クリアファイルをうちわ代わりにぱたぱたとさせながら歩く私の横を、自転車に乗った小学生の一団が猛スピードで通り抜ける。
先頭を走る少年の自転車の前カゴには、大量の水風船が入っていた。
きっと、これからどこかの公園で大きな戦争があるのだろう。
涼しげでいいなぁ。
服が濡れることや、びしょびしょで家に帰って親に叱られるなんてことは、彼らの頭の中にはおそらく微塵もない。
そんな無邪気さを、少し羨ましく思った。
蒸し蒸しとした空気と照りつける太陽によって、何をしていなくともじわぁっと汗がにじむ。
シャツは既に肌にべっとり貼りついてしまった。
「あつい……」
口に出すと、よりいっそう暑さが感じられる。
言わなきゃよかった。
夏休みと言えども、高校三年生のそれは碌なものではない。
うるさい母と蝉の声に起こされ、夏期講習と言う名の地獄に朝から晩まで放り込まれる。
二十三時前に帰宅して、ダイニングテーブルでラップをかぶっている冷めたご飯をもそもそと食べ、自室へ戻ると、また明日の夏期講習の予習やら確認テストの対策やらに追われる毎日の繰り返しだ。
たまの休みが得られても、両親は口を開けば「勉強は、勉強は」と私をまくし立てる。
そんなだから、家にいるとかえってストレスがたまる一方だ。
とは言え、気分転換に遊びに行こうにも、友人たちも同じような状況で急に約束を取り付けられるはずもない。
私は、十八にして生まれて初めて、夏休みを苦痛に思うのだった。
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○
はぁーあ。
大袈裟にため息をついてみても、何か状況が好転するわけでもないが、ため息でも吐かなければやっていられない。
だから私は今日何十回目かのため息を吐くのだった。
気分転換に、と口うるさい親と勉強から逃げるようにして家を出たものの、こんな田舎ではやれることは限られている。
小学生の頃は男子に交じってカブトムシやらクワガタムシやらの捕獲であったり、川での釣りであったりと自然の中での遊びに興じたものであったが、今となってはそんなことをしていては周囲の女友達に白い目で見られてしまうこと請け合いだ。
そうして私は、やることも定まらないまま足の向くままにふらふらと歩き回った末に、暑さに耐えられなくなって、馴染みの駄菓子屋さんへと転がり込むのだった。
「おばちゃーん! かき氷!」
お店に入る前から大声で、奥にいるおばちゃんにかき氷を求める。
おばちゃんは最近めっきり耳が遠くなってしまったらしく、これでも聞こえているか怪しい。
すると、おばちゃんのお店から、ひょこっと麦わら帽子が顔を覗かせた。
あれ、先客がいたか。
そう思ったところに一陣の風が吹いて、やたらと大きな麦わら帽子が宙に舞った。
ふわりふわり、と空を漂ったあとで、それは偶然にも私の手元へと着地する。
視線を手元の麦わら帽子から、もう一度お店の方へと向ける。
そこには、長い黒髪が綺麗な、背の高いお姉さんがいた。
その美貌に何故だかどぎまぎとしてしながら、麦わら帽子を返還する。
お姉さんは少し気恥ずかしそうに、あははと笑って受け取り、私にお礼を言う。
「ありがとね。……それと、お店の人いなくて、ちょっと困ってたんだけど、そうやって呼ぶんだね」
「ああ。ここのおばちゃん……って言っても、もうおばーちゃんって感じなんだけど、こっち的にはちっちゃい頃からおばちゃんだったしおばちゃんで……ってそんなことはどうでもいいですよね。えっと、最近耳が遠いみたいで」
しなくてもいい説明をあたふたと繰り返す私。
それもこれもこのお姉さんがやたらと美人過ぎるのがいけないと思う。
私がコミュニケーションが苦手とか、そういうのではないはずである。
決して。
「だから、こうやって。……おばちゃーん! って呼ぶんです」
