一年で一番長い夜 (56)


 日が暮れたので、ぼくは「ああ、今日もまた道が閉じたんだな」としみじみ思った。
 ちょっと行った所から伸びる国道も、その近くにある駅から走る線路も、みんなみんな閉じてしまった。

 といっても別に物理的に閉じこめられたとかそういうわけではもちろんない。
 これはぼくの感覚の話で、道自体はどこへでもどこまででも伸びているのに、
なぜだかその先に行けなくなってしまう気がするのだ。

 要するに外へと動こうとする活力とか意志が萎えてしまうということだが、
だから夜は閉じていると、そう思う。


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 思うからには理由があるのだろうけれど、夜には人を縛りつける力があるということなのか、
それともただ単に夜は「帰る時間」であって、「行く時間」ではないということなのか、
考えても今のところぼくには分からない。

 もし仮に想像が当たっていたとして、では夜に縛られない人にはどんな世界が見えるんだろう。
 帰る場所のない人の目には夜というものはどう映るんだろう。
 それから、夜の向こうには何があるんだろう。


 ぼくだってそんな疑問は馬鹿馬鹿しいものだということは知っていた。
 子供じみた疑問だし、もちろん夜に向こう側なんてない。そもそも夜は実際には閉じてなんかいない。
 けれどもぼくはもう一つ余計に知っていた。くだらない疑問はくだらな過ぎて、実は誰もその答えを確かめてはいないのだ。
 みんな知っているつもりになって、人づてに聞いた答えが全部だと思ってしまっている。多分。

 だからぼくは玄関のドアを開けた。
 夜の向こうを見てこようと思った。


 アナウンサーが今日は冬至だと言っていた。
 一年で一番昼が短い日ということらしい。
 それはひっくり返すとつまり一年で一番夜が長い日ということだ。
 正確には違うかもしれないが、おおむね間違ってはいないと思う。

 ぼくが夜の向こうを確かめようと思った日が一年で一番長い夜というのは何か運命のようなものを感じるけれど、
そういった偶然は本当にただの偶然か、もしくはどこかで小耳にはさんだ冬至という言葉がきっかけとなってぼくを夜に駆り立てただけだろうとも思う。


 ぼくが玄関を出ると既に外は暗かった。
 日没からもう二十分くらいはたっているしそうなるとあっという間に暗くなってしまうのが冬だ。
 西の方の空には鈍い光に照らされる冬雲があり、風除室の引き戸の隙間からは甲高い音が響いている。

 ニット帽と手袋の具合を確かめていると人感知式の玄関ライトが点灯した。
 おかげで一応は明るくなったけれど、ぼくの周り一メートルから先の暗さはもっと増した気がする。
 薄く積もった雪がライトを反射して、ほんのりと温かい色に光っていた。


 玄関先のハナミズキはもう夜の闇に呑まれてしまっていて、近くによらなければそれとは分からなかった。
 枝には雪がところどころくっついていて、それが街灯の光を反射している。
 寒いけれど風はない。

 道路に沿って歩きだすとちらちら降っていた雪がふっつりとやんだ。
 見上げると雲に隙間があいていて、そこからは澄んだ藍色が染み出し、ぽつりぽつりと星が輝いていた。

 住宅街を離れて道は細くなっていく。
 プロパンガスの補填所のフェンスがあってそれを曲がると小さな踏切があって、向こうは街灯が少なく真っ暗だ。


 足元に水たまりが光る。 
 道の両脇は柵が立てられ、だがその内側には背の高い草が生え散らかっているだけ。
 秋ならば虫の合唱がうるさいくらいに聞こえただろうけれど、今はささやかに草がこすれる音しか聞こえない。

 アスファルトにはあちこち凹凸があった。
 ぼくは足を取られないように慎重に歩いた。
 そして、両脇が草はらから小さな田んぼに変わる辺りに出て、変なものを目にした。


 それは街灯の下で、不格好に揺れていた。
 すぐに人と気づいたけれど、どうやらおかしいのは歩き方のようだった。
 右足に力をかけて、左足を引きずる要領。
 足の悪い人の足の運びだ。

