲望をぶつけていただろう。
律子の激しすぎる愛撫を受けて、どのくらいの時間が流れたのだろうか。
1分、5分、それ以上か。
時間の経過はともかく、永遠のように感じられた時間は、律子が彼の唇を解放したことでようやく終わった。
「律子……どういうつもりだ」
彼は毒で痺れる頭に残っている理性をどうにか働かせ、平静を装いながら律子に問いただした。
「私は貴音以上に、あなたのことを想っています」
律子は彼を見上げながらハッキリと宣言した。
「自分の方が、貴音より強く想っている。だから、自分を求めてくれ。そう言いたいのか?」
「好きな人が、自分以外の人を求めているなんて嫌ですよ。それに……あなたは貴音を求めていますが、貴音はあなたを求めているんですか?」
「貴音は助けてくれって、俺を求めてくれた。だから、俺は貴音を求めるんだ。二度と失わないためにも」
「助けてくれ……ですか」
律子はその場にいない貴音を責めるような厳しい目つきで、メガネをクイッと上げた。
「ただあなたを求めるだけで、自分から動こうとしない。気に入りませんね」
それなのに、この人から私以上に強く求められている。
「……気に入りませんね」
律子は苛立ちげに吐き捨てた。彼は律子を静かに諭す。
「そういう言い方はするものじゃない。貴音にだって、色々と事情がある。アイドルとしての、大富さんの妻としての立場とかさ」
「事情? 立場? それって結局は自分の都合じゃないですか!」
律子は叫んだ。
普段の律子ならば彼の言葉が、自分を諭すための言葉だと理解できた。
だが、今の律子には彼の言葉が、貴音を庇っているように聞こえた。
そして、それは貴音が自分の言葉に対して言い訳をしているように思えた。
「貴音があなたのことを本当に想っているならば、どんなことがあっても、あなたの元へ来るはずです!」
彼は別に死んでいるわけではない。
部屋だって、どこでもある都会のアパートだ。
電車を乗り継げば、最寄りの駅につくし、彼の住むアパートに警備員なんてものはいない。
ドアについている呼び鈴を鳴らせば、彼は簡単に部屋から出てくるだろう。
本気で会いに行こうと思えば、会いにいけないはずがないのだ。
体を汚されても、律子は彼の元へ来た。
粘液に苦しむ彼の逃避の道具として貪られても、律子は彼の元へ来た。
全てを失いボロボロで、壊れてしまいそうな彼を支えたかった。
彼のことを本当に想っていたから、律子は彼の元に来ることができた。
「プロデューサー殿。いえ……」
律子はそこで区切り、彼の名前を優しく呼んだ。
「私を求めてください。貴音ではなく、私を……秋月律子を求めてください」
このレスでケリをつけるつもりがつけれなかった
メインヒロインのはずの貴音が不在の中、スゲー修羅場ってるな
次回更新に期待してる
実際、律子の言うとおり貴音は何もしてないんだよなあ
そりゃヨッシーやってる律子からすればピーチ姫の貴音の事はむかつくだろうな
なんか貴音って自分を求めてくれればだれでもいいとか思ってそう
まあそういう貴音はSSだけだろうが
…そうだよね?
貴音はめっちゃPを求めてるだろ。Pとの過去を振り返ってるくらいだし
彼は動揺していた。
律子の言うように、もし誰かが本当に相手のことを想っているなら、どんなことがあっても……全てを投げうってでも相手の元に来るのではないだろうか?
支えたい。
彼への強い想いがある律子は、彼にどれだけのことをされようと彼の元に来た。
取り戻したい。
貴音への強い想いがある彼は、自分を慰めて支えてくれた律子を捨ててでも、貴音の元へ行こうとしている。
では、貴音は?
貴音が彼に対して、強い想いがあるならば彼に会うために何か行動をしているのだろうか?
彼にはわからなかった。
―お前、自分が考えているほど貴音に求められていないんじゃないのか?―
彼は、頭に聞こえた声にハッとなって顔を上げた。
彼の不安を代弁するかのように粘液が湧いてきた。
―貴音は、今の自分の環境が苦しいから助けてほしいだけであって、別にお前でなくても―
「ふざけるな……」
彼はおもわず声に出していた。低く唸るような声だった。彼は、一瞬でも貴音の想いを信じられなかった自分を責めた。
彼は粘液の分泌を押さえ込もうと小さく息を吸った。
肺に冷たい空気を入れて、粘液の出処である頭に新鮮な酸素を行き渡らせる。
手を胸に置いて、自分の鼓動を聞く。
落ち着け。飲まれるな。クリアにしろ。
彼はゆっくりと呼吸を繰り返しながら、自分に言い聞かせた。
粘液は更に湧いてくる。彼は意思を強く持って、粘液に抗おうと必死に耐える。
―律子の言っていること分かるだろ?―
惑わされるな。抑えろ。
―そうやって誤魔化すなよ―
湧いてくるな。
―揺らいだ、湧いてきた……つまり、そういうことじゃないか―
うるさい。
―随分と必死だな―
黙れよ。
―言い返せない時点でさあ―
失せろ。
―考えてもみろ。どうして貴音が、夢も未来も奪った男に助けを求める? そんなの普通は、ありえないだろ―
彼を非難することへの悪意と楽しさで満ちた粘液は、彼を徐々に飲み込んでいく。
彼の心にほんの小さな隙が出来た。
なら、どうして貴音は?
彼は粘液に問いかけた。粘液は、彼のその質問を待っていたかのように湧く。
―それだけ切羽詰っているってことだ。あの気高い貴音が涙を流す。全てを託して、全てを奪った男に、出来損ないのプロデューサーにまで助けを求める。そこまで追い詰められていた―
彼はスーツの上着のポケットに手を置いた。布越しに硬い感触が二つする。
それは大富のパーティーに出席した日、あまりの場違いさに緊張している彼に、緊張がやわらぐと言って、貴音が渡してくれた石だった。
幼い頃から持っていた大切なものらしく、どうして自分に渡したのか当時の彼にはわからなかった。
石は割れている。だから、肌に感じる感触が二つなのだ。
パーティーの日の夜、貴音に返そうとしたところで割れてしまった。
それからだった、何もかも狂いだしたのは。
今にして思えば、割れた石はあの結末を暗示していたのかもしれない。
―誰のせいだ?―
粘液は、ねちっこく彼を煽った。
わかりきっていることを聞く粘液は、ひどく嫌らしかった。
―大富? いいや、お前だね。貴音にとって、お前は疫病神だ―
疫病神……俺が?
だとしたら、俺が貴音を選んだことがそもそもの発端だというのか?
―貴音はお前を求めていない―
粘液が一気に湧いた。瞬間、彼の頭に軋むような痛みが走った。
顔の内側から溢れる粘液で爆発されそうな気がした。
彼は顔と身体を強ばらせて、頭の決壊を防ごうとする。
だが、彼の抵抗は無意味だった。頭の痛みは激しさを増し続けた。
「また……頭が痛むんですね」
律子が彼の頬に手をそえ、愛おしそうに撫でた。
律子はとても優しい顔をしていた。
ゆっくりと何度も撫でられる度に、彼の頭で粘液の分泌が収まっていく。
律子の温もりを感じていると、あれほどまでに激しかった頭痛が柔らかくなっていく。
彼は粘液が引いていくことを実感した。
「私は……いいんですよ?」
律子が甘く囁いた。
律子なら、外であろうと求めれば応えてくれるだろう。
彼は、律子が自分を本気で想っていることを改めて理解した。
貴音は自分を求めていない。もしそうなら、自分のやっていることはなんだ?
彼はふとそう考えた。
求められてもいないのに、必死に求めようとする。一方通行で惨めで無駄なことのように思えた。
そもそも、どうして貴音を求めようとしているのか?
理由は簡単だ。貴音を取り戻したいから。それで終わりのはずだ。
でも、本当にそれだけなのか?
そういう、いかにもな言葉は建前であって、貴音を取り戻そうとすることで過去を帳消しにしようとしているのでは?
彼はいつかの粘液の言葉を思い出した。
―そういうの何て言うか知っているか……自己満足って言うんだよ―
彼は律子の方を見た。
律子は自分を求めてくれる。
汚して、貪って、優しくしたことなんて一度もない。
そんなどうしようもない程にクズな自分を受け入れてくれた。
鬱屈していた自分を支えてくれた。
だから、彼は貴音とは別に律子に惹かれた。
律子は、粘液から自分を救ってくれる唯一の存在だ。
―なあ、本当のところ……お前は誰を求めているんだ?―
粘液はそれだけ残して消えた。
修羅場を書こうと思ったら、いつものダメなPを書いていた。
このまま律子と墜ちてもええんや
最近は割とマトモだったのに……P
>>140
Pとしては、
貴音⇔P←律子
こうだと信じたいんだろうけど、
貴音←P←律子
実際は、こうかもしれないわけで。だとしたら
貴音 P⇔律子
これが一番いいかもしれないってわけだよね
>>141
まあ、出来損ないのプロデューサーだから
実はこれPがメインヒロインで律子が主人公、あまとうはメインヒロインの友達以上恋人未満な存在なんじゃないかと思い始めた
>>143
冬馬をメインヒロインと考えている人もいるし、Pと律子の生活の描写をもっとすればまた違った見方をしてくれる人がいるかもな
彼は頬に添えられた律子の手に、自分の手を重ねた。
力をいれて握ると、指先が律子の肌に少し沈む。
密着度がまして、律子の体温を一層強く感じた。
柔らかくて暖かい。
もし、律子を全身で感じたなら、自分はとても満たされるような気がした。
このまま律子を求めて、二人で恋人のように過ごすのも悪くない。
彼は月を見た。月は雲で霞み、やけに遠くにあるように思えた。
届きそうにもない不透明なものに手を伸ばすよりも、すぐ近くで確かにあるものを求める方が賢いのかもしれない。
彼はそう思いながら、律子の手をどかした。
律子は、一瞬険しい顔で彼を見上げたが、すぐに眼鏡に手をかけていつもの真面目な顔をする。
「貴音はあなたを求めてはいませんよ。何もしていないことが、その証拠です」
どこか恨めしさがこもった声で律子は言った。
「そんなことは貴音にしかわからないよ」
いつものように「わかっているよ」とは言いたくなかった。
認めてしまえば、貴音の想いも自分の想いも否定することになるからだ。
「わからない。だから、求めるんですか?」
律子の問いかけに、彼は「ああ」とだけ答えた。
彼は、貴音が自分に向けた言葉と涙が、自分へのものなのか確かめたいと思った。
「どうしてそこまで貴音に、過去にこだわるんですか?」
「もしかしたら俺は貴音を取り戻して、自分の過去に決着を……いや、そんなカッコいいものじゃないな。単に自分の汚点を綺麗にしたいのかもしれない。終わりよければ全て良しって言うし」
「過去に囚われるよりも、今を見つめるべきです。あなたがやろうとしていることは、ただの自己満足です」
「そんなことはわかっているよ」
粘液にも言われたことだ。
貴音を救うことで自分の過去を帳消しにする。自分の都合でしかない。
だが、自己満足だからこそ彼は、自分が満足するまでやりたかった。
自分が望むことを叶えるための行動。それが彼の自己満足だ。
「律子、俺はもう貴音に向かって歩き出している。立ち止まるつもりもない」
「……」
「俺は貴音を求めている。だから、律子は求められない」
彼はそう言ってハッキリと律子を拒絶した。
律子は激しく責めるわけでもなく、唇を重ねた時のように求めるわけでもなく、黙ったままだ。
彼は続けた。
「それに一人いるんだ。俺の馬鹿な自己満足に付き合ってくれている奴が。そいつのためにも、やっぱり途中で投げ出したくはない」
「それなら、私も付き合わせてもらいます。あなたの自己満足に」
律子は、彼に一枚の便箋を渡した。
高級感の漂う純白の便箋、封に使われているシールには、エンペラーレコードのロゴが入っている。
大富のパーティーへの招待状だった。
「律子……」
「いま貴音のいる場所が、貴音の本当の居場所ではないことはわかっています」
彼は、差し出された招待状に受け取ろうとする。
貴音の居場所は、あなたの……
律子は一瞬、招待状をもつ手に力を込めたが、すぐにやめた。
もちろん納得はしていなかった。
しかし、彼のことを考えた時、これが一番いいと律子は判断した。
愛する彼を求めるという自分の自己満足よりも、愛する彼の力になることを選んだ。
「託しましたよ。私の想い」
「重そうだ」
彼の冗談に、律子は「当然です」と笑い、
「誰よりもあなたのことを想っていますから」
と、付け加えた。
律子の笑顔に、彼は笑顔で返した。
「貴音は必ず取り戻す」
彼は改めて決意を伝えると、律子に背を向けて歩きだした。
その足が止まった。
律子に背を向けたまま彼は言った。
「俺は律子のこと好きだったよ」
「私もあなたのことが好きです。今でも」
「そうか……」
「でも、あなたは貴音を求めることを選びました。だから」
律子は声を震わせながら、
「私を求めないでくださいね」
彼への言葉を紡いだ。律子は泣いていた。
彼は、律子の元へ駆け寄ることをこらえながら言った。
「そんなことは……わかっているよ」
彼は律子を置いて、歩き出した。
ようやくまた一つ山を越えれた
乙
りっちゃん頭がいいと損だね
りっちゃん、いい女だな
…そして助けだしたあとはお互いもう過去のようにはいられないとわかれるパターン
律子をふるとはヒドい奴だ
>>148
Pの決意をぶっ壊せるほど激しく求めれば、また違った結果が出たかも。じっさい、堕ちかけたはわけだし
>>149
自分のことより、Pの意思を尊重した律子は間違いなくいい女
>>150
貴音を助けた上で、律子に走るというのも悪くはない
>>151
P「そんなことはわかっているよ」
タクシーから降りた彼は、目の前にある大きな四角い建築物を見上げる。
パーティー会場として使われるホテルはとんでもなく大きかった。
何階まであるのかと頂上へ向けて視線を移動させたが、途中で首が痛くなったのでやめた。
彼は首の後ろを少しさすりながら、ホテル内にある会場に向かう。
大富の主催するパーティー、そこに妻である大富貴音がいないはずがない。
ここに貴音がいると思うと、自然と早足になった。
ホテル内にいる多くの人が歩いていく方向を辿って会場の入口についた彼は、受付嬢に招待状を渡した。
受付嬢が手持ちの来賓リストをチェックすると言った。
「765プロの代表の方ですね?」
「ええ、そうです」
「本日のパーティーにご出席なるのは、秋月さまと書かれておりますが?」
「律子は、今日どうしても外せない用事がありまして代理で俺が来たんですよ」
彼は受付嬢の質問に平然と嘘で答えながら、ごく自然な動作で財布から名刺を一枚とって見せた。
名刺には、芸能プロダクション765プロの名前に加えて彼の役職と氏名が印刷されている。
確かにそれは彼が765プロの人間であることを証明していた。
それもそのはずだ。彼が見せている名刺は765プロにいた頃の名刺だからだ。
受付嬢は、名刺を確認するようにジッと見ている。
ひと押ししてみるか……
「あっ、そう言えば、連れは……竜宮小町のメンバーは来ていませんか?」
彼は、たったいま思い出したかのように訪ねた。
「竜宮小町ですか?」
「はい。律子のプロデュースするアイドルですから、誰かしら来ると思うんですけど」
彼は竜宮小町のメンバー―水瀬伊織、双海亜美、三浦あずさ―の三人の名前を出して、受付嬢に確認するように促した。来賓リストを再度みて、受付嬢は言った。
「竜宮小町からは水瀬伊織さまが、ご出席するようです」
「伊織が来るんだ。まあ、リーダーだしな」
目の前の受付嬢に聞こえるくらいの声で独り言を呟く。
まるで普段から伊織のことを知っているかのような声で。
「伊織、もう会場に入っていますか?」
「いえ、まだみたいです」
「そうですか。じゃあ、もし来たら俺がもう会場にいるってこと伝えてください」
「かしこまりました」
