佐久間まゆ「凛ちゃん聞いてください! まゆ、プロデューサーさんとキスしました!」 (25)

モバマスSSです。
楽しいお話にはならないと思います。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1509244084

 唇の上に乗った感触は初めてのもので、最初はそれが何なのか、まゆにはよく分かりませんでした。

 突然少しだけ暗くなった瞼の向こう側。

 何も触れていない筈の顔を覆うほのかな暖かさ。

 全身を支配する眠気に抗って薄らと開いた右の目が間近に映したのは、少しばかり切なそうなプロデューサーさんの表情でした。

 プロデューサーさんが、まゆにキスをしている。

 固いような柔らかいような不思議な感触は、どうやらあの人の唇だったようです。

 わかるわけなんか、無いですよね。

 だって、これが初めてのキスなんですから。

 いつだって、どんなに遠くからだって、両目に焼き付けるように見つめ続けたプロデューサーさんのお顔を、まゆが見間違う筈がありません。

 そうやって何時間も何日も何か月も、プロデューサーさんを見つめ続けて、考え続けて、思い続けて。

 そうやって夢のまた夢にまで見続けたこの景色は、まゆの意識をまどろみから引き上げるのに十分以上の衝撃を持っていました。

 きっとこの恋が報われることはないのだろうと、正直なところ諦めていました。

 きっとこの恋のことを思い出して、いつか友人と笑いあうのだろうと思い込もうとまでしていました。

 でも、違ったんです。

 そうです、叶ったんです。

 だってほら、見て下さいよ。

 まるで、胸の中から取り出したような夢が、鮮明な形になってここにあるんですから。

 今すぐにプロデューサーさんを抱きしめて、何千回と推敲を重ねた愛の言葉で掴まえないといけない。

 目の前に広がるずっと願っていた夢の形に手を伸ばさなければならない。

 ちゃんと分かっていながらも、まゆの頭の中は上がってしまいそうになる口角や、溢れてしまいそうになる涙を抑えることと。

 それから、夕食のあとにちゃんと歯を磨いたかだとか、実はあまり上手に引けないチークの今日の出来栄えのことだとか。

 とっくに茹で上がってしまっていた頭はまるで使い物にならなくて。

 次から次へと思い浮かぶのはそんなどうしようもない事ばかりで。

 オーバーヒートし続けるまゆの頭は空回り。

 やがては指先ひとつ、思うように動かせなくなってしまっていました。

 いつの間にか顔の火照りは全身に広がっていて、クーラーが聞いている筈なのに手のひらには汗がにじんでいて。

 使い物にならなくなった頭に変わってまゆの心は、ただただこの一瞬が永遠に続いてくれる事だけを祈っていました。

 指先どころか、爪の先だって動くはずがないんです。

 だって、この一瞬がどれほどの奇跡の上に成り立っているのか、プロデューサーさんをずっと想いつづけたこの佐久間まゆには細胞1つ単位で分かってしまっているのだから。

 実は起きていることにプロデューサーさんが気付いたら。

 自分が今何をやっているのかを分かってしまったら。

 二人の携帯電話が震えたら。

 流れている音楽が変わったら、ちょっと体がふらついたら。

 明日の予定を思い出したら、タバコが吸いたくなってしまったら。

 髪に手が触れていることに気が付いたら、ふとした光が目に入ったら。

 時間が気になったら、風がふいたら、お腹が空いたら。

 一瞬のようでいて、永遠のようでいて。

 それでも、やっぱり一瞬だったそのひとときは、後ろからけたたましく鳴り響いたクラクションの音に切り裂かれてしまいました。

 ああ、そういえばプロデューサーさんに車で寮まで送っていただいている途中でしたね。