 歩くのはもちろんぼくの方が速くてすぐ追いついた。
 ぼくは道の反対側に寄って、俯き加減で追い越した。
 大きめに音がしたのはそのちょっと後だ。

 見るとその人、どうやら小柄で女の子のようだが、転んでいた。
 地面に膝と手を突いていて、けれどもすぐに起き上がってみせた。
 そしてまた倒れた。今度はぐうの音も出ないほどのばったり具合だった。


「大丈夫ですか?」
 ぼくの声は心配よりもためらいの響きがありありと出ていたと思う。
 彼女は腕を突っ張って上体を起こし、こちらに顔を向けた。

「へーき」
 舌ったらずのような甘える調子のような。独特な声の響きだった、
「ちょっと滑っただけだし」

「そうですか……じゃあぼくはこれで」
 彼女に手を貸して立ち上がらせてから背を向けると、数歩のところでまた転倒の音がした。


「ありがとう」
 再び助け起こすと彼女は何故かにやにやしながら「シナノ」と続けた。
「シナノ?」
「わたしの名前。みたいな」

 名前にみたいなもなにもないだろうと思ったけれど、名乗られたことでどうやら立ち去ることができなくなった気配を感じた。
 ぼくはそういったある種の期待の雰囲気に弱かった。

 雑多な勧誘を断るのはむしろ得意な方だと思っている。
 その種のモノには悪意や、そこまでいかなくても明らかな計算が含まれているから対応方針がはっきりしているというのがその理由なのだが、逆に相手の裏に意図がないとフリーズしてしまう。
 そういうことでぼくはシナノと一緒に歩くはめになった。
 まあ特にこれといった目的地があるわけでもないので別にかまわないといえばかまわないのだけれど。


  シナノに家の場所を訊くと、ぼくが元来た住宅地の辺りにあるらしかった。
「え?」
 ぼくは怪訝に思ってもう一つ訊ねた。
「家に帰るところじゃないの?」

「帰るよ」
 シナノは身体を大きく左右に揺らして歩きながら言った。
「満足したら帰る」
「満足?」

 シナノは頷いて、それきり歩くことに専念したようだった。
 ぼくはなんとなく話しかけるのに躊躇して何も言えなかった。
 大通りに出るまで沈黙が続いた。


 大通りには帰宅の車が何台も行き交っていたが、歩行者はいなかった。
 信号を渡って、真っ直ぐ進んだ。
 川沿いの道で、右側に土手、左側に昔ながらの小ぢんまりとした民家が並ぶ。

「シナノはどこに行くの?」
 彼女が場所を言ったらそれに合わせて、君みたいな若い子が夜歩きなんて危ないよ、送っていくから帰りなさいとかなんとか続けるつもりだった。
 シナノは答える代わりに逆に訊いてきた。
「名前は?」
「は?」

 ぼくがさらに訊き返すと、彼女はそれこそ不思議そうな顔をこちらに向けた。
「名前」
「ぼく? ええと。コウスケだけど」
「じゃあ、コウで」


 それからまたしばらく黙々と二人で進んだ。
 右に小さな橋が川をまたいで掛かっていて、向こうに大きな建物の影が見えた。
 確か小学校があったはずだ。かつてはぼくも通っていた小学校である。

 日はすっかり暮れて空気がぐんと冷え込み、手袋をしているにも関わらず手にはもう感覚がない。
 頬が冷気でひりひりと痛かった。

 ぼくはもう一度シナノに訊こうか考えた。
 でも、と思ってやめた。
 シナノはいろいろ答えたくなくてわざとはぐらかしたのかもしれない。
 そうなると無理矢理聞きだすというのはぼくにはできない気がした。


 仕方なくぼくは別の話題を探した。
 シナノのような若い子の話すことなんて分からなかったし、同世代とだって上手く話せない自信があったけれど仕方なくだ。
「夜って閉じてるよね」

 シナノは「なにそれ」とこちらを横目で見た。
 明らかに話題を間違えたような気がしたけれど、今更引っ込ませるのも変だし、そもそもぼくに話せる話題はこれくらいしかないので諦めて続けた。

「夜ってどこにも行けない気がしない?」
「よく分からない」
「そうかなあ。朝よりは行けるところが限られてるように思うけど」
「あー。それはなんとなく分かるかも」
「やっぱり?」

