鷺沢文香は、茜色に染まる (109)
零
一目見たとき、私の中で決まった。
この人は、私にとって必要な人だ。
私はバスタブに浸かりながら、
これからどうしていけばいいかを、考えた。
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1
――どうしようもない、恋をしている。
2
日野茜「おはよーございます! いやー今日も良い天気ですね!」
威勢の良い声とともに、事務所の扉が軽快に開く。
視界に映るのは、暖かい陽太のようなオレンジの髪色と、
本人の性質をそのまま表したような真っ赤なTシャツ。
そして、心地良く明瞭に響くその声は、目を合わせなくたって茜さんだと分かった。
P「おう、茜。今日も良い元気だな」
茜「はい! すこぶる元気です!」
茜「文香ちゃんも、おはよーございます! 今日も元気にファイアーしてますか!?」
鷺沢文香「茜さん、おはようございます。その、今日も元気です」
茜「それは良かったです! 文香ちゃんの声を聞くと元気が湧いてきますね!!」
ニコっと茜さんは屈託なく笑って、そんなことを言う。
相変わらず、ずるい笑顔だ。
茜「文香ちゃん、ぼーっとしてますがどうかしましたか? もしかして熱とかありますか!?」
ためらいなく、茜さんは私の前髪をかきあげて、額に手を当ててくる。
文香「だ、大丈夫です。少し考え事をしていただけですから」
茜「そうなんですか! ちょっと顔が赤くなってるように見えたんですが……!」
それは茜さんが触れたせいかも知れません――私は、心の声を閉じ込める。
P「茜の熱気に当てられたんじゃないか? まあでも、体調が優れないようなら、すぐに俺に言ってくれよ」
文香「は、はい。お心遣い、感謝いたします」
茜「さすがプロデューサーです!!! 頼りになりますねえ!」
P「そうだぞ。茜も具合が悪かったら……って、あまり想像はできないが」
茜「自慢じゃありませんが、ここ数十年は病気になったことはありませんよ! 元気だけが取り柄です!」
元気だけが取り柄なんて、そんなことはないですよ――こんな簡単な言葉ですら、せき止められてしまう。
茜さん相手には、特に「こう」なってしまう。
その理由は、私にはなんとなく分かってしまっている。
けれど、
確信は抱いてはいけない。
答えを出してはいけない。
疑い続けなければならない。
そうしなければ、茜さんに迷惑をかけてしまうから。
P「ところで、茜はどうしてこんな早くに事務所に来たんだ?」
茜「ゼッケンズのライブの打ち合わせですよ! でも、文香ちゃんはゼッケンズじゃないのに、あれ、……何かがおかしいですよ、プロデューサー!」
P「茜、1時間早い」
茜「あーーー、そういうことでしたか! じゃあ私、ちょっと走ってきても良いですか!?」
小さな体躯で、小刻みに腕を振り、足をバタバタとさせる。
そんな茜さんを見て、可愛らしいと思ってしまう自分がいる。
P「車と自転車には気をつけるんだぞ」
茜「はい! では、行ってまいります! 文香ちゃん、また後でゆっくりお話ししましょう!」
文香「はい。お気をつけて……」
嵐のように、という表現がここまで当てはまる人を、私は他に知らない。
そして、ここまで私と正反対な人も、出会ったことはなかった。
眩しい太陽のような人。
私には近付くことができない。
私は近付いてはいけない。
P「じゃ、打ち合わせの続きをするぞ、文香」
文香「……」
P「おーい、文香?」
文香「す、すみません。ぼーっとしてしまって」
P「もしかして、本当に体調が?」
文香「いいえ。……昨日は夜遅くまで本を読んでいたものですから、それで少し瞼が重いのかも知れません」
P「なるほど。まっ、夜更かしもほどほどにな」
文香「咎めないのですか」
P「好きなことをやめろなんて、言わないよ。人生は好きなことをするためにあるわけだし」
文香「人生は、好きなことを……」
P「まあ、それが難しかったりするんだけどな」
冗談っぽく、プロデューサーさんは笑って言う。
文香「それは……プロデューサーさんは、好きなことができていないということですか?」
P「そ、そんなことはないぞ。プロデューサー業なんて、まさに好きなことなわけだし」
一瞬、プロデューサーさんは言いよどんだけれど、私はそれ以上、追及しないでおいた。
プロデューサーさんは、ふうと一息ついてから、私のことを見据える。
P「文香は本が好きで、……アイドルも好きか?」
一転して、真剣な語調でプロデューサーさんは問いかけてきたので、私も真剣にアイドルについて思いを巡らせる。
浮かんでくるのは、アイドルになる前の私だった。
文香「……私は不器用で、人と接することもままならないような人間でした。けれど、プロデューサーさんが私を拾い上げて下さってから、私の物語は一変しました」
文香「人前に立つこと、体を動かすこと、歌を歌うこと……苦手や嫌いだったことが、少しずつ少しずつ好きなことに変容していきました」
文香「好きなことが増えて、そういう意味では、プロデューサーさんの言うところの人生が豊かになったように思います」
文香「こうしたところを総合すると、私はアイドルというものが好きなんだと思います」
P「文香……」
饒舌に語り過ぎたのか、プロデューサーさんはキョトンとした顔をしていた。
私は気恥ずかしくなって、ヘアバンドを緩めて前髪を下ろす。
P「いや、すまん。自分で訊いておいてなんだが、アイドルが好きって言われると、プロデューサー冥利に尽きると思って」
文香「……それはその、なによりです」
P「あはは。ちょっとコーヒーでも入れてくるよ。ブラックで良いか?」
文香「はい。その、すみません」
P「構わないよ」
数分して、プロデューサーさんは戻ってきた。
湯気の立ち上るマグカップを受け取る。暖かい。
文香「ありがとうございます」
P「どういたしまして」
ずず、とプロデューサーさんはコーヒーをすすってから、「安心した」と私の目を見て、言った。
文香「何が、ですか?」
P「文香が最近、思い詰めてるように見えたんで、アイドルに嫌気でも差したかと思ってな」
当たらずとも遠からず、だった。
やはり、プロデューサーさんは人を視ることに長けている。
文香「思い詰めてなどいませんよ。先ほど言ったように少々寝不足で……」
こんな嘘も見破られているかもしれない。
そう思った。
P「そうか? 何かあれば、すぐに言ってくれよ?」
文香は無理をしそうだから――きっと、そんなことはない。
私は人より少しだけ、呼吸が下手なのだ。
だからちょっと、苦しそうに見えてしまう。
文香「プロデューサーさんは……どうしてプロデューサーに?」
これ以上、問いかけられると真理に至ってしまいそうな気がして、私は先ほど飲み込んだ質問を投げかける。
プロデューサーは、困ったように笑うので、申し訳なくなってしまう。
P「まあ強いて言うなら、人間が好きだから、かな」
プロデューサーさんの言葉に、私は少しドキリとした。
文香「それは、どういった意味でしょうか?」
P「いやさ、世の中には色んな人がいて、色んな頑張り方があるんだなって、お前たちを見ていると思うよ。それがとても面白いし、なんだかわくわくさせられる」
P「それで、ステージに立つと誰もが普段と違う顔を見せる。同じ人間なのに、別人みたいになる。そういうギャップに俺は見惚れてしまうんだ」
P「そのギャップを一番に堪能できるのは、プロデューサーの絶対特権で、だから俺はプロデューサーになった……んだと思う」
言って、プロデューサーさんは少し照れくさそうに頭をかいた。
今言ったことは内緒な、と人差し指を立ててささやく。
歪みのない、純粋無垢な主張だった。
こんな風に真っ直ぐ人を想えるなら、想われることができるのなら、どんなに幸せなことだろうかと思う。
文香「……好きな人といられるのは、この上なく幸せなことなのでしょうね」
P「へ? あ、いや! そりゃ、見惚れるとは言ったけど! 好きとか、そういう恋愛感情はないからな! 親心的なあれだぞ!」
独り言のつもりが、プロデューサーさんの耳に入ってしまったようだった。
私は慌てて「分かっています」とフォローを入れる。
P「文香は物分かりが良くて助かるよ。これが思春期真っただ中の中高生相手だったらなんて言われるか。加蓮とか加蓮とか加蓮とか……」
物分かりが良い。
私は頭の中で、反芻する。
P「でも、文香の言った通りだよな」
文香「……何が、ですか?」
P「好きな人と過ごせるのは、この上なく幸せだってこと。人生は好きなことをするためにあって、それで好きな人と過ごすためにあるって思うよ」
文香「それは」
それは例え、周りの方々から受け入れられないものであっても、ですか?