「ぷっ、あはは。すごいね声」
あれ? 私はなにかおかしなことを言っただろうか。
そんな疑問が浮かびかけたところに、お店の奥から、おばちゃんのいつもの「はーい」という声が返ってきた。
「ほんとだ」
「でしょう?」
意味なく得意気になる。
しかし、このお姉さんはどう見てもこの辺りの人ではなさそうだ。
「あら。みーちゃん、いらっしゃい。また背が伸びたんじゃない?」
出てきたおばちゃんは私を見るなり、そう言う。
これはもうかれこれ四、五年会う度に言われているが、私の身長は残念ながら中学生でほとんど止まっている。
「伸びてないよー。もうずっと変わってない。成長止まっちゃったんじゃないかなぁ」
「まだまだこれからよ。それで、そちらの方は?」
おばちゃんの視線が隣に移る。
そこで、はたと気付く。
そういえば、この人の名前も目的も何も知らなかった。
「あー、えっと。なんでしたっけ?」
助けを求めるように、お姉さんの顔を覗き込む。
すると、お姉さんはにこりと微笑んで「渋谷、と申します。私の住んでいるところでは駄菓子屋さんって珍しくて、それで入ってみたんですけど」とすらすらと言った。
すごい、大人っぽいなぁ、と思った。
「あら、そうなの。じゃあ気が付かなくてごめんなさいねぇ」
「いえ、丁度……えっと、みーちゃんさん? が来てくれたので」
「ふふ。そういうことね。みーちゃんありがとねぇ」
みーちゃんさん、と呼ばれるのはなんとも不思議な感じだが、ここで私が口を挟むのも面倒なので素直に流す。
「それで、えっと。私はかき氷! いちご! 練乳多くね!」
「じゃあ……えっと、私も。味はえっと、ブルーハワイで」
私たちの注文を聞いたおばちゃんは「はいはい」と言って、またお店の奥に下がっていく。
「なんかまた助けてもらっちゃったね」
「助けるなんて、そんな大したことしてないですよ」
「でも私はあんな大きな声出せなかっただろうし」
「あはは……えっと、お姉さんは駄菓子屋とか来たことあんまりないんですか?」
「うん、そうだね。あんまりないかも」
「じゃあ都会から来たんですか?」
「都会? うん。そうだね。都会から」
「へぇー! すごいなぁ。じゃあびっくりしましたよね! ここ何にもなくて」
「うん。でも良いところだね。時間がゆっくり流れてるみたいで」
「そうかもしれないですね。この辺の人はすごいのんびりまったりで。お姉さんはなんでこんなとこに来たんですか?」
「お仕事の用事で、ちょっとね。今日は好きにしていい、って言われたから歩き回ってたんだ」
「なるほどー。でもなんでそんなおっきな麦わら帽子かぶってたんですか?」
「一緒に来た人がさ、田舎と言えば麦わら帽子! とか言ってて」
「あはは! 変な人ですね!」
「うん。ほんとに変な人なんだ」
「だけどお姉さん美人だから目立つし、麦わら帽子かぶるのはいい作戦かもですね」
「美人? 目立つ?」
「だって近所にこんなスタイル良くて美人いないですもん」
「ふふ、ありがと。そんなに見覚えない顔だった?」
「……? どういう?」
「んーん。私もまだまだ、ってこと」
お姉さんはまたしてもにこりと微笑む。その笑顔に同じ女であるのにどきりとしてしまうから不思議なものだ。
やがて、おばちゃんがお盆にかき氷を二つ乗せて戻ってきた。
「はい。いちごとブルーハワイね」
「わー。おばちゃんありがとー」
「百円ね」
おばちゃんに言われて、お財布からお金を出そうとしたところ、お姉さんが先に百円玉を出してしまった。
「え」
「いいからいいから。助けてもらったお礼」
「じゃあ、その、ありがとうございます」
お言葉に甘え、私はかき氷を奢ってもらってしまうのだった。
しゃりしゃりとかき氷を食べながら、お姉さんと他愛のない話を繰り広げる。