 同意を得られてぼくは年甲斐もなく嬉しくなった。


「暗くなると視界が利かなくなるせいかな、見渡せる範囲が狭くなる。
 きっとそれでどこにも行けなくなるんだとぼくは思う」
「気分の問題じゃない?」
 その時シナノが大きくよろめいた。
 ぼくは腕を掴んでそれを支えた。

「大丈夫?」と訊くとシナノは頷いてさらに続けた。
「夜になると人は疲れちゃってるんだよ。だからどこにも行く気が起きないってだけ。
 気持ちがへこたれてると世界って狭く見えるよ」

 なるほどなとぼくは思った。
 人の内面の問題か。一理ありそうだ。
 そこで気づいた。
 シナノはへこたれたことがあるから分かるんじゃないか?
 彼女が引きずる左足を見てそんなことを思った。

ここまで
今晩までに完成したかったけれど失敗。少しずついきます


「夜の向こうには何があるかな」
 ぼくがぽつりと言うとシナノは気のない声で、さあ? と返してきた。
「夜の次は朝だから太陽じゃない?」

「あり得るね。でももしかしたら違うかも」
「違わないよ。夜の次は朝じゃん」
 そう言われるとぼくは急に自信がなくなって、可能性としては違うこともなくもないとかなんとか口の中でもごもごした。

「誰もいないね」
 シナノが唐突に話し向きを変える。
「そりゃあね」
 周りを見ながらぼくは答えた。
「夜は閉じてるから、どこにも行けないから、誰も外に出ようとしないんじゃないかな」


「コウは変な人だね」
 シナノはそう言ったが声には特別なニュアンスはこもっていないようだった。
 バッタを見て「あ、バッタ」と言うくらい当たり前に当たり前のことを言っている口調だった。

「変かな」
「変だよ。すごく変」
 断言されて、ぼくは前にも同じことを言われたなと思い出した。

 学生時代だったかもしれないしもっと昔からだったかもしれないが、変な人レッテルは結構頻繁に貼られた。
 ぼくは精神疾患持ちだから、そのせいもあるのかもしれない。


 大学生の頃、統合失調症と診断された。
 その時のことはよく覚えていない。
 急性期といって症状が一番顕著に出ていた時期だからだ。

 そのときは絶えず何かに恐怖していた。
 外に出るのはおろか、家でじっとしていることもできなかった。
 詳しくは思い出せないが、なぜだか警察に捕まる妄想ばかりしていたと思う。
 何かやましいところがあったのかもしれない。
 ぼくは過去の失敗を引きずって自分を責めまくる方だから。

 診断がつくまでは結構苦労したと記憶している。
 何しろ何が起こっているのか分からなかったからだ。
 父も母も弟も、誰ひとりとして対処法を知らなかった。


 それでもまあ一旦適切な医者にかかればそれで事足りた。
 現代医療の力は偉大で、ぼくは薬品の効力によってすっきりと再生し、今は夜の向こう側の探究に出ている。
 それが健全なことかどうかは分からないけれど、とりあえずはもう恐怖はない。

「そっか、変か」
「傷ついた?」
「あんまり」

 川をまたぐ橋の下に道路は伸びていた。
 そこだけ街灯がなくて、目を凝らしながらゆっくり進んだ。
 シナノがまごつくようだったので、手を貸して歩いた。


 再び川沿いに出る。
 向こうに小学校よりも大きな影が見えた。
 小山のように見えるそれは川をふさぐようにそびえていて、最初はダムかな、と思った。
 看板表示が出ているけれどよく読めない。

 読めるかとシナノに訊くと、シナノは興味ないと答えた。
 後で分かったけれど、川の排水処理施設だったらしい。

 そこを過ぎるとコンビニがあったので、暖をとるために中に入った。
 店内はむわりと蒸していてぼくは顔をしかめたけれど、隣のシナノは別段気にした様子もなく飲み物のコーナーに向かっていった。


 シナノが商品を選んでいる間、ぼくは雑誌のコーナーで立ち読みを始めた。
 こういったけばけばしいものは読み慣れていないのだけれど、夜の雰囲気は人の行動を少しだけ変化させる。

