それは、いつからだっただろうか。
思い直すと…私が社会人になった頃からだろうか。
少しずつ、けれど、確実に…大切なものを失っていった。
人に必ずあるべきもの。今、私はそれを…取り戻そうとしている。
最初は特に、気にもしていなかった。
まだ、若い。まだ、そんな歳ではない。
そう自分に言い聞かせてきて、気付いた。
これはただ、現実から目を背けているだけなのだ、と。
いまさら後悔しても、遅いというのに。
若き日の写真と今の私を比べると、涙が出てくる。
あのとき、こうなる前に…もっと早く手を打つべきだった、と。
原因は、なんだったのだろうか。
生活環境の変化からの、ストレスだろうか。
ああ、違う、今はそんなことを考えても仕方が無い。
文字通り、頭を抱え思案していると、その悩みはますます大きくなる。
悩んでいても、仕方が無い。
これは私自身のことなのだから。
私自身…その表現は適切ではない。
…私の、髪のことなのだから。
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早朝の5時に目が覚める。
習慣づけているわけではない。
けれど、どうしても起きてしまうのだ。
夜間頻尿、不眠症…老齢特有の悩みだろうか。
おかげで私の朝は人よりも早かった。
しみのついた掛け布団を押しのけて身体を起こす。
そろそろ買い換えるべきだとは、わかっているのだが。
長く使って愛着が湧いてしまい、捨てられなくなっている。
見事に老齢特有の加齢臭が、そこには染み付いている。
父の激臭に顔をしかめ、加齢臭と罵った事を思い出す。
ああ、これでは、人のことなど言えないではないか。
タンクトップに纏った加齢臭と洗面所へ向かった。
そこで私は、日々、現実を見ることになっていた。
乱れた髪。
見るに耐えない。私の率直な意見だ。
完全に頭頂部の頭皮が露出している。
側頭部も、ほのかに人間らしい肌色を露呈している。
髪の隙間から現れる肌色は、明らかに人目を引く。
少なくなった前髪は、もう整髪料で上げざるを得ない。
それでなければ、見苦しいバーコードとなってしまう。
自らの姿に毎朝緊張を覚え、頭皮を傷つけぬように指で触れる。
さらり、さらり。手触りだけはなめらかだ。
そして、はらり。1本、2本。髪が抜け落ちてゆく。
力を入れすぎただろうか。どうにも感情的になってしまう。
許せない。こんなに容易に抜けてしまう頭皮に育てた覚えはない。
…朝の洗面所では、日々30分以上を浪費していた。
私は誰よりも髪に気を使っている。
彼らは繊細な存在だ。
酷く儚い存在だと言える。
もう半世紀以上、この私の頭皮と同居して気付いたことだ。
些細な刺激に彼らは身を燻らせ、私の元を離れていく。
ブラッシングで愛想を尽かされぬよう、努力する他なかった。
毎日のトリートメントを欠かしてはいないのに、その結果は虚しかった。
ああ、もう、耐えられない。
このまま悩みを抱えていては、ますます髪を失ってしまう。
1人で悩むことはない。そうだ。相談すればいいではないか。
けれど、勘付かれぬように。できるだけ、何気なく、何気なく。
私の戦いがはじまった。
整えられたスーツを取り出し、身支度を整える。
抜けた髪が、私のスーツの肩を占拠していた。
お気に入りのネクタイの上にすら、彼らはいた。
リビングで、妻がいないことに気付いた。
まだ、眠っているのだろう。
そして、思った。
たまには、私が朝食を作ることも悪くない。
料理ができないわけでもない。楽をさせてあげよう。
まだ、最愛の妻には…溢れんばかりの、髪があるのだから。
冷蔵庫を開き、予定通りのものを手にとった。
まずは妻の分からだった。
ラップをして保管しておけばいい。
手早く出汁巻き玉子とベーコンを焼き上げた。
妻ほどではないが、そこそこには出来上がっただろう。
隣にコールスローを添え、バランスを整えておく。
さて、私の分だが、どうしようか。
バターと醤油、数枚の余ったベーコンが鎮座している。
私もいい年齢だと自覚している。まさか。朝から胃に負担をかけるような。
そう思ったときには、白く輝く米粒の上に、バターが侵食した。
ああ、これだ。私の求めていたものは、これだ。
醤油を回しがけし、遠慮無く口に運ぶ。
リモコンで、テレビを点けた。
そして、目眩がした。
…そんなバカなことが、あるだろうか。
原因は私にあるというのか。
箸が止まった。
『昨今、偏った食生活が抜け毛の原因の1つとされていますが———』