こんなこと、訊けるはずもなかった。
「好きな人」という言葉を聞く度に、茜さんの顔が浮かんでくる。
私はそれを否定する。否定し続ける。否定しなければならない。
それは、"正しくないこと"なのだから。
P「それは?」
文香「それは、その通りだと思います」
P「文香もそう思うか……。まっ、恋愛するなら俺にもバレないように上手くやってくれ」
文香「プロデューサーさんは、アイドルが恋愛をしても許されるのですか?」
P「そりゃ、許さないなんて言えないだろ」
文香「どうして、ですか」
だって、とプロデューサーさんは言う。
P「だって、人生は一度きりしかないんだぞ」
悪意のないプロデューサーさんのその言葉が、私には深く鋭く心に突き刺さり、まるで汚泥の中に突き落とされたかのような息苦しさに見舞われた。
私は、アイドルになる前の私を思った。
アイドルにならなければ、こんな気持ちを抱くこともなかったのだろうか。
3
その日は結局、打ち合わせの後にレッスンが入っていたので、茜さんとお話をすることはなかった。
――だって、人生は一度きりしかないんだぞ。
眠りにつこうと思ってベッドに潜っても、プロデューサーさんの言葉がリフレインする。
同時に思い返されるのは、茜さんと過ごしてきた日々だった。
4
茜さんと出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
それは私がプロデューサーさんにスカウトされて、初めて事務所を訪れた日のことだった。
書類を取ってくるからと、ソファへ座るようにプロデューサーさんに促されて。
しばらく戻ってこなかったので、私は本を読み出していた。
文香は読書を始めると自分の世界に入り込む――私という人物を客観的に評価される際に、必ず言われてきたことだった。
けれど、彼女の声は、私の世界を飛び越えた。
茜「おっはよーございます!!!」
今日と同じように軽快に扉が開いて、快活な声が響き渡った。
私は思わず、顔を上げた。
顔を上げると、彼女の瞳と焦点が合った。
淡い水色の瞳だった。溺れてしまいそうなほどに、どこか頼りない色彩をしているのに、その奥には、燃えたぎるような炎が垣間見える。それはとても不思議な瞳で、初対面だっていうのに、私はじっと彼女の瞳の中を彷徨っていた。
茜「……ですね」
しばらくして、ぽつりと彼女はボソッと何かを呟いた。後にも先にも、彼女の囁きを聞いたのはこれきりのような気がする。
それから彼女はスイッチが入ったみたいに、その場でピョンピョンと飛び跳ねた。
茜「いやーーー、可愛いですね! もしかして、先輩アイドルさんですか!? 私、日野茜と申します! これからよろしくお願いしますね!」
文香「あ、いえ、その、私は……」
茜「私はつい先日! プロデューサーにスカウトされたんですよ! 海岸沿いを走っていたところを、一緒に熱く駆け抜けたんです!」
文香「あの、私は、その……」
この頃の私はまだ人と接するのが特段、苦手で、茜さん相手には言葉を発することもままならなかった。
茜さんに圧倒されていた私を助けてくれたのは、プロデューサーさんだった。
P「遅くなって済まない、ふみ……」
プロデューサーさんは口を開けて、ぽかんとしていた。
茜さんはプロデューサーさんに背を向けていて、気付いていないみたいだった。助けを求めようかと思って手を挙げるも、プロデューサーさんは私たちのことをしばらく眺めるだけだった。
秒針が幾度か時を刻んで、ようやくプロデューサーさんは私たちに駆け寄ってくれた。
P「こら茜! 文香さんが戸惑ってるだろ!」
茜「はっ! 申し訳ありません! とっっっても可愛いので、つい駆け寄ってしまいました!」
文香「か、かわいい……」
改めて言われると、とても気恥ずかしかった。
暗くて地味。
それが私を簡素に言い表した姿だと思っていたし、周囲の人からも、そう評されてきた。
「可愛い」だなんて一度も言われたことがなくて、私は言葉を失ってしまっていた。
P「文香さんが可愛いのは分かるが、事務所に来るのは今日が初めてなんだ。落ち着かせて上げなさい」
茜「初めて……、えええええ! 先輩アイドルさんではなかったのですか!?」
P「先輩アイドルはお前だよ、3ヶ月ぐらいだけど」
茜「そうなのですか!? 物凄い先輩の風格を感じますが!」
P「まあ、文香さんは大学生だからなあ」
茜「大学生なんですか! どうりで大人っぽく見えるわけです! 憧れます!」
P「歳は2つしか違わないけど、茜の方が先輩だからな。ちゃんと分からないことがあれば教えてあげるんだぞ」
茜「先輩……! そうですね! ラグビーの世界も、上の方の教えがあって成り立ちます! なんだか気合いが入ってきましたよ~!!!」
燃えさかる炎が、見えたような気がした。
同時に「初めて見たアイドル」に私は恐れを抱いていた。
果たして、私は本当に「アイドル」としてやっていけるのか――。
P「とは言ったものの、まだ文香さんから正式に契約書を貰ってないから……」
プロデューサーさんと目が合った。
きっとこの人は、何百何千という人間と相対してきた。
だからこそ、この時、私が抱いていた不安をいとも容易く見抜いたのだと、今になって分かる。
P「……茜、この後の予定はダンスレッスンだったな?」
茜「はい、そうですが?」
P「ちょうどいいから、文香さんに見学してもらおうか」
茜「なな、なんと! それはちょっとだけお恥ずかしいような……!」
P「文香さんのためだよ」
茜「う~ん、それなら仕方ありません! 全身全霊全力全身を尽くしてレッスンに取り組ませていただきますっ!!!」
私は、プロデューサーさんを呆れさせてしまったのだと思っていた。
茜さんとのレベルの違いを見せつけて、アイドルを諦めさせようとしているのだと思っていた。
この時の自分ほど、愚かな者はいない。
5
私は茜さんのダンスレッスンを拝見した。
率直に言って、茜さんのダンスは上手だった。
けれど。
"ただ、それだけだった"。
理由は分からない。
私には到底、真似できないというのに。
心が、動かない。
P「茜は……」
隣で一緒に見ていたプロデューサーさんは、口を開いた。
とても、苦しそうな表情を浮かべながら。
P「茜は、背が小さい。だから、普通に踊ってもあんまり映えないんだ」
私は、茜さんを見る。
たくさんの汗をかいていた。
誰が見ても、彼女は一生懸命だった。
それでも、トレーナーさんは違う、駄目だと言う。
P「体が小さい分、大きく体を動かして見せないといけない。でも、見ての通りだ。本人はそうしているつもりでも、そうなっていない。「アイドル」として求められるレベルに達していない」
彼女で駄目なのなら、私はいったい、どうなるのか。
そう、問うことは簡単だった。
いつもの私なら、そうしていた。
でも、彼女の様を見て、それが許されるのか。
茜「もう1回、お願いします!!!」
茜「すみません、もう1回!!!」
茜「ううううう、もう1回、もう1回です!!!」
たくさんの、汗をかいていた。
熱く燃えたぎっている。
だというのに、彼女はとても哀しそうでもあった。
泣いているようにも、見えた。
相反する気持ちが、彼女の周りに渦巻いていて。
不謹慎かも知れないけれど、私にはそれがとても美しい物のように見えた。
プロデューサーさんが、ためらいがちに口を開く。
P「……文香さんには、ちょっと厳しいものを見せてしまったかも知れない」
P「だから、改めて聞かせて欲しい」
――文香さんは、アイドルになりますか?
それは私の一生で、一番難しい問いかけだった。
けれど、一番早く答えを出すことができた問いかけだったように思う。
文香「私は、物語が好きです……」
文香「心が揺さぶられる、それが堪らなく心地良いのです」
文香「私は今、彼女の紡ぐ物語の一端を見て、これまでないほどに心が揺さぶられています」
文香「その物語の全容が見えた時……そして、私自身がその物語を紡いだのだとしたら、それは――」
その先は、言葉が続かなかった。
何を言っても、伝わらない。
言葉にしてしまうのも、惜しかった。
P「……良かった」
君が初めて会った「アイドル」が茜で良かったと、
プロデューサーさんは、言った。
6
正式に事務所と契約を交わし、大学に通いながら「アイドル」を目指してレッスンする日々が始まった。
不思議なことに、レッスンは茜さんと一緒になることが多かった。茜さんが私に話しかけてくれるおかげで、他の方たちともすんなり交流することができた。人見知りである私を気遣った、プロデューサーさんの采配だったのかも知れない。
茜さんは、とても人懐っこくて、誰に対しても分け隔てなく接していた。休憩時間になれば、茜さんの周りには常に誰かがいた。
他の方たちとも打ち解けてきた、とは言っても、私は手持ち無沙汰になることもあって、休憩時間には事務所のロビーなんかで本を読むことも多かった。
けれど、ある時、本を読んでいた時に、茜さんに声をかけられた。やっぱり彼女の声だけは、本の世界を飛び越えてくる。
茜「文香ちゃん、お疲れ様です!」
文香「茜さん、お疲れ様です」
茜「いやー、探しましたよ! 文香ちゃん、休憩時間になるとどこかに行ってしまうことが多いですから、気になってたんです!」
文香「私がどこかへ行ってしまうことに、気付いておられたのですか?」
茜「もちろんですよ! 毎回気付いてます! お話ししようかなあと思ったら、他の方とのお話が始まってしまっていて、ああ! 私が2人いたら良いのになんて、毎回思ったりしています!」
茜「でも今日は、文香ちゃんの日って決めてました! 先ほどユッコちゃんが話しかけて下さったので、ご一緒にとも思ったんですが『サイキック的に茜ちゃんだけの方が良い』的なことを言われました!」
茜「よく分かりません!」
本当に、茜さんは素直な人だと思った。
この人は気持ちと言葉が歪みなく連動している。
茜「文香ちゃんは、本が好きなんですか? 初めて会った時も本を読んでいたと記憶しています!」
文香「そうですね、1日に1冊読む程度ですが」
茜「1日1冊! 1日で私の1年を超えていますよ! どういった本を読んでいるんですか!?」
文香「現代小説から古典文学、実用書の類まで……読まない本はないと言っては大言壮語になりますが、あらゆるジャンルの本に目を通しています」
茜「じゃあ、じゃあ! 文香ちゃんのお薦めの本って何ですか!? 私、読んでみたいです!」
文香「え……?」
茜「私、トレーナーさんによく言われるのです! 『茜さんは元気が良いけれど、表現に機微が欠ける』と! きび? とはよく分かりませんが、表現力を鍛えよとのことです!」
茜「そこで、閃きました! 表現といえば、本です! 本を読めば、表現がキビキビになるのではないでしょうか!」
茜さんの提案は嬉しくもあり、難しくもあった。
私にとって面白い物が、果たして茜さんにとって面白いのかどうか。
歩んできた人生が、あまりにも違っている。
価値観の形成は、環境に依存する。
そして、価値観の違いは、人間関係において致命的な亀裂となる。
茜「文香ちゃん、どうしました? もしかして、本の貸し借りはご法度でしたか!?」
文香「いえ、その。茜さんにとって面白い本について考えているのですが……」
茜「……??? 私は文香ちゃんが面白い本を読みたいんですが!」
文香「えっ」
茜「えっ」
文香「わ、私のお薦めを読んでも、面白くないかも知れませんよ?」
