モバマスssです
地の文有り 書き溜め有り
ある有名な作家のファンで、彼の文体を模写しようとしてこれが生まれました
クオリティは高くはないやもしれませんが、お楽しみいただけますと幸いです
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この物語はフィクションであり、誰にも捧げられるべきではない。
二十七だった僕が三十二になる頃には、十二だった彼女も十七になった。
その五年の中に、ドラマと称して差し支えのないような出来事は幾つもあるような気はするけれど、本当のところはよくわからない。
ドラマとは、完結したものにしか冠することのできない称号のようなものだから。
僕と彼女がどういう形であれ、その関係性が終わりを迎えなければ、ラべリングはできないのだ。
彼女についてなにか説明することがあるとすれば、その心根の高潔さだろうか。
冬の夕暮れに響くコルネットのように、彼女は清らかなアイドルだった。
年齢相応の可愛げがあり、聡明さがあり、正しさがある。
僕の主観を越した言葉なんかより、実際に彼女を見た方がよっぽど早い。
橘ありす。
彼女の名前の持つ響きに、途方もない輝きを感じる。
議論に区切りがついたのは、翌日の午前九時頃のことだった。
前日の午後八時には終業していたから、単純に計算してもそれから半日以上話し込んでいたことになる。
集中力とその持続力にはそこそこの自信があった僕でも、これはさすがにこたえた。
建設的な事柄についての議論を、それも、濃霧の中をトレッキングするように遅々とした速度で。
というのも、新たなライブ案について、我々は夜を通して頭を捻っていたのだ。
目覚ましい技術の発達によって、今日に至っては自分のデスクにつきながら別の場所にいる人間と顔を突き合わせて会議することができる。
我々というのは、プロダクション内外で結成されたアイドルユニットの、プロデューサー陣のことを指している。
ユニット自体は五年前に結成したものではあるが、現在は活動していない。
そのプロジェクトの名を、クローネという。
人間に休眠が必要なように、プロジェクトにも休眠が要る。
それを揺り起こして、もう一度ライブを開催させようとする考えが、我々のうちで燻っていた。
来るべきタイミングだと、僕は思った。
結成したユニットは活動を休止して三年を過ぎた今でも未だに人気が根強く、過去に販売したアルバムの売れ行きも申し分はなかった。
だが、どこか決定的な局面において、磨きが足りないように感じられた。
垢抜けていなかったわけじゃない、だけど表現の奥行きが浅かった部分はあったように思う。
観る者の心象をそのまま映し返すような、単純で純粋な輝きが足りなかったのかもしれない。
プロジェクトに関して、満足のいく結果を得られたと胸を張れる。それでも、心酔できるような納得はなかったように思う。
だから、今再びクローネが活動することに意味があるのだと、そのタイミングが訪れたのだと確信した。
それはもう、雨の日の午後に聴くウィントン・ケリーのピアノのように、揺るぎようのない確信だった。
その確信を担保に、我々は個々の仕事の合間を縫っては打ち合わせを続けている。
パソコンの電源を落として、僕はなににも先行してまずシャワー室に向かった。
熱いシャワーは、凝り固まった身体に沁みた。潤い以上のなにかが満ちるのを、僕は感じていた。
身体中に纏わりついた汚れのような疲労感をある程度拭うと、やがて耐えがたい空腹が僕の思考を、ローマの騎兵のように着実に占有していった。
最後に口にしたのは、昨日の晩にテイクアウトで頼んだぺパロニとブラックオリーヴのピザだった。
事務所に備え付けてある冷蔵庫を、なにか気の紛れるものはないかと祈りながら開ける。
だけどそこにあったのは、ドリンクホルダーにエナドリが数本と生卵が三つで、それらが白けたアンサンブルのように佇んでいるだけだった。
望みがあるよりも、まったくもって望みの断たれた状況にある時ほど、なにかに祈ることが多い気がする。
せめてもの、卵を炒りつけて胃に運ぶと、雀の涙ほどに腹は満ちた。
人間というものは存外正直なつくりをしているらしく、今度は蝕むような睡魔が僕のもとを訪れる。
僕の耳元で、まるで内緒話をするかのように、睡魔がなにごとかを囁く。
どうせ今日は土曜日で、誰も来ないというのなら、ひと眠りしてから帰ってもいいだろうと思った。
