浪人生「浪人の夢」 (38)
小さな部屋です。
白く発光する壁に囲まれた、一立方メートルほどの小さな部屋です。
浪人生「外に出るか」
浪人生がドアを開けると、向かいに住む高校生もちょうどドアを開けて出てきました。
高校生「おや、浪人生さん。お早うございます」
浪人生「お早う」
高校生「ぼくはこれから学校です。浪人生さんは?」
浪人生「散歩だ」
高校生「では、ご一緒しても」
浪人生「ああ」
桜の並木通りです。
満開の桜、緑の葉桜、葉を黄色くした桜、葉を落とした桜が順番に立ち現れます。
季節が廻ったらまた春から。
空も地面も、とてつもなく明るい白色です。
高校生「好い天気ですね」
浪人生「そうだな」
高校生「こんな天気が、ずっと続けば」
浪人生「全くだ」
高校生「では、僕はこれで」
高校生は若草色の門へと消えてゆきました。
浪人生はあの門をよく知っています。けれど彼はその先には進めないのです。
浪人生「さて、どうしようか」
あちらの方に男の子が歩いているのが見えます。
小さな男の子です。帽子を目深に被り、その顔はよく見えません。
浪人生は彼によく遭います。知り合いではありませんが、散歩しているとよくすれ違うのです。
男の子は今日も浪人生のすぐ横を通り過ぎていきました。
立ち呆けている浪人生のもとに、一人の女の子が寄ってきました。
背は低く、愛らしい特徴的な顔立ちをしています。
中学生「あの」
浪人生「ぼくかい」
中学生「道をお尋ねしたく」
浪人生「どうぞ」
中学生「若草色の門はどちらに」
浪人生「それなら、すぐそこだよ」
浪人生は中学生を連れて少し歩きました。
中学生「ほんとうだ。ありがとうございます」
浪人生「入らないのか」
中学生「今はまだ。それじゃ」
中学生はそのまま立ち去りました。
浪人生はふと考えました。
ぼくは何をしたいのだろう。ぼくは何を待っているのだろう。
ぼくはどこに行きたいのだろう。
浪人生は若草色の門を見上げました。
浪人生「ぼくはかつてここを通った」
浪人生は門を右手で押しました。びくともしません。
浪人生「ぼくはこの先にある場所の名を知っている」
浪人生は少し悲しげに言いました。
浪人生「その場所の名は高校と言う」
浪人生はとぼとぼとその場を立ち去りました。
浪人生は歩き続けました。
だんだん周りの家の数は減り、代わりに田畑が増えてきました。
何だか懐かしい感じのする風景です。
しばらくして浪人生の前に空色の門が立ちはだかりました。
例によって手で押してみましたが、開きません。
浪人生「この空色は少しセピアがかっている」
言ってみて、すごく虚しくなりました。
先ほど道を訊いてきた中学生が浪人生の肩を追い越して門の向こうへ入ってゆきました。
浪人生「ぼくは学校へは行けない」
浪人生「なぜ門は閉じているのだろう」
浪人生「時代が違うから、時間が過ぎてしまったからか」
浪人生「ぼくは学校へは行けないのか。ぼくにも行ける学校は……」
浪人生はそこで口をつぐみ、再び歩き始めました。
次に浪人生が向かったところは駅でした。
駅は他の街へと繋がっています。
浪人生はほとんど駅を訪れません。他の街に行くことがないからです。
大学生「あ、浪人生」
瞬間、浪人生の胸が高鳴りました。
浪人生「君か」
大学生「久しぶりだね」
浪人生「最近見なかったな」
大学生「他の街へ通っているから」
浪人生「そうか」
ぼくは本来この街に留まっているべきではないのだ、と浪人生は思いました。
大学生は美しい女でした。言うまでもなく、浪人生は大学生を愛しているのです。
重ねて言うまでもなく、その愛は隠され、仕舞われているのです。
大学生「元気?」
浪人生「それなりに。君は?」
大学生「毎日、楽しいよ」
浪人生「それは、良かった」
言葉とは裏腹に浪人生は苦い顔をしていました。
大学生「じゃあ、またいつか」
浪人生「いつか」
大学生は去ってゆきました。
浪人生はひとつ溜息をつきました。
浪人生は歩き続けました。歩きながら独り言を続けました。
浪人生「そうだ。ぼくは彼女を愛していたのだ。ここ最近、ずっと思っていたのだ。彼女になりたいと」
浪人生「ぼくは門をくぐれない。空色の門も、若草色の門も。それは適切でないからだ」
浪人生「ぼくにとって適切な門があるはずなのだ。この街ではない、どこか遠いところに」
浪人生「ぼくは彼女に……大学生になりたい」
浪人生はしばらくすると家に着きました。
静かでした。いちめん、白い空間が広がるのみでした。
浪人生「この街には誰もいない。ぼく以外誰も……」
浪人生「皆どこかへ行ってしまった……」
いつしか浪人生は声を上げて泣いていました。
どんどん、どんどん。ドアを叩く音がします。
