彼女は窓フェチの変態だった (174)
【1】
白い空間に、俺は立っていた。
壁も床も純白で、天井はなく、青空が広がっている。かと思えば、音もなく白い天井がゆっくりとスライドしたりしていた。
空中にも白い立方体やら球体やらが浮かんでいて、現実味がない。
しかし、俺はそれらを不自然に思うことなく、歩き始めた。
カツン、カツンと、俺の踵の音だけが響く。
何処までも白い壁が続くのかと思ったが、奥へ進むと今までとは違う景色が見えた。
壁が白いことは変わりないが、その壁にはいくつもの窓があった。
それぞれデザインが異なっており、先に広がる景色もバラバラだった。
西洋風のゴテゴテしたものもあれば、一般的な民家にありそうな窓もある。
そして、壁の前には黒いコートを身に纏う1人の青年が立っていた。
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「やあ」
青年は微笑んで口を開いた。
まるで昔馴染みの友人に話しかけるかのような、明るい声色だ。
黒い髪は微妙に青みがかっていて、この世のものとは思えないほど顔立ちが整っている。
瞳も似たような色をしていて、とても日本人の姿には見えなかった。
かといって、外国人の顔というわけでもない。地球人でさえないのかもしれない。
「ようこそ。ここは心象世界。眠っている間だけ訪れることができる場所」
心象世界――心象風景が描かれた世界ということだろうか。
眠っている間だけ来ることができるというのなら、夢の世界と同義ではないだろうか。
それとも、単なる夢とは異なるのだろうか。
疑問に思いつつも、俺は何故だかそれを口にすることはなかった。
既に答えを知っているような気がした。知ってなどいないのに。
それより、俺は青年のことが気になった。
「君の名前は」
「好きに呼んでいいよ。僕は特定の名前をもっていない。かつてはあったような気がしたが、忘れてしまったよ」
青年は肩を竦めて笑った。胡散臭い雰囲気の持ち主だが、不思議と悪い印象はない。
「じゃあ、俺が君に変なあだ名を付けても構わないのかい?」
「あまりおかしいと、ちょっと困るね。じゃあ――」
青年は手に顎を当て、考えるような仕草をした。
「クォ・ヴァディスとでも名乗っておこうか」
それは、何処かで聞いたことのある響きだった。
思い出されたのは、気まぐれに受けた教養科目の授業の風景だ。
教養科目の単位は既に足りていたが、仲の良かった誰かがラテン語の授業を受けたいと言っていて、自分も興味を惹かれたので受講していた。
『何で受けようと思ったんだよ』
『生物の学名にはラテン語が使われてるでしょ? そこから興味もったんだよ』
覚えていることは、教員がホワイトボードに聖書の一節を書いたことと、俺の隣に座っていた“誰か”が教員に当てられ、その訳を答えたことだ。
クォ・ヴァディス。何処へ行くのか。
「僕の行方は誰にもわからないし、何処から来たのかさえ曖昧だ。だけれど、そんなことはどうだっていい」
クォ・ヴァディスの微笑みは天使のように美しいが、秘める妖しさはまるで悪魔だ。
「僕は君の行く末を見届けることを楽しみにしているんだ。さあ、選びなよ。君は、まずどの窓へと進むのかな」
窓、いくつもの、窓。そのほとんどに見覚えがあるような気がしたけれど、全く見たことがないものもある。
ここが俺の心象世界だというのなら、何故俺の心には到底存在していなさそうなものがあるのだろう。
違和感を覚えながらも、俺はとりあえず心地良さを感じる窓枠へと手を伸ばした。
白く塗装された木の枠の、綺麗な窓。
「君の忘れ物を探しに行くんだ」
青年の声が耳に届くと同時に、窓から放たれた眩い光に包み込まれた。
青い空、白い雲、緑の草原。小さな丘陵。Windows XPのデスクトップ背景を彷彿とさせる風景だ。
XPを使っていた期間が長かったからだろうか。
使うOSがVista、7、8、10と代替わりしていっても、Windowsと聞くと、俺は草原を連想する。
確か、あの写真はBlissと名付けられていた。その意味は、無上の喜び、至福。
この空間には喜びと生命力が溢れていた。
草からは、光合成によって生み出された酸素が光の玉となって空気中に放出されている。
そよぐ風は爽やかで、肺が新鮮な空気で満たされていくのを感じた。
振り向くと、白い枠の窓が宙に浮かんでいた。
硬く閉ざされていて、窓の中へ入ることを拒絶されているように感じられた。
再び前を向き、歩を進める。
Windows XPを起動する度、この丘の向こうにはどんな風景が広がっているのだろうと、見えない先に思いを馳せたものだった。
ここはBlissそのものではないが、よく似ている。
丘の向こう側を見たい一心で、俺は進んだ。
きっと、この先もずっと美しい草原が広がっているんだ。そんな期待を秘めて。
しかし、丘の向こうにあるのは、底知れぬ崖だった。
崖にはたくさんの洞窟があり、その奥は真っ暗で見えない。
突然、空が黒く曇った。ワインの雨が降る。
見る見るうちに白いシャツは血のような赤で染められていった。
振り向くと、草原があったはずの場所は、朽ち果てたブドウ畑になっていた。
崖の更に向こうには、こちらよりも標高の低い陸地がある。
これが俺の好きなゲームだったら、ニワトリのような生き物を捕まえるなり、滑空用の布を広げるなりして向こう岸まで行けたのだろうが、生憎そんな都合の良い物はここにはなかった。
『探しているファイルがあるの。何処に保存したのかわからなくなっちゃって』
女の子の声が、頭の中に響いた。
同時に、ぼやけた映像が流れ始める。
『どんなファイルを探してるの?』
声変わり前の男の子の声……幼い頃の俺の声だ。
『あのね、料理のレシピなんだけど……』
女の子の返答を聞き、少年の頃の俺は、ファイル名や拡張子を覚えていないか女の子に尋ねた。
女の子は答えをぼかしたが、ファイル名を覚えてはいるようだった。
『検索機能を使えばいいよ。スタートボタン押して』
俺がそう教えると、女の子は『あっち向いてて』と言った。
俺は不満に思いながらも、女の子の言うとおりにした。
遠い過去の記憶だ。まだ、XPを使っていた頃の。
そうだ。俺は、この崖に潜って探さなければならないものがある。
階層を降り、全ての道を探索し、どれだけ時間がかかったとしても。
決意を固めた瞬間、クォ・ヴァディスの声が聞こえた。姿は見えない。
「ところがね、あまり時間はないんだよ。朝になって目が覚める前に、君は探し物を見つけなければならない。最低1つくらいはね」
最低1つくらいは。どうやら、俺は少なくとも2つ以上は何かを探さなければならないらしい。
さて、どうやって降りようか。
下へ降りたいと強く願うと、足元にツタが現れた。
「ここは心象世界であると同時に、君の夢でもあるからね。想いが強ければ、願いが叶う場合もある。限界はあるけれどね。MPを消費する、と言えばわかりやすいかな」
ツタは充分な太さと硬さがある。。
これは決して千切れない。何故か、確信があった。
「『夢覚』だよ。夢を見ている時、その後の展開が何故かわかったり、現実とは違う常識がいつの間にか思考に定着していたりすることがあるだろう?」
覚えはあった。
「触覚や視覚の一種みたいなものさ。君は、夢の中のことを感覚的に掴むことができる」
俺は納得し、ツタを掴んで崖を降りる。
探し物を見つけたい。この想いが強ければ、案外探し物はすぐにでも見つけられるのではないかと感じた。
暗い洞窟を進む。
明かりが欲しいと念じると、シャボン玉のような光が宙に浮かんだ。
洞窟の構造がなんとなくわかった。これも「夢覚」とかいうやつだろうか。
左手の道を進めば、写真がたくさん飾られた場所へ出る。
中央の道は動画の保管庫で、その次は文章を記したノート置き場。
一番右は気に入った音楽をいつでも聞ける空間だ。
行ってもいないのに、俺は既に知っていた。
目当てのものは、こちらにはない。
後方へ目をやると、来た道とは別の道があった。そうだ、こっちだ。
本当はノート置き場にあったはずのデータ。
保存場所を間違えたか、気づかない内にドラッグしてしまったかで、意図しない場所に置き去られてしまったもの。
道の明るさが少しずつ増していく。
見覚えのある扉が見えた。一体何処の家の扉なのかは思い出せない。
でも、俺はこの扉を開ける度、心が暖かくなっていたような記憶がある。
「お誕生日おめでとう!」
女の子がクラッカーを鳴らした。顔の部分はぼやけていて見えない。
だが、さっきの女の子の声と同じ声色だった。
テーブルの上には、誕生ケーキや、何品もの料理が並べられている。
リビングは派手に飾られていた。
「君の誕生日を祝うためにね、たくさんレシピ調べてたの」
女の子が探していた料理のレシピのファイルは、俺の誕生日パーティのために用意していたものだったのだ。
女の子が消えた。同時に、その場に存在していたはずの部屋も消え去った。
代わりに視界に広がったのは、灰色の洞窟。地面には、キラリと光る何かが落ちていた。
触れてみると暖かくて、でも何故だか切ない。
それは小さな光の玉だった。
拾い上げた瞬間、笑顔の女の子の姿がはっきりと見えた。
夢覚が俺に告げる。これは生命の欠片であり、誰かの心の結晶だと。
「最初のステージはクリアできたようだね。おめでとう。今夜はここまでだよ」
――
――――――――
窓から朝日が差し込んでいる。
奇妙な夢を見たなと思いながら、俺は体を起こした。現実感が精神に馴染んでいく。
顔を洗い、昨日買っておいたコンビニのサンドイッチを冷蔵庫から取り出して食べた。
そそくさとスーツに着替えて玄関へと向かう
1人で住むには少し広い部屋から出ると、見慣れた街並みが視界に広がった。
マンションの6階からの景色。
いつも見ている風景なのに、何かが足りないような、何も変わっていないような、変な感覚だ。
玄関のドアのすぐ横には、小さなつる植物の鉢を置いている。
葉っぱは全てハート型だ。確か、ホヤ・カーリーという名前だった。
植木屋や雑貨店に行くと、この葉っぱを1枚に千切って植木鉢に植えたものが、ラブラブハートという名前で売られているのをよく見かける。
なんでこんな可愛らしい植物育ててるんだっけと思いながら、俺は会社へ向かった。
続
【2】
「お前も大変だよなあ」
昼休憩中、同僚の坂田に声をかけられた。
「何がだ?」
「何が、って……お前、この前まですっかり憔悴してたってのに、今日は顔色いいんだな」
何を心配されているのかよくわからなかった。
「怪我の方も、もういいのか?」
「え、俺、怪我なんてしてたっけ? ……いって」
少しだけ腹が痛んだ。
「おい……大丈夫かよ」
坂田は心配そうな顔をしていたが、その後は適当に雑談をして仕事に戻った。
そして家に帰り、適当に夕飯を作る。
お気に入りの深い青緑色のガラス皿に食事を盛ると、少しだけ気分が明るくなった。
それからシャワーをした。
いつも通りの日常。同じことの繰り返し。だが、腹には見覚えのない傷跡があった。
洗面所にはコップが2つ並んでいて、それぞれに歯ブラシが入っている。
片方には硬さが「やわらかい」の歯ブラシで、もう片方は「ふつう」だ。
俺は「ふつう」の方の歯ブラシを手に取り、歯磨きをしてから布団に入った。
「やあ、また会ったね」
俺は再び心象世界を訪れていた。景色は昨晩と一緒だ。
唯一違っているのは、クォ・ヴァディスの姿だった。
昨晩の青年の姿ではなく、11歳ほどの少年の姿をしていた。
「僕は精神体だからね。物質世界の理から外れているんだ。だから時には子供であるし、若者の姿でいることもあれば、老人になることもある」
現実に生きている者であれば、成長・老化は一方通行だ。だが彼は違うらしい。
「そもそも、年齢だけでなく容姿そのものが不定なんだ。だから、心象世界の持ち主の記憶を探り、気に入った姿を借りて、話し相手にとって『認識しやすい』姿になる」
そういえば、彼の姿には見覚えがあるような、ないような。よくわからない。
夢の中のぽやぽやした意識では、現実の自分をいまいち思い出せないこともある。
「さあ、今宵はどの窓を旅するんだい?」
声変わり前の少年の声が問いかける。
俺は、なんとなく西洋風の窓に手をかけ、中に入った。
ヨーロッパの古い城にありそうな、細やかな装飾が施されている金属製の窓だ。
灰色の天井、壁、廊下。重い空気感のある城へと出た。
廊下には、等間隔で台が設置されており、その上には水晶がある。
透明、青、緑、黄、赤、紫、黒……色も形も、バリエーションは様々だ。
しばらく廊下を歩くと、いつの間にか紫色の水晶で埋め尽くされた洞窟に出ていた。
https://i.imgur.com/mECnvd1.jpg
まるで、巨大なアメジストドームの中にいるみたいだ。
所々に薄黄色の石もある。
進めば進むほど闇は深くなっていく。
だが、宝石が燐光のような光を放っていて綺麗だ。
突然嫌な予感がして、俺はしゃがみこんだ。
ガシャン
さっきまで俺の頭があった場所を、薄黄色の石が銃弾の様に通過していった。
薄黄色の石は俺の敵らしい。
異物を消し去ろうとする意思が感じられる。
……俺は、この薄黄色の石の弱点を知っている。
夢覚だろうか? 否、現実の知識だ。
アメジストと共生することがある黄色い石。カルサイト。別名、方解石。
主成分は炭酸カルシウム。水に弱い。
ここは洞窟の中だが、雨でも降らないかとイメージしてみた。
すると、雨雲が現れてザーザーと雨が降り始めた。
カルサイトは輝きを失っていき、動かなくなる。
洞窟の闇が晴れていった。
雨は紫水晶に染み渡り、紫水晶は葉を生やしながら穂状の花――アメジストセージへと姿を変えていく。
ここは最早洞窟ではなく、花畑と化した。ハーブの香りが風に乗る。
雲は凄まじいスピードで流れていき、赤い夕陽が世界を照らしている。
サーモンピンクの雲。赤から青へと変化するグラデーションの空。
夕陽に女性のシルエットが浮かび上がった。
「これね、私の誕生花」
彼女は1房のアメジストセージの花を摘み取り、穂の先端にキスをした。
「花言葉は“家族愛”。……私ね、あなたと家族になれる日がとても楽しみ」
こちらに振り向いて微笑む彼女は、俺のために料理を用意してくれた少女の成長した姿だとはっきりわかった。
「そろそろ帰ろっか」
彼女は花を左手に持ったまま、右手で俺の手を掴んだが、その瞬間彼女の姿は光の粒となって弾けた。
宙に放られた花は光の玉となり、俺の掌に入ってきた。
思い出した。
毎年秋になると、彼女の自宅の玄関には、彼女が摘んだアメジストセージが飾られていた。
時々俺の家の玄関にも飾らせてほしいと言って、花瓶と一緒に持ってきていたっけな。
「無事、欠片を集めることができたようでよかったよ。おめでとう」
少年のクォ・ヴァディスの声が頭に響いた。
「彼女」って誰だよ、というのが、目が覚めた俺の感想だった。
たまに以前見た夢の続きを見ることはあるが、こんな変な夢を二晩連続で見るなんて、そう滅多にあるもんじゃない。
支度をして会社に行かなきゃ……と思ったが、そういえば今日は休みだった。
のんびり朝食だとかを済ませ、暇つぶしのネタを探す。
漫画でも読もうかなと思い、本棚を見た。
「……なんだ? この漫画。俺のじゃないな」
背表紙には「絵夢の冒険記」と書かれている。
この間妹が遊びに来た時に忘れていったのかもしれない。
妹は今大学生で、近くに下宿しているから時々遊びに来るのだ。
気になって取ってみると、その表紙には、夢の中で出会った人物……クォ・ヴァディスとそっくりな少年が描かれていた。
紺色の髪に、藍色の虹彩。目には星空のような銀色が散っていて、妖しげに微笑んでいる。
漫画を流し読みしてみると、それは「ヴァルク」という名前のキャラクターだった。
棚には、同じシリーズの漫画や小説が何冊も並んでいた。アニメのDVDやゲームもある。
その中には、ヴァルクの青年の姿のイラストが印刷されたものもあった。
妹が忘れていっただけなら、こんなにたくさん置いてあるわけがない。
ここは、本当に俺の部屋なのだろうか?
