八幡「想いで」 (56)



人は何故山に登るのか、というと問いに対して、とある著名な登山家は「そこに山があるからだ」と答えた。ならば、だ、なぜ人は休むのか?という問いに対して、「そこに家があるからだ」と答えることだって可能なはずなのだ。論理としては何も破たんしていない。それなのにどうであろうか。山を評したこの言葉は名言とされ、様々なメディアに取り上げられている。一方で休息という、人生においてある意味では最も重要な事項ともいえる事柄について述べたこの言葉は、引きこもりの、働かない言い訳のように扱われるであろうことが、想像に難くないのだ。。優先順位は格段に上の筈なのに。
ああ無情。働きたくないでござる。何なら動きたくもないでござる。家でじっとしていたい。家最高。あとは、マッカン、小町、戸塚。八幡的三種の神器がそろっていれば、それだけで、もう他には何もいらないまである。
とまあ、普段の俺なら例のごとく、動かない言い訳を作るのだろう。まあ、この意見は論理として正しい、ということに俺は一ミリの疑いも持ってはいないのだが。

しかしながら、今回の一件に関して、それは別だ。というのも、言い出したのが俺だからだ。


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「ま、まだ着かないのかしら?」

平静を装っていたが、吐息が荒かった。無理もない、もともと体力のない雪ノ下の事である。俺でさえ疲れてきているのに、彼女が平気なはずがない。この道は、山道としては決して急なものではないが、その代わりに長い。もうかれこれ30分は歩いているのに、まだ頂上までたどり着かない。

「もうちょっとだ…」

励ますように、俺は彼女に声をかける。足元は暗く、吐く息が白い。灯りは、辛うじて吐息を視認できる程度にしかない。

足元が良く見えないせいで、小さな段差に気づくことが難しい。何度も躓きかけて、ギリギリで踏みとどまる。先ほどから何度か、彼女は小さな悲鳴を上げていた。木の枝に肌をひっかけているのだろうか。俺が出来る限り枝をかき分けてはいるものの、限界がある。やっぱり、彼女をこんなところに連れてくるべきではなかったかもしれない。


「っ…!そう…そうなのね……」

「本当にもう少しなんだよ……」

申し訳なさすら感じながら、俺は雪ノ下を励ます。それは自分では言い訳の様に聞こえてしまう。俺の認識が間違っていなければ、この場所から頂上まで、地図上では、小指の先ほどの距離だ。それが今は、果てしなく遠く感じる。荒い息遣いが聞こえる。彼女のか細い呼吸音と、山道を踏みしめる脚以外に、音を発するものはない。早く着いてくれ。そんなことを願ってしまうくらい、彼女は疲弊していた。


押し寄せる後悔を振り切るように、俺は脚を進める。もっと他の場所は、他の選択肢はなかったのか。別にあそこでなくてもいいんじゃないか。そんなことを考える。考えてしまえばキリがない。けれど、そうして自分を責めてしまったら、自分が全て悪いのだと、断じてしまったら。逆戻りしてしまう。あの頃に。彼女達が引っ張り上げてくれるまで、どっぷりと浸かっていた、あの闇の中に。