 だなんて間抜けなことを思い浮かべているうちに、まゆを包み込んでいた暖かい感覚は、掬い上げられるようにふわりと上の方へと流れていきました。

 こっそりと細く開いた瞼の向こうで、プロデューサーさんは思い出したようにあわてて車を発進させている様子が伺えます。

 ハンドルを握りながらぽりぽりと頭をかく仕草は、事務所のアイドルならみんな知っている照れ隠しの仕草です。

 なんとなく頬を染めているように見えるプロデューサーさん。

 さっきまでは手を伸ばせば抱きしめられるほど近くにいたプロデューサーさん。

 一瞬前の光景が嘘のように、今はいつもの私たちの距離にまでもどってしまったけれど、でも、どこかその距離はさっきまでに比べてうんと縮まったような気がします。

 いまでもドキドキとなり続ける胸の鼓動と火照ったまゆの全身が、さっきまでの出来事が夢じゃなかったことを、そして、まだまゆの運命がつながっていることを信じさせてくれる証のように思えました。

 プロデューサーさんを見送って、そのまま女子寮に駆け込んで。

 談話室で声をかけてくれた李衣菜ちゃんの声も、廊下ですれ違った智絵里ちゃんの視線も振り切って、転がり込むように入った自分の部屋の中。

 震えて上手く動かない手で必死にスマートフォンを起動して、通話履歴の一番上にある一番の友達に電話をかけました。

「ねえ、聞いてください凛ちゃん。まゆ、さっき車の中でプロデューサーさんにキスされちゃいました」

「冷静になって、まゆ。きっと夢をみていただけだから」

 アイドルを初めて、東京に来て。

 ここでたくさんの大好きな人たちに出会うことが出来ましたが、『もしもし』も『こんばんは』も飛ばして本題に入れるほどの友人は凛ちゃんだけです。

 まゆをこんな高いところまで連れてきてくれて、そのうえ一生付き合っていたいと思わせてくれるような親友とまで巡り合わせてくれたプロデューサーさんには、どんな言葉で感謝の想いを伝えればいいのか分かりません。

「きっとこれはそういうことですよね?電撃結婚発表からの引退ライブですよね?」

「ちょっと落ち着いて深呼吸しよう?ね、きっと何かの勘違いだから」

 出会った頃は何度か衝突もしてお互いを少し疎ましく思ったこともありました。

 それでも二人で色々な出来事を乗り越えているうち、気が付くといつも二人で一緒にいるような関係になっていました。

 同じ世代で夢を見つけて、その夢を一緒に本気で目指して。

 そして、同じ人の背中を追いかけて。

 そんなの好きに、大切な人になってしまうに決まってるじゃないですか。

 だからまゆは、まゆたちは、まゆ達だけは。

「ねえ、凛ちゃん。まゆの晴れ舞台にはきっと来てくれますよね?ライブにも、結婚式にも、披露宴にも」

「ねえ、まゆ。まゆが辛くなるだけだよ。ね、今すぐそっちに行くから。待ってて!」

 絶対にお互いを大切にしようって決めたんです。

「きっとまゆは、幸せな夢をみていたんだよ、ね?

「だって、私達のプロデューサーは……結婚、しちゃったんだから







 ねえ、知ってました?

 プロデューサーさんは、とっくの前に結婚しちゃってるんです。

 まゆですか?

 もちろん知ってましたよ。

 お相手はちひろさんですって。

 出会う前から、お付き合いされてたんですって。

 あはは。

 ふわりと空に浮かんだ花束が手を伸ばしてもとても届かないような遠くの所へと落ちていく様子をよく覚えています。

 哀しいような、悔しいような、苦しいような、寂しいような、妬ましいような。

 そんなぐちゃぐちゃに散らばってしまいそうな気持ちを前に、もうどうにかなってしまいそうになったは、凛ちゃんとお互いの手を強く握りしめあって、その痛みを頼りに必死に意識を繋ぎとめながら参加した結婚式のことを、きっと一生覚えているのだとおもいます。