茜「面白い面白くないは関係ありません! 私は文香ちゃんが面白いと思うものが読みたいんです!」
文香「それは、何故なのですか?」
茜「なぜ! 私、文香ちゃんが何を面白いと思うのか、それが知りたいのです!」
文香「知りたい……? それは、何故?」
茜「なぜ! それはもっと、文香ちゃんのことが知りたくて、文香ちゃんと仲良くなりたいからです!」
文香「な、仲良く……」
眩しすぎて、私はとうとう茜さんのことを直視できなくなった。
文香「その、お気持ちはとても嬉しいのですが、……茜さんにとって、私が面白いと思うものがつまらなかったら、どうするのですか?」
茜「つまらない? 万が一つまらなかったとして、どうするもなにもないと思うのですが……?」
文香「がっかりと言いますか、その、茜さんの言うところの仲良くしたい気持ちが薄れたりはしませんか?」
茜「そんなことは全くあり得ませんね!!!」
とても力強い声で、茜さんは否定した。
茜「そもそも、つまらないと思ったことがありません! つまらないと思う気持ちが、つまらなくしているんです!」
茜「世の中、楽しんだものが勝ちと偉い人も言っていました! つまり、そういうことなんです!」
どういうことかは分からなかったけれど、私は自分自身を恥じた。
つまらないと思う気持ちが、つまらなくしている――全く、その通りだ。私が読んできた本は幾千冊にも及ぶ。内容の善し悪しはあれど、そこに込められたメッセージや想いを読み解くことに、つまらないと思ったことはなかった。私は全ての書物に何らかの意義を見いだしていていた。
茜さんは、そういうことが全てのことでできるのだ。
全てのことを前向きに捉えて、吸収することができる人。
文香「……私の、とっておきの1冊があります。読んでいただけますか?」
茜「とっておき! 読みます! 読ませていただきます!」
文香「少々、難解な部分があるかも知れません。その時は、私から注釈や解釈をお話しさせて頂いてもよろしいですか?」
茜「本当ですか! 私、恥ずかしながら文章が苦手なものですから、とっても助かります!」
文香「その、それで、本の内容で疑問があれば、すぐに解決できれば、より早く深く楽しめると思うのですが……」
茜「確かに! 私も忘れっぽいですから、その方が助かりますね!」
文香「その手段として、……携帯を活用するというのは、いかがでしょうか?」
茜「!!!」
茜「連絡先を教えて下さるんですか!?」
文香「はい。その方が茜さんにとっても、時間を有効活用できると思いますから」
こういう言い方しかできない自分が、なんと歯がゆいことか。
茜「じゃあ! 電話番号とLINEを交換しましょう!」
文香「らいん?」
茜「LINEをやっていないのですか!?」
文香「すみません、あまり触れる機会がないので、携帯の機能には疎いのです」
茜「ではでは、私が教えて上げます! とっっっても便利ですから!」
隣に座って、茜さんはおぼつかない手つきで私のスマートフォンを操作してくれた。
茜「時間がかかってすみません! こういうチマチマした操作はどうにも苦手でして……ぱすわーど、とやらも必要になるので考えておいて下さい!」
何をやるにも、茜さんは一生懸命だった。
得意なことでも、苦手なことでも関係はない。
ただ、やりたいことをやっている。
それは自分のためなのか、それとも――。
茜「LINEが起動しましたよ! 私を友達に追加もしておきました!」
茜「1番目の友達、なんだか嬉しいですね!」
画面を私に見せながら、本当に嬉しそうに茜さんは笑っていた。
文香「ありがとうございます、茜さん」
茜「試しに何かメッセージを送ってみて下さい!」
文香「は、はあ。それでは……」
私は、少し考えて、メッセージを打ってみる。
文香『機微とは、表面から察せられない微妙な心の動きのことです』
送信してから、我ながらもっと気の利いたことを送れなかったのかと後悔した。
数瞬して、爆発音のようなSEが聞こえた。
茜さんの携帯の、通知音だった。
茜『また1つ賢くなりました!』
そんなメッセージとともに、真っ赤な炎のスタンプが送られてきたのだった。
7
それから茜さんは、ソロデビューを果たし、「ゼッケンズ」という5人組のユニットでも活動を始め、アイドルとして忙しい日々を送るようになった。
それでも、本の貸し出しやLINEのやり取りはほぼ毎日続いていた。
迷惑だろうかとも思うけれど、私からやり取りを断ち切ることにはためらいがあった。
断つのは簡単だけれど、結ぶのは難しい。
私はどうしようもなく、不器用なのだ。
けれど、文字のやりとりは怖い。
私の気持ちは誤解なく伝わっているだろうか。
茜さんは本心を語っているのだろうか。
茜さんの性格を熟知していても、そんな邪推をしてしまう。
嫌われたくないな、と思う。
でも、繋がりを持っていたい。
なんだか我がままになっていく。
アイドルを目指してから、茜さんと出会ってから、私は強くなったような気もするし、弱くなったような気もする。
レッスンの休憩中、ページの捲る音がした。
私のLINEの通知音だった。
茜『私の地元である栃木に着きましたよ! これからライブ頑張ってきます! ファイヤー!!!』
気合いと元気が伝わってくる。
画面から茜さんの声が聞こえてきそうだった。
速水奏「あら、想い人からの連絡かしら」
顔を上げると、薄く微笑む奏さんの姿があった。
私は慌てて、携帯を伏せる。
奏「あら、図星? でも安心して頂戴。文面までは見えてないから」
文香「いえ、図星というわけでは……」
奏「あら、そうなの? でもあなた、スマホの画面を見るときはいつも嬉しそうにしているわよ」
文香「そんなことは……」
ない、と言っては茜さんに失礼になってしまう。
奏「ふふっ! 文香、あなた意外と感情が表に出るのね。今は叱られた子犬みたいになってるわよ」
敵わないな、と思った。
当時、奏さんとはレッスンで一緒になることが多かった。
最初は、「私よりもミステリアスな人がいるのね」と声をかけられたのだけれど、この時にはもう、すっかり性根を見破られてしまっているようだった。
文香「……奏さんは表情を読むことに長けてらっしゃいますね」
奏「それはどうかしら」
奏さんの指差した方を見ると、「LiPPS」の方たちがニコニコと笑いながらこちらを見ていた。美嘉さんだけは、ごめんねと手を合わせてジェスチャーをしている。
奏「美嘉だって気付いていたわよ? 私は代表取り調べ役というわけ」
文香「私は、なんとお見苦しい姿を……」
奏「あら、見苦しくなんてないわよ。むしろ、とっても可愛かったわ。それこそ、キスしたくなるぐらいに」
奏「……なんてね」
本当に、私より年下とは思えない言動だった。さすがはあの「LiPPS」を取りまとめているだけのことはある。
奏「でも、気をつけておいてね」
打って変わって、奏さんは真剣な表情を浮かべる。
奏「距離感というのは、とても大切よ。近ければ近いほど、良いというものでもない。私たちは同じ事務所の仲間ではあるけれど、同時にライバルであるということも……忘れてはいけないの」
奏「そのあたりの距離感を一番理解しているのが、フレちゃんと志希かもね」
奏さんが目を向けた先には、楽しそうにじゃれ合っているフレデリカさんと志希さんの姿があった。
奏「ああ見えても、志希はたぶん、本能的にある程度までは踏み込まないようにしているし、フレちゃんは志希の触れられたくないところをよくよく理解して接してる」
奏「志希はともかく、フレちゃんって意外と気遣い屋さんなのよ? 私がちょっと拗ねちゃった時も、フォローに回ってくれたみたいだし」
文香「……皆さん、大人、なのですね」
奏「さあ。それはどうかしら?」
再びフレデリカさんと志希さんに目を向けると、美嘉さんの周りを愉快げにくるくる回っていた。周子さんはそれを見てけらけらと笑っている。
奏「全く。もう少し大人らしく、大人しくなってもらいたいものね」
言いながら、奏さんも楽しそうに微笑んでいた。
奏「まっ、文香に限って一線を越えるなんてことはないと思うけれどね。こういう考え方の人間もいるんだって程度に留めておいてもらえれば良いわ」
それじゃあごゆっくり、と奏さんはひらひらと手を振る。
私は、茜さんのメッセージを読み返す。
頑張って下さい。
ただ一文だけ。
スタンプは、使わないでおいた。
8
とうとう、初めてのライブの日が決まった。
それに合わせて、私のための曲も作られた。
自分の想いを歌詞にして欲しい――プロデューサーさんにそう言われて、作詞家の方と一緒に私の想いを綴っていった。
「Bright Blue」
アイドルを目指し始めて、様々なレッスンをして、色んな人と出逢った。
いつか、茜さんと一緒に体力をつけるための特訓をしたことがあった。
それを終えて、草原に横になったときに見えた、抜けるように碧い空。
あのとき見た空は、私がこれまで見たことのなかった、輝いた空だった。
デビューが決まったことを、レッスンで一緒になった時に茜さんに伝えると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
茜「私、とっっっても観たいです! いつですか、いつなんですか!?」
文香「今からちょうど1ヶ月後です」
茜「空いてます! 空いてなくても空けます!」
文香「む、無理はなさらなくて良いんですよ?」
茜「何を言ってるんですか! 初ライブほど燃えたぎるものはありません! 初ライブは特別なんです!」
いつになく、茜さんは熱かった。
茜「初めてのライブは緊張もします、不安です! けれどステージに立った瞬間!!! そんな気持ちは吹き飛んで、キラキラになるんです! まさしく無敵状態ですよ!」
茜「そして、一生忘れられない日になるんです……!」
その日を思い返すように、茜さんは遠くを見つめた。
文香「……茜さんでも、緊張なさるのですね」
茜「文香ちゃん、それはどういう意味ですか!」
文香「冗談、です」
茜「くぅぅー、1本取られましたよー!」
でも。
茜さんでも緊張してしまうなら、私はどうなってしまうのだろう。
そんな不安が、日を追うごとに大きくなっていった。
そうして私は、初めてのライブの日を迎える。
茜さんの言ったとおり、初ライブは特別で。
一生忘れられない日になった。
9
初ライブにしては大きな会場だが、気負わずやって欲しい――そのようなことをプロデューサーさんは言っていた。
会場は346プロの有する専用のライブ会場で、数千人規模のお客さんが入場することができる。
私にはまだ、ファンの方たちを呼べるほどの知名度はない。
だから第一線で活躍しているアイドルの方たちに集客していただき、そこに集まった方たちに向けて初めてのお披露目となる。
ライブの1週間前ぐらいから、ろくに安眠できていなかった。
人前に出ることを避け続けてきた私にとっては、初ライブへの期待よりも不安と恐怖の方が大きく勝っていた。
私という人間は、他者から受け入れられる程のものだろうか、そんなことばかりを考えてしまっている。
何より私は、目の前にいる「アイドル」に圧倒されていた。
絶妙なコンビネーションと美貌で人気を博している「美波さん」と「アナスタシアさん」。
独特の感性を展開し、観る者を別世界に引き込む「神崎さん」。
そして、奇跡的な調和と蠱惑的な魅力を有する「LiPPS」。
皆、凛としていて、勇ましくあり、そしてキラキラとしていた。
