よく、他人から「たくさん食べますね」と言われる。「おいしそうに食べますね」とも。
私が思うに、それは事実であって事実ではなかった。食べることが嫌いなわけでは当然ない。でも、簡単な言葉で済ませて欲しくないという気持ちも、確かに存在している。
私にとって食事はエンターテインメントであり、同時にコミュニケーションなのだった。
「たとえば今日の食堂の日替わりメニューは秋刀魚の蒲焼定食でしょう? これを『あぁ今日は秋刀魚の蒲焼なんだなぁ』で済ませていつも通りのカツカレー大盛り六八〇円を注文するか、それとも『もう秋刀魚が獲れる時期なのね。お、なんと定食のおみおつけが五十円増しで豚汁に変更できるサービスが新しくできてるなんて。なら秋刀魚と豚汁でこれからやってくる寒い季節に思いを馳せるのも悪くないかしら』と思いめぐらせて五五〇円を握り締めるかで、人生のトータルでの幸福度というものは随分と変わってくると思うのよ」
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甘辛いタレが存分にかかった秋刀魚の蒲焼をつやつやの白米の上に乗せると、蒸気に乗って得も言われぬ香りが……!
くぅっ……!
「そう思わない? 飛龍」
「そうですねぇ……」
目の前でカツカレー大盛りをぱくついていた飛龍は、あくまで視線をカツから離さない。
「あたしはカレーのほうが好きですかねぇ」
だめだ。話がまるでわかっていなかった。
カレーやカツと親和性があるのは、彼女が黄色い制服を纏っているからだろうか。
飛龍の隣でシーザーサラダを食べているのは蒼龍だ。ダイエットをしているらしい。必要以上に健康に生きようとするのは不健全だと思うのだけど。
蒼龍は私の話をぽややややんとした顔で聞いていた。……聞いていてくれていたでしょ? 信じていい?
「蒼龍」
視線を向けると彼女ははにかむように笑った。
「わたしはちゃんとしてますよ。毎日同じサラダじゃ流石に飽きちゃいます」
それ、サラダは毎日食べているってこと?
「まるで女子大生みたいね」
「え? そうですけど」
そうだった。この二人はまだ女子大生なのだ。数年前に私たちが通り過ぎた地点に、まだこの娘たちはいるという驚愕の事実。
「赤城さん。悲しくなるからやめましょう」
言葉とは裏腹であんまり悲しくなさそうに、私の隣で加賀が言った。加賀は月見そばとにらめっこしている。どうやら黄身をどのタイミングで潰すか悩んでいるようだった。
カツカレーにしろ月見そばにしろ、食べるバランスとタイミングは重要だ。それだけで一冊の本が書けるほどに。
バランスが難しいのは秋刀魚の蒲焼も同じ。おかずとご飯をどう配分すれば綺麗に
食べきることができるのか、それは散布界と残弾数から最も効率的な砲撃を行うときにも似ている。
「昼飯時に騒がしいな。飯は黙って食え」
背後から声をかけられた。振り向かなくてもわかる。提督がトレイの上に食事を乗せて立って「いるはずだ。
「女三人で文殊の知恵、ですよぉ」
蒼龍がぽやぽやしたことを言う。
「女所帯でその理屈が通じるか。まぁ、大方うるさいのは赤城だけなんだろうが」
「わかっているならいいんです。それとも提督も私のご高説を聞きに?」
「賜りてぇのはやまやまだが、そうしているうちに麺が伸びる」
「ラーメンですか。珍しく豚骨ですね」
癖のあるにおいがぷんと鼻孔を衝く。不得手のひとも少なくないが、この独特のくさみにこそ不思議な中毒性があるのだと思っている。
提督は普段はスタンダードな醤油で、軽空母たちと呑んだ翌日などは味噌だったはず。それがここにきていきなり豚骨とは、一体このひとの中で何が起こったのか。
振り向くと目が合った。そして視線のちょうど交わるあたりに丼があって、ラーメンの頂上にちょこんと紅いものが見える。
「本場では紅生姜を乗せると聞いてな」
挑戦者に激励の言葉は無粋だった。私はサムズアップで無事を祈る。
食の開拓者に加護のあらんことを。
「あ、黄身が破れてしまったわ。赤城さん、こういうときはどうすれば」
「極力つゆと混ざらないようにして、そばを絡めて食べるとよいと思います」
「なるほど」
加賀は音も最小限につるつるとそばを啜っていく。主張の控えめな、それでいてほんのり桜色に色づいた唇にそばが吸い込まれていくさまは、思わず見とれてしまいそうになる。
「あ、提督」
いつの間にか歩き出していた彼の背中に声をかける。
「あとでお邪魔しても?」
「おう」
「えー、なになに、どうしたんですかー」
口の周りにカレーがついていた。それを指摘してあげると、飛龍は慌ててナプキンで口元を拭う。
彼女の疑問は、申し訳ないが別に大したことではないのだった。単なる日常の延長線にすぎない、とるにたらぬ私の暇つぶし。それに提督が付き合ってくれているという、面白みのない説明になってしまう。
おいしいものを食べるのは当然大好きだ。寧ろ嫌いな人間がいるものかと思う。