 買い物を終えたシナノがこちらにやってきて横から紙面を覗き込んだ。
「面白い?」
「多分」
「ふうん」

 彼女も雑誌に手を伸ばす。
 どうやら肌色比率の高い男性向け写真集だったようで、ページをめくる手が一瞬止まった。
「うわ」

 シナノはしげしげとそれを眺めた後でこちらを向いた。
「コウもこういうの好き?」
「嫌いな男はいないと思うよ」
「そういうもん?」
「いやわかんないけど」


 コンビニを出ると再び雪がちらつき始めていた。
 風も少し吹き出している。
「寒いね」
 シナノがぶるっと身体を震わせたので、ぼくは懐からカイロを取り出した。

「使う?」
「使い古し?」
「やっぱりいやだよね」
「ちょうだい」

 受け取ったカイロを懐に入れた彼女は満足そうに口元を緩ませた。
「あんまりあったかくないね」
「もう切れ始めてたか」
「行こ」

つづく


 相変わらず右手には川と土手があり、コンビニを離れると田んぼや畑が左手に広がった。
 暗いのも相変わらず。
 でも時計を見るといつの間にか八時をまわっていて、そうなるとなんとなく闇がさっきよりも濃くなっている気がしてくる。

「暗いね」
 呟くとシナノは、
「いまさらすぎ」
 と笑った。

「コウはどこに行くの?」
「それもいまさらだよね」
「そだね。で?」
 それはぼくがさっきシナノに訊いてはぐらかされた質問なのだが、彼女は気にする様子もなくこちらをの顔を覗き込む。


 ぼくは何の気なしに答えようとして、ふと答えられないことに気づいた。
「……どこだろう」
「わかんないの?」
「考えてなかった」

 夜の閉じている夜を探りに行くこと以外そういえば考えてなかった。
 なんというか自分のことながら呆れてしまう。
 じゃあ今まではどこに行くつもりで歩いていたかというと、とにかく真っ直ぐ真っ直ぐ進むことしか考えてなかった。

 そのことをシナノに言うと、「じゃあわたしとおんなじだ」と彼女は返してきた。
「シナノも?」
「うん。別に行くとこなかった」


「じゃあなんで歩いてるのさ。こんな夜に」
「寒いのにね」
「おまけに暗い」
「だからじゃない?」
「は?」

 眉を寄せて聞き返すと彼女は前を向いたまま小さく口を動かした。
「なんとなくそんな気分の時もあるじゃん」
 ぼくはシナノの足を見下ろした。
 左足を引きずって、見るからにつらそうな歩き方だ。

「……きついから歩くの?」
「多分ね」
 彼女はさらりとそれだけ言った。
 ぼくは少しだけ考えた。
 考えて、彼女のことがちょっぴり好きになった。


 彼女の言っていることが分かったわけではないけれど、
むしろもっと分からなくなったのだけれど、なんだか分からないということがシナノという少女そのものな気がしたのだ。

「寒いねえ……」
 空を見上げて呟いた。
 いつの間にか雲がどこかへはけてしまっていて、水晶のように澄んだ空に星のランプがいくつも灯っていた。


 夜の闇がまたもう少し濃くなった頃、もう一人同行者が増えた。
「じゃあお前たちは知人同士ってわけじゃないのか」
 彼はそう言って陰気な顔でなるほどと頷いた。
「確かにそういう雰囲気じゃないな」

 その男はつい先ほどのコンビニにいたようだ。
 ちょうどぼくたちと行く方向が同じで、気づかなかったけれどずっと一緒に歩いていたらしい。
 そしてついさっきシナノがリップクリームを落としたときに声をかけてくれたのだ。
 そんな小さいものが落ちたのがよく分かったなとぼくはその時ちょっぴり感心した。

「まずいですかね」
 ぼくは少しだけ警戒して訊いた。
 シナノは高校生くらいに見えたし、一方ぼくはまず間違いなく高校生には見えない。
 知人同士にも見えないならば、ちょっといかがわしいことを想像されても文句は言えない。
 いやぼくは言うけれど。


「まずくはないだろ別に」
「何かまずいの?」
 シナノにまで訊かれることになって、ぼくは少し恥ずかしくなった。
 まるでぼくだけいやらしい奴みたいじゃないか。

「いや気にするこたない。俺も人のこと言えた立場じゃない」
 ぼくが疑問の目で見ると、彼は肩をすくめて見せた。
「よく知りもしない女子高生と一緒に過ごしてた時期がある」