「ねえ、まゆ。アイドル、続けようね」

 スマートフォンの電話口から、そう祈るように呟く凛ちゃんの言葉が聞こえます。

 きっと、急いでまゆの所に向かってくれているのでしょう。

 どうやらタクシーを呼び止めてくれたようで、少し前から息切れの声に変わって少しばかりのエンジン音が響くようになりました。




「アイドル、続けようね」

 あの日、初めてその言葉を口にしてから凛ちゃんは、まるで取りつかれるように同じ言葉を呟き続けるようになりました。

―――私達はきっと、アイドルを続けなくちゃいけない

―――辞めてしまったらきっともう、何処にも行けないから

 あの日から、少しやつれたままの凛ちゃんは、同じようにやつれていくまゆに向かって、毎日のように同じ言葉を呟きつづけます。

 きっと、凛ちゃんは分かっているんだと思います。

 この言葉がなければ、まゆの膝はいつか落ちてしまうことを。

 そして、その言葉を呟きつづけないと、凛ちゃんだってもう、立ってなんていられないことを。

 思えば、とても長い時間、まゆはその言葉に支えられてアイドルを続けてきたような気がします。

 プロデューサーさんへの恋心に支えられていたあの日々にはもう、懐かしささえ感じるほどに。

 指を折って数えてみると、プロデューサーさんの結婚席に出席してから、まだ片手で数えられる程度の月日しか経っていないことが分かりました。

 確か、あの日もまゆは、今のような表情をしていました。

 いえ、その前の日も、次の日も、プロデューサーさんが結婚してしまうことをしってからというもの、まゆはずっとこんな調子ですけど。

 それでも、特にあの日は酷かった筈です。

 だってそうじゃないですか、大好きな、今でも諦められないひとの結婚式なんですから。

 「そういえば、まゆってどうしてアイドルになったんだっけ?」

 あの日披露宴の会場で、凛ちゃんとは最初、そんな話をしてました。

 あまりに場にそぐわない話題。

 きっと、凛ちゃんだってもうどうすればいいのか分からなかったんだと思います。

 それに、だいぶ長い友人付き合いをしながらも未だにそんな初歩的な話すらしていなかったなんて。

 そんな自分たちのチグハグな関係がおかしくて、全くそんな気分では全く無いはずなのに、「そうですねぇ」と呟くまゆの口は、何故か笑顔の形を作っていました。

「一言で言うと、運命を感じたからでしょうか?」

「運命?」

「はい、運命です」

 朝起きて、ご飯を食べて、友人と学生生活を過ごして、読者モデルとして活動をして。

 友人関係にだって、自分を表現する場所にだって恵まれていました。

 でも、あの頃はそんなことを考えたことがありませんでしたし、もちろん、物足りなさなさだなんて意識したこともありませんでした。

 ただ、同じモデルの友人やスタッフさんとの温度差とか、自分がこの先いつまで読者モデルをやっていくのだろうかという不安とか。

 そのようなものは感じていたのかもしれません。

 でも、まゆは自分の日常に十分以上の満足を覚えていました。

 だから、雑誌の特別企画として東京でアイドルをやっている女の子がモデルの撮影に来るというお話を聞いた時も、羨ましさも憧れも一つも感じはしませんでした。



 だから、びっくりしたんです。

 あの時、会社の廊下でプロデューサーさんにぶつかって転んだ時に見上げた光景が。

 きっとなんてことはない一瞬に覗いたプロデューサーさんと凛ちゃんの関係性が、本当にうらやましくてたまらなく思ったことが。

 この人の隣で歩いている自分こそが本当で、今の自分が選んで歩んできた人生なんてまがい物なのではないのか。

 気が付くと、そんな考えがまゆの全てを塗りつぶしていました。

 おかしいですよね、まだプロデューサーさんがどんな方なのかも、何をされていらっしゃる方なのかも全く分かっていないのに。

 でも、転んだまゆを起そうと差し出してくださったプロデューサーさんの手を掴んだときに胸に灯った、今この瞬間にこそ自分が生まれたのだという確信。

 それは、これがまゆの運命であると信じさせられる圧倒的な熱量をもっていました。

 何度も思い返したあの日のことを、まゆは改めて思い返しながら、再確認しながら。

 まゆは、一つ一つの気持ちを心に刻むように言葉に落し込んで話しました。

 そんなまゆを、凛ちゃんはなんだか情けない表情をしながら見つめていました。

