【モバマス】P「土をかぶったプリンセス」 (58)

地の文メイン。
独自設定あり。
未熟者ゆえ、口調等に違和感があるかもしれません。
どうかご了承ください。

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1.

誕生日、ってのを手放しで喜べなくなったのは、一体いつからだったろう。二十歳になったときは酒と煙草の解禁に小躍りしたものだが、それ以降は歳を重ねる、ともすれば死に近づく自分が嫌になる気持ちの方が強かったように思う。

生まれ落ちてから三十を数えた年は、年初からロクなことがなかった。
前年末に買った宝くじは四桁の当たりすらなかった。政権が代わって酒税と煙草税が上がった。春頃についでとばかりに消費税も上がった。さして給料が上がる訳でもない昇進を果たし、責任が増した。好きな球団はクライマックス・シリーズに進むこともできなかった。
挙げ始めれば止まらないほどに散々だった。

三十になるその日、誕生日を祝う人はいなかった。親元から離れて十年以上が経っていたし、自分で家族を作る努力もしていなかった。男やもめの職場の同僚には、そんな可愛げのあることをしてくれる奴はいなかった。交友のある人たちもまた同様だ。

ただ、たまたまのプレゼントをしてきた友人がいた。昔からの付き合いのある男だ。こちらの誕生日を祝う意図はなかったんだろうが、奇しくもそれはその日だった。
渡されたのは、一枚の薄っぺらな紙。
履歴書だった。

「人手不足なんだろ? こいつ、雇ってやってくれねえかな」

確かに人は足りていなかった。昇進して管理者側に回っていたから、人材の補強も自分の仕事の一つ。

友人は信用できる奴だった。だから、ありがたい、とその履歴書を受け取った。
受け取って、目を通して……それから、少しだけ頭を抱えた。おい、友人よ。

履歴書に載っているのは、彼ではなく彼女だった。
それはいい。珍しいがないことじゃない。
彼女の年齢はまだ十五歳だった。
それもいい。若過ぎるが、若いのはありがたい。
彼女の学歴は、最終が中卒で終わっていた。
それもいい。珍しくもない。
彼女のアルバイト歴は、空欄だった。
それもいい。珍しくもない。
彼女の履歴書の写真は、金髪だった。
それもいい。珍しくもない。
ついでに、サイドには綺麗な刈り上げが作ってあった。
それもいい。珍しくもない。
彼女の履歴書の写真は、屈託無い笑顔でピースを掲げている自撮り写真だった。
それも、まあ、いい。珍しい、というか、さすがに見たこともないが、自分は特段気にしない。

それぞれを別個に持っているだけなら、別になんのためらいもなく雇っただろう。何分人手不足だから。
ただ、これら全てを兼ね備えている人物を雇うのはどうなんだ、と思うところがあった。何分人手不足なんだから、と言ってもだ。

大丈夫なのか、どういう繋がりなんだと尋ねると、

「知り合いの子でさ、仕事探してんだって。大丈夫かって何がよ。ああヘーキヘーキ、良い子だから」


少し迷ったのち、結局履歴書に書いてある電話番号に電話をかけた。信用できるはずの友人を信じた結果だった。信用できるはずなんだ。

電話口に出たのは、声にあどけなさの残る少女だった。

採用したい旨を告げると、意味のわかりづらい若者言葉が返ってきた。完全に理解するのは三十路の野郎には難かったが、おおむね喜んでいるんだろうことはわかった。

いつから来れるかを尋ねると、いつでも、ということだった。
明日の朝から来てくれと返し、電話を切った。


まったく、これがとんだバースデーギフトだった。

2.

翌日、やってきた彼女はおおむね写真から得られるイメージ通りの子だった。裏地がヒョウ柄の黒パーカーに、下はブルーのショートデニム。若者の洒落には詳しくないが、可愛らしいカジュアルスタイルだと思った。ジャージやスウェット、作業服ままで平気で出勤してくる男とは違う。

彼女は出会い頭、無邪気な声で言った。

「ちょりーっす! 今日からお世話になりまーす。よろしくちゃーん親方っ☆」

敬語の下手な子だった。だけど、それを不快には感じなかった。敬語の使えない新人が入ってくることは珍しくもなかったから、おそらく慣れもあったんだろう。

よろしく、と返した。
親方という呼ばれ方がなんとなくむず痒かったから、周りと同様に監督と呼ぶよう言った。

「えー? でもでもー、カントクよりは親方のがカッコいいぢゃん! ダメなん?」

そんなところでゴネられるとは思っていなかった。
まあ監督だろうが親方だろうがこの現場で指すのは現場監督である自分以外にいないか。むず痒さは我慢しよう。
構わない、と告げた。

「いぇーい☆ おーやかたっ!」

嬉しそうに呼ぶ彼女をどうしていいかわからず、頭をかいた。うちは土建屋だ、しんどいぞと脅すようなことを言ってみた。

「体力には自信あるし! ヘーキっしょ!」

楽観的だな、と思った。この笑顔がどれぐらいで曇るだろうと意地の悪いことが頭をよぎった。入ってから数週は、みな死体のような顔色で帰っていく。自分もそうだった。

ツナギへの着替えを仮設小屋で済ませてもらった。

いざ仕事を始めるにあたって、新人研修を誰が務めるのかで少しばかり現場が揉めた。
彼女は久しぶりに入ってきた女性の新人だった。髪型や濃いめのメイクのせいでアイドルやモデルのような一般的な可愛さからは離れていたが、顔立ちは愛らしかった。どうもそのあたりが原因らしい。

適当な若い男衆に任せるつもりだったが、そうすると他から文句が生まれる。それならばと熟練のベテランをあてがおうとすると、そんな面倒なこと若いのに任せろと拒否された。

一番丸く収まる手を考え、結果やむをえず自分自ら研修に当たることにした。

彼女は華奢な体格だった。力仕事は向きそうもない。しかし、基本的に体力勝負の仕事ばかりなウチの職場ではやってもらうしかない。

初日は、単純で、比較的楽な部類に入る土砂の運搬を教えた。重機で掘り返した地面の土をシャベルで猫車に移し、運搬用のトラックへ運ぶ。それをひたすらに繰り返すだけ。

大丈夫か、と確認すると、

「えっ、ねーねー親方、これねこぐるまって言うん? マジ?」

一輪式の手押し車を見つめながら、そんな的外れな問いが返ってきた。
そうだ、と応えた。

「なにそれ超ウケる! めちゃカワじゃん、ヤバたん!」

えらくご機嫌に、彼女ははしゃいだ。
なんとも新鮮に感じた。そんなくだらないことに、よくそうも心を振れさせられるものだと。
そういう感覚は大切にすべきなのかもしれない。ただ、仕事はしてもらわないと困る。

「……あっ、申し訳ー。やるやる、ちゃんとやるぽよ!」

うわべだけの判断ならば、彼女はあまり真面目そうには思えない。だからしばらくは、別の作業をしながらも彼女の仕事姿を遠巻きに見守っていた。

比較的、楽なだけで、彼女に任せた仕事は決して楽ではない。シャベルで土砂を掬うのも、猫車を運ぶのも、トラックに運んだ土砂を移すのも全身を使う重労働だ。
正直、三十分もてばいいと思っていた。名門野球部に所属していたと言って二年前に入ってきた男がいるが、彼は確か一時間経ったあたりで手を抜き始め、一時間半で作業を止めた。

どうなることやら。期待は薄かった。
しかし、それを謝らなければいけないなと反省することになった。

彼女は、一時間経っても、一時間半経っても、作業の手を緩めることさえしなかった。
脇目も振らずに愛らしい猫車に土砂を積んでは、運搬用トラックへとせっせと運ぶ。
無論ペースが際立って早いわけもない。男がやるよりも一度に運べる量は少ないし、運ぶ速度もやや遅め。
それでも、彼女が力を尽くしているのは一瞥しただけでわかった。手を抜く様子すらない。

いい意味で期待を裏切ってくれた。
一度休憩してもらおうと手招きで呼んだ。

「んー? どったん親方。……あっ、もしかしてー、アタシなんかミスったりしちゃった系?」

ミスなどあるはずもない。首を横に振った。

この現場では作業員は各々の裁量で勝手に休みを取る。だから、一時間半に一度ぐらいは軽い休憩を取っていいと伝えた。それと、昼休憩は一時間、十二時からだということも。

「そなんだ? りょーかいちゃん!」

彼女は軍手のはまった手でひたいの汗を拭った。
夏はとうに終わって暑さはしばらく感じていない。しかし、彼女の顔には珠のような雫がいくつとなく流れていた。

真面目なんだな、と冗談めかして言った。

「へ?」

浮かんだのはぽかんとした表情だった。

「新人なんだしー、大したことできないんだから手え抜くなんてありえんてぃーっしょ。ふつーじゃね?」

彼女はなんてことないように言った。
自分はどうだったろう。あまり思い出したくない。
新人なんだからとその立場に甘え、できないことを正当化する人は多いように思う。だから、少なくとも普通ではないはずだが。