受付嬢は笑顔で応えた。
一連の彼を見て、彼が765プロの人間だと信じたようだ。
受付嬢は、来賓リストにある秋月律子という文字に横線を1本いれて、隣の余白部分に彼の名前を書く。更にその隣にあるチェック欄に「代」の字を書いた。
「すみません。お手数をかけてしまいまして」
「いえ、女の出席者が男の出席者に突然変わっているんですから、誰だって疑いますよ」
そう言って彼が笑うと、受付嬢も小さく笑った。
「本日は、当パーティーをお楽しみください」
彼は丁寧にお辞儀をする受付嬢に、「そんなことはわかっていますよ」と心の中で返すと会場に足を踏み入れた。
ようやく貴音をヒロイン枠にカムバックさせれそうだ
出てこねーじゃねえかww
プロデューサー、今までありがとうございます…。
ですが…わたくしは…もう戻れないのです。楽しかったあの頃に…。
プロデューサー。おとなになるとはかなしきことです…。
輝くシャンデリアの下に、一定の間隔で設置されている丸テーブルは白のテーブルクロスで覆われ、飾られた花を中心に豪勢な料理がのった皿が並べられていた。
どうやら立食パーティーのようだ。
彼は、テーブルの一角から少し離れた所で自分のとった料理を食べていた。
家みたいにあぐらをかいて、もそもそ食べている方が性に合ってるな。
会場をザッと見渡してみると、綺麗なドレスや光沢を放つタキシード、紋のはいった羽織を自然と着こなす人達が談笑に花をさかせている。
彼らは世界的にも高い評価を得ている役者や映画監督、文化人であったり、日本の大手芸能プロダクションの社長といった芸能界の大物だ。
そういった人物が集うこのパーティーは、格式と権威に満ちていた。
ふと、彼は今の自分の格好―普段から仕事で使う黒スーツ―を見てみた。
以前、彼が出たエンペラーレコードの創立記念パーティーでも、今のように業界の著名人がたくさん出席していた。
そんなパーティーに、当時の自分がセールで安いからという理由で買った980円のパーカーを着て来たことを思い出すと笑えた。
「なに一人で笑ってんのよ。キモイわね」
「いや、自分のバカさ加減についさ」
聞き覚えのある悪態の声に、彼は横目で見て、軽く返した。
声をかけてきたのは昨年度のIUの覇者、竜宮小町のリーダー、水瀬伊織だった。
伊織は、胸元にある薔薇のコサージュが印象的な薄いピンクのドレスを着ていて、気品さの中にも可愛らしさを感じられた。
流石に本物のお嬢様は似合っているな、と彼は感心した。
彼は近くを通ったボーイを呼び止めて、ボーイの持っている銀の盆からグラスを1つ、伊織に渡した。
「ほら、オレンジジュース」
「あら、あんたにしては気が利くじゃない」
「何か取ってくるか?」
「いい。来る前に軽く食べてきたから」
「それって、もったいなくないか?」
「……あんた、食いだめしようとか思ってるでしょ?」
料理を食べる彼に伊織は呆れたように言う。
「あのねえ、こういう立食パーティーって食べることが目的じゃないのよ」
立食パーティーの目的は、あくまで人との会話と交流、コミュニケーションをとることだ。
決して出ている料理の味を楽しむことが主ではないだろう。
「そんなことはわかっているよ。でも、食べていないと落ち着かないんだ」
伊織の指摘は半分図星だった。
パーティーに出ている料理を店で食べようとすれば、相当な額がすることは想像に難くはない。
こういう機会でもなければ食べることができない。食べれる時にたくさん食べよう、と思った。事実、彼は既に何度か皿を変えて、料理を堪能していた。
だが、それはとにかく食事に意識を向けることで、緊張している自分を落ち着かせるための手段でもあった。
貴音は必ずこの会場に来る。焦ってもしょうがない。
そう自分に言い聞かせて、彼は料理を口にする。
「俺が来ることは律子から聞いていたのか?」
「ええ、あんたの事情も含めて大体は。ねえ、今日のあんたは765プロの代表として来ているのよね?」
「そういうことになっているな」
「なら……あんたの想いが765プロの想いよ」
彼は箸を止めて、伊織の方を見る。伊織は続ける。
「あんたのしでかしたことを考えたら、律子の想いを背負うだけなんて生温いわ。あんたには765プロ全員の想いを背負ってもらうからね」
厳しくもどこか励ますような力強い言葉だった。
「美希と響は何て言ってた?」
「あんたを信じてる、だそうよ。全くお人好しよね」
「そうだな……」
彼は心の中で笑った。
俺に想いを託す伊織も十分お人好しじゃないか。
最もそんなことを言えば、伊織は否定してくるに違いないので彼は何も言わなかった。
自分がまだ765プロのみんなと繋がっていることに嬉しくなった。
「あ……」
突然、息を呑むような伊織の声に彼は伊織の視線を追った。
会場の入口とは別の扉から、上等なタキシードを着た男が入ってきた。
男の後ろには、ワインレッドのドレスを着る銀髪の少女がいる。
大富貴音だ。
「すまない、伊織」
彼は伊織に謝罪すると、まだ料理の残っている皿を押し付けた。
「えっ、ちょっと、あんた、何をする気よ!?」
そんなことは彼にもわからない。ただ貴音を捉えた瞬間、自然と身体が動いた。
彼は伊織の静止の言葉も聞かず、貴音の方へ向かって歩き出した。
正直、自分でもたまに思うんだ。
貴音はあくまで挫折したPという状況を作り出すための舞台装置でしかないんじゃないかって。
何を今更、最初からそうだったじゃねーかw
これが他のアイドルだったら再び共に上を目指そうなんて話なるだろうけどさ
このSSだとそのポジションあまとうだし
また自分が見世物になるのか。
夫の少し後ろで大富貴音は暗い気持ちでいた。
見世物という意味ではアイドルも変わらないが、今の自分が夫の所有物としてパーティーに出席していると思うと不快だった。
パーティーが終わるまで招待客に愛想を振りまき、お世辞をうける。そんなことを続けるのが苦痛でしかない。
ここに私の居場所はありません。
四条貴音は幼い頃から自分の意思というものが希薄だった。
四条の家の者として恥じぬ様に躾けられ、世俗と隔離された世界で育てられてきた貴音は四条の家の者に言われるがまま生きてきた人形だった。
幼少の頃から貴音は四条の家の者として一つの役割を与えられていた。
頂点を目指し、多くの人の前に立ち、歌うことで自分という存在を、四条を世界に散らばる同胞たちに知らしめる、というものだった。
その手段としてトップアイドルになるという目標を、貴音は育ての親とも言えるじいやから与えられた。
幼い貴音は何の疑問も持たなかった。それが四条の家に産まれた自分の宿命だと教えてこられたからだ。
だが1年と数ヶ月前、その役目は別の者が負うことになった。あまりにも突然だった。
じいやはこの決定に激しく反発した。
与えられた役割のために研鑽してきた貴音の立場を考えれば当然の怒りだった。
四条の本殿で家の者たちに詰問するじいやを貴音は止めた。
貴音は家の者たちに向かって言った。
「それが四条の家のご意志とあれば」
貴音は自分の与えられた役割を降りた。
四条の家の決定だから。貴音にとって、理由はそれで十分だった。
役割を失った貴音は四条の家には不要だった。
家の者から次の役割が与えられるまで待てと伝えられたが、事実上の勘当とも言えた。
四条の人間である貴音が大富と婚姻しても何も動きがないのが証拠だろう。
自分の存在する意味でもあった役割を失った貴音は、かつて目指した頂点の座にたどり着き、それが何だったのかを確かめようとした。
そんな時、貴音は彼と出会った。
貴音は、プロデューサーである彼や仲間達と活動をしていく中で自分の意思で何かを決める事の意味を教えられた。
何事も自分の頭で考え、自分の足で立ち、自分の運命は、自分で決めなければいけないのだ、と。
IA大賞を取れなかったら、大富の元へ行くと決めたのは自分だ。
そして、貴音は妻として大富の元にいる。
今、自分がいる場所は自分で選んだことなのだ。
だが、この考えが今の境遇を納得させるためのものでしかないということを貴音は理解していた。
私の居場所、それは……
「貴音!」
瞬間、自分の名前を呼ぶ声に貴音の思考は途切れる。
俯いていた顔を上げると、招待客の中から一人の男が出てきた。
四条貴音のプロデューサーだ。
「貴方……さま?」
「会いに来たよ、貴音」
ずいぶんかかったね・・・
おお? ここに来て「新」ヒロインの登場だ!
果たして今までのヒロインはどうなってしまうのか…
彼は逸る心を抑えながら一歩進み、貴音との距離を縮める。
「若造……」
更に一歩踏み出そうとすると大富の重く低い声が阻んだ。
大富は顎をあげて、視点を高く保ち彼を見下すように見る。
エンペラーレコードの社長である大富と自分しか社員のいない芸能プロダクションの社長である彼。
力の差というか、人間としての格の違いは明らかだ。
彼は自分よりも背の小さいはずの大富がやけに大きく見えた。
緊張で乾く唇を一瞬、舌で湿らせて、大富という圧倒的な存在が醸し出す威圧的な空気に耐える。
彼は貫くような大富の鋭い眼光に真正面から対峙する。
「若造、どうやってここへ来た?」
「招待状を持って、正面から来ました」
「この伊織ちゃんを出汁にしたけどね……」
バカ正直に答える彼の後ろから、伊織が恨み言を呟きながら姿を現した。
大富は伊織を見ると、彼が765プロの枠を利用してパーティーに出席したことを察した。
「ふん、なるほど。随分と小賢しい真似をしたようだな」
「そんなことはわかっていますよ」
嘲るように笑う大富に合わせて、彼もニヤリと笑う。
大富に自身の緊張を悟らせないためのハッタリにしか過ぎなかったが、大富と同じ相手を貶す暗い笑みだった。
彼の顔を見た貴音はゾッとした。
口角を不気味に歪ませて笑う彼は、貴音の知っている優しい彼とはかけ離れていた。
今の彼の笑顔には大富へ対する憎しみが混ぜ合わされていた。
彼から貴音を奪ったのは大富だ。最もそれは彼の至らなさが起こした結果だ。
自分の責任だと心の中で整理は出来ていた。しかし、同時に彼の心には整理する時にどかした別の感情がしまわれていた。
お前さへいなければ、貴音は!
そのドス黒い粘液は心の隅に今日までずっとへばりついている。
「それで身分を偽ってまで来て、ワシに何の用だ?」
「あなたに用はありませんよ」
彼は明らかに悪意が込められた言葉、粘液を吐いた。
粘液で自尊心を汚された大富は激しく顔を強ばらせる。
彼はそんな大富を無視して再び貴音と向き合い、踏みだせなかった一歩を進めた。
しかし、貴音は自分の知らない彼の影の部分を見てしまったからか、戸惑いを隠せず反射的に一歩引いてしまった。
彼は自嘲気味に笑う。
まあ、仕方ないよな。そんなことはわかっているけど。
「貴音」
彼は、かつてプロデューサーをやっていた頃のように優しい口調で貴音を呼んだ。
「俺さ……月に手を伸ばしても届かないって思っていた。だって、空を越えた向こう側なんて遠すぎるだろ? 世界が違う。自分には無理だ、そう結論づけて何もしないでいた。月に想いを馳せても、実際は手に届くもので自分を満たしていた」
彼は自分の手をどこか懐かしむように見つめた。
「でも……」と彼は呟き、固く拳を握り締める。
「それが間違っているって言われた」
彼はゆっくりと貴音に近づく。
「人類は月にたどり着いた。失敗しても諦めずに手を伸ばし求め続けたら、本当に月まで届いたんだ」
握り拳を解きながら貴音に手を伸ばす。
貴音は彼の手を不安そうにじっと見つめながら言う。
「……私もまた月に想いを馳せているだけでした。貴方さまと皆の思い出を糧にし続ければ耐えられる。そうやって己を偽っていました」
「楽しい思い出って、綺麗だからな」
「偽っていく内に私は独り、殻に閉じこもり抜け出せなくなっていました。でも、心は貴方さまを求め続けました。しかし、殻にこもった私は動けませんでした。貴方さまを求めることで、自らの手で築き上げた物が崩れるのが怖かったのです」
彼に心の内をさらす貴音は瞳を潤ませていた。
愛する彼を求めるか、自分の存在意義だった役割を求めるか。
どちらも選べなかった。貴音にとって重すぎる選択肢だった。
結局、選べないまま今の立場に甘えていた。
「そんな私が……貴方さまを求める資格があるのでしょうか?」
「貴音……」
彼は理解した。貴音は自分だ。
過去にすがり、現状に甘えることでしか自分を保てなかったかつての自分だ。
今の貴音に必要なのは彼にとって冬馬がそうであったように、外から殻を破ってくれる人だ。
彼は差し伸べた手を更に伸ばし、貴音に突き出した。
「俺には貴音が必要だ」
会場に彼の貴音を求める声だけが静かに響く。不安を吹き飛ばす静かで力強い声だった。
「貴音はどうだ? 俺のことを必要だと、求めてくれるか?」
貴音は一瞬、呆然とした顔でいたが、やがてはにかんだように微笑んだ。
「私の想いは、いつの時も変わりません。貴方さま」
貴音は彼の突き出された掌にそっと自分の掌を重ねる。
指と指が絡みあい、想いの強さを証明するようにギュッと握り合う。
彼と貴音の手が繋がった。
互いの手の温もりを感じながら、二人は小さく笑った。
「貴音、自分が何をやっているかわかっているのか?」
大富は、繋がった二人の手を見ながら言った。
夫をもつ大富貴音が別の男の想いに応える。浮気であり、間違いなくスキャンダルだ。
もし、これが世間に公表されてしまえば貴音の人気はたちまち地の底に落ちてしまうだろう。
「すみません大富殿。やはり私はあなたの元にはいられません」
「私の元を去る。そんなことをワシが許すと思うか? それにお前が目指した頂点はもうすぐそこだ。今更、築き上げてきた地位を捨てられるか?」
「それは……」
大富の言葉に口をつぐむ貴音。大富はすかさず甘い言葉をかける。
「ワシが叶えてやる。ワシの持つエンペラーレコードの力で、そこの若造が叶えられなかった夢を」
「俺の貴音を惑わさないでくれませんか」
彼は貴音と繋がった手で、貴音を自分の元に引き寄せる。
大富は「ふん……」と鼻を鳴らしたが、彼に向かって不気味に笑う。
「若造、そんなにワシの貴音が欲しいか?」
「ええ、もちろんですよ。俺には貴音が必要なんです」
「よかろう」
大富の意外すぎる返答に彼は驚いた。貴音は不信な顔で大富を見ていた。二人の反応が面白いのか、大富はニタニタと笑い顔を浮かべている。
随分とあっさりだ。あっさりすぎる。
大富があれだけ執心していた貴音をこうも簡単に手放すことがありえるのだろうか?
何が目的だ? 彼は大富の真意を探ろうとする。既に貴音は自分の想いに応え、流れは完全に握っていると思っていた。
だが、大富はこの状況の中で笑っている。余裕すら感じられた。
大富は会場全体に届くかのように高らかと宣言した。
「貴音を欲しくば、貴音を倒し、その上でIA大賞をとってみせろ!」
「なっ……」
「ワシは貴音の体は手に入れ、味わった。だが、貴音の心は未だにお前の元にある。貴音の心も手にするためには、貴音の心の拠り所であるお前が邪魔なのだ」
「そういうことですか……」
大富はもう一度彼に挫折を経験させようとしている。
挫折から立ち直り、多くの人の想いを背負ったにも関わらず、貴音を助け出すことが叶わない。そんなことになれば、彼は今度こそ立ち直れないだろう。
さしもの貴音も自分を助け出す存在が完全に折れれば、いい加減に諦めるだろうという算段だ。
「超えられるか、大富貴音を? 成し遂げられるか、かつてのお前が出来なかったことを?」
視線を試すように嘲笑する大富から貴音へ移す。
四条貴音を取り戻すためには、大富貴音を倒さなければならない。加えて、自分のトラウマでもあるIA大賞の受賞。
出来るのか、俺に?