私の周りだけ、黒い霧が渦巻いているみたいに思えた。
私が「アイドル」を名乗っていいのか。
それは「アイドル」に失礼なのではないのか。
私はどうして「アイドル」になろうと思ったんだろう。
奏「あなた、本当に感情が顔に出やすいのね」
顔を上げると、いつものように薄っすらと微笑む奏さんの表情があった。
奏「そんな顔でステージに出たら、観客も強張っちゃうわよ?」
文香「この場にいると、私がいかに矮小な存在か、思い知らされます……」
奏「自分に自信がないのね」
文香「私よりも年下の女の子たちは、ファンの方と向き合い、ベストを尽くそうとしているのに、私は鎖に縛られたかのように動くことができずにいる……」
文香「私は、どうしようもなく、幼いのです……」
志希「だったら辞めちゃえばー?」
背後から、鋭い声が降ってきた。
奏「ちょっと、志希」
志希「だって要はさー、自分の失態を晒したくないって話だよね?」
志希「完璧主義者ってやつかな? あははー、かつての私みたいだよね。ちょっとベクトルは違うけど」
奏「志希。煽るようなことをするのは」
志希「煽る? ノン。叱咤激励ってやつ?」
志希さんは私の正面に周り、じっとりした目で私を見つめてきた。
志希「文香ちゃん、あなたは他人本位で生きている。自分を切り捨て、他人の気持ちを中心に据えて物事を考えている。でもそれって楽しいの?」
文香「……」
志希「私がアイドルをやってるのは、他の誰でもない、私のため」
志希「ステージに立ったときに出るアドレナリン! 味わったことのない快感がステージの上なら味わうことができる!」
志希「じゃあ、文香ちゃんは何のためにアイドルになったのかにゃ?」
志希「こんなところで足踏みするため?」
志希「"またファンタジーな世界に逃げるの"?」
私はその言葉を聞いて、やっと顔を上げた。
志希「にゃはは、やっと目があった~」
文香「……私の曲、聴いてくれていたのですね」
志希「にゃは~、私は面白い人間が好きなんだよね。文香ちゃんは相当、面白いよ」
文香「面白い、ですか?」
志希「だって、あなたみたいな『アイドルに向いてない人間』が、アイドルになるんだよ! 他にもお仕事はたくさんあるのに、あなたはきっと、本質的に一番向いていない職業を選んだ」
志希「こんなにクレイジーで面白いことは滅多にないよ!」
志希「そして、あなたのそのぶっ飛んだ決断が私とあなたを引き合わせて、今ここで言葉を交わしている」
志希「そこには何らかの意図と意味があるって、思わない?」
――私とプロデューサーが出会ったように、キミとプロデューサーが出会ったように。
志希さんは優しく微笑んでいた。
隣にいた奏さんも、同じように笑っていた。
私たちは、きっと、同じ時を回想していた。
プロデューサーさんとの出会いが世界を変えた。
私はその想いを、歌に乗せたのだ。
志希「にゃは、それに"キミたち"は実に面白い。だから、こんなところで挫けてもらっちゃ困る~」
文香「私たち……?」
誰のことか訪ねる前に、熱気を帯びたら声が響いた。
茜「文香ちゃん!!!」
必然であるかのように、私は立ち上がって、飛び込んできた茜さんを抱き止めた。
文香「茜さん、観客席にいるはずでは……」
茜「文香ちゃんが!!! 文香ちゃんが過呼吸で倒れそうと聞いて、私……! 文香ちゃん、大丈夫なんですか!?」
見上げる瞳と目が合った。
淡い水色の瞳だった。溺れてしまいそうなほどに、どこか頼りない色彩をしていて――今は本当に息ができなくなってしまいそうなほどに、その瞳は潤んでいた。
日野茜さん。
彼女との出会いも、私の世界を変えた。
私が初めて見た「アイドル」。
彼女はいつだって弱音を吐かなかった。
我が身の境遇など関係なく、全てを乗り越えようとしていた。
私は、そんな「アイドル」に酷く焦がれていたのだ。
世界を変えようとする、その姿に、私は。
文香「茜さん。私はもう、大丈夫です」
安心させるように、私は腕に少しだけ力を込めた。
そして、彼女だけに聞こえるように、私は耳元で囁いた。
文香「茜さんのお陰で、今の私があり、そしてステージに立つことができる。そう言っても過言ではないのです」
茜「……!? わ、私は、何も」
文香「茜さんには、人を惹きつけて、明るくさせる力があるのだと私は思います」
茜「……!」
私は、抱き止めていた腕を解いた。
文香「茜さん。どうか観客席で見守っていて下さい」
文香「今日私が出来うる、最高のステージをお届けしますから」
私がそう言うと、彼女の瞳に、確かに炎が宿ったのだ。
茜「はい!!! 私、見守ります。この日野茜、1秒たりとも目を離しません!!!」
10
茜さんは観客席に戻り、いよいよライブ本番が差し迫っていた。
志希「にゃはー、良い感じでたぎってるね」
ステージ裏で、志希さんが声をかけてきた。
文香「茜さんを呼んだのは、志希さんですか?」
志希「ノン。あれは奏ちゃんの仕業だよ。あたしとはアプローチの仕方が違うというか、いや、そもそもの目的が違うのか……」
難儀だねえ、と志希さんはぼやいた。
志希「ああ、茜ちゃんには過呼吸なんて嘘ついてごめんって謝ってたから、その辺は大丈夫だよー。あたしと違って気遣いができるから」
文香「私を励まそうとしてくれたことには、相違ありません。お礼を言わなくてはなりませんね」
志希「……そうだねえ」
ライブの開演時間となり、司会進行の声とともに、お客さんの声がピリピリと響いてきた。
いよいよ、本番だ。
志希「あたしはさっき、確信したんだ」
志希さんが、口を開く。
志希「キミはきっと"本当のキミ"に出会う」
志希「でも」
その先の言葉は、声援にかき消されて分からなかった。
志希「それがキミにとって正しいかどうかは――分からないけれど」
11
曲のイントロが流れる。
真っ暗闇の中、光が注がれる。
緩やかに、しなやかに、繊細に、手足を動かしていく。
そして、声を発した。
最初の一音は、震えてしまった。
けれど、それをかき消すように、私は声を出した。
遠く、遠く、碧い空へ響かせるように。
やがて、ぽつり、ぽつりと青い光が灯り始める。
そして、私は、それをステージ上で見たのだ。
――いつか見たあの、抜けるような碧い空を。
12
奏「お疲れ様、見事なライブだったわ」
ステージを後にすると、いの一番に奏さんが声をかけてきてくれた。
文香「ありがとう、ございます……」
奏「本当に良いライブだった。けれど、そのためとはいえ、私は少し強引な手段を取ってしまったわ」
ごめんなさい、と奏さんは頭を下げた。
文香「良いのです。誰かを想うための行為行動に、良い悪いと言うのは無粋でしょう」
奏「懐が深いのね」
文香「そんなことは……」
すっかり体力を消費しきってしまったのか、足元がふらつく。
奏「……ちょっと顔色が悪いわね」
文香「す、すみません」
水の中に突き落とされたみたいに、息苦しくなる。
それは物語の終わりに差し掛かる感覚に似ていた。
どうか、終わらないで欲しい。
もっと、もっと、もっと――!
奏「文香!」
気付けば私は、床に膝をついてしまっていた。
奏「誰か、医務室に運ぶのを手伝って!」
遠のいてゆく意識の中で私は。
ゆらゆらと儚げに揺れる、炎を見たような気がした。
13
目を開ける。
正確には開いたというべきなのだろうか。
真っ白い天井に、太陽みたいな髪がふわりと舞っていた。
茜「……!!! 文香ちゃん!!! 大丈夫ですか!?」
今度は茜さんの顔で、視界が覆われた。
彼女らしくない、何かを憂うような表情をしていた。
ああ、私が彼女をこんな表情にさせているのか。
私の体はベッドに横たわっていた。
ライブが終わった安堵感と疲労で倒れてしまったようだった。
1回きりしかステージに立てないアイドルなんて、プロデューサーさんが聞いたら――あの人なら、笑って許してしまいそうな気がする。
文香「大丈夫です、茜さん。横になっていたら落ち着いてきました」
茜「~~! 良かったです!!! もう一生目覚めないかと思って、私は……!!!」
冗談ではなく、本気で言っているようだった。
この人はどれだけ情が深いのだろう。
茜さんの言葉と同時に、自分の手に力が込められていることに気がつく。
――茜さんが、私の左手を両手で握り締めていた。
文香「あ、茜さん。その、手が」
茜「!!!」
茜「すみません、力を入れすぎてしまいました!!! 痛かったですか!?」
はっと手を離される。
どうしてか、名残惜しく思っている自分がいた。
文香「そういうわけではないのですが、その」
文香「私の手を握って、不愉快ではなかったですか?」
何を言っているのだ、と口に出してから後悔をする。
それこそ不愉快な問いかけではないか。
茜「不愉快なんてことはありえません!! むしろ、文香ちゃんの手は冷たくて心地良かったぐらいですよ!!」
茜「本当に冷たくて、それで私、暖めなくちゃと思って……!!」
また、溺れそうな瞳にさせてしまっている。私が、茜さんの熱を奪ってしまっているみたいで、申し訳がない。
文香「ありがとうございます。茜さんの手はとても暖かくて、……気持ちの良いものでした」
文香「そのおかげで、安心して眠っていられました」
茜「本当ですか!? それなら良かったです!!!」
そう、茜さんの手は、とても心地良く感じられた。
茜さんも心地良いと言ってくれた。少なくとも、嫌悪を抱かれていないみたいでほっとする。
茜さんが嘘をついていなければ、と邪推してしまう自分が、今はとても鬱陶しい。
茜「その、話は変わるんですけど!」
茜さんは真っ直ぐに私の瞳を見据える。
茜「文香ちゃんのライブ、とっっっても良かったです!!!」
茜「良かった!!! としか言えない自分が不甲斐ないぐらいに良かったです!!!」
茜さんの瞳は、キラキラと輝いていた。
それから茜さんは、私のライブの良かったところをたくさん挙げてくれた。
私は何だか気恥ずかしくて、言葉を挟むことはできなかったけれど、とても嬉しかった。
私の歌や踊りが、誰かの心を揺さぶって、新しい感情を生み出している。茜さんをはじめとして、一人でも多くの人たちが同じ思いを抱いてくれているのなら、これ程に嬉しいことはない。
けれど、それでも。
文香「ありがとうございます、茜さん」
文香「けれど、私は、……」
会場全体に声を響かせることができなかった。
振り付けを間違えたところがあった。
それにつられて声が上擦ってしまった。
そして、皆がいなければ、ステージに立つことさえも叶わなかった。
茜「文香ちゃん!!!」
体が、大きく揺さぶられた。
それと同時に、全身が燃え滾るように熱くなった。
茜「私も初めてのステージは失敗ばかりでした!!!」
茜「それでも、ファンの方たちは拍手や声援を送ってくれました!」
茜「だから、泣かないで……!」
愚かな私は、もうステージのことなど考えていなくて。
力強く抱きしめられているこの状況に、
どうしようもなく、胸が高鳴ってしまっていた。
14
長らく回想に浸っていたけれど、あの時のことを思い返すと、どうしても心臓が早鐘を打ち、私を眠りから遠ざけていく。
あれ以来、私はすっかり茜さんのことを強く意識するようになってしまった。
この気持ちは、友人としてなのか、それとも――。
それとも、なんて、私は何を考えているのだろうか。
それは"正しくないこと"だと、何度も言い聞かせているのに。
ああ、けれど。
人生は一度きりだと、プロデューサーさんは言った。
