この話を聞いた人がもしもアタシの知り合いだとすれば、その人にとっての”一ノ瀬志希”の見方がほんのちょっぴり変わるかもって思う。
うーん、たとえば、その名前から思い浮かぶことってね。
アタシが知ってる限りでは、「帰国子女の18歳で、ルックスも良くて、ダンスも歌も抜群なアイドル」なんだって。
ふつーのJKとして振る舞ってたはずが、アイドルとしてまばゆいデビューしてから、それはもうズイブンと注目されてさ。
カメラのフラッシュをたくさん浴びて、テレビにもたくさん出演して。も~、世間の人たちがその名前を聞いただけで、あっ、あの子だ! ってわかるくらい有名になるには、あんまり時間はかからなかったなあ。
それもこれも、アタシが“ギフテッド”なんていう、大それた肩書きを持っていたからなんだろうけど。
神さまから愛されたアタシは、まわりの誰もが羨む才能をもらって。
時には化学者として海外を渡り歩いたし、ステキな論文だって書いた。
あまりある才能を存分に発揮して、これまでの人生を何不自由なく過ごしてきたの。
だけど、そんなアタシがさ。
――この恵まれた才能を失ってしまったら、どうなると思う?
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新しい自分に「ハロー」と挨拶したのは、着慣れた白衣で過ごすティータイムのときだった。
午前中の実験を終えたアタシが、プロデューサーにもらった台本を読んでいたとき。
お気に入りのカップから漂うカモミールの香りに酔いしれながら、いつもどおり紙面に目を走らせていく中、アタシは微かな違和感を覚えた。
そのほんの些細な違和感は、徐々に色濃くなり、思わず眉間に皺を寄せる。
「えーっと、あれー? おっかしいなあ……」
まるでそれは濁りのように思えた。綺麗な湖の中に汚泥が溜まっていくかのように。
頭はすっきりしてるのに、なぜだか台本の内容が入ってこない。もういちど、アタシはあれー? と声を漏らす。
おかしい。なにかがおかしい。
ボソボソと呟いて、こめかみに人差し指を当てる。
ポコポコとフラスコの中で煮沸された液体の音がいやに耳に届いた。
何度読んでもアタシは台本の内容が暗記できないでいた。
……ちがうな、暗記は出来る。
だけど、何度も読み返して、声に出して覚えないと忘れてしまいそうになるってだけ。
パタリと本を閉じて、呆然と宙を眺める。
ふと、自分自身の人生を振り返ってみて。紐を手繰り寄せるかのように、少しずつ記憶をたどっていく。
けれど、この短い18年の時間で、そんなことを経験した記憶は一切なかった。そう、まったくなかったのだ。
結論から言えば、アタシは“才能”というものを失ったということになる。……らしい。
ケミストの立場から発言させてもらうと、そんな抽象的な、極めて概念的なお話はまったくもってあり得ない、と指摘したくもなるけど。
んー、だけどね。これが現実となって、この身に火の粉のように降りかかったのだから、もはやシキちゃんも両手を挙げて認めざるを得ないってわけ。現実は小説よりも奇なり~ってよく言うよね。
理由も分からない。原因不明の才能消失事件。どうやらアタシの性格と似て、才能ちゃんにも失踪癖があったりして。なーんて。
そうそう、才能のはなしだっけ。
さっきも言ったけど、アタシって、それはもう才能に満ち溢れててね。
シンデレラになりたがる女の子がたくさんいるなかで、ふらふら~と業界にやってきたアタシが新人として頭角を現すことが出来たのだって、これがあったからなんだって今更ながら思ってて。
だからそれを失ったことで、
台本やダンスを覚えるのに今までの数倍時間がかかったことも、
それのせいで今までこなしていた仕事がだんだんと手に負えなくなっていったことも、
プロデューサーが毎日お得意先に頭を下げる姿を見かけることになったことも、
仕方ないことだったのかなって納得できたんだ。
才能って一口に言っても、物事の暗記だけがすべてじゃなくってさ。
えーっと、軽く一例をあげるとするなら。
たとえば、匂い。これまでは誰かが何を考えてるのかってことくらいなら、はすはすしてなんとなーく理解できたけど。あの日から、アタシは匂いを感じなくなってしまった。普通の匂いは分かる。だけど、それはアタシの求める匂いじゃなかったってこと。
たとえば、物事の考え方。周りからは突飛なことをしなくなったねって言われる機会も増えたけど、それは単純にアタシが“それ”のやり方を忘れてしまっただけだった。これまでどうやって生きてきたんだろう、なんて自分に問いかけて。むむっ、そう考えてみれば、アタシってまともな過ごし方をしてこなかったなと一人反省した。