嫌な汗が流れる。怖い。怖い。怖い。
よく見ると、棚の半分は俺が知らない作品で埋め尽くされていた。
部屋を見渡してみるが、ここは確かに俺がいつも暮らしている部屋だった。
昨晩うっかり隣の部屋に入ってしまったという可能性はなさそうだ。
俺は無性に誰かと話したくなり、妹に電話をかけた。
「なあ、『絵夢の冒険記』って知ってるか?」
『知ってるよーよく読んでる。&%$#&#ちゃんも好きだから、お兄ちゃんなら知らないはずないと思ってたけど』
「え?」
名前の部分が聞き取れなかった。
「今、誰ちゃんっつった?」
『だから、&%$#&#ちゃん』
名前だけ、音がごちゃごちゃしてやっぱり聞こえなかった。
変な加工を施されているみたいな感じだ。
「……なあ、お前って俺の部屋に勝手に漫画置いてったりしてないよな?」
『えー? &%$#&#ちゃんと貸し借りすることはあるけど、今は何もそっちに行ってないよ』
「……そうか。ありがとう」
俺は気が違ってしまったのだろうか。
とりあえず気を紛らわそうと思い、棚から適当にDVDを選んで再生した。
これも俺の知らないアニメだ。
主役のキャラが2人いて、片方はヴァルクにそっくりだった。
流石にこれはパクリだろうと思ったが、スタッフをよく見たら原作者が同じだった。
ネットでも調べてみた。キャラ同士の関連性は全くないが、容姿設定を流用したらしい。
そのアニメは1話目で見るのをやめた。
残酷な去勢シーンがあり、息子がすっかり縮こまってしまったのである。
こんな話の一体何処が面白いというんだ。
「――!」
突然、頭の中に映像が流れ始めた。
『うわあああん! 失恋したあ!』
この部屋で女性が何やら喚いている。
深夜アニメの放送が終わった直後のようだった。
『俺は君を振ってないはずだけど』
こっちは俺の声だ。
『好きなキャラが女だったのー! あーん!!』
女性はパソコンを立ち上げ、某巨大掲示板専用ブラウザを開くと、男装キャラのアンチスレに愚痴を書き込んだ。
思い出した。
彼女はそれから1週間落ち込みっぱなしだったが、なんだかんだで落ち込む原因となった深夜アニメをその後も視聴し続けていた。
最終回の放送後には大泣きしていたな。
彼女は余程そのアニメを気に入ったらしく、わざわざ円盤まで買ったのだ。
俺はそのアニメに興味をもてなかったから、放送中はいつも自分のパソコンの画面を見てばかりいた。
俺は確かに、この部屋で女性と同棲していた。
どうして忘れていたのだろう。
まだ、彼女に関する記憶のほとんどは思い出せない。
だが、こんなことを他人に話しても正気を疑われるだけだろう。
俺は怖くなった。一体誰に相談すればいい?
思い当たったのは、「ヴァルク」とそっくりな、夢の住民だけだった。
こうなったら寝るしかない。まだ朝だが、俺は酒の力を借りて眠りについた。
「何か問いたそうな顔だね」
クォ・ヴァディスは今日も微笑んでいる。
18歳くらいの姿だが、少しだけいつもと雰囲気が違っていた。体のラインが曲線的で、胸がある。
「……やっぱり、そっくりだな」
「言っただろう? 僕は、宿主の記憶にある誰かの姿を借りているって」
だが、俺は『ヴァルク』の姿なんて覚えていなかったし、多分記憶がおかしくなる前から大して印象には残っていなかったはずだ。
「ふふ。『ヴァルク』はシリーズ中さまざまな年齢で登場する上に、性別が『未確定』なんだ。僕という存在によく馴染むんだよ。まあ、細かいところは僕好みにアレンジしているけどね」
未確定? よくわからない。
「性別が固定されていないから、ヴァルクは自在に性別を変えることができるんだよ。男にも、女にも、中性や両性にだってなれる」
「その情報は、元々知っていたのか? それとも、宿主の記憶から拾い上げたのか」
「ふふふ。後者だよ。――さて、本題はこれじゃないだろう?」
「俺はどうやら大切な人のことを忘れているらしい」
「もう気づいたのかい? 意外と早かったね」
クォ・ヴァディスは、全てを見通していそうな目で俺を見た。
その銀河を映し出しているような見た目の虹彩に、吸い込まれそうになる錯覚に駆られた。
底知れない、無限の闇。人ならざる者が棲まう場所。生も死もない空間。
きっと、彼の目の先にはそんな世界が広がっている。
「君は、ここは心象世界だと言った。てっきり俺は自分の心象世界だと思っていたが、どうにも違和感がある。別の誰かのなんだろう?」
「そう、その通り。ここは、君の大切な人の心象世界だ」
名前さえ思い出せない、でも、確かに大切だった恋人。
「俺は一体何をしなきゃいけないんだ?」
「それは、君自身が知っているよ。この状況は、君が望んだものなのだから」
しかし、俺はそのことを覚えていない。
「1つだけアドバイスをあげよう。ここはあくまで他人の心象世界だ。だから――」
ピンポーン
インターホンの音で目が覚めた。
「おい森岡ー! いるんだろー!」
玄関から聞こえるのは坂田の声だ。
「なんだよ」
「お見舞い行くぞ」
「お見舞いって、誰のだよ」
坂田は眉を八の字に潜めた。
「やっぱお前も診察受けた方が良さそうだな。うっわ酒臭いぞ。歯磨きして着替えてこい」
言われるまま身支度をする。
洗面所に2つ並んだコップ。「やわらかい」硬さの歯ブラシが入っている方のコップは、俺のものではない。
一緒に住んでいた彼女の物だ。どうして気がつかなかったのだろう。
部屋をよく見渡せば、女物の服や雑貨が存在している。
俺は、これらを視界の中に入れていたにもかかわらず、その存在を正しく認識できないでいた。
玄関に出る。そこには、女物の靴も置いてあった。
「大丈夫か? 財布はちゃんと鞄に入れたか?」
「大丈夫……じゃないかもしれないけど、財布は忘れてない」
坂田に連れられて電車に乗った。
窓からの景色には見覚えがある。俺は、毎日のようにこの街並みを眺めていた。
坂田は時々神妙そうな顔をしたが、たまに雑談を振ってくれた。
「&%$#&#さんのことなんだけどさ」
「うん」
「入院する前、彼女も今のお前みたいになってたんだ。だから、すごく心配だ」
「そっか」
あれがただの夢ではないと、確信があった。
しかし、深く考えようにも、今俺がいるのは現実世界だ。
夢の印象が薄れて、細かいところまでは思い出せない。
電車の窓。建物の窓。高層ビルに張り巡らされた、無数の窓。
ガタンゴトン ガタンゴトン
ガタンゴトン ガタンゴトン
あの窓には、それぞれ別の世界が広がっているのだろうか。
それとも、ただ物理的な空間が続いているだけなのだろうか。
建物の更に向こうには、青い空が広がっていて、白い雲が流れている。
『窓に切り取られた空っていうのも、なかなか乙なものだと思うのよ』
誰かがそう言った。俺の頭の中で。
「おい、大丈夫か。ぼうっとしてるにもほどがあるぞ」
「あ……ごめん」
病院のにおいは全国共通だと思うのだが、海外の病院はどうなんだろう。
聞いたところによると、消毒液のにおいが充満しているのは日本の病院独特のものらしいが、それが事実かどうか確認する機会が訪れる予定は俺にはない。
俺は誰かと海外旅行に行く約束をしていたような気がする。
「えっと……確か、こっちの病室だ」
坂田が俺の様子をチラチラ伺いながら案内してくれた。
エレベーターで2階に上がる。降りると眩暈を感じた。体重が重く感じる。
白い病棟。四角い窓。延々と続いていそうな廊下。
「ほら、ここだ」
病室の前のネームプレートを見る。
【 ¥&‘{$@@’“#! &%$#&# 】
目を擦っても、やっぱり文字化けしていて読めなかった。
ここは本当に現実なのだろうか。
静かにスライドドアが引かれる。
病室に入ろうとした瞬間、視界がバグった。
続
【3】
「大丈夫かい?」
15歳ほどの見た目年齢のクォ・ヴァディスが、しゃがんで俺の顔を覗き込んでいる。
おかしい。俺は病院にいたはずなのに、いつのまにこっちの世界で倒れていたんだろう。
「今のも、夢だったのか?」
「いいや、正真正銘の現実だよ」
「視界がバグってぶっ壊れた」
「バグっているのは、君の方」
じゃあ、何故俺はバグってしまったのか。
「君は『彼女』を認識することができないからね。彼女の心の欠片を拾い上げたことで少しずつ認識することができるようになっているけれど、まだ現実の彼女と対面できる段階じゃないんだ」
「まだよくわからないが、あの光の玉を集めれば、全て理解できるようになるんだな」
「そう。君の記憶も蘇る」
窓を選ぼうとする俺に、クォ・ヴァディスは声をかけた。
「さっき言いそびれたことなのだけどね。ここは君の恋人の心象世界であり、君は異物だ。心象世界にあるモノが、悪夢となって君を排除しようとする。免疫機能のようなものだね」
この前黄色い石が襲い掛かってきたのは、それだったのか。
「排除されたら、どうなるんだ」
「ゲームオーバー。もうこの世界へは来られなくなる。ちなみに僕は助けてあげられないよ。ルール説明や助言程度ならできるけどね」
「君は、排除されないのか?」
「ふふ。僕はステルススキル持ちだから」
俺は素朴な木の窓に手をかけた。古い民家についていそうな窓だ。
「1つ、確認したいことがある」
「なんだい」
「君は、俺の味方なのか?」
クォ・ヴァディスは顎に手を当てて笑った。
「僕は君と契約したからね。契約の範囲内では味方をするよ」
契約とはなんなのか。きっと光の玉を見つけたら、答えがわかるのだろう。
森。何処までも続く、森。霧が立ち込めていて、視界は少々不明瞭だ。
時々、ゴォォ、ゴォォと低い風の音がしている。
なんだか物悲しい雰囲気のする空間だ。寂しい。
道は入り組んでいる上に、曇っていて太陽の位置を把握することは困難である。
方角も、時間も、何もわからない。
何か、音楽でも流れていたらいいのに。オカリナでも吹きたいな。
湿った地面を踏みしめる。
どうすれば光の玉を見つけられるのだろう。
試しに進んでみたが、気がつけば元の位置に戻ってきていた。
ここは、俺が好きなゲームの森に少し似ている。多分、彼女も好きだった。
なら、進むためのヒントも共通しているかもしれない。
音が大きく聞こえる方へ行けばいいんだ。
ゴォォォォォォ
ゴォォォォォォ
最深部へと進むと、一瞬視界が真っ白になり、灰色の町へと出た。
雨が降っている。
俺の地元そのものだった。否、今地元に帰ってもこの景色は見られない。
これは、子供の頃に見ていた景色だ。
フードを被った男が佇んでいる。手に持っているのは、包丁だ。
あれは、やばい。殺意の塊だ。
俺はじりじりと距離を開け、ある程度離れたところで背を向けて走り出した。
男が追いかけてくる。
鋭利な刃。死の恐怖。今にも破裂してしまいそうな心臓。
悪夢なら早く覚めてくれとも思うが、俺は探さなければならないものがある。
走る。走る。走る。
泥濘に足を取られそうになっても、必死に走る。
逃げている内に、いつの間にか俺の実家付近に出ていた。
玄関を開けて鍵を掛ける。
ドンドンドンドンドン
しばらく経つと、玄関の前から男の気配が来た。
俺はそろりとその場を離れ、靴を履いたまま階段へ向かう。
ガシャーン
窓が割れる音がした。玄関近くの部屋の窓を、男が割って侵入してきている。
俺は慌てて階段を駆け上った。男は大きく足音を立てながら追いかけてくる。
まだ上っている途中の男に椅子を投げ落とした。大したダメージを受けている様子はない。
ごついハンガーラックで殴ってみる。
男は階段の下に転がったものの、少し経ったらすぐに起き上がってきそうだ。
俺の部屋の窓の向こう側から、何か強い気配を感じた。あっちに行かなければならない気がする。
俺の部屋の向かい。――そうだ、彼女の部屋があるんだ。
俺とあの子は隣に住む幼馴染同士で、よく窓を開けて会話をしていた。
俺は窓を開けた。
彼女の部屋の窓は開いている。カーテンがヒラヒラと揺れていて、まるで誘っているようにも思われた。
飛べない距離じゃない。ジャンプすれば、届く。
懐かしい部屋。彼女のにおい。
しかし感慨に浸っている余裕はない。
彼女の勉強机の引き出しから光が漏れている。そうか、そこにあるのか。
開いた瞬間、窓からドンっと音がした。
ちくしょう、もう来たのか。
「ひいっ!」
俺はそこら辺にあった物を投げたり蹴とばしたりしたが、男にダメージを与えることはできなかった。
引き出しの中にあった光の玉を掴んで逃げようとするも、足が竦んで動かない。
男が俺に迫り、包丁を振り上げる。
俺は死を覚悟した。
――あれ、痛くない?