だが、出来なければ大富に納得してもらえない。
―下らないな―
ふと、そんな声が頭の内から湧いて、自分の迷いを身も蓋もなく切り捨てた。
―あの業突張りの脂肪樽の挑発に付き合うな。無視しろ。お前の目的は貴音を取り戻すことだ。なら、もう目的は達成しただろ―
粘液のいう事は最もだ。自分は貴音を取り戻すために様々なことをしてきた。そして遂に貴音と想いが繋がった。
後は結婚式に乱入する主人公のように貴音を連れて逃げればいい。
だが、その選択は間違っているように思えた。
今ここで逃げ出せば貴音は大富の言うように築き上げた地位を失ってしまう。
貴音はアイドルだ。
美しく気高い銀髪の少女であり、ステージの上で人々を魅了する輝きを放つアイドルなのだ。
彼が求めている貴音は四条貴音だ。
冬馬……わかっていたけど、やっぱり俺は出来損ないのプロデューサーだ。こんな時にまで最善を選択できないんだから。
―ここで終わりにしろ。後悔するぞ―
そんなことは、その時にならないとわからない。
深呼吸を一つ、粘液を押さえ込む。同時に覚悟も決めた。
少し振り返り、伊織の方を見る。
伊織は何も言わなかった。ただ……
あんた自身のことなんだから、あんたの好きなようにやりなさい。
そう言っている顔だった。
「貴音、お前も俺の自己満足に付き合ってもらうぞ」
そう告げる彼の厳しくも何処か深い悲しみの色が混ざった瞳に、貴音は彼の答えを見た。
瞬間、貴音の彼と繋がった手に痛みが走る。
震える彼の手が握りつぶしてしまいそうな程に強く握しめていた。
離したくない。離したくないはずがない。それでも……
彼は抱き寄せた貴音を、再開した夜と同じようにそっと引き離す。
固く結ばれた二人の手が離れた。
「俺は大富貴音を倒します。そして、IA大賞も受賞してみせます。俺のアイドル、天ヶ瀬冬馬で」
皿に盛られたエビチリを蓮華ですくい、口に運ぶ。
刻まれたネギやにんにく、生姜といった薬味の香りが口内で広がり、ケチャップの甘味より豆板醤の辛みが僅かに上回ったチリソースが味覚を刺激する。
背わたの抜かれたエビは、チリソースとよく絡みあっていてプリプリの食感が楽しい。
「剥きエビを使うのは邪道だと思うんだ」
「知るかよ。というかさ、あんた……馬鹿だろ?」
パーティーの翌日、仕事を終えて事務所で事の顛末を聞いた冬馬の最初の言葉がそれだった。
呆れながら言う冬馬に、彼は「そんなことはわかっているよ」とだけ返して、卵とわかめのスープをすする。
ズズッという音と、彼の満足そうに「ふう」と息をもらす顔が能天気というか、ひどく間抜けに見えた。
馬鹿だ。こいつは正真正銘の馬鹿だ。いや、そんなことはわかっていたけど。
思わず彼の口癖が出てしまう程に冬馬は頭を悩ませながら、彼の作ったエビチリを食べる。
「大体、あれだ。四条の奴がアイドルの地位を失っても、あんたの手腕でどうにかすればいいだけだろ。こうしてプロダクションを構えているわけだし」
わかっているのか、と言いたげに蓮華を彼に向ける冬馬。
チリソースが絡まった蓮華をみる彼の答えはいつも通りだ。
「そんなことはわかっているよ」
「じゃあ、どうしてだよ?」
「証明にしたいんだ、大富さんに。大富貴音より四条貴音の方が輝けるってこと」
「自分のやり方が正しいっていうなら、なおさら」
「大富貴音を超えて、IA大賞も受賞して……大富さんの出す無茶苦茶な条件をクリアして、初めて俺は大富さんに認めてもらえるんだと思う」
「何かそれだけ聞くと、娘はやらんとか言ってるガンコ親父に挑んでいる男みたいだな」
「ハハハ! 実際、そんな感じかもしれない。まっ、娘じゃなくて奥さんだけどね。だから、冬馬……」
不意に真面目な顔をして、彼は言った。
「もう少し俺に付き合ってくれ」
「まったく、あんたって人は」
冬馬は彼の申し出にそう答えた。要するに返答はイエスだ。
彼は真面目な顔のまま、冬馬に礼を言う。
「ありがとう、冬馬」
「どうせ、あんたのことだ。俺が断らないって踏んでいたんだろ?」
「冬馬は義理堅いからな」
そうだろう、と言いたげに冬馬に蓮華を向ける彼。
冬馬は忌々しそうな顔でテーブルの上にあるお冷のグラスを取った。
あんたのそういう打算的な所……
「ムカつくぜ」
冬馬は水を一気にあおり、ピリピリする舌を冷やす。
「あのさ……」
「どうした?」
「次、これ作る時はもっとケチャップ入れろよ。辛い」
Pと冬馬が飯食ってるシーンが書いてて一番楽しい
もうそれだけで一本かこうぜ
あまとうといちゃいちゃしてるのが一番しっくりくるのはなんでなんだぜ?
>>165で完璧終わったと思ったわww
ファッション誌の巻頭を飾るための写真を選び終えた彼は自宅の事務所に向かって愛車のミニバンを走らせていた。
助手席にはモデルの冬馬が座っている。冬馬はスモークの貼られたガラスから頬杖をつきながら夜の街を眺めていた。
「お疲れ、冬馬。今日もいい感じだったぞ」
「当たり前だ」いつもの様に返す冬馬。
「そんなことはわかっているよ」いつもの様に返す彼。
「なら、聞くなよ!」反射的にツッコミを入れる冬馬。
仕事の終わりをねぎらう彼の言葉からのしょうもないやりとりは一種のパターンになっていた。
「今日の撮影の仕事、あんたがとって来たのか?」
「ああ、そうだけど」
大富への明確な敵対宣言を行ってから既に1ヶ月が経とうとしていた。
彼はIA大賞受賞を目指して冬馬のプロデュースに今まで以上に力を入れていた。
それまで冬馬の人気から企業やTV局側から舞い込んでくる大量の仕事を取捨選択するスタイルをとってきた彼だが、今はそれに加えて自分から冬馬を売り込むというプロデューサーとしては極めて一般的なスタイルをとっていた。
冬馬の人気だけに甘えていては、いずれ活動に限界が来ると考えていたからだ。
それは自分の打算的な側面が作り出した建前に過ぎなかった。
彼は天ヶ瀬冬馬というアイドルに魅入られていた。
溢れる才能、それを鼻に掛けずに磨き上げようとする高い意識、自信に満ちあふれた態度。
眩しかった。
気がつくと彼はどうすれば冬馬のプロデュースばかりを考えるようになっていた。
余所が持ってくる仕事よりも自分がとった仕事の方が冬馬を輝かせられると証明したかった。
「……気に入らなかったか?」
僅かな不安を隠して聞いてみる。
冬馬を理解しているのは、一番扱いこなせるのはプロデューサーである俺だ。冬馬は俺を一流と言ってくれた。だから、俺のプロデュースは間違ってないはずだ。
そうやって何度も答えを出しても心の何処かに粘液のようにへばりついている「自分が冬馬に相応しいプロデューサーなのか?」という疑問と不安は払拭しきれなかった。
冬馬は視線を街から彼に移して言う。
「悪くなかったぜ」
「そうか。なら安心した」
どうやら合格点はもらえたようだ。
「明日の予定は?」
「朝一でドラマの番宣にニュース番組に生出演。その後は昼を跨いでドラマの撮影。その後はレッスンだ」
「……最近レッスンする時間が多いな」
彼から伝えられる簡単なタイムスケジュールに冬馬は何処か含みのある発言をした。
つい最近までレッスンは自主的にやらなければならないほどに仕事まみれだった。
日付が変わる時間に帰ったことも一度や二度じゃない。
ここ最近はそういったことが減っている。
レッスンの比重が増えている。有り体に言えば仕事が減っているのだ。
何を考えていやがる?
「まさか俺が四条に……大富に負けると思ってんのか? だからレッスン重視のスケジュールを組んでるのか?」
だとしたら屈辱だ。自分の力を見くびっているということだ。
冬馬は射るような視線を彼にぶつけるが、当の本人は動じることなくフロントガラスだけを見ている。
「冬馬が貴音に負けたのは事実だろ?」
彼の指摘に冬馬は舌打ちした。それを出されてしまったら何も言い返せない。
無性に悔しくて言い返してやろうと思ったがやめた。口で何を言ってやっても「そんなことはわかっているよ」で流されてしまうのがオチだ。
冬馬は苦い顔で再び外を見る。拗ねているように見えた。
「冬馬、大富さんの出した条件は貴音を倒すこととIA大賞の獲得。どちらも欠けてはいけないんだ。だから打てる手は打っておきたい」
「仕事を削ってまでのレッスンは大富に確実に勝つために必要な手ってことか。でも、そうしたら今度はIA大賞の獲得に支障が出るだろ。俺の体は1つしかないんだぞ」
「今は充電期間だ。貴音を倒せる実力を身につけたら、そこから一気に打って出る」
冬馬はチラリと力強く言い切る彼の横顔を見る。車を運転しているから当然だが変わらず前を見据えていた。
「わかったよ。プロデューサーのあんたが決めたことだしな。俺はそれに従うぜ」
「そうか。ところで冬馬」
「ん?」
「今日食べたいものは?」
「………………ハンバーグ」
外見から想像もつかないほどに子供っぽいリクエストに彼は小さく笑う。
頭の中で献立を組み立てていく。
「確かしめじとネギが残っていたはず……だし、酒、醤油、みりんで和風の煮込みハンバーグでいこう」
「勝手にしろ」
冬馬はぶっきらぼうにそれだけ言った。
夏場の煮込み料理は作っている時は暑くて嫌になる
素麺やスープみたいにすぐに完成しないから余計に
>眩しかった。
>気がつくと彼はどうすれば冬馬のプロデュースばかりを考えるようになっていた。
>余所が持ってくる仕事よりも自分がとった仕事の方が冬馬を輝かせられると証明したかった。
ホモォ・・・?
夕食を終えて冬馬が帰った後の事務所には皿を洗う音だけがした。
「くそっ……」
スポンジで皿についた煮込みハンバーグのソースの汚れを落としながら彼は悪態をついた。
皿についたソースが中々落ない……からではなく、自分に向けてのものだった。
彼はパートナーである冬馬に隠し事をしていた。
冬馬の仕事が減っている。
それは彼が意図的に仕事を抑え気味にしてレッスン重視の予定を立てたからではなく、そうせざるを得なかったからだった。
本当に仕事が減っていた。
プロダクションにくる仕事の量は目に見えて減っていたし、こちらの営業をかけても話は聞くがいい返事は来ることはなかった。
原因は想像に容易かった。エンペラーレコードの根回しだ。
かつて765プロにいた頃も大富が周囲にかけた圧力によって仕事が減っていた。あの時は765プロを潰して貴音を引き抜こうとする狙いが大富の中にあった。
だが、いま貴音は大富の手の中だ。
大富の嫌な笑みが蘇る。
「あからさまな妨害をしてでも貴音を渡す気はない。そういうことですか、大富さん」
タオルで濡れた手を拭きながら彼は呟いた。
現状が続けばいずれ限界が来る。
どうにかしてこちらのパイプを使って上手くやりたいが、エンペラーレコードは業界の大手だ。
こちらが何か行動しても向こうがその上から潰してくれば終わりだ。
「くそっ……」
再び悪態をついた彼は冷蔵庫にあるミネラルウォーターをグラスに注いで、苛立ちと一緒に飲み込んだ。
手をこまねいていても仕方ない。とにかく行動しなければ。
彼は自分の机に向かいパソコンを立ち上げる。
Project Fairyの下にある天ヶ瀬冬馬のフォルダを開いて、売り込みの企画書を作成していく。
―付け焼刃。問題の先送りだな―
粘液の言葉を無視してカタカタと無心でキーを叩く。自分の中にあるイメージを形にして打ち込んでいく。
しばらく続けている突然パソコンのUSBポートにつないであるケータイが鳴った。
こんな時間に誰だ?