たとえば、化学の実験。まあ、これについては大体わかると思うけど、こんな状態になったアタシが適当に混ぜた薬品がフラスコ内で勢いよく火を上げたことで事務所が炎上しかけたんだよね。それにより、アタシのラボは没収。どんな薬品が潜んでいるかもわからないので厳重に封鎖されることになった。
にゃはは、なんだかのっけから暗いはなしになっちゃった。
だけど、ここからいよいよシキちゃんの転落ストーリーは口火をきったのだった。はい、はじまりはじまりー。
ゆっくり更新していきます。
簡単に言えば、アタシは歌うことをやめちゃったんだよね。それだけならまだよかったのかもしれないけど、ついにはステージ上で座り込んじゃったの。
信じられないとは思うけど、BGMが鳴り続ける中でアタシは極度の緊張であたまが真っ白になって。足もガクガクって震えてたし、喉もカラカラに乾いててさ、とても歌を披露できるような状態じゃなかった。
あんなにやったダンスの振り付けも、歌も、なにも思い出せなくなって。ただただ誰かに見られることに吐きそうになって。
だけどその場所は生放送のソロステージ、それはもう放送事故もいいところで。
顔を抑えて蹲るアタシの元にすぐさまスタッフが駆けつけくれて。タオルを被せられて舞台裏に連れていかれる中、目の前に広がるきれいな景色は、まるでアタシに襲い掛かる怪物にさえ見えた。
俯いたアタシがようやく明るみから暗がりまでやってきたときには、プロデューサーが胸倉をつかまれていてさ。番組のディレクターに怒号を飛ばされていたの。
客席からの鳴りやまない声と、せわしなく動くスタッフと、何度も頭を下げるプロデューサーと、それを呆然と見守るアタシ。
その光景に、もう目の前がくらくらって白く瞬いて。
そこで、ようやく気づいたんだよ。
ああ、アタシは取り返しのつかないことをしてしまったんだって。
でもね、たったひとつだけ、アタシにとってすごーく大きな変化があったの。
ちょっとだけ時間は巻き戻ることになるけど、アタシの担当プロデューサーについての話をしよっか。
アタシがギフテッドとして、その類まれなる才能を見出されて、アイドル業界に足を踏み入れた時についてくれたのが今の担当プロデューサーだった。
彼とはそりゃまあながーい付き合いをしてきたんだけど、それでもアタシと彼との間には大きな溝があったんだよね。溝って言っても、単にアタシが一方的に穴を掘っていただけなのかもしれないけどさ。
アタシと彼はあくまでビジネスパートナーで。アタシは彼がどんな人なのか知らなかったし、普段何をしているのかなんて科学誌一冊分の興味すら湧かなかった。それでも仕事では二人とも笑顔を振りまいていたし、人から見ればアタシたちはそれこそ十年来の仲も同然だった。
つまり何が言いたいかというと、表面上ではアタシたちは深く理解しあったような素振りを見せてただけってこと。
そんなことを一度たりともアタシたちは口に出そうと思わなかったけど、たぶんお互いになんとなくそれに気づいてて。だからアタシはプロデューサーのことがあんまり得意ではなかったし、それこそ彼もアタシと同じことを考えていたんじゃないかな~とも思う。
だけどね、生まれ変わってからのアタシたちっていうのは、今までの関係とは大きくかけ離れていたの。
――最初のきっかけは、きっとモーニングコールだろうね。
さっきも少し話したとは思うけど、このときのアタシは夜ってものがホントに苦手で、一人きりで眠ることすらままならなかったの。なによりもイヤだったのは“あの事件”の光景がまざまざと瞼の裏に映ることだった。
布団のなかで、アタシは膝を抱えて、胎児みたいに丸まって。そしたらあのときの景色が思い浮かんでさ。大勢の前で歌えなくなったアタシが、ステージの上で「ごめんなさい」って何度も何度も子供みたいに謝るの。そしたら浴びせられる罵声のひとつひとつが鮮明に聞こえてきて。「お前にはアイドルの資格なんてない」「俺達を失望させないでくれ」「それで努力したつもりなのか?」なんて次々と棘が飛んでくる、そんな悪夢がアタシを苦しめて、いつしかアタシはうまく眠ることが出来なくなっていた。
そんなことだから、アタシは移動中の車内でうとうとと頭を揺らすようになって。ついには朝イチバンの仕事に遅れてくることも増えた。