おそるおそる目を開ける。
紺色の髪をした青年が、腕で包丁を受け止めていた。
「さあ、逃げようか」
クォ・ヴァディスはこちらを向いて微笑んだ。
助けないんじゃ、なかったのか?
手に握った光の玉の輝きが増し、景色を包み込んだ。
『ねえ、このキュロットスカート、前に布がついていて本当のスカートみたいに見えるの』
4年1組。9歳と10歳が混在する教室。
彼女は自分で布をぺらぺらめくってみせた。現れるのはパンツではなく、同じ素材の布だけだ。
『従姉のお姉ちゃんにもらったの!』
『えー、よく穿いてるスカートのが似合ってるよ』
声変わり前の俺の声が答えた。
悪いデザインではなかったが、お下がりというだけあって古臭く感じられた。
何より、スカートと見せかけて中身がズボンだなんて、騙されている気分になってしまう。
彼女は不貞腐れて、その日はもう口を利いてくれなかった。
翌日、彼女はスカートを穿いて登校した。
チラチラと俺の様子を窺っていた。
可愛い、似合ってると褒めてほしいんだろうなと察しはついたが、当時クソガキだった俺には素直に褒めることなんてできなくて、知らんぷりを決め込んだ。
休み時間、突然彼女の悲鳴が聞こえた。
隣のクラスの男子がこっちの教室に来て、彼女のスカートをめくったのだ。
「なんだ、スパッツ穿いてるのかよ」
見えてもいい中身だからといって、スカートめくりをしていい理由にはならない。
彼女は激怒して涙目になっていた。
俺は無性に腹が立って、その男子を殴り飛ばした。
「はっ」
青い空、白い壁、白い床。勝手に動いている天井。
いつものスタート地点だ。
「いやあ、危ないところだったね」
「どうして助けてくれたんだ」
俺はクォ・ヴァディスの腕を見た。怪我はしていなかった。
「彼は心象世界の免疫じゃない。君と同じ、現実世界の人間の精神だ」
「え……」
俺以外にも、この世界に来ている人間がいるだと?
なんだか、彼女を穢されている気分になった。不快だ。
「君との契約時点では、他の人間が介入するなんて予想外だったからね。だから助けたんだよ」
「あいつも、彼女の心の結晶を集めようとしているのか?」
「いいや、違うようだね。彼の心は君への殺意で満たされていた。きっと、こちらの世界で彼に刺されると、君の心は現実でも死んでしまう」
フードで隠れていたから、あの男の顔は見えなかった。
でもきっと、あいつも俺の知っている人物なのだろう。
彼女のスカートをめくった、あの男子のことが思い浮かんだ。
「彼からは、正の感情を一切感じることができなかった。悪魔と契約し、喜びや愛情を対価として君を葬る術を与えられたのだろうね」
悪魔?
「君も、悪魔なのか?」
「ふふふ」
クォ・ヴァディスは笑みを深めた。
「君はもう思い出せるはずだよ。僕との契約のことを」
思い出そうとした瞬間、他の誰かの気配を感じた。
「はぁい、こんにちは」
白い床の上に、彼女が立っていた。正確には、彼女の姿をした、何かが。
「やあ、まさか君だったとはね」
「気づいていた癖に。今はそんな姿をしているの? 前よりは趣味が良いわね」
彼女の姿をした何かは、確かに彼女と同じ顔をしているのに、まるで表情の作り方が違う。
「こんにちは、森岡さん。私は歓楽を食らう悪魔。今日は挨拶に来たのよ」
カツコツと音を立てて、悪魔はこっちに歩み寄ってくる。
モデルのような歩き方も、彼女とは全く違っていた。
「こちらも生きるためにやっていることなの。ごめんなさいね」
クォ・ヴァディスとよく似た笑い方。でも、まるで人間を見下しているような、嫌な感じがした。
「おい、いい加減起きろ」
坂田が俺の頬をぺちぺちした。
そうだった、俺は病院で倒れたんだ。
すぐに目を覚ますべきだったのに、すっかり現実のことなんて忘れていた。
「とりあえず、今日は診察してもらえることになったからな」
坂田はわざわざ付き添ってくれた。折角の休日をこんなことで潰させてしまって、申し訳ない。
CTスキャンをしたり、長々と精神科医の質問に答えたりした。
CTスキャンの結果は異状なし。
精神科医には、記憶が欠けていることは話したが、夢の内容については伏せておいた。
「恋人が廃人状態となったショックで、健忘を起こしているようですね。しばらく様子を見ましょう」
帰りの電車では、坂田に彼女のことを教えてもらった。
俺と彼女は中学の頃から付き合っていて、高校や大学も同じだったこと。
職場は別だが、就職とほぼ同時期に同棲を始めたこと。
坂田が詳しく知っているのは、大学の頃よくグループで一緒に遊んでいたのが理由だということ。
「何か困ったら、すぐ言えよ。できるだけ助けてやるから」
「ありがと」
「地球科学科のよしみだからな」
家に帰り、俺は「絵夢の冒険記」のアニメのDVDを再生した。
単に、何か音がないと寂しかったからだ。
ヴァルク『戦死者を選ぶのは――この僕だ!』
絵夢『そっちの思い通りにはさせない! 緑風の刃《グリーンウィンドカッター》!』
ヴァルク『効かないよ。――ハートブレイク!』
アニメの音声をBGMに、俺はクォ・ヴァディスとの契約のことを思い出していた。
『彼女を救いたいかい?』
俺の夢に現れた悪魔が言う。
『俺の何を対価にしたっていい! 君が悪魔だというのなら、俺と契約して彼女の心を救ってくれ!』
彼女は、ある時突然心を壊して植物人間に近い状態になってしまったのだ。
俺は彼女を救いたい一心で、悪魔にすがった。
『彼女の心の命の灯は、今にも消えてしまいそうだ。それを救うには、君の心の命か、体の命を代償にしなくてはいけない』
『どっちだっていい!』
『しかしね……彼女が心を失ったのは、君を助けるためだったんだよ』
俺は絶句した。
『体の命を失いかけた君を救うため、彼女は僕と契約した。その結果があれなんだよ』
『え……じゃあ……』
『再び君が死にかけたなら、彼女の行いは無駄になる』
『ずっと同じことの繰り返しになるじゃないか』
彼女を救うことはできないのだろうか。俺は絶望しかけた。
『同じ人物から対価を得ても、味に飽きてしまうからね。僕はもう彼女とは契約しないよ。運よく別の悪魔と出会えたなら、君と言う通り同じことの繰り返しになるだろうけれど、可能性は低いだろうね。悪魔が人と出会うことは滅多にないから』
腹に残る傷跡を服の上からなぞる。
俺は、本当は死ぬはずだった。
助けてくれた彼女に、なんの恩返しもできないっていうのか。
『そうだね……じゃあ、君には『彼女を救う手段』を与えよう』
『手段……?』
『彼女の心はバラバラに砕けて、彼女の心象世界に散らばっている。それを集めるゲームをするんだ』
『ゲーム……』
『僕は君にチャンスを与えるだけ。直接彼女を救うのはあくまで君だから、対価は軽くて済むんだよ』
俺は迷わず契約することにした。
『とはいえ、完全に元に戻るわけじゃない。彼女がこれまでに溜め込んでいた悲哀の感情は僕のエネルギーにさせてもらっているからね』
それでも、再び彼女の笑顔を見ることができるのならば、契約しない手段はない。
『彼女という人格を構成するのに必要最低限の要素は不足していないから、そこは安心してほしいのだけどね』
『それで、対価はなんだ』
『君に渦巻く『彼女を失いかけたことによって発生した負の感情』だよ。僕の主食は人間の悲哀だからね』
悪魔は笑う。笑う。笑う。
『それに伴い、君には一時的に記憶障害や認知障害が起きるけれど、時間経過、もしくはゲームのクリアでいずれ元通りになる』
そして俺は悲哀の感情を悪魔に売り渡し、彼女に関する何もかもを忘れてゲームを始めた。
俺が死にかけた理由は――なんだったかな。
絵夢『どうして庇ったんだよ!』
ヴァルク『ふふ……僕はいつでも君の味方だったよ』
流しているアニメの内容は半分も頭に入ってこない。
でも、このシリーズは彼女が好きだったんだ。
彼女の足跡を辿るような気持ちで、寝るまでずっと再生し続けた。
彼女に、何か伝えたいことがあったような気がする。でも、思い出せない。
「やあ、気分はどうだい」
ヴァルクとそっくりな顔が笑う。
見た目は25歳くらいだ。
「ハートブレイク! ……なんてね。ふふ」
クォ・ヴァディスは、ヴァルクが魔法を放つ時のポーズを真似てみせた。
本当に攻撃魔法が出てくるんじゃないかと、一瞬俺は身構えてしまった。
「さて、1つ相談なんだけど……」
「ああ」
「フードを被った彼は、あまりにも危険だ。さっきは初回だったから僕が助けたけれど、次からはできない。もし対抗策が欲しいなら、新たな契約が必要になるけど……どうする?」
何の対抗策もないまま再びあの男に追われたら、その時こそ勝てる気がしない。
あの男に刺されて心を殺されるか、何かを対価として助かる可能性を掴み取るか。
「……あの男を見つけたらワープする能力が欲しい」
「良いだろう。対価は……そうだね、君の過去の悲哀の感情を頂こうか」
「構わない」
「鮮度が落ちるし、君という人格が壊れない程度にしか吸えないから、無制限の能力にはできない。精々、1回の睡眠につき3回までだ」
クォ・ヴァディスは右手の指を3本立てた。
「……とりあえず、それでいい。頼む」
「前回の契約と違って、思い出のイメージと感情を思い出すことはもうできなくなるけれど、いいのかい?」
俺は頷いた。
悲哀を食らう悪魔は、少しだけ寂しそうに微笑んで、人差し指の先を俺の額に立てた。
悲しかった思い出の光景が、俺の中から消えていく。
その時、どれほど悲しかったか、辛かったのか、その悲しみがあったからこそ味わえた幸福でさえも、吸い取られた。
100m走で負けた時の悔恨。
ペットが亡くなった時の慟哭。
じいちゃんの葬式で流した涙。
手を握って慰めてくれた彼女の、温もり。
少し画質の悪いポリゴンで作られているような見た目の窓に手を触れた。
そういえば、彼女は窓が好きで好きで仕方がなくて、いちいちアニメやゲームの窓のキャプチャを撮って保存していたっけな。
満天の星空。歪で細長い、白い建物。
街灯なんてないのに、何故だか地上は明るい。
左の方を見ると、巨大な大地が宇宙に浮かんでいた。一見地球のようだが、大地は途中で切れている。丸みを帯びた板のような形だ。
前方には大きな城のようなものが見えた。
真っ白で、無機質な町。
俺は、ついさっきこの風景を画面越しに見ていた。
ここは、「絵夢の冒険記」の黒幕が住まう土地だ。
「絵夢の冒険記」の主な舞台は、いかにも異世界らしい異世界だ。
だが、終盤はこの白い星に移動し、ラスボスと戦う展開となっている。
何かが近づいてくる音がした。それも、大量だ。
主人公達を襲うロボットやバイオロイドが、こっちに向かってきている。
心象世界における、免疫だろう。
悪夢を見ている時の恐怖を感じる。
あいつら相手にワープは使えない。自分の足で逃げないと。
逃げても、逃げても、逃げても、うじゃうじゃ沸いて追いかけてくる。
建物の中に逃げ込んで、扉を閉めた。だが、俺の足元からもうにゅっと幽霊みたいに生えてきた。
アニメじゃこんな物理法則を無視した現れ方はしてなかったってのに!