だからこそ、幸せにならなければならない、とプロデューサーさんは言った。
幸せになるために、正しさを捨てなければならないのだとしたら。
私はどうすれば、良いのだろうか。
その答えは、どこにもない。
いくら本を読み漁っても、答えは載っていないのだ。
15
先日、打ち合わせていたライブを終えた後、大切な話があるとプロデューサーさんに事務所に呼ばれた。
いったい、何の話だろうか。
想像もつかないままに事務所の扉を開ける。
茜「文香ちゃん!!! おっはよーございまーーっす!!」
文香「茜、さん……! おはようございます」
予想外の人物が待ち受けていて、思わずたじろいでしまう。
文香「茜さんも、プロデューサーさんに呼ばれたのですか?」
茜「はい!!! 何やら大切な話があるとやらで、1時間前から待ち受けていました!!! 文香ちゃんもプロデューサーに呼ばれたんですか?」
文香「はい」
私たち2人を集めて、いったい何の話があるというのか。
憶測する間もなく、プロデューサーさんが入ってきた。
P「いやはや、やっぱりお前たちなら30分前には集まってると思ってたよ」
早々に挨拶を交わし、早速本題だとプロデューサーさんは私たちを並べて座らせた。
そうして、プロデューサーさんは鞄から紙の束を取り出す。
机の上に置かれたのは、とある舞台の企画書だった。
P「2人には、W主演で舞台に出てもらいたい。そのために集まってもらった」
茜「舞台ですか!? 演技ですか!? わわ、私がお芝居をするんですかーーー!!?」
P「ああ、そうだ。と言っても、まだこれは正式な話ではないわけだが……。とりあえず、お前たちの意志を確認しておきたくってな」
茜「出ます!!!」
P「ちょっとは企画書の意味、考えような?」
プロデューサーさんの持ってきた企画書に目を通す。
恐らく、ロミオとジュリエットをモチーフにしているのだろう。
とある国のお姫様が、隣国の騎士に恋をする。しかし、あることを切っ掛けに戦争が始まってしまい、その恋は禁じられたものになってしまう。
勇ましい騎士と、お淑やかな姫による、悲恋を描いた物語。
舞台に参加すること自体に異議はなかった。
問題があるとすれば、その配役だった。
文香「……私が、騎士の役なのですか?」
P「そうだぞ」
当たり前だと言わんばかりに、プロデューサーさんは返答する。
文香「その、この配役にはどういった意図が……」
P「まあ真っ当に考えれば、文香はお姫様で、茜は騎士の役だろう」
P「これでも、お前たちなら立派に舞台をやり遂げられる。だからこそ、お前たちにはもう一歩、先を歩んでほしいと考えた」
P「トップアイドルになって欲しい。だからこそ、お前たちの新しい一面をファンのみんなに魅せ付けて欲しいと思うんだ」
茜「トップアイドル……!」
文香「新しい一面……」
P「正直に言って、簡単なことじゃないと思う。よくよく考えてみて欲しい」
茜「やります!!!」
P「茜は少しは考えて!」
茜さんは、良い意味で考えていないのだ。
出来ないことがあるのならば、出来るようにする。
それが、私の知っている日野茜という人だ。
私は、出来るかどうかの可能性を真っ先に考える。
そして、分の悪い賭けはしない。
少なくとも、アイドルを志すまではそうだった。
悪い癖だった。
自分の手の届く範囲で物事を考えて、努力することを一切、放棄していたというのだから。
けれど、目の前に突き付けられたら課題が、怖くないかと言われれば、それは嘘になる。
この舞台を成功させられる自信が、今の私には、ない。
文香「……1つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
P「なんだ、文香」
文香「どうして、私たちなのですか?」
プロデューサーさん。
あなたは、私の気持ちを知っているのですか。
P「……お前たち、2人を見た瞬間にティンと来たんだよ」
プロデューサーさんは、穏やかに微笑んで私たち2人を交互に見やった。
P「初めて文香が事務所に来て、茜と話している姿を見た瞬間――お前たち2人が並んでステージや舞台に立つ光景が見えたんだ」
P「性格だって、見た目だって、ほとんど正反対で反発してしまいそうなのに、どうしてだろうな。同じものを志していく炎のようなものが見えたんだ」
そこに根拠なんてものは一切なかった。
でも、この人の言葉はいつも魔法がかかっているみたいだった。アイドルになるなんて考えたこともなかったのに、あの日、プロデューサーさんに声をかけられた瞬間から、私はもうアイドルのことばかりを考えている。
この話を頂いた瞬間も、そうだった。
自信なんてないのだけれど、茜さんと舞台に立つ光景が、現実のものとして私の目の前で繰り広げられていく。
畏怖と期待が折り混ざった奇妙な気持ち。
この気持ちを、私は知っている。
文香「……分かりました。引き受けさせて頂きます」
ああ、私は、わくわくしているのだ。
16
1ヶ月後、企画書は正式に通ったようで、稽古のスケジュールや台本が手渡された。開演までは半年の猶予があり、主演である私と茜さんは、ほとんど毎日顔を合わせることになる。
舞台に向けて、早速顔合わせが行われた。
346プロ主導のプロジェクトらしく、志希さんや奏さんをはじめとして舞台に立つ方々は見知った顔ばかりだった。
一通りの挨拶を終えると、茜さんが駆け寄ってきた。
茜「文香ちゃん、頑張りましょうね!!!」
文香「……はい。頑張りましょう」
けれど、この舞台はやはり、一筋縄ではいかなかった。
17
舞台の稽古が、始まる。
台詞を発する。勇ましい騎士として。
けれど、監督は違うと言う。
鷺沢文香にしか見えない、と言う。
茜さんにも、同じ言葉がかけられる。
私たちは、鷺沢文香と日野茜が見たいわけではない。
私は、自然と思い返してしまっていた。
初めて、茜さんのダンスを見た、あの日を。
ただ、ひたすらにもがいていく。
あの時の茜さんも、こんな気持ちだったのだろうか。
18
休憩所で休んでいると、茜さんが入ってきた。
茜「文香ちゃんも、残って練習していきますか!?」
文香「はい。茜さんも、ですか?」
茜「もちろんです!」
弾かれてしまいそうな返事だった。
茜さんは、いつだって元気だ。
実際、彼女が落ち込んだり悩んだりする姿は見たことがない。
文香「茜さん、大丈夫ですか?」
茜「大丈夫ですよ!」
でも、彼女だって人間だ。
文香「……どうして、茜さんは元気そうに振る舞うのですか」
茜「文香ちゃんには、そう見えますか?」
文香「そう、見える……?」
不安と不穏が胸を渦巻いた。
私は今、言ってはならないことを口にしたのではないだろうか。
奏「あなたに哀しむことができるのか、と文香は言ってるのよ」
と、その時、奏さんが休憩所へやってくる。
辛辣な言葉を、携えながら。
茜「奏さん……!」
文香「わ、私は、そんなことは……」
奏「文香」
言葉を遮られる。
奏「優しく戯れていることだけなのは、優しさとは言わないのよ」
それはただの甘えだと、奏さんは言う。
奏「元気で明るいところは、貴方の良さであると認めるけれど」
奏「今の貴方に求められているのは、そういうことではないの」
奏「舞台裏でも、落ち込んで見せないのは立派だけれど」
奏「そういう気丈さが、今の貴方にも、私たちにも枷になってしまっているの」
奏「この場にいる皆は、アイドルなのよ?」
奏「本気でトップアイドルを狙っている、アイドルなの」
奏「その想いを踏み躙るようなことは、しないで」
今。この舞台において。日野茜は求められていない。
清廉で秘めやかなお姫様を求められている。
本気でやるならば、心の底から、舞台裏でさえも。
そういうことを、奏さんは言っているのだろう。
茜「……す、すいません。私、家に帰って練習します」
うつむきながら、茜さんは駆け出す。
私は反射的に、茜さんを追いかける。
けれど。奏さんに呼び止められた。
奏「文香」
1人にするべきだと、奏さんは言った。
奏「あの子は、良い環境で育ち過ぎたのよ」
羨ましいくらいに、と奏さんは目を細める。
奏「私もあれくらい、純粋無垢でいられたら良かったのに」
純粋無垢?
それは、どうだろう。
文香「茜さんは……茜さんも。きっと、色々と思う所があるのだと思います」
ふっ、と奏さんは笑った。
奏「相変わらず、文香は茜に甘いのね」
文香「相変わらず、ですか?」
奏「……あの子は、本当、誰にでも好かれるのね」
どこか羨ましそうに、奏さんは言った。
文香「珍しい、ですね」
奏「何が、かしら?」
文香「いえ、その……本当に羨ましそうに言うので、奏さんらしくないというか……」
はあ、と奏さんはため息をつく。
奏「私だって、そんなに器用じゃないのよ? 何かに甘えたくなるときもあるし、何かを頼りたくなるときもある。それで、何かに焦がれることも、ある」
奏「あんまりがっかりさせないでよ、文香。私より歳上でしょ?」
そうでした、なんて言ったら、傷付くのだろうと思った。
例え冗談で片付けて、片付けられたのだとしても。
彼女も彼女なりに、思う所を抱えているのだ。
奏「ねえ、知ってる? 茜と私、同い年なのよ」
文香「存じています」
奏「あら、意外。私よくOLに間違われるのよ」
文香「たった今、奏さんも歳相応の高校生なのだということが、分かった気がします」
奏「どういう意味かしら」
文香「すみません。深い意味はありません」
なにそれ、と奏さんは笑った。
らしくない、とも言った。
奏「文香は、意味のないことなんて言わないと思ってたわ」
文香「昔は、そうだったかも知れません」
自分が発した言葉が、どう捉えられるのか、
ネガティヴな言葉は排除して、相手が傷つかないように、相手本位で言葉を交わしてきた。
それは悪く言えば、寡黙であったのだろう。
文香「……今でも、そうかも知れません」
奏「どっちなのよ」
茜さんの顔が浮かんだ。
私の発する言葉はきっと、彼女のものとは
-----------------------------------------------------
訂正します
-----------------------------------------------------
奏「ねえ、知ってる? 茜と私、同い年なのよ」
文香「存じています」
奏「あら、意外。私よくOLに間違われるのよ」
文香「たった今、奏さんも歳相応の高校生なのだということが、分かった気がします」
奏「どういう意味かしら」
文香「すみません。深い意味はありません」
なにそれ、と奏さんは笑った。
らしくない、とも言った。
奏「文香は、意味のないことなんて言わないと思ってたわ」
文香「昔は、そうだったかも知れません」
自分が発した言葉が、どう捉えられるのか、
ネガティヴな言葉は排除して、相手が傷つかないように、相手本位で言葉を交わしてきた。
それは悪く言えば、寡黙であったのだろう。
文香「……今でも、そうかも知れません」
奏「どっちなのよ」
茜さんの顔が浮かんだ。
私の発する言葉はきっと、彼女のものとは真逆だ。
と言っては、茜さんに失礼だろうか。
奏「今、また茜のこと考えてたでしょう」
文香「そのようなことは……」
奏「私が前に言ったこと、覚えてるかしら。距離感の話」
文香「……はい」
私たちアイドルは、距離感が近ければ近いほど、良いというものでもない。
私たちは同じ事務所の仲間ではあるけれど、同時にライバルであるということも……忘れてはいけない。