ここで注意しておきたいのは、アタシがもともと真面目な優等生じゃなかったということ。何度も言うようで悪いけど、アタシがギフテッドじゃなくなったことは他の誰も知らなかった。
「一ノ瀬志希はてきとーに仕事をやっている」なんて噂が流れていることも知ってはいたけど、それはそれとして。
とにかくアタシ自身の“変化”は、まわりの人たちにはすこぶる分かりづらかったわけ。
プロデューサーから「朝にモーニングコールする」という申し出があったのは、三度目の遅刻を迎えた日のことだった。
それは渋々だったかもしれないし、はたまた単に愛想つかされたからかもしれないけど、何も言わないでアタシはうなずいた。きっと、「イヤだ」と言っても彼は電話をかけてくるってなんとなく分かっていたから。
彼がアタシの変化に気付いていたかどうかは、今になっても分からないけど。それでも、アタシ達の関係が変わり始めたのは、まさしくその一言からだったと思う。
次の日の早朝のこと。枕元に置いておいたスマホが鳴り響いて、寒さに体を震わせながらも、もぞもぞと布団から顔を出してアタシはそれを耳に当てた。
「おはよう。今日の寝起きはどうだ?」なんて向こう側からコーヒーを淹れる音が電話越しに届いて、茶化す元気もないアタシはあくびを一つかいて「あんまり」とだけ答えた。
仕事がある日の朝は、いつも二人でそんな会話をしていた。そんな取り留めもない会話を。
だけど、これまでのアタシたちは、プライベートで電話をかけるなんてことはしなかったし、それが二人にとっての当たり前だった。だからこそ、そんな当たり前が崩れたことにアタシは少なからずビックリしてたんだよね。
ときどき「おはよう」だけじゃなくて「朝食は何を食べるんだ?」なんてことをも話してさ。アタシがコーンフレークって答えたら、仕事前にフレッシュなサンドイッチを渡してきたっけ。
困ったことに、アタシは彼の気遣いみたいな、そういうのぜーんぶがイヤだったんだよね。
あまりにも周囲の変化が速すぎて、きっとものすごく疲れてたんだろうね。アタシには誰かからのやさしさが、ささくれみたいに思えて仕方なかった。
彼に声をかけてもらうたび、心配してもらうたび、じくじくと胸が痛んだ。
いつだってフラッシュバックするのは、胸倉をつかまれた彼と、怒号を飛ばすディレクターの姿。
あの日、「ごめんなさい」と頭を下げるアタシに、彼は「そんな日もあるさ」と笑った。
彼が何を思ってそう言ったのかなんて、アタシには分からない。だけど、日を追うごとに罪悪感が募っていったのだけは確かだった。
「アタシね、才能がなくなっちゃったみたい。だからさ、アタシのこと憐れむなんて、そんなのやめてよー」そんなふうに話せれば、こころのなかの濁りも取れたのかもしれない。彼のことを嫌いにならなかったかもしれない。表面上の付き合いすらも放棄しなかったかもしれない。
人生のなにもかもが悪くなっていく中で、たったひとつだけ、サイアクに到達しちゃったわけ。
アタシ達の関係は大きく変わった――そう、それも、一番わるい方にね。
そうだねー。今思うと、「アイドルを辞めてしまう」って選択肢が図らずとも潰えたのは、ぐうぜんにしては良かったのかなあ。
だって、そうじゃないと、アタシに取り付いた「死にたい」って言葉が主張をはじめてしまうはずだったから。もう既にイヤになっていたアイドルが、滑稽なことに、この命を守ってくれていたんだね。嫌なことを、嫌なことで上塗りして、アタシは心をなんとか保っていたの。
あくまで、アタシには生きる目的があった。さっきも言ったとおり、“元の一ノ瀬志希に戻るんだ”っていう、とっても重要な目的がね。
さーて、“答え探し”のため、アタシが手始めにしたのは、なんだと思う? ほらほら、考えてみてー。
……まあ、大かたの人なら察しはつくだろうけど、アタシは結局、何も出来なかったんだよねー。だって、大した手がかりなんてものも一つもなくって、何から手を付ければいいのやらってカンジでさ。しょーじきな話、八方塞がりで、どうしようもなかったんだから。
病院に行けば治してもらえるのかなって思ったりもしたけど、そもそも「才能を失ったんです」なんて話を信じてもらえる術を、アタシは思い付きもしなかった。それこそ、会社と同じように体調が悪いだけってことにされるはずだと思い込んでいたんだよね。
* * *
思い返してみれば、この才能消失事件にはおかしな点がたくさんあった。
そもそも、「才能を失った」なんて抽象的な話が、ほんとーにあるのかどうかも怪しいところでさ。
元々出来ていたことが、ある日を境に、出来なくなったのは、どうして?