窓から飛び出して逃げ続ける。
ああちくしょう、助っ人キャラでもいてくれたらいいのに。
「こっち!」
誰かが俺の手を握った。
黒髪で、身長は155cmほど。
男の子なのか女の子なのかいまいちよくわからない顔立ちの小学生。
「絵夢の冒険記」の主人公、檜原 絵夢(ひのはら えむ)そのものだった。
続
【4】
「ここなら安全です」
絵夢に連れてこられた先には、免疫である敵が現れなかった。
ここは、確か……絵夢達がこの星での拠点としている隠れ家だ。
「どうして助けてくれたんだ」
「あなたを異物として排除しようとする機能もあれば、この世界の主を治そうとする機能もあるんです」
設定上、絵夢はヴァルクと顔がそっくり――というよりヴァルクが絵夢にそっくりなのだが、作画上は大して似ていない。
左右の髪が一房ずつ内側に巻いているのが共通している程度である。
笑い方も、健全な小学生のそれだ。
「あなたはこの世界の主を救おうとしている。だから、手助けをしたいんです」
11歳の綺麗な瞳は、いくらか俺の精神を癒してくれた。
「あなたの探し物は、あの城にあります」
ラスボスの居城。バイオロイドの研究施設。悪意が渦巻く場所。
「あそこまで案内します。ついてきてください」
絵夢が敵をばったばったと薙ぎ倒してくれるおかげで、すいすい進むことができた。
この小学生は剣やら魔法やらを自由に使うことができるのである。とても心強い。
城はもう目の前だ。
だが、背筋に悪寒が走った。嫌な気配を感じる。
奴だ。
絵夢が風の魔法を放った。
しかし、フードの男は大してダメージを受ける様子もなく突進してくる。
ガキィン!
フードの男の包丁を、絵夢が剣で受け止めた。
金属同士が擦れ合う音が鼓膜を震わせる。
「そいつ、なんとかぶっ倒せないのか!?」
「無理ですっ! この人の意思の強さがあまりにも強烈で……っ!」
背後からは免疫の軍団が迫ってきていた。このままでは、俺は排除されてしまう。
「でも、しばらくの間食い止めることはできます! 先に進んでください!」
「君だけを置いていくことはできない! 一緒にワープで」
「ワープで飛べるのはあなただけです! 早く!」
「……すまない!」
大きな扉を抜け、城の内部へと駆け抜けた。
絵夢達の宿敵――この城の主、クラシストの玉座に光の玉があると夢覚が告げている。
階段をひたすら上った。
エレベーターもあるが、使わなかった。
扉が開いた瞬間敵と遭遇したらと思うと、怖かったのだ。
不思議と迷わず進むことができた。
この世界には、『迷い』という概念さえ存在しないのではと思えるほどだ。
『あなたを助けることに、迷いなんてなかったもの』
彼女の声が聞こえる。
絵夢達がクラシストと戦った広い部屋に出た。天井も壁も床も白い。
やはり、玉座の上には星のように光るものが浮いている。
ダッダッダッダッ
重く力強い足音。振り向くと、血まみれのフードの男がそこに立っていた。
「おい……絵夢はどうしたんだ」
フードの男に大きな外傷は見られない。なら、この血はなんだ。誰のものだ。
フードから覗く口元は、口角を歪めた。
殺された
ころされた
コロサレタ
「てめえええ!!!!」
俺は強く剣をイメージした。
そのまま斬りかかるふりをして、ワープで男の背後に回る。
刃は男の背を斬ることに成功した。赤い血飛沫が飛び散る。
フードの男は痛みを感じていないのか、すぐに振り向いて俺に包丁を突き刺そうとした。
俺は咄嗟にワープをし、再び男の背後に回った。
「うおおお!」
俺の剣と、奴の包丁が交わる。
『怒っちゃだめ! 憎まないで! あなたの心に憎悪の感情が生まれたら、この世界は穢れてしまう!』
頭の中に、絵夢の声が響いた。
『安心して。自分は、この世界の免疫とあなたの想いが合わさって『形をもつ』ことができた存在。『形』が壊れても、存在そのものは消えないんです』
でも、でも、こいつは……!
『この世界の主にとって、あなたは他の誰よりも大切な人。だから、この世界はあなたの感情の影響を非常に受けやすいんです。どうか怒りを鎮めて、心の結晶を拾って!』
いつの間にか、部屋中が赤く染まっていた。
男の血飛沫が飛んでいないところまで、べったりと。
これ以上、この世界を穢してはいけない。
男が至近距離にいるということは、俺はここでワープを使うことができる。残り回数は、1回。
俺は、玉座のすぐ傍にワープした。
フードの男は凄まじい勢いでこっちに向かってくる。
男の顔を隠していたフードが、走る勢いで外れた。
「お前は――!」
思い出した。
あいつは、俺が絶対に許すことのできない男。
そして、奴は決して俺の存在を許しはしない。
彼女の欠片を掴みながら、俺は蘇った記憶に息を呑んだ。
『何でお前なんかが……!』
かつて彼女のスカートをめくったあの男子は、ひどく彼女に執着していた。
高校の合否の発表を見に行った日のことだ。
俺と彼女は同じ進学校に受かったが、奴は落ちた。そもそも、受かる見込み自体がなかった。
あの時の憎悪の眼差しには、一生分の負の感情が込められているようにさえ見えた。
『行こうよ、たっくん』
彼女が俺の手を引く。
その後は、俺の家族と彼女の家族とで合格祝いをした。
『たっくんとまた同じ学校に通えるの、嬉しいなあ』
『……俺も』
親の目前でそんなことを言われて、俺は照れてしまった。
『ねえねえ、たっくんは理系に進む? それとも文系?』
『文理が分かれるの、2年からだろ。気が早いな。でもまあ、多分理系を選ぶと思うよ。お前もだろ』
『うん! 大学も理系の学部に行って、窓を作る素材について研究しまくるの!』
彼女の将来の夢は、窓を作ることだった。
『なんでそんなに窓が好きなんだよ』
『ないしょ!』
彼女は頬を赤らめ、人差し指を自分の口の前で立てた。
大学に行く前から、彼女は自分で研究を進めていた。
窓枠のデザインの歴史を追ったり、身近な素材からガラスを作り出したりと、普通の高校生ならやらないであろうことに夢中になっていたのだ。
『これ見て! 綺麗でしょ』
放課後のことだ。
教室で課題を解いていたら、ブレザー姿の彼女が生き生きとした様子で実験の成果を見せに来た。
小さな黄色っぽいガラス片だった。
『お前が作ったのか?』
『そう。植物から作ったのよ』
『ええ……植物からなんて、よくそんな発想できたな』
『たっくんのおかげなんだよ』
俺のおかげ? 俺は意味がよくわからず、首をかしげた。
『たっくん、昔細い草の葉っぱで怪我をしたことがあったでしょ? それを思い出してね、触っても怪我をしない柔らかい葉っぱと、切り傷ができる硬い葉っぱって何が違うんだろうって、調べてみたの』
彼女はレポートを俺に差し出した。
『イネ科はね、土壌からケイ素を取り込むことで自分の体を丈夫にしてることがわかったのよ』
『ああ……なるほど』
ガラスの主成分は二酸化ケイ素だ。
植物にも同じ成分が含まれているのなら、砂や石からガラスを生成するのと同様に植物からガラスを作ることができてもおかしくはない。俺は納得した。
『たっくんに1粒あげるね!』
掌に乗せられたガラスは、窓から差し込む夕日に照らされて、本来の色よりも赤く輝いた。
俺は彼女の役に立てたことが嬉しくて、その日からずっと自分の自宅の机にそのガラスを飾っていた。
時折嫌な視線を感じながらも、平和な高校生活を送ったように思う。
クォ・ヴァディスに悲哀の感情を売り渡したから、単に思い出せないだけかもしれないけれど。
俺達は隣県の大学を受験し、俺は理学部の地球科学科、彼女は化学科に進学した。
『就職のこと考えるとさあ、学部間違えたなって思うよな』
俺のぼやきに、坂田は「だよなあ」と同意した。
同じ理系の学部でも、理学部より工学部の方が就職に恵まれているのだ。
俺が地球科学科を選んだ理由は単純だ。地学が好き。それだけだ。
目標も夢も特に持ち合わせてはおらす、将来のことも考えていなかった。
『なあ&%$#&#、お前もさ、建築系のとことか、工学部のそれっぽいところを選ぶことはできただろ。ここでよかったのか?』
『いいの!』
彼女の答えに迷いはなかった。
『ケイ酸♪ ホウ酸♪ ア~ル~ミナ~♪ ぐぇへへへへへ』
俺や坂田、その他理学部連中が愚痴を言っている傍ら、彼女は心底楽しそうに研究に没頭していた。
俺はそんな彼女が羨ましくて、そしてやっぱり好きだった。
俺や坂田は理系の就職を諦め、営業をやることになった。
院に進むほどの情熱はなかったし、同じ研究室の院生の「院進したら余計就職先無くなるよ。専門分野と一致する仕事なんてほとんどないし、年食っちゃうからね」という言葉を聞いて、さっさと適当に就職することを選んだのだ。
就職活動が長引いて、卒論が進まなくなるのも嫌だった。
それに対して、彼女は見事窓のメーカーに就職が決まった。
夢を叶えたのだ。
しかし、その生活は長くは続かなかった。
仕事が終わった後、俺は彼女の職場へと向かっていた。
彼女とは同棲を始めていたが、ストーカーの嫌がらせに悩まされていたため、いつも一緒に帰宅していたのだ。
前方に、彼女とフードを被った男が口論になっているのが見えた。
2人はこちらに気づかず、男が彼女を無理矢理路地裏に引き込んだ。
『何してるんだ!!』
社会人になって初めて全速力で走った。
彼女の悲鳴が聞こえる。
男は彼女の両手を布で縛り、服を包丁で引き裂いていた。
振り向いた男の顔は、小中の同級生のものだった。
成長していても一瞬でわかった。
『……遠峰ええええ!!』
相手が刃物を持っていることを気にする余裕もなく、俺は遠峯源哉に殴りかかった。
拳が奴の頬に命中する。
かなり力を込めたはずだったが、遠峯は殴り返してきた。
『俺はずっと&%$#&#のことが好きだったのに! どうしてまだお前なんかと!』
『いい加減にしろ!!』
殴って、防いで、切られて、でも不思議と痛みはあまり感じなくて再び殴って、蹴って。
しばらく揉み合った後、刃物を握っている遠峯の右の手首を掴んで壁に押し付けることに、俺は成功した。
『警察呼んでくるね!』
自力でどうにか拘束を解いた彼女は、鞄から携帯を取り出して路地裏から出ようとした。
しかし、遠峯は俺の手を振りほどき、彼女を追いかけながら包丁を振り上げた。
俺は後ろから遠峯に抱き着いて転ばせた。
そして奴の右手を何度も殴り、包丁を奪った。
包丁を奪ったことで少し油断した俺は、腰を浮かせてしまった。
その瞬間遠峯は激しく暴れ、回転して俺の体から逃れると彼女を追いかけた。
『ちくしょう!!』
俺も起き上がって後を追う。
足の速さでは、俺はあいつより上だ。
けれど、彼女はあまり足が速くない。
遠峯が先に彼女に追いついてしまいそうだった。
間に合わなければ、彼女は確実に怪我をする。最悪の場合、殺される。
はやく、はやく、はやく追いつかなければ。
自分のリミッターが外れるのを感じた。
これまでにないほど、おそらく高校の時よりも俺は速く走っている。
大丈夫、遠峯はもう刃物を持っていない。包丁があるこっちが有利だ。
その油断がいけなかった。
奴は服のポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。
折り畳み式のナイフだった。
奴をギリギリで追い越し、俺は彼女の前に立った。
そして、こちらが包丁を振るより先に、遠峯はナイフを振りかざした。
彼女が文字には表せない悲鳴を上げる。
俺は地面に倒れ伏した。
駄目だ、まだ死んでは駄目だ。奴をまだ倒せていない。彼女が危険だ。
どうにか見上げると、奴は通行人に羽交い絞めにされていた。
警察に電話をかけてくれている人もいる。
ああ、これで大丈夫だ。俺は安堵し、目を閉じた。
続
【5】
その後俺は病院に搬送され、奇跡的に命を取り留めた。
医者は驚いていた。普通なら死んでいるはずの傷だったそうだ。
遠峯は無事堀の中に行ったと聞かされた。
彼女は泣きながら俺の手を握っていた。
「たっくん、たっくん」
「ごめんな、心配させて」
その次の日から、彼女の様子がおかしくなった。
常にぼうっとしていて、話をしてもどこか上の空だった。
昔の思い出に関する記憶も、ほとんど失っていた。
一週間経たずして彼女は廃人に近い状態となり、入院した。
俺の命を救うために、あまりにも大きな対価をクォ・ヴァディスに払ったためだ。
俺なんかのために、彼女は折角叶えた自分の夢を捨てたのだ。
やりきれない。
こんなこと、あってたまるものか。
俺は彼女に生きてほしくて、庇ったのに。
目を覚まして視界に入ったのは、見慣れた天井だ。
アパートと呼んでも違和感のない、ボロいマンションの木造の天井。
今日は日曜日だ。俺は、彼女とデートをした場所をふらふらすることにした。
最初に出向いたのは、買い出しに使っていたショッピングモールだ。
このショッピングモールに来た時、彼女は必ずアジアン雑貨の店に寄っていた。
この店は、パワーストーンとしてではあるが鉱物も取り扱っている。
彼女は、この店に置かれた全長50cmほどはありそうなアメジストドームを眺めるのが好きだった。
黄色い石――カルサイトと共生している、深い紫色の石の塊。
まだ大学生の頃のことだ。
『アメジストドームって、外側はメノウっぽい見た目してるよな』
『実際メノウだよ』
