一年で一番長い夜 (56)


 日が暮れたので、ぼくは「ああ、今日もまた道が閉じたんだな」としみじみ思った。
 ちょっと行った所から伸びる国道も、その近くにある駅から走る線路も、みんなみんな閉じてしまった。

 といっても別に物理的に閉じこめられたとかそういうわけではもちろんない。
 これはぼくの感覚の話で、道自体はどこへでもどこまででも伸びているのに、
なぜだかその先に行けなくなってしまう気がするのだ。

 要するに外へと動こうとする活力とか意志が萎えてしまうということだが、
だから夜は閉じていると、そう思う。


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 思うからには理由があるのだろうけれど、夜には人を縛りつける力があるということなのか、
それともただ単に夜は「帰る時間」であって、「行く時間」ではないということなのか、
考えても今のところぼくには分からない。

 もし仮に想像が当たっていたとして、では夜に縛られない人にはどんな世界が見えるんだろう。
 帰る場所のない人の目には夜というものはどう映るんだろう。
 それから、夜の向こうには何があるんだろう。


 ぼくだってそんな疑問は馬鹿馬鹿しいものだということは知っていた。
 子供じみた疑問だし、もちろん夜に向こう側なんてない。そもそも夜は実際には閉じてなんかいない。
 けれどもぼくはもう一つ余計に知っていた。くだらない疑問はくだらな過ぎて、実は誰もその答えを確かめてはいないのだ。
 みんな知っているつもりになって、人づてに聞いた答えが全部だと思ってしまっている。多分。

 だからぼくは玄関のドアを開けた。
 夜の向こうを見てこようと思った。


 アナウンサーが今日は冬至だと言っていた。
 一年で一番昼が短い日ということらしい。
 それはひっくり返すとつまり一年で一番夜が長い日ということだ。
 正確には違うかもしれないが、おおむね間違ってはいないと思う。

 ぼくが夜の向こうを確かめようと思った日が一年で一番長い夜というのは何か運命のようなものを感じるけれど、
そういった偶然は本当にただの偶然か、もしくはどこかで小耳にはさんだ冬至という言葉がきっかけとなってぼくを夜に駆り立てただけだろうとも思う。


 ぼくが玄関を出ると既に外は暗かった。
 日没からもう二十分くらいはたっているしそうなるとあっという間に暗くなってしまうのが冬だ。
 西の方の空には鈍い光に照らされる冬雲があり、風除室の引き戸の隙間からは甲高い音が響いている。

 ニット帽と手袋の具合を確かめていると人感知式の玄関ライトが点灯した。
 おかげで一応は明るくなったけれど、ぼくの周り一メートルから先の暗さはもっと増した気がする。
 薄く積もった雪がライトを反射して、ほんのりと温かい色に光っていた。


 玄関先のハナミズキはもう夜の闇に呑まれてしまっていて、近くによらなければそれとは分からなかった。
 枝には雪がところどころくっついていて、それが街灯の光を反射している。
 寒いけれど風はない。

 道路に沿って歩きだすとちらちら降っていた雪がふっつりとやんだ。
 見上げると雲に隙間があいていて、そこからは澄んだ藍色が染み出し、ぽつりぽつりと星が輝いていた。

 住宅街を離れて道は細くなっていく。
 プロパンガスの補填所のフェンスがあってそれを曲がると小さな踏切があって、向こうは街灯が少なく真っ暗だ。


 足元に水たまりが光る。 
 道の両脇は柵が立てられ、だがその内側には背の高い草が生え散らかっているだけ。
 秋ならば虫の合唱がうるさいくらいに聞こえただろうけれど、今はささやかに草がこすれる音しか聞こえない。

 アスファルトにはあちこち凹凸があった。
 ぼくは足を取られないように慎重に歩いた。
 そして、両脇が草はらから小さな田んぼに変わる辺りに出て、変なものを目にした。


 それは街灯の下で、不格好に揺れていた。
 すぐに人と気づいたけれど、どうやらおかしいのは歩き方のようだった。
 右足に力をかけて、左足を引きずる要領。
 足の悪い人の足の運びだ。

 歩くのはもちろんぼくの方が速くてすぐ追いついた。
 ぼくは道の反対側に寄って、俯き加減で追い越した。
 大きめに音がしたのはそのちょっと後だ。

 見るとその人、どうやら小柄で女の子のようだが、転んでいた。
 地面に膝と手を突いていて、けれどもすぐに起き上がってみせた。
 そしてまた倒れた。今度はぐうの音も出ないほどのばったり具合だった。


