エレン争奪戦(248)
か
俺は生きた心地のしない面持ちを押し隠すと凍りついたサシャの肩を支えてやった。
どこの世界に秘め事を除かれ平静を保てる人がいようか。
それが身近な人間に見られたとなれば尚更だ。
茂みの中での情事とは言え、覗かれた事実に揺るぎはない。
居直るべきか、恥じらうべきか、それとも説得力の云々はさておき、怒ってしまうか。正直、決めかねていた。
そんな俺の胸中を察してかどうかは分からないが、ミカサはくるりと背を向けると足早に去っていった。
「・・・見られちゃいましたね」
おずおずと呟いたサシャに俺は気にするなよと口づけながら囁いてやる。
虚勢であろうが構わない。
女に恥をかかせる事だけは俺の自尊心が許さなかった。
「あ、悪い。シャツのボタン、俺が千切ったんだよな」
困って頭をぽりぽりと掻く俺を見たサシャはくすりと笑いながら優しいキスをしてきた。
「いいですよ。縫えばそれで直りますから」
俺達は少しの間、照れくさそうに向かい合った。なんにせよ、互いが冷静さを取り戻したのは幸いだった。
ぎくしゃくしたまま戻るわけにもいかない。
二人で並びながらの帰路の道中、俺はサシャに聞こえないように溜め息をついた。
面倒な事になってしまったと思うが後の祭りだ。どう転ぶにせよ、ミカサとは腰を据えて話さなければならないのだろう。
頭痛の種は尽きそうにない。
予め、どんな言い訳を話そうか予習しておいたのは正解だった。
先輩方の詰問にすらすらとでまかせを並べ立てる。
馬にからかわれ作業が思うように捗らなかったと尤もらしい言い分を主張してみた。
和らぐ雰囲気。そして畳み掛けるように当番制の食後の片付けを一手に引き受ける事で難は去った。
こんな程度であれこれと不粋な詮索を受けずに済むのなら安いものだ。
人気の無い炊事場で俺は山のように積みあげられた皿を意気揚々と鼻歌まじりに濯いでは清潔な布巾で磨いていた。
兵長では無いが、俺自身、掃除や炊事の類いはここにきて随分と達者になったものだと思った。
自分の行動が即、結果として反映される。
短絡的ではあるが、成果が目に見てとれるというのは良いものだと浸る。
背後に気配を感じた。
おおよその察しはついていたが、案の定だった。
「よう、クリスタ」
俺は後ろにちらりと一瞥をくれると皿磨きに精を出した。
蝋燭の照らす灯りがもじもじとするクリスタの仕草を影にして伝えてくれる。
上機嫌のままに仕事を終えた俺はエプロンを剥ぎとりながら振り返った。
すかさず、とん。と預けられる身体。
小さな手が俺の服をぎゅっと握る。
すこしばかり戸惑いながらも今は何も言うまい。
そう思うと、そっと抱きとめてみた。
一度はびくんとしたが、安堵したのか今度は全身を預けてきた。
匂いたつような女の香りが心地よい。
俺はそっとクリスタを引き離した。
忽ち顔を赤く染める彼女。顔はこちらを向きながらも、視線を泳がせた。
「どうした?言わなきゃわかんないだろ?」
小さな子どもをあやすように話しかけた途端、クリスタはごめんなさいと口を開いた。
彼女曰く「好きって気持ちをどうにも言葉で伝える事が出来なくて衝動的にエレンを拐ってしまったの」だと。
彼女は彼女でエルヴィン団長のお説教を受けたそうだ。あまりとやかく言うのも酷だろう。
寧ろ、誰もかれもが口裏合わせと猿芝居に神経を注いだという滑稽さに苦笑いしそうになる。
いいように弄ばれた怒りなど、とうに消え去っていた。
「俺の事を好きって言ってくれるのは嬉しいけど、時と場合と・・・まあ、俺の気持ちを考えような?」
消沈な面持ちでこくりと頷くクリスタ。
俺は緊張を溶かそうと頭を撫でてやった。
「これからも、エレンの事を好きでいていいの?」
おそるおそるクリスタが尋ねてきた。
「巨人を駆逐するまでは、応えてやれるかわかんないけどな」
はにかみながら答えてやった。
俺の言葉はさながら軽薄な女衒のそれと大差なかっただろう。
取って喰うわけで無ければ娼館に売り払うわけでもない。
とりあえずは『保留』を望んでいるのだ。
卑怯ではあるが、やっぱり俺は巨人を根絶やしにする事。そして自由な世界に飛び出すまでは、色恋に関してはどうにも熱心にはなれない。
肉欲に流されてしまう事に関しては立つ瀬が無いが。
クリスタを部屋に送った後、俺は城の中庭で腰を下ろした。
柔らかな芝生は下手な椅子よりも座り心地が良い。
センチメンタルを気取るわけではないが、眠る前に夜風に当たるのがこのところ習慣になっていた。
鎖で張り付けにされていた地下牢暮らしの反発なのだろうか。
或は、めくるめく性の目覚めから来る火照りからか。
どちらにせよ、この時だけは穏やかな心でいられた。
ふと、閉ざした瞼に明るさを感じた。そして聴覚に届く声。
「あれ、エレン?こんな所で何やってるの?」
ゆっくりと開く瞼に松明の灯りが差し込む。その眩さに思わず手で目を隠す。
浮かぶシルエット。かけられた声に混じる親しみの感情。
「・・・ペトラさんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