ケータイを開いて画面に見ると番号だけが表示されていた。
電話帳に登録してある人物からではないようだ。
無視していればその内切れるだろうと思い、放置してみるがケータイは執拗に鳴り続けた。
さっさと出ろと急かしているようだった。
彼はケータイの通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
「やっと出たか。この私を待たせるとはいい度胸だな。随分と偉くなったじゃないか?」
「あなたは……」
ケータイから聞こえてきた声はかつてのライバル961プロの社長、黒井崇男だった。
おっさんキター
彼は961プロの社長室に来ていた。
人一人が使うには広すぎる空間に妙な落ち着きのなさを覚えてしまう。
最上階の窓からは都心を見渡せる程の景色が広がっていた。
765プロも業績を重ねて、それなりに大きな事務所を構えているが961プロのビルほどではなかった。
ふと、ガラス越しに歩道を歩く人を見てみる。豆粒のように小さい。
自分の立っている場所がいかに高いかを理解した。
「立っていても疲れるだろう。かけたまえ」
黒井に言われるままに高級感が漂う黒塗りのソファーに座る。すると、そのタイミング見計らっていたかのように女性社員がコーヒーを二つ持ってきた。
この女性社員に限らず961プロは、社長の黒井はもちろん社員から受付嬢、果てはガードマンまで黒い制服を着ていた。
統一感があると言えば聞こえはいいが、誰もが961プロという色に染め上げられてしまっているようで不気味だった。
黒井が軽く目配せをすると女性社員はペコリとお辞儀をして社長室から出て行く。
黒井は口元にカップを近づけ、しばしコーヒーの薫りを楽しむと静かに一口飲んだ。
とても様になっている。
「コーヒーはブラックに限る。君もそう思わないかね?」
「無糖で飲むのは日本くらいと聞いたことがありますけどね」
彼はソーサーに置いてあるスティックシュガーとコーヒーフレッシュを入れ、ティースプーンで混ぜながら言った。
コーヒーの色が黒から柔らかなブラウンに変化した。
「生意気な男だ」
同意を得られなかった黒井が悪態をつくが、彼は無視してコーヒーを飲んだ。
砂糖とミルクで柔らかくなった苦味が口の中に広がる。美味かった。
「俺に何の用ですか?」
彼はカップをソーサーに置くと話を切り出した。
別に自分はコーヒーをご馳走になりに来たわけではない。
黒井に呼ばれたのだ。というより、黒井が一方的に961プロに来いと言って電話を切っただけだが。
黒井の真意は測りかねたが、彼は961プロに来た。
「大富の所に喧嘩を吹っかけたらしいじゃないか」
「ええ、そうですね」
「芸能界の裏側は、君と大富の話題でもちきりだ。下品な賭博の対象にされているくらいだ」
「黒井社長はどちらに賭けているんですか?」
彼の質問に黒井は答えなかった。代わりに
「勝てるのかね?」と逆に聞いてきた。
「勝ちますよ」彼は答えた。
黒井はと鼻で笑った。
「その割には最近、冬馬の仕事が減っているようだが」
「……よくご存知ですね」
「961プロの情報網を舐めてもらっては困る」
恐らく大富が妨害しているというのも既に知っているのだろう。
黒井は大富と同じニタニタとした嘲笑を浮かべながら聞いてくる。
「それでどうやって勝つつもりかね?」
彼は答えられなかった。
エンペラーレコードの培ってきたブランド力は圧倒的だ。
どれだけ魅力的な企画を提案しても大富の圧力がかかった先方が断ってしまえば意味もない。
力の差は歴然だった。勝目が見えてこない。
「大富が妨害してくるのは冬馬を危険視しているからだ」
「そんなことはわかっていますよ」
でなければ、自分の小さなプロダクションに妨害など仕掛けない。
あの大富貴音を倒す。
不可能のように思えることだが冬馬なら可能性を持っている。それだけ冬馬の実力は折り紙つきなのだ。
だからこそ、大富は冬馬の活動を妨害する方針をとった。
仮に冬馬が貴音に勝ったとしてもIA大賞が受賞できないなら大富としては問題ないのだ。
「冬馬は強い。この私が見つけたアイドルだからな。高木が見つけた女よりも遥かに優れている。だが、それだけだ」
「どういうことですか?」
「君のプロダクションはアイドル以外でエンペラーレコードに勝っている部分があるかね? 資金力、情報網、ブランド力、パイプ」
「…………」
「ジョーカーが1枚あっても意味がないのだよ。他が豚札では勝負にならない」
「そんなことはわかっていますよ。それでも何かしら行動をしていれば必ず道は開けるはずです。だから、俺はあなたの誘いに乗ってここに来たんです」
「そうだな。では、本題に移ろうか」
黒井はニヤリと不敵に笑うとソファーに寄りかかっていた体をゆっくり起こし、彼を呼んだ理由を話し始めた。
「用件は他でもないビジネスの話だ。我が961プロは全面的に君のプロダクションをバックアップしたいと思っているのだよ」
「俺のプロダクションをバックアップ?」
カップを持つ手がおもわず止まった。
「もっと言ってしまえばパトロンになってやるということだ」
パトロン。つまり支援者。
彼は頭の中で素早く計算した。
961プロのような巨大プロダクションの支援があれば、資金は潤沢だし、情報網も広い、ブランド力だってピカイチだし、パイプは数え切れない程にある。
961プロの影響力は大きい。
営業でも自分のプロダクションからの営業ではなく、自分と「961プロ」からの営業となれば話は別となるはずだ。
また、業界には961プロに恩を売りたがっている人物も多い。それを考えれば、961プロの支援を受けたこちらに仕事がたくさん来る見込みがある。
961プロならエンペラーレコードの圧力を緩和できる。むしろ、こちらに仕事を回せてと圧力をかけてやることも出来る。
大手には大手。毒を以て毒を制す。
961プロと組んで、961プロの威光を利用してやれば今の苦しい状況を確実に打開できる。
魅力的な申し出。
そんなことはわかっていたが、受け入れていいのか迷った。
彼は思い切って黒井に聞いてみた。
「なぜ俺に支援を? 961プロはエンペラーレコードと友好関係があるはずですよ」
「あそことはただのビジネスパートナーに過ぎんよ」
「でも、あなたのやることは明らかなエンペラーレコードに対する裏切りですよ」
「だから、どうした? 既にある程度の関係を作り上げて、互いにおんぶにだっこしている部分がある。今更、多少のお痛をした所で大した影響は出ないのだよ」
「それがビジネスパートナーっていうやつですか?」
「うぃ。人の繋がりとやらを大事にする765プロにいた君にはわからないだろうけどね」
黒井はカップに口をつけてコーヒーを飲み、ふうと息を吐く。
そんな黒井を見て彼は不思議な気持ちになった。
黒井の思想やアイドルの考え方、961プロのやり方は未だに納得はしていない。
だが、目の前で語る黒井を見ていると黒井は黒井なりに信念のようなものを持っている。そんな気がした。
もっとも黒井の言うように自分が765プロの考え方しか知らなかったから新鮮に見えただけかもしれないが。
「君を支援したいと考えるのはいつまでも高木の見出した女が出しゃばっているのが気に食わないからだ。冬馬には是非、大富貴音を打ちのめしIA大賞を受賞してもらいたい。冬馬を見出した私の優秀さが証明されるからな」
「私情じゃないですか」
「君に言われるのは心外だな」
「そんなことはわかっていますよ。それで条件はなんですか。ビジネスなんでしょう?」
彼はギラついた目で黒井を見た。
黒井の提案は話がうますぎる。ローリスクハイリターンなど有るはずがない。ビジネスと言う以上は何かしら見返りを求めているのは確かだ。
「金の卵を逃したこと。私は惜しいと考えているのだよ。来年度から君が育てた冬馬は961プロでしっかりと役にたってもらう」
そう言うと黒井は冷たく笑う。
「天ヶ瀬冬馬の961プロへの移籍。それが条件だ」
黒井からの条件を聞いて彼は勢いよく立ち上がった。
「冬馬の移籍……冬馬を961プロに売れっていうんですか!?」
「人聞きの悪いことを言わないでくれるかな。言っただろ、移籍だと」
声をあげる彼を黒井は軽くいなす。
「大体、1年活動したらすぐに移籍なんてありえないですよ!」
「何を言っている。君が取り戻そうとしている大富貴音がその最たる例じゃないか」
「それは俺のせいで」
「世間には関係ない」
黒井はバッサリと切り捨てた。彼は何も言い返せない。
「君のプロダクションは961プロ系列の子会社だったと発表するつもりだ。その方が都合がいい」
「そんな嘘が通用するはずないですよ」
淡々と説明する黒井に彼は悔し紛れにそう言った。黒井はその悔し紛れにすら容赦のない言葉を浴びせかけた。
「真偽などどうでもよいのだよ。世間に発表したことが公式となるのだからな。公式である以上、ファンは受け入れるしかない」
「やっぱり俺はあなたの考えは納得できません」
「別に君の理解を得たいなど思っていない。だが、既に私は条件を提示した」
「変えるつもりはないということですね」
「すぐに決めろとは言わない。私からのお情けだ。だが、私はあまり気が長い方ではない」
「……コーヒー、美味しかったです」
彼はそれだけ言うと社長室の扉へとスタスタ歩きだす。妙な敗北感があった。
「いい返事を期待しているよ。最も君は私に頼らざるを得ないと思うがね」
「そんなことは……」
続きの言葉は出てこなかった。
元カノと今カレ・・・
今日の事務所での夕食は山芋と明太子のパスタだ。
大皿には鰹ダシと合わせたパスタの上から擦られた山芋と明太子を混ぜたピンク色のとろろがかかっている。
振りかけられた刻み海苔もあって見栄えもいい。
彼の自信作だ。
「ワサビは使うか?」彼はワサビのチューブを差し出す。
「いや、いらない」断られた。
「冬馬、寿司は」
「サビ抜きだ」即答された。
「鰹ダシに混ぜると美味いんだけどな」
ワサビのツンとした香りが苦手なのかも知れない。
無理に勧めるのも良くないし、選ぶのは冬馬の自由だ。
彼は皿の脇にワサビを出してテーブルの隅に置く。すると冬馬は手を伸ばしてチューブを取った。
「料理は美味く食べるべきだろ」
冬馬はそれだけ言うとワサビと鰹ダシを混ぜてパスタを食べる。
明太子の辛さとはまた違うワサビの辛味が味を引き締めていた。
「……結構イケるな」
「そんなことはわかっているよ」
彼もパスタをフォークで絡めて食べ始めた。
今は暖かいパスタとして食べているが、とろろも鰹ダシも冷蔵庫で保存がきく。
冷製のパスタで食べてみたらどうだろうか。そんなことを考えた。
もっと考えなくちゃいけないことがあるのにな。
黒井の提案を思い出す。
フォークを持つ右手が重たく感じた。
しばらく無言の食事が続く。いつもなら彼が積極的に話かけてくるが今日はそれがない。
「あんた何か悩みであるのか」
「突然どうした?」
「あんたが飯を食っている時のマヌケな面をしていないからだよ」
彼は食事を楽しむ男だ。冬馬はそれを理解している。
だが、今の彼はどう見ても食事を楽しんでいる顔をしていない。
「冬馬のプロデュースについて色々と考えていたんだ」
彼は皿に視線を落としたまま答える。嘘は言っていないはずだ。
「そうかよ。なら1つ言わせてくれ。暗い顔で食べるな。一緒に食っているこっちまで暗くなる」
「すまない」
「ああ、頼むぜ」
せっかくの美味い飯が不味くなるのは俺も嫌なんだからよ。
「……やっぱり美味い。流石だな、俺」
「自分で言うなよ」
料理を自画自賛する彼に冬馬はツッコミを入れた。
少しは元に戻ってくれたか……
冬馬は彼にそれ以上何も聞いてこなかった。
冬馬は気づかない。
彼がいつものマヌケな顔をするから。
彼が食事を楽しんでいるように見えたから。
彼がそういう風に振舞ったから。
だから、冬馬は気づかない。
―冬馬を売れ―
彼は笑顔の下で湧き出ていた粘液を必死に耐えていた。
俺はどうすればいいんだ?
自分以外いない部屋、彼はベッドの上で自分に向かって聞いてみる。
答えはすぐに出た。とても単純な答えだった。
―冬馬を売れ―
頭からは変わらない答えが粘液になって湧いてくる。
彼は痛みのする頭を振って、その答えを否定する。
冬馬を売るなんて間違っている。出来るはずがない。彼の感情はそう訴えていた。
―業界最大手とも言える961プロの援助以上にいい案はない―
粘液は彼の感情を勘定で否定した。
―他に案はあるのか?―
粘液と違って名案は湧いてこなかった。仮にどれだけ考える時間を与えられても最良の策は出てこないだろう。
だとしても……!
彼はギュッと瞼が痛くなるほどに目をつぶり粘液を押さえ込もうとする。
―使わざるを得ないのに使いたくないなんて。代替案もなしに感情だけで語るな―
そんなことはわかっている……
彼はもう追い詰められている。黒井に指摘されたように自分の持っている手で勝負したところで負けは見えている。
勝負に勝つには冬馬以外のカードを強いカードに変えればいい。
極論かもしれないがジョーカー1枚に残り4枚がAならば完成する役はAの5カード。絶対に勝てるのだ。
―このままじゃ貴音は手に入らないぞ―
そんなことはわかっている……
彼はいつもの言葉で流そうとした。
―わかっていないだろ―
粘液は流されずに彼の内にへばりついたままだった。
それは他者からのものではなく自分自身からのものだからだ。外からか内からの違いだった。
周りからどれだけ粘液を吐かれようと自覚していることなら流せる。
自分の心に染みないうちに素早く洗い流せば粘液は落ちてくれるのだ。
だが、自分は内側から湧いてきた粘液は別だ。脆い内側から容赦なく汚し侵していく。
それは嘔吐する直前の、どれだけ我慢しても嘔吐感だけが無尽蔵に湧いてくる感覚に似ていた。
―黒井の申し出を受けたくないのは、お前が冬馬を手放したくないからだろ。貴音に勝るとも劣らない輝きを放つ天ヶ瀬冬馬っていうアイドルを―
粘液は彼の本心を指摘する。強烈だった。
猛烈な頭痛と一緒に吐き気が襲ってくる。
彼は粘液に悶え苦しむとベッドから転がり落ちた。
惨めたらしくうつ伏せの形で床につく。
床に手を当てて腕立ての要領で上体を起こそうとしたが、体は鉛のように重くて動かない。
頭痛が激しくなる。息苦しい。吐きそうだ。
顔を少しあげると視線の先にはベッドの枕元から落ちたケータイが転がっていた。
彼は無意識のうちに手を震わせてケータイを取ろうとする。
俺を助けてくれ。
「……りつ……」
そこまで口から出でかかった所で彼はこらえた。
俺はいま何をしようとした。
彼女を求めようと伸ばした手を爪先が掌にくい込む程に閉じて、同様に彼女を求めようと開いた唇を噛み締める。掌と唇には血が滲んだ。
求めようとした自分を罰するためか、抑えこむためか。彼自身もよくわかっていなかった。
確かなのは、自分は秋月律子を求めてはいけないということだ。
彼は貴音を求めるために律子を失った。
何かを得るためには、それと同等もしくはそれ以上のものを失う。そういうことなのかもしれない。
ならば、今度は冬馬の番ということなのだろうか。
彼はもう何も考えたくなかった。
思考を閉じようとするが粘液は湧き続ける。
―お前は最愛のパートナーである貴音を得るために、最高のパートナーである冬馬を犠牲にするんだ―
粘液は彼の体から溢れ、彼の周りに沼を作り出した。
全身を粘液にまとわりつかれて不快感がベッタリと張り付く。
どうしてだ。
どうしてお前はいつも湧いてくるんだ。お前は俺なのに……どうしてそんなに俺を責めたり煽ったりするんだ。弱っている時なんかに湧いてこないでくれ。現実を見せないでくれ。苦しめないでくれ。
もし湧いてくるとしたら、俺がしっかり答えを出した時の強い俺の時だけ都合よく湧いてきてくれ。そしたら答えられるから。お前なんかに負けず、正面からしっかりと。これでいい、と自分の答えに自信が持てるから。
だから、今は湧かないでくれ。お前は俺なんだから、俺に優しくしてくれ。
彼は粘液が止まることを願う。叶わなかった。
―冬馬を売れ。あいつならきっと受け入れてくれるさ。冬馬は……義理堅いからな―
心の隅にある汚い打算の言葉を最後に、彼の意識は深い粘液の沼の底へと沈んだ。
どうして勢いだけで走りきれないんだろう
余計なことなんて考えたくないのに
妙だ。冬馬は事務所のドアの前に立ちながらそう思った。
シルバーの腕時計は7時を指している。朝早くからの仕事がない時ならいつも自分が事務所に来る時間だ。彼も知っている。
だが、既に呼び鈴をならしたのにも関わらず彼が出てこない。
寝坊するようなな奴には思えないけどな。
冬馬はもう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり出てこなかった。
ドアノブを回して引くとドアはあっさりと開いた。鍵がかかっていない。
事務所は暗く静かだった。
玄関から続いたキッチンにある冷蔵庫のブオーンという無機質な音だけが聞こえる。
事務所には彼がいるはずなのに人の気配が感じられない。
「おい、いないのか!」
冬馬は焦りの混じった声で彼を呼んだ。広くはないから彼の部屋まで聞こえるはずだ。しかし、返事はこなかった。
首筋がチリチリしてくる。何かヤバイ、と思った。
冬馬は何か突き動かされるように急いで彼の部屋へと向かった。
キッチンと部屋を隔てている引き戸を開くと、密閉された空間のもわっとした空気が顔にへばりついた。
生ぬるい空気を吸い込んでしまい僅かに吐き気がする。
口を抑えて、部屋を見渡すとベッドのすぐ近くに何かを見つけた。
彼が死体のように力なく倒れていた。
昨日の夜まで一緒に食事していたパートナーが、朝になってピクリとも動かないまま倒れている。
そんな現実離れした光景を見たからだろうか。
冬馬は先ほどの焦りと不安が嘘のように落ち着いていた。
事態に対して感情が整理できず追いついてないのかもしれない。彼が倒れているのに何処か他人事のように捉えていた。
冬馬は自分のケータイで119のダイヤルをするとそのままケータイを耳に当てようとする。
だが、しっかりと握っていなかったせいかケータイは手からするりと抜け落ちた。
冬馬は慌てて空いた手で素早く落ちるケータイをキャッチすると、今度はしっかりとケータイを耳に押し当てた。
ケータイを握る手は力を入れすぎて微かに震えていた。
救急車が来るまでの間、冬馬はケータイ越しの女性の落ち着いた声に従い呼吸の有無の確認を行う。
うつ伏せの彼を仰向けにすると腕に彼の重さを感じた。
グッタリとする彼は重かった。
さっさと起きろよ。俺は冗談が苦手なんだ。
頬を叩いてみるが、彼は目を開けなかった。
そこでようやく感情が追いつく。
冬馬の中で焦りと不安が急速に膨らんでいった。
おい、俺たちはこれから仕事に行くんだぞ。
俺があんたの取ってきた仕事をこなして、あんたはそれをしっかり見る。
そうだろ?
だいたいあんた、昼飯が出来てないぞ。
スタッフから配られる脂っこいロケ弁食うより、あんたのおにぎりやサンドイッチ食う方がマシなんだよ。
だから、さっさと起きろよ。そんなことはわかっているだろ?