深くなっていく闇に、存在自体が飲み込まれてしまうかもしれない。この森の中の様に。


ネガティブな方向に向かう思考を、やっとの思いでつなぎとめる。一際大きな段差を乗り越えた時だった。

「きゃっ」

小さな悲鳴が後ろで上がった。振り向くと、数メートルほど先で、彼女がへたり込んでいるのがぼんやり見えた。

「雪ノ下!!!」

来た道をわずかに引き返し、彼女の下に向かう。

「だ、大丈夫よ、少し躓いただけだから」

そっと見上げる彼女の目。そのあまりの透明さに、俺は少し言葉を失った。真っ白な肌が、月光に照らされ、闇にぼんやりと浮かび上がる。闇よりも黒い髪がさらりと流れる。

「少し休むか?」

その姿から半ば無理やり目を逸らし、俺は休憩を提案する。

「いや、その必要はないわ」

「でも……!!」

「もうすぐなのでしょう?」

立ち上がった彼女は、服に付いた枯葉や土を軽く払うと、俺の目をまっすぐに見つめ返した。

「そ、それはそうだが」


「じゃあ何の問題もないわ」

行きましょう。そう、目が言っていた。

「お、おう」

彼女の勢いに気おされて。俺はそう呟いて、前を見るしかなかった。




暗闇の中で、山を登っていく時、背景となるものは夜空だ。これが昼間ならば、背景は青空で、どこがこの短い旅の終わりなのか容易に知ることが出来ただろう。しかし、今は夜。先ほど雲間から僅かに覗いていた月も隠れてしまっている。そして人生の中に無数にちりばめられた出会いの様に。唐突に視界が開ける。

  「ああ…」

雪ノ下が、後ろで吐息を漏らす。

  「着いたぞ」

そこは小さな公園だった。いや、果たして公園と呼ぶべきなのだろうか。小さく開かれた土地の中、一組のブランコが、ポツンと立っている。あとは遊具らしい遊具もなく、電灯が一本、そのブランコを照らすように立っているだけだ。その光もおぼつかない。

何もかもが―――――――――――

あの日の記憶のままだった。



「ここが目的地なの?」

「ああそうだ」

ゆっくりとブランコへと近づいていく。雪ノ下はやや戸惑いながらも、後に続く。
そして俺はブランコに腰かけた。キイィ、と鎖が微かな音を立てる。雪ノ下もつられるようにしてもう一つに腰を下ろす。ケータイの時間を確認する。液晶画面には10:54の文字。何とか間に合ったようだ。ほっと胸を撫でおろす。



少しの間、無言の時間が流れる。

 「こんなところまで連れてきて、どうするつもりなのかしらキモヶ谷君」

先に口を開いたのは、雪ノ下だった。疲労しているのは伝わってくるもの
の、目的地に到着したのが大きいのだろう。いくらかいつもの調子が戻ってきている。

 「小町とのデートの予習だ」


俺は嘘をつく。小町Loveなのは嘘ではないが。それでも、彼女をここに連れてくるつもりはない。それどころか、小町以外の女の子でも。多分俺はここに連れてこようとなんて思わないに違いない。今目の前にいる少女以外では。


雪ノ下雪乃以外では。





「呆れた……そのために、私はこんなところまで連れてこられたのね?」

雪ノ下は頭を押さえて、やれやれという仕草をした。

「ああそうだ」

「本当に最低の男なのね。全く。考えられないわ」
 
「なあ雪ノ下」

「なによ」

「怒ってるのか?」

「それすらもわからないようなおサルさんだとは思ってなかったわ」

「そうか」

「そうよ」

「なあ雪ノ下」

「………」

「雪ノ下?」

「……今度は何?」

「前見てろよ」

「前?」

「前だ」

「前なら見ていると思うのだけれど」

「いや、今お前が見てるのは俺だ」

「気持ち悪いことを言わないで頂戴。誰があなたみたいな人のこ――――――」

雪ノ下の言葉は最後まで続かなかった。

ブランコを照らしていた照明が消えたのだ。辺りはほんの一瞬、真の闇に包まれる。

「ひゃっ」

かわいらしい悲鳴が、横から聞こえた。

「ひ、比企谷くん、これは一体どういう――――」

「落ち着け、消灯時間になって、電灯が消えただけだ」

雪ノ下の言葉を遮って、俺は状況を説明する。彼女もすぐに理解はしたようで、冷静さを取りもどそうとしているのが伝わってきた。




「あなた…まさか暗がりに紛れて、私に変なことをするつもりなのではないでしょうね。こんなところに連れてきたのも、助けが呼べないようにするためなのかしら」

「んなわけねえだろ。ほら、前見ろ、前」

すぐに目が慣れるはずだ。そうすれば―――――――――――――

横で、彼女が息を呑むのが分かった。
  
目の前に広がる、満天の星空。上ではなく、前に。



「湖?」

一瞬の逡巡の後、雪ノ下はそういった

「ご名答。正確に言えばダムだけどな」

人間が星空を見るとき、邪魔になるものは何だろうか。数を挙げれば暇がないが、やはり最たるものは電灯だろう。ここにはそれが少ない。最も大きな障害となっていた公園の電灯は、ついさっき消灯時間を迎え、消えてしまった。
つまり、ここに星々の小さな光を飲み込むものは何もない。
  