組成がどうの、光沢の種類がどうの、屈折率や比重がうんたらかんたらと、理系らしい会話をした。
『紫と黄色って補色同士でしょ? でも、紫水晶とカルサイトのどちらも鉄イオンによって呈色してるの。ロマンを感じるわよね』
3価の鉄イオンであれば黄色になり、4価なら紫色になる。
ロマンを感じるかどうかはともかく、色が変わるというのは面白い。
価数が1つ変わるだけで、吸収する光の波長が大きく変化し、正反対に近い色を呈すのだ。
『いつか一緒に家を建てて、アメジストドームを飾りたいな!』
『いいんじゃないの。なんなら今の内に買っておけば?』
『値段見てみなよ』
『あっ……。こりゃ、その内収入が増えたらだな』
幸せな未来が訪れることを疑わず、俺達はしばしば将来について語り合った。
『ケイ素♪ ケイ素♪ 二酸化ケイ素♪』
彼女はケイ素を多く含む物質が大好きで、鉱物やガラス製品等を収集していた。
好きなものを見て笑う彼女の表情を眺める度、俺は幸福感を覚えたものだった。
次に足を運んだのは、ショッピングモール近くにあるガラス細工専門店だ。
台に並べられた大量のガラス細工が、キラキラと照明の光を反射している。
柔らかな白緑の皿に目が留まった。
思い出されたのは、大学2年の夏休みの出来事だ。
『このガラス、ヒスイを練り込んであるんだって!』
彼女はこの緑色のガラスで作られた皿やら花瓶やらを見て、思いっきりテンションを上げていた。
『ほら、パンフレット見てよ! 富山県でしか作られてないんだって! ……普通、膨張係数が違ってたら割れちゃうのに、一体どうやってヒスイとガラスを……』
ちょっと嫌な予感がした。彼女が、富山に行くと言い出すのではないかと。
『……私、富山に行く! 折角の夏休みだもの!』
ああ、やっぱり。
インドア派の俺とは違い、彼女は行動力があるのだ。
富山って何処だっけ。とりあえず北陸だ。
受験が終わってから、すっかり地理の知識が頭から抜け落ちてしまっていた。
『あ、こっちのガラスも綺麗ね!』
白緑色のガラス皿の隣に、同じデザインの色違いの皿が並べられていた。
鮮やかな海緑色だ。こっちも富山でしか作られていないらしい。
『たっくんに似合うね! 1枚ずつ買おうよ!』
『うん、いいよ』
嫌いな色ではなかった。むしろ、好きな色だ。
――その皿は、今でもお気に入りだ。
彼女だけで旅行に行かせるのは心配だったから、俺も遥か北陸の地についていった。
ガラスの研究をしている施設だとか、大学の研究室だとかに彼女は顔を出した。
学んだ知識を窓ガラスに活かすのだと、楽しそうに話していた。
俺はぼけっとしながら観光していたのだが、海産物の美味さには驚かされた。
回転寿司が、回転寿司の味をしていなかったのだ。
『私の旅行に付き合わせちゃってごめんね』
『いいや、充分来た甲斐があった』
回る寿司でこれなら、回らない寿司に行ったら俺はどうなってしまうのだろう。
舌どころが全身が融けてしまうんじゃないかと思った。
その翌日には、海にヒスイを拾いに行った。
『拾ったヒスイでヒスイ入りのガラスを作ろうって思ってるんだろ』
『できたらしたいな! でも設備の問題もあるし、難しいだろうね』
結局、本物のヒスイを拾うことはできたものの、実験に使えるほど質の良い物は拾えなかった。
ついでに彼女はメノウもゲットしていた。
俺もいくつか石を拾ったが、コランダムを拾えてちょっと達成感を覚えた。
「今日、彼女さんは一緒じゃないんですか? 珍しいですね」
ガラス細工屋の店員が俺に声をかけた。
「ええ、彼女はちょっと入院……してまして……」
俺は人目も憚らず、涙を流した。
まだ全ての記憶を取り戻したわけではないが、彼女が俺にとってどれだけ大切な存在だったか、どれほど愛しているのかは、はっきりと思い出せる。強烈なまでに。
彼女がいない生活は、ひどく空虚だ。
店員が慌てて店の奥からタオルを持ってきてくれた。
「すみません、事情を知らなくて」
「いえ、こちらこそすみません。大の大人が泣き出してしまうなんて」
ああ、なんてみっともないのだろう。
「あれ、これ……」
とても綺麗な指輪が台に置かれている。
ガラス細工の装飾が細やかに散りばめられていて、目を見張った。
しかし、主役はガラスではない。
トリカラーのトルマリンだ。紫みがかったピンク、シアン、深い青緑が美しいグラデーションを呈している。
「ああ、それ、新しく入荷したんですよ。彼女さんが好きそうですよね」
ケイ酸塩鉱物も彼女の守備範囲だ。
指輪の傍には、商品の説明と、トルマリンの豆知識が書かれている。
――トルマリンは、生命力を高め、心身を健康に導く力があります。
俺も彼女も非科学的なことはあまり好きではないのだが、俺はこんなものにさえすがりたいと思ってしまった。余程弱っているらしい。
まあ最近は、悪魔と契約するという極めてファンタジーなことをしたりもしているから、以前よりは非科学的なものへの抵抗感が薄れているのかもしれない。
「これ、ください」
レジへ持っていくと、タグに書かれた値段よりもだいぶ安い額を請求された。
普段、この店はセールでもしない限りは値下げをすることはない。
「悪いですよ」
「いいえ、私も彼女さんの回復を願っていますからね。ご体調が良くなられたら、またここに来てたくさん買ってください」
人の優しさに、俺は再び涙しそうになった。
その後もフラフラして、スーパーで安い弁当を買って帰宅した。
「ただいま」と言ったところで、「おかえり」と言ってくれる人はいない。
「おかえり~」
そう、いないのだ。
……え?
部屋を間違えただろうか。いや、そんなはずはない。
おそるおそる奥へと進む。
キッチンの奥が、奇妙な空色の光を放っていた。
間接照明を設置した覚えはないぞ。
「やあ」
今までは夢の中でしか会っていなかった人物……否、悪魔が蹲っている。
「なんで、こっちに」
クォ・ヴァディスのいる周辺だけが、空の景色を映していた。
壁も、床も、棚も、淡い青と雲の白で彩られている。
まるで、そこだけが夢に浸食されているようだった。
「少々事情があってね、物質世界に逃げてきたんだよ」
「事情って」
「普段、僕等は厳密なきまりを守って人間と契約している。だから罰せられることなんて滅多にないのだけれどね」
悪魔の体は傷だらけになっていた。
景色から青と白が引いていき、いつも通りの景色になっていく。
「人間にも過激派というものはいるだろう? 悪魔が人間と関わること自体を良しとしない天使がいてね」
「攻撃されたのか」
クォ・ヴァディスは苦笑した。
「しかし、こちらの世界に身を隠そうにも、体を実体化させるには大きなエネルギーが必要なんだ。ここままでは僕は霧散して消えてしまうだろう」
今、ここでこの悪魔が消えたら……きっと、俺は彼女を助けることができなくなる。
「どうすれば君を助けられるんだ」
「契約しなきゃいけないな。そうだね……これ以上君から感情を吸い取ったら、君の精神も崩壊してしまうだろうし……となると、僕自身の感情エネルギーを活性化させるしかないかな」
「えっと……一発芸でもすればいいか?」
悪魔は軽く吹き出した。
「何か、感動できる作品でもないかな。漫画でも、アニメでも、映画でもいい。幸せな結末のものがいいな」
「それならたくさんあるぞ!」
俺が飲み会で磨いた芸に需要はないらしかった。
クォ・ヴァディスをテレビの前まで引きずり、DVDのパッケージを何枚か見せる。
「どれがいい?」
「じゃあ、この吸血鬼物を見せてもらおうか」
選ばれたのは、「よろしいならば戦争だ」の台詞が有名な某漫画のOVA版だ。
このアニメのクオリティの高さには俺も圧倒されたものだ。
「ふふ、嬉しいよ。今までたくさんの人の記憶を渡り歩いてきたけれど、直接作品に触れる機会は滅多にないからね。何百年ぶりだろう」
悪魔は穏やかな笑みを浮かべて映像に見入っている。
いつの間にか傷は治りつつあった。
「さて、助けてもらった対価に、僕は君に何を渡そうかな」
「いらないよ、そんなの。人助けには見返りを求めない主義なんだ。人じゃなくて悪魔だけどさ」
「……ふふふ。人間のそういうところ、羨ましいよ」
悪魔の笑みが寂しげなものに変わった。
ついでに酒とつまみも出し、スピーカーの用意もしてやった。
どうせ観るなら、音響にも少しは拘りたい。
ちなみにこのマンション、見た目はボロいが何故か防音だけはわりとしっかりしている。
流石に夜なのでウーハーまでは使えないが、大音量を出さない限りはスピーカーをつけるくらいでは問題にならないのだ。
「地の果てに堕ちた悪魔をもてなすなんて、君はなかなか不思議な人だね」
「君はなんというか、嫌な感じしないから」
日付が変わる頃まで、彼はずっとアニメを観ていた。
俺も観ていたのだが、終盤に差し掛かると流石に眠くなってきた。
うとうとしながら毛布を出す。
「君のも必要?」
「いいや、もう過激派の天使は中立派の天使に捕縛されたようだ。精神世界に帰るよ」
誰かと一緒にこの部屋で過ごすなんて、随分久しぶりに感じられた。
楽しかったな。
「また来てくれよな。俺の漫画だったらいくら読んでくれてもいいし、アニメも好きに再生してくれていいから。ゲームはセーブデータの都合があるから遊ぶ前に声かけてほしいけど」
俺は毛布にくるまり、眠りの世界に引きずり込まれていく感覚に身を任せた。
「やあ、さっきぶり」
「もう大丈夫なのか?」
「一応はね。ご心配ありがとう」
壁に並ぶ窓に視線を移す。
1つだけ、黒いオーラを放つ窓があった。
「あれは……」
「禍々しいだろう? ……強い憎悪の持ち主があそこにいるんだよ」
「……遠峯が先に来ているのか」
「あれほど強烈だと、あまり彼が長居すると彼女の精神にも悪影響を及ぼすだろうね。他の窓を選ぶこともできるけど、どうする?」
「……どの窓を選んでも、あいつには追跡されるだろう」
俺は黒いオーラを放つ窓に手を伸ばした。
少しでも早く、遠峯を彼女の心象世界から追い出したい。
西洋の屋敷にでもありそうな、禍々しい窓。
その先に広がる景色は、墓場だ。
続
【6】
西洋風の墓や、日本風の墓……様々な形の墓が混在している。
空は曇っているのに何故か馬鹿でかい満月だけははっきり姿を現していて、極めて不気味だ。
墓石。枯葉。湿った土。木は全て枯れている。何かが腐ったような臭いもする。
彼女の心象世界の1つに墓場があるなんてあまり信じたくないのだが、そんなこともないと俺は思い直した。
今まで冒険した世界は、彼女が気に入っている漫画アニメゲームの影響を多大に受けている。
彼女がプレイしたゲームの中には、墓場が登場するものも少なくない。
主人公の精神世界が墓場だったゲームもあったな。不気味だがそれが癖になる作品だった。
ある時期に精神世界に行くと、現実ではまだ生きているヒロインの名が刻まれた墓があるのだが、あれは心臓に悪かった。
続編がヒロイン生存ルートじゃなく、死亡ルートの続きだと知った時は驚いたな……と、思い出に浸っている場合ではない。
この世界はPS2よりは64の3Dゲームに近い見た目だ。
N64のポリゴン独特の不気味さがある。
空気がやけに重い。
ここまでおどろおどろしいのは遠峯の精神の影響だろうと夢覚が感じ取った。
静かだ。時々、正体のわからない生き物の鳴き声が響いた。
彼女の心の欠片は何処だろう。
一瞬、頭にイメージが浮かんだ。
何処か真っ暗で狭い場所の中で、それは光っている。
まるで、墓の中――納骨室のような場所だ。
俺に墓荒らしをしろっていうのか。
まあ、墓を荒らすなんてゲームで慣れてるじゃないか。
やれるやれる。俺はそう自分に言い聞かせた。
試しに墓石をずらすなり、納骨室の扉を開けるなりしようと思って、近くにあった墓を見てみた。
……心臓が止まるかと思った。
墓石には、小学校の同級生の名が刻まれていたのだ。
辺りを見渡した。近くにある墓はどれも見知った人間の名前ばかりだ。
恐怖で手が震えた。
その中でも、俺と彼女の仲を祝福してくれた友人の名が刻まれた墓はボロボロになっていた。
ガッガッガッガッ
石を金属で叩きつけるような音が聞こえる。
音の鳴る方へ、できるだけ気配を消して進んだ。
フードの男が、スコップ――東日本と西日本とでスコップとシャベルの呼び方は逆らしいが、とりあえずあれは大型の方である――で、墓石を殴っていた。
墓石に刻まれている名は、森岡竜俊……俺のものだ。
狼狽えて少し後ろへ下がると、落ち葉を踏んでしまった。カシャ、と音が鳴る。
俺が冷汗を流すと同時に、奴はこちらに振り向いた。
奴はものすごい勢いでこちらに向かってくる。
周囲からはゾンビやミイラがわき出して奇声を上げた。
どうにか、あのゾンビ達に遠峯だけを捕まえてはもらえないだろうか。
足場が悪く、気を抜くと転んでしまいそうだ。
だが、走ることに集中すればゾンビに攻撃されそうだ。
「キェアアアアアアアアアア!!」
枯れ木の陰に隠れていたゾンビに睨まれた。
真っ黒な眼窩から感じる眼力に縛られ、体が動かなくなる。
後ろからは遠峯が迫ってくる。
しかし、ゾンビに抱き着かれてしまって、俺は全く身動きが取れない。
ゾンビに血を吸われていく。
このままでは、俺は心象世界から弾き出されてもう二度とここには来られない。
どうすればいい。どうすればいい!?