 今になって思うと、あれはきっと同情だったのだと思います。

 意識を失っていたのか、眠っていたのかは分かりませんが、気が付くとまゆは誰かの膝の上に頭を乗せて横になっていました。

 うすく開いた瞼の向こう、そこにいるのは当然凛ちゃんです。

 プロデューサーさんでは、ありませんでした。

 まゆが意識を失ってからだいぶ時間が経ってしまっているからでしょうか、どうやら凛ちゃんも眠ってしまっているようでした。

 月明かりに照らされている凛ちゃんの寝顔。

 そこには、少し前までは影も無かった皺や隈が浮かんでいて。

 きっといつもは全力で誤魔化しているのだろう疲れや苦労が感じられます。




 あの日、凛ちゃんは普段のインタビューとは全く違う内容を話すまyのことを少しだけ笑った後、「そっか、私と一緒なんだ」と言いました。

「私も、アイドルになればきっと何かが見つかると思って、プロデューサーのスカウトを受けたんだ」

「ねえ、まゆ。アイドル、続けようね」

「私も、まゆも、プロデューサーのことが本当に好きだったけど、ここにあるのはきっと、それだけじゃない筈だから」

 まゆ達がアイドルを始めた理由も、アイドルを続けてきた理由も、全く別物であることはきっと凛ちゃんだって良くわかっているはずです。

 それなのに凛ちゃんが何を思ってそんなことを言ったのか、まゆには痛いほど良くわかりました。

 まゆ達はきっとこの先、プロデューサーさんが大好きだったことから目をそらさなければやっていけないから。

 そんなまゆ達がこの先アイドルを続けるには、何か別の理由を無理やりにでも用意しなければならないんです。

 だからまゆは、自分に嘘をついて凛ちゃんと一緒にアイドルを続けることにしました。

 『アイドルになれば、きっと何かが見つかると思った』と話す凛ちゃんに自分を無理やり重ねて。

 最初に”プロデューサーさん”を見つけてからアイドルの世界に飛び込んだ自分を消し去って。

 アイドルを始めたのも、厳しいレッスンに耐えられたのも、アイドルとしての生活に可能性を感じたから。

 決して間違っていないけど、それでも致命的に間違った嘘。

 それでもまゆは、もうこれ以上に何かを失いたくないんです。

 アイドルを目指す中で出会えた友人や、自分の力を存分に発揮できる舞台。

 そして、大好きな、プロデューサーさんといっしょに過ごせる日常を。

 でも、まゆは正直なところ限界を感じていました。

 だから、次の日のテレビの本番中に膝から崩れ落ちて倒れてしまった自分が、ちひろさんに5日間の休暇を命じられるがままに、新幹線で地元に帰って行く姿はどうも俯瞰的に見えて、心の中では焦りや申し訳なさではなくて「あーあ、やっぱりですか」というどうしようもなさが溢れるばかりでした。

 改札まで見送りに来てくれた凛ちゃんはただただ寂しそうに笑うだけで、まゆはもう一度あのセリフが聞きたかったのになぁ、と思いました。

 突然家に帰ってきたまゆを、家族は驚きながらも歓迎してくれました。

 きっと、テレビの向こうで日に日に元気を無くしていくまゆのことですとか、そのことと今回の帰郷との関係ですとか。

 聞きたいことなんてそれこそ山のようにあると思うんですけど、それでも何も聞かずにただ優しくまゆを受け入れてくれました。

 こんなに良い人たちを地元に残して、一人で東京に夢を追いかけに行って、心配をかけ続けて。

 そんな自分を恥ずかしく思うようなつもりは決してありませんけど、それでも少し胸が痛みました。




 目覚ましを止めると、そこには嘘のように静かな朝が広がっていました。

 自動車が道路を走る音や同僚達がはしゃぐ声の代わりに、テレビからの声と朝ごはんの支度の音につつまれた、とても懐かしい朝の雰囲気。

 体に染みついた、確かな「朝」としての記憶。

 アイドルとして駆け抜けた短くも長い時間のことは、もしかしたら全て夢だったのではないか―――

 昨日までの景色とあまりにも違う空気につつまれたせいで、そんな泣きそうになるようなことが脳裏をよぎりました。

 このお休みだってちょっと体調を崩しただけのもので、5日後にまゆが足を運ぶのはテレビのスタジオやレッスンルームではなくていつもの教室で。 お友達と授業を受けて、お昼ご飯を食べて、他愛のない話で盛り上がって。 そして、モデル仲間と季節の新作ファッションをチェックした後で撮影に向かって。