とても食べる気になどなれない。
毛根の死滅か、ひとときの楽しみを選ぶならば。
私に選択の余地はなかった。
不可能だ。
どうして私の心を抉るような内容なのか。
世間の老齢の方々が起きてくる頃ではないか。
ピンポイントに抜け毛の話をする必要がどこにあるのだ。
残った少ない毛髪と寿命を執拗に攻撃して、何が楽しいというのか。
陰鬱な気分になりながらも、もうすぐ出社時間になろうとしていた。
ヘアスタイルはこれで完成されている。触ってはいけない。
私は言い聞かせながら、メモを置いて、家を出た。
おいこれシリアスかギャグかどっちだよwwwwwwwwwwww
珍しい社長SSと思ったらこれかよ
気持ちは充分わかるわ
まだ少し早い時間だからか、人は多くない。
駅に着き、電車を待っている間、視線を泳がせる。
さまざまな広告が、私の視線の落ち着きどころだ。
歯科、歯科、保育園、アイドルのコンサート。
やはり公共の場での宣伝効果は大きいのだろう。
私たちも、巨大広告を掲載できるように頑張らねば。
アナウンスと共に、電車がやってきた。
私は、常に最前列を選んで乗っていた。
無論、やってきた電車の風の影響が少ないからだ。
丹精に入念にセットされたヘアスタイルを崩したくはない。
公共の場でバーコードと化す場面だけは避けねばならない。
…電車に乗って、逃げられない。そう思った。
進行方向に目をやり、車内広告に目をやり。
見つけてしまった。見なければよかった。
技術増毛体験の広告が、そこにあった。
ああ、どうしてだというのか。
こうして小さな希望を私の前に見せつけて。
私は、藁をも掴むという心情を理解した。
技術増毛体験。
技術増毛体験。
なるほど。そういう手もあった。
私の手に負えないのであれば、次は科学だ。
最先端の技術なのだ。きっと上手くいくに決まっている。
植毛だろうと、増毛だろうと、知ったことではない。
私は失ったものを取り戻す。
それは、もともとあるべきものなのだから。
私の頭頂部から後頭部にかけて、そして側頭部にかけても、だ。
もう10円玉とは呼ばせない。
事務所に到着すると、みなが私を迎えてくれた。
ああ、彼ら…彼女らは、私を10円玉とは思っていない。
そう。きっと、そうだ。多分。そのはずだ。
「おはようございます!社長」
プロデューサーの彼が元気に私に挨拶をする。
悩みを抱えている私は彼の頭頂部に目を移す。
さらりと綺麗に生え揃った髪。
縮れることなく、程よく弧を描く髪。
私は彼の髪がうらやましく仕方がなかった。
『ああ、社長。おはようございます』
ちひろくんも明るい声で挨拶をしてくれる。
彼女もまた、美しい髪を持っていた。
さて、どうやって手がかりを掴もうか。
社内共有のPCで技術増毛体験を調べるのはよろしくない。
勘がよくなくても、髪に悩んでいそうな人間は私くらいだと気付くだろう。
まずは、仕事をしなくては。
この社長は元PaP。
PaPはハゲるから仕方ないね。
「社長、今度のアイドルのCM契約の話について…」
『ああ、いいよ。どれのことかな』
仕事に身が入りだした頃のことだった。
少し困った顔をしている彼を、放ってはおけない。
「ええと、これなんです…この、契約の」
彼の問いに悩むこと無く応答していく。
彼の仕事の飲み込みの速さは、素晴らしい。
満足そうな顔で、彼は私に礼を伝えた。
私もそれに釣られ、微笑していた。
ああ、そういえば、聞いていない。
『そういえば、それは何のCMの契約かな』
「え?ああ、これは」
「シャンプーのCMです」
シャンプー。
…シャンプーのCM、か。
なるほど。何らおかしくはない。
なのに、この胸のわだかまりはなんなのか。
『あ、ああ…そうか、では、頑張ってくれ』
「はい!失礼します!ありがとうございました!」
ぱたん、と社長室のドアが閉じられる。
シャンプー。リンス。コンディショナー。
確かに、彼女らは美しい髪を持っている。
彼女らにぴったりではないか。
当然の事とも言える。
けれど、このタイミングで髪の話題に触れられた。
意図していなくとも、毛根を刺激する材料になった。
かぶりを振ると、予定通りというように髪が抜け落ちた。
今日は、のり弁を買おう。
昼休みに入り、アイドル達も昼食をとっていた。
社内でわざわざのり弁を買って食べているのは、私くらいだろう。
妙な優越感と共に、頭に吹き抜ける虚無感に我に返った。
「あ。社長、お昼、一緒にどうでしょうか」
ちひろくんが、対面のソファに座って声をかけてくれた。
