まゆとプロデューサーさんとの間には、守らなければならない3つの約束事がありました。
1. 誰かがまわりにいるときは話さない
2. キスは一日に一回まで
3. 黒いビニール袋は絶対に開けてはダメ
これらを守っている限りは、プロデューサーさんはまゆに優しくしてくれたし、
1日に1回のキスだって頭がとろけてしまいそうなほど甘いものでした。
まゆにとって、それは何物にも代えがたい幸せで、
だから、普段あまり話せないことも苦ではありませんでした(ほんとはちょっぴり寂しかったですけど)。
こんな日常を続けるために、3つの約束事は、どんなことがあっても破ってはいけなかったのです。
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プロデューサーさんの家は、事務所から、やや離れた場所にありました。
女子寮にはいっていたまゆは、ことあるごとにそこへ出向いて、
料理をつくったり、二人きりでお喋りをしたり、楽しいひとときを送っていました。
通い妻、とでも言うんですかねえ。うふふ。
プロデューサーさんは、無口で、大人しい人でしたが、まゆがいるときはよく笑ってくれました。
それがとっても嬉しくて、仕事で起きたどんな苦しいことだって忘れることが出来ました。
プロデューサーさんの幸せは、まゆにとっての幸せで。
まゆの幸せは、プロデューサーさんにとっての幸せだったのですから。
ただ、プロデューサーさんはお堅い人だったので、どんなにねだっても、家に泊まらせてはくれませんでした。
それでも、帰り際には「今日はありがとう」と言って、力一杯抱きしめてくれました。
それにこたえるように、まゆも、ぐりぐりと頭を押し付けて、
ぎゅっと抱きしめ返すと、たちまちのうちに、幸せで溢れかえってしまうのでした。
決して「好きだよ」と言ってくれなくても、それだけで、まゆは満足していたのです。
そういえば、その家にはいつも、“黒いビニール袋”が床に置いてあったんです。
はじめのころは「これは何の袋ですか?」と聞いたこともありましたが、
やけに難しい顔をしたプロデューサーさんが「なんでもないから、触らないでくれ」と低い声でまゆを怒ったので、そこからは、あまり気にしないようになりました。
とは言うものの、家に行けばどうしても、それが視界の中に入ってしまうので、
ビニール袋の中身が何なのかを考えてしまうのも、仕方のないことだったはずです。
とりあえず、それをメモとしてまとめてみたのですが、
・捨てるゴミ
・仕送りの野菜
・シュールストレミング
・おとな向けの本(?)
まゆの小さな小さなあたまでは、これくらいしか思いつかず、まいにち、悶々とするしかありませんでした。
思い切って、それを開けてしまおうと考えたこともありました。
だけど、約束事を破ってしまうことは、この幸せな日々を無くしてしまうことと同義だったのです。
たった一度だけ、まゆはプロデューサーさんとの約束を破ったことがありました。
それはとても些細なことでした。
営業で外回りに行く前に、プロデューサーさんに「糸くずがついてますよぉ」と触った、ただそれだけのことだったんです。
まわりには、同じ事務所のアイドルもいましたし、事務員の方もいました。
でも、まゆは良かれと思って、やっただけだったんです。
その後、プロデューサーさんは、ふたりきりになっても、まゆと口をきいてはくれませんでした。
それからすぐに、まゆは自分の過ちに気付いたんです。
幸せな日々を手に入れることも、失うことも、まゆ次第ということなのでしょう。
しばらく経ってから、新しい黒いビニール袋が家に増えたとき、
「楽しいことなんてさ、生きてて、そう多くはないんだよな」
なんて、プロデューサーさんはそれだけ言うと、すごく疲れた顔で壁にもたれかかったんです。
まゆはいてもたってもいられずに、傍に寄り添うと、
手を繋いで、泣きそうになりながら「そう、ですね」とこたえました。
そしたら、プロデューサーさんはいつもみたいに、まゆをぎゅっと抱きしめて、
「もう二度と約束を破らないでくれ」と言ったのです。
だから、まゆも「はい、もう絶対に破りません」と抱きしめ返して、それから、唇をあわせました。
そんなことがあったからか、まゆは、どうすればこの素晴らしい日々が続くのか、ということだけを考えるようになりました。
答えは単純でした。“なにもしない”ということ――それが正解だったのです。
まゆがなにもしなければ、プロデューサーさんはまゆを愛してくれる。