 うわ、と思った。
 僕はそれとなくシナノを彼から隠す位置をとった。
「そう警戒するなよ」
 すぐにばれて彼に笑われた。
 シナノはよくわからなかったようで、きょとんとしている。


 気まずさを振り払うようにぼくは彼に訊ねた。
「ぼくはコウスケ。彼女はシナノ。あなたは?」
「セミだ」
 ぼくは怪訝に思って、眉を寄せた。
「セミさん?」

 正確には違うんだがな、と彼は短い髪をがしがしと掻いた。
「さっき話した女子高生、チナツっていうんだが、俺はその友達。
 夏の友人だからセミ」
「はあ」
 よくわからなくて、ぼくはなんだか煮え切らない気分で返事をして、シナノを見た。
 彼女はまだきょとんとした顔をしていた。


「セミさんはどちらに?」
「いやまあ、決めてない」
「え?」
「変か?」

「あ、いえ」とぼくは首を振った。「ぼくたちと同じだなって」
 そうか、とセミは頷いた。
 それで話を打ち切りにする気配を感じたので、ぼくは一応続けた。
「一緒に来るんですか?」

 セミは少し考える顔をしてから答えた。
「それも考えてない。嫌なら去るが」
「別に嫌じゃないですけど……」
「なら適当でいんじゃない?」
 シナノが言って、だからというわけではないだろうけれど、三人で歩くことになったようだった。


「夜が閉じてる?」
 間を持たせるためにセミさんにシナノにしたのと同じような話をすると、彼は興味深げに眉を動かした。
「分かります?」
「なんとなくは。どこにも行けない感覚ならよく知ってる」

 その言い方には含みを感じた。
 ぼくの視線に気づいて、彼は回転木馬のデッドヒートと言った。
「メリーゴーランドの馬たちは、さながら熾烈なトップ争いをしているように見えて実は決められた運行表に従って走っている。その輪からは抜けだせない」

「それ聞いたことある」
「上村春樹でしたっけ?」
 セミはぼくの言葉に噴き出して訂正した。
「逆、逆」
「ハルキ・カミムラ?」
 彼はさらに強めに噴き出した。
  それじゃ柔道連盟な上にインターナショナルだよと言ったようだが、ぼくには相変わらず意味不明だった。


「まあいいや。夜はメリーゴーランドに似てるんだ。いや、夜になって静かになると人生がメリーゴーランドじみてることに気づいてしまうのかもな」
 今度は人生観からのアプローチか、とぼくは真面目ぶって頷いた。
 いよいよ夜というものが分からなくなってきた気がする。

「セミさんはいつもそんなこと考えてるんですか?」
「チナツだよ。教わった」
「あたし、その子に会ってみたい」
「死んだよ」

 唐突に、しかもごく軽く言うので、ぼくは一瞬聞き流しそうになった。
 シナノに至っては「ふうん」と言ってから「ん?」と顔をしかめた。


「……亡くなったんですか?」
「電車事故。あ、違うか。自殺」
 遮断機の下りた踏切に入って、ぐしゃ。これまた軽い調子で言う。

 戸惑うぼくとシナノを置いてきぼりに彼は続けた。
「誰にでも何にでも代替品はあるんだと。そんなこと言ってたな。でも何を考えて、感じて、最終的に自殺に至ったのかは分からずじまい」
 知りたかったな。と彼は小さく続けた。それは、もっと話したかった、というふうにも聞こえた。千夏。


 一際冷たい風が吹いて、襟ぐりから冷気が忍び込んできた。
 誰にでも何にでも代替品はある、とセミは言った。正確にはチナツという女子高生の言葉だそうだが、それはいい。
 それを聞いたとき、心臓がきゅっと縮む感じがした。

 それだけの言葉では正確に何を意味していたのかまでは分からないから想像するしかない。
 が、ぼくが思うに、きっと彼女は絶望していたのだ。
 社会の歯車という比喩があるけれど、人間や他のいろいろも、壊れたら歯車のように簡単に取り替えが利くという一面の事実に、チナツという子は堪えられなかったのではないだろうか。
 ぼくは無意識に「インコ」と呟いていた。