そうして一度気を抜いてしまえば、身体中の筋繊維がほどけてしまったように、なにも手につかない。
椅子に座って背もたれに身体を預けると、まるでシルクのカバーをかけたように、穏やかに意識は薄れていった。
大抵の場合、僕は眠りから覚める時、さざ波のような柔らかな浮上感を覚える。
壁に掛けられた時計を見遣ると、三時間ほど眠りこけていたらしい。寝覚めの感覚は、決して悪いものではなかった。
人の気配を感じて周囲を見回すと、革張りのソファに彼女が腰かけているのが見えた。どうやらペーパーバッグを読み耽っているらしい。
どうしてまたこんな日に事務所にいるのだろう。こんなに静かで、バッハのシャコンヌなんかがうってつけの日に。
「ありす」
驚かさないように、静かに声をかけた。
十七の彼女は、座ったまま僕のことを一瞥し、視線をペーパーバッグに戻す。
僕は立ち上がって頚椎の関節を二度ほど捻り、彼女の方に歩み寄った。
土曜の昼下がりだというのに彼女は、ストライプのセーターに濃紺のプリーツスカートを品良く着こなしている。
一週間のうちで土曜の昼下がり以上にリラックスできる瞬間など、とても僕には思いつかないのに、彼女からは弛緩した意識を感じない。
だけど僕はそれが、彼女の美徳の一つだとも思う。類を見ない気高さ。
「橘です」
こちらに目もくれず、短い言葉だけが返ってくる。
彼女はあまり親しくない人間に名前を呼ばれるのを好まない。
そんな時は、いつもさっきのように返す。まるでそれが決まりごとであるかのように。
しかし、だからといって、僕と彼女が親しくないという事実はない。
これでも、彼女なりにふざけているのだ。
「じゃあ、橘」
「ありすです」
二人の間にお決まりの応酬を終えると、僕と彼女は二人して小さく笑う。
僕と彼女の間柄は、しばしばドライなものとして捉えられがちだけれど、そうでもないと思う。
窓から射す陽光は温かく、時間の流れも緩やかだった。寝不足の身体でさえ、いつものように調子が良かった。
肩の関節を交互に回しながら、僕は再び自分のデスクについた。
2月の昼下がりに、僕と彼女は話をする。
「今日は土曜日だと思っていたんですが」
「ああ。僕もそう思う」
彼女が投げた簡潔なクエスチョンは、言外になぜ僕が休日なのに事務所で寝こけていたのかという、もう一つの疑問をくるんでいた。
我ながらに、察しの悪いふりをして質問をはぐらかすのは少し悪趣味だと思った。
少し分厚い本を閉じて、彼女がこちらに向き直る。
「なにをしていたんですか、プロデューサーは」
「ありすの方こそ。どうして休日なのにこんなところへ?」
「静かに読書できる場所として、ここをよく利用しているんです」
そう言って彼女は、許可証をかざすようにペーパーバッグを掲げてみせた。
「そんなに気合の入った装いで?」
「その後に買い物に行く予定もあったので」
「お目当てのものは見つかったかい」
「フェリシテの新作のプリンを買いました」
フェリシテというのは、ここから歩いて十分ほどの距離にある洋菓子店で、彼女のお気に入りの店でもある。
僕は彼女がフェリシテに向かう姿を想像した。緩やかな日差しの中を、たった一人歩くその後ろ姿を。
どういうわけか、僕の想像の世界に登場する彼女は、いつも後ろ姿から始まる。
そしてその彼女がこちらを振り返ると、いつもの表情がそこにはある。
恐らく僕と接する時にだけ浮かべる、フラットな表情。
機嫌の如何に関わらない、彼女のその表情は、自然体でいる瞬間に浮かべられることを僕は知っている。
「プロデューサーは、仕事ですか」
「いいや、友人とやり取りをしていた」
嘘じゃない。彼らとは実際にプライヴェートでも交友を持つほど仲が良い。
「事務所で?」
「事務所で」
「もしかして、夜通しで?」
「想定していたよりも、議論が弾んでね」
「どうして自宅に帰らなかったんですか」
「気が付いた時には終電を逃していたんだ」
これも嘘じゃない。議論しているうちに、日付が勝手に逃げて行った。本当のところ、泊るつもりもなかった。
彼女は、呆れたようなものを眺めるような顔付きのままでいる。
彼女に対して僕が決して嘘を吐かないことを、彼女は知っている。
「そのやり取りは、仕事に関係することですか」
「ありすは僕を尋問にかけているのかい」
「……別にいやなら答えてくれなくても構いません」