そんな幸せすぎる日常が、迎えてくれる“はず”だったのです。
異変が起きたのは、暗雲がたちこめる、薄暗い日のことでした。
その日、まゆはプロデューサーさんの家で、いつものように料理をつくっていましたが、
当のプロデューサーさんはというと、まゆを置いて外出していたのです。
そのことに憤りを感じてしまうほど、まゆの心は狭くもありませんでした。
むしろこれから二人でご飯を食べて、どんな話をしようか、ということだけにまゆの全精神は使われていたのです。
それから、やはり、足元には黒いビニール袋が置かれていました。
もう、気に留める理由もなかったので、
まゆは、そのまま鼻歌を歌いながら、おたまで鍋の中身をかきまわしていました。
料理を「おいしい」と言ってくれるかな。
「よくできたね」と褒めてくれるかな。
そんなことばかりを考えていました。
ごとり、と嫌な音がきこえたのは、炊飯器のタイマーが鳴ったと同時でした。
おもわず足元を見下ろしてしまったとき、「やってしまった」と思いました。
黒いビニール袋は、その口を開いた状態で横たわっていたのです。
どうやら、縛り方がゆるかったのでしょう。その中身は無残な形であらわになっていました。
それは、“誰かの腕”でした。
――正確には、切り取られた右腕、だったのです。
悲鳴よりも先に頭によぎったのは、「どうすればこれをなかったことに出来るのか」ということでした。
まゆは、それがどんな理由でこんな場所にあって、
どうしてこんな状態になっているのか――なんてことよりも、これを見てしまったという事実を消してしまわねばなりませんでした。
なぜなら、まゆは、これで二度、プロデューサーさんとの約束を破ったことになるのですから。
これを知られてしまっては、もう、話してすらもらえないかもしれない。
そう考えたまゆは、急いで“右腕”をつかみ、ビニール袋の口に手をかけました。
幸いにも、プロデューサーさんが帰宅するよりも前に、
袋を“元の状態”にもどすことに成功したまゆは、胸を撫で下ろしました。
何事もなかったように、ふたたび、鍋に火をかけ始めた頃、
ようやく、気味の悪さが襲い掛かってきたのです。
どうして、このビニール袋の中に“誰かの右腕”がはいっていたのか。
それを掴んだときに分かったのですが、腕は何者かの手によって凍らされていました。
それは、腐臭を防ぐため、なのでしょうか。
だとすれば、これは、紛れもなく――計画的な殺人ではないのでしょうか。
しばらくして、玄関口のドアノブを回す音が聞こえると、プロデューサーさんが家に帰ってきました。
「ただいま」と言ったその手には、やはり、黒いビニール袋が握りしめられていました。
どさりとそれを下ろすところを確認した後、まゆはあわてて「おかえりなさい」と言いました。
「いい子にしてたか?」とプロデューサーさんが頭を撫でてくれたので、まゆは顔を下げて「はい」とこたえました。
正直に言えば、まゆは、気が気ではなかったのです。
平静を装おうとすればするほど、体が固まって、
まるで人形になってしまったかのように思えてしまったのです。
それは「知ってしまった」ということに対しての恐れではなく、「嘘をついた」ということへの恐れでした。
だから、二人で料理を食べていたときに「……まゆ、もしかしてあれを見たのか?」と言われてしまったまゆは、胸が飛び跳ねそうなほど驚いてしまったのです。
「あれ、ですか」と言葉に詰まりそうになりながら返答をすると、
「黒いビニール袋の中身のことだ」と怖い顔のプロデューサーさんがまゆを見据えていました。
「……いえ、見ていません」
またもや、まゆは嘘に嘘を塗り重ねてしまいました。
それ以上、プロデューサーさんは何も言いませんでした。
まゆはこのとき、一体どうすればいいのか、さっぱり分からなくなっていたのです。
何を言えばよかったのか、皆目見当もつかなかったのです。
それからというもの、まゆとプロデューサーさんとの距離は、すこしだけ、遠くなってしまいました。
約束事を破ったことに対する、うしろめたさ、みたいなものを無意識のうちに感じていたのかもしれません。
でも、それだけではなかったのです。きっと、プロデューサーさんは気づいていたんです。
まゆが、あの日、黒いビニール袋の中身を見てしまったことを。
自分が誰かを手にかけていると言う事実を、まゆが知っているということを。
それはまゆのささやかな幸せのすべてを取り去ってしまうほど、辛いことでした。
「プロデューサーさん、あの……」