「なに?」
 シナノが怪訝そうにこちらを見上げた。
 ぼくは首を振って続けた。
「セキセイインコを家で飼ってるんだ。いやぼくが買ったわけじゃないから飼われてるって表現が正しいけど」

 呟くように続ける。
「あいつが死んだら、やっぱりぼくは悲しいな」
 セミがふっ、と息を漏らした。
 目をやると彼は「彼女はハムスターだった」と言った。

「ハムスター飼ってたんですか?」
「死んでも悲しくなかったんだとさ」
「それは酷い」
 ぼくはかなり本気でムカっときた。それは、本当に酷い。
 セミがまた笑った。


 いつの間にか川向うに大きな建物、というより工場のようなものが見え始めていた。
 こちら側には広いグラウンドのような土地がたびたび現れる。
 不思議がるシナノにガス工場だ、とセミは教えた。

「火をつけたらすごいことになるだろうな」
「すごいことって?」
 シナノが訊くと、セミはパン、と手を打ち合わせて見せた。
「それはもうすんごいことさ」

 ぼくは小学校の体育館を大きくしたようなガスの貯蔵庫に火をつけるセミを思い浮かべた。
 ぼくの頭の中で彼は淡々と、でも確かに楽しそうに火を付けた。
 途端、想像は閃光に包まれて途切れる。


「きっと全部吹き飛ぶぜ」
「全部って全部?」
「ああ。世界中のガスタンクに飛び火して、全部が全部ブッ飛んじまう」
「それちょっとよさそう」

 ぼくはびっくりしてシナノを見た。
 彼女はセキセイインコのようなきらきらした目でセミを、その向こうの吹き飛ぶ世界を見ていた。
 ぼくには見えないその光景を、確かに見ているようだった。

「そんなの駄目だよ」
 ぼくは無意識につぶやいた。
 二人がこちらを向いた。


「どうしてだ?」
 セミが訊いてきた。
 表面上は特別感情はこもっていないが、どこか脅しめいたものを感じた。
「どうしてそう思う?」

 ぼくはひるまずに立ち向かうような気持ちで背筋を伸ばした。
「むしろなんで全部吹き飛んでいいなんて思うんですか」
「全部換えがきくようなものだぞ。多少なくなっても補充できる。
 そんなのつまらないじゃないか。いっそのこと全部吹き飛ばしてしまえ、と。そう思う」

 彼の言葉にはなんだか重みがあった。ちゃんと当事者としてものを見てきた響きがあった。
 だから、生半可なことでは覆せないだろう。


 それでもぼくはぼくの家のインコを守らなければならなかった。
 ぼくにとってあいつは換えなんてきかないし、いなくなったら困る。
 不格好に走り寄ってきて小首を傾げてこちらを見上げる様子が、ぼくは好きだ。

「全部が全部換えがきくなんてだれが言ったんですか。ほんとにそう言い切れますか?」
「確かに直感だな。だけれど誰もが持っている感覚だ。自分なんて、別の物、別の誰かと交換できる。そう思ったことは一度もないか?」

 ぐっとぼくは詰まった。
 いつの間にかぼくらは立ち止まっていて、セミとぼくがゆるく対峙する形になっていた。
 シナノがぼんやりとぼくらを見上げている。


 しばらく沈黙があって、風の音がよく聞こえた。
 ぼくは考えがまとまらなかったが、それでもがむしゃらに「でも」と吐きだした。
 絞るような声だったけれど、それでも必死だった。

「確証はないのに、全部吹き飛ばしたらもう確かめようがなくなるじゃないですか」
 今度はセミの方が言葉に詰まったようだった。
「逃げですよ、そんなの」
 もっと長い沈黙が落ちた。

おっつっつ

いい文章だ


「歩こうよ」
 不意にシナノが言った。
「歩こう。ね?」
 そして足を引きずって自分から歩きだす。
 ぼくとセミはそんなシナノの背中を見て、それからもう一度視線を交わし、少しのためらいの後それに続いた。