「まあ確かにキツヤバだけど! まぢ予想以上だったわー」

へらっ、と笑った。来た時の笑顔と、まだなんら変わりもしなかった。

見張っている必要もないだろうか。
そう判断して、上がり時間までその場の作業を任せた。彼女一人で終わる量ではなかったから、できるところまででいいと伝えて自分は別の仕事に取り掛かった。

その日の作業は思っていた以上に順調に進んだ。工期や工事計画を組み直す必要もなさそうだ。

夜と夕方の間とも言える時間に作業は一旦終える。
朝から勤務していた同僚たちは上がる時間だ。
そういえば、彼女に終了時間は伝えていなかったな、とその元へ走った。

彼女は言いつけ通りにずっと働いていたようだった。西日を横身に受けながら猫車を押している。やはり積もる疲労には勝てるわけもない。遠目からでも身体がガタガタになっている様子がわかった。

「……あっ、親方~。なに? 終わりなん?」

顔にも疲労の色が出ていた。お疲れ様、どうだった? と尋ねた。聞くまでもないことだ。

「いやもー、マジヤバたん。色んなとこパンパンだよ~」

愚痴を言いつつも、彼女は笑顔だった。もちろん疲れのせいか朝ほどの元気なものではなかったが。

休憩所、更衣所を兼ねた仮設のプレハブ小屋に彼女を連れて戻った。
普段ならば終業時間になれば自由に早々に帰っていく同僚たちは、今日はそこに残っていた。理由は言うまでもなく彼女なんだろう。

「えっ、歓迎会? ……いやー……それはエンリョしたいかも? あっ、うれちーよ? うれちーんだけど、今日はもーまっすぐ帰りたい系だからさー」

彼女のための歓迎会を考えていたらしい。が、彼女自らの手によってその計画は頓挫した。囲んでいた若手の作業員たちが軒なみ肩を落とす。

既に店の予約もしていたらしい。急遽キャンセルするのは気がひける、と男衆だけで行くようだ。監督もどうかと誘われた。誘いは非常に嬉しいが、この後まだやらなければいけないことが残っている。泣く泣く断った。
皆の背中を見送る。下手な昇進をしていなければあちら側にいられたのに、とため息をついた。

書類作業や事務処理に移る前に、軽くつまめるものでも買いに行こうと近場のコンビニへ向かった。
向かう途中、さっきまで見ていた小さな背中を見つけた。両手を目の前に広げ、見つめながらゆっくりと歩を進めている。
小走りに駆け寄り、肩を叩いた。

「うわっ。……あ、親方? ビビったー。
……あり? まだ仕事あるんじゃなかったん?」

帰るわけじゃあない。帰りたいのはやまやまだが。

なにを見ていたのか、と尋ねると、彼女はその両手をこちらの顔の前に広げた。

「見て見てコレ! 激ヤバちょ!」

自分の無骨なものとはまるで違う、綺麗で細い指だった。しかしそんなことに感嘆する間も無く、その付け根で存在感を放つ黒ずんだ赤色に気づいた。
血マメができていた。なんとも痛々しい。

「こんなん初めてなったし。もービビりんちょっすわー。けっこーヒリヒリすんだねぇ」

必死に仕事をしていた証左だ。手を抜いていればそんな風にはならない。
褒めると、彼女は照れたように頭をかいた。

辿り着いたコンビニで、買う予定だったものに加えて余分なものをもカゴに入れた。加糖の缶コーヒーと絆創膏。

外に出てからその余計な二つを彼女に手渡した。

「えっ、くれんの? マジ? ありがとー親方!」

明日からも期待していいのか、と半分笑いながら尋ねた。つられたのか彼女も笑った。

「当たり前っしょ!」

その言葉をまるまるそのまま信じられるとは言えない。だけど、期待はしてよさそうだった。力強い言葉尻と笑顔にそう思わされた。

彼女のラフな口調や無邪気なところなんかは、おおむね写真から得られるイメージ通りだった。
しかし、見た目から生まれるイメージに反して、彼女は真面目で真っ直ぐで、ともすれば愚直な子だったらしい。

3.

世の新卒社会人はおおよそ三年の間に三割ほどが職から離れるそうだ。それを嘆かわしいだなんだと叫ぶテレビ番組その他を幾度も見るが、自分としては人の勝手だ、ほっといてやれとしか思えない。

うちの職場の新人は一年以内でも三割どころかその倍ぐらいは辞めていくが、仕方ないと割り切っている。やりたくないものを押し付けるような傲慢は嫌いだ。

ただ、そうは言ってもやはり一度は共に汗を流した相手がいなくなるのは寂しいものだ。望んで勤続してくれるならそれに越したことはない。

さて、新たに仲間となったあの彼女はどうなることだろうか。
根の真面目な子だった。だけど、真面目だからこそ息をつくことを知らず潰れてしまったりもする。
こちらで気をつけてあげた方がいいんだろうか、なんて上から目線なことを思っていたが、そんなのは彼女には全く不要だった。

翌日も、その翌日も、さらにその翌月も。まるで変わりのない彼女の無邪気な笑顔が土埃臭い現場にはあった。

「まぢヤバー。大丈夫? アタシの手、まだ付いてる? 感覚ないぽよなんだけど!」

仕事が好きというわけではなさそうだった。文句や愚痴は何度も聞いた。
しかし、どんなにキツかった日の終わりにだって、彼女は笑って

「お疲れちゃーん!」

と言って帰っていく。なんとも不思議な子だった。
愛嬌の良さは大いに受け入れられ、三ヶ月も経つ頃には現場の人気者になっていた。

研修を受け持つ身として、特に言うこともなかった。言ったことはきっちりやってくれるし、たまに間違うことを叱ればちゃんと飲み込んで反省する。
失礼な話ながら、思わぬ掘り出し物だな、なんて思ったことさえあった。

また、彼女とは仕事以外でもしばしば一緒の時間を過ごすことがあった。
家が近かったのだ。自分が住んでいるボロアパートから十分もしない距離に、彼女の家はあるらしい。帰り道を途中まで同じくすることも何度もあった。

そんな時は決まってどこかのコンビニに寄った。


「うあ~さむさむっ! もーちべたいのは無理系だねー」

なんて言って二人並んでホットの缶コーヒーを飲んだのは、確か彼女と出会って二ヶ月ほどが経ったあたりだ。

喋るたびに白い息が漏れては霧散する。暖かい缶の熱が指にまとわりついて痺れを溶かす。
寒いのも当然で、暦は師走に入っていた。寒波が本腰を入れて列島に打ち寄せているらしく、作業中に汗が流れることもあまりなくなっていた頃だった。

「あ、そだ! ねえ親方、見てちょ見てちょ!」

小柄な彼女を見下ろす。
スチール缶が逆さまになるぐらいに勢いよく飲み干し、彼女は思いっきり息を吐いた。
その様子を見て、はて、どこかで。そんな既視感を覚えた。

「くっはぁ~! こーのイッパイのために生きてるぜぇ☆」

酒飲みか、なんてツッコミを入れた。

「似てた似てた? ビール飲んでるとこマネしてみたんだけど!」

誰の、と尋ね、挙げられた同僚の名前を聞いて得心した。少し吹き出す。なかなかどうして特徴を捉えている。が、まあ聞くまではわからなかったから。
及第点だなと応えた。

「くぁー、きびちーっ!」

自分で自分のひたいをぺしっ、と叩いた。

テンポよく次々と話題が飛び出す彼女は、話していて飽きることがない。これも一種の話術、才能なのかな、なんてふうに感心した。自分にはないものだ。

お互いの手にあるものがなくなった時点で、彼女とは別れるのが普段のならいだ。その時は二人ともコーヒーしか買っていなかったから、飲み干した時点でその場を後にした。
コンビニ前のゴミ箱は誰が何を捨てたのかえらくパンパンで、缶を押し込むのに少し苦労した。

敷地の駐車場から出て二、三、歩いたあたりで、強い風がひょうと吹き抜けていった。

「うひゃあー、さむーっ!」

風が吹くと参るな、なんてことを笑って言い合った。
彼女はオリーブ色の暖かそうなモッズコートを羽織っていたが、その下は薄っぺらな黒いミニのワンピースだった。
そんな薄着じゃそれは寒いだろう。
言うと、

「オシャレはガマンだーって、エライ人も言ってたし!」

鼻を赤くし、自分の肩を抱きながら笑っていた。
無理だけはするなよ、と忠告しておいた。体調を崩されたらかなわない。

「ヘーキだよん、アタシ身体強いから! ……あ、今おバカは風邪引かないよなー、とか思ったっしょ!」

この問いには肩をすくめるだけで応えた。

帰り道を足早に進む途中、ふと思い立って仕事には慣れたか、と尋ねた。

「バッチリ! いーい人ばっかだしー、みんな優しーし! 仕事はやさしくないけどっ」

それはよかった。ほっと息をついた。

彼女と別れてから、ほっとした自分をなんだか気恥ずかしく思った。

生き方を、仕事を決めるのは自分自身だ。選んだ職に骨を埋めるのも、別の何かを求めて彷徨うのもその人の自由。深く干渉するな、ほっといてやれ。
その持論を変えるつもりはない。

なのに、彼女のセリフからやめたいという意図の取れる言葉がなかったことに安心した。
どうも、彼女がいなくなることを嫌がっているように思えて。

自宅のアパート、その自室前で立ち止まる。
頬をかいた。かいた頬が赤いのは、きっと寒さのせいだろう。

4.