「大丈夫ですか?」
 ぼくの声は心配よりもためらいの響きがありありと出ていたと思う。
 彼女は腕を突っ張って上体を起こし、こちらに顔を向けた。

「へーき」
 舌ったらずのような甘える調子のような。独特な声の響きだった、
「ちょっと滑っただけだし」

「そうですか……じゃあぼくはこれで」
 彼女に手を貸して立ち上がらせてから背を向けると、数歩のところでまた転倒の音がした。


「ありがとう」
 再び助け起こすと彼女は何故かにやにやしながら「シナノ」と続けた。
「シナノ?」
「わたしの名前。みたいな」

 名前にみたいなもなにもないだろうと思ったけれど、名乗られたことでどうやら立ち去ることができなくなった気配を感じた。
 ぼくはそういったある種の期待の雰囲気に弱かった。

 雑多な勧誘を断るのはむしろ得意な方だと思っている。
 その種のモノには悪意や、そこまでいかなくても明らかな計算が含まれているから対応方針がはっきりしているというのがその理由なのだが、逆に相手の裏に意図がないとフリーズしてしまう。
 そういうことでぼくはシナノと一緒に歩くはめになった。
 まあ特にこれといった目的地があるわけでもないので別にかまわないといえばかまわないのだけれど。


  シナノに家の場所を訊くと、ぼくが元来た住宅地の辺りにあるらしかった。
「え?」
 ぼくは怪訝に思ってもう一つ訊ねた。
「家に帰るところじゃないの?」

「帰るよ」
 シナノは身体を大きく左右に揺らして歩きながら言った。
「満足したら帰る」
「満足?」

 シナノは頷いて、それきり歩くことに専念したようだった。
 ぼくはなんとなく話しかけるのに躊躇して何も言えなかった。
 大通りに出るまで沈黙が続いた。


 大通りには帰宅の車が何台も行き交っていたが、歩行者はいなかった。
 信号を渡って、真っ直ぐ進んだ。
 川沿いの道で、右側に土手、左側に昔ながらの小ぢんまりとした民家が並ぶ。

「シナノはどこに行くの?」
 彼女が場所を言ったらそれに合わせて、君みたいな若い子が夜歩きなんて危ないよ、送っていくから帰りなさいとかなんとか続けるつもりだった。
 シナノは答える代わりに逆に訊いてきた。
「名前は?」
「は?」

 ぼくがさらに訊き返すと、彼女はそれこそ不思議そうな顔をこちらに向けた。
「名前」
「ぼく? ええと。コウスケだけど」
「じゃあ、コウで」


 それからまたしばらく黙々と二人で進んだ。
 右に小さな橋が川をまたいで掛かっていて、向こうに大きな建物の影が見えた。
 確か小学校があったはずだ。かつてはぼくも通っていた小学校である。

 日はすっかり暮れて空気がぐんと冷え込み、手袋をしているにも関わらず手にはもう感覚がない。
 頬が冷気でひりひりと痛かった。

 ぼくはもう一度シナノに訊こうか考えた。
 でも、と思ってやめた。
 シナノはいろいろ答えたくなくてわざとはぐらかしたのかもしれない。
 そうなると無理矢理聞きだすというのはぼくにはできない気がした。


 仕方なくぼくは別の話題を探した。
 シナノのような若い子の話すことなんて分からなかったし、同世代とだって上手く話せない自信があったけれど仕方なくだ。
「夜って閉じてるよね」

 シナノは「なにそれ」とこちらを横目で見た。
 明らかに話題を間違えたような気がしたけれど、今更引っ込ませるのも変だし、そもそもぼくに話せる話題はこれくらいしかないので諦めて続けた。

「夜ってどこにも行けない気がしない?」
「よく分からない」
「そうかなあ。朝よりは行けるところが限られてるように思うけど」
「あー。それはなんとなく分かるかも」
「やっぱり?」

 同意を得られてぼくは年甲斐もなく嬉しくなった。


「暗くなると視界が利かなくなるせいかな、見渡せる範囲が狭くなる。
 きっとそれでどこにも行けなくなるんだとぼくは思う」
「気分の問題じゃない?」
 その時シナノが大きくよろめいた。
 ぼくは腕を掴んでそれを支えた。

「大丈夫?」と訊くとシナノは頷いてさらに続けた。
「夜になると人は疲れちゃってるんだよ。だからどこにも行く気が起きないってだけ。
 気持ちがへこたれてると世界って狭く見えるよ」

 なるほどなとぼくは思った。
 人の内面の問題か。一理ありそうだ。
 そこで気づいた。
 シナノはへこたれたことがあるから分かるんじゃないか?
 彼女が引きずる左足を見てそんなことを思った。