 黙々と歩き続けた。誰も何も言わなかった。
 十分が経ち、三十分が経ち、一時間が経過しても、足音や風の音以外何も聞こえなかった。

 道路はどこまでも続く。それでも夜は閉じている。
 進めるには進めるが、どこまで行っても閉じ込められた感からは逃げだせない。


 もしかして、とぼくは思った。
 もしかして、人間は夜に生きる術を失ってしまったからそんな感覚を覚えるのではないか。
 かつては夜行性でもあったかもしれないが、人間は太陽に魅了されその下に生き、月との触れ合い方を忘れてしまったのかもしれない。

 それは一見唐突な発想だけれど、先ほどまでのいくつもの会話に『夜』というものは潜んでいて、
その雰囲気にあてられるたびにぼくはどこにも行けない閉塞感を覚えていたようにも思う。

 人間は夜を生きることはできない。


「ねえ」
 口を開いたのはまたしてもシナノだった。
「なんか聞こえない?」

「なんかって?」ぼくは俯いていた顔を持ち上げる。「何さ?」
「わかんない」
「波の音っぽいな」
 セミさんが少しだけ足を速めた。

 暗くてよく分からなかったけれど、道の脇に看板があった。
 立ち入り禁止と書いてあって、ぼくは足を止めたのだけれど、二人は気にせずどんどん進んでいったので、仕方なくそれに続いた。


 急にアスファルトが途切れた。
 砂の柔らかい感触が靴裏に感じられ、沈み込むような不安定を覚える。
 シナノが酷くよろめいたのでぼくは手を貸して支えた。

 セミが先を行って立ち止まる。
 ぼくはシナノと一緒にゆっくりそれに追いついた。
 その時には聞き間違えようがないほどよく聞こえていた。
 風が一際強く吹き付けた。

 波の音。
 海だ。


 正直暗くてほとんど見えたもんじゃなかったけれど、海は確かに小さく開けた浜にあった。
 月のかすかな光を反射して、いくつもの波がテトラポッドの集まりに押し寄せていた。
 結構高い波だ。油断すると弾けた飛沫がこちらにまで飛んでくる。

 ぼくは呆然としたような気分でそれを見ていた。
 右を見るとシナノもぽかんとした顔をしていて、その向こうで川が海に流れ込んでいるのだけれど、
波が強くてむしろ海が川に流れ込んでいるように見えた。

 波は周期的なようでいて、微妙に狂った間隔で打ちつける。
 沖のほうからゆるりとやってきて、岸に近づくとゆっくりと鎌首をもたげてぐわりと覆いかぶさってくる。
「こりゃ水遊びなんてできたもんじゃないな」
 当然のことをセミが笑いながら呟いていた。


 海には夜以上に魔力があるようで、どれくらい時間が経ったか分からないけれど、時計を見ると既に日付は変わっていた。
「これからどうする?」
セミの言葉にぼくはみしみしと痛む足を思った。
「ぼくは帰ろうかと思います」

「あたしも」
 シナノも言うので、ぼくは送ってくよと申し出た。
 セミはもうしばらくここにいると言った。

「また会えるといいですね」
「心にもないことは言うべきじゃない」
 セミは苦笑いしたようだった。


 来た道を一緒に引き返しながらシナノと話した。
「結局夜はどうして閉じてるんだろうね」
「さあ。わかんない」
 シナノはもうほとんど興味を失った様子だった。

 仕方ないのでぼくは自分で考えようとした。
 でも正直なところ、もう頭がぼうっとして、上手く考えることはできなかった。
 それにぼくが簡単に出せるような答えなら、もうすでに誰かが解いてしまっているに違いない。
 最悪その人に訊けばいい。

 とりあえずは家に帰って眠って、夜が明けてからだ。
 と、そこで気づいた。
「明けない夜は、本当にないのかな」
 シナノがこちらに顔を向けた。
「今まではちゃんと朝は来たけど、今日は一番夜が長い日だ。何かの間違いで朝が来なかったらどうしよう」


 シナノは少し考えたようで、間をおいてから口を開いた。
「そのときはそのとき。今日みたいな夜が続くなら、悪くないような気もするしね」
 ぼくは妙に納得して、後は黙って歩き続けた。

おわり

レスしてくれた人マジありがとうでした

それから一応関連スレタイ置いときます
→女子高生「飛び降りができるところって、最近はあまりないよね」
もしよかったらこちらもどうぞ

良いね。

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