その日、まゆは、意を決してプロデューサーさんに真実を伝えました。
中身を見てしまったと言うこと。嘘をついてしまったと言うこと。約束を破ってしまったと言うこと。
気が付けば、まゆの瞳からはぽろぽろと涙が溢れ出していました。
ずっと言いたかったことを、やっといえたんだという安心と、
これからどうなってしまうんだろうという恐怖が渦巻いていました。
すべてを懺悔し終えて、顔を上げると、
プロデューサーさんは「少し、話がある」と言って、
ずっしりと重たそうな黒いビニール袋を手にしました。
ちいさくため息を吐いてから、プロデューサーさんは、
ごとりごとりと机の上に右腕、左腕と順に並べ始めたのです。
それはおそらく異様な光景だったと思います。
だって、アイドルとプロデューサーとの間に、
バラバラになった人の部位がひとつひとつ丁寧に置かれていくのですから。
机の上に部位が増えるたびに、まゆの目は見開かれていきました。
最後に“首”が置かれましたとき、まゆは、言葉を失ってしまいました。
その顔は、まゆもよく知っている顔でした。
「――まゆ、お前はドッペルゲンガーってものを信じるか?」
机に置かれたその首は、紛れもなく、プロデューサーさんの顔でした。
その直前まで何かに苦しみぬいたような、そんな険しい顔で、まゆを見据えていたのです。
そして、その“顔”を右手に携えたプロデューサーさんは、こう言いました。
「単刀直入に言えば、俺はドッペルゲンガーに殺されるかもしれないんだ」
「開いた口がふさがらない」という言葉は、おそらく、こういう時に使うのでしょう。
まゆは、プロデューサーさんが何を伝えたいのか、さっぱりわかりませんでした。
たとえプロデューサーさんが電波さんであったとしても、
世間を賑わす殺人鬼であったとしても、
それはぜんぶ、まゆにとっては、些細なことでしかありません。
それよりもむしろ問題なのは、
“プロデューサーさんがドッペルゲンガーなんてものに殺されてしまうかもしれない”
という事実に他ならなかったのです。
今考えないといけないこと。
それはプロデューサーさんのために、どんな振る舞いをすればいいのか、ということになるでしょう。
つまり、“ドッペルゲンガー”というものが実際にいるとして話を進めてしまえば、プロデューサーさんは満足してくれるはず、なのです。
まゆは、(この場の打開策を見つけたことに)にっこりと笑うと、
そのまま「ドッペルゲンガーって、どういったものなんですか?」と尋ねかけました。
>>27
(その「開いた口がふさがらない」の使い方は誤用だぞ、まゆ…)
何度か聞き返したりもしましたが、プロデューサーさんが教えてくれたドッペルゲンガーの実態はこういうものでした。
1.プロデューサーさんと同じ姿をしている
2.定期的にプロデューサーさんの元へやってきて、殺してしまおうとする
3.抵抗してドッペルゲンガーを殺してしまうと、死体はその場に残ってしまう
ドッペルゲンガーの死体を黒いビニール袋に詰めていたのは、3の理由があったからだったのでしょう。
それにしても、これまで相当な数のビニール袋を見てきましたが、
あの中身がぜーんぶ“プロデューサーさんの形をした死体”だったなんて、
なんだか不思議な気分になりますねえ。
>>29
(いそいそと国語辞典を開いたあとに顔を顰めるまゆをお楽しみください)
「どんな理由でドッペルゲンガーが俺を殺そうとしているのか、それは俺にも分からない。
枕もとに立たれていた時、舞台裏でまゆのステージを見ていた時、夜道を歩いているとき
どんなときも、あいつらはふらりと俺の元にやって来て、それでその命を奪おうとするんだ。
もしも、そのまま俺が殺されてしまったら――」
そこで言葉を切ったプロデューサーさんは、不安そうな顔でまゆを見つめました。
「どう、なるんですか」
すこしだけ部屋が静まり返った後、プロデューサーさんは唇を震わせて、
「……きっと、俺はいなくなって、ドッペルゲンガーが“プロデューサー”になるんだろうな」
と、そう言ったのです。
まゆはプロデューサーさんにしがみつくと、
「そんなのイヤです。どこにも、どこにもいかないでください……」と瞳を濡らしました。
プロデューサーさんは困ったように、まゆの頭を撫でると、
「なあ、まゆ。ドッペルゲンガーと俺との違いってなんだろうな」と尋ねました。
「俺はこれまでずっと自分の命をだいじに守ってきたんだ。
だけど、どうだろう。俺が取って代わられたとして、一体、誰が悲しむんだ?