いつの間に冬馬は彼の胸倉を掴んで無茶苦茶に振っていた。
「どうかしましたか?」
ケータイからの声にハッとする。思いの外大きな音を立てていたようだ。
冬馬は彼の胸倉から腕を離して、ケータイの声に返事をする。
「い、いや、なんでもないです」
人の目ではないが、第三者の存在を意識すると、どうにか平静を取り戻せた。
病院へ搬送される途中、冬馬は救急車の中で担架に横たわる彼をジッと見ていた。
彼は呼吸をしていたが、まるで呼吸が止まっているみたいに微弱なものだった。
余計に彼が生きていないように見えた。
病室から出た冬馬を廊下で待つ少女がいた。秋月律子だ。
冬馬が彼のケータイを使って連絡をとったのだ。
「プロデューサー殿は?」
律子は冬馬に彼の容態を聞いてきた。
眼鏡の奥の瞳には不安の色が混じっている。
冬馬は医師から聞かされたことを話した。
「衰弱しているってさ。とは言っても体に異常はないみたいだ。一応、点滴は打ってるけどな」
「そう、無事なのね」
律子は安堵の息をつくと白い壁に背中を預けた。
余程、気を張っていたのか律子は目をパチクリさせて目の筋肉をほぐす。
「あのさ、連絡しておいてなんだけど良かったのか。その……仕事を途中で抜ける形になったわけだろ?」
悪いとは思っているのだろう。
冬馬は頭の後ろを掻きながらぶっきらぼうに、それでどこか申し訳なさそうに言った。
そんな冬馬の態度に律子は小さく笑う。
「別にあなたが謝ることじゃないわ」
「竜宮小町の方は大丈夫なのかよ?」
「甘く見ないでほしいわね。うちのアイドル達はちょっと私が抜けたくらいで崩れる程、そんなにヤワじゃないわよ」
「それもそうだな」
挑発的な笑みを飛ばしてきた律子に冬馬はフッと笑い返した。
俺のいるジュピターを倒したんだからな。
「でも、まあ……プロデューサーとしては失格でしょうね。大切な自分のアイドルによりも男を優先したんだから」
律子は陰りのある顔で自嘲気味に呟いた。未だに彼への想いがあるのは明白だった。
ふと冬馬は律子に聞きたいことが出来た。
「なあ、秋月」
「どうしたの?」
「お前、あいつのためなら竜宮小町を……自分の夢を捨てられるか?」
「どうかしらねえ」
律子は自分に問いかけるように曖昧に答えた後、
「でも、出来ると思う」
そうハッキリと告げた。
「本当かよ?」
「悩みはすると思う。でも、きっと最後はあの人にとってのプラスを選ぶわ。だって、私は今でも好きだから」
彼のことを思い出しているのか律子の顔は穏やかだった。
冬馬は律子の回答に思ったままのことを口にする。
「お前なんか怖いな。いれこんでいるっていうかさ」
「人は多かれ少なかれ、そういうものを持っているわよ。冬馬にとって、あの人がそうじゃないかしら?」
「よせよ、気持ち悪い。俺に『そういう』趣味はねえ」
「別に『そういう』意味で言ったわけじゃないわよ」
「そんなことはわかっている」
冬馬は彼の口癖を言いながら、律子から視線を逸らした。
律子の言わんとしていることは理解していた。
元々、冬馬は彼が腐っているのが気に食わなかった。
自分を倒したアイドルを生み出した彼の実力を認め、敬意を払っていたからだ。
そして、いま彼に協力しているのは彼が彼なりに前を進んでいるからだ。
冬馬は見届けたいのかもしれない。彼がどういう結果を迎えるかを。
そういう意味では自分も律子の言うように彼にいれこんでいるのだろう。
「俺たち、似た者同士だな」
「ええ、そうね。それはきっと彼女もだと思う」
律子の言葉に冬馬は一人の少女を思い浮かべる。
すると、廊下の向こうから少し早い足音が近づいてきた。
足音の正体は最前、冬馬が思い浮かんだ少女だった。
「どうしてお前がここにいるんだよ?」
冬馬は少女に向かって聞いた。代わりに答えたのは律子だった。
「私が呼んだの。一応、知らせるべきだと思ったから」
天ヶ瀬冬馬、秋月律子、大富貴音。彼が眠る病室前に似た者同士の三人が揃った。
たまにこのPと冬馬でTSしたら、どっちが女になるのかというアホな妄想をしたりする
つーか、次のレスへの引きが誰か登場というパターンばっかだなあ。何かうまい引き、ないかねえ
男同士で何も問題ないよね?
「律子、プロデューサーは」
「命に別状はないわ。多分、疲れが溜まっていたのよ」
律子は冬馬が自分にした様に貴音に無事を伝える。
貴音は静かに病室に入る。
一瞬、引き戸の隣に立つ冬馬と目があったが無視した。
静かな病室。彼はベッドの上で小さく息をして眠っていた。腕に繋がっている透明のチューブが少し痛々しい。
貴音は細く白い手を彼のチューブの繋がっている方の手に重ねた。
暖かい。生きている証拠だ。
ほんの少し力を込めて握ってみる。彼は握り返してはこなかった。
貴音は両手で彼の手を強く握った。
言葉はいらない。ただ静かに彼のことを想い、祈り続ける。
窓から入る陽の光が二人を照らしていた。
冬馬はその様子を見ながら律子に言った。
「秋月、お前はいいのか?」
「私は平気よ。あの人の無事がわかれば十分」
嘘だった。
本当は今すぐにでも彼の元へ行きたかった。
だが、律子は行かない。
彼の姿をみてしまえば、想いが溢れてしまう。
溢れてしまえば、彼に触れてしまう。
触れてしまえば、彼を求めてしまう。
求めてしまえば、彼を苦しめてしまう。
律子は彼への想いを閉じ込めていた。
しばらくすると、祈りを終えた貴音が病室から出てきた。
「天ヶ瀬冬馬」
瞬間、貴音は冬馬の頬を張った。パアンっという乾いた音が響く。
何すんだよ!
冬馬は反射的に大声が出しそうになったが、病院ということもありなんとか堪えた。
緊張が高まる空気の中、律子は貴音を嗜めることも冬馬を気遣うこともせず、静観する。
「あなた程の傑物がついていながら何故気づかなかったのです」
ワインレッドの瞳は静かな怒りで燃えていた。
気圧された冬馬はその目を見ることができなかった。
「妙だとは思ったさ。でも、あいつは平気そうだった」
つい、言い訳がましくそう言ってしまう。まさか、ここまでの事態になるとは思わなかった。
「プロデューサーは一人で抱え込んでしまう方です。昨日今日の付き合いではないのだから、それがわからないあなたではないでしょう」
「……言ってくれなきゃ何もわからねえよ」
「言えないほどに悩んでいた。苦しんでいた。違いませんか?」
詰問してくる貴音に冬馬は舌打ちをした。
恐らく貴音の言っていることは事実だろう。
口ではああは言ったが、彼のことを気付けなかった自分に腹が立っていた。
「いきましょう、貴音」
「しかし、律子」
「これはあの人と冬馬の、プロデューサーとアイドルの問題よ」
外野は引っ込んでいましょう、と続けて律子は顎で貴音を促した。
貴音は納得していない様子で律子と一緒に歩き出す。
取り残された冬馬は去っていく二人の背中をみて、微かな疎外感を感じた。
三人の中で自分だけが彼を理解していない。そんな気がした。
妙にイラついて冬馬はもう一度舌打ちをした。
最初に目に映ったのは橙色の天井だった。
首を小さく動かして窓をみた。
夕焼けの光が入り込んで、白い天井をオレンジに染めている。
今度は窓とは逆の方をみる。
等間隔で並んでいる白いベッドが天井と同じように夕焼けの色をしていた。
そこまでして彼はようやく自分が病院のベッドにいるということを把握した。
今、何時だ?
彼は上体を軽く起こして、右腕を見下ろす。手首には腕時計はついていなかった。
代わりに肘関節より少し下には薄い緑の器具と一緒に管がついている。
管を目で追っていくと終点で太くなっていて、そこに透明のパックが繋がっていた。
パックからは管の太い箇所へと中身が滴下されている。
「……あっ、起きたのか?」
ドアの引き戸が開かれて、片手にビニール袋を持った冬馬が病室に入ってきた。
「調子はどうだ?」
「見ての通りだよ」彼は自分を見せつけるように大げさに両手を広げた。
「わからねえよ」冬馬はベッド近くまで来ると近くにあった椅子に座った。
「俺はどれくらい寝ていたんだ?」
「知らねえよ。でも、昨日の夜あたりからじゃないのか。少なくとも俺が事務所を出る時は、あんたはまだ起きていたからな」
言葉の最後に刺を感じつつも彼は納得した。
冬馬の発言から推測すると自分が粘液で沈んだのは昨晩になる。となると丸一日近く寝ていたことになる。
なんだか猛烈に腹が減ってきた。点滴のおかげで栄養面は問題ないが、腹を満たしてくれるわけじゃない。
「冬馬、仕事はどうした? あと、何か食べ物はないか?」
「あんた、さっきから聞いてばっかりだな。仕事は休んだ。流石にあんた放置して仕事に行けるかよ」
「俺としては行ってほしかったけどな」
「俺に掛かれば一日の遅れくらい、すぐに取り返せる」
冬馬はビニール袋から林檎を1つと包丁を取り出して、皮を剥き始めた。
しかし、上手く剥けない。皮が途中でぶつ切りになって床に落ちていく。
意地になって皮を剥くが、包丁が深く入っていて肝心の実の部分まで削いでしまっている。
見ていて危なかっしい。そのうち手を切りそうだ。
「貸してみろ」
「病人が体を動かすなよ」
「いいから貸してくれ。見ていられない。ビニールも頼む」
少し強めな口調に冬馬は渋々といった表情で林檎と包丁、ビニール袋を渡した。
彼はビニールを膝下に敷くと包丁の刃を水平にして、林檎を当てて回していった。
赤い皮が細く薄い状態でビニール袋に落ちていく。
「林檎の皮むきは包丁を動かすんじゃない。林檎を動かすんだ」
「ピーラーがあれば、こんな技術いらねえし」
彼の鮮やかな手際に捨て台詞を吐くと、
「……話せよ」
唐突に話を切りだしてきた。
彼は林檎を回す手を止めた。
言葉は少ないが冬馬の聞きたいことはわかっている。
どうして自分が倒れていたか、その原因は何か、そんなところだろう。
だが、彼は「何をだ?」としらばくれてみた。
「こんなことになっても、まだシラを切ろうとするのかよ」
彼は無言で皮むきを再開する。その態度に冬馬はイラッと来た。
「流そうとするなよ」
「面会時間には限りがある」
「だったら事務所であんたのお帰りを待つだけだ」
冬馬は引き下がるつもりはないと目で訴えた。
普段の彼ならこのまま表情を繕って嘘を通そうとした。
だが、深く長く寝て頭がスッキリしていたから、彼は不思議なくらい落ち着いていた。
なんとなく話してみようと思った。
彼はゆっくりと黒井から持ち出された提案を話し始めた。
安定のホモスレ
P:主人公
あまとう:メインヒロイン
お姫ちん:攻略できる(メインではない)ヒロイン
「……つまり、俺の移籍を条件に黒井のおっさんのバックアップを受けられるってことか」
カットした林檎を食べながら話を聞いた冬馬は、簡潔にそうまとめた。
今、自分たちは大富から妨害を受けていて、このままでは彼が貴音を取り戻すことは出来ない。
この問題を解決し、今後の活動を有利に進めるために961プロの支援は必須だ。
だが、そのためには来年度から自分は961プロでアイドルをしなければならない。
しかも、彼の会社は961プロの子会社という位置づけとして発表される。
要するに彼と築き上げたもの全てを横からかっ攫われるということだ。
胸糞悪い話だと冬馬は思った。
「情けない話だけど俺の力では、どうにかすることは出来ない」
彼はため息をつくと手元の包丁を見つめた。
不甲斐なさに自分自身を刺し殺してやりたいとさえ思った。
もっともそんなことを出来る度胸もないのだが。
「……だったら、俺の力で」冬馬は反射的に言おうとしたが、彼が続きを遮る。
「畑違いだ。それがわからないバカじゃないだろ?」
冬馬は黙った。
自分はアイドルであってプロデューサーではない。彼の直接的な力にはなれないことは明白だ。
プロデューサーの秋月なら、こいつの力になれたのか?
