悪魔「君の膵臓を食べたい」 (15)
つい先刻、みすぼらしい格好をした奴隷商の男が浮かべた下卑た笑みをふと思い出していた。
私の手元には、その男から受け取った古びたカタログと、生血でサインを交わした契約書が一枚。
男は去り際に言った。「ソイツはどうしようもない売れ残りなんですけどねえ。ほんとにいいんですか?」
私は椅子に座ったまま、男を黙って見つめていた。その行為に特に意味はなかったが、
私がそうしていることを不審に思ったのか、男は部屋を出るまで私の機嫌を取ろうと媚びへつらっていた。
私は大きくため息を吐き、使いの者に「男を好きにしていい」と命じる。
さて、あの男はどのような仕打ちを受けるのだろう。私は廊下に響いた断末魔を聞き届けながら、閉じた瞼をもう一度開く。
そうして目の前には少女がひとり跪き、「どうしたんだろうか」と大きな瞳でこちらを見ている。
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悪魔が人を食べて生きているというのは、いうなれば世間の常識だった。
世界の仕組みがいつからそうなったのかということまでは詳しくは知らない。
この世に生を授かったときから私は何も疑うことなく人を食べてきて、
そして人もまた私という存在に食べられてきた。
弱肉強食という言葉を、荒廃した民家から手に入れた書物ではじめて知ることが出来た。
要するに、我々は人間の上に立つことで、絶対的な位置にいた彼らを支配下に引きずり下ろしたのだ。
そして幾何の時間を経て、人は“労働用”と“食用”に分けられた。
一般に後者に選ばれやすいのは、肉付きの良い人間という極めて単純な違いだけだった。
そういう意味では、先ほど奴隷商の男から買った少女は最悪だった。
骨ばった体に加えて、垢にまみれた肌からは、腐敗臭に近い香りをあたりに漂わせていた。
まだ13歳と未熟な年齢であることも踏まえて、中々買い手が見つからなかったのも頷けた。
「あー、あー……!」
少女は私に恐れをなしたのか、自らの身を守るように両の腕で頭を抱えている。
私はそのみすぼらしい少女の姿を見て、ひときわ愉快な声をあげた。
「見ろ。言葉もまともに喋ることすら出来ず、ただ怯えているだけの無価値な存在だ」
「お言葉ですが、私にはこの人間が食用価値のある域まで達するとは到底思えません」
使いの者は、まるで汚物を扱うかのような目で少女をじっと見ていた。
「それをするから面白いのだろう」私はおもわず笑みをこぼす。
「すぐに終わってしまっては、興に入らないからな」
◇
「膵臓ですか。旦那様は、これはまた変わった部位がお好きなんですね」この場に残った使い魔が言った。
「ああ。大抵の悪魔は、腿や腕なんかを好むのだろうが、あれはすこし大味だろう」
使い魔は「はあ」とちいさく頷くと、よく分からないといった表情のまま首を垂れた。
「膵臓を食べる際は、胆嚢と繋がる膵管を含めて、総胆管、十二指腸これらすべてを取り除く必要がある。
それから、少々手間ではあるが、膵液抜きも忘れてはならない。
これを怠ると、細胞の死後に膵臓の壁面が消化酵素に侵され風味が落ちてしまう。そうなれば、腐った脳みそと同じだからな」
顔を顰める使い魔を無視して、私は話を続ける。
「これまで私は、数多くの命を屠ってきた。そうしなければ生きられなかった、それはお前達も同じだろう」
使い魔は「はい、その通りでございます」と答える。
「悪魔である限り、それは悪いことではない。だがな、そうしているうちに、どうにも私の体は段々と物足りなくなっていったんだ」
「膵臓は元より脳や心臓と同じく、処理の段階で捨てられるとお聞きしましたが」
「ああ。おおよそ、口にする者もいないだろうな」
私は淹れたてのティーに手をかけ、カップの淵に口を当てるとひとくちだけ啜る。
「だからこそ、それを初めて食べたときに、私は初めて生を実感できたんだろう」
使い魔との会話を終えしばらく経ってから、部屋の扉が開く音が聞こえた。
そちらに目を向けると、先ほど別の使いに連れられた少女が立っていた。
真っ白なワンピースに身を包まれた少女は、すこし緩んだ表情をたちまちのうちに強張らせる。
「旦那様、湯浴みが終わりましたので娘をお部屋まで連れてまいりました」
使い魔は慣れた様子で一礼すると、黒装束のスカートを微かに揺らし私の言葉を待つ。
「すこしは見れる姿になったようだな」
脂ぎった栗色の髪の毛は、今はするりと肩のあたりまで垂れていた。
それからすぐに机の上に書物を散りばめはじめた私に向かって、
使い魔は「何をなさっているのですか」と問いかけた。
「まずは言葉を教えなければならない」
「言葉ですか?」
「ああ。手始めに、書を読ませたいと思う」
いささか私の説明に対して納得がいかなかったのか、
使い魔は首を傾げながら固く結んだ口を開く。
「食肉に対して自我を与えるのは危険だと思われますが」
「学び舎では、脳の働きについては教えてもらったか?」私は使い魔に問う。
「一通りの知識は自分で学びました」
「なら、話は早い。つまりだ、言葉を与えるのは脳への影響を図ってのことだ」
私は古紙と黒インクを並べる手を止めないで話し続ける。
「脳の機能については、人間がまだ栄えていた頃に十分調べつくされている。
人は言葉を覚え、この世に存在する物に名前を与え、頭の中で結びつける。
そうすることで知識として蓄積されていく。これはある意味では、動物種としての本能とも言える」
「それでは、この娘に言葉を教えるというのは」
「言っただろう。私の目的は肉を育てることだ。これはその手始めということだ」
少なからず私の苛立ちを感じ取ったのか、使い魔はそのまま黙ってしまう。
仕方なく私はため息を吐き、私たちを一歩引いた場所で見ていた奴隷の少女を呼ぶ。
「さあ、ここへ来なさい」
少女はびくりと肩を跳ね上げ、それから指さした椅子へと座った。
少女が言葉を覚えるのに要した時間は、人の感覚で言えばおよそ三年ほどだったろうか。
少しだけ背が伸びた娘を、私はリリイと名付けた。
特に意味はなかったが、娘は自分の名前を大層気に入っていたようだった。
「ねえ、旦那様。私ね、ベジタリアンって言うらしいの」
ある日の夜、ろうそくの明かりを見つめながらリリイは言った。
「ベジタリアン?」
「うん。ほら、私って果物と野菜しか食べないでしょ、そういう人のことをベジタリアンっていうんだって」
ここへ来たばかりの時からは考えられないほどの落ち着いた声で、リリイは机に置いた本を指さす。
「この本にそう書いてあったんだ」
「また私の書架から持ち出したのか」
「えへへ、ごめんなさい。だけど旦那様の本はどれも面白いから」
リリイはやはり悪びれたふりをしていた。これも彼女の悪い癖だ。
「ただ、ベジタリアンはただ単に菜食主義者という意味を持つわけじゃない」
「そうなの?」
「ベジタリアンというのは、いわば、健康であることという意味に近い」
「……ふーん。なんだか素敵な言葉だね」
私が黙ったままでいると、しばらくして彼女は嬉しそうに笑った。
不思議に思った私がどうして笑うのかを尋ねても、彼女は答えを教えてはくれなかった。
見切り発車でかきはじめました。つづきます。
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