この世界には変わらずに“俺”が居続ける。
だとしたら、俺がここまで頑張ってきた意味は、どこにあるんだろうな」
「俺は、所詮、死ぬのが怖いだけなんだ。
自分を殺してしまうことを正当化して、それで“ああ今日も生きられた”なんて安心するんだ。
最近ずっと思うんだよ。ドッペルゲンガーに首を絞められたまま、そのまま、あの世に逝ってしまえたら、どんなに楽だろうって……」
「そんなこと、言わないでください!」
自分が思うよりも、ずっと大きな声が部屋に響いたのは、
きっと、まゆが誰よりもプロデューサーさんのことを愛していたから、なのでしょうね。
「まゆは、プロデューサーさんじゃないとダメなんです……」
泣きつくようにまゆはおでこをプロデューサーさんの肩に置きました。
「他の誰でもない、今ここに居るプロデューサーさんが、いいんです」
どこにも行ってしまわないように、両の腕で抱きしめて、それから、一度だけキスをしました。
「約束事、守れなくてごめんなさい……」と俯くまゆに、
プロデューサーさんは「俺の方こそ」ともう一度だけキスをしてくれました。
しばし愛を確かめ合ったあと、まゆはプロデューサーさんに一つの物を手渡しました。
「プロデューサーさん、コレつけてもらえませんか」
「……ミサンガか?」
「はい、愛のお守りです。うふ」
「そりゃあ、まいったな。絶対に外せない」
「でも、これで“もしも”プロデューサーさんがドッペルゲンガーになってしまったら、すぐにわかりますよぉ」
「そんなことしなくても、まゆなら分かるんじゃないのか?」
「うふふ、それもそうですねぇ」
「まあ、ありがたくつけさせてもらうよ」
「すごく似合ってますよ」
「……ありがとう」
女子寮に戻るとき、赤いミサンガをつけたプロデューサーさんは、まゆの手首を見て、「お揃いだな」と笑いました。
「はい、お揃いですね」とまゆもつられて笑ったら、「もう行かないと、怒られるぞ」とプロデューサーさんは言いました。
「明日は、どんな料理がいいですか?」
「そうだな、とびっきり美味しい奴をたのむ」
「はい、とびっきり美味しい奴、ですね」
「――それじゃあな。おやすみ、まゆ」
「……おやすみなさい、プロデューサーさん」
それがまゆとプロデューサーさんが交わした、最後の会話でした。
次の日に出会ったその男は、プロデューサーさんとおんなじ形をした、別の何かでした。
「おはよう、まゆ」と男が言ったとき、まゆは得体も知れない違和感に襲われたのです。
それから、すぐに男の手首を見ました。
するとどうでしょう。あの赤いミサンガに、明らかに、一度ほどかれた痕跡があったのです。
「これは、どういうことですか」
まゆは憤りだとか、哀しみだとか、息苦しさのすべてを、その言葉に込めました。
まゆは信じたくなかったのです。その男が次に口にすることを。
「……俺はお前の察するとおり、ドッペルゲンガーだ」
やっぱり、とまゆは思いました。
この男は昨日の夜にプロデューサーさんを殺してしまって、それで、あのミサンガを自分の腕に巻いたのです。
なにを言えばいいのか、まゆは分かりませんでした。
ただひとつだけ、「どうして、殺してしまったんですか」と聞きました。
男はなにもこたえませんでした。
かわりに、まゆは男の胸をポカポカとなんども殴りつけました。
「……かえしてください」と、掠れそうな声で、なんどもなんども。
泣きつかれたまゆは、男の部屋でひとり、膝を抱えて蹲りました。
ドッペルゲンガーは、そのすこし向こうで、顔を俯かせて、ときどきこちらを見ていました。
「なんですか、こっち見て」とまゆは、明らかに棘のある言い方で男に問いかけました。
「悪いことをしたな、と思ってさ」
「その顔で、そんなこと言わないでください。気分が悪くなります」
「まいったな」
「まいってるのは、まゆの方ですよ」