そして、ここを選んだ理由がもう一つ。



「水面、見てみろよ。目を凝らさないとわかんないかもしれないけどな」

 雪ノ下と思しき影に、呼びかける

「ほんのわずかだけれど、星空が映っているわね」

「だろ?こんなもの、他じゃあ見られないぜ」

 ウユニ塩湖?だったっけ?外国のどこかにいけば、もっときれいなものが見られるという事はこの際置いておこうと思った。

「これを見せたかったのね?」

「ああ…まあここを選んだ理由はもう一つあるんだけどな」

「?どういう事かしら」

首を傾げる仕草がなんとなくわかったような気がした、なかなか目が慣れてきたらしい。


「えーっとな」

そして俺は語り始める。ここに来た一番の理由を。

「小学校ときの話なんだけどさ、俺、一度家出をしたことがあるんだ」

「家出?」

「そう、家出。家を出るって書いて家出な。学校から誰もいない家に帰ってきて、そしたらなんかもうどうしようもなくなって」

自分を受け入れない学校の奴らから。自分に関心を向けない両親から。俺は少しでも離れたかったのだろう。少しでも離れたくて、遠くに行きたくて、無我夢中で走って走って。それで――――――――――――

「で、気が付いたらここにいたんだよな」

「……随分と遠くまで来たのね」

「夢中だったし、やけを起こしてたからな。ここに着いた頃にはヘトヘトだったが」

「そうだったのね」

「そうだ。でもその時、ここには先客がいたんだ」

「誰かがここに既に来ていたという事かしら」

「そうだな。女の子が一人、今お前が座ってるブランコに座ってた」



覚えている。沈みかけた夕日に照らされたその少女は、駆け上がってきた俺に向かってこう言ったのだ。

『君も苦しいの?』と。



涙と汗でグシャグシャになり、ただでさえ腐った目(まだ当時はそこまで腐っていなかったのかもしれない)がもっと見られないような状況になっていたのにも関わらず、だ。
自暴自棄になっていた俺は、その子に全てを話した。別に前から彼女の事を知っていたわけではない。初対面でしかも見るからにボロボロだった俺の、叫ぶような一方的な訴えを、彼女は黙って聞いてくれた。逃げたりはしなかった。

とても、優しかった。



「この電灯が、時間になると消えてしまうってものさ、その子に教えてもらったんだ」

話している最中、いきなり消えた電球に怯える俺を、彼女はそっと抱きしめてくれた。耳元で囁かれた言葉が忘れられない。



『暗いところだとね、星が良く見えるでしょ?』

『君は今、暗いところにいるかもしれないけれど、でも、だからこそ、ほんの僅かな星の光だって、他の誰にも見えない光だって、君は見つけてあげられるんだと思うんだ』

『それってすごく素敵なことじゃない?』


今なら、その言葉の意味も分かる。あの頃、自分とそこまで年の変わらなかった少女が、こんな言葉を吐いたのかという驚きも、今になって漸く実感する。
誰かが吐いた言葉が、時間が過ぎ去った後になって、違う側面を見せてくるということは、よくあることだ。それは自分が成長した証だと言えるのだろうか。
それとも、ねじ曲がってしまった証拠となるのだろうか。巧妙な皮肉、遠回しな罵倒、そして、さりげない優しさ。俺は今までどれだけの物を見落としてきたのだろう。どれだけの感情から、目を背けてきたのだろうか。そんなことを思う。