工事現場の作業員に、いい印象を持っている人はたぶん少ないだろう。
基本的に工事はやかましい騒音を立てるし、道路をふさいだりもする。仕事なんだから仕方のないことなのだが、それでも時折クレームが入る。
こちらの不手際を責められるなら謝罪の言葉もすらすら出るが、仕事上のやむを得ないあれこれにいちゃもんをつけられるとどうにも敵わない。

ある日、仮設小屋に通している固定電話が鳴った。基本的に業務連絡等は携帯を使って行うから、その電話が鳴るのは外部からのコールが多い。
嫌々ながらも受話器を取った。

できるだけ愛想よく聞こえるように応対する。相手は現場の近所に住む老婆だった。
おや、と思った。言葉の端に棘はなく、口調も穏やか。珍しい。

『ああ、もしもし?工事現場の方かしら。
こないだね、マーケットにお買い物に行ったんだけど、ついつい買い過ぎちゃって。荷物を運ぶのに苦労してたんだけどねえ、それ、持ってくれた子がいたのよお。
優しい子でね、家まで付いてきてくれて。ツナギを着てたから、たぶん、あなたのところで働いてるんだと思って、私電話しなきゃって。
ありがとうって言ってたって、伝えてあげてもらえるかしら』

……本当に、珍しい内容の電話だった。十五年ほど勤め続けてきて、経験のない内容の電話だった。なんなら感動さえ覚えたように思う。

言いたいだけ言って切ろうとする老婆を止め、誰に伝えればいいのかと尋ねた。

『ああ、ごめんなさいねえ。ええと、名前は聞いてないんだけど、キラキラした髪の女の子だったわあ』

この現場には女性は一人しかいない。
老人の手を引く彼女の姿。なんとなく光景が想像できるようだった。

プレハブに彼女を呼び、電話があったことを伝えた。

「えっ、まぢ? あのおばーちゃんから? 元気そーだった?」

彼女はそのことを誇るでもなく、照れるでもなかった。

電話口の声は活力があったと伝えると、

「そっかー。よかったよかった!」

と心から笑うのだった。

こんなことが、彼女が入ってから何度かあった。
仕事に対してまっすぐ真面目なのは初日でわかった。そんな彼女は、私生活でもまっすぐな優しい子だったらしい。


素行のいいところは、伝聞だけでなく実際に自分の目で見たこともあった。

まだ肌寒い初春のこと、彼女と退勤時間が被った日、習慣のようにコンビニへ寄った。

店員の手に余裕がないのか、駐車場にはビニル袋や空のペットボトルが転がってそのままになっていた。

素通りするはずだった。
ああ、ゴミが落ちているなとしか思わなかった。とりわけ珍しいとも思わない。そっとしておけば誰かが片付けるものだ。
自分にとっては、それはただの風景に過ぎなかった。

しかし、彼女にとってはそうではなかったらしい。

彼女は携帯を操作していた。青いクマを模した大きめのマスコットがぶら下がっていて、実用的にどうなんだと思わなくもない。
それをコートのポケットにしまい、なんの躊躇いもなくしゃがんで、汚れにまみれたゴミに手を伸ばした。

彼女には、あの風景はどう映ったのだろう。

「アタシー、こーゆーのほっとけない系なんっすわー」

そう言ってテキパキと散らばるゴミを拾い集めた。
驚きで一瞬身を硬くしてから、後を追うように手伝った。

ふと、いつ頃からだったかな、と思った。善行を積むことに躊躇するようになったのは。
子供の頃は、何を思うことなく『良いこと』をできていたはず。なのに、いつからか周りの目が気になるようになった。それをすることが気恥ずかしくなって、今ではもう『良いこと』をする機会にすら気づかないほどに何も感じなくなっていたらしい。

暖かい店内に入ると、バックヤードから店長らしき眼鏡の中年男性が早足に近づいてきた。

「あの、すみません、ゴミ拾いなんてさせてしまって! ありがとうございました!」

「いーよいーぽよ☆ アタシらが勝手にやったんだしー。ねー親方?」

頷いた。
なんとなく照れ臭くて、少し居づらかった。しかしそれは嫌な気分がゆえではなかった。

その日は百二十円のコーヒー二本を二百円で売ってもらった。恐縮して礼を言うと、向こうは更に恐縮して礼の言葉を並べた。

店の軒先で缶を啜りながら、お人好しだな、と茶化すように彼女に言った。

「親方もぢゃん! 人のこと言えなくね?」

彼女がいなければ、絶対にゴミ拾いなんて自発的にはしなかった。だから自分はそうではないな。

誰もが心根ではしたいと思っていて、けれど二の足を踏みがちな行動。彼女はそこに躊躇いを持たない人だった。

本当に、見た目と口調以外は優等生のようだ。
どうかこのままスレることなく、なんて父親のようなことを思う。彼女のような大きい娘がいる歳ではないのに。

そこまで考えて、そういえばしかし、それが到底あり得ないほどの年齢差ではないのだということに気づき、少しヘコんだ。

5.

晩夏。
八月も終わろうか、というのに、いまだしぶとい暑さが忌々しくしがみついてくる。空調に頼れない外での体力仕事は本当に参る。作業中は皮まで脱ぎたくなるほどだ。

日が暮れると多少はマシになるが、そもそも暮れるまでが遅い。
夏場にこそ早く日は沈むべきだ、なんて通るはずもない意味のわからないことを思ってしまう。

そんな時期でも元気な人は元気で、その違いはどこにあるのかと考えて悲しくなった。
元気なのは彼女を代表とする若い面子。歳か。

「ねえ親方ー、今日の仕事はいつ終わるんー?」

猫車を押す彼女から、すれ違いざまにおどけたイヤミっぽい声が飛んでくる。
現場には出てこない上司からの無茶振りのせいで、このところ残業を頼む日が続いていた。耳が痛い。

もう少し頑張ってくれ、と何度目かわからない曖昧な応えを返した。

「あ、親方。通行人がダンプどけてくれって。そろそろ人も増えるし持ってっていいスか?」

タオルをハチマキのように頭に巻いた同僚の提案を承諾して頼んだ。
ポケットに突っ込んでいた安物の腕時計を探る。まだ日は高いが、時間はもうじき午後六時。今日も少し残ってもらわなければならないな、と頭まで痛くなりそうだった。

唸りながら走っていく大型車のあとを目で追う。道路には楽しそうに笑っている浴衣姿のカップルが見えた。羨ましいことだ。

暑いのはまだ当面変わりそうもないが、暦上は既に納涼を訴え始める時期。その日は、地域の自治体によって花火大会が企画されていた。

「寄ってってやー! タコ焼き、ウチは安いし、味もあの有名アイドルのお墨付きや! 暑い時こそ熱いもんやでぇ!」

呼び込みの声が聞こえる。道路脇には屋台も並び、混み合いと賑わいは結構なものだった。道ゆく人の邪魔そうな目や、こんな時にまで仕事を、という同情の目が辛い。

通行人が多くなってきたから、重機の使用はそろそろ控えるべきか。交通整理の人員を増やして、ああ、あとは夜勤組に引き継ぎもしなければ。

段取りを組んでいると、作業服姿の男たちが荷物を抱えて数人こちらへ歩いてきた。先頭の年上の同僚が代表して申し訳なさそうに切り出した。

「……んじゃ、親方。悪いが俺らは先に帰らせてもらうぞ。あとは頼むな」

妻子持ちや恋人持ちの面々だ。家族サービスやデートのため、早く帰らせて欲しいと朝から言われていた。
私生活を侵食するほどの無理をさせるわけにもいかないから仕方ない。お疲れ様、と頷いた。

「……なあ親方、俺リア充は破滅すべきだと思うんだよ」

自分と同じく帰れない側の一人が背後で物騒なことを呟いた。あとでアイスでも奢ってやるから。

帰れない側の唯一の救いは、現場の紅一点である彼女もまたこちらサイドの人間だったことだ。

「アタシも行きたかったなー、花火大会」

隣で赤く光る誘導灯を振る彼女に、ぽつと呟かれた。申し訳ない、と何度目かわからない謝罪をした。

「まあしゃーないよね。親方は誰かと行ったりしないん?」

相手がいない。仮にいたとしても他の同僚を残して責任者の自分が帰るわけにもいかないだろう。

まあ、生まれがこの地域だから何度となく見ている光景だ。行けたとしても行っていないかもしれないが、と返した。

「え、それはもったいないっしょー。こーゆーのは行っとかないと!」


彼女の出身もこのあたりだったはずだ。
毎年行われるそれを見飽きたりしないのか、と尋ねた。

「んー、まぁ毎年だいたいおんなじだけど、アタシ的には見ときたいかなー。これ系のイベントってさ、いつ終わっちゃうかとかわかんないらしいし。来年はもーしません、とかもありえってぃかもじゃん?」