奏「話は戻るけれど、優しくじゃれ合っていても、互いのためになるわけではないのよ」
文香「奏さんは、強いのですね」
奏「どうして?」
文香「私は、悪役にはなれません。それが最善であったのだとしても……」
奏「適材適所よ、きっと。だって、あなたに悪役は似合わないもの」
くすりと、奏さんは笑う。
奏「伝え方の問題よ。別に悪役にならなくたって、いくらでも言い方はあるわよ」
奏「それでも、必要悪というものはあると思うけれど」
文香「必要悪、ですか」
奏「ええ。良くも悪くも人間、悪に立ち向かって強くなるものなのよ」
私がそうであったように、と奏さんは囁く。
彼女は、多くは語らない。
私より年下なのが嘘のように、大人びている。
それこそ彼女の言うように、悪に立ち向かっていった結果なのかも知れない。
あるいは、立ち向かわざるをえなかったのかも知れないけれど。
奏「あなた達を見ていると、心配になるのよ。優しすぎるから」
奏「いつか、誰かの悪意に飲み込まれるんじゃないかって」
奏「私たちの事務所はまだしも、アイドルの世界なんて、そんなにキラキラしたものでもないしね」
女の子って怖いのよ――誰かを想うように、奏さんは言った。
奏「ごめんなさい。私たちもやるべきことを、やらないとね」
奏さんは台本を開く。
奏「あなたにも、立派な騎士になってもらわないとね」
文香「はい、よろしくお願いします」
この日は閉館まで、奏さんと練習を続けた。
勇ましい騎士として、彼女のことを想いながら。
19
それから、1週間が経過した。
私は奏さんに練習に付き合ってもらい、茜さんも稽古が終わり次第、わき目もふらずに走って帰宅していた。
きっと自宅で練習していたのだろう、その成果は素人の私の目から見ても明らかだった。
けれど、それでも。
稽古の終わり際、監督が言ったのだ。
奏、お前が姫の役をやってみろ、と。
その言葉を受けて、奏さんは一瞬だけ、眉をひそめた。
そして極めて穏やかに、奏さんは言う。
奏「今、この場で、……私が代わりに演じることに、何か意味がありますか?」
けれど、そんな奏さんの反発もむなしく、監督は執拗に演じてみろと言い、奏さんはそれに折れる形となった。
奏「――」
私たちは、同じ事務所の仲間であって、ライバルでもある――奏さんの言葉が、今になって身に沁みる。
見ていて、息苦しくなる。
この世はあまりにも美しくない。
努力をすれば、夢は叶う。
こんなシンプルで眩しい綺麗事も成立しない。
主役の交代をプロデューサーに進言する。
監督は、はっきりとそう言って、今日はここまでだと稽古場を後にする。
否が応でも、その場に残された者は皆、茜さんに視線を注いでしまっていた。
そんな中で、茜さんは私を見た。
目が合ったと分かった瞬間に、茜さんは微笑んだのだ。
茜「わ、私、お家で自主練します! お疲れ様でした!」
文香「あ、茜さん!」
走って追いかけるけれど、普段から体を動かしている茜さんには敵わなかった。
膝をついて、私は小さくなっていく彼女の背中を見つめる。
誰にも弱みを晒さない彼女はいったい、
――誰を信じて生きているのだろうか。
志希「もう追いかけなくて良いのかにゃ?」
いつかのように、私は志希さんに問い掛けられた。
20
志希「不器用って言葉は、まるで彼女ために存在してるみたいだよね」
差し出された手を掴み、私は立ち上がった。
全く、その通りだと思った。
文香「志希さん……この世の中に、悲しまない人間や傷付かない人間はいるのでしょうか」
志希「そんなこと、訊かなくても分かってるでしょ」
文香「……」
志希「そういう生き方が癖になっちゃってるんだよ、彼女。ただ本当に不器用なだけで、どうすればいいか分からないだけで、分からないまま大きくなってしまった」
志希「ただ、それだけのことなんじゃない?」
文香「それだけのことを、彼女は一体いつから抱えていたのでしょうか」
志希「それはあたしに訊かれたって分からないなー」
文香「私は、……彼女を救えるでしょうか」
おこがましいことも、傲りがすぎることも分かっていた。
それでも私は、答えが欲しかった。
問いかけられずにはいられなかった。
志希「キミもさ、なかなかに不器用な生き方をしてるよね。まあ、器用な人の方が圧倒的に少ないんだけどさー」
志希「キミが彼女をどうにかしたいなら、キミはキミの価値観について見つめ直さなければならない」
文香「価値観を?」
志希「"正しくあろうとすることは、幸せになろうとすることとはまた別なんだよ"、文香ちゃん」
志希さんは言いながら、手を握ってきた。
志希「幸せは欲望が叶えられて成立する」
志希「でも、人の欲望は際限がない」
志希「だから、あたしたちは規則を作り、道徳を設けた」
志希「幸せの範疇を、規則や常識の中に収めようとした」
志希「それでも、人の欲望には際限がない」
志希「時には、その柵の外に幸福が見える時がある」
志希「でも、柵があるから思い留まる」
志希「そして」
志希「同じ柵の中にいる人の目があるから、思い留まる」
志希「あたしたちは互いに幸せの芽を摘み取り合っているんだね」
志希「本当の幸福には目を瞑り続けている」
志希「あたしたちは、ずっとずっと咲くことのないつぼみのままなのかも」
私は、志希さんの言葉を聞きながら、茜さんのことを想った。
私の気持ちは――柵の中にはないのだ。
志希「キミが言葉で動くほど、単純だとは思ってないけど」
志希「ただ1つ、試してみて欲しい」
私は、完全に虚を突かれた。
志希さんに思いきり抱きしめられた。
志希「はぁぁぁー、良い匂い! シャンプーの匂いとほのかに古書の香りがして、まさに文香ちゃんって感じ!」
文香「し、志希さん!?」
志希「あははー、文香ちゃんドキドキしてるー」
文香「そんなに、顔を近付けないで……!」
志希「にゃは。こうやって、キミから茜ちゃんを抱きしめてみなよ。そしたらきっと、答えが出るよ」
そう、耳元で囁いて、志希さんは体を離す。
志希「キミはもっとシンプルに生きるべきだよ」
文香「シンプル、に……」
志希「人間は、この世の中は、複雑怪奇だけど、その世界を認識し構築しているのは、あなたの脳味噌だけ」
志希「あなたの見ていないところに世界は存在しない」
志希「5分前の世界の存在は証明できない」
志希「"この世界はただ、あなただけのものだ"」
志希さんは、笑う。
あどけなく、けれど大人びていて、
無邪気であって、けれど無垢ではない。
きっと、彼女の世界は複雑すぎる。
だから、単純であろうとする。
なんて、不器用な人なんだ。
文香「どうして」
問いかけるのは、私の悪い癖だろうか。
文香「どうして、そんなに私に構うのですか?」
彼女は、いつもの調子で答えるのだ。
志希「だって、面白いんだもん」
21
346プロの女子寮は9時には入れなくなってしまう。
追いかけた方が後悔しないよ、とまるで未来を知っているかのような志希さんの口振りに、私は疑義を抱くこともなく走り出していた。
雨が降る。
雨に濡れて前髪が垂れてくる。視界が塞がれるのが鬱陶しくて、私は前髪をかきあげた。
夜が好きで、雨の音が好きだった。
茜さんは、ラグビーが好きだった。
真っ暗で、雨が降ったら、ラグビーができなくなってしまうな――いつからか、そんなことを考えるようにもなった。
ダンスが下手な私の身長を、ダンスが上手な茜さんに分けてあげられたら良いのに。
茜さんの好むような本が見つけられたら良いのに。
茜さんに悪意を抱く人間がいなければ良いのに――。
ああ、私は。
この降り注ぐ雨粒のように。
当たり前のように、願っていた。
どうか茜さんが、
幸せであるようにと。
22
346プロの寮に辿り着いた。
しかし、門は閉ざされていた。時刻は、9時を数分過ぎてしまっていた。よじ登ろうにも、物理的に難しく、警備員の目もある。
だけど、このままでは後悔するのではないか――志希さんの言葉が頭の中でリフレインされる。
どうすれば、中に入れるだろうか……。
裕子「こっちですよ」
声のした方に振り向くと、そこには真っ黄色の傘を差した裕子さんが立っていた。
文香「裕子さん……、どうしてここに」
裕子「細かいことは気にせずに、さっ、こっちです!」
言われるがまま、裕子さんの後をついて歩く。
どうやら裏門からも中に入れるようで、裕子さんは裏門の警備員さんに予め、帰りが遅くなることや同伴者として私を招くことを伝えていたようだった。
文香「あの、どうして私がこの時間に、ここへ来ると……?」
裕子「文香さん、お忘れですか? 私はサイキックアイドルですよ! 予知ぐらいお茶の子さいさいです!」
文香「……ありがとうございます」
裕子「良いんです。私には、これくらいのことしかできませんから」
中庭のようなところで裕子さんは立ち止まって、傘の中で私と向き合った。
裕子「文香さん……」
文香「は、はい」
裕子「傘を持って下さい」
何の疑問も抱くことなく、私は気がつけば傘を持っていた。
裕子「今日のラッキーアイテムはその黄色い傘です! 運命の相手に出会えるでしょう!」
言いながら、裕子さんは傘の外に出てしまう。
文香「ぬ、濡れてしまいますよ」
裕子「すぐそこですから、大丈夫です。でも文香さんはそこを動かないでください! 絶対ですからね!」
そう言って、裕子さんは走って寮の中へ入ってしまった。
そのまま入れ替わるように現れたのは、
茜さんだった。
茜「文香ちゃん……!!!」
傘も差さないで、茜さんは駆け寄ってきた。
茜「びしょ濡れじゃないですか! 早く中に!」
文香「あっ……」
手を取られて、茜さんに引っ張られる。
そのまま寮の中へ入って、茜さんの部屋まで通された。
茜「タオルを持ってきますから、少しだけ待ってて下さい! お風呂も沸かします!」
そのまま流されるようにお湯をいただき、茜さんのジャージを借りて部屋へと上がり込んでしまった。
茜「すみません、私、体が小さいもので! お腹、冷えませんか!?」
文香「はい。その、大丈夫ですよ」
茜「……」
文香「……あっ」
部屋を見回すつもりはなかったのだけれど、本棚だけは、つい見てしまうのだ。
文香「私の貸した本、……もしかして、買って下さったのですか?」
茜「!!!」
茜「あの、それは、その!!!」
慌ただしく立ち上がり、本棚の前で飛び跳ねる。
茜「これはですね、その!!! 文香ちゃんがせっかく、解説や言葉を教えて下さったのに、理解が足りなくて、それで私はその、ちゃんと読み込んで理解をしようとしてですね……!!!」
文香「言って下されば、そのままお貸ししてても良かったのですよ?」
茜「よ、読み込んでしまうと、文香ちゃんの大切な本をくしゃくしゃにしてしまうと思って……」
文香「茜、さん……」
ああ、この人は。
どこまで不器用なのだ。
私はそんなこと、気にしないのに。
茜「あの! お聞きしたいのですけど!」
今度は勢い良く、私の目の前で正座した。
茜「文香ちゃんは、どうして、ここに来たのですか……!?」
それは、至極真っ当な問いかけだった。
答えに窮してしまった私はとっさに――。
文香「……お芝居の練習を、一緒にしようかと思いまして」
23
淡々と、私たちは台本を読み進めていった。
そして、あっという間にラストシーンに差し掛かる。
姫と騎士がいくつもの困難を乗り越えて再会を果たし、キスをするふりをして幕が下りる。
言葉を紡ぎながら私は、茜さんの肩を掴んだ。