お茶も用意してくれていたようで、断る理由などありはしない。
『もちろんだ。ぜひ、一緒に食べよう』
「はい!」
彼女の笑顔には社内も明るくなる。アイドル並みの容姿もある。
事務員としても有能で、私は人に恵まれていると実感していた。
『ちひろくんは、いつも手作りのお弁当なのか』
「ええ、たまに買うこともありますが」
小さな、淡い緑色をした弁当箱を嬉しそうに開けている。
遠足に行く娘を彷彿とさせ、顔がほころぶ。
…そして、また、だった。
『今日のおかずは、何にしたのかな』
「ええと。今日は…」
「ひじきの煮物に、ほうれん草のおひたしに…あ、お米は玄米です」
ひじき。ほうれん草。玄米。
髪の発育に良いものばかりではないか。
今日は髪…神に嫌われているとでも言うのか。
彼女に悪意はない。それは分かっている。
嬉々として食事を楽しんでくれている彼女に失礼だ。
そしてふと、彼女は私の昼食、のり弁に目をやり、付け加えた。
「社長…お弁当もいいですが、バランスよく栄養とらないと、ダメですよ」
ダメ?
何がダメなのか。
身体によくない?それとも…?
ああ、いけない。邪推してしまう。
私の方が彼女より身長も座高も高い。
ここから私の頭頂部に気がつくことは。
しかし、側頭部に至ってはフォローしきれない。
迷わず彼女から目線を逸らさないことに決めた。
そして、気付いてしまった。アイドル達に気付かれる。
私と彼女が向かいあっていては、横を通るアイドルたちに…。
もう、手段は選んでいられない。
食事を終えたアイドルたちが歩き回っている。
変な目で見られようと構わない。私に余裕などありはしない。
食事中、頭を振り続けた。
ちひろくんは私の事を心配し続けた。
ついに狂ってしまったのか、と思われなかっただけマシだろう。
彼女の慈愛に満ちた崇高な精神に感謝せざるを得なかった。
私は休むように言われ、社長室で休息をとっていた。
ああ、何を意味の分からない事をしているのだろうか。
女性との食事中、頭を振り続ける老人など、想像も出来ない。
猛スピードで頭を振る老人を見て彼女は何を思ったのだろう。
目眩がした。どちらの意味でも。
私は仕事をほとんど終わらせていたので、特にやることはなかった。
ふと思いつくことがあったので、無理を承知でちひろくんを呼んだ。
「ええと、社長。もう、大丈夫ですか?」
それは頭の表面か、中身か、身体のどの心配をしてくれているのだろう。
けれど、とりあえず、私は大丈夫だ、という事を伝えて、続けた。
『少し…少しだけ、私は外に出てくるよ…すぐに戻るから』
「一緒に行かなくても?」
『うん、すまない…ありがとう。では、行ってくるよ』
申し訳なさに頭を下げようかと思ったが、下げられなかった。
私は、記憶を辿りながら歩き出した。
まだ先ほどの目眩が取れない。振りすぎた。
確か、あの角を曲がれば、すぐそこにあったはずだ。
見つけた。
技術増毛体験。私の夢を叶えてくれる存在。
私たちはアイドルの夢を叶え、彼らは私の夢を。
体験しなくてもいい。まずは私の毛根の現状について知らなければ。
ここから毛根の活性化が可能なのか否か、まずはそこからだ。
重い足取りながら、懸命に勇気を振り絞り、進んだ。
いくつかの問診表に生活習慣、こうなった年齢について記載した。
受付の方々は悩むことなどないのであろうほど生えていた。
この人達に私の悩みが分かるのだろうかと懸念した。
そして私の名前が呼ばれ、リノリウムの床の上を歩き出した。
このような人も医者と呼ぶべきだろう。
医者は私の問診表と、顔と、側頭部に目をやりながら言った。
髪について悩んでいる人の頭を見ないで欲しい、とも思った。
「ええと、では、こちらの画面をご覧ください」
そう言って医者の助手は私の頭にペン型のカメラを添えた。
ああ、そんなに力を入れないでほしい。抜けてしまうではないか。
「ああ…」
その感嘆で全てを察したような気がした。
重い口がゆっくりと開かれた。
「ダメです、死んでます」
たった十文字で私の心を抉るのはよしてほしい。
もっとオブラートに包むべきだろう。
「ええ…死んでます」
復唱しないでください、と声が出そうだった。
だが、しかし、死んでいるのか。私の毛根はダメなのか。
もう2度と、あの健康的な髪の毛に触ることはかなわないのか。
えりあしの縮れ毛をそっと撫で、私はそこを後にした。
死んでいる毛根が息を吹き返すことはない。
そんなことが出来ればこんな悩みは生まれない。
ああ、私はどうするべきだろうか。
植毛をする?