ここまで
今晩までに完成したかったけれど失敗。少しずついきます


 夜の闇がまたもう少し濃くなった頃、もう一人同行者が増えた。
「じゃあお前たちは知人同士ってわけじゃないのか」
 彼はそう言って陰気な顔でなるほどと頷いた。
「確かにそういう雰囲気じゃないな」

 その男はつい先ほどのコンビニにいたようだ。
 ちょうどぼくたちと行く方向が同じで、気づかなかったけれどずっと一緒に歩いていたらしい。
 そしてついさっきシナノがリップクリームを落としたときに声をかけてくれたのだ。
 そんな小さいものが落ちたのがよく分かったなとぼくはその時ちょっぴり感心した。

「まずいですかね」
 ぼくは少しだけ警戒して訊いた。
 シナノは高校生くらいに見えたし、一方ぼくはまず間違いなく高校生には見えない。
 知人同士にも見えないならば、ちょっといかがわしいことを想像されても文句は言えない。
 いやぼくは言うけれど。


「まずくはないだろ別に」
「何かまずいの?」
 シナノにまで訊かれることになって、ぼくは少し恥ずかしくなった。
 まるでぼくだけいやらしい奴みたいじゃないか。

「いや気にするこたない。俺も人のこと言えた立場じゃない」
 ぼくが疑問の目で見ると、彼は肩をすくめて見せた。
「よく知りもしない女子高生と一緒に過ごしてた時期がある」

 うわ、と思った。
 僕はそれとなくシナノを彼から隠す位置をとった。
「そう警戒するなよ」
 すぐにばれて彼に笑われた。
 シナノはよくわからなかったようで、きょとんとしている。


 気まずさを振り払うようにぼくは彼に訊ねた。
「ぼくはコウスケ。彼女はシナノ。あなたは?」
「セミだ」
 ぼくは怪訝に思って、眉を寄せた。
「セミさん?」

 正確には違うんだがな、と彼は短い髪をがしがしと掻いた。
「さっき話した女子高生、チナツっていうんだが、俺はその友達。
 夏の友人だからセミ」
「はあ」
 よくわからなくて、ぼくはなんだか煮え切らない気分で返事をして、シナノを見た。
 彼女はまだきょとんとした顔をしていた。


「セミさんはどちらに?」
「いやまあ、決めてない」
「え?」
「変か?」

「あ、いえ」とぼくは首を振った。「ぼくたちと同じだなって」
 そうか、とセミは頷いた。
 それで話を打ち切りにする気配を感じたので、ぼくは一応続けた。
「一緒に来るんですか?」

 セミは少し考える顔をしてから答えた。
「それも考えてない。嫌なら去るが」
「別に嫌じゃないですけど……」
「なら適当でいんじゃない?」
 シナノが言って、だからというわけではないだろうけれど、三人で歩くことになったようだった。


「夜が閉じてる?」
 間を持たせるためにセミさんにシナノにしたのと同じような話をすると、彼は興味深げに眉を動かした。
「分かります?」
「なんとなくは。どこにも行けない感覚ならよく知ってる」

 その言い方には含みを感じた。
 ぼくの視線に気づいて、彼は回転木馬のデッドヒートと言った。
「メリーゴーランドの馬たちは、さながら熾烈なトップ争いをしているように見えて実は決められた運行表に従って走っている。その輪からは抜けだせない」

「それ聞いたことある」
「上村春樹でしたっけ?」
 セミはぼくの言葉に噴き出して訂正した。
「逆、逆」
「ハルキ・カミムラ?」
 彼はさらに強めに噴き出した。
  それじゃ柔道連盟な上にインターナショナルだよと言ったようだが、ぼくには相変わらず意味不明だった。


「まあいいや。夜はメリーゴーランドに似てるんだ。いや、夜になって静かになると人生がメリーゴーランドじみてることに気づいてしまうのかもな」
 今度は人生観からのアプローチか、とぼくは真面目ぶって頷いた。
 いよいよ夜というものが分からなくなってきた気がする。

「セミさんはいつもそんなこと考えてるんですか?」
「チナツだよ。教わった」
「あたし、その子に会ってみたい」
「死んだよ」

 唐突に、しかもごく軽く言うので、ぼくは一瞬聞き流しそうになった。
 シナノに至っては「ふうん」と言ってから「ん?」と顔をしかめた。


「……亡くなったんですか?」
「電車事故。あ、違うか。自殺」
 遮断機の下りた踏切に入って、ぐしゃ。これまた軽い調子で言う。

 戸惑うぼくとシナノを置いてきぼりに彼は続けた。
「誰にでも何にでも代替品はあるんだと。そんなこと言ってたな。でも何を考えて、感じて、最終的に自殺に至ったのかは分からずじまい」
 知りたかったな。と彼は小さく続けた。それは、もっと話したかった、というふうにも聞こえた。千夏。