「ちょっとそっち行ってもいいか」
「……気安く近寄らないでください」
まゆは怒っていました。どうにもならない怒りで胸が一杯でした。
大好きな人を奪われて、消えてしまいそうなくらい、心を病んでいました。
でも、男はプロデューサーさんの姿で、声で、そこにいるのです。
それなのに、ぜんぜん違うのです。なにもかも、あの人とは違うのです。
どうしたって、この人では、まゆの心を埋めることは出来やしないのです。
それが、たまらなく悔しかったのです。
その日の夜、まゆは、夢でプロデューサーさんに会いました。
まゆは何も言わないでその手を握って、それから、一回だけキスをしました。
誰もいない部屋の中で、赤いミサンガを見せ合って、ふたりで笑いあいました。
幸せな夢でした。とっても、とっても幸せな夢でした。
目を覚ました時、そこは男の部屋でした。
白い布団から体を起こすと、そこから少し離れた場所で、男はちいさく丸まって寝ていました。
その意味をすぐに理解したまゆは、
「どうして、こんなことするんですか」と男の背中に尋ねかけました。
まゆは怒っていました。
最愛の人の命を奪ったこの男から、こんなふうに優しくされることに、怒っていたのです。
男はなにも返事をせず、ただ寝息を立てていました。
まゆはのそりと立ち上がると、そのまま家から飛び出ていきました。
帰ってから、女子寮の管理人さんからはこっぴどく怒られました。
アイドルなんだからもっと自己管理は厳しくしないとダメだとか、
寮食も無駄になってしまうんだから気を付けなさいだとか、
せめて連絡の一つくらいいれるようにしなさいだとか、
そもそも女の子が夜に出歩くことがどれだけ危険なのかだとか、
まだまだたくさんあった気がしますが、そういうことをさんざん言われました。
しばらくして「ごめんなさい」としおらしく頭をさげると、
さっきまで顰め面をしていた寮母さんは「プロデューサーの家にでもいっていたの?」と嬉しそうに聞いてきました。
否定する気もなかったので、こくりと頷くと、
寮母さんは「良かったわね、ずっと泊まりたいって言ってたものね」と笑ってくれました。
その笑顔がいやに突き刺さって、胸がじくりと傷みました。
「今回はとくべつに内緒にしてあげるわ」と寮母さんは言いました。
まゆは「ありがとうございます」と笑いました。
一時間後、仕事の打ち合わせで、再びまゆ達は顔を合わせていました。
「起きたら部屋にいなかったからびっくりしたよ」
「寮母さんにこっぴどく怒られましたよ」
「あのまま寝てしまったんだから、起こすわけにもいかないだろう」
「起こしてくれたら夜の街に繰り出せたんですけどね」
「それじゃあ、なおさらだ」
しばらくの間、沈黙が流れたあと、男はなにかを語り始めました。
「まゆ、くだらない戯言かもしれないが聞いてくれないか」
「……なんでしょう」
「俺はドッペルゲンガーで間違いないし、あの夜、“プロデューサー”を殺したことに変わりはない。
だけど、どうだろう。お前の言うその“プロデューサー”とやらは、実際のところ本物だったのか?」
「どういう意味ですか」とまゆは男に尋ねました。
「つまりだ。俺がドッペルゲンガーだという確証はあるにもかかわらず、前の“プロデューサー”が本物であるという証拠はどこにもないってことさ」
「それが、なにか問題でもあるんですか」
「考え方次第では、まゆは俺を本物だと認めてもいいんじゃないか、という提案だよ」
まゆは思わず口を閉ざしました。
「もしもの話だ。
俺の前任のプロデューサーが、仮にオリジナルじゃないとしたら、
まゆが俺を嫌っているということは、すごく不毛なことだとは思わないか」
「……それは」
「俺とそいつの違いは、一体、何だろうな」
その言葉は、あの夜、プロデューサーさんがした問いかけと全くおなじものでした。