でもその時の俺は。

何も見えていなかった俺は。

否定して欲しかったのだ。自分がずっとこの暗がりに居なければならないということを。

期待したのは、慰めだった。現状の否定だった。明るい未来だった。誰かと一緒に笑い合える、光の中に進んでいくための言葉を、俺は求めていた。


だから俺は―――――――

「俺は、その子にひどいことを言っちまったんだよな」




『こんな思いをするくらいなら!!そんなの見つけられなくたっていい!!』 


『あんたは、俺とは違うんだ!!あんたは、こんな気持ちになったことないから、そんなことが言えるんだ!!!』





「…………」

「で、まあ、飛び出して帰っちまったわけだ」

抱かれていた腕を振りほどいて、こんな暗い場所に彼女を置き去りにして。たった一人で、山を駆け下りた。
自分が暗いところにいる人間であることを、否定してくれなかった。わかってくれたと思ったのに、裏切られた。そう思った。暗がりにいる自分を肯定してくれた、彼女のやさしさに気づけずに。

「その後の経過は、まあお前も大体察しがついている通りだ」

人に受け入れられなかった少年は、受け入れられたことに気が付けなかった少年は。腐り歪み、そして、今隣にいるこの少女に出会った。『人ごと、このおかしな世界を変えてみせる』そんなことを言いきった彼女は眩しくて、目が眩んでしまいそうで。その日から、雪ノ下雪乃は、比企谷八幡の憧れだった。

彼女の姿は、あの時の少女とは対照的だった。俺の弱さを肯定してくれた、変わらない自分を肯定してくれた、あの少女とは。だから、余計に思い出すのかもしれない。




「………」

「今になって思えば、あの子も何か悩んでたのかもしれないな」

あの時間にあんなところにいるのは、普通ではない。何か事情があったと考えるのが自然だ。彼女は何を抱えていたのだろう。今になって漸く、そんなことを考えられるようになった。そう考えることが出来るようになったのは、もうだいぶ後になってからの事で。その時にはもう、彼女の面影は薄らいでいたのだが。




「その子の名前とか、聞かなかったのかしら」

「聞かなかったな、何話してたかもあんまよく覚えてないし」

「どんな子だったの?」

「うーん…そうだな…」



歳月は、残酷なほどに記憶を捻じ曲げる。記憶の底にある彼女の姿は、歪められ、ぼやけてしまっている。ほんのわずかに残っている残骸をかき集めても、像を結ぶことは難しい。記憶の網に引っかかっているものの中で、一番大きなもの。唯一、言葉として表現出来そうなものはたったの一つだけだ。『黒髪』。水面よりももっと滑らかで、闇よりも深い色をした、『黒髪』だ。


「確か、黒髪の綺麗な子だったぞ」

「なんだかあなたが言うと、途端に変態っぽさが聞こえてしまうのが残念ね。別に、そんなにおかしな感想というわけではないと思うのだけれど」

「うっせ。本当にそのくらいしか覚えてないんだから仕方ないだろう」

俺は空を見上げる。星は先ほどよりも輝きを増していた。今までは見えなかった、小さな光たちが、目に飛び込んでくる。私を見つけてくれてありがとう、だなんて言葉が脳裏に浮かんでしまうのは、俺の目が腐っているせいだろうか。



「そういえば、よくよく思い出してみれば、お前に少し似ていたような気もするな」

「私に?」

「ああ。まあでももう随分昔の話だから、顔なんか覚えちゃいないけどな」

「そう………」

また、少しの間が置かれる。星空は相変わらず輝き続ける。かつて、俺が見た空と、何も変わらずに。俺だけはこんなにも変わってしまったのに。



「まあ、今、それの清算をしているようなもんだな。思い出と過去の、な」

「随分と詩的な表現ね。あなたのような人間がそんな言葉を使うなんて。気持ち悪いわ」

「ほっとけ」

「ねえ比企谷くん」

「なんだ?」

「これは小町さんとのデートの予習なのではなかったのかしら」

「そうだな」

「その相手に、どうして私を選んだのかしら」

「………知るか。なんとなくだよ」

「なんとなくなのね?」

「そうだ、何か言いたいことがあるのか?」

「別に」

ふふっ、と彼女の口から笑みが漏れる。ご機嫌そうで何よりだ。顔が見えないのが残念だ、なんて、そんな柄にもないことを考えてしまう。

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