そしてそれと同じくらいに、いや、あるいはそれ以上に、私は食事をおいしく摂りたいのだ。
おいしいものを食べるのが喜びなら、ものをおいしく食べようとするその心技体こそが、人生に彩りを添えるのだと私は声を大にして憚らない。
食べるという行為に薀蓄や作法は必要ないと思う人が多数存在するのは知っている。決まってそいつらは言うのだ。食通を指して、不必要に食事の価値を高めすぎているのだと。
寿司一貫に数千円。肉一切れに数万円。ワイン一本に数十万円。値段と満足度は比例するのか――答えは否である、と。
さもありなん。気持ちはわかる。どこ産の食材を使っているだとか、何十頭からかき集めて僅かという希少部位なのだとか、あるいは食前にはこれを呑んで肉と合わせる酒はこれでだとか――よくもまぁ本当に、例をあげればきりがない。
嚥下しているのが食材なのか、はたまた知識なのか、その境界は曖昧で茫洋としている。なればこそ、私はその曖昧さに身を委ねたいと思う。
話題は回帰する。大事なのは「おいしいかどうか」ではない。「おいしく食べようとする生き様」こそが、私たちに食の満足を与えてくれるのだ。
私はそう信じている。
がちゃり。
執務室の扉は驚くほどに軽く、住人の「よう」という声音も同じくらいに軽い。
提督はリングファイルを数冊開きながら、それに目を通しつつも右手で判子をついていた。器用なものだ、見てもいないのに捺印の枠から少しもずれる様子がない。
「悪いな、あと少し目を通したら、体が空く」
「いえ、お構いなく」
「先に呑んでるってか」
「まさか。そんなことはしませんよ」
そこまで不躾な女ではない。本気でそう思われているのだとしたら、それは随分と悲しいことだった。
「冗談だ。かけていろ、そこまで待たせない」
「では」
お言葉に甘えて。
私はいつもの席、部屋の隅に置いてある丸テーブルの上へと持参したお酒を置き、四つある椅子のうち二つを壁際に寄せる。
「アテは」
お酒は私が。肴は彼が。それぞれ持ちよることになっていた。
「酒は?」
「七ツ曲です。純米吟醸、無濾過、生原酒」
「中々きついのが来るな。それなら、冷蔵庫の野菜室にタッパがあるはずだから、それを出してくれ」
言われたとおりに抽斗を開けると、眠っていたのは何の変哲もないタッパ。触れれば塩ビがひんやりと指先を冷やしてくれる。
「開けても?」
「おう。ただぬるまっちまうと、まずいかもしれないが」
それは恐らく仕事を早めに片づける、という意味も含んでいたのでしょう。
タッパの蓋を開けると、茶色い棒きれと緑色のへちゃっとしたものがさっくり混ざった状態で入っています。独特のこゆい香り。香草と麹、でしょうか。なんだろう。
「身欠きにしん。実家から送ってきた」
確かにこれは、日本酒の力強さにも負けないような存在感が確かにあります。一つまみしたい衝動を必死に抑えながら、戸棚からお箸を二膳、お皿を二つ用意して、準備は完了。あとは提督の仕事終わりを待つだけ。
と、そこでこんこん、扉がノック。
「飛龍と蒼龍です」
黄色いほうの声だった。提督が応えをすると、相変わらずの軽さで扉が開く。
「あ、赤城さんいた。やっぱり」
「あー、なんですかそれ」
もう、ずるいなぁ一人だけとでも言う風に、蒼龍がこっちへやってくる。説明してわかるだろうか。二人とも生まれは北ではないはずだったから。
「酒の肴よ。二人も、呑む?」
ちらりと視線で示した先には、テーブルと二つの椅子。一本の日本酒。切子のグラスも二つ並んでいる。
顔を見合わせる緑と黄色。この二人が日本酒を飲まないことを私は知っている。ビールですら一舐めして顔を顰めるのだから、当然の話だ。また別の機会に、今度はきちんと缶チューハイを用意してあげないと。
ごめんなさいね、と心の中で謝って、「また今度呑みましょうね」と二人を送る。
扉が閉まるとほぼ同時に提督が立ち上がった。
「待たせたな。二人はいいって?」
「みたいです。甘いお酒でも用意してみますか」
「それもありだな。ほら、座れよ。呑みたくてこっちはうずうずしてんだ」
「もう。言っても、呑みすぎは体に毒ですからね」
なんて当たり障りのない言葉を紡ぐ。黙っていては口の端がにやけるのに気付かれてしまいそうだから。
意識的に顔を視線から外そうと、私は酒を注ぎ、小皿に身欠きにしんを取り分ける。
「お前は本当にうまいものが好きなんだな」
「みんなそう言いますけどね、違うんですよ」
私が好きなのは、おいしく食べることなので。
あなたと一緒のひとときだけで、十分お腹が満足なのです。
「乾杯」
切子がちりんと涼やかに鳴った。
――――――――――――――――――
おしまい。
どんなものでも、あなたがいれば。
短編も楽しいなぁ。エタらないのがやっぱりいいね。
次は誰で書こうかな。
お時間あれば過去作も是非
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このSSまとめへのコメント
赤城さんには、食の道を極められんことを祈る。