もしもそうなったなら、来年の今頃、自分は今日見に行かなかったことを後悔するんだろうか。

対面から向かってくる自家用車を歩行者に気を配りながら左折させ、漠然と考えた。

ひょっとしたら身を焦がすぐらいに悔やむかもしれないし、もしかしたら面倒な人混みの原因がなくなったことを喜ぶかもしれない。
自分としては後者になる可能性が高そうだと茶化してみた。

「でもさ、後悔するかもって気持ちもあるんしょ? だったら一応でも見といた方がいーじゃん。『迷ったらとりあえずやっとけ!』って名言があるぽよ☆」

一理はあるのかもしれないが、そんな名言はたぶんない。

集まっていく人の影は順調に増え続け、今いるところから目視で確認できる鑑賞に向いたポイントはおおよそ埋まった。歩道橋や道路上の、観るのに良い場所を地元民は知っている。
自分たちのいる方に来る人は少なかった。

粘り強い太陽は地平に沈んでしばらく経ち、辺りは薄暗さを徐々に濃くしている。
不意に、ひゅう、と遠く音が聞こえて、ぱんと弾けた光の玉が一瞬を照らした。少し遅れて、炸裂する爆音が轟く。

始まったらしい。時間はちょうど七時半だった。

一瞬のフラッシュと、轟きの連続、感嘆の声。
これをもう二度と感じられなくなるなら。
そう考えても、ならばと観る気はさほど起きなかった。

そもそも、観たいと思ってもそれは難しいのだが。作業中の現場は、花火目的ならばなんとも言い難いほど最悪だった。

すぐそばの宙に立体を描く大型歩道橋が、打ち上げられて開く花火の下部を横切っている。その上、ひょこっと飛び出たマンションの頭が丸い花の大輪を大きく切り取っていた。

ため息をつき、ふと彼女の方を見た。
ろくろく見えやしないのに、それでも彼女はそれっぽっちしか見えない火の軌跡を見つめていた。どこか名残惜しそうな横顔が断続的に照らされている。

頭をかいた。歳をとって、そういう顔にえらく弱くなってしまった。その上今回彼女をここに縛っているのは大人の都合だ。

少しぐらいなら休憩がてら見てきていい、と言いかけたが、朝からの仕事で汗だく土まみれの今、人混みに出るのはどうかと誰でも思う。

どうしたものか、と頭をひねったが、上手い案は浮かばない。来年もあることを祈って、今年は我慢してもらうしかないだろうか。

少しの間持ち場を彼女に任せ、プレハブ小屋に戻った。

「お。休憩スか?」

中には定時帰宅組の滅亡を願っていた彼がいた。

「あっ、サボりじゃないぞ。ちょっと買い出し任されただけで」

言い訳しなくても別に疑っていない。
ちょうどよかった、とカバンから取り出した自分の財布を押し付けた。

ついでに自分の頼むものも買ってきてほしい。そっちの会計もこちらで持つから、と伝えた。

「太っ腹だな。まあ全然行くけど、ちょっと遅くなるスよ?」

やむを得ないだろう。
彼の姿を見送ってから仕事に戻った。

残る作業中も響く音と瞬きは断続的に続き、なんとも気の毒なことをしてくるものだよと恨めしく思った。


一時間と少しの間続いた花火大会は、最後に空一面を白く照らすような超大型の菊を咲かせてその最後を飾った。
集まっていた人込みはばらばらと解け始める。時を同じくしたそのタイミングで、あとは夜勤組に任せて問題ないだろうと思えるひと段落がついた。

「クソ疲れた」

「花火見えねえし」

「音うるっせーし」

「マジねーわ。なんでカップルが腕組んでタコ焼き食ってんの見ながら土嚢運んでんの俺。意味わかんなくね」

「わざわざ見なかったらいーのに。……とりまおつにゃーん☆」

集めた残業上がりのみんなはなんとも荒んだ声だった。苦笑しながら労う。

せめてもの、という気持ちで、このあと予定のない人を募った。見事に全員が手をあげたのが哀愁を誘う。人のことはもちろん言えない。

「なに、メシでも奢ってくれんスか?」

そのつもりだ、と返し、買い出しを頼んだ彼を呼んだ。

「聞いて驚けお前ら! 晩飯はスシだぜ!」

「スシ!? マジかよ親方太っ腹!」

「ひゅー!」

彼らの声色はころりと変わった。まったく単純な、と言いかけて、ふと彼が手に持ってきた包み袋に違和感を感じた。見慣れた百円均一、安物のそれじゃない。
嫌な予感がして先に返してもらっていた財布を覗くと、中に入っていたはずの紙幣が軒並み消えていた。

……適当におまかせで、と任せたが、少しは遠慮して欲しかった。

「そして見て驚け! 花火も買ってきたぜ! 買い占めてきたぜ! 食ったらやろうぜ!」

「やるじゃねえか!」

「センパイ流石~☆!」

「はっはっは! もっと褒めろ!」

誰の金だと思ってやがる、と、とりあえずいい気になっている彼の頭を強めに叩いておいた。




「うめえ」

「たまらん」

「言葉もない」

「あっ、てめえそのトロ俺が育ててた奴だろうが!」

「嘘つくんじゃねえよ焼肉みてーなこと言いやがって。育てたのは母なる海だから」

「うわサーモンうめぇ。やっぱ高いスシは違うな」

「うわウニうめぇ。なんだこれ」

「ウニってなんかグロくね? 食べる気起きねえよ」

「あ、この店サーモンは一皿百円だぞ。か◯ぱ寿司と同額だぞ。いいネタは四倍五倍ってするけどな」

「間抜けが見つかったようだな」

「バカ舌はガリでも食ってろ。ああ、やっぱ玉子の味が違うよな、いい店は」

「玉子も百円だぞ。く◯寿司と同額だぞ」

「おっ、ガリ取ってやろうか? 届く?」

「ちょっともーみんなさー、サバも食べなってー」

「酸っぱいんだよなそれ」

「親方たちにやれよ、そういうのおっさんの好物だろ」

賑やかで遠慮のない食事風景だった。静かに食べるのも好きだが、こういうのも悪くない。
いつの間にやら夜勤組も食事に混ざっている。量はあるし別に構わないが、終わったらちゃんと仕事をしてくれよとだけ念を押しておいた。

あとサバはいらない、あまり好きじゃない。




「おらァ! 独眼竜ぜよ!」

「なんで政宗公なのに土佐弁なんだよ」

「花火六本持ってるけどよ、六刀流は史実じゃねーから。ゲームばっかやってんじゃねーよ」

「……うるせえぜよ!」

「熱っ! あっち、お前バカやめろ!」

「火ィこっち向けんなゲームバカ!!」

「落ち着いて楽しめないのかコイツら……」

「序盤から線香花火なんてやってんなよ。へーい」

「やめろバカ叩くな、落ちるだろうが!!」

「うわっ、なにこれナニコレ!? めっちゃニョロローンって出てきたんだけど!」

「ヘビ花火か。う◯こみてーだよなそれ」

「ちょっと、う◯ことかゆーなし!」

「スクリュー! スクリュー! 黄金の左腕!」

「ネズミ花火投げてくんなバカ!! 何が黄金だ補欠だっただろうがお前!」

「あ、さっきのサバ持ってきたら? 生はあれだけど焼けば食えそう」

「もうねーよ全部食ったよ。つか花火で焼こうとすんなよ発想がヤベェな」

「なあ、これ打ち上げとかあるけどどーすんの? 打つの?」

「さすがになあ。もう十時過ぎてるし」

「隙あり」

「あっづぁ!! テメェ消し炭にしてやろうか!!」

「あぶねっ。やめろよヤケドすんだろ」

「避けてんじゃねぇよ!!」

フェンスで囲った現場の中、怒号が飛び交っている。全体的に花火の楽しみ方を間違っている気がしなくもないが、まあいいだろう。

少し離れた位置で眺めていると、彼女がまだ未開封の花火セットを持って駆け寄ってきた。

「おーやかた! 親方も一緒にやろーよ!」

彼女の向こう側には戦争のような光景が見える。もうヤケドもなかなか治らない歳なのだが。

こんなしょっぱい花火大会になってすまないな、と言うと、彼女は横に首を振った。

「んーん、充分ぽよ! ……あ、でもでも、来年はちゃんといこーね? みんなで行けたら絶対超たのちーし!」

あまりに気が早いと思ったが、口には出さないでおいた。そうだな、とだけ応えた。

この隣の笑顔に、そんな茶々はあまりに無粋だったから。

引かれる手に従って、明るく笑う輪の中へと走った。

6.