……それでも、まゆはその男を許すことが出来ませんでした。
それからずいぶんと時間が経ってからの話です。
男の部屋にはあいかわらず黒いビニール袋がたくさん置いてありましたし、
まゆは男とキスをすることも、抱きしめることも一度もありませんでした。
男はそんなまゆを咎めることもしませんでした。
傍目から見れば、仲違いをしたようにも思えたかもしれませんが、
まゆと男はもとより誰かの前では話をしない決まりだったので、
そんな風に勘繰られることもありませんでした。
まゆはいつだって“プロデューサーさん”を想い続けていたのです。
もういなくなってしまった人のことを、ずっと。
そう言えば、あの日に問いかけられた「違い」について、
まゆはひとつの答えを見つけたのです。
言葉にすることはできませんが、
それはきっと運命のようなものだったのでしょうね。
同じ形をしていても、同じ声をしていても、
まゆが心を許せるのはあの人だけだったのですから。
たとえそれが偽物であろうと、本物であろうと、
そんなことはまゆにとっては関係なかったのですから。
そう答えたとき、男は窓の外を眺めて「なるほどな」と言いました。
「納得してくれたんですか」
「うーん、どうだろう。ほんの少しなら理解できるくらいかも」
「ほんの少し、ですか」
「……あんまりそんな顔するなよ」
「どんな顔をしてるんですか」
「まゆが、プロデューサーに見られて欲しくない顔だよ」
「それは問題ですね」とまゆが答えると「ああ、大問題だ」と男は笑いました。
「ひとつ、提案があるんだ」と男は言いました。
「――まゆ、どうか、俺を殺してはくれないか」
窓際のカーテンが風でなびくと、
まゆは男の顔をまじまじと眺めました。
「どういう趣味をしてるんですか?」
「色々と考えた結果だ」と男が言うので、
まゆは耳を傾けて男の話を聞くことにしました。
「ドッペルゲンガーは今も定期的に俺をおそいにくることは、きっとまゆも知ってると思う」
「黒いビニール袋もあそこにありますね」
「ドッペルゲンガーがどんな理由があって、俺を殺そうとしているのかは、分からない。
俺だってそうだ。この世に生まれついた瞬間から、そうするように、ある種使命のように感じていたんだ」
「使命、ですか」
「ああ。だからこそ、俺は取って代わってしまった瞬間に、生まれた意味がなくなってしまったのさ」
「だが、これはある意味ではラッキーとでも言えることなんだ」と男は言いました。
「なにが、ラッキーなんですか?」
「魂なんてものが、この世にあるとすれば、“生まれ変わり”なんてものもまたあるかもしれないってことさ」
「それって……」
「まゆに、その覚悟があるのなら、
湧いて出てくるドッペルゲンガーを一人ずつ殺していけば、
天文学的な確率で、もう一度“プロデューサー”に出会えるかもしれない」
男があまりにも躊躇なくそんなことを言うので、
まゆは、たちまちのうちに怖気づいてしまいました。
「本気で、言ってるんですか」
まゆは声を震わせて、男の顔を見ました。
「本気じゃなければこんなこと言わないさ」
「でも、そんなことが起きなかったら――」
「ドッペルゲンガーなんてものが、ここにいるんだ。
生まれ変わりくらい無くちゃみんなも困るだろ」
男はいそいそと台所へと足を運ぶと、
一丁の包丁を差し出し、まゆを見据えました。
「さて、ここから先にあるのは、
大好きなプロデューサーとの運命的な出会いか、
はたまた非人道的な人殺しになるかの道だけだ」
押し黙ったまゆの元へ近寄ると、
男は「どうするんだ」と聞きました。
まゆは、そのとき、まるで自分が何かにとりつかれているんじゃないかと思いました。
だって、男の言葉になんの迷いもなく、
そっと小さな手のひらで、大きな包丁の取っ手を握りしめると、