 ―――もしもあの時、プロデューサーさんと出会わなければどうなっていたんでしょうか


 だからでしょうか。 いままで何度か頭に浮かんだものの、必要のないことだと簡単に振り払えた考えが、どうしても頭から消えなくなってしまったのは。
 そんなことを考えながら自室のベットの上でうつらうつらと横たわっていると、スマートフォンの着信音が遠くから聞こえてきました。






「って、まゆへの電話ですよねぇ」
 きっと気が緩んでいるのでしょう。 一分近くも電話先で待たせてしまった相手は、学生時代の友人でした。

「お帰り、まゆちゃん!」

「「「かんぱーい」」」

 次の日、まゆは学生時代の友人と放課後の時間に待ち合わせてファミリーレストランで食事をしていました。

 学生時代に何度も友人たちと通ったこのお店も、そこに並んでいる友人たちも何も変わっていなくって、みんな本当に楽しそうで、そんなここが本当に落ち着いて。

 まるで、長い旅から帰るべきところに戻ってきたような。

 まゆの戻るところは、プロデューサーさんの隣の筈なのに。



「でも元気そうで安心したよ! いつもの番組から突然まゆちゃんがいなくなっちゃったから、私びっくりしちゃってさぁ」

「そうそう、そしたら仙台駅をあの”佐久間まゆ”が普通に歩いてたって噂が学校中に広まっちゃって」

「最近のまゆちゃん、ちょっと元気がないような感じがしてたから、みんな心配してたんだよ?」

「電話したら本当に地元にいるし、もうどうしようかと思っちゃった」

「でも会えて安心したよ。やっぱり私たちのまゆちゃんのままだよね」

 みんな、本当に優しくて、そして楽しくて。

 そんなみんなの話題が、だんだんと学校の授業の話やクラスの誰かの恋愛話になっていっていくにつれて、まゆはだんだんと自分の心を占める寂しさに耐えきれなくなってきました。
 


 まゆは、どうしてあんなに簡単にこの居場所をてばなしてしまったんでしょうか?

 次の日、まゆは読者モデルをやっていた頃に歩いていた道を一人で歩き直していました。

 何度も集合場所に使ったステンドグラス前、撮影に使った青葉通りのケヤキの並木道と広瀬通りのイチョウの並木道、モデル仲間と夢を語り合ったオープンカフェ。

 なにもかもがあの頃のままで、あの頃と同じように輝きに満ちていて。

 誰の目も気にせずに、自分が可愛いと思う服を着て駆け抜けたアーケード通り、雑誌の編集者さんに連れて行ってもらったちょっとだけ高い牛タンのお店、なんとなく人目を避けて噛り付きながら笑いあったハンバーガーショップ。

 そんな思い出深い道を一つ一つ踏みしめていくたび、まゆは自分の足どりがどんどん重くなっていくのを感じていました。

 少し前に挑戦させて頂いた舞台のお仕事。

 その中で、まゆが演じた役の女の子が故郷の街を、昔の思い出に元気付けられながら歩くというシーンがありました。

 そんな彼女と同じように故郷の街を歩いている筈なのに、まゆの心はただひたすらに重くなるばかりで。

 それはきっと、罪なのでしょう。

 楽しいことや未来のことにばかり目を向けて、過去の思い出から目を逸らし続けてきた、まゆの罪なのでしょう。

 それはきっと、勢いのままに切り捨ててしまった地元での生活のことや、成長だと思い込んで失ってしまった沢山のことや、自分がアイドルになるためのステップだったということにして目をそらした読書モデル時代のこと。