お姉さんが犬を飼っていることだとか、ちょっとお花について詳しいらしいことだとかを、ふんふん言いながら私は聞いていた。
「そういえば、お姉さんはここで最初は何を見てたんですか?」
「ん。特にこれと言っては……あ、でもアレは気になったかな」
お姉さんは指で壁際の棚を指で示す。その指の示す直線上に目をやると、そこには水風船が入った袋があった。
「水風船? ですか?」
「うん。気になって」
「え、もしかして水風船やったことないんですか?」
「うん。ない」
お姉さんの顔と水風船を交互に見る。数秒考え込んで、意を決して私は「じゃあ、やってみますか?」と言った。
「……いいの?」
「はい! 暇なので!」
「じゃあ、お願いしてもいいかな」
「もちろんです! おばちゃーん!」
また大声で奥へと引っ込んでいったおばちゃんを呼び戻す。
のしのしと戻ってきて「今度は何かしら」と微笑んでいるおばちゃんに「水風船、二つ!」とお金を押し付ける。
「はい、毎度。風邪引いちゃダメよ」
「だいじょーぶ! じゃあおばちゃん、ありがとね! お姉さん、行きましょう!」
私とおばちゃんのやり取りを眺めていたお姉さんの手を、ぐいっと引いてお店を出た。
お店の外は依然として太陽が猛威を振っていて、暑さに嫌気がさすけれど、水風船をするには絶好の天気だ。
こっちです、と五分ほど歩いた小さな公園へお姉さんを連れてきて、真っ直ぐに水道を目指す。
「暑いね……」
「でも、これくらいだとすぐ乾くから丁度いいですよ!」
「乾く? っていうか、それ、買ってもらっちゃってごめん。お金払うよ」
「いいですいいです! 私もちょっと久しぶりに遊びたかったので!」
お財布を出そうとするお姉さんの手を制して、ばりばりと水風船の袋を開けて、中から一つ取り出す。
「まずはこうやって、口のところをびょんびょーん、って引っ張って……」
ひとつひとつのステップを説明する私と、それを目を輝かせながら聞いてくれるお姉さん。
美人だけど、こんなかわいい顔もできるのか。
「それで、水がこれくらい入ったら口のところをしばって……完成です!」
じゃーん、と出来上がった水風船を掲げる。お姉さんは「おおー」と控えめな拍手で応えてくれた。
「そしてですね。これをこうやって……」
完成した水風船を右手に持ち、大きく振りかぶる。
ぶんっ、と振りおろされた手から放たれた水風船は狙い通りに十メートルくらい先の木の幹に直撃し、ぱちーんと弾けて水をまき散らした。
「……すごいね」
「今の説明でわかりました?」
「うん」
「じゃあ最初は持ち球は三つにしましょうか」
「持ち球?」
「はい。一人三つずつ持って、戦うんです」
「戦う?」
「先に当たった方の負けで、お互い持ち球がなくなったら、また補充タイムです」
「…………なるほど」
「負けが多かった方は……そうですね……ジュース奢りで!」
「ふふ、うん。いいよ、乗った」
「決まりです!」
そうして、熱き戦いの火蓋は切って落とされたのだった。
○
カラスの声とオレンジに染まりゆく空で我に返る。
全身びしょ濡れの私と、肩で息をするお姉さん。
お姉さんは想像の五倍くらい強かった。
まずなんと言っても足が速い。
そして無限かとも思えるくらいのスタミナを備えている。
私の水風船は当たることなく、全て避けられ、私は追い回された末に水風船爆弾を見舞われる。
それを全部で十二回経験させられた。
最終結果は私の三勝十二敗。
しかもその三勝は、最初の一回の油断していたお姉さんに不意打ちを決めたのと、お姉さんの自爆が二回だから、ほぼほぼ完敗と言っていいだろう。
「……はぁ、はぁ。……ちょ、っと……はしゃぎ過ぎたね……」
「…………………………はい」
「びしょびしょにしてごめん」
「いえ、私の弱さが理由なので」
「私も大人気なかったよね」
「いえ、そんなことは」
「ジュースは私が奢るよ」
「え」