そんな考えがよぎると自分の力の無さに苛立ちを覚えた。
「俺は俺自身が望むことを叶えるためなら何だって出来ると思っていた。実際、すごく辛かったけど……俺のことをあれだけ想ってくれた律子を手放せた」
彼は律子と別れた夜を思い出すように窓をみた。夕日をみる顔の半分に陰りができる。彼は続けた。
「ハッキリ言ってさ、俺にとっては冬馬よりも貴音の方が大切なんだ。大富さんに認めてもらえる形でちゃんと取り戻したい」
「それはそうだろうな」冬馬は少し複雑そうな表情をする。
自分より貴音の方が大切と言われたことが不満だった。
そういう事は口に出すようなことではないだろう、と思うと同時にならば、どうして自分を黒井に売らないのか、というごく自然な疑問が湧いてくる。
担当アイドル以上に大切なものがあるなら躊躇うなよ。
冬馬の疑問を知ってか知らずか、彼は「でもな……」と前置きをすると
「じゃあ、お前を手放せるかって聞かれたら出来ないよ」
そう言葉をこぼした。
冬馬はハッとした様子で彼をみる。彼の顔は影でよく見えなかった。
「冬馬、お前は凄いんだ。お前からは炎が出ていて、一緒に仕事をしていると俺も負けられないって自然に燃え上がってくるんだよ。お前に相応しい最高のプロデュースをしてやりたい。そんな気持ちが湧いてくるんだ」
胸の内を晒す彼に冬馬は言葉を詰まらせる。
こいつ、そこまで俺に入れ込んでいたのか。
彼の素直な気持ちに冬馬は不思議な高揚感を得た。
嬉しいのだろう。
だが、それを素直に認めるのは何だか癪な気がする。
つい、いつものようにぶっきらぼうに答えてしまう。
「そうは言っても選択肢は有って無いようなものだろ」
「わかっている。そんなことはわかっているよ……わかっているけどさ」
理解しているが、納得できない。そんな様子で彼は口癖を言った。
彼のハッキリしない態度に冬馬は頭を抱えた。
しょうがない奴だ。
答えを決められないというなら、決めさせるしかない。
「俺は別に961プロに移籍すること自体に抵抗はねえよ」
嘘ではなかった。
元々、冬馬は961プロの人間だ。移籍するにしても単に古巣に戻るだけだ。
もっとも自分から辞めた手前、戻ることには多少なりとも後ろめたいが些細なことだ。
「ただ……あんたと組めないっていうのは物足りないけどな」
冬馬は彼が胸の内を晒したように自分の気持ちを白状した。
彼が冬馬の方を見てくるが、冬馬は照れくさくて視線をそらした。
「俺はあんたの決めたことに従うぜ、プロデューサー」
その言葉に彼は小さく息を吐いた。
自分の決めたことに従う、と冬馬は言った。
自分と組めないことに物足りない。つまり、自分とのコンビは解消したくないとハッキリと意思表示した上で。
冬馬はとっくに覚悟を決めているのだ。ならば、自分も決めなくてはいけない。
最愛の貴音を取り戻すために、最高のパートナーを捨てる覚悟を。
気がつくと彼の意思は固まっていた。
恐らく冬馬が背中を押してくれたからだろう。
あれだけ悩んでいた自分がものすごくバカみたいで笑えてくる。
「何、笑ってんだよ?」
「いや、冬馬には助けられてばっかりだなってさ」
「アイドルとプロデューサーって、そういうものだろ? あんたのいた765プロでは」
「ああ、そうだ。アイドルとプロデューサーは一蓮托生、運命共同体。だから、互いに支え合うものだ」
「男同士でかよ。気持ち悪いな」
「安心してくれ、冬馬。俺に『そういう』趣味はない」
「奇遇だな。俺もだ」
「そんなことはわかっているよ」
彼はいつものように言うと、冬馬に協力を頼んだ日と同じ言葉をかける。
「冬馬……お前を利用させてくれ。俺が、俺自身の望むことを叶えるために」
あの日と同じような軽い口調だった。
冬馬はその頼みにニヤリと笑って、こう答えた。
「そんなことはわかっているぜ」
Pがダメ男だから、それを支えようとする冬馬が主人公に見えたりする時がある
病院からの帰り道、貴音と律子は近くの喫茶店へ寄った。
けして広くはないが、客席の大半は埋まっている。意外に繁盛しているようだ。
テーブル席に向かい合う形で腰を下ろすと、二人は各々の飲み物を注文した。
「律子、今日はプロデューサーのことを伝えていただき、真ありがとうございました」
「別に構わないわよ。私がそうした方がいいって判断しただけだし」
丁寧にお辞儀する貴音に律子はサバサバした様子で答えた。
「こうしてちゃんと話すのっていつ以来かしら。仕事でも会うことがほとんどなかったし」
「そうですね……」貴音は自分の注文した紅茶を飲んだ。
「あなたがいない間に色々あったわ」
「プロデューサーのことですね?」
貴音の言葉に律子は「ええ」とだけ答えてコーヒーを飲む。
「聞かせていただけませんか? 律子とプロデューサーのことを」
「あなたがいなくなってから、あの人は死んだような目をしていたわ」
律子は貴音に彼と過ごした時間を語った。
彼のことを支えていた時のこと。彼との関係に決着をつけた時のこと。
流石に色々と「した」ことは曖昧にぼかした。
わざわざ自分から抱かれたと言う必要はない。だが、恐らく貴音は理解しているだろう。
彼と律子の関係が明らかに男女の関係だったからだ。
律子が彼を愛していることを貴音が悟るのは容易だった。
「律子は……その、プロデューサーと」
貴音が頬を赤くしながら躊躇いがちに律子に聞く。
初心な態度に律子は苦笑する。
「何度もね」律子は割とあっさり答えた。
「まあ、私はあの人にとって捌け口でしかなかったけど」
「それでも相手が想い人ならばいいではありませんか」
「貴音……」
彼を支えても報われない。求めてもらえない。
どうして自分ではなく貴音なのか。
彼に求められる貴音がどうしようもなく憎いと思うことが何度もあった。
だが、貴音は貴音で辛い経験をしているのだ。
不本意な形とはいえ、自分の大切なものを愛する人に捧げられたことを考えると律子は幸せだったのかもしれない。
それを自覚すると貴音を一方的に嫉妬していた罪悪感からか、律子は胸に痛みを覚えた。
私だけが被害者面するのは可笑しい話か……
彼と過ごすことで時間を共有した。
彼の部屋にいることで空間を共有した。
彼と体を重ねて彼と溶け合うことで体を共有した。
彼のやり場のない感情をぶつけられることで感情を共有した。
「あの人との時間は確かに幸せだった。どれだけ想いが私に向いていなくても」
彼を感じて、彼の全てを分かちあえたからだ。
「私は律子からプロデューサーを奪ってしまったのですね」
「そうね……でも、それはおあいこだわ」
「どういうことですか?」
「だって、あの人に決心がつくまでは私が独り占めしていた。貴音から奪っていたようなものよ」
「だから、あいこだと?」そう聞く貴音に律子は頷いた。
「それどころか、私はあの人が貴音を求めているのに貴音からあの人を奪おうとした。結局ダメだったけど」
律子はコーヒーを飲んで、ため息をつく。
そして、心の底に沈めていた暗い感情、粘液を貴音に吐きかけた。
「私、貴音のことが嫌いだわ。だって、あの人に想われているんだもの」
「私も律子が恨めしいです。プロデューサーに愛してもらえたのですから」
律子の汚い本音を受け止めた貴音もまた粘液を吐きかけた。
愛する彼と体を重ねられた。彼と深い繋がりを持てた律子。
羨ましいと思った。そして、それ以上に妬ましい。
もちろん貴音も心で彼と繋がっている。
しかし、律子と彼の繋がりは体という直接的で根源的だ。
心という目に見えない繋がりよりも確かで強い繋がりに思えた。
「何が敗因だったのかしら。想いの強さでは勝っているつもりだったけど」
律子はメガネに手をかけて、観察するように貴音を覗く。
「やっぱり単純に過ごした時間の違いかな」
「そうですね……短い様で長い一年、私とプロデューサーは酸いも甘いも共にした仲ですから」
静かに目を閉じて彼との思い出に浸る貴音。
「ああ~惚気ちゃってくれて」
律子は呆れた声を上げた。
私、やっぱりあなたが嫌いだわ。
「貴音」
「なんでしょうか、律子」
この際だ、全部吐き出してしまおう、と律子は思う
「私はあの人が貴音を求めているから、身を引いているだけなの。あの人は貴音を選んだ。それが答え。あの人はずっと貴音を求め続けるわ。でもね、もし万が一、あの人が私を求めるようなことがあったら……」
貴音は律子の言葉をじっと待つ。
律子は恋敵へ宣言した。
「私は容赦なく奪っていくから」
眼鏡の奥から鋭い光を放つ瞳が貴音を捉える。
その強い意志に気圧されて、貴音は目を逸らしそうになる。
しかし耐えた。もし、逸らしてしまえば自分の負けのような気がした。
「真恐ろしいですね」
「愛している人を奪われた恨みは大きいのよ」
「そのようですね。律子、あなたの想いの強さ、しかと受け取りました」
「怖いなら、あの人を求めるのを辞めてもいいのよ? そうすれば、私にもチャンスはあるから」
「それは出来ない相談です。私とて女の端くれ。ならばプロデューサーが私を求めて続けてやまない程に精進するのみです」
「精進ねえ……それはアイドルとしても?」
「はい。その結果がプロデューサーと永遠の別れとなるとしても」
「私は勝てとも負けろとも言えないわ。ただ私に言えることは、あの人が全力で育て上げた冬馬に全力で戦いなさい」
「当然です。全力で挑まなければプロデューサーの想いを踏みにじることになります」
「あの人は強いわよ」
「そんなことは存じております。プロデューサーの力は私が一番理解しています。なぜなら……」
聡明な律子には、続きの言葉に大体の予想はついていた。
続きは予想通りだった。
「私がプロデューサーを誰よりも想いを寄せているからです」
貴音は自信満々の笑顔で目の前の恋敵に宣言した。
来てた
惚れ惚れするSSだ
「では、これで契約締結だ」
彼が契約書にサインし、押印するのを見届けると黒井は契約書をデスクにしまった。
彼と黒井の二人だけの961プロの社長室はあらたまった雰囲気が漂っていた。
「これで君のプロダクションは正式に我が961プロの援助を受けることになった」
「ご支援ありがとうございます」彼は深く頭を下げた。
「かつての敵に頭を下げられるとはな。いやあ、中々いい気分だな」
「今は仲間ですよ」
「ビジネスパートナーだ。そこを履き違えてもらっては困る」
あくまで馴れ合うという考えは嫌いらしい。
もっとも彼にとって黒井の態度なんてどうでも良かった。
自分の目的はIA大賞の獲得と貴音に勝つこと。
黒井のことは好きではないが、援助してもらう以上は存分に活用してやろう。
ビジネスという互いの損得と打算で繋がっている関係。
寂しい関係だな、と彼は思う。
とは言え、これはこれで後腐れなく別れられそうで気が楽だ。
今の自分にはとても都合がいい。
「それで961プロに必要とする支援ですが」
「金と情報、そして根回しと圧力だ」
「……ご理解が早くて助かります」
スラスラと答える黒井に彼はそう答えるしかなかった。全てこちらが要求しようとしたことだ。
「経験が違うのだよ。君の考えることなど容易に想像がつく。当然、具体的な内容もまとめてあるんだろうな?」
「もちろんです」
彼は素早く答えると鞄から茶封筒を取り出して黒井に渡した。
黒井は封筒の中から紙の束を取り出す。彼の作ってきた資料だ。
「……」
舐めるように資料を無言で吟味する黒井。
さて、どういう反応が帰ってくるだろう。
資料にはけっこう無茶苦茶な要求を書いてある。特に資金面の関してはかなりの額が載っているはずだ。
少なくとも自分が765プロに在籍していた頃には絶対に降りないような額だ。
「手緩いな」
黒井は表情を変えることなく言うと、胸ポケットからいかにも高級そうな万年筆を出すと資料に何か書き始めた。
サラサラと万年筆が滑る音だけが響く。
「961プロにふっかけたつもりだろうが、見当違いも甚だしいな」
やがて、書き込みを終えた黒井は彼に見せつけるように資料を突き出した。
手が加えられた場所は資金面のページだった。
冬馬のプロモーションにかける予算や質の高いレッスン場を使うための施設利用費、事務所の移転費、各所への接待費など様々な項目が並んでいる。
それを見て彼は目を剥いた。
資料に明記されていた金額つまり彼がふっかけたはずのものが倍以上に書きかえられている。場所によっては0が一つ追加されているほどだ。
「冗談でしょ?」思わず敬語を忘れて素で返す。
「互いに利用し合う以上は相手を食い潰すくらいの気でいくものだ」
「これほどの援助はとても嬉しいですが、961プロの財政は大丈夫なのですか?」
「君が気にすることじゃない」
「……わかりました」
向こうがこれだけ出すと言っているのだ、甘んじて受け取ろう。こちらがとやかく言うことじゃない。
「それとだ、冬馬に今度やる二時間ドラマの主役をやってほしいというオファーがあった」
「えっ?」
突然の黒井の言葉に彼は呆気にとられた。
ここ数日営業をかけても何処も大富の圧力で禄にいい返答は貰えなかったはずだ。
それがどうしていきなり単発とは言えドラマの主役という大役の依頼が来たのだろうか。
そもそも事務所には連絡一つ来ていない。すると、彼の疑問に黒井が答えた。
「私が懇意にしている監督に頼んでみたらね」
「なるほど、そういうことですか。しかし、俺がとってきたわけでもない仕事を受けるのは……」
「プロデューサーとしてのプライドが許さないかね?」
「はい」彼は素直に答えた。
まだ自分の事務所に依頼が直接来たなら喜んで受けただろう。
だが、この仕事は黒井の仲介があって舞い込んだ仕事だ。自分の力で勝ち取ったものではない。
これでは自分のプロデュースではなく黒井のプロデュースではないか。
なりふり構ってられないのは事実だが、正直あまりいい気分ではない。
彼の気持ちを察した黒井は椅子の背もたれに身を預けると呆れたようにため息をついた。
「君は甘い男だな。高木と同じでいらつくよ」
「そんなことはわかっていますよ」
「この件に関してはあまり深く考えなくていい。そうだな……これは君に961プロの力を知ってもらうための私からのささやかな贈り物だ」
「贈り物って、そんな軽いノリで」
「冬馬を売った時点で君は961プロの援助を受ける権利を得た。それは契約の元に行われた正当なものだ」
「だから受け取れと?」
「援助する以上、961プロは君のプラスになる方に動く。それだけだ」
「……わかりました。ですが、黒井社長これだけは言っておきます」
彼は黒井に詰め寄って言った。
「冬馬の活動について余計なことをするのは、これっきりにして下さい」
「余計とは言ってくれるな」黒井は視線だけ動かして彼を睨んだ。
「俺はあくまで961プロの援助を受けるだけです。961プロの傘下に入ったつもりはありません」
援助そのものはありがたいが好き勝手にやられてはたまらない。
予算の使い方も冬馬の活動の最終決定権はこちらにあるのだ。
そこを分かってもらわないと困る。
「あなたは俺が動きやすい環境を作ってくれればいいんですよ」
彼は黒井に粘液を吐きかけると社長室を出ていった。
打算的な部分があるくせに甘い考えの持ち主って致命的だと思う
これは手緩いね
なりふり構わなければいいのに
中途半端な奴だよね
追いついた!支援おつおつ
「流石ですね、天ヶ瀬くん」男のスタッフがスタジオの機材をいじりながら短く呟いた。
「そんなことはわかっていますよ」彼はいつもの言葉で返すと視線をすぐ近くのガラス板へ移す。
張られたガラス板の向こう、レコーディングブースではヘッドフォンを装着した冬馬がマイクに向かって歌っていた。
凛とした張りのある歌声の中に艶があって情感が絶妙な具合に混ぜられている。
「こんどやる単発ドラマの主題歌でしたっけ?」