 そんな思い出の一つ一つが、足や肩に絡みついているのを確かに感じるのです。

 そうしてまゆの足がもう動かなくなくなってしまった時、目の前にあったのは、全ての始まりだったファッション雑誌のテナントビルと、その会社の前で呆然とこちらを見つめている昔の担当編集者さんでした。

「佐久間じゃないか、久しぶりだな」

「はい、お久しぶりです」

 きっと、とても驚いているのでしょう。

 少し声を上ずらせながら、それでもなんでも無いように振舞う彼の姿は、とても懐かしさを感じます。

「テレビで良く見てるぞ、頑張ってるみたいじゃないか」

「ありがとう、ございます……」

 まゆが突然抜けた後、その責任とか、後処理とか。

 たくさんの迷惑を被ってくれただろう彼は、そんな様子は少しも見せずにあの頃の面影を強く残した笑顔で微笑みかけてくれました。




 「ちょっと場所を移そうか」と彼に連れられて、まゆは昔何度も打ち合わせをした近所の喫茶店のカウンター席の上で懐かしい声に耳を傾けていました。

 流行のファッションの話ですとか、周りに出来た新しいお店のお話ですとか、業界の面白いお話ですとか。

 あの頃と同じような話題を、同じ空気で。

 それは、本当に心地よくて。

 この気持ちにずっと浸り続けて、もうほとんどが辛いことばかりのアイドルとしての生活のことは忘れてしまって。

 だって、ほんとうに地元の皆は優しくて。

 だって、プロデューサーさんが結婚してしまってからもう何も分からなくなってしまって、流されて、流されて、流されるがままここまで来てしまったまゆを、ここの場所はきっとまた優しく受け止めてくれる、そんな確信があって。