 一際冷たい風が吹いて、襟ぐりから冷気が忍び込んできた。
 誰にでも何にでも代替品はある、とセミは言った。正確にはチナツという女子高生の言葉だそうだが、それはいい。
 それを聞いたとき、心臓がきゅっと縮む感じがした。

 それだけの言葉では正確に何を意味していたのかまでは分からないから想像するしかない。
 が、ぼくが思うに、きっと彼女は絶望していたのだ。
 社会の歯車という比喩があるけれど、人間や他のいろいろも、壊れたら歯車のように簡単に取り替えが利くという一面の事実に、チナツという子は堪えられなかったのではないだろうか。
 ぼくは無意識に「インコ」と呟いていた。


「なに?」
 シナノが怪訝そうにこちらを見上げた。
 ぼくは首を振って続けた。
「セキセイインコを家で飼ってるんだ。いやぼくが買ったわけじゃないから飼われてるって表現が正しいけど」

 呟くように続ける。
「あいつが死んだら、やっぱりぼくは悲しいな」
 セミがふっ、と息を漏らした。
 目をやると彼は「彼女はハムスターだった」と言った。

「ハムスター飼ってたんですか?」
「死んでも悲しくなかったんだとさ」
「それは酷い」
 ぼくはかなり本気でムカっときた。それは、本当に酷い。
 セミがまた笑った。


 いつの間にか川向うに大きな建物、というより工場のようなものが見え始めていた。
 こちら側には広いグラウンドのような土地がたびたび現れる。
 不思議がるシナノにガス工場だ、とセミは教えた。

「火をつけたらすごいことになるだろうな」
「すごいことって?」
 シナノが訊くと、セミはパン、と手を打ち合わせて見せた。
「それはもうすんごいことさ」

 ぼくは小学校の体育館を大きくしたようなガスの貯蔵庫に火をつけるセミを思い浮かべた。
 ぼくの頭の中で彼は淡々と、でも確かに楽しそうに火を付けた。
 途端、想像は閃光に包まれて途切れる。


「きっと全部吹き飛ぶぜ」
「全部って全部?」
「ああ。世界中のガスタンクに飛び火して、全部が全部ブッ飛んじまう」
「それちょっとよさそう」

 ぼくはびっくりしてシナノを見た。
 彼女はセキセイインコのようなきらきらした目でセミを、その向こうの吹き飛ぶ世界を見ていた。
 ぼくには見えないその光景を、確かに見ているようだった。

「そんなの駄目だよ」
 ぼくは無意識につぶやいた。
 二人がこちらを向いた。


「どうしてだ?」
 セミが訊いてきた。
 表面上は特別感情はこもっていないが、どこか脅しめいたものを感じた。
「どうしてそう思う?」

 ぼくはひるまずに立ち向かうような気持ちで背筋を伸ばした。
「むしろなんで全部吹き飛んでいいなんて思うんですか」
「全部換えがきくようなものだぞ。多少なくなっても補充できる。
 そんなのつまらないじゃないか。いっそのこと全部吹き飛ばしてしまえ、と。そう思う」

 彼の言葉にはなんだか重みがあった。ちゃんと当事者としてものを見てきた響きがあった。
 だから、生半可なことでは覆せないだろう。


 それでもぼくはぼくの家のインコを守らなければならなかった。
 ぼくにとってあいつは換えなんてきかないし、いなくなったら困る。
 不格好に走り寄ってきて小首を傾げてこちらを見上げる様子が、ぼくは好きだ。

「全部が全部換えがきくなんてだれが言ったんですか。ほんとにそう言い切れますか?」
「確かに直感だな。だけれど誰もが持っている感覚だ。自分なんて、別の物、別の誰かと交換できる。そう思ったことは一度もないか?」

 ぐっとぼくは詰まった。
 いつの間にかぼくらは立ち止まっていて、セミとぼくがゆるく対峙する形になっていた。
 シナノがぼんやりとぼくらを見上げている。


 しばらく沈黙があって、風の音がよく聞こえた。
 ぼくは考えがまとまらなかったが、それでもがむしゃらに「でも」と吐きだした。
 絞るような声だったけれど、それでも必死だった。

「確証はないのに、全部吹き飛ばしたらもう確かめようがなくなるじゃないですか」
 今度はセミの方が言葉に詰まったようだった。
「逃げですよ、そんなの」
 もっと長い沈黙が落ちた。

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