「そのとおりだよ」と僕は答える。
「或いは、旅行の計画を練るようなものだった」
「旅行の計画?」
「立てるだろう、ありすも。ここじゃないどこかへ旅に出かけるなら」
僕がそう問いかけると、少し考え込む表情になってから、真面目にも彼女は頷いた。
「それはまあ、そうです」
「でもそれだと、仕事なのになんだか楽しそうですね」と彼女は薄く微笑みながら付け加えた。
そのとおり。この仕事はとても楽しい。
仕事である以上、きちんと負うべき責任を我々は負う。しかも殆どの場合それは自分の仕事でありながら、同時に担当アイドルの仕事でもある。
加えていうなら、今回はプロジェクトの仕事でもある。幾重にも連なった責任は、絶えず後ろからついてくる。
だけど僕にとって、アイドルのプロデュースというものは仕事というよりは、娯楽の方がニュアンスとして近い。娯楽というよりは、家事と呼んだ方が更に近い。
つまり僕の生活にとってなくてはならない存在ではあるけれど、それは大して重荷というわけでもないということになる。
最近なんとなくわかってきたことだけど、仕事に対してこういう姿勢で無理なく臨めることは、僕が考えている以上に稀有で幸せなことなのかもしれない。
「うん」
「少なくとも僕は、楽しんでいるかもしれない」
「では、お楽しみのところ申し訳ありませんが」と彼女は言って、ソファから立ち上がる。
「今日のことを、プロデューサーは覚えていますか」
はて。
「善良な土曜日である以上に、僕は今日のことを特別に認識していなかったけれど」
「善良な?」
「善良な。表通りなんか、聖者でも行進しそうないい陽気だ」
僕の頭の中には、陽気な音楽が流れている。
ディキシーランド・ジャズのナンバーでもあるその曲は、元々黒人の葬儀の際に演奏されたものだ。
こんなにも穏やかで寂れた日にしっくりとくる。
限られた僕の語彙には、善良だという形容以上に見合う表現が存在しない。
「ありすには今日という日に心当たりがあるのかい」
「あるから、ここにいるんです」
少しだけつまらなさそうに彼女が返事をよこす。
そして、ソファに立てかけていたショルダーバッグからなにかを取り出すと、僕の方へ歩み寄ってきた。
五年の歳月は、彼女の歩き方すらも洗練させてしまう。
惚れ惚れとしている間に、いつの間にか彼女は眼前まで来ている。
「本当は、月曜に渡すものだと思っていたんですが」
その言葉と一緒に、小さな包みを手渡された。
「これは?」
「一応、誕生日のプレゼントです」
彼女の黒檀の髪がまるで、春の風に色をつけたようにしなやかに揺れる。
相も変わらず彼女の表情はフラットだったけど、その頬は薄く色付いている。
「今日だったのか」
「本当にプロデューサーは自分の誕生日に疎いですね」
出会った当初から少しだけ大人びた表情で、彼女は力なく笑った。
まだ年端もいかない少女にこんなことを求めるのもどうかとは思うが、彼女の最大の武器は、満面の笑みというよりは、アンニュイさだ。
儚さや脆さを彼女の中に見つける度に、アイドルとはどうあるべきであるかを考えさせられてしまう。
「別に誕生日に関して聡くある必要性がないからさ」
「……私の誕生日は忘れたことがないくせに」
「担当しているアイドルの誕生日を忘れるようじゃ、プロデューサーは務まらないからね」
「なににしても、ありがとう」と僕は言った。
「気に入っていただけるといいんですが」
「開けても?」
「どうぞ」
丁寧な包装を取り去ると、包まれていたのはカランダッシュのボールペンだった。
シンプルで無駄のないボディに、精緻な装飾が施されていて、思わず感嘆の息が漏れてしまう。
実際に手に取って見るのは初めてだった。まるで感情を持っているかのように、それは意味ありげに輝きを放っている。
「カランダッシュか」と僕は言った。
「プロデューサーに似合うかと思って」
僕にはとても瀟洒すぎる気もするけれど、手には馴染みそうだった。
「似合う人間になるよ」僕は笑いながら言葉を返した。
「それに、実を言うと、そろそろペンを新調しようと思っていたんだ。前のはもう相当古くなっていて。だから本当にありがとう」
改めて礼を述べると、彼女は慎ましげに微笑んだ。
冬の夕暮れに響くコルネットのように、彼女は清らかなアイドルだ。
いつの彼女にも年齢相応の可愛げがあり、聡明さがあり、正しさがあった。