 戻りたい、あの頃に戻りたい。

 もちろん楽しいことばかりじゃなかったけど、それでもまゆの心の中を占めるのはそんな哀愁の気持ちばかりでした。

 そんなことが叶わないことは、ちゃんと分かっているんです。

 だって、あの時間を壊したのはまゆ自信ですから。

 まゆは知ってるんです。

 衝動的にプロデューサーさんを追いかけてから暫くして、一人、また一人と一緒に読者モデルの仲間達が業界を去ってしまったことを。

 そして、まゆが読者モデルをやっていた雑誌そのものも方向転換を重ねてあの頃のものとは全くの別物になってしまっていることを。

 それなのに彼は、まゆにこんなことを言ったのです。

「なあ、佐久間。 もう一度こっちに戻ってこないか」、と。

 二つの瞳が、じわりと熱くなるのを感じました。

「実はさ、うちの会社でもアイドル事業をやろうって話になっててさ、その企画に俺たちの雑誌も全面的に関わって行こうって話になってるんだ」

 もう何の雑誌かわかりやしないよな、と笑いながら彼は続けます。

 その”俺たち”の中にまゆが入っていない万が一のことを祈りながら、まゆはその続きを黙って聞いていました。

「なのに、なかなかメンバーが集まらなくってさぁ、本当に困っちゃってさあ」

「アイドルの事務所、今は沢山ありますから」

 だからアイドル事業はやめておきませんか。

 確かにまゆはそうやって必死に断る理由を探しているのに、なのに頭の片隅からは全く別の声がまゆの心を揺さぶって来るのを感じていました。

 『ねえ、凛ちゃんとの約束はアイドルを辞めないことでしたよね?』

 『ねえ、まゆはこの人の力になってお詫びと恩返しをするべきなんじゃないんですか?』

 『ねえ、まゆが本当に幸せになれるのはここなんじゃないんですか?』

 その声に流されるがままアイドルをやめてしまえればどんなに楽でしょうか。

 その声に流されるがままもう一度あの場所でやりなおせればどんなに幸せでしょうか。

 プロデューサーさんが結婚してしまってからまゆも、事務所のみんなも、プロデューサーさん自身もなにも上手くいかなくなってしまって。

 あんなに明るくて楽しかった場所が突然暗くなってしまって、ギスギスして、寂しくなって。

 あんなに大好きだった、いまでも本当に大好きなプロデューサーさんと一緒にいても、二人で話していても、もう本当にただただ辛いだけで。

「でも、佐久間が来てくれればきっと全部解決すると思う。だから―――」

 そういって彼は、まゆに向かって手を差し伸べてくれました。

 もうずっと前、まゆを読者モデルにしてくれた時のように。

 この手を取れば、きっとまゆはもう一度やり直せるのでしょうか。

 今のどうしようも無くなってしまった環境を抜け出して、楽しかったことも、辛かったことも無かったことにして。




 だなんて、そんなことは所詮は夢物語です。

 トップアイドルはもうまゆ自身の夢にもなっていますし、やっぱり凛ちゃんや事務所のお友達と別れることなんてできません。

 なによりも、まゆの勝手な行動が原因で読モの仲間たちはみんな事務所をやめてしまっているんですから。

 だから、決してあの頃の時間は返ってきません。

 それに、あの頃の幻にすがりつくことさえ当時の仲間たちは許してくれないでしょう。

 そう、自分の中で結論付けて彼の誘いを断ろうと、いつの間にか目線が足元にいくまで下がってしまっていた自分の頭を、まゆは持ち上げました。

 幻をみているのかと思いました。

 数分前までは誰もいなかった彼の両隣に、当時の読モの友人が数人、並んでまゆにほほえみかけていたからです。

「びっくりした?」

「今まで何回誘っても応えてくれなかったのに、最近になって急に戻って来てくれてさ」

 彼はそう言って、

「だって、見ていられなかったんですもの」

「まゆちゃん、テレビの中でどんどんダメダメになっていくんだから」

 彼女たちはそう言いました。

「みんなは、まゆのことを怒っていないんですか?」

 今更言葉にして確認するまでも無くて、改めて言葉にして受け止めるのが恐ろしくて、彼と再会してからも、決して口にすることが出来なかった言葉。

 だって、あまりにも幸せすぎて。

 二度と、みんなに笑いかけてもらえる日なんて来ないと思っていたから。

 嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、溺れそうで。

 苦しくて、苦しくて、苦しくて、こんなの許されるわけがなくて。

 だから、もういっそ皆に否定されてしまって、まゆを現実に引き戻してもらいたかった。

「何言ってるんだよ、怒ってるに決まってるじゃん」

「めっちゃムカついたよ、なんだよ私たちを捨てて男だのアイドルだのって」

「それでもね、私達はまゆが大好きだから、まゆがあんな顔でアイドルをやっているのを黙って見ていられないの」

「だからね、私達でまゆちゃんを向かいに行こうって皆で相談して決めたの。 ここに居ない娘も、一緒にアイドルはできない娘もいるけど、でもみんな心は一緒だから」

「本当はね、皆で東京にまで迎えに行くつもりだったんだよ」

「っていうか、本気で怒ってたらあること無いこと週刊誌にしゃべってるよね」

それなのに、みんなはそんなことを笑って言うものだから、まゆはもう何もかも分からなくなってしまいました。

 みんなが、まゆの名前を呼びながら手を差し伸べてくれています。

 まゆが自分で壊してしまったあの日の陽だまりが、手が届くところにあるのです。

 もう二度と顔向けできないと思っていた、プロデューサーさんと出会うためのステップだったと自分に言い聞かせてまで目を逸らすしかなかったあの日に、今なら帰れるのです。

 救われたい。

 その一心から彼の手を取ろうとしたときにまゆの目に飛び込んできたのは、窓の向こうで誰かを探すようにあちこちに目線を投げながら、せわしなく街並みを歩いているプロデューサーさんの姿でした。

 その瞬間に、まゆは全身に電撃が走り抜けていくのを確かに感じていました。

 それはあの日、初めてプロデューサーさんにお会いした時に体を駆け巡ったものと全く同じもので。

 そしてあの日、初めてプロデューサーさんにお明日時に抱いた気持ちを思い出させてくれるには十分以上の衝撃を持っていて。

 あの時の気持ちを全て思い出したまゆには、みんなの手を取る事は、とてもできませんでした。



 あなたが好き、だって運命感じたんだもの。



 プロデューサーさんの隣に居る凛ちゃんが羨ましく思えたから。

―――違う!