びくりと、わずかに茜さんは肩を震わせる。
茜「文香ちゃ……」
それは不意に。唐突に。
艶やかな声が、茜さんの口から漏れた。
名前を呼ばれたとき、
呼ばれてしまったとき、
私はもう、騎士ではなくなってしまっていた。
文香「茜、さん……」
――こうやって、キミから茜ちゃんを抱きしめてみなよ。そしたらきっと、答えが出るよ。
志希さんの言葉が、志希さんの体の感触が、志希さんの匂いが、私の欲望を揺り動かす。
私はなんて、愚かなのだろう。
手を繋ぐことよりも、
抱きしめることよりも、
口付けを交わすことよりも、
茜「ふ、ふみかちゃ――!!!」
『好き』と言うことは難しい。
そんなことに気付いてしまう。
茜「!?」
思わせぶりな態度は、相手に答えを委ねることができる。
そんなことしかできない私は、最低だ。
茜「ふふふふふ文香ちゃん、ど、どうして、き、キス……」
文香「ごめん、なさい……」
いてもたってもいられなくて、私は部屋を飛び出した。
茜「文香ちゃん!?」
もう戻れない。
人生は本のように、ページを戻すことはできないのだ。
24
部屋を出て、寮の出入り口まで来たところで立ち止まる。
外はまだ、雨が降り続いていた。それに自宅に帰ろうにも、警備員が待ちかまえている。服も茜さんに借りたジャージで、少しお腹も出てしまっていた。
どうしたものかと思っていると、「文香さん」と声をかけられた。
不思議と驚かなかったのは、私にも予知能力が備わったからかも知れない。
裕子「そんな格好で、どこへ行くつもりですか?」
私の部屋に上がってください、と裕子さんは屈託なく笑いながら言う。
文香「すみません……お言葉に甘えさせていただきます」
裕子「いえいえ、遠慮なく上がってください」
裕子さんの部屋にあがらせてもらうと、私が来ると分かっていたのか、お布団が2つ並べて敷かれていた。
裕子「羊を数えるかわりに、少しお話しましょう」
裕子さんは、微笑む。
裕子「私は、茜ちゃんとたくさんお仕事をしてきました」
茜さんの名前が出たことにも、特段驚くことはなく、私は裕子さんの話に耳を傾けた。
裕子「茜ちゃんはいつも元気で明るくて、一緒にいるだけで私も元気がもらえるんです」
でも、と裕子さんは言った。
裕子「たまに、変な感じがするんです」
裕子「その、元気なふりをしているような……」
不器用って言葉は、まるで彼女ために存在してるみたいだよね――志希さんの言葉が、頭の中で響く。
文香「私も……時折、そう感じます」
裕子「やっぱり文香さんもそう思いますか」
危うい矛盾を抱えて生きている。
そう、思えてならないのだ。
裕子「でも、もう私にはどうすることもできないと思います」
ふいに、瞼が重くなって、急激な眠気に襲われる。
裕子「だから、文香さん。茜ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
文香「裕子、さん……?」
裕子「サイキックお休みなさい」
まるで水底に落とされるかのように。
私の意識は、沈んでいった。
25
見違えたようだ――私と茜さんの演技を見て、開口一番に監督はそう言った。
茜さんはすっかり、しおらしくなっていた。私とは目を合わせようとも、言葉を交わそうともしない。休憩に入れば一目散に稽古場を飛び出してどこかへ行ってしまう。
志希「にゃは。文香ちゃん、何をしたのかにゃ~?」
文香「キスを……しました」
志希「……」
さすがの志希さんも絶句してしまったか、と彼女の顔を見てみれば、爛々と輝いた瞳がそこにはあった。
志希「やっぱり文香ちゃんはクレイジーで面白い! その口ぶりだと告白もしないでキスをしたんでしょ! ふふー、素敵な文学の香りがするなー!」
文香「く、首もとに顔を近づけるのは、やめてください」
志希「ハスハス♪」
でも。と志希さんは言った。
志希「答えを委ねるのは卑怯じゃないかにゃ?」
文香「……私は、」
志希「キミは相手の気持ちが分からないから、曖昧な行動でお茶を濁した」
志希「そして今、キミは相手からの気持ちの表明を待っている」
策士だね、と言いながら志希さんはポケットから小瓶を取り出した。
志希「ふふふ。そんな文香ちゃんにプレゼントを用意してみました」
妖艶に、志希さんは微笑む。
志希「ここに1つのトワレがあります」
志希「昨日、抱きついた時に文香ちゃんから採取したフェロモンを元に作ったトワレです」
志希「このトワレを嗅いだ人間は、もれなく鷺沢文香を好きになってしまうのです」
文香「……」
志希「人の感情は無限に分類される。好きにだって色々な種類があって、色々なレベルがある」
志希「でも、これを使えばキミの望む感情が、化学的に寸分違わず再現される」
志希「恋っていうのは、しょせん化学式なんだよ」
志希「日野茜は、鷺沢文香を心から愛する」
志希「"ただそれだけになる"。これってもう最強だよ?」
志希「日野茜に何をしても嫌われることはない」
志希「だから、キミの思うようにキミの愛し方で何にも気にすることなく日野茜を愛することができる」
志希「それってもう、幸福の極地じゃない?」
文香「……」
それはよくある物語。
誰もが羨む理想郷を提示されても、それは間違っていると断罪され、現実を生きていき、泥臭くても、非効率的でも、未来に向かって努力する姿こそが美しいのだと、幾多もの物語は主張していた。
私もそうするのが、正しいのだろう。
それでも。
理想が叶う世界。
一度きりの、かけがえのない人生で、
幸福であり続けたいと願うのは、
当たり前ではないだろうか。
志希「にゃは。やっぱり文香ちゃんはクレイジーだね」
私は今、幸福の極地を手にしている。
26
人間は感情を曖昧にできる。
それは志希さんの言っていたように、無限の感情があるからに他ならないだろう。
私と茜さんはすべてを曖昧なままにして、舞台に臨んだ。
結果的に、舞台は大成功に終わった。
その後、打ち上げということで、ホテルの一角を借りて立食パーティが行われた。
監督から順に、今回の舞台について述べていく。
主役の2人の心が通い合った結果だと、誰かが言った。
誰も何も分かっていない。
私たちは。
何も。
茜「文香ちゃん」
振り返る。
真紅のドレスを纏った茜さんが、そこにはいた。
茜「少し外でお話、しませんか?」
長い夜が、始まる。
そんな予感が、私の胸を締めつけた。
27
私たちは、中庭にあったベンチに腰を下ろした。
時折、噴水の水が勢い良く打ち上がって、抗いようもなく重力に引かれて落ちていく。
茜「文香ちゃん」
いつものような、力強い声音ではなかった。
それは私を、不安にさせる。
足場を失ったみたいで、地に足が着かない心地だった。
茜「文香ちゃんは、私のことが好きなんですか?」
なんの飾り気のない質問で、私には到底問いかけることのできない質問で、私は茜さんのことを羨んだ。
頷くのは、容易なことだった。
茜「やっぱり、そうなんですね……」
やっぱり、そうなんですね?
茜「私は、人の気持ちを考えるのが苦手で……」
茜「ずっと文香ちゃんに、……されたことの意味を考えても答えはでなくて」
茜「でも、志希さんが教えてくれたんです」
茜「文香ちゃんが、私のことを、その……好きだと」
茜「だけど」
茜「私は」
その先の言葉は、聞きたくなかった。
けれど。
茜「女の子として、文香ちゃんを好きになれませんでした」
分かっていたことだった。
予想だって、できていた。
それでも、言葉にされてしまうと胸が抉られる。
私にできることは、もう1つしかない。
私はポケットのなかに入れていた香水を握りしめる。
これを使えば、茜さんを意のままにできる。
でも、そうと分かっていて今日まで使わなかったのは……。
茜「だけど私は、……!」
茜さんは、ポケットから小瓶を取り出した。
それは見覚えのある小瓶で、いや、間違いなく私が握っている香水と同一のものだった。
文香「どうして、茜さんがそれを……!」
茜「私は、文香ちゃんのことを好きになりたい。そう思っているんです」
噴水の水が、空に向かって打ち上がる。
茜さんは、微笑んだ。
それは今までに見たことのないような、
どこか陰のある、微笑みだった。
文香「や、やめて……」
私はそんなことは、望んでいない。
だって。
茜「これを使えば、文香ちゃんのことを好きになれます」
打ち上がった水が、堕ちる。
茜さんは、香水を自分に向ける。
文香「やめて!!!」
喉が裂けるように、叫んだ。
そんなことは、望んでいない。
だって、それは偽りでしかない。
私は偽物だと知りながら愛するしかない。
これほどに空虚で残酷なことがあるだろうか。
水が、堕ちる。
何かが破裂したみたいな水音が、暗闇に響いた。
茜「文香、ちゃん」
日野茜は、私の名前を呼んだ。
頬を上気させ、艶やかに、艶めかしく、
私の名を、呼んだ。
茜「胸のドキドキが、止まりません……!」
茜「私、私……文香ちゃんのことが……!」
文香「茜さんっ!!」
精一杯、声を振り絞って、私は自分と茜さんを制止した。
文香「……しばらく、ここで待っていて下さい」
振り返ると、そこには志希さんの姿があった。
志希「ハッピーエンドは迎えられたかにゃ?」
一ノ瀬志希は、猫のように笑った。
28
2人きりで話がしたい。
そう言って、私はホテルのラウンジの隅で、志希さんと相対した。
志希「怖い顔。文香ちゃんは笑った方が可愛いよ?」
文香「……どうして、茜さんがあの香水を持っているんですか」
志希「悩める者を救うのが、人間としての性じゃない?」
文香「……」
志希「その悩みの種というのはもちろん、キミなわけだけど」
文香「私が……」
志希「私が関与してしまったとはいえ、こうなってしまったトリガーは君が引いてしまったんだよ、文香ちゃん」
志希「キミが日野茜にちゃんと『好き』だと表明していれば」
志希「キミが日野茜にキスをしていなければ」
志希「キミが今日に至るまでに日野茜と向き合っていれば」
志希「そして」
志希「"キミがあの香水を無理矢理にでも奪っていれば"――ねえ?」
全てを見透かすような真っ黒な瞳に、私は飲まれていく。
志希「キミはそもそも、あの香水の効用について半信半疑だった。だから、隣で日野茜が香水を使おうとしても本気で止めようとはしなかった」
志希「むしろ、本当に効果があるのかどうか、確かめたかったんじゃないかな」
文香「そんなことは……」
志希「そんなことはない?」
志希「じゃあなぜ隣にいたキミは香水を奪い取らなかった理由を、"そういう挙動さえ見せなかった理由"を、論理的に説明してくれるかな」
文香「それは……」
志希「文香ちゃん」
名前を。
志希さんは、優しく、私の名前を呼んだ。
志希「あなたは聡い」
志希「聡いがゆえに、想像し、疑念を抱く」
志希「今、抱いている気持ちが永遠に続いていくのかって」
志希「いやむしろ、確信している」
志希「"その気持ちが永遠に続いていくことはない"のだと」
ああ。
これが美しい物語だったならば、私はあなたを看破してみせる。
私は永遠に茜さんを愛することができる、と。
けれど、これは現実であって、理想の世界でも夢の中でもない。
私には自信がない。
茜さんを一生想い続けることができるのか、周囲の目を気にすることなく、愛していくことができるのか――その重みに私は耐えられるのか、どうか。
志希「今を生きることができない、可哀相なキミに」
志希さんは、ポケットから深紅の小瓶を取り出した。