「ええ、そうですよ」
「凄いですよね。主役もやって、その上で主題歌も自分で担当するなんて。あんまりアイドル事情は詳しくはないけどハードじゃないですか?」
スタッフの言葉は当たっていた。
ドラマは収録現場や共演者の都合などで必ず予定通り行くとは限らない。タイムスケジュールが不規則になりやすいのだ。長時間の拘束もざらにある。
そういった状況の中で主演と主題歌というドラマを構成する重要な要素を二つも担当することは、冬馬のスケジュールの調整などもあって非常に困難だ。
それに伴う冬馬の負担もまた大きい。
アイドルを預かる身であるプロデューサーとしては止めるべきだったかもしれない。
だが、彼は止めなかった。
冬馬がドラマの主題歌を歌うことを発案したのは彼だっただからだ。
・
・
・
大富の圧力で停滞気味だった冬馬の活動。
アイドル側から積極的なアクションがなければ、やがてファンの熱は冷めて離れていってしまう。
そこに例外はない。事実、冬馬の人気は落ちていた。
もっとも数にしてみれば僅かだ。だが、その僅かが命取りになりかねない。
相手はIA大賞の最有力と謳われるエンペラーレコードの大富貴音。
慎重すぎて悪いということはない。
ファンの数や売上も多い方が良いに決まっている。
だから、彼は人気を挽回するための強攻策として打って出た。
それが冬馬を主題歌へ起用する案だった。
番組の責任者達も始めは戸惑った。なにせ急な申し出だ。難色も示した。
今までだったら絶対に断られたはずだ。
だが、彼がある言葉を伝えたら責任者達の顔は変わった。
「冬馬の主題歌の起用は育て親でもある黒井社長の希望でもありますよ」
彼のでっち上げの言葉――黒井社長の希望に責任者達は食いついた。
「黒井社長の希望を叶えれば、961プロとも良好な関係を築けると思います」
その時の自分がどんな顔で喋っていたか考えたくなかった。
ただ責任者達とりわけ番組のプロデューサーが悩むふりをして、口角をほんの小さく釣り上げて皮算用している顔だったのは覚えている。
すごく嫌な笑顔だった。
もしかしたら自分もそんな顔をしていたのかもしれない。
話はその場で意外なほどアッサリと決まった。その晩、彼は冬馬に主題歌への起用を伝えた。
961プロの威光を思い知った瞬間だった。
ごめん。sageとsaga入れ忘れてた
このPって所々で何か黒い顔を見せるね
これで良かったのだろうか。
心の内で自分に問う。直後、そこから声が湧き出て、彼を嘲り笑った。
―バカバカしい。自分でやったことだろ?―
そんなことはわかっている。
自分でやった癖に、それを悩むなど確かにバカバカしい。
今の自分がすべきことは分かっている。勝つために何をするかだ。
良いとか悪いとか、そんなことで悩んで止まっている場合じゃない。
冬馬ならどれだけハードなスケジュールもこなせるという確信はあった。
なにより冬馬をもっと売り出し、輝かせたかった。
冬馬への信頼とプロデューサーとしての純粋な想いがそこにあった。
同時にそれが貴音に勝ち、貴音を取り戻すことに繋がる。
自分の想いと勝つための打算は一致している。
だから、黒井という餌を使って相手を騙すようなことをした。
これは必要なことだ。
自分のやったことは間違っていない。
そう考える一方で、心の中でやはり抵抗が残っている。
冬馬を信頼し、輝かせようとする理想的なプロデューサーであろうとする自分。
目的の為に冬馬の負担を無視して、汚い手を使う打算的で利己的な自分。
彼の中には二つの相反する側面が歪に共生していた。
信頼や誠実といった綺麗なものだけ持っている理想な自分を貫き通すには未熟で力もない。律子や冬馬を犠牲にして、挙句961プロに圧力や根回しを頼んでしまっている。
かといって、打算的で利己的な自分であり続けるには体裁やプライド、良心が邪魔をしてしまう。周りからは良く見られたい、自分の手は汚したくない、非情に徹せない、甘い考えの臆病者だ。
白と黒がぐちゃぐちゃに混ざり合っていって、どちらにも染まりきっていない。
―お前は中途半端な男だ。だから、一々悩む―
粘つく声が頭の中に満たされていくと二日酔いのような嫌な頭痛が起こった。
目の焦点が合わず視界が揺らぐ。声に呑まれそうになった。
「……さん! ……さん!」
割り込んできた声にハッとするとスタッフが怪訝そうな顔で彼を見ていた。
「レコーディング終わりましたよ」
「え、ええ、そうですね」
「大丈夫ですか? 顔色、あんまり良くないですよ」
「最近、忙しくて……疲れが溜まっているのかもしれないです」
彼は適当な嘘をついて返すと近くにあった自分のカバンからペットボトルを取り出した。
その時、ブースにいる冬馬からの視線には気づかなかった。
彼はキャップを開けて口をつけるとまだ半分以上ある中の水を一気に飲んだ。
水と一緒に頭の中でジワリと広がる鈍い痛みが飲み込まれて消えていく。
大量の水が胃の中に入ってきたことで嘔吐感が彼を襲う。それでも彼は飲み続ける。
とにかく頭痛から逃れたくて必死になっていた。
彼は何度も喉を鳴らしてペットボトルを空にした。
相変わらずPはめんどくさい男
ほ
仕事を終えた彼は冬馬を横に車を走らせる。
赤信号で車を止めると彼は目に入った道路標識にふと気づいたことがあった。
「冬馬の家、確かこの近くだよな。送ってくよ」
「ああ、頼む」
信号が青に変わると彼はハンドルをきって自宅とは逆の方へ車を進めた。
しばらくすると冬馬の住んでいる高級マンションが見えてくる。
「寄っていけよ」突然、冬馬がそんなことを言う。
「はあ?」彼は訳のわからないといった具合で返す。
「いつもあんたの家でご馳走になってるからな。たまには恩返ししないとな」
「恩を売ってるつもりはないよ」
むしろ、こちらが返し足りないくらいだと彼は思った。
それくらいに冬馬には感謝しているのだ。
彼の言葉に冬馬は誘いを断られたと感じた。
表情こそいつもの凛としたものだが、少し申し訳なさそうな声音で冬馬は言った。
「……嫌なのか?」
「別にそういうわけじゃないけどさ」
「じゃあ、いいじゃねえか。寄っていけよ」
「それもそうだな」
彼は冬馬に促されるまま車をマンションの地下駐車場へ停めた。
コンクリートの壁に囲まれた地下の空間には自分の車の数十倍はする高級車が等間隔で並んでいる。
ベンツ、BMW、フェラーリ……そして、友人の伝手で格安で買った中古のミニバン(軽)。
自分の場違いぶりにおもわず失笑した。
エレベーターを乗り、部屋のドアの前まで来ると冬馬は財布からカードを取り出しドアノブ近くの機械に当てた。ピッという電子音と同時に鍵が開く音がする。
「お邪魔します」
「おう」
玄関から廊下を抜けて、リビング・ダイニングキッチンに入る。
冬馬は冷蔵庫から烏龍茶を取り出してグラスに注ぐと、リビングスペースのガラステーブルに置いた。
彼はソファーに座り、烏龍茶を呷りながら雑誌を読む。
お茶請けにテーブルの上にある菓子の入った皿に手を伸ばそうとしたが食事前だと思いやめた。
彼はダイニングキッチンにいる冬馬に声をかけた。
「料理、作れるのか?」
なんとも間抜けな質問だと思った。
しかし、普段はこちらが料理を振舞う側なのでどうしても気になった。
冬馬は冷蔵庫の中をあさりながら「当たり前だ」と答える。
そうして冬馬が料理を始めると、彼は冬馬のことが気になりだした。
何を作っているのか、というよりもしっかりと料理が出来ているかということだ。
冬馬自身は料理を作れると言ったが、病院で見た林檎の皮むきの危うい包丁さばきを思い出すとどうしてもソワソワしてしまう。
彼は席を立ち、キッチンの方へ行くと冬馬はキッチン越しから菜箸を突き出した。
「男子厨房に入るべからず、だ」
「冬馬も男子じゃないか」
「そんなことはわかってる。そういう意味で言ったんじゃねえよ」
「何か手伝おうか?」
「あんたは客だ。いいから座ってろって」
「本当に大丈夫か?」
「自分のアイドルを信用しろ」
「……わかったよ」
「安心しろ。あんたの作る飯より美味いのを作ってやるからさ」
「それは楽しみだ」
不敵な笑みを浮かべる冬馬の挑戦的な言葉に、彼は楽しそうに笑うとソファーに座り直した。
更新ktkr
これは良いホモスレ
冬馬の作った料理は秋刀魚の焼きポン酢漬け、卵焼き、豆腐とおくらの味噌汁、ひきわり納豆、きゅうりと白菜の漬物、白米。
意外にも純和風な献立だ。
「いただきます」
初めに味噌汁に飲む。おくらが入っているからか、少しとろみがあった。
辛子醤油で味付けしたひきわり納豆を乗せたご飯を食べながら、主菜である秋刀魚の焼きポン酢漬けに箸を伸ばす。
秋刀魚にはいい具合に焦げ目がついている。小麦粉か何かをまぶしてから焼いたのかもしれない。
一緒に焼きネギと刻みにんにく、しめじが和えられてポン酢がかかっている。
散らされた万ネギもあってか彩りもいい。
秋刀魚を口に運ぶとポン酢の香りが口いっぱいに広がった。
自分で言い出しただけあってか、冬馬の料理はとても美味い。
ただ一つ問題があった。
「…………甘い」
卵焼きを食べた彼はそう感想を漏らした。
妙に甘い。甘すぎる。
当の冬馬本人は卵焼きを満足そうに頬張っている。
「美味いだろ?」
「まあな」
卵焼き以外は、と彼は聞こえない声で言った。
しばらく食事をとりながら他愛ない話で盛り上がる。
話題が今日の仕事のことになった。
「今日、スタジオであんた苦しそうにしてたぞ。どうしたんだ?」
「少しな。自分のやったことが正しいのかと悩んでさ」
「なんだよ、それ」
「大したことじゃあないさ」
「そうやって誤魔化すのは無しだ。ちゃんと話してくれよ」
冬馬の真摯な言葉に彼は「そうだな」と答えた。
「実は今日の仕事であった主題歌の収録、俺がとってきたんだ。黒井社長を出汁に使ってな」
「そういうことか。黒井のおっさんに媚を売りたい輩はすげえいるからな」
「俺を軽蔑しないのか?」
極めて直球で聞いてみた。
汚い手を使って冬馬を売り出したという行為。
冬馬のように実力でのし上がってきた人間にとって、間違いなく許せないことであるはずだ。
冬馬は何か考えるように黙っている。性格を考えると返事は怒号か、拳か、あるいは両方か。
「あんたは使えるものを使った。それだけだろ」
返事は予想に反して彼の行動を肯定するものだった。
冬馬は続ける。
「だから気に病むなよ。立ち止まるつもりはねえんだろ?」
「そんなことはわかっているよ」
彼はいつもの言葉で返す。だが、「わかっている」と言いつつも彼の顔は渋いままだ。
どうしても心の中で突っかかってしまい、折り合いがつけられないようだ。
冬馬は彼を諭すように静かに言った。
「結局、世の中っていうのは結果ありきだ。あんたの選択が正しかったか、それとも間違っていたか。それを決められるのはあんた自身しかいないんだ。過去に正解はない。でも、過去を正解にすることは出来る」
「過去に正解はない。でも、過去を正解にすることは出来る……」
彼は冬馬の言葉をゆっくりと繰り返した。
それは彼にとって暗闇の中に差す一筋の光だった。
どれだけ自分の選択を悔いても、疑問に思っても、結果が出ないうちには正しいかどうかなど誰にも分からない。
ならば、どうするか?
答えはすぐに出た。
自分の選択が正しかったと言い切れる結果に導くため、必死に足掻くしかないのだ。
「過去を正解にする」
もう一度、言葉を繰り返す。
あの時ああすれば良かったではなく、あの時ああしたから良かった。
そんな風に言えるようになりたいと彼は心から思った。
秋刀魚の焼きポン酢漬けは酒のつまみにも使えるよ
あと、オクラはチーズを乗せてチンするだけでも美味しい
都心にそびえる高層ビルの一室――狭い自宅から移転した彼の事務所は引き締まった空気で満たされていた。
パソコンと向かい合いキーボードを打ち込み、資料を作成する者。ケータイを片手に何やら頼み事やスケジュールについて相手に話す者。ボードで仕切られた応接間で丁寧に対応する者。
皆一様に映画に出てくるエージェントのように上等な黒のスーツに身を包んでいる。
961プロからの援助の一つである自分をサポートしてくれるスタッフ達だ。
分かってはいたが、どうやら黒井は相当な実力を持つスタッフを寄越してくれたようだ。
スタッフ達の逞しいまでの仕事ぶりを見ていると面倒事は丸投げくらいの気概でもいいかもしれない。
新しい事務所にスタッフを寄越した時の黒井の言葉を思い出す。
「君の体は一つしかない。大富貴音に勝つためには雑事なんぞにうつつを抜かす暇などないだろう?」
黒井の言わんとしていることは理解していた。
経理等の事務やライブの会場を押さえる、関係各所への連絡にスケジュール調整等の今まで彼がやってきた仕事。それが彼にとって重荷となっていたわけではなかったが、彼の時間を削っていたのは事実だ。
他のことに時間を割けば、その分だけ彼の冬馬のプロデュースを計画する時間が消えていく。
余計なことは自分の部下に任せて、お前は勝つために行動しろということなのだろう。
「俺も仕事しないとな」
彼は自分のデスクに備えられた椅子に腰をかけた。全身がゆっくりと沈み、心地いい反発がくる。机の上へ視線を移すといくつか書類があった。
書類の束から一つとり、ゆっくりと目を落とす。内容は今度行う予定である冬馬のプロモーションに関する予算案だった。ページをめくり、入念にチェックを入れるが特に不備はない。非常に正確だ。予算に関して、こちらが予定していた範囲でうまく収めてある。
別の書類をとって見る。こちらはオーディションに関する資料だった。紙面には様々なオーディションの傾向と対策が分かりやすく簡潔にまとめられていて、加えて審査員の好みのアピールジャンルの詳細まで記載されている。ここまで詳しい資料は765プロでもほとんど見たことがなかった。
「どう攻めていくかなあ」
しばらく書類の束と格闘しながら、冬馬の売り出し方について考えていると事務所にスポーツバッグを肩から掛けた冬馬がやってきた。
「戻ったぜ」
「おかえり、冬馬。レッスンはどうだった……って聞くまでもないか」
「ああ、完璧だ。でも、たまにはあんたも顔を出せよ。オーディションにライブ、フェスにしたって俺はプロデューサーである、あんたの指示に従うんだから」
「しっかり連携とれるようにしとかないとな」
「そういうことだ。信用はしてるけどな……んっ?」
冬馬は彼の机の上にあるオーディションの資料に気づくと手にとってパラパラとめくる。
今まで己の実力だけでオーディションを制してきた冬馬にとって、こういった資料をあまり見ていないのか興味深そうな顔で流し見する。
「こんなものに頼らなくても俺なら勝てるぜ?」
「そんなことはわかっているよ。でも、知らないよりは知っている方がいいさ」
「確かにな。備えあれば憂いなしって言うし」
「せっかく提供してもらったんだ。上手く使わないと」
アイドルにとってオーディションの勝ち負けは活動にダイレクトに影響する重要な因子だ。故にオーディションに関する情報は芸能事務所が厳重に扱っている。
超大手である961プロが収集してまとめ上げたオーディションの情報は、高い値をつけても買ってくる相手はごまんといるに違いない。
そんな門外不出の企業秘密を、こうして自分に渡す辺り黒井の本気具合が伺える。
「期待されているのかもな」
「期待? 誰にだよ?」
「黒井社長だよ。冬馬の考えている以上に、その資料には価値があるんだ。なにせ、ある意味でアイドルの人生を左右させるものだからさ」
「本当かよ。とてもそんなには見えないけどな」
「まあ、冬馬の実力ならな」
ヒラヒラと紙の束を仰ぐ冬馬の姿を見て、彼は苦笑した。
おっ!