彼女というムードメーカーが入社し、職場の雰囲気は確実に良くなった。
男というのはなんとも単純だ。彼女の手前、良いところを見せたいのか以前よりもやる気を出すようになった。
また、彼女を通した新しい繋がりも生まれ、コミュニケーションも活発になった。

雇ったことで良いことはいくつも起こった。
しかし、もちろん良いことのみ、というわけにもいかなかった。
とりわけ顕著に面倒な、と思ってしまった事件は、彼女本人の口から相談を受けた。それは確か、秋口を過ぎた涼やかな日のことだったか。


「……ねー親方、今日って親方と上がり時間一緒だよね?」

昼休憩中、コンビニ弁当をつつく自分の元へ来た彼女に問われた。
確かそうだったはずだ。

「ちょーっとそーだんしたいことあるんだけどー。夜、時間いーかなー?」

普段は屈託無く笑う彼女。そのときは、困ったような苦笑いだった。
部下の悩みを聞くのも仕事のうちだ。構わないと二もなく返した。

相談したいなんてことを彼女に言われたのは初めてだった。やめたい、とでも言い出すのでは。それは困るなと思った。

上述の通り彼女の存在は他の作業員のモチベーションになっているし、彼女自身も勤続一周年が近づいて仕事をある程度任せられるようになっている。
抜けられるのは痛手だ。

そして、純粋に嫌だな、と思った。

彼女の苦笑顔がイヤにチラついて、その後の作業は気もそぞろになってしまった。

「ちょっ、親方ァ! あぶねーよぼーっとしてんな!あんた今ドリル持ってんの忘れんなよ!?」

そばにいた年上の作業員に諌められた。ああ、申し訳ない、と謝罪する。

そういえば、気がつけばいつの間にやらみんなから親方と呼ばれるようになっていた。今までは監督だったのに。まったく誰の影響だ。

「親方ァ! あぶねーって! 集中しろ!!」

誠に申し訳ない。


夕闇どきに作業を終え、帰っていく朝からの勤務だった面子を見送った。夜勤のために来た社員に引き継ぎを済ませて簡単な指示を残す。

プレハブからバッグを持って出ると、彼女は引き戸の横の壁にもたれ掛かりながら山あいに沈みかけの太陽を眺めていた。
黄昏の柔らかなオレンジが、揺れる金髪に照り返っていた。幻想的だった。

彼女はよく化粧をして出勤してくるが、だいたいは汗で落ちてしまう。
退勤どきはすっぴんに近い。それでもやはり、顔立ちも整っているんだな、と思えた。

「あっ、親方。おつぽよ~」

そんなことは思ったって言いはしないが。

彼女と二人、いつものようにコンビニへ。
やはり相談内容が胸に引っかかっているのか、いつもよりも軽口の弾まない道中だった。

着いたコンビニでは冷たい缶コーヒーを買った。

「ゴメンね、時間もらっちゃってさー」

謝ることはない。こうやって話すのはいつものことだ、何も変わらないだろう、とおどけた調子で言った。

「あはっ、ありがとちゃん☆
……そーだん、なんだけどー……」

髪をいじったり、鼻の頭をかいたり。なんとも言いづらそうにゆっくりと彼女は口を開いた。

「あのー……誰か、ってゆーのは内緒だけどね? そのー……」

何度も言い淀む彼女を急かさずに待つ。表面は冷静を装っていたが、内心はやめたいと言われたらどうしようかと冷や汗をかいていた。

しかし、衝撃はそんな心配とは明後日の方角から飛んできた。

「……こ、告白? されたっぽいん……だけど」


ああ、やめる云々ではなかったか、とほっとしかけて、やっぱり一息はつけなかった。
反射的に、誰に、と返していた。

「やっ、誰かは言わないってば! 言っちゃ、ダメっしょー? こーゆーの……」

その返事はなんとも真面目な彼女らしい。
しかし、自分に相談するということは、やはり相手は作業員の誰かなのか。
そんなあたりをつけて尋ねると、少し迷った後に頷いた。

それは苦笑いにもなる。なるほどな、と、こちらまで苦笑を浮かべてしまった。

彼女はじっとしていられないのか、ずっともじもじと身体を動かしていた。

「……どーしたらいーんかわかんないってー、こんなの。初めてだしー……」

その言葉は少し意外だった。

面倒なことになっているな、と眉間をこねたい気分になった。職場恋愛はしがらみが多いものというのが常だ。社会人としてはその辺りの配慮はしてもらいたい。
とはいえ、彼女は本来ならまだ高校生の年齢だし、それに近い若い衆も少なくない。彼らにそこまでの分別を求めるのは酷な話か。


さて、どう言ったものか。
彼女がその誰かの想いを受け入れるにせよ拒むにせよ、なんらかの遺恨は残りそうだ。

ともかく是か非か。どうするつもりなのかと聞いた。

「んー……好きは好き、だよ? でも、そーゆー相手には見たことないし。だから、やっぱりさー?」

断りたい、ということだった。
そうか。
小さく息を飲み、すっかり存在を忘れそうになっていた缶コーヒーに一度口をつけた。
なら、断ればいい。

「えっ……でもさ、絶対、断ったら傷つくっしょ?」

ああ、勿論それはそうだろう。経験豊富だなんて口が裂けても言えないが、想いが届かなければ誰だって傷つく。自分とて傷ついた経験もある。

「……それは、やっぱ。かわいそーじゃね?」

言いたいことはわかる。
可哀想だな。
でも、だったら、自分の気持ちをおして受け入れるのか。

「……」

目を泳がせて、彼女は黙って俯いた。

何よりそれが一番失礼な話だ、と自分の考えを伝えた。
気持ちが届いていないのに、ただの一方通行に過ぎないのに。可哀想だからと情けをかけられて、嬉しく思う男なんていない。同情で付き合われるなんて、自分ならそんなのは真っ平御免だよ。


結局はお前の気持ち次第だ。
良いなら良い、駄目なら駄目。それを真摯に応えるのが正しい在り方なんじゃないか。

お人好しな子だ。
人の気持ちを慮って、いつだって気遣っていい方へと向かわせようとする。だけど、今この話に限ってはそれは発揮すべきじゃないと思う。それはきっと、双方のためにならないから。

そんなようなことを噛み砕いて伝えた。

まあ、これはあくまで持論でしかない。もしかしたらもっと上手いやり方があるのかもしれないが、と付け加えた。

彼女はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。

「……親方がさ、一番傷つかない、フラれ方? ……どんなん系?」

すっぱり断られるのが一番楽だ。
即答した。
切り口は鮮やかな方が痛みを感じないものだし、癒えるのも早いから。それはきっと心も体も同じだ。

「そっか。……ね、親方」

見上げる目と視線が合う。その瞳は揺れているようだった。

「これでさ……やめたりとか、しないかな?」

そんなことまでを気にして。
まったく、どこまで人の好い。ここまでくると呆れてしまう。

その問いに、確かなことは言えない。確実に居づらくはなる。その居たたまれなさに耐えきれなくて、やめてしまう可能性はあるかもしれない。

しかし、たぶん平気だ、と伝えた。そんなヤワで繊細な奴はウチにはいないと、わざとらしく鼻で笑いながら。

「……そっかな」

きっと、そうだ。大丈夫だろう。
いい意味で適当なあの連中が、女にフラれたからと仕事を辞めるイメージがつかない。

完全には納得していないようだった。それも当然。あくまで希望的観測で述べただけで、確かなことなんて何も言っていないのだから。

それでも、

「聞いてくれてありがと、親方!」

と言って笑った彼女の方は、おそらくもう大丈夫だと思えた。あとは。


後日、勤務時間中にわかりやすく沈んでいる男を見つけた。事情を知らない周りは腹でも壊したのかと心配していたが、知っている身としてはなんて露骨な、とまた少し呆れる。

仕事上がりにひっ捕まえて、そのまま近場の呑み屋へと拉致した。幸いその彼は二十歳を超えていた。

適当に酔い潰すと、良い具合に抱えているモノを吐き出し始めた。

「……あんなんさぁ、惚れんなって方が無理だろ。なあ親方、わかるっしょ?
だってさ、もーズルイじゃん。見た目ギャルなのに根は真面目なイイ子とかさ、反則じゃん。みんな好きじゃん。しかも分け隔てとかしねーでガンガン距離も詰めてくるしさあ。自分が可愛いのわかってんのあいつ。
なあ親方聞いてる? なあって」

聞いているか、と問われれば、聞いていない。
けれど、ああ、そうだな、違いない、わかるよ、と相槌をひたすらに打ち続けた。
もう辞めたい、という言葉は出なかったことに安堵した。辞めてしまったなら、彼女はきっと、と思ったから。

吐き出すだけ吐き出したのが良かったのか、彼女の切り方がさっぱり鮮やかだったからか、帰る段になると彼の顔つきは少しだけマシになった。その足取りに反して。
飲ませ過ぎたかもしれないな、と反省した。家まで責任を持って送り届けることになってしまった。

その翌々日、彼と彼女の出勤時間が被った。
どことなくぎこちない二人だったが、まあそれも僅かなものだ。あとは時間が解決してくれることだろう。


その二人を見て、大きなため息を吐いた。意味はおおむね安堵だ。
まったく、こういう面倒ごとは勘弁してもらいたいものだ。彼の気持ちもわかるが。

……気持ちは、わかってしまうのだが。

7.