 プロデューサーさんの隣を歩けば、何かが見つかると思った。

―――違う!

 プロデューサーさんになら、退屈な日常から連れ出してもらえると思った。

―――何もかも、根本的に違う!

 まゆは、一体いつのまにあの時の気持ちを見失っていたのでしょうか。

 あの時の気持ちに、言葉にできる理屈なんて一つもありませんでした。

 あの時の気持ちに、説明ができる理由なんて一つもありませんでした。

 ただ一つ、あの瞬間に生まれ落ちたと感じる程に感じた衝撃的な運命だけが本当で、それ以外の全ては後からくっ付けただけの偽物で。

 あなたが好き、あなたが好き、あなたが好き。

 だって、きっとこの気持ちこそがまゆ自身なんですから。

 あなたが大好きだってふるえるこの気持ちこそが、佐久間まゆなんです。

 プロデューサーさんを一目見た途端にどくんどくんと鼓動を始めた心臓が、突然体内を巡り始めた血液がその証なんです。

「みなさん。 もう一度まゆに笑いかけてくれて、ありがとうございました」

 まゆの目線が窓の向こうのプロデューサーさんに向いていることに気付いた編集者さんが、信じられないというような顔をしています。

 「でも、ごめんなさい。 まゆのことはもう、忘れてください」

 まゆも、こんなのはおかしいって思います。

 きっとまゆは、ここに戻ってきた方が幸せになれるのだと思います。

 地元に帰って、優しい人に囲まれて夢を目指して、そして新しい恋をして。

 そんな幸せがここには待っているんだと思います。

 それでも、まゆは。

 心の底から湧き上がっているプロデューサーへの恋心を、まゆ自信の心から湧いた気持ちを裏切る事なんでできないから。

 辛くて、辛くて、辛くて、辛くて。

 きっと叶わないこの恋心は、辛くて仕方がないけれど。

 それでも、この恋まだここにあるから。

 プロデューサーさんは、あそこにいるから。

「あいつは、きっとひどい奴だぞ!」

 後ろから、まゆを引き留める声が聞こえます。

「まゆちゃんが泣いてる姿なんてもう見たくないの!」

 まゆを本当に想ってくれる人の声が、聞こえます。

「きっと迎えに行くから! 目を覚まして見せるから!」

 それでもまゆは振り返りません。

 だって、今度は自分で決めたことですから。

 勢いじゃ無くって、流されたわけでも無くって。

 まゆの、心が決めたことですから。

「プロデューサーさん、迎えに来てくれたんですか?」

 喫茶店を出て、きょろきょろと観光に来た人みたいな歩き方をしているプロデューサーさんにまゆは声をかけました。

 これでもう後には引けませんね、などとそれなりに気持ちを込めて呼びかけましたのに、プロデューサーさんは何事も無かったかのようないつもの表情で振り向いて

「うん、ちょっと顔がみたいなって思って」

 と言って笑っていました。

「まゆも、ちょうど会いたい頃でした」

 プロデューさん、どうしてこのタイミングでこんなところに居たのですか?

 だなんて今となっては些細なそんなことを、あえて聞くようなまゆではありません。

 ねえ、プロデューサーさん。

 まゆは、きっとトップアイドルになりますよ。

 それがプロデューサーさんの夢ならば、必ずまゆが叶えます。

 ねえ、プロデューサさん。

 プロデューサーさんは、アイドルが大好きですよね?

 だったら、トップアイドルからの気持ちなら受け取ってくれますよね?

 トップアイドルになれば、プロデューサーさんを好きでい続けられますよね?

 ねえ、プロデューサーさん。

 まゆは、プロデューサーさんが大好きです。

 まゆは、プロデューサーさんをずっと大好きでいたいんです。

 この思いを阻むものがそこにあるならば、まゆはもう。 

 すべてを捨てても構わない。


終わりです。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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