日に日に急激に増えていく髪をみて、みなはどう思うだろうか。
それを思えば、カツラだって同じ事だろう。
そんな勇気はなかった。
1日で生え変わりました、と真顔で言える度胸はなかった。
もうそこまで行けば生まれ変わったというべきではないか。
事務所に戻ると、みながテレビを見ていた。
正確に言うと、彼女らが出演したドラマやCMのチェックだった。
私もそれに加わろうと思い、彼らの隣に肩を並べた。
もうあきらめて剃れよw
シュールすぎるわwwww
まずはクラリスくんのドラマのワンシーンだった。
『神のご加護を』
髪のご加護はなかった。続けて神崎蘭子くん。
『闇に飲まれよ!神は死んだ!』
いい演技力だ。確かに髪は死んでしまった。黒川千秋くんが続く。
『このトリートメントで髪の潤いを…』
確かに美しい髪だが、直球すぎる。古澤頼子くん。
『当時はこれが、無上の佳味として重宝されていました』
博識な彼女は言葉遣いも適切だ。適切すぎた。荒木比奈くんに変わった。
『えー…この香美市のやなせたかし記念館では…』
私も新しい髪よ、と誰かに投げてはもらえないだろうか。
もらえないだろう。
私の髪についてはさておいて、彼女らはとても成長している。
無論髪のことではない。彼女ら自身の事だ。
輝かしい成長を見守ることができて幸せだと思う。
ひと通り終わった後、テレビを通常の番組に戻していた。
そこには少し前放送されていたドラマが放映されていた。
…ああ、このシーン、私は酷く泣いた覚えがある。
素晴らしい友情に涙せずにはいられない。
確か、よくお世話になる765プロダクションのみなが主演だ。
『私たちにはあなたが必要なの!』
ああ、そうだ。このシーン。久しぶりにみてもハンカチが必要だ。
『私たちは1人でも欠けたら、私たちじゃないのだから』
うん、うん。アイドルたちも食い入るように見つめている。
『私のことが必要だと…言ってくれるの?』
ここの演技は、きっとアイドル達にも参考になるだろう。
『当たり前じゃない!だって、私たち…』
『仲間だもんげ!』
…そんな毛はない。
ヤメロwwww
どこへ行っても髪と毛に追い回される。
いや、いっそ追い回してくれないだろうか。
そんな悩みは私には今のところ遠い夢だ。
みなも今日やることが終わったのか、帰る準備をはじめていた。
私も帰ることにしようか。
ああ、業務日誌を書いていない。
彼とちひろくんに施錠はしておくと伝え、業務日誌を開いた。
手書きの方が、何やら質感があっていい。
そういえば…技術増毛体験に行くとき、誰かとすれ違った。
そこで頭を抱える。髪には触れないようにそっとした手触りの上でだが。
見られていた?
『社長…今日、何気なく悩んでいらっしゃるよう、でしたが…』
「え?ああ…うん。少し。大した悩みじゃ、ないんだ…笑い話なんだ」
『そう、ですか?』
「うん、笑いの種にしてくれて構わない」
『………なら』
『何毛無く、悩んで…ふふっ』
「え?」
『え?』
『あ、失礼します。お疲れさまでした』
「あ、ああ…お疲れ様」
「………」
こうして、私の何毛無く…何気なく悩む社長の1日は終わった。
よし、明日、技術増毛体験をしに行くことにしよう。
もう、500円玉になってきたのだから。
おわり
以上です。ありがとうございました。
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ちなみにトリップは#nohairでした。
乙
面白かったけど切なくなった
乙
楓さん、そこはハゲましてあげようよ
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