……このゾンビには、とても見覚えがある。
このことに気がつくと、いくらか恐怖が和らいだ。
そうだ、遠峯が近くにいるからワープが使えるじゃないか。
俺は数メートル離れた所に飛び、あるアイテムをイメージした。
俺が知っていて、遠峯が知らないものだ。
――小学生の頃のことだ。俺は男子数人とゲームの話をしていた。
『お面を被るとそいつ襲ってこなくなるんだぜ! お面ゲットする前にもトラウマイベントあるんだけどさ』
俺が得意げに言った。すると、男子の1人が遠峯に話を振った。
『お前もプレイしないか?』
『……俺、64持ってない。そんな古いゲームに興味ねえから』
このゾンビとミイラは、ミイラの形のお面を被れば襲ってこなくなる。
ゾンビは踊るし、ミイラとは会話ができるようになるのだ。
お面をイメージして被ると、予想通り免疫は俺を襲うのをやめた。
「この世界の主にとっての敵はそいつだ! そいつを襲ってくれ!」
ミイラがわらわらと遠峯に向かっていく。
遠峯はスコップでミイラを薙ぎ払うが、だいぶ苦戦しているようだ。
こいつら無駄に体力あるからな。
俺は走り続け、遠峯と距離を取った。
高さの低い柵が見えた。その向こうにあるのは、崖だ。
崖を覗き込んでみた。
これまでの景色とは違い、ポリゴンのレベルがPS2並だ。
底知れない闇が広がっており、無数の死霊が蠢いている。
俺はこれを見たことがある。
あるホラーゲームに登場する、決して見てはいけないものだ。
俺自身はプレイしたことはないが、彼女の従姉が彼女の家でプレイしているのを後ろから見ていたのだ。
ここに遠峯を落とせば、確実に奴は免疫によってこの世界から排除される。
奴はミイラを振り払ってこちらに向かってきた。
俺は柵の一部を蹴ってぶっ壊し、遠峯の突撃に備えた。
……そういえば、あの大きな穴を覗き込んだ後、あのゲームの主人公はどうなっていたっけ?
エンディングでは、確か目に包帯を巻いていた。……失明したのだ。
それを思い出した瞬間、俺の視界は真っ暗になった。
ゲームの知識がマイナスに働いてしまったらしい。参ったな。
焦りは禁物だ。
大丈夫、目が見えずとも風やら気配やらで相手の動きを察知するシーンは二次元によく出てくるじゃないか。
遠峯の足音が近づいてくる。
奴がスコップを振り上げたような気がした。風を切る音が聞こえたのだ。
俺は敢えて奴に突進した。
遠峯は後方に倒れた。
カラカラとスコップが転がる音が聞こえる。
俺は素早くスコップを拾い上げ、構えた。
「森岡……てめええええ!」
「そんなに俺が憎いなら殺してみろ! 遠峯ええええ!」
奴は恐れずこっちに突っ込んできた。
ここで横に避けて奴の背をスコップで叩き、崖の底に落とす――というのをやりたかったのだが、目が見えないので相手の正確な位置まではわからなし、あまり素早く動ける自信もない。
とりあえず、左手で壊した柵の位置は確認できた。
大体の位置を予測し、スコップを振り上げる。
ガッ
手応えはあったものの、脇腹から激しい熱を感じた。
まるで、包丁で刺されたような痛みだ。
奴はスコップを奪われた後、いつもの得物を装備したのだろう。
だが遠峯にもダメージがあるは確かだ。
俺は左にずれ、思いっきり奴の背中をスコップの刃で殴りつけた。
遠峯はバランスを崩し、崖へと落ちていった。
しかし、それでは終わらなかった。
俺は服を遠峯に引っ張られ、崖に引きずり込まれた。
柵の柱をなんとか掴むことはできたが、ぐらついている。
俺が壊したためだ。
「森岡……お前だけは……お前だけは……!」
「そんなに俺のことが気に入らないか!」
「俺はずっとあいつのことが好きだった! 好きになった女はあいつだけだ! それなのに……お前は幼馴染というだけで圧倒的に有利だった!!」
嫉み、妬み。嫉妬の念。
「ああそうだな! でももしお前が俺より魅力的な男だったら、彼女はお前を選んだだろうさ! 幼馴染であることなんか関係なく、俺が良い男だから彼女は俺を選んでくれたんだよ!」
俺の言葉を聞いて、奴は叫びを上げた。
逆上し、俺の服を使ってよじ登ろうとしている。
幼馴染だからって、なんの苦労もなく付き合い始めたわけじゃない。
関係を壊すのが怖くて、互いの気持ちを長い間伝えられない時期だってあった。
周囲にからかわれて、距離が離れてしまったこともあった。
他人に入り込まれる余地もけっこうあったが、俺もあいつも散々悩んで、泣いて、辛い思いをした結果、漸く付き合えたんだ。
その時見た光景やどれほど辛かったかは、クォ・ヴァディスとの契約でもう思い出すことはできなくなった。けれど、事象としては確かに覚えている。
敢えて大人しく奴によじ登らせ、ある程度の高さまで来たところで、俺は思いっきり頭を後ろに動かした。後頭部による頭突きである。
ワープで崖の上に移動してもよかったのだが、奴に直接攻撃してやりたかった。
遠峯の手が緩んだ。その隙に暴れて奴を振り落とした。
しかし、ここで掴んでいた柵が地面から抜けてしまった。
「やべっ」
慌ててワープした。
崖の上に出ることはできたものの、目が見えないせいで正確にイメージすることはできなかったらしい。
右膝から下が、地面に埋まっている。
「*いしのなかにいる*をこの身を以て体験することになるとはな……」
石じゃなくて土であるだけマシなのだが、硬くて抜けそうにない。
崖からガリガリガリと音がしている。遠峯がまだよじ登ろうとしているようだ。
俺は手探りで何か武器になるものがないかどうか探した。確か、石があったはずなのだ。
丁度いいサイズのものを掴むことができたので、振り落としてやった。
命中したらしい音と、奴の声が聞こえた。
風を切るような音がしている。今度こそ、奴は下に落ちたらしい。
ふと、空気が軽くなったような気がした。
のそり、のそりとした足音が聞こえてくる。
「元気が出る 青いモノ オイテ~ク~」
オイテ~ケ~と言われるのかと思ってちょっと焦った。
どうやら、ミイラが青いクスリを俺にくれたようだ。
ライフも魔力も回復する優れものである。
瓶詰めのそれを掴み、俺はお面をずらして飲んだ。
視界が明るくなっていく。
視力が回復し、脇腹の切り傷も癒えた。
曇っていた空は晴れ、リラ色のメルヘンな星空になっていた。
この世界の免疫である魔物達は、地面や墓石に座って穏やかに夜空を眺めている。
スコップで右足の周りの地面を掘り、立ち上がって辺りを探索した。
墓石から俺や知人の名前は消えていたが、1つだけ名前が刻まれたままの墓があった。
深城 璃奈――彼女の、名前だ。
愛する人の墓なんて、見たくなかったな。まだ彼女は生きているんだ。
納骨室の扉を開く。
眩く輝くそれは今まで拾ったものよりも大きくて、縦に長い正八面体の形をしてくるくる回っていた。
「迎えに来たぞ」
微笑みながら手を伸ばした。
『ねえ、森岡』
『なんだよ、深城』
小学校に通い始めた頃から、俺達は名字で呼び合っていた。
名前で呼び合わなくなった原因は、同級生にからかわれたことだった。
それでも小5の頃まではよく遊んでいたが、男女差が顕著になるにつれ、距離は離れていった。
仲が険悪になったわけではないから、周りの目のない放課後は多少話をすることもあったな。
『……デュエルしよ』
中二の頃のことだ。彼女は何か言いたげだったが、本当に言いたいことは言わなかった。
『いいよ』
彼女が俺の家に来るのは久しぶりのことだった。
TCGで遊ぶなんて、いつぶりだっただろう。
『サイバーエンドドラゴンでブラパラを攻撃! あ、リミッター解除発動しとく!』
『サイバーツインのが強いだろ』
『いいじゃん別にぃ!』
『はい、マジックシリンダー』
『えーーー』
デュエルは俺が勝利して終わった。
彼女は頬をぷっくりと膨らませていじけている。
『まあ、菓子食って機嫌直せよ』
『……か、カロリー確認していい?』
太りやすい時期に突入していたあいつは、食べ物のカロリーをしきりに気にしていたのだ。
たまたま冷蔵庫に入っていた低カロリーのゼリーを出してやると、彼女はちょっと嬉しそうにしたので、俺はほっとした。
『……なあ』
俺は、彼女と距離が離れてしまったことを寂しく思っていた。
幼稚園の頃みたいに名前で呼び合って、周りの目を気にせず遊べたらどんなにいいだろう。
物心ついた時には既に好きだったのだ。
でも、「幼馴染は兄弟同然だから恋愛感情を感じない」というのはよくある現象だと聞いていたし、友達として会うことさえできなくなったらと思うと怖かった。
だから、俺は告白することなんてできなくて、本来思っていたこととは別のことを彼女に訊いた。
『俺と遊ぶの楽しいか?』
彼女は一瞬だけ俺の目を見ると、顔を赤くして俯いた。
『たっ……楽しい、けどっ……一緒に遊んだのは、他に相手が見つからないからでっ……と、特別何かあるわけじゃないんだからっ!』
彼女はすごい勢いでゼリーを掻っ込むと、ごちそうさまと叫んで家に帰ってしまった。
俺はもう1回くらいカードで遊ぶなり、テレビゲームをするなりして遊びたかったので、自分の発言を後悔した。
「なんだあいつ、ツンデレかよ」という考えと、「周りがからかってくるし、俺に期待させたくないからあんな風な発言が出るんだろうなあ」という考えが同時にわいた。
その日の夜、俺が自分の部屋に行って宿題をしていると、彼女の声が聞こえた。
『森岡ー!』
俺は窓を開けて答えた。
『なんだよ』
『あのね、あのね』
彼女は何かを言いおうとしている。でも、やっぱり本心は言わなかった。
『サイバーエンドはかっこいいんだからー!』
『ああうん俺もそう思うよ』
『あと、宿題の範囲確認させて!』
女友達にメールで訊けばいいだろうにと思いつつ、俺はあいつの質問に答えてやった。
こんなことを繰り返していた俺達の背中を押してくれたのは、仲の良い友人達だった。
友人達が祝福してくれる中、遠峯は、少し離れた所から俺達を睨み続けていた。
「おめでとう」
クォ・ヴァディスが拍手をくれた。
「なあ、俺は……今なら、彼女の見舞いに行くことはできるだろうか」
「できるよ。多少、視界は歪むかもしれないけれど」
それを聞いて安心した。
仕事が終わったら、彼女に……璃奈に会いに行こう。
続
【7】
結論から言うと、俺は彼女の見舞いには行けなかった。
残業が長引き、病院の面会時間を過ぎてしまったのだ。
なかなか支払いをしてくれない客との交渉さえさっさと終わっていれば……ああ、ちくしょう。これ以上期限は延ばせないって言ってんのに。
とぼとぼとマンションに向かう。
アパートと呼んでも違和感のないボロマンションは、今日も寂れた雰囲気を醸し出していた。
鍵穴を回して扉を開けると、スナック菓子を噛む音が聞こえた。
15歳くらいの姿のクォ・ヴァディスが、割り箸でポテチを挟みながら漫画を読んでいたのだ。
「また襲われたのか?」
「先日の過激派の天使が脱獄したそうだからね。できるだけこっちに留まることにしたんだよ」
悪魔というのも大変そうだ。
「面白いね、この漫画。たくさんの人々の記憶の中に存在していたから有名なのは知っていたけれど、自分の目で直接読むのはまた格別だ」
「くくく、そうだろうそうだろう」
「等価交換の原則という設定には親近感を覚えるよ。僕達の契約も、原則等価交換だからね」
悪魔は某錬金術漫画に夢中だ。
その漫画は俺が特にハマった作品の1つであり、面白くないわけがないのである。
小学生の頃は、キャラクターの真似をして指パッチンで炎を出そうと試みたり、土を変形させるイメージをしながら手をパンッと合わせて地面に当てたりしたものだった。