「これは絶対。私が奢るから」
「じゃあ……その、ごちそうさまです」
そうしてジュースを奢ってもらい、しばしの談笑の後に、お姉さんが「あんまり遅いからお迎え来たみたい。もう帰らないと」と言った。
お姉さんが視線で示した先には、一台の車が停まっている。
「あ、もうこんな時間ですもんね」
「うん。今日はありがとね。楽しかったよ」
「いえ、私も楽しかったです」
「なんなら家まで送るけど、大丈夫?」
「シート、びしょびしょにしちゃうので」
「あはは。気にしなくていいよ」
「そんなわけにもいかないですって。それに、ここから家、近いので」
「んー。そっか」
「はい」
「じゃあ、改めて。今日はありがとう。またどこかで見かけたら声かけて欲しいな」
「ええ、是非!」
「あ、そうだ。来週のさ、火曜日。夜の十一時からやってる○×ラジオってやつ、私好きなんだけど。……その、良かったら聞いてみて」
「……? えっと、はい!」
「うん。じゃあまたね」
ひらひらと手を振って、お姉さんは車の方へ行ってしまう。
私はその車の後ろ姿が見えなくなるまで、ぼんやりと見送っていた。
○
美人との水風船戦争から一週間経ち、私は勉強漬けの毎日に戻っていた。
そして今日も、早朝からの長い長い夏期講習を乗り越え、ようやく解放される。
塾を出る頃には十時半を過ぎていた。
駐輪場に停めてある自転車にまたがり、家路を辿る。
むわっとする風を全身に受けながら、夜道を爆走していたところ、突然、一週間前の約束を思い出した。
――来週のさ、火曜日。夜の十一時からやってる○×ラジオってやつ、私好きなんだけど。……その、良かったら聞いてみて。
あ。
すっかりと忘れていた。
今日がその火曜日ではないか。
ケータイで時刻を確認する。
まだ間に合うはずだ。
サドルから腰を上げ、立ち漕ぎの姿勢で、いっそう強くペダルを踏んだ。
○
家に着いたのは、十一時まであと五分というところだった。
ダイニングテーブルのご飯には目もくれず、階段を駆け上がり自室を目指す。
無造作にベッドに荷物を放り投げ、机上のオーディオプレイヤーを操作して、ラジオに切り替えた。
「○×ラジオ……○×ラジオ……」とインターネットで放送局を調べ、ようやく周波数を合わせられた。
軽快な音楽が流れ、陽気そうな女性の声が聞こえてくる。
『こんばんは。火曜二十三時、○×ラジオのお時間です』
そういえば、なんでお姉さんはこのラジオをお勧めしてくれたんだろう。
などと、ぼんやり考えながら、ダイニングへと夕飯を取りに行った。
夕飯を持って、再び自室に戻ってくると、ラジオは丁度ゲストの紹介をしているところだった。
『今日は豪華なゲストにもお越しいただいております!』
『はい。お招きいただきました。渋谷凛です』
『なんでも今日は凛ちゃん出演するドラマとその主題歌の宣伝で来てくれたとか』
『はい。つい先週、ミュージックビデオも撮ったばっかりの曲なんですけど』
『へぇー! なんだっけ。今度の曲は田舎イメージ? なんだっけ?』
『はい。なので、この前までは自然に囲まれてました』
『ははは。だったら東京生まれ東京育ちの凛ちゃんには新鮮だったんじゃない?』
『そうですね』
『なんか面白いこととかあった?』
『あー。一つ、すごいのが』
『聞かせて聞かせて』
『知らない女の子と水風船投げ合って遊びました』
ご飯を食べていた手が完全に止まる。
え。
いま、なんて。
『その子は? 凛ちゃんがあの渋谷凛だとは気付かず?』
『たぶん』
『あははー! そりゃすごい体験だ!』
『ふふ、ですね』
どうやら私は渋谷凛に、今を時めくトップアイドルに水風船をぶつけ、かき氷とジュースを奢らせたらしかった。
おわり
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