変わってしまった理由や、変わってしまったときの出来事を、うまく思い出せないのは、どうして?
物事には、きちんと理由が付きまとう。
勝手に変わったりもしないし、勝手にいなくなったりもしない。
――そう。まるで、フラスコの中で起きる、化学反応のようにね。
* * *
「え……?」と思わず声を漏らしたアタシに、プロデューサーはこう続けた。
「海外の監督で、わりと有名な人だ。どうにも監督曰く、世界中から選りすぐりの人材を集めた映画を撮りたいらしくてな。国籍を問わず、その手の業界の人間の紹介を通じてオーディションをしているみたいなんだ」
彼の丁寧な説明に、アタシはほんの少しだけ、胸を躍らせた。
なにせ、その監督の名前は彼の言うように、たしかに有名な人だったのだから。
そんな人の撮る映画の、主演女優? 今、こんなにも落ち目のアタシに、そんな良い話が舞い降りてくるなんて、とその瞬間は考えていた。
「それで、その映画出演のオファーが海を飛び越えてこのプロダクション宛てに飛んできたわけだ。他の誰でもない、一ノ瀬志希に向けてな」
だけど、火のないところに煙は立たないのと同じでさ。やっぱり、良い話には、大抵ウラがついてまわるんだよね。
「俺もさ、思わず聞いたんだよ。どうして、数ある俳優や女優を差し置いて、うちのアイドルをオーディションに指名したのかって」
「理由は、すごく、単純な話だったんだ」
彼のこれから言うことがアタシには分かった。だって、それは、世界で一番アタシが渇望していたもので、そして、すでに失ったものだったのだから。
……やめて。それ以上は、言わないで。アタシの中の何かが、そう訴えていた。
けれど、無情にも彼が口にした言葉は、アタシの予想した通りのものだった。
「それは――お前が、ギフテッドだからだったんだよ」
扉の外で、アタシは両手で顔を抑えて蹲った。
すべてを吐き出してしまいたいと思った。この抱え込んだ何もかもを、ぜんぶ、誰かに叫んでしまいたいと思った。
ムキになって、出来もしないことを引き受けた。あんな大きな仕事、いまのアタシに出来るはずもない。
きっと、アタシは、また失敗するんだろう。みんなの前で恥をかいて、家に帰って、ひとりで泣くんだろう。
……嫌いだった。彼の心配そうな声が、とても嫌いだった。だから、あんなことを言ったんだ。
アタシはあのとき、彼の胸倉をつかんで「やめてよ! アタシに同情なんてしないでよ!」なんて叫べばよかったのかな。そしたら、彼はまたアタシを慰めてくれたのかな。後で「なにかあったのか?」って聞いてくれたのかな。
涙が勝手に溢れ出してきて、服の袖でそれを拭った。生まれ変わってから、何度流したことだろう。悔しくなって、苦しくなって、それがどれくらい涙に変わっただろう。
嫌いだった。彼のことが、だいきらいだった。
だけど、いちばん嫌いなのは――そんなアタシ自身だった。
ちゃんと、じぶんの気持ちを伝えることが出来ない、アタシ自身だった。
『少女には才能があった。だから、物心がついたころには、勉強だって、スポーツだって、じぶんが興味を示したことは何だってできた。
ただ、まわりからその心を理解されないことに、もがき苦しんでいた。少女には分からなかった。みんなよりも先へ先へと前に進むたびに、みんなから取り残されていく不安感が、どうして積もっていくのかが、分からなかった。
日を重ねるごとに「死んでしまいたい」という感情が増していった。生きることをやめてしまえば、この苦悩から解放されるんじゃないかと考えるようになった。
しかし、ある日、知り合いだった男からひとつのアドバイスを受ける。
「そんなに今の自分が嫌だと言うのなら、いっそ、普通の人間を装えばいいじゃないか」
少女は、男の言葉を聞いた次の日から“普通の人間”を演じるようになった。わざと努力するフリをした。わざと仕事で失敗をした。今までの生き方をすべて捨てて、少女は生涯を終えようと考えた。