「アニメ化されていただろう? DVDはないのかな」
「持ってないけど、今ならAmazonisPremiereで全話無料で観れるぞ。俺プレミア会員だから」
「素晴らしいね」
大学生の頃、友達とアニメ鑑賞会をした時のことを思い出した。
あの頃に戻ったみたいで、少し気が晴れる。
「創作物に触れるのは、やはり良いものだね。異世界を覗き込むことに近しい行為だから非日常を味わえる」
「そりゃ、架空の世界を楽しむわけだからな」
「それがね、架空とも限らないんだよ」
二次元は二次元だろう。ありえない。
しかし、悪魔が言うと妙な説得力があった。
「この世に存在する作品の半数以上は、実在する異世界の情報を作者が受信して生み出されたものなんだ」
「夢のある話だな」
「受信した人間の経験や知識、思考が大きく影響するから、作品は100%元の情報通りにはならない。けれど、確かに“元になった世界”は存在するんだよ」
中学生の頃のことだ。
俺と璃奈は一緒にARPGをプレイしていたのだが、璃奈がぞっこんになっていたキャラクターが死んでしまった。
彼女は『こんな運命変えてやる!』と言い、その日から夢小説を書くようになった。
内容はよくある、自分の分身と好きなキャラを恋愛させるやつだった。
おいおい俺達は付き合い始めたばかりだぞ、早速それかよ……と俺は突っ込みたくなったのだが、二次元への浮気は浮気にカウントしないというのが俺達のルールだったので、俺は何も言わなかった。
でもちょっと切なかったな。まあ俺も二次嫁はいたからお互い様だ。
「流行りの異世界召喚とか、転移とかも実在しうるのか?」
「あるかもしれないけれど、異世界への移動には膨大なエネルギーを要するからね。かなり難しいんじゃないかな」
可能性があるというだけでもちょっとわくわくしてしまった。
今日も夜中までアニメについて語り合った。
クォ・ヴァディスはいつもよりも表情が豊かだった。よっぽどアニメが面白かったらしい。
彼が悪魔であることを忘れてしまう瞬間さえあったほどだ。
彼なりに楽しんでくれたようで、俺は嬉しかった。
そして眠りに就いた。
遠峯はもう心象世界へは来られない。
今夜からは穏やかに彼女の心の結晶を集めることができるだろう。
まん丸い、可愛らしい窓を選んだ。先に見えるのは、水の世界だ。
視界が一瞬真っ白になり、青い世界に包み込まれた。
俺は水底に立っている。確かに水の中だけれど、地上と同じような感覚で歩くことができそうだ。
普通の空気よりは重い感じがするが、呼吸にも不自由しない。
パステルカラーに輝く魚がふよふよと泳いでいて、プラスチック製のおもちゃの宝石のような物が水底に散らばっている。綺麗な貝なんかも落ちていた。
ゆっくりと歩を進める。
気を抜くことはできないが、免疫らしい免疫も現れなくて、比較的安全そうだ。
遠くに人魚が泳いでいたが、あれはあくまで背景の一部で、話したりはできないんだろうなーと夢覚が感じ取った。
あちこちに大きな岩があって、いくつか洞窟になっているのもあった。
その中には宝箱があった。
開けてみても、入っているのはおもちゃの宝物ばかり。
見覚えがあるものもあったが、それは俺が彼女の宝物をいくつか見せてもらったことがあったからだろう。
水の中は普通に泳ぐこともできるみたいだ。
バタ足で水面に向かう。太陽のキラキラした光が眩しい。
きっと水面の上には南国風味の世界が広がっているのだろうと思ったが、なんと真っ白だった。
時々格子状の影が見えたり、万華鏡の中の景色のようなものが広がったりしたが、空虚な景色だ。
「忍法水蜘蛛の術……なんてな」
水面を歩くこともできるみたいだ。
俺は景色を眺めながらしばらく彷徨った。
水が湧き出ている場所に出た。
激しい水音が鳴り、泡が噴き出している。
流れに抗い、ここに潜らなければならないような気がした。
自分の体が重い金属のようになり、沈んでいくイメージをした。
水が湧く、黒い穴。水底の更に下の世界へ、降りていく。
真っ暗な空間には、キラキラと星が煌めいていた。
土ボタルの洞窟みたいだ。
水琴窟のような、オルゴールのような、それでいてハープのような音がメロディを奏でる。
綺麗だが、あまり長居するのは危険だと本能的に感じた。
ずっとここに閉じ込められて出られなくなってしまうような、恐怖。
激しく光っている地面を見つけた。
ここに、彼女の心の結晶が埋まっているみたいだ。
真上には俺が入ってきたのと同じような穴が開いている。
俺はツルハシをイメージして、光っている部分を掘った。
キン キン
ピシ
地面にヒビが入り、光が溢れる。
もう少しで取り出せるというところで、地響きが鳴った。
ヒビを入れた箇所から水が噴き出し始める。
光に手を伸ばしたけれど、届かない。
水圧が押し寄せてきて、俺も結晶も上方へと流された。
穴を抜け、上の層に押し上げられても水流は止まらず、遥か上空へと飛ばされた。
ぽふん、ぽふんと雲のクッションが俺を受け止める。
結晶は何処に行ったのだろう。
流れ星のように何処かに飛んでいくのが見えた。探し直しのようだ。
雲の上を進む。これは雲というより綿だった。
あちこちに巨大なウサギの尻尾のようなものがある。ケイ酸塩鉱物のオケナイトだ。
そういえば、彼女のコレクションになったな。
ガラス状の繊維が放射状に伸びているその姿は、鉱物のイメージからは程遠い。
突如、嫌な気配を感じた。
白い雲々が黒く染まり、雨雲の様になっていく。
「モリ……オ……カ……」
低い男の声。
確かに遠峯のものだが、まるで理性を感じられない声色と化していた。
黒いシルエットが現れ、フードの男の形になっていく。
「どうして……もうここには来られないはずじゃ」
俺が呟くと、クォ・ヴァディスの声が頭の中に響いた。
『彼は、一生分の正の感情を対価に、新たに契約を交わしたようだ』
強い憎悪が空気を伝う。
『今の彼は、君への憎しみで動く人形のようなもの。もう、人間だとは思わない方が良いね』
暗雲が雷を発し、ゴロゴロと音が鳴る。。
心の結晶が落ちた方向へ、俺は一気にワープした。
暗雲の中に光るものが見える。
思っていた以上に結晶に近づくことができたようだ。
背筋に悪寒が走った。
距離を離したはずの奴が、すぐ近くにいる。
「なんだとっ……!?」
『彼は、過去の喜びも、これから喜びを得る“可能性”さえも悪魔に売り渡したんだ。いくつかの能力を得ているのだろうね』
これじゃ、ワープだけじゃ対抗できないじゃないか。
奴は空中に無数の刃物を出現させ、こちらに飛ばした。
俺は咄嗟に透明なシールドを張る。
『彼は夢を操るのに必要な力、もといMPの最大値が以前の数倍になっている。君のイメージで防ぎきることは難しいよ』
今度はあらゆる方向からナイフが飛んできた。
俺のATフィールドはもう限界だ。
やばい、これは死ぬ。
「……俺の未来の悲哀の感情を全てやる! だから、新しい力をくれ!」
『そうすれば、君の精神バランスは崩壊し、君は君という人格を保てなくなるかもしれないよ』
「構うか! ……ただし、支払うのは彼女の心の結晶を全て集め終えた時だ。できるか?」
『後払いするという発想ができてよかったね。良いだろう』
ちょっとだけ、支払いの遅いクライアントに感謝した。
MP的な何かが体に満ちてくるのを感じる。
万能感というか、全能感というか。
「モリオカ……モリオカァァァァアア!」
遠峯のことが、なんだか哀れに思えた。
人間性を捨ててまで、俺を殺したいのか。
別の恋を見つけて幸せに暮らす可能性を捨ててまで、彼女への執着を捨てきれないのか。
「この世界から出ていけ!」
雲の上に存在する大量のオケナイトを集結させ、無数の針を奴に向かって飛ばした。
奴の体に細くて白い針が突き刺さる。
しばらく攻撃を続けていると、奴の姿は人型のオケナイトと化した。
そして暗雲から雷を集め、奴の脳天に直撃させる。
「……やっと倒れたか」
だが、また生きている。
『さて、どうする? 完全に彼の心を焼き尽くして殺すこともできるけれど』
『追い出して、もう二度とこの世界に来られなくするだけでいい』
刑務所でこいつは罪を償わなきゃいけないんだ。
それに……俺に、人殺しになる勇気なんてなかった。
巨大なつららをイメージして、空中から遠峯の胸に落下させた。
生々しい音が響く。
「……ふう」
奴の姿は、ゆっくりと透明度を増し、消えていった。
光の方へ向き直り、歩を進める。
「ちょっと、手間取っちゃったな」
雲に手を突っ込み、結晶を掴んだ。
流れ始めたのは、俺の知らないイメージだ。
彼女とクォ・ヴァディスが向かい合っている。
「恋人を助けたいかい?」
「ナハトさん? じゃない! 大人ヴァルク! 大人ヴァルクだ! 夢の中でだけれど、こうして会えるなんて!」
彼女は知っているキャラクターの姿をした彼を見ると、はしゃいでペタペタと触りまくった。
俺が死にかけていることなんて忘れてるんじゃないのかと思ってしまうほど。
「僕はそのキャラクターの姿を借りているだけの、通りすがりの悪魔だよ」
「悪魔?」
「そう」
璃奈は悪魔の姿をまじまじと観察した。
「よく見ると、細かいところが違う……」
「ふふふ。僕はね、君と契約したいなって思ってるんだ。君の悲哀の感情はとてもおいしそうだからね」
「ふうん」
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
「……10年遅いわね」
悪魔はどこぞのインキュベーターの様なことを言ったが、彼女は20代だ。
「冗談だよ」
紺色の髪の青年はくすりと笑った。
「今にも彼の命の灯は消えてしまいそうだ。けれど、君が悲しみを対価に僕と契約してくれれば、彼を助けることができる」
「悲しみを対価にしたら、私はその後どうなるの」
「人間1人の命を救えるほどの対価だからね。君の精神バランスは大きく崩れ、数日の内に心が死にかけた状態になるだろう」
それを聞き、彼女は表情を暗くした。
「さあ、どうする?」
彼女は唇を噛み締め、唾を一度呑み込むと、口を開いた。
「契約する。彼が死んだら、それこそ私は生きていけないもの」
悪魔は彼女の額に人差し指を伸ばした。
契約は完了した。
「そうだ。あなたの名前、なんていうの」
「名前はないよ。あったかもしれないけれど、忘れてしまった。好きに呼んでくれていい」
「う~ん……じゃあ、何処から来たの?」
彼女は、産地から連想したものを名付けに使う癖がある。
「さあ、何処だっただろうね。僕は何処から来て何処へ行くのか、自分でもわからないんだよ」
彼女は少し考えるような仕草をすると、微笑んだ。
「じゃあ、クォ・ヴァディス。『何処へ行くのか』って意味よ」
目を覚ますと、俺は涙を流していた。
そして、クォ・ヴァディスのことをちょっとだけ憎く思った。
彼が璃奈と契約しなければ、彼女が心を壊すことはなかった。
けれど、その契約がなければ俺は今頃死んでいた。
感謝の気持ちがないわけでもない。
複雑な気持ちを抱えながら、俺は朝の支度を始めた。
続
【8】
会社の休憩室で昼食を食べる。
今日は残業が発生する可能性がほとんどないから、夕方には彼女の所へ見舞いに行けるだろう。
俺は時計を見ながら、早く時間が過ぎたらいいなと思っていた。
「ごめんな昨日、俺が代わってやれたらよかったんだけど」
「いいよ、そっちだって忙しかっただろ」
坂田は俺に声をかけると、テレビの電源をつけた。
『本日午前11時30分頃、ストーカー・殺人未遂の容疑で逮捕された遠峯淳二被告が逃走したとの報告が入りました』
アナウンサーが冷静な声で告げる。
遠峯が、脱獄しただと……!?