色んなことがあった。
彼女と出会ってから。一年はあっという間に過ぎ、二年めはそれよりもさらに早く過ぎていった。

行く月日の中、いくつかの現場を巡った。しかし、自分たちのチームは運良く、家から通えないほど遠い地での作業を割り振られることはなかった。
だから彼女と一緒に帰る日は依然としてしばしばあって、帰り道の途中にコンビニに寄る習慣も続いていた。

二年という日々の中、変わりゆくものはほとんどなかった。ひょっとしたら気づけていなかっただけなのかもしれないが。
これから先も、こんな時間が流れて行くのだろう、そうであればいい。そう漠然と考えていた。

そんなこと、あるはずもないのに。諸行無常は定めだということを、大人になった自分は知っていたはずなのに。


変化の契機は、イヤに蒸し暑い夏の夜だった。月末の事務作業に追われ、早朝から出ていたのに夜の九時になっても帰れなかった。にじむ汗をタオルで拭き取りながら、空調もないプレハブでノートPCに向かっていた。

暑さを我慢しつつキーボードを叩き続ける。ようやっと全てまとまる目処が立ったところで、一度休憩しようと椅子を蹴った。
小屋の引き戸に手をかけると、さして力を込めていないのに勢いよくスライドした。吃驚した。

「うわっ!? ……ビビったー……親方かあ」

向こう側から、同じく扉を開けようとしている人がいたからか。夕方に退勤したはずの彼女がそこに立っていた。灰色のホットパンツに、丈の短めな黒いパンクTシャツ。服装は帰った時と変わっていない。ほんのりと自分とは違う汗の匂いもした。一旦帰ってもいないのか。

どうしてここに。

「……親方、まだいんかなーと思って。今ヘーキ?」

いつかのようにまた相談か、と苦笑しながら聞いた。

「ん……まあ、そうなるぽよ?」

彼女は笑わなかった。

自分でもなぜかわからない。
けれど、その彼女の顔を見て、何かを察してしまった。

頭をかいて室内を振り返る。平気ではないが。
付き合おう。ちょうど休憩するところだった。

ありがと、と、彼女はやっと小さく笑った。


周りには聞こえない方がよかろうと、途中の自販機で飲み物を買って人気のない近くの市民公園に向かった。
ブランコになんて乗ったのは小学生ぶりだ。
キコ、キコ、という鎖の軋む音が、木々の葉が掠れる音と混ざって静かな夜に溶けていく。

相談ってなんだ、とおもむろに尋ねた。
隣で揺れる彼女の肩がびくりと跳ねる。誰かしらにとっていい話じゃないことはわかっていた。

遠慮なんていらない。

「うん……とりま、これ見てちょ?」

促すと、彼女はおずおずとホットパンツのポケットから紙切れを取り出した。

差し出されたそれを受け取る。名刺だった。
上質紙の上にはどこかで見たようなロゴマークと、ゴシック体の文字が並んでいる。
株式会社シンデレラ・プロダクション。
芸能部門。
アイドル課。
プロデューサー……。

正直、もう若くもない。流行には敏感ではなかった。それでもどこかで見たようなと思うロゴに、聞いたことがあるなと思う会社名。おそらく有名なところなんだろう。

これは、と呟いた。

「さっき、もらったんよ。ばっちスーツ着こなしてるアンちゃんに。タチ悪げなナンパ? って思ったんだけど、どうもそうじゃないっぽくてさー……」

スカウト、されたっぽくて。
彼女はそう続けた。

そんなお話の中のようなことがあるのか、と少し驚いた。貶すつもりなど毛頭もないが、お世辞にもアイドルらしいとは言いにくい見た目の彼女を。


「これ……どーしたらいいと思う?」

相談は、漠然としていた。そんな丸投げの問い。
どうしたいのか、と聞き返そうとして、やっぱり飲み込んだ。聞かずともわかる。

ハナから断るつもりなら、言いづらそうにはしないだろう。その場で蹴って、あとで笑い話にすればいい。そうすることなく返事を保留し、今こうして相談を持ちかけているということは。

スカウトを、受けたいんだろう。

嫌だ、と思った。
ドロッとしたものが胸の奥でうねった気がした。
ともすれば喉から這い出てきそうなそれをコーヒーで流し込む。

出てくることのないうちに、受けてみればいい、とつとめて軽い口調で言った。

「へっ」

意外そうな声。

「……いいの?」

よくはない。それなりに経験を積んだ彼女がやめるのは確実な痛手だ。そして、なにより寂しがる人も多い。自分を含めて。

でも。

そうしたいならすればいい。それを止める権利はこちらにはないし、当人がやりたいようにするのが一番だ。一人辞めたぐらいで立ち行かなくなることなどない。そう言った。

間の抜けたあどけない顔がこちらを向いている。
引き止めて欲しかったか、と意地悪く尋ねた。

「そっ! ……そうじゃないけど。……それも、あるかもだけど。あの、急にやーめちょー、とか言ったら、メーワクだと思ったから」

いち労働者が気にすることじゃあない。そんなのは自分のような管理職の仕事だ。

スカウトを受けたいんだろう。やってみたいんだろう、アイドルを。違うか、と質すと、彼女は遠慮がちに頷いた。

着ている服にせよ、携帯のマスコットにせよ、髪型にせよ、メイクにせよ。一般の大衆ウケからは外れているかもしれないが、それらは彼女が可愛いものを求めた結果だ。
アイドルなんて可愛らしいものの象徴に、なれる、ならないかと手を差し出されれば、それは掴みたくもなろう。

好きなようにするといい。子どものワガママぐらい笑って許す。大人だからな、と見栄を張った。

「アタシ、もーすぐ十八なんだけど……まだ子ども扱いされる系?」

自分からすれば、酒も飲めないような歳なら無条件に子どもだ。
そう言って笑い飛ばすと、つられたように彼女も笑った。

一口。喉を潤し、もう一度嚥下する。

「……アタシさ、あんま頭とか良くないっしょ? 力仕事は結構できるよになったと思ってるけど……そんなアタシでも、なれるんかな?」

アイドルに学校のお勉強なんていらないだろう。

「や、でもー……あ、ほら。クイズ番組とか?」

足りていない枠もいるんじゃないか。詳しくは知らないが。

「あ、そっか。……あ、いやそーじゃないない、学校のおべんきょとかじゃなくて……なんてーの? 元々の頭の良さ、みたいな」

地頭の良さか、と聞くと、

「それ!」

と彼女は指を差した。

そこは問題ないだろう。口から反射的に漏れた。

彼女が仕事を覚えるのに苦労していた記憶はないし、会話していて拙いなと思ったこともない。
問題があるほど悪いということはない。ハンコを押したっていい。

ほかに心配事は、と問いかける。

彼女の手の、ブランコの鎖を握る力が強くなった気がした。

「……アタシさ、こんな見た目だけど。アイドルになんて、なれるんかな?」

何かと思えばそんなことか。うつむく彼女を鼻で笑った。
可愛いんだからそこに心配なんていらないだろう。いわゆるギャル系の容姿は一般的なアイドル像から外れるかもしれないが、そこはそれ、個性だからで通る。

「か、かわ……え、あの、カワイイ? アタシ?」

もしも少しも可愛くないというのなら、そんな人に告白した誰かさんの立場がないだろう。なんだ、彼は酔狂な変わり者だと言いたいのか。
冗談めかしてそう言った。

ぼんやりと灯る公園の街灯が、ジジ、と音を立てた。羽虫が飛び回っている黒い影が見える。

彼女は何も言わなかった。

ついでに言うなら、と。灯りを見上げながら付け加えた。
自分たち職場の面々は、皆、お前のことを可愛いと思っている。今でも五十人近いファンがいるんだ、心配する必要はないんじゃないか。

彼女の顔がほのかに紅潮しているのが、僅かな光源のみの薄闇の中でもわかった。夏場だが、それは日焼けのせいではない。

他は、と尋ねると、彼女はふるふると首を振った。

最後に残ったコーヒーの一口を、ぐいと呷って飲み干した。

そして。
もしもダメだったら、いつでも戻って来るといい。
本心からそう伝えた。


夜は更け、話している間に十一時前になっていた。こんな時間に一人で帰らせるのは憚られる。家までの道を付き添った。
彼女から、いつものような話題の提供はまるでなかった。けれど、ゆるい沈黙を辛いとは思わなかった。

彼女の家のそばまでゆるりと歩き、何事もなく送り届けた。

彼女は去り際に振り返り、綺麗な笑顔を浮かべた。
ありがとう、という言葉が耳へ届いた。

だからきっと、これで良かったんだろう。


そういえば、まだ仕事が残っている。戻らなければ。
元来た道を遡って歩いていると、寂れた自販機脇のアルミメッシュのゴミ箱が転がっていた。中身のカンビン、ペットボトルが散らばっている。
ふ、と小さく笑って、ゴミ箱を立て直して中身を拾った。
一通り片付け終えたあと、しゃがみ込んで自販機に背を預けた。


ああ。
大人になると、どうも自分を殺すのが上手くなっていけないな。

人の心は複雑だ。いろんな思いが混ざり合って、その時々に色を変える。
本音と建て前、その二極だけじゃない。いくつもある本音と、無数にある建て前がせめぎ合う。

吐いた息と一緒に、さっきまで無理くりに押し込んでいた黒い本音が噴き出てきた。


……馬鹿野郎、今更になって後悔して。

別れるのが嫌だったくせに。ずっとそばに居たかったくせに。好きだったくせに。愛していたくせに。

引き止めるなんて容易かっただろう。コンプレックスをつつくなり、同情を引くなり。

それを、お前。
格好つけて背中を押して、一体何をやってるんだ?