新事務所の事務スペースとは別の部屋に設けてある会議室には彼を始め、961プロから送られたスタッフ達が集合していた。
「資料は行き届いたでしょうか?」
黒スーツの秘書風の女性がよく通る声で席に座る者たちのノートパソコンに資料が転送された事を確認するとスタッフ達は無言でそれを肯定した。
秘書風の女性はタイミングを見計らい、口を開く。
「これより会議を始めます。それでは社長……いえ、プロデューサー、お願いします」
言い直すあたり、そこは譲れないポイントなのだろう。スタッフにとっての社長が誰であるかということが実感できる。
女性が上座に座る彼の方へ目配せすると彼に視線が集中した。
彼はさっとスタッフ達の顔を見回すと真剣な顔つきで彼の言葉を待っていた。
無言のプレッシャーを感じたが、彼は臆することなくゆっくりと立ち上がって今日の会議の議題について説明する。
「今日は俺たちの現状について再確認し、そこから新たな戦略を練っていきたいと思います。現在、当プロダクションは天ヶ瀬冬馬のIA大賞の受賞を目指し尽力しています。加えて、エンペラーレコードの誇る大富貴音の打倒も目標としています」
彼はプロジェクターに繋がれたパソコンを操作するとスクリーンに冬馬のこれまでの活動に関するデータが映された。
「これらの詳細は後で各自見てもらうとして……いま重要なのはこれです」
マウスホイールを回し、資料をあるページにまで進める。それに連動し、スクリーンも別の資料へと切り替わる。
「これは俺が冬馬の注目度と仕事量についてまとめたグラフです」
グラフは二種類あり、世間からの注目度が折れ線、冬馬の仕事量が棒グラフでそれぞれ一週間毎に表記されている。
最初は注目度も仕事量もかなり低い位置にあった。しかし、ある時期を境に爆発的なまでの伸びを見せている。ちょうど冬馬の再デビューした週と重なる。
そのままグラフはどんどん伸びていき、しばらくするとかなり高い位置をキープしながら横ばいの状態が続いていた。
「再デビューに遅れはありましたが、本人の実力もあって冬馬はかつての地位に匹敵する位置まで戻れました。次に……」
彼はパソコンを操作して、グラフを更新する。週に対応している横軸が伸びていき、新たなデータが表示されていく。
そこでグラフに大きな変化が現れる。彼はスーツのポケットからレーザーポインターを取り出すとスクリーンに映るグラフに向けた。
「ある期間において注目度が下がり、仕事量が大きく下がっています」
レーザーポインターの光がスクリーンに赤い点となって映り、彼のいうある期間を示すようにクルクルと動く。
下がっているとはいえ、注目度がそこまで大きく下がってないのは流石、天ヶ瀬冬馬というべきか。
一方、仕事量は目に見えて大きく減っていた。それこそ再デビュー期の半分近くまでにだ。注目度と仕事量のグラフに大きな開きが出来てしまっている。
「この期間に俺はエンペラーレコードの妨害工作を受けて、冬馬の活動は芳しくありませんでした。ですが、早急に961プロの支援を得たからでしょう。被害は修正可能な範囲で済みました」
更にグラフを更新すると961プロの支援を受け始めてからのデータが出る。
注目度、仕事量が再デビュー時以上の右肩上がりになった。
「この冬馬のグラフを961プロから提供してもらったデータを元に作った大富貴音のグラフと重ねますと」
彼がそれを実行するとスタッフ達の間に「おおっ!」と小さく驚く声が漏れた。グラフにある最新のデータでは、冬馬と貴音の注目度と仕事量の最大値がほぼ一致した。
「これを見てわかる様に、冬馬は今年度のIA大賞の最有力候補として名の挙がっている大富貴音に並んでいます。つまり現状の勢いでいけば大賞受賞の可能性は高いでしょう。もっとも俺は運営側ではないので何を基準にして大賞を選んでいるかはハッキリと分かりませんけどね。確実ではなく、あくまで可能性があるとだけ思ってください」
最後の言葉はスタッフ達だけではなく自身にも向けたものだった。
どれだけ可能性が高くても失敗すれば、全て終わりなのだ。
アイドルが優秀であっても、プロデューサーである自分にミスがあれば栄光は掴めない。
大きすぎる失敗を経験したからこそ、彼は油断をしない。
「では、現状を確認できた所で冬馬の大賞を磐石なものにするための戦略を練っていきましょう」
ページが切り替わり、今後の戦略についてのページが表示される。
そこには戦略の具体的な方向性について「これまで以上に冬馬を積極的に売り出し、大富貴音以上の人気を獲得していく」と書かれていた。
「資料にあるように大富貴音を上回る人気。そのためには……」
言葉の途中でほんの少しの間、彼が苦い顔をして黙った。
冬馬、すまない。
心の中でパートナーに謝罪しながら平静を装い、言葉を繋ぐ。
「冬馬のパフォーマンスが彼女のを超えるものでなければなりません」
瞬間、会議室がざわついた。
それもそうだろう。アイドルを売り出すプロデューサー自らが担当アイドルの実力を信用していないかの様な口ぶりだ。
プロデューサーがこれで大丈夫なのか?といった感じの怪訝な顔でスタッフが顔を合わせ合う。
そんな反応はわかっていたのか彼は、
「実際に見てもらった方が早いですね」パソコンを操作して一つの動画ファイルを開く。
スクリーンに華やかな衣装を纏う大富貴音の姿が映し出された。
「これは先日の歌番組で彼女が披露したステージです」
イントロが流れだし、貴音のスラリと長い手足が舞う。
ダンスと一緒に揺れる銀髪がスポットライトを反射し、妖しく輝いた。
やがて貴音が歌いだす。
歌詞に込められた想いが貴音自身の魂の叫びとなって響く。
画面越しの存在であるはずの貴音に引き込まれていく。まるでそこに自分たちがいるような感覚だ。
貴音のパフォーマンスは圧倒的だった。
動画の再生が終わる頃には、会議室は興奮にも似た熱い沈黙で満たされていた。
「皆さんもこの業界で仕事をしてきたなら知っていると思いますがアイドルとは日進月歩、進化し続けます。俺は一年間という短い間でしたが、誰よりも近くで貴音の実力を見てきました。大富貴音は俺といた時の四条貴音よりも格段に強くなっています。これは間違いありません」
そう断言した彼は、スタッフ達に質問する。
「天ヶ瀬冬馬のパフォーマンスが大富貴音のを超えるものである。今の彼女のステージを見て、そう言い切れますか?」
会議室に先ほどとは違う重苦しい沈黙が満ちる。自分たちが相手にするアイドルの手強さを分かったようだ。
「厳しいですね」スタッフの一人が静かに答えた。
「冬馬さんの実力は知っていますが、それでもこれ程のパフォーマンスを見せられてしまうと考えが揺れます」
「実力が拮抗している」
「そう、そこです」
スタッフの一人が漏らした言葉に彼が反応する。
「実力が拮抗している。つまり勝つかもしれないけど、同じ位の確立で負けるかもしれない。これは非常に危険です」
冬馬の実力は非常に高い。だが、それは貴音も同じ。
会社としての規模も同様に961プロの支援を受けたことで彼のプロダクションはエンペラーレコードと肩を並べている。
アイドルの質と会社の持つ力が拮抗している現状では、グラフにあったように五分五分の戦いを繰り広げている。
つまり、こちらの勝率は五割。それは敗北が許されない彼にとって不安な数字だった。
せめて8割といかなくても7割の勝率は欲しい。
「互いの強さが互角である以上、俺たちの戦略で少しでも大賞獲得を有利に進めなければなりません。皆さん、何か良い意見はないでしょうか」
「プロデューサー」
スタッフの一人が彼に声を掛けると、そのスタッフが自分の意見を表明する。
「大富貴音には芸能界から退場してもらうのはどうでしょう? 争う相手がいなければ冬馬さんの大賞は確実と言ってもいい」
「……詳しく聞かせてくれませんか?」
「例えば大富貴音が不慮の事故にあったり、あなたと大富貴音の関係を世間に公表するとか。勝つためなら、それもまた一つの手段だと思います」
「なるほど」
スタッフの過激な発言に彼は「貴重な意見をありがとうございます」と礼を述べた上で
「それを認めるわけにはいきません」とハッキリ断った。
「しかし、プロデューサーがおっしゃった様に現状では」
「そんなことはわかっています」
彼がいつもの言葉で遮り、続ける。
「今は互いに水面下で各所に圧力をかけあって、牽制しあい、仕事を取り合う程度の小競り合いで事が済んでいます。ですが、こちらが度を過ぎた手段を使えば、向こうも遠慮がなくなります。そうなってしまえば、事態が泥沼の状態に進展し、最悪共倒れになってしまいます。これでは意味がありません。あくまで、俺たちの目的は冬馬のIA大賞の受賞と大富貴音の打倒の二つです」
「…………わかりました。ですが仮にエンペラーレコードの方から仕掛けてきた場合、我々はあなたの指揮から外れ、黒井社長の指示を優先することを理解しておいてください」
「構いませんよ。961プロにも面子があるでしょうしね」
出来ることなら激しい衝突は避けたいと願いながら彼は頷いた。
その後、会議は続いたが出た意見は企業とのタイアップやPVといった今ひとつ決定打に欠ける無難なものだった。
結局、その日の会議は大した実りもなく終了した。
おつ
夜の九時。ゲストとしてゴールデンタイムのバラエティ番組の収録を終えて事務所に戻った冬馬は、気まぐれに外を眺めていた。
街明かりが都会のコンクリートジャングルを飾るイルミネーションのように輝いている。
景色が良いというのもあった。普段は特に気にすることもない見慣れた光景の一つも、こうしてじっくり見てみると結構悪くない。
チラリと横目で人が疎らで静かになった事務所の奥にいる男を見る。
「…………」
彼は冬馬の感傷的な気分とは無縁にプリントアウトされた会議の議事録と資料に目を通しながら頭を悩ませていた。
「何か強烈な一手が必要か」
人差し指でこめかみの辺りをトントンと叩き思案する彼。
従来の戦略ではIA大賞は簡単ではない。今まで以上に世間の注目を浴びて、かつ舞い込む仕事も大きく増えるような売り方を考えなければならない。
そんなことはわかっている……が、簡単に思いつくわけもなかった。
自分の不甲斐なさに彼はため息を吐く。
少し休憩しよう。そう決めた時だった。
「どうぞ、コーヒーです」
女性スタッフが彼のデスクにコーヒーカップを静かに置いた。
黒井とビジネスの話をしに行った時、コーヒーを出してくれた女性だ。相変わらずタイミングがいい。
「お気遣いありがとうございます。ちょうど休もうと思ったんですよ」
「あまり根を詰めない方がいいかと」
「全くだ。さっきからずっと働きっぱなしだろ、あんた」
スタッフの言葉に便乗して、冬馬が近づいて彼をたしなめた。
収録が長引いて事務所に戻った時間自体は三〇分ほど前なので詳しいことは知らないが、恐らく彼のことだから相当長い時間頭を使っているに違いないと冬馬は踏んだ。
「あれ……冬馬、いつ帰ってきたんだ?」
「ちゃんと入るときに戻ったって言ったんだけどな」
「すまない。全然気づいてやれなかった」
「全くあんたは……とりあえず一息入れろよ」
「それもそうだな。冬馬も飲むか? 砂糖とミルク多めで」
「馬鹿にするな、俺だって少しくらいはな」
少しからかってやるとプライドが刺激されたのか、冬馬はスタッフが持っているトレーからカップを一つとって飲む。
すると冬馬の整った顔が凄まじく歪んだ。見ているのが彼とスタッフだけで良かった。他所ではとても見せられない顔だ。
冬馬はカップをトレーに戻すと無言で流しの方へ歩いて行く。蛇口をひねり、近くにあったコップを水道水で満たすと何度も呷りだす。
よほど苦かったようだ。
一連の冬馬を見ていた彼は好奇心から薫り高いコーヒーを、備えられたシュガーとフレッシュを入れずにブラックのまま飲んでみた。
苦味がとても強く、コクのあるコーヒー。イタリアンローストだ。
豆の煎り具合でも特に時間を掛けた豆のことで酸味がほとんどなく、すっきりとした後味が特徴でもある。
彼はコーヒーを楽しむと気が緩んだのか大きなため息をつく。
「お疲れのようですね」
「なにせ相手が相手ですからね」改めて書類に目を落とす「冬馬の力だけじゃあ厳しいよなあ」
弱気になったわけではないが中々突破口が見つからず、つい愚痴を漏らしてしまう。
その時、彼の中でふと何かが引っかかった。自分で、自分の言葉に奇妙なものを感じる。
頭の中で最前、自分の放った「冬馬の力だけでは厳しい」という言葉を繰り返す。
「どうかしました?」彼の悩ましい顔にスタッフが声をかける。
「そうか……そういうことか。そんな簡単なことで良かったんだ」
何かに気づいた彼は、頭の中で思いついたものが急速に組み上げていく。
これなら確実に貴音に勝てる。我ながら、そう思える冴えた閃きだった。
戦略の完成が見えてくると自然に口端を釣り上がる。
「決まりだな」
彼はすぐに戦略を実行するためにケータイを操作した。
「私だ」電話をかけると3コールもしない内に黒井の声が聞こえてきた。
「夜分遅くに失礼します。俺です」
「君か。調子はどうかね?」
「おかげさまで順調ですよ」
ここ最近の冬馬は961プロの支援もあって精力的に活動している。
テレビをつければ大抵は映っているし、雑誌が出れば表紙を飾り巻頭インタビューのおまけ付きだ。ライブは当然のように満員御礼。
どこに出しても恥ずかしくない程の大活躍だ。
「エンペラーレコードと大富貴音に対して互角に戦えています」
「互角か。それでは意味がないのだよ。君には勝ってもらわなければならないのだからな」
「そんなことはわかっていますよ」
不満の声をあげる黒井に、彼はいつもの言葉をいう。どこか余裕が感じられる明るい声だった。
「随分と楽しそうな声だな?」
「大富貴音に勝つ算段が出来ましたから」
「ほお、それは興味深いな。詳しく聞かせてもらおう」
「詳細については後日、資料をお送りしますよ。ただ、あえて言うなら黒井社長……あなたの力が必要です」
「私の力が? 私は君に対して十分に支援をしているつもりなのだが足りないと言うのかね」
「いえ、俺が必要としているのは予算やスタッフといった物ではありません。あなた個人の力です」
「私個人の力か。まったく社員だけでなく社長である私にまで扱きを使うとはな」
冬馬の活動全てを任せている立場の黒井だが、あまり調子に乗られるのも癪だった。人を使うのは好きだが、使われるのは嫌いなのだ。
「少し度が過ぎないか?」静かに怒りをこめる黒井。
「社長だろうと961プロのメンバーの一人であることは変わりません。だったら俺に協力するのは当然じゃないですか」
彼の声は変わらず明るいままだが、ゾッとするほど冷たく威圧的だった。彼は更に続ける。
「961プロは全面的に俺をバックアップする。そういう契約でしょう?」
それは問答無用で黒井を黙らせる言葉だった。しばらく両者が静かになる。先に沈黙を破ったのは黒井だった。
「クククッ、言ってくれる」
もしかしたら、この男は高木ではなく私よりの人間なのかもしれない。
黒井は彼の見せる黒い部分を面白がりながら笑った。
「いいだろう、君は私個人に何を期待する」
「次のフェスまでに人を呼んできて欲しいんです」
「……そういうことか」
黒井は全てを察したように呟いた。
「確かにそれなら勝てるだろうな」
「お願いしますよ」
彼は念を押すように言って、電話を切る。
ケータイをポケットにしまうと冬馬が戻ってきた。その手には赤色の缶が握られていた。
「ちくしょう。まだ口の中が苦い気がする」
缶のプルトップを引っ張る。プシュッと小気味いい音が鳴った。
「同じ黒い飲み物ならコーラの方がずっと美味いぜ」そう言って冬馬は缶を口につけて飲む。
口の中で弾ける炭酸と甘味のある黒い液体が残っている苦味を溶かしているような気がした。
口直しのコーラを飲みながら冬馬は彼に聞く。
「あんた、けっこうヤバイ雰囲気だったけど黒井のおっさんと何を話してたんだ?」
「貴音に勝つため、IA大賞を受賞するために少しね」
「そうか。しっかり頼むぜ、プロデューサー」
冬馬は心の中で彼が「そんなことはわかっているよ」で返してくるな、と思いながらコーラを飲む。コーラの炭酸が喉を強く刺激した。
「そんなことはわかっているよ……冬馬」
「ん?」予想通りの言葉の後に名前を呼ばれた冬馬は彼の方を見る。
「近いうちに大きく動くぞ」
彼は心の底から楽しそうな顔をしていた。
来なくなったな
書いていないわけじゃない。ただ別のスレと並行して書いているから遅いだけなんだ
別スレの方が盛り上がっているから、ついそっちばかりね
すまない
澄みきった群青色の空に太陽が光り輝いている。
天気は快晴。雲ひとつない。絶好のフェス日和といえた。
彼は緑の芝生を踏みながら遠くにあるフェスのメイン、野外ステージを見ていた。
厳密に言えばステージではなかった。彼の視線はステージに集まるギャラリーに向けられていた。
メインステージというだけあって、その数は圧倒的で日射病でもないのに目眩を覚えるほどだ。
人という人で埋め尽くされて、緑の芝生がほんの少ししか見ることが出来ないステージには、おそらく収容できるギリギリ、下手をすればキャパシティを超えかねない人数が集まっていた。どう見積もっても万単位の数は確実だった。
これだけの人いるならかなりの効果があるな、と彼は思った。
今朝方に入った黒井社長の連絡によれば、彼の求める人物は既にこちらに向かっているとのことだ。
彼はもう一度ギャラリーを見た。皆、メインステージの開始の時間を今か今かと待ち詫びるように浮き足立っており、その気持ちがダイレクトに伝わってきた。
絶対に成功させてやる――心に強い想いを秘めた彼は冬馬のいる舞台裏まで早足で向かった。
舞台裏に入ると彼の目に1体の座っている人の形をした黒い彫刻が飛び込んできた。
白い肌に彫りの深い目鼻立ち、無駄な肉ひとつない体が生み出すラインは芸術的で、黒を基調とした礼服のような厳粛さをもちながら遊び心のあるデザインの衣装が彫刻のもつ魅力を最大に引き出していた。
静かに、同時に苛烈なまでに圧倒的な存在感を出す彫刻はステージ衣装に着替えた冬馬だった。
これから出番を控えている冬馬は目と口を閉じて、自分のまばたき、わずかな呼吸すら雑音として扱い、イヤホンから流れる曲にひたすら耳を澄ませている。
冬馬は頭の中でステージに立つ自分を描きながら何度もリハーサルをさせた。ステップやターンという振り付けはもちろん、歌詞に乗せる情感、歌う自分の表情、彼と決めたアピールする最適なタイミング。
全身を使って表現をする想像の自分に対して、冬馬は少しのミスも逃さないように360度あらゆる角度からチェックをいれていった。
彼は二三、声をかけようと思ったが、冬馬の邪魔になるのは悪いのでやめた。余計な気遣いをする必要もないだろう。
彼は冬馬に気遣うように本当に小さく呼吸しながら冬馬のステージの時間を待った。
更新おつ
ほ
二''-.ヽヘ / / ゛''''‐‐‐--....
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