もちろん、自分以外の誰かから怒られることも増えた。そのたびに「そんなことは言われなくても分かっています」なんてことは口に出さず、きちんと「すいませんでした」と頭を下げた。
普通の人間になって、三年の月日が経ったころ。少女はボーイフレンドと無事に結婚し、ひとつの家庭を築いた。男は、非の打ちどころのない青年だった。まわりの誰もが、少女のことを「幸せそうだ」と言った。
しかし、それから一年が過ぎて。少女は突如として姿を消した。机の上に「ごめんなさい」という書置きだけを残し、何も言わずどこかへと去っていったのだ。
少女がどこへ行ったのか、どうして消えてしまったのか、取り残された男には知ることさえできなかった』
そう言えば、渡されたストーリーのなかで、ひとつだけ疑問点があったんだけどさ。
どうして、女の子はいちばん最後に“男の子のもとを去る”という選択肢を選んでしまったんだろうね。
考えてもみてよ。幸せに暮らしていたはずの女の子が、なにも言わないで消えてしまったのかってことを。
これはアタシの推理でしかないけど。もしかすると、この子は普通の人として生きるのが嫌になっちゃったのかもしれないね。才能を捨てて、ふつうに生きていくことに嫌気がさして、幸せな生活に飽きてしまって。だから、持ってるものをぜんぶ放り投げちゃったのかなって。
女の子が書置きに残していった「ごめんなさい」という言葉には、過去のじぶんを諦めきれなかった謝罪の意がふくまれているのかな。
だとしたら、アタシはこの子のことを少しだけ理解できた。
だって、ふつーに生きていくためには、この世界はちょっとだけ、辛いことが多すぎたからさ。
現場からの帰り道、アタシとプロデューサーは山道を車で走っていた。
辺りはすっかり暗くなっていて、外はまだ雪が降っていた。あまりにひどい雪でさ、車道には、他の車はひとつも見当たらなかったね。
そうそう。言い忘れていたけど、残念なことに、その日の仕事は“ナシ”になったんだよ。
息を切らしてやって来たアタシに「雪の影響でなくなったんだ」と彼は言ったけれど、アタシは事の真相を理解していた。そうだね、言うなれば、やっぱり彼は嘘をつくのが下手だったってことかな。
そんなことがあったからか、車内では会話がうまれることもなく、ラジオから流れてくる声が、街に押し寄せた寒波について話をしていた。どうにも電波がわるいみたいで、声はときおり掠れたようにくぐもっていたね。
どうしてこうなってしまうんだろうって、そのときはずっとそればっかり考えていたと思う。自分のせいだって、分かっていたのにさ。
それで、しばらく経ったころだったとおもう。プスンという嫌な音と共に車は止まったのは。
すぐに車から降りて気まずそうに顔を顰めた彼は「故障したみたいだ」とアタシに告げた。あいにく、電話も通じないようで、ロードサービスに助けを求めることもできなかった。
「どうするの?」とアタシが尋ねると「朝になったら、考えよう」と彼は答えた。
運が良いと言えるのかはわからないけど、近くにはバス停もあったし、日が昇れば誰か別の人がここを通ってくれるだろうと、つまり、そういうことらしい。
ただ、こんな寒空の下で、朝まで二人で過ごさなければならないことに変わりはなかったけれど。
暖房が消えてしまった車のなかは、凍えてしまうほどに寒かった。アタシは白い息を吐いて、それから、朱色のマフラーに顔を埋めた。
「悪かった、こんなことになって」
ハンドルを手放して、体を椅子に預けたプロデューサーが、ふいにそんなことを言ったものだから、アタシはおもわず彼の方を見た。
「いいよ、そんなの」とアタシが言うと、「そうか」と彼はそれっきり黙ってしまった。
おそろしいくらいに、時間がゆっくりと流れている気がした。アタシは、寒さであたまがどうかしてしまうんじゃないかと思うほどに、身を震わせていた。
人って生き物は不思議なもので、そういう状況に陥ると、その場にいる誰かに無性に話しかけたくなるらしい。現に、アタシは無意識のうちに「あのさ」と口を開いていたのだから。