「おい、森岡」
坂田が深刻な面持ちでこちらを見る。
俺は慌てて携帯を確認した。警察からの着信が数分前に入っていた。
こちらからかけ直そうとした瞬間、女性社員が俺を呼びに来た。
「森岡さん、警察の方がいらっしゃってますよ」
「すぐ行く!」
弁当の中身をかっこみ、俺は速足で休憩室から出る。坂田も俺を追いかけていた。
警察は以前もお世話になった人だった。
「鷹木さん! 璃奈は!?」
「警察が病院で警護しています。あなたの身も危険ですので、緊急避難先をただちに用意します。私と共に行動してください」
「俺、病院に行きます!」
「えっちょっと」
嫌な予感がしてならない。俺はもう、いてもたってもいられなくなった。
「行ってこい! 会社には俺から話通しとくから!」
「すまん坂田!」
同僚に感謝しながら俺は走った。
「ああもう仕方ないですね! 彼女の安全を確認したらすぐ避難しますよ!」
改札口を通るため、財布からカードを取り出そうとしたのだが、手が震えてカードを落としてしまった。
「大丈夫です。安心してください」
鷹木さんがカードを拾い、俺の肩を叩いた。
「……ありがとうございます」
病院は騒然としていた。怪我人があちこちに倒れていて、白い壁が赤く染まっている。
「……危険です! ここから離れましょう!」
俺は鷹木さんの手を振り払い、走った。
「駄目です森岡さん! 殺されます! 森岡さん!!」
奴は彼女の入院先も、病室も知らないはずだ。
だが、何らかの原因で情報が漏洩したとしたら。もしくは、悪魔との契約で彼女の居場所を知ることができていたとしたら。
一刻の猶予もない。
「璃奈、璃奈……!」
彼女の病室に近づけば近づくほど、怪我人の数が増えていった。
警察まで倒れている。
「ぐえげげげげげ」
血だらけで精神崩壊した遠峯が、彼女の上に跨っていた。
鷹木さんが銃を構えても、あいつは全くこちらに意識を向けず、ただ彼女だけを見ている。
遠峰が彼女の首に手を押し当てた。
「やめろ!」
俺は病室に乗り込もうとしたが、駆けつけた他の警察に羽交い絞めにされた。
「放してくれ!」
鼓膜を裂くような大きな音が鳴った。
鷹木さんが発砲した。弾は遠峯の背をかすめたが、あいつは痛みなんて感じていないかのように手に込める力を強めている。
「遠峯! お前が憎んでいる男はここだ! 先に俺を殺せ!!」
遠峯は顎をシャフ度のように上げ、こちらに不気味な視線を向けた。
俺の同級生だった遠峯の面影なんて、もう残っていなかった。
体がこちらに向いたタイミングで、鷹木さんが更に発砲した。
ドン ドン
胸や肩を打たれても尚、遠峯は床を這いずってこちらに向かってくる。ゾンビのように。
早く奴をどうにかして、彼女の治療を始めなければ。
彼女は、今にも死にそうな青い顔をしている。
「普通なら動けないはずなのに……!」
鷹木さんの額に脂汗が滲む。
恐怖で手が震え、銃を撃っても弾は外れてしまった。
カチャ、カチャ
弾切れだ。
「ちくしょうっ!」
俺は警察の腕を振りほどき、遠峯の背に乗って動きを止めた。
「今の内に弾を!」
鷹木さんは少し手間取りながらも新しい弾を充填し、再び構えた。
「ぐあががが! ぎゃげごごごご!」
「じっとしていろ遠峯!」
「撃ちます! 離れて!」
俺が横に跳んですぐ、銃声が鳴った。
銃弾は正確に遠峯の額を貫いた。
今度こそ、奴は動かなくなった。
「……璃奈っ!」
俺は彼女の傍に駆け寄った。
「……息をしていない! 早く、早く治療を!」
もう少しだったのに。もう少しで、俺は彼女の心を取り戻すことができたはずだったのに。
昨日、俺があいつを殺してさえいれば、こんなことにはならなかったんだ。
でも、今更後悔したって、遅い。
――いつの間にか、俺は白昼夢を見ていた。
「彼女の命の灯は、もうじき尽きる」
クォ・ヴァディスが白い空間に立っている。
いつもと違って、微笑みを浮かべてはいない。真面目な表情だ。
「死んだ人間を蘇らせることはできない。けれど、今ならまだ間に合う」
「何を対価にすれば、彼女を助けられるんだ」
「君の悲哀のほとんどはもう売約済みだからね。対価にできるものは……肉体の健康かな」
俺は、心だけでなく、肉体の自由も失うことになる。
彼女が俺を助けてくれたことは無駄になってしまうけれど、俺は、彼女が俺にそうしたように彼女を助けたい。
「本当にいいのかい?」
「……頼む」
俺の意識は病室に戻ってきた。
「本当は、昨日の内に渡そうと思っていたんだけどさ」
俺は鞄からトルマリンの指輪を取り出した。
彼女の左手の薬指に、ゆっくりと嵌めていく。
「きっと、助けるから。じゃあな」
そして、再び眠りの世界へと落ちた。
もう、いくつの窓の中を旅しただろう。
真っ黒な空間に、いくつもの真っ白なレースが浮かんでいる。
その中には、彼女の実家の部屋の窓にかけられていたものもあった。
ああ、懐かしいな。
上方から、無数のキラキラしたものがゆっくりと落ちてくる。
それは、プラスチックの宝石であったり、本物の鉱物だったり、何か正体のよくわからないものであったりした。
しばらく進むと、石造りの噴水が見えた。一番上の部分が一等星のように輝いている。
よく見ると、結晶は指輪に取り付けられていた。
縁から上り、天辺へと手を伸ばした。
景色が真っ白になる。
何か、心につっかえていたものが取れたような感じがした。
俺は彼女に何かを伝えようとしていた。でも、そのことをずっと思い出せないでいた。
俺は、彼女にプロポーズしようとしていたんだ。
ああでも、心も体もボロボロなんじゃ、もうそんなことできないな。
再び新しい窓へと進む。
免疫による攻撃はあっても、いくらでもイメージで防御することができる。
だから、何も恐れず旅を続けることができた。
「この世界の主は、きっととても悲しみます。あなたと生きられない未来なんて、価値を感じないでしょう」
俺の力で再び“絵夢の形”を手に入れた心の修復機能が言った。
「俺は死ぬわけじゃない。時間はかかるかもしれないけど、いつか心も体も回復する日が来るって信じてるよ」
草原に寝転がって空を見上げた。
「それまでに、彼女が他の良い男を見つけてたら、身を引くしかないけどさ」
「きっと、ずっとあなたのことを待っていますよ」
少し離れたところに、高い崖が見える。
あそこは、俺が最初に来た場所だ。なんだか早くも懐かしいな。
さて、最後の1つを探しに行くか。
草原を駆け、雪の結晶が舞う世界へ入った。
どうして雪の結晶ってこんなに綺麗なんだろうな。自然には不思議がいっぱいだ。
青と白ばかりが広がっている。
心まで凍らされそうな景色だが、不思議と寒くはない。
子供の頃、彼女や同級生と雪遊びしたことを思い出した。
かまくらや雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり……。
目に雪玉を当てられて「いたい、いたい」と泣いてしまった璃奈を慰めた日もあったな。
その時の光景が、吹雪の中に一瞬見えた。
ある年の冬には、かまくらを作り終えると、彼女のお母さんがおしるこを持ってきてくれて、かまくらの中で飲んだこともあった。
懐かしい日々。雪が思い出を映し出しては消えていく。
空から降ってくる雪の結晶を1つ、手のひらで受け止めてみた。
すぐに俺の体温でそれは消えてしまった。
思い出と同じように、儚い。
先の方に、城? 神殿? とりあえず西洋風のでかい屋敷のようなものが見えた。
いかにもファンタジー作品にありそうだ。
そういえば、絵夢の冒険記にこんなダンジョンがあったような気がする。
中に入ると、謎解きが必要そうな作りをしていた。
「なあ絵夢、出てきてくれ」
絵夢は呼び出せばいつでも来てくれる。
「ここの攻略法、わかるか?」
「はい。この世界の主がこの城の攻略法を覚えているので。自分は主の記憶を引き出すことができますから」
すいすい奥に進むことができた。
寂しいけれど、美しい場所だ。
「ここが最上階です。本当は変態王子が住んでる部屋なんですけどね」
どんなキャラだそれ。
……もし再び心と体が元気になったら、彼女と一緒にこのゲームをしよう。
そして、たくさん語り合うんだ。
扉を開け、部屋の中に入る。
北欧風の机の上に、彼女の心の欠片は輝いていた。
俺は手を触れる前に、扉の方へ振り向いた。
「今までありがとうな」
「あなた達が幸せになれる日が来ることを、祈ってます」
暖かい風に包まれる。
とある春の日の記憶が流れ込んできた。
桜の花びらが舞う。
「もう社会人なんだねー」
「早いもんだな。にしても、桜がこんだけ見事だとドリキャス出したくなるなあ」
「私はグリシーヌね」
「俺はすみれさん」
俺と彼女は、同棲を始めるにあたって、必要なものを買いに行っていた。
その帰り、通りがかった植木屋で、彼女はある植物に目を留めた。
「あの葉っぱかわいー! ねえ、私とたっくんが上手くいってるお祝いに、あれ新居に置こうよ」
「でもまだ金が……いや、そんな高くないし、いいか」
札に花言葉が書かれていた。
「恋が成就する」「幸福を告げる」……葉っぱがハート型なだけに、縁起が良い。
同棲が上手くいき、結婚にまで進めたらいいなと思いながら、俺と彼女は半分ずつ金を出してその草を購入したのだった。
俺は目を閉じた。
これで、彼女は目を覚ますはずだ。
そして、俺はこれから“悲哀を感じる可能性”を対価として悪魔に払い、精神崩壊を起こす。
後悔がないといえば嘘になるけれど、やれるだけのことはした。
「……たっくん?」
彼女の声が聞こえた。
真っ白い空間に、確かに彼女はいた。
「璃奈!」
生気のこもった、彼女の綺麗な瞳がこちらを見つめている。
俺は思わず彼女を抱きしめた。
「馬鹿、馬鹿、私のために」
「お互い様だろ」
過去の幻影ではない、現在の彼女だ。
「あなたが私を助けるために、どれだけ苦労したか……記憶が流れ込んでくるの」
璃奈の目に涙が浮かんだ。
「目を覚ましたら、私はもうあなたと会話することはできない」
「そうだな」
「それなら、ずっとこの世界に留まってた方がマシだよ!」
「でもさ、夢は覚めるものだろ。君はもう起きなきゃいけない」
結婚しようって、言いたかった。でも、駄目だ。
「私、また悪魔と契約するよ。あなたを助けるために」
「クォ・ヴァディスは、もう君の悲哀を食らうことはしないと言っていた。そして、人が悪魔と出会うなんて滅多にない。もし出会えても、もう契約はしないでほしい」
これは俺のわがままだ。でも、もう同じことの繰り返しにはしたくなかった。
「俺の他に良い男がいたら、その人と幸せになってくれ」
「……馬鹿ー!」
頬をはたかれた。
「じゃあ、廃人状態と俺と、結婚してくれるっていうのか?」
「するよ。一生お世話する」
目がマジだ。
うーん、まだ若いのに、彼女もといお嫁さんに下のお世話をしてもらうっていうのはやだな……。
景色がゆっくりと点滅した。
彼女と話せる時間はもうないようだ。
心がバラバラになるような感覚を覚えた。
俺が、壊れていく。
「あのね、これ、大事にするね!」
彼女の左手の薬指には、現実世界で俺が彼女につけた指輪がはまっていた。
「愛してるよ、璃奈」
「たっくん、絶対帰ってきてね!」
景色がガラスの様に壊れ、消え去った。
同時に俺の心も割れて、散った。
俺って、誰だっけ?
彼女って、誰だったっけ。
窓が見える。
窓って、何だっけ。
こわれていく。きえていく。
もうなにもわカらなイ
と〒も幸せ#った きガす*け‘^゛
カな*みがわかラなけれ+゛ よ÷こび∴わからナい
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「君はとても運が良い。都合良く僕がピンチに陥って、僕を助けることができたのだから」
?
「今度は、僕が対価を払う番だよ」
?
「君は僕に、精神体と仮初の肉体を維持するためのエネルギーをくれたね。要するに、僕は君に体も心も救われたわけだ」
?
「悪魔の契約は原則等価交換であらねばならない。よって、僕は君を救わなければならない」
?
「さあ、目を開けてごらん」
バラバラになったものが、組み直されていく。
無くなったままのピースがいくつかあるけれど、心は確かに俺の形をしていた。
消毒液の匂い。病院独特の……日本の病院特有のものだという説もある匂いがする。
「たっくん……?」
今にも泣き出しそうな彼女の顔が、そこにはあった。
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カツコツと、精神世界にヒールの音が響く。
全ての人類の精神は深層心理で繋がっている。
ここは、特定の誰のものでもない、あらゆる人へ繋がる世界だ。
「あなたは本当に人助けが好きねえ、悲哀を食らう悪魔」
深城璃奈の姿をしたままの、歓楽を食らう悪魔が僕に声をかけた。
「好きってわけではないさ」
「いつもあんな風にわざとピンチになって、人間にチャンスを与えているじゃない」
「僕はね、ハッピーエンドが好きなんだよ。後味の悪い物語はあまり好みじゃないんだ」
「悪魔のくせにね」
もしかしたら、悪魔になる前の気持ちが僕の中には強く残っているのかもしれない。
さて、これから誰の悲哀を食らいに行こうかな。
この世界の誰もが悲哀を抱えて生きている。
だから、僕はどんな人の所にでも行く可能性がある。
次は――ああ、君がいいね。とっても、とってもおいしそうだ。
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――――――――
俺のメンタルは以前より弱くなったし、体も虚弱だ。
けれど、日常生活を送ることができる程度には回復した。
俺も彼女もしばらく休職したけれど、無事復帰し、充実した日々を送っている。
ある日の日曜日、俺は彼女と久々のデートをしていた。
見晴らしのいい丘のベンチに座り、景色を眺める。
傍に立っている木が。ほどよく日光を遮ってくれた。
「あのね、1つお願いがあるの」
「何?」
「ちゃんとね、プロポーズし直してほしい」
俺は少し照れくさくなったけれど、彼女の手から指輪を外し、地面に跪いた。
「俺と、結婚してください!」
「……喜んで!」
彼女の左手の薬指に、改めて指輪をはめこんだ。
俺も彼女も笑っていて、もうこれ以上の幸せなんてあるのかって思った。
「そうだ、俺も1つ気になってることがあるんだ」
「なあに?」
子供の頃からの疑問。彼女に、かつて答えを教えてもらえなかったこと。
「どうして、そんなに窓が好きなんだ?」
彼女は顔を赤く染めてちょっと俯くと、はにかんだ微笑みを浮かべた。
「窓を開ければ、あなたに会えた。だから、私にとって、窓はあなたとの絆を繋いでくれる大切なシンボルなんだよ」
終
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