薄明かりにもはっきりと見てとれる栗色の髪。穏やかな瞳。
調査兵団の精鋭部隊に属する俺の先輩であるペトラ・ラル女史その人だった。
時刻は日付を越える手前。
万一があってはならないと団長の計らいで女性の夜間巡回や出歩きは禁じられていた。
荒々しい男が集う調査兵団の本拠地。それを抜きにしても、深夜に女性が一人歩きというのも誉められた事ではない。
「もうじき、壁外調査でしょ?装備や備品の点検をしてたら遅くなっちゃって」
屈託のない笑顔と真っ直ぐな瞳。嘘を言っていない事は明らかだ。
「兵士としての職務に対する忠勤、感服致します!」
俺はすっくと立ち上がり敬礼の姿勢をとると、わざとらしく言ってみた。
「なあに、畏まって。でも、随分遅くなっちゃったわね。私はもう部屋に戻るけど、エレンも早く寝るのよ?」
くすくすと笑いながらペトラさんは俺に母性的な気遣いを見せる。
その瞬間、喉がごくりと鳴った。そして心はまたしても疼きだす・・・
「ええ、俺も充分、風に当たったら地下に戻ります」
俺の言葉に睫毛をぴくりとさせるペトラさん。
誰だって閉塞された地下で寝ますと言われ良い気にはならないだろう。
「そっか・・・エレンは調査兵団に入団する直前からずっと監視されながらの生活だもんね・・・」
立場はどうあれ、その境遇を知る者にのみ許された心の距離。
俺は静かにその距離を縮めようと試みた。
「でも、今日はこうしてペトラさんとお喋りできたから、ゆっくり眠れそうです」
目上と目下の関係を一足飛びに越えるための呪文。
明らかに異性として意識していると含みを持たせたその台詞は彼女の心に俺を植え付けるには事足りていた。
事実、ペトラさんは調査兵団きっての花形だ。
遠からず親しみを覚える者も多いがそこは何分、偏屈者の集う組織。
二の足を踏む者、屈折した表現をする者、あるいは空回りに終わる者と様々だ。
彼女も御多分に漏れずリヴァイ兵長に格別の想いを持っているようだが、その想いを遂げられずにいた。
実際、その気持ちを衆道にご熱心な兵長に告げてどうなるかは想像の範疇を超えている。
だが、俺にとっては好都合だった。
口説くならストレートな位が丁度良い。
まずはその布石を打つ。ゆっくりと、そして大胆に。
――全ては己の欲望のままに――
「もうっ、エレン!お酒でも飲んだの?」
語気が少し強いのは思いがけない気障な台詞のせいだろう。
「素面ですよ。第一、新兵がそんな事したらオルオさん辺りにこってり搾られます」
俺はあくまで本心からだと主張した。
素直な言葉に彼女は納得の表情を見せた。
「それもそうか。もう、お上手ね」
こほんと咳払いをすると、年上の余裕を見せようとする。
「ペトラさんが綺麗なのは本当の事ですから」
今回はここまでが妥当だろう。俺は切り上げる事にした。
「また、俺とお喋りしてくださいね」
よかったら。も、ぜひ。も必要ない。
有無を言わさぬ位で締めくくる事で尚も俺の印象を強める。
「年上をからかわないの!ま、まぁ・・・たまには、ね」
くすぐったくなる照れくささが形の良い顔に広がるのを俺は見逃さなかった。
「じゃあ、おやすみなさいペトラさん。良い夢を」
去り際に笑顔を浮かべながら俺は戸惑うペトラさんを余所に地下牢へと歩き始めた。
男所帯の中で彼女が純潔を保っていられるのはエルヴィン団長の統制が行き届いているのか、はたまた朴念仁揃いだからか。
考察してみるが忽ち止めた。
曲者揃いの調査兵団に常識などという一般論を持ち込む事自体がナンセンスだ。
地下牢の見張りを担当する兵に軽く挨拶する。
俺に反逆や謀反の意思無しと判断されたものの軍規は軍規。
多少の自由は許されど、最後はここに戻らなければならない。
じめじめとしたかび臭い地下牢だが、悪くないと思いはじめた。
色を覚え、楽しみが出来たのだから。
鉄格子の扉に錠をかけると彼は地上への階段を上っていった。
重苦しい金属製の扉が音をたてて閉じる音が聞こえた。
どっかりとベッドに倒れこむと仰向けに寝転がる。
ああ、ミカサの事、忘れていたな。
目を瞑りながらようやくその事を思い出す。
サシャとの情事を他人に口外する事は無いだろうが彼女の名誉の為にも明日は念を押しておこうと思った。
睡魔がじわじわと俺の身体を蝕む。
心地好い眠りが、安らかな夢を運んでくれる。
ペトラさんに言った言葉がそのとおりになりそうだ。
冷たい手が俺の頬に触れる。
俺は慌てて飛び起きようとした。
上体は少し浮いた所で金縛りにあったかのように硬直した。
俺の身体に馬乗りになった者の身体で遮られていたからだ。
寝込みとはいえ、接近を許してしまうのは不覚以外の何物でもなかった。
ただ、相手は俺の命を奪おうとする手練れの暗殺者ではなく、家族だったという事だ。
「どうやって入って来たんだよ・・・ミカサ」
松明と蝋燭の灯りが固く強張ったミカサの顔を照らしていた。
今回はここまでです(`・ω・)
次回は早くて日曜日の晩になると思います。
何処をどう間違えて好色一代男になったのだ・・・
ではまた!ノシ
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