とめどなく出て来ては騒ぐ後悔を止めたくて、胸を拳で一発強く殴った。鈍い痛みが脈打つ。

……黙れ、阿呆め。

言われずともわかっている。そんな本音があったことぐらい。お前が偽らざる本音だってことぐらい。

ああ、そうだ。
彼女を引き止めたかった。
ずっと一緒にいたかった。
この楽しい日々を止めたくなかった。
そばで笑ってくれる彼女を失いたくなかった。

そりゃそうだろう。

…………好きだったんだから。

だけど、好きだったから、だからこそ。
大人ぶって、格好つけたんだ。好きな人の前でいい格好しないで、いつするっていうんだ。
反論があるなら言ってみろ。

そして、彼女に言ったことだって、間違いなく自分の本心からの言葉だった。そこにだって嘘も偽りもありはしない。

加えてもう一つ、揺るぎない本音。
彼女の心からの笑顔が好きだった。それが鈍ってしまうのが嫌だった。あの不安そうな顔を晴らしたかった。

そりゃそうだよな。
なんせ好きだったんだから。
好きな人の心からの笑顔のためを思えないような人間には、成り下りたくないよな。

だからきっと、これでいい。
誰にどれほどの罵倒を受けようと、彼女を想ったこの選択を、あの本音を伝えることを選んだ自分を間違っているだなんて、自分だけは思わない。


ああ、しかし、なんだ。
うまく言葉が見つからないが。

……悔しいんだろうな。


鈍痛は少しずつ引いていって、間も無く鎮まった。
立ち上がって、深く息を吸い込んだ。痛みはもうないはずなのに、疼くものを感じたのはなぜだろう。

なんて、そんなのはわかりきった話だ。

8.

「アイドル!?」

「マジで!? なんで!?」

「いつ!?」

「えっ、じゃあ辞めんの!?」

「アイドル!!?」

「スカウトされたァ!? なんだそりゃ! すげぇなオイ!!」

「アイドル!?!?」

「ウッソだろお前!!」

「俺伊織ちゃんのファンなんだけど!! サインもらってきてって頼んだりできんの!!」

「765じゃねぇよドアホ!」

「マナー違反だろバカ! サイン会行け!!」

「あぁ!? ……あぁ、うん、そうか」

「アイドル!!!!????」

「さっきからうるっせーなバカ野郎ォ!!!」

昨日あったできごとを伝えると、てんやわんやの大騒動になった。
彼女の重大な相談を受けた翌日は、都合よく彼女が休みの日だった。これ幸いと、彼女以外の面子を全員呼び集めた。彼女について大事な話があると言えば、集めるのは容易かった。

落ち着くのを待つのが無駄かと思うほどに騒ぎの熱は収まらない。無理もない。
誰もが彼女に好意を持っていた。そこに友好、親愛、恋慕の差異はあれど。
そんないとしい彼女がアイドルになる、なんてことになれば、それは騒ぎたい気持ちにもなる。

口々の声が耳に届く。おおよそは驚き。ついで賞賛。そして疑問に、落胆。無理だ、だとか、そういう類の声は聞こえなかった。

二度手を大きく鳴らし、視線を集めた。
ある程度静まったところで口を開いた。

すまない、とまず謝った。
悩む彼女の背中を押したのは自分だ。引き止めようと思えば引き止められたのに、そうはしなかった。

各々思うところはあるだろう。ショックに思ってるのもいるだろう。また忙しくなることを懸念する人もいるだろう。自分を責めたいのなら、甘んじて受けよう。いくらでも責めてくれて構わない。

だけど、彼女のことは笑って見送ってくれないか。きっと彼女はそっちの方が嬉しいだろうから。

そう伝えると、皆頷いてくれた。それは一様にではなかった。ある人は笑っていたり、あるいは渋々だったり。それでもみんな、彼女のためならと言ってくれた。

できた部下たち。そして、誰もから想ってもらえる彼女。それは言いようもなく誇らしかった。

したいことがある、と伝えた。最後に、安心して送り出すために。

記憶力はいい方だ。彼女に見せてもらった名刺はすでに返している。しかし、そこに記載されていた数字列は覚えていた。

暗記していた電話番号を自身の携帯に打ち込んだ。
コールは短く、すぐに繋がった。

電話口に出たのは、気の良さそうな青年だった。

彼女の苗字を告げ、その父親だと騙った。娘のことについて詳しく聞きたい、話をする機会を設けてくれないか、と頼むと、快い承諾が返ってきた。
今日ならばいつでも大丈夫だ、ということだったので、現場からほど近い居酒屋に今晩と指定した。

電話を切る。
居酒屋は行きつけだった。頼めば貸切にもしてくれるだろう。

今日は飲みに行こう、と告げた。代金は持つ。
夜勤組には有給を使ってもらった。ここのところの工事計画は順調だ、平気だろう。書類仕事もある現場監督の自分は上から睨まれるかもしれないが、そんな些事は構いやしない。

意図は汲んでもらえたようで、全員があくどい笑みを浮かべた。





「………………あの。これはいったい、どういうことなのでしょう…………」

居酒屋の奥座敷、壁際角席に座る男性が、身体を小さくしながらおそるおそる声を上げた。
周りにはワザとお行儀悪く座る、見た目のあまりよろしくない若い衆。よくもまあそんなにも、と言いたくなるほどのシワが眉間に寄っている。

自分はカウンター席に腰掛け、少し遠目に眺めていた。

待ち構えていた居酒屋にやってきたのは、小綺麗にダークカラーのスーツを着こなした好青年だった。店内の違和感に気づかれる前に引っ張り込み、その席に座らせた。

「…………ええと、お父様とお話しを、ということだったはずなんですが」

「みんなにとっての娘みたいなモンだからな、間違ってねえだろ」

威圧感丸出しでそう言ったのは、奇しくもプロデューサーだという彼の横に陣取った、以前彼女に告白した男だった。

「ウチの大事な仲間連れてこうってんだ、相応の覚悟はできてんだろうなァ?」

もちろん、何か危害を加えるつもりなんてない。
ただ、彼女に今の生活を捨てさせ、楽ではないだろう業界へ連れ込もうとしているのだから。
彼女の人生を背負う覚悟ぐらいは、見せてもらわないと安心して見送れない。

衆目の中、彼は慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「……それは、もちろん。必ず成功させるってつもりでスカウトしました。覚悟だって、あるつもりですよ」

「ホントだろうな?」

「本当です! こんな状況で嘘なんて言えません!」

別の方向から声が飛ぶ。

「あいつ、アイドルとして成功できんの? それっぽくないだろ?」

「間違いなくできます! 絶対に逸材です! 自信を持って言えます!」

また別から。

「枕とかさせたら刺すぞお前」

「絶対にありません! これも自信を持ってます! 百パーセント健全です!」

その隣から。

「なんでまたあいつをスカウトしたんだよ」

「……ええと、それはもう、一目惚れとしか言えないんですけど」

「あ?」

「あ?」

「あ?」

「いえあの、恋愛的な意味でなく!」

「あ?」

「あ?」

「あ?」

「何が正解なんですかコレ!?」

問答はしばらく続いた。飾り気のない問いに、真摯な回答が返ってくる。彼に嘘をついているような様子はなさそうだ。

これでもし、汚れた事務所だったなら……その時は、またこれからも彼女と一緒に。
なんてことを考えてしまっていた自分の、なんと小狡いことか。

「親方ァ!」

呼ばれ、思考を打ち切ってそちらを向いた。

「……大丈夫そうっス!」

頷いた。椅子から立ち上がり、彼の元へと向かう。
場所を空けてもらって隣にあぐらをかいた。

少しだけ、言っておきたいことがある。
そう前置きし、彼の目を覗き込む。

楽な業界じゃないんだろう。失敗することもあるだろう。落ち込むことだってあるんだろう。
そんなことはいい。
だけど。

……もしも。
もしも、これから先、彼女の屈託無い笑顔が濁ってしまうようなことがあれば。

その時はお前を、蛭ヶ岳に埋めてやる。


自然と脅すような言い方になってしまった。彼はごくりと喉を鳴らした。
真剣な目だった。真っ直ぐな眼差しがこちらの目を貫いた。
それが、彼女の瞳と、どこかダブった。

「……はい。約束、します! 絶対に、そんなことにはしません!」

これならば、大丈夫か。そう思った。

「……俺ら土建屋が言うとシャレになってねーな」

そんな声が後ろから聞こえた。
それをキッカケに誰かが笑って、真面目な雰囲気は弛緩した。そのあとは、彼も交えての宴会が始まった。

どんちゃん騒ぎは夜更けまでつづいた。
酔いが回っても彼の黒い面はとんと出てこなくて、これは敵わないな、と思った。

9.