「……この前渡された台本のストーリー、どう思う?」
どうしてこんなことを、いま、こんな場所で聞いてしまったのか。そんな理由を考える熱さえも、すでにアタシからは奪われていた。とにかく、どんな些細なことだって、なんだっていいから、誰かと話していたかった。擦り切れてしまった心が、そう訴えかけていた。
「そうだな」と彼は呟いた。「どうして、女の子は置手紙を残して去っていったんだろうな」
どうして、と問われて、アタシはなにかを諦めるように声を出した。
「きっと、戻りたかったんだよ。才能のあったころのじぶんに」口を尖らせて、そうこたえた。
じぶんが出した答えに疑問を持つことはなかった。女の子はふつうの人になりきれなかった。だから男のもとを去っていった。アタシはそう思っていた。
「それは、どうだろうな」だけど、アタシの言葉に、彼は首を傾げた。
「俺は、もっと違うことを考えていたよ」
「……ちがうこと?」アタシがそう聞くと彼は話をつづけた。
「たぶん、分かり合えないと思ったからじゃないかな」寒そうに手に息を当てながら、彼は言った。
わけもわからずアタシは「どういう意味?」と尋ねた。
「普通の人になって、それで、本当に好きな人ができて、女の子は幸せだったと思うよ。
だけどさ。それだけじゃあ埋まらない隙間があったんだとすれば、どうだろう」
突き刺さるような彼の瞳がアタシに向けられた。
「どこまで行ったって、ふたりは、普通の人と才能のある人なんだからさ」
「でも」と言いかけて、アタシは口を噤んだ。
もしも、ほんとうにそれが理由だったとすれば、女の子は最後にはどんな気持ちになってしまったのだろう。どんな思いで彼に「ごめんなさい」と告げたのだろう。
アタシには分からなかった。分かりたくもなかった。
「考えていることの全てを分かり合える、そんな人たちがいると俺は思わないけど、だけど、女の子はきっとショックだっただろうな」
彼は眠そうに瞼を擦りながら、口を動かしていた。
「女の子ははじめから普通の人に憧れていた。だから、普通の生活が嫌だと感じて逃げたんじゃない。
女の子は、知ってしまったんだよ。どうあっても、男と自分が理解し合えないことをさ。
普通の人間になるフリをして、以前の自分を捨てて、それでも男のことは分からなかったんじゃないかな。
……たぶんだけどさ。俺はそう思うんだ」
アタシは何も言わずに黙っていた。まるで、それがじぶんに宛てた言葉のように思えて仕方がなかった。
彼が運転席で眠りに落ちてしまってからも、アタシは助手席で自分の体を抱きしめながら、ずっと窓の外を眺めていた。
ちらちらと降る雪に見とれたアタシは、消えかかった意識の中で、どうしようもないことを考えていた。
アタシを、アタシたらしめるものはなんだろう。才能? はたまたこの顔? プロポーション、声、エトセトラ。
アタシはこの世に生まれ落ちたとき、神さまからたくさんのものを貰った。それはアタシをみんなよりも先へ先へと押しやってくれた。だからアタシも面白がって、前に前に進んでいったんだ。
でも、それでもね。アタシは神さまからいちばん大切なものは貰えなかったんだと思う。それはたぶん代償だったんだよ。アタシがこの世界で生きていくために与えられた枷だったんだよ。
「――あの日。アタシは、たくさんのものを失った。これまではずっとそれを取り返そうと必死に生きてきたんだ。
それなのに苦労してようやく答えを見つけたときには、“元の自分に戻る道”と“今の自分に納得する道”という選択肢が、アタシの手の上には残ってたんだ。
ギフテッドじゃなくなってからの世界は、辛いことも、苦しいこともあったし、今のアタシは、帰国子女の18歳で、ルックスも良くて、ダンスも歌も抜群なアイドルだったあの頃と比べたら、いくぶん落ちこぼれになっちゃったかもしれない。
……それでもさ。キミと見た星空は、そんな肩書きに負けないくらい、ほんとうのほんとうに素晴らしいものだったんだよ。