言われなくても、その中身は分かった。
志希「キミが求めていたものが、これだよ」
志希「先に日野茜に使わせた辺り、やっぱりキミは聡いね」
私は、アイドルになる前の私を思った。
私が、一ノ瀬志希に出会っていなければ。
私が、日野茜に出会っていなければ。
私が、プロデューサーさんに出会っていなければ。
文香「……私がアイドルにならなければ、私はどうなっていたのでしょう」
私の問いかけに、志希さんは淡々と答えた。
志希「ありもしない未来を思うのは、時間の無駄だよ」
志希「人生は一度きり」
志希「巻き戻ることは、決してない」
もう進んでいくしかない。
私は、目の前の深紅の小瓶を手に取った。
迷いはない。
あなたがそうなってしまったように、
私は、あなたを愛するだけになる。
幸福の極致に、私たちは至るのだ。
文香「志希さん」
ありがとう。
そう言うと、志希さんはどこか哀しそうに微笑んだ。
志希「どういたしまして」
私は、トワレを振りかけた。
その瞬間、
清浄なる世界が、霞がかったようになって、
ああ
私は、もう、
――"どうしようもない"、恋をしている。
Ⅰ
奏「あの2人、すっかり人気ユニットになったわね」
週刊誌のページを捲りながら、奏ちゃんはわざとらしく呟く。
あの2人、と言えばもう、あの2人しかいない。
日野茜と鷺沢文香のことだ。
志希「そうだねえ。もうちゅーりっぷは枯れ果てたも同然だよ!」
奏「何言ってるの志希、また今度LIVEがあるじゃない。唇が乾くにはまだ早いわよ」
志希「あーん、奏ちゃんのいけず」
奏「あなたに言われるのは、心外ね」
むっとして、ちょっと本気っぽく奏ちゃんは言う。
彼女は表立って本音を言うことはしない。
何気ない会話の中で、巧妙に本意を織り交ぜる。
それを見抜ける人間だけが、彼女と仲良くなれる資格を持つのだ。
もっとも、あたしは資格があっても、奏ちゃんは仲良くしてくれるつもりはないらしい。
奏「話を逸らされてしまったけれど」
ほら、敵意が剥き出しだもん。
奏「志希、あなた、"文香に何をしたの"」
あまりに的確な一言に、賛辞を送りたくなった。
奏ちゃんってば、ミステリーとかサスペンスものだと真っ先に殺されちゃうんだろうなあ。
志希「別に、何もしてないけど」
奏「文香の様子が明らかにおかしいじゃない」
志希「それは偏見じゃなーい?」
奏「ふざけないで、志希」
志希「ふざけてなんかなーいよ」
あたしは、1人の少女の願いを叶えてあげた。
そして彼女は間違いなく、物語の主人公だった。
でも、だからこそ、エンディングが必要だった。
ただ、それだけのことなのだ。
志希「あたしが何かをした証拠があるの?」
奏「あの舞台が終わった日から、文香は……」
志希「鷺沢文香は、日野茜にご執心になった?」
奏ちゃんは、もう感情を隠そうともしないで、あたしを睨む。
奏「志希、あなたはっ!」
志希「奏ちゃんはどうして文香ちゃんの様子がおかしいって分かったのかな?」
奏「そんなの、見ていれば」
志希「見ていれば、分かる?」
ノン、あたしは首を横に振る。
志希「文香ちゃんのことが大好きだから分かる、でしょ?」
奏「何を言って……」
志希「速水奏は何気ない会話の中へ、巧妙に本音を織り交ぜる」
志希「そしてキミは意味のない言動を取ったりはしない」
志希「これだけ言えば、分かってくれるかにゃ?」
奏「……あなたは神様なのかしら」
志希「神様の子ども(ギフテッド)なんて呼ばれてはいたけど、断言しよう」
志希「"この世に神様なんていない"」
けれど、全ては仕組まれている。
人間だって、進化の過程の最中にあるだけ。
ただ、私は逆らってみたかった。
定められた進化の流れに、一滴の劇薬を。
まあ、それすらも、
定められた流れの一部に過ぎないのかも知れないけれど。
なーんてね。
志希「あー、そうだそうだ」
察しの良い、探偵役の奏ちゃん。
彼女には、真実を与えてあげなくては。
物語には真相を明かすパートが必要だもんね。
でも、このお話がミステリーやサスペンスじゃあなくて良かったね。
こんなこと知ってたら、奏ちゃん死んじゃってたよ。
志希「ねえ、奏ちゃん」
志希「"茜色ってどんな色か知ってる"?」
Ⅱ
あの時は、笑いを堪えるので必死だった。
文香『志希さん……この世の中に、悲しまない人間や傷付かない人間はいるのでしょうか』
日野茜は。
文香『それだけのことを、彼女は一体いつから抱えていたのでしょうか』
"日野茜は、化物だ"。
文香『私は、……彼女を救えるでしょうか』
救う?
いやいや、あたしたちは彼女に足元を掬われていたのだ。
彼女は、悲しむとか、傷つくとか、そういう次元にはない。
人間の認識というやつは、あたしたち人間が思っているよりもいい加減だ。
いや、いい加減というよりかは、都合の良いようにできている。
回転する仮面――それは、裏側に回ってもあたしたちは凹んでいると認識せず、普通の顔であると認識する。
とどのつまり、あたしたちが見ているものは真実そのものとは限らないのだ。
"日野茜は、あたしたちの認識に干渉する"。
全員が全員ではないけれど、日野茜に関われば関わるほどに、
感情移入すればするほどに、あたしたちは日野茜という人物を
自分の都合の良いように解釈させられてしまう。
"まさしく日野茜は、偶像そのものなのだ"。
文香『……私がアイドルにならなければ、私はどうなっていたのでしょう』
あたしは、思うよ。
日野茜がアイドルにならなければ、どうなっていたんだろうって。
Ⅲ
かくいうあたしも、とっくに彼女に支配されてしまっているのかも知れない。
志希「秘密のトワレは、そう簡単にはできないもんね」
志希「だって、"バスタブに獣脂を満たして裸で浸かってもらわないといけない"わけだし」
志希「ねえ、茜ちゃん」
茜「はい!!!」
夕焼けを背に明るく太陽みたいに笑う茜ちゃん。
焼き尽くされて死んじゃいそうだよ。
茜「あのお風呂は気持ち良かったですよ!!!」
茜「どろどろのひたひたで!!!」
志希「そう言ってもらえると私としても嬉しい限りかにゃ」
ごめんね、文香ちゃん。
茜ちゃんが振り掛けた香水は、偽物だよ。
まあ、キミにとってそんなことはもう、どうでもいいかも知れないけれど。
志希「それにしても、茜ちゃんはお芝居がお上手だねえ」
日野茜は、鷺沢文香を好きにさせた。
日野茜は、鷺沢文香に負い目を背負わせた。
日野茜は、鷺沢文香に秘密のトワレを使わせた。
心から肉体から魂から骨の髄から一分の隙もなく徹底的に鷺沢文香を支配したのだ。
いや。
日野茜を通して、鷺沢文香は自らの願望を叶えたといった方が正しいのかも知れない。
確信する。
鷺沢文香の運命は、日野茜と出会った瞬間に確定してしまったのだと。
茜「私、お芝居は苦手なんですよ!」
日野茜は笑う。
志希「またまたー」
茜「前に、トレーナーさんに『表現の機微に欠ける』と注意されたことがあるんですが……』
志希「へーえ?」
茜「それで後から文香ちゃんに教えて頂いたんです。機微とは、表面から察せられない微妙な心の動きだと」
茜「でも、私にはよく理解できませんでした!」
志希「どうして?」
日野茜は笑う。
茜「"だって、そもそも心に動きなんてないじゃないですか"!」
ぞわぞわと、鳥肌が立った。
ああ、もう、最高にクレイジーだ。
いかれてる、いかれてる、いかれてる。
だからあなたは何者にもなれるんだね。
Ⅳ
志希「ねね、どうして文香ちゃんのこと好きになったの?」
茜「一目惚れです!」
志希「そっかー、一目惚れかあ」
あなたにとって、心ってなに?
『好き』という感情すら心の動きに定義されないなんて。
あたしはあなたの心を解き明かしたい。
あなたの世界はいったい、どうなっているのか。
あなたはいったい、なにを見ている?
茜「志希さん!」
志希「はいはーい、志希さんだよ」
茜「志希さんも……」
ここで言い訳をするならば、あたしは。
あたしは、油断していた。
茜「志希さんも、誰かのことを心から好きになりたいんですよね!」
志希「……はにゃ?」
茜「誰かを心から好きになりたいから、あの香水を作ったんですよね!!!」
無垢が刺さる。
あたしは今、どんな顔をしている?
茜「あの香水の効果は、文香ちゃんで証明されました!」
茜「もう踏み留まる理由はありませんよね!」
この世に神様は、いない。
人間だって、進化の過程の最中にあるだけ。
それはあたしだって例外ではない。
茜「志希さんは誰かのことを好きになりたいんですよね!」
人が生きる意味や、
人の存在理由を考える。
でも、答えは見つからない。
だって、これはただのゲームなんだ。
茜「誰かを愛して幸せになりたいんですよね!」
絶え間なく移りゆく環境のなかで、
生命はどのように進化して生き延びるのか。
ただ、それを観察していくゲーム。
終わりもエンディングもない。
茜「人を愛することが一番の幸せだって、理解してるんですよね!」
あたしたちの役割はただ、
生命の記録を受け継いでゆくだけ。
でも、ゲームにはエラーがつきもので、
"あたしたち"は、
ただ、純粋に愛していくだけには少し、複雑になりすぎたのだ。
志希「あたしは」
きっと、神様になりたかった。
そして、生きる意味を知りたかった。
志希「あたしは、あなたの思い通りにはならないよ」
でも、生きる意味などないというのなら、私は。
せめて、幸福の極地へと至るのだ。
志希「世の中の事象はどこまでもケミカルでロマンの欠片もないけど」
志希「"あたしはアイドルを続けている"」
志希「突き詰めれば突き詰めるほどに、――ロジックでは説明できない何かに出くわしていく」
それは例えば、あなたみたいな。
志希「あたしは、人間の可能性を信じているんだ」
志希「だから――」
ぷしゅ、と霧状に液体が散布される音がした。
志希「は……?」
刹那に理解してしまう。
志希「どうして、あなたが、それを……?」
どうしようもなく、焦がれてしまうこのニオイ。
どうしようもなく、抗えなくなるこのニオイ。
どうしようもなく、あたしを殺すこのニオイ
あたしの世界を変えてくれた、このニオイ。
茜「バスタブに獣脂を満たして裸で浸かる」
茜「作り方を教えてくれたのは志希さんじゃないですか!」
志希「にゃははー……あたしが訊きたいのはそういうことじゃなく……」
ああ、そうか。
プロデューサー。
キミがアイドルに入れ込まないわけがない。
キミはもう、とっくに日野茜に溺れてしまっていたのか。
茜「志希さんの言う、人間の可能性! 化学では説明できない到達点! 私も存在すると信じています!」
茜「でも、それはいつ辿り着くのですか? 私たちで辿り着けますか?」
無理ですよね、とあたしは自身に言葉をかける。
「今のあたしたちにできることは」
「いずれきたる、幸福の極地」
「それに到達するために」
「遺伝子を」
「進化の種を残すこと」
そうでしょ? あたしはあたし自信を説き伏せる。
「だから、あたしたちは、今ある道徳と倫理に従って」
「幸福を求めていればいい」
「恋をすること。愛すること。それが幸せなのだと」
「"そういう普通の価値観に従って幸福を求めていればいいんです"」
「だから、幸せになりましょう。志希さん」
そして、日野茜はいつもの調子で言うのだ。
茜「だって人生は一度きりしかないんですから!」
――茜色に、染まる。
了
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