それらは彼女にとって紛れもなく美点だといえるし、もちろん欠点もその中にある。
でも、そんななにもかもを含めて、僕は彼女のことを敬愛している。
共に過ごすようになって五年の歳月が流れ、その間に彼女は、幾らか身長を伸ばし、知識と経験を積み、美しくなった。
美しくなったというよりは、潜在的な美しさがクリアになった。
僕に洒落たボールペンをくれるようになったし、任せられる仕事の範囲も増えた。
彼女がこうして真摯に成長していく姿を、間近で見届けられることがなにより誇らしい。
僕が本当に魅了されたのは、彼女そのものというよりは、彼女のいる風景だったのだと思う。
「ありすも、こんなものをくれるようになったのか」
「もう十七になりましたから」
「僕はもう三十三になってしまった」
「でも、善良な三十三だと思います」
「善良な?」と、僕は首を傾げる。
「善良な」と、彼女は頷く。
やれやれ。
善良なら、仕方がない。
彼女がそう言ってくれるのなら。
「……あの、少しだけ心配です」
「なにが」
「仕事のしすぎで、プロデューサーが身体を壊してしまわないか」
「僕が?」
僕の不意を打つのには十分の言葉だった。
「このところ、忙しそうなので」
彼女は言葉少なに説明すると、いつもよりは深刻そうに僕の顔色を伺った。
目が合うと彼女は、まるでそうしなければならないことのように視線を逸らした。
「普段は飄々としているプロデューサーが、仕事に熱心な人なのは知っています」
「でも、そのせいで体調を崩されたら、元も子もないと思います」
「たまにはゆっくりされることを、推奨します」
「そんなに疲れてそうに見えてたかな」
「見えないから、心配しているんです」
まず僕が感じたのは、自分が随分と健康的な幸せの中にいるんだな、ということだった。
幸せであることと、それが健康的であることはもちろんだが全く違う。僕はそのどちらもを手に入れていた。
それはしかし、なかなか得がたいことだと思う。
彼女は彼女で、僕のことを頭の片隅には置いてくれているのだな、と思った。
まるで丘陵に立っているような気分になった。ささやかで、清々しい。
生きていると、生活を続けていると、指紋のように自然に、それでいて防ぎようのない形で、倦怠感のようなものが身体に貼り付く。
それは、退屈なロードムービーを観賞したり、自分好みの味付けの料理を口にすることで、拭き取ることができるのだけれど。
こうして倦怠感が彼女の言葉によって拭い去られるのならば、
僕にとっての彼女は、僕が思う以上に遥かに大切な存在なのかもしれない。
「ありがとう」
「お腹、空いてませんか」
「うん。かなり」
「フェリシテのプリンが二つ、冷蔵庫で冷えてますけど」
「悪くないね」
「ええ。悪くありません」
「なら僕はコーヒーを淹れてこよう」
「私はプリンの用意をしておきますね」
「よろしく頼むよ」
五年が経過しても、僕と彼女の間に横たわる年齢の差は伸びも縮みもしない。
だけどその五年の間に、僕とは比べ物にならないほど彼女は成長した。恐らくは、これからも。
それについて、僕はよく考えることがある。
ひかりを浴び、また、誰かを照らすのが彼女一人なら、トップアイドルという栄光を掴むのもまた、彼女一人なのだということを。
いつか訪れる筈の彼女との別れにも、出会った当初から比べれば、五年近付いたことになる。
別にそれは自然だし、必然でもある。
だけど、だからこそ僕は彼女のために、こうして日々を費やすのだろう。
きっといつか先に、自分達のしてきたことを振り返った時に、間違いではなかった、正しかったといえるように。
胸を張って、ドラマだといえるように。
「ありすのためなら、僕の人生なんて幾らでも捧げるさ」
僕が言うと、どこかおどけた調子に聞こえてしまうのはどうしてだろうか。
「プロデューサーは、本当にへんな大人ですね」
くすぐったそうに彼女がはにかむ。
「へんじゃない大人なんかいるものか」
僕は異国の諺を教えるように言った。
「人間なんて、絶対にどこかへんなふうにできるようになっているものだから」
僕なりに、厳かに言ったつもりだったけど、それを聞いた彼女は笑った。
以上になります。
お読みいただいた方に、感謝いたします。
そして、尊敬してやまない作家にも。ありがとうございました。
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