話は拍子抜けするほどに手早く進んだ。あの相談を受けた夜から二週間と経たないうちに、彼女が去る日が訪れた。

三年には届かない。けれど、短くはない時間を共に過ごした。そんな仲間が辞めてしまう日、同僚たちは皆現場に集まった。この日にはなんの招集もかけていない。自発的なものだった。

時は真昼。工事現場で、重機があって、作業員がたくさん集まっているのに、そこにやかましい音はない。不思議な光景だ。

自分たちと対面するように、彼女は立っていた。
その構図はお互いの間に明確な線があるようで、それが寂しさを呼ぶ。ほんの少し前までは、彼女もこちら側にいたのに。

「……みんな、ホントのホントに、お世話になりましたっ!」

言って、彼女は大きく頭を下げた。
誰からともなく、返事をかえす。
お疲れ様。またな。元気で。…………さようなら。

どの言葉が触れたのだろう。頭を上げた彼女の表情は、酷く歪んでいた。

お別れ、なんだよね、みんなと。
ポツリと落ちた彼女の声。
荒れていく。

「……すっごい居心地よかったよ。ずっと、優しくって、みんなよくしてくれて。ありがとうって言いたいんだけど、でもそんなんじゃ全然足りないぐらい。……ホントに、マジありがとって思ってて!」

まとまりのない言葉が鼓膜を揺らす。

「……なのに、こんな、自分勝手にやめちゃって。わがままで、ゴメンなさい……でも、でも、応援しててほしくてっ」

連動するように振れていく。奥の奥まで。

「もう、なんて言えばいいんだろ。……アタシ、絶対、忘れないから! みんなのこと! ここで、働いてたこと!」

熱い何かが波濤のように。

「ずっと、ずっと、大切だから……」

押し寄せてくる。引くこともなく。

「……だから、みんなも……」

忘れないでね。

言葉にならないぐらいの小さな声が、耐えられなかった。


一歩踏み出して、華奢で、たくましくて、驚くぐらいに強かった彼女の頭を抱えた。

忘れるわけがないだろう。馬鹿。
泣くな。謝るな。応援するに決まっているだろう、自分たちはもう、他ならぬお前のファンなんだから。

澄んだ青色の端がごく小さく滲む。
見上げた空には雲がまばらに浮いていた。けれど、夏の強烈な日差しを遮るものはなかった。

「……親方ぁ…………」

そんな情けのないぐずった声が小さく下から聞こえてきた。胸元には湿っていく感覚があった。

少しの時間を待って、彼女が落ち着いてから手を離した。一歩下がって、境界線の此方へ。

酷い顔だ、と笑ってやった。

「……うっさいし……」

笑っててくれ。ずっと、いつまでも。
拗ねたように言う彼女に、そう頼んだ。

「……そうだぞ。お前が笑ってないと、親方が人殺しになっちまうからな」

「それはマズイな。飯食いっぱぐれる」

茶化すような声が後ろから飛んできた。

彼女の充血した目が丸くなる。

「……へ?」

「ああ、しかも被害者はプロデューサー野郎だぞ」

「真夜中の凶行! 埋立地に沈む青年!」

「いつかやると思ってましたね、ええ」

「同僚は語る」

「……えっ、なになに、どゆこと?」


好き勝手を言ってくれる。
小さく咳払いして、彼女の頭に手を置いた。

なんでもない。ただお前が笑って生活できてれば、それでいいんだ。……そうなら何もしないから。

「ちょっと待って、その言い方めちゃ気になるから! どーゆーこと!?」

気にするな、と言った。

そして、あの日も言ったが、もう一度言おう。
無理だったらいつでも帰ってきて良い。
でも、帰ってきちゃダメなんだぞ。

「どっちなん!? えっ、ちょっと、なんなのもー!」


結局、プロデューサーとの約束のことは何も話さず、そのまま別れた。
なんとも締まらない別れ際だった。けれど、まあ湿っぽいよりはマシだろうか。

最後の最後、彼女は笑ってくれた。
そして、またね、と言ってくれたから。

悲しそうな顔で別れるよりも、笑顔で別れたい。
そっちの方が、門出としちゃ上等だろう。

「……はー、行っちまいましたねぇ」

「明日から潤いなくなるなーちくしょー」

みんな、それぞれに思いを吐き出し始めた。

「これから先、野郎だけとか。なんだその地獄」

「お前が言うなよムサいんだよバカ」

「なんてとこだっけ、あいつをスカウトしたの。追っかけるわ」

「白雪姫プロ」

「ピノキオプロ?」

「シンデレラプロな?」

「それだ!」

「シンデレラねぇ。灰被りだっけ?」

「あいつならどっちかってーと土被りだな、いっつも泥まみれになって仕事してたし」

「確かに」

「じゃあ俺らなんだよ。小人か?」

「俺王子やるわ」

「たまご? 百円のやつ?」

「吹っ飛ばすぞコラ」

「出ねーからシンデレラに小人は。まあせいぜい意地悪な継母じゃね?」

「それが親方だな、俺らは義理の姉」

「お前らソッチかよ」

「うふっ、違うわよ?」

「刺すぞてめえ」

「てか誰が意地悪だよ、めっちゃちやほやしたわ」

「なあ親方、意地悪な継母だってよ。どうする?」


バカバカしい会話に力が抜ける。

意地悪な継母、か。
意地の悪いつもりはないが、彼女のことを散々こき使ってきたことを考えれば、あながち外れてはいないのかもしれない。

あまり聞こえはよくない。
だが、まあいいだろう。

自分たち最低な義理の家族の元から飛び出して行った、彼女は当然主役のシンデレラ。

そうであるならば、彼女の物語はハッピーエンドで終わるのが定めなのだから。

E.

彼女がいない日々は、ほんの少しだけ緩慢に進んでいく。しかし、こちらの感じ方とは無関係に時間は滔々と過ぎていく。

また、一年という月日がこれといった山も谷もなく過ぎ去った。いろんなものが、いろんなことが変わったけれど、しいて何か事件を挙げろと言われても困るぐらいの小さなことばかりだ。


しかし、大事なものがぽっかりなくなった翌年の夏。
大したことのない日々を再び揺らしたのは、一冊の雑誌だった。

一年前に定期購買を始めたアイドル雑誌。その、ほんの小さな記事の中に、よく見知った愛らしい笑顔を見つけた。


「マジかよ! スゲェ! アイドルじゃねえか!」

「やりやがったな、あいつ!」

「俺はやると思ってたよ、うん」

「は? いや俺も思ってたから」

むさ苦しいプレハブ小屋の中、一冊の雑誌を取り囲んで湧いた。
彼女の笑顔はここで見ていたものと何ら変わらないように……ともすれば、さらに輝きを増しているようにも見えた。
小さな寂しさが、棘になって胸をチクリと刺す。


約束は、ひとまず守られているようだ。もちろんこれから先も、まだまだ見守っていかなくてはならないが。


ふと彼女の記事の横のページに目をやると、そちらは既にデビュー済みアイドルの、ライブイベントの特集記事だった。

首をかしげる。

……観客が持っている、この交通誘導灯のようなものは、一体なんだ。
詳しそうな同僚に聞いてみた。

「え? ああ、それはサイリウムってーんスよ。そのアイドルのイメージカラーで光る棒を振るのが……なんだ、決まりなんス」

なるほど。
じゃあ彼女のライブのときはこれを持っていけばいいのか、とそばにあった赤色灯を見せた。

「いやいや、普通にちゃんとしたの買うべきだろ。そもそもあいつのイメージカラー、赤かわかんねえし……」

「あ、ここに書いてんじゃね。あいつのプロフ載ってるぞ。えっと……」


『名前』『出身』
『年齢』『生年月日』
『所属』

その並びに、

『イメージカラー:茶色』


そう、書かれていた。誰からともなく吹き出した。
室内に笑い声が響く。


らしいといえば、らしいのかもしれないが。
仮にもシンデレラ、アイドルのイメージカラーが、茶色ってのはどうなんだ?


「……なあ、藤本よ?」





おしまい。

茶色のサイリウムってどこに売ってんだよォ!!

あ、終わりです。
ご覧いただきありがとうございました。

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