「縋れるものがあるのなら、まゆは、どんな道でも通りますよ」と言ってやったのですから。
「まゆならそう言うと思ったよ」と男は嬉しそうに笑いました。
それから、男はドッペルゲンガーの対処法と解体方法を一通り教えてくれました。
まゆにそれらを話しているとき男がいやに笑みを浮かべていたので、
「どうしてそんなに笑っているんですか」と聞くと、
「久しぶりにまゆと普通に話せた気がしてさ」とこたえました。
これから自分がどうなってしまうのかなんて、
これっぽっちも気にしていなさそうな素振りに、
まゆは思わず呆れてしまいました。
「さあ、これで全部おしえてしまったな」と男が言ったとき、
時計の針はちょうど夜の八時前を指していました。
「決行はさっさとやったほうがいい。あときっかり五分後の、夜八時に始めよう」
「あの、まだ、心の準備が」
「心の準備なんてしていたら、きっと、やり損ねてしまうだろ」
男はどさりと座敷の上に座りました。
しばしの沈黙が訪れて、夜の向こう側からは電車の走っていく音が聞こえました。
これからどういうことが起きるのかなんて、
この世界で、まゆ達以外に知っている人はいません。
それがどこか不安で、胸が苦しくて、
あと五分もすれば世界が終わってしまうかのような、
そんな気になってしまうのです。
「最後に、すこし、話でもしないか」と男は言いました。
「どんな話ですか」
「なんでもいい。まゆの話を聞かせてくれないか」
男はそう言ったきりまた黙ってしまったので、
仕方なく、まゆは瞼を閉じて、記憶をひとつずつ手繰り寄せていきました。
「むかし、出会ったばかりの頃に、ふたりで約束事をつくったんです。
好きですって言っても相手にしてくれなくって、
だからキスしてくれないと仕事をしませんって、そう言ったんです。
ほんとは困らせるつもりなんかなかったんです。
ただ、もっと近づきたいって。そう思っていただけなんです。
だけど、どうしても気持ちを抑えきれなくって――」
「それで、キスは一日一回までって約束をつくったんだっけ」と男は言いました。
まゆはちょっとだけ目を見開いて「どうして知ってるんですか」と尋ねました。
男は「まあ、ドッペルゲンガーだからな」と返しました。
「……どこまで知ってるんですか」
「そうだな。何から何まで知ってるよ」
男はにっこりと笑いました。
まゆが何かを言いかけたとき、
男は「さて、五分経ったな」と言って、立ち上がりました。
男はまゆの両手をぎゅっと握りしめると、
じっと瞳の奥を覗き込みました。
「実をいうと、この世界からいなくなるときに、
どうしても言いたかった台詞があるんだ」
「……どんな言葉ですか?」
男はまゆのおでこに自分の額をあてて、こう言いました。
「それじゃあな。おやすみ、まゆ」
素敵な言葉ですね、と言いかけてまゆはそれを飲み込みました。
――すべてを終えて、ひとりになったあと、
さっき男がそうしていたように、窓の外を眺めました。
なぜだか無性に泣きそうになって、
それを必死にこらえようとしたにもかかわらず、
勝手に出てきた涙をなんども拭いながら、
まゆは黒いビニール袋を抱きしめました。
「……おやすみなさい、プロデューサーさん」
まゆの声は部屋の中で静かに響き渡りました。
おわり
『エピローグ』
扉の開く音が聞こえて、スリッパをぱたぱたと鳴らして
玄関口へ向かうと見慣れた顔の男が立っていました。
男は照れくさそうに頭の後ろをかくと、
「どうだろう、今回は」とまゆに尋ねました。
まゆは口元に手を置いて、目じりを下げると、
「どうやら違うみたいですね」と言いました。
「それは残念だ」と男が答えると、まゆは「もう一度ですね」と笑いました。
おわり
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