高校生「浪人生さん、どうされました」
浪人生はドアを開け、高校生を部屋へ入れました。
高校生「どうして泣いていたのですか」
浪人生「寂しいからだ」
高校生「寂しい……?」
浪人生「ぼくは独りなのだ。この街にはぼく以外だれもいない。皆どこかへ……」
高校生「馬鹿なことを言うものじゃない。今だって、ここにぼくがいる」
浪人生「いや、いないよ。誰も」
高校生「え?」
浪人生「きみは……、いいなあ。この街を出てゆかなくても満たされているんだ」
高校生「たしかに、ぼくは毎日充実していますよ」
浪人生「あの若草色の門の向こうに何でもあるんだ。ぼくだってかつてはあそこに行くことができた。
でももうあの門は開かないんだ」
高校生「浪人生さん……」
浪人生「ぼくは独りだよ。だって、君はぼくだから」
高校生「……」
気がつけば高校生は消えていました。いいえ、もとから高校生などいなかったのかもしれません。
浪人生「思い出は、憧れとはならない」
浪人生はそのまま眠りに落ちました。
目が覚めたときには正午を回ろうとしていました。
浪人生「今日も散歩か」
浪人生は田畑の多い、中学校の方へと向かいました。
途中で、また昨日の中学生と遭いました。
中学生「昨日は、どうも」
浪人生「いや」
中学生「何だか、ずいぶんと悲しげな顔を。どうかされたのですか」
浪人生「寂しいんだ。この街にはぼく独りしかいない」
中学生「そんなことはありませんよ。少なくとも、わたしがいます」
浪人生「どうかな」
すぐに中学生は消えてなくなりました。
浪人生「ほら。きみなんて人はもとから存在しない。きみは彼女だったのだから」
浪人生の前を寂しい秋の風が吹き抜けてゆきました。
浪人生「この街には人がいない」
浪人生「たくさんいるように見えても、見せかけだ」
浪人生「ぼくがいる。遠い過去のぼくがいる。彼女がいる。遠い過去の彼女がいる」
浪人生「結局、一人の人間がいるだけだ。かつて手にしていたもの、手に入らなかったもの。
手に入れるはずだったもの……」
大学生「おや、今日も遭うとは」
浪人生「中学生が消えたから、君がぼくの前に現れたんだ」
大学生は相変わらず静かな笑顔を浮かべていました。
浪人生「君はかつて中学生だったのだろう」
大学生「ええ」
浪人生「ぼくはかつて高校生だった」
大学生「知っているよ」
浪人生「ぼくも君も、すべてもっていた。あの門の向こうに、何もかもあった」
大学生「浪人生の門は、今」
浪人生「ないよ。ぼくは君になりたかった。ぼくは大学生になりたかった。
この街には過去のぼくがいた。じゃあ未来のぼくもいるのかな」
大学生「ここに」
浪人生「そうだよ。きみはぼくだ。ただし、実現しなかった未来だ。君、歳は」
大学生「十九」
浪人生「ぼくも十九だ。ぼくの叶わなかった未来は、本当は現在であるはずだった」
大学生の姿がかすんできました。
浪人生「ほらな。この街には誰もいないんだ。過去のぼくと、今のぼく。
過去の君と、今の君。だけど結局君も、叶わなかった未来のぼく。そうあるはずだったぼくの今」
大学生「お別れか。寂しいな」
浪人生「好きだったよ。大学生」
大学生「そう」
ついに大学生も消えてしまいました。
浪人生の前にはいつの間にか桜色の門がそびえていました。
門の向こうから現れたのは、あの帽子を被った小さな男の子でした。
小学生「……じっさいに話をするのは初めてだね」
浪人生「顔は憶えていてくれたのか」
小学生「そりゃ、憶えるよね。あれだけ毎日すれ違っていれば。……ねえ」
浪人生「なんだ」
小学生「ぼくの名前、何だと思う」
浪人生「『遠い遠い過去の自分』とか」
小学生「そう呼ぶのも間違いじゃないね」
浪人生「きみの答えはなんだ」
小学生「いつも自分の周りをうろついているけれど、決して話しかけてこない者。
平たく言えば――『死』だよ」
浪人生「なるほど。合点がいった」
小学生「その腕に抱かれるのは、手からこぼれていったものたちへの未練と、
手に入れることができなかったものたちへの憧れ。……怖いかい?」
浪人生「いや、助かったよ」
小学生「……そうか」
浪人生「じゃあな」
浪人生が手を振ると、小学生は消えていました。
浪人生「結局、ぼくしかいなかったわけだ」
浪人生はその場に寝転がりました。
浪人生「空が晴れていて気持ちがいい。こんなとき、最後になんて言おう。
やっぱり、これかな。
……大学生になりたかったよ」
浪人生は死にました。
それと同時にこの街も閉じられました。
おしまい
(去年一年間宅浪していた際の心象風景)
まあ俺はハッピーエンドだったんだけどね
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