だから、神さまから与えられるだけの人生は、今日でおしまいにしよう。
この世界をあっと言わせる準備は、もう、整ってるんだ。それならアタシ達ふたりで、最後までやってやろうよ」
アタシは彼の手をそっと握った。今のアタシには、それだけで十分だった。
彼が目を覚ますまで、それまでは、このままでいようと思った。
しらないうちに流れていた涙を拭いて、アタシはもう一度空を眺めた。
そこには綺麗な青い蝶が飛び去っていく姿があった。
蝶は大きく羽ばたいて、いつしか空の彼方へと吸い込まれていった。
どこまでも自由に、どこまでも健気に。
おわり
※誤字訂正
>>4
新しい自分に「ハロー」と挨拶したのは、着慣れた白衣で過ごすティータイムのときだった。 → 新しい自分に「ハロー」と挨拶したのは、着慣れた白衣で過ごすティータイムの時間だった。
そのほんの些細な違和感は、徐々に色濃くなり、思わず眉間に皺を寄せる。→そのほんの些細な違和感は、徐々に色濃くなり、思わず眉間に皺を寄せた。
もういちど、アタシはあれー? と声を漏らす。→ もういちど、アタシはあれー? と声を漏らした。
パタリと本を閉じて、呆然と宙を眺める。 →パタリと本を閉じて、呆然と宙を眺めた。
けれど、この短い18年の時間で、そんなことを経験した記憶は一切なかった。そう、まったくなかったのだ。 →けれど、この短い18年の時間で、そんなことを経験した記憶は一切なかった。そう、まったくと言っていいほどにね。
>>16
顔を抑えて蹲るアタシの元にすぐさまスタッフが駆けつけくれて。→顔を抑えて蹲るアタシの元にすぐさまスタッフが駆けつけてくれて。
>>30
「おはよう。今日の寝起きはどうだ?」なんて向こう側からコーヒーを淹れる音が電話越しに届いて、茶化す元気もないアタシはあくびを一つかいて「あんまり」とだけ答えた。 →「おはよう。今日の寝起きはどうだ?」なんてコーヒーを淹れる音が電話越しに届いて、茶化す元気もないアタシはあくびを一つかいて「あんまり」とだけ答えた。
ときどき「おはよう」だけじゃなくて「朝食は何を食べるんだ?」なんてことをも話してさ。→ときどき「おはよう」だけじゃなくて「朝食は何を食べるんだ?」なんてことも話してさ。
>>32
困ったことに、アタシは彼の気遣いみたいな、そういうのぜーんぶがイヤだったんだよね。 →でも困ったことに、ホントは彼の気遣いみたいな、そういうのぜーんぶがイヤだったんだよね。
>>50
アタシはあのとき、彼の胸倉をつかんで「やめてよ! アタシに同情なんてしないでよ!」なんて叫べばよかったのかな。→アタシはあのとき、彼のもとへ駆け寄って「やめてよ! アタシに同情なんてしないでよ!」なんて叫べばよかったのかな。
>>53
男は、非の打ちどころのない青年だった。→男は平凡ながらも、心優しい青年だった。
>>42
「俺もさ、思わず聞いたんだよ。どうして、数ある俳優や女優を差し置いて、うちのアイドルをオーディションに指名したのかって」 →「俺もさ、思わず聞いたんだよ。どうして、数ある役者を差し置いて、うちのアイドルをオーディションに指名したのかって」
>>55
考えてもみてよ。幸せに暮らしていたはずの女の子が、なにも言わないで消えてしまったのかってことを。 →考えてもみてよ。幸せに暮らしていたはずの女の子が、どんな理由があれば、なにも言わない消えてしまうのかってことを。
>>97
それで、しばらく経ったころだったとおもう。プスンという嫌な音と共に車は止まったのは。→それで、しばらく経ったころだったとおもう。プスンという嫌な音と共に車が止まったのは。
さいごまで読んでくれた方、ありがとうございました。
また思いついた時になにか書きたいと思います。
前回 → まゆ「破